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「サクラチヨノオー」の版間の差分

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'''サクラチヨノオー'''(欧字名: {{Lang|en|Sakura Chiyono O}}、[[1985年]][[2月19日]] - [[2012年]][[1月7日]])は、[[日本]]の[[競走馬]]、[[種牡馬]]<ref name="JBIS">{{Cite web|和書|title=サクラチヨノオー|JBISサーチ(JBIS-Search)|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000176226/|website=www.jbis.or.jp|accessdate=2021-05-16}}</ref>。

1988年の[[東京優駿]](日本ダービー)({{GI}})優勝馬。他に同年の[[弥生賞]]({{GII}})、1987年の[[朝日杯3歳ステークス]]({{GI}})を制した。

昭和時代の最後のダービー馬で<ref>{{Cite web |title=【ウマ娘史実発掘隊】実装発表サクラチヨノオーってどんな馬?「気合の差し返し!」伝説のダービー |url=https://tospo-keiba.jp/forecast/8370 |website=東スポ競馬 |date=2022-01-19 |access-date=2024-07-22 |language=ja}}</ref>ある。

== 生涯 ==

=== デビューまで ===
[[サクラセダン]]は1972年に[[北海道]][[静内町]]の[[谷岡牧場]]で生産された牝馬で、1976年の[[中山牝馬ステークス]](OP)など6勝を挙げて[[繁殖牝馬]]となった<ref>{{Cite web|和書|title=サクラセダン|JBISサーチ(JBIS-Search)|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000052290/|website=www.jbis.or.jp|accessdate=2021-05-20}}</ref>。牧場主の谷岡幸一は、[[マルゼンスキー]]が朝日杯3歳ステークス優勝直後に種牡馬の[[種牡馬#シンジケート|シンジケート]]株所有をオーナーに交渉するなど高く評価しており<ref name="優駿1988-3-27">『優駿』1988年3月号 27頁</ref>、そのサクラセダンにマルゼンスキーを配合した<ref name="優駿1988-3-27" />。そして産まれた3番仔の[[サクラトウコウ]]は、1983年の[[函館3歳ステークス]]を優勝した<ref group="注釈">後に[[七夕賞]]({{GIII}})(1986年)も制した。</ref><ref>{{Cite web|和書|title=サクラトウコウ|JBISサーチ(JBIS-Search)|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000138397/|website=www.jbis.or.jp|accessdate=2021-05-20}}</ref>。サクラトウコウの活躍を見てから、谷岡は再びマルゼンスキーを種付けすることを決意<ref name="優駿2002-6-59">『優駿』2002年6月号 59頁</ref>。1985年2月19日、谷岡牧場にて、サクラトウコウの全弟として[[鹿毛]]の仔(7番仔、後のサクラチヨノオー)が誕生した<ref name="優駿2002-6-59" />。

7番仔は、これまでの多くのマルゼンスキー産駒とは異なり、脚が曲がっていなかった。このことから谷岡は手ごたえを感じていた<ref>『Number』196 34頁</ref>。また兄サクラトウコウよりも胴が長く、谷岡は長い距離もこなすことではと考えるようになっていた<ref name="優駿2002-6-59" />。サクラトウコウを管理していた[[境勝太郎]]調教師が牧場を訪れてその仔を高く評価すると<ref name="優駿2002-6-59" />、生後数日後に、「サクラ」の冠名で知られる[[さくらコマース|全演植]]オーナーによる所有、その主戦である境厩舎による管理、[[小島太]]の騎乗までが内定した<ref name="優駿2002-6-59" />。冠名に横綱[[千代の富士]]を組み合わせた「'''サクラチヨノオー'''」と命名される<ref name="優駿2002-6-59" />。

サクラチヨノオーは、2歳になると育成が施され、年末には[[美浦トレーニングセンター]]の境厩舎に入厩した<ref name="優駿2002-6-59" />。

サクラチヨノオーがデビューする前、全と小島は、仲違い状態にあった。1987年の4歳クラシックは、[[サクラスターオー]]で臨むはずだったがコンビ解消、東信二が騎乗していた。それを見ていた調教助手の松本重春は小島に「もう和解しないとまずい。サクラチヨノオーという馬は大仕事をやる気がするんだ。せっかくオーナーが滅多に来ないローカルに来るんだから、頼むから乗ってくれ<ref name=":0" />」と促し、和解が実現する。よってサクラチヨノオーは、予定通り小島が騎乗することとなった<ref name=":0">『週刊Gallop臨時増刊100名馬 Vol.63 サクラローレル』42頁</ref>。

=== 競走馬時代 ===
==== 3歳(1987年) ====
1987年8月8日、[[函館競馬場]]の[[新馬|新馬戦]](芝1000メートル)でデビュー。1番人気の支持で出走し、2番手から直線で先頭となり、後方に3馬身半差を広げて勝利した。この勝利に小島は、物見や[[斜行]]を指摘したが、能力があり、長い距離の方が良いと評した。生産した谷岡は[[ウインズ静内]]で観戦していたが、走りを見た周囲の観客から「大物<ref name="優駿2002-6-60">『優駿』2002年6月号 60頁</ref>」という声が湧き上がった<ref name="優駿2002-6-60" />。兄サクラトウコウが制した函館3歳ステークスを見送り、本州に戻り休養に入った<ref name="優駿1988-5-130">『優駿』1988年5月号 130頁</ref>。

10月の[[中山競馬場]]の芙蓉特別(OP)で復帰し、1番人気で出走した。中団から第3コーナー付近で先行勢に並びかけ、最後の直線で先頭に立つと、後方に2馬身半離して2連勝、[[橋本邦治]]は「楽勝<ref name="優駿1988-2-142">『優駿』1988年2月号 142頁</ref>」と評している。続いて[[東京競馬場]]の[[いちょう特別 (曖昧さ回避)|いちょう特別]](OP)では、後方から追うレースを覚えさせようとしたが、初の不良馬場や進路を容易に確保することができず、前に2馬身半差遅れて、2着に敗れた<ref name="優駿2002-6-60" /><ref name="優駿1988-2-142" />。全は「良馬場なら大丈夫<ref name="優駿1988-2-142" />」としていた。

続いて初の[[重賞]]、関東の3歳チャンピオン決定戦である[[朝日杯フューチュリティステークス|朝日杯3歳ステークス]]({{GI}})に参戦<ref name="優駿1988-2-142" />。関東地方は雪に見舞われ、12月6日の開催が中止となって翌週の13日に振替となったが、13日も雪のため2レースで打ち切りとなった。同じ頃、小島のもとには北海道の実家から「父が危篤」の知らせが入り、小島は実家に帰り父の最期を看取り、葬式をしてから水曜日に美浦トレーニングセンターに戻った<ref name="日刊スポーツ-死亡" />。朝日杯3歳ステークスは12月20日に開催、2週間の延期と、有力馬の故障により、朝日杯3歳ステークスの出走馬は6頭での競走となった<ref name="優駿1988-2-142" />。サクラチヨノオーは初めて耳を塞ぐ馬具を装着し、1.9倍の1番人気の評価を受けて出走した<ref name="優駿1988-2-142" />。

良いスタートから2コーナーでツジノショウグンと競り合う形となった。直線コースまで2頭は並んだままとなり、内にいるサクラチヨノオーは、肩に5発ムチを入れた後に仕掛けられ、外のツジノショウグンには左ムチが連打<ref name="優駿1988-2-143">『優駿』1988年2月号 143頁</ref>。坂の頂上で次第にサクラチヨノオーが優勢となり、ツジノショウグンをクビ差退けて先頭で入線した<ref name="優駿1988-2-143" />。重賞および{{GI}}初勝利となり、また1976年優勝の父マルゼンスキーに続き、親仔制覇を達成した。境は「これまでにない大物<ref name="優駿1988-2-143" />」と評し、今後の戦いに向けて腹部の充実、馬体重の増加を求めていた<ref name="優駿1988-2-143" />。谷岡は、1971年の[[有馬記念]]([[トウメイ]])以来16年振りのタイトル獲得にもかかわらず「目標のレースではないから」と競走後の表彰式を欠席した<ref>『優駿』1988年3月号 28頁</ref>。

