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元和9年([[1623年]])危篤に陥った宗家当主の[[狩野貞信]]([[狩野光信]]の長男)には子供がいなかったため、一門の重鎮に当たる[[狩野長信]]と[[狩野吉信]]の話し合いの結果、当時10歳であった安信を貞信の養子として惣領家を嗣ぐことが決められた。伝存する作品を兄たちと比べると画才に恵まれていたとは言えず、探幽から様々な嫌がらせを受けたようである。『[[古画備考]]』所載で、安信の弟子・[[狩野昌運]]が記した「昌運筆記」では、探幽が安信をいじめた逸話が幾つも収録されている。例えば、ある時、三兄弟が[[老中]]から席画を描くよう言われた際、探幽に「兄たち妙手が描くのを見ておれ」と命じて筆を執らせず、また或る時安信が[[浅草観音堂]]天井画に「天人・蟠龍図」を描いた際も、「日本の絵でこのような絵を座敷などに飾るものではない」と叱ったと言う。果ては、「安信が宗家を継いだのは、安信が食いはぶれないようにするための探幽の配慮」といった、史実と異なる悪意が込められた話が記されている。しかし、安信と探幽は年を経ると、互いに画風や意見の対立があるのを認め合っていた。そもそも、安信は探幽より12歳年下というかなり年の離れた兄弟であり、上記の逸話も歳の離れた手のかかる弟に対する配慮とも取れる<ref>加藤弘子 「狩野探幽の素顔 もうひとつの探幽像」『聚美』vol.3、青月社、2012年4月、pp.92-95、ISBN 978-4-8109-1247-0</ref>。 |
元和9年([[1623年]])危篤に陥った宗家当主の[[狩野貞信]]([[狩野光信]]の長男)には子供がいなかったため、一門の重鎮に当たる[[狩野長信]]と[[狩野吉信]]の話し合いの結果、当時10歳であった安信を貞信の養子として惣領家を嗣ぐことが決められた。伝存する作品を兄たちと比べると画才に恵まれていたとは言えず、探幽から様々な嫌がらせを受けたようである。『[[古画備考]]』所載で、安信の弟子・[[狩野昌運]]が記した「昌運筆記」では、探幽が安信をいじめた逸話が幾つも収録されている。例えば、ある時、三兄弟が[[老中]]から席画を描くよう言われた際、探幽に「兄たち妙手が描くのを見ておれ」と命じて筆を執らせず、また或る時安信が[[浅草観音堂]]天井画に「天人・蟠龍図」を描いた際も、「日本の絵でこのような絵を座敷などに飾るものではない」と叱ったと言う。果ては、「安信が宗家を継いだのは、安信が食いはぶれないようにするための探幽の配慮」といった、史実と異なる悪意が込められた話が記されている。しかし、安信と探幽は年を経ると、互いに画風や意見の対立があるのを認め合っていた。そもそも、安信は探幽より12歳年下というかなり年の離れた兄弟であり、上記の逸話も歳の離れた手のかかる弟に対する配慮とも取れる<ref>加藤弘子 「狩野探幽の素顔 もうひとつの探幽像」『聚美』vol.3、青月社、2012年4月、pp.92-95、ISBN 978-4-8109-1247-0</ref>。 |
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そうした探幽の[[いじめ]]とも取れる指導を受ける中で、安信は画技の研鑽に努めた。明暦元年([[1655年]])[[普門寺 (高槻市)|普門寺]]にいる[[ |
