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| 氏名 = 阿南 惟幾 |
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'''阿南 惟幾'''(あなみ これちか、[[1887年]]([[明治]]20年)[[2月21日]] - [[1945年]]([[昭和]]20年)[[8月15日]])は、[[大日本帝国|日本]]の[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[軍人]]。[[陸軍大将]][[勲一等]][[功三級]]。 |
'''阿南 惟幾'''(あなみ これちか、[[1887年]]([[明治]]20年)[[2月21日]] - [[1945年]]([[昭和]]20年)[[8月15日]])は、[[大日本帝国|日本]]の[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[軍人]]。[[陸軍大将]][[勲一等]][[功三級]]。[[1945年]](昭和20年)4月に[[鈴木貫太郎内閣]]の[[陸軍大臣]]に就任。[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])末期に降伏への賛否を巡り混乱する政府で[[本土決戦]]への戦争継続を主張したが、[[昭和天皇]]の[[聖断]]による[[ポツダム宣言]]受諾が決定され、同年[[8月15日]]に[[切腹|割腹]][[自殺|自決]]。日本の[[内閣]]制度発足後、現職閣僚が自殺したのはこれが初であった。 |
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[[侍従武官]]、[[陸軍省]]兵務局長、人事局長、[[第109師団 (日本軍)|第109師団長]]、[[陸軍次官]]、[[第11軍 (日本軍)|第11軍司令官]]、[[第2方面軍 (日本軍)|第2方面軍司令官]]、[[陸軍航空総監部]]兼[[航空本部長]]、陸軍大臣を歴任。その人柄・[[人格]]には定評があり、[[昭和天皇]]からは信頼され{{Sfn|阿部牧郎|2003|p=16}}、[[陸軍大学]]同期の[[石原莞爾]]も認めるほどであった。また、最後の陸軍大臣と紹介されることが多いが、歴代最後の陸軍大臣は[[下村定]]([[東久邇宮内閣]]){{refnest|group="注"|なお、下村定が就任する前に[[内閣総理大臣]]の[[東久邇宮稔彦王]]が陸軍大臣を兼摂しており、阿南の後任陸軍大臣は稔彦王である。}}である。 |
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[[1945年]](昭和20年)4月に[[鈴木貫太郎内閣]]の[[陸軍大臣]]に就任した。[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])末期に降伏への賛否を巡り混乱する政府において[[本土決戦]]への戦争継続を主張したが、[[昭和天皇]]の[[聖断]]による[[ポツダム宣言]]受諾が決定され、同年[[8月15日]]に[[切腹|割腹]][[自殺|自決]]。 |
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== 経歴 == |
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'''日本の[[内閣]]制度発足後、現職閣僚が自殺したのはこれが初'''である。 |
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=== 誕生から軍人の道へ === |
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[[大分県]][[竹田市]][[玉来]]出身であった父の[[阿南尚]]と母豊子の間の8人兄弟の末っ子として生まれた。父尚は警察巡査として[[西南戦争]]で[[抜刀隊]]として従軍後、[[内務省 (日本)|内務]][[官吏]]として転勤を繰り返したため、阿南も幼少時は[[東京]]、大分の竹田、[[徳島市|徳島]]などを転々としながら育った{{Sfn|筒井清忠|2018|p=71}}。本籍は竹田市に置かれている。父尚は阿南に[[剣道]]、[[弓道]]、[[馬術]]など武術を小さい頃から教え込み、中でも剣道が好きであった阿南は小柄な体格ながらかなりの腕前になっていた{{Sfn|阿部牧郎|2003|p=96}}。 |
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父尚が徳島県の[[参事官]]に就任したため、阿南は[[徳島県立城南高等学校|徳島中学校]]に入学した。当時、四国[[善通寺町|善通寺]]を本拠地とする[[第11師団 (日本軍)|第11師団]]の師団長[[乃木希典]][[中将|陸軍中将]]と父尚は知り合いであり、ある日、乃木を来賓に招いての剣道大会が開催され、阿南が小柄な体格ながら、旺盛な気迫で上級生相手に敢闘しているのを見て、乃木は上機嫌で父尚に対して「元気があっていい少年だ」と褒めている。そこで父尚が、阿南が前から軍人志望で、[[陸軍幼年学校]]を受験したいと思っているが、小柄なので躊躇しているという話をすると、乃木は「幼年学校は規則正しい生活をさせるし、運動で鍛え上げるからすぐに身体は大きくなる。なるべく早く入学させる方がいい」と早期の受験をすすめている。阿南は乃木の話を父尚から聞くと、小柄なので軍人の道は難しいと心配していたのに、乃木という強い援軍を得て、この年の受験を決意した。乃木は[[日清戦争]]で歩兵第1旅団を率いて要衝[[旅順]]を攻略し武名をとどろかせていたことや、軍規や武士道を体現した生活態度と[[明治天皇]]からの厚い信頼で国民から敬愛されており、このときの乃木の姿が今後の阿南の軍人人生の範となった{{Sfn|阿部牧郎|2003|p=97}}。 |
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また、最後の陸軍大臣と紹介されることが多いが歴代最後の陸軍大臣は阿南の後任である[[下村定]]である。 |
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[[1900年]](明治33年)9月阿南は[[広島陸軍地方幼年学校]]に入校。同期生にはのちに陸軍大将になる[[山下奉文]]、[[岡部直三郎]]、[[山脇正隆]]がおり、[[大阪陸軍地方幼年学校]]に入校した[[藤江恵輔]]も含めて、この年次は優秀と言われることになった{{Sfn|角田房子|1980|p=Kindle300}}。阿南は中央幼年学校を経て、[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]](18期)に入校したが、同期で一番小柄だった体格も規則正しい生活と鍛錬で大きくなっており、身長は当時としては長身の1m70㎝に達していた{{Sfn|阿部牧郎|2003|p=142}}{{Sfn|角田房子|1980|p=Kindle338}}。士官学校在学中に阿南は何度か乃木を訪ね、乃木のかつての武勇伝を熱心に聞いて、夫人の作る[[ヒエ|稗飯]]をご馳走になり、ますます乃木への憧れが強まっていった{{Sfn|阿部牧郎|2003|p=112}}。このときの乃木は長年の休職を経て、留守近衛師団長となっており、[[1904年]](明治37年)に開戦した[[日露戦争]]に従軍できないことを悔やんでいたが、のちに[[第3軍 (日本軍)|第3軍]]司令官として[[旅順攻囲戦]]を指揮し、さらに武名を高めて国民的な人気を博した。[[1906年]](明治39年)1月14日に行われた乃木の[[凱旋]]行進を、阿南は一般国民に交じり街道に並んで見送っている{{Sfn|阿部牧郎|2003|p=143}}。 |
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== 経歴 == |
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[[大分県]][[竹田市]][[玉来]]出身であった父の[[阿南尚]]は[[内務省 (日本)|内務]][[官吏]]として転勤を繰り返したため、幼少時は[[東京]]、大分の竹田、[[徳島市|徳島]]などを転々としながら育った。本籍は竹田市に置かれている。 |
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[[1905年]](明治38年)[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]](18期)920名中を第24席の成績で卒業し、[[1906年]](明治39年)に希望していた[[歩兵第1連隊]]に配属された。この頃父尚は[[教科書疑獄事件]]に巻き込まれて参事官を休職になっており、阿南一家は東京に戻ってきていた。兄の惟一は頭脳明晰で[[東京大学|東京帝大]]を卒業後は[[外務省]]に入省していたが、自由奔放な性格で厳格な父尚や阿南とは性格が合わなかった。惟一は放蕩な生活で借金を重ねて、性格が合わなくて毛嫌いしていた父尚に支援を要請、父尚は既に退官して[[恩給]]生活であったため、故郷大分の田畑を処分してどうにか惟一の債務を肩代わりした。阿南は兄惟一のせいで生活に困窮する両親のため、[[給料]]の全額を実家に仕送り続けた{{Sfn|阿部牧郎|2003|p=153}}。 |
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早くから陸軍[[将校]]を志望していたが、[[徳島県立城南高等学校|徳島中学校]]2年生の時に、当時[[第11師団 (日本軍)|第11師団]]長であった[[乃木希典]][[中将|陸軍中将]]の助言もあって[[陸軍幼年学校]]を受験して合格した。阿南は乃木を終生の模範として仰いでいる。 |
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[[1912年]](明治45年)阿南は[[陸軍大学]]への進学を目指した。陸軍士官学校同期で親しかった山下、[[甘粕重太郎]]、[[中島鉄蔵]]も一緒に受験したが、1度目は全員不合格であった。しかし、再度の受験で山下らが次々と合格していったのに、阿南は4度目の受験でようやく合格となった{{Sfn|角田房子|1980|p=Kindle395}}。阿南が3度も不合格となったのは、頭脳が劣っていたのではなく、受験時には上官が受験の配慮から、自由時間の多い陸軍中央幼年学校の生徒監のポストにつけてくれたが、阿南はそれに甘えることはなく、生徒たちの指導に手を抜くことなかったので、結局は勉強時間が足りなくなったことと、慎重な性格から、作戦考査で攻撃重視の日本軍の伝統から、作戦が慎重すぎると評価され点数が低かったためとされる。合格したときには、阿南から指導を受けた教え子たちは歓声をあげて喜び、阿南のために祝賀会まで開いている{{Sfn|児島襄|1974|p=Kindle2649}}。陸大卒業の席次は60人中18番と中の上であったが、4度の受験でようやく合格したという話があまりに有名になったので、阿南は「成績の悪い男」というレッテルを貼られてしまうことになった。後年になって阿南自身も「私は学校の成績は悪かった」と自称するようになっている{{Sfn|角田房子|1980|p=Kindle444}}。 |
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幼年学校を経て、[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]](18期)920名中を第24席の成績で卒業し、[[陸軍大学校]](30期)を卒業。陸大の入学試験には3度失敗しており、卒業の席次も60人中18番と目立つものではなかった。 |
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[[1916年]]([[大正]]5年)、陸軍大学在学中に阿南は[[竹下平作]]陸軍中将二女の綾子と結婚している。竹下は阿南の歩兵第1旅団時代の上官であり、幼年学校受験準備中の竹下の長男宣彦の家庭教師を引き受けるなど親しい間柄であり、綾子ともその頃からの顔なじみで、見合いする必要もなく縁談はまとまった。結婚したときの年齢は阿南が29歳、綾子が17歳であった{{Sfn|角田房子|1980|p=Kindle421}}。のちに次男の[[竹下正彦]]も陸軍軍人となって、義兄となった阿南と深く関わっていくこととなる。阿南は綾子を大事にして、演習などで出張すると旅先からよく手紙を送っている。中には、演習先で食べている野戦食の献立を図入で書いた手の込んだ手紙や、「演習の野に咲く萩を馬蹄にかけまいと」とわざわざ足下の花にまで気を使う阿南の優しさを書いた手紙もあった{{Sfn|角田房子|1980|p=Kindle444}}。綾子は、阿南と陸軍士官学校の同期山下の妻である[[永山元彦]][[少将|陸軍少将]]の長女・久子と幼馴染みで仲良く、阿南と山下は家族ぐるみで親交を深めていった{{Sfn|角田房子|1980|p=Kindle421}}。 |
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1929年(昭和4年)8月1日から1933年(昭和8年)8月1日までは[[侍従武官]]を務めており、当時の[[侍従長]]は[[鈴木貫太郎]]であった。阿南は鈴木の懐の深い人格に尊敬の念を抱き、その鈴木への気持ちは終生変わるところがなかった。 |
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=== 侍従武官 === |
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侍従武官を辞した後は[[近衛歩兵第2連隊]]長を経て[[東京陸軍幼年学校]]長となった。 |
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[[Image:AnamiKorechika.jpg|thumb|侍従武官時代の阿南[[大佐|陸軍歩兵大佐]]。[[銀色]]の[[飾緒#大日本帝国陸海軍|侍従武官飾緒]]を佩用している。]] |
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1929年(昭和4年)8月1日に[[侍従武官]]に就任、当時の[[侍従長]]は[[鈴木貫太郎]]であった。阿南は鈴木の懐の深い人格に尊敬の念を抱き、その鈴木への気持ちは終生変わるところがなかった。侍従武官として[[昭和天皇]]とも親交を深め、馬術が得意であった阿南は、昭和天皇から直々に馬術の指導を要請されて、同じく馬術が得意な[[河井彌八]][[侍従次長]]などと昭和天皇と一緒に乗馬をすることもあったが、その際に昭和天皇から「埃をかぶったのではないか?」などと気をつかわれることがあったり{{Sfn|阿部牧郎|2003|p=207}}、昭和天皇が着用していた白い[[ワイシャツ]]を拝領したこともあった{{Sfn|半藤一利|2006|p=288}}。阿南は「世界一おやさしい君主に我々はお仕えしておるのだ」と改めて昭和天皇に対する敬愛の念が深まって、陛下の為に身命を賭すという意識が強まっていった{{Sfn|阿部牧郎|2003|p=216}}。昭和天皇の阿南への信頼も厚く{{Sfn|額田坦|1977|p=417}}、[[1930年]](昭和5年)8月に阿南が[[大佐]]に昇進すると、なおも昭和天皇のそばにいる機会が多くなって{{Sfn|阿部牧郎|2003|p=225}}、阿南が上奏に行くと、昭和天皇は椅子を準備させて長い時間話し込んだり{{Sfn|戦史叢書82|1975|p=146}}、阿南のことを親しげに「あな'''ん'''」と呼ぶようになった{{Sfn|半藤一利|2006|p=40}}。 |
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[[1932年]](昭和7年)1月8日、[[陸軍始]][[観兵式]]の帰路、[[皇居]]・[[桜田門]]の外、麹町区桜田町[[警視庁 (内務省)|警視庁]]庁舎前に昭和天皇の車列が差し掛かったとき、馬車に対して奉拝者の線から沿道に飛び出した[[李奉昌]]が[[手榴弾]]を投げつけた。このとき、阿南もこの車列のなかの陸軍武官用の自動車に乗って同行しており、爆発音に慌てて車列3両目の昭和天皇の馬車に駆け付けたが、昭和天皇は無事で胸をなでおろしている。李は2両目の[[一木喜徳郎]][[宮内大臣]]の馬車を昭和天皇のものと誤認して手榴弾を投擲したが、手榴弾は左後輪付近に落ちて炸裂し、馬車の底部に親指大の2、3の穴を開け、破片で、騎乗随伴していた[[近衛師団|近衛騎兵]]1人が軽傷を負っただけであった([[桜田門事件]]){{Sfn|阿部牧郎|2003|p=216}}。 |
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[[1936年]](昭和11年)[[2月26日]]に[[二・二六事件]]が発生し、鈴木侍従長も襲撃され重傷を負った。阿南は、幼年学校生徒への訓話で「農民の救済を唱え、政治の改革を叫ばんとする者は、まず[[軍服]]を脱ぎ、しかる後に行え」と叛乱将校を厳しく批判し、「軍人は政治にかかわるべきでない」と説いている。 |
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1933年(昭和8年)8月[[近衛歩兵第2連隊]]長に就任、[[五・一五事件]]の直後であったため、阿南は青年将校の精神教育に特に注力した。青年たちの考えを知ろうと、膝をつき合わせて語り合い、自宅に招いては手料理をご馳走した。阿南は若者と語り合うのが好きであったが、自分から説教じみた話しをするのではなく、若者の話をよく聞いて談笑した。五・一五事件については軍内でも「美挙」など前向きに評価する向きもあり、公判中に減刑嘆願書が全国から殺到するなど、決起した青年将校たちに同情的な世情であったが、阿南は「[[軍人勅諭]]」の「(軍人ハ)政治ニ拘ラス」と信条としており、五・一五事件には批判的であった{{Sfn|角田房子|1980|p=Kindle791}}。 |
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陸軍内の派閥に属しておらず政治的に無色であったことが評価され、8月に新設された[[陸軍省]][[陸軍省#兵務局|兵務局]]長に就任した。 |
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[[1934年]](昭和9年)8月に[[東京陸軍幼年学校]]長となった。当時、陸軍幼年学校長は閑職扱いされており、阿南のような陸大卒の大佐が行くようなポストとは見られていなかった。これで阿南の出世はこれまでと見る者が多かったが{{Sfn|児島襄|1974|p=Kindle2649}}、阿南の生徒監時代の熱血指導ぶりを知る元教え子たちや、阿南の部下思いの性格を知っている知人、友人らは「陸軍最高の人事だ」と褒め称えており、阿南自身も非常に大切な役目であると張り切っていた{{Sfn|角田房子|1980|p=Kindle153}}。阿南はおりにふれて生徒たちに訓話を聞かせた。その内容は「その日のことはその日に処理せよ」「自分の顔に責任を持て」「難しい問題から先に手を付けろ」などと平凡なものであったが、阿南の熱意もあって生徒の心に長く残るものとなった。生徒を引率して陸軍の[[演習]]を見学に行ったときは、昭和天皇の計らいで生徒は天皇の[[御座所]]のすぐ近くで見学することができた。昭和天皇は久々に拝謁した阿南に「元気そうだね。阿南なら立派な将校を育ててくれるものと信じているよ」と親しく話しかけて、生徒は[[恩賜]]の菓子を頂戴している{{Sfn|阿部牧郎|2003|p=275}}。 |
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さらに翌[[1937年]](昭和12年)には[[陸軍省#人事局|陸軍省人事局]]長に任ぜられた。人望や職務への精勤ぶりへの評価が徐々に高まり、「同期に阿南あり」と言われるようになった。上官や上層部に対する歯に衣着せぬ発言で知られる[[石原莞爾]]でさえも阿南にたいしては敬意を示したと言われる。 |
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[[1936年]](昭和11年)[[2月26日]]に[[二・二六事件]]が発生し、鈴木侍従長も襲撃され重傷を負った。軍や世間は五・一五事件のときと同様に叛乱軍将校たちに同情的であったので、その世情が生徒らに蔓延することを危惧した阿南は、生徒たちに軍規の尊厳性と軍人の天皇に対する絶対的服従を教え込むため、敢て自ら普段の温厚な人柄からは想像できないような厳しい口調で幼年学校生徒へ訓話している。「これは軍にとって、非常に悪いことだ」という言葉から始まり、怒りで顔を紅潮させた阿南は「農民の救済を唱え、政治の改革を叫ばんとする者は、まず[[軍服]]を脱ぎ、しかる後に行え」と叛乱将校を厳しく批判し、自らの信条である「(軍人ハ)政治ニ拘ラス」を説いている。そして「叛乱軍将校は軍人として、許されない誤りを犯したが、彼らにもただひとつ救われる道がある。己の非を悟り切腹して陛下にお詫びすることだ」とも言い放った。この訓示を聞いていた生徒たちは、阿南が陛下のお心を悩ませた将校たちに対して憤慨していると思い、阿南の天皇に対する敬慕の情を痛感させられたという{{Sfn|角田房子|1980|p=Kindle141}}。 |
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[[1939年]](昭和14年)10月から[[1941年]](昭和16年)4月には[[陸軍次官]]を務めた。この間には親英米路線で[[日独伊三国同盟]]に反対していた[[米内内閣]]に対して陸軍が反発し、[[畑俊六]]陸軍大臣を辞職させ[[陸軍三長官]]が後任を推薦しないことで、[[米内内閣]]を倒閣する事件が起きている。 |
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=== 陸軍省 === |
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その後、[[第2次近衛内閣]]、[[第3次近衛内閣]]そして[[東條内閣]]と続き、[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])開戦直後の[[1941年]]、阿南は第11軍司令官として中支戦線へ赴く。この時、阿南は[[長沙]]侵攻を目論み「独断」による進撃を命令し[[第二次長沙作戦]]が始まる。 |
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二・二六事件後に[[皇道派]]と[[統制派]]などの陸軍内の派閥解消がはかられ、とくに皇道派については[[粛軍人事]]によって多くが[[予備役]]行きとなった。阿南は陸軍内の派閥に属しておらず政治的に無色であったことから、8月に軍紀・風紀の監督部署として軍務局から分離・独立した[[陸軍省#兵務局|兵務局]]長に就任した{{Sfn|児島襄|1974|p=Kindle2661}}。これは、主導権を握った統制派が、皇道派弾圧のため、阿南を看板に利用したという意味合いもあったが、阿南の高潔な人柄と政治的な無職さは全軍に知れ渡っており、誰にも文句のつけようのない人事であった。こののち、阿南は陸軍中枢の要職で戦争遂行や敗戦に深く関わっていくこととなっていった{{Sfn|角田房子|1980|p=Kindle816}}。 |
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配下の師団長らは困惑しつつも命令に従い、総司令部も事後追認することになった第二次長沙作戦は、この時期には珍しい玉砕まで行った挙句、千人以上の戦死者を出し大敗して終わった。中国側が長沙会戦と呼んだこの戦いは、[[日本軍]]に対する[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍最初の勝利とも言われ大きな宣伝効果をもたらしたという。 |
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翌[[1937年]](昭和12年)には[[陸軍省#人事局|陸軍省人事局]]長に任ぜられた。人望や職務への精勤ぶりへの評価が徐々に高まり、「同期に阿南あり」と言われるようになった。陸大の同期生で、上官や上層部に対する歯に衣着せぬ発言で知られる[[石原莞爾]]も阿南には生涯にわたって好意を抱き続けた。石原は自分にない阿南の円満な人格を高く評価し、滅多に人の意見を肯定しない石原が阿南の意見だけは「阿南さんがそういうならよかろう」と肯定して周囲を驚かせたこともあった{{Sfn|角田房子|1980|p=Kindle729}}。阿南が人事局長時代に力を入れたことのひとつが将校の不足解消であった。不況による軍事費削減で日本陸軍は現役将校不足に悩まされており、阿南は陸軍次官の[[梅津美治郎]]中将が呆れるほどに、各方面に将校不足を説いて回り、ついには800名増員を実現している{{Sfn|阿部牧郎|2003|p=284}}。 |
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しかし、陸軍は阿南を罰することはなく、それどころか[[1943年]](昭和18年)に陸軍大将に進級させた。 |
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=== 終戦時の陸軍大臣 === |
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[[Image:AnamiKorechika.jpg|thumb|侍従武官時代の阿南[[大佐|陸軍歩兵大佐]]。[[銀色]]の[[飾緒#大日本帝国陸海軍|侍従武官飾緒]]を佩用している。]] |
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[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])の敗戦が自明なものとなっていた[[1945年]](昭和20年)4月、[[枢密院 (日本)|枢密院議長]]の[[鈴木貫太郎]](元[[侍従長]]、元[[軍令部総長|海軍軍令部長]]、元[[連合艦隊司令長官]])に[[大命降下]]し、阿南は鈴木内閣の陸相に就任した。 |
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[[1938年]](昭和13年)3月1日 陸軍中将に昇進、7月に[[板垣征四郎]][[陸軍大臣]]から、[[参謀本部 (日本)|陸軍参謀本部]]が発議した[[皇族軍人]]の[[秩父宮雍仁親王]]を[[参謀総長]]に就任させる案の検討を命じられた。これは英邁と名高かった秩父宮を、老齢の現参謀総長[[閑院宮載仁親王]]と交代させたいという意向の人事であったが、いくら英邁とは言え秩父宮はまだ陸軍大学を卒業して7年しか経っておらず、大佐にすら昇進していなかった{{Sfn|阿部牧郎|2003|p=284}}。軍規に厳格な阿南はこのような特例人事には批判的で「参謀総長は陸軍大将、中将であることを要し、いかに皇族だからといって階級は級を追って進むべきである」と拒否し、部下の人事局補任課長[[額田坦]]中佐に、そのような特例人事が不可能である旨の意見書の作成を命じて、板垣に提出している。参謀本部は1度では諦めず、3週間後にもう1度同じ発議があったが、阿南は前回と同様な手順でこれを拒否している。このことで阿南は板垣や参謀本部から煙たがられることとなった{{Sfn|額田坦|1977|p=10}}。 |
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これについては[[小磯内閣]]の最末期、[[本土決戦]]へ向けた[[第1総軍 (日本軍)|第1総軍]]新設に際して、[[陸軍三長官|三長官会議]]が[[小磯國昭]]首相に無断で[[杉山元]]・陸相をその総司令官として閣外に転出させ、阿南を後任陸相とすることを決定したことに対し、[[予備役]]陸軍大将の小磯首相が現役復帰による陸相兼任を要求して容れられず、内閣総辞職となった経緯がある。 |
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阿南が軍規に厳格であったことを示すエピソードとして、ある日部下と「[[忠臣蔵]]」の話になったとき阿南は「忠臣蔵の[[大石良雄|大石内蔵助]]は忠臣の鑑とたたえられているが、私は同意できない。大石は法を犯している時点で褒められるべきではなく『道は法を越えず』でならなければならぬ」と部下に諭して聞かせたことがあった{{Sfn|角田房子|1980|p=Kindle4504}}。 |
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鈴木内閣では、和平派の鈴木と、本土決戦を標榜する陸軍を代表する阿南は、閣議や戦争指導会議において対立することが頻繁であったが、陸軍の倒閣運動を押さえ込むことで鈴木を支えてもいる。 |
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=== 第109師団長 === |
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鈴木が6月9日に[[帝国議会]][[衆議院]]及び[[貴族院 (日本)|貴族院]]両院の本会議での演説の内容に対して、2日後の衆議院戦時緊急措置法案(政府提出)委員会で[[小山亮]]からなされた質問と鈴木の答弁([[天罰発言事件]])により、一部議員による倒閣運動が激化した。 |
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11月9日[[第109師団 (日本軍)|第109師団]]長に親補。この人事については、第109師団の前任の師団長[[山岡重厚]]予備中将が体調不良で交代を要することとなり、阿南は何人かの候補を挙げたが、いずれも板垣から承認されず、ついに阿南が自分で立候補すると、板垣は即承認したということで、思うようにならない阿南を煙たがり、参謀本部が阿南の更迭を板垣に要請し、板垣が応じた結果であった{{Sfn|額田坦|1977|p=78}}。板垣らの目的はあくまでも阿南の人事局長更迭であり、阿南はこれまでの人事局長と同様に、自らの“お手盛り人事”によって、精強の[[常設師団]]に転出することも可能であったが、常設師団の[[第5師団 (日本軍)|第5師団]]の師団長には後輩の[[今村均]]中将を推し、自分は[[特設師団]]の第109師団を選んだことになったので、いかにも阿南らしい人事と評判となった{{Sfn|角田房子|1980|p=Kindle895}}。 |
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人事局を追われるかのような更迭劇であり、人事局員も板垣らに遠慮し、見送りは額田ただ1人という寂しい門出となったが{{Sfn|額田坦|1977|p=79}}、昭和天皇が、出征の門出として阿南を宮中に招き2人きりで陪食している。これは前例がなかったことで、昭和天皇が阿南を信頼していたという証拠であった。2人は[[女官]]が運んできた[[松花堂弁当]]を食べ、食事が終わった後も時間が許す限り話し込んだ。天皇と2人きりの陪食が周囲に知れれば反響が大きすぎるとして、この件は現侍従長の[[百武三郎]]大将ほか、ごく一部以外には内密にされた{{Sfn|阿部牧郎|2003|p=18}}。阿南は感激して句を作り、この御恩に報いるため、天皇のためなら死んでも構わないと固く決意した。のちにこの時詠んだ句が阿南の辞世の句となった{{Sfn|角田房子|1980|p=Kindle908}}。 |
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これにより、一時首相も歴任した[[米内光政]][[海軍大臣]]は鈴木総理の和平への意思を疑問視して辞意を表明した。しかし、阿南は米内海相に辞意を思いとどまらせようと手紙を書き送ってこれを説得し、鈴木内閣の崩壊を防いだ。 |
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阿南は51歳にして初めて実戦の場に立つことになったが、今まで培ってきた知識による巧みな作戦指揮で、兵力が勝る[[山西派|山西軍]]や[[八路軍]]を相手に大戦果を挙げ続けた。[[1939年]](昭和14年)3月に開始されたN号作戦では、30,000名の兵力を擁する山西軍と八路軍を撃破して{{Sfn|戦史叢書18|1968|p=132}}、山西軍の重要拠点静落県城を攻略している。また4月に開始された3号第2期作戦でも山西軍主力に大打撃を与えている<ref>アジア歴史センター「 第109師団 状況報告の件 昭和14年9月20日前第109師団長参謀本部付阿南惟幾」</ref>。 |
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終戦について激しい議論が展開された閣議の合間、阿南は閣僚の一人であり同じ陸軍出身で同期の[[安井藤治]]国務相に「自分はどんなことがあっても鈴木総理と最後まで事を共にするよ。どう考えても国を救うのはこの鈴木内閣だと思う」と語っている。また終戦への基本方針が天皇の第一回目の[[聖断]]によって決まった8月9日の御前会議終了後に、鈴木首相に「総理、この決定でよいのですか、約束が違うではないですか」と激しく詰め寄る[[吉積正雄]]陸軍省軍務局長に、「吉積、もうよい」と言って何度もたしなめている。 |
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1939年(昭和14年)6月には、山西軍主力殲滅作戦を開始、わずか5個大隊の兵力で、山西軍4個師団を包囲してこれをほぼ殲滅してしまった<ref>アジア歴史センター「第109師団 状況報告の件 昭和14年9月20日前第109師団長参謀本部付阿南惟幾」</ref>。この時の殲滅戦は、兵力不足のなかで兵力が勝る敵軍を包囲殲滅した理想的な作戦例として、その後に参謀本部が作成し、教材として使用される殲滅戦例資料にも取り上げられた{{Sfn|筒井清忠|2018|p=74}}。その後も第109師団は順調に進撃し、阿南の大胆な作戦指揮によって要衝[[山西省]]路安城も攻略した{{Sfn|半藤一利|2006|p=125}}。作戦中、阿南は激戦地では第一線に立って作戦を指揮し{{Sfn|昭和史の天皇4|2012|p=210}}、第109師団は約10倍の203,000名の中国軍と交戦、うち18,400名を戦死させて、2,002名の捕虜を得たが、捕虜のなかには山西軍の師団長も含まれていた。一方で第109師団の戦死者は231名、戦傷者は537名であった<ref>アジア歴史センター「 第109師団 状況報告の件 昭和14年9月20日前第109師団長参謀本部付阿南惟幾」</ref>。捕虜に対する処置は、阿南の「祖国のため互いに敵味方となって戦ったが。個人としては何の怨恨があるわけではない。今後十分な保護を与えるよう」という指示によって寛大に扱われて、食料、甘味品、タバコなど贈り、戦死した部下の慰霊祭を施行するときは、敵軍戦死者の供養塔も立てることも忘れなかったという。阿南の指揮官としての信条は「徳義ハ戦力ナリ」であり、捕虜の対応についてもその信条に基づくものであった{{Sfn|角田房子|1980|p=Kindle921}}。 |
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阿南は[[梅津美治郎]][[参謀総長]]とともに戦争の継続と本土決戦を強硬に主張したが、昭和天皇の聖断によって最後には陸相として[[玉音放送|終戦の詔書]]に同意した。 |
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=== 陸軍次官 === |
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終戦の詔書の作成においては陸軍の立場から「戦勢日ニ非ニシテ」を「戦局必スシモ好転セス」とするなどの字句修正を求めた。終戦の詔勅に署名したのち阿南は鈴木首相のもとを訪れ「終戦についての議が起こりまして以来、自分は陸軍を代表して強硬な意見ばかりを言い、本来お助けしなければいけない総理に対してご迷惑をおかけしてしまいました。ここに謹んでお詫びを申し上げます。自分の真意は皇室と国体のためを思ってのことで他意はありませんでしたことをご理解ください」と述べた。 |
