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2020年8月19日 (水) 23:59時点における版

影武者
Kagemusha
監督 黒澤明
脚本 黒澤明
井手雅人
製作 黒澤明
田中友幸
外国版プロデューサー
フランシス・フォード・コッポラ
ジョージ・ルーカス
出演者 仲代達矢
山崎努
萩原健一
根津甚八
油井昌由樹
隆大介
大滝秀治
桃井かおり
倍賞美津子
音楽 池辺晋一郎
撮影 斎藤孝雄
上田正治
編集 黒澤明
製作会社 黒澤プロダクション[1]
東宝映画[1]
配給 日本の旗 東宝
世界の旗 20世紀フォックス
公開 日本の旗 1980年4月26日
フランスの旗 1980年5月14日 (CIFF)
アメリカ合衆国の旗 1980年10月6日
上映時間 180分[1]
製作国 日本の旗 日本
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
言語 日本語
製作費 $6,000,000
配給収入 日本の旗 27億円
(1980年邦画配給収入1位)[2]
アメリカ合衆国の旗 $4,000,000[3]
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影武者』(かげむしゃ)は、1980年に公開された日本歴史映画である。監督は黒澤明、主演は仲代達矢カラービスタ、180分。ハリウッドの大手スタジオから世界配給された最初の日本映画で[4]、黒澤を敬愛するフランシス・フォード・コッポラジョージ・ルーカスが外国版プロデューサーとして参加した[5]

黒澤が『デルス・ウザーラ』(1975年)以来5年ぶりに撮った映画で、久しぶりの時代劇となった。彼の作品では唯一、実在の戦国武将にまつわるエピソードを取り上げたスペクタクル巨編で、戦国時代武田信玄影武者として生きる運命を背負わされた小泥棒の姿を描く[5]

勝新太郎の降板劇など公開前から話題を呼び、当時の日本映画の歴代映画興行成績配給収入)1位を記録し、1983年蔵原惟繕監督の『南極物語』で抜かれるまで破られなかった[5][6]第33回カンヌ国際映画祭パルム・ドールを受賞し[7]第53回アカデミー賞外国語映画賞美術賞の2部門にノミネートされた[8]

あらすじ

天正元年、その勇猛を恐れられる武田信玄とその軍勢は、東三河野田城を攻め落とそうとしていた。しかしある夜、信玄は城内から狙撃され、上洛の野望叶わずして死す。自己の死は秘匿し、幼い嫡孫(竹丸)が成長するまで3年は動かずに領地を固めてほしい、との遺言を残す。

信玄亡き後を託された信玄の弟・武田信廉と重臣らは、信玄の死を内部にも明かさず、死刑寸前のところを信廉が拾ってきた、信玄に瓜二つの盗人を、信玄の影武者として立てることとする。盗人は盗み癖を見せて逃げようとしたため一度は解任されるものの、信玄が死んだこと、かつその死が織田信長徳川家康の間者にばれたところを目撃すると、以前対面した折に受けた信玄の威厳や、助命の恩義を思い出し、自ら影武者になることを重臣たちに土下座して願い出る。

信玄として屋敷へ戻った影武者は、嫡孫竹丸や側室たちとの対面を危ないところを見せながらも果たし、やがては評定の場においても信玄らしく振舞って収めるなど、予想以上の働きを見せていく。しかし信玄の存命を疑う織田信長徳川家康は、陽動作戦を展開しだす。それに対し諏訪勝頼は独断で出陣し、武田家内には不協和音がもたらされる。勝頼は側室の子ゆえ嫡男とはみなされず、自身の子、竹丸の後見人とされており、かつ、芝居とはいえ下賤の身である影武者にかしずいて見せねばならぬなど憤懣やる方なかった。

