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2020年8月17日 (月) 07:28時点における版
賓州(ひんしゅう)は、中国にかつて存在した州。唐代から民国初年にかけて、現在の広西チワン族自治区南寧市北東部に設置された。
概要
631年(貞観5年)、唐により南方州の嶺方・琅邪・思干と南尹州の安城県を分割して賓州が置かれた。742年(天宝元年)、賓州は安城郡と改称された。757年(至徳2載)、安城郡は嶺方郡と改称された。758年(乾元元年)、嶺方郡は賓州の称にもどされた。賓州は嶺南道の桂管十五州に属し、嶺方・琅邪・保城の3県を管轄した[1]。
972年(開宝5年)、ひとたび賓州は廃止されて邕州に編入された。973年(開宝6年)、再び賓州が置かれた。宋の賓州は広南西路に属し、嶺方・遷江・上林の3県を管轄した[2]。
元のとき、賓州は湖広等処行中書省に属し、嶺方・上林・遷江の3県を管轄した[3]。
明のとき、賓州は柳州府に属し、遷江・上林の2県を管轄した[4]。
1725年(雍正3年)、賓州は直隷州に昇格し、広西省に属し、来賓・武宣・遷江・上林の4県を管轄した。1734年(雍正12年)、賓州は思恩府の属州に降格し、管轄県を持たなくなった[5]。
1913年、中華民国により賓州は廃止され、賓県と改められた。