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三国志 (歴史書)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
呉志から転送)

三国志』(さんごくし)は、中国三国時代について書かれた歴史書。著者は陳寿後漢の混乱期から西晋による中国統一までを扱う。二十四史の一つ。

成立過程・版本

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成立時期は西晋による中国統一後の280年以降とされる[1]

現在通行している版本はおおむね4種ある。

  • 百衲本(宋本) - 紹興年間(1131年-1162年)の刻本が現存する最古の底本である。ただし武帝紀などの三巻に欠落があるため、紹熙年間の刻本で補い、張元済が民国25年(1936年)に編した。
  • 武英殿本(殿本) - 代の北監本を底本に陳浩中国語版らが乾隆41年(1776年)に編した。清朝の政府部局である武英殿書局による欽定本。
  • 金陵活字本(馮本) - 明代の南監馮夢禎中国語版本を底本に曽国藩が設立した金陵書局が同治9年(1870年)に編した。
  • 江南書局本(毛本) - 毛氏汲古閣本を底本に曽国藩が設立した江南書局が光緒13年(1887年)に編した。

ただ、中国国内でも三国志の善本は少なく、張元済が調べたところでは流布本は著しく誤りが多かったり、魏書だけで呉書・蜀書を欠いているものが多かった。[2]そもそも三国志の版本そのものが数が少なく、三国志演義の著者羅貫中や三国時代の講談を語っていた講釈師たちも資治通鑑のダイジェスト版はよく見ているが、正史三国志六十五巻全てを揃えた版本はどこまで見ていたか疑わしいとされる。[3]

また、20世紀に発見された写本としては以下のものがある。

  • 虞翻陸績張温伝残巻 - 1920年代にトルファン市出土との伝。影印は早くから流通しており、中華書局版『三国志』(1959年)の巻頭にも書影があるが、原写本は所在不明[4]
  • 虞翻伝残巻 - 20世紀初に敦煌某寺で出土との伝。10行、100余字が残る。台東区立書道博物館所蔵。重要文化財
  • 歩騭伝残巻 - 20世紀初に莫高窟で発見された敦煌文献の一つ。25行、440余字が残る。
  • 韋曜華覈伝残巻 - 1909年にトルファン市火焔山トユクの土中から出土。24行、590余字が残る。台東区立書道博物館所蔵。重要文化財。
  • 呉主伝残巻 - 1965年にトルファン市の仏塔から発見された。40行、570字が残る[5]
  • 臧洪伝残巻 - 1965年にトルファン市の仏塔から発見された。21行、370余字が残る。

構成

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紀伝体の歴史書であり、「魏志(魏書)」30巻(「本紀」4巻、「列伝」26巻)、「蜀志(蜀書)」15巻、「呉志(呉書)」20巻の計65巻から成る。この他、陳寿の自序(序文)が付されていたといわれるが、現存しない。また、表(年表)や(天文・礼楽などの記録)は存在しない。[6]

それぞれ『魏国志』『蜀国志』『呉国志』として、独立した書物としても扱われていたという[7]。『魏国志』『蜀国志』『呉国志』の書かれた前後関係は不明である。三国の記述を独立させ、合わせて『三国志』としたところに本書の特徴がある。また、単に『国志』とも呼ばれていた[8]

のみに本紀が設けられているので、三国のうち魏を正統としているものと判断されている。他の魏を正統とした類書では、『魏書』など魏単独の表題とし、蜀(蜀漢)は独立した扱いを受けていない。また、西晋東晋十六国時代を扱った『晋書』でも、北の諸国家(十六国)はほとんど「載記」(地方の覇者の伝記)として扱われ、やはり独立した扱いを受けていない。南北朝時代北魏を正統とした『魏書』(魏国志とは別)では、南朝宋などの皇帝の伝記が、やはり「島夷」として列伝に入れられ、独立した扱いを受けていない[注 1]。こうしたことから、魏・蜀・呉をそれぞれ独立した扱いをしている本書は、魏を純粋な正統と意図した歴史書であるとは言い切れない[注 2]。その一方で、漢の正統としての蜀にも大いに配慮をしていることは、多くの日本・中国の研究者が従来から指摘している。「蜀志」の末尾には本伝の補足として楊戯の『季漢輔臣賛』を全文収載している。これについて、銭大昕『三国志弁疑序』では「楊戯伝に『季漢輔臣賛』を載せて数百言も費やしたのは、魏・呉よりも蜀を尊んだものである。季漢(末っ子の漢)という言葉を残したのは、蜀が漢王朝を継承していることを明らかにしたものだ」として、蜀の遺臣である陳寿の故国顕彰の表れであるとしている。呉末期の記述については、旧呉関係者に取材したり[9]、あるいは人物評で旧呉の薛瑩胡沖の言葉を載せている箇所がある[10]

また、『三国志』には、魏に朝貢した異民族の記事は存在するものの、蜀や呉に朝貢していたと思われる異民族については、伝が立てられていないという指摘がある[注 3]。これらは、『三国志』が当時のことを遺漏なく記した史書であるかどうかの疑問を提示するものでもある。当初から魏を正統として編纂したとみる日本の研究者の中には、蜀・呉はあくまでも地方政権としての扱いなので書けなかったとする意見もあるが[注 4]、編纂意図として魏を正統としていたかは前述のように定かでない。