しかしある日、影武者は信玄の愛馬から振り落とされ、川中島上杉謙信につけられた傷がないことを側室に見られてしまい、ついにお役御免となる。重臣らはやむを得ず、勝頼を武田家の総領とすることを決定するが、功にはやる勝頼は重臣たちの制止を振りきり、長篠で、織田・徳川の連合軍と相対する。三段構えの敵鉄砲隊の前に武田騎馬軍の屍が広がる中、影武者だった男は、槍を拾い上げ、ひとり敵へと突進していく。

戦が終わり、男は致命傷を負いながらも死屍累々の戦場の中を徘徊し、喉を潤すべく河に辿り着いた所で河底に沈む風林火山の御旗を見つけ、駆け寄ろうとして力尽き斃れ、その屍が河に流される所で物語の幕は下りる。

キャスト

※クレジット順

スタッフ

製作

企画

1976年ソ連で『デルス・ウザーラ』(1975年)を撮り終えた黒澤明は、次回作として『』の脚本を執筆するが、莫大な製作費がかかるため企画は実現しなかった[4]。そこで『乱』の製作費を軽減するために企画したのが本作である。本作を『乱』と同じような時代設定の物語にすることで、甲冑や衣装などの小道具を流用し、『乱』の製作費を下げようとした[4]。いわば本作は『乱』の準備作のようなものである[9]。本作の物語は、黒澤が井出雅人と日本の戦国時代をリサーチしている最中に、影武者で敵を欺こうとした武田信玄の話に魅了されて思いついた[10]

しかし、本作も予算があまりにも高額なため資金集めに難航した[11]。この状況を聞きつけたジョージ・ルーカスフランシス・フォード・コッポラが、20世紀フォックス社長のアラン・ラッド・ジュニア英語版に働きかけたことで、同社が海外配給権を購入する条件で出資することが決定し、ルーカスとコッポラは海外版のプロデューサーに就いた[11][10]。これで企画の安全性がある程度保証されたため、東宝が重い腰を上げて黒澤との提携製作に応じることになった[11][12]。黒澤はその間、思い描いたシーンやイメージを絵コンテに200枚以上も描いていた[13]

撮影

1979年6月26日姫路城内で撮影が開始したが、その翌月には撮影担当の宮川一夫が病気で降板した[10][14]。合戦場面は10月から11月まで北海道で行われ、11月12日にはルーカスとコッポラがその撮影を視察している[14]。武田屋形のオープンセットは、御殿場市小山町のゴルフ場用地に1億2000万円をかけて作られた[15]。ほかにも熊本城伊賀上野琵琶湖などでもロケが行われた[14][16]。撮影は1980年3月23日に終了した[14]

勝新太郎の降板

本作は俳優の勝新太郎が主演を務める予定だったが、撮影開始直後に黒澤と衝突して降板した[5]。日本を代表する映画監督と映画スターの決裂は、昭和芸能史に残る事件のひとつとして記憶されている。

黒澤は「信玄と影武者が瓜二つ」という設定から、信玄役を若山富三郎、影武者役を勝新太郎という実の兄弟でキャスティングする意向だった[17]。しかし、若山は勝と黒澤のトラブルを予期し、それに巻き込まれることを嫌って出演依頼を断ったため、勝が信玄と影武者の二役を演じ、山崎努が信玄の弟信廉役を演じる形になった。なお若山は、「何、黒澤明? そんなうるせえ監督に出られねえよ、俺は」と、出演依頼を断わったその本音を述懐している[18]

黒澤映画の撮影班のスクリプターを長年務めた野上照代によれば、勝は撮影前から非常にやる気を見せ、京都の料亭で黒澤をもてなしたりしていた。しかし、独自の演技観をもつ勝と、細部まで完璧な画作りにこだわる黒澤とは相容れない予兆があった。1979年6月末のクランクイン後、最初のリハーサルで勝は台詞を自己流に読み、黒澤は何回もやり直させた。翌日、勝は役作りの参考にしようと撮影所にビデオカメラを持ち込み、自分の演技を撮影したいと申し出たが、黒澤は「余計なことをするんじゃない」と拒否[17]。怒った勝は衣裳を脱ぎ捨て、外のワゴン車に閉じこもった。黒澤が車内に入って話し合うが、最後は「勝君がそうならやめてもらうしかない」と冷静に言い切った[17]。カッとなって掴みかかろうとする勝を、東宝田中友幸プロデューサーが羽交い絞めにするという『松の廊下』のような場面もあった[17]

