「慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団」の版間の差分
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ソサィエティーは、男声合唱団のほかに、[[オーケストラ]]と、[[1950年]]に発祥した[[女声合唱]]団から成る。誕生については「[[明治]]34年(1901年)の10月か11月……三田の牛鍋屋の二階で結成式を行った」という<ref>{{Cite book|title=慶應義塾ワグネル・ソサィエティー100年史 P.2|date=平成14年8月発行|year=|publisher=慶應義塾ワグネル・ソサィエティー}}</ref>。これに先立つ1899年に[[関西学院グリークラブ]]が発足しているが、[[聖歌隊]]を発祥としていることから、当団は「日本最古の『演奏団体』」を名乗っている。発足当初からオーケストラパートと合唱パートが存在したが、その区分は緩やかで、大半がオーケストラと合唱の双方に参加<ref>{{Cite book|title=慶應義塾ワグネル・ソサィエティー100年史 P.6|date=平成14年8月|year=|publisher=慶應義塾ワグネル・ソサィエティー}}</ref>しており、オケと合唱は行動はすべて皆同じ<ref name=":1">慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団第105回(1980年)定期演奏会パンフレット 昔々のワグネルと私 木下保</ref>であった。オーケストラパートの者が合唱に加わり、合唱目当てに入団した者が入団後に楽器を手にしたりすることなどが普通に行われていた。 |
ソサィエティーは、男声合唱団のほかに、[[オーケストラ]]と、[[1950年]]に発祥した[[女声合唱]]団から成る。誕生については「[[明治]]34年(1901年)の10月か11月……三田の牛鍋屋の二階で結成式を行った」という<ref>{{Cite book|title=慶應義塾ワグネル・ソサィエティー100年史 P.2|date=平成14年8月発行|year=|publisher=慶應義塾ワグネル・ソサィエティー}}</ref>。これに先立つ1899年に[[関西学院グリークラブ]]が発足しているが、[[聖歌隊]]を発祥としていることから、当団は「日本最古の『演奏団体』」を名乗っている。発足当初からオーケストラパートと合唱パートが存在したが、その区分は緩やかで、大半がオーケストラと合唱の双方に参加<ref>{{Cite book|title=慶應義塾ワグネル・ソサィエティー100年史 P.6|date=平成14年8月|year=|publisher=慶應義塾ワグネル・ソサィエティー}}</ref>しており、オケと合唱は行動はすべて皆同じ<ref name=":1">慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団第105回(1980年)定期演奏会パンフレット 昔々のワグネルと私 木下保</ref>であった。オーケストラパートの者が合唱に加わり、合唱目当てに入団した者が入団後に楽器を手にしたりすることなどが普通に行われていた。 |