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[[1939年]](昭和14年)10月に[[陸軍次官]]就任、阿南の陸軍省への帰還を知った将校や職員は一様に歓喜したという{{Sfn|額田坦|1977|p=96}}。阿南が陸軍次官に着任する直前の9月に[[ノモンハン事件]]が停戦となっていたが、阿南はノモンハン事件が日本軍の敗北であったことを初めて知って愕然としている。既に現場では、[[第6軍 (日本軍)|第6軍]]司令官[[荻洲立兵]]中将や、[[第23師団 (日本軍)|第23師団]]長[[小松原道太郎]]中将により、無断撤退した[[長谷部理叡]]大佐や[[井置栄一]]中佐に対する私刑に等しい自決強要がなされるなど統率がとれておらず{{Sfn|秦|2014|p=Kindle4515}}、その後始末を委ねられる形となった。陸軍省と参謀本部は、前任の[[東条英機]]中将と参謀次長[[多田駿]]中将の対立もあって関係が悪化していたが、阿南は同時期に多田に代わって次長に就任した幼年学校以来の同期で親しかった[[沢田茂]]中将と「人の和を最優先事項としよう。陸軍省と参謀本部は一体となって難局にあたろう」と申し合わせし{{Sfn|阿部牧郎|2003|p=291}}、綿密な協力体制を構築して{{Sfn|筒井清忠|2018|p=74}}、てきぱきと事後処理していった{{Sfn|阿部牧郎|2003|p=292}}。人事処分については独断専行して事件を拡大した[[関東軍]]とそれを抑えることができなかった参謀本部双方に処分を課すといった“喧嘩両成敗”的な処分を行ったが、関東軍参謀として事件拡大に深く関与し「事実上の関東軍司令官」とまで呼ばれた[[辻政信]]中佐を、元陸軍大臣の板垣や、参謀本部総務課長[[笠原幸雄]]少将からの「将来有望な人物」という陳情によって{{Sfn|額田坦|1977|p=86}}左遷的異動で済ますなど、のちに禍根を残すような処分もあった{{Sfn|半藤一利|1998|p=352}}。ほかにも、膠着した[[日中戦争]]の指導など難問が山積しているなか、人の話をよく聞き、人情の機微を知り尽くして、抜群の調整能力を発揮する阿南の仕事ぶりは周囲が皆認めるところとなり、声望は日に日に増して将来の陸軍大臣との呼び声も上がるようになったが{{Sfn|阿部牧郎|2003|p=293}}、阿南自身は「(軍人ハ)政治ニ拘ラス」の信条通り、自ら政治的発言をすることはなく、政治的な動きは軍務局長の[[武藤章]]中将に一任していた{{Sfn|筒井清忠|2018|p=75}}。 |
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1939年にヨーロッパで開戦した[[第二次世界大戦]]では、[[ナチス・ドイツ]]軍が快進撃中で、一旦は沈静化していた[[日独伊三国同盟]]締結を求める声が陸軍内で次第に大きくなり、[[ナチス・ドイツのフランス侵攻]]によって[[フランス]]が降伏するとその声は国民を巻き込むものに拡大した。阿南自身はナチス・ドイツのを否定的に捉えていたわけではなかったが、陸海軍協調の視点から海軍が消極的な日独同盟を陸軍が積極的に提議すべきではないという方針であった{{Sfn|角田房子|1980|p=Kindle945}}。[[米内内閣]]は首相[[米内光政]]の方針により日独伊三国同盟の締結には反対であったが、陸軍内で日に日に高まる同盟推進論に「人の和」を重視する阿南と沢田も抗しきれず、7月8日に[[内大臣]][[木戸幸一]]に、陸軍は日独伊三国同盟を推進するため、[[近衛文麿]]を首班とする内閣を要望していることを伝えて{{Sfn|角田房子|1980|p=Kindle967}}、沢田、武藤と図って陸軍大臣の[[畑俊六]]大将に辞職を進言した。畑は阿南らの進言によって7月12日に米内に書面にて辞職を申し出、米内内閣は総辞職に追い込まれた{{Sfn|阿部牧郎|2003|p=309}}。 |
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鈴木は「それは最初からわかっていました。私は貴方の真摯な意見に深く感謝しております。しかし阿南さん、陛下と日本の国体は安泰であり、私は日本の未来を悲観はしておりません」と答え、阿南は「私もそう思います。日本はかならず復興するでしょう」といい、愛煙家の鈴木に、南方の第一線から届いたという珍しい葉巻を手渡してその場を去った。 |
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[[1940年]](昭和15年)7月22日に発足した[[第2次近衛内閣]]で[[東條英機]]が[[陸軍大臣]]となったが、東條は阿南の実務能力を高く評価しており、東條の要請もあって陸軍次官留任となった{{Sfn|阿部牧郎|2003|p=311}}。東條はおおらかな阿南とは対照的に神経質な性格であり最初から合わなかった。それは東條が陸軍省で最初に行った訓示でも現れており、東條は「政治的発言は陸軍大臣だけが行い、いかなる将校の発言も許さぬ」「健兵対策(兵士の健康管理)の再検討を行う」の2点を強調したが、「健兵対策」については、大臣がわざわざ言及することではなく、局長や課長級の業務であると阿南は助言したが、東條が聞き入れることなく、かたくなにこの1項を強調している{{Sfn|保阪正康|2005|p=211}}。 |
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鈴木は「阿南君は暇乞い(いとまごい)に来たんだね」とつぶやいている。また阿南は、最も強硬に和平論を唱えて阿南と最も激しく対立した[[東郷茂徳]]外相に対しても、「色々と御世話になりました」と礼を述べて去っている。 |
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やがて、東條はソリの合わない人物を遠ざけ、息のかかった人物を重用する恣意的な人事を行うようになり、阿南と対立するようになっていく。東條は前任の畑が決めていた人事について、阿南が実行を助言すると「高級人事については陸相たる私が一人で決める、他人の進言は無用」と叱責したこともあった{{Sfn|阿部牧郎|2003|p=312}}。対立が決定的になったのは、阿南が互いに高く評価しあっていた陸大同期の石原に関する人事処分であり、[[第16師団 (日本軍)|第16師団]]師団長となっていた石原が、東條が[[1941年]](昭和16年)[[1月8日]]に陸軍大臣名で示達した「[[戦陣訓]]」に対して、「師団将兵はこんなものよむべからず」「東條は己をなんと心得ているのか。どこまで増長するのか」「総司令官以下に対して精神教育の訓戒をなすとは、天皇統率の本義を蹂躙した不敵きわまる奴である」と批判したことで、東條が激怒し「石原を[[予備役]]」にすると言い出したことであった{{Sfn|保阪正康|2005|p=225}}。石原の予備役編入を命じられた阿南は、これまで石原の非凡な才を高く評価してきたこともあって{{Sfn|角田房子|1980|p=Kindle729}}、日頃な温厚な態度から一変して顔を真っ赤にしながら「石原将軍を予備役というのは、陸軍自体の損失です。あのような有能な人を予備役に追い込めば、徒に摩擦が起きるだけではありませんか」と東條に反論し、他の将校が見ている前で激しい議論を繰り広げている{{Sfn|保阪正康|2005|p=226}}。阿南は[[皇族]]で陸軍大将の[[東久邇宮稔彦王]]にまで頼って、この東條の恣意的な人事を撤回させようとしたがかなわず、1941年3月に石原は師団長を更迭されて予備役に編入された{{Sfn|保阪正康|2005|p=226}}。 |
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軍務局幕僚を中心とする強硬派は、11日頃から和平派閣僚を逮捕、近衛師団を用いて宮城を占拠するクーデター計画をねっていた。これに賛同を求められた阿南は、梅津の賛同を条件としたが、14日朝に梅津から反対の意を伝えられた。 |
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阿南はこの事件で東條に愛想を尽かして、1941年4月の異動で、陸軍次官在任期間が長くなったからと適当な理由をつけて、陸軍次官を辞して[[第11軍 (日本軍)|第11軍]]司令官として中支戦線へ赴いていった。東條は、阿南の後任の陸軍次官には[[木村兵太郎]]中将を、人事局長に[[冨永恭次]]少将、[[陸軍省#兵務局|兵務局長]]に[[田中隆吉]]少将を任命するなど、陸軍中央は東條の息のかかった人物が主要ポストを占めることとなった{{Sfn|保阪正康|2005|p=228}}。阿南は陸軍中央を離れてからも東條の人事を批判しており、「俺は東条大将とちがって、誰でも使える」と部下を選り好みする東條との違いを強調していた。阿南の人事統率の方針は「温情で統率する」という温情主義であり{{Sfn|戦史叢書82|1975|p=148}}、部下は能力の如何に関わらず、誰でも使うことができるという自負をもっていた{{Sfn|昭和史の天皇4|2012|p=205}}。 |
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14日正午過ぎに首相官邸閣議室において義弟の[[竹下正彦]]中佐らから陸相辞任による内閣総辞職、さらに再度クーデター計画「兵力使用第二案」への同意を求められたが、阿南はこれを退けた。 |
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=== 第11軍司令官 === |
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阿南の同意を得ぬまま8月14日深夜に起きた[[宮城事件]]は、15日のうちに失敗に終わった。「阿南は8月14日の三長官会議で既に罷免が決定しており、クーデターを積極的に支援することができなかった」との意見もある<ref>別宮暖朗著 終戦クーデター 近衛師団長殺害事件の謎 PP.231-232</ref>。 |
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[[Image:Korechika Anami in china.jpg|thumb|350px|第11軍幕僚と阿南(右から2人目)]] |
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その後、[[第2次近衛内閣]]、[[第3次近衛内閣]]そして[[東條内閣]]と続き、東條内閣によって、日本は[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])に突入した。 |
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[[大本営]]と[[支那派遣軍]]は、[[国民政府|重慶政府]]に大打撃を与えて日中戦争の解決の目処をつけるため、中国軍が不陥と誇ってきた[[長沙]]への侵攻を計画した。ところが、6月[[独ソ戦]]の勃発による「[[関東軍特種演習|関特演]]」への兵力転用や、[[日米交渉]]の難航による[[南方作戦]]準備が問題になるにつれ、大本営や[[陸軍省]]では長沙進攻中止論が台頭していたが、阿南は引き続き周到な作戦準備を行った。長沙には精強を誇る第9戦区軍司令部(司令長官:[[薛岳]])があり、阿南はこの撃破を目論見、東部萬洋山系の側面陣地を撃破して長沙に進攻しようと計画していたが、作戦を認可した参謀本部は中央突破の作戦を命じた([[第一次長沙作戦]]){{Sfn|戦史叢書47|1971|p=付録2}}。 |
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阿南は8月14日午後には、陸軍省の[[道場]]で[[剣道]][[範士]][[斎村五郎]]と面会し、短時間剣道の稽古をしている<ref>早瀬利之『気の剣 剣聖十段斎村五郎』355頁、スキージャーナル</ref>。 |
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第11軍は歩兵45個大隊の大兵力で長沙を目指して進軍したが、阿南の懸念した通り東部萬洋山系の側面陣地から戦力に勝る中国軍の攻撃を受けて苦戦を強いられた。それでも第11軍は多数の中国軍部隊を撃破しつつ長沙に達した{{Sfn|戦史叢書47|1971|p=付録2}}。激戦のうえで長沙を占領した第11軍であったが、阿南は市街に突入させる部隊を最小限に抑えて、市街地の破壊や食料物資の略奪を厳禁した。阿南は略奪行為の厳禁を命じた意図を支那派遣軍総司令官畑に「一般民家を焼却すれば却って民心の離反を招くから」と説明している{{Sfn|戦史叢書47|1971|p=467}}。作戦目的は中国軍に打撃を与えることであり、第11軍は主敵であった第74軍を撃破、54,000人の遺棄死体を確認、4,200人の捕虜と大量の兵器弾薬を獲得するといった大戦果を挙げた一方で、長沙市街の軍事拠点は既に爆撃などで撃破されて戦略的価値が低かったことから、作戦目的は達したとして阿南は長沙からの反転を命じた。そのため、中国軍は「長沙は未だに占領されず」と内外に喧伝し、また、第11軍が長沙で戦っているころに、中国軍主力15個師団は[[宜昌市|宜昌]]に大攻勢をかけており、結局、作戦目的であった中国軍の弱体化を達成することはできなかった{{Sfn|戦史叢書47|1971|p=530}}。 |
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第一次長沙作戦で中国軍に大打撃を与えつつも作戦目的は果たせなかった阿南は機会をうかがっていたが、[[太平洋戦争]]が開戦した[[12月8日]]、[[香港の戦い|香港攻略作戦]]を開始した華南の[[第23軍 (日本軍)|第23軍]]の背後を衝くため中国軍(第4軍・暫編第2軍)が、長沙付近から広東方面への南下を開始したのを知って、第11軍は、すぐさま中国軍の南下を牽制する作戦が検討され、[[木下勇 (陸軍軍人)|木下勇]]参謀長から作戦説明を受けた阿南軍司令官は[[第二次長沙作戦]]を即断し、第11軍独断で作戦を開始した{{Sfn|戦史叢書47|1971|p=546}}。 |
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第11軍の3個師団10万人は、退却を開始した中国軍を追って無人の野を進むが如く急速で進撃を続けた。阿南は前回長沙を放棄したことを悔やんでおり、今回は長沙を占領確保するつもりであった{{Sfn|戦史叢書47|1971|p=550}}。しかし、中国軍の撤退は「退却攻勢」作戦で、長沙では30万人の中国軍が待ち構えていたが、それに対して第11軍は急遽の作戦開始で3個師団の連携も取れておらず、兵站も不十分であった。先行する[[第3師団 (日本軍)|第3師団]]加藤大隊の[[加藤素一]]少佐が偵察中に戦死し、携行していた作戦計画命令書を中国軍に奪取されて、第11軍の弾薬が不十分であることが露見するといった不幸も重なって{{Sfn|阿部牧郎|2003|p=352}}、罠に飛び込んだ形となった第11軍ではあったが、それでも[[第6師団 (日本軍)|第6師団]]は猛進して、長沙まで到達した。しかし前回とは打って変わり、長沙は堅牢に陣地化されており、第6師団は突撃を繰り返すも容易に城壁外のトーチカを突破できず、また、第3師団も長沙への攻撃を開始したが、第6師団同様に城壁を突破できず、逆に戦力が勝る長沙守備隊から数十回にも及ぶ逆襲を受けて防衛戦を強いられた。2個師団が長沙攻略に手間取っている間に、背後から中国軍30個師団が迫ってきて包囲されてしまった。残る[[第40師団 (日本軍)|第40師団]]も長沙の45㎞手前で優勢な中国軍に包囲されており、第11軍は苦境に立たされた{{Sfn|阿部牧郎|2003|p=353}}。作戦開始以降強気な作戦指導を行い、泰然自若な態度で幕僚らを慰撫激励してきた阿南も、戦況が激変したことで憂いが濃くなり、強行突破による敵主力撃滅の作戦方針を転換して、反転し敵の薄弱部を突破しての撤退を命じた{{Sfn|戦史叢書47|1971|p=635}}。 |
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3個師団は、圧倒的多数の中国軍相手に戦闘しながらの撤退を余儀なくされて多くの損害を被り、この作戦による日本軍の損害は戦死1,591人、戦傷4,412人にも上ったが、各師団は厳しい戦況のなかでも敢闘し中国軍にも打撃を与えて遺棄死体約28,612人を確認し、捕虜1,065人を得ている{{Sfn|戦史叢書47|1971|p=665}}。中国側が長沙会戦と呼んだこの戦いは、[[日本軍]]に対する[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍最初の勝利として重慶政府は大いに喧伝したが、中国軍自身は、数倍の戦力を揃えて周到に包囲作戦を準備していたにも関わらず、第11軍を取り逃がしたことについて「すこぶる遺憾」と厳しい評価をしている{{Sfn|戦史叢書47|1971|p=635}}。さらに、香港は日本軍が占領し、この中国軍の勝利は戦略的には大きな意味は持たなかった。第11軍が準備不足で作戦を開始し、結果的に優勢な敵相手に撃退された形となったことに、支那派遣軍総司令官畑は批判的であったが、重慶政府が戦略的にも政治的にも長沙を最重要視していることを再認識させられている{{Sfn|戦史叢書47|1971|p=663}}。 |
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第二次長沙作戦の敗北は、阿南が第109師団長時代、山西軍や八路軍相手に積極的な攻勢で完勝した成功体験を踏襲して招いたという指摘もあるが<ref>広中一成 日本現代中国学会第67回全国学術大会「第二次長沙作戦の敗北原因の検討―インパール作戦と比較して」2017年10月28日</ref>、圧倒的に戦力が勝る中国軍に対して、味方の劣勢を承知で敢て中国軍主力12個軍を牽制して足止めし、香港の攻略や南方作戦を有利にしたとして、阿南の慎重と放胆を両立させた作戦指導が評価されることとなった。阿南自身も、この作戦について「独断長沙進攻の非難あらんも、牽制価値大なりしに満足する」と日記に記すなど意義を強調している{{Sfn|筒井清忠|2018|p=75}}。阿南は部下ら若い将校との酒席に出ると、長沙作戦の経緯を語って聞かせ、第11軍の快進撃を引き合いに出して「いいか、ドンドン行け。ドンドン、ドンドン行け」と力強く語りかけたという。この「ドンドン」というのが阿南の口癖となった{{Sfn|児島襄|1974|p=Kindle2696}}。 |
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=== 第2方面軍司令官 === |
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[[Image:Anami koretika.jpg|thumb|350px|陸軍大将に昇進した阿南]] |
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1942年7月、[[第2方面軍 (日本軍)|第2方面軍]]司令官として[[チチハル市|チチハル]]に赴任、同じ満州の[[第1方面軍 (日本軍)|第1方面軍]]司令官は阿南と陸軍士官学校の同期で、[[マレー作戦]]で名声を博していた「マレーの虎」こと山下が同日に着任し、勇将2名が軍司令官となった満州では「東の山下、北の阿南」と言われ、関東軍の士気は大いに高まったという{{Sfn|額田坦|1977|p=418}}。 |
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[[1943年]]5月[[陸軍大将]]に昇進、第2方面軍は南方の戦局不振に伴い、[[1943年]]10月30日、豪北方面([[オーストラリア]]の北方に位置する[[オランダ領東インド]]東部)に転用された{{Sfn|額田坦|1977|p=418}}。司令部は[[ミンダナオ島]]の[[ダバオ]]に置かれ[[第19軍 (日本軍)|第19軍]]と新設の[[第2軍 (日本軍)|第2軍]]を指揮することになり、豪北から西部ニューギニアの広い戦域を担当することとなった。やがてラバウルの第8方面軍の指揮下で悪戦苦闘してきた[[第18軍 (日本軍)|第18軍]]と[[第4航空軍 (日本軍)|第4航空軍]]も指揮下に入ったが、敗走続きで多くの戦力を失い疲弊しきった軍は、[[ダグラス・マッカーサー]]大将率いる西太平洋連合軍の[[アイランドホッピング|飛び石作戦]]に対抗できなくなっていた。阿南は要衝のウェワクを防衛するため第18軍主力に移動を命じたが、悪路で輸送手段もない第18軍が苦労して移動している途中に、マッカーサー率いる連合軍はウェワクを飛び越して、良好な港湾があり日本軍の補給基地となっていた[[ホーランジア]]と日本軍の飛行場があるアイタペに上陸して占領してしまった{{Sfn|ペレット|2016|p=755}}。 |
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阿南はホーランジアの奪還を主張し、サルミにあった[[第36師団 (日本軍)|第36師団]]主力を奪還作戦に投入しようとしたが、大本営や[[南方軍 (日本軍)|南方軍]]に制止された。阿南は度々ニューギニア戦線で全力を集中した反撃作戦を提案したが、そのたびに大本営から「消耗戦にひきずりこまれる」と制止され続けて「戦闘に勝てなくて、戦略に勝てるはずがない。いわんや戦争をや」と歯がしみすることとなった{{Sfn|角田房子|1980|p=Kindle1754}}。第2方面軍は1944年4月15日に大本営直轄から南方軍の指揮下に入り、阿南の作戦指揮はさらに制約を受けることとなった。 |
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やがて連合軍はきたる[[サイパンの戦い|マリアナ諸島攻略]]支援のため[[ニューギニア島|ニューギニア]]西部の[[ビアク島]]攻略を決めた。ビアク島には日本軍が設営した飛行場があり、マリアナ攻略の航空支援基地として重要と見られていた。阿南も、常々「ビアク島は空母10隻に値する」と主張しており、自らビアク島の地形を確認して、地の利を活かした陣地構築の指示を行っている{{Sfn|昭和史の天皇4|2012|p=209}}。1944年5月27日に[[第6軍_(アメリカ軍)|第6軍]] 司令官[[ウォルター・クルーガー]]中将率いる大部隊がビアク島に上陸し[[ビアク島の戦い]]が始まった。阿南の指示によって、巧みに海岸を見下ろす台地に構築された洞窟陣地は、連合軍支援艦隊の[[艦砲射撃]]にも耐えて、上陸部隊に集中砲火を浴びせて大損害を被らせた{{Sfn|昭和史の天皇4|2012|p=210}}。その後、ビアク守備隊支隊長の歩兵第222連隊長[[葛目直幸]]大佐は{{Sfn|戦史叢書23|1969|p=573}}、上陸部隊をさらに内陸に引き込んで、巧みに構築した陣地で迎え撃つこととした{{Sfn|ペレット|2016|p=755}}。第41歩兵師団師団長ホレース・フラー少将は日本軍の作戦を見抜いて、慎重に進撃することとしたが、マリアナ作戦が迫っているのに、ビアク島の攻略が遅遅として進まないことで海軍に対して恥をかくと考えたマッカーサーはクルーガーを通じてフラーを急かした{{Sfn|ペレット|2016|p=773}}。 |
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阿南はビアク島が攻撃を受けたときの増援として、前々から計画していた[[海上機動第2旅団]]のビアク島への海上輸送を海軍に要請、海軍もビアク島の価値を認めて、6月2日に[[左近允尚正]]少将率いる輸送艦隊と護衛艦隊からなる渾部隊でビアク島に増援を送る[[渾作戦]]が開始された。日本艦隊の接近を知ったマッカーサーは、既に空母15隻を基幹とする機動部隊はマリアナに向かっていたため、手元にあった[[重巡洋艦]]が主力の艦隊で迎え撃つこととしたが、連合艦隊司令部は、渾部隊が[[B-24 (航空機)|B-24]]に発見され追尾されていたことで航空攻撃を懸念したこと、また出撃してきた連合軍艦隊をアメリカ海軍の空母機動部隊と誤認したことで、6月3日夜に作戦を中止して渾部隊に[[ソロン]]へ向かうよう命じた。 作戦の順調な進行を聞いて成功を疑わなかった阿南はまさかの作戦中止の報告を受けると激昂して「渾作戦中止は3日11時頃B24に発見されし為と」「煮湯を呑まされし感あり」とその日の日記に記述している{{Sfn|角田房子|1980|p=Kindle2031}}。 |
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その後も阿南の求めで渾作戦は継続されたが、規模を縮小されたあげく輸送に失敗し、最後はマリアナに接近するアメリカ軍機動部隊を発見した連合艦隊が[[あ号作戦 (1944年)|あ号作戦]]の好機と考えて渾作戦を中止した。阿南は海軍から渾作戦中止の連絡を受けると「統帥乱れて麻の如し」と憤慨したが、最終的には「大局的にやむを得ない」と諦めて、独力でビアク島を救援しようと一個大隊を増援に送っている{{Sfn|角田房子|1980|p=Kindle2187}}。ビアク島守備隊は満足な支援も受けられない中で、指揮官の葛目の巧みな作戦指揮もあって敢闘、クルーガーの命で早期攻略のため、日本軍陣地を正面攻撃していた上陸部隊に痛撃を与えて長い期間足止めし、ついに6月14日、苦戦を続けるフラーは、マッカーサーの意を受けたクルーガーから上陸部隊司令官と第41歩兵師団師団長まで解任されることとなった{{Sfn|ペレット|2016|p=774}}。アメリカ軍がビアク島の飛行場を全て利用できるようになったのは8月に入ってからであり、[[マリアナ沖海戦]]に間に合わせることはできなかった。しかし、ビアク守備隊敢闘の甲斐なく、マリアナ沖海戦は日本軍の完敗に終わった{{Sfn|戦史叢書23|1969|p=634}}。阿南はビアク守備隊指揮官葛目の戦死の報告を受けると「惜みても余りあり。真実ならん」「謹みて非凡なる奮闘勇戦を感謝し、冥福を祈る」と日記に書いている{{Sfn|角田房子|1980|p=Kindle2259}}。 |
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その後マリアナも奪われ、9月15日には、[[スラウェシ島|セレベス島]][[マナド]]に前進していた第2方面軍司令部の目と鼻の先にある[[モロタイ島]]にもマッカーサー率いる連合軍が侵攻し[[モロタイ島の戦い]]が始まった。この戦域を護る[[第32師団 (日本軍)|第32師団]]の主力は[[ハルマヘラ島]]にあり、モロタイ島には1個大隊程度の戦力しか置いておらず、たちまち島の主要部は占領され、天然の良港と急遽整備した飛行場によって連合軍[[レイテ島の戦い|レイテ作戦]]の前線基地となった。阿南はたびたびハルマヘラ島から逆上陸部隊を送り込んで、モロタイ島基地の使用妨害を行ったが、戦況に大きな影響はなく{{Sfn|阿部牧郎|2003|p=393}}、マッカーサーは[[レイテ島]]に上陸し、戦局の中心はフィリピンに移った。阿南らが護る西部ニューギニアや豪北方面は中央から見捨てられて、局地的な戦闘が続いているが、戦局の挽回などは全く望めないような状況となっていった{{Sfn|角田房子|1980|p=Kindle2495}}。 |
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阿南は、海上輸送路が断絶して補給が滞るなかで、前線の将兵の栄養状況を少しでも改善しようと、現地の植物や魚介類の加工を研究させたりと努力をしていたが、前線の飢餓や疫病は阿南の努力程度ではどうにもならない状況に陥っており、終戦までに多くの餓死者や病死者を出している{{Sfn|角田房子|1980|p=Kindle3210}}。 |
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=== 陸軍航空総監部兼航空本部長 === |
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[[1944年]]12月[[陸軍航空総監部|航空総監]]兼航空本部長への異動を命じられた。レイテ島を攻略した連合軍は[[ミンドロ島]]を皮切りにフィリピン全体の制圧を目指しており、大本営には、阿南に豪北、[[ボルネオ]]、南部フィリピンを一元統帥させ連合軍に対抗させる案もあり、阿南もこの地で軍司令官として玉砕する覚悟であったため、この日の阿南の日記には「若者多数を失い、生きて再び皇土を踏むの面目なしと迄覚悟までした身」と無念を滲ませた記述をしている。しかし、阿南の信念は、「死ぬことだけでは義務を果たしたことにはならない、生きていられるだけ生きて戦力になれ」であって、部下にも常々言って聞かせており、戦死した部下将兵に殉じたいとする気持ちを抑えて東京に向かった{{Sfn|角田房子|1980|p=Kindle2555}}。 |
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この頃には、戦局の悪化に伴って阿南陸軍大臣待望論が強まっており、ダバオで阿南と面談した[[三笠宮崇仁親王]]は「阿南は人格高潔、部下は心服し、海軍との関係も良い、阿南が南方第一線を指揮することはもっとも必要であるが、陸軍大臣として活動してもらうことはそれ以上必要である」と帰国後に東久邇宮稔彦王に進言しているなど{{Sfn|筒井清忠|2018|p=77}}、この異動は阿南の陸軍大臣就任を見据えて、陸軍中央が外地から呼び戻したという意味合いが大きかった{{Sfn|昭和史の天皇2|2011|p=Kindle90}}。阿南の耳にも陸軍大臣待望論は聞こえていたが、「予を陸相に擬するもの多きも、重要作戦任務を拝命して任を尽くさず。豈何ぞ甘受し得んや。勿論其の器にあらざるを自ら識る」と日記に記しているなど否定的であった{{Sfn|筒井清忠|2018|p=76}}。 |
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阿南は東京に帰る途中で、[[ルソン島]]に寄って、[[第14方面軍]]司令官としてフィリピンで悪戦苦闘する同期で親しい山下を激励したいと願ったが、[[サイゴン]]で、フィリピンの戦況に詳しい[[南方軍 (日本軍)|南方軍]]総参謀長[[沼田多稼蔵]]中将より現状を聞かされて、ルソン島行きを断念した。結局、この後も阿南と山下が再会することはなかった{{Sfn|角田房子|1980|p=Kindle2587}}。 |
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阿南が着任して間もなくに[[硫黄島の戦い]]が始まり、いよいよ連合軍が本土に迫ってくることとなった。フィリピンでの「[[万朶隊]]」と「[[富嶽隊]]」を皮切りに陸軍航空隊でも、既に[[特別攻撃隊]]が多数出撃している状況であったが、阿南自身は「特別攻撃は決死隊であっても、生還の道は講じるべきである。敵艦への航空特攻のように、死によってのみ任務遂行できる出撃を命じるのは、上官としてあまりに武士の情にかける」と考えて、航空特攻には批判的であった{{Sfn|角田房子|1980|p=Kindle2658}}。しかし、大本営の方針は[[天号作戦]]として、本土付近に侵攻してくる連合軍に対して、航空攻撃で大出血を強いるという計画を決定、その主戦術は特攻とされており、阿南は否が応でも特攻に関わっていくこととなる{{Sfn|戦史叢書36|1970|p=288}}。 |
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天号作戦においては、どうしても陸海軍航空戦力を総合的に運用する必要があった{{Sfn|戦史叢書17|1968|p=175}}。しかし沖縄で決戦をしようと計画する海軍に対して、一定の戦力を拘置し本土決戦を重視する陸軍の方針は相違しており、海軍の中には陸軍航空を海軍の指揮下に入れ、陸海軍統合戦力として決戦するべきという意見が強く、陸軍内でも同調する意見もあった{{Sfn|戦史叢書36|1970|p=391}}。しかし、このような重要な提議をするためには航空総監である阿南の諒解が必要であり、陸軍航空の海軍指揮下編入に同意していた参謀本部第1作戦部長[[宮崎周一]]中将は、気兼ねしながら阿南に申し出た。阿南は第2方面軍司令官の際には何回も海軍に煮え湯を飲まされており、私怨もあって簡単には同意しないものと思われたが、気兼ねしている宮崎に対してあっさりと笑顔で「結構ですよ」「喜んで豊田大将(連合艦隊司令長官[[豊田副武]])の指揮をうけましょう」「すぐにでも[[日吉台地下壕|日吉台]]に挨拶に行ってよい」と答えて宮崎を安心させている{{Sfn|角田房子|1980|p=Kindle2623}}。 |
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阿南は陸軍の本土決戦のための戦力温存策には反対であり、特攻には批判的ながら「本土決戦ばかり考えず、航空戦力すべてを挙げて沖縄の敵を叩くべきだ」「俺も最後には特攻隊員として敵艦に突入する覚悟だ」と[[梅津美治郎]][[参謀総長]]に詰め寄っている{{Sfn|角田房子|1980|p=Kindle2672}}。特攻隊員の出征を見送る際には熱涙を注ぎ、ことあるごとに「富士山を目標として来攻する敵機群の横っ腹に向かって自ら最後には突入する」と周囲に公言もしていた{{Sfn|額田坦|1977|p=418}}。阿南の熱意もあって、陸軍航空隊の[[第6航空軍 (日本軍)|第6航空軍]]は海軍の[[連合艦隊]]の指揮下で統一した作戦行動をとることとなったが、沖縄戦の海軍特攻を指揮した[[第五航空艦隊|第5航空艦隊]]と第6航空軍は、連合艦隊の指揮下であくまでも並立の扱いであって、形式的な陸海軍協同作戦の域を脱することはなく、また海軍の第5航空艦隊司令部が[[鹿屋基地]]と最前線にあったのに対して、陸軍の第6航空軍司令部は後方の[[福岡市]]にあって連携も不十分であり、阿南の理想通りの陸海軍統一作戦とはならなかった{{Sfn|戦史叢書17|1968|p=177}}。 |
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=== 陸軍大臣 === |
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==== 鈴木貫太郎内閣組閣 ==== |
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[[Image:Kantaro_Suzuki_cabinet_-_April_7,_1945.jpg|thumb|300px|鈴木内閣の集合写真、最後列左の軍服姿が阿南]] |
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[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])の敗戦が自明なものとなっていた[[1945年]](昭和20年)4月、[[枢密院 (日本)|枢密院議長]]の[[鈴木貫太郎]](元[[侍従長]]、元[[軍令部総長|海軍軍令部長]]、元[[連合艦隊司令長官]])に[[大命降下]]された。 |
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前政権の[[小磯内閣]]の最末期、[[本土決戦]]へ向けた[[第1総軍 (日本軍)|第1総軍]]新設に際して、[[陸軍三長官|三長官会議]]が[[小磯國昭]]首相に無断で[[杉山元]]・陸相をその総司令官として閣外に転出させ、阿南を後任の陸相とすることを決定したことに対し、[[予備役]]陸軍大将の小磯首相が現役復帰による陸相兼任を要求して容れられず、内閣総辞職となった経緯がある。もはや、かかる難局で陸軍大臣の任を全うできるのは、上下に人望の厚い阿南の他になく、杉山ら陸軍首脳が阿南を外地から呼び戻していたのも、次期陸軍大臣を予定してのことであった{{Sfn|昭和史の天皇2|2011|p=Kindle90}}。 |
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しかし、阿南自身は「自分は空中で討死する。絶対に大臣などはお断りする」と陸軍内の阿南を陸軍大臣に推す動きに拒否感を示していた。陸軍人事局長の額田は、阿南の強硬な拒否で、[[第15方面軍 (日本軍)|第15方面軍]]司令官兼[[中部軍管区 (日本軍)|中部軍管区]]司令官[[河辺正三]]大将などを陸軍大臣に推す動きがあっていることに危機感を覚えて、かつての上司であった阿南に「かねてより心中反対であった特攻隊を次々と送り出されている心情はよくわかります」「しかし、自ら飛行機に乗って来攻する敵機の中に突入されるよりも、この重大局面に際し身を挺して大臣をお受けするのが真の忠節ではありませんか」と説得している{{Sfn|額田坦|1977|p=181}}。 |
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[[内閣総理大臣]]に就任した鈴木が組閣にあたって真っ先に訪れたのは陸軍であった。鈴木は前陸軍大臣[[杉山元]]元帥に対し単刀直入に「阿南惟幾大将を入閣させてほしい」と申し出た。そこで杉山は三長官会議で協議し、阿南を入閣させるため以下の3つの条件を提示した{{Sfn|児島襄|1974|p=Kindle2733}}。 |
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# 飽くまでも大東亜戦争を完遂すること |
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# 勉めて陸海軍一体化の実現を期し得る内閣を組織すること |
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# [[本土決戦]]必勝の為、陸軍の企図する施策を具体的に躊躇なく実行すること |
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鈴木はこの条件を快諾した。陸軍は「鈴木首相は[[ピエトロ・バドリオ]]だ」となどと、鈴木が[[イタリア王国]]のバドリオ政権による[[イタリアの降伏|無条件降伏]]のように終戦を画策していると警戒していたので、そのような内閣に陸軍が誇る阿南を出すわけにはいかないし、出せば強硬派の青年将校らが納得しないと考えてこのような条件を提示したものであった{{Sfn|昭和史の天皇2|2011|p=Kindle126}}。杉山はあまりにあっさりと鈴木が快諾したことに拍子抜けし、わざわざ聞き直したほどであったが、鈴木は「大丈夫だ」と再度応諾している{{Sfn|額田坦|1977|p=182}}。 |