そうした探幽の[[いじめ]]とも取れる指導を受ける中で、安信は画技の研鑽に努めた。明暦元年([[1655年]])[[普門寺 (高槻市)|普門寺]]にいる[[隠元隆琦]]を訪ね、隠元から法を受け、同寺の障壁画を描く。探幽ら当時の狩野派の絵に、隠元ら黄檗僧が着讃した作品は非常に多いが、その中でも安信には[[黄檗美術]]の影響を受けたと思われる作品がある。寛文2年([[1662年]])には[[法眼]]に叙された。また、探幽の養子であり、探幽に実子が生まれてからは疎んじられた[[狩野益信]]や甥の[[狩野常信]]に娘を嫁がせ、狩野家の結束を固める策をとっている。延宝2年([[1674年]])の内裏造営では、筆頭絵師にのみ描くのを許された[[賢聖障子]]を描き、62歳にしてようやく名実ともに狩野家筆頭の地位を得た。安信は晩年になっても、[[武者絵]]を描くためにわざわざ[[山鹿素行]]を訪れ、武者装束や武器などの[[有職故実]]の教えを受け<ref>『山鹿素行日記』延宝7年([[1679年]])11月14日条</ref>、朝鮮進物屏風の制作にあたっても素行を訪ねて様々な質問をしたという逸話が残っている<ref>同書、[[天和 (日本)|天和]]2年([[1682年]])4月11日・5月26日条</ref>。しかし、延宝6年([[1678年]])に息子の[[狩野時信|時信]]に先立たれてしまう。そのため、時信の子・[[狩野主信|永叔主信]]を跡取りとし、後事を有力な弟子・昌運に任せて亡くなった。菩提寺は[[本門寺]]。位牌は妻や子、舅の狩野長信らと合わせられている。 |
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弟子は、[[英一蝶]]や[[狩野昌運]]、[[狩野宗信]]、[[松江藩]]に仕えた狩野(太田)永雲(稠信(しげのぶ))、狩野清真など。また『古画備考』には「門人」とは別に、「門葉」という項目がある。これは、画を生業としてではなく趣味として楽しむために学んだ門跡や大名のことで、[[徳川光圀]]や[[黒田綱政]]、[[光子内親王]]、[[森川許六]]ら19名が記されている。 |
弟子は、[[英一蝶]]や[[狩野昌運]]、[[狩野宗信]]、[[松江藩]]に仕えた狩野(太田)永雲(稠信(しげのぶ))、狩野清真など。また『古画備考』には「門人」とは別に、「門葉」という項目がある。これは、画を生業としてではなく趣味として楽しむために学んだ門跡や大名のことで、[[徳川光圀]]や[[黒田綱政]]、[[光子内親王]]、[[森川許六]]ら19名が記されている。 |
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2020年8月2日 (日) 22:09時点における版
狩野 安信(かのう やすのぶ、慶長18年12月1日(1614年1月10日) - 貞享2年9月4日(1685年10月1日))は江戸時代の狩野派の絵師である。幼名は四郎二郎・源四郎、号は永真・牧心斎。狩野孝信の三男で、狩野探幽、狩野尚信の弟。狩野宗家の中橋狩野家の祖。英一蝶は弟子に当たる。
略歴
元和9年(1623年)危篤に陥った宗家当主の狩野貞信(狩野光信の長男)には子供がいなかったため、一門の重鎮に当たる狩野長信と狩野吉信の話し合いの結果、当時10歳であった安信を貞信の養子として惣領家を嗣ぐことが決められた。伝存する作品を兄たちと比べると画才に恵まれていたとは言えず、探幽から様々な嫌がらせを受けたようである。『古画備考』所載で、安信の弟子・狩野昌運が記した「昌運筆記」では、探幽が安信をいじめた逸話が幾つも収録されている。例えば、ある時、三兄弟が老中から席画を描くよう言われた際、探幽に「兄たち妙手が描くのを見ておれ」と命じて筆を執らせず、また或る時安信が浅草観音堂天井画に「天人・蟠龍図」を描いた際も、「日本の絵でこのような絵を座敷などに飾るものではない」と叱ったと言う。果ては、「安信が宗家を継いだのは、安信が食いはぶれないようにするための探幽の配慮」といった、史実と異なる悪意が込められた話が記されている。しかし、安信と探幽は年を経ると、互いに画風や意見の対立があるのを認め合っていた。そもそも、安信は探幽より12歳年下というかなり年の離れた兄弟であり、上記の逸話も歳の離れた手のかかる弟に対する配慮とも取れる[1]。
