コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

ジョージ1世 (イギリス王)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジョージ1世
George I
グレートブリテン国王
ハノーファー選帝侯
ジョージ1世の肖像画、ゴドフリー・ネラー作、1714年頃
在位 グレートブリテン王:1714年8月1日 - 1727年6月11日
ハノーファー選帝侯:1698年1月23日 - 1727年6月11日
戴冠式 1714年10月20日(グレートブリテン王)
別号 ザクセン=ラウエンブルク公
アイルランド国王

全名 ジョージ・ルイス
ドイツ語名:ゲオルク・ルートヴィヒ)
出生 1660年5月28日
グレゴリオ暦6月7日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
カレンベルク侯領ハノーファー
死去 (1727-06-11) 1727年6月11日(67歳没)
(グレゴリオ暦6月22日[注釈 1]
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
ハノーファー選帝侯領オスナブリュックオスナブリュック宮殿ドイツ語版
埋葬 1727年8月4日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
ハノーファー選帝侯領、ハノーファー、ライネ城英語版、後にヘレンハウゼン宮殿
配偶者 ゾフィー・ドロテア・フォン・ツェレ
子女 一覧参照
家名 ハノーヴァー家
王朝 ハノーヴァー朝
父親 ハノーファー選帝侯エルンスト・アウグスト
母親 ゾフィー・フォン・デア・プファルツ
宗教 キリスト教ルーテル教会[1]
サイン
テンプレートを表示

ジョージ1世英語: George I1660年5月28日 - 1727年6月11日(グレゴリオ暦6月22日[注釈 1]))[2]は、グレートブリテン王国及びアイルランド王国の国王で、ハノーヴァー朝の開祖である[3]。また、神聖ローマ帝国ブラウンシュヴァイク=リューネブルク(ハノーファー)選帝侯でもあり、ドイツ語名をゲオルク・ルートヴィヒGeorg Ludwig)という。

ジョージはドイツのハノーファーで生まれ、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公国の領地や選帝侯位称号を父や伯父たちから相続した[注釈 2]スペイン継承戦争などヨーロッパにおける一連の戦争により、ジョージのドイツ領地はその治世中に拡大した。イギリスで又従妹のアン女王が崩御してステュアート朝が断絶すると、母のゾフィーがステュアート家の血筋だったことから、54歳でグレートブリテン王国の国王ジョージ1世として迎えられた[注釈 3]

ドイツで生まれ育ったジョージ1世は英語を理解できず、文化も異なるイギリス国民から嫌われたと言われている。ジョージ1世に英語の知識がなく学ぶこともなかったとの見解は世間で信じられてきたが、国王即位時に彼の英語は少しかじっている程度を超えていたとも見なせる記述が史料に存在し、1720年代までに文書がフランス語に訳されなくなったことは国王在位中に彼の英語能力が進歩したことを示すとも考えられる[4]。イギリスの政務をロバート・ウォルポール[注釈 4]に任せ、これがイギリスにおける責任内閣制(「国王は君臨すれども統治せず」)の発達を促す結果になったとされる[3]

ジョージ1世は母国ハノーファーへ戻る途中で卒中を起こして崩御、ハノーファーで埋葬された。

生涯

[編集]

幼年期

[編集]

ジョージは1660年5月28日に神聖ローマ帝国のハノーファーで生まれた[注釈 5]ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公子エルンスト・アウグストゾフィー・フォン・デア・プファルツの間に生まれ、ゾフィーは母エリザベス・ステュアートを通じて祖父のイングランド王ジェームズ1世の血を引いていた[6]

ジョージは、生まれた時点で、父と実子のいない3人の伯父のドイツ領地の唯一の相続人となった。1661年、ジョージの弟フリードリヒ・アウグストが生まれ、2人は家族の間でそれぞれゲルゲン(Görgen)とグシェン(Gustchen)と呼ばれ、一緒に育てられた。ゾフィーが1664年から1665年の間、療養のためにイタリアへ旅行して家を留守にしていたが、その間も息子たちの女家庭教師と定期的に文通し、息子たちの養育に気をかけた[7]。ゾフィーが旅を終えた後、彼女はエルンスト・アウグストとの間でさらに4男1女をもうけた。ゾフィーは手紙でジョージを責任感のある誠実な子供と形容、弟や妹たちの模範となりうると述べた[8]

1665年にはジョージの伯父の1人クリスティアン・ルートヴィヒが子供なく薨去したが、残りの2人の伯父が1675年までに結婚したため、彼らはジョージの継承権に疑問を呈し、2人が子供をもうけた場合にはジョージが継承できない可能性があるとした。エルンスト・アウグストはジョージを狩りや乗馬に連れて行き、軍事について教育した。ジョージの将来が不安定であることを案じたエルンスト・アウグストは当時15歳のジョージを仏蘭戦争の戦役に連れて行き、戦闘でジョージを教育するとともにその能力を試そうとした[9]

1679年、ジョージの伯父の1人ヨハン・フリードリヒが男子のないまま薨去、エルンスト・アウグストがカレンベルク侯領ゲッティンゲン侯領を継承し、首都はハノーファーに置いた。今やジョージの伯父のうち唯一存命なのはゲオルク・ヴィルヘルム1人となり、彼は愛妾エレオノール・ドルブリューズと正式に結婚して娘ゾフィー・ドロテアを嫡出子にしたが、さらに子供をもうける可能性はありそうになかった。サリカ法により領土の継承は男子に限定されたため、ジョージと弟たちが父エルンスト・アウグストや伯父たちの領地を相続することはほぼ確実視された。1682年にハノーファー家は長子相続制の採用に合意、これによりジョージは領地を弟たちと分割することなく全て相続することができた[10]

結婚

[編集]
1680年、ハノーファー公子だった頃のジョージ。ゴドフリー・ネラー

同年、ジョージは従妹ゾフィー・ドロテア・フォン・ツェレと結婚、サリカ法で規定されなかった収入を確保した。この閨閥の目的は歳入を(健全な程度に)増やすことと、ハノーファーとツェレの統一を推進することにあった。ジョージの母ゾフィーははじめゾフィー・ドロテアの出身(王族ではなかった上、庶子だったのを認知されて嫡出となった経緯がある)を見下して結婚に反対したが、結婚がもたらす利益をもって説得された[11]

