コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「漢州」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
2行目: 2行目:


== 概要 ==
== 概要 ==
[[686年]]([[垂拱]]2年)、[[唐]]により[[益州]]を分割して漢州が置かれた。[[742年]]([[天宝 (唐)|天宝]]元年)、漢州は'''徳陽郡'''と改称された。[[758年]]([[乾元 (唐)|乾元]]元年)、徳陽郡は漢州と改称された。漢州は[[剣南道]]に属し、[[広漢市|雒]]・[[徳陽市|徳陽]]・[[什ホウ市|什邡]]・[[綿竹市|綿竹]]・[[金堂県|金堂]]の5県を管轄した<ref>『[[旧唐書]]』地理志四</ref>。
[[686年]]([[垂拱]]2年)、[[唐]]により[[益州]]を分割して漢州が置かれた。[[742年]]([[天宝 (唐)|天宝]]元年)、漢州は'''徳陽郡'''と改称された。[[758年]]([[乾元 (唐)|乾元]]元年)、徳陽郡は漢州と改称された。漢州は[[剣南道]]に属し、[[広漢市|雒]]・[[徳陽市|徳陽]]・[[什市|什邡]]・[[綿竹市|綿竹]]・[[金堂県|金堂]]の5県を管轄した<ref>『[[旧唐書]]』地理志四</ref>。


[[宋 (王朝)|宋]]のとき、漢州は[[成都府路]]に属し、雒・什邡・綿竹・の4県を管轄した<ref>『[[宋史]]』地理志五</ref>。[[南宋]]の[[端平]]年間、漢州は廃止された。
[[宋 (王朝)|宋]]のとき、漢州は[[成都府路]]に属し、雒・什邡・綿竹・の4県を管轄した<ref>『[[宋史]]』地理志五</ref>。[[南宋]]の[[端平]]年間、漢州は廃止された。

2020年8月3日 (月) 11:52時点における版

漢州(かんしゅう)は、中国にかつて存在した唐代から民国初年にかけて、現在の四川省徳陽市一帯に設置された。

概要

686年垂拱2年)、により益州を分割して漢州が置かれた。742年天宝元年)、漢州は徳陽郡と改称された。758年乾元元年)、徳陽郡は漢州と改称された。漢州は剣南道に属し、徳陽什邡綿竹金堂の5県を管轄した[1]

のとき、漢州は成都府路に属し、雒・什邡・綿竹・の4県を管轄した[2]南宋端平年間、漢州は廃止された。

1260年中統元年)、モンゴル帝国により再び漢州が立てられた。漢州は成都路に属し、什邡・徳陽・綿竹の3県を管轄した[3]

のとき、漢州は成都府に属し、什邡・綿竹・徳陽の3県を管轄した[4]

のとき、漢州は成都府に属し、什邡県を管轄した[5]

1912年中華民国により漢州は廃止され、広漢県と改められた。

脚注

  1. ^ 旧唐書』地理志四
  2. ^ 宋史』地理志五
  3. ^ 元史』地理志三
  4. ^ 明史』地理志四
  5. ^ 清史稿』地理志十六