これにより、『乱』の主演が内定していた仲代達矢が代役として起用されることとなった(なお、当時の新聞上では仲代の代役が発表される以前に緒形拳原田芳雄らの名前が報道されていた)。仲代は勝とは気の合う友人同士だったので、撮影前に黒澤組のことを聞かれ、「勝さん、黒澤さんの言うことは全部聞いた方がいいよ」とアドバイスしていた[19]。代役のオファーを受ける前に先ず勝に了承を得ようとしたが、どうしても連絡が付かなかったという[20]。仲代は急な登板ながら独自の影武者像を作り上げたが、マスコミからは「勝の主演で見たかった」という感想もあった。また、恩義のある黒澤から代役に指名されて「光栄です」と発言したことを、「役者の仁義に反する」と批判されたりもした[19]。この騒動で勝とは疎遠になっていたが、仲代の妻宮崎恭子の葬儀に勝があらわれ、互いに抱き合ったという[21]

勝自身は降板後も未練があったようで、いろいろな伝手で復帰を画策していた模様である[17]有楽町で行われた試写会に勝が現れると、黒澤と仲代が咄嗟に隠れたというエピソードもある[17][22]。映画を観た勝は「(映画は)面白くなかった。」「おれが出ていれば面白かったはずだ。」とコメントした。

キャストとスタッフ

主要な配役以外のキャストはオーディションで決められ、職業俳優から素人まで1万5000人が応募した[4]。そのうち油井昌由樹隆大介清水大敬(当時は「清水のぼる」名義)、阿藤海島香裕などの新人俳優、無名俳優が出演した。また、無名時代の南部虎弾(クレジットでは南部虎太)も出演している。黒澤映画の常連俳優では、志村喬藤原釜足が最後の出演となった。

音楽では、過去に何度も黒澤とコンビを組んでいた佐藤勝が15年ぶりに参加したが、ダビング段階で黒澤と対立して降板した[4]。黒澤は映画の音楽のイメージを伝えるために既成曲を示し、それに似たような音楽にするよう指示することが多く、本作でも黒澤はグリーグの『ペール・ギュント』と似た音楽を要求したが、佐藤はそのプランに納得できず降板した[23]。そのため武満徹に打診したが、結局アメリカにいた武満の推薦で池辺晋一郎が起用されることになった[4]。池辺は以後の黒澤作品4作のうち、『乱』を除く3作で音楽を担当することになる。

公開

1980年4月23日、本作のワールド・プレミア上映が有楽座で行われた[14]。このプレミアには1200人が招待され、コッポラをはじめウィリアム・ワイラーアーサー・ペンサム・ペキンパーテレンス・ヤングアーヴィン・カーシュナージェームズ・コバーンピーター・フォンダなども出席した[14][24]。同年4月26日に日本国内で劇場公開された。5月14日には第33回カンヌ国際映画祭で、11月11日には第24回ロンドン映画祭で上映された[14]

短縮版

本作のオリジナルの上映時間は179分で、日本での劇場公開とカンヌ国際映画祭で上映されたのはこのバージョンだが、アメリカなど世界各国で公開されたのは162分の短縮版である[24]。オリジナル版は、東宝が投資分を早く回収しようと急いで日本公開したことで、黒澤が自分の好きなように編集することができず、不十分な編集のまま上映されたものである[24]。短縮版は、その後国外リリースまでに時間があったため、黒澤自身が再編集したものである。そのため短縮版がファイナルカットとなる[24]。短縮版では、外国人の観客には理解しにくいという理由で、上杉謙信が信玄の訃報を聞く場面や、志村喬が出演する宣教師の場面などがカットされた。