1683年、ジョージは弟フリードリヒ・アウグストとともに大トルコ戦争第二次ウィーン包囲に参戦、一方のゾフィー・ドロテアは息子ゲオルク・アウグストを出産した。翌年、フリードリヒ・アウグストは長子相続制の採用を知らされた。元々予定された、父の領地の一部を相続することができなくなったという事実により、フリードリヒ・アウグストと父、そしてジョージの間で確執が生じ、フリードリヒ・アウグストが1690年に戦死するまで続いた。ブラウンシュヴァイク=リューネブルクが統一目前であることと、エルンスト・アウグストが大トルコ戦争に継続して貢献したことを鑑みて、エルンスト・アウグストは1692年に神聖ローマ帝国の選帝侯に叙された。これにより、ジョージの将来は父の選帝侯領と伯父の公国の相続と、より一層に明るくなった[12]

ゾフィー・ドロテアは1687年に同名の娘ゾフィー・ドロテアを出産したが、それ以降は妊娠することがなかった。ジョージとゾフィー・ドロテアは疎遠になり、ジョージは愛妾エーレンガルト・メルジーネ・フォン・デア・シューレンブルクと同伴することを好み、ゾフィー・ドロテアもスウェーデンのフィリップ・クリストフ・フォン・ケーニヒスマルク伯爵と不倫した。駆け落ちのスキャンダルに危機を感じたハノーファー宮廷ではジョージの母や弟が思いとどまるよう説得したが効果はなかった。ハノーファーの敵国の外交文書によると、ケーニヒスマルク伯は1694年7月に殺害され、遺体は石の錘をつけてライネ川に投棄された。彼を殺害したのはエルンスト・アウグストの宮廷にいた4人とされ、そのうち1人(ドン・ニッコロ・モンタルバーノ)は15万ターラーもの大金を与えられた[注釈 6][13]。その後、ケーニヒスマルク伯の遺体がバラバラにされ、ハノーファーの宮殿の床下に埋められたとするうわさが流れた[14]。しかし、ゾフィーを含むハノーファー自体での文献はケーニヒスマルクの行方について全く知らなかったとした[13]

ジョージとゾフィー・ドロテアの結婚は解消されたが、その理由は不倫ではなく、ゾフィー・ドロテアがジョージを捨てたことであった。父エルンスト・アウグストの同意を得たジョージはゾフィー・ドロテアをツェレアールデン城英語版に幽閉、彼女は1726年に死去するまで解放されなかった。彼女は父や子供との面会を許されず、再婚も禁止され、他人の同伴なしに歩けるのは城の中庭だけであった。しかし、彼女は年金や使用人を与えられ、監視のもと馬車に乗って城外へ出かけることも許された[15]。エーレンガルト・メルジーネ・フォン・デア・シューレンブルクは1698年から死去するまでジョージの公妾であり続け、1692年、1693年、1701年にそれぞれ娘を出産した。

ハノーファー選帝侯

[編集]
1706年、ハノーファー選帝侯だった頃のジョージ。ヨハン・レオンハルト・ヒルシュマン作

エルンスト・アウグストは1698年1月23日に死去、遺領はオスナブリュック司教領英語版を除いて[注釈 7]ジョージが継承した。これにより、ジョージは神聖ローマ帝国におけるブラウンシュヴァイク=リューネブルク公(首都の名をとりハノーファーとも)、選帝侯および旗手長になった[16]。彼の宮廷は哲学者、数学者のゴットフリート・ライプニッツ、作曲家のゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルアゴスティーノ・ステッファーニなどでにぎわった。

ジョージが父の公国を継承した直後、イングランドとスコットランドの王位継承順位2位のグロスター公ウィリアム英語版が死去した。イングランドの1701年王位継承法により、ジョージの母ゾフィーは当時王位についていたウィリアム3世と義妹アンが継承者なく死去した場合、その継承者となることが定められていた。この決定の理由は、ゾフィーがプロテスタントのうちイギリス王家の最近親者にあたるためだった。近親者のうち継承順位がゾフィーより上にある56人のカトリック信者は排除された[17]。彼らが王位を継承するために改宗するという望みは薄く、うち数人はすでに断っていた[18]

1701年8月、ジョージはガーター勲章を授与され、6週間後には元イングランド国王でカトリックとしては最近親だったジェームズ2世が死去した。翌年3月にウィリアム3世が死去、アンが即位した。ゾフィーは王位の推定相続人となった。彼女は当時71歳で、アン女王より35歳年上であったが健康体であり、彼女自身か息子による王位継承を保証するため精力的に働いた[19]。しかし、イギリスの政治と憲法英語版の複雑さを理解していたのはジョージのほうであり、彼は1705年のゾフィー帰化法英語版でゾフィーとその継承者たちをイギリスに帰化させ、また権力の継承を摂政委員会を通じて行うことも定めた[20]。同年、ジョージの伯父で唯一存命だったゲオルク・ヴィルヘルムが死去、ジョージはツェレを首都とするリューネブルク侯領グルベンハーゲン侯領英語版を継承した[21]

1720年頃のハノーファーの地図。ハノーファーブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテルオスナブリュック司教領英語版を示している。ジョージの治世中、ハノーファーはさらにザクセン=ラウエンブルクブレーメン=フェルデン英語版を獲得した。

ジョージがハノーファーを継承した直後、スペイン継承戦争が勃発した。戦争において問題となったのはフランス王ルイ14世の孫アンジュー公フィリップがスペイン王カルロス2世の遺言に従いスペイン王位を継承することだった。神聖ローマ帝国、ネーデルラント連邦共和国、イングランド、ハノーファー、そして多くのドイツ小国はフランスのブルボン家がスペインまでも支配すると、強力になりすぎることを恐れてフィリップによる継承に反対した。ジョージは戦争に乗じて親仏派のブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯領に侵攻、途中で戦列の並びを自ら書いた。侵攻は僅少な損害で成功、これによりイングランドとオランダはハノーファーが前に行ったザクセン=ラウエンブルク併合を承認した[22]

1706年、バイエルン選帝侯マクシミリアン2世エマヌエルはフランス側についた廉で選帝侯位をはく奪され、同年にジョージは帝国元帥に叙され、ライン川沿岸の帝国軍を指揮した。しかしジョージは同盟者のマールバラ公爵ジョン・チャーチルに騙されて陽動攻撃を行い、また皇帝ヨーゼフ1世がジョージの戦役に必要な軍資金を横領したため大きな成功を収めることはなかった。しかしドイツ諸侯はジョージの働きぶりを認め、1708年にジョージを選帝侯として正式に承認した[23][24]。ジョージは陽動攻撃がフランス軍の目をそらすための作戦であると後に知ったためマールバラ公には根を持たなかった[24]