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鈴木が阿南を指名したのは、侍従長時代に侍従武官であった阿南の昭和天皇に対する忠誠心と誠実な人柄を知って信頼していたこと。また、鈴木は大命降下の際に、昭和天皇が戦争終結を望まれていることを感得し、「速やかに大局の決した戦争を終結して国民大衆に無用の苦しみを与えることなく、またこれ以上の犠牲を出すことのなきよう、和の機会を掴む」との方針を心中深くに秘めていたが、阿南であれば、昭和天皇のご意志を理解し、それを至上のものとして奉仕してくれると確信していたことと、和平の課程で暴発する懸念もある陸軍を最後までまとめることができる力量をもっているのは阿南しかいないと評価していたことによると推測されているが、鈴木自身は阿南を推した理由について書き残していないので、真相は不明である{{Sfn|角田房子|1980|p=Kindle2803}}。 |
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鈴木はその足で阿南と面談し、陸軍大臣就任を直接要請した。これまでは陸軍大臣就任に難色を示していた阿南であったが、敬愛していた鈴木の要請を断ることはなくその場で快諾している。陸軍が出していた3条件について、阿南自身はこれらが実現困難なことはわかっており、むしろ機を見て有利な終戦をはかるべきと考え、かつて第2方面軍司令官時代に当時の外務大臣であった[[重光葵]]に終戦の建議を行ったこともあった{{Sfn|児島襄|1974|p=Kindle2733}}。陸軍大臣拝命時の阿南の考えについては、陸軍次官として阿南を補佐した[[若松只一]]中将によれば、「阿南の悲願は絶対[[国体]]護持で、鈴木の和平方針に異存はなかったが、敵に一大打撃を与えて、国体護持の安心を得て終戦に導く」というものであったという{{Sfn|額田坦|1977|p=192}}。 |
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鈴木はさらに、「早期講和」のため、首相の東條と衝突して[[外務大臣]]を辞任していた和平派の[[東郷茂徳]]を「戦争の見透かしはあなたの考え通りで結構であるし、外交はすべてあなたの考えで動かしてほしいと」と[[三顧の礼]]で外務大臣として迎えている。また[[下村宏]][[内閣情報局]]総裁のように「終戦のために就任する。そのためには殺されてもよい」という覚悟で拝命した者もいて、心中密かに終戦の決意を秘めた閣僚を内在する内閣となった{{Sfn|新人物往来社|1995|p=21}}。 |
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阿南は陸軍大臣に着任すると、しばしば局長や課長らを集めて会食を行い、忌憚のない意見を聴取した。局長らは何でも思うところを直接大臣に意見できるため、そのせいもあって、物忘れが激しくなっていた杉山前大臣のときより{{Sfn|額田坦|1977|p=181}}、陸軍省内の空気はかなり改善されて、阿南への信頼が高まっていった{{Sfn|角田房子|1980|p=Kindle3198}}。 |
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==== 和平工作 ==== |
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鈴木内閣発足前後には、政府内外で和平派による活動が活発となっていた。[[近衛上奏文]]による終戦策を進めていた[[外交官]][[吉田茂]](元駐英大使)が阿南の陸軍大臣就任直後の4月15日に[[憲兵 (日本軍)|憲兵隊]]に拘束された。阿南は親交のあった吉田の拘束を聞くと、自らの立場は抗戦派であったのにも関わらず、陸軍人事局以来の部下で信頼の厚かった軍事課長[[荒尾興功]]大佐を呼び「すぐに釈放せよ」と命じている。しかし、憲兵隊はすぐに吉田を釈放することなく、特に[[近衛文麿]]との関係について厳しい尋問を行ったが、吉田の拘置所内の待遇については、[[独房]]で差し入れ自由という恵まれたもので、阿南の配慮があったものとされている。吉田が[[黙秘]]を貫いたため、仮釈放は40日あまり後となった。釈放のさいに島田法務中将から「陸軍内で起訴にするか、不起訴にするか大分問題になったが、最後に阿南閣下の裁断で不起訴になった」と告げられたとしている{{Sfn|角田房子|1980|p=Kindle3077}}。この事件は、上層部の和平の動きに一撃を加えて、陸軍の不退転の決意を示そうとした兵務局の抗戦派将校らが憲兵を使って吉田を逮捕させて東部軍[[軍法会議]]に送ったというのが真相であるが、阿南はこの起訴を画策した兵務局の強硬派などの一部の反対を押し切って、吉田を微罪釈放と決定している{{Sfn|戦史叢書82|1975|p=132}}。 |
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しかし、まだ政府内で終戦に関する議論は進んでおらず、東西から激しく攻め込まれているナチス・ドイツの命運を固唾を呑んで見守っている状況であった。ベルリンにソ連[[赤軍]]が突入して[[ベルリンの戦い]]が始まり、4月22日には開設以来100年間稼働し続けていたベルリン電報局が沈黙したが、最後に受け取った電報が日本の外務省が打電した「ミナサン、コウウンヲイノル」という激励電報であった{{Sfn|昭和史の天皇2|2011|p=30}}。太平洋戦線でも沖縄で激戦が続いており、この時点ではまだ連合軍に一撃を加えることを期待していた鈴木が、4月26日には首相官邸に阿南ら陸海軍首脳部を召集し、[[沖縄戦]]について「今は何があっても沖縄の作戦を成功させる」「沖縄の戦さに勝ってこそ外交政策も有効に行われるというものです」と檄を飛ばしている{{Sfn|半藤一利|2003|p=337}}。昭和天皇も[[梅津美治郎]][[参謀総長]]に対し「(沖縄戦が)不利になれば今後の戦局憂ふべきものあり、現地軍は何故攻勢に出ぬか」と持久作戦をとる[[第32軍 (日本軍)|第32軍]]司令官[[牛島満]]中将に、攻勢を指示するように促している{{Sfn|戦史叢書82|1975|p=113}}。 |
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[[Image:May 9, 1945 Japanese Government statement.jpg|thumb|300px|ドイツ降伏後の1945年5月9日に出された戦争遂行の日本政府声明の署名欄、陸軍大臣の署名欄は阿南の[[花押]]]] |
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5月2日にはついに[[欧州戦線における終戦 (第二次世界大戦)|ナチス・ドイツが降伏]]した。日本政府にとってナチス・ドイツの降伏は織り込み済みとは言え、世界の孤児となった窮状を挽回する妙案があるはずもなく“泰然として腰を抜かしている”ような状況であった{{Sfn|昭和史の天皇2|2011|p=31}}。5月8日の閣議においては、「あまりにドイツに引きずられ、振り回された」「ドイツに対する態度が甘すぎた」などの意見が出され、なかには、三国軍事同盟締結の責任問題とか、[[奉天]]で軍を止めた[[日露戦争]]のように、[[シンガポール]]や[[南京]]で軍を止めれば有利な和平の機会もあったなどと愚痴のような意見もあったというが、結局決まったのは「国内動揺の抑制」「日独協定の破棄」「反戦和平の機運を高めるような報道の規制」など後ろ向きなもので{{Sfn|昭和史の天皇2|2011|p=33}}、5月9日には「帝國と盟を一にせる独逸の降伏は帝國の衷心より遺憾とするところなり、帝國の戦争目的はもとよりその自存と自衛とに存す、是れ帝國の不動の信念にして歐州戦局の急変は帝國の戦争目的に寸毫の変化を与えるものに非ず、帝國は東亜の盟邦と共に東亜を自己の慾意と暴力との下に蹂躙せんとする米英の非望に対しあくまでも之を破摧しもつて東亜の安定を確保せんことを期す」とする戦争遂行の政府声明を出している{{Sfn|新人物往来社|1995|p=22}}。 |
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沖縄戦においては、5月3日から開始された第32軍による総攻撃が失敗して戦況は悪化の一途をたどり、沖縄での一撃に期待をしていた昭和天皇の意思は次第に早期の和平に傾いており、[[内大臣]][[木戸幸一]]に、「鈴木は講和の条件などについては弱い。木戸はどう考えるか。軍の武装解除については、何とか3,000人とか5,000人の軍隊を残せるよう話ができないものだろうか」と尋ねている。沖縄で勝機を掴んで和平へ、と常日頃主張し続ける鈴木の態度に苛立ちをつのらせての発言と思われたが、木戸もまだこの時点では早期の和平は考えておらず「和平とはまだ決まっておりません」と回答すると昭和天皇は黙ったままであった{{Sfn|半藤一利|2003|p=346}}。 |
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追い詰められた軍部の最大の懸念事項は[[ソビエト連邦]](以下[[ソ連]])の対日参戦であり、外務大臣東郷に参戦防止を目的とした対ソ工作を要求した。このため5月11日、12日、14日の3日に渡って[[最高戦争指導会議]]が開催された。東郷はこの機会に軍部の抵抗が強いアメリカとの直接交渉ではなく、ソ連を仲介とする和平交渉を進めることを決意し<ref name = NHK1993>NHK『[[ドキュメント太平洋戦争]] 「一億玉砕への道 〜日ソ終戦工作〜」』1993年8月15日放送</ref>、会議では、ソ連の参戦防止のほか、戦争の終結に関して日本に有利な条件となるよう、ソビエト連邦にアメリカやイギリスとの講和交渉の仲介を依頼することも協議された{{Sfn|新人物往来社|1995|p=22}}。しかし、軍部は国際感覚に乏しく、[[海軍大臣]]の[[米内光政]]などは「海軍としては、ソ連の参戦防止のほか、できればソ連の好意的態度を誘い、石油などの戦略物資を購入できればと希望する」と荒唐無稽なことを要望している。東郷は「ソ連を軍事的経済的に利用する余地などあろうはずもない。実状を知らないにも程がある。事態はもう手遅れで、現在の日本の状況では終戦そのものの手段を検討すべきである」と軍部の現状認識の甘さを指摘している<ref name = NHK1993/>。既に海軍は外務省にも内密で、独自に戦略物資と航空機の購入をソ連に要請しており、日本側から支払う代金の代わりとして、戦艦[[長門 (戦艦)|長門]]、空母[[鳳翔 (空母)|鳳翔]]、重巡洋艦[[利根 (重巡洋艦)|利根]]、駆逐艦数隻をソ連側に引き渡すこととし、米内の命で軍務局第2課長[[末沢慶正]]大佐が在京ソ連大使館と接触したが、ソ連側はまともに取り合わず、末沢が[[ウォッカ]]を振る舞われただけであった{{Sfn|角田房子|半藤一利|2003|p=348}}。 |
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阿南も、講和条件についての協議で「講和条件の協議は現在の戦況に基づいて決定すべきである」「日本は、敵軍に占領されている日本領土より遙かに広大な敵の領域を占領している」と強気な発言を行い、東郷に「講和条件は、現在の戦況だけでなく、合理的に予見できる将来の戦況も考えて割り出すべきだ」とたしなめられている{{Sfn|角田房子|1980|p=Kindle3741}}。それでも、ほかに手段のない日本政府は、米内の提案で条件については棚上げとしたままで、ますはソ連を講和の仲介役に引き込むことが決定された{{Sfn|新人物往来社|1995|p=22}}。しかし東郷は、ソ連との交渉は厳しいと考えており、独自に「[[樺太#南樺太|南樺太]]の割譲」「[[南満州鉄道|満州鉄道]]の譲渡」「[[千島列島]]北部の割譲」「[[津軽海峡]]の開放」などの手土産となる条件を準備して交渉しようと考えていた{{Sfn|伊藤正徳・5|1961|p=232}}。ソ連との交渉は[[佐藤尚武]]駐[[ソビエト連邦]][[特命全権大使|大使]]に託されていたが、[[ヤルタ会談]]によって既に対日参戦を決定していたソ連にあしらわれて、佐藤は6月9日に「日ソ友好強化は絶望的」と報告している。この後も外交努力が続けられたが、ソ連の引き延ばし策もあって実を結ぶことはなかった{{Sfn|新人物往来社|1995|p=23}}。 |
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==== 一撃講和 ==== |
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会議後の5月18日、阿南は前線の士気を鼓舞するため九州まで飛び、天号作戦遂行中の前線基地である鹿屋基地と[[知覧特攻平和会館|知覧基地]]を視察した。鹿屋では海軍第五航空艦隊司令の[[宇垣纏]]中将が出迎えたが、ビアク島の戦いの際に渾作戦を独断で中止し、阿南に煮え湯を呑ませたのが当時の第一戦隊司令官の宇垣であった。しかし、阿南が陸軍次官をしていたとき、[[軍令部]]第1部長であった宇垣とはよく会食するなど懇意にしており、この日も阿南はかつての私怨を持ち込むことはなく、海軍大臣の米内が一度も視察にこないのに陸軍大臣がわざわざ来てくれたと喜んで大歓迎した海軍側の厚意にこたえて、阿南は海軍の特攻隊員を激励し、夜には[[水交社]]で宇垣らと会食している{{Sfn|宇垣纏|1953|p=241}}。 |
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翌5月19日に第6航空軍司令部のある福岡に飛び、司令官の[[菅原道大]]中将と面談。菅原は空挺特攻隊である「[[義烈空挺隊]]」の使用を再三再四、参謀本部に陳情してきたが、そのたびに拒否されてきたので、参謀本部を飛び越えて阿南に直談判しようと待ち構えていたが、阿南と面談する直前に参謀本部から「[[義号作戦]]認可せらる」との作戦許可の電文が届いている{{Sfn|戦史叢書36|1970|p=566}}。阿南が東京に帰京したのちの5月24日、「義烈空挺隊」による沖縄の連合軍基地への空挺特攻作戦「義号作戦」が行われ、沖縄の連合軍飛行場に相当の打撃を与えた<ref>{{Harvnb|米国戦略爆撃調査団|1996|p=197}}</ref>。 |
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[[File:Aerial view of the Tokyo Imperial Palace, circa in late August 1945.jpg|thumb|right|250px|空襲により建物の多くが焼失した皇居。この写真は終戦直後にアメリカ軍重巡洋艦「[[クインシー (CA-71)|クインシー]]」の偵察機が撮影]] |
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5月24日と5月25日の2日に渡って、合計1,000機以上にもなる[[B-29 (航空機)|B-29]]による東京への[[東京大空襲|最大級の空襲]]が行われた。日本軍は前回の3月10日の東京大空襲の反省もあって、住民の避難と激しい迎撃を行い、死傷者は大きく減少、B-29を2日で43機撃墜し169機撃破したが{{Sfn|渡辺|1982|p=326}}{{Sfn|奥住|早乙女|2017|p=157}}、東京の市街地はほぼ灰燼に帰した。5月25日には、今までアメリカ軍が意図的に攻撃を控えてきた[[皇居]]の[[半蔵門]]に[[焼夷弾]]を誤爆してしまい、門と衛兵舎を破壊した。焼夷弾による火災は[[明治宮殿]][[表宮殿]]から[[奥宮殿]]に延焼し、消防隊だけでは消火困難であったので、[[近衛師団]]も消火にあたったが火の勢いは弱まらず、皇居内の建物の28,520㎡のうち18,239㎡を焼失して4時間後にようやく鎮火した。[[御文庫附属庫]]に避難していた[[昭和天皇]]と[[香淳皇后]]は無事であったが、[[宮内省]]の職員ら34名と近衛師団の兵士21名が死亡した。[[首相官邸]]も焼失し、鈴木は防空壕に避難したが、防空壕から皇居が炎上しているのを確認すると、防空壕の屋根に登って、涙をぬぐいながら炎上する皇居を拝している{{Sfn|クックス |1971|p=36}}。また、陸軍大臣官邸も焼失したが{{Sfn|戦史叢書19|1968|p=554}}、阿南は燃える官邸を背にして炎上する宮城に向かって最敬礼を続けていたという{{Sfn|阿部牧郎|2003|p=423}}。5月28日に阿南は皇居炎上の責任をとるため鈴木に辞表を提出した。鈴木は懸命に慰留したが、阿南の意志は固かったのでやむなく辞表をもって参内したが、昭和天皇より「陸軍大臣の微衷はわかるが、今や国家存亡のときである。現職に留まって補弼の誠を尽くすよう伝えよ」との慰留があったので、阿南はやむなく辞表を撤回した{{Sfn|角田房子|1980|p=Kindle3294}}。 |
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この頃になると同じ軍部でも、陸軍の阿南と海軍の米内の方針の相違が如実になってきた。軍部まで二つに割れてはいよいよどん詰りになると懸念した情報局総裁の下村は、鈴木と介添役となって、5月31日に首相官邸にて阿南と米内を中心とした6相懇談会を開催した{{Sfn|伊藤正徳・5|1961|p=232}}。案の定、会議は阿南と米内の激しい論争となり、阿南が「敵を本土に引きつけて一撃を加えた後に有利な条件で講和すべき」という一撃講和論を主張したのに対して、米内は「その1戦の勝算の見込みなく、全面降伏は必然であり、一日も速やかに講和に入るべき」とする即時講和論を互いに主張して譲らなかった。阿南はさらに「このままで講和を求めれば大幅譲歩を必要とするため、国民を納得させられないばかりではなく、陸軍の中堅層を制御するのも不可能であり、何としてもここでもうひと踏ん張りは必要である」と主張すると、米内は「もう踏ん張りはきかない、やがては[[国体]]護持さえできない結果となる」と反論するなど、3時間余りの議論が行われたが、全く両者に歩み寄る気配はなかった。この互いの主張は大きく変わることがなく、この後も激しい議論が繰り返されることとなった{{Sfn|伊藤正徳・5|1961|p=233}}。 |
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[[Image:Suzuki Yonai Anami.jpg|thumb|250px|伊勢神宮を参拝する先頭から順に鈴木、米内、阿南]] |
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6月9日、鈴木による[[帝国議会]][[衆議院]]及び[[貴族院 (日本)|貴族院]]両院の本会議での演説の内容に対して、2日後の衆議院戦時緊急措置法案(政府提出)委員会で[[小山亮]]からなされた質問と鈴木の答弁([[天罰発言事件]])により、一部議員による倒閣運動が激化した。これにより、米内は言葉狩りに明け暮れる議会に呆れて、それに対する捨て鉢な鈴木の態度にも立腹し辞意を固めた。ここで、米内が辞職すれば閣内不一致で総辞職しなければならなくなるため、ほかの閣僚たちは青ざめたが、連日米内と激しい議論を繰り返してきた阿南が最も熱意を持って慰留に動き、辞意を思いとどまらせるため、自ら手紙をしたためた。米内は阿南の手紙を読むと「陸相がこうまでいってくれるのか」嬉しそうにつぶやくと、米内から見れば箍が緩んでいるように見える鈴木が、ネジを巻き直すことを条件に辞意を撤回した{{Sfn|半藤一利|2003|p=381}}。ここで阿南が米内を説得しなければ辞職はほぼ確実で、阿南に反対する有力な閣僚はいなくなるため、なぜ阿南が米内を説得したかの真意は不明であるが{{Sfn|角田房子|1980|p=Kindle3345}}、後日阿南は「どう考えても国を救うのはこの鈴木内閣だと思う」という発言もしており、鈴木内閣を最後まで支えようと決心していたものと推測される{{Sfn|半藤一利|2006|p=31}}。 |
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天罰発言事件で国会や内閣が揺れていた頃、昭和天皇は日頃の心労と激務で体調を崩していた。6月8日の[[御前会議]]で決定した「今後採ルヘキ戦争指導ノ基本大綱」は、本土決戦で敵に大出血を強いて継戦意志を動揺させて、戦争目的である[[国体]]護持をはかるというもので「飽ク迄戦争ヲ完遂」するとの陸軍側の強い主張が反映されていた。しかしその拠り所は「七生尽忠ノ信念」や「地ノ利人ノ和」などという抽象的なものであり<ref>屋代 宜昭 [[防衛省]][[防衛研究所]]「太平洋戦争における日本の戦争指導-「世界情勢判断」を中心として-」p. 54.</ref>、これを見た昭和天皇は会議終了後に、「こういうことが決まったよ」と[[木戸幸一]][[内大臣]]に御前会議での決定内容を示している。これは異例なことであり、木戸は昭和天皇が「えらい強いのが出てきたよ」「困ったことになった」と言っていると受け取った{{Sfn|昭和史の天皇2|2011|p=76}}。昭和天皇は17[[尺貫法|貫目]]あった体重が15貫目を割り込む(約8kgの減)など、傍目からもやつれている様子は明らかで{{Sfn|半藤一利|2003|p=384}}、木戸は昭和天皇の様子を見て、時局収拾の試案作成に着手した。その試案によれば、天皇の親書を携えた特使をソ連に送り、対アメリカ、イギリスとの仲介を依頼するというもので、木戸は出来上がった試案を昭和天皇に言上すると、昭和天皇は政務室の[[ソファー]]で[[タイプライター|タイプ]]された木戸試案を熱心に読んだのち、とくに質問することもなく{{Sfn|昭和史の天皇2|2011|p=84}}「ひとつ、やってみろ」と許可した{{Sfn|新人物往来社|1995|p=23}}。 |
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昭和天皇は翌6月9日に、中国大陸の視察から帰ってきた参謀総長梅津から、「在満州と在中国の戦力は、アメリカ陸軍師団に換算して4個師団程度の戦力しかなく、弾薬も近代戦であれば1会戦分ぐらいしかない」という報告を受けた。この報告で昭和天皇は「日本内地の部隊は在満部隊より遙かに戦力が劣ると効いているのに、在満部隊がその程度の戦力であれば、統帥部のいう本土決戦など成らぬではないか」と認識、さらに6月12日には海軍の軍事参議官[[長谷川清]]大将から「海軍は兵器も人員も底をついている」「動員計画も行き当たりばったりの杜撰なもの」「機動力は空襲のたびに悪化減退し、戦争遂行能力は日に日に失われている」という報告も受けて、今までの事実認識が大きく崩れて、「本土決戦の戦勝による有利な講和」は幻影に過ぎないことを認識させられている{{Sfn|半藤一利|2003|p=387}}。昭和天皇はこれで心身が打ちのめされて、この日と翌15日は体調不良で寝込んでしまった{{Sfn|新人物往来社|1995|p=23}}。 |
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昭和天皇が体調を崩している間も、木戸は精力的に動いて、6月13日にこの試案を米内に説明した。米内は[[高木惣吉]]少将を用いて海軍独自で終戦に向けての工作をしていたが、木戸試案を聞くとそのことには触れず「首相がまだ強気だから」と鈴木の強硬姿勢を危惧しながらも木戸の試案に賛同した{{Sfn|昭和史の天皇2|2011|p=94}}。木戸は次に鈴木と面談し木戸試案を説明したが、鈴木は8月には日本陸海軍の戦力ががた落ちすると考えており、木戸は「それならば皇室のご安泰、[[国体]]護持のため、戦争終結に進みましょう」と賛同を求め、鈴木も「当然、私もその覚悟です。それ以外にない」と賛同した{{Sfn|半藤一利|2003|p=390}}。鈴木は米内の方が強硬な態度と思い込んでおり、木戸から米内が木戸試案に賛同したと聞かされると「実は自分は米内の方がまだなかなか強いと思ってましたが、そうですか」と苦笑している{{Sfn|昭和史の天皇2|2011|p=95}}。6月15日には[[沖縄戦]]の大勢も決しており、阿南は鈴木らと一緒に必勝祈願のため[[伊勢神宮]]を参拝している。鈴木はこの日の記者会見で「本土決戦こそ絶好の勝機」「沖縄が[[天王山]]などとは考えていない。[[元寇]]のときの[[壱岐]]・[[対馬]]をとられたのと同じことで、これから本土で、九州で戦う」という発言を行って、あくまでも表面上は、沖縄陥落後の本土決戦への意気込みを披露するなど、木戸との講和に向けての深謀を周囲に気取られないようにしている{{Sfn|半藤一利|2003|p=391}}。 |
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木戸は伊勢神宮から帰ってきた阿南と6月18日に面談して自分の試案を説明した{{Sfn|新人物往来社|1995|p=23}}。阿南は木戸が辞任を考えていると聞いており、開口一番に「辞めたらいけない」と慰留してきたので、木戸はそのときすかさず「いや、わたしがいおうとしていることを聞いたら、あんたはわたしに内大臣を辞めろと言うかも知れない」と前置きしてから、「阿南君、あんたいったい戦争をどう思ってる。もう本当にいかんのではないか」{{Sfn|昭和史の天皇2|2011|p=98}}「我々はいまこそ戦局の収拾について、果断な手を打つ必要がある」とタイプされた木戸試案を見せながら説いた。暫く黙って聞いていた阿南は顔をほころばせながら「木戸さん、あなたの今の地位からいって、今言われたことを考えるのは至極当然だと思うのです」「しかし我々軍人は本土決戦において敵に一大打撃を与えてから和平を交渉すべきだ、と考えているだけなのです。その方が日本にとって有利な条件で和平が結べると信じるのです」と答えている。木戸がさらに「本土決戦は結局は一億国民玉砕しか道がなく、そうすれば国体の護持どころではない」「お上は、戦争を終末まで続けるのは無駄なことだと考えられ、憂慮している」と昭和天皇の想いを説くと{{Sfn|半藤一利|2003|p=394}}、天皇に忠誠な阿南は言葉を失った{{Sfn|新人物往来社|1995|p=23}}。最後に木戸は「いっぺんたたいても、アメリカは2回、3回と来るだけの力を持っている」「その前にやらねばいけないから、とにかく考えてくれ」と木戸試案の検討を促すと、阿南も「それはわかっている。なんとか考えよう」と同意した{{Sfn|昭和史の天皇2|2011|p=99}}。 |
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6月22日、[[最高戦争指導会議]]構成員6名による[[御前会議]]が開催され、昭和天皇は会議の冒頭に「戦争の終結についても、この際従来の観念にとらわれることなく、速に具体的研究をとげ、これを実現するよう努力せよ」と公式には初めて和平の意志を示した{{Sfn|藤田尚徳|2015|p=Kindle1129}}。会議ではこの後も昭和天皇が積極的に発言し、梅津が「和平の提唱は内外に及ぼす影響が大きいから、充分に事態を見定めたうえに慎重に措置する必要がある」と意見を述べたのに対して、昭和天皇が「慎重に措置するというのは敵に対しさらに一撃加えた後にというのではあるまいね」と皮肉を込めて尋ねると、梅津は「そういう意味ではありません」と答え、阿南は「とくに申し上げることはありません」と言ったきり黙ってしまった。この会議で、陸軍による「一撃講和論」は昭和天皇によって封じ込められた形となった{{Sfn|新人物往来社|1995|p=27}}。天皇が席を立つと、鈴木が「我々が口に出すことをはばからなければいけないようなことを、陛下が素直におっしゃって下さった」「今後は、この6人が集まって十分にその方策をなることにいたしたい」と出席者に同意を求めた。真っ先に阿南が「賛成です」と同意したが、「しかし、これは極秘にしなければなりません。陸軍の若いものは自分たちの考えのみが正しいと思い込んでおります。陛下が終戦の決意を選ばされるのは、側近たちにだまされておるため、としか考えませんから」と率直に現在の陸軍の状況について吐露した。このあと、阿南は昭和天皇の和平への強い意志と、陸軍による徹底抗戦の突き上げのなかで難しいかじ取りを迫られることとなった{{Sfn|半藤一利|2003|p=405}}。 |
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昭和天皇の意を受けて、外務省はソ連の駐日大使[[ヤコフ・マリク]]が疎開していた[[箱根町|箱根]]の[[強羅ホテル]]に、[[広田弘毅]]元[[内閣総理大臣|首相]]を交渉に向かわせた。しかし、交渉の進展がなかったため、鈴木は天皇の親書を携えた特使を[[モスクワ]]に派遣することに決めた{{Sfn|阿部牧郎|2003|p=438}}。特使の代表には元首相[[近衛文麿]]が選ばれて、外務省はソ連大使の佐藤に近衛訪問の許可を得るように命じたが、既に厳しいソ連との交渉を行ってきて、成果らしい成果を挙げることが出来ていなかった佐藤は、ソ連との外交交渉は「降伏による終戦以外にとる道なし」との進言を打電しており、今回も無理を確信しながらソ連側に打診している。この日本側の打診が[[ソビエト連邦共産党書記長]][[ヨシフ・スターリン]]に報告されたのが、スターリンが[[ポツダム会談]]のため[[ベルリン]]郊外の[[ポツダム]]に向かった後であり、ソ連側は時間稼ぎのため引き延ばした上で、7月18日にはぐらかした回答をしているが、日本側がこの事情を知るよしもなかった{{Sfn|新人物往来社|1995|p=28}}。 |
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==== ポツダム宣言 ==== |
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[[Image:Bundesarchiv Bild 183-R67561, Potsdamer Konferenz, Konferenztisch.jpg|thumb|300px|ポツダム会談の様子]] |
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[[ナチス・ドイツ]]降伏後の1945年7月17日から[[ベルリン]]郊外[[ポツダム]]において、[[イギリスの首相]][[ウィンストン・チャーチル]]および[[クレメント・アトリー]]{{refnest|group="注"|[[1945年イギリス総選挙|総選挙]]に伴う首相交代による。チャーチルは7月26日まで。アトリーは27日以降(ただし前半も次席として参加)。}}、[[アメリカ合衆国大統領]][[ハリー・S・トルーマン]]、スターリンが集まり、第二次世界大戦の戦後処理についての会議である[[ポツダム会談]]が開催された。その会談の期間中の7月26日に[[ポツダム宣言]]が米英と[[中華民国]][[国民政府]]主席・[[蒋介石]]による共同声明として発表され、日本に伝達された{{Sfn|新人物往来社|1995|p=29}}。 |
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ポツダム宣言を伝達された日本政府は対応を協議するため翌27日に[[最高戦争指導会議]]と閣議を開催した。阿南は「政府として発表する以上は、断固これに対抗する意見を添え、国民が動揺することないよう、この宣言をどう考えるべきかの方向性を示すべき」と主張し、「和平交渉の道を残しておくため、宣言を拒否しないことが必要」と考えていた外務大臣[[東郷茂徳]]と真っ向から対立した{{Sfn|角田房子|1980|p=Kindle3741}}。議論の末、一旦は日本政府として方針を示さないが、各新聞にコメント入りで報道させて国民に周知させるという結論となった{{Sfn|新人物往来社|1995|p=30}}。 |
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翌28日の新聞では、「笑止、対日降伏条件」、「共同宣言、自惚れを撃破せん、聖戦飽くまで完遂」「白昼夢 錯覚を露呈」などという新聞社による論評が加えられて報じられたが、各社とも扱いは小さく、国民に大きな影響はなかった。しかし、支那派遣軍総司令[[岡村寧次]]大将の「ポツダム宣言は滑稽というべし」という意見に代表されるように、阿南は陸軍内部からの反撥もあって、再度「発表する以上は宣言を拒否することを明らかにすべき」と主張、この意見には和平派ながら同じく海軍の突き上げにあっていた米内も賛同した{{Sfn|角田房子|1980|p=Kindle3753}}。同日、鈴木貫太郎は記者会見で「共同声明は[[カイロ会談]]の焼直しと思う、政府としては重大な価値あるものとは認めず“黙殺”し、我々は戦争完遂に邁進する」と述べ、翌日の29日の新聞各紙で「政府は黙殺」などと報道され、さらに海外では「黙殺」が「reject(拒絶)」と報道された。トルーマンは7月25日の日記に「日本がポツダム宣言を受諾しないことを確信している」と書いているなど、日本が一旦はポツダム宣言を拒絶することを予測しており、[[日本への原子爆弾投下]]を合理化する理由ともなった{{Sfn|荒井信一|1988|p=50}}。戦後、鈴木はこの発言を振り返って「この一言は後々に至るまで、余の誠に遺憾と思う点であり・・・」と悔やんでいる{{Sfn|新人物往来社|1995|p=30}}。 |
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この報道がなされて以降、日本政府はソ連を通じた和平に期待する無活動な日々が続き、貴重な時間を無駄に費やしていった。そして、日本側のポツダム宣言拒否を大義名分として、アメリカ軍による1945年8月6日の[[広島市への原子爆弾投下|広島への原子爆弾投下]]が行われ、広島は1発の[[原子爆弾]]で壊滅した。翌7日にはトルーマンが「我々は20億ドルを投じて歴史的な賭けを行い、そして勝ったのである」「広島に投下した爆弾は戦争に革命的な変化をあたえる原子爆弾であり、日本が降伏に応じない限り、さらに他の都市にも投下する」という声明を発表した{{Sfn|半藤一利|2006|p=20}}。同日、午後から関係閣僚会議が開催され原爆について協議されたが、阿南は「たとえトルーマンが原子爆弾を投下したと声明しても、それは法螺かも知れぬ」と強く主張した。阿南を含む軍部は、自ら[[日本の原子爆弾開発|原子爆弾の開発]]を行ったこともあって薄々は解ってはいながら、原爆を認めて公表すれば軍と国民への士気の影響が大きすぎると考えて、協議の結果、詳細な調査が必要ということになり、大本営発表では原爆ではなく「新型爆弾」とされ、詳細は不明と報じられた{{Sfn|新人物往来社|1995|p=34}}。 |
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==== 御前会議 ==== |
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8月9日には和平交渉の仲介役と頼りにしていた[[ソ連対日参戦|ソ連が対日参戦]]し、その知らせを聞いた日本政府が対応を協議するため11時少し前に[[最高戦争指導会議]]を開催したが、その直後に[[長崎市への原子爆弾投下]]の報告があった。もはや事ここに至っては阿南もポツダム宣言を受諾することに反対することはなかったが、梅津参謀総長と軍令部総長豊田の3名で「国体の護持」「保障占領」「日本自身による武装解除」「日本による戦争犯罪の処分」の4条件を強く主張し、「国体の護持」のみに絞るとする東郷らと激しく対立した{{Sfn|新人物往来社|1995|p=39}}。阿南は特に皇室を護ることについて「ソ連は不信の国である。米国は非人道の国である。保証なく皇室を任すことは絶対に出来ない」と強く主張し、東郷からの4条件も呈示して交渉が決裂したらどうするのか?という質問に「一戦を交えるのみ」と答えている{{Sfn|半藤一利|2006|p=24}}。 |
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その一戦について、勝つ自信を米内から問われた阿南は激論を戦わせた{{Sfn|角田房子|1980|p=Kindle2779}}。 |
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* 阿南「戦局は5分5分、負けとは見てない」 |
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* 米内「局所局所の武勇伝は別であるが[[ブーゲンビル島の戦い]]、[[サイパンの戦い]]、[[レイテ島の戦い]]、[[ルソン島の戦い]]、[[硫黄島の戦い]]、[[沖縄戦]]皆然り、みな負けている」 |
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* 阿南「[[海戦]]では負けているが戦争では負けていない。陸海軍で感覚が違う」 |
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* 米内「勝つ見込みがあれば問題ない」 |
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* 阿南「とにかく国体の護持が危険である。条件付きにて国体が護持できるのである。手足もがれては護持できない」 |
