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[[1951年]][[7月11日]]の父の死により以下の爵位を継承した<ref name="CP EH">{{Cite web |url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/home1604.htm|title=Home, Earl of (S, 1604/5)|accessdate= 2016-01-29 |last= Heraldic Media Limited |work= [http://www.cracroftspeerage.co.uk/introduction.htm Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage] |language= 英語 }}</ref><ref name="thepeerage.com" />。 |
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*'''第14代[[ヒューム伯爵]]''' <small>(14th Earl of Home)</small> |
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2020年12月4日 (金) 05:02時点における版
ヘイゼルのヒューム男爵 アレクサンダー・ダグラス=ヒューム Alexander Douglas-Home Baron Home of Hirsel | |
---|---|
1963年頃のダグラス=ヒューム | |
生年月日 | 1903年7月2日 |
出生地 | イギリス・イングランド・ロンドン |
没年月日 | 1995年10月9日(92歳没) |
死没地 | イギリス・スコットランド・コールドストリーム |
出身校 | オックスフォード大学クライスト・チャーチ |
所属政党 | 保守党 |
称号 | 第14代ヒューム伯爵(1963年返上)、第19代ヒューム卿(1963年返上)、第14代ダグラス卿(1963年返上)、ヘイゼルのヒューム男爵、シッスル勲爵士(KT)、枢密顧問官(PC) |
配偶者 | エリザベス(旧姓アリントン) |
在任期間 | 1963年10月18日 - 1964年10月16日[1] |
女王 | エリザベス2世 |
内閣 |
マクミラン内閣 ヒース内閣 |
在任期間 |
1960年7月28日 - 1963年10月18日 1970年6月20日 - 1974年3月4日[1] |
庶民院議員 | |
選挙区 |
ラナーク選挙区[2] ラナーク選挙区[2] キンロス・アンド・西パースシャー選挙区[2] |
在任期間 |
1931年10月27日 - 1945年7月5日[2] 1950年2月23日 - 1951年7月11日[2] 1963年11月7日 - 1974年10月10日[2] |
貴族院議員 | |
在任期間 |
1951年7月11日 - 1963年10月23日 1974年12月19日 - 1995年10月9日 |
ヘイゼルのヒューム男爵アレクサンダー・フレデリック・ダグラス=ヒューム(英語: Alexander Frederick Douglas-Home, Baron Home of Hirsel, KT, PC 1903年7月2日 - 1995年10月9日)は、イギリスの政治家、貴族。
スコットランド貴族ヒューム伯爵家に生まれる。戦後の保守党政権下で閣僚職を歴任し、1963年から1964年にかけて首相を務めた。外務大臣も2期にわたって務めた(在職:1960年 - 1963年、1970年 - 1974年)。
父が爵位を継承した1918年から自身が爵位を継承する1951年までダグラス卿の儀礼称号を使用した。1951年に第14代ヒューム伯爵を継承するが、1963年には首相就任のために自分一代について爵位を返上している。1974年に一代貴族ヘイゼルのヒューム男爵に叙せられた。
経歴
生い立ち