1709年、ジョージは元帥職を辞め、以降軍務から身を引いた。1710年、元はプファルツ選帝侯が有した官職であった帝国の大出納官に就任した[25]。バイエルン選帝侯が不在だったため官職が再編されたのだった[26]。後にマールバラ公が政争で司令官の地位が危うくなるとマールバラ公への信任を表明した手紙をマールバラ公に送っている。またマールバラ公が失脚し、トーリー党が強引に和睦を図りイギリス軍を引き上げさせたことに反発、終戦までオイゲンの下で戦い抜いた[27]。1711年にヨーゼフ1世が死去したことで勢力均衡が逆方向に崩される可能性が出て、1713年のユトレヒト条約締結と終戦につながった。フィリップはフェリペ5世としてスペイン王に即位したが、フランスの王位継承権は放棄、マクシミリアン2世エマヌエルはバイエルン選帝侯に復帰した。

グレートブリテンの王位継承

[編集]
ジョージ1世の肖像画、ゴドフリー・ネラー作、1714年頃

イングランドもスコットランドもアンを女王として承認したが、ハノーファー選帝侯妃ゾフィーを推定相続人として承認したのはイングランド議会英語版だけであり、スコットランド議会英語版はスコットランド王位の継承権問題を正式には解決していなかった。1703年、スコットランド議会は、イングランドがスコットランド商人にイングランドとその植民地における自由貿易を許可しない限り、アン女王のスコットランド王位継承者にイングランド王位継承者と同じ人物を選ばないことを決議した。アン女王ははじめ裁可を与えなかったが、翌年には折れて裁可を与え、法案は1704年安全保障法英語版として成立した。これに対し、イングランド議会はスコットランド議会がハノーファー家によるスコットランド王位継承を承認しない場合、イングランドとスコットランドの貿易を制限し、スコットランド経済に打撃を与えることを決議した[28][29]。やがて両議会は1707年に合同法でイングランドとスコットランドを1つの政治実体に合併し、グレートブリテン王国を成立させるとともに、1701年王位継承法に基づく王位継承に合意した[30]。この合併により、18世紀のヨーロッパにおける最大の自由貿易圏が成立した[31]

ホイッグ党の政治家は議会が王位継承を決定する権利を持ち、それをアン女王の最近親のプロテスタントに与えることができたと考えた。一方多くのトーリー党政治家はステュアート家のカトリックがより近親だったためその継承権を認めるべきと考えた。1710年、ジョージは王位継承権がステュアート家から剥奪されたが彼が王位継承権を保持したとして、イギリスの王位を継承することを宣言した。「この宣言の目的はホイッグの議会が王国を彼に与えたとする主張を潰す[とともに][...]トーリーには王位の簒奪者ではなかったと納得させた」[32]

ジョージの母ゾフィーは1714年5月28日(ユリウス暦。グレゴリオ暦では6月8日)に83歳で死去した。彼女は雨避けのために走った後ヘレンハウゼン庭園で倒れた。アン女王の健康も悪化していたためイギリスの政治家は権力を奪い合い、アンの推定相続人になったジョージはすぐさま摂政委員会の委員を再編した[33]。アン女王は卒中をおこして話すことができなくなり、1714年8月1日に死去した。摂政のリストが公表され、摂政たちは宣誓し、ジョージはジョージ1世としてグレートブリテン王およびアイルランド王として即位した[34]。しかし、逆風のためにデン・ハーグで海峡通過を待たざるを得ず[35]、9月18日にようやくイギリス入りした。ジョージは10月20日にウェストミンスター寺院で戴冠した[6]。イングランドでは20か所以上の町で戴冠式暴動英語版と呼ばれた暴動がおこった[36]

ジョージ1世は1714年以降、主にグレートブリテン島に住んだが、ハノーファーへは1716年、1719年、1720年、1723年、1725年、1727年と数年ごとに帰国[37]、合計ではイギリスでの治世の約5分の1をドイツで過ごした[38]。王位継承法には議会の許可なくイギリスを出国することを禁じる条項があったが、1716年にハノーファー朝支持ムードのなかで全会一致で廃止された[39][40]。1回目の帰国を除いて、ジョージ1世の不在時に、権力はプリンス・オブ・ウェールズのジョージ・オーガスタスではなく摂政委員会に委ねられた[41]

戦争と反乱

[編集]
ジョージ1世の肖像画、ジョージ・ヴァーチュー英語版作、1718年

ジョージ1世の王位継承から1年経たずに行われた1715年イギリス総選挙はホイッグの大勝に終わった。敗れたトーリーでは数人が、アン女王の腹違いの弟でカトリックのジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート(支持者からは「ジェームズ3世および8世」、反対者からは「僭称者」とよばれた)を王位につけようとしたジャコバイトに共感した。不平を感じたトーリーのなかには1715年ジャコバイト蜂起に加担した者もいた。スコットランドの不平貴族で元国務大臣のマー伯が率いるジェームズの支持者たちは、ジャコバイトへの共感がより強いスコットランドで反乱を起こした。しかし、後に「ザ・フィフティーン」(「15年の乱」)と呼ばれたこの反乱は大失敗に終わった。マー伯の計画は拙劣なものであり、ジェームズは到着が遅かった上に資金も武器も足らず、年末には失敗が明らかになった。1716年2月、ジェームズとマー伯はフランスへ逃亡した。反乱が鎮圧された後、いくらかの処刑や所領没収はあったものの、ジョージ1世が寛容を示して政府との仲介を行い、没収した財産をスコットランドの学校や国債の償還に使った[42]

ジョージ1世がトーリーに不信感を持ったため権力はホイッグに移った[43]。ジョージ1世の下で、ホイッグの支配が強力になり、以降半世紀もの間トーリーが与党に返り咲くことはなかった。選挙の後、ホイッグが支配した議会で七年議会法英語版が成立、議会の会期を(国王による解散を除き)7年に延長した[44]。そのため既に政権を握っていたホイッグは、与党の座をさらに長期間保持することができた[45]

グレートブリテン王に即位した後、既に悪かったジョージ1世と息子ジョージ・オーガスタスの関係はさらに悪化した。プリンス・オブ・ウェールズであったジョージ・オーガスタスはイギリスにおける宗教寛容政策とハノーファーによるスウェーデンのドイツ領地の併合といった父の政策への反対を煽った[46]。1717年、ジョージ・オーガスタスに子が生まれたことで、ジョージ1世とジョージ・オーガスタスの間で内紛がおこった。ジョージ1世は慣例に従い宮内長官英語版初代ニューカッスル公爵を洗礼式での名親に指名したが、ニューカッスル公爵を毛嫌いしたジョージ・オーガスタスは言葉でニューカッスル公を侮辱した。これをニューカッスル公は勘違いして決闘の申し込みと考えたため、ジョージ1世は激怒した。ジョージ1世の命令によりジョージ・オーガスタスはセント・ジェームズ宮殿を追放された[47]。ジョージの新しい住居であるレスター・ハウスはジョージ1世の野党のたまり場となった[48]。ジョージ・オーガスタスの妻キャロライン・オブ・アーンズバックは夫とともにセント・ジェームズ宮殿を離れたが、ジョージ1世に引き取られた子供たちとの面会を切望し、結局ジョージ1世とジョージ・オーガスタスは後にロバート・ウォルポールとキャロラインの働きかけで和解した。しかし、この洗礼式での事件の後、ジョージ1世とジョージ・オーガスタスが親身になることはなかった[49]