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米内は開戦前の重臣会議で述べた「ジリ貧を恐れてドカ貧になることなかれ」という言葉の「ドカ貧」にすでに日本は陥っており、一刻も早く戦争終結をはかるべきと考えていたが、一方の阿南は海軍の艦艇がほぼ壊滅しているのに対して、陸軍は内外地に合計500万人の大兵力を有し、まだ本当の決戦を一度もしていない。[[本土決戦]]こそ、その決戦であり、国民もそのときには奮起するという陸軍側の考えを主張しており、2人の主張の隔たりは大きく、激しい議論となっていた{{Sfn|児島襄|1974|p=Kindle2791}}。 |
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会議は紛糾し、[[文部大臣]]の[[太田耕造]]が内閣総辞職すべきという意見を出した。阿南が太田に同調して辞職すれば、鈴木内閣を総辞職に追い込むこともできたが、阿南は太田に同調することはなかった{{Sfn|半藤一利|2006|p=26}}。会議の途中に阿南と梅津に、陸軍中堅幕僚から突き上げを受けた[[河辺虎四郎]]参謀本部次長が面談に訪れ、全国に[[戒厳|戒厳令]]を布告し、内閣を倒して軍事政権を樹立するというクーデター計画を進言したが、阿南は拒否した{{Sfn|新人物往来社|1995|p=40}}。また、海軍の[[軍令部]]次長の[[大西瀧治郎]]中将も阿南に面談を申し出ている。大西は海軍大臣の米内の意に反して軍令部総長豊田とともに徹底抗戦の説得活動を行っており、この面談でも「米内は和平ゆえに心許ない。陸軍大臣の奮戦を期待する」と阿南に期待するような発言があっているが、阿南は「承諾したが、海軍大臣の立場もあるので本件は聞かなかったことにしておく」と受け流している{{Sfn|生出寿|2017|p=234}}。 |
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午後10時に7時間以上も費やして結論がでなかった閣議を鈴木は一旦散会した、そして休憩後に、もう1度最高戦争指導会議を開催して、政戦略の統一をはかることとしたが、その会議は鈴木と[[内閣書記官長]][[迫水久常]]の手配で、[[昭和天皇]]も出席する[[御前会議]]となった。やがて宮中から御前会議開催の知らせを受けた阿南は内閣書記長室にやってきて、迫水を「御前会議を開くというが、これは違式ではないか」と問い詰めた。迫水は御前会議で天皇に発言させる予定であることを隠して「本日の会議は結論を出すという目的ではなく、実情をそのまま陛下に聞いていただくためのもの」と虚偽の回答をしたが、阿南はそれ以上は詮索することなく「そうか、それならよい」と納得して引きあげた{{Sfn|昭和史の天皇4|2012|p=4040}}。 |
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午後11時50分に開始された御前会議において阿南は「本土決戦は必ずしも敗れたというわけではなく、仮に敗れて1億玉砕しても、世界の歴史に日本民族の名をとどめることができるならそれで本懐ではないか」という意見を述べ、梅津と豊田も賛同した。一方、東郷は終戦やむなきという意見を述べて、米内と[[平沼騏一郎]][[枢密院]]議長が賛同した{{Sfn|新人物往来社|1995|p=40}}。一通り意見が出た後、深夜2時ごろに鈴木は自分の意見を言うことなく「意見の対立のある以上、甚だ畏れ多いことながら、私が陛下の思召しをお伺いし、聖慮をもって本会議の決定といたしたいと思います」と昭和天皇の意見を求めたため、一同にざわめきが起こった。軍関係者が驚いたのは、阿南が迫水から御前会議の開催目的について虚偽の説明を受けるなど、軍関係者にとって天皇の発言は全くの不意打ちだったからである{{Sfn|昭和史の天皇4|2012|p=4073}}。昭和天皇は身を乗り出すと「それならば私の意見を言おう。私は外務大臣の意見に同意である」「もちろん忠勇なる軍隊を武装解除し、また、昨日まで忠勤をはげんでくれたものを戦争犯罪人として処罰するのは、情において忍び難いものがある。しかし、今日は忍び難きを忍ばねばならぬときと思う。[[明治天皇]]の[[三国干渉]]の際のお心持ちをしのび奉り、私は涙をのんで外相案に賛成する」との“[[聖断]]”を下した{{Sfn|半藤一利|2006|p=30}}。 |
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[[聖断]]が下された御前会議が終了した後、「総理、この決定でよいのですか、約束が違うではないですか」と[[吉積正雄]]陸軍省軍務局長が鈴木に激しく詰め寄ったが、阿南はその様子を見て、何も言わずニコニコしている鈴木と吉積の間に割って入り「吉積、もうよい」と言ってたしなめている。また、陸軍出身で阿南とは同期の[[安井藤治]][[国務大臣]]が「阿南、ずいぶん苦しかろう。陸軍大臣として君みたいに苦労する人はほかにないな」と慰めたところ、阿南は「自分はどんなことがあっても鈴木総理と最後まで事を共にするよ。どう考えても国を救うのはこの鈴木内閣だと思う」としっかりした口調で語っている{{Sfn|半藤一利|2006|p=31}}。 |
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翌8月10日、阿南は陸軍省各課の高級部員を招集して、難局に対する心構えを訓示した。「自分の微力には重々責任は感じている、だが私は主張すべきことは存分に主張した。諸君はこの阿南を信頼してくれているはずだ。このうえは一体となって、大御心のままに前進しよう」「厳格な軍規のもと、一糸乱れずに行動しよう。国家の危急に際しては、一人の無統制が国の破綻の因になる。光輝ある帝国陸軍の一員であることを忘れるな」といったような、聖断や終戦にはふれずに、陸軍の一致団結を強調した内容であった。阿南が一番恐れていたことは、陸軍の暴発であり、特に敗戦の実感がない150万人の支那派遣軍の動向であって、全陸軍をいかに聖断に従わせるか、阿南は苦心していくこととなった{{Sfn|阿部牧郎|2003|p=448}}。阿南の真意を知らない一部の青年将校が「国体護持のため、たとえ草を食み、土をかじり、野に伏すとも断じて戦う」という「陸軍大臣布告」を勝手に作成し、阿南の決裁をとらずにマスコミに発表した。慌てた情報局総裁の下村からこの「陸軍大臣布告」を聞かされた阿南であったが、新聞への掲載中止を申し入れてきた下村に対して「いいのです。掲載してやってください。軍人とはそういうものなのです」と掲載を要請している。一途な青年将校を無理に抑え込めば暴発の懸念があると考えての、阿南に現時点でできる精一杯のことであった{{Sfn|阿部牧郎|2003|p=449}}。 |
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ルソン山中では阿南と同期の第14方面軍司令官山下が、優勢な連合軍相手に苦闘していたが、「[[楠木正成|楠公精神]]と[[北条時宗|時宗]]の決断とを以って敵を撃砕すべし」との激烈な「陸軍大臣布告」を受けて抗戦の意志を新たにしている。しかし、この「陸軍大臣布告」が阿南に無断で布告されたものとは知る由もなかった{{Sfn|武藤章|1981|p=204}}。 |
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==== クーデター計画 ==== |
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[[ファイル:Masahiko Takeshita.jpg|thumb|right|クーデター計画の首謀者の1人竹下正彦中佐、阿南の義理の弟でもあった]] |
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ポツダム宣言受諾の方針は決定したものの、伝達された宣言の内容では天皇の地位については不明確であったので、8月10日、日本政府は「天皇統治の大権を変更する要求が含まれていないという了解の下に受諾する」という回答を連合国に通知している。日本側の通知に対して連合国から8月12日に「[[ジェームズ・F・バーンズ|バーンズ]]回答」がなされたが、その回答は「降伏の時より、天皇及び日本国政府の国家統治の権限は降伏条項の実施の為其の必要と認むる処置を執る連合軍最高司令官に"subject to"する」というものであった。[[外務省]]は"subject to"を「制限の下に置かれる」だと緩めの解釈をしたが、参謀本部はこれを「隷属する」と訳して阿南に伝えた。陸軍の青年将校は国体の護持は危ういと考えて阿南に「ポツダム宣言の受諾を阻止すべきです。もし阻止できなければ、大臣は切腹すべきです」と詰め寄ったが、阿南は口を真一文字に結んだまま何も言わなかったという{{Sfn|半藤一利|2006|p=37}}。 |
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8月12日の夕方、阿南は久々に[[三鷹市]][[下連雀]]にあった私邸に帰った。阿南は終戦となれば自決しようと決意しており、家族に別れを告げるための帰宅であったが、家族団らんというわけにもいかず、阿南が帰宅して早々に元外相の[[松岡洋右]]が訪問してきた。松岡は陸軍青年将校たちから要請され、徹底抗戦のための自分を首班とする軍事政権樹立の提案をしたが、阿南は拒否している。その後に陸軍省軍務局の青年将校が2人来訪し、阿南にポツダム宣言受諾反対を説いた。阿南は夜中まで青年将校に付き合い、家族と語り合う暇もなかった{{Sfn|保阪正康|2005|p=564}}。翌8月13日未明には護衛をつれた元首相の東條が来訪した。東條が来たときには既に阿南は就寝しており、応対した女中にその旨伝えられると黙って帰った。女中から東條が来たと聞いた妻綾子が慌てて東條を追いかけて、ようやく[[三鷹駅]]辺りで追いつき自宅に来るように言ったが、東條は「阿南さんがお休みになっているならよろしいです」と言ってそのまま帰ってしまった。東條は、自分が松岡や青年将校らから担ぎ出されてクーデター計画に賛成していると阿南に誤解されないように、自分は「[[承詔必謹]]」{{refnest|group="注"|[[十七条憲法]]の第三条の条文、「[[詔]]を承りては必ず謹め」(天皇の命令は必ず謹んで聞け)という意味}}を貫くと阿南に直接伝え、また全陸軍がそうあるべきであると説きに来たのであるが、東條は帰宅すると家族に「阿南はきっとわかってくれる」と話したという{{Sfn|保阪正康|2005|p=565}}。 |
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阿南は8月13日に参内し、先日の「陸軍大臣布告」について昭和天皇に説明した。昭和天皇は無断で布告を作成した青年将校の処罰を要求したが、阿南としては珍しく「若い将校はあんなものなのです。軍はあれでよいのです」と反論し青年将校を擁護した{{Sfn|阿部牧郎|2003|p=451}}。このあと阿南は国体護持と天皇の地位存続について懸念を持っていると直接訴えたが、天皇はかすかに笑みを浮かべながら、いつものように阿南に「あなん」と呼びかけると、「心配してくれるのは嬉しいが、もう心配するな、朕には確証がある」と答えている。阿南は天皇の「確証」と言う言葉を聞いても安心することはできなかった{{Sfn|児島襄|1974|p=Kindle2859}}。 |
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明確な昭和天皇の意思表示があったにも関わらず、13日朝9時から開始された[[最高戦争指導会議]]は紛糾した。阿南と梅津と豊田は、連合国に神聖な天皇の地位は確実に保障されるよう再照会をかけるべきで、場合によっては死中に活を求めて一戦し条件を少しでも有利にすべきとの主張をしたが、東郷は再照会は交渉の決裂を意味すると断固反対し、米内は苛立たしげに「もう決定済みではないか。それをいまさら蒸し返すのは、陛下のご意志に逆らうことになる」と言い放った。両者の話を聞いていた首相の鈴木は「軍部はどうも、回答の言語解釈を際限なく議論することで、政府のせっかくの和平への努力をひっくり返そうとしているように思えます」と阿南らを非難し、阿南は敬愛する鈴木の叱責もあってすっかりと気落ちしてしまった{{Sfn|半藤一利|2006|p=42}}。 |
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最高戦争指導会議では結論は出ず、午後3時から開始された[[閣議]]に議論は持ち越された。気落ちしていた阿南であったが、閣議でも「連合国が明確な回答を与えなければ決戦もやむなし」とする再照会を主張し、[[安倍源基]][[内務大臣 (日本)|内務大臣]]と[[松阪広政|松阪廣政]][[法務大臣|司法大臣]]は阿南に賛成したが、他の12名の閣僚は東郷の即時受諾論を支持した。一通り全閣僚の意見を聞いた鈴木は「再三再四、回答文を読んだが、アメリカが悪意で書いたものではないことがわかった」「陛下もこの際和平停戦せよとのことであり、よって無条件で受諾すべきである」と自分の意見を述べたのち{{Sfn|新人物往来社|1995|p=163}}、「本日の閣議のありのままを申し上げ、明日午後に聖断を仰ぎ奉る所存であります」と再び昭和天皇の聖断に委ねることとした{{Sfn|半藤一利|2006|p=44}}。 |
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陸軍の青年将校がクーデターを計画しているという噂は鈴木の耳にも届いており、阿南が青年将校たちの圧力に屈して陸軍大臣を辞任する懸念もあり、鈴木と東郷は結論を急いでいた{{Sfn|新人物往来社|1995|p=163}}。阿南もそのことは察知しており、陸軍は一触即発の状況にあった。阿南は閣議のあと、意を決して総理室に向かい鈴木に面談を申し出た。鈴木は快く迎えたが、阿南が「総理、[[御前会議]]をひらくまで、もう2日待っていただけませんか」と要請してきたのに対して、「時期は今です。この機会をはずしてはなりません。どうかあしからず」と毅然として拒絶している。阿南はさらに何か言おうとしたが、諦めたという表情で、慇懃な態度で邪魔したことを詫びて総理室を去った。一緒にいた[[小林堯太]]軍医大尉が鈴木に「総理、待てるものなら待ってあげてはどうですか」と言ったが、鈴木は「時機を逸せば、[[ソビエト連邦軍|ソビエト軍]]が[[北海道]]まで侵攻してきて[[ドイツ]]のように[[連合軍軍政期 (ドイツ)|分割]]されてしまう」と断った。阿南の心中を察した小林は「阿南さんは死にますね」と言うと、鈴木は眼を伏せながら「うむ、気の毒だが」とつぶやいたという{{Sfn|半藤一利|2006|p=46}}。 |
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陸軍軍務局幕僚を中心とする強硬派青年将校は、11日頃から和平派閣僚を逮捕、[[近衛師団]]を用いて[[皇居|宮城]]を占拠するクーデター計画を練っていた。13日の閣議から帰ってきた阿南は、首謀者の軍事課長荒尾らからこの計画書を見せられたが、ついに来るべきもにが来たという思いで何回も見直した。しかし、計画に賛成とも反対とも言うことはなかった。荒尾らは懸命に阿南を説得しようとしたが、阿南は「天皇の意志に反してはならぬ」として煮え切らない態度に終始したので、なおも荒尾らは熱心に説き、阿南は首謀者のなかに義弟の竹下中佐や、ほかにも[[井田正孝]]中佐、[[椎崎二郎]]中佐、[[畑中健二]]少佐など、日頃から信頼している者が多かったこともあって、最後には譲歩して、参謀総長の梅津とも協議して結論を出すと荒尾らに約束した。しかし、指揮官的な立場の荒尾には「クーデターに訴えては、国民の協力はえられない、本土決戦など至難のことだろう」と真意を漏らしている{{Sfn|半藤一利|2006|p=48}}。 |
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陸軍の強硬派青年将校たちの不満は海軍の米内にも向けられており、「海軍の腰抜けどもを焼き討ちにする」とか「海軍大臣の身辺、安全だと思うな」という脅迫か嫌がらせかわからないような流言が阿南の耳にも届いていた。そこで阿南は東部憲兵隊司令官[[大谷敬二郎]]大佐に米内の身辺警護を命じたが、海軍の中では「憲兵の護衛は断れ、あの[[牧羊犬]]がいつ[[狼]]に化けるかわからない」という申し伝えがあるほど憲兵を信用しておらず、米内はこの申し出を断っている{{Sfn|阿川弘之|1982|p=Kindle6872}}。 |
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==== 聖断 ==== |
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[[ファイル:Gozen-kaigi 14 August 1945.jpg|thumb|right|300px|1945年8月14日の御前会議]] |
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8月14日の夜が明けると、阿南は約束の通り荒尾を連れて梅津に面会に行ったが、梅津は反対を表明し、それが真意であった阿南も大きく頷いた。これによって、荒尾らが練りに練ったクーデター計画は[[空中楼閣]]と化してしまった{{Sfn|半藤一利|2006|p=50}}。鈴木の発案による御前会議については、[[昭和天皇]]自身もその開催を待ち望んでおり、阿南は午後1時が都合がいいと申し出していたが、昭和天皇はなるべく早く開催せよと鈴木に命じて、午前11時開始となった{{Sfn|新人物往来社|1995|p=166}}。昭和天皇は御前会議開催までの間、陸海軍[[元帥]]の[[永野修身]]、[[杉山元]]、[[畑俊六]]を呼んで意見を聞いたが、3人とも色々な理由をつけて戦争継続を主張したので、昭和天皇は国際信義を失うなどと3人を諭している{{Sfn|新人物往来社|1995|p=167}}。このうち畑については、阿南がわざわざ[[広島市]]から呼び寄せたものであって、阿南は畑の説得で昭和天皇の翻意を促すつもりとの噂も流れたが、外の2人が「日本にはまだ敵に一撃を加える力がございます」と答えたのに対して畑だけが「自信がございません」と悲観論を述べている。このため、阿南の意図は噂の逆で、陸軍現役の長老の畑の影響力によって「承詔必謹」の外ないと、陸軍全部隊の意思統一を図ろうとしたという意見もある{{Sfn|角田房子|1980|p=Kindle4880}}。 |
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午前11時に開始された御前会議においては、阿南、参謀総長梅津、軍令部総長豊田がこれまでと同様に「このままの条件で受諾するならば、国体の護持はおぼつかなく、是非とも敵側に再照会をすべき」という意見を述べた。一通り意見を聞いた昭和天皇は「外に別段意見なければ私の考えを述べる」と静かに立ち上がり{{Sfn|半藤一利|2006|p=52}}{{Sfn|新人物往来社|1995|p=167}}、時折、白い[[手袋]]で涙を拭いながら「私自身はいかになろうと、国民の生命を助けたいと思う。私が国民に呼び掛けることがよければいつでも[[マイク]]の前に立つ。内閣は至急に終戦に関する詔書を用意して欲しい」と述べた。天皇の聖断を聞いていた閣僚らの悲痛な空気はやがて慟哭に変わっていき、椅子からずり落ちる者や、床にくずれて号泣する者や拳を握りしめて耐える者などいた。やがて、鈴木は至急詔書勅案奉仕の旨を拝承し、繰り返し聖断を煩わしたことを謝罪して、昭和天皇は席を立った{{Sfn|新人物往来社|1995|p=167}}。阿南は、席を立った昭和天皇にとりすがるようにして慟哭したが、昭和天皇は涙で表情をくもらせながら「あなん、あなん、お前の気持ちはよくわかっている。しかし、私には国体を護れる確信がある」とやさしく説いた{{Sfn|藤田尚徳|2015|p=Kindle1464}}。しかし、このとき同席した軍令部総長豊田によれば、この日の阿南は既に死を覚悟していたようであり、冷静に昭和天皇の聖断を受け入れていたと著書に記述している{{Sfn|豊田副武|2017|p=Kindle3204}}。 |
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その後一同は、首相官邸閣議室において鯨肉と黒パンの質素な昼食をとったが、阿南は昼食をとる間もなく別室で竹下らから陸相辞任による内閣総辞職、さらにクーデター計画「兵力使用第二案」への同意を求められていた。しかし阿南は「最後の御聖断が下ったのだ。悪あがきはするな。軍人たるものは聖断に従うほかない」「ぼくが辞職したところで終戦は確定的だよ」と竹下らに毅然とした態度で言って聞かせた{{Sfn|半藤一利|2006|p=63}}。 |
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阿南はその後に陸軍省に帰ると、陸軍大臣室には、クーデター計画の首謀者らを含む多くの陸軍将校が集まった。阿南は御前会議での昭和天皇の言葉を伝え「国体護持の問題については、本日も陛下は確証ありと仰せられ、また元帥会議でも朕は確証を有すと述べられている」{{Sfn|角田房子|1980|p=Kindle5159}}「御聖断は下ったのだ、この上はただただ大御心のままにすすむほかない。陛下がそう仰せられたのも、全陸軍の忠誠に信をおいておられるからにほかならない」{{Sfn|半藤一利|2006|p=66}}、と諄諄と説いて聞かせたが、クーデター計画の首謀者の1人であった井田は納得せず「大臣の決心変更の理由をおうかがいしたい」と尋ねると、阿南は「陛下はこの阿南に対し、お前の気持ちはよくわかる。苦しかろうが我慢してくれと涙を流して申された。自分としてはもはやこれ以上抗戦を主張できなかった」{{Sfn|阿部牧郎|2003|p=461}}「御聖断は下ったのである。いまはそれに従うばかりである。不服のものは自分の屍を越えていけ」と説いた{{Sfn|半藤一利|2006|p=68}}。 |
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その後に阿南は陸軍高官を陸軍大臣室に招集して陸軍首脳会議を開催した。そこで参謀本部[[河辺虎四郎]]参謀次長が発議し、若松陸軍次官が書いた「陸軍ノ方針」である「皇軍ハ飽迄御聖断二従ヒ行動ス」という文書についての協議が行われ、阿南は真っ先に一読すると無言のままで署名した。これで「承詔必謹」は全陸軍の正式な方針として確定した{{Sfn|半藤一利|2006|p=97}}。その後に陸軍課員以上を第一会議室に集めた阿南は「諸官においては、過早の玉砕は任務を解決する道でないことをよく考え、泥を食み、野に伏しても、最後まで皇国護持のために奮闘してもらいたい」と訓示したが、竹下は阿南が「我々」という言葉を使わず、わざわざ「諸官」という言い回しで自分自身を除外していることに気がついて、阿南は自決する覚悟だと悟っている{{Sfn|角田房子|1980|p=Kindle5171}}。また、この場でも一部の佐官から抗議の声が上がったが、阿南はその者たちに対して「君等が反抗したいなら先ず阿南を斬ってからやれ、俺の目の黒い間は、一切の妄動は許さん」と大喝している{{Sfn|伊藤正徳・5|1961|p=284}}。 |
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時間は不明であるが、この日阿南は陸軍省の[[道場]]で[[剣道]][[範士]][[斎村五郎]]と面会し、短時間剣道の稽古をしている<ref>早瀬利之『気の剣 剣聖十段斎村五郎』355頁、スキージャーナル</ref>。阿南は多忙な勤務の中でも、剣道や弓道の稽古を怠ることはなく、特に好きだった剣道については、毎日素振りを欠かさず、人事局長時代には3段であったが、陸軍大臣時には5段まで昇段している。阿南は難問山積で悩みごとも多い中で、剣道や弓道によって精神統一をはかっていた{{Sfn|昭和史の天皇4|2012|p=221}}。 |
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====終戦の詔書 ==== |
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[[ファイル:The Imperial rescript ending the War.jpg|thumb|300px|終戦の詔書の国務大臣署名欄]] |
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午後4時から始まった[[玉音放送|終戦の詔書]]の審議においては「戦勢日ニ非ニシテ」という原案を「身命を投げ出して戦ってきた将兵が納得しない」として「戦局必スシモ好転セズ」との穏やかな表現にして欲しいと主張したが、海軍大臣の米内が「陸軍大臣はまだ負けてしまったわけではないと言われるが、ここまで来たら、負けたのと同じだ」「ありのままを国民に知らせた方がよいと思うので、私はまやかしの文を入れないで、原案のままがよいと思う」と反論した{{Sfn|角田房子|1980|p=Kindle5239}}。それでも阿南は、持ち前の歯切れはいいが粘りのある交渉術で、陸軍将兵の衝撃を少しでも緩和しようと孤軍奮闘し、「まだ最後の勝負はついていないので、ここはやはり“戦局必スシモ好転セズ”の方が相応しいと思う」と主張を譲らず、最後には米内の方が折れて、阿南の修正案に賛同した{{Sfn|昭和史の天皇4|2012|p=446}}。阿部と米内の議論を聞いていた内務大臣の安倍は「わたしは阿南さんが、陸軍大臣として最後の務めを果たされた、というふうにうけとり、心に深く印象づけられた」と述べている{{Sfn|昭和史の天皇4|2012|p=449}}。 |
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閣僚たちが終戦の詔勅への署名の後、連日の議論で疲労困憊してしばしの休憩をとっていたとき、軍服を正した阿南が東郷にそばに寄ってきて、上半身を15°に折った最敬礼の体勢で「さきほど保障占領及び軍の武装解除について、連合国側に我が方の希望として申し入れる外務省案を拝見しましたが、あの処置はまことに感謝にたえません。ああいう取り扱いをしていただけるのなら、御前会議であれほど強く言う必要はありませんでした」と謝罪してきた。東郷は苦笑しながら「いや、希望として申し入れることは外務省として異存はありません」と答えると、阿南は「いろいろと本当にお世話になりました」とさらに丁重に腰を折って礼をしたので、東郷はあわてて「とにかく無事にすべては終わって、本当によかったと思います」と答えている{{Sfn|半藤一利|2006|p=184}}。 |
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阿南はその後総理大臣室を訪れ、在室した鈴木に「終戦についての議が起こりまして以来、自分は陸軍の意志を代表して、これまでいろいろと強硬な意見ばかりを申し上げましたが、総理に対してご迷惑をおかけしたことと想い、ここに謹んでお詫びを申し上げます。総理をお助するつもりが、かえって対立をきたして、閣僚としてはなはだ至りませんでした。自分の真意は一つ、国体を護持せんとするにあったのでありまして、あえて他意あるものではございません。この点はなにとぞご了解いただくよう」と謝罪した{{Sfn|半藤一利|2006|p=185}}。 |
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総理大臣室には内閣書記官長の迫水もいたが、迫水は阿南が本心では和平を願っていたことを理解しており、今日まで陸軍の暴発を抑えるため、心にもない強硬な意見を言い続けてきた阿南の心情を察して、居ても立ってもいられない気持ちとなり思わずもらい泣きをしている{{Sfn|角田房子|1980|p=Kindle5460}}。黙って阿南の話を聞いていた鈴木は、阿南の肩に手をやって「阿南さん、あなたの気持ちはわたくしが一番よく知っているつもりです。たいへんでしたね。長い間本当にありがとうございました」「今上陛下はご歴代まれな祭事にご熱心なお方ですから、きっと神明のご加護があると存じます。だから私は日本の前途に対しては決して悲観はしておりません」と答え、阿南は「わたくしもそう信じております」と同意した{{Sfn|角田房子|1980|p=Kindle5471}}。しばらく2人は沈黙のうちに見つめ合っていたが、阿南がこわきに抱えていた新聞紙の包みを取り出して「これは南方第一戦から届けられた[[葉巻]]です。私はたしなみませんので、総理に吸っていただきたく持参しました」と言って包みを鈴木の机の端に置くと、敬礼して静かに退出していった。鈴木は迫水に「阿南君は暇乞い(いとまごい)に来たんだね」とつぶやき、迫水は阿南のがっちりとした後ろ姿を見送って、何か熱いものが身体から流れ出していくような感覚におそわれたという{{Sfn|半藤一利|2006|p=186}}。 |
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=== 自決 === |
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[[ファイル:Anami's will.jpg|thumb|250px|阿南の遺書、汚れのような部分は阿南の血]] |
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14日の夜11時すぎにようやく陸軍大臣官邸に戻ってきた阿南は、日中の閣議の前に秘書官の[[林三郎]]に準備を指示していた[[半紙]]2枚を受け取った。半紙の準備を指示されていた林は阿南が自決を覚悟していることがわかっていたが、何も言わずに阿南に半紙を渡して陸軍大臣官邸を辞去した{{Sfn|児島襄|1974|p=Kindle2871}}。 |
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阿南の自決の意志は陸軍大臣官邸に帰宅する前から固まっていたが、その様子は普段と全く変わる様子はなく若松陸軍次官はその様子を「進退堂々、挙惜典雅、悠々迫らずいつも微笑をたたえた温顔を最期の日まで変わりなく保ち続けたことに驚きを禁じ得ない」と後に振り返っている。阿南は自分が全ての責任を負うので、自決は自分1人でいいとして、自決を申し出てきた陸軍の青年将校たちに「これから、大混乱の中を平静に終戦処理するのが中央幕僚の任務だ。外地からの[[復員]]も早急に実現しなければならぬ。君たちはこの二大事業を完遂してほしい」と言い聞かせて自決を思いとどまらせている{{Sfn|新人物往来社|1995|p=176}}。これは、平素からの阿南の「死ぬことだけでは義務を果たしたことにはならない、生きていられるだけ生きて戦力になれ」という信念によるものであった{{Sfn|角田房子|1980|p=Kindle2555}}。 |
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[[8月15日]]深夜1時に阿南の義弟であった竹下が陸軍大臣官邸を訪れた。竹下は全陸軍の方針に反してクーデター計画を決行した畑中と椎崎らから阿南の説得の依頼を受けていた。竹下が部屋の前に立って名乗ると、阿南は「なにしに来たか」と一旦は声を荒げたが、すぐに「いや、よく来た」と竹下を迎え入れた。阿南は湯上がりと見えて、上半身裸で机で何かを書いている最中であった。竹下はその様子を見ると全てを察したが、自決を決意しているのにも関わらず、阿南の表情は全く普段と変わらない温顔で疲労の色もなかったので「あにき、ちっとも変わらぬ」と感じて、宮城事件での興奮が冷めていった。竹下は「お止めはしません。時期としては今夜か明晩あたりと思っておりました」と語りかけると、阿南は「それならいい、かえっていいところにきてくれた」と答えて、今まで書いていた遺書を竹下に見せた{{Sfn|児島襄|1974|p=Kindle2893}}。 |
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見せられた遺書には、{{quotation |「一死以て大罪を謝し奉る 昭和二十年八月十四日夜 陸軍大臣 阿南惟幾 [[花押]] 神州不滅を確信しつつ」}}と記されていた<ref name="isyo">{{Cite wikisource|和書|title=遺書 (阿南惟幾)|author=阿南惟幾|date=1945年8月14日|wslanguage=ja}}</ref>。「大罪を謝し奉る」とは、日中戦争から太平洋戦争に至る時代の指導者は陸軍軍人で、太平洋戦争責任の「大罪」は陸軍が負うべきと阿南は考えており、陸軍最後の責任者である自分の死をもって「謝し奉る」覚悟を記したものであった{{Sfn|伊藤正徳・5|1961|p=285}}。 |
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[[辞世]]の句には、 |
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{{quotation |「大君の深き恵に浴みし身は 言ひ遺こすへき片言もなし」}}とあり<ref name="isyo"/>、これは[[1938年]](昭和13年)の[[第109師団 (日本軍)|第109師団]]長への転出にあたり、昭和天皇と2人きりで陪食した際に、その感激を詠ったものである。 |
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その後、阿南と竹下は[[チーズ]]を肴に水入らずの酒盛りを始めた。阿南は母親の他界以来大好きだった酒を断ってきたので、末期の酒に気持ちも高揚したようで、かつてないほど雄弁に1人で語り続けた。「もう暦の上では15日だが、14日は父の命日だから、この日に決めた。15日には[[玉音放送]]があり聴くのは忍びない」と遺書の日付を14日とした理由を話し{{Sfn|新人物往来社|1995|p=177}}、「いやあ、60歳の生涯、顧みて満足だった。惟茂(末子)はお父さんに叱られて可哀想だが、この前帰ったとき、風呂にいれて洗ってやったので、よくわかったろう。皆と同じように可愛がっていることを伝えてくれ」「綾子(夫人)には、お前の心境に対して信頼し、感謝して死んでいくといってくれ」と家族思いの阿南らしく家族に対する遺言も託した。この会話の中で意図不明の「米内を斬れ」という発言もしている{{Sfn|児島襄|1974|p=Kindle2912}}。 |
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会話の最中に銃声らしい物音が聞こえ、阿南も聞き耳をたてていたので、今まで[[宮城事件]]について黙っていた竹下はようやく畑中らがクーデターで決起したことを打ち明けた。竹下はクーデターの話をすることで阿南の自決前の心境を乱しはしないかと心配したが、阿南はただ一言「東部軍はたたぬだろう」と言っただけであった{{Sfn|児島襄|1974|p=Kindle2923}}。その後、決起した青年将校は[[近衛師団長]][[森赳]]中将を殺害し、その知らせが阿南と竹下の元に届いた。やがて、森の殺害の現場にいた井田が陸軍大臣官邸を訪れてことの顛末を報告したが、既に詳細を把握していた阿南はとくに処置を命ずることもなく「そうか。森師団長を斬ったのか、お詫びの意味をこめて私は死ぬよ」と短くもらしただけであった{{Sfn|阿部牧郎|2003|p=467}}{{Sfn|新人物往来社|1995|p=56}}。井田は咄嗟に阿南と殉死したいと思って「わたくしも、あとからお供いたします」と申し出たところ、阿南は目もくらむ激しさで井田の頬を殴り「何をバカなことをいうかっ」「おれ1人、死ねばいいのだ。いいか、死んではならんぞ」と温和な阿南には珍しく大喝している{{Sfn|角田房子|1980|p=Kindle5645}}。 |
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そのあと、竹下も加わって3人で酒を酌み交わした。その酒席で阿南は若い2人に「君たちは死んではならぬ、苦しいだろうが生き残って、日本の再建に努力してくれたまえ」と何回も言って聞かせている{{Sfn|新人物往来社|1995|p=57}}。夜明け間近になって阿南は侍従武官時代に昭和天皇から拝領した白いシャツを身につけた。阿南はそのシャツについて「これは陛下から拝領したもので、お上が肌につけておられたものだ。これを着て自分は逝こうと思う。武人としてこの上ない名誉だよ」と2人に説明している{{Sfn|半藤一利|2006|p=288}}。その上から一旦勲章を全部付けた軍服を羽織ったが、思い直して軍服は脱いで、床の間に置きその上に1943年に戦死した次男惟晟の遺影を置いて「惟晟と一緒に逝くんだ」と語った。そこに宮城事件の報告のため秘書官の林が訪れたが{{Sfn|阿部牧郎|2003|p=468}}、阿南は竹下と井田と一緒に林も一旦下がらせると、ひとり[[縁側]]で[[切腹|割腹]]した。竹下はそのとき、宮城事件の報告に来訪した[[憲兵]]司令官[[大城戸三治]]中将と面談していたが、真っ先に自決現場に駆け付けた林から阿南自決の事実を知らされると、すぐに阿南の元に戻った。既に阿南は割腹しており、左手で[[頸動脈]]を探っている状況であった。竹下が[[介錯]]を申し出たが、阿南は「無用、あっちに行け」と竹下を遠ざけた。その後、竹下は陸軍次官の若松からかかってきた電話に応対してから、阿南の様子を見に戻ったが、既に阿南は意識不明の様子で、弱い呼吸音だけが聞こえる状況であったので、竹下は阿南の手から短刀をとると、右頸部を深く切り込んで介錯した{{Sfn|児島襄|1974|p=Kindle2934}}。その頃、井田は官邸の庭の土の上に正座し、阿南がいる縁側の方を仰ぎ見ながら泣いていた{{Sfn|半藤一利|2006|p=290}}。 |