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畑中は「嘗って日本の洋楽は『上野の杜』か『三田の丘』であった<ref>{{Cite book|title=慶應義塾ワグネル・ソサィエティー100年史|date=平成14年8月|year=|publisher=慶應義塾ワグネル・ソサィエティー}}</ref>」と述べているが、両者の関係は非常に密接であり、上記の指導者の中で大塚、木下、山口、畑中、佐藤、大久保がいずれも[[東京音楽学校 (旧制)|東京音楽学校]]・[[東京芸術大学]]の出身である。とりわけ木下は、東京音楽学校在学中から「大塚先生の頼みで、定演でワグネリアンに化けて堂々と(?)[[ヴィオラ]]を演奏し、合唱ボーイとしてトップ[[テノール]]を歌い、演奏旅行では歌ったり、ヴィオラを弾いたり、[[ピアノ]][[伴奏]]までして、日本の各所から[[朝鮮]]まで遠征した<ref name=":1" />」という。また、[[杉山長谷夫]]、[[澤崎定之]]、[[関鑑子]]、[[柳兼子]]、[[永井郁子 (声楽家)|永井郁子]]、[[武岡鶴代]]、[[立松ふさ|立松房子]]、[[橋本國彦]]、[[ |
畑中は「嘗って日本の洋楽は『上野の杜』か『三田の丘』であった<ref>{{Cite book|title=慶應義塾ワグネル・ソサィエティー100年史|date=平成14年8月|year=|publisher=慶應義塾ワグネル・ソサィエティー}}</ref>」と述べているが、両者の関係は非常に密接であり、上記の指導者の中で大塚、木下、山口、畑中、佐藤、大久保がいずれも[[東京音楽学校 (旧制)|東京音楽学校]]・[[東京芸術大学]]の出身である。とりわけ木下は、東京音楽学校在学中から「大塚先生の頼みで、定演でワグネリアンに化けて堂々と(?)[[ヴィオラ]]を演奏し、合唱ボーイとしてトップ[[テノール]]を歌い、演奏旅行では歌ったり、ヴィオラを弾いたり、[[ピアノ]][[伴奏]]までして、日本の各所から[[朝鮮]]まで遠征した<ref name=":1" />」という。また、[[杉山長谷夫]]、[[澤崎定之]]、[[関鑑子]]、[[柳兼子]]、[[永井郁子 (声楽家)|永井郁子]]、[[武岡鶴代]]、[[立松ふさ|立松房子]]、[[橋本國彦]]、[[徳山璉]]、[[平井美奈子|早川(平井)美奈子]]、[[平原寿恵子]]、[[中村淑子]]、[[藤山一郎|増永丈夫]]、[[四家文子]]、[[佐藤美子]]、[[松原操]]、[[松田トシ|松田登志]]、[[ベルトラメリ能子]]、[[奥田智重子]]、[[柴田睦陸]]、[[関種子]]、[[長門美保]]、[[千葉静子|川崎静子]]など、東京音楽学校出身で(東京音楽学校出身以外でも[[藤原義江]]、[[本居貴美子]]の名もある)日本の[[洋楽]]を支えた面々は殆どワグネルの演奏会に登場している<ref>毎日新聞2001年2月1日夕刊「引き継がれたアマの情熱~ワグネル・ソサィエティーの百年~」畑中良輔</ref><ref name=":0" />。とりわけ戦後の木下の再招聘後、畑中、大久保の指導陣が加わった際、[[福永陽一郎]]は「ワグネルの指導陣のよさは、ほかに想像できぬほど強力」と評した<ref>{{Cite book|title=慶應義塾ワグネル・ソサィエティー100年史 P.38|date=平成14年8月|year=|publisher=慶應義塾ワグネル・ソサィエティー}}</ref>。 |
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[[第二次世界大戦]]後、合唱パートがいち早く復興し、女声合唱団の結成もあって、それぞれのパートの独立性が高まり、1950年代まではそれぞれのパートが協力して演奏会を開くかたちとなった。1958年には合同で[[慶應義塾]]100周年記念演奏を行い、同年の定期演奏会は実施されなかったが、男声合唱パートのみは独自の「特別演奏会」を開催した。1960年の第85回定期演奏会から、3パートが独立して定期演奏会を開催するようになった。 |