日本に関する記事としては、「魏志」烏丸鮮卑東夷伝に邪馬台国についての記述がある。日本では、この部分(魏書東夷伝倭人条)を「魏志倭人伝」と通称している。

裴松之の注

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陳寿は『三国志』を記述するにあたって信憑性の薄い史料を排除したために、『三国志』は非常に簡潔な内容になっていた[注 5]。そこで、南朝宋文帝裴松之に注を作ることを命じ、裴松之は作成した注を、元嘉6年(429年)に上表とともに提出した。注の量はかなり多く、古くは、陳寿の本文に数倍すると見られていた。[11]しかし、近年の研究で陳寿の本文とほぼ同じ字数であることが判明した。[12]

裴松之の注の特徴は、訓詁の注といわれる言葉の意味や読み、典故などを説明するものは少なく、陳寿の触れなかった異説や詳細な事実関係を収録した点である。陳寿の『三国志』編纂後の出来事も補われている[注 6]。すでに失われた書物からの引用も多く、貴重な史料である。また、話としては面白いが信憑性に欠ける逸話も数多く収録されており、説話の題材にも取り入れられていった。これらの逸話の多くは敵対する呉の匿名の人物が曹操の悪口を書いたものが多く、曹操が董卓暗殺に失敗して逃げ帰る途中で口封じに世話になった友人を殺す話や、曹操の部下が献帝の皇后を殺す話、漢朝の官吏を騙して皆殺しにする話の元ネタはほとんどが呉の匿名の人物が書いた『曹瞞伝』などの野史であり、その多くが信憑性に乏しい。[13]このことから裴松之の注の史料価値はかなり低く見られており、後世の学者から「三国志において陳寿が書かず、裴松之の注にのみ残るものは全てカスである。陳寿の本文をよく読まず、裴松之の注釈を鵜呑みにして軽がろしい議論をするのは最も良くないことだ」(元の馬端臨『文献通考』)[14]とか「陳寿は大義に依って異端を削った」(隋の王通『文中子』)と言われている。

裴松之の注釈のうち最も著名なものの一つは、倭人に関するものであり、「魏略曰其俗不知正歳四節但計春耕秋収為年紀(魏略に曰く、その俗は正歳四節を知らず、但だ春耕秋収を計算して、年紀と為す。)」である。訳例は「倭人は暦を知らず、春に耕し、秋に収穫することで、年を計算していた。」である。「倭人は、暦を知らず、春に耕すことで1年、秋に収穫することで1年、あわせて1年と計算していた。」という春秋倍歴説の根拠とされる。

後世の評価

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『三国志』については、司馬遷の『史記』・班固の『漢書』・范曄の『後漢書』と並び、二十四史の中でも優れた歴史書であるとの評価が高い。元の馬端臨の『文献通考』には、宋の葉適の発言として「三国志の文章は上手いところは史記に迫る出来栄えで、漢書に匹敵するが、文章に飾り気がなさすぎるので最終的には漢書のほうが優れている」という評価があったと伝えている。[15]同時代に、王沈韋昭らにより、『魏書』・『呉書』などの史書が書かれているが、いずれも散逸して『三国志』のみが残ったという事実が、『三国志』に対する評価を表しているともいえる[注 7]。また、夏侯湛は『三国志』を見て、自らが執筆中だった『魏書』を破り捨ててしまったという話が残っている。

しかし、後世において王朝の正統論問題や、陳寿の人物に対する批評内容、三国志演義によって定着した人物や事件のイメージとの相違などの要因により、同書は様々な批判に晒されることとなった。特に、私怨によって筆を曲げた疑惑については、早くから指摘されている。陳寿が丁儀丁廙中国語版の子に穀物を求め、断られたため丁儀・丁廙の伝を立てなかった、陳寿の父が諸葛亮に処罰されたため諸葛亮の悪口を書いた、などの逸話が『晋書』に記載されている。

だが、『晋書』の正確性については批判が多く、これらの疑惑に対しては『郡斎読書志』も「未必然也(必ずしも事実とは言い切れない)」と記述するなど、懐疑的な見方も多い[注 8]王鳴盛の『十七史商榷』では「丁儀・丁廙の2人はしょせん(曹植に取り入っただけの)巧佞の臣であって、どうして伝を立てることなどできようか」[注 9]「陳寿は晋に入って『諸葛亮集』を編纂し上表しており、諸葛亮伝に目録と上表文を掲載している。史家の前例にないことであり、諸葛亮を非常に尊敬しているということだ」[注 10]「諸葛亮は6度も祁山に出征しながら、ついに一勝も収めなかった[注 11]。慎重を期した軍事であって進取には鈍いことがわかる。(応変の将略に欠けるとした陳寿の評は)事実を述べただけだ」と批判している。

ただし、曲筆の疑惑は現在でも消えたわけではない。例えば、魏の杜畿は非常に高く評価されているが、杜畿の孫の杜預を擁護するために過大な評価をしたとする説がある[16]

また、陳寿が最終的に仕えた西晋に対しては、特に曲筆が目立つと指摘されている。その中でも最も批判を受けたのは、皇帝曹髦殺害の経緯である。西晋の臣という立場上、その禅譲の正統性に関して重大な瑕疵を与えうるこの件は隠蔽せざるを得ず、劉知幾は「記言の奸賊、載筆の凶人」「豺虎の餌として投げ入れても構わない」と激しく糾弾した。

