劉知遠
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高祖 劉知遠 | |
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後漢 | |
初代皇帝 | |
王朝 | 後漢 |
在位期間 |
天福12年2月15日 - 乾祐元年1月27日 (947年3月10日 - 948年3月10日) |
都城 | 開封 |
姓・諱 | 劉知遠→劉暠 |
諡号 | 睿文聖武昭粛孝皇帝 |
廟号 | 高祖 |
生年 |
乾寧2年2月4日 (895年3月4日) |
没年 |
乾祐元年1月27日 (948年3月10日) |
父 | 劉琠 |
后妃 | 李皇后 |
陵墓 | 睿陵 |
年号 |
天福 : 947年 乾祐 : 948年 |
劉 知遠(りゅう ちえん)は、五代後漢の初代皇帝。廟号は高祖。太原の人。後唐・後晋で実力者として頭角を現し、後晋崩壊後に皇帝に即位して「後漢」を建国するも、在位1年で崩御した。
生涯
[編集]テュルク系突厥沙陀部出身。父の劉琠は、晋(後の後唐)の李克用の列校をつとめた。
劉知遠は、はじめ後唐の明宗に仕え、その後は後晋の高祖石敬瑭に仕えた。
後晋の建国では、劉知遠は大功を挙げたため、天福9年(944年)に「幽州道行営招討使」に任じられるなど軍の要職を歴任した。
石敬瑭が契丹に燕雲十六州を割譲しようとしたときは、劉知遠は強く反対したが、容れられなかった。
出帝のとき、後晋は契丹(遼)による侵攻を受けたが、劉知遠は軍を出さなかった。
そして出帝が契丹に捕らえられて後晋が滅亡すると、劉知遠は「河東行軍司馬」の張彦威に無主となった中原で皇帝の即位を薦められたが、この時は拒絶していた。
しかし天福12年(947年)2月、劉知遠は自ら皇帝に即位して国号を「漢」とする。(後漢の成立)
その後、天福12年(947年)6月、劉知遠は開封に入城する。
翌乾祐元年(948年)正月に乾祐と改元し、劉知遠は名を暠と改めたが、同月に崩御した。享年54。
宗室
[編集]后妃
[編集]- 李皇后
弟
[編集]子女
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