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黒歯国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

黒歯国(こくしこく 黑齒國)とは、古代中国の伝説で遥か方にあると考えられていたをした人の国である。侏儒国裸国とともに記述されている。

概要

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次のとおり中国の書籍に伝えられる。なお『三国志』のいわゆる魏志倭人伝倭国のはるか東南方にあるとされることから実在の国とする研究者も多い。韓国では黒歯常之が関係するとの説がある。

研究者によっては、インドネシアと関連する国ではないかと考察されており、論拠として、インドネシアではベテルチューイング(日本ではキンマと呼ばれる)という檳榔樹石灰で作ったガムのようなものを噛む習慣があり、時々赤黒い汁を出しながら話をするとされ、『三国志』の記述にある水路の行程・地理からも指摘される[1]

淮南子

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淮南子』では以下のとおり記述される。

黑齒 齒牙盡黑 — 『淮南子』卷四 墬形訓[2] 王逸注 楚詞招魂云
  • その人の歯は黒くを食べをくらう。湯谷の上である。
其人黑齒 食稻啖蛇 在湯谷上 — 『淮南子』卷四 墬形訓[2] 高誘注
  • 東は黒歯に着く
西教沃民 東至黑齒 — 『淮南子』卷十九 脩務訓[3]

山海経

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山海經』では以下のとおり記述される。

  • その北に黒歯国がある。そこの人は黒い。稲を食べ蛇をくらう。黒歯国の北に扶桑がある。
黑齒國在其北 爲人黑 食稻啖蛇 一赤一青 在其旁 一曰 在豎亥北 爲人黑首 食稻使蛇 其一蛇赤 下有湯谷 湯谷上有扶桑 十日所浴 在黑齒北 居水中 有大木 九日居下枝 一日居上枝 — 『山海經』第九 海外東經[4][5]
  • 黒歯の国がある。俊帝の子孫である。姜姓である。黍を食べ四鳥を使う。
有黑齒之國 帝俊生黑齒 姜姓 黍食 使四鳥 — 『山海經』第十四 大荒東經[6][7]

なお、『源氏物語末摘花では「歯黒 山海経云東海有黒歯国其俗婦人歯志黒染」との注がある。

文選

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文選』では以下のとおり記述される。

  • 船の漁師は南の東の極みに(中略)黒歯の邦に汎汎悠悠す。
於是舟人漁子 徂南極東 或屑沒於黿鼉之穴 或挂罥於岑㟼之峯 或掣掣洩洩於裸人之國 或汎汎悠悠於黑齒之邦 — 文選 江海 海賦[8]

三国志

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『三国志』の魏志倭人伝では以下のとおり記述される。

  • 裸国と黒歯国がある。東南に船で一年ほどで着く。
又有裸國黒齒國復在其東南船行一年可至參問倭地絶在海中洲嶋之上或絶或連周旋可五千餘里 — 『三國志』魏書烏丸鮮卑東夷伝[9]第三十倭(魏志倭人伝[10]

後漢書

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後漢書』倭傳では以下のとおり記述される。

  • 女王国から南4000余里の小人国から東南に船で1年で黒歯国に着く。
自女王國南四千餘里至朱儒國人長三四尺 自朱儒東南行船一年 至裸國 黑齒國 使驛所傳 極於此矣 — 『後漢書』東夷列傳第七十五[11][12]

梁書

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梁書』卷五十四 列傳第四十八 諸夷傳 東夷条 倭では以下のとおり記述される。

  • 南に小人国がありその南に黒歯国がある。倭から4000余里。船で1年で着く。
其南有侏儒國 人長三四尺 又南黑齒國 裸國 去倭四千餘里 船行可一年至 — 『梁書』卷五十四 列傳第四十八 諸夷傳 東夷条 倭[13]

路史

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路史』国名紀では以下の通り記述される。

  • 黒歯氏は姜姓である。『山海経』によると、黒歯国は帝俊の末裔である。
黑齒 姜姓 『山海經』黑齒之國 帝俊生其中冝梁竟 — 『路史』国名紀

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  1. ^ 近江昌司編 『卑弥呼の時代 ここまでわかった「邪馬台国」』 学生社 1992年 ISBN 4-311-20182-6 pp.31 - 32.
  2. ^ a b ウィキソース出典 劉安 (中国語), 淮南子/墬形訓, ウィキソースより閲覧。 
  3. ^ ウィキソース出典 劉安 (中国語), 淮南子/脩務訓, ウィキソースより閲覧。 
  4. ^ ウィキソース出典 郭璞序 (中国語), 山海經/海外東經, ウィキソースより閲覧。 
  5. ^ 山海經 第九 海外東經
  6. ^ ウィキソース出典 郭璞序 (中国語), 山海經/大荒東經, ウィキソースより閲覧。 
  7. ^ 山海經 第十四 大荒東經
  8. ^ ウィキソース出典 木華 (中国語), 海賦, ウィキソースより閲覧。 
  9. ^ ウィキソース出典 陳壽 (中国語), 三國志/卷30, ウィキソースより閲覧。 
  10. ^ ウィキソース出典 魏志倭人伝『魏志倭人伝』。ウィキソースより閲覧。 
  11. ^ ウィキソース出典 范曄 (中国語), 後漢書/卷85, ウィキソースより閲覧。 
  12. ^ ウィキソース出典 後漢書倭伝『後漢書倭伝』。ウィキソースより閲覧。 
  13. ^ ウィキソース出典 姚思廉 (中国語), 梁書/卷54, ウィキソースより閲覧。 

関連項目

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