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「劉氏」の版間の差分

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*[[武帝|劉徹]] - 前漢の七代皇帝。景帝の子。前漢の領域を大幅に拡大した。
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*[[宣帝|劉詢]] - 前漢の九代皇帝。武帝の曽孫。前漢中興の祖。
*[[宣帝|劉詢]] - 前漢の九代皇帝。武帝の曽孫。前漢中興の祖。
* [[劉キン (学者)|劉{{Lang|zh|}}]] - 前漢から新の学者。
* [[劉歆]] - 前漢から新の学者。
* [[光武帝|劉秀]] - 後漢の初代皇帝。
* [[光武帝|劉秀]] - 後漢の初代皇帝。
* [[劉表]] - 後漢末期の政治家。荊州を支配した。
* [[劉表]] - 後漢末期の政治家。荊州を支配した。

2020年8月11日 (火) 23:57時点における版

中国語
中国語 リュウ
繁体字
簡体字
発音記号
標準中国語
漢語拼音Liú
国語ローマ字Liu
注音符号ㄌㄧㄡˊ
呉語
上海語ローマ字Lieu1
粤語
粤拼Lau4
閩南語
閩南語白話字Lâu
朝鮮語
ハングル(韓)、류(朝)
漢字
英語Yoo, Yu, Ryu

劉氏(りゅうし)は、漢姓の一つ。中国では五大姓の一つ。「劉」の字は、「ころす」を意味する[1]

中国

劉氏(りゅうし)は、中華圏の一つ。現代中国において最も数の多い五大姓(・劉・)の一つに数えられる。歴史的には漢(前漢後漢蜀漢、漢趙(前趙)、五代後漢、十国の北漢南漢)と漢王朝以外の劉宋劉夏国姓である。2006年11月の劉姓の人口は6528万人である。

発音が近い「」などと区別するために、会話では、中華人民共和国では「文刀刘」(文に刀の劉)、台湾など繁体字を使う地域では「金刀劉」(金に刀の劉)あるいは「卯金刀劉」(卯金に刀の劉)と説明することがある。「劉邦的劉」(劉邦の劉)と説明することもある(例えば、姓名を答えるとき、「劉尹賢,劉邦的劉,伊尹的尹,聖賢的賢」のように説明する[2])。

起源

  • 祁姓中国語版劉氏。 の子孫である。堯の嫡流(堯の嫡男の丹朱、堯の長男の祁監明の子の祁式、堯の九男の祁源明の説がある)の子孫が劉邑に封じられ、以来その地名を氏としたという。
    • 祁姓劉氏からは、夏孔甲の代に龍を御する名手として劉累が現れている。龍の病死後、劉累は家族を伴って魯陽(現在の河南省魯山)に逃れた。これが河南劉姓の起源とされる(一説には、劉累の故地は河南偃師であったともいう)。
    • 劉累の子孫からは、龍使いの職業を氏とした御龍氏、周初の「興滅継絶」の時期に堯の故地の唐を氏とした唐氏成王が劉累の子孫を杜に移した杜氏、杜氏の杜伯中国語版の子の隰叔中国語版に移り、士師に任じられたことから、官職を氏とした士氏中国語版、晋の士会(范武子)が范に封じられ、封地を氏とした范氏の各氏が出た。
  • 姫姓劉氏。周王室の一門である。
    • 成王が曾祖父の季歴の子孫を劉(現在の河南省偃師)に封じたが、後に男子がなく絶えた。後に定王が弟の姫季子をに封じて、季子は康公中国語版と諡された。ただし戦国時代になると没落し、子孫は劉氏を称した。漢趙劉殷はその子孫といわれている。

なお、姫姓と祁姓はともに黄帝を祖としている。

前漢

前漢の劉氏の起こりは、の亭長の生まれである劉邦が、始皇帝死後の混乱に乗じて台頭し、勢力を拡大、宿敵の項羽を討って前漢)を建てたことに始まる。劉邦については多くの伝承があり、家系については様々な議論があった。司馬貞は「晋の士会の子孫」としているが、これに対して銭大昕は「劉太公(劉邦の父)以前は姓を考えるような身分ではなかった。どうして祖先の姓がわかるだろうか」と述べている。正史とされる史書の中では『漢書』と『新唐書』が劉邦の出自に言及している。