ジョージ1世は治世の初期にはイギリスの外交政策に取り組んだ。1717年にはフランス、オランダとともに反スペイン同盟である三国同盟を締結、1718年に神聖ローマ帝国が加入したことで四国同盟が結成された。直後の四国同盟戦争はスペイン継承戦争と同じ理由で勃発した。1713年のユトレヒト条約はフランス王ルイ14世の孫フィリップをスペイン王フェリペ5世として承認した代わりにフランスの王位継承権を放棄させたが、ルイ14世が1715年に死去するとフェリペ5世は条約を破棄しようとした。

スペインは1719年にジャコバイトによるスコットランド侵攻を支援したが、嵐によりスコットランドに上陸できたスペイン軍は約300人程度であった[50]。4月にはスコットランド西海岸のエレン・ドナン英語版城で基地が建設されたが、1か月後にイギリス艦隊に破壊された[51]。ジャコバイトはスコットランドの氏族から募兵しようとしたが兵士約1千人しか集められず、装備も貧弱だったためグレン・シールの戦いでイギリス砲兵に易々と撃破された[52]。氏族たちはハイランド地方に追い散らされ、スペイン軍は降伏した。そのため、この侵攻はジョージ1世の政府にとって脅威になることはなかった。フランスが敵側に回ったことでフェリペ5世の軍に勝ち目はなく、結局スペインとフランスの王位は分離されたままとなった。同時期にはスウェーデンロシアバルト海における覇権争いにより勃発した大北方戦争がハノーファーに有利な形で決着し、スウェーデン領ブレーメン=フェルデン英語版は1719年にハノーファーに割譲され、その代わりハノーファーは割譲に対する賠償金を支払った[53]

内閣

[編集]
ジョージ1世のギニー金貨、1718年銘

ハノーファーにおいて、ジョージ1世は絶対君主だった。50ターラー(約12から13ポンド相当)以上の支出、士官の全ての任命、全ての閣僚、ひいては写字生より上級の全ての官僚の任命はジョージ1世の支配下にあった。一方、イギリスにおいて、彼は議会を通じて統治しなければならなかった[54]

1715年にホイッグが権力の座を得たとき、主な閣僚はロバート・ウォルポールタウンゼンド子爵(ウォルポールの義弟)、ジェームズ・スタンホープサンダーランド伯爵といった人物だった。また大陸から帰国したマールバラ公には名誉職を与えている[55]。しかし、1717年にタウンゼンド子爵が罷免され、ウォルポールが他の閣僚との意見不一致で辞任した[56]。その結果、スタンホープは外交を、サンダーランド伯が内政を、それぞれ司ることになった[57]

スタンホープとサンダーランドの政権は1719年に揺らぎ始めた。彼らは貴族法案を提出して新しい貴族の創家を制限することで貴族院の人数を制限しようとした。法案が成立すると、反対派の貴族叙任は封じられ、政権の将来に安定を期待できるが、ウォルポールは「政治家人生で最も素晴らしい」とされる演説で法案に反対し、法案は最終的には廃案となった[58]。翌年、ウォルポールとタウンゼンドは再び閣僚に任命され、名目的には統一したホイッグ政府が成立した[58]

金融投機と国債は、より大きな問題となっていた。国債の一部は所有者の同意がなければ償還できず、利率が高い時期に発行されたものだった。そのため、国債が償還されることは少なく、イギリスの財政を長期的に圧迫した[59]。1719年、南海会社はイギリスの国債の5分の3にあたる3,100万ポンド分を会社の株と交換で引き受けることを提案した[60]。南海会社はサンダーランド伯、ジョージ1世の愛妾エーレンガルト・メルジーネ・フォン・デア・シューレンブルク、スタンホープ伯(スタンホープは1717年に子爵に叙され、1718年に伯爵に昇爵した)のいとこで大蔵部書記官だったチャールズ・スタンホープ英語版を買収して計画を推進した[61]。利子が高く、償還されることのない国債の所有者を低利子で売買の容易な株式との交換に同意させる仕組みは、交換が一見財政的に得するように見えたことにあった[62]。南海会社の株価はうなぎ登りとなり、1720年1月1日には128ポンドだった株価[63]は5月に交換計画が開始したときには500ポンドになり[64]、さらに5月末には890ポンドに[39]、6月24日には最高値の1,050ポンドに達した[65]。会社の成功により他の会社にも投機を目的とした資金が流入、そのうち一部の会社は疑わしいものだった[66]。6月、政府はこのような会社の投機を止めようとして、南海会社の支持のもと泡沫会社規制法英語版を制定したが[67]、株価の上昇が止まってしまった後[68]、8月には無秩序な売りがはじまり、9月末には株価が150ポンドまで暴落した。貴族を含む多くの人々は大損を出し、その一部は完全に破滅した[69]。ジョージ1世は6月以降ハノーファーに滞在していたが、内閣の要請により早めに帰国、11月にはロンドンに着いた[70]

南海泡沫事件として知られるこの経済危機により、ジョージとその閣僚たちは著しい不人気となった[71]。1721年、スタンホープ伯は無実にもかかわらず[72][73]貴族院での弁論からの心労で倒れて病死、サンダーランド伯も公職を辞任した。

サンダーランド伯はその後も個人的にジョージ1世への影響力を保持したが、1722年に急死したことでロバート・ウォルポールの台頭を許した。ウォルポールは実質的には首相の立場にあったと言えるが、当時は首相という役職が公式には存在せず、彼が任命された官職は第一大蔵卿および財務大臣である。彼は南海泡沫事件の善後策として債務整理やいくらかの賠償を行って財政を安定化した[74]。ウォルポールが議会戦術を駆使したことで、南海会社が不当な行為を行ったと明示することは避けられた[75]。ジョージ1世が賄賂として無料で株式を受け取ったとする主張[76]には証拠がなく、実際王立文書局英語版には株式購入の伝票が残っており、その伝票はジョージ1世が株価暴落で損害を被ったことを示している[77]

