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* 督殿(督の君) - 源忠房女、のち[[藤原成親]]室<ref>内裏女房。『今鏡』むらかみの源氏 藻塩の煙 において「二条のみかどの御時、ちかくさぶらひ給ひて督の君とかきこえ給ひしはことの外にときめき給ふときこえ給ひしかば、尚侍になり給へりしにやありけん。ただまた督の殿など申すにや。よくもえうけ給はりさだめざりき」とある。尚侍への任官や叙位は確認できない。</ref>
* 春日殿 - 大外記・[[中原師元]]女
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** 第一皇女: [[ぜん子内親王|僐子内親王]](1159-1171) - [[斎院|賀茂斎院]]
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* 右馬助・源光成女
* 右馬助・源光成女
** 第一皇子: [[尊恵法親王]](1164-1192) - 高松院猶子、大僧都
** 第一皇子: [[尊恵法親王]](1164-1192) - 高松院猶子、大僧都

2020年6月26日 (金) 23:24時点における版

二条天皇
二条天皇

即位礼 1159年1月11日保元3年12月20日
大嘗祭 1160年1月3日平治元年11月23日
元号 保元
平治
永暦
応保
長寛
永万
時代 平安時代
先代 後白河天皇
次代 六条天皇

誕生 1143年7月31日康治2年6月18日
崩御 1165年9月5日永万元年7月28日
押小路東洞院
大喪儀 1165年9月13日(永万元年8月7日
陵所 香隆寺陵
追号 二条院
(二条天皇)
守仁
元服 1156年1月3日久寿2年12月9日
父親 後白河天皇
母親 源懿子
中宮 姝子内親王
藤原育子
子女 六条天皇
僐子内親王
尊恵法親王
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二条天皇(にじょうてんのう、1143年7月31日康治2年6月18日〉- 1165年9月5日永万元年7月28日〉)は、日本の第78代天皇(在位: 1158年9月5日保元3年8月11日〉- 1165年8月3日永万元年6月25日〉)。守仁(もりひと)。

後白河天皇の第一皇子。母は、大炊御門経実の娘で、源有仁の養女・贈皇太后懿子

略歴

雅仁親王(後の後白河天皇)の長男として生まれる。生母・懿子が出産直後に急死したことで、祖父である鳥羽法皇に引き取られ、その后の美福門院に養育された[1]

近衛天皇が即位しており、同じく美福門院の養子として重仁親王崇徳上皇の長男)がいたために皇位継承の望みは薄く、僧侶となるために9歳で覚性法親王のいる仁和寺に入った[2]

その後、孫王(二条天皇)は仏典をよく読みこなし「ちゑふかくおはしましけり」[3]と評判になった。仁平3年(1153年)9月、近衛天皇は重病となり、関白・藤原忠通は鳥羽法皇に「雅仁親王の息童」への譲位を奏請した[4]。鳥羽法皇はこの提案を幼主を擁立して政を摂り威権を専らにしようとする忠通の謀略と看做し、忠通の父である藤原忠実も雅仁親王が黙っているはずがないと指摘して「関白狂へるか」と非難している。孫王擁立案は拒絶されたが、この時から孫王は皇位継承候補者の一人として浮上することになる[5]

久寿2年(1155年)7月23日、近衛天皇は崩御する。後継天皇を決める王者議定に参加したのは久我雅定三条公教で、いずれも美福門院と関係の深い公卿だった。候補としては重仁親王・孫王・暲子内親王が上がったが、孫王が即位するまでの中継ぎとして、父の雅仁親王が立太子しないまま29歳で即位することになった(後白河天皇)。孫王はまだ年少であり、存命中である実父の雅仁親王を飛び越えての即位は如何なものかとの声が上がったためだった [6]。8月4日に仁和寺から戻った孫王は、9月23日に親王宣下を蒙り「守仁」と命名され即日立太子、12月9日に元服、翌年3月5日には美福門院の皇女・姝子内親王を妃に迎えるなど、美福門院の全面的な支援を受けた。

保元3年(1158年)8月11日、後白河天皇からの譲位をうけ践祚。これは「仏と仏との評定[7]によるもので、美福門院が信西に強く要求して実現したものであった[8]

二条天皇を支える勢力として、藤原伊通(美福門院の従兄弟)・大炊御門経宗(二条生母・懿子の弟)・葉室惟方(二条の乳母・俊子の子)らが集結して、二条親政派を形成した。ここに、二条親政派と後白河院政派の対立が始まった。二条天皇は美福門院に育てられたこともあり、実父・後白河上皇との関係は冷淡なものであった。平治元年(1159年)12月に平治の乱が起きた[9]。乱勃発直後は、藤原信頼が政局を主導するが、これを快く思わない三条公教と親政派が反発し、三条公教の計らいにより平清盛を親政派に引き込み、親政派と清盛の策謀により二条天皇は清盛の六波羅邸へ行幸する[10]。二条天皇の六波羅行幸によりそれまで官軍だった信頼一派は賊軍となり、天皇を動かした経宗・惟方らと平清盛が官軍の地位を獲得して勝利を得る。