贊曰:《春秋》晉史蔡墨有言:陶唐氏既衰,其後有劉累,學擾龍,事孔甲,范氏其後也。而大夫范宣子亦曰:「祖自虞以上為陶唐氏,在夏為御龍氏,在商為豕韋氏,在周為唐杜氏,晉主夏盟為范氏。」范氏為晉士師,魯文公世奔秦。後歸於晉,其處者為劉氏。劉向云戰國時劉氏自秦獲於魏。秦滅魏,遷大梁,都於豐,故周巿說雍齒曰:「豐,故梁徙也。」是以頌高祖云:「漢帝本系,出自唐帝。降及于周,在秦作劉。涉魏而東,遂為豐公。」豐公,蓋太上皇父。其遷日淺,墳墓在豐鮮焉。及高祖即位,置祠祀官,則有秦、晉、梁、荊之巫,世祠天地,綴之以祀,豈不信哉!由是推之,漢承堯運,德祚已盛,斷蛇著符,旗幟上赤,協於火德,自然之應,得天統矣。(以上、『漢書』高帝紀第一より)
劉氏出自祁姓。帝堯陶唐氏子孫生子有文在手曰:「劉累」,因以為名。能擾龍,事夏為御龍氏,在商為豕韋氏,在周封為杜伯,亦稱唐杜氏。至宣王,滅其國。其子隰叔奔晉為士師,生士蔿。蔿生成伯缺,缺生士會。會適秦,歸晉,有子留於秦,自為劉氏。生明,明生遠,遠生陽,十世孫,戰國時獲於魏,遂為魏大夫。秦滅魏,徙大梁,生清,徙居沛。生仁,號豐公。生煓,字執嘉。生四子:伯、仲、邦、交。邦,漢高祖也。(以上、『新唐書』表第十一より)

以来、劉氏は漢の皇室として繁栄したが、外戚であった王莽孺子嬰より禅譲を受けると、前漢皇室としての劉氏は一旦は滅亡した。

後漢

前漢に代わって王莽が建てたは民心を掴めず崩壊し、前漢皇室の傍系出身であった劉秀が光武帝として即位し、後漢を建てた。光武帝はそれ以外の前漢の皇族を冷遇したとされる。

蜀漢

後漢の滅亡後、魏(曹魏)蜀漢呉(孫呉)の三国が覇権を争う三国時代となった。このうち蜀漢を建てた劉備は、前漢の景帝の九男である中山靖王劉勝の庶子、陸成亭侯劉貞の直系の末裔[3]と称した[4]

その他の劉氏

漢王朝の滅亡後は、南朝宋(劉宋)劉裕が劉邦の弟である楚元王劉交の子孫を称したほか、後述のようにいくつかの非漢族の王朝が漢姓として劉氏を称している。後の前趙となる漢を建てた劉淵を始めとして前漢・後漢時代に漢の皇族と通婚関係を持った匈奴単于一族(攣鞮氏)の末裔が漢室の正統な後継者を自負して劉氏を名乗った。さらに下って五代後漢を建てた突厥沙陀部劉知遠明帝の子孫を名乗り、契丹)の耶律氏も漢姓として劉氏を称した。アラブ系という説もある十国南漢劉龑も漢王室の支族である彭城劉氏中国語版の子孫を自称している。

また、4世紀から6世紀にかけて日本列島に多く渡来した中国系の渡来人の多くが、劉邦または漢室の子孫を称している。特に東漢氏西漢氏が有名である。東漢氏の子孫に坂上田村麻呂がいる。

