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しかしながら、憲兵隊を配下に持ち陸軍最大の権力者でもある東條が内閣総辞職して、後継内閣の背後に回ったため、その後の内閣も戦争を無理矢理継続せざるを得ず、岸が半ば命を懸けて訴えた停戦講和の必要性すら公然と検討しにくいという状態が続いた<ref>[[福田和也]] 『悪と徳と岸信介と未完の日本』 産経新聞社 2012年4月 第19回『サイパン陥落』、第20回『尊攘同志会』 pp.228-246</ref>。1944年(昭和19年)以降の[[連合国軍]]の反攻による[[日本本土空襲|日本本土への空襲]]は時間の問題であったため、戦争終結への動きは、この後も水面下で続いた。 |
しかしながら、憲兵隊を配下に持ち陸軍最大の権力者でもある東條が内閣総辞職して、後継内閣の背後に回ったため、その後の内閣も戦争を無理矢理継続せざるを得ず、岸が半ば命を懸けて訴えた停戦講和の必要性すら公然と検討しにくいという状態が続いた<ref>[[福田和也]] 『悪と徳と岸信介と未完の日本』 産経新聞社 2012年4月 第19回『サイパン陥落』、第20回『尊攘同志会』 pp.228-246</ref>。1944年(昭和19年)以降の[[連合国軍]]の反攻による[[日本本土空襲|日本本土への空襲]]は時間の問題であったため、戦争終結への動きは、この後も水面下で続いた。 |
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東條内閣の後継となった[[小磯内閣]]は、[[本土決戦]]を準備しつつも、和平工作を秘密裏に模索した。元[[陸軍大臣|陸相]]であった[[宇垣一成]]を[[中国大陸|大陸]]に派遣し、[[中華民国]][[ |
東條内閣の後継となった[[小磯内閣]]は、[[本土決戦]]を準備しつつも、和平工作を秘密裏に模索した。元[[陸軍大臣|陸相]]であった[[宇垣一成]]を[[中国大陸|大陸]]に派遣し、[[中華民国]][[蔣介石政権|重慶国民政府]]との和平交渉を打診した。そして、サイパンが陥落し、[[日本列島|本土]]への連合国軍による空襲が本格化した[[1945年]](昭和20年)3月には[[汪兆銘政権|南京国民政府]]高官でありながら、既に重慶政府と通じていることが知られていた[[繆斌]]を日本に招き、和平の仲介を依頼した。ところが、[[重光葵]][[外務大臣 (日本)|外相]]が繆斌を信用せず、[[小磯国昭]][[内閣総理大臣|首相]]と対立し、これも閣内不一致で内閣総辞職となった。 |
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この間の1945年2月、元首相の[[近衛文麿]]を中心としたグループは、戦争がこれ以上長期化すれば「[[ソビエト連邦軍]]による占領及び“日本の赤化”を招く」という危険性を訴えた上で、戦争の終結を求める「[[近衛上奏文]]」を[[昭和天皇]]に献言した。ところが、昭和天皇はこれを却下し、この工作を察知した憲兵隊により、[[吉田茂]]・[[岩淵辰雄]]・[[殖田俊吉]]らいわゆる「[[ヨハンセングループ]]」が逮捕された。そして昭和前期の日本軍部・政治家・官僚は、「[[国体]]護持」を主張しつつ、もはや勝利の見通しの全く立たなくなった戦争を更に継続させた。 |
この間の1945年2月、元首相の[[近衛文麿]]を中心としたグループは、戦争がこれ以上長期化すれば「[[ソビエト連邦軍]]による占領及び“日本の赤化”を招く」という危険性を訴えた上で、戦争の終結を求める「[[近衛上奏文]]」を[[昭和天皇]]に献言した。ところが、昭和天皇はこれを却下し、この工作を察知した憲兵隊により、[[吉田茂]]・[[岩淵辰雄]]・[[殖田俊吉]]らいわゆる「[[ヨハンセングループ]]」が逮捕された。そして昭和前期の日本軍部・政治家・官僚は、「[[国体]]護持」を主張しつつ、もはや勝利の見通しの全く立たなくなった戦争を更に継続させた。 |
2020年9月15日 (火) 14:56時点における版
日本の降伏(にっぽんのこうふく、にほんのこうふく)とは、通常、第二次世界大戦(太平洋戦争・大東亜戦争)末期の日本による「ポツダム宣言」受諾(1945年8月14日)から降伏文書署名(同年9月2日)に至るまでの過程を指す。以下、日本及びその各占領地における経過を説明する。
ポツダム宣言受諾までの経緯