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阿南は15日正午のラジオでの[[玉音放送]]を聴取することもなく、[[ポツダム宣言]]の最終的な受諾返電の直前の自決となった。「阿南陸相は、5時半、自刃、7時10分、絶命」と記録されている<ref>別宮暖朗著 終戦クーデター 近衛師団長殺害事件の謎 P.235</ref>。[[検視]]した衛生課長[[出月三郎]]大佐の鑑定においては「下腹部臍下一寸の所に左から右に引いた創があった」とし、割腹から絶命までに時間がかかったのは頸動脈が切れていなかったからとされており、頸部を深く切って介錯したとする竹下の証言とは食い違っている{{Sfn|新人物往来社|1995|p=175}}。15日の夜、近くの陸軍省の建物で、機密書類を焼く煙が一日中たちこめるなか、阿南の遺体は[[市ヶ谷台]]の海軍重砲西側で[[荼毘]]に付された{{Sfn|新人物往来社|1995|p=178}}。 |
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=== 死後 === |
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[[ファイル:Grave of Korechika Anami.jpg|サムネイル|阿南惟幾の墓]] |
[[ファイル:Grave of Korechika Anami.jpg|サムネイル|阿南惟幾の墓]] |
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8月15日の玉音放送後、終戦に伴う臨時閣議が開催されたが、まず鈴木から「阿南陸軍大臣は、今暁午前5時に自決されました。反対論を吐露しつつ最後の場面までついて来て、立派に終戦の詔勅に副署してのち、自刃して逝かれた。このことは立派な態度であったと思います」「実に武人の最期らしく、淡々たるものであります・・・・謹んで、弔意を表する次第であります」との報告があり、阿南の遺書と辞世の句も披露した。閣僚たちは、1つだけ空いた陸軍大臣の席を見ながら、予想していたこととはいえ大きな衝撃を受けている{{Sfn|半藤一利|2003|p=520}}。 |
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[[8月15日]]早朝、同日正午のラジオでの[[玉音放送]]を聴取することもなく[[ポツダム宣言]]の最終的な受諾返電の直前に渋谷[[南平台町]]の陸相官邸で[[切腹|割腹]]。[[介錯]]を拒み早朝に絶命している。「阿南陸相は、5時半、自刃、7時10分、絶命」との記録もある<ref>別宮暖朗著 終戦クーデター 近衛師団長殺害事件の謎 P.235</ref>。 |
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阿南の自決は終戦を具体的、強烈な形で全陸軍に告示することとなった。参謀本部[[河辺虎四郎]]参謀次長は「我が大陸軍70余年の盛衰は阿南大将の自決を以て終止符となすべきか」と当時の日記に書き{{Sfn|新人物往来社|1995|p=178}}、陸軍省の軍事課長でクーデター計画の首謀者の1人でもあった荒尾は「全軍の信頼を集めている阿南将軍の切腹こそ全軍に最も強いショックを与え、鮮烈なるポツダム宣言受諾の意思表示であった。換言すれば大臣の自刃は天皇の命令を最も忠実に伝える日本的方式であった」と振り返っている。阿南の自決の結果、徹底抗戦や戦争継続の主張は止んでいって、終戦の現実を受け入れる劇的な効果を上げた{{Sfn|新人物往来社|1995|p=177}}。宮中事件の首謀者のひとりであった井田も「当時、畑中のみならず、全陸軍の心の中に諦め切れぬ何ものかが残っていた。その残滓を断ち切るためには、陸相の自刃が最大の切り札であった」「阿南大将には、自分が死ねば全陸軍が承伏するという確信があった」と阿南が自分の死を以って、陸軍の妄動を抑え込もうとしたと推測している{{Sfn|角田房子|1980|p=Kindle6079}}。戦記作家の[[児島襄]]は、[[戦陣訓]]で日本陸軍軍人に求められる徳目として「軍紀」「必勝の信念」「敬神」「孝道」「敬礼挙惜」「責任」「清廉潔白」などが挙げられているが、阿南はその全てを体得した日本陸軍軍人の“理想像”であった、その清清たる阿南が、汚濁の道を歩んだ日本陸軍の葬儀人をつとめる形となったことは意義深かったと述べている{{Sfn|児島襄|1974|p=Kindle2992}}。 |
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遺書には、{{quotation |「一死以て大罪を謝し奉る 昭和二十年八月十四日夜 陸軍大臣 阿南惟幾 神州不滅を確信しつつ」 ''}}と記されていた<ref name="isyo">{{Cite wikisource|和書|title=遺書 (阿南惟幾)|author=阿南惟幾|date=1945年8月14日|wslanguage=ja}}</ref>。 |
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阿南が最後まで身を挺して護ろうとした昭和天皇は、阿南が自決したという知らせを[[蓮沼蕃]]侍従武官長から聞かされると「あなんはあなんとしての考え方もあったに違いない。気の毒なことをした・・・」と蓮沼にもらしている{{Sfn|半藤一利|2003|p=512}}。侍従長の[[藤田尚徳]]によれば、阿南は昭和天皇が信頼する数少ない陸軍軍人で、阿南の率直豪快な性格を好んでおり、その死を悼んでいたという{{Sfn|藤田尚徳|2015|p=Kindle1617}}。東郷は「そうか、腹を切ったか。阿南というのは本当にいい男だったな」と涙ながら語り、鈴木は「真に国を思ふ誠忠の人でした」と評した。戦後になって、鈴木没後に夫人の孝子は「鈴木が大任を果たし得たのは、全く阿南さんがおられたからこそでした」と振り返っている{{Sfn|額田坦|1977|p=419}}。 |
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[[辞世]]の句は、{{quotation |「大君の深き恵に浴みし身は 言ひ遺こすへき片言もなし」 ''}}とあり<ref name="isyo"/>、これは[[1938年]](昭和13年)の[[第109師団 (日本軍)|第109師団]]長への転出にあたり、昭和天皇と2人きりで会食した際に、その感激を詠ったものである。阿南は昭和天皇からは「あな'''ん'''」と呼ばれていた。阿南の葬儀に昭和天皇は勅使を派遣していない<ref>別宮暖朗著 終戦クーデター 近衛師団長殺害事件の謎 P.238</ref>。 |
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阿南と閣議において対立した米内は「我々は立派な男を失ってしまった」と語った一方で、「私は阿南という人を最後までよくわからなかった」と人格的な違いを浮き彫りにする感想を残している。阿南の方も、米内とは気質は水と油のように合わないと自覚していたようで、義弟の竹下は「率直に言って阿南は米内がきらいだった」と回想している{{Sfn|阿川弘之|1982|p=Kindle7076}}。しかし、阿南の自決直後、米内は誰よりも早く阿南の弔問に訪れている。阿南も意見の相違こそあれ、米内を立派な武人として敬意を持っており、米内が1945年6月頃に辞意をもらしたときに、その翻意を願い、最も強く働きかけたのは阿南であった{{Sfn|児島襄|1974|p=Kindle2968}}。 |
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阿南が自刃したと聞いた[[東郷茂徳]]外相は「そうか、腹を切ったか。阿南というのは本当にいい男だったな」と涙ながら語り、鈴木貫太郎首相は「真に国を思ふ誠忠の人でした」と評した。 |
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阿南と陸大同期生で、東條との確執で予備役となって故郷[[山形県]]で隠遁生活を送っていた石原は、ご聖断による終戦を知人から聞かされると、まずは阿南の身を案じて「阿南の気持ちは俺がよく知っている。きっと阿南は死ぬだろう。すぐに使いを出すが、果たして間に合うか・・・」とその知人に話している。[[東条内閣]]が倒れて、次の総理大臣となった小磯から陸軍大臣についての意見を求められた石原は「阿南のほかに人無し」と推薦したこともあった{{Sfn|角田房子|1980|p=Kindle729}}。 |
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阿南と閣議において対立した[[米内光政]]海相(元首相)は「我々は立派な男を失ってしまった」と語った一方で、「私は阿南という人を最後までよくわからなかった」と人格的な違いを浮き彫りにする感想を残している。<ref>阿川弘之「米内光政」</ref> |
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阿南の後任の陸軍航空本部長となった[[寺本熊市]]中将も、終戦後に「天皇陛下と多くの戦死者にお詫びし割腹自決す」と遺書を残して自決しており、陸軍中央で特攻を指揮した責任者は阿南と寺本と二代に渡って自決をしている<ref>{{Harvnb|新人物往来社|1995|p=202}}</ref>。 |
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閣内では強硬な[[終戦]]派だった米内海相との確執があり、阿南は臨終の時に、「米内を斬れ」と口走ったとも伝えられ、継戦の意思を持ち続けていたことが考えられる。<ref>「切腹で読む日本史 漢の美学、ここにあり」 綜合図書 107P</ref> |
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日本の[[内閣]]制度発足後、現職閣僚の[[自殺]](自決)はこれが初めてで、その後も[[2007年]](平成19年)[[5月28日]]に[[第1次安倍内閣]]における[[松岡利勝]][[農林水産大臣]](当時)まで例はなかった。 |
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== 家族 == |
== 家族 == |
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* 長男・[[阿南惟晟]]([[少尉|陸軍少尉]]、[[1943年]]〈昭和18年〉[[戦死]]) |
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* 長男(早世) |
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* 次男・[[阿南惟 |
* 次男・[[阿南惟敬]](元[[防衛大学校]][[教授]]) |
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* 三男・[[阿南惟 |
* 三男・[[阿南惟正]](元[[新日本製鐵]]副社長、[[靖国神社]][[氏子]]総代) |
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* 四男・[[ |
* 四男・[[野間惟道]](野間家へ養子、元[[講談社]]社長) |
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* 五男・[[ |
* 五男・[[阿南惟茂]](元駐[[中華人民共和国|中国]][[大使]]) |
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* 長女・喜美子 |
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* 六男・[[阿南惟茂]](元駐[[中華人民共和国|中国]][[大使]]) |
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* 次女・聡子([[大國昌彦]]元[[王子製紙]]社長の妻) |
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愛人などを囲って妻以外の女性関係を武勇伝のように誇った当時の軍人社会のなかでも、阿南は浮名を残すことには全く興味を示さず、妻綾子との夫婦関係を大事にし、夫婦仲はたいへん良く、軍内では「一穴居士」というあだ名がつけられたほどであった{{Sfn|児島襄|1974|p=Kindle2708}}。参謀本部第一部演習班在籍時の泊まりがけの出張のさいに、旅先で部下らが羽目を外したいと阿南を誘ってきて、部下が[[娼婦]]もしている旅館の女中を集め、阿南にも性病予防具を配ったが、阿南は突き返すこともなく「ありがとう」とポケットにしまった。翌日「一穴居士」のあだ名を知る部下の1人が、興味本位で阿南の相手をした女中に話しを聞くと、女中は「お茶を召し上がってお話しただけですぐにお帰りになりましたが、お金だけはちゃんといただきました」と答えたという。課長の[[柳川平助]]大佐は潔癖主義でこのような話しをするだけで叱責されたが、自分が羽目を外すことは決してしないかわりに、人に「やめろ」と説教じみたことをいわずに場をしらけさせることなく、また水商売の女性に恥もかかせず、営業妨害もしないといった阿南のスマートな対応に部下たちは「なるほど阿南さんらしい」と感心している{{Sfn|角田房子|1980|p=Kindle492}}。 |
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夫人・綾子は[[竹下平作]]陸軍中将の二女で、戦後子育てが一段落した時期に[[出家]]、[[長野県]]の寺で夫・息子を始め戦没者の菩提を弔い続け[[1983年]](昭和58年)に没した。 |
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夫婦は5男2女をもうけたが、子煩悩も軍内では有名であった。子供とよく遊び、休みにはピクニック、デパートでの買い物、映画、外食に連れて行き、冬には[[スキー]]、夏には[[海水浴]]の指導もしていた。また、勉強しろということもなく、自分も子供の傍で寝転びながら[[キング (雑誌)|キング]]や[[少年倶楽部]]を読んだりしているので、子供たちは仕事の方は大丈夫なのだろうか?と心配するほどであったという{{Sfn|角田房子|1980|p=Kindle232}}。 |
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父親と同じ軍人の道を選んだ次男の惟晟が[[常徳殲滅作戦]]で戦死したと知らされたときには、前線においても、惟晟の写真を掲げ、その前に[[まんじゅう]]をそなえて冥福を祈り、遺品の[[軍刀]]を受け取ると、阿南は今までの太身の佩刀から、惟晟の遺品の細身の刀に代えて、常に我が子を傍に置くようにしている{{Sfn|児島襄|1974|p=Kindle2708}}。そして自決のさいには、脱いだ軍服のうえに惟晟の写真を置き、その写真を抱くように軍服の両袖を前に揃えて「惟晟と一緒に逝くんだ」と語ったという{{Sfn|児島襄|1974|p=Kindle2934}}。 |
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陸軍でも家庭でも、大声をあげることも、他人を叱ることもほとんどなく、綾子は父親を想いかえして、こんな静かな軍人もいるのかと奇妙に感じるほどであったといい、たまにする夫婦喧嘩でも先に折れるのは常に阿南の方であった。そんな阿南が綾子の目の前で唯一声を荒げて怒ったのが、阿南の母親が[[運転手]]に非礼な言葉を言われたときだけであった。阿南の母親は1943年3月に他界したが、阿南は敬愛していた母親の他界を機に断酒し、それまでは好んできた酒を殆ど口にすることはなくなった{{Sfn|児島襄|1974|p=Kindle2696}}。阿南の人間性を熟知していた綾子は「私は、主人に陸軍大臣の職は重すぎたと今でも思っております」と手記で述べている{{Sfn|児島襄|1974|p=Kindle2992}}。 |
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長女の喜美子は東京大空襲2日後の5月27日に結婚している。披露宴は[[帝国ホテル]]を予約していたが、空襲により営業を休止していたので、急遽[[九段下]]の[[軍人会館]]で行われた。空襲で電気も水道も停止していたので、花嫁の化粧の水は井戸からくんできて、照明は集めた[[ローソク]]で代用するといった有様であった。空襲直後の式典は一部から非難をあびたが、子供思いの阿南は父親としての責務を果たそうと、自ら会場や[[神主]]などの手配をして式を断行している。最後には喜美子に「今度会うときには、戦争に勝っているよ」と嫁ぐ娘に心配させないようにと話しかけたが、阿南は「我が子の結婚式に出るのはこれが最初で最後」と覚悟しており、実際にその通りとなった{{refnest|group="注"|貴美子の[[媒酌人]]をつとめた[[内閣法制局]]長官[[村瀬直美]]によれば、貴美子の披露宴は空襲当日の5月25日で、場所は初めから軍人会館だった。式の途中で空襲が始まったが、電灯が消える中でも式を続行したという。後日、阿南自らがお礼として[[花瓶]]を持って自宅まで来訪したが、村瀬は戦後になってもその花瓶を大切にしていた。}}{{Sfn|昭和史の天皇4|2012|p=268}}{{Sfn|角田房子|1980|p=Kindle3307}}。 |
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阿南が自決したのち、綾子も後を追いたいと願ったが、末子はまだ幼くその願いもかなわなかった。終戦直後、夫の[[杉山元]]大将と一緒に自決した杉山夫人を綾子が弔問したときに、夫人の霊位を前にして「誠にお羨しゅうございます。私には幼い子もいますので主人の伴も叶いません・・・・」と語りかけているのを、一緒に弔問した[[額田坦]]中将の妻女が聞き涙している{{Sfn|額田坦|1977|p=420}}。戦後は他の高級軍人の遺族と同様に、国の支援は全くなかったので経済的に困窮し、やむなく一家は[[三鷹市]][[下連雀]]にあった阿南の居宅を4つに間仕切りして賃貸しその賃料を生活費に充てて、自分らは阿南の本籍地である大分県竹田市に引っ越して1951年まで暮らした{{Sfn|角田房子|1980|p=Kindle777}}。綾子は子供を育て上げたのちに[[出家]]、[[長野県]][[聖光寺]]で夫・息子を始め戦没者の菩提を弔い続け[[1983年]](昭和58年)に没した{{Sfn|額田坦|1977|p=420}}。 |
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== 終戦時の阿南の立場をめぐる議論== |
== 終戦時の阿南の立場をめぐる議論== |
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戦 |
終戦前の阿南の真意をめぐっては、阿南自身が何も書き残していないため、諸説あり意見が分かれている{{Sfn|角田房子|1980|p=Kindle3790}}。 |
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=== 腹芸説=== |
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当時[[書記官長]]であった[[迫水久常]]は、終戦を望む天皇の真意を汲み、暗黙裏に鈴木貫太郎首相と協力して終戦計画を遂行したと述べている。この説では、降伏に反発する軍の暴発を阻止するため、自身は強硬な言動をとって継戦派を装っていたとする。そうした阿南の表裏は、鈴木が一番よく承知していたと迫水は推測している。阿南が当初から降伏を認めていれば、強硬派に辞職を強要され、[[軍部大臣現役武官制]]により新任の大臣を出さないことで鈴木内閣の総辞職が必至で、この時点での降伏は実現しなかったとみられる。また阿南が本心から継戦派であったなら、自ら辞職して鈴木内閣を葬ることは簡単であったはずである。これは[[腹芸]]説と呼ばれている。 |
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内閣書記官長であった迫水は、阿南は終戦を望む天皇の真意を汲み、暗黙裏に鈴木貫太郎首相と協力して終戦計画を遂行したと述べている。この説では、降伏に反発する軍の暴発を阻止するため、自身は強硬な言動をとって抗戦派を装っていたとする。そうした阿南の表裏は、鈴木が一番よく承知していたと迫水は推測している。阿南が当初から降伏を認めていれば、抗戦派に辞職を強要され、[[軍部大臣現役武官制]]により新任の大臣を出さないことで鈴木内閣の総辞職が必至で、この時点での降伏は実現しなかったとみられる。また阿南が本心から抗戦派であったなら、自ら辞職して鈴木内閣を葬ることは簡単であったはずである。これは[[腹芸]]説と呼ばれている{{Sfn|角田房子|1980|p=Kindle3790}}。海軍大臣秘書官として阿南と接する機会も多かった[[岡本功]]中佐は「海軍と比べてまるきり所帯の違う大武装軍団を、ピタリと一つにまとめて終戦へと持っていくのは想像以上に大変なこと」「こういうときには、芝居での[[原田宗輔|原田甲斐]]{{refnest|group="注"|原田甲斐こと[[仙台藩]]重臣原田宗輔が起こした[[伊達騒動]]について、従来極悪人扱いされてきた甲斐が実は忠臣であり、仙台藩乗っ取りの陰謀を知ってわざと悪人を演じ、最後は乱心を装って乗っ取りの首謀者[[伊達宗重]]らを殺害したとする視点での読み物や芝居が古くからあったが、[[山本周五郎]]の小説『[[樅の木は残った]]』とその映像化によって甲斐忠臣説はよく知られるようになっていた。}}のような人が出てきて悪役を演じなくては事態は収まらない」「阿南さんは終戦がやむを得ないことをよく承知しながら、徹底抗戦を主張し、クーデターに賛成するかのような素振りを示し、時に煮え切らず、時に首相の方針に強く楯突いて、双方に対してわざと悪者になって見せたのではないか」「そうして、本土決戦を唱える陸軍の面目を立て、最後は落ち着くべきところに落ち着かせて、自分は自刃されたのだと思う」と腹芸説に賛同している{{Sfn|阿川弘之|1982|p=Kindle7060}}。 |
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終戦直前の陸軍青年将校によるクーデター計画の指揮官的な立場にあったのは陸軍省軍事課長の荒尾であったが、荒尾は他の首謀者たちから見ると「同志というよりは、むしろ我々の意見を(阿南)大臣に伝えるパイプ役という期待をかけていた」という位置づけであった。荒尾は阿南の陸軍人事局長時代からの部下で信頼されていたが、同時に血気盛んな青年将校たちからの人望も厚く、青年将校の暴発を防ぐためにうってつけの人物であった。阿南は、頭ごなしに青年将校を押さえつければ、阿南を殺害するか、「陸軍大臣語るに足らず」と離反すると考えて、あくまでも表面上は徹底抗戦を主張しながら、個人的にはクーデターには消極的であった荒尾を連絡役としてうまく使って、青年将校の暴発を防いでいたという推測もある{{Sfn|角田房子|1980|p=Kindle4780}}。信頼する荒尾が首謀者のなかにいたので、阿南は聖断が下って「承詔必謹」を命じるまでは、「僕の身体を君等にやる」とか「[[西郷隆盛]]の心境は分かる。よく考えてみよう」とか、あたかもクーデターに同調するかのような態度を見せていた{{Sfn|阿川弘之|1982|p=Kindle6884}}。阿南の同期で親しかった沢井は、荒尾とも[[ポーランド]]武官時代以来親交があったので、終戦後何年も経ってからクーデターの真相について荒尾に尋ねたが、それまでは何でも語ってきた荒尾が、クーデターについてのことだけは一切語らなかった。沢田はこのことによって、阿南と荒尾の間に何らかの密約があって、その密約というのが、荒尾が阿南の腹芸に手を貸していたことと推測し、律儀な荒尾は阿南との約束を守って秘密にしていると察して、腹芸説に賛同している{{Sfn|角田房子|1980|p=Kindle4790}}。迫水も阿南と荒尾の間に密約があったものと確信しており、荒尾の一周忌の席で故人に対して「私は今日の日本があるのは、阿南大将とあなたの相互信頼関係が、一つの要素であったと思っております」と語りかけている{{Sfn|角田房子|1980|p=Kindle4815}}。 |
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もう一つの説は、閣議における発言そのままに継続、本土決戦を望んでいたとする考えである。「ポツダム宣言反対のための自刃」と評価される根拠となっている(そもそも[[日本本土空襲|日本本土への空襲攻撃]]の激化、[[日本への原子爆弾投下|原子爆弾投下]]、[[ソ連対日参戦|ソ連軍参戦]]という逼迫した状況の中で陸相が腹芸を打って陸軍幹部を煙に巻いているような余裕などあるはずがない、との分析)。 |
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腹芸説を示唆する阿南自身の言動としては、1945年7月下旬、阿南は陸軍省次級副官兼大本営参謀[[小林四男治]]中佐と剣道の[[土用]]稽古をしたが、双方、汗びっしょりとなったので一緒に風呂に入ったとき、2人きりの風呂場で阿南はさりげなく「もう、条件がよければ講和の手を打たなきゃいかんなぁ、得るものは何もないかも知れんけど・・・・条件しだいだね」と小林に話しかけてきた。この頃、阿南は米内や東郷と本土決戦について激論を戦わせている時期であり、初めて阿南の口から講和という言葉を聞いた小林は驚いたが、のちに、(阿南)大臣は昭和天皇のご信任厚いだけに、大局的に事態を見たうえで、講和を念頭において動いていたが、本土決戦の準備を進める陸軍内でひとり苦労を重ねていたのではと振り返っている{{Sfn|昭和史の天皇4|2012|p=222}}。 |
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例えば、[[憲兵 (日本軍)|憲兵隊本部]]に国民総綱紀粛正のスローガンを掲げさせておきながら、その憲兵がスパイ工作によって摘発してきた和平派の急先鋒の[[吉田茂]]の釈放に尽力している。一方で、臨終の際'''「米内'''(終戦を支持していた[[米内光政]][[海軍大臣]]のこと)'''を斬れ。」'''と口走っていることなどから実際は最後まで継戦派であったのではないかと(クーデター計画(宮城事件)の真の首謀者だったのではないかという説さえ一部にある)その真意とするところをめぐり議論がある。しかし米内への最後の発言については、自決直前の阿南は今生の別れにとかなり酒を飲んで気持ちが酩酊しており、単に阿南の米内への個人的感情によるものだったとする説が有力である。米内と同じく和平派だった鈴木や東郷に対しては、阿南は前述のように自決前に礼儀正しく和やかな別れを告げに訪れている。平生から阿南は米内の人柄を好まなかったようである。ただこれは阿南の側からの一方的なもので、阿南の自決直後、米内は誰よりも早く阿南の弔問に訪れている。 |
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=== 一撃講和説=== |
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阿南の部下であり、その自刃にも立ち会った[[井田正孝]][[中佐|陸軍中佐]]によれば、阿南が求めていたのはただ[[国体]]護持のみであり、その目的のためあらゆる可能性を残しておくべく、抗戦派・終戦派のいずれにも解釈できる態度を取っていた、との見解を示している。 |
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閣議における発言そのままに抗戦し、[[本土決戦]]で連合軍に一撃を与え、国体の護持など有利な条件を認めさせたうえで講和を結ぼうとした説である。軍事評論家[[伊藤正徳 (軍事評論家)|伊藤正徳]]によれば、阿南は太平洋戦争に勝利できるとは考えていなかったが、1度でいいから[[日露戦争]]における[[遼陽会戦]]や[[奉天会戦]]のような、大軍同士の衝突による「会戦」を戦って、勝利した後に和平を講じたいという陸軍の総意には逆らえず、阿南自身も「会戦」に持ち込めば5分5分での勝利を夢想していたのではないかと推察している。[[本土決戦]]となれば、連合軍の南九州上陸作戦である[[ダウンフォール作戦|オリンピック作戦]]でようやく念願の「会戦」を戦うことができ、そこが連合軍に痛撃を与える最後の機会と阿南が考えていたと推察している{{Sfn|伊藤正徳・5|1961|p=286}}。終戦時の陸軍人事局長で、阿南が人事局長時に部下として働き指導を受けた[[額田坦]]も著書に「阿南大将のお考えは、何処かで敵を叩き落し、これを講和の端緒とするにあり」「米軍の九州来寇(奇しくも時期、兵力も想定通りで、兵力も日本軍精強兵団と全く同数であった)に際し、水際撃滅の敢闘に続く軍民一体となって行う[[ゲリラ戦]]によって必ず米軍に一泡吹かせることができる。これこそ講和の好機であるとのご意図ではなかったか」と阿南の考えを推測して記述している{{Sfn|額田坦|1977|p=419}}。 |
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<!--(「ポツダム宣言反対のための自刃」と評価される根拠となっているそもそも[[日本本土空襲|日本本土への空襲攻撃]]の激化、[[日本への原子爆弾投下|原子爆弾投下]]、[[ソ連対日参戦|ソ連軍参戦]]という逼迫した状況の中で陸相が腹芸を打って陸軍幹部を煙に巻いているような余裕などあるはずがない、との分析)。誰の分析ですか?--> |
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一方で、終戦時の陸軍次官の若松は、阿南が「たとえ本土決戦に支障があっても構わぬ。敵に一大打撃を与えるため、陸軍航空の主力をこの際沖縄に投入すべきと思うが、君はどうも思うか」と意見を求められたことや、沖縄戦が終わり、連合軍機動部隊が日本近海に接近してきた頃に、航空総軍の高級参謀を招致して「本土決戦は考えなくてよい、陸軍航空の主力を以て、敵艦隊を攻撃することはできぬか」と作戦干渉的なことをしているのを目撃したことで、阿南はなるべく日本本土に戦火が及ばないような状況で、敵に一大打撃を加えて講和に持ち込もうとしていたと推測している。しかし、敵に一大打撃を与える機会を与えられないまま、ポツダム宣言受諾の聖断が下ったため、国体護持の確信が持てなかった阿南は、このまま無条件降伏するのは信念上で耐えられず、最後まで昭和天皇に御翻意を嘆願したが、終戦の聖断が下ると「承詔必謹」で、一死をもって日本陸軍の有終の美を為さしめたと振り返っている{{Sfn|額田坦|1977|p=193}}。 |
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=== 徹底抗戦説=== |
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自決の前に「米内を斬れ。」と口走っていることなどから、実際は最後まで抗戦派であったのではないかと、<!-- (クーデター計画(宮城事件)の真の首謀者だったのではないかという説さえ一部にある) 一部ってどこですか? -->その発言の真意をめぐる議論がある。阿南の本心はあくまでも陸軍の名誉挽回のための一戦を交えるというもので、まずは自らの自刃で陸軍将兵の士気を鼓舞してから、その後、決起した陸軍将兵が和平派の米内を殺害し、海軍の決起の障害を取り除けという意味であったとの推測する意見や{{Sfn|児島襄|1974|p=Kindle2979}}、作家の[[半藤一利]]は、絶対主義天皇制を信じる阿南は、本土決戦の混乱による[[共産主義]]革命を恐れ、早期に降伏し、[[天皇機関説]]に則って機関としてだけでも天皇制を残そうと画策していた米内を不忠であると思っており、このような発言に至ったと推測しているが{{Sfn|半藤一利|2006|p=262}}、この言葉を阿南から直接聞いたと証言した竹下によれば、阿南は終戦に関して米内と散々議論してきた直後でもあり、母親の死後絶っていた酒を久々に口にして酔っていたことや、自決前の気持ちの高ぶりもあって、この言葉には深い意味はなく、つい興奮のあまりに口走ってしまった感じだったという。その証拠として、この発言のあとに米内に関する話を続けることはなく、すぐに他の話題に移ったことをあげている{{Sfn|児島襄|1974|p=Kindle2981}}。阿南の秘書官であった[[松谷誠]]中佐も竹下と同じく「意味のない言葉だったんでしょう」と証言しているが、その根拠としては、「日頃から阿南さんは、深く考えてものをいう人ではなかった。自分の言葉の影響も余り考えず、瞬間的に頭にひらめいたことをすぐに口に出す人でした。それだけに、無邪気な、気のいい人だったと思います。」と阿南の普段の人柄を挙げている{{Sfn|角田房子|1980|p=Kindle5820}}。 |
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またそのほかに、竹下とともに、阿南の自決に立ち会った井田による、阿南が求めていたのはただ国体護持のみであり、その目的のためあらゆる可能性を残しておくべく、抗戦派・終戦派のいずれにも解釈できる態度を取っていたいう見解や、秘書官林のように、阿南自身、戦争を早期に集結させるべきか、本土決戦を目指して抗戦を続けるべきか迷っていたという見解もある{{Sfn|角田房子|1980|p=Kindle3801}}。 |
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== 年譜 == |
== 年譜 == |
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[[Image:Anami Korechika Cite Monument.jpg|thumb|300px|大分県[[広瀬神社 (竹田市)]]に建立された「阿南惟幾顕彰碑」碑文は岸信介の書、2015年には胸像も建立されている]] |
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* [[1900年]](明治33年)9月 - [[広島陸軍地方幼年学校]]卒業。 |
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* [[1900年]](明治33年)9月 - [[広島陸軍地方幼年学校]]入校。 |
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* [[1905年]](明治38年)11月 - 陸軍士官学校卒業(18期)。 |
* [[1905年]](明治38年)11月 - 陸軍士官学校卒業(18期)。 |
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* [[1906年]](明治39年)6月 - [[少尉|陸軍歩兵少尉]]に任官。[[歩兵第1連隊]]附。 |
* [[1906年]](明治39年)6月 - [[少尉|陸軍歩兵少尉]]に任官。[[歩兵第1連隊]]附。 |
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* [[1923年]](大正12年)8月 - [[サガレン州派遣軍]][[参謀]]。 |
* [[1923年]](大正12年)8月 - [[サガレン州派遣軍]][[参謀]]。 |
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* [[1925年]](大正14年)8月 - [[中佐|陸軍歩兵中佐]]に昇進。 |
* [[1925年]](大正14年)8月 - [[中佐|陸軍歩兵中佐]]に昇進。 |
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* [[1926年]](大正15年)4月 - [[ |
* [[1926年]](大正15年)4月 - [[参謀本部]]第一部演習班班長 |
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* [[1927年]](昭和2年) |
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* [[役所広司]]「[[日本のいちばん長い日#2015年版|日本のいちばん長い日]]」(2015年 [[松竹映画]]) |
* [[役所広司]]「[[日本のいちばん長い日#2015年版|日本のいちばん長い日]]」(2015年 [[松竹映画]]) |
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== 脚注 == |
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=== 注釈 === |