[[第二次世界大戦]]後、合唱パートがいち早く復興し、女声合唱団の結成もあって、それぞれのパートの独立性が高まり、1950年代まではそれぞれのパートが協力して演奏会を開くかたちとなった。1958年には合同で[[慶應義塾]]100周年記念演奏を行い、同年の定期演奏会は実施されなかったが、男声合唱パートのみは独自の「特別演奏会」を開催した。1960年の第85回定期演奏会から、3パートが独立して定期演奏会を開催するようになった。 |
2020年8月25日 (火) 05:12時点における版
慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団(けいおうぎじゅくワグネル・ソサィエティーだんせいがっしょうだん)は、慶應義塾大学の学生により構成される男声合唱団。1901年に創立された音楽団体「ワグネル・ソサィエティー」の男声合唱部門である。初代指揮者は大塚淳(1908~37)、元顧問指揮者は木下保(1926~32・55~82)、元指揮者は山口雅章(1937~39)、梅原文雄(1939~53)、桂冠指揮者は畑中良輔(1960~2012)、常任指揮者は佐藤正浩(1995~)、客演指揮者は北村協一(1959~2002)他多数、元ヴォイストレーナーは大久保昭男(1960~2014)、綱川立彦(2001~2012)、現ヴォイストレーナーは小貫岩夫(2012~)。(カッコ内は在任年)
概要
ソサィエティーは、男声合唱団のほかに、オーケストラと、1950年に発祥した女声合唱団から成る。誕生については「明治34年(1901年)の10月か11月……三田の牛鍋屋の二階で結成式を行った」という[1]。これに先立つ1899年に関西学院グリークラブが発足しているが、聖歌隊を発祥としていることから、当団は「日本最古の『演奏団体』」を名乗っている。発足当初からオーケストラパートと合唱パートが存在したが、その区分は緩やかで、大半がオーケストラと合唱の双方に参加[2]しており、オケと合唱は行動はすべて皆同じ[3]であった。オーケストラパートの者が合唱に加わり、合唱目当てに入団した者が入団後に楽器を手にしたりすることなどが普通に行われていた。
畑中は「嘗って日本の洋楽は『上野の杜』か『三田の丘』であった[4]」と述べているが、両者の関係は非常に密接であり、上記の指導者の中で大塚、木下、山口、畑中、佐藤、大久保がいずれも東京音楽学校・東京芸術大学の出身である。とりわけ木下は、東京音楽学校在学中から「大塚先生の頼みで、定演でワグネリアンに化けて堂々と(?)ヴィオラを演奏し、合唱ボーイとしてトップテノールを歌い、演奏旅行では歌ったり、ヴィオラを弾いたり、ピアノ伴奏までして、日本の各所から朝鮮まで遠征した[3]」という。また、杉山長谷夫、澤崎定之、関鑑子、柳兼子、永井郁子、武岡鶴代、立松房子、橋本國彦、徳山璉、早川(平井)美奈子、平原寿恵子、中村淑子、増永丈夫、四家文子、佐藤美子、松原操、松田登志、ベルトラメリ能子、奥田智重子、柴田睦陸、関種子、長門美保、川崎静子など、東京音楽学校出身で(東京音楽学校出身以外でも藤原義江、本居貴美子の名もある)日本の洋楽を支えた面々は殆どワグネルの演奏会に登場している[5][6]。とりわけ戦後の木下の再招聘後、畑中、大久保の指導陣が加わった際、福永陽一郎は「ワグネルの指導陣のよさは、ほかに想像できぬほど強力」と評した[7]。
第二次世界大戦後、合唱パートがいち早く復興し、女声合唱団の結成もあって、それぞれのパートの独立性が高まり、1950年代まではそれぞれのパートが協力して演奏会を開くかたちとなった。1958年には合同で慶應義塾100周年記念演奏を行い、同年の定期演奏会は実施されなかったが、男声合唱パートのみは独自の「特別演奏会」を開催した。1960年の第85回定期演奏会から、3パートが独立して定期演奏会を開催するようになった。