[[大川慶次郎]]は、3着のカゲマルまでの3頭の力関係を横一線に評価し「同じAクラスでも、ややBクラスに近いもの<ref name="優駿1988-2-134">『優駿』1988年2月号 134頁</ref>」と判断した<ref name="優駿1988-2-134" />。同じ日に行われた関西の3歳チャンピオン決定戦である[[阪神ジュベナイルフィリーズ|阪神3歳ステークス]]({{GI}})では、朝日杯3歳ステークスと同じ1600メートルを[[サッカーボーイ]]が1分34秒5のレコードで制した<ref>『優駿』1988年2月号 146頁</ref>。

『全日本フリーハンデ』では「それだけの強さを持っているが、やはりそれ以上のプラスアルファを感じさせない」「これ以上大きく育つという馬でもない」と評された。月刊誌の優駿が発表する『フリーハンデ』は、「55」が与えられて3歳関東部門では単独首位となった<ref name="優駿1988-2-115">『優駿』1988年2月号 115頁</ref>{{#tag:ref|「54」の2位は、新潟3歳ステークス後に故障した[[グリンモリー]]、アイビーステークス(OP)をレコードで制したスイートローザンヌが据えられた。<br/>なお、朝日杯3歳ステークス2着のツジノショウグンは「53」。3着のカゲマルは「52」であった。|group="注釈"}}。一方、関西部門首位のサッカーボーイには、テンポイントと同じ「56」という世代最高の評価が与えられた<ref name="優駿1988-2-115" />。

[[JRA賞最優秀2歳牡馬|JRA賞最優秀3歳牡馬]]の記者投票は、サクラチヨノオー15票に対し、127票を集めたサッカーボーイが受賞した<ref>『優駿』1988年2月号 38頁</ref>。

==== 4歳(1988年) ====
4歳の始動戦には、[[共同通信杯|共同通信杯4歳ステークス]](トキノミノル記念、{{GIII}})を選択。2か月ぶりの出走となったが、最終追い切りで馬なり調教を施すなど余力ある状態での復帰戦となった<ref name="優駿2002-6-60" />。朝日杯3歳ステークスで上位3頭が再び集まる中、2.4倍の1番人気で出走した<ref name="優駿1988-4-136">『優駿』1988年4月号 136頁</ref>。逃げるミュゲロワイヤルを追う好位で進んだが、追い上げることができずに後続に捕まり、モガミファニーとモガミナインにかわされて4着に敗退した<ref name="優駿1988-4-136" />。境は軽めの調教を施したことに敗因を求めていた<ref name="優駿1988-5-130" />。大川は終始、円滑に進んだにもかかわらず敗れたことから「惨敗」と評した<ref>『優駿』1988年4月号 130頁</ref>。


[[皐月賞]]の[[トライアル競走]]である[[弥生賞]]<ref name=":0" group="注釈">変則開催のため、東京競馬場での開催。</ref>({{GII}})に参戦した。境は軽めの調教で敗れた反省を生かして、4歳馬には厳しい調教を課した<ref name="優駿2002-6-61">『優駿』2002年6月号 61頁</ref>。最優秀3歳牡馬の座を争ったサッカーボーイの始動戦となり、初めて東西3歳王者の直接対決が実現した<ref name="優駿1988-5-130" />。サッカーボーイが1.6倍の1番人気に推され、それに次ぐ5.5倍の2番人気であった<ref name="優駿1988-5-130" />。
'''サクラチヨノオー'''とは[[日本]]の[[競走馬]]、[[種牡馬]]である。[[1988年]]の[[東京優駿|日本ダービー]]、[[1987年]]の[[朝日杯フューチュリティステークス|朝日杯3歳ステークス]]優勝。


サッカーボーイと[[京成杯]]({{GIII}})を制した3番人気のトウショウマリオが[[単枠指定制度|単枠指定]]となったが、サクラチヨノオーには適用されなかった<ref>『優駿』1988年5月号 131頁</ref>。スタートから前方を進み「他の馬が行かなかった」ために仕方なく逃げ、1000メートルを1分1秒8で通過するスローペースを刻んだ<ref name="優駿1988-5-130" />。直線では単枠指定の2頭が大外から追い込んでいた<ref name="優駿1988-5-130" />。しかし、あまりに後方が迫り来ず、小島が途中で後方を振り返る余裕を見せた<ref name="優駿1988-5-130" />。結局それらに2馬身離し、逃げ切り勝利。境が「ジョッキーの作戦勝ち<ref name="優駿1988-5-130" />」と評したように、敗れたサッカーボーイの評価が揺るぐことなく、クラシックの有力馬とされていた<ref name="優駿2002-6-60" />。
== 誕生背景 ==
母・サクラセダンは重賞になる前の[[中山牝馬ステークス]]に勝った馬である。[[1981年]]に[[マルゼンスキー]]との間に生まれた兄・[[サクラトウコウ]]は[[1983年]]の[[函館2歳ステークス|函館3歳ステークス]]に優勝。兄が「クラシック候補」と呼ばれた[[1984年]]の春、[[谷岡牧場]]でふたたびサクラセダンとマルゼンスキーの交配が行われ、翌年誕生したのがサクラチヨノオーである。馬名は[[小島太]]騎手と親交があり、当時絶頂期を迎えていた横綱・[[千代の富士貢]]から取られた。


== 競走馬時代 ==
===== 皐月賞 =====
続いて、皐月賞<ref name=":0" group="注釈" />({{GI}})に出走。敗戦時の優勝馬であるサッカーボーイ、ミュゲロワイヤルがアクシデントにより回避するなど<ref name="優駿1988-6-136">『優駿』1988年6月号 136頁</ref>、有力視された馬の出走がなかったが、4.2倍の2番人気という評価であった<ref name="優駿1988-6-136" />。代わって1番人気に推されたのは、共同通信杯4歳ステークスで先着され、[[スプリングステークス]]勝利から参戦したモガミナイン、3番人気は弥生賞で下したトウショウマリオとなり単勝オッズは「三強」を形成した。しかし、「三強といってもどこか頼りない<ref name="優駿1988-6-136" />」(野村英俊)という評価であった。
=== 3歳 ===
[[1987年]]夏、[[函館競馬場|函館開催]]の最初の[[新馬]]戦でデビュー。鞍上は長年、全演植の専属[[騎手]]として名を馳せてきた[[小島太]]だった。小島はこの年、全演植と仲違いをしてサクラ軍団の競走馬すべての騎乗から外されていたが、この新馬戦からふたたびコンビを組むことになった。単勝1.0倍の本命に支持されたサクラチヨノオーは、直線だけで3馬身半差をつけて勝利した。このレースにより「サクラトウコウの弟は走る」と評判になった。


1枠2番の内枠から「好スタート<ref>『優駿』1988年6月号 70頁</ref>」([[岡嶋二人]])となったが、アイビートウコウとキョウシンムサシの2頭がハナを奪い逃げに出て、それらに離された3番手につけた。先頭2頭の1000メートル通過は、59秒8という平均ペースとなり、先行有利の流れであった<ref name="優駿2002-6-61" />。最後の直線に入り、坂に差し掛かる手前で後退した逃げ馬2頭をかわして先頭となった<ref name="優駿2002-6-61" />。しかしその後盛んに追われても伸びず、後方待機から追い込んだヤエノムテキ、ディクターランドに差し切られ3着に敗退した<ref name="優駿2002-6-61" />。毎日杯4着と7着から参戦した9番人気のヤエノムテキ、14番人気のディクターランドという低評価の2頭に敗れた。そのため、早熟説やクラシック不向き説が盛んに唱えられ、「3着とはいっても内容が悪すぎる<ref name="優駿2002-6-61" />」「あれではとてもダービーでは期待できない<ref name="優駿2002-6-61" />」というマスコミの評価が飛び交っていた<ref name="優駿2002-6-61" />。中でも大川と梶山隆平は、このように回顧している。{{Quotation|サクラチヨノオーにとっては、弥生賞よりもきつい流れになったこと、そしてチヨノオー自身が、優等生的なものを打ち破るだけの力がついていなかったことが結果3着となったと見ていいだろう。|[[大川慶次郎]]<ref>『優駿』1988年6月号 128頁</ref>}}{{Quotation|やはり勝つのはこの馬(サクラチヨノオー)かと思ったが残る1ハロンで軽くヤエノムテキに交わされた{{ママ}}のは意外。弥生賞どおりなら楽勝の計算が成り立つのだが、そこが競馬。距離延長のダービーでは苦しくなったようだ。|[[梶山隆平]]<ref>『優駿』1988年6月号 129頁</ref>}}
兄が制した函館3歳ステークスを見送り<ref name="yusyun198805" />出走した[[中山競馬場|中山競馬]]の芙蓉特別も1.4倍の本命に支持されて勝利した。3戦目の[[いちょうステークス|いちょう特別]]でも1.3倍の本命に支持されたが、不良馬場に加え、直線で包まれる不利<ref name="yusyun198805">[[日本中央競馬会]]『[[優駿]]』1988年5月号、pp.130-131</ref>の影響で逃げたマイネルロジックを捕まえられず2着に敗れた。