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1944年(昭和19年)7月、サイパンの戦いでサイパン島が陥落すると、岸信介国務大臣兼軍需次官(開戦時は商工大臣)が東條英機首相に「本土爆撃が繰り返されれば必要な軍需を生産できず、軍需次官としての責任を全うできないから講和すべし」と進言した。これに対し、東條は岸に「ならば辞職せよ」と辞職を迫った。ところが、岸は東條配下の憲兵隊の脅しにも屈せず、辞職要求を拒否し続けたため、閣内不一致は明白となり、「東條幕府」とも呼ばれた開戦内閣ですら、内閣総辞職をせざるを得なくなった。
しかしながら、憲兵隊を配下に持ち陸軍最大の権力者でもある東條が内閣総辞職して、後継内閣の背後に回ったため、その後の内閣も戦争を無理矢理継続せざるを得ず、岸が半ば命を懸けて訴えた停戦講和の必要性すら公然と検討しにくいという状態が続いた[1]。1944年(昭和19年)以降の連合国軍の反攻による日本本土への空襲は時間の問題であったため、戦争終結への動きは、この後も水面下で続いた。
東條内閣の後継となった小磯内閣は、本土決戦を準備しつつも、和平工作を秘密裏に模索した。元陸相であった宇垣一成を大陸に派遣し、中華民国重慶国民政府との和平交渉を打診した。そして、サイパンが陥落し、本土への連合国軍による空襲が本格化した1945年(昭和20年)3月には南京国民政府高官でありながら、既に重慶政府と通じていることが知られていた繆斌を日本に招き、和平の仲介を依頼した。ところが、重光葵外相が繆斌を信用せず、小磯国昭首相と対立し、これも閣内不一致で内閣総辞職となった。
この間の1945年2月、元首相の近衛文麿を中心としたグループは、戦争がこれ以上長期化すれば「ソビエト連邦軍による占領及び“日本の赤化”を招く」という危険性を訴えた上で、戦争の終結を求める「近衛上奏文」を昭和天皇に献言した。ところが、昭和天皇はこれを却下し、この工作を察知した憲兵隊により、吉田茂・岩淵辰雄・殖田俊吉らいわゆる「ヨハンセングループ」が逮捕された。そして昭和前期の日本軍部・政治家・官僚は、「国体護持」を主張しつつ、もはや勝利の見通しの全く立たなくなった戦争を更に継続させた。
1945年4月7日に成立した鈴木貫太郎内閣の東郷茂徳外相は、日ソ中立条約が翌年4月には期限が切れても、それまでは有効なはずであったことから、ソビエト社会主義共和国連邦を仲介役として和平交渉を行おうとした。東郷個人はスターリンが日本を「侵略国」と呼んでいること(1944年革命記念日演説)から、連合国との和平交渉の機会を既に逸したと見ていたものの、陸軍が日ソ中立条約の終了時、もしくはそれ以前のソ連軍の満州への侵攻を回避するための外交交渉を望んでいたため、ソ連が日本と連合国との和平を仲介すると言えば、軍部もこれを拒めないであろうという事情、また逆にソ連との交渉が破綻すれば、日本が外交的に孤立していることが明らかとなり、大本営も実質上の降伏となる条件を受け入れざるをえないであろうという打算があったとされている。かつて東郷自身、駐ソ大使として、モスクワでノモンハン事件を処理し、ソ連との和平を実現させたという成功体験も背景にあったとされる。
翌5月、最高戦争指導会議構成員会合(首相・陸相・海相・外相・陸軍参謀総長・海軍軍令部総長の6人)において、東郷外相は、ソ連の参戦防止及びソ連の中立をソ連に確約させるための外交交渉を行なうという合意を得た。当初、これには戦争終結も目的として含まれていたが、阿南惟幾陸相が「本土を失っていない日本はまだ負けていない」と反対したため、上記2項目のみを目的とすることとなった[2]。東郷は、かつての上司であった元首相の広田弘毅をヤコフ・マリクソ連大使とソ連大使館(強羅ホテルに疎開中)などで会談させたが、戦争終結のための具体的条件や「戦争終結のための依頼」であることを明言しなかったため、何ら成果はなかった。
その上、6月6日、最高戦争指導会議構成員会合で「国体護持と皇土保衛」のために戦争を完遂するという「今後採ルヘキ戦争指導ノ基本大綱」が採択され、それが御前会議で正式決定されたため、日本側からの早期の戦争終結は少なくとも表面上は全く不可能となった。にもかかわらず、矛盾する事に、木戸幸一内大臣と東郷外相及び米内光政海相は、第二次世界大戦の際限ない長期化を憂慮して、ソ連による和平の斡旋へと動き出した[3]。木戸からソ連の斡旋による早期戦争終結の提案を受けた昭和天皇はこれに同意し、6月22日の御前会議でソ連に和平斡旋を速やかに行うよう政府首脳に要請した[4]。
