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「選子内親王」の版間の差分

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== 人物 ==
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生まれて間もなく母后が没したため、安子の兄である[[藤原兼通]]・[[昭子女王]]夫妻が引き取って堀河殿で育てられた。天延2年の着裳の儀の際に裳の腰を結ぶ結腰役に昭子女王、理髪役は[[典侍]]であるとともに兼通の側室でもあった[[大江皎子]]であった<ref>『親信卿記』天延2年11月11日条</ref>。その前年に兼通と昭子の娘である[[藤原こう子|媓子]]が入内する際には皇女である選子の[[輦車]]に媓子が同乗する形で内裏に入っている(后に立てられる前の臣下に過ぎない媓子は本来車で内裏に乗り入れることが出来なかったため、天皇の妹で輦車宣旨を受けていた選子の車に同乗する形を取った)<ref>『親信卿記』天延元年2月20日条</ref><ref>栗山圭子「兼通政権の前提-外戚と後見」服藤早苗 編『平安朝の女性と政治文化 宮廷・生活・ジェンダー』(明石書店、2017年) ISBN 978-4-7503-4481-2 P128-131</ref>。
生まれて間もなく母后が没したため、安子の兄である[[藤原兼通]]・[[昭子女王]]夫妻が引き取って堀河殿で育てられた。天延2年の着裳の儀の際に裳の腰を結ぶ結腰役に昭子女王、理髪役は[[典侍]]であるとともに兼通の側室でもあった[[大江皎子]]であった<ref>『親信卿記』天延2年11月11日条</ref>。その前年に兼通と昭子の娘である[[藤原子|媓子]]が入内する際には皇女である選子の[[輦車]]に媓子が同乗する形で内裏に入っている(后に立てられる前の臣下に過ぎない媓子は本来車で内裏に乗り入れることが出来なかったため、天皇の妹で輦車宣旨を受けていた選子の車に同乗する形を取った)<ref>『親信卿記』天延元年2月20日条</ref><ref>栗山圭子「兼通政権の前提-外戚と後見」服藤早苗 編『平安朝の女性と政治文化 宮廷・生活・ジェンダー』(明石書店、2017年) ISBN 978-4-7503-4481-2 P128-131</ref>。


『[[大鏡]]』で「[[賀茂神社|賀茂の明神]]のうけ給へればかく動きなくおはしますなり」と評されたように、歴代でも類を見ない長期の斎院として尊崇を集めた一生は、そのまま母方である[[九条流]][[摂関家]]との歩みであった。内親王自身も摂関家との交流には常に気を配ったらしく、『[[枕草子]]』で中宮[[藤原定子|定子]]との季節の交流が描かれる一方、『大鏡』や『[[栄花物語]]』には[[藤原道長]]との当意即妙なやり取りが記されている。
『[[大鏡]]』で「[[賀茂神社|賀茂の明神]]のうけ給へればかく動きなくおはしますなり」と評されたように、歴代でも類を見ない長期の斎院として尊崇を集めた一生は、そのまま母方である[[九条流]][[摂関家]]との歩みであった。内親王自身も摂関家との交流には常に気を配ったらしく、『[[枕草子]]』で中宮[[藤原定子|定子]]との季節の交流が描かれる一方、『大鏡』や『[[栄花物語]]』には[[藤原道長]]との当意即妙なやり取りが記されている。

2020年7月3日 (金) 06:19時点における版

選子内親王
続柄 村上天皇第10皇女

全名 選子(せんし/のぶこ)
称号 大斎院
身位 一品・内親王
出生 応和4年4月24日964年6月6日
死去 長元8年6月22日1035年7月29日)(享年72)
父親 村上天皇
母親 中宮藤原安子
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選子内親王(せんし(のぶこ)ないしんのう、応和4年4月24日964年6月6日) - 長元8年6月22日1035年7月29日))は、第62代村上天皇の第10皇女。母は中宮藤原安子藤原師輔の娘)。号大斎院(おおさいいん、またはだいさいいん)。同母兄弟に冷泉天皇円融天皇為平親王

生後僅か5日で、母后・安子が産褥死。天延2年11月11日清涼殿にて着裳。天延3年(975年6月25日、斎院・尊子内親王(冷泉天皇皇女)の退下により、12歳で賀茂斎院に卜定される。以来、円融、花山一条三条後一条天皇の5代57年の長きにわたって斎院の任にあり続け、「大斎院」と称された。万寿元年(1024年一品に叙せられた後、長元4年(1031年9月22日に老病により退下、同28日に出家。長元8年(1035年)6月22日薨去、享年72。

人物

生まれて間もなく母后が没したため、安子の兄である藤原兼通昭子女王夫妻が引き取って堀河殿で育てられた。天延2年の着裳の儀の際に裳の腰を結ぶ結腰役に昭子女王、理髪役は典侍であるとともに兼通の側室でもあった大江皎子であった[1]。その前年に兼通と昭子の娘である媓子が入内する際には皇女である選子の輦車に媓子が同乗する形で内裏に入っている(后に立てられる前の臣下に過ぎない媓子は本来車で内裏に乗り入れることが出来なかったため、天皇の妹で輦車宣旨を受けていた選子の車に同乗する形を取った)[2][3]

大鏡』で「賀茂の明神のうけ給へればかく動きなくおはしますなり」と評されたように、歴代でも類を見ない長期の斎院として尊崇を集めた一生は、そのまま母方である九条流摂関家との歩みであった。内親王自身も摂関家との交流には常に気を配ったらしく、『枕草子』で中宮定子との季節の交流が描かれる一方、『大鏡』や『栄花物語』には藤原道長との当意即妙なやり取りが記されている。

清少納言は『枕草子』で理想的な宮仕え先として「宮仕所は、内裏、后宮、その御腹の一品の宮など申したる。斎院、罪深かんなれどおかし」と挙げている。紫式部も『紫式部日記』で斎院に仕える女房を非難しつつ、内親王その人の人柄のゆかしさや斎院御所の風雅で神さびた趣深さは認めている。

歌集

  • 『大斎院前御集』
  • 『発心和歌集』
  • 『大斎院御集』

脚注

  1. ^ 『親信卿記』天延2年11月11日条
  2. ^ 『親信卿記』天延元年2月20日条
  3. ^ 栗山圭子「兼通政権の前提-外戚と後見」服藤早苗 編『平安朝の女性と政治文化 宮廷・生活・ジェンダー』(明石書店、2017年) ISBN 978-4-7503-4481-2 P128-131