===== 東京優駿(日本ダービー) =====
陣営は次走に関東3歳馬No.1を決める[[朝日杯フューチュリティステークス|朝日杯3歳ステークス]]を選択した。この年、関東地方は雪に見舞われ、[[12月6日]]の中山競馬は中止となって翌週の11日に振替となり、13日も雪のため2レースで打ち切りとなった。小島のもとには北海道の実家から「父が危篤」の知らせが入り、小島は実家に帰り父の最期を看取り、葬式を出して水曜日には美浦に戻っての騎乗となった。
5月29日の[[東京優駿]](日本ダービー)に参戦。サクラチヨノオーが皐月賞の不振だったこともあり、力の抜けた馬がいないと判断したマスコミは「横一線<ref name="優駿1988-7-11">『優駿』1988年7月号 11頁</ref>」「戦国ダービー<ref name="優駿1988-7-130">『優駿』1988年7月号 130頁</ref>」とかいた。当日の東京競馬場には史上第3位の入場人員15万9158人が集まり、投じられた260億9266万6100円は、ダービー史上最高額および中央競馬史上最高額の売上であった<ref name="優駿1988-7-130" />。


レース数日前、[[東京都]][[渋谷区]]の[[NHKホール]]にて行われた「[[ダービーフェスティバル]]’88」では、[[スポーツ新聞]]6紙合同の予想が披露された<ref name="優駿1988-7-130" />。出席した記者全員がサクラチヨノオーを見切り、[[予想印]]は無印<ref group="注釈">1着ないし3着以内は「論外、問題外」との見解</ref>であった<ref name="優駿1988-7-130" />。レースは皐月賞を回避し、トライアル競走の[[NHK杯 (競馬)|NHK杯]]4着から参戦したサッカーボーイが1番人気に推された。しかし単勝オッズ5.8倍、支持率は12.75パーセントに留まり、人気は割れていた<ref>『優駿』1988年7月号 128頁</ref>。さらに、当日の関東および関西の競馬新聞の予想印は、サッカーボーイを本命(◎)に据えたものはおらず、専門家の間でも評価が分かれていた<ref name="優駿1988-7-127">『優駿』1988年7月号 127頁</ref>。以下6.4倍の2番人気には皐月賞を制したヤエノムテキ<ref name="netkeiba-ダービー">{{Cite web|和書|title=東京優駿|1988年05月29日 {{!}} 競馬データベース - netkeiba.com|url=https://db.netkeiba.com/race/198805050410/|website=db.netkeiba.com|accessdate=2021-05-20}}</ref>。サクラチヨノオーは9.4倍の3番人気となり、同じ9.4倍の4番人気にはNHK杯3着のコクサイトリプルが続いた<ref name="netkeiba-ダービー" />。
2週続きの日程変更、それに有力馬の故障の影響で、朝日杯3歳ステークスの出走馬は6頭にまで減っていた。少頭数で行われたレースはスタートから内のサクラチヨノオーと外のツジノショウグンが並走する形で淡々と進み、そのまま最後の直線に向くと、サクラチヨノオーがツジノショウグンをクビ差振り切って優勝した。しかし『全日本フリーハンデ』では「それだけの強さを持っているが、やはりそれ以上のプラスアルファを感じさせない」「これ以上大きく育つという馬でもない」と評された。この年の[[JRA賞最優秀2歳牡馬|JRA賞最優秀3歳牡馬]]には、[[阪神ジュベナイルフィリーズ|阪神3歳ステークス]]で優勝した[[サッカーボーイ]]が選出された。同賞の記者投票ではサッカーボーイの127票に対して15票を得るにとどまった<ref>『優駿』1988年2月号、p.38</ref>。


小島は、ダービーフェスティバルやマスコミの見解を知り、サクラチヨノオーに対する評価に不満を抱いていた<ref name="優駿1988-7-130" /><ref name="優駿1988-7-72">『優駿』1988年7月号 72頁</ref>。勝利のためにサッカーボーイよりも、メジロアルダンとコクサイトリプルというデビューから4戦目の2頭を特に警戒していた<ref name="優駿1988-7-72" />。前週に行われた[[優駿牝馬]](オークス)ではスイートローザンヌで参戦し、理想の位置で勝利を確信した途端に[[骨折]]を発症し、競走中止および[[予後不良]]となったことから自身の運の無さを感じながら東京優駿に参戦した<ref name="優駿1988-7-72" />。
=== 4歳 ===
[[1988年]]初戦の[[共同通信杯|共同通信杯4歳ステークス]]では、出走馬中唯一の重賞勝ちの実績から1番人気に支持されたが、序盤からミュゲロワイヤルに先手を奪われ、そのまま2番手で最後の直線に入ると、後ろから来た馬にもかわされて4着に敗れた。管理調教師の[[境勝太郎]]は調整不足を敗因に挙げている<ref name="yusyun198805" />。


2枠5番から発走した。大外枠のアドバンスモアが果敢に逃げ、その7,8馬身離れた2番手で第1コーナーを通過した<ref name="優駿1988-7-8-9">『優駿』1988年7月号 8-9頁</ref>。アドバンスモアが第3コーナー付近で失速して後退し、代わってサクラチヨノオーなど数頭の先行勢が並んでいた<ref name="優駿1988-7-8-9" />。最終コーナーにて、馬場の外側からサクラチヨノオーが進出し、先頭となった。坂に差し掛かると、内からメジロアルダン外からコクサイトリプル、一番外からヤエノムテキが追い上げていた<ref name="優駿1988-7-8-9" />。坂を登りきり、残り200メートルを通過するとメジロアルダンにかわされて半馬身のリードを許していた<ref name="優駿1988-7-8-9" />。しかし小島は慌てず、右後方のコクサイトリプルを確認してから追い込みを始めた<ref name="優駿1988-7-127" />。小島に応えてサクラチヨノオーは再び加速してメジロアルダンに迫り、ゴール板直前でクビ差だけ差し返して先頭で入線。2分26秒3で走破し、1982年の[[バンブーアトラス]]のレースレコードを0秒2更新するレコードタイムで優勝した<ref>『優駿』1988年7月号 11頁</ref>。
次に出走した[[弥生賞]]でサッカーボーイと初対決となった。スタートから先頭を奪うと、1000メートル通過1分1秒8<ref name="yusyun198805" />のスローペースで逃げ、そのまま後続を寄せ付けず2着トウショウマリオに2馬身の差を付け逃げ切った<ref name="yusyun198805" />。一方のサッカーボーイは3着だった。


[[持込馬]]のために日本ダービー出走が叶わなかった父・マルゼンスキーの仔として、直前の故障のために日本ダービー出走が叶わなかった兄・サクラトウコウの弟として日本ダービー制覇を果たした<ref>『優駿』1988年8月号 6頁</ref>。全は日本ダービー直前の5月12日に、前年の二冠馬[[サクラスターオー]]を亡くしたことから「スターオーの霊があと押ししてくれたかな<ref name="優駿1988-7-11" />」と発言。境は厩舎開業22年目にしてクラシック競走および日本ダービー制覇を果たし、境の父が亡くなる時でも見せなかった涙を人前で初めて見せた<ref name="優駿1988-7-131">『優駿』1988年7月号 131頁</ref>。小島は、1978年の[[サクラショウリ]]以来2勝目の日本ダービー制覇を達成。小島の母は、[[北海道]][[小清水町]]の実家で前年12月に亡くした夫(太の父)の遺影を持って観戦し、涙を流していた<ref name="優駿1988-7-131" />。表彰式では、小島に[[トヨタ自動車]]から[[トヨタ・スープラ]]が、[[麻倉未稀]]からキスがプレゼントされ<ref>『優駿』1988年7月号 12頁</ref>、その日の夜には東京都[[日野市]]の全の自宅で祝勝会が行われた<ref name="優駿1988-7-131" />。大川はこう回顧する。{{Quotation|共同通信杯(4歳ステークス)ではミュゲロワイヤルを追って一杯となり、皐月賞ではヤエノムテキとディクターランドに交わされた{{ママ}}(サクラ)チヨノオーとは、同一の馬ではないと思うほど、競って強いメジロアルダンを差し返してしまった姿には驚いた。|[[大川慶次郎]]<ref>『優駿』1988年7月号 126頁</ref>}}
[[皐月賞]]では、[[スプリングステークス]]を勝ったモガミナインに次ぐ2番人気に支持された。レースはアイビートウコウとキョウシンムサシが競り合ってハイペースになり、直線入り口で早めに仕掛けたが、後方で待機していた伏兵の[[ヤエノムテキ]]、ディクターランドに交わされて3着に敗れた。