評価

批評家の反応

映画批評集積サイトのRotten Tomatoesには24件のレビューがあり、批評家支持率は88%、平均点は7.57/10となっている[25]Metacriticには15件のレビューがあり、加重平均値は84/100となっている[26]

受賞とノミネート

部門 対象 結果 脚注
カンヌ国際映画祭 パルム・ドール 黒澤明 受賞 [7]
アカデミー賞 外国語映画賞 ノミネート [8]
美術賞 村木与四郎 ノミネート
ゴールデングローブ賞 外国語映画賞 ノミネート [27]
英国アカデミー賞 作品賞 ノミネート [28]
監督賞 黒澤明 受賞
撮影賞 斎藤孝雄上田正治 ノミネート
衣装デザイン賞 百沢征一郎 受賞
ブルーリボン賞 作品賞 受賞 [29]
主演男優賞 仲代達矢 受賞
新人賞 隆大介 受賞
毎日映画コンクール 日本映画大賞 受賞 [30]
監督賞 黒澤明 受賞
男優演技賞 仲代達矢 受賞
美術賞 村木与四郎 受賞
音楽賞 池辺晋一郎 受賞
日本映画ファン賞 受賞
キネマ旬報ベスト・テン 日本映画ベスト・テン 2位 [31]
助演男優賞 山崎努 受賞
報知映画賞 作品賞 受賞 [32]
助演男優賞 山崎努 受賞
ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞 外国語映画トップ5 受賞 [33]
セザール賞 外国映画賞 受賞 [34]
ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞 外国監督賞 黒澤明 受賞 [35]
外国プロデューサー賞 ジョージ・ルーカス
フランシス・フォード・コッポラ
受賞
ナストロ・ダルジェント賞 外国監督賞 黒澤明 受賞 [36]
サン・フェデーレ賞 受賞 [37]
ベルギー映画批評家協会賞 監督賞 黒澤明 受賞

その他

キネマ旬報が発表した1999年の「オールタイム・ベスト100 日本映画編」では82位、2009年の「オールタイム・ベスト映画遺産200 日本映画篇」では59位にランクした[38][39]