晩年

[編集]
1720年代のジョージ1世の肖像画、ゲオルク・ヴィルヘルム・ラフォンテーヌ(Georg Wilhelm Lafontaine)作

1725年、ジョージ1世はウォルポールの要請を受けてバス勲章を復活させた。これにより、ウォルポールはバス勲章を利用して支持者への報奨、または支持者を得ることができた[78]。ウォルポールの権力が大きく増し、自らが選んだ閣僚を任命することができた。先代のアン女王と違い、ジョージ1世は内閣の会議にめったに臨席しなかった。彼の通信はほとんどが私的なものであり、彼が影響力を発揮したのは主にイギリスの外交政策であった。タウンゼンド子爵の助けもあり、彼はオーストリアとスペインの間のウィーン条約への対策、およびイギリスの貿易の保護を目的としたハノーファー条約のグレートブリテン、フランス、プロイセンによる批准にこぎつけることができた[79]

ジョージ1世はだんだんとウォルポールに頼ったが、自らの叡慮(意思)で閣僚を任免することができた。ジョージ1世の治世末期にウォルポールはジョージ1世に罷免されることを恐れたが[80]、ジョージ1世は王位についてから6度目となるハノーファー行幸の途中で崩御した。彼は1727年6月9日(ユリウス暦)にデルデン英語版ノルトホルン英語版の間の道中で卒中を起こし[81]、馬車でオスナブリュックにある司教の宮殿に連れていかれたが[注釈 8]、11日(ユリウス暦)朝に死去した。ジョージ1世の息子ジョージ・オーガスタスは父王の崩御をウォルポールから知らされた時、「それは悪い冗談だ」と言って信じようとしなかったという[82]。ジョージ1世はライネ城英語版に埋葬されたが、第二次世界大戦の後にヘレンハウゼン宮殿に改葬された[6]

ジョージ1世の息子ジョージ・オーガスタスはジョージ2世として即位した。ウォルポール自身を含め、ジョージ2世がウォルポールの罷免を計画していたと広く考えられたが、王妃キャロライン・オブ・アーンズバックにより罷免は阻止された。ウォルポールが議会で安定多数を確保したこともあり、ジョージ2世はウォルポールの留任か政情不安を選ぶしかなかった[83]。その後、首相の権力はだんだんと増していき、国王の権力は反比例して弱くなっていった。

崩御後

[編集]
家族に囲まれたジョージ1世、ジェームズ・ソーンヒル
ジョージ1世の像、ハノーファー、カール・ランゲニアー(Carl Rangenier)作

ジョージ1世はイギリスでの臣下に嘲笑された[84]メアリー・ウォートリー・モンタギューなど同時代の人はジョージ1世が公衆の場で無表情だったため彼が無知性であると考えた[85]。英語を話せないとされたためイギリスでは不人気だったが、治世の後半の文書では彼が英語を理解し、読み書きと話すこともできることを示している[86]。彼はドイツ語とフランス語を流暢に話し、ラテン語もよく、イタリア語とオランダ語は少し話せた[38]。彼の妻ゾフィー・ドロテアへの仕打ちは一種のスキャンダルとして扱われた[87]

イギリス人は彼をドイツ人すぎると見なした。歴史家のラグンヒルド・ハットン英語版によると、イギリス人はジョージ1世がドイツ人の愛人を多数抱えていたと勘違いした[88]。しかし、大陸ヨーロッパでは進歩的で啓蒙思想を支持した統治者としてみなされた。彼は自身に批判的な文書を厳しい検閲に晒せずに出版を許可し、哲学者のヴォルテールが1726年にパリから追放されたときには彼を保護した[84]。イギリスの文献と大陸ヨーロッパの文献では、両方ともジョージ1世が控えめで穏やかな人柄で、財政では慎重であることを示している[38]。ジョージ1世は社交イベントにおいて注目の的となることを嫌い、オペラ鑑賞のときは王家専用のます席を避け、たびたび匿名で友人の家を訪れてカード遊びをした[40]。いくらかの不人気にかかわらず、プロテスタントであるジョージ1世はその臣下からはカトリックの僭称者ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアートより良いと考えられた。ウィリアム・メイクピース・サッカレーはこの相反する感情を下記のように記述した:

彼の心はハノーファーにあった。[...]彼が私たちのところに来るときには50歳以上になっていた:私たちが彼を招いたのは私たちが彼を欲し、彼が私たちの事の成り行きに適っていた。私たちは彼のドイツ風の不器用なやり方をあざ笑った。彼は私たちの忠誠の価値を全てとった。彼は取れる金は全て取った。私たちを教皇から遠ざかることを保証した。[...]もし私がその日々にいたら、彼の側についたのだろう。彼はシニカルで利己的だったが、サン・ジェルマンより出ずる王よりは良かった。[大僭称者ジェームズ]はフランス王の命令をポケットに入れ、その随行者にはイエズス会士が大勢いた。[89]

19世紀の作家、とりわけサッカレー、サー・ウォルター・スコットマオン子爵英語版などは例えば第2代ハーヴィー男爵の回想録などの偏った一次史料に頼らなければならず、ジャコバイトにはロマンチック、ひいては同情的なまなざしを向けた。彼らはギルバート・ケイス・チェスタートンといった20世紀初期のイギリス作家に影響を与え、ジョージ1世の治世に対する批評にさらなる反ドイツ・反プロテスタント的な考えを加えた。しかし、第二次世界大戦が終結すると、大陸ヨーロッパの公文書館は20世紀後期の歴史家に開放され、民族主義的な反独感情が退潮した。ジョージ1世の一生とその治世はビーティー、ハットンといった学者に再び探索され、彼の性格、能力などに対する批評はより寛大なものとなっていた[90]。歴史家のジョン・ハロルド・プラム英語版は以下のように記述した:

一部の歴史家は国王[ジョージ1世]のイギリスの事務に対する無関心を誇張し、彼の英語に対する無視の重要性を過大評価した。彼はフランス語で閣僚との対話を難なくこなすことができ、彼が全ての事務に興味を持ったことは外交政策と宮廷を深く影響した。[91]

しかし、ジョージ1世の性格はわかりにくいままであった。彼は娘への手紙では優しく親切だったが、公の場では愚鈍で不器用だった。彼の母は「彼を冷淡でまじめすぎると考えた人々に彼は陽気に振舞うことができ、彼は事を心から真摯に感覚し、表面よりも敏感であることを説明した」[8]というが、それが最も的確かもしれない。彼の本当の性格がどうであれ、彼は不安定な王位を継承した。それが政治に対する知識と悪知恵によるか、偶然と無関心によるかにかかわらず、彼は王位をハノーヴァ―朝と議会の手中に収めた[38]