乱が終結した直後の12月29日に美福門院の八条邸に行幸し、翌正月には太皇太后・藤原多子を入内させる(二代の后)。『平家物語』は多子の入内を二条帝の独断とするが、後見の美福門院や側近の大炊御門経宗・葉室惟方がこのような重大問題に関与しなかったとは考えにくく、二条天皇の立場を固めるための政略的な婚姻と推測される。しかし、3月に経宗・惟方が後白河上皇の命により配流されて失脚、7月には藤原隆信藤原雅長院昇殿停止処分を受け、8月には中宮・姝子内親王が病により出家[11]、11月には後見の美福門院が死去するなど二条親政派の要人が次々に消えて、二条天皇の立場は不安定となり後白河院政派が勢力を拡大した。表面的には「院・内申シ合ツツ同ジ御心ニテ[12]というように二頭政治が行われたが、両派の対立は深く「上下おそれをののいてやすい心なし、ただ深淵にのぞむで薄氷をふむに同じ」[13]という状況であった。

二条天皇が頼みとしたのは、藤原伊通と平清盛だった。伊通は太政大臣として二条を補佐し、政道の意見書『大槐秘抄』を著した。また乳母・平時子を従三位典侍にするとともに[14]、時子の夫・清盛を検非違使別当・中納言にすることで軍事的な後ろ盾とした。応保元年(1161年)9月、後白河上皇と平滋子の間に生まれた第七皇子(後の高倉天皇)を皇太子にしようとする陰謀が発覚すると、二条天皇は後白河院近臣の平時忠平教盛藤原成親坊門信隆を解官した。後白河上皇の政治介入は停止され「主上二条院、世ノ事ヲバ一向ニ行ハセマイラセテ[12]という状況となる。実権を掌握した二条天皇は、親政の拠点を押小路東洞院の内裏に据えて清盛に警護させた。12月には美福門院の皇女・暲子内親王に八条院の院号を与えて准母となし、出家していた姝子内親王にも高松院の院号を与えた。さらに、藤原忠通の養女・藤原育子(むねこ、実父は徳大寺実能)を中宮として、関白・近衛基実とも連携して摂関家も自らの下に取り込むことに成功した。応保2年(1162年)には叔父・大炊御門経宗を召還する一方、自らを呪詛した平時忠・源資賢を配流するなど着々と政治基盤を固めていった。

二条天皇は悪僧神人の統制令や荘園整理など、信西の政策を踏襲して積極的な政務を展開する。政治から排除された後白河上皇は信仰の世界にのめりこみ、蓮華王院を造営して供養の日に二条天皇の行幸と寺司への功労の賞を望んだが、天皇が拒んだことから恨みを抱いたという[12]。蓮華王院には荘園・所領が寄進され、二条天皇は後白河上皇の院政復活の動きに警戒心を抱くことになる。長寛3年(1165年)2月、太政大臣の藤原伊通が亡くなり、自らも病に倒れた。6月には前年に生まれた実子の順仁親王(六条天皇、中宮・育子の養子)の立太子を行うとその日のうちに譲位し太上天皇となるも、7月に押小路東洞院で崩御した。宝算23。

人物

  • 優れた人物で「末の世の賢王におはします」[3]と賞賛され、愚昧とされた父・後白河上皇とは対照的だった。一方で、上皇との対立は生涯に亘って解消されることはなく、「孝道には大に背けり」[15]という世評もあった。
  • 鳥羽院政の下で発生した待賢門院と美福門院の対立は、皇位継承権や皇室領の分裂の危機ともなりかねない状況となった。鳥羽院や美福門院は二条天皇(守仁親王)には実父・後白河天皇を通じて待賢門院系の所領を獲得し、妃である姝子内親王や准母である暲子内親王を通じて美福門院系の所領を獲得することで皇位継承と皇室領を二条天皇の下にまとめようとしたと考えられている。だが、姝子内親王と婚姻関係の破綻、父である後白河上皇との対立、そして何よりも二条天皇自身の早すぎる死によって挫折して終わった。暲子内親王や旧二条親政派は二条天皇の異母弟である以仁王を後継として擁しようとしたために皇室領の一本化は成功せず、暲子内親王ゆかりの八条院領とこれに対抗して発生した後白河法皇ゆかりの長講堂領に分けられたまま、南北朝時代における大覚寺統持明院統の有力な財源となっていった[16]