しかし、東郷による広田・マリク会談は、それまでと同様、何ら進展しなかった。ただし広田は、1932年(昭和7年)のリットン報告書のことを考えれば遅きに失した感はあるが、マリクとの最後の会談で、ソ連に和平斡旋の条件として満州国(現在の中国東北部)の中立化をソ連に提案はしている[5]。しかし、マリクは政府上層部で真剣に考慮されるだろうと回答しただけであった[6]。7月7日、これを伝え聞いた天皇は東郷に親書を持った特使を派遣してはどうかと述べた[7]。そこで東郷外相は近衛に特使を依頼し、7月12日、近衛は天皇から正式に特使に任命された。日本外務省は、モスクワの日本大使館を通じて、特使派遣と和平斡旋の依頼をソ連外務省に伝えることとなった[8]。
しかしながら、既にソ連は、1945年(昭和20年)2月のヤルタ会談において、ヨーロッパでの戦勝の日から3ヶ月以内に対日宣戦することで米英と合意しており、それとは矛盾する日本政府からのソ連中立の要請や、大東亜戦争の停戦講和の依頼など受けられるはずがなかった。5月から6月にかけて、ポルトガルやスイスにある在外公館の陸海軍駐在武官から、ソ連の対日参戦についての情報が日本に送られたり[9]、モスクワから帰国した陸軍駐在武官補佐官の浅井勇中佐から「シベリア鉄道におけるソ連兵力の極東方面への移動」が関東軍総司令部に報告されたりしていたが[10]、これらの決定的に重要な情報は全て、日本軍・外務省の間では、不都合過ぎて真剣に共有されなかったか、重要性に気付かれないまま捨て置かれていただけであった。
1945年7月、ソ連は、ベルリン郊外のソ連支配地域であるポツダムにおいてポツダム会談を主催し、イギリスとアメリカ合衆国、中華民国の首脳会談によるポツダム宣言に同意する。その際、ソ連への近衛文麿特使による和平工作について、米英と協議し、ソ連は対日宣戦布告まで日本政府の照会を放置することとした。他方、日本政府は、なおもソ連政府による和平仲介に期待し続けた。これを受けた東郷は最高戦争指導会議と閣議において、「本宣言は有条件講和であり、これを拒否する時は極めて重大なる結果を惹起する」と発言したが、内閣総理大臣鈴木貫太郎は7月28日に「政府としては重大な価値あるものとは認めず黙殺し、斷固戰争完遂に邁進する」と述べた。
8月6日には広島への、8月9日午前11時には長崎への原爆投下があったが、日本の降伏を決定付けたのは、8月9日未明のソ連対日参戦であった。日ソ中立条約を結んでいたソ連の参戦と満洲国への侵攻により、日本には「全日本軍の無条件降伏(日本政府に対しては「ポツダム宣言受託」という条件付き降伏)」しか選択肢がなくなった[8]。
マッカーサーの到着
1945年8月15日、天皇による「玉音放送」でポツダム宣言受諾を国民に知らせ終え、鈴木貫太郎内閣は総辞職した。後継首相には、降伏・占領に対する軍の抵抗を懸念して、皇族であった東久邇宮稔彦王(当時)が指名された[11]。8月30日、連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥が、マニラから沖縄経由で神奈川県大和市・綾瀬市にある厚木海軍飛行場に到着した[11]。同じ日、アメリカ第11空挺団の輸送機150機が、4,200人の部隊を乗せて飛来し、日本占領が始まった[11]。
降伏文書調印
1945年9月2日には、東京湾横須賀沖に停泊していたアメリカ海軍の戦艦ミズーリ上で降伏文書の調印式が行われた。日本側は、重光葵外相、梅津美治郎陸軍参謀総長が降伏文書に署名した[11]。
占領軍による間接統治
「厚木航空隊事件」のような反乱事件がいくつか起きたものの、日本国内、アジア各地に展開していた日本軍は、ほとんど抵抗らしい抵抗もなく約60日で武装解除された[11]。満州、南樺太(サハリン)、千島列島などにいた日本軍兵士数10万人(86万人といわれる)は、ソ連軍によって武装解除後シベリアをはじめとするソ連領内に連れ去られ、1年から数年にわたる過酷な自然と劣悪な待遇の元で強制労働に服し、約6万8,000人が死亡した[12]。
日本は朝鮮半島を米ソに、台湾を中華民国に、南樺太及び千島列島及び歯舞・色丹をソ連に、「本州、北海道、九州及四国並びに吾等(連合国)の決定する小島」(ポツダム宣言)をアメリカによって占領されたが、同じ敗戦国のナチス・ドイツのような、イデオロギーが対立する複数の連合国による分割占領を免れた[12]。
ソ連は参戦後に釧路市と留萌町(現在の留萌市)の両都市と、それらを結ぶ線より北の北海道を占領する意向を8月15日に示したが、アメリカ合衆国大統領トルーマンが即座に拒否した。マッカーサーは、初め日本を直接に統治する軍政を布こうとし、9月3日にその旨布告しようとしていたが、前日にこの方針を知った日本政府の要請を受け入れ、結局、日本政府を通じた間接統治の形をとることとした[12]。