そうした探幽のいじめとも取れる指導を受ける中で、安信は画技の研鑽に努めた。明暦元年(1655年)普門寺にいる隠元隆琦を訪ね、隠元から法を受け、同寺の障壁画を描く。探幽ら当時の狩野派の絵に、隠元ら黄檗僧が着讃した作品は非常に多いが、その中でも安信には黄檗美術の影響を受けたと思われる作品がある。寛文2年(1662年)には法眼に叙された。また、探幽の養子であり、探幽に実子が生まれてからは疎んじられた狩野益信や甥の狩野常信に娘を嫁がせ、狩野家の結束を固める策をとっている。延宝2年(1674年)の内裏造営では、筆頭絵師にのみ描くのを許された賢聖障子を描き、62歳にしてようやく名実ともに狩野家筆頭の地位を得た。安信は晩年になっても、武者絵を描くためにわざわざ山鹿素行を訪れ、武者装束や武器などの有職故実の教えを受け[2]、朝鮮進物屏風の制作にあたっても素行を訪ねて様々な質問をしたという逸話が残っている[3]。しかし、延宝6年(1678年)に息子の時信に先立たれてしまう。そのため、時信の子・永叔主信を跡取りとし、後事を有力な弟子・昌運に任せて亡くなった。菩提寺は本門寺。位牌は妻や子、舅の狩野長信らと合わせられている。
弟子は、英一蝶や狩野昌運、狩野宗信、松江藩に仕えた狩野(太田)永雲(稠信(しげのぶ))、狩野清真など。また『古画備考』には「門人」とは別に、「門葉」という項目がある。これは、画を生業としてではなく趣味として楽しむために学んだ門跡や大名のことで、徳川光圀や黒田綱政、光子内親王、森川許六ら19名が記されている。
画論『画道要訣』
絵画における安信の考え、ひいては狩野派を代表する画論としてしばしば引用されるのが、晩年の延宝8年(1680年)に弟子の狩野昌運に筆記させた『画道要訣』である[4]。この中で安信は、優れた絵画には、天才が才能にまかせて描く「質画」と、古典の学習を重ねた末に得る「学画」の二種類があり、どんなに素晴らしい絵でも一代限りの成果で終わってしまう「質画」よりも、古典を通じて後の絵師たちに伝達可能な「学画」の方が勝るとしている。ただし、安信は質画の良さまで否定したわけではなく、さらに「心性の眼を筆の先に徹する」「心画」とも言うべき姿勢をもっとも重視している。ただし、『画道要訣』は出版されておらず、写本で広まった形跡もなく、江戸時代の画論書でも引用されることは殆ど無い事から、中橋狩野家に秘蔵されたと見られ、他の狩野家にすら影響を与えたとは考えづらいことは注意を要する。
安信の作品と評価
安信は比較的長命で狩野宗家の当主ということもあり、多くの作品が残っている。しかし、粉本をただ丸写ししたかのような、画家自身の個性や表現を重んじる現代では鑑賞に耐えない作品も少なからずある。しかし、その中でも上質な作品を掬い出して見ると、粉本に依拠しつつも丁寧で真面目な描線で、モチーフを的確に構成した「学画」という自身の言葉通りの作品を残している。筆墨による繊細な表現が重要な水墨画を苦手としていたらしく、優品と呼べる作品は少ない。一方、時にその単調な筆墨が明快さ、力強さに転化する場合もあり、これらが利点として出やすい人物画に優れた作品が多い。ただし、優品の中でも人物の衣文線がはみ出したり、一つの絵巻や屏風内でも明らかな様式の不統一があるなど、細部がいい加減な点がしばしば見られ、細かい点に拘らない安信の資質が見て取れる。
安信は既に江戸時代から兄達に劣るとする評価が広く見られたが、一方でそれを下手と切り捨てるのではなく、兄二人と別の方向を目指した、努力で補ったとする好意的な解釈も見られる。例えば公家の近衛家熈は、尚信を高く評価していたが、安信にもその力量を認めている。曰く、「安信は兄には及ばないことを自覚し自分の様式を貫いているが、決して兄二人に劣っていない」[5]、「安信は下手と言われるが、出来の良い作品は素晴らしい。これは安信が探幽や尚信に及ばないと考え、「己が一家一分の風を書出して」個性を出したからで、これが安信の優れた所である」[6]。