==== 5歳(1989年) ====
その後、[[5月12日]]、治療中の[[サクラスターオー]]が、傷めていなかったほうの右前脚も脱臼して安楽死処分となった。サクラチヨノオーは関係者たちの期待を背負ってダービーに挑むこととなった。
東京優駿の後に右前脚浅[[屈腱炎]]を発症し、長期離脱となった<ref name="優駿2002-6-63">『優駿』2002年6月号 63頁</ref>。その間に、1歳下の半弟サクラホクトオー(父:トウショウボーイ)が朝日杯3歳ステークスに優勝し、兄弟制覇を遂げた。


[[1989年]]5月、[[安田記念]]で350日ぶりの復帰<ref>『優駿』1989年7月号 140頁</ref>。長期療養明けにもかかわらず[[ホクトヘリオス]]、[[リンドホシ]]に次ぐ3番人気に支持されたが<ref>『優駿』1989年7月号 98頁</ref>、ブービー16着に敗退した<ref>{{Cite web|和書|title=安田記念|1989年05月14日 {{!}} 競馬データベース - netkeiba.com|url=https://db.netkeiba.com/race/198905020810/|website=db.netkeiba.com|accessdate=2021-05-20}}</ref>。続く[[宝塚記念]]でも4番人気に支持されたが、競走中に故障を発生して失速<ref name="優駿1988-7-18">『優駿』1989年7月号 18頁</ref>。ブービーからさらに大差をつけられた最下位16着となった<ref name="優駿1988-7-18" />。競走後に屈腱炎の再発が確認されて、競走馬を引退。1989年6月25日に[[札幌競馬場]]で引退式が行われた<ref>『優駿』1989年8月号 89頁</ref>。
日本ダービーでは混戦模様の中、サッカーボーイ、ヤエノムテキに次ぐ3番人気に推された。レースはアドバンスモアが超ハイペースで逃げる中、大きく離れた2、3番手を進み、3コーナーでいったん5、6番手に控えたあと、ふたたび進出を開始して最後の直線を迎えて先頭に立った。いったんは内から強襲してきた[[メジロアルダン]]に交わされかけ、外からコクサイトリプルにも迫られたものの、クビ差差し返して優勝。勝ちタイム2分26秒3は当時のレースレコードであった。小島、[[岡部幸雄]](メジロアルダン)、[[柴田政人]](コクサイトリプル)と関東のベテランジョッキーによるこの激しい叩き合いは名勝負のひとつに数えられている。


=== 故障とその後 ===
=== 種牡馬時代 ===
1993年にデビューした初年度産駒からサクラスーパーオーが[[第54回皐月賞]]で2着になって期待を集めたが、怪我で大成しなかった。[[1997年]]にはサクラエキスパートが[[愛知杯]]を勝ち、[[中央競馬]]の重賞を制覇。1998年から2001年にかけては、マイターンがダートのGIIクラスの重賞を3勝した。[[2002年]]から2003年にかけては[[ホッカイドウ競馬]]でツギタテヒカリが重賞を制覇した。
日本ダービー後に右前脚浅[[屈腱炎]]を発症、療養は丸1年におよんだ。その間、1歳下の半弟・[[サクラホクトオー]]が朝日杯3歳ステークスに優勝し、兄弟制覇を遂げている。


2002年に種牡馬を引退<ref name="優駿2002-6-63" />。[[去勢]]され、[[功労馬]]として[[新和牧場]]にて余生を送った。[[2012年]][[1月6日]]に立ち上がることができなくなり、翌[[1月7日]]に[[老衰]]のため死亡した<ref name="日刊スポーツ-死亡">{{Cite web|和書|title=サクラチヨノオー大往生「立派な最期」|url=https://www.nikkansports.com/race/news/p-rc-tp0-20120111-887855.html|website=nikkansports.com|accessdate=2021-05-20|language=ja}}</ref>。
[[1989年]]5月、[[安田記念]]で復帰した。長期療養明けにもかかわらず3番人気に支持されたが、まったくよいところがなくブービーの16着に惨敗した。続く[[宝塚記念]]でも人気となったが、ブービーからさらに大差のついた最下位16着に敗れ、競走後に屈腱炎の再発が確認されたことから引退が決まった。1989年6月25日に[[札幌競馬場]]で引退式が行われた<ref>『優駿』1989年8月号、p.89</ref>。


== 競走成績 ==
== 競走成績 ==
以下の内容は、[[netkeiba.com]]<ref>{{Cite web|和書|title=サクラチヨノオーの競走成績 {{!}} 競走馬データ|url=https://db.netkeiba.com/horse/1985100743/|website=netkeiba.com|accessdate=2021-05-16|language=ja}}</ref>およびJBISサーチ<ref>{{Cite web|和書|title=競走成績:全競走成績|サクラチヨノオー|JBISサーチ(JBIS-Search)|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000176226/record/|website=www.jbis.or.jp|accessdate=2021-05-20}}</ref>の情報に基づく。
{|style="border-collapse:collapse; font-size:90%; text-align:center; white-space:nowrap"
{| style="border-collapse:collapse; font-size:90%; text-align:center; white-space:nowrap"
!競走日!!競馬場!!競走名!!格!!距離(馬場)!!頭<br />数!!枠<br />番!!馬<br />番!!オッズ<br />(人気)!!着順!!タイム<br />(上り3F)!!着差!!騎手!!斤量!!1着馬(2着馬)
!競走日
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|(メイストーム)
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|[[いちょう特別 (曖昧さ回避)|いちょう特別]]
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|マイネルロジック
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|[[バンブーメモリー]]
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|[[阪神競馬場|阪神]]
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|[[宝塚記念]]
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|56
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|[[イナリワン]]
|[[イナリワン]]
|}
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== 種牡馬として ==
== 種牡馬成績 ==
[[1993年]]にデビューした初年度産駒からサクラスーパーオーが[[第54回皐月賞]]で2着になって期待を集めたが、怪我で大成しなかった。[[1997年]]にはサクラエキスパートが[[愛知杯]]を勝ち、[[中央競馬]]の重賞を制覇。[[1998年]]から[[2001年]]にかけては、マイターンがダートのGIIクラスの重賞を3勝した。[[2002年]]から[[2003年]]にかけては[[ホッカイドウ競馬]]でツギタテヒカリが重賞を制覇した。


=== 主な産駒 ===
マルゼンスキーの後継種牡馬として期待を集めたが、天皇賞(秋)優勝の[[ネーハイシーザー]]を出した全兄・サクラトウコウに比べると物足りない結果に終わった。

[[2001年]]に種牡馬を引退。[[去勢]]され、[[功労馬]]として[[新和牧場]]にて余生を送っていた。死の前日から立ち上がることができなくなり、[[2012年]][[1月7日]]に[[老衰]]のため死亡した<ref>[http://www.nikkansports.com/race/news/p-rc-tp0-20120111-887855.html サクラチヨノオー大往生「立派な最期」]</ref>。

