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ベルトラメリ能子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ベルトラメリ 能子
出生名 鐡能子
生誕 (1903-04-01) 1903年4月1日
出身地 茨城県の旗 茨城県 多賀郡平潟町
死没 (1973-08-02) 1973年8月2日(70歳没)
東京都の旗 東京都 千代田区神田和泉町
学歴 東京音楽学校 卒業
ジャンル ソプラノ歌手
職業 声楽家
音楽学者
事務所 日本コロムビア

ベルトラメリ 能子(ベルトラメリ よしこ、1903年4月1日[1][2] - 1973年8月2日[1][2])は、日本声楽家ソプラノ歌手

経歴

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1903年(明治36年)4月1日生まれ。茨城県多賀郡平潟町(現・北茨城市)出身[1]。旧姓は鐵(てつ)[2]

8歳頃から東京で育つ[2][3]東京音楽学校(現東京芸術大学)卒業[2][3]アドルフォ・サルコリに師事し[1][2]三浦環の妹弟子でもあった[1]高輪尋常小学校で教師をしながら山田耕筰に師事[2][3]

1922年大正11年)オペラ研究のため、イタリアに留学[1][2]ナポリに3年、後にローマに移り、国立音楽学校でオットリーノ・レスピーギなどに理論を、ベリット・ド・ラビカらに声楽を学んだ。

ローマでイタリアの詩人アントニオ・ベルトラメリイタリア語版と出会い、のちに結婚[注 1]。1930年(昭和5年)に夫と死別し、1931年(昭和6年)に一時帰国して日本コロムビア専属歌手となり、独唱会などを開いた。

1932年(昭和7年)には再びイタリアへ渡り、1935年(昭和10年)に帰国[1][2]。帰国後は鎌倉に住み[1][2]ベルカント唱法の日本普及に貢献するなど、教育活動に尽力した。

1959年(昭和34年)国立音楽大学専任講師[2][3]。1964年(昭和39年)同大学教授[2][3]

1973年(昭和48年)8月2日、東京都千代田区神田和泉町三井記念病院で死去[4]。享年70歳。著作に『イタリア歌曲集』(音楽之友社、1956年 - 1958年)がある。

門下生

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演じた俳優

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脚注

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注釈

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  1. ^ 1927年(昭和2年)説[2]1928年(昭和3年)説[1]がある。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i ベルトラメリ 能子」『20世紀日本人名事典』https://kotobank.jp/word/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%A1%E3%83%AA%20%E8%83%BD%E5%AD%90コトバンクより2021年8月18日閲覧 
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m 江刺昭子、史の会編『時代を拓いた女たち 第2集 かながわの111人』神奈川新聞社、2011年、190-191頁。ISBN 978-4-87645-475-4 
  3. ^ a b c d e ベルトラメリ 能子」『新撰 芸能人物事典 明治~平成』https://kotobank.jp/word/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%A1%E3%83%AA%20%E8%83%BD%E5%AD%90コトバンクより2021年8月18日閲覧 
  4. ^ 楽壇事情」『音楽年鑑 昭和49年版』音楽之友社、1974年、106頁。NDLJP:12431033https://dl.ndl.go.jp/pid/12431033/1/81