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=== 出典 === |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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*{{Citation|和書|author=[[角田房子]]|date=1980-08|title=一死、大罪を謝す―陸軍大臣阿南惟幾|publisher=[[新潮社]]|ISBN=978-4103258032|ref={{SfnRef|角田房子|1980}}}} |
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** 同名書 (ISBN 4103258039) の文庫化 |
** 同名書 (ISBN 4103258039) の文庫化 |
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* 沖修二 『阿南惟幾伝』 ISBN 406207477X |
* 沖修二 『阿南惟幾伝』 ISBN 406207477X |
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** 1970年 講談社刊同名書の再刊 |
** 1970年 講談社刊同名書の再刊 |
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* 甲斐克彦 『武人(もののふ)の大義―最後の陸軍大臣 阿南惟幾の自決』 ISBN 4769808615 |
* 甲斐克彦 『武人(もののふ)の大義―最後の陸軍大臣 阿南惟幾の自決』 ISBN 4769808615 |
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* [[阿部牧郎]] |
* {{Citation|和書|author=[[阿部牧郎]]|date=2003-11|title=大義に死す―最後の武士・阿南惟幾|publisher=[[祥伝社]]|ISBN=978-4396632403|ref={{SfnRef|阿部牧郎|2003}}}} |
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*{{Citation|和書|author=[[児島襄]]|date=1974-12|title=指揮官|publisher=[[文藝春秋]]|ISBN=978-4167141011|ref={{SfnRef|児島襄|1974}}}} |
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*{{Citation|和書|author=[[額田坦]]|date=1977-05|title=陸軍省人事局長の回想|publisher=[[芙蓉書房]]|asin=B000J8X90G|ref={{SfnRef|額田坦|1977}}}} |
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* {{Cite book |和書 |author=[[豊田副武]] |year=2017 |title=最後の帝国海軍 - 軍令部総長の証言 |publisher=中央公論新社 |isbn=978-4122064362 |ref={{SfnRef|豊田副武|2017}}}} |
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* {{Cite book|和書|author=[[宇垣纏]]|year=1953|title=戦藻録後編|publisher=日本出版協同 |asin=B000JBADFW|ref={{SfnRef|宇垣纏|1953}} }} |
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* {{Cite book |和書 |author=[[武藤章]] |year=1981 |title=軍務局長武藤章回想録 |publisher=芙蓉書房出版 |asin=B000J8073S|ref={{SfnRef|武藤章|1981}}}} |
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* {{Cite book |和書 |author=[[藤田尚徳]] |year=2015 |title=侍従長の回想|publisher=講談社 |isbn=978-4062922845 |ref={{SfnRef|藤田尚徳|2015}}}} |
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* {{Cite book|和書 |author=[[伊藤正徳]] |year=1961 |title=帝国陸軍の最後〈第5〉終末篇 |publisher=[[文藝春秋新社]] |asin=B000JBM30U |ref={{SfnRef|伊藤正徳・5|1961}}}} |
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* {{Cite book |和書 |author=[[阿川弘之]] |year=1982 |title=米内光政|publisher=新潮社 |isbn=978-4101110066 |ref={{SfnRef|阿川弘之|1982}}}} |
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* {{Cite book |和書 |author=渡辺洋二 |year=1982 |title=本土防空戦 (文庫版航空戦史シリーズ (10)) |publisher=朝日ソノラマ|isbn=978-4257170105 |ref={{SfnRef|渡辺|1982}} }} |
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*{{Cite book |和書 |author=[[秦郁彦]] |title=明と暗のノモンハン戦史 |date=2014年 |publisher=PHP研究所 |isbn=978-4-569-81678-4 |ref={{SfnRef|秦|2014}} }} |
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* {{cite book|和書|author=生出寿|title=特攻長官 大西滝治郎―負けて目ざめる道|publisher=潮書房光人新社|year=2017|isbn=978-4769830320|ref={{SfnRef|生出寿|2017}}}} |
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*{{Cite book |和書 |author=[[半藤一利]] |title=ノモンハンの夏 |date=1998年 |publisher=文藝春秋 |isbn=978-4167483104|ref={{SfnRef|半藤一利|1998}} }} |
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* [[半藤一利]] 『「昭和」を振り回した6人の男たち』 ISBN 4094057617 |
* [[半藤一利]] 『「昭和」を振り回した6人の男たち』 ISBN 4094057617 |
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** 『「昭和」を振り回した男たち』(ISBN 449206088X) の改題文庫化 |
** 『「昭和」を振り回した男たち』(ISBN 449206088X) の改題文庫化 |
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* |
*{{Citation|和書|author=[[半藤一利]]|date=2006-07|title=決定版 [[日本のいちばん長い日]]―運命の八月十五日|publisher=[[文藝春秋]]|ISBN=978-4167483159|ref={{SfnRef|半藤一利|2006}}}}(旧版は[[大宅壮一]]編 「日本のいちばん長い日」) |
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* {{Citation|和書|author=半藤一利|date=2003-08|title=聖断―昭和天皇と鈴木貫太郎|publisher=[[PHP研究所]]|ISBN=978-4569629841|ref={{SfnRef|半藤一利|2003}}}} |
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* {{Cite book|和書|author=[[保阪正康]]|title=東条英機と天皇の時代 |publisher=[[筑摩書房]]|date=2005|isbn=978-4167494018|ref={{sfnRef|保阪正康|2005}} }} |
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* 林三郎 「終戦ごろの阿南さん」『世界』1951年8月号 |
* 林三郎 「終戦ごろの阿南さん」『世界』1951年8月号 |
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*{{Cite book|和書|title=100人の20世紀 (下) (57) 吉田茂|series=朝日文庫|author=有岡二郎|year=2001|ref=harv}} |
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* [[下村海南]] 『終戦秘史』[[講談社学術文庫]], 1985 |
* [[下村海南]] 『終戦秘史』[[講談社学術文庫]], 1985 |
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* {{Cite book |和書 |author=[[筒井清忠]] |year=2018 |title=昭和史講義【軍人篇】 |publisher=筑摩書房 |isbn=978-4480071637 |ref={{SfnRef|筒井清忠|2018}}}} |
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* {{Cite book |和書 |author=[[荒井信一]] |year=1988 |title=日本の敗戦 |publisher=岩波書店 |isbn=978-4000034388 |ref={{SfnRef|荒井信一|1988}}}} |
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* 軍事史学会編 『大本営陸軍部戦争指導班 機密戦争日誌』(下)錦正社, 1998 |
* 軍事史学会編 『大本営陸軍部戦争指導班 機密戦争日誌』(下)錦正社, 1998 |
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* {{Cite book |和書 |editor=防衛庁防衛研修所戦史室 編 |year=1968 |title=沖縄方面海軍作戦 |publisher=[[朝雲新聞|朝雲新聞社]] |series=[[戦史叢書]]17 |ref={{SfnRef|戦史叢書17|1968}} }} |
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* {{Cite book |和書 |editor=防衛庁防衛研修所戦史室 編 |year=1968 |title=北支の治安戦(1) |publisher=朝雲新聞社 |series=戦史叢書18 |ref={{SfnRef|戦史叢書18|1968}} }} |
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*{{Cite book|和書|editor=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 本土防空作戦|year=1968|month=10|publisher=朝雲新聞社|series=戦史叢書19|ref={{SfnRef|戦史叢書19|1968}}}} |
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* {{Cite book |和書 |editor=防衛庁防衛研修所戦史室 編 |year=1969 |title=豪北方面陸軍作戦 |publisher=[[朝雲新聞|朝雲新聞社]] |series=[[戦史叢書]]23 |ref={{SfnRef|戦史叢書23|1969}} }} |
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* {{Cite book |和書 |editor=防衛庁防衛研修所戦史室 編 |year=1970 |title=沖縄・台湾・硫黄島方面陸軍航空作戦 |publisher=[[朝雲新聞|朝雲新聞社]] |series=[[戦史叢書]]36 |ref={{SfnRef|戦史叢書36|1970}} }} |
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* {{Cite book |和書 |editor=防衛庁防衛研修所戦史室 編 |year=1970 |title=海軍捷号作戦<1>台湾沖航空戦まで |publisher=[[朝雲新聞|朝雲新聞社]] |series=[[戦史叢書]]37 |ref={{SfnRef|戦史叢書37|1970}} }} |
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* {{Cite book |和書 |editor=防衛庁防衛研修所戦史室 編 |year=1971 |title=香港・長沙作戦|publisher=朝雲新聞社 |series=戦史叢書47 |ref={{SfnRef|戦史叢書47|1971}} }} |
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* {{Cite book |和書 |editor=防衛庁防衛研修所戦史室 編 |year=1971 |title=比島捷号陸軍航空作戦 |publisher=朝雲新聞社 |series=戦史叢書48 |ref={{SfnRef|戦史叢書48|1971}} }} |
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* {{Cite book |和書 |editor=防衛庁防衛研修所戦史室 編 |year=1975 |title=大本営陸軍部<10>昭和二十年八月まで |publisher=朝雲新聞社 |series=戦史叢書82|ref={{SfnRef|戦史叢書82|1975}} }} |
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* {{Cite book |和書 |editor=防衛庁防衛研修所戦史室 編 |year=1975 |title=陸軍航空兵器の開発・生産・補給 |publisher=朝雲新聞社 |series=戦史叢書87 |ref={{SfnRef|戦史叢書87|1975}} }} |
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* {{Cite book |和書 |editor=防衛庁防衛研修所戦史室 編 |year=1976 |title=陸軍航空の軍備と運用 |volume=3(大東亜戦争終戦まで) |publisher=朝雲新聞社 |series=戦史叢書94 |ref={{SfnRef|戦史叢書94|1976}} }} |
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* {{Cite book |和書 |editor=[[米国戦略爆撃調査団]] 編纂 |others=[[大谷内和夫]](訳) |year=1996 |title=JAPANESE AIR POWER 米国戦略爆撃調査団報告 日本空軍の興亡 |publisher=光人社 |isbn=4769807686 |ref={{SfnRef|米国戦略爆撃調査団|1996}} }} |
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* {{Cite book |和書 |author=[[新人物往来社]]編 |year=1995 |title=ドキュメント 日本帝国最期の日 |publisher=新人物往来社 |isbn=978-4404022318 |ref={{SfnRef|新人物往来社|1995}} }} |
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* {{Cite book |和書 |author=[[読売新聞社]]編 |year=2011 |title=昭和史の天皇 2 - 和平工作の始まり |publisher=中央公論新社|series=昭和史の天皇2 |isbn=978-4122055834 |ref={{SfnRef|昭和史の天皇2|2011}} }} |
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* {{Cite book |和書 |author=読売新聞社編 |year=2012 |title=昭和史の天皇 3 - 本土決戦とポツダム宣言 |publisher=中央公論新社|series=昭和史の天皇3 |isbn=978-4122056091 |ref={{SfnRef|昭和史の天皇3|2012}} }} |
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* {{Cite book |和書 |author=読売新聞社編 |year=2011 |title=昭和史の天皇 4 - 玉音放送まで |publisher=中央公論新社|series=昭和史の天皇4 |isbn=978-4122056343 |ref={{SfnRef|昭和史の天皇4|2012}} }} |
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* {{Cite book |和書 |author=アービン・クックス |others=加藤 俊平(訳)|year=1971 |title=天皇の決断―昭和20年8月15日 |publisher=サンケイ新聞社出版局 |series=第二次世界大戦ブックス 21 |isbn=978-4383011266 |ref={{SfnRef|クックス |1971}} }} |
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* {{Cite book |和書 |author=ジェフリー・ペレット |others=林義勝、寺澤由紀子、金澤宏明、武井望、藤田怜史(訳) |year=2016 |title=老兵は死なず ダグラス・マッカーサーの生涯。 |publisher=[[鳥影社]] |isbn=978-4862655288 |ref={{SfnRef|ペレット|2016}} }} |
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2020年5月26日 (火) 22:31時点における版
阿南 惟幾 | |
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阿南惟幾 | |
生誕 |
1887年2月21日 日本 東京市牛込区箪笥町 |
死没 |
1945年8月15日(58歳没) 日本 東京都麹町区永田町 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1905 - 1945 |
最終階級 | 陸軍大将 |
阿南 惟幾(あなみ これちか、1887年(明治20年)2月21日 - 1945年(昭和20年)8月15日)は、日本の陸軍軍人。陸軍大将勲一等功三級。1945年(昭和20年)4月に鈴木貫太郎内閣の陸軍大臣に就任。太平洋戦争(大東亜戦争)末期に降伏への賛否を巡り混乱する政府で本土決戦への戦争継続を主張したが、昭和天皇の聖断によるポツダム宣言受諾が決定され、同年8月15日に割腹自決。日本の内閣制度発足後、現職閣僚が自殺したのはこれが初であった。
侍従武官、陸軍省兵務局長、人事局長、第109師団長、陸軍次官、第11軍司令官、第2方面軍司令官、陸軍航空総監部兼航空本部長、陸軍大臣を歴任。その人柄・人格には定評があり、昭和天皇からは信頼され[1]、陸軍大学同期の石原莞爾も認めるほどであった。また、最後の陸軍大臣と紹介されることが多いが、歴代最後の陸軍大臣は下村定(東久邇宮内閣)[注 1]である。
経歴
誕生から軍人の道へ
大分県竹田市玉来出身であった父の阿南尚と母豊子の間の8人兄弟の末っ子として生まれた。父尚は警察巡査として西南戦争で抜刀隊として従軍後、内務官吏として転勤を繰り返したため、阿南も幼少時は東京、大分の竹田、徳島などを転々としながら育った[2]。本籍は竹田市に置かれている。父尚は阿南に剣道、弓道、馬術など武術を小さい頃から教え込み、中でも剣道が好きであった阿南は小柄な体格ながらかなりの腕前になっていた[3]。
父尚が徳島県の参事官に就任したため、阿南は徳島中学校に入学した。当時、四国善通寺を本拠地とする第11師団の師団長乃木希典陸軍中将と父尚は知り合いであり、ある日、乃木を来賓に招いての剣道大会が開催され、阿南が小柄な体格ながら、旺盛な気迫で上級生相手に敢闘しているのを見て、乃木は上機嫌で父尚に対して「元気があっていい少年だ」と褒めている。そこで父尚が、阿南が前から軍人志望で、陸軍幼年学校を受験したいと思っているが、小柄なので躊躇しているという話をすると、乃木は「幼年学校は規則正しい生活をさせるし、運動で鍛え上げるからすぐに身体は大きくなる。なるべく早く入学させる方がいい」と早期の受験をすすめている。阿南は乃木の話を父尚から聞くと、小柄なので軍人の道は難しいと心配していたのに、乃木という強い援軍を得て、この年の受験を決意した。乃木は日清戦争で歩兵第1旅団を率いて要衝旅順を攻略し武名をとどろかせていたことや、軍規や武士道を体現した生活態度と明治天皇からの厚い信頼で国民から敬愛されており、このときの乃木の姿が今後の阿南の軍人人生の範となった[4]。
1900年(明治33年)9月阿南は広島陸軍地方幼年学校に入校。同期生にはのちに陸軍大将になる山下奉文、岡部直三郎、山脇正隆がおり、大阪陸軍地方幼年学校に入校した藤江恵輔も含めて、この年次は優秀と言われることになった[5]。阿南は中央幼年学校を経て、陸軍士官学校(18期)に入校したが、同期で一番小柄だった体格も規則正しい生活と鍛錬で大きくなっており、身長は当時としては長身の1m70㎝に達していた[6][7]。士官学校在学中に阿南は何度か乃木を訪ね、乃木のかつての武勇伝を熱心に聞いて、夫人の作る稗飯をご馳走になり、ますます乃木への憧れが強まっていった[8]。このときの乃木は長年の休職を経て、留守近衛師団長となっており、1904年(明治37年)に開戦した日露戦争に従軍できないことを悔やんでいたが、のちに第3軍司令官として旅順攻囲戦を指揮し、さらに武名を高めて国民的な人気を博した。1906年(明治39年)1月14日に行われた乃木の凱旋行進を、阿南は一般国民に交じり街道に並んで見送っている[9]。
1905年(明治38年)陸軍士官学校(18期)920名中を第24席の成績で卒業し、1906年(明治39年)に希望していた歩兵第1連隊に配属された。この頃父尚は教科書疑獄事件に巻き込まれて参事官を休職になっており、阿南一家は東京に戻ってきていた。兄の惟一は頭脳明晰で東京帝大を卒業後は外務省に入省していたが、自由奔放な性格で厳格な父尚や阿南とは性格が合わなかった。惟一は放蕩な生活で借金を重ねて、性格が合わなくて毛嫌いしていた父尚に支援を要請、父尚は既に退官して恩給生活であったため、故郷大分の田畑を処分してどうにか惟一の債務を肩代わりした。阿南は兄惟一のせいで生活に困窮する両親のため、給料の全額を実家に仕送り続けた[10]。
1912年(明治45年)阿南は陸軍大学への進学を目指した。陸軍士官学校同期で親しかった山下、甘粕重太郎、中島鉄蔵も一緒に受験したが、1度目は全員不合格であった。しかし、再度の受験で山下らが次々と合格していったのに、阿南は4度目の受験でようやく合格となった[11]。阿南が3度も不合格となったのは、頭脳が劣っていたのではなく、受験時には上官が受験の配慮から、自由時間の多い陸軍中央幼年学校の生徒監のポストにつけてくれたが、阿南はそれに甘えることはなく、生徒たちの指導に手を抜くことなかったので、結局は勉強時間が足りなくなったことと、慎重な性格から、作戦考査で攻撃重視の日本軍の伝統から、作戦が慎重すぎると評価され点数が低かったためとされる。合格したときには、阿南から指導を受けた教え子たちは歓声をあげて喜び、阿南のために祝賀会まで開いている[12]。陸大卒業の席次は60人中18番と中の上であったが、4度の受験でようやく合格したという話があまりに有名になったので、阿南は「成績の悪い男」というレッテルを貼られてしまうことになった。後年になって阿南自身も「私は学校の成績は悪かった」と自称するようになっている[13]。
1916年(大正5年)、陸軍大学在学中に阿南は竹下平作陸軍中将二女の綾子と結婚している。竹下は阿南の歩兵第1旅団時代の上官であり、幼年学校受験準備中の竹下の長男宣彦の家庭教師を引き受けるなど親しい間柄であり、綾子ともその頃からの顔なじみで、見合いする必要もなく縁談はまとまった。結婚したときの年齢は阿南が29歳、綾子が17歳であった[14]。のちに次男の竹下正彦も陸軍軍人となって、義兄となった阿南と深く関わっていくこととなる。阿南は綾子を大事にして、演習などで出張すると旅先からよく手紙を送っている。中には、演習先で食べている野戦食の献立を図入で書いた手の込んだ手紙や、「演習の野に咲く萩を馬蹄にかけまいと」とわざわざ足下の花にまで気を使う阿南の優しさを書いた手紙もあった[13]。綾子は、阿南と陸軍士官学校の同期山下の妻である永山元彦陸軍少将の長女・久子と幼馴染みで仲良く、阿南と山下は家族ぐるみで親交を深めていった[14]。
侍従武官
1929年(昭和4年)8月1日に侍従武官に就任、当時の侍従長は鈴木貫太郎であった。阿南は鈴木の懐の深い人格に尊敬の念を抱き、その鈴木への気持ちは終生変わるところがなかった。侍従武官として昭和天皇とも親交を深め、馬術が得意であった阿南は、昭和天皇から直々に馬術の指導を要請されて、同じく馬術が得意な河井彌八侍従次長などと昭和天皇と一緒に乗馬をすることもあったが、その際に昭和天皇から「埃をかぶったのではないか?」などと気をつかわれることがあったり[15]、昭和天皇が着用していた白いワイシャツを拝領したこともあった[16]。阿南は「世界一おやさしい君主に我々はお仕えしておるのだ」と改めて昭和天皇に対する敬愛の念が深まって、陛下の為に身命を賭すという意識が強まっていった[17]。昭和天皇の阿南への信頼も厚く[18]、1930年(昭和5年)8月に阿南が大佐に昇進すると、なおも昭和天皇のそばにいる機会が多くなって[19]、阿南が上奏に行くと、昭和天皇は椅子を準備させて長い時間話し込んだり[20]、阿南のことを親しげに「あなん」と呼ぶようになった[21]。
1932年(昭和7年)1月8日、陸軍始観兵式の帰路、皇居・桜田門の外、麹町区桜田町警視庁庁舎前に昭和天皇の車列が差し掛かったとき、馬車に対して奉拝者の線から沿道に飛び出した李奉昌が手榴弾を投げつけた。このとき、阿南もこの車列のなかの陸軍武官用の自動車に乗って同行しており、爆発音に慌てて車列3両目の昭和天皇の馬車に駆け付けたが、昭和天皇は無事で胸をなでおろしている。李は2両目の一木喜徳郎宮内大臣の馬車を昭和天皇のものと誤認して手榴弾を投擲したが、手榴弾は左後輪付近に落ちて炸裂し、馬車の底部に親指大の2、3の穴を開け、破片で、騎乗随伴していた近衛騎兵1人が軽傷を負っただけであった(桜田門事件)[17]。
1933年(昭和8年)8月近衛歩兵第2連隊長に就任、五・一五事件の直後であったため、阿南は青年将校の精神教育に特に注力した。青年たちの考えを知ろうと、膝をつき合わせて語り合い、自宅に招いては手料理をご馳走した。阿南は若者と語り合うのが好きであったが、自分から説教じみた話しをするのではなく、若者の話をよく聞いて談笑した。五・一五事件については軍内でも「美挙」など前向きに評価する向きもあり、公判中に減刑嘆願書が全国から殺到するなど、決起した青年将校たちに同情的な世情であったが、阿南は「軍人勅諭」の「(軍人ハ)政治ニ拘ラス」と信条としており、五・一五事件には批判的であった[22]。
1934年(昭和9年)8月に東京陸軍幼年学校長となった。当時、陸軍幼年学校長は閑職扱いされており、阿南のような陸大卒の大佐が行くようなポストとは見られていなかった。これで阿南の出世はこれまでと見る者が多かったが[12]、阿南の生徒監時代の熱血指導ぶりを知る元教え子たちや、阿南の部下思いの性格を知っている知人、友人らは「陸軍最高の人事だ」と褒め称えており、阿南自身も非常に大切な役目であると張り切っていた[23]。阿南はおりにふれて生徒たちに訓話を聞かせた。その内容は「その日のことはその日に処理せよ」「自分の顔に責任を持て」「難しい問題から先に手を付けろ」などと平凡なものであったが、阿南の熱意もあって生徒の心に長く残るものとなった。生徒を引率して陸軍の演習を見学に行ったときは、昭和天皇の計らいで生徒は天皇の御座所のすぐ近くで見学することができた。昭和天皇は久々に拝謁した阿南に「元気そうだね。阿南なら立派な将校を育ててくれるものと信じているよ」と親しく話しかけて、生徒は恩賜の菓子を頂戴している[24]。
1936年(昭和11年)2月26日に二・二六事件が発生し、鈴木侍従長も襲撃され重傷を負った。軍や世間は五・一五事件のときと同様に叛乱軍将校たちに同情的であったので、その世情が生徒らに蔓延することを危惧した阿南は、生徒たちに軍規の尊厳性と軍人の天皇に対する絶対的服従を教え込むため、敢て自ら普段の温厚な人柄からは想像できないような厳しい口調で幼年学校生徒へ訓話している。「これは軍にとって、非常に悪いことだ」という言葉から始まり、怒りで顔を紅潮させた阿南は「農民の救済を唱え、政治の改革を叫ばんとする者は、まず軍服を脱ぎ、しかる後に行え」と叛乱将校を厳しく批判し、自らの信条である「(軍人ハ)政治ニ拘ラス」を説いている。そして「叛乱軍将校は軍人として、許されない誤りを犯したが、彼らにもただひとつ救われる道がある。己の非を悟り切腹して陛下にお詫びすることだ」とも言い放った。この訓示を聞いていた生徒たちは、阿南が陛下のお心を悩ませた将校たちに対して憤慨していると思い、阿南の天皇に対する敬慕の情を痛感させられたという[25]。
陸軍省
二・二六事件後に皇道派と統制派などの陸軍内の派閥解消がはかられ、とくに皇道派については粛軍人事によって多くが予備役行きとなった。阿南は陸軍内の派閥に属しておらず政治的に無色であったことから、8月に軍紀・風紀の監督部署として軍務局から分離・独立した兵務局長に就任した[26]。これは、主導権を握った統制派が、皇道派弾圧のため、阿南を看板に利用したという意味合いもあったが、阿南の高潔な人柄と政治的な無職さは全軍に知れ渡っており、誰にも文句のつけようのない人事であった。こののち、阿南は陸軍中枢の要職で戦争遂行や敗戦に深く関わっていくこととなっていった[27]。
翌1937年(昭和12年)には陸軍省人事局長に任ぜられた。人望や職務への精勤ぶりへの評価が徐々に高まり、「同期に阿南あり」と言われるようになった。陸大の同期生で、上官や上層部に対する歯に衣着せぬ発言で知られる石原莞爾も阿南には生涯にわたって好意を抱き続けた。石原は自分にない阿南の円満な人格を高く評価し、滅多に人の意見を肯定しない石原が阿南の意見だけは「阿南さんがそういうならよかろう」と肯定して周囲を驚かせたこともあった[28]。阿南が人事局長時代に力を入れたことのひとつが将校の不足解消であった。不況による軍事費削減で日本陸軍は現役将校不足に悩まされており、阿南は陸軍次官の梅津美治郎中将が呆れるほどに、各方面に将校不足を説いて回り、ついには800名増員を実現している[29]。
1938年(昭和13年)3月1日 陸軍中将に昇進、7月に板垣征四郎陸軍大臣から、陸軍参謀本部が発議した皇族軍人の秩父宮雍仁親王を参謀総長に就任させる案の検討を命じられた。これは英邁と名高かった秩父宮を、老齢の現参謀総長閑院宮載仁親王と交代させたいという意向の人事であったが、いくら英邁とは言え秩父宮はまだ陸軍大学を卒業して7年しか経っておらず、大佐にすら昇進していなかった[29]。軍規に厳格な阿南はこのような特例人事には批判的で「参謀総長は陸軍大将、中将であることを要し、いかに皇族だからといって階級は級を追って進むべきである」と拒否し、部下の人事局補任課長額田坦中佐に、そのような特例人事が不可能である旨の意見書の作成を命じて、板垣に提出している。参謀本部は1度では諦めず、3週間後にもう1度同じ発議があったが、阿南は前回と同様な手順でこれを拒否している。このことで阿南は板垣や参謀本部から煙たがられることとなった[30]。
阿南が軍規に厳格であったことを示すエピソードとして、ある日部下と「忠臣蔵」の話になったとき阿南は「忠臣蔵の大石内蔵助は忠臣の鑑とたたえられているが、私は同意できない。大石は法を犯している時点で褒められるべきではなく『道は法を越えず』でならなければならぬ」と部下に諭して聞かせたことがあった[31]。
第109師団長
11月9日第109師団長に親補。この人事については、第109師団の前任の師団長山岡重厚予備中将が体調不良で交代を要することとなり、阿南は何人かの候補を挙げたが、いずれも板垣から承認されず、ついに阿南が自分で立候補すると、板垣は即承認したということで、思うようにならない阿南を煙たがり、参謀本部が阿南の更迭を板垣に要請し、板垣が応じた結果であった[32]。板垣らの目的はあくまでも阿南の人事局長更迭であり、阿南はこれまでの人事局長と同様に、自らの“お手盛り人事”によって、精強の常設師団に転出することも可能であったが、常設師団の第5師団の師団長には後輩の今村均中将を推し、自分は特設師団の第109師団を選んだことになったので、いかにも阿南らしい人事と評判となった[33]。
人事局を追われるかのような更迭劇であり、人事局員も板垣らに遠慮し、見送りは額田ただ1人という寂しい門出となったが[34]、昭和天皇が、出征の門出として阿南を宮中に招き2人きりで陪食している。これは前例がなかったことで、昭和天皇が阿南を信頼していたという証拠であった。2人は女官が運んできた松花堂弁当を食べ、食事が終わった後も時間が許す限り話し込んだ。天皇と2人きりの陪食が周囲に知れれば反響が大きすぎるとして、この件は現侍従長の百武三郎大将ほか、ごく一部以外には内密にされた[35]。阿南は感激して句を作り、この御恩に報いるため、天皇のためなら死んでも構わないと固く決意した。のちにこの時詠んだ句が阿南の辞世の句となった[36]。
阿南は51歳にして初めて実戦の場に立つことになったが、今まで培ってきた知識による巧みな作戦指揮で、兵力が勝る山西軍や八路軍を相手に大戦果を挙げ続けた。1939年(昭和14年)3月に開始されたN号作戦では、30,000名の兵力を擁する山西軍と八路軍を撃破して[37]、山西軍の重要拠点静落県城を攻略している。また4月に開始された3号第2期作戦でも山西軍主力に大打撃を与えている[38]。
1939年(昭和14年)6月には、山西軍主力殲滅作戦を開始、わずか5個大隊の兵力で、山西軍4個師団を包囲してこれをほぼ殲滅してしまった[39]。この時の殲滅戦は、兵力不足のなかで兵力が勝る敵軍を包囲殲滅した理想的な作戦例として、その後に参謀本部が作成し、教材として使用される殲滅戦例資料にも取り上げられた[40]。その後も第109師団は順調に進撃し、阿南の大胆な作戦指揮によって要衝山西省路安城も攻略した[41]。作戦中、阿南は激戦地では第一線に立って作戦を指揮し[42]、第109師団は約10倍の203,000名の中国軍と交戦、うち18,400名を戦死させて、2,002名の捕虜を得たが、捕虜のなかには山西軍の師団長も含まれていた。一方で第109師団の戦死者は231名、戦傷者は537名であった[43]。捕虜に対する処置は、阿南の「祖国のため互いに敵味方となって戦ったが。個人としては何の怨恨があるわけではない。今後十分な保護を与えるよう」という指示によって寛大に扱われて、食料、甘味品、タバコなど贈り、戦死した部下の慰霊祭を施行するときは、敵軍戦死者の供養塔も立てることも忘れなかったという。阿南の指揮官としての信条は「徳義ハ戦力ナリ」であり、捕虜の対応についてもその信条に基づくものであった[44]。
陸軍次官
1939年(昭和14年)10月に陸軍次官就任、阿南の陸軍省への帰還を知った将校や職員は一様に歓喜したという[45]。阿南が陸軍次官に着任する直前の9月にノモンハン事件が停戦となっていたが、阿南はノモンハン事件が日本軍の敗北であったことを初めて知って愕然としている。既に現場では、第6軍司令官荻洲立兵中将や、第23師団長小松原道太郎中将により、無断撤退した長谷部理叡大佐や井置栄一中佐に対する私刑に等しい自決強要がなされるなど統率がとれておらず[46]、その後始末を委ねられる形となった。陸軍省と参謀本部は、前任の東条英機中将と参謀次長多田駿中将の対立もあって関係が悪化していたが、阿南は同時期に多田に代わって次長に就任した幼年学校以来の同期で親しかった沢田茂中将と「人の和を最優先事項としよう。陸軍省と参謀本部は一体となって難局にあたろう」と申し合わせし[47]、綿密な協力体制を構築して[40]、てきぱきと事後処理していった[48]。人事処分については独断専行して事件を拡大した関東軍とそれを抑えることができなかった参謀本部双方に処分を課すといった“喧嘩両成敗”的な処分を行ったが、関東軍参謀として事件拡大に深く関与し「事実上の関東軍司令官」とまで呼ばれた辻政信中佐を、元陸軍大臣の板垣や、参謀本部総務課長笠原幸雄少将からの「将来有望な人物」という陳情によって[49]左遷的異動で済ますなど、のちに禍根を残すような処分もあった[50]。ほかにも、膠着した日中戦争の指導など難問が山積しているなか、人の話をよく聞き、人情の機微を知り尽くして、抜群の調整能力を発揮する阿南の仕事ぶりは周囲が皆認めるところとなり、声望は日に日に増して将来の陸軍大臣との呼び声も上がるようになったが[51]、阿南自身は「(軍人ハ)政治ニ拘ラス」の信条通り、自ら政治的発言をすることはなく、政治的な動きは軍務局長の武藤章中将に一任していた[52]。