系譜

二条天皇の系譜
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
16. 第72代 白河天皇
 
 
 
 
 
 
 
8. 第73代 堀河天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
17. 藤原賢子
 
 
 
 
 
 
 
4. 第74代 鳥羽天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
18. 藤原実季(=20,28)
 
 
 
 
 
 
 
9. 藤原苡子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
19. 藤原睦子(=21,29)
 
 
 
 
 
 
 
2. 第77代 後白河天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
20. 藤原実季(=18,28)
 
 
 
 
 
 
 
10. 藤原公実(=14)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
21. 藤原睦子(=19,29)
 
 
 
 
 
 
 
5. 藤原璋子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
22. 藤原隆方(=30)
 
 
 
 
 
 
 
11. 藤原光子(=15)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1. 第78代 二条天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
24. 藤原頼通
 
 
 
 
 
 
 
12. 藤原師実
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
25. 藤原祇子
 
 
 
 
 
 
 
6. 藤原経実
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
26. 藤原基貞
 
 
 
 
 
 
 
13. 藤原基貞女
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
3. 源懿子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
28. 藤原実季(=18,20)
 
 
 
 
 
 
 
14. 藤原公実(=10)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
29. 藤原睦子(=19,21)
 
 
 
 
 
 
 
7. 藤原公子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
30. 藤原隆方(=22)
 
 
 
 
 
 
 
15. 藤原光子(=11)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

系図

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
77 後白河天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
78 二条天皇
 
以仁王
 
80 高倉天皇
 
亮子内親王
(殷富門院)
 
式子内親王
 
覲子内親王
宣陽門院
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
79 六条天皇
 
某王
北陸宮
 
81 安徳天皇
 
守貞親王
(後高倉院)
 
82 後鳥羽天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
86 後堀河天皇
 
83 土御門天皇
 
84 順徳天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
87 四条天皇
 
88 後嵯峨天皇
 
85 仲恭天皇
 
忠成王
(岩倉宮)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


后妃・皇子女

在位中の元号

陵・霊廟

(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市北区平野八丁柳町にある香隆寺陵(こうりゅうじのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。

永万元年(1165年)7月28日に二条院里第で崩御し、8月7日に香隆寺の北の野で火葬し、遺骨を一時香隆寺本堂に蔵めた。のち二条院を移して三昧堂を建て、嘉禎2年(1236年)5月17日、遺骨をこの堂に蔵めた。中世に山陵の所在を失い、元禄年間に行なわれた諸陵探索の際にも定説を得なかった。江戸時代初期の史家・黒川道祐はその著書『雍州府志』の中で「二条院陵在洛北船岡山北麓、陵上有五輪石塔」と記しており、国学者の松下見林が元禄9年(1696年)に著した『前王廟陵記』もこれに従って「歴帝陵考」で「愛宕郡舟岡山乾蓮台寺境内畑中に古家あり、後朱雀、堀河、二条三帝難決」としている。陵上の石塔の九輪の塔と手水鉢は千利休が作ったものと伝わるが、このことからも当時の山陵が荒廃していた様子を察することができる。幕末の修陵の際にもついに決定せず、明治22年(1899年)6月1日の治定をもって大いに修治が加えられた。