このマッカーサーの突然の判断変更の背景事情としては、アメリカの対日政策立案を1944年暮れから手がけていた、SWNCC(スウンク;国務・陸軍・海軍調整委員会)が、1945年8月22日から31日にかけて起草した「降伏後におけるアメリカの初期の対日方針」の中で「最高司令官は・・・天皇を含む日本政府機構及諸機関を通じて其権限を行使すべし」、つまり間接統治が対日占領政策として最適であろうと分析していたことが上げられる[12]。
日本は、アメリカ軍とイギリス連邦占領軍を中心とした連合国軍による占領統治の下に置かれ、GHQが一連の戦後改革を連合国軍最高司令官の布告・命令・指示によって展開させた。1946年(昭和21年)11月3日に、大日本帝国憲法が改正された日本国憲法が公布され、1947年(昭和22年)5月3日に同憲法が施行された。
占領の終了
1951年7月20日、日本政府に講和会議出席の招請状が届いた[13]。その10日前の7月10日には開城(ケソン)で朝鮮戦争の休戦会議が始まっていた[13]。9月8日に、サンフランシスコ市内のオペラハウスで、サンフランシスコ平和条約が日本を含む49か国で調印された[13]。
講和会議に招かれた52か国のうち、ソ連とチェコスロバキア、ポーランドは、米英などとの意見の対立から調印を拒否した[13]。また、戦後独立したばかりで独立国家として日本と対戦していなかったインド・ビルマ・ユーゴスラビアは招請に応じなかった。また、国共内戦の結果台湾へ逃れた中華民国と、建国されたばかりで日本と交戦していない中華人民共和国、枢軸国として日本の同盟国であったドイツを引き継いだ西ドイツと東ドイツ、イタリアは招請されなかった[13]。なお、大韓民国は会議への招請を主張したが、臨時政府を承認されず、さらに大戦当時の朝鮮半島は日本領であり朝鮮人の多くが自主的に日本軍の将兵として参戦していたことを理由にアメリカから招請を拒否された[14][15]。
講和条約が発効し、連合国軍による日本占領が終結したのは、1952年4月28日であった[13]。しかしながら、横井庄一や小野田寛郎に代表されるように、少なからぬ日本兵が終戦の伝達が困難な環境で潜伏していたために終戦後も戦闘状態を長期継続していた(ただし、大半は、数年で帰還した)。旧日本軍兵士や満蒙開拓青少年義勇軍たちの中には、八路軍や国民政府軍に強制的に参加させられ、国共内戦に従軍した者もあった[16]。また、自ら除隊し、インドネシア独立戦争や、ベトナム独立戦争に身を投じる者もいた。
「終戦の日」はいつか
伝統的な戦時国際法において休戦協定の合意は口頭による同意によれば良く文書の手交を要件としない。このため休戦が協定された日と休戦協定が外交文書(降伏文書)として固定された日は異なり、実際に各地の戦線で休戦が合意された日もまた異なる。そのため現実に戦闘が停止された日付(あるいは現地日本軍が降伏した日、あるいは降伏式を執り行った日付)には前後があり、また日本政府が停戦を通告した日(最初のものは短波ラジオを通じた8月10日)、連合国の各司令部により停戦の事実が確認された日などにも前後関係がある。
今日、「終戦の日」とは、昭和天皇が「玉音放送」によって、日本政府がポツダム宣言の受諾(=日本軍の降伏表明)を連合国側に通告したことを、国民に放送を通じて公表した1945年(昭和20年)8月15日とするのが一般的である。一方、日本政府がポツダム宣言の受諾を連合国側に通告したのは、前日の8月14日であり、玉音放送によって読み上げられた「終戦の詔書」の日付もその日となっている。
日本政府及び連合国代表が降伏文書に調印した日は、1945年(昭和20年)9月2日であり、連合国ではこの日を「対日戦勝記念日」としている例が多いが、中華民国や中華人民共和国、旧ソビエト連邦のように9月3日とする国もある。なお国際条約として日本国が交戦国と正式に平和条約などを締約し戦争状態が終了した日は日本国との平和条約が発効した1952年4月28日、日本国と中華民国との間の平和条約が発効した1952年8月5日、日ソ共同宣言が発効した1956年12月12日である(ただし日ソ共同宣言は戦争状態の終了を確認した条約であって平和条約ではない)。
終戦工作の例
日本軍が有利な展開なうちに早期に休戦・終結させる試みは、1942年(昭和17年)の時期から一部の政治家・官僚・民間人の間で摸索された。しかし、戦争勝利を大義とした東條内閣及び軍部により弾圧され、中野正剛のように自決に追い込まれる者もいた。終戦工作としては、他に以下のようなものが知られる。
- 燕京大学学長ジョン・スチュワートや上海市長周仏海を仲介者とする和平工作。
- 日本軍今井武夫参謀副長と中国国民軍何柱国上将との和平協議。
- 水谷川忠麿男爵(近衛文麿の異母弟)と中国国際問題研究所何世禎との和平工作。
