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「黒沢石斎」の版間の差分

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寛永18年(1641年)[[松江藩]]主[[松平直政]]が羅山に世嗣[[松平綱隆]]世話役の斡旋を求めたところ、弘忠が推薦され、3月16日江戸の松江藩邸に出仕し、初代儒官となった{{sfn|谷口|1940|pp=3-4}}。寛永20年(1643年)[[徳川家綱]]生誕を祝うため第5次[[朝鮮通信使]]が江戸に来訪した際、製術官[[朴安期]]と交流した{{sfn|佐野|1980|pp=12-13}}。[[正保]]元年(1644年)6月2日綱隆部屋諸士番の支配を命じられた{{sfn|佐野|1981|p=9}}。[[慶安]]元年(1648年)定幸の命で母を江戸に迎えるため伊勢に赴いた{{sfn|矢﨑|2012|p=7}}。
寛永18年(1641年)[[松江藩]]主[[松平直政]]が羅山に世嗣[[松平綱隆]]世話役の斡旋を求めたところ、弘忠が推薦され、3月16日江戸の松江藩邸に出仕し、初代儒官となった{{sfn|谷口|1940|pp=3-4}}。寛永20年(1643年)[[徳川家綱]]生誕を祝うため第5次[[朝鮮通信使]]が江戸に来訪した際、製術官[[朴安期]]と交流した{{sfn|佐野|1980|pp=12-13}}。[[正保]]元年(1644年)6月2日綱隆部屋諸士番の支配を命じられた{{sfn|佐野|1981|p=9}}。[[慶安]]元年(1648年)定幸の命で母を江戸に迎えるため伊勢に赴いた{{sfn|矢﨑|2012|p=7}}。


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寛文3年(1663年)7月27日京都[[一乗寺]]で羅山の高弟[[石川丈山]]と初対面し、[[性理学]]・唐宋詩を論じた{{sfn|谷口|1940|p=7}}。寛文6年(1666年)松平直政が江戸藩邸で死去すると、綱隆により江戸へ派遣された{{sfn|谷口|1940|p=9}}。寛文7年(1667年)7月1日[[小姓|扈従]]番改役となり、書方・手習もそのまま務め、9月11日直政・綱隆年譜、11月1日藩士由緒書の編纂を命じられた{{sfn|佐野|1981|p=9}}。寛文12年(1672年)9月15日御歌書用旧集御用を命じられた{{sfn|佐野|1981|p=9}}。
寛文3年(1663年)7月27日京都[[一乗寺]]で羅山の高弟[[石川丈山]]と初対面し、[[性理学]]・唐宋詩を論じた{{sfn|谷口|1940|p=7}}。寛文6年(1666年)松平直政が江戸藩邸で死去すると、綱隆により江戸へ派遣された{{sfn|谷口|1940|p=9}}。寛文7年(1667年)7月1日[[小姓|扈従]]番改役となり、書方・手習もそのまま務め、9月11日直政・綱隆年譜、11月1日藩士由緒書の編纂を命じられた{{sfn|佐野|1981|p=9}}。寛文12年(1672年)9月15日御歌書用旧集御用を命じられた{{sfn|佐野|1981|p=9}}。

2020年8月2日 (日) 22:13時点における版

 
黒沢 石斎
「黒沢石斎肖像画」 寛文元年(1661年)8月1日自賛。黒澤家所有、松江市寄託。兜の前立に巻物を描いており、武道の代わりに学問で仕える決意を表す[1]
時代 江戸時代前期
生誕 慶長17年7月20日1612年8月16日
死没 延宝6年1月16日1678年3月8日
改名 与村次郎、久五郎、弘忠、華居士、黒沢伊勢次郎、三左衛門(三右衛門)、石斎
別名 弘忠(名)、有隣(字)、玉峰・節香堂(号)[2]
戒名 石斎弘忠居士
墓所 松江市国屋町天倫寺
主君 桧垣常晨黒沢定幸松平直政松平綱隆
松江藩
氏族 北畠氏庶流与村氏、奥州安倍氏小松黒沢氏[3]
父母 与村弘宣(実父)、黒沢重久(養父)
兄弟 与村弘正(実兄)、黒沢定幸(養兄)、黒沢石斎
黒沢長顕長尚
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黒沢 石斎(くろさわ せきさい)は、江戸時代前期の儒学者伊勢国出身。外宮長官桧垣常晨に仕えた後、江戸に出て旗本黒沢定幸に仕え、林羅山儒家神道を学び、松江藩初代儒官となった。主著は『懐橘談』『本朝列女伝』。神儒一致思想に基づき神仏分離を説き、出雲大社寛文度造営に影響を与えた。