蘭方医の杉田玄白も、三兄弟を評した文章を残している。「探幽の縮図を見たことがあるが、その膨大な量、留書の筆まめさ、出来栄えなどから、探幽には才能に加え篤い志のある三、四百年の名人だと感じ入った。尚信・安信は共に上手だが、尚信は才能があるため絵が風流で、例えるなら紗綾縮緬、安信は才能で劣るため雅さがなく絹紬のようだという。前者は良い織物だが、染色が悪くて仕立てが悪いと人前で着れたものではない。対して後者は劣った織物だが、染めや仕立てが上手ければ人前でも着ることができる。安信は絹紬のように下地、即ち先天的な才能では劣っていたが、努力したため兄二人に並ぶ上手となった。安信の絵が雅でなくともそれは恥ではなく、学んだことが結果として表れているのが素晴らしい。今でも識者は安信を目標に絵を学ぶといい、医学を志す者もこうした安信の姿勢こそ見習うべきである」(『形影夜話』)[7]。
代表作
作品名 | 技法 | 形状・員数 | 寸法(縦x横cm) | 所有者 | 年代 | 落款 | 印章 | 文化財指定 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
竹林七賢・商山四皓図屏風 | 紙本墨画 | 六曲一双 | 聖衆来迎寺 | 款記「狩野源四郎十一歳筆」 | 安信11歳作。安信の現存最古の作品。 | ||||
正宗院・松東院・清浄院像 | 絹本著色 | 3幅対 | 90.1x37.5 | 松浦史料博物館 | 1635年9月14日(寛永12年8月3日)賛 | 無 | 「右京安信」朱文方印・印文不明円印 | 江月宗玩賛。正宗院こと松浦隆信を中幅、隆信の母・松東院を右幅、隆信の妹(二女)コト(?-1631)を左幅にした3幅対[8]。 | |
大野忠廣夫妻像 | 絹本著色 | 双幅 | 79.8x34.6 | 個人 | 1636年7月5日(寛永13年6月3日)賛 | 無 | 「右京安信」朱文方印 | 江月宗玩賛。平戸松浦氏の親族大野(松浦)忠廣を右幅、忠廣の妻で上述の清浄院を左幅にした対幅。6月3日は清浄院の5年目の命日にあたり、追善供養のための制作か[8]。 | |
金山図・育王山図 | 紙本墨画淡彩 | 対幅 | 85.0x104.6・84.3x104.3 | 佛通寺 | 1640年(寛永17年) | 共に「狩野右京進安信筆」 | 安信は広島藩の御用も勤め、藩主の命令で藩内の寺社所蔵の名品を模写している。本作はその一つで、原図は共に雪舟とされ、近世初期まで寺に伝わっていたとみられる[9]。 | ||
江月宗玩画像 | 1幅 | 龍光院 | 1641年(寛永18年) | 江月自賛。円相図 | |||||
三十六歌仙図額 | 板地著色 | 36面のうち12面 | 各51.7x35.5 | 世良田東照宮 | 1643-44年(寛永末年)頃 | 款記「狩野源四郎筆」 | 狩野長信が10面(2面は後補)、狩野元俊が12面担当した合作。左一・柿本人麻呂から左十二・源宗于まで担当。世良田東照宮は寛永21年(1644年)に遷宮式を行っているのでその頃の制作か。 | ||
山水・竹雀図襖 | 普門寺 (高槻市) | 1645年(正保2年)頃 | 款記「狩野安信筆」 | 「狩野」朱文方印 | 欠損部は直原玉青筆 | ||||
三十六歌仙図額 | 36面のうち12面 | 金刀比羅宮 | 1648年(慶安元年) | 探幽・尚信との合作。右七・中納言朝忠から右十八・中務まで担当。東照大権現三十三回神忌に松平頼重より奉納 | |||||
三十六歌仙図額 | 36面のうち12面 | 白峯寺 | 1648年(慶安元年) | 探幽・尚信との合作。左七・中納言兼輔から左十八・平兼盛まで担当。同じく松平頼重が奉納 | |||||