年3回の演奏会(東京六大学合唱連盟定期演奏会、東西四大学合唱演奏会、定期演奏会)が団の活動の中心であり、定期演奏会は2019年12月までに144回実施している。それ以外にも、海外(米国・欧州・中国・豪州)演奏旅行、国内演奏旅行や依頼演奏などを実施している。
ワグネルの名は、作曲家のリヒャルト・ワーグナーから取られている。団員はワグネリアン[8]と呼ばれ、そのハーモニーにはワグネルトーンという名がついている。実際には、ワーグナーの楽曲を演奏することは少なかったものの[9]、1991年には、管弦楽つきの合唱曲「使徒の愛餐」を東京都交響楽団の定期演奏会にて日本初演している[10]。また、オリジナルも男声合唱である「さまよえるオランダ人」の二重合唱、「タンホイザー」の巡礼の合唱などを軸とし、一部編曲を組み合わせたワーグナープログラムを四年に一回は演奏し、「ワグネル在籍期間中に、必ず一回はヴァーグナーの作品の何かを歌って卒業」(第94回定期演奏会(1969年)プログラムにおける畑中の寄稿より)するように配慮が成され、伝統となっている。
当初は大塚淳がオーケストラと合唱の双方を指導していたが、大塚は合唱の育成は課題の一つと考え、1926年に東京音楽学校声楽科の木下保に合唱の指導を委ねた。合唱発展の基盤は木下の指導によって作られたところが非常に大きかった。木下は1932年にドイツ留学のため離任する。
1937年、大塚が新京交響楽団の指揮者となり渡満することとなったため、当団OBから東京音楽学校に進み助教授となっていた山口雅章が正指揮者に就任した。しかし山口は病を得て、わずか在任2年で33歳で没し、その後は「やむをえず」(第88回定期演奏会(1963年)プログラムにおける梅原の寄稿より)OBの梅原文雄が合唱パートの指揮者を引き継ぐこととなった。梅原は木下の精神を伝達することが自身の使命と考え、戦中の三田キャンパスの大講堂消失や活動の中断を乗り越え、戦後に合唱パートをいち早く復興させた。また梅原は1953年6月に慶應義塾ワグネル・ソサィエティーOB合唱団を組織し発足させている。しかしながら本業が多忙となり同年に指揮者を辞任せざるを得なくなった。
梅原の辞任後、指揮は一旦学生に委ねられたが、梅原のアドバイスと、当時学生指揮者であった池田文雄等の奔走により、1955年に木下の再招聘が叶った。木下はドイツ留学でものにしたシューベルト、メンデルスゾーン、シューマンなどのドイツロマン派はもちろんのこと、自身が提唱した「やまとことば」による『沙羅』等の信時潔作品などの邦人作品に繰り返し取り組み、中でも1969年に全日本合唱連盟の推薦で招待された「第2回世界大学合唱祭」における間宮芳生作曲『合唱のためのコンポジションIII』の演奏は、ニューヨーク・リンカーンセンターで好評を博した。他にもルネサンス期のポリフォニー、バッハ、近代スイスのF.ヘーガー、フランスのアルベール・デュオパ(Albert Duhaupas)の他、シベリウス、バルトーク、コダーイなど、当時まだ一般的ではなかったフィン・ウゴル語派の作品に原語で取り組む等、先進的な役割を果たした。取り上げる曲はオリジナルの男声合唱曲が多く、歌曲を編曲したものは『沙羅』(当初は福永陽一郎、のちに自身による編曲)のみであり、合唱曲の編曲もミサ(皆川達夫編曲)、バッハ(B.Treharne・C.D.Dawe 編曲)と團伊玖磨作曲の『岬の墓』(福永陽一郎編曲)のみである。(髙田三郎作曲の『ひたすらな道』男声合唱版を作曲者自身に委嘱し初演しているが、第106回定期演奏会プログラムおよびカワイ楽譜には「作曲:髙田三郎」のみクレジットされている)
