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「東郡」の版間の差分

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[[紀元前242年]]([[始皇帝|始皇]]5年)、秦の将軍[[蒙ゴウ|蒙驁]]が[[魏 (戦国)|魏]]を攻撃し、[[延津県|酸棗]]・[[延津県|燕]]・[[虚県|虚]]・[[高平市|長平]]・[[杞県|雍丘]]・[[巨野県|山陽]]など20城を攻め落とすと、東郡が置かれた<ref>『[[史記]]』秦始皇本紀</ref>。
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[[紀元前196年]]([[劉邦|高帝]]11年)、皇子[[劉恢]]が[[彭越]]に代わって梁王に封じられ、[[梁郡|梁国]]に東郡が加えられた<ref>『[[漢書]]』高帝紀下</ref>。[[紀元前181年]]([[呂雉|呂后]]7年)、梁王劉恢が趙王となり、呂王[[呂産]]が梁王となった。[[紀元前180年]](呂后8年)、呂産が殺害されると、梁国は廃止されて、再び東郡が置かれた<ref>『漢書』高后紀</ref>。東郡は[[エン州|兗州]]に属し、[[濮陽県|濮陽]]・[[県|観]]・[[聊城県|聊城]]・[[清豊県|頓丘]]・[[冠県|発干]]・[[范県|范]]・[[茌平県|茌平]]・[[県|東武陽]]・[[茌平県|博平]]・[[ウン城県|黎]]・[[茌平県|清]]・[[東阿県|東阿]]・[[牡丹区|離狐]]・[[臨邑県|臨邑]]・[[利苗県|利苗]]・[[東平県|須昌]]・[[東平県|寿良]]・[[南楽県|楽昌]]・[[県|陽平]]・[[滑県|白馬]]・[[延津県|南燕]]・[[ウン城県|廩丘]]の22県を管轄した。前漢末に40万1297戸、165万9028人があった<ref>[[班固]]『[[漢書]]』地理志第八上。[[小竹武夫]]訳『漢書』3(ちくま学芸文庫、筑摩書房、1998年)、293-294頁。</ref>。


[[新]]の[[王莽]]のとき、'''治亭郡'''と改称された<ref>班固『漢書』地理志第八上。小竹武夫訳『漢書』3(ちくま学芸文庫、筑摩書房、1998年)、293頁。</ref>。
[[新]]の[[王莽]]のとき、'''治亭郡'''と改称された<ref>班固『漢書』地理志第八上。小竹武夫訳『漢書』3(ちくま学芸文庫、筑摩書房、1998年)、293頁。</ref>。

2020年8月26日 (水) 05:25時点における版

東郡(とう-ぐん)は、中国にかつて存在した秦代から隋代にかけて、現在の河南省濮陽市および山東省聊城市にまたがる地域に設置された。

概要

紀元前242年始皇5年)、秦の将軍蒙驁を攻撃し、酸棗長平雍丘山陽など20城を攻め落とすと、東郡が置かれた[1]

紀元前196年高帝11年)、皇子劉恢彭越に代わって梁王に封じられ、梁国に東郡が加えられた[2]紀元前181年呂后7年)、梁王劉恢が趙王となり、呂王呂産が梁王となった。紀元前180年(呂后8年)、呂産が殺害されると、梁国は廃止されて、再び東郡が置かれた[3]。東郡は兗州に属し、濮陽聊城頓丘発干茌平東武陽博平東阿離狐臨邑利苗須昌寿良楽昌陽平白馬南燕廩丘の22県を管轄した。前漢末に40万1297戸、165万9028人があった[4]

王莽のとき、治亭郡と改称された[5]

後漢が建国されると、東郡の称にもどされた。東郡は濮陽・燕・白馬・頓丘・東阿・東武陽・范・臨邑・博平・聊城・発干・楽平・陽平・衛国・穀城の15県を管轄した[6]

277年西晋咸寧3年)、皇子司馬允が濮陽王に封じられ、濮陽国が立てられた[7]。濮陽国は濮陽・廩丘・白馬・鄄城の4県を管轄した[8]

南朝宋のとき、南徐州に属する南濮陽郡があり、廩丘・楡次の2県を管轄した[9]

北魏のとき、東郡が再び置かれた。東郡は兗州に属し、滑台城に郡治が置かれ、東燕・平昌・白馬・涼城・酸棗・長垣・長楽の7県を管轄した[10]

589年(隋の開皇9年)、杞州が置かれた。596年(開皇16年)、滑州と改称された。606年大業2年)、兗州と改められた。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、兗州は東郡と改称された。東郡は白馬・霊昌・衛南・濮陽・封丘・匡城・胙城・韋城・離狐の9県を管轄した[11]

618年武徳元年)、唐が郡制を廃止すると、東郡は滑州と改称され、東郡の呼称は姿を消した[12]

脚注

  1. ^ 史記』秦始皇本紀
  2. ^ 漢書』高帝紀下
  3. ^ 『漢書』高后紀
  4. ^ 班固漢書』地理志第八上。小竹武夫訳『漢書』3(ちくま学芸文庫、筑摩書房、1998年)、293-294頁。
  5. ^ 班固『漢書』地理志第八上。小竹武夫訳『漢書』3(ちくま学芸文庫、筑摩書房、1998年)、293頁。
  6. ^ 後漢書』郡国志三
  7. ^ 晋書』武帝紀
  8. ^ 晋書』地理志上
  9. ^ 宋書』州郡志一
  10. ^ 魏書』地形志二上
  11. ^ 隋書』地理志中
  12. ^ 旧唐書』地理志一