生涯

伊勢

慶長17年(1612年)7月20日寅の刻[3]伊勢国度会郡山田西河原御所ノ世古に与村弘宣の次男として生まれた[4]。幼名は次郎[5]。5歳で父と死別し、7歳で蘇軾や「孝行詩」「八景詩歌」「長恨歌」「琵琶行中国語版」「野馬台詩」「勧学詩中国語版」等を暗誦した[3]。8歳で俳諧を吟じ、9歳で意松軒玄昌に書法、『大学』『中庸』等を学んだ[3]。10歳で久五郎と称し、『貞永式目』『庭訓往来』『倭歌朗詠集』等を学んだ[3]元和9年(1623年)12歳で元服し[5]、弘忠と名乗った[3]寛永3年(1626年)1月度会貞晨の紹介で光倫寺の清玄に入門し、『孟子』を学んだ[6]。寛永4年(1627年)叔父の外宮長官桧垣常晨に出仕した[7]

江戸

家が貧しく、いつも繧繝縞の服を着ていたことから、周囲に「繧繝縞」と囃されていたことを苦にし、寛永6年(1629年)3月24日朝熊岳に行くと偽って家出し、桧垣常晨家臣猪野久大夫の弟等室を頼って江戸に出て、江戸幕府馬預黒沢定幸に出仕した[8]。寛永7年(1630年)7月から9月まで定幸の実父諏訪部定吉陸奥国出羽国へ、寛永10年(1633年)定幸と陸奥国へ、寛永11年(1634年)5月京都へ旅行し、9月帰宅後、自身を華居士、居宅を孝盤窩と号した[7]。寛永15年(1638年)1月島原・天草一揆見物のため九州へ向かったが、道中で終戦したため、故郷に立ち寄り、4月帰宅した[9]。8月定幸の知行地武蔵国小林村に赴き、領民の争論を仲裁した[9]

寛永15年(1638年)10月定幸の紹介で林羅山に入門し、黒沢伊勢次郎と名乗り、聖経を学んだ[10]。寛永16年(1639年)9月陸奥国外ヶ浜へ旅行し、寛永17年(1640年)1月2日帰宅した[9]。寛永18年(1641年)2月7日幕府で太田資宗を奉行、羅山を実務総裁として『寛永諸家系図伝』の編纂が開始されると[11]、羅山の子林春恕と共に清和源氏部を担当した[12]

林門下での弘忠の重用ぶりについて、幕府国史館の書生等が「もし現代に遣唐使が派遣されれば、正使は徳川光圀で、副使は加藤倉部か黒沢弘忠だろう」と評したことを子の於兎丸に伝えられると、「あと20歳ばかり若ければ大使に随行できたかもしれないが、副使とは恐れ多いことだ。」と語ったという[12]

松江藩

寛永18年(1641年)松江藩松平直政が羅山に世嗣松平綱隆世話役の斡旋を求めたところ、弘忠が推薦され、3月16日江戸の松江藩邸に出仕し、初代儒官となった[13]。寛永20年(1643年)徳川家綱生誕を祝うため第5次朝鮮通信使が江戸に来訪した際、製術官朴安期と交流した[14]正保元年(1644年)6月2日綱隆部屋諸士番の支配を命じられた[15]慶安元年(1648年)定幸の命で母を江戸に迎えるため伊勢に赴いた[16]