畑中良輔招聘においてキーマンとなったのは、1960年当時在学中だった学生指揮者の田中宏幸、そして特に淀野隆である。畑中が淀野の父である淀野隆三を尊敬し交流があったことに加え、自宅がすぐ近くであったことから、淀野宅が畑中招聘の「前線基地」となった。当初は多忙を理由に固辞していた畑中であったが、ついに根負けし、当初はヴォイストレーナー、ひいては指揮者就任を承諾した。木下がオリジナルの男声合唱曲を多く取り上げた一方で、1960年に招聘されて以来、指導に長年たずさわった畑中については、歌曲やオペラ、ミュージカル、混声合唱曲などの他ジャンルから、男声合唱曲に編曲したものを演奏する傾向が強く、多くの曲が福永陽一郎や北村協一などによって編曲されている。これについて畑中は、第102回定期演奏会(1977年)プログラムにおいて、「男声合唱曲は、オリジナルなものだけでは、真にすぐれた音楽性を持つ曲は限られて来る」また、第112回定期演奏会(1987年)プログラムにおいては、「《合唱を通じて世界の音楽に眼をひらいてほしい》というのが、ワグネルに対する私の基本姿勢である」と語り、古今東西の名曲を選りすぐって取り上げることを旨としている。これらのレパートリーが日本の男声合唱団のスタンダードとして定着していることは特筆に値する。
北村協一は、上記の編曲者として指導にも参加する等の長年の尽力に加え、畑中が「君の領分だよ」とした意を受け、黒人霊歌等の英米曲や、ミュージカル等の演出ステージ、多田武彦の作品を担当する等、客演指揮者としては異例の出演回数を数えている。また、学生指揮者の多くが北村に師事するなど、多くの面で特別の存在として認識されている。
佐藤正浩は、畑中同様に「合唱」の枠にとらわれず様々な分野から名曲を選曲する方針をとっており、自身による編曲も多く手掛けている。さらには、自身が得意とするフランス音楽等や、現代の邦人作曲家の作品へと裾野を広げている。また、毎年著名な客演指揮者を招き、団員がより広く高度な経験を積めるように配慮を行っている。
作曲家への新作の委嘱に対しては、早稲田大学グリークラブや関西学院グリークラブほど積極的ではないものの、多田武彦の『草野心平の詩から』や、清水脩の『朔太郎の三つの詩』「『智恵子抄』より」「魂しずめの祭」「鎮魂歌」、間宮芳生の『合唱のためのコンポジションIII』、加藤昌則の『ふなたび』などを生み出した。
当団と、他の著名な大学合唱団が大きく異なっている点は、当団にはコンクール出場歴が全くないことである。これについて畑中は、第110回定期演奏会(1985年)プログラムにおいて、「僕は慶應にコンクールに今まで出ろとも出ようとも言わないのは、やっぱり音楽は数で決まるものでないから嫌なんですね。それに人と比べて自分がどうだとかすぐ気にする人間になってほしくない。」と語っている。
出身者
元国立音楽大学学長・NHK交響楽団副理事長の有馬大五郎、セノオ楽譜の妹尾幸次郎、歌手の竹山逸郎、美術史研究者の西川杏太郎、ヴォーカルグループのダークダックス、元タレントの栗原玲児、テノールソリストの笠井幹夫、都留俊輔、平尾啓、峯岸世羽武、河野泰佑、バリトンソリストの堀内康雄、大久保光哉、杉田あきひろ、谷口伸、ピアニストの辻敬夫、演出家の鵜山仁、音楽評論家の三善清達、渡邊學而、合唱指揮者の吉川貴洋、映画監督の河崎義祐、テレビプロデューサーの池田文雄、宮島将郎、イベントプロデューサー・作家の淀野隆、経済学者の千種義人、中島隆信、心理学者の井下理、安藤寿康、工学者の森山剛、服飾ジャーナリストの飯野高広、ヴォーカルグループ ジャミン・ゼブの仲光甫、教育研究者で「こども六法」著者の山崎聡一郎などを輩出。
またブックオフコーポレーション創業者・俺の株式会社代表取締役社長の坂本孝、トヨタ自動車の渡辺捷昭(2005年~2009年社長、2009年~副会長)を始め、経済界にも多くの人材を輩出している。
主な関連人物