- 駐日スウェーデン公使ウィダー・バッゲを仲介者とするイギリスとの和平工作。また、小野寺信駐在武官もドイツの親衛隊諜報部門の統括責任者であるヴァルター・シェレンベルクと共にスウェーデン王室との間で独自の工作を行った[17][18]。だが、ソ連との交渉に専念したい東郷の意向で延期されたまま終戦を迎えた[19]。
- スイスにおけるアメリカ戦略事務局のアレン・ダレスを仲介者とした岡本清福陸軍武官・加瀬俊一公使や藤村義朗海軍武官らによる和平工作[20][21][22]。
これらはいずれも和平条件の問題や日本側による仲介者への不信、時機などから、実現には至らなかった。
軍の降伏
本土防衛の軍隊は、各地でGHQに対する降伏式を行った。
本土
- 青森県:9月9日、海軍大湊警備府司令長官の宇垣完爾、陸軍50軍司令官の星野利元、県知事の金井元彦らが大湊湾洋上のアメリカ軍艦パミナント上で占領命令書に署名している[23]。アメリカ軍側は9月2日に日本と連合国の降伏文書調印を踏まえ、24時間以内に北海道と北東北を管轄する同警備府が武装解除することなどを命じている。
沖縄
9月7日に南西諸島の軍を代表して第28師団司令官納見敏郎中将と高田利貞少将、加藤唯雄海軍少将の3名が日本軍の沖縄戦降伏文書に調印し、ジョセフ・スティルウェル米陸軍大将が日本軍の降伏を受諾し署名することで、沖縄戦が公式に終結した[24][25][注 1]。
外地・大陸・南方
- 京城:[3][4]
- 南京:9月9日、中央軍官学校大会堂にて。日本軍代表は支那派遣軍岡村寧次大将、連合軍代表は中国戦区陸軍総司令何応欽一級上将[5][6]。
- 青島:10月25日、匯泉路競馬場にて。日本側代表は独立混成第5旅団長長野栄二少将[26]、連合軍代表は米海兵隊第6師団長レミュエル・C・シェファード・ジュニア少将、軍政部膠済区接收特派員陳宝倉中将。
- 香港:9月16日、日本側代表は香港防衛隊長岡田梅吉陸軍少将、第二遣支艦隊司令長官藤田類太郎海軍中将。連合軍代表はイギリス軍セシル・ハーコート少将、中国国民軍潘華国少将。
- バギオ(ルソン島):9月3日、キャンプジョンヘイ敷地内にて。日本軍代表は第14方面軍司令官山下奉文大将、南西方面艦隊司令長官大川内傳七中将。連合軍代表は米陸軍太平洋西部陸軍副司令エドモンド・H・レヴィ少将[27]。
- ラバウル:9月6日、イギリス軍艦グローリーにて。日本軍代表は第8方面軍司令官今村均大将及び南東方面艦隊司令長官草鹿任一中将、連合軍代表は豪陸軍第1軍司令官ヴァーノン・スターディー中将[28]。
- シンガポール:9月12日、市庁舎にて。日本側代表は第7方面軍司令官板垣征四郎大将、連合軍代表はルイス・マウントバッテン元帥。[7]
- ニューギニア
- ボルネオ:9月10日にラブアンの第9師団本部にて、日本側代表は第37軍司令官馬場正郎中将、連合軍代表はオーストラリア第9師団長ジョージ・ウートン少将。
- 太平洋戦域各地の降伏式
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中央軍官学校大会堂での降伏式の日華両国代表(9月9日)
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イギリス海軍の中尉に軍刀を引き渡す日本海軍の将校(サイゴンの降伏式)
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青島の降伏式にて、レミュエル・C・シェファード・ジュニア少将と陳宝倉中将に軍刀を差し出す長野栄二少将
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シンガポールでの降伏式に臨む第7方面軍司令部要員(9月12日)
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降伏文書に署名する第15根拠地隊司令・魚住治策少将(9月12日、ペナン島)
参考文献
史伝資料
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- 改訂版「終戦史録」 北洋社(全6巻・別巻[29]), 1977-78
- 外務省編「日本の選択 第二次世界大戦 終戦史録」 山手書房新社(3巻組), 1990
- 外務省編「初期対日占領政策 朝海浩一郎報告書」毎日新聞社(上下), 1978-79
- 江藤淳監修、栗原健・波多野澄雄編「終戦工作の記録」、講談社文庫(上下), 1986
- 江藤淳編・波多野澄雄解題「占領史録」(全4巻)、講談社, 1981-82/講談社学術文庫, 1989、文庫新版(上下), 1995