=== おもな産駒 ===
*1991年産
*1991年産
**サクラスーパーオー(皐月賞2着)
**サクラスーパーオー(皐月賞2着)<ref>{{Cite web|和書|title=サクラスーパーオー|JBISサーチ(JBIS-Search)|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000243722/|website=www.jbis.or.jp|accessdate=2021-05-20}}</ref>
*1993年産
*1993年産
**サクラエキスパート([[愛知杯]])<ref>{{Cite web|和書|title=サクラエキスパート|JBISサーチ(JBIS-Search)|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000266207/|website=www.jbis.or.jp|accessdate=2021-05-20}}</ref>
**サクラエキスパート(愛知杯)
**アドマイヤビゴール([[神戸新聞杯]]2着)
**アドマイヤビゴール([[神戸新聞杯]]2着)<ref>{{Cite web|和書|title=アドマイヤビゴール|JBISサーチ(JBIS-Search)|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000269511/|website=www.jbis.or.jp|accessdate=2021-05-20}}</ref>
*1994年産
*1994年産
**コウチエラミー(札幌日刊スポーツ杯)
**コウチエラミー(札幌日刊スポーツ杯)<ref>{{Cite web|和書|title=コウチエラミー|JBISサーチ(JBIS-Search)|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000278520/|website=www.jbis.or.jp|accessdate=2021-05-20}}</ref>
*1995年産
*1995年産
**マイターン([[東海ステークス|東海ウインターステークス]]、[[オグリキャップ記念]]、[[ダイオライト記念]])
**[[マイターン]]([[東海ステークス|東海ウインターステークス]]、[[オグリキャップ記念]]、[[ダイオライト記念]])<ref>{{Cite web|和書|title=マイターン|JBISサーチ(JBIS-Search)|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000296596/|website=www.jbis.or.jp|accessdate=2021-05-20}}</ref>

=== ブルードメアサイアーとしての主な産駒 ===
*1997年産
**ミカワウエスタン(こまくさ賞)
*2005年産
**サクラロミオ(平安S 3着)
*2011年産
**グルームアイランド(報知オールスターC)


== 血統表 ==
== 血統表 ==
248行目: 313行目:
|fmf = [[バックパサー|Buckpasser]]
|fmf = [[バックパサー|Buckpasser]]
|fmm = Quill
|fmm = Quill
|mff = Prince Bio
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|mfm = Sraffa
|mfm = Sraffa
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|mmf = [[グレイソヴリン|Grey Sovereign]]
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|mmmf = [[マームード|Mahmoud]]
|mmmf = [[マームード|Mahmoud]]
|mmmm = Fille de Salut
|mmmm = Fille de Salut
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|ref1 = <ref name="ped">{{Cite web|和書|url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000176226/pedigree/|title=血統情報:5代血統表|サクラチヨノオー|JBISサーチ|work=JBISサーチ|publisher=公益社団法人日本軽種馬協会|accessdate=2015-06-28}}</ref>
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|mlin =
|ref2 =
|ref2 =
278行目: 343行目:
}}
}}
;母系
;母系
:[[サクラプレジデント]]の母、セダンフォーエバーはサクラチヨノオーの全妹である<ref>{{Cite web|author=栗山求|url=http://kuriyama.miesque.com/?eid=1558|title=オーシャンSはサクラゴスペル|publisher=栗山求の血統BLOG|date=2015-03-12|accessdate=2015-06-29}}</ref>
:[[サクラプレジデント]]の母、セダンフォーエバーはサクラチヨノオーの全妹である。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist}}
<references group="注釈" />

=== 出典 ===
{{Reflist|3}}

== 参考文献 ==
* 『[[優駿]]』([[日本中央競馬会]])
** 1988年2月号
*** 「1987年度フリーハンデ決定」
*** [[大川慶次郎]]「【げっかん評論(東)】上位3頭は甲乙つけがたい」
*** [[橋本邦治]](東京競馬記者クラブ会友)「【今月の記録室】壮絶な鍔ぜりあい 軍配はチヨノオーに」
** 1988年3月号
*** 結城恵助「【{{JRAGI}}競走勝ち馬の故郷紀行】名門を守る土」
** 1988年4月号
*** 大川慶次郎「【げっかん評論(東)】強烈な逃げ切り ミュゲロワイヤル】」
*** 古川義郎([[共同通信]])「【今月の記録室】また新たなるヒーロー 4歳勢は大混戦」
** 1988年5月号
*** 石井誠([[報知新聞社|報知新聞]])「【今月の記録室】東の3歳チャンピオン 意地と気迫で快勝」
** 1988年6月号
*** [[岡嶋二人]]「【第48回皐月賞観戦記】始めはいつも迷路の中」
*** 大川慶次郎「【げっかん評論(東)】運と力で制した ヤエノムテキ」
*** 梶山隆平「【げっかん評論(西)】底知れぬ強さ ヤエノムテキ」
*** 野村英俊([[東京中日スポーツ]])「【今月の記録室】有力馬の戦線離脱が波乱の予兆だった」
** 1988年7月号
*** 「第55回日本ダービー詳報」
*** [[石川喬司]]「【馬屋先生のパカパカ問答 41】小島太騎手」
*** 大川慶次郎「【げっかん評論(東)】無事是ダービー馬 サクラチヨノオー」
*** 梶山隆平「【げっかん評論(西)】愛馬を信頼 好判断の小島太」
*** 天野保彦([[日刊スポーツ]])「【今月の記録室】ガッツポーズは多くの歓喜の集約だった」 
** 1989年7月号
*** 桜井裕夫([[スポーツニッポン]])「【今月の記録室】2人の名手がうんだ豪快な末脚」
** 1989年8月号
*** 本間一幸([[アロースタッド]])「【今月のトピックス】サクラチヨノオー引退 北海道静内で種牡馬に」
** 2002年6月号
*** 阿部珠樹「【サラブレッド・ヒーロー列伝 20世紀を駆けた名馬たち 13】サクラチヨノオー 巻き返してダービー制覇」
* 『Nnuber』([[文藝春秋]])
** 1988年6月5日号
***河野一郎「ナンバーパドック【育ての親が語る、’88年ダービー有力馬 跳べ!わが子よ、栄冠へ】」


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
* {{競走馬成績|netkeiba=1985100743|yahoo=1985100743|jbis=0000176226|racingpost=}}
{{競走馬成績|netkeiba=1985100743|yahoo=1985100743|jbis=0000176226}}
* {{競走馬のふるさと案内所|0000176226|サクラチヨノオー}}
* {{競走馬のふるさと案内所|0000176226|サクラチヨノオー}}
* {{Meiba.jp|1044|サクラチヨノオー}}{{リンク切れ|date=2016年3月}}
* {{Meiba.jp|1044|サクラチヨノオー}}{{リンク切れ|date=2016年3月}}
299行目: 402行目:
[[Category:父内国産の競走馬]]
[[Category:父内国産の競走馬]]
[[Category:日本供用種牡馬]]
[[Category:日本供用種牡馬]]
[[Category:千代の富士貢]]

2024年7月22日 (月) 15:23時点における最新版

サクラチヨノオー
欧字表記 Sakura Chiyono O[1]
品種 サラブレッド[1]
性別 [1]
毛色 鹿毛[1]
生誕 1985年2月19日[1]
死没 2012年1月7日(27歳没)
マルゼンスキー[1]
サクラセダン[1]
母の父 セダン[1]
生国 日本の旗 日本北海道静内町[1]
生産者 谷岡牧場[1]
馬主 (株)さくらコマース[1]
調教師 境勝太郎[1]美浦
調教助手 松本重春
競走成績
生涯成績 10戦5勝[1]
獲得賞金 2億1532万9000円[1]
勝ち鞍
GI 朝日杯3歳S 1987年
GI 東京優駿 1988年
GII 弥生賞 1988年
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サクラチヨノオー(欧字名: Sakura Chiyono O1985年2月19日 - 2012年1月7日)は、日本競走馬種牡馬[1]

1988年の東京優駿(日本ダービー)(GI)優勝馬。他に同年の弥生賞GII)、1987年の朝日杯3歳ステークスGI)を制した。

昭和時代の最後のダービー馬で[2]ある。

生涯

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デビューまで

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サクラセダンは1972年に北海道静内町谷岡牧場で生産された牝馬で、1976年の中山牝馬ステークス(OP)など6勝を挙げて繁殖牝馬となった[3]。牧場主の谷岡幸一は、マルゼンスキーが朝日杯3歳ステークス優勝直後に種牡馬のシンジケート株所有をオーナーに交渉するなど高く評価しており[4]、そのサクラセダンにマルゼンスキーを配合した[4]。そして産まれた3番仔のサクラトウコウは、1983年の函館3歳ステークスを優勝した[注釈 1][5]。サクラトウコウの活躍を見てから、谷岡は再びマルゼンスキーを種付けすることを決意[6]。1985年2月19日、谷岡牧場にて、サクラトウコウの全弟として鹿毛の仔(7番仔、後のサクラチヨノオー)が誕生した[6]