1903年7月2日、スコットランド貴族ヒューム伯爵ダグラス・ヒューム家の法定推定相続人であるダグラス卿チャールズ・ダグラス=ヒューム(1918年に第13代ヒューム伯爵位を継承)とその妻リリアン(第4代ダラム伯爵フレデリック・ラムトンの娘)の長男としてロンドンのメイフェアに生まれた[3][4]。
イートン・カレッジを経てオックスフォード大学クライスト・チャーチへ進学[3]。
政界入りから首相就任まで
1931年から1945年にかけてラナーク選挙区から選出され、保守党の庶民院議員を務めた[3]。1937年から1939年にかけてはネヴィル・チェンバレン首相の議会内個人秘書官[要リンク修正]を務め、1938年のミュンヘン会議にも同行した[4]。第二次世界大戦中は病により政治活動を避けたが[4]、第一次チャーチル政権末期の1945年5月から7月までの短期間外務省政務次官を務めている[3]。チャーチル保守党政権が惨敗した1945年7月の総選挙で落選した[4]。
1950年の総選挙ではラナーク選挙区の議席を取り戻したが、翌1951年7月11日に父が死去したため、ヒューム伯爵や連合王国貴族爵位ダグラス・オブ・ダグラス男爵などを継承し、貴族院に移籍した[2][4]。
1951年10月から1955年4月の第二次チャーチル内閣ではスコットランド担当省次官を務めた。ついで1955年から1960年までイーデン内閣とマクミラン内閣でコモンウェルス担当大臣を務めた[3]。1956年にはじまったスエズ戦争中に枢密院議長と貴族院院内総務を兼務した[4]。
1960年7月にはマクミラン内閣の外務大臣に就任した[1]。
1963年1月にはプロヒューモ事件が発覚し、マクミラン政権の支持率が急降下。10月、前立腺肥大で入院中のマクミランは病室から辞意を表明した。女王エリザベス2世がマクミランの病室を見舞って後任について意向を聴取したところ、マクミランはヒュームを指名した。当時ヒュームは「タカ派」とされること以外ほとんど無名な政治家だったので、これは多くの人にとって意外な人選だったが、エリザベス2世はマクミランの指名に従ってヒュームに組閣の大命を与えることとした[5]。
首相
1963年10月18日正午過ぎにヒュームはバッキンガム宮殿に召喚され、エリザベス2世より組閣の大命を受けた。首相の座を狙っていたラブ・バトラーやレジナルド・モードリング、第2代ヘイルシャム子爵クィンティン・ホッグら他の保守党幹部がヒューム内閣に入閣するかどうか態度を保留したので、組閣交渉が難航して深夜までに及んだものの、翌10月19日までに交渉はまとまり、ヒュームを首相、バトラーを外相、モードリングを財務大臣、ヘイルシャム子爵を枢密院議長とするヒューム内閣が発足することが国民に公表された[6]。
貴族院議員は首相に就任しない慣行がすでにイギリスの不文憲法の一部となっていたので、ヒュームは同年7月に制定された貴族法を使って自分一代について爵位を返上し[7][6]、直後のキンロス・アンド・西パースシャー選挙区の補欠選挙に出馬して当選し、庶民院議員に転じた[8]。
しかしヒューム内閣は発足当初より不安が多い政権だった。まず庶民院の任期切れから翌年秋までには総選挙をしなければならなかったが、保守党の大敗が予想されていたこと、さらに組閣には成功したもののイアン・マクラウドなど一部の保守党議員がヒューム内閣への協力を拒否するなど保守党内もまとまっているといい難い状態だったためである[9]。
彼は外交経験は豊富だが、経済知識に乏しく、経済問題に精通した労働党党首ハロルド・ウィルソンに比べて見劣りした。ウィルソンは1951年の第2次チャーチル内閣以来続く保守党政権を「浪費された13年間」と呼んで批判し人気を高めていった[10]。プロヒューモ事件や欧州経済共同体(EEC)加入交渉の失敗なども尾を引いた[11]。
1964年10月の総選挙は彼が不得手とする経済問題が前面に出てしまい、保守党は304議席にとどまり、対して野党は労働党が317議席、自由党が9議席を獲得したため、ヒューム政権は1年足らず(363日)で幕を閉じることになった。しかし大敗が予想されていた割には保守党は善戦しており、ウィルソン内閣は野党の議席をわずかに4議席上回るだけという不安定政権でスタートを切ることになった[10]。
首相退任後
