呂産
呂 産(りょ さん、? - 高后8年9月10日(紀元前180年9月25日))は、前漢の外戚。碭郡単父県の人。高祖劉邦の妻である呂后(呂雉)の一族で、呂氏が権力を握った時代に呂王・相国となった。
略歴
[編集]呂后の兄の呂沢の子で、呂台の弟である。呂沢は劉邦に従い、高祖2年(紀元前205年)に劉邦が項羽に敗れた際に劉邦は呂沢の軍に逃げ込んでいる。
呂沢は高祖6年(紀元前201年)に周呂侯に封じられ、3年後死亡した。呂沢は恵帝の時代に令武侯と諡された。周呂侯は兄の呂台が継いだ。
恵帝7年(紀元前188年)、恵帝が崩じると、残された呂后は陳平ら功臣を恐れて不安になっていた。陳平らは呂台・呂産・呂禄ら呂氏に南北軍の軍権を持たせるよう進言し、呂后の気持ちを和らげた。
高后元年(紀元前187年)、呂産は汶侯に封じられた。呂后は呂氏を王にしようと考え、まず呂産の父の呂沢を悼武王と追尊し、次いで大臣に呂台を封じるよう進言させ、呂台を呂王に封じたが、呂台は同年に逝去し、その子の呂嘉が後を継いだ。
高后6年(紀元前182年)、甥の呂嘉が驕恣のために呂后によって廃されると、呂産が呂王に立てられた。翌年、劉邦の子の梁王劉恢を趙王に遷すと、呂産を梁王とした。後に梁国は新たに呂と名付けられ、元々の呂国は済川国と改められた。また呂産の娘を趙王劉恢の妻とした。呂産は梁王になっても封国には行かず、長安にいて少帝弘の太傅となった。
高后8年(紀元前180年)、呂后が死去すると呂産は相国となった。斉王劉襄が反乱すると呂産は灌嬰を鎮圧のため派遣したが、灌嬰は滎陽から進軍しなかった。陳平らに欺かれた呂禄は軍権を返上して封国へ行けば大臣や諸侯の疑いが解けると言ったが、反対する呂氏も多く事態は決しなかった。斉王の蜂起後のある日、曹参の子の曹窋が職務上の事で呂産に報告を行っていると、斉国の郎中令賈寿が現れ「王は何故早く領国に行かれなかったのです。灌嬰将軍が道を封鎖しております。もう貴方は領国に帰れなくなりました」と報告し、呂産に宮殿に入って詔令で討伐軍を出すことを勧めた。
曹窋から「呂産が軍を動員する為に宮殿に入ろうとしている」と伝えられた陳平と周勃は酈寄と劉掲に命じて呂禄を欺き北軍の指揮権を奪取し、陳平は曹窋を衛尉に任じ呂産が長楽宮の宮殿へ入る事を阻止させた。しかし呂産は衛尉たちを恫喝して宮殿内に入った為、曹窋は周勃の元へ逃げ込んだ。報告を受けた周勃は朱虚侯劉章に兵千人を与え呂産を捕えるよう命じた。呂産は朱虚侯劉章によって宮殿内郎中令府の厠の中で殺害され、同族の呂更始も斬殺された。呂産を失った呂氏一族は一気に殲滅され、代王劉恒が皇帝に擁立された(文帝)。
家族
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参考文献
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