釈迦四面像 逗子扉絵 | 安養院 | 1649年(慶安2年) | 款記「安信筆」 | ||||||
四季耕作図屏風 | 紙本墨画淡彩 | 六曲一双 | 各164.5x360.4 | 個人 | 款記「安信筆」 | 早期の作 | |||
富士図屏風 | 紙本墨画 | 六曲一双 | 各150.6x357.0 | 聖衆来迎寺 | 款記「安信筆」 | 「狩野」朱文方印 | 安信30代の作と推定 | ||
柳に野鳥図屏風 | 紙本墨画 | 六曲一双 | 各148.3x345.0 | 大倉集古館 | 款記「安信筆」 | 「狩野」朱文方印 | 安信30代の作と推定 | ||
猿曳き・酔舞図屏風 | 紙本墨画淡彩 | 六曲一双 | 各153.0x358.4 | 静岡県立美術館 | 款記「安信筆」 | 「狩野」朱文方印 | 外部リンク | ||
Monkey Trainers and Scenes of Chinese Life | 紙本墨画淡彩 | 六曲一双 | 156.0x358.0(各) | シカゴ美術館 | 外部リンク | ||||
若衆舞踊図 | 絹本著色 | 1幅 | 31.0x54.9 | 愛知県美術館(木村定三コレクション) | 款記「安信筆」 | 花園即休賛。安信の風俗画的な作品として現在唯一知られている作品。 | |||
源平合戦絵巻 | 紙本金地著色 | 六曲一双 | 晴明会館 | 1654年(承応3年)頃 | 外部リンク | ||||
妙心寺玉鳳院障壁画 | 紙本墨画 | 玉鳳院 | 1656年(明暦2年) | 無 | 無 | 益信との合作。安信は秋草の間・山水の間・龍の間、益信は花鳥の間を担当 | |||
江雪宗立画像 | 1幅 | 龍光院 | 1659年(万治2年) | 江雪自賛 | |||||
酒井忠勝肖像画 | 絹本着色 | 1幅 | 127.0x57.0 | 個人蔵(小浜市図書館寄託) | 1660年(万治3年) | 小浜市指定文化財 | 隠元隆琦賛。外部リンク | ||
太田備牧駒籠別荘八景十境詩画巻 | 絹本墨画 | 詩巻1巻 画巻1巻 | 32.7x1066.9 | 文京ふるさと歴史館 | 1661年(寛文元年)9月 | 款記「狩野牧心斎安信圖之」 | 「牧心斎主人」白文方印、「安信」朱文方印 | 太田家伝来。浜松藩主・太田資宗の駒込にあった別荘の茶亭から眺めた景色を八景、別荘内の勝景を十境として賞翫した巻物。詩は林鵞峰の作、詩の筆者は林梅洞(鵞峰長男)の筆。 | |
平敦盛像 | 絵馬1面 | 須磨寺 | 1661年(寛文元年)12月 | 款記「牧心斎筆」 | 提宗慧全賛。鳥取藩家老・荒尾崇就(荒尾成利弟)奉納 | ||||
十六羅漢図 | 絹本著色 | 16幅 | 各128.5x45.4 | 萬福寺 | 1662年(寛文2年) | 款記「牧心斎筆」 | 隠元隆琦賛。二本松藩主丹羽光重が寄進。 | ||
竹虎図屏風 | 紙本著色 | 額装2面 | 各146.8x270.0 | 福岡市美術館 | 款記「牧心斎筆」 | 福岡藩黒田家伝来。元は襖絵。安信と黒田家の関係は深く、3代藩主黒田光之は安信と会食し、4代藩主黒田綱政は安信から絵の指南を受けた。 | |||
徳川家康像 | 絹本著色 | 1幅 | 106.1x54.3 | 日光東照宮宝物館 | 款記「牧心斎筆」[10] | ||||
板倉重宗画像 | 絹本著色 | 1幅 | 123.1x49.6 | 長円寺 | 1663年(寛文3年)頃 | 款記「法眼永真筆」 | 「牧心斎主人」白文円印 | 松雲院(刈谷市)には本図の模写がある[11]。 | |
村松山内善禅寺募縁起絵巻 | 紙本着色 | 巻子2巻 | 島根県立古代出雲歴史博物館 | 1666年(寛文6年) | 絵14段、詞書13段。詞書の作者・筆者は不明。松江藩家老・村松内膳直賢が建てた内善寺(現存せず)の創建を主題とする絵巻。各段の様式・図様の違いが大きい。 | ||||