著名な人物

歴史上の人物
  • 劉邦 - 前漢の初代皇帝。農民の出身だが、挙兵し、項羽を破り、漢王朝を開いた。
  • 劉安 - 前漢の皇族。淮南子を著した。
  • 劉恒 - 前漢の五代皇帝。劉邦の四男。徳政を行った。
  • 劉啓 - 前漢の六代皇帝。文帝の子。文帝に引き続き徳政を行った。
  • 劉徹 - 前漢の七代皇帝。景帝の子。前漢の領域を大幅に拡大した。
  • 劉詢 - 前漢の九代皇帝。武帝の曽孫。前漢中興の祖。
  • 劉歆 - 前漢から新の学者。
  • 劉秀 - 後漢の初代皇帝。
  • 劉表 - 後漢末期の政治家。荊州を支配した。
  • 劉璋 - 後漢末期の政治家。益州を支配していたが、劉備に攻められて降伏する。
  • 劉楨 - 後漢の文学者。
  • 劉備 - 蜀漢の初代皇帝。
  • 劉禅 - 蜀漢の二代皇帝。劉備の子。
  • 劉淵 - 前趙の初代皇帝。
  • 劉裕 - 南朝宋の初代皇帝。
  • 劉義慶 - 南朝宋の皇族。『世説新語』の撰者。
  • 劉勰 - 南朝宋から梁にかけての文人。『文心雕龍』の著者。
  • 劉知幾 - 唐の歴史家。
  • 劉知遠 - 五代後漢の初代皇帝。
  • 劉崇 - 北漢の初代皇帝。
  • 劉龑 - 南漢の初代皇帝。
  • 劉因 - 元の学者、詩人。
  • 劉献廷 - 清の儒学者。
  • 劉智 - 清のイスラム学者。
  • 劉鶚 - 清末の小説家、考古学者。
  • 劉錦藻 - 清末民初の政治家・実業家・歴史家。
現代の人物
架空の人物
  • 劉広 - 『蕩寇志』の登場人物。
  • 劉麒 - 『蕩寇志』の登場人物、劉広の子。
  • 劉麟中国語版 - 『蕩寇志』の登場人物、劉広の子、劉麒の弟。
  • 劉慧娘 - 『蕩寇志』の登場人物、劉広の娘、劉麟の妹。

朝鮮

(ユ、リュ、韓国語: , ラテン文字転写: Yu朝鮮語: , Ryu)は、朝鮮人の姓の一つである。本貫は70個前後。2000年の大韓民国の国勢調査による人口は中国語版と合わせて437,900人。

著名な人物

氏族

江陵劉氏が最大である。

氏族(本貫) 始祖 割合 (%) (2000年)
江陵劉氏 劉承備
忠州劉氏
居昌劉氏 劉筌
金城劉氏
白川劉氏
延安劉氏
全州劉氏
慶州劉氏
江原劉氏
江華劉氏
開城劉氏
古阜劉氏
公州劉氏
光州劉氏
南原劉氏
撫州劉氏
水原劉氏
順興劉氏
安東劉氏
延白劉氏
延安劉氏
連川劉氏
寧越劉氏
沃川劉氏
原州劉氏
晋州劉氏
昌寧劉氏
天安劉氏
清州劉氏
坡平劉氏
豊山劉氏
海州劉氏

脚注

  1. ^ ”. 漢字ペディア. 公益財団法人日本漢字能力検定協会. 2020年7月4日閲覧。
  2. ^ 第49屆短片劇本銀像獎作品—義務(作者:宮良銘)”. 政戰資訊服務網. 國防部政治作戰局 (2019年4月8日). 2020年7月4日閲覧。
  3. ^ 山田勝芳は宗室の資格を失った劉氏の末裔は属尽と称されて後漢後期に徭役の免除などの特権を受けていた事実を指摘し、劉備も劉貞の子孫として属尽の待遇を受けていた可能性を示している(山田勝芳『秦漢財政収入の研究』汲古書院、1993年、626-634頁。ISBN 4-7629-2500-4 )。
  4. ^ 典略』では、斉武王の孫の臨邑侯劉復の末裔とする。

関連項目