承応2年(1653年)6月頃綱隆に従い出雲に赴任し[17]、黒沢三左衛門(三右衛門[18])と称した[19]万治元年(1658年)9月隠元隆琦後水尾上皇に拝謁した際、中根正成に代わって賜答の書牘を執筆した[20]寛文元年(1661年)出雲大社の寛文度造営が布告されると、松平直政に神仏分離を働きかけ、寛文2年(1662年)仏閣撤廃の方針が打ち出された[21]

寛文3年(1663年)7月27日京都一乗寺で羅山の高弟石川丈山と初対面し、性理学・唐宋詩を論じた[20]。寛文6年(1666年)松平直政が江戸藩邸で死去すると、綱隆により江戸へ派遣された[18]。寛文7年(1667年)7月1日扈従番改役となり、書方・手習もそのまま務め、9月11日直政・綱隆年譜、11月1日藩士由緒書の編纂を命じられた[15]。寛文12年(1672年)9月15日御歌書用旧集御用を命じられた[15]

延宝2年(1674年)9月1日御番改役から大名分(家老[1])に転じ、近習詰・書方もそのまま務めた[22]。延宝3年(1675年)4月島根郡菅田村に別荘を賜って巻石山と号した[18]。延宝4年(1676年)7月28日隠居し、巻石山に因み石斎の号を賜った[23]。延宝6年(1678年)1月16日出雲で病没し[24]、天倫寺山頂に葬られた[23]。諡号は石斎弘忠居士[18]

禄高

最終的な禄高は1,000石を数えたが、当時全国の藩儒で1,000石を給されたのは福井藩伊藤坦庵との2人のみだった[26]

著書

  • 「玉瓦詩嚢」 - 寛永9年(1632年)執筆[7]
  • 「石竹叢」 - 寛永12年(1635年)江戸で完成[7]
  • 「寛永日録」 - 寛永13年(1636年)起筆。明暦3年(1657年)明暦の大火で焼失[7]
  • 「歌括蜜蔵馬経」 - 寛永14年(1637年)9月完成[7]
  • 「人馬無労集」 - 寛永15年(1638年)1月完成[7]
  • 「正字馬経」 - 寛永15年(1638年)1月完成[7]
  • 「金屑集」 - 寛永16年(1639年)完成[9]
  • 「知非稿」 - 寛永17年(1640年)完成[9]。明暦の大火で焼失[7]
  • 「乾坤墨談」 - 寛永17年(1640年)完成[9]
  • 「神器伝授図説」 - 寛永18年(1641年)著[7]
  • 寛永諸家系図伝清和源氏部 – 寛永18年(1641年)編纂開始[7]
  • 「就道正語」 - 寛永19年(1642年)著[7]
  • 「補註相驥鑑」 - 崇禎16年(1643年)7月朝鮮通信使製述官朴安期序。黒沢定幸『相驥鑑』の補註[27]
  • 「河豚居士伝」 - 慶安元年(1648年)著[7]
  • 「友故録」 - 慶安元年(1648年)著[7]
  • 「茶事記」 - 慶安4年(1651年)著[7]
  • 「毉談」 - 慶安4年(1651年)著[7]
  • 「懐橘譚(懐橘談)」 - 承応2年(1653年)起筆[28]。出雲赴任の際、母への土産話として著したもの。題名は「呉志陸績伝により、陸績九江袁術に拝謁した時、出された橘を母への土産として懐に入れたところ、大いに賞賛された故事に因む[29]。林羅山「丙辰紀行」「癸未紀行」に倣った山陰道の紀行と、『出雲国風土記』の記述を検証した地誌部分から成る[30]
  • 「全像本朝古今列女伝(本朝列女伝)」 - 明暦元年(1655年)8月自序[31]、寛文8年(1668年)春刊[32]。承応3年(1654年)刊劉向列女伝』に影響を受けて著した[33]
  • 「王師纂経」 - 万治3年(1660年)著[7]
  • 「正路指南」 - 万治3年(1660年)起筆[7]。「正路」は「孟子」の語[34]
  • 「孟子諺解」 - 万治3年(1660年)起筆[7]
  • 「和歌権輿集」 - 寛文2年(1662年)著[7]
  • 「詞林翹楚」 - 寛文5年(1665年)直政の命で撰[7]
  • 「雲国侯直政君年譜(雲国侯年譜)」 - 寛文7年(1667年)綱隆の命で編纂[35]
  • 「諸士録(列士録)」 - 寛文7年(1667年)綱隆の命で編纂開始[7]
  • 「仁和楽図」 - 寛文10年(1670年)著[7]
  • 「彝倫和歌集」 - 寛文10年(1670年)著[7]
  • 「本朝事物権輿」 - 延宝4年(1676年)著[7]
  • 「石斎文藻」巻第五 - 文政6年(1823年)11月18日栗原一貫編『粗医進歩抄』(松江赤十字病院所蔵)所収[36]