三浦洋一(ピアニスト)、井上直幸(ピアニスト)、皆川達夫(編曲、指揮)、福永陽一郎(編曲)、大場俊一(ピアニスト)、平野忠彦(バリトン歌手)、長野羊奈子(メゾソプラノ歌手、朗読)、増山(旧姓:木下)歌子(ピアニスト)、瀬山詠子(ソプラノ歌手)、築地利三郎(バリトン歌手)、久邇之宜(ピアニスト)、岩淵雅俊(ピアニスト)、西義一(バリトン歌手、指揮)、永田峰雄(テノール歌手)、小泉惠子(ソプラノ歌手)、本庄篤子(ヴァイオリニスト)、塚田佳男(ピアニスト)、三林輝夫(指揮)、花岡千春(ピアニスト)、千代正行(バンジョー、ギター)、若杉弘(指揮)、大川隆子(ソプラノ歌手)、谷池重紬子(ピアニスト)、荻久保和明(作曲、指揮)、西川秀人(ピアニスト)、藤田雅(ピアニスト)、伊藤京子(朗読)、大島洋子(ソプラノ歌手)、前田勝則(ピアニスト)、腰越満美(ソプラノ歌手)、小濱妙美(ソプラノ歌手)、藤井宏樹(指揮)、辻博之(指揮)、永澤友衣(ピアニスト)、大里みどり(パーカッション)、雨森文也(指揮)、平林知子(ピアニスト)、牧戸太郎(作曲、編曲)、山田章典(ベース)、松本望(作曲、ピアニスト)、清水敬一(指揮)、小川里美(ソプラノ歌手)、相澤直人(作曲、指揮)、森田花央里(作曲、ピアニスト)、清水雅彦(指揮)、宮本益光(指揮)など。[6]
主なディスコグラフィー
「合唱名曲コレクション」シリーズの発売元は東芝EMI、「日本合唱曲全集」の発売元はビクターエンタテインメント(のち、日本伝統文化振興財団)。この他、慶應義塾関連の歌を演奏したCD、レコードが数多く存在する。
- 合唱名曲コレクション26 柳河風俗詩 - 多田武彦
- 「柳河風俗詩」「草野心平の詩から」「中勘助の詩から」を担当。
- 合唱名曲コレクション30 最上川舟唄 - 清水脩編曲
- 合唱名曲コレクション32, 33, 36, 37 グリークラブアルバム第1集~第4集
- 24曲(うち3曲は早稲田大学グリークラブとの合同)を担当。
- 合唱名曲コレクション41 雪国にて - 多田武彦
- 「草野心平の詩から」を担当。
- 合唱名曲コレクション46 吹雪の街を - 多田武彦
- 「東京景物詩」を担当。
- 日本合唱曲全集 雨 / 多田武彦作品集
- 組曲「雪明りの路」「草野心平の詩から」を担当。
- 日本合唱曲全集 幼年連祷 / 新実徳英作品集1
- 男声合唱とピアノのための「祈りの虹」を担当。
脚注
- ^ 慶應義塾ワグネル・ソサィエティー100年史 P.2. 慶應義塾ワグネル・ソサィエティー. (平成14年8月発行)
- ^ 慶應義塾ワグネル・ソサィエティー100年史 P.6. 慶應義塾ワグネル・ソサィエティー. (平成14年8月)
- ^ a b 慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団第105回(1980年)定期演奏会パンフレット 昔々のワグネルと私 木下保
- ^ 慶應義塾ワグネル・ソサィエティー100年史. 慶應義塾ワグネル・ソサィエティー. (平成14年8月)
- ^ 毎日新聞2001年2月1日夕刊「引き継がれたアマの情熱~ワグネル・ソサィエティーの百年~」畑中良輔
- ^ a b “慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団 演奏ライブラリー”. 2020年1月5日閲覧。
- ^ 慶應義塾ワグネル・ソサィエティー100年史 P.38. 慶應義塾ワグネル・ソサィエティー. (平成14年8月)
- ^ 「ワグネリアン」の普通の用法は「ワーグナー愛好者」である。
- ^ ワーグナーの男声合唱曲は数少ない。一時期、ドイツの男声合唱運動に関わっていたことがあり、楽曲のほとんどはその間に生まれた。
- ^ 指揮は若杉弘。第116回定期演奏会のパンフレットにも「初演」とあるが、実際にはそれよりも前に「日本初演」が行われている。1980年1月10日、桜井吉明指揮、大阪大学男声合唱団、ワグネル・フィルハーモニー管弦楽団による。ただし、編)辻井英世とクレジットされておりオリジナルとしていない。[1]。