7番仔は、これまでの多くのマルゼンスキー産駒とは異なり、脚が曲がっていなかった。このことから谷岡は手ごたえを感じていた[7]。また兄サクラトウコウよりも胴が長く、谷岡は長い距離もこなすことではと考えるようになっていた[6]。サクラトウコウを管理していた境勝太郎調教師が牧場を訪れてその仔を高く評価すると[6]、生後数日後に、「サクラ」の冠名で知られる全演植オーナーによる所有、その主戦である境厩舎による管理、小島太の騎乗までが内定した[6]。冠名に横綱千代の富士を組み合わせた「サクラチヨノオー」と命名される[6]

サクラチヨノオーは、2歳になると育成が施され、年末には美浦トレーニングセンターの境厩舎に入厩した[6]

サクラチヨノオーがデビューする前、全と小島は、仲違い状態にあった。1987年の4歳クラシックは、サクラスターオーで臨むはずだったがコンビ解消、東信二が騎乗していた。それを見ていた調教助手の松本重春は小島に「もう和解しないとまずい。サクラチヨノオーという馬は大仕事をやる気がするんだ。せっかくオーナーが滅多に来ないローカルに来るんだから、頼むから乗ってくれ[8]」と促し、和解が実現する。よってサクラチヨノオーは、予定通り小島が騎乗することとなった[8]

競走馬時代

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3歳(1987年)

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1987年8月8日、函館競馬場新馬戦(芝1000メートル)でデビュー。1番人気の支持で出走し、2番手から直線で先頭となり、後方に3馬身半差を広げて勝利した。この勝利に小島は、物見や斜行を指摘したが、能力があり、長い距離の方が良いと評した。生産した谷岡はウインズ静内で観戦していたが、走りを見た周囲の観客から「大物[9]」という声が湧き上がった[9]。兄サクラトウコウが制した函館3歳ステークスを見送り、本州に戻り休養に入った[10]

10月の中山競馬場の芙蓉特別(OP)で復帰し、1番人気で出走した。中団から第3コーナー付近で先行勢に並びかけ、最後の直線で先頭に立つと、後方に2馬身半離して2連勝、橋本邦治は「楽勝[11]」と評している。続いて東京競馬場いちょう特別(OP)では、後方から追うレースを覚えさせようとしたが、初の不良馬場や進路を容易に確保することができず、前に2馬身半差遅れて、2着に敗れた[9][11]。全は「良馬場なら大丈夫[11]」としていた。

続いて初の重賞、関東の3歳チャンピオン決定戦である朝日杯3歳ステークスGI)に参戦[11]。関東地方は雪に見舞われ、12月6日の開催が中止となって翌週の13日に振替となったが、13日も雪のため2レースで打ち切りとなった。同じ頃、小島のもとには北海道の実家から「父が危篤」の知らせが入り、小島は実家に帰り父の最期を看取り、葬式をしてから水曜日に美浦トレーニングセンターに戻った[12]。朝日杯3歳ステークスは12月20日に開催、2週間の延期と、有力馬の故障により、朝日杯3歳ステークスの出走馬は6頭での競走となった[11]。サクラチヨノオーは初めて耳を塞ぐ馬具を装着し、1.9倍の1番人気の評価を受けて出走した[11]

良いスタートから2コーナーでツジノショウグンと競り合う形となった。直線コースまで2頭は並んだままとなり、内にいるサクラチヨノオーは、肩に5発ムチを入れた後に仕掛けられ、外のツジノショウグンには左ムチが連打[13]。坂の頂上で次第にサクラチヨノオーが優勢となり、ツジノショウグンをクビ差退けて先頭で入線した[13]。重賞およびGI初勝利となり、また1976年優勝の父マルゼンスキーに続き、親仔制覇を達成した。境は「これまでにない大物[13]」と評し、今後の戦いに向けて腹部の充実、馬体重の増加を求めていた[13]。谷岡は、1971年の有馬記念トウメイ)以来16年振りのタイトル獲得にもかかわらず「目標のレースではないから」と競走後の表彰式を欠席した[14]

大川慶次郎は、3着のカゲマルまでの3頭の力関係を横一線に評価し「同じAクラスでも、ややBクラスに近いもの[15]」と判断した[15]。同じ日に行われた関西の3歳チャンピオン決定戦である阪神3歳ステークスGI)では、朝日杯3歳ステークスと同じ1600メートルをサッカーボーイが1分34秒5のレコードで制した[16]

『全日本フリーハンデ』では「それだけの強さを持っているが、やはりそれ以上のプラスアルファを感じさせない」「これ以上大きく育つという馬でもない」と評された。月刊誌の優駿が発表する『フリーハンデ』は、「55」が与えられて3歳関東部門では単独首位となった[17][注釈 2]。一方、関西部門首位のサッカーボーイには、テンポイントと同じ「56」という世代最高の評価が与えられた[17]

JRA賞最優秀3歳牡馬の記者投票は、サクラチヨノオー15票に対し、127票を集めたサッカーボーイが受賞した[18]

4歳(1988年)

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4歳の始動戦には、共同通信杯4歳ステークス(トキノミノル記念、GIII)を選択。2か月ぶりの出走となったが、最終追い切りで馬なり調教を施すなど余力ある状態での復帰戦となった[9]。朝日杯3歳ステークスで上位3頭が再び集まる中、2.4倍の1番人気で出走した[19]。逃げるミュゲロワイヤルを追う好位で進んだが、追い上げることができずに後続に捕まり、モガミファニーとモガミナインにかわされて4着に敗退した[19]。境は軽めの調教を施したことに敗因を求めていた[10]。大川は終始、円滑に進んだにもかかわらず敗れたことから「惨敗」と評した[20]

皐月賞トライアル競走である弥生賞[注釈 3]GII)に参戦した。境は軽めの調教で敗れた反省を生かして、4歳馬には厳しい調教を課した[21]。最優秀3歳牡馬の座を争ったサッカーボーイの始動戦となり、初めて東西3歳王者の直接対決が実現した[10]。サッカーボーイが1.6倍の1番人気に推され、それに次ぐ5.5倍の2番人気であった[10]

サッカーボーイと京成杯GIII)を制した3番人気のトウショウマリオが単枠指定となったが、サクラチヨノオーには適用されなかった[22]。スタートから前方を進み「他の馬が行かなかった」ために仕方なく逃げ、1000メートルを1分1秒8で通過するスローペースを刻んだ[10]。直線では単枠指定の2頭が大外から追い込んでいた[10]。しかし、あまりに後方が迫り来ず、小島が途中で後方を振り返る余裕を見せた[10]。結局それらに2馬身離し、逃げ切り勝利。境が「ジョッキーの作戦勝ち[10]」と評したように、敗れたサッカーボーイの評価が揺るぐことなく、クラシックの有力馬とされていた[9]

皐月賞
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続いて、皐月賞[注釈 3]GI)に出走。敗戦時の優勝馬であるサッカーボーイ、ミュゲロワイヤルがアクシデントにより回避するなど[23]、有力視された馬の出走がなかったが、4.2倍の2番人気という評価であった[23]。代わって1番人気に推されたのは、共同通信杯4歳ステークスで先着され、スプリングステークス勝利から参戦したモガミナイン、3番人気は弥生賞で下したトウショウマリオとなり単勝オッズは「三強」を形成した。しかし、「三強といってもどこか頼りない[23]」(野村英俊)という評価であった。

1枠2番の内枠から「好スタート[24]」(岡嶋二人)となったが、アイビートウコウとキョウシンムサシの2頭がハナを奪い逃げに出て、それらに離された3番手につけた。先頭2頭の1000メートル通過は、59秒8という平均ペースとなり、先行有利の流れであった[21]。最後の直線に入り、坂に差し掛かる手前で後退した逃げ馬2頭をかわして先頭となった[21]。しかしその後盛んに追われても伸びず、後方待機から追い込んだヤエノムテキ、ディクターランドに差し切られ3着に敗退した[21]。毎日杯4着と7着から参戦した9番人気のヤエノムテキ、14番人気のディクターランドという低評価の2頭に敗れた。そのため、早熟説やクラシック不向き説が盛んに唱えられ、「3着とはいっても内容が悪すぎる[21]」「あれではとてもダービーでは期待できない[21]」というマスコミの評価が飛び交っていた[21]。中でも大川と梶山隆平は、このように回顧している。