また、劉知幾は『史通』曲筆篇で「蜀志後主伝に『蜀には史官がいないから災祥も記録されなかった』とあるのに、蜀志には災祥が散見される。史官が設けられなかったのであれば、災祥は何によって記録されたのか。陳寿が蜀の史官の存在を否定したことは私怨によるものである」と批判している。当時、史官は国家に必須のものと考えられていた(『史通』史官建置篇)。劉知幾による陳寿批判の要旨は、蜀には国家に必須のものが欠けていると私怨に基づいて述べた、ということである。

時代が下ると、蜀を正統とする朱子学の影響から、魏を正統とした陳寿への非難も現れた。黄震『黄氏日抄』に至っては「どこの鬼魅だ、コソコソと史筆をもてあそび、賊を帝と呼び、帝を賊と呼んでいるのは」と、陳寿を鬼魅(化け物)と罵倒している。一方で朱彝尊『曝書亭集』のように「当時何人かの史家がいたが、ただ魏があるのを知るのみだった。陳寿のみ魏と蜀・呉を並列し「三国」という名称に正したのは、魏が正統でないことを明らかにしたものだ」との意見もある。

さらに、蜀漢正統論に基づいて再構成された歴史書も続々と執筆された。南宋蕭常郝経、明の謝陛中国語版銭兆鵬の『続後漢書』、清の湯世烈の『季漢書』などはいずれも蜀を本紀として、魏・呉を世家や載記としている。紀伝体以外の書としては、元の趙居信の『蜀漢本末』、清の趙作羹の『季漢紀』などがある。

司馬光の『資治通鑑』は魏の元号を用いているが、正統論自体には極めて慎重であり「漢から魏、魏から晋…(以下北宋まで)の流れで引き継がれているので、これらの元号を採用して諸国の事績を記さざるを得ないだけであって、正閏について意見するつもりはない」(巻六十九黄初二年条)と明言している。

断代史にもかかわらず、袁紹呂布劉焉など後漢代に没した人物の伝を立てていることについては、趙翼の『二十二史箚記』において「(袁紹などの)諸軍閥はみな曹操と並立して割拠しており、かつ曹操と深く関わっている。ゆえに魏志に伝を立て、(魏王朝についての)事績の叙述にあたりその建国の起源を明らかにしなければならないのだ。また、劉焉は劉璋の父で、彼が割拠した益州劉備が拠点とした。劉備の紀伝を作るには、まず劉璋について記述し、劉璋について記述するにはまず劉焉について記述しなければならない」とされ、董卓荀彧らが『後漢書』と重複して伝を立てられている点については、「董卓らは漢末の臣であり、荀彧は曹操のために計略を立てたが、心はなお漢朝のためにあった。三国志に伝があるからといって、後漢書の立伝を省くことはできないのだ」としている。

ただし、『後漢書』は陳寿の死後100年以上経って編纂されたものであるから、陳寿にはその記載に関して何の責任もない。また、清の杭世駿中国語版の『諸史然疑』は、「魏志列伝の巻頭が董卓であるのは、(漢魏革命の原因である天下大乱の)元凶を明らかにしているのであり、漢書列伝の巻頭が項羽であるのと同じである」としている。一方で『四庫全書総目提要』は、魏の初代皇帝曹丕の父である曹操から記述を始めていることについて「史記の周・秦本紀の誤りを踏襲したもの」で、「『魏志前史』ともいえない(中途半端な)体裁となっている」と批判している。

年表[17]

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王朝 年号 出来事
後漢 184 太平道を率いる張角が挙兵し、黄巾の乱が起こる。
189 霊帝崩御。董卓、弘農王を廃して献帝を擁立。
190 董卓、長安に遷都。
192 呂布、董卓を暗殺。
193 曹操、徐州に陶謙を攻め、領民を虐殺。

郭汜の妻の嫉妬が原因で、李傕と郭汜が仲間割れ。

194 劉備、徐州を領有。
195 劉備、甘夫人を妾とする。
196 曹操、許に献帝を擁立。劉備、糜夫人を迎える。
197 曹操、張繡を降伏させるが、鄒氏に溺れて大敗。
198 呂布、劉備を破って徐州を領有。曹操、呂布を討伐。
199 袁紹、公孫瓚を滅ぼして華北を支配。劉備、徐州で自立。
200 曹操、劉備を破る。関羽、二夫人を守って曹操に降伏。

関羽、白馬の戦いで顔良を斬る。鄭玄死去。

曹操、官渡の戦いで袁紹を破る。

201 劉備、劉表の客将となる。
202 袁紹死去。袁紹の妻の劉氏、嫉妬で妾を皆殺し。

曹操、袁譚・袁尚を破る。曹丕、甄氏を略奪。

207 劉備、三顧の礼で諸葛亮を迎える。

甘夫人、阿斗(劉禅)を生む。

曹操、華北を統一。

208 劉表死去。劉琮、曹操に降伏。

長坂坡の戦いで、趙雲が阿斗を守る。

赤壁の戦い。諸葛亮の説得で孫権・劉備は同盟を結び、曹操を破る。

209 劉備、孫権の妹と結婚。
210 周瑜死去。曹操、銅雀台を建設。
211 劉備入蜀。
214 諸葛亮、張飛・趙雲を率いて入蜀。劉備、益州を領有。
216 曹操、魏王となる。
219 劉備、曹操を漢中に破って漢中王となる。関羽敗死。
220 曹操薨去。夫人に「分花売履」の遺言を残す。
三国 220 曹丕(文帝)、献帝から禅譲を受けて魏を建国。