- 林茂・辻清明編「日本内閣史録 5」第一法規, 1981(全6巻)
- 鹿島平和研究所編「日本外交史 25 大東亜戦争・終戦外交」 松本俊一監修, 1972
- 同上「日本外交史 26 終戦から講和」 鈴木九萬監修, 1973、鹿島出版会(各新版)
- 中尾裕次編「昭和天皇発言記録集成」 芙蓉書房出版(上下), 2003
- 参謀本部所蔵 「敗戦の記録」 原書房, 1967、新版1989、2005
- 森松俊夫監修「『大本營陸軍部』大陸命・大陸指総集成 10巻」エムティ出版, 1994
- 防衛庁防衛研修所戦史室「大本營陸軍部10 昭和二十年八月まで」朝雲新聞社, 1975
- 軍事史学会編「大本営陸軍部戦争指導班 機密戦争日誌」 錦正社(上下), 1998/新版合本2008
- 佐藤元英・黒沢文貴編「GHQ歴史課陳述録 終戦史資料」原書房(上下), 2002
日記・回想録
- 鈴木一編「鈴木貫太郎自伝」時事通信社, 1968、新版1985[30]
- 鈴木貫太郎伝記編纂委員会編「鈴木貫太郎伝」鈴木貫太郎伝記編纂委員会, 1960
- 新版「歴代総理大臣伝記叢書32 鈴木貫太郎」ゆまに書房, 2006
- 「東久邇日記 日本激動期の秘録」徳間書店, 1968
- 東久邇稔彦「一皇族の戦争日記」日本週報社, 1957 /「私の記録」東方書房, 1947
- 東郷茂徳「時代の一面 東郷茂徳外交手記」 改造社, 1952 / 原書房, 2005(新版)
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- 下村海南「終戦秘史」 講談社, 1950 / 講談社学術文庫, 1985(新版)
- 藤田尚徳「侍従長の回想」 講談社, 1961 / 中公文庫, 1987 / 講談社学術文庫, 2015
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- 重光葵「昭和の動乱」(上・下) 中央公論社, 1952 / 中公文庫, 2001
- 重光葵「外交回想録」 毎日新聞社, 1978 / 中公文庫, 2011(各・新版)
- 岡崎勝男「戦後二十年の遍歴」 中公文庫, 1999。初刊・私家版
- 木戸幸一「木戸幸一日記」 東京大学出版会(上・下), 1966
- 「証言・私の昭和史5 終戦前後」聞き手三國一郎、旺文社文庫、文春文庫(新版), 1989
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- 富田健治「敗戦日本の内側」古今書院, 1962
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- 松村謙三「三代回顧録」東洋経済新報社, 1964
- 高松宮宣仁親王「高松宮日記」 中央公論新社(全8巻), 1997
- 河辺虎四郎「河辺虎四郎回想録 市ヶ谷台から市ヶ谷台へ」 時事通信社, 1962 / 毎日新聞社, 1979
- 保科善四郎「大東亜戦争秘史 失われた和平工作」原書房, 1975
- 「最後の参謀総長 梅津美治郎」 同刊行会編、芙蓉書房, 1976
- 有末精三「終戦秘史 有末機関長の手記」 芙蓉書房, 1987(新版)
- 宮崎周一「大本営陸軍部作戦部長 宮崎周一中将日誌」 錦正社, 2003
- 豊田副武「最後の帝国海軍」 世界の日本社, 1950 / 中公文庫, 2017
- 富岡定俊「開戦と終戦」毎日新聞社, 1968 / 中公文庫, 2018
- 藤田信勝「敗戦以後」プレスプラン, 2003/リーダーズノート新書, 2011
歴史書・伝記
- 半藤一利「決定版 日本のいちばん長い日」 文藝春秋, 1995、文春文庫, 2006
- 半藤一利「聖断 昭和天皇と鈴木貫太郎」 文藝春秋, 1985/PHP文庫(新版), 2006
- 小堀桂一郎「宰相鈴木貫太郎」 文藝春秋, 1982、文春文庫, 1987
- 「鈴木貫太郎 用うるに玄黙より大なるはなし」 ミネルヴァ書房〈日本評伝選〉, 2016。増訂版
- 波多野澄雄「宰相鈴木貫太郎の決断 「聖断」と戦後日本」岩波書店〈岩波現代全書〉, 2015
- 萩原延壽「東郷茂徳 伝記と解説」 原書房, 2005(新版)/朝日新聞社, 2008
- 東郷茂彦「祖父東郷茂徳の生涯」 文藝春秋, 1993
- 豊田穣「孤高の外相 重光葵」 講談社, 1990
- 渡辺行男「重光葵 上海事変から国連加盟まで」中公新書, 1996
- 実松譲「米内光政正伝」光人社, 2009(新版)
- 「昭和史の天皇」 中公文庫(1-4), 2012。元版:読売新聞社(全30巻), 1980完結
- 「天皇の終戦 激動の227日」 読売新聞社, 1988-上記の再編版