総選挙敗北の原因には長い間貴族院議員であったヒュームが庶民院総選挙に不慣れだったことも指摘され、保守党内若手議員から党首選任方法が問題視されるようになった。その結果、1965年に保守党党首は保守党庶民院議員の公選によって選出されることが取り決められた。同年、公選で選ばれたエドワード・ヒースに保守党党首職を譲った[12]。
その後、1970年6月から1974年3月にかけてヒース内閣で外務・英連邦大臣を務めた[1]。ヒースとヒュームはソ連に強い不信感を持っており、当時アメリカとソ連の二国間で進んでいたデタントには慎重な姿勢を示した[13]。同じく西ドイツのブラント政権が「東方政策」と称してソ連との関係改善を図ることも憂慮していた[13]。ヒュームは「近い将来の我々の国益は、東ヨーロッパよりも西ヨーロッパとの関係を発展させることにある」と論じ、欧州共同体(EC)への加盟を目指した。そしてフランスと交渉を重ねたすえに1973年に至ってEC加盟を達成した[14]。
1974年12月には一代貴族のヘイゼルのヒューム男爵に叙され、再び貴族院議員に列する[2]。なお、これ以降、先代首相で1984年まで叙爵されることなく庶民院の議席を保ち続けたマクラミンを除き、元首相であっても世襲貴族ではなく一代貴族に叙することが慣例となっている。
1995年10月9日にスコットランド・バーウィックシャーのコールドストリームで死去した[3]。
人物
15世紀以来のスコットランド貴族の家系であり、彼の血筋の良さについて作家・批評家シリル・コノリーは「18世紀であれば彼は30歳になる前に首相になっていただろう」と表現している[15]。
しかしこの出自の良さは20世紀の首相としては不利な要素だった。野党労働党のウィルソンも14代伯爵が現代先進国を率いようという時代錯誤を批判した。それに対してヒュームはウィルソンのことを「14代ウィルソン氏」と皮肉るなど絶妙な対応を見せたものの、その不利を覆すには至らなかった[16]
温厚で誠実な人柄として知られ、王室との関係も良かったが、良くも悪くも貴族的であり、マスメディアでのイメージを重視せず、風貌も地味だったのでテレビ時代向けの政治家ではなかった[10]。
栄典
爵位
1951年7月11日の父の死により以下の爵位を継承した[17][3]。
- 第14代ヒューム伯爵 (14th Earl of Home)
- 第19代ヒューム卿 (19th Lord Home)
- 第14代ダグラス卿 (14th Lord Dunglass)
- (1605年3月4日の勅許状によるスコットランド貴族爵位)
- ラナーク州におけるダグラスの第4代ダグラス男爵 (4th Baron Douglas, of Douglas in the County of Lanark
1963年10月23日に貴族法の規定に基づき、上記世襲貴族爵位をすべて一代限りで返上した[17][3]。
1974年12月19日に以下の一代貴族爵位を与えられる[17][3]。
- バーウィック州におけるコルドストリームのヘイゼルのヒューム男爵 (Baron Home of the Hirsel, of Coldstream in the County of Berwick)
- (勅許状による連合王国一代貴族爵位)
勲章
- 1962年、シッスル騎士団(勲章)ナイト(KT)[3]
名誉職その他
- 1944年、バーウィックシャー副知事(DL)[3]
- 1951年、枢密顧問官(PC)[3]
- 1960年、ラナークシャー副知事(DL)[3]
- 1960年、名誉法学博士号(LLD)(オックスフォード大学名誉学位)[3]
- バーウィックシャー治安判事(JP)[3]
家族
1936年にエリザベス・アリントンと結婚し、彼女との間に以下の4子を儲ける[3]。
- 第1子(長女)ラヴィニア・キャロライン・ダグラス=ヒューム嬢(1937年-)
- 第2子(次女)メリエル・キャサリーン・ダグラス=ヒューム嬢(1939年-)
- 第3子(三女)ダイアナ・ルーシー・ダグラス=ヒューム嬢(1940年-)
- 第4子(長男)第15代ヒューム伯爵デビッド・アレクサンダー・コスパトリック・ダグラス=ヒューム(1943年-)
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d 秦郁彦 2001, p. 515.