曹皇后、兄を罵って後漢の奪に抵抗。

221 劉備(昭烈帝)、蜀漢(季漢)を建国。
222 劉備、夷陵の戦いで大敗。
223 劉備崩御。諸葛亮に劉禅を託す。
225 諸葛亮、南征を行って反乱を平定。
227 諸葛亮、出師表を奉り、北伐に出陣。孟達、蜀漢に内応。
228 馬謖、街亭の戦いで張郃に敗れる。陸遜、曹休を破る。
229 孫権(大帝)、呉を建国。諸葛亮、武都・陰平を破る。
234 諸葛亮、五丈原で陣没。献帝(山陽公)崩御。
239 卑弥呼、魏に使者を派遣して親魏倭王の称号を得る。
249 司馬懿、正始政変(高平陵の変)で曹爽を打倒し、権力を確立。
263 司馬昭、蜀漢を滅ぼす。諸葛瞻、奮戦して国に殉ずる。
西晋 265 司馬炎(武帝)、魏を滅ぼして西晋を建国。
280 司馬炎、呉を滅ぼして中国を統一。

内容

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魏志(魏書)

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巻数 題名 収録人物
巻1 武帝紀 曹操
巻2 文帝紀 曹丕
巻3 明帝紀 曹叡
巻4 三少帝紀 曹芳曹髦曹奐
巻5 后妃伝 武宣卞皇后文昭甄皇后文徳郭皇后明悼毛皇后明元郭皇后
巻6 董二袁劉伝 董卓李傕郭汜)・袁紹袁譚袁尚)・袁術劉表
巻7 呂布臧洪伝 呂布張邈陳登)・臧洪陳容
巻8 二公孫陶四張伝 公孫瓚陶謙張楊公孫度公孫康公孫恭公孫淵)・張燕張繡張魯
巻9 諸夏侯曹伝 夏侯惇韓浩史渙)・夏侯淵曹仁曹純)・曹洪曹休曹肇)・曹真曹爽曹羲曹訓何晏鄧颺丁謐畢軌李勝桓範)・夏侯尚夏侯玄
巻10 荀彧荀攸賈詡伝 荀彧荀惲荀甝中国語版荀霬中国語版)・荀攸賈詡
巻11 袁張涼国田王邴管伝 袁渙張範張承)・涼茂国淵田疇王修邴原管寧王烈張臶中国語版胡昭
巻12 崔毛徐何邢司馬伝 崔琰毛玠徐奕何夔邢顒鮑勛司馬芝司馬岐中国語版
巻13 鍾繇華歆王朗伝 鍾繇鍾毓)・華歆王朗王粛孫叔然中国語版
巻14 程郭董劉蔣劉伝 程昱程暁)・郭嘉董昭劉曄蔣済劉放孫資
巻15 劉司馬梁張温賈伝 劉馥司馬朗梁習張既温恢賈逵
巻16 任蘇杜鄭倉伝 任峻蘇則杜畿杜恕)・鄭渾倉慈
巻17 張楽于張徐伝 張遼楽進于禁張郃徐晃朱霊
巻18 二李臧文呂許典二龐閻伝 李典李通臧覇孫観)・文聘呂虔許褚典韋龐悳龐淯龐娥)・閻温張恭張就中国語版
巻19 任城陳蕭王伝 曹彰曹植曹熊
巻20 武文世王公伝 曹昂曹鑠曹沖曹拠曹宇曹林曹袞曹玹曹峻曹矩曹幹曹上曹彪曹勤曹乗曹整曹京曹均曹棘曹徽曹茂曹協曹蕤曹鑑曹霖曹礼曹邕曹貢曹儼
巻21 王衛二劉傅伝 王粲徐幹陳琳阮瑀応瑒劉楨応璩応貞阮籍嵆康桓威中国語版呉質)・衛覬潘勗中国語版王象中国語版)・劉廙劉劭繆襲仲長統蘇林中国語版韋誕夏侯恵孫該杜摯中国語版)・傅嘏
巻22 桓二陳徐衛盧伝 桓階陳羣陳泰)・陳矯徐宣衛臻盧毓
巻23 和常楊杜趙裴伝 和洽常林楊俊杜襲趙儼裴潜
巻24 韓崔高孫王伝 韓曁崔林高柔孫礼王観
巻25 辛毗楊阜高堂隆伝 辛毗楊阜高堂隆桟潜中国語版
巻26 満田牽郭伝 満寵田豫牽招郭淮
巻27 徐胡二王伝 徐邈胡質胡威)・王昶王基
巻28 王毌丘諸葛鄧鍾伝 王淩令狐愚)・毌丘倹諸葛誕唐咨)・鄧艾州泰)・鍾会王弼
巻29 方技伝 華佗呉普樊阿)・杜夔朱建平周宣管輅
巻30 烏丸鮮卑東夷伝 烏丸鮮卑東夷夫餘高句麗東沃沮挹婁

蜀志(蜀書)