1939年にヨーロッパで開戦した第二次世界大戦では、ナチス・ドイツ軍が快進撃中で、一旦は沈静化していた日独伊三国同盟締結を求める声が陸軍内で次第に大きくなり、ナチス・ドイツのフランス侵攻によってフランスが降伏するとその声は国民を巻き込むものに拡大した。阿南自身はナチス・ドイツのを否定的に捉えていたわけではなかったが、陸海軍協調の視点から海軍が消極的な日独同盟を陸軍が積極的に提議すべきではないという方針であった[53]。米内内閣は首相米内光政の方針により日独伊三国同盟の締結には反対であったが、陸軍内で日に日に高まる同盟推進論に「人の和」を重視する阿南と沢田も抗しきれず、7月8日に内大臣木戸幸一に、陸軍は日独伊三国同盟を推進するため、近衛文麿を首班とする内閣を要望していることを伝えて[54]、沢田、武藤と図って陸軍大臣の畑俊六大将に辞職を進言した。畑は阿南らの進言によって7月12日に米内に書面にて辞職を申し出、米内内閣は総辞職に追い込まれた[55]。
1940年(昭和15年)7月22日に発足した第2次近衛内閣で東條英機が陸軍大臣となったが、東條は阿南の実務能力を高く評価しており、東條の要請もあって陸軍次官留任となった[56]。東條はおおらかな阿南とは対照的に神経質な性格であり最初から合わなかった。それは東條が陸軍省で最初に行った訓示でも現れており、東條は「政治的発言は陸軍大臣だけが行い、いかなる将校の発言も許さぬ」「健兵対策(兵士の健康管理)の再検討を行う」の2点を強調したが、「健兵対策」については、大臣がわざわざ言及することではなく、局長や課長級の業務であると阿南は助言したが、東條が聞き入れることなく、かたくなにこの1項を強調している[57]。
やがて、東條はソリの合わない人物を遠ざけ、息のかかった人物を重用する恣意的な人事を行うようになり、阿南と対立するようになっていく。東條は前任の畑が決めていた人事について、阿南が実行を助言すると「高級人事については陸相たる私が一人で決める、他人の進言は無用」と叱責したこともあった[58]。対立が決定的になったのは、阿南が互いに高く評価しあっていた陸大同期の石原に関する人事処分であり、第16師団師団長となっていた石原が、東條が1941年(昭和16年)1月8日に陸軍大臣名で示達した「戦陣訓」に対して、「師団将兵はこんなものよむべからず」「東條は己をなんと心得ているのか。どこまで増長するのか」「総司令官以下に対して精神教育の訓戒をなすとは、天皇統率の本義を蹂躙した不敵きわまる奴である」と批判したことで、東條が激怒し「石原を予備役」にすると言い出したことであった[59]。石原の予備役編入を命じられた阿南は、これまで石原の非凡な才を高く評価してきたこともあって[28]、日頃な温厚な態度から一変して顔を真っ赤にしながら「石原将軍を予備役というのは、陸軍自体の損失です。あのような有能な人を予備役に追い込めば、徒に摩擦が起きるだけではありませんか」と東條に反論し、他の将校が見ている前で激しい議論を繰り広げている[60]。阿南は皇族で陸軍大将の東久邇宮稔彦王にまで頼って、この東條の恣意的な人事を撤回させようとしたがかなわず、1941年3月に石原は師団長を更迭されて予備役に編入された[60]。
阿南はこの事件で東條に愛想を尽かして、1941年4月の異動で、陸軍次官在任期間が長くなったからと適当な理由をつけて、陸軍次官を辞して第11軍司令官として中支戦線へ赴いていった。東條は、阿南の後任の陸軍次官には木村兵太郎中将を、人事局長に冨永恭次少将、兵務局長に田中隆吉少将を任命するなど、陸軍中央は東條の息のかかった人物が主要ポストを占めることとなった[61]。阿南は陸軍中央を離れてからも東條の人事を批判しており、「俺は東条大将とちがって、誰でも使える」と部下を選り好みする東條との違いを強調していた。阿南の人事統率の方針は「温情で統率する」という温情主義であり[62]、部下は能力の如何に関わらず、誰でも使うことができるという自負をもっていた[63]。
第11軍司令官
その後、第2次近衛内閣、第3次近衛内閣そして東條内閣と続き、東條内閣によって、日本は太平洋戦争(大東亜戦争)に突入した。
大本営と支那派遣軍は、重慶政府に大打撃を与えて日中戦争の解決の目処をつけるため、中国軍が不陥と誇ってきた長沙への侵攻を計画した。ところが、6月独ソ戦の勃発による「関特演」への兵力転用や、日米交渉の難航による南方作戦準備が問題になるにつれ、大本営や陸軍省では長沙進攻中止論が台頭していたが、阿南は引き続き周到な作戦準備を行った。長沙には精強を誇る第9戦区軍司令部(司令長官:薛岳)があり、阿南はこの撃破を目論見、東部萬洋山系の側面陣地を撃破して長沙に進攻しようと計画していたが、作戦を認可した参謀本部は中央突破の作戦を命じた(第一次長沙作戦)[64]。
第11軍は歩兵45個大隊の大兵力で長沙を目指して進軍したが、阿南の懸念した通り東部萬洋山系の側面陣地から戦力に勝る中国軍の攻撃を受けて苦戦を強いられた。それでも第11軍は多数の中国軍部隊を撃破しつつ長沙に達した[64]。激戦のうえで長沙を占領した第11軍であったが、阿南は市街に突入させる部隊を最小限に抑えて、市街地の破壊や食料物資の略奪を厳禁した。阿南は略奪行為の厳禁を命じた意図を支那派遣軍総司令官畑に「一般民家を焼却すれば却って民心の離反を招くから」と説明している[65]。作戦目的は中国軍に打撃を与えることであり、第11軍は主敵であった第74軍を撃破、54,000人の遺棄死体を確認、4,200人の捕虜と大量の兵器弾薬を獲得するといった大戦果を挙げた一方で、長沙市街の軍事拠点は既に爆撃などで撃破されて戦略的価値が低かったことから、作戦目的は達したとして阿南は長沙からの反転を命じた。そのため、中国軍は「長沙は未だに占領されず」と内外に喧伝し、また、第11軍が長沙で戦っているころに、中国軍主力15個師団は宜昌に大攻勢をかけており、結局、作戦目的であった中国軍の弱体化を達成することはできなかった[66]。
第一次長沙作戦で中国軍に大打撃を与えつつも作戦目的は果たせなかった阿南は機会をうかがっていたが、太平洋戦争が開戦した12月8日、香港攻略作戦を開始した華南の第23軍の背後を衝くため中国軍(第4軍・暫編第2軍)が、長沙付近から広東方面への南下を開始したのを知って、第11軍は、すぐさま中国軍の南下を牽制する作戦が検討され、木下勇参謀長から作戦説明を受けた阿南軍司令官は第二次長沙作戦を即断し、第11軍独断で作戦を開始した[67]。
第11軍の3個師団10万人は、退却を開始した中国軍を追って無人の野を進むが如く急速で進撃を続けた。阿南は前回長沙を放棄したことを悔やんでおり、今回は長沙を占領確保するつもりであった[68]。しかし、中国軍の撤退は「退却攻勢」作戦で、長沙では30万人の中国軍が待ち構えていたが、それに対して第11軍は急遽の作戦開始で3個師団の連携も取れておらず、兵站も不十分であった。先行する第3師団加藤大隊の加藤素一少佐が偵察中に戦死し、携行していた作戦計画命令書を中国軍に奪取されて、第11軍の弾薬が不十分であることが露見するといった不幸も重なって[69]、罠に飛び込んだ形となった第11軍ではあったが、それでも第6師団は猛進して、長沙まで到達した。しかし前回とは打って変わり、長沙は堅牢に陣地化されており、第6師団は突撃を繰り返すも容易に城壁外のトーチカを突破できず、また、第3師団も長沙への攻撃を開始したが、第6師団同様に城壁を突破できず、逆に戦力が勝る長沙守備隊から数十回にも及ぶ逆襲を受けて防衛戦を強いられた。2個師団が長沙攻略に手間取っている間に、背後から中国軍30個師団が迫ってきて包囲されてしまった。残る第40師団も長沙の45㎞手前で優勢な中国軍に包囲されており、第11軍は苦境に立たされた[70]。作戦開始以降強気な作戦指導を行い、泰然自若な態度で幕僚らを慰撫激励してきた阿南も、戦況が激変したことで憂いが濃くなり、強行突破による敵主力撃滅の作戦方針を転換して、反転し敵の薄弱部を突破しての撤退を命じた[71]。
3個師団は、圧倒的多数の中国軍相手に戦闘しながらの撤退を余儀なくされて多くの損害を被り、この作戦による日本軍の損害は戦死1,591人、戦傷4,412人にも上ったが、各師団は厳しい戦況のなかでも敢闘し中国軍にも打撃を与えて遺棄死体約28,612人を確認し、捕虜1,065人を得ている[72]。中国側が長沙会戦と呼んだこの戦いは、日本軍に対する連合国軍最初の勝利として重慶政府は大いに喧伝したが、中国軍自身は、数倍の戦力を揃えて周到に包囲作戦を準備していたにも関わらず、第11軍を取り逃がしたことについて「すこぶる遺憾」と厳しい評価をしている[71]。さらに、香港は日本軍が占領し、この中国軍の勝利は戦略的には大きな意味は持たなかった。第11軍が準備不足で作戦を開始し、結果的に優勢な敵相手に撃退された形となったことに、支那派遣軍総司令官畑は批判的であったが、重慶政府が戦略的にも政治的にも長沙を最重要視していることを再認識させられている[73]。
第二次長沙作戦の敗北は、阿南が第109師団長時代、山西軍や八路軍相手に積極的な攻勢で完勝した成功体験を踏襲して招いたという指摘もあるが[74]、圧倒的に戦力が勝る中国軍に対して、味方の劣勢を承知で敢て中国軍主力12個軍を牽制して足止めし、香港の攻略や南方作戦を有利にしたとして、阿南の慎重と放胆を両立させた作戦指導が評価されることとなった。阿南自身も、この作戦について「独断長沙進攻の非難あらんも、牽制価値大なりしに満足する」と日記に記すなど意義を強調している[52]。阿南は部下ら若い将校との酒席に出ると、長沙作戦の経緯を語って聞かせ、第11軍の快進撃を引き合いに出して「いいか、ドンドン行け。ドンドン、ドンドン行け」と力強く語りかけたという。この「ドンドン」というのが阿南の口癖となった[75]。
第2方面軍司令官
1942年7月、第2方面軍司令官としてチチハルに赴任、同じ満州の第1方面軍司令官は阿南と陸軍士官学校の同期で、マレー作戦で名声を博していた「マレーの虎」こと山下が同日に着任し、勇将2名が軍司令官となった満州では「東の山下、北の阿南」と言われ、関東軍の士気は大いに高まったという[76]。
1943年5月陸軍大将に昇進、第2方面軍は南方の戦局不振に伴い、1943年10月30日、豪北方面(オーストラリアの北方に位置するオランダ領東インド東部)に転用された[76]。司令部はミンダナオ島のダバオに置かれ第19軍と新設の第2軍を指揮することになり、豪北から西部ニューギニアの広い戦域を担当することとなった。やがてラバウルの第8方面軍の指揮下で悪戦苦闘してきた第18軍と第4航空軍も指揮下に入ったが、敗走続きで多くの戦力を失い疲弊しきった軍は、ダグラス・マッカーサー大将率いる西太平洋連合軍の飛び石作戦に対抗できなくなっていた。阿南は要衝のウェワクを防衛するため第18軍主力に移動を命じたが、悪路で輸送手段もない第18軍が苦労して移動している途中に、マッカーサー率いる連合軍はウェワクを飛び越して、良好な港湾があり日本軍の補給基地となっていたホーランジアと日本軍の飛行場があるアイタペに上陸して占領してしまった[77]。
阿南はホーランジアの奪還を主張し、サルミにあった第36師団主力を奪還作戦に投入しようとしたが、大本営や南方軍に制止された。阿南は度々ニューギニア戦線で全力を集中した反撃作戦を提案したが、そのたびに大本営から「消耗戦にひきずりこまれる」と制止され続けて「戦闘に勝てなくて、戦略に勝てるはずがない。いわんや戦争をや」と歯がしみすることとなった[78]。第2方面軍は1944年4月15日に大本営直轄から南方軍の指揮下に入り、阿南の作戦指揮はさらに制約を受けることとなった。
やがて連合軍はきたるマリアナ諸島攻略支援のためニューギニア西部のビアク島攻略を決めた。ビアク島には日本軍が設営した飛行場があり、マリアナ攻略の航空支援基地として重要と見られていた。阿南も、常々「ビアク島は空母10隻に値する」と主張しており、自らビアク島の地形を確認して、地の利を活かした陣地構築の指示を行っている[79]。1944年5月27日に第6軍 司令官ウォルター・クルーガー中将率いる大部隊がビアク島に上陸しビアク島の戦いが始まった。阿南の指示によって、巧みに海岸を見下ろす台地に構築された洞窟陣地は、連合軍支援艦隊の艦砲射撃にも耐えて、上陸部隊に集中砲火を浴びせて大損害を被らせた[42]。その後、ビアク守備隊支隊長の歩兵第222連隊長葛目直幸大佐は[80]、上陸部隊をさらに内陸に引き込んで、巧みに構築した陣地で迎え撃つこととした[77]。第41歩兵師団師団長ホレース・フラー少将は日本軍の作戦を見抜いて、慎重に進撃することとしたが、マリアナ作戦が迫っているのに、ビアク島の攻略が遅遅として進まないことで海軍に対して恥をかくと考えたマッカーサーはクルーガーを通じてフラーを急かした[81]。
阿南はビアク島が攻撃を受けたときの増援として、前々から計画していた海上機動第2旅団のビアク島への海上輸送を海軍に要請、海軍もビアク島の価値を認めて、6月2日に左近允尚正少将率いる輸送艦隊と護衛艦隊からなる渾部隊でビアク島に増援を送る渾作戦が開始された。日本艦隊の接近を知ったマッカーサーは、既に空母15隻を基幹とする機動部隊はマリアナに向かっていたため、手元にあった重巡洋艦が主力の艦隊で迎え撃つこととしたが、連合艦隊司令部は、渾部隊がB-24に発見され追尾されていたことで航空攻撃を懸念したこと、また出撃してきた連合軍艦隊をアメリカ海軍の空母機動部隊と誤認したことで、6月3日夜に作戦を中止して渾部隊にソロンへ向かうよう命じた。 作戦の順調な進行を聞いて成功を疑わなかった阿南はまさかの作戦中止の報告を受けると激昂して「渾作戦中止は3日11時頃B24に発見されし為と」「煮湯を呑まされし感あり」とその日の日記に記述している[82]。
その後も阿南の求めで渾作戦は継続されたが、規模を縮小されたあげく輸送に失敗し、最後はマリアナに接近するアメリカ軍機動部隊を発見した連合艦隊があ号作戦の好機と考えて渾作戦を中止した。阿南は海軍から渾作戦中止の連絡を受けると「統帥乱れて麻の如し」と憤慨したが、最終的には「大局的にやむを得ない」と諦めて、独力でビアク島を救援しようと一個大隊を増援に送っている[83]。ビアク島守備隊は満足な支援も受けられない中で、指揮官の葛目の巧みな作戦指揮もあって敢闘、クルーガーの命で早期攻略のため、日本軍陣地を正面攻撃していた上陸部隊に痛撃を与えて長い期間足止めし、ついに6月14日、苦戦を続けるフラーは、マッカーサーの意を受けたクルーガーから上陸部隊司令官と第41歩兵師団師団長まで解任されることとなった[84]。アメリカ軍がビアク島の飛行場を全て利用できるようになったのは8月に入ってからであり、マリアナ沖海戦に間に合わせることはできなかった。しかし、ビアク守備隊敢闘の甲斐なく、マリアナ沖海戦は日本軍の完敗に終わった[85]。阿南はビアク守備隊指揮官葛目の戦死の報告を受けると「惜みても余りあり。真実ならん」「謹みて非凡なる奮闘勇戦を感謝し、冥福を祈る」と日記に書いている[86]。
その後マリアナも奪われ、9月15日には、セレベス島マナドに前進していた第2方面軍司令部の目と鼻の先にあるモロタイ島にもマッカーサー率いる連合軍が侵攻しモロタイ島の戦いが始まった。この戦域を護る第32師団の主力はハルマヘラ島にあり、モロタイ島には1個大隊程度の戦力しか置いておらず、たちまち島の主要部は占領され、天然の良港と急遽整備した飛行場によって連合軍レイテ作戦の前線基地となった。阿南はたびたびハルマヘラ島から逆上陸部隊を送り込んで、モロタイ島基地の使用妨害を行ったが、戦況に大きな影響はなく[87]、マッカーサーはレイテ島に上陸し、戦局の中心はフィリピンに移った。阿南らが護る西部ニューギニアや豪北方面は中央から見捨てられて、局地的な戦闘が続いているが、戦局の挽回などは全く望めないような状況となっていった[88]。
阿南は、海上輸送路が断絶して補給が滞るなかで、前線の将兵の栄養状況を少しでも改善しようと、現地の植物や魚介類の加工を研究させたりと努力をしていたが、前線の飢餓や疫病は阿南の努力程度ではどうにもならない状況に陥っており、終戦までに多くの餓死者や病死者を出している[89]。
陸軍航空総監部兼航空本部長
1944年12月航空総監兼航空本部長への異動を命じられた。レイテ島を攻略した連合軍はミンドロ島を皮切りにフィリピン全体の制圧を目指しており、大本営には、阿南に豪北、ボルネオ、南部フィリピンを一元統帥させ連合軍に対抗させる案もあり、阿南もこの地で軍司令官として玉砕する覚悟であったため、この日の阿南の日記には「若者多数を失い、生きて再び皇土を踏むの面目なしと迄覚悟までした身」と無念を滲ませた記述をしている。しかし、阿南の信念は、「死ぬことだけでは義務を果たしたことにはならない、生きていられるだけ生きて戦力になれ」であって、部下にも常々言って聞かせており、戦死した部下将兵に殉じたいとする気持ちを抑えて東京に向かった[90]。
この頃には、戦局の悪化に伴って阿南陸軍大臣待望論が強まっており、ダバオで阿南と面談した三笠宮崇仁親王は「阿南は人格高潔、部下は心服し、海軍との関係も良い、阿南が南方第一線を指揮することはもっとも必要であるが、陸軍大臣として活動してもらうことはそれ以上必要である」と帰国後に東久邇宮稔彦王に進言しているなど[91]、この異動は阿南の陸軍大臣就任を見据えて、陸軍中央が外地から呼び戻したという意味合いが大きかった[92]。阿南の耳にも陸軍大臣待望論は聞こえていたが、「予を陸相に擬するもの多きも、重要作戦任務を拝命して任を尽くさず。豈何ぞ甘受し得んや。勿論其の器にあらざるを自ら識る」と日記に記しているなど否定的であった[93]。
阿南は東京に帰る途中で、ルソン島に寄って、第14方面軍司令官としてフィリピンで悪戦苦闘する同期で親しい山下を激励したいと願ったが、サイゴンで、フィリピンの戦況に詳しい南方軍総参謀長沼田多稼蔵中将より現状を聞かされて、ルソン島行きを断念した。結局、この後も阿南と山下が再会することはなかった[94]。
阿南が着任して間もなくに硫黄島の戦いが始まり、いよいよ連合軍が本土に迫ってくることとなった。フィリピンでの「万朶隊」と「富嶽隊」を皮切りに陸軍航空隊でも、既に特別攻撃隊が多数出撃している状況であったが、阿南自身は「特別攻撃は決死隊であっても、生還の道は講じるべきである。敵艦への航空特攻のように、死によってのみ任務遂行できる出撃を命じるのは、上官としてあまりに武士の情にかける」と考えて、航空特攻には批判的であった[95]。しかし、大本営の方針は天号作戦として、本土付近に侵攻してくる連合軍に対して、航空攻撃で大出血を強いるという計画を決定、その主戦術は特攻とされており、阿南は否が応でも特攻に関わっていくこととなる[96]。
天号作戦においては、どうしても陸海軍航空戦力を総合的に運用する必要があった[97]。しかし沖縄で決戦をしようと計画する海軍に対して、一定の戦力を拘置し本土決戦を重視する陸軍の方針は相違しており、海軍の中には陸軍航空を海軍の指揮下に入れ、陸海軍統合戦力として決戦するべきという意見が強く、陸軍内でも同調する意見もあった[98]。しかし、このような重要な提議をするためには航空総監である阿南の諒解が必要であり、陸軍航空の海軍指揮下編入に同意していた参謀本部第1作戦部長宮崎周一中将は、気兼ねしながら阿南に申し出た。阿南は第2方面軍司令官の際には何回も海軍に煮え湯を飲まされており、私怨もあって簡単には同意しないものと思われたが、気兼ねしている宮崎に対してあっさりと笑顔で「結構ですよ」「喜んで豊田大将(連合艦隊司令長官豊田副武)の指揮をうけましょう」「すぐにでも日吉台に挨拶に行ってよい」と答えて宮崎を安心させている[99]。
阿南は陸軍の本土決戦のための戦力温存策には反対であり、特攻には批判的ながら「本土決戦ばかり考えず、航空戦力すべてを挙げて沖縄の敵を叩くべきだ」「俺も最後には特攻隊員として敵艦に突入する覚悟だ」と梅津美治郎参謀総長に詰め寄っている[100]。特攻隊員の出征を見送る際には熱涙を注ぎ、ことあるごとに「富士山を目標として来攻する敵機群の横っ腹に向かって自ら最後には突入する」と周囲に公言もしていた[76]。阿南の熱意もあって、陸軍航空隊の第6航空軍は海軍の連合艦隊の指揮下で統一した作戦行動をとることとなったが、沖縄戦の海軍特攻を指揮した第5航空艦隊と第6航空軍は、連合艦隊の指揮下であくまでも並立の扱いであって、形式的な陸海軍協同作戦の域を脱することはなく、また海軍の第5航空艦隊司令部が鹿屋基地と最前線にあったのに対して、陸軍の第6航空軍司令部は後方の福岡市にあって連携も不十分であり、阿南の理想通りの陸海軍統一作戦とはならなかった[101]。
陸軍大臣
鈴木貫太郎内閣組閣
太平洋戦争(大東亜戦争)の敗戦が自明なものとなっていた1945年(昭和20年)4月、枢密院議長の鈴木貫太郎(元侍従長、元海軍軍令部長、元連合艦隊司令長官)に大命降下された。
前政権の小磯内閣の最末期、本土決戦へ向けた第1総軍新設に際して、三長官会議が小磯國昭首相に無断で杉山元・陸相をその総司令官として閣外に転出させ、阿南を後任の陸相とすることを決定したことに対し、予備役陸軍大将の小磯首相が現役復帰による陸相兼任を要求して容れられず、内閣総辞職となった経緯がある。もはや、かかる難局で陸軍大臣の任を全うできるのは、上下に人望の厚い阿南の他になく、杉山ら陸軍首脳が阿南を外地から呼び戻していたのも、次期陸軍大臣を予定してのことであった[92]。
しかし、阿南自身は「自分は空中で討死する。絶対に大臣などはお断りする」と陸軍内の阿南を陸軍大臣に推す動きに拒否感を示していた。陸軍人事局長の額田は、阿南の強硬な拒否で、第15方面軍司令官兼中部軍管区司令官河辺正三大将などを陸軍大臣に推す動きがあっていることに危機感を覚えて、かつての上司であった阿南に「かねてより心中反対であった特攻隊を次々と送り出されている心情はよくわかります」「しかし、自ら飛行機に乗って来攻する敵機の中に突入されるよりも、この重大局面に際し身を挺して大臣をお受けするのが真の忠節ではありませんか」と説得している[102]。
内閣総理大臣に就任した鈴木が組閣にあたって真っ先に訪れたのは陸軍であった。鈴木は前陸軍大臣杉山元元帥に対し単刀直入に「阿南惟幾大将を入閣させてほしい」と申し出た。そこで杉山は三長官会議で協議し、阿南を入閣させるため以下の3つの条件を提示した[103]。
- 飽くまでも大東亜戦争を完遂すること
- 勉めて陸海軍一体化の実現を期し得る内閣を組織すること
- 本土決戦必勝の為、陸軍の企図する施策を具体的に躊躇なく実行すること
鈴木はこの条件を快諾した。陸軍は「鈴木首相はピエトロ・バドリオだ」となどと、鈴木がイタリア王国のバドリオ政権による無条件降伏のように終戦を画策していると警戒していたので、そのような内閣に陸軍が誇る阿南を出すわけにはいかないし、出せば強硬派の青年将校らが納得しないと考えてこのような条件を提示したものであった[104]。杉山はあまりにあっさりと鈴木が快諾したことに拍子抜けし、わざわざ聞き直したほどであったが、鈴木は「大丈夫だ」と再度応諾している[105]。
鈴木が阿南を指名したのは、侍従長時代に侍従武官であった阿南の昭和天皇に対する忠誠心と誠実な人柄を知って信頼していたこと。また、鈴木は大命降下の際に、昭和天皇が戦争終結を望まれていることを感得し、「速やかに大局の決した戦争を終結して国民大衆に無用の苦しみを与えることなく、またこれ以上の犠牲を出すことのなきよう、和の機会を掴む」との方針を心中深くに秘めていたが、阿南であれば、昭和天皇のご意志を理解し、それを至上のものとして奉仕してくれると確信していたことと、和平の課程で暴発する懸念もある陸軍を最後までまとめることができる力量をもっているのは阿南しかいないと評価していたことによると推測されているが、鈴木自身は阿南を推した理由について書き残していないので、真相は不明である[106]。
鈴木はその足で阿南と面談し、陸軍大臣就任を直接要請した。これまでは陸軍大臣就任に難色を示していた阿南であったが、敬愛していた鈴木の要請を断ることはなくその場で快諾している。陸軍が出していた3条件について、阿南自身はこれらが実現困難なことはわかっており、むしろ機を見て有利な終戦をはかるべきと考え、かつて第2方面軍司令官時代に当時の外務大臣であった重光葵に終戦の建議を行ったこともあった[103]。陸軍大臣拝命時の阿南の考えについては、陸軍次官として阿南を補佐した若松只一中将によれば、「阿南の悲願は絶対国体護持で、鈴木の和平方針に異存はなかったが、敵に一大打撃を与えて、国体護持の安心を得て終戦に導く」というものであったという[107]。
鈴木はさらに、「早期講和」のため、首相の東條と衝突して外務大臣を辞任していた和平派の東郷茂徳を「戦争の見透かしはあなたの考え通りで結構であるし、外交はすべてあなたの考えで動かしてほしいと」と三顧の礼で外務大臣として迎えている。また下村宏内閣情報局総裁のように「終戦のために就任する。そのためには殺されてもよい」という覚悟で拝命した者もいて、心中密かに終戦の決意を秘めた閣僚を内在する内閣となった[108]。
阿南は陸軍大臣に着任すると、しばしば局長や課長らを集めて会食を行い、忌憚のない意見を聴取した。局長らは何でも思うところを直接大臣に意見できるため、そのせいもあって、物忘れが激しくなっていた杉山前大臣のときより[102]、陸軍省内の空気はかなり改善されて、阿南への信頼が高まっていった[109]。
和平工作
鈴木内閣発足前後には、政府内外で和平派による活動が活発となっていた。近衛上奏文による終戦策を進めていた外交官吉田茂(元駐英大使)が阿南の陸軍大臣就任直後の4月15日に憲兵隊に拘束された。阿南は親交のあった吉田の拘束を聞くと、自らの立場は抗戦派であったのにも関わらず、陸軍人事局以来の部下で信頼の厚かった軍事課長荒尾興功大佐を呼び「すぐに釈放せよ」と命じている。しかし、憲兵隊はすぐに吉田を釈放することなく、特に近衛文麿との関係について厳しい尋問を行ったが、吉田の拘置所内の待遇については、独房で差し入れ自由という恵まれたもので、阿南の配慮があったものとされている。吉田が黙秘を貫いたため、仮釈放は40日あまり後となった。釈放のさいに島田法務中将から「陸軍内で起訴にするか、不起訴にするか大分問題になったが、最後に阿南閣下の裁断で不起訴になった」と告げられたとしている[110]。この事件は、上層部の和平の動きに一撃を加えて、陸軍の不退転の決意を示そうとした兵務局の抗戦派将校らが憲兵を使って吉田を逮捕させて東部軍軍法会議に送ったというのが真相であるが、阿南はこの起訴を画策した兵務局の強硬派などの一部の反対を押し切って、吉田を微罪釈放と決定している[111]。
しかし、まだ政府内で終戦に関する議論は進んでおらず、東西から激しく攻め込まれているナチス・ドイツの命運を固唾を呑んで見守っている状況であった。ベルリンにソ連赤軍が突入してベルリンの戦いが始まり、4月22日には開設以来100年間稼働し続けていたベルリン電報局が沈黙したが、最後に受け取った電報が日本の外務省が打電した「ミナサン、コウウンヲイノル」という激励電報であった[112]。太平洋戦線でも沖縄で激戦が続いており、この時点ではまだ連合軍に一撃を加えることを期待していた鈴木が、4月26日には首相官邸に阿南ら陸海軍首脳部を召集し、沖縄戦について「今は何があっても沖縄の作戦を成功させる」「沖縄の戦さに勝ってこそ外交政策も有効に行われるというものです」と檄を飛ばしている[113]。昭和天皇も梅津美治郎参謀総長に対し「(沖縄戦が)不利になれば今後の戦局憂ふべきものあり、現地軍は何故攻勢に出ぬか」と持久作戦をとる第32軍司令官牛島満中将に、攻勢を指示するように促している[114]。
5月2日にはついにナチス・ドイツが降伏した。日本政府にとってナチス・ドイツの降伏は織り込み済みとは言え、世界の孤児となった窮状を挽回する妙案があるはずもなく“泰然として腰を抜かしている”ような状況であった[115]。5月8日の閣議においては、「あまりにドイツに引きずられ、振り回された」「ドイツに対する態度が甘すぎた」などの意見が出され、なかには、三国軍事同盟締結の責任問題とか、奉天で軍を止めた日露戦争のように、シンガポールや南京で軍を止めれば有利な和平の機会もあったなどと愚痴のような意見もあったというが、結局決まったのは「国内動揺の抑制」「日独協定の破棄」「反戦和平の機運を高めるような報道の規制」など後ろ向きなもので[116]、5月9日には「帝國と盟を一にせる独逸の降伏は帝國の衷心より遺憾とするところなり、帝國の戦争目的はもとよりその自存と自衛とに存す、是れ帝國の不動の信念にして歐州戦局の急変は帝國の戦争目的に寸毫の変化を与えるものに非ず、帝國は東亜の盟邦と共に東亜を自己の慾意と暴力との下に蹂躙せんとする米英の非望に対しあくまでも之を破摧しもつて東亜の安定を確保せんことを期す」とする戦争遂行の政府声明を出している[117]。
沖縄戦においては、5月3日から開始された第32軍による総攻撃が失敗して戦況は悪化の一途をたどり、沖縄での一撃に期待をしていた昭和天皇の意思は次第に早期の和平に傾いており、内大臣木戸幸一に、「鈴木は講和の条件などについては弱い。木戸はどう考えるか。軍の武装解除については、何とか3,000人とか5,000人の軍隊を残せるよう話ができないものだろうか」と尋ねている。沖縄で勝機を掴んで和平へ、と常日頃主張し続ける鈴木の態度に苛立ちをつのらせての発言と思われたが、木戸もまだこの時点では早期の和平は考えておらず「和平とはまだ決まっておりません」と回答すると昭和天皇は黙ったままであった[118]。
追い詰められた軍部の最大の懸念事項はソビエト連邦(以下ソ連)の対日参戦であり、外務大臣東郷に参戦防止を目的とした対ソ工作を要求した。このため5月11日、12日、14日の3日に渡って最高戦争指導会議が開催された。東郷はこの機会に軍部の抵抗が強いアメリカとの直接交渉ではなく、ソ連を仲介とする和平交渉を進めることを決意し[119]、会議では、ソ連の参戦防止のほか、戦争の終結に関して日本に有利な条件となるよう、ソビエト連邦にアメリカやイギリスとの講和交渉の仲介を依頼することも協議された[117]。しかし、軍部は国際感覚に乏しく、海軍大臣の米内光政などは「海軍としては、ソ連の参戦防止のほか、できればソ連の好意的態度を誘い、石油などの戦略物資を購入できればと希望する」と荒唐無稽なことを要望している。東郷は「ソ連を軍事的経済的に利用する余地などあろうはずもない。実状を知らないにも程がある。事態はもう手遅れで、現在の日本の状況では終戦そのものの手段を検討すべきである」と軍部の現状認識の甘さを指摘している[119]。既に海軍は外務省にも内密で、独自に戦略物資と航空機の購入をソ連に要請しており、日本側から支払う代金の代わりとして、戦艦長門、空母鳳翔、重巡洋艦利根、駆逐艦数隻をソ連側に引き渡すこととし、米内の命で軍務局第2課長末沢慶正大佐が在京ソ連大使館と接触したが、ソ連側はまともに取り合わず、末沢がウォッカを振る舞われただけであった[120]。
阿南も、講和条件についての協議で「講和条件の協議は現在の戦況に基づいて決定すべきである」「日本は、敵軍に占領されている日本領土より遙かに広大な敵の領域を占領している」と強気な発言を行い、東郷に「講和条件は、現在の戦況だけでなく、合理的に予見できる将来の戦況も考えて割り出すべきだ」とたしなめられている[121]。それでも、ほかに手段のない日本政府は、米内の提案で条件については棚上げとしたままで、ますはソ連を講和の仲介役に引き込むことが決定された[117]。しかし東郷は、ソ連との交渉は厳しいと考えており、独自に「南樺太の割譲」「満州鉄道の譲渡」「千島列島北部の割譲」「津軽海峡の開放」などの手土産となる条件を準備して交渉しようと考えていた[122]。ソ連との交渉は佐藤尚武駐ソビエト連邦大使に託されていたが、ヤルタ会談によって既に対日参戦を決定していたソ連にあしらわれて、佐藤は6月9日に「日ソ友好強化は絶望的」と報告している。この後も外交努力が続けられたが、ソ連の引き延ばし策もあって実を結ぶことはなかった[123]。
一撃講和
会議後の5月18日、阿南は前線の士気を鼓舞するため九州まで飛び、天号作戦遂行中の前線基地である鹿屋基地と知覧基地を視察した。鹿屋では海軍第五航空艦隊司令の宇垣纏中将が出迎えたが、ビアク島の戦いの際に渾作戦を独断で中止し、阿南に煮え湯を呑ませたのが当時の第一戦隊司令官の宇垣であった。しかし、阿南が陸軍次官をしていたとき、軍令部第1部長であった宇垣とはよく会食するなど懇意にしており、この日も阿南はかつての私怨を持ち込むことはなく、海軍大臣の米内が一度も視察にこないのに陸軍大臣がわざわざ来てくれたと喜んで大歓迎した海軍側の厚意にこたえて、阿南は海軍の特攻隊員を激励し、夜には水交社で宇垣らと会食している[124]。
翌5月19日に第6航空軍司令部のある福岡に飛び、司令官の菅原道大中将と面談。菅原は空挺特攻隊である「義烈空挺隊」の使用を再三再四、参謀本部に陳情してきたが、そのたびに拒否されてきたので、参謀本部を飛び越えて阿南に直談判しようと待ち構えていたが、阿南と面談する直前に参謀本部から「義号作戦認可せらる」との作戦許可の電文が届いている[125]。阿南が東京に帰京したのちの5月24日、「義烈空挺隊」による沖縄の連合軍基地への空挺特攻作戦「義号作戦」が行われ、沖縄の連合軍飛行場に相当の打撃を与えた[126]。
5月24日と5月25日の2日に渡って、合計1,000機以上にもなるB-29による東京への最大級の空襲が行われた。日本軍は前回の3月10日の東京大空襲の反省もあって、住民の避難と激しい迎撃を行い、死傷者は大きく減少、B-29を2日で43機撃墜し169機撃破したが[127][128]、東京の市街地はほぼ灰燼に帰した。5月25日には、今までアメリカ軍が意図的に攻撃を控えてきた皇居の半蔵門に焼夷弾を誤爆してしまい、門と衛兵舎を破壊した。焼夷弾による火災は明治宮殿表宮殿から奥宮殿に延焼し、消防隊だけでは消火困難であったので、近衛師団も消火にあたったが火の勢いは弱まらず、皇居内の建物の28,520㎡のうち18,239㎡を焼失して4時間後にようやく鎮火した。御文庫附属庫に避難していた昭和天皇と香淳皇后は無事であったが、宮内省の職員ら34名と近衛師団の兵士21名が死亡した。首相官邸も焼失し、鈴木は防空壕に避難したが、防空壕から皇居が炎上しているのを確認すると、防空壕の屋根に登って、涙をぬぐいながら炎上する皇居を拝している[129]。また、陸軍大臣官邸も焼失したが[130]、阿南は燃える官邸を背にして炎上する宮城に向かって最敬礼を続けていたという[131]。5月28日に阿南は皇居炎上の責任をとるため鈴木に辞表を提出した。鈴木は懸命に慰留したが、阿南の意志は固かったのでやむなく辞表をもって参内したが、昭和天皇より「陸軍大臣の微衷はわかるが、今や国家存亡のときである。現職に留まって補弼の誠を尽くすよう伝えよ」との慰留があったので、阿南はやむなく辞表を撤回した[132]。
この頃になると同じ軍部でも、陸軍の阿南と海軍の米内の方針の相違が如実になってきた。軍部まで二つに割れてはいよいよどん詰りになると懸念した情報局総裁の下村は、鈴木と介添役となって、5月31日に首相官邸にて阿南と米内を中心とした6相懇談会を開催した[122]。案の定、会議は阿南と米内の激しい論争となり、阿南が「敵を本土に引きつけて一撃を加えた後に有利な条件で講和すべき」という一撃講和論を主張したのに対して、米内は「その1戦の勝算の見込みなく、全面降伏は必然であり、一日も速やかに講和に入るべき」とする即時講和論を互いに主張して譲らなかった。阿南はさらに「このままで講和を求めれば大幅譲歩を必要とするため、国民を納得させられないばかりではなく、陸軍の中堅層を制御するのも不可能であり、何としてもここでもうひと踏ん張りは必要である」と主張すると、米内は「もう踏ん張りはきかない、やがては国体護持さえできない結果となる」と反論するなど、3時間余りの議論が行われたが、全く両者に歩み寄る気配はなかった。この互いの主張は大きく変わることがなく、この後も激しい議論が繰り返されることとなった[133]。
6月9日、鈴木による帝国議会衆議院及び貴族院両院の本会議での演説の内容に対して、2日後の衆議院戦時緊急措置法案(政府提出)委員会で小山亮からなされた質問と鈴木の答弁(天罰発言事件)により、一部議員による倒閣運動が激化した。これにより、米内は言葉狩りに明け暮れる議会に呆れて、それに対する捨て鉢な鈴木の態度にも立腹し辞意を固めた。ここで、米内が辞職すれば閣内不一致で総辞職しなければならなくなるため、ほかの閣僚たちは青ざめたが、連日米内と激しい議論を繰り返してきた阿南が最も熱意を持って慰留に動き、辞意を思いとどまらせるため、自ら手紙をしたためた。米内は阿南の手紙を読むと「陸相がこうまでいってくれるのか」嬉しそうにつぶやくと、米内から見れば箍が緩んでいるように見える鈴木が、ネジを巻き直すことを条件に辞意を撤回した[134]。ここで阿南が米内を説得しなければ辞職はほぼ確実で、阿南に反対する有力な閣僚はいなくなるため、なぜ阿南が米内を説得したかの真意は不明であるが[135]、後日阿南は「どう考えても国を救うのはこの鈴木内閣だと思う」という発言もしており、鈴木内閣を最後まで支えようと決心していたものと推測される[136]。