思想

孟子に私淑し、朱子学大義名分論を重視した[34]

林羅山の神儒一致思想を継承し、日本では天種子命による祭祀を孝悌の起源、天照大神による統治を女徳中国語版の象徴と位置づけた[37]。『周易序卦伝「万物有りて、然して後に男女有り。男女有りて、然して後に夫婦有り。夫婦有りて、然して後に父子有り。父子有りて、然して後に君臣有り。君臣有りて、然して後に上下有り。上下有りて、然して後に礼義有り、錯く所有り。」に基づき、伊弉諾尊伊弉冊尊は日本の太昊伏羲に当たる存在であり、この2柱が夫婦の道を確立したことが五倫の基礎となり、日本を中国に劣らない国にしたと論じた[38]

『本朝列女伝』では、倭姫命神功皇后等の女徳について儒教のいう三従四徳中国語版でなく政治能力によって評価する一方[39]、全体としては貞婦・節女の顕彰に重点があり、夫の死後も尼僧になるなどして貞操を守った女性を好んで称賛している[40]

羅山は仏教伝来以前の神道を理当心地神道と呼び、の祭祀社会に擬えて理想化したが、古代出雲はその意味で理当心地神道の理想郷であり、儒家流徳治主義の浸透した淳風美俗の地とみなした[41]林家では菅原道真を儒教の聖人として祀る天神信仰が行われたが、出雲国造家が菅原氏と同じく天穂日命を祖に持つことも出雲を神儒一致の象徴の地とみなす根拠となった[42]

『懐橘談』には羅山から受け継いだ仏教批判が貫かれ、「無後」(跡継ぎがないこと)を最大の不孝とする『孟子』の考えに基づき僧侶が子孫を残さないことを批判し、三善清行意見封事十二箇条」の国分寺事業を経済的負担として批判した箇所に同調するほか、手間天神社の医神少彦名神を差し置いて薬師如来を崇拝するのは「家鶏を軽んじ野鶏を愛する」に等しいと非難し、出雲大社日御碕神社等の社殿・祭祀が仏教化していることを嘆いている[21]。また、儒教的合理主義に基づきヤマトタケル宮簀媛の婚姻譚や熱田明神楊貴妃化身説を非合理的と断じ[43]佐陀大社縁起に語られる「仏菩薩の化現毛胡利」の説話を「妄言卑俚の説」と非難した[21]

『懐橘談』は友人の出雲国造北島家上官佐草自清のほか、出雲大社の神官に広く受容され[21]松平直政の「杵築諸法度」による神仏分離・古代回帰路線に理念的根拠を与えた[44]

晩年には「曲して富貴となるのは、私は好まない。直して貧しく賎しくなるのも、また願わない。直せず曲せず、ただ曲直の間を行くのみである。」との境地に達し、隠宅に「曲直」の扁額を掲げた[45]

親族

屋敷は当初塩見縄手にあったが、江戸中期に内中原町に移った[49]。子孫は松江市に現存し[50]、石斎所用の采配等が伝わる[51]