サクラチヨノオーにとっては、弥生賞よりもきつい流れになったこと、そしてチヨノオー自身が、優等生的なものを打ち破るだけの力がついていなかったことが結果3着となったと見ていいだろう。 — 大川慶次郎[25]
やはり勝つのはこの馬(サクラチヨノオー)かと思ったが残る1ハロンで軽くヤエノムテキに交わされた〔ママ〕のは意外。弥生賞どおりなら楽勝の計算が成り立つのだが、そこが競馬。距離延長のダービーでは苦しくなったようだ。 — 梶山隆平[26]
東京優駿(日本ダービー)
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5月29日の東京優駿(日本ダービー)に参戦。サクラチヨノオーが皐月賞の不振だったこともあり、力の抜けた馬がいないと判断したマスコミは「横一線[27]」「戦国ダービー[28]」とかいた。当日の東京競馬場には史上第3位の入場人員15万9158人が集まり、投じられた260億9266万6100円は、ダービー史上最高額および中央競馬史上最高額の売上であった[28]

レース数日前、東京都渋谷区NHKホールにて行われた「ダービーフェスティバル’88」では、スポーツ新聞6紙合同の予想が披露された[28]。出席した記者全員がサクラチヨノオーを見切り、予想印は無印[注釈 4]であった[28]。レースは皐月賞を回避し、トライアル競走のNHK杯4着から参戦したサッカーボーイが1番人気に推された。しかし単勝オッズ5.8倍、支持率は12.75パーセントに留まり、人気は割れていた[29]。さらに、当日の関東および関西の競馬新聞の予想印は、サッカーボーイを本命(◎)に据えたものはおらず、専門家の間でも評価が分かれていた[30]。以下6.4倍の2番人気には皐月賞を制したヤエノムテキ[31]。サクラチヨノオーは9.4倍の3番人気となり、同じ9.4倍の4番人気にはNHK杯3着のコクサイトリプルが続いた[31]

小島は、ダービーフェスティバルやマスコミの見解を知り、サクラチヨノオーに対する評価に不満を抱いていた[28][32]。勝利のためにサッカーボーイよりも、メジロアルダンとコクサイトリプルというデビューから4戦目の2頭を特に警戒していた[32]。前週に行われた優駿牝馬(オークス)ではスイートローザンヌで参戦し、理想の位置で勝利を確信した途端に骨折を発症し、競走中止および予後不良となったことから自身の運の無さを感じながら東京優駿に参戦した[32]

2枠5番から発走した。大外枠のアドバンスモアが果敢に逃げ、その7,8馬身離れた2番手で第1コーナーを通過した[33]。アドバンスモアが第3コーナー付近で失速して後退し、代わってサクラチヨノオーなど数頭の先行勢が並んでいた[33]。最終コーナーにて、馬場の外側からサクラチヨノオーが進出し、先頭となった。坂に差し掛かると、内からメジロアルダン外からコクサイトリプル、一番外からヤエノムテキが追い上げていた[33]。坂を登りきり、残り200メートルを通過するとメジロアルダンにかわされて半馬身のリードを許していた[33]。しかし小島は慌てず、右後方のコクサイトリプルを確認してから追い込みを始めた[30]。小島に応えてサクラチヨノオーは再び加速してメジロアルダンに迫り、ゴール板直前でクビ差だけ差し返して先頭で入線。2分26秒3で走破し、1982年のバンブーアトラスのレースレコードを0秒2更新するレコードタイムで優勝した[34]

持込馬のために日本ダービー出走が叶わなかった父・マルゼンスキーの仔として、直前の故障のために日本ダービー出走が叶わなかった兄・サクラトウコウの弟として日本ダービー制覇を果たした[35]。全は日本ダービー直前の5月12日に、前年の二冠馬サクラスターオーを亡くしたことから「スターオーの霊があと押ししてくれたかな[27]」と発言。境は厩舎開業22年目にしてクラシック競走および日本ダービー制覇を果たし、境の父が亡くなる時でも見せなかった涙を人前で初めて見せた[36]。小島は、1978年のサクラショウリ以来2勝目の日本ダービー制覇を達成。小島の母は、北海道小清水町の実家で前年12月に亡くした夫(太の父)の遺影を持って観戦し、涙を流していた[36]。表彰式では、小島にトヨタ自動車からトヨタ・スープラが、麻倉未稀からキスがプレゼントされ[37]、その日の夜には東京都日野市の全の自宅で祝勝会が行われた[36]。大川はこう回顧する。

共同通信杯(4歳ステークス)ではミュゲロワイヤルを追って一杯となり、皐月賞ではヤエノムテキとディクターランドに交わされた〔ママ〕(サクラ)チヨノオーとは、同一の馬ではないと思うほど、競って強いメジロアルダンを差し返してしまった姿には驚いた。 — 大川慶次郎[38]

5歳(1989年)

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東京優駿の後に右前脚浅屈腱炎を発症し、長期離脱となった[39]。その間に、1歳下の半弟サクラホクトオー(父:トウショウボーイ)が朝日杯3歳ステークスに優勝し、兄弟制覇を遂げた。

1989年5月、安田記念で350日ぶりの復帰[40]。長期療養明けにもかかわらずホクトヘリオスリンドホシに次ぐ3番人気に支持されたが[41]、ブービー16着に敗退した[42]。続く宝塚記念でも4番人気に支持されたが、競走中に故障を発生して失速[43]。ブービーからさらに大差をつけられた最下位16着となった[43]。競走後に屈腱炎の再発が確認されて、競走馬を引退。1989年6月25日に札幌競馬場で引退式が行われた[44]

種牡馬時代

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1993年にデビューした初年度産駒からサクラスーパーオーが第54回皐月賞で2着になって期待を集めたが、怪我で大成しなかった。1997年にはサクラエキスパートが愛知杯を勝ち、中央競馬の重賞を制覇。1998年から2001年にかけては、マイターンがダートのGIIクラスの重賞を3勝した。2002年から2003年にかけてはホッカイドウ競馬でツギタテヒカリが重賞を制覇した。

2002年に種牡馬を引退[39]去勢され、功労馬として新和牧場にて余生を送った。2012年1月6日に立ち上がることができなくなり、翌1月7日老衰のため死亡した[12]

競走成績

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以下の内容は、netkeiba.com[45]およびJBISサーチ[46]の情報に基づく。

競走日 競馬場 競走名 距離(馬場)

オッズ

(人気)

着順 タイム

(上がり3F)

着差 騎手 斤量

[kg]

1着馬(2着馬)
1987.08.08 函館 3歳新馬 芝1000m(重) 5 5 5 001.00(1人) 01着 00-59.5(36.1) -0.6 0小島太 53 (シーバードパワー)
0000.10.03 中山 芙蓉特別 OP 芝1600m(良) 9 8 8 001.40(1人) 01着 01:35.8(38.0) -0.4 0小島太 53 (メイストーム)
0000.10.31 東京 いちょう特別 OP 芝1600m(不) 7 4 4 001.30(1人) 02着 01:38.2(37.3) -0.4 0小島太 54 マイネルロジック
0000.12.20 中山 朝日杯3歳S GI 芝1600m(良) 6 5 5 001.90(1人) 01着 01:35.6(35.7) -0.1 0小島太 54 (ツジノショウグン)
1988.02.14 東京 共同通信杯4歳S GIII 芝1800m(良) 12 3 3 002.40(1人) 04着 01:48.4(36.4) -0.5 0小島太 56 ミュゲロワイヤル
0000.03.06 東京 弥生賞 GII 芝2000m(良) 11 5 7 005.50(2人) 01着 02:01.1(35.6) -0.3 0小島太 55 (トウショウマリオ)
0000.04.17 東京 皐月賞 GI 芝2000m(良) 18 1 2 004.20(2人) 03着 02:01.5(36.4) -0.2 0小島太 57 ヤエノムテキ
0000.05.29 東京 東京優駿 GI 芝2400m(良) 24 2 5 009.40(3人) 01着 02:26.3(36.2) -0.1 0小島太 57 メジロアルダン
1989.05.14 東京 安田記念 GI 芝1600m(稍) 17 2 4 007.20(3人) 16着 01:37.7(39.8) -3.4 0小島太 57 バンブーメモリー
0000.06.11 阪神 宝塚記念 GI 芝2200m(良) 16 7 12 010.60(4人) 16着 02:18.8(41.4) -4.8 0小島太 56 イナリワン