- ^ a b c d e f g h UK Parliament. “Sir Alec Douglas-Home” (英語). HANSARD 1803–2005. 2014年5月27日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p Lundy, Darryl. “Alexander Frederick Douglas-Home, Baron Home of the Hirsel” (英語). thepeerage.com. 2014年5月28日閲覧。
- ^ a b c d e f “"Past Prime Ministers – Sir Alec Douglas-Home"” (英語). British Prime Minister's Office. 2014年5月27日閲覧。
- ^ 村岡健次 & 木畑洋一 1991, p. 380-381.
- ^ a b 梅川正美, 力久昌幸 & 阪野智一 2010, p. 78-79.
- ^ 前田英昭 1976, p. 54/58.
- ^ 村岡健次 & 木畑洋一 1991, p. 381.
- ^ 梅川正美, 力久昌幸 & 阪野智一 2010, p. 79-80.
- ^ a b c 梅川正美, 力久昌幸 & 阪野智一 2010, p. 80.
- ^ 村岡健次 & 木畑洋一 1991, p. 390.
- ^ 君塚直隆 1999, p. 206-207.
- ^ a b 佐々木雄太 & 木畑洋一 1999, p. 197.
- ^ 佐々木雄太 & 木畑洋一 1999, p. 197-198.
- ^ 梅川正美, 力久昌幸 & 阪野智一 2010, p. 78.
- ^ クラーク 2004, p. 284.
- ^ a b c Heraldic Media Limited. “Home, Earl of (S, 1604/5)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2016年1月29日閲覧。
参考文献
- 梅川正美、力久昌幸、阪野智一『イギリス現代政治史』ミネルヴァ書房、2010年。ISBN 978-4623056477。
- 君塚直隆『イギリス二大政党制への道 後継首相の決定と「長老政治家」』有斐閣、1999年。ISBN 978-4641049697。
- クラーク, ピーター 著、市橋秀夫, 椿建也, 長谷川淳一 訳『イギリス現代史 1900-2000』名古屋大学出版会、2004年。ISBN 978-4815804916。
- 佐々木雄太、木畑洋一『イギリス外交史』有斐閣、1999年。ISBN 978-4641122536。
- 村岡健次、木畑洋一『イギリス史〈3〉近現代』山川出版社〈世界歴史大系〉、1991年。ISBN 978-4634460300。
- 前田英昭『イギリスの上院改革』木鐸社、1976年。ASIN B000J9IN6U。
- 秦郁彦『世界諸国の組織・制度・人事 1840―2000』東京大学出版会、2001年。ISBN 978-4130301220。
外部リンク
- Hansard 1803–2005: contributions in Parliament by Lord Home of the Hirsel
- アレック・ダグラス=ヒューム - CricketArchive (要購読契約)
- Prime Ministers in the Post-War world: Alec Douglas-Home
- Alexander Frederick Douglas-Home, Baron Home of the Hirsel - ナショナル・ポートレート・ギャラリー
- "アレック・ダグラス=ヒュームの関連資料一覧" (英語). イギリス国立公文書館.
グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国議会 | ||
---|---|---|
先代 トマス・スコット・ディクソン |
ラナーク選挙区選出庶民院議員 1931年–1945年 |
次代 トム・スティール |
先代 トム・スティール |
ラナーク選挙区選出庶民院議員 1950年–1951年 |
次代 パトリック・メイトランド |
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キンロス・アンド・西パースシャー選挙区 選出庶民院議員 1963年 – 1974年 |
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公職 | ||
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次代 第2代ヘイルシャム子爵 |
貴族院院内総務 1957年 – 1960年 | ||
先代 第2代ヘイルシャム子爵 |
枢密院議長 1959年 – 1960年 | |
先代 セルウィン・ロイド |
外務大臣 1960年 – 1963年 |
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次代 第2代ヘイルシャム子爵 |
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第14代ヒューム伯爵 1951年 – 1963年 (1963年に爵位返上) |
次代 デビッド・ダグラス=ヒューム (次の爵位保有者) |