- 入江隆則「敗者の戦後」 中央公論社〈中公叢書〉, 1989/文春学藝ライブラリー(文庫・新版), 2015
- 長谷川毅「暗闘 スターリン、トルーマンと日本降伏」 中央公論新社, 2006、中公文庫(上下), 2011
- 仲晃「黙殺 ポツダム宣言の真実と日本の運命」 NHKブックス(上下), 2000
- 五百旗頭真「占領期 首相たちの新日本」 読売新聞社〈20世紀の日本3〉, 1997/講談社学術文庫, 2007
- 五百旗頭真「日本の近代6 戦争・占領・講和 1941〜1955」 中央公論新社, 2001、中公文庫, 2013
- 戸部良一「日本の近代9 逆説の軍隊」 中央公論新社, 1998、中公文庫, 2012
- 児島襄「天皇5 帝国の終焉」 カゼット出版(新版、全5巻), 2007
- ジョン・トーランド「大日本帝国の興亡5 平和への道」 毎日新聞社外信部訳、ハヤカワ文庫(全5巻)、2015(新版)
- レスター・ブルークス「終戦秘話 一つの帝国を終わらせた秘密闘争」井上勇訳、時事通信社, 1968、新版1985。原題はBehind Japan's surrender
- 芦田均「第二次世界大戦外交史」岩波文庫(上下), 2015(新版)。解説井上寿一
個別研究
- 五百旗頭真『日米戦争と戦後日本』(新版)〈講談社学術文庫〉、2005年。
- 保阪正康『新版 敗戦前後の日本人』〈朝日文庫〉2007年。
- アービン・クックス 著、加藤俊平 訳『天皇の決断 昭和20年8月15日』サンケイ新聞社〈第二次世界大戦ブックス〉、1971年。
- 遠山茂樹、今井清一、藤原彰『昭和史(新版)』〈岩波新書〉1959年。
- 纐纈厚『日本降伏 迷走する戦争指導の果てに』日本評論社、2013年。
- 加藤聖文『「大日本帝国」崩壊 東アジアの1945年』中央公論新社〈中公新書〉、2009年7月。ISBN 4-12-102015-4。
- 趙景達『植民地朝鮮と日本』〈岩波新書〉2013年。
- 若林正丈『台湾 変容し躊躇するアイディンティティ』〈ちくま新書〉2001年。
- 小倉貞男『物語ヴェトナムの歴史 一億人国家のダイナミズム』中央公論新社〈中公新書〉、1997年7月。ISBN 4-12-101372-7。
- 小林英夫『日本軍政下のアジア』〈岩波新書〉1993年。
- 中野聡 著「植民地統治と南方軍政―帝国・日本の解体と東南アジア」、編集委員倉沢愛子ほか 編『岩波講座アジア・太平洋戦争 第7巻 支配と暴力』岩波書店、2006年。
辞典・事典項目
- 師岡佑行「終戦工作」 「社会科学大事典 10」鹿島研究所出版会, 1969
- 波多野澄雄「終戦工作」 「国史大辞典 7」吉川弘文館, 1986
- 木坂順一郎「終戦工作」 「日本史大事典 3」平凡社, 1993
その他
- 『消えた潜水艦とたった一人の和平工作』(日本テレビ「知ってるつもり?!」2002年5月28日放送分)
脚注
注釈
出典
- ^ 福田和也 『悪と徳と岸信介と未完の日本』 産経新聞社 2012年4月 第19回『サイパン陥落』、第20回『尊攘同志会』 pp.228-246
- ^ 長谷川毅『暗闘(上)』中公文庫、2011年、p151
- ^ 『暗闘(上)』 p.198
- ^ 『暗闘(上) 』 pp.290 - 212、218 - 220
- ^ 『満洲国―「民族協和」の実像』塚瀬進 吉川弘文館 p.147
- ^ 『暗闘(上)』 p.226
- ^ 『暗闘(上)』 pp.248 - 250
- ^ a b 寺崎英成著 『昭和天皇独白録』 136ページによれば、「私が今迄聞いてゐた所では、海岸地方の防備が悪いといふ事であつたが、報告に依ると、海岸のみならず、決戦師団さへ、武器が満足に行き渡つてゐないと云ふ事だつた。敵の落した爆弾の鉄を利用して「シャベル」を作るのだと云ふ、これでは戦争は不可能と云ふ事を確認した。木戸は米内にも東郷にも鈴木にも意見を聞いたが、皆講和したいと云ふ、然し誰も進んで云ひ出さない。それで私は最高指導会議の者を呼んで、速かに講和の手筈を進める様に云つた。「ソビエト」を経てやれと云つたかどうかは記憶して居らぬ。この時鈴木その他から先づ「ソビエト」の肝を探らうと、云ひ出した、私はそれは良い事と思ふが、現状に於ては速かに事を処理する必要があると云つた。これですつかり講和の決意が出来て安心した、但し講和の条件に付ては、皆各と意見があつた。之と前后して、鈴木は詔書を出して国民を激励して頂きたいと云つて釆たが、前述の理由で、絶対に反対だと云つたら、鈴木は御尤もだと云つて帰つた。どうも政府も軍人も二股かける傾向があるのはよろしくない。この場合鈴木だから、隔意なく思ふ事が云へたのだ。・・・然しソ連は誠意ある国とは思へないので、先づ探りを入れる必要がある、それでもし石油を輸入して呉れるなら南樺太も、満洲も与へてよいといふ内容の広田「マリク」会談を進める事にした。しかし、「スターリン」は会議から帰つた后も、返事を寄越さず、その中に、不幸にして「ソビエト」の宣戦布告となつた。こうなつては最早無条件降伏の外はない。」とある