ドキュメンタリー・関連書籍

脚注

  1. ^ a b c 大系3 2010, p. 142.
  2. ^ 過去配給収入上位作品:1980年(1月~12月)”. 日本映画製作者連盟. 2020年7月7日閲覧。
  3. ^ Kagemusha” (英語). Box Office Mojo. 2020年7月7日閲覧。
  4. ^ a b c d e f 「解説・黒澤明の復活」(大系3 2010, pp. 722, 725–731)
  5. ^ a b c d 『昭和55年 写真生活』pp.10-11(2017年、ダイアプレス)
  6. ^ 朝日新聞』1983年8月22日付夕刊(東京)、15頁。
  7. ^ a b Awards 1980” (フランス語). festival-cannes.fr. 2020年7月7日閲覧。
  8. ^ a b THE 53RD ACADEMY AWARDS (1981)”. oscars.org. 2020年7月7日閲覧。
  9. ^ 佐藤 2002, p. 315.
  10. ^ a b c ガルブレイス4世 2015, pp. 563–567.
  11. ^ a b c 佐藤 2002, p. 305.
  12. ^ 堀川 2000, p. 312.
  13. ^ 都築 2010, pp. 382–383.
  14. ^ a b c d e f g 「黒澤明 関連年表」(大系4 2010, pp. 829–831)
  15. ^ 丹野 1998, pp. 202.
  16. ^ 作品紹介・影武者”. くまもとロケーションナビ. 2017年3月15日閲覧。
  17. ^ a b c d e f 「黒澤明」参謀が明かした「勝新太郎」と大喧嘩の一部始終 週刊新潮(2016年3月3日号)
  18. ^ 『仲代達矢が語る 日本映画黄金時代』(PHP新書)P.214
  19. ^ a b 仲代達矢が語る撮影裏話「黒澤さんの映画では救急車が10台も待機」 ザ・テレビジョン(2017年6月13日)
  20. ^ 仲代達矢、市川崑監督「炎上」秘話語る 市川雷蔵、勝新太郎とのエピソードも 映画.com(2018年4月21日)
  21. ^ 仲代達矢、勝新太郎との『影武者』の代役騒動を語る「葬式で抱き合った」 Movie Walker(2018年4月21日)
  22. ^ 勝新太郎元マネージャーが初めて明かす「オヤジの素顔」(4)薬物は時々やっていた アサ芸プラス(2017年6月28日)
  23. ^ 佐藤勝「黒澤学校の中途退学」(『300/40その画・音・人』キネマ旬報社、1994年)。大系3 2010, pp. 199–200に所収
  24. ^ a b c d ガルブレイス4世 2015, pp. 574–578.
  25. ^ KAGEMUSHA” (英語). Rotten Tomatoes. 2020年7月7日閲覧。
  26. ^ Kagemusha” (英語). Metacritic. 2020年7月7日閲覧。
  27. ^ Winners & Nominees 1981” (英語). Golden Globes. 2020年7月17日閲覧。
  28. ^ Film in 1981” (英語). BAFTA Awards. 2020年7月17日閲覧。
  29. ^ ブルーリボン賞ヒストリー 第23回(1981年2月10日)”. シネマ報知. 2013年1月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年7月17日閲覧。
  30. ^ 毎日映画コンクール 第35回(1980年)”. 毎日新聞. 2020年7月17日閲覧。
  31. ^ 85回史 2012, p. 382,390.
  32. ^ 報知映画賞 過去の受賞一覧”. 報知新聞社. 2020年7月17日閲覧。
  33. ^ 1980 Award Winners” (英語). National Board of Review. 2020年7月17日閲覧。
  34. ^ CEREMONIES ARCHIVES 1981” (フランス語). Académie des César. 2020年7月17日閲覧。
  35. ^ CRONOLOGIA DEI PREMI DAVID DI DONATELLO” (イタリア語). Premi David di Donatello. 2020年7月17日閲覧。
  36. ^ ALBO D'ORO 1981” (イタリア語). nastridargento. 2020年7月17日閲覧。
  37. ^ PREMIO SAN FEDELE PER IL CINEMA” (イタリア語). San Fedele. 2020年7月17日閲覧。
  38. ^ 85回史 2012, p. 588.
  39. ^ 「オールタイム・ベスト 映画遺産200」全ランキング公開”. キネマ旬報映画データベース. 2009年12月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年7月7日閲覧。

参考文献

  • スチュアート・ガルブレイス4世『黒澤明と三船敏郎』亜紀書房、2015年10月。ISBN 9784750514581 
  • 黒澤明、浜野保樹『大系 黒澤明 第3巻』講談社、2010年2月。ISBN 9784062155779 
  • 黒澤明、浜野保樹『大系 黒澤明 第4巻』講談社、2010年4月。ISBN 9784062155786 
  • 佐藤忠男『黒澤明作品解題』岩波書店〈岩波現代文庫〉、2002年10月。ISBN 9784006020590 
  • 丹野達弥 編『村木与四郎の映画美術「聞き書き」黒澤映画のデザイン』フィルムアート社、1998年10月。ISBN 4845998858 
  • 都築政昭『黒澤明 全作品と全生涯』東京書籍、2010年3月。ISBN 9784487804344 
  • 堀川弘通『評伝 黒澤明』毎日新聞社、2000年10月。ISBN 9784620314709 
  • 『キネマ旬報ベスト・テン85回全史 1924-2011』キネマ旬報社〈キネマ旬報ムック〉、2012年5月。ISBN 9784873767550 

外部リンク