黒田長興画像 | 絹本着色 | 1幅 | 財団法人秋月郷土館 | 1667年(寛文7年)8月 | 款記「法眼永真筆」 | 無隠賛 | |||
羅生門図絵馬 | 板絵著色 | 絵馬1面 | 47x72 | 蒲郡市・大宮神社 | 1668年(寛文8年) | 款記「法眼永真筆」 | 蒲郡市指定文化財 | 奉納者は三河吉田藩主・松平家清の弟・清定の孫の松平清行。 | |
伯牙子期図絵馬 | 板絵著色 | 絵馬1面 | 47x79 | 蒲郡市・八百富神社[12] | 1668年(寛文8年) | 蒲郡市指定文化財 | 奉納者は上記と同様に松平清行。 | ||
牡丹獅子図 | 蒲郡市・天桂院 | ||||||||
竹林七賢図・四愛図 | 紙本墨画 | 襖4面・8面 | 玉林院 | 1669年(寛文9年) | 本堂檀那の間所在。 | ||||
三十六歌仙図額 | 36面 | 白鳥神社 | 1670年(寛文10年)頃 | 款記「法眼永真筆」 | 「安信」朱文方印 | 上記と同じく松平頼重が奉納。 | |||
隠元隆琦画像 | 1幅 | 弘福寺 | 1673年(寛文13年)以前 | 隠元自賛 | |||||
隠元隆琦画像 | 絹本著色 | 1幅 | 131.1x48.7 | 浄住寺 | 1673年(寛文13年)以前 | 款記「法眼永真筆」 | 「牧心斎」白文円廓内方印 | 隠元自賛[13] | |
雲龍図 | 紙本墨画 | 1幅 | 聖福寺 | 1673年(寛文13年)頃 | 款記「法眼永真筆」 | 聖福寺仏殿(大雄宝殿)天井画[14] | |||
鉄牛道機像 | 絹本著色 | 1幅 | 216.3x110.9 | 大年寺 | 1673年-81年(延宝年間) | 款記「法眼永真熏沐百拝画」 | 「藤原安信」朱文重郭方印 | 覚天元朗による後賛。216.3x110.9cmの大幅。主は鉄牛道機とされるが、讃などから唐代の禅僧・徳山宣鑑だと考えられる[15]。 | |
伊達政宗画像 | 絹本着色 | 1幅 | 145.5x116.5 | 仙台市博物館 | 1676年(延宝4年)頃 | 仙台市指定文化財 | 酒井伯元賛「馬上少年過 世平白髪多 残躯天所赦 不楽是如何」 | ||
伊達忠宗画像 | 1幅 | 146.6x116.7 | 仙台市博物館 | ||||||
三十六歌仙図扁額 | 36面 | 宗像大社 | 1680年(延宝8年) | 持明院基時書。黒田光之が辺津宮内陣奉納。 | |||||
蘭亭曲水図屏風 | 紙本墨画淡彩 | 六曲一双 | 各163.3x383.2 | 栃木県立博物館 | 款記「法眼永真筆」 | 「牧心斎」白文方印 | |||
松竹に群鶴図屏風 | 紙本金地着彩 | 六曲一双 | 各151.8x346.8 | 出光美術館 | 款記「法眼永真筆」 | ||||
秋草に鹿図屏風 | 紙本金地着色 | 六曲一隻 | 仙台市博物館 | 款記「法眼永真筆」 | |||||
英中玄賢像 | 紙本墨画 | 1幅 | 145.3x77.4 | 光雲寺 | 款記「法眼永真筆」[16] | ||||
金澤名所図巻 | 絹本淡彩 | 1巻 | 23.9x533.5 | 高徳院 | 款記「法眼永真筆」 | 「安信」朱文方印 | |||
竹虎図屏風 | 紙本金地著色 | 六曲一双 | 各222.2x515.6 | 浄福寺(奈良県、福井県立美術館寄託) | 款記「法眼永真筆」 | 「藤原安信」朱文重郭方印 | 福井藩松平家伝来。一隻あたり、縦222.2cm横515.6cmという近世の屏風絵としては最大級の大きさの上に、総金地という豪華な屏風。 | ||
竹林七賢・李白観爆図屏風 | 六曲一双 | 三時知恩寺 | |||||||
松竹梅図屏風 | 紙本著色 | 六曲一双 | 個人(八幡市立松花堂昭乗美術館寄託) | ||||||