なお今日皇居では、宮中三殿のひとつの皇霊殿で他の歴代天皇や皇族とともに二条天皇の霊が祀られている。

脚注

  1. ^ 「件の孫王。一院の収養せしめ給ふ所なり」(『本朝世紀』久安5年6月24日条)、「女院襁褓(むつき)の中より養育し奉らる」(『山槐記』永暦元年12月4日条)
  2. ^ 『本朝世紀』仁平元年10月14日条
  3. ^ a b 今鏡』第3 122段
  4. ^ 台記』仁平3年9月23日条
  5. ^ この奏請の直前、近衛天皇の中宮で忠通の養女である藤原呈子が懐妊の兆候を見せていたが、結局は出産しなかった(『台記』9月14日条)。橋本義彦は、呈子の出産が絶望的になったことから、美福門院と忠通が孫王擁立に向けて動き出したとしている(「保元の乱前史小考」『平安貴族社会の研究』吉川弘文館、1976年)。河内祥輔は、忠通がこの段階では呈子の再度の懐妊を期待し、呈子所生の子が即位するまでの中継ぎとして孫王擁立を図ったとしている(『保元の乱・平治の乱』吉川弘文館、2002年)。
  6. ^ 『山槐記』永暦元年12月4日条に「見存の父を置きながら、其の子即位の例なし」とある。『玉葉』寿永2年8月14日条や『愚管抄』はこの発言をしたのは忠通としている。『古事談』1-96にも忠通が雅仁擁立を進言したとあるが、その理由を正妃(待賢門院)所生の皇子であるためとしている。一方、『山槐記』と『今鏡』では忠通が雅仁擁立に動いたとは記されていない。河内祥輔は忠通が孫王ではなく雅仁を推した理由を、近衛天皇崩御により状況が変化したためとする(『保元の乱・平治の乱』吉川弘文館、2002年)。橋本義彦は、2年前に孫王擁立を奏請した忠通が前言を翻して雅仁擁立を進言するのは不自然であり、雅仁擁立を目指して鳥羽法皇を説得したのは、雅仁の乳母(藤原朝子)の夫で院近臣の中で主導的立場にあった信西ではないかと推測している(「保元の乱前史小考」『平安貴族社会の研究』吉川弘文館、1976年)。山田邦和は、信西が院近臣の中で台頭したのは雅仁擁立の結果によるものであり、議定当時にはまだその政治的権力は存在しなかったとして、忠通が雅仁擁立の主導的立場にあったとする(「保元の乱の関白忠通」朧谷壽・山中章 編『平安京とその時代』所収 思文閣出版、2009年)。佐伯智広は雅仁擁立を鳥羽法皇の皇位継承構想の一端とみなし、その理由として即位した守仁が成人する前に法皇が崩御した場合に可能性が生じる崇徳上皇の院政を阻止することと守仁が待賢門院とその皇子女が持つ所領に対する相続権を持ち続けるために雅仁との父子関係の維持とそれに基づく皇位継承を要したこととする。また、その結果、消滅する美福門院との養子縁組の代替として姝子内親王との婚姻や八条院の准母待遇が設定されたとする(「鳥羽院政期の王家と皇位継承」『中世前期の政治構造と王家』東京大学出版会、2015年)。
  7. ^ 兵範記』保元3年8月4日条
  8. ^ もっとも、鳥羽法皇の遺命により二条天皇親政の方策を任されたのは信西その人であり、平治の乱で信西が殺されたのは二条天皇親政を阻止するための後白河上皇の命令であったとする説もある(河内祥輔『保元の乱・平治の乱』吉川弘文館、2002年)。
  9. ^ 平治物語』によると、二条天皇は信頼らによってに黒戸御所に幽閉されたとあるが、『愚管抄』によると「とりまいらせ」という表現があるだけで、これが身柄拘束を意味するわけでない。実際には通常通り政務が行われており、二条天皇が特に身柄を拘束されていたわけではない(元木泰雄『保元・平治の乱を読み直す』NHKブックス、河内祥輔『保元の乱・平治の乱』吉川弘文館)。
  10. ^ 平治物語』によると女房車の中を覗いた武士が、天皇を女房と見誤ったとする。女性のような美貌を持った美男子だったという。一方、『愚管抄』では女装の記述は一切なく、単に女車に乗って行幸されたとのみある。その際、女房や側近の働きにより鏡以外の神器、天皇の身の回りの品も女車に乗せ、天皇が地上を地かに歩くことが無いように短い敷物を交互に敷いて車まで案内したという記載もある。また、『愚管抄』によると、「サリゲナシニテヤリ出シテケリ」とあり、だれからも怪しまれず、尋問も受けずに内裏を後にしたことになる(元木泰雄『保元・平治の乱を読み直す』NHKブックス)。
  11. ^ 『兵範記』保元元年(1156年)3月5日条には姝子内親王について「前斎院依御猶子」という記述があり、彼女が統子内親王(上西門院、後白河の同母姉)の猶子だったことが確認できる。そのため、姝子内親王は後白河院政派に属している、という指摘もある(佐伯智広「二条親政の成立」『日本史研究』505、2004年。後、佐伯『中世前期の政治構造と王家』東京大学出版会、2015年)。
  12. ^ a b c 愚管抄
  13. ^ 『平家物語』
  14. ^ 『山槐記』
  15. ^ 『源平盛衰記』
  16. ^ 佐伯智広「鳥羽院政期の王家と皇位継承」初出:『日本史研究』598号(2012年)/所収:佐伯『中世前期の政治構造と王家』(東京大学出版会、2015年) ISBN 978-4-13-026238-5
  17. ^ 内裏女房。『今鏡』むらかみの源氏 藻塩の煙 において「二条のみかどの御時、ちかくさぶらひ給ひて督の君とかきこえ給ひしはことの外にときめき給ふときこえ給ひしかば、尚侍になり給へりしにやありけん。ただまた督の殿など申すにや。よくもえうけ給はりさだめざりき」とある。尚侍への任官や叙位は確認できない。
  18. ^ 出自については、六条天皇の項目参照。