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巻数 題名 収録人物
巻31 劉二牧伝 劉焉劉璋
巻32 先主伝 劉備
巻33 後主伝 劉禅
巻34 二主妃子伝 甘皇后穆皇后敬哀皇后張皇后劉永劉理劉璿
巻35 諸葛亮伝 諸葛亮諸葛喬諸葛瞻董厥樊建
巻36 関張馬黄趙伝 関羽張飛馬超黄忠趙雲
巻37 龐統法正伝 龐統法正
巻38 許糜孫簡伊秦伝 許靖糜竺孫乾簡雍伊籍秦宓
巻39 董劉馬陳董呂伝 董和劉巴馬良馬謖)・陳震董允黄皓陳祗)・呂乂
巻40 劉彭廖李劉魏楊伝 劉封彭羕廖立李厳劉琰魏延楊儀
巻41 霍王向張楊費伝 霍峻霍弋)・王連向朗向寵)・張裔楊洪費詩
巻42 杜周杜許孟来尹李譙郤伝 杜微周羣張裕)・杜瓊許慈孟光来敏尹黙李譔譙周郤正
巻43 黄李呂馬王張伝 黄権黄崇)・李恢呂凱馬忠王平句扶)・張嶷
巻44 蔣琬費禕姜維伝 蔣琬蔣斌蔣顕劉敏)・費禕姜維
巻45 鄧張宗楊伝 鄧芝張翼宗預廖化)・楊戯季漢輔臣賛

呉志(呉書)

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巻数 題名 収録人物
巻46 孫破虜討逆伝 孫堅孫策
巻47 呉主伝 孫権
巻48 三嗣主伝 孫亮孫休孫晧
巻49 劉繇太史慈士燮伝 劉繇劉基)・太史慈士燮士徽士壱士䵋士匡
巻50 妃嬪伝 呉夫人呉景)・謝夫人徐夫人徐琨)・歩夫人(歩皇后)王夫人(大懿王皇后)王夫人(敬懐王皇后)潘夫人(潘皇后)全夫人(全皇后)朱夫人(朱皇后)何姫(昭献何皇后)滕夫人(滕皇后)
巻51 宗室伝 孫静孫瑜孫皎孫奐)・孫賁孫鄰)・孫輔孫翊孫松)・孫匡孫韶孫桓
巻52 張顧諸葛歩伝 張昭張奮張承張休)・顧雍顧邵顧譚顧承)・諸葛瑾諸葛融)・歩騭歩闡
巻53 張厳程闞薛伝 張紘張玄張尚)・厳畯裴玄)・程秉闞沢唐固)・薛綜薛珝薛瑩
巻54 周瑜魯粛呂蒙伝 周瑜魯粛呂蒙
巻55 程黄韓蔣周陳董甘淩徐潘丁伝 程普黄蓋韓当蔣欽周泰陳武陳脩陳表)・董襲甘寧凌統徐盛潘璋丁奉
巻56 朱治朱然呂範朱桓伝 朱治朱然朱績)・呂範呂拠)・朱桓朱異
巻57 虞陸張駱陸吾朱伝 虞翻虞汜虞忠虞聳虞昺)・陸績張温駱統陸瑁吾粲朱拠
巻58 陸遜伝 陸遜陸抗
巻59 呉主五子伝 孫登孫慮孫和孫覇孫奮
巻60 賀全呂周鍾離伝 賀斉全琮呂岱周魴鍾離牧
巻61 潘濬陸凱伝 潘濬陸凱陸胤
巻62 是儀胡綜伝 是儀胡綜徐詳
巻63 呉範劉惇趙達伝 呉範劉惇趙達
巻64 諸葛滕二孫濮陽伝 諸葛恪聶友)・滕胤孫峻孫綝濮陽興
巻65 王楼賀韋華伝 王蕃楼玄賀邵韋昭華覈

裴松之の注に引用された主要文献

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以下は、裴松之が注釈で引用している文献である。引用文献の数については、趙翼は「およそ50余種」、銭大昕は「およそ140余種」、趙紹祖は「およそ180余種」、沈家本は「およそ210種」で、張子侠は227種とする。