称号と紋章

[編集]
  • 1660年5月28日 - 1679年12月18日:ゲオルク・ルートヴィヒ・フォン・ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公爵殿下
  • 1679年12月18日 - 1692年10月:ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公子殿下
  • 1692年10月 - 1698年1月23日:ハノーファー選帝侯子殿下
  • 1698年1月23日 - 1714年8月1日:ゲオルク・ルートヴィヒ殿下、神聖ローマ帝国の大出納官及び選帝侯、ブラウンシュヴァイク=リューネブルクの公
  • 1714年8月1日 - 1727年6月11日:国王陛下

ジョージ1世はイギリスにおいて「ジョージ、神の恩寵により、グレートブリテン、フランス英語版、アイルランドの王、信仰の擁護者など」の称号を使用した。一部、特に条約では「など」の前に「ブラウンシュヴァイク=リューネブルクの公、神聖ローマ帝国の大出納官および選帝侯」が追加された。

ジョージ1世の王としての紋章にはイングランド(クォーターI)、スコットランド(クォーターI、イングランドの紋章とのインペイルメント)、フランス(クォーターII)、アイルランド(クォーターIII)、ハノーファー(クォーターIV)、ブラウンシュヴァイク(クォーターIV)、リューネブルク(クォーターIV)、ヴェストファーレン(クォーターIV)、神聖ローマ帝国の大出納官(クォーターIV)の紋章が含まれた[92][93][94]

ハノーファー選帝侯の相続人ゲオルク1世ルートヴィヒとしての紋章、1689年 - 1708年
ハノーファー選帝侯ゲオルク1世ルートヴィヒとしての紋章、1708年 - 1714年
グレートブリテン王ジョージ1世としての紋章、1714年 - 1727年

子女

[編集]

ゾフィー・ドロテア・フォン・ツェレとの間で2人の子女をもうけている。

愛妾エーレンガルト・メルジーネ・フォン・デア・シューレンブルクとの間で3人の娘をもうけている。

家系

[編集]
ハノーファー選帝侯 ( 1698 - 1727 )
リューネブルク侯 ( 1705 - 1727 )
グレートブリテン王 ( 1714 - 1727 )
ジョージ1世(ゲオルク・ルートヴィヒ)(1660 - 1727)の家柄
(父)エルンスト・アウグスト
(1629 - 1698)
ブラウンシュヴァイク=リューネブルク家
(祖父)カレンベルク侯(1635-1641)
    ゲオルク(1582 - 1641)
 リューネブルク侯(1559-1592)
 ヴィルヘルム(1535 - 1592)
 デンマーク=ノルウェー王女
 ドロテア(1546 - 1617)
(祖母)
    アンナ・エレオノーレ(1601 - 1659)
 ヘッセン=ダルムシュタット方伯(1596-1626)
 ルートヴィヒ5世(1577 - 1626)
 ブランデンブルク選帝侯の娘
 マグダレーナ(1582 - 1616)
(母)
ゾフィー
(1630 - 1714)
(祖父)プファルツ選帝侯(1610-1623)
    フリードリヒ5世(1596 - 1632)
 プファルツ選帝侯(1583-1610)
 フリードリヒ4世(1574 - 1610)
 オラニエ公女
 ルイーゼ・ユリアナ(1576 - 1644)
(祖母)イングランド王国王女
    エリザベス(1596 - 1662)
 スコットランド王(1567-1625)
 イングランド王アイルランド王(1603-1625)

 ジェームズ1世[‡ 1](1566 - 1625)
 デンマーク=ノルウェー王女
 アン(1574 - 1619)
(兄弟姉妹)
弟:フリードリヒ・アウグスト(1661-1690)
弟:マクシミリアン・ヴィルヘルム(1666-1726)(神聖ローマ帝国元帥)
弟:カール・フィリップ(1669-1690)、クリスティアン・ハインリヒ(1671-1703)
弟:エルンスト・アウグスト(1674-1728)(ヨークおよびオールバニ公
妹:ゾフィー・シャルロッテ(1668-1705)(プロイセン王妃)
(その他の主な血縁者)
伯母:ゾフィー・アマーリエデンマーク=ノルウェー王妃)
  1. ^ スコットランド王としてはジェームズ6世


Familytree形式

[編集]
 
 
 
 
 
ジェームズ6世及び1世
 
アン・オブ・デンマーク
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
チャールズ1世 (イングランド王)
 
 
 
エリザベス・ステュアート
 
フリードリヒ5世 (プファルツ選帝侯)
 
 
ゲオルク (ブラウンシュヴァイク=カレンベルク公)
 
アンナ・エレオノーレ・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
メアリー・ヘンリエッタ・ステュアート
 
チャールズ2世 (イングランド王)
 
ジェームズ2世 (イングランド王)
 
ゾフィー・フォン・デア・プファルツ
 
 
 
 
エルンスト・アウグスト (ハノーファー選帝侯)
 
ゲオルク・ヴィルヘルム (ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ウィリアム3世 (イングランド王)
 
メアリー2世 (イングランド女王)
 
アン (イギリス女王)
 
ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート
 
ジョージ1世 (イギリス王)
 
 
 
 
ゾフィー・ドロテア・フォン・ブラウンシュヴァイク=リューネブルク
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ウィリアム (グロスター公)英語版
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

脚注

[編集]
  1. ^ a b ジョージ1世の存命中、グレートブリテン王国はユリウス暦を使用したが、ハノーファーでは1700年3月1日(ユリウス暦。グレゴリオ暦では2月19日)にグレゴリオ暦を採用した。
  2. ^ ただし父から受け継いだ選帝侯位が他のドイツ諸侯から「正式」に認められるには10年を要した。
  3. ^ 長子相続制において、イギリスの王位継承順位では50人以上のカトリックがジョージより上の順位にあったが、1701年王位継承法によりカトリックがイギリス王位を継承することは禁止され、プロテスタントの間ではジョージがアンの最も近い近親者であった。これに対し、ジャコバイトはジョージを廃位して、ジェームズ2世の息子でカトリックのジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアートを王位につけようとしたが失敗した。
  4. ^ ロバート・ウォルポールは実質的にはイギリスの初代首相となった。
  5. ^ ジョージがオスナブリュックのとある部屋で生まれ、同じ部屋で死去したとする言い伝えがあったが(例えば、1759年版の歴史大事典英語版で記載されている)、母ゾフィー・フォン・デア・プファルツの回想録(Memoiren der Herzogin Sophie nachm. Kurfürstin von Hannover、A・ケーヒャー編、1879年出版、pp. 1, 68.)では上の2人の男子(ジョージとフリードリヒ・アウグスト)がハノーファーで生まれたとした。またヴォルフェンビュッテルの公文書館で保存されている、ハノーファーからヴォルフェンビュッテルの宮廷に発された4通の通知文書での記述とも矛盾する[5]
  6. ^ 当時年収の最も高い官僚の年収の100倍ほどであった。
  7. ^ エルンスト・アウグストは1661年からオスナブリュック司教だったが、オスナブリュック司教職は世襲ではなく、プロテスタントとカトリックが交互に就任した。
  8. ^ ジョージ1世の弟、ヨークおよびオールバニ公アーネストは1715年から1728年までオスナブリュック司教だった。