- ^ NHKスペシャル「終戦 なぜ早く決められなかったのか」(2012年8月15日放映)[1]。当番組では連合国に傍受解読された駐在武官発の電報(ロンドンに保存)が紹介された。
- ^ NHK取材班 『太平洋戦争 日本の敗因6 外交なき戦争の終末』 角川文庫、1995年、pp.204 - 208
- ^ a b c d e 石川真澄著『戦後政治史 新版』(2004年)岩波新書6ページ
- ^ a b c d 石川真澄著『戦後政治史 新版』(2004年)岩波新書7ページ
- ^ a b c d e f 石川真澄著『戦後政治史 新版』(2004年)岩波新書56ページ
- ^ United States Department of State (1951). United States Department of State / Foreign relations of the United States, 1951. Asia and the Pacific (in two parts). VI, Part 1. pp. p. 1296
- ^ 塚本孝「韓国の対日平和条約署名問題」『レファレンス』 494巻、国立国会図書館調査立法考査局、1992年3月、pp. 95-101頁。
- ^ 池谷薫『蟻の兵隊 日本兵2600人山西省残留の真相』(新潮社、2007年(平成19年))、米濱泰英『日本軍「山西残留」』(オーラル・ヒストリー企画、2008年(平成20年)6月)、山口盈文『僕は八路軍の少年兵だった』(草思社 1994年(平成6年)、新版が光人社文庫、2006年)に詳しい、また中国山西省日本軍残留問題を参照。
- ^ 回想に小野寺百合子『バルト海のほとりにて 武官の妻の大東亜戦争』(共同通信社。初版1985年)。
- ^ 情報開示により近年研究が進み、評伝に岡部伸(産経新聞編集委員)による『消えたヤルタ密約緊急電 情報士官・小野寺信の孤独な戦い』(新潮選書、2012年)、『「諜報の神様」と呼ばれた男 連合国が恐れた情報士官小野寺信の流儀』(PHP研究所、2014年)がある。
- ^ 小野寺工作を元に、作家の佐々木譲が小説で『ストックホルムの密使』(新潮社、のち新潮文庫)を著し、1995年(平成7年)10月に、NHKでドラマ放送(前・後)された。
- ^ 岡本・加瀬のルートによるスイスでの活動は、竹内修司『幻の終戦工作 ピース・フィーラーズ1945夏』(文春新書、2005年)に詳しい。著者は『月刊文藝春秋』、『諸君!』などの編集者で、昭和史関連の著作編集を行っている。なお、岡本・加瀬と藤村は別個に活動しており、お互いの活動をほとんど知らなかったとされる。
- ^ 有馬哲夫『「スイス諜報網」の日米終戦工作 ポツダム宣言はなぜ受けいれられたか』(新潮選書、2015年)では、藤村の和平工作に否定的な見解を述べている。
- ^ 藤村=ダレス工作を元に、作家の西村京太郎が小説『D機関情報』(講談社)を著し、『アナザー・ウェイ ―D機関情報―』(主演役所広司、1988年)で映画化された。
- ^ 「占領の瞬間生々しく 降伏式の写真見つかる」デーリー東北新聞社オンライン(2010/03/11)[2]
- ^ a b “日本軍の降伏文書 公開 沖縄市が終戦70年展”. 琉球新報. (2015年8月19日) 2016年5月27日閲覧。
- ^ “9月7日 沖縄での降伏調印式 (1945年)”. 沖縄県公文書館. 2016年5月28日閲覧。
- ^ “独立混成第5旅団(桐)l”. アジア歴史資料センター. 2018年12月21日閲覧。
- ^ “Second Instrument of Surrender Document”. Lillian Goldman Law Library. 2018年12月21日閲覧。
- ^ “Instrument of Surrender, Rabaul”. National Archives of Australia. 2018年12月21日閲覧。
- ^ 栗原健ほか編、江藤淳解説。別巻「終戦を問い直す シンポジウム」1980。
- ^ 時事及び図書センター版は、回顧談「終戦の表情」(労働文化社, 1946)を収録
- ^ 終戦・占領での当事者・その親族13名へのインタビュー