  • 『異同雑語』 - 孫盛著。異説集らしい。裴松之は「孫盛や習鑿歯は異同を捜し求めて漏洩なし」と評している。孫盛は人物評でもたびたび引用されている。話を盛り上げるために勝手に台詞を創作したと言われている。たとえば、曹操呂伯奢中国語版の子供たちを誤って殺したあと、「寧ろ我れ人に負くも、人をして我れに負くこと毋からしめん(たとえ自分が他人を裏切ろうとも、他人が自分を裏切ることは許さない)」と言ったとあるが、この台詞は同じ事件を記録した先行文献(王沈らの『魏書』、郭頒の『世語』)にはなく、本書で初めて現れている。高島俊男によると、台詞の創作や他の文献からの転用は、陳寿も含め多かれ少なかれ行っているという[18] が、孫盛は他の史家と比べても露骨であり、陳泰の発言について裴松之に指摘されている。
  • 英雄記』 - 王粲他編『漢末英雄記』のことらしい。後漢末の群雄について書かれている。
  • 『袁子』 - 袁準著。
  • 『益部耆旧伝』 - 陳寿著。益州の人物伝。陳寿によれば、陳術という人物も同名の著書を残しているが、陳術の書が使われているかは不明。『華陽国志』によれば陳寿の書自体が陳術の書に加筆したもの。
  • 『益部耆旧雑記』 - 陳寿著。益州の人物伝。『益部耆旧伝』 の付録らしい。
  • 華陽国志』 - 常璩著。漢代から晋代までの巴・蜀の歴史書。現存している。
  • 『漢紀』 - 『後漢紀』とも。張璠中国語版著。張璠は東晋の人。
  • 『漢書』 - 華嶠中国語版著。華嶠は華歆の孫。後漢の歴史。皇后を本紀として扱ったのが特徴。
  • 漢晋春秋』 - 習鑿歯著。蜀漢正統論を説き、蜀漢から晋へ正統を続けている。後世に大きな影響を与えたが、手放しで蜀漢を絶賛しているわけではない。これは、統一政権を正統の第一条件としたためで、習鑿歯は孝武帝への上表で「蜀は正統だが弱かった」と評している。裴松之は「董允伝」の注で、後述の『襄陽記』と同じ記事でもニ書の内容に違いが有ったり、高官にあった人物をわざと官位を低く書いたりする内容があり、習鑿歯の記事にはいいかげんな部分があると評している。一方、劉知幾は『史通』において「近古の遺直」と高く評価している。
  • 『魏氏春秋』 - 孫盛著。編年体の魏の歴史書。
  • 『魏書』 - 王沈荀顗阮籍編。魏の末期に成立したが、司馬氏におもねっているため陳寿に劣ると言われている[19]。甄皇后の項目では、甄皇后は自殺を命じられたのではなく、曹丕は甄皇后を皇后にしようとしたが、病気を理由に辞退するうちに病死したので皇后を追贈したと、明らかに事実と異なった記述をしており、裴松之から批判されている。
  • 『記諸葛五事』 - 郭沖著。司馬駿の配下たちが諸葛亮について討論した際、郭沖は五つの逸話を紹介して諸葛亮の美点を評価した。しかし、裴松之は郭沖の挙げた逸話について、全て作り話としている。
  • 『魏都賦』 - 左思著。『三都賦』の一部。
  • 『魏武故事』 - 作者不明。曹操時代の政府の慣例・布告などを集めたものといわれている[19]
  • 『魏末伝』 - 作者不明。魏末期の事件を記している。曹氏に同情的。裴松之は「諸葛誕伝」の注で、同書の記述は「鄙陋(下品)」であり、歪曲があると批判している。
  • 魏略』 - 魚豢著。『典略』の一部で、『魏略』は魏と周囲の異民族を書き、『典略』は通史となっていて、魏以外の中国の出来事も扱っているらしい。中国の文献のうち大秦国ローマ帝国)に言及した現存最古のものでもある。劉知幾は『史通』で信憑性をあまり考慮せず何もかも記載しようとしていると批判しているが、高似孫は筆力があると評価している。
  • 『虞翻別伝』 - 作者不明。虞翻の伝記。引用の文に孫策・孫権と実名で記されているため、呉で著されたものではないとされるが[注 12]、三国時代に作られたものらしい。
  • 『献帝紀』 - 『隋書』に劉芳著とあるが、おそらく劉艾中国語版著。劉艾は後漢の人。ただし、献帝については途中までしか書かれていないらしい[19]
  • 『献帝伝』 - 作者不明。『献帝紀』を増補したものらしい。曹丕が献帝から禅譲された際の家臣の上奏文と曹丕の返答が収録されている。禅譲の受諾を勧める上奏を何度も固辞し、謙譲の徳を強調した上で初めて禅譲を受けた様子がわかる。
  • 『献帝春秋』 - 袁暐著。袁暐は張紘とともに呉に逃れた袁迪の孫。裴松之は厳しく批判している。
  • 『高貴郷公集』 - 曹髦著。詔勅・詩賦・自伝などの著作・発給文書集。
  • 『江表伝』 - 虞溥著。江南の士人の伝記集。裴松之は「粗いが筋道は通っている」と評する。孫盛は赤壁の戦いでの劉備軍が(孫権軍を賛美するために)過小評価されていると批判している。
  • 『呉書』 - 韋昭著。呉の国史。完成しなかったようで、本書に依拠して書かれた陳寿の「呉書」にまでその影響が及んでいる。
  • 『呉歴』 - 胡沖著。呉の歴史書であり、全6巻で構成。裴松之は劉備が曹操から離れる際に種菜を植えて遁走したという記述は、事実とかけ離れていると強く批判している。
  • 『呉録』 - 張勃中国語版著。張勃は呉の張儼の子で晋の人。紀伝体で書かれた呉の歴史書であり、全30巻で構成。
  • 『後漢紀』 - 『漢紀』とも。袁宏著。後漢から魏への禅譲を批判し、間接的に蜀漢正統論を採る。現存している。
  • 『後漢書』 - 謝承著。後漢を扱った紀伝体の歴史書では、最も早く作られたという[19]
  • 『山陽公載記』 - 楽資著。楽資は西晋の著作郎。裴松之は厳しく批判する一方で、蜀書と魏書の正誤を判断するのに用いている。
  • 『荀氏家伝』 - 荀伯子著。潁川荀氏の家伝
  • 襄陽記』 - 習鑿歯著。襄陽郡の人物伝。
  • 『諸葛亮集』 - 陳寿編。『諸葛氏集』とも。諸葛亮の書簡・発給文書集。
  • 『蜀記』 - 王隠著。蜀漢の歴史書。裴松之は『蜀記』の引く話は作り話が多いと厳しく非難している。
  • 続漢書』 - 司馬彪著。後漢の歴史書。志のみ、正史『後漢書』に付されて現存。
  • 『志林』 - 虞喜著。虞喜は東晋の人。呉の歴史や民話が記されている。
  • 『晋紀』 - 『晋記』とも。干宝著。紀伝体で書かれた西晋の歴史書。
  • 『晋書』 - 王隠著。父の王銓から親子2代にわたる著作。王隠は東晋の著作郎。西晋の歴史書。正史『晋書』とは別。同じく西晋の歴史を書こうとした虞預中国語版は、王隠の原稿を借り受け、勝手に写し取った上、王隠を陥れ免職にさせた。王隠は庾亮から紙筆の提供を受け、やっと完成させたという。正史『晋書』では「見るべき内容は全て父の編纂したところで、文体が乱雑で意味不明なところは隠の作である」と評されている。
  • 『晋書』 - 虞預著。虞預は東晋の人。前出の通り、王隠の著書の盗作疑惑がある[19]
  • 捜神記』 - 干宝著。志怪小説集。現在の小説とは違い、本当にあった話という姿勢で書かれている。現存のものは後世の話が混じっている。
  • 『世語』 - 郭頒撰の『魏晋世語』のこと。裴松之によれば、内容に多少問題はあるが、たまに変わった記事があるので、よく世間で読まれており、孫盛・干宝らもこの書から多く採録している。
  • 『曹瞞伝』 - 作者は不明だが、呉の人という。曹操の悪行集といえる内容だが、後世の人にはむしろ痛快といえる逸話もある。信憑性はともかく、『三国志演義』にも大いに取り入れられている。
  • 『趙雲別伝』 - 作者不明。趙雲の伝記。陳寿の本文と区別するため「別」伝と表記している。『三国志演義』で描かれる趙雲の活躍は、多くを本書に拠っている。
  • 典論』 - 曹丕著。文学論・自伝・人物評など。中国における文芸評論のさきがけで、文学の地位を高めた「文章は経国の大業にして、不朽の盛事なり」の一文で知られる。
  • 『傅子』 - 傅玄著。思想・歴史評論。魏の記事が多く、親司馬氏の立場から、司馬氏と対立した人士を批判している。
  • 『弁亡論』 - 陸機著。父祖と故国である呉の功績を顕彰しつつ、呉が滅んだ理由を論じている。
  • 『黙記』 - 張儼著。諸葛亮を高く評価した評論など。諸葛亮が2度目に上表した「後出師表」(後人の偽作説が有力)の出典とされる[要出典]
  • 『零陵先賢伝』 - 作者不明。零陵郡の人物伝。漢室復興の立場から、劉備の皇帝即位を批判している。