出典

[編集]
  1. ^ Lathbury, Thomas (1858). A History of the Book of Common Prayer and Other Books of Authority. Oxford: John Henry and James Parker. p. 430. https://books.google.com/?id=15E5AAAAMAAJ. "George I. remained a Lutheran as long as he lived, and had his German chaplain; but he conformed on some occasions with the Church of England. George II. was in the same position. Though Lutherans, they exercised acts of supremacy in the Church of England; and the common opinion was, that there was no opposition between the views of the two Churches" 
  2. ^ George I”. Encyclopædia Britannica. 2020年7月7日閲覧。
  3. ^ a b 『英国王室史事典』p199-200「ジョージ1世」
  4. ^ Eagles, Robin (2019年6月6日). “Ich bin in meinem Herzen Englisch: Could George I speak English?”. History of Parliament blog. 2021年5月29日閲覧。
  5. ^ Huberty, Michel; Giraud, Alain; Magdelaine, F. et B. (1981) (French). L'Allemagne Dynastique, Tome III. Le Perreux: Alain Giraud. p. 85. ISBN 2-901138-03-9 
  6. ^ a b c Weir, Alison (1996). Britain's Royal Families: The Complete Genealogy, Revised edition. Random House. pp. 272–276. ISBN 0-7126-7448-9 
  7. ^ Hatton, Ragnhild (1978). George I: Elector and King. London: Thames and Hudson. pp. 26–28. ISBN 0-500-25060-X 
  8. ^ a b Hatton, p. 29
  9. ^ Hatton, p. 34
  10. ^ Hatton, p. 30
  11. ^ Hatton, pp. 36, 42
  12. ^ Hatton, pp. 43–46
  13. ^ a b Hatton, pp. 51–61
  14. ^ Farquhar, Michael (2001). A Treasury of Royal Scandals. New York: Penguin Books. p. 152. ISBN 978-0-7394-2025-6 
  15. ^ Hatton, pp. 60–64
  16. ^ Schemmel, B. “Hanover”. rulers.org. 21 August 2007閲覧。
  17. ^ Schama, Simon (2001). A History of Britain – The British Wars 1603–1776. BBC Worldwide Ltd. p. 336. ISBN 0-563-53747-7 
  18. ^ Hatton, p. 74
  19. ^ Hatton, pp. 75–76
  20. ^ Hatton, pp. 77–78
  21. ^ Hatton, p. 90
  22. ^ Hatton, pp. 86–89
  23. ^ 友清、P56、P131、P203、P233。
  24. ^ a b Hatton, pp. 101–104, 122
  25. ^ Hatton, p. 104
  26. ^ Velde, François R. (26 September 2006). “Holy Roman Empire”. 20 August 2007閲覧。
  27. ^ 友清、P221、P289 - P290、P348 - P359。
  28. ^ Whatley, Christopher A. (2001). Bought and Sold for English Gold?: Explaining the Union of 1707, Second edition. East Linton, Scotland: Tuckwell Press. ISBN 1-86232-140-X 
  29. ^ Riley, P.W.J. (1978). The Union of England and Scotland: A Study in Anglo-Scottish Politics of the Eighteenth Century. Totowa, New Jersey: Rowman and Littlefield. ISBN 0-8476-6155-5 
  30. ^ Text of the Union with Scotland Act 1706 as in force today (including any amendments) within the United Kingdom, from legislation.gov.uk
  31. ^ The Treaty of Union”. The Scottish Parliament. 18 May 2007時点のオリジナルよりアーカイブ。20 August 2007閲覧。
  32. ^ Hatton, p. 119
  33. ^ Hatton, p. 108
  34. ^ Hatton, p. 109
  35. ^ Hatton, p. 123
  36. ^ Monod, Paul Kleber (1993). Jacobitism and the English People, 1688–1788. Cambridge University Press. pp. 173–178. ISBN 978-0-521-44793-5 
  37. ^ Hatton, p. 158
  38. ^ a b c d Gibbs, G. C. (September 2004; online edn, January 2006) "George I (1660–1727)", Oxford Dictionary of National Biography, Oxford University Press, doi:10.1093/ref:odnb/10538. Retrieved 30 July 2007(Paid subscription required要購読契約)
  39. ^ a b 友清理士. “スペイン継承戦争の戦後20年――ユトレヒト条約後の国際関係とハノーヴァー朝下のイギリス――”. 2017年7月17日閲覧。
  40. ^ a b Plumb, J. H. (1956). The First Four Georges 
  41. ^ George I”. Official web site of the British monarchy. 18 April 2016閲覧。
  42. ^ Hatton, pp. 174–79
  43. ^ Williams, Basil (1962). The Whig Supremacy 1714–1760. Second edition. Revised by C. H. Stuart. Oxford: Oxford University Press. pp. 151–152 
  44. ^ Septennial Act 1715 (c.38)”. The UK Statute Law Database, Ministry of Justice. 30 September 2007時点のオリジナルよりアーカイブ。20 August 2007閲覧。
  45. ^ Lease, Owen C. (1950). “The Septennial Act of 1716”. The Journal of Modern History 22: 42–47. doi:10.1086/237317. 
  46. ^ Hatton, pp. 199–202
  47. ^ Hatton, pp. 207–208
  48. ^ Dickinson, Harry T. (1973). Walpole and the Whig Supremacy. London, UK: The English Universities Press. p. 52. ISBN 0-340-11515-7 
  49. ^ Arkell, R. L. (1937). “George I's Letters to His Daughter”. The English Historical Review 52: 492–499. doi:10.1093/ehr/LII.CCVII.492. 
  50. ^ Hatton, p. 239
  51. ^ Lenman, Bruce (1980). The Jacobite Risings in Britain 1689–1746. London: Eyre Methuen. pp. 192–193. ISBN 0-413-39650-9 
  52. ^ Szechi, Daniel (1994). The Jacobites: Britain and Europe 1688–1788. Manchester and New York: Manchester University Press. pp. 109–110. ISBN 0-7190-3774-3 
  53. ^ Hatton, p. 238
  54. ^ Williams, pp. 13–14
  55. ^ 今井、P277 - P289。
  56. ^ Dickinson, p. 49
  57. ^ Carswell, John (1960). The South Sea Bubble. London: Cresset Press. p. 72 
  58. ^ a b Hatton, pp. 244–246
  59. ^ Carswell, p. 103
  60. ^ Carswell, p. 104; Hatton, p. 249 and Williams, p. 176
  61. ^ Carswell, p. 115 and Hatton, p. 251
  62. ^ Carswell, pp. 151–152; Dickinson, p. 58; and Hatton, p. 250
  63. ^ Erleigh, Viscount (1933). The South Sea Bubble. Manchester: Peter Davies Ltd. p. 65 
  64. ^ Erleigh, p. 70
  65. ^ Dickinson, p. 58; Erleigh, pp. 77, 104; and Hatton, p. 251
  66. ^ Dickinson, p. 59 and Erleigh, pp. 72, 90–96
  67. ^ Dickinson, p. 59 and Erleigh, pp. 99–100
  68. ^ Dickinson, p. 59
  69. ^ Erleigh, pp. 112–117
  70. ^ Erleigh, p. 125 and Hatton, p. 254
  71. ^ Erleigh, pp. 147–155 and Williams, p. 177
  72. ^ Erleigh, p. 129; Hatton, p. 255 and Williams, p. 176
  73. ^ Black, Jeremy (2001). Walpole in Power. Stroud, Gloucestershire, UK: Sutton Publishing. p. 20. ISBN 0-7509-2523-X 
  74. ^ Black, pp. 19–20, and Dickinson, pp. 61–62
  75. ^ Dickinson, p. 63
  76. ^ e.g. Black, pp. 19–20
  77. ^ Hatton, pp. 251–253
  78. ^ Order of the Bath”. Official website of the British monarchy. 2 January 2012時点のオリジナルよりアーカイブ。7 September 2009閲覧。
  79. ^ Hatton, p. 274
  80. ^ "George I" (1911). Encyclopædia Britannica, 11th edition. London: Cambridge University Press.
  81. ^ Hatton, p. 282
  82. ^ 森、P198 - P204。
  83. ^ Black, pp. 29–31, 53, and 61
  84. ^ a b Hatton, p. 291
  85. ^ Hatton, p. 172
  86. ^ Hatton, p. 131
  87. ^ Ashley, Mike (1998). The Mammoth Book of British Kings and Queens. London, UK: Robinson. p. 672. ISBN 1-84119-096-9 
  88. ^ Hatton, pp. 132–136
  89. ^ Thackeray, W. M. (1880) [1860]. The Four Georges: Sketches of Manners, Morals, Court and Town Life. London: Smith, Elder. pp. 52–53. https://archive.org/stream/fourgeorge00thac#page/52/mode/2up 
  90. ^ Smith, Hannah (2006). Georgian Monarchy: Politics and Culture, 1714–1760. Cambridge, UK: Cambridge University Press. pp. 3–9. ISBN 0-521-82876-7 
  91. ^ Plumb, J. H. (1967). "George I". Collier's Encyclopedia. Vol. 10. p. 703.
  92. ^ Williams, p. 12
  93. ^ Louda, Jiří; Maclagan, Michael (1999). Lines of Succession: Heraldry of the Royal Families of Europe. London: Little, Brown. p. 29. ISBN 1-85605-469-1 
  94. ^ Pinches, John Harvey; Pinches, Rosemary (1974). The Royal Heraldry of England. Heraldry Today. Slough, Buckinghamshire: Hollen Street Press. p. 203. ISBN 0-900455-25-X 
  95. ^ Hatton, p. 411
  96. ^ a b Kilburn, Matthew (2004; online edition January 2008) "Schulenburg, (Ehrengard) Melusine von der, suo jure duchess of Kendal and suo jure duchess of Munster (1667–1743)", Oxford Dictionary of National Biography, Oxford University Press, doi:10.1093/ref:odnb/24834 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入)
  97. ^ Cannon, John (2004; online edition September 2012) "Petronilla Melusina Stanhope, suo jure countess of Walsingham, and countess of Chesterfield (1693–1778)", Oxford Dictionary of National Biography, Oxford University Press, doi:10.1093/ref:odnb/24835 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入)