源氏物語 明石・絵合図屏風 | 紙本著色 | 六曲一双 | 各161.0x376.0 | 個人 | 款記「法眼永真筆」 | ||||
瀟湘八景図巻 | 絹本墨画 | 巻子1巻 | 聖衆来迎寺 | ||||||
松鷹図 | 絵馬1面 | 櫛引八幡宮[17] | |||||||
富士三保松原図 | 紙本墨画 | 1幅 | 39.9x102.3 | 茨城県立歴史館(一橋徳川家コレクション) | 伝雪舟筆「富士清見寺図」(永青文庫蔵)の模写。 |
脚注
- ^ 加藤弘子 「狩野探幽の素顔 もうひとつの探幽像」『聚美』vol.3、青月社、2012年4月、pp.92-95、ISBN 978-4-8109-1247-0
- ^ 『山鹿素行日記』延宝7年(1679年)11月14日条
- ^ 同書、天和2年(1682年)4月11日・5月26日条
- ^ 監修 小林忠・河野元昭 編集・校訂 安村敏信 『[定本] 日本絵画論大成 第4巻』所収 ぺりかん社、1997年 ISBN 4-8315-0767-9
- ^ 『槐記』享保12年閏正月二十八日条。
- ^ 『槐記』享保13年五月四日条
- ^ 門脇むつみ 『巨匠 狩野探幽の誕生 江戸初期、将軍も天皇も愛した画家の才能と境遇』 朝日新聞出版〈朝日選書925〉、2014年10月、pp.93-101、230-236。
- ^ a b 佐賀県立美術館編集・発行 『企画展 近世の肖像画』 1991年10月9日、pp.54-55。
- ^ 『臨済宗佛通寺派大本山 佛通寺の文化財展』 三原市教育委員会、1996年10月29日、pp.78-79,114-115。
- ^ 野田麻美(静岡県立美術館)編集 『徳川の平和(パックス・トクガワーナ)―250年の美と叡智―』 静岡県立美術館、2016年9月17日、pp.16,180。
- ^ 愛知県史編さん委員会編集 『愛知県史 別編 文化財2 絵画』 愛知県、2011年3月31日、pp.484-485。
- ^ 所蔵宝物:八百富神社
- ^ 京都市文化市民局文化部文化財保護課編集発行 『京都市文化財ブックス第11集 京都近世の肖像画』1996年2月、p.48。
- ^ 福岡市博物館編集 『栄西禅師八百年大遠諱記念特別展 日本最初の禅寺 博多聖福寺』 日本最初の禅寺 博多・聖福寺展実行委員会、2013年4月20日、pp.83,207。
- ^ 門脇むつみ 「狩野安信筆「鐵牛道機像」(仙台市・大年寺蔵) ―像主についての疑問、安信と黄檗宗のかかわり(PDF)」『城西国際大学 日本研究センター紀要』第2号、2008年1月31日、pp.67-78。
- ^ 東京国立博物館 京都国立博物館 朝日新聞社編集 『亀山法皇七〇〇年御忌記念 南禅寺』 朝日新聞社、2004年1月20日、pp.198、280。
- ^ 青森県史編さん委員会編集 『青森県史 文化財編 美術工芸』 青森県、2010年9月30日、p.148。
参考文献
- 細野正信著編 『 江戸の狩野派』 至文堂〈日本の美術262〉、1988年
- 松木寛 『御用絵師狩野家の血と力』 講談社<講談社選書メチエ>、1994年 ISBN 978-4-0625-8030-4
- 山下裕二監修 安村敏信 山本英男 山下善也執筆 『別冊太陽 狩野派決定版』 平凡社、2004年 ISBN 978-4-5829-2131-1
- 安村敏信 『もっと知りたい狩野派 探幽と江戸狩野派』 東京美術、2006年 ISBN 978-4-8087-0815-3
- 佐々木英理子 野田麻美企画・編集 『「探幽3兄弟─狩野探幽・尚信・安信─」展図録』 板橋区立美術館・群馬県立近代美術館ほか発行、2014年2月
- 松島仁 「狩野安信筆 源氏物語 明石・絵合図屏風」『国華』第1454号、国華社、2016年12月20日、pp.31-34、ISBN 978-4-02-291454-5