日本語訳

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完訳書は下記
  1. 書I ISBN 4-480-08041-4
  2. 魏書II ISBN 4-480-08042-2
  3. 魏書III ISBN 4-480-08043-0
  4. 魏書IV ISBN 4-480-08044-9
  5. 書 ISBN 4-480-08045-7
  6. 書I ISBN 4-480-08046-5
  7. 呉書II ISBN 4-480-08088-0
  8. 呉書III・年表・人名索引 ISBN 4-480-08089-9
  1. 魏書(一) ISBN 978-4762966415
  2. 魏書(二) ISBN 978-4762966422
  3. 魏書(三) 未刊
  4. 魏書(四) 未刊
  5. 魏書(五) 未刊
  6. 蜀書 ISBN 978-4762966460
  7. 呉書(一) ISBN 978-4762966477
  8. 呉書(二) 未刊
別巻 三国志研究備要 未刊
抄訳・編訳版は下記
  • 『漢書・後漢書・三国志列伝選』本田済編訳、平凡社〈中国古典文学大系〉1968、復刊1994、普及版・中国の古典シリーズ、1973
  • 『三国志』全5巻別巻1、徳間書店、1979-80
三国志だけではなく、後漢書や晋書も含めた編訳。松枝茂夫立間祥介監修
  • 『正史 三国志英傑伝』全4巻・別巻1、『中国の思想』刊行委員会編訳、徳間書店 1994
魏書・呉書・蜀書の主要な部分の原文・書き下し・日本語訳が収められている。

『三国志』と『三国志演義』

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後に講談などから発展して成立した通俗小説が『三国志演義』である。この『三国志演義』が日本では「三国志」という名称で流布し、また吉川英治が演義を元に著した小説『三国志』があまりにも有名になったため、日本の三国志愛好家の間では、