参考文献

[編集]
  • Black, Jeremy (2001). Walpole in Power. Stroud, Gloucestershire: Sutton Publishing. ISBN 0-7509-2523-X 
  • Carswell, John (1960). The South Sea Bubble. London: Cresset Press 
  • Dickinson, Harry T. (1973). Walpole and the Whig Supremacy. Introduced by A. L. Rowse. London: The English Universities Press. ISBN 0-340-11515-7 
  • Erleigh, Viscount (1933). The South Sea Bubble. Manchester: Peter Davies Ltd 
  • Gibbs, G. C. (September 2004; online edn, January 2006) "George I (1660–1727)", Oxford Dictionary of National Biography, Oxford University Press, doi:10.1093/ref:odnb/10538. Retrieved 30 July 2007(Paid subscription required要購読契約)
  • Hatton, Ragnhild (1978). George I: Elector and King. London: Thames and Hudson. ISBN 0-500-25060-X 
  • Plumb, J. H. (1956). The First Four Georges 
  • Williams, Basil (1962). The Whig Supremacy 1714–1760. Second edition. Revised by C. H. Stuart. Oxford: Oxford University Press 
  • 大類伸監修、林健太郎堀米庸三編『世界の戦史 第六巻』人物往来社、1966年。
  • 森護『英国王妃物語』三省堂選書、1986年。
  • 今井宏編『世界歴史大系 イギリス史2 -近世-』山川出版社、1990年。
  • 友清理士『スペイン継承戦争 マールバラ公戦記とイギリス・ハノーヴァー朝誕生史彩流社、2007年。
  • 森護『英国王室史事典』大修館書店、1994年。ISBN 4-469-01240-8
先代:
エルンスト・アウグスト
ハノーファー選帝侯
1698年 - 1727年
次代:
ジョージ2世
(ゲオルク2世アウグスト)
先代:
ゲオルク・ヴィルヘルム
リューネブルク侯
ザクセン=ラウエンブルク公

1705年 - 1727年
先代:
アン
グレートブリテン王
アイルランド王
1714年 - 1727年