脚注

  1. ^ a b 松江歴史館 2012, p. 19.
  2. ^ 谷口 1940, p. 1.
  3. ^ a b c d e f g 西島 2013, p. 46.
  4. ^ 西島 2013, p. 40.
  5. ^ a b c d e f 西島 2013, p. 39.
  6. ^ 西島 2013, pp. 46–47.
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y 西島 2013, p. 47.
  8. ^ 西島 2013, pp. 39–41.
  9. ^ a b c d e f 西島 2013, p. 48.
  10. ^ 西島 2013, pp. 41, 48.
  11. ^ 佐野 1980, p. 10.
  12. ^ a b 谷口 1940, p. 3.
  13. ^ 谷口 1940, pp. 3–4.
  14. ^ 佐野 1980, pp. 12–13.
  15. ^ a b c d 佐野 1981, p. 9.
  16. ^ 矢﨑 2012, p. 7.
  17. ^ 谷口 1940, p. 5.
  18. ^ a b c d 谷口 1940, p. 9.
  19. ^ a b 西島 2013, p. 42.
  20. ^ a b 谷口 1940, p. 7.
  21. ^ a b c d 朝山 1934.
  22. ^ 佐野 1981.
  23. ^ a b 佐野 1981, p. 21.
  24. ^ a b 佐野 1981, p. 10.
  25. ^ a b c d e f 佐野 1981, p. 15.
  26. ^ 斎藤 1944, p. 217.
  27. ^ 佐野 1981, pp. 11–13.
  28. ^ 矢﨑 2012, p. 10.
  29. ^ 谷口 1940, p. 4.
  30. ^ 矢﨑 2012, pp. 10–14.
  31. ^ 増田 1998, p. 2.
  32. ^ 増田 1998, p. 1.
  33. ^ 増田 1998, p. 6.
  34. ^ a b 谷口 1940, p. 11.
  35. ^ 松江歴史館 2012, p. 22.
  36. ^ 佐野 1981, pp. 18–19.
  37. ^ 矢﨑 2012, p. 8.
  38. ^ 矢﨑 2012, pp. 8–9.
  39. ^ 矢﨑 2012, p. 9.
  40. ^ 増田 1998, pp. 4–5.
  41. ^ 矢﨑 2012, pp. 16–17.
  42. ^ 矢﨑 2012, pp. 17–18.
  43. ^ 矢﨑 2012, p. 12.
  44. ^ 矢﨑 2012, p. 18.
  45. ^ 松江歴史館 2012, p. 24.
  46. ^ 大西 1914, p. 479.
  47. ^ 大西 1914, p. 476.
  48. ^ 大西 1914.
  49. ^ 松江歴史館 2012, p. 25.
  50. ^ 西島 2013, p. 38.
  51. ^ 松江歴史館 2012, p. 21.

参考文献

  • 度会清在「囲炉間談」『大神宮叢書』 前篇、西濃印刷岐阜支店、1940年9月。NDLJP:1239835/245 
  • 大西源一「与村弘正の墓及其の事跡一班」『三重県史談会々誌』第4巻第12号、三重県史談会、1914年。 
  • 朝山皓「出雲大社の神仏分離と黒沢弘忠」『神道』第99-101号、宣揚社、1934年。 
  • 谷口廻瀾『島根儒林伝』谷口廻瀾先生還暦記念刊行会、1940年。 
  • 斎藤悳太郎『二十六大藩の藩学と士風』全国書房、1944年4月。NDLJP:1461353/118 
  • 佐野正巳『松江藩学芸史の研究』 漢学篇、明治書院、1981年2月。 
  • 増田淑美「解題」『本朝列女伝』大空社〈江戸時代女性文庫85-86〉、1998年6月。 
  • 矢﨑浩之「林家学と出雲大社 ――「懐橘談」の一考察――」『神道宗教』第226-227号、神道宗教学会、2012年7月。 
  • 松江歴史館『松江藩士の江戸時代 雨森・黒澤両家の伝来史料から』松江歴史館、2012年12月。 
  • 西島太郎「松江藩儒黒澤石斎の研究(一)」『松江歴史館研究紀要』第3号、松江歴史館、2013年3月。 

著書リンク