  • 歴史書の方を『正史』
  • 『三国志演義』およびそれに基づいた文学作品を『演義』

と呼び分けることが通例である。

中国においては、

  • 歴史書の方を『三国志』
  • 『三国志演義』およびそれに基づいた文学作品を『三国演義』

と、中華人民共和国成立後に統一されており、日本のような呼称の混乱はほぼない。

脚注

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注釈

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  1. ^ 『魏書』「匈奴劉聡伝」などで三国時代に触れた記述では魏を正統とし、孫権を「偽孫」、劉備を「僭劉」と呼んでいる。これは、北魏が魏・西晋(東晋は「僭晋」と呼び否定している)を継承した国家であることのアピールである。
  2. ^ 筑摩書房版の解説によれば、それぞれの君主の死を表現する言葉でも、魏の曹操・曹丕・曹叡の場合には実名を書かず、亡くなった場所を書いた上で「崩ず」と書いているのに対し、呉の場合は「(孫)権薨ず」「(孫)休薨ず」といった具合に実名表記・場所不表記・臣下でも使われる表現を用いることによって差をつけている。その一方で、劉備の場合は「先主は永安宮に殂す」という表現で敬意を表している。
  3. ^ 例として、192年に南方で区連が後漢に反旗を翻し、林邑を建国した。子孫は呉に朝貢しているが、『三国志』では「呉志」呂岱伝で朝貢があったと書かれているだけである。一方、『晋書』では「四夷伝」に林邑の項目があり、そこに記述がある。
  4. ^ 呉の朝貢について本紀にあたる孫権伝に記載はなく、列伝で表記されているので、陳寿が配慮した可能性がある。
  5. ^ 陳澧『東塾読書記』「論三国」では、史料の少ない蜀が見劣りするので、魏・呉の分量を削ったと推測している。
  6. ^ たとえば、曹奐の伝記である「陳留王紀」は、執筆時に曹奐が存命だったので、晋に禅譲したところで記事は終わっている。裴松之の注では、曹奐の没年と(元皇帝)が補われている。
  7. ^ 「呉書」は韋昭の『呉書』を参照して書かれたとの指摘がある。
  8. ^ 丁儀・丁廙の子については、丁氏一族の男子が曹丕族誅させられてしまっているため、存在が疑わしい。
  9. ^ ただし、丁儀は曹操から高く評価され、世間はその死を惜しんだとされる。また、『魏略』には伝が立てられていたという。
  10. ^ ただし、陳寿が『諸葛亮集』を撰したのは張華荀勗らの命令によるものであり、尊敬の傍証になるのか疑問だという説もある。
  11. ^ 諸葛亮が祁山に出たのは2度で、北伐自体も5度であって、一勝も収めなかったというのは完全な誤りである。
  12. ^ ただし、裴松之注では蜀漢・呉側の文献も魏晋正統の前提で表記を改変した箇所がある(呉の文献である『曹瞞伝』の引用にもかかわらず、曹操を「太祖」と表記しているなど)。

出典

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  1. ^ 常璩華陽国志』巻11・後賢志の陳寿伝に、「呉平後、(陳)寿乃鳩合三国史、著魏・呉・蜀三書六十五篇、号『三国志』」とある。
  2. ^ 張『百衲本二十四史 三國志』跋、台湾商務印書館、1937
  3. ^ 芦田孝昭『物語 三国志 古典案内』インタープレイ2012の解説によると、羅貫中は正史三国志を三十巻にダイジェストした呂祖謙の『十七史詳節』を読んでいたとされる。ただ、これには反論も有り、羅貫中は三国志全部を読んでいたという説もある。また、上田望の研究『講史小説と歴史書』によれば講釈師たちは三国志は読まず、『資治通鑑』をまとめた『綱鑑』(こうかん)と呼ばれる本を講釈の種本として持ち歩いていたという。
  4. ^ 高田時雄「李滂と白堅」(敦煌写本研究年報 2007)は日本国内の某財団図書館に秘匿されていると主張している。
  5. ^ 郭沫若「新疆新出土的晋人写本《三国志》残巻」(文物 1972-2)
  6. ^ 清朝の学者が表や志を補ったものは存在する。例えば洪亮吉の『三国職官表』、陶元珍の『三国食貨志』など。ただ、陳寿が歴史の下部構造に無頓着だったために本文中に記載が乏しく、そこから取材した『三国食貨志』も内容が薄いと評される。これら清代につくられた表・志については高島俊男『三国志 きらめく群像』ちくま文庫、2000参照。
  7. ^ 旧唐書経籍志および『新唐書芸文志より。
  8. ^ 裴松之「上三國志註表」には「陳壽國志」とある。
  9. ^ 『呉志』陸凱伝など
  10. ^ 『呉志』巻20 王楼賀韋華伝
  11. ^ 元の馬端臨の説で、彼の『文献通考』には「其の多きことは本書(陳寿の本文)の数倍に過ぎたり」という。20世紀になってもこの説は信じられており、村上知行は1968年の時点でも馬端臨の説に基づいて記載している。村上『三国志 全3巻』1968、河出書房の巻末解説参照。
  12. ^ 高島2000
  13. ^ 高島2000
  14. ^ 馬端臨の『文献通考』の原文では「蓋見注所載尚有諸書,不知壽盡取而為書矣。注之所載,皆壽書之棄餘也。後生誦讀不詳,輕議論最害事。」となっている。
  15. ^ 馬端臨の『文献通考』の原文では、「水心葉氏曰『陳壽筆高處逼司馬遷,方之班固,但少文義緣飾爾,要終勝固也。』」となっている。
  16. ^ 田中靖彦陳寿の処世と『三国志』」『駒沢史学』第76号、駒沢史学会、2011年3月、69-97頁、ISSN 04506928NAID 120006617337 
  17. ^ 渡邉義浩・仙石知子『「三国志」の女性たち』山川出版社、2010年5月25日、212-213頁。ISBN 9784634640511 
  18. ^ 高島『三国志 きらめく群像』 pp.394-398
  19. ^ a b c d e 『正史三国志8』ちくま学芸文庫

関連項目

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外部リンク

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