種牡馬成績

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主な産駒

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ブルードメアサイアーとしての主な産駒

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  • 1997年産
    • ミカワウエスタン(こまくさ賞)
  • 2005年産
    • サクラロミオ(平安S 3着)
  • 2011年産
    • グルームアイランド(報知オールスターC)

血統表

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サクラチヨノオー血統 (血統表の出典)[§ 1]

マルゼンスキー
1974 鹿毛
父の父
Nijinsky
1967 鹿毛
Northern Dancer Nearctic
Natalma
Flaming Page Bull Page
Flaring Top
父の母
*シル
Shill
1970 鹿毛
Buckpasser Tom Fool
Busanda
Quill Princequillo
Quick Touch

サクラセダン
1972 鹿毛
*セダン
Sedan
1955 鹿毛
Prince Bio Prince Rose
Biologie
Sraffa Oresenigo
Signa
母の母
*スワンズウッドグローヴ
Swanswood Grove
1960 黒鹿毛
Grey Sovereign Nasrullah
Kong
Fakhry Mahmoud
Fille de Salut
母系(F-No.) スワンズウッドグローヴ系(FN:16-a) [§ 2]
5代内の近親交配 Prince Rose 5×4、Nearco 5×5、Menow 5・5(父系内) [§ 3]
出典
  1. ^ [52]
  2. ^ [53][52]
  3. ^ [52]
母系
サクラプレジデントの母、セダンフォーエバーはサクラチヨノオーの全妹である。

脚注

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注釈

[編集]
  1. ^ 後に七夕賞GIII)(1986年)も制した。
  2. ^ 「54」の2位は、新潟3歳ステークス後に故障したグリンモリー、アイビーステークス(OP)をレコードで制したスイートローザンヌが据えられた。
    なお、朝日杯3歳ステークス2着のツジノショウグンは「53」。3着のカゲマルは「52」であった。
  3. ^ a b 変則開催のため、東京競馬場での開催。
  4. ^ 1着ないし3着以内は「論外、問題外」との見解

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o サクラチヨノオー|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2021年5月16日閲覧。
  2. ^ 【ウマ娘史実発掘隊】実装発表サクラチヨノオーってどんな馬?「気合の差し返し!」伝説のダービー”. 東スポ競馬 (2022年1月19日). 2024年7月22日閲覧。
  3. ^ サクラセダン|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2021年5月20日閲覧。
  4. ^ a b 『優駿』1988年3月号 27頁
  5. ^ サクラトウコウ|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2021年5月20日閲覧。
  6. ^ a b c d e f g 『優駿』2002年6月号 59頁
  7. ^ 『Number』196 34頁
  8. ^ a b 『週刊Gallop臨時増刊100名馬 Vol.63 サクラローレル』42頁
  9. ^ a b c d e 『優駿』2002年6月号 60頁
  10. ^ a b c d e f g h 『優駿』1988年5月号 130頁
  11. ^ a b c d e f 『優駿』1988年2月号 142頁
  12. ^ a b サクラチヨノオー大往生「立派な最期」”. nikkansports.com. 2021年5月20日閲覧。
  13. ^ a b c d 『優駿』1988年2月号 143頁
  14. ^ 『優駿』1988年3月号 28頁
  15. ^ a b 『優駿』1988年2月号 134頁
  16. ^ 『優駿』1988年2月号 146頁
  17. ^ a b 『優駿』1988年2月号 115頁
  18. ^ 『優駿』1988年2月号 38頁
  19. ^ a b 『優駿』1988年4月号 136頁
  20. ^ 『優駿』1988年4月号 130頁
  21. ^ a b c d e f g 『優駿』2002年6月号 61頁
  22. ^ 『優駿』1988年5月号 131頁
  23. ^ a b c 『優駿』1988年6月号 136頁
  24. ^ 『優駿』1988年6月号 70頁
  25. ^ 『優駿』1988年6月号 128頁
  26. ^ 『優駿』1988年6月号 129頁
  27. ^ a b 『優駿』1988年7月号 11頁
  28. ^ a b c d e 『優駿』1988年7月号 130頁
  29. ^ 『優駿』1988年7月号 128頁
  30. ^ a b 『優駿』1988年7月号 127頁
  31. ^ a b 東京優駿|1988年05月29日 | 競馬データベース - netkeiba.com”. db.netkeiba.com. 2021年5月20日閲覧。
  32. ^ a b c 『優駿』1988年7月号 72頁
  33. ^ a b c d 『優駿』1988年7月号 8-9頁
  34. ^ 『優駿』1988年7月号 11頁
  35. ^ 『優駿』1988年8月号 6頁
  36. ^ a b c 『優駿』1988年7月号 131頁
  37. ^ 『優駿』1988年7月号 12頁
  38. ^ 『優駿』1988年7月号 126頁
  39. ^ a b 『優駿』2002年6月号 63頁
  40. ^ 『優駿』1989年7月号 140頁
  41. ^ 『優駿』1989年7月号 98頁
  42. ^ 安田記念|1989年05月14日 | 競馬データベース - netkeiba.com”. db.netkeiba.com. 2021年5月20日閲覧。
  43. ^ a b 『優駿』1989年7月号 18頁
  44. ^ 『優駿』1989年8月号 89頁
  45. ^ サクラチヨノオーの競走成績 | 競走馬データ”. netkeiba.com. 2021年5月16日閲覧。
  46. ^ 競走成績:全競走成績|サクラチヨノオー|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2021年5月20日閲覧。
  47. ^ サクラスーパーオー|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2021年5月20日閲覧。
  48. ^ サクラエキスパート|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2021年5月20日閲覧。
  49. ^ アドマイヤビゴール|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2021年5月20日閲覧。
  50. ^ コウチエラミー|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2021年5月20日閲覧。
  51. ^ マイターン|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2021年5月20日閲覧。
  52. ^ a b c 血統情報:5代血統表|サクラチヨノオー|JBISサーチ”. JBISサーチ. 公益社団法人日本軽種馬協会. 2015年6月28日閲覧。
  53. ^ 『優駿』1992年9月号、日本中央競馬会、13頁

参考文献

[編集]
  • 優駿』(日本中央競馬会
    • 1988年2月号
      • 「1987年度フリーハンデ決定」
      • 大川慶次郎「【げっかん評論(東)】上位3頭は甲乙つけがたい」
      • 橋本邦治(東京競馬記者クラブ会友)「【今月の記録室】壮絶な鍔ぜりあい 軍配はチヨノオーに」
    • 1988年3月号
      • 結城恵助「【GI競走勝ち馬の故郷紀行】名門を守る土」
    • 1988年4月号
      • 大川慶次郎「【げっかん評論(東)】強烈な逃げ切り ミュゲロワイヤル】」
      • 古川義郎(共同通信)「【今月の記録室】また新たなるヒーロー 4歳勢は大混戦」
    • 1988年5月号
      • 石井誠(報知新聞)「【今月の記録室】東の3歳チャンピオン 意地と気迫で快勝」
    • 1988年6月号
      • 岡嶋二人「【第48回皐月賞観戦記】始めはいつも迷路の中」
      • 大川慶次郎「【げっかん評論(東)】運と力で制した ヤエノムテキ」
      • 梶山隆平「【げっかん評論(西)】底知れぬ強さ ヤエノムテキ」
      • 野村英俊(東京中日スポーツ)「【今月の記録室】有力馬の戦線離脱が波乱の予兆だった」
    • 1988年7月号
      • 「第55回日本ダービー詳報」
      • 石川喬司「【馬屋先生のパカパカ問答 41】小島太騎手」
      • 大川慶次郎「【げっかん評論(東)】無事是ダービー馬 サクラチヨノオー」
      • 梶山隆平「【げっかん評論(西)】愛馬を信頼 好判断の小島太」
      • 天野保彦(日刊スポーツ)「【今月の記録室】ガッツポーズは多くの歓喜の集約だった」 
    • 1989年7月号
    • 1989年8月号
      • 本間一幸(アロースタッド)「【今月のトピックス】サクラチヨノオー引退 北海道静内で種牡馬に」
    • 2002年6月号
      • 阿部珠樹「【サラブレッド・ヒーロー列伝 20世紀を駆けた名馬たち 13】サクラチヨノオー 巻き返してダービー制覇」
  • 『Nnuber』(文藝春秋
    • 1988年6月5日号
      • 河野一郎「ナンバーパドック【育ての親が語る、’88年ダービー有力馬 跳べ!わが子よ、栄冠へ】」

外部リンク

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