天罰発言事件で国会や内閣が揺れていた頃、昭和天皇は日頃の心労と激務で体調を崩していた。6月8日の御前会議で決定した「今後採ルヘキ戦争指導ノ基本大綱」は、本土決戦で敵に大出血を強いて継戦意志を動揺させて、戦争目的である国体護持をはかるというもので「飽ク迄戦争ヲ完遂」するとの陸軍側の強い主張が反映されていた。しかしその拠り所は「七生尽忠ノ信念」や「地ノ利人ノ和」などという抽象的なものであり[137]、これを見た昭和天皇は会議終了後に、「こういうことが決まったよ」と木戸幸一内大臣に御前会議での決定内容を示している。これは異例なことであり、木戸は昭和天皇が「えらい強いのが出てきたよ」「困ったことになった」と言っていると受け取った[138]。昭和天皇は17貫目あった体重が15貫目を割り込む(約8kgの減)など、傍目からもやつれている様子は明らかで[139]、木戸は昭和天皇の様子を見て、時局収拾の試案作成に着手した。その試案によれば、天皇の親書を携えた特使をソ連に送り、対アメリカ、イギリスとの仲介を依頼するというもので、木戸は出来上がった試案を昭和天皇に言上すると、昭和天皇は政務室のソファーでタイプされた木戸試案を熱心に読んだのち、とくに質問することもなく[140]「ひとつ、やってみろ」と許可した[123]。
昭和天皇は翌6月9日に、中国大陸の視察から帰ってきた参謀総長梅津から、「在満州と在中国の戦力は、アメリカ陸軍師団に換算して4個師団程度の戦力しかなく、弾薬も近代戦であれば1会戦分ぐらいしかない」という報告を受けた。この報告で昭和天皇は「日本内地の部隊は在満部隊より遙かに戦力が劣ると効いているのに、在満部隊がその程度の戦力であれば、統帥部のいう本土決戦など成らぬではないか」と認識、さらに6月12日には海軍の軍事参議官長谷川清大将から「海軍は兵器も人員も底をついている」「動員計画も行き当たりばったりの杜撰なもの」「機動力は空襲のたびに悪化減退し、戦争遂行能力は日に日に失われている」という報告も受けて、今までの事実認識が大きく崩れて、「本土決戦の戦勝による有利な講和」は幻影に過ぎないことを認識させられている[141]。昭和天皇はこれで心身が打ちのめされて、この日と翌15日は体調不良で寝込んでしまった[123]。
昭和天皇が体調を崩している間も、木戸は精力的に動いて、6月13日にこの試案を米内に説明した。米内は高木惣吉少将を用いて海軍独自で終戦に向けての工作をしていたが、木戸試案を聞くとそのことには触れず「首相がまだ強気だから」と鈴木の強硬姿勢を危惧しながらも木戸の試案に賛同した[142]。木戸は次に鈴木と面談し木戸試案を説明したが、鈴木は8月には日本陸海軍の戦力ががた落ちすると考えており、木戸は「それならば皇室のご安泰、国体護持のため、戦争終結に進みましょう」と賛同を求め、鈴木も「当然、私もその覚悟です。それ以外にない」と賛同した[143]。鈴木は米内の方が強硬な態度と思い込んでおり、木戸から米内が木戸試案に賛同したと聞かされると「実は自分は米内の方がまだなかなか強いと思ってましたが、そうですか」と苦笑している[144]。6月15日には沖縄戦の大勢も決しており、阿南は鈴木らと一緒に必勝祈願のため伊勢神宮を参拝している。鈴木はこの日の記者会見で「本土決戦こそ絶好の勝機」「沖縄が天王山などとは考えていない。元寇のときの壱岐・対馬をとられたのと同じことで、これから本土で、九州で戦う」という発言を行って、あくまでも表面上は、沖縄陥落後の本土決戦への意気込みを披露するなど、木戸との講和に向けての深謀を周囲に気取られないようにしている[145]。
木戸は伊勢神宮から帰ってきた阿南と6月18日に面談して自分の試案を説明した[123]。阿南は木戸が辞任を考えていると聞いており、開口一番に「辞めたらいけない」と慰留してきたので、木戸はそのときすかさず「いや、わたしがいおうとしていることを聞いたら、あんたはわたしに内大臣を辞めろと言うかも知れない」と前置きしてから、「阿南君、あんたいったい戦争をどう思ってる。もう本当にいかんのではないか」[146]「我々はいまこそ戦局の収拾について、果断な手を打つ必要がある」とタイプされた木戸試案を見せながら説いた。暫く黙って聞いていた阿南は顔をほころばせながら「木戸さん、あなたの今の地位からいって、今言われたことを考えるのは至極当然だと思うのです」「しかし我々軍人は本土決戦において敵に一大打撃を与えてから和平を交渉すべきだ、と考えているだけなのです。その方が日本にとって有利な条件で和平が結べると信じるのです」と答えている。木戸がさらに「本土決戦は結局は一億国民玉砕しか道がなく、そうすれば国体の護持どころではない」「お上は、戦争を終末まで続けるのは無駄なことだと考えられ、憂慮している」と昭和天皇の想いを説くと[147]、天皇に忠誠な阿南は言葉を失った[123]。最後に木戸は「いっぺんたたいても、アメリカは2回、3回と来るだけの力を持っている」「その前にやらねばいけないから、とにかく考えてくれ」と木戸試案の検討を促すと、阿南も「それはわかっている。なんとか考えよう」と同意した[148]。
6月22日、最高戦争指導会議構成員6名による御前会議が開催され、昭和天皇は会議の冒頭に「戦争の終結についても、この際従来の観念にとらわれることなく、速に具体的研究をとげ、これを実現するよう努力せよ」と公式には初めて和平の意志を示した[149]。会議ではこの後も昭和天皇が積極的に発言し、梅津が「和平の提唱は内外に及ぼす影響が大きいから、充分に事態を見定めたうえに慎重に措置する必要がある」と意見を述べたのに対して、昭和天皇が「慎重に措置するというのは敵に対しさらに一撃加えた後にというのではあるまいね」と皮肉を込めて尋ねると、梅津は「そういう意味ではありません」と答え、阿南は「とくに申し上げることはありません」と言ったきり黙ってしまった。この会議で、陸軍による「一撃講和論」は昭和天皇によって封じ込められた形となった[150]。天皇が席を立つと、鈴木が「我々が口に出すことをはばからなければいけないようなことを、陛下が素直におっしゃって下さった」「今後は、この6人が集まって十分にその方策をなることにいたしたい」と出席者に同意を求めた。真っ先に阿南が「賛成です」と同意したが、「しかし、これは極秘にしなければなりません。陸軍の若いものは自分たちの考えのみが正しいと思い込んでおります。陛下が終戦の決意を選ばされるのは、側近たちにだまされておるため、としか考えませんから」と率直に現在の陸軍の状況について吐露した。このあと、阿南は昭和天皇の和平への強い意志と、陸軍による徹底抗戦の突き上げのなかで難しいかじ取りを迫られることとなった[151]。
昭和天皇の意を受けて、外務省はソ連の駐日大使ヤコフ・マリクが疎開していた箱根の強羅ホテルに、広田弘毅元首相を交渉に向かわせた。しかし、交渉の進展がなかったため、鈴木は天皇の親書を携えた特使をモスクワに派遣することに決めた[152]。特使の代表には元首相近衛文麿が選ばれて、外務省はソ連大使の佐藤に近衛訪問の許可を得るように命じたが、既に厳しいソ連との交渉を行ってきて、成果らしい成果を挙げることが出来ていなかった佐藤は、ソ連との外交交渉は「降伏による終戦以外にとる道なし」との進言を打電しており、今回も無理を確信しながらソ連側に打診している。この日本側の打診がソビエト連邦共産党書記長ヨシフ・スターリンに報告されたのが、スターリンがポツダム会談のためベルリン郊外のポツダムに向かった後であり、ソ連側は時間稼ぎのため引き延ばした上で、7月18日にはぐらかした回答をしているが、日本側がこの事情を知るよしもなかった[153]。
ポツダム宣言
ナチス・ドイツ降伏後の1945年7月17日からベルリン郊外ポツダムにおいて、イギリスの首相ウィンストン・チャーチルおよびクレメント・アトリー[注 2]、アメリカ合衆国大統領ハリー・S・トルーマン、スターリンが集まり、第二次世界大戦の戦後処理についての会議であるポツダム会談が開催された。その会談の期間中の7月26日にポツダム宣言が米英と中華民国国民政府主席・蒋介石による共同声明として発表され、日本に伝達された[154]。
ポツダム宣言を伝達された日本政府は対応を協議するため翌27日に最高戦争指導会議と閣議を開催した。阿南は「政府として発表する以上は、断固これに対抗する意見を添え、国民が動揺することないよう、この宣言をどう考えるべきかの方向性を示すべき」と主張し、「和平交渉の道を残しておくため、宣言を拒否しないことが必要」と考えていた外務大臣東郷茂徳と真っ向から対立した[121]。議論の末、一旦は日本政府として方針を示さないが、各新聞にコメント入りで報道させて国民に周知させるという結論となった[155]。
翌28日の新聞では、「笑止、対日降伏条件」、「共同宣言、自惚れを撃破せん、聖戦飽くまで完遂」「白昼夢 錯覚を露呈」などという新聞社による論評が加えられて報じられたが、各社とも扱いは小さく、国民に大きな影響はなかった。しかし、支那派遣軍総司令岡村寧次大将の「ポツダム宣言は滑稽というべし」という意見に代表されるように、阿南は陸軍内部からの反撥もあって、再度「発表する以上は宣言を拒否することを明らかにすべき」と主張、この意見には和平派ながら同じく海軍の突き上げにあっていた米内も賛同した[156]。同日、鈴木貫太郎は記者会見で「共同声明はカイロ会談の焼直しと思う、政府としては重大な価値あるものとは認めず“黙殺”し、我々は戦争完遂に邁進する」と述べ、翌日の29日の新聞各紙で「政府は黙殺」などと報道され、さらに海外では「黙殺」が「reject(拒絶)」と報道された。トルーマンは7月25日の日記に「日本がポツダム宣言を受諾しないことを確信している」と書いているなど、日本が一旦はポツダム宣言を拒絶することを予測しており、日本への原子爆弾投下を合理化する理由ともなった[157]。戦後、鈴木はこの発言を振り返って「この一言は後々に至るまで、余の誠に遺憾と思う点であり・・・」と悔やんでいる[155]。
この報道がなされて以降、日本政府はソ連を通じた和平に期待する無活動な日々が続き、貴重な時間を無駄に費やしていった。そして、日本側のポツダム宣言拒否を大義名分として、アメリカ軍による1945年8月6日の広島への原子爆弾投下が行われ、広島は1発の原子爆弾で壊滅した。翌7日にはトルーマンが「我々は20億ドルを投じて歴史的な賭けを行い、そして勝ったのである」「広島に投下した爆弾は戦争に革命的な変化をあたえる原子爆弾であり、日本が降伏に応じない限り、さらに他の都市にも投下する」という声明を発表した[158]。同日、午後から関係閣僚会議が開催され原爆について協議されたが、阿南は「たとえトルーマンが原子爆弾を投下したと声明しても、それは法螺かも知れぬ」と強く主張した。阿南を含む軍部は、自ら原子爆弾の開発を行ったこともあって薄々は解ってはいながら、原爆を認めて公表すれば軍と国民への士気の影響が大きすぎると考えて、協議の結果、詳細な調査が必要ということになり、大本営発表では原爆ではなく「新型爆弾」とされ、詳細は不明と報じられた[159]。
御前会議
8月9日には和平交渉の仲介役と頼りにしていたソ連が対日参戦し、その知らせを聞いた日本政府が対応を協議するため11時少し前に最高戦争指導会議を開催したが、その直後に長崎市への原子爆弾投下の報告があった。もはや事ここに至っては阿南もポツダム宣言を受諾することに反対することはなかったが、梅津参謀総長と軍令部総長豊田の3名で「国体の護持」「保障占領」「日本自身による武装解除」「日本による戦争犯罪の処分」の4条件を強く主張し、「国体の護持」のみに絞るとする東郷らと激しく対立した[160]。阿南は特に皇室を護ることについて「ソ連は不信の国である。米国は非人道の国である。保証なく皇室を任すことは絶対に出来ない」と強く主張し、東郷からの4条件も呈示して交渉が決裂したらどうするのか?という質問に「一戦を交えるのみ」と答えている[161]。
その一戦について、勝つ自信を米内から問われた阿南は激論を戦わせた[162]。
- 阿南「戦局は5分5分、負けとは見てない」
- 米内「局所局所の武勇伝は別であるがブーゲンビル島の戦い、サイパンの戦い、レイテ島の戦い、ルソン島の戦い、硫黄島の戦い、沖縄戦皆然り、みな負けている」
- 阿南「海戦では負けているが戦争では負けていない。陸海軍で感覚が違う」
- 米内「勝つ見込みがあれば問題ない」
- 阿南「とにかく国体の護持が危険である。条件付きにて国体が護持できるのである。手足もがれては護持できない」
米内は開戦前の重臣会議で述べた「ジリ貧を恐れてドカ貧になることなかれ」という言葉の「ドカ貧」にすでに日本は陥っており、一刻も早く戦争終結をはかるべきと考えていたが、一方の阿南は海軍の艦艇がほぼ壊滅しているのに対して、陸軍は内外地に合計500万人の大兵力を有し、まだ本当の決戦を一度もしていない。本土決戦こそ、その決戦であり、国民もそのときには奮起するという陸軍側の考えを主張しており、2人の主張の隔たりは大きく、激しい議論となっていた[163]。
会議は紛糾し、文部大臣の太田耕造が内閣総辞職すべきという意見を出した。阿南が太田に同調して辞職すれば、鈴木内閣を総辞職に追い込むこともできたが、阿南は太田に同調することはなかった[164]。会議の途中に阿南と梅津に、陸軍中堅幕僚から突き上げを受けた河辺虎四郎参謀本部次長が面談に訪れ、全国に戒厳令を布告し、内閣を倒して軍事政権を樹立するというクーデター計画を進言したが、阿南は拒否した[165]。また、海軍の軍令部次長の大西瀧治郎中将も阿南に面談を申し出ている。大西は海軍大臣の米内の意に反して軍令部総長豊田とともに徹底抗戦の説得活動を行っており、この面談でも「米内は和平ゆえに心許ない。陸軍大臣の奮戦を期待する」と阿南に期待するような発言があっているが、阿南は「承諾したが、海軍大臣の立場もあるので本件は聞かなかったことにしておく」と受け流している[166]。
午後10時に7時間以上も費やして結論がでなかった閣議を鈴木は一旦散会した、そして休憩後に、もう1度最高戦争指導会議を開催して、政戦略の統一をはかることとしたが、その会議は鈴木と内閣書記官長迫水久常の手配で、昭和天皇も出席する御前会議となった。やがて宮中から御前会議開催の知らせを受けた阿南は内閣書記長室にやってきて、迫水を「御前会議を開くというが、これは違式ではないか」と問い詰めた。迫水は御前会議で天皇に発言させる予定であることを隠して「本日の会議は結論を出すという目的ではなく、実情をそのまま陛下に聞いていただくためのもの」と虚偽の回答をしたが、阿南はそれ以上は詮索することなく「そうか、それならよい」と納得して引きあげた[167]。
午後11時50分に開始された御前会議において阿南は「本土決戦は必ずしも敗れたというわけではなく、仮に敗れて1億玉砕しても、世界の歴史に日本民族の名をとどめることができるならそれで本懐ではないか」という意見を述べ、梅津と豊田も賛同した。一方、東郷は終戦やむなきという意見を述べて、米内と平沼騏一郎枢密院議長が賛同した[165]。一通り意見が出た後、深夜2時ごろに鈴木は自分の意見を言うことなく「意見の対立のある以上、甚だ畏れ多いことながら、私が陛下の思召しをお伺いし、聖慮をもって本会議の決定といたしたいと思います」と昭和天皇の意見を求めたため、一同にざわめきが起こった。軍関係者が驚いたのは、阿南が迫水から御前会議の開催目的について虚偽の説明を受けるなど、軍関係者にとって天皇の発言は全くの不意打ちだったからである[168]。昭和天皇は身を乗り出すと「それならば私の意見を言おう。私は外務大臣の意見に同意である」「もちろん忠勇なる軍隊を武装解除し、また、昨日まで忠勤をはげんでくれたものを戦争犯罪人として処罰するのは、情において忍び難いものがある。しかし、今日は忍び難きを忍ばねばならぬときと思う。明治天皇の三国干渉の際のお心持ちをしのび奉り、私は涙をのんで外相案に賛成する」との“聖断”を下した[169]。
聖断が下された御前会議が終了した後、「総理、この決定でよいのですか、約束が違うではないですか」と吉積正雄陸軍省軍務局長が鈴木に激しく詰め寄ったが、阿南はその様子を見て、何も言わずニコニコしている鈴木と吉積の間に割って入り「吉積、もうよい」と言ってたしなめている。また、陸軍出身で阿南とは同期の安井藤治国務大臣が「阿南、ずいぶん苦しかろう。陸軍大臣として君みたいに苦労する人はほかにないな」と慰めたところ、阿南は「自分はどんなことがあっても鈴木総理と最後まで事を共にするよ。どう考えても国を救うのはこの鈴木内閣だと思う」としっかりした口調で語っている[136]。
翌8月10日、阿南は陸軍省各課の高級部員を招集して、難局に対する心構えを訓示した。「自分の微力には重々責任は感じている、だが私は主張すべきことは存分に主張した。諸君はこの阿南を信頼してくれているはずだ。このうえは一体となって、大御心のままに前進しよう」「厳格な軍規のもと、一糸乱れずに行動しよう。国家の危急に際しては、一人の無統制が国の破綻の因になる。光輝ある帝国陸軍の一員であることを忘れるな」といったような、聖断や終戦にはふれずに、陸軍の一致団結を強調した内容であった。阿南が一番恐れていたことは、陸軍の暴発であり、特に敗戦の実感がない150万人の支那派遣軍の動向であって、全陸軍をいかに聖断に従わせるか、阿南は苦心していくこととなった[170]。阿南の真意を知らない一部の青年将校が「国体護持のため、たとえ草を食み、土をかじり、野に伏すとも断じて戦う」という「陸軍大臣布告」を勝手に作成し、阿南の決裁をとらずにマスコミに発表した。慌てた情報局総裁の下村からこの「陸軍大臣布告」を聞かされた阿南であったが、新聞への掲載中止を申し入れてきた下村に対して「いいのです。掲載してやってください。軍人とはそういうものなのです」と掲載を要請している。一途な青年将校を無理に抑え込めば暴発の懸念があると考えての、阿南に現時点でできる精一杯のことであった[171]。
ルソン山中では阿南と同期の第14方面軍司令官山下が、優勢な連合軍相手に苦闘していたが、「楠公精神と時宗の決断とを以って敵を撃砕すべし」との激烈な「陸軍大臣布告」を受けて抗戦の意志を新たにしている。しかし、この「陸軍大臣布告」が阿南に無断で布告されたものとは知る由もなかった[172]。
クーデター計画
ポツダム宣言受諾の方針は決定したものの、伝達された宣言の内容では天皇の地位については不明確であったので、8月10日、日本政府は「天皇統治の大権を変更する要求が含まれていないという了解の下に受諾する」という回答を連合国に通知している。日本側の通知に対して連合国から8月12日に「バーンズ回答」がなされたが、その回答は「降伏の時より、天皇及び日本国政府の国家統治の権限は降伏条項の実施の為其の必要と認むる処置を執る連合軍最高司令官に"subject to"する」というものであった。外務省は"subject to"を「制限の下に置かれる」だと緩めの解釈をしたが、参謀本部はこれを「隷属する」と訳して阿南に伝えた。陸軍の青年将校は国体の護持は危ういと考えて阿南に「ポツダム宣言の受諾を阻止すべきです。もし阻止できなければ、大臣は切腹すべきです」と詰め寄ったが、阿南は口を真一文字に結んだまま何も言わなかったという[173]。
8月12日の夕方、阿南は久々に三鷹市下連雀にあった私邸に帰った。阿南は終戦となれば自決しようと決意しており、家族に別れを告げるための帰宅であったが、家族団らんというわけにもいかず、阿南が帰宅して早々に元外相の松岡洋右が訪問してきた。松岡は陸軍青年将校たちから要請され、徹底抗戦のための自分を首班とする軍事政権樹立の提案をしたが、阿南は拒否している。その後に陸軍省軍務局の青年将校が2人来訪し、阿南にポツダム宣言受諾反対を説いた。阿南は夜中まで青年将校に付き合い、家族と語り合う暇もなかった[174]。翌8月13日未明には護衛をつれた元首相の東條が来訪した。東條が来たときには既に阿南は就寝しており、応対した女中にその旨伝えられると黙って帰った。女中から東條が来たと聞いた妻綾子が慌てて東條を追いかけて、ようやく三鷹駅辺りで追いつき自宅に来るように言ったが、東條は「阿南さんがお休みになっているならよろしいです」と言ってそのまま帰ってしまった。東條は、自分が松岡や青年将校らから担ぎ出されてクーデター計画に賛成していると阿南に誤解されないように、自分は「承詔必謹」[注 3]を貫くと阿南に直接伝え、また全陸軍がそうあるべきであると説きに来たのであるが、東條は帰宅すると家族に「阿南はきっとわかってくれる」と話したという[175]。
阿南は8月13日に参内し、先日の「陸軍大臣布告」について昭和天皇に説明した。昭和天皇は無断で布告を作成した青年将校の処罰を要求したが、阿南としては珍しく「若い将校はあんなものなのです。軍はあれでよいのです」と反論し青年将校を擁護した[176]。このあと阿南は国体護持と天皇の地位存続について懸念を持っていると直接訴えたが、天皇はかすかに笑みを浮かべながら、いつものように阿南に「あなん」と呼びかけると、「心配してくれるのは嬉しいが、もう心配するな、朕には確証がある」と答えている。阿南は天皇の「確証」と言う言葉を聞いても安心することはできなかった[177]。
明確な昭和天皇の意思表示があったにも関わらず、13日朝9時から開始された最高戦争指導会議は紛糾した。阿南と梅津と豊田は、連合国に神聖な天皇の地位は確実に保障されるよう再照会をかけるべきで、場合によっては死中に活を求めて一戦し条件を少しでも有利にすべきとの主張をしたが、東郷は再照会は交渉の決裂を意味すると断固反対し、米内は苛立たしげに「もう決定済みではないか。それをいまさら蒸し返すのは、陛下のご意志に逆らうことになる」と言い放った。両者の話を聞いていた首相の鈴木は「軍部はどうも、回答の言語解釈を際限なく議論することで、政府のせっかくの和平への努力をひっくり返そうとしているように思えます」と阿南らを非難し、阿南は敬愛する鈴木の叱責もあってすっかりと気落ちしてしまった[178]。
最高戦争指導会議では結論は出ず、午後3時から開始された閣議に議論は持ち越された。気落ちしていた阿南であったが、閣議でも「連合国が明確な回答を与えなければ決戦もやむなし」とする再照会を主張し、安倍源基内務大臣と松阪廣政司法大臣は阿南に賛成したが、他の12名の閣僚は東郷の即時受諾論を支持した。一通り全閣僚の意見を聞いた鈴木は「再三再四、回答文を読んだが、アメリカが悪意で書いたものではないことがわかった」「陛下もこの際和平停戦せよとのことであり、よって無条件で受諾すべきである」と自分の意見を述べたのち[179]、「本日の閣議のありのままを申し上げ、明日午後に聖断を仰ぎ奉る所存であります」と再び昭和天皇の聖断に委ねることとした[180]。
陸軍の青年将校がクーデターを計画しているという噂は鈴木の耳にも届いており、阿南が青年将校たちの圧力に屈して陸軍大臣を辞任する懸念もあり、鈴木と東郷は結論を急いでいた[179]。阿南もそのことは察知しており、陸軍は一触即発の状況にあった。阿南は閣議のあと、意を決して総理室に向かい鈴木に面談を申し出た。鈴木は快く迎えたが、阿南が「総理、御前会議をひらくまで、もう2日待っていただけませんか」と要請してきたのに対して、「時期は今です。この機会をはずしてはなりません。どうかあしからず」と毅然として拒絶している。阿南はさらに何か言おうとしたが、諦めたという表情で、慇懃な態度で邪魔したことを詫びて総理室を去った。一緒にいた小林堯太軍医大尉が鈴木に「総理、待てるものなら待ってあげてはどうですか」と言ったが、鈴木は「時機を逸せば、ソビエト軍が北海道まで侵攻してきてドイツのように分割されてしまう」と断った。阿南の心中を察した小林は「阿南さんは死にますね」と言うと、鈴木は眼を伏せながら「うむ、気の毒だが」とつぶやいたという[181]。
陸軍軍務局幕僚を中心とする強硬派青年将校は、11日頃から和平派閣僚を逮捕、近衛師団を用いて宮城を占拠するクーデター計画を練っていた。13日の閣議から帰ってきた阿南は、首謀者の軍事課長荒尾らからこの計画書を見せられたが、ついに来るべきもにが来たという思いで何回も見直した。しかし、計画に賛成とも反対とも言うことはなかった。荒尾らは懸命に阿南を説得しようとしたが、阿南は「天皇の意志に反してはならぬ」として煮え切らない態度に終始したので、なおも荒尾らは熱心に説き、阿南は首謀者のなかに義弟の竹下中佐や、ほかにも井田正孝中佐、椎崎二郎中佐、畑中健二少佐など、日頃から信頼している者が多かったこともあって、最後には譲歩して、参謀総長の梅津とも協議して結論を出すと荒尾らに約束した。しかし、指揮官的な立場の荒尾には「クーデターに訴えては、国民の協力はえられない、本土決戦など至難のことだろう」と真意を漏らしている[182]。
陸軍の強硬派青年将校たちの不満は海軍の米内にも向けられており、「海軍の腰抜けどもを焼き討ちにする」とか「海軍大臣の身辺、安全だと思うな」という脅迫か嫌がらせかわからないような流言が阿南の耳にも届いていた。そこで阿南は東部憲兵隊司令官大谷敬二郎大佐に米内の身辺警護を命じたが、海軍の中では「憲兵の護衛は断れ、あの牧羊犬がいつ狼に化けるかわからない」という申し伝えがあるほど憲兵を信用しておらず、米内はこの申し出を断っている[183]。
聖断
8月14日の夜が明けると、阿南は約束の通り荒尾を連れて梅津に面会に行ったが、梅津は反対を表明し、それが真意であった阿南も大きく頷いた。これによって、荒尾らが練りに練ったクーデター計画は空中楼閣と化してしまった[184]。鈴木の発案による御前会議については、昭和天皇自身もその開催を待ち望んでおり、阿南は午後1時が都合がいいと申し出していたが、昭和天皇はなるべく早く開催せよと鈴木に命じて、午前11時開始となった[185]。昭和天皇は御前会議開催までの間、陸海軍元帥の永野修身、杉山元、畑俊六を呼んで意見を聞いたが、3人とも色々な理由をつけて戦争継続を主張したので、昭和天皇は国際信義を失うなどと3人を諭している[186]。このうち畑については、阿南がわざわざ広島市から呼び寄せたものであって、阿南は畑の説得で昭和天皇の翻意を促すつもりとの噂も流れたが、外の2人が「日本にはまだ敵に一撃を加える力がございます」と答えたのに対して畑だけが「自信がございません」と悲観論を述べている。このため、阿南の意図は噂の逆で、陸軍現役の長老の畑の影響力によって「承詔必謹」の外ないと、陸軍全部隊の意思統一を図ろうとしたという意見もある[187]。
午前11時に開始された御前会議においては、阿南、参謀総長梅津、軍令部総長豊田がこれまでと同様に「このままの条件で受諾するならば、国体の護持はおぼつかなく、是非とも敵側に再照会をすべき」という意見を述べた。一通り意見を聞いた昭和天皇は「外に別段意見なければ私の考えを述べる」と静かに立ち上がり[188][186]、時折、白い手袋で涙を拭いながら「私自身はいかになろうと、国民の生命を助けたいと思う。私が国民に呼び掛けることがよければいつでもマイクの前に立つ。内閣は至急に終戦に関する詔書を用意して欲しい」と述べた。天皇の聖断を聞いていた閣僚らの悲痛な空気はやがて慟哭に変わっていき、椅子からずり落ちる者や、床にくずれて号泣する者や拳を握りしめて耐える者などいた。やがて、鈴木は至急詔書勅案奉仕の旨を拝承し、繰り返し聖断を煩わしたことを謝罪して、昭和天皇は席を立った[186]。阿南は、席を立った昭和天皇にとりすがるようにして慟哭したが、昭和天皇は涙で表情をくもらせながら「あなん、あなん、お前の気持ちはよくわかっている。しかし、私には国体を護れる確信がある」とやさしく説いた[189]。しかし、このとき同席した軍令部総長豊田によれば、この日の阿南は既に死を覚悟していたようであり、冷静に昭和天皇の聖断を受け入れていたと著書に記述している[190]。
その後一同は、首相官邸閣議室において鯨肉と黒パンの質素な昼食をとったが、阿南は昼食をとる間もなく別室で竹下らから陸相辞任による内閣総辞職、さらにクーデター計画「兵力使用第二案」への同意を求められていた。しかし阿南は「最後の御聖断が下ったのだ。悪あがきはするな。軍人たるものは聖断に従うほかない」「ぼくが辞職したところで終戦は確定的だよ」と竹下らに毅然とした態度で言って聞かせた[191]。
阿南はその後に陸軍省に帰ると、陸軍大臣室には、クーデター計画の首謀者らを含む多くの陸軍将校が集まった。阿南は御前会議での昭和天皇の言葉を伝え「国体護持の問題については、本日も陛下は確証ありと仰せられ、また元帥会議でも朕は確証を有すと述べられている」[192]「御聖断は下ったのだ、この上はただただ大御心のままにすすむほかない。陛下がそう仰せられたのも、全陸軍の忠誠に信をおいておられるからにほかならない」[193]、と諄諄と説いて聞かせたが、クーデター計画の首謀者の1人であった井田は納得せず「大臣の決心変更の理由をおうかがいしたい」と尋ねると、阿南は「陛下はこの阿南に対し、お前の気持ちはよくわかる。苦しかろうが我慢してくれと涙を流して申された。自分としてはもはやこれ以上抗戦を主張できなかった」[194]「御聖断は下ったのである。いまはそれに従うばかりである。不服のものは自分の屍を越えていけ」と説いた[195]。
その後に阿南は陸軍高官を陸軍大臣室に招集して陸軍首脳会議を開催した。そこで参謀本部河辺虎四郎参謀次長が発議し、若松陸軍次官が書いた「陸軍ノ方針」である「皇軍ハ飽迄御聖断二従ヒ行動ス」という文書についての協議が行われ、阿南は真っ先に一読すると無言のままで署名した。これで「承詔必謹」は全陸軍の正式な方針として確定した[196]。その後に陸軍課員以上を第一会議室に集めた阿南は「諸官においては、過早の玉砕は任務を解決する道でないことをよく考え、泥を食み、野に伏しても、最後まで皇国護持のために奮闘してもらいたい」と訓示したが、竹下は阿南が「我々」という言葉を使わず、わざわざ「諸官」という言い回しで自分自身を除外していることに気がついて、阿南は自決する覚悟だと悟っている[197]。また、この場でも一部の佐官から抗議の声が上がったが、阿南はその者たちに対して「君等が反抗したいなら先ず阿南を斬ってからやれ、俺の目の黒い間は、一切の妄動は許さん」と大喝している[198]。
時間は不明であるが、この日阿南は陸軍省の道場で剣道範士斎村五郎と面会し、短時間剣道の稽古をしている[199]。阿南は多忙な勤務の中でも、剣道や弓道の稽古を怠ることはなく、特に好きだった剣道については、毎日素振りを欠かさず、人事局長時代には3段であったが、陸軍大臣時には5段まで昇段している。阿南は難問山積で悩みごとも多い中で、剣道や弓道によって精神統一をはかっていた[200]。
終戦の詔書
午後4時から始まった終戦の詔書の審議においては「戦勢日ニ非ニシテ」という原案を「身命を投げ出して戦ってきた将兵が納得しない」として「戦局必スシモ好転セズ」との穏やかな表現にして欲しいと主張したが、海軍大臣の米内が「陸軍大臣はまだ負けてしまったわけではないと言われるが、ここまで来たら、負けたのと同じだ」「ありのままを国民に知らせた方がよいと思うので、私はまやかしの文を入れないで、原案のままがよいと思う」と反論した[201]。それでも阿南は、持ち前の歯切れはいいが粘りのある交渉術で、陸軍将兵の衝撃を少しでも緩和しようと孤軍奮闘し、「まだ最後の勝負はついていないので、ここはやはり“戦局必スシモ好転セズ”の方が相応しいと思う」と主張を譲らず、最後には米内の方が折れて、阿南の修正案に賛同した[202]。阿部と米内の議論を聞いていた内務大臣の安倍は「わたしは阿南さんが、陸軍大臣として最後の務めを果たされた、というふうにうけとり、心に深く印象づけられた」と述べている[203]。
閣僚たちが終戦の詔勅への署名の後、連日の議論で疲労困憊してしばしの休憩をとっていたとき、軍服を正した阿南が東郷にそばに寄ってきて、上半身を15°に折った最敬礼の体勢で「さきほど保障占領及び軍の武装解除について、連合国側に我が方の希望として申し入れる外務省案を拝見しましたが、あの処置はまことに感謝にたえません。ああいう取り扱いをしていただけるのなら、御前会議であれほど強く言う必要はありませんでした」と謝罪してきた。東郷は苦笑しながら「いや、希望として申し入れることは外務省として異存はありません」と答えると、阿南は「いろいろと本当にお世話になりました」とさらに丁重に腰を折って礼をしたので、東郷はあわてて「とにかく無事にすべては終わって、本当によかったと思います」と答えている[204]。
阿南はその後総理大臣室を訪れ、在室した鈴木に「終戦についての議が起こりまして以来、自分は陸軍の意志を代表して、これまでいろいろと強硬な意見ばかりを申し上げましたが、総理に対してご迷惑をおかけしたことと想い、ここに謹んでお詫びを申し上げます。総理をお助するつもりが、かえって対立をきたして、閣僚としてはなはだ至りませんでした。自分の真意は一つ、国体を護持せんとするにあったのでありまして、あえて他意あるものではございません。この点はなにとぞご了解いただくよう」と謝罪した[205]。
総理大臣室には内閣書記官長の迫水もいたが、迫水は阿南が本心では和平を願っていたことを理解しており、今日まで陸軍の暴発を抑えるため、心にもない強硬な意見を言い続けてきた阿南の心情を察して、居ても立ってもいられない気持ちとなり思わずもらい泣きをしている[206]。黙って阿南の話を聞いていた鈴木は、阿南の肩に手をやって「阿南さん、あなたの気持ちはわたくしが一番よく知っているつもりです。たいへんでしたね。長い間本当にありがとうございました」「今上陛下はご歴代まれな祭事にご熱心なお方ですから、きっと神明のご加護があると存じます。だから私は日本の前途に対しては決して悲観はしておりません」と答え、阿南は「わたくしもそう信じております」と同意した[207]。しばらく2人は沈黙のうちに見つめ合っていたが、阿南がこわきに抱えていた新聞紙の包みを取り出して「これは南方第一戦から届けられた葉巻です。私はたしなみませんので、総理に吸っていただきたく持参しました」と言って包みを鈴木の机の端に置くと、敬礼して静かに退出していった。鈴木は迫水に「阿南君は暇乞い(いとまごい)に来たんだね」とつぶやき、迫水は阿南のがっちりとした後ろ姿を見送って、何か熱いものが身体から流れ出していくような感覚におそわれたという[208]。
自決
14日の夜11時すぎにようやく陸軍大臣官邸に戻ってきた阿南は、日中の閣議の前に秘書官の林三郎に準備を指示していた半紙2枚を受け取った。半紙の準備を指示されていた林は阿南が自決を覚悟していることがわかっていたが、何も言わずに阿南に半紙を渡して陸軍大臣官邸を辞去した[209]。
阿南の自決の意志は陸軍大臣官邸に帰宅する前から固まっていたが、その様子は普段と全く変わる様子はなく若松陸軍次官はその様子を「進退堂々、挙惜典雅、悠々迫らずいつも微笑をたたえた温顔を最期の日まで変わりなく保ち続けたことに驚きを禁じ得ない」と後に振り返っている。阿南は自分が全ての責任を負うので、自決は自分1人でいいとして、自決を申し出てきた陸軍の青年将校たちに「これから、大混乱の中を平静に終戦処理するのが中央幕僚の任務だ。外地からの復員も早急に実現しなければならぬ。君たちはこの二大事業を完遂してほしい」と言い聞かせて自決を思いとどまらせている[210]。これは、平素からの阿南の「死ぬことだけでは義務を果たしたことにはならない、生きていられるだけ生きて戦力になれ」という信念によるものであった[90]。
8月15日深夜1時に阿南の義弟であった竹下が陸軍大臣官邸を訪れた。竹下は全陸軍の方針に反してクーデター計画を決行した畑中と椎崎らから阿南の説得の依頼を受けていた。竹下が部屋の前に立って名乗ると、阿南は「なにしに来たか」と一旦は声を荒げたが、すぐに「いや、よく来た」と竹下を迎え入れた。阿南は湯上がりと見えて、上半身裸で机で何かを書いている最中であった。竹下はその様子を見ると全てを察したが、自決を決意しているのにも関わらず、阿南の表情は全く普段と変わらない温顔で疲労の色もなかったので「あにき、ちっとも変わらぬ」と感じて、宮城事件での興奮が冷めていった。竹下は「お止めはしません。時期としては今夜か明晩あたりと思っておりました」と語りかけると、阿南は「それならいい、かえっていいところにきてくれた」と答えて、今まで書いていた遺書を竹下に見せた[211]。
見せられた遺書には、
「一死以て大罪を謝し奉る 昭和二十年八月十四日夜 陸軍大臣 阿南惟幾 花押 神州不滅を確信しつつ」
と記されていた[212]。「大罪を謝し奉る」とは、日中戦争から太平洋戦争に至る時代の指導者は陸軍軍人で、太平洋戦争責任の「大罪」は陸軍が負うべきと阿南は考えており、陸軍最後の責任者である自分の死をもって「謝し奉る」覚悟を記したものであった[213]。
辞世の句には、
「大君の深き恵に浴みし身は 言ひ遺こすへき片言もなし」
とあり[212]、これは1938年(昭和13年)の第109師団長への転出にあたり、昭和天皇と2人きりで陪食した際に、その感激を詠ったものである。
その後、阿南と竹下はチーズを肴に水入らずの酒盛りを始めた。阿南は母親の他界以来大好きだった酒を断ってきたので、末期の酒に気持ちも高揚したようで、かつてないほど雄弁に1人で語り続けた。「もう暦の上では15日だが、14日は父の命日だから、この日に決めた。15日には玉音放送があり聴くのは忍びない」と遺書の日付を14日とした理由を話し[214]、「いやあ、60歳の生涯、顧みて満足だった。惟茂(末子)はお父さんに叱られて可哀想だが、この前帰ったとき、風呂にいれて洗ってやったので、よくわかったろう。皆と同じように可愛がっていることを伝えてくれ」「綾子(夫人)には、お前の心境に対して信頼し、感謝して死んでいくといってくれ」と家族思いの阿南らしく家族に対する遺言も託した。この会話の中で意図不明の「米内を斬れ」という発言もしている[215]。
会話の最中に銃声らしい物音が聞こえ、阿南も聞き耳をたてていたので、今まで宮城事件について黙っていた竹下はようやく畑中らがクーデターで決起したことを打ち明けた。竹下はクーデターの話をすることで阿南の自決前の心境を乱しはしないかと心配したが、阿南はただ一言「東部軍はたたぬだろう」と言っただけであった[216]。その後、決起した青年将校は近衛師団長森赳中将を殺害し、その知らせが阿南と竹下の元に届いた。やがて、森の殺害の現場にいた井田が陸軍大臣官邸を訪れてことの顛末を報告したが、既に詳細を把握していた阿南はとくに処置を命ずることもなく「そうか。森師団長を斬ったのか、お詫びの意味をこめて私は死ぬよ」と短くもらしただけであった[217][218]。井田は咄嗟に阿南と殉死したいと思って「わたくしも、あとからお供いたします」と申し出たところ、阿南は目もくらむ激しさで井田の頬を殴り「何をバカなことをいうかっ」「おれ1人、死ねばいいのだ。いいか、死んではならんぞ」と温和な阿南には珍しく大喝している[219]。
そのあと、竹下も加わって3人で酒を酌み交わした。その酒席で阿南は若い2人に「君たちは死んではならぬ、苦しいだろうが生き残って、日本の再建に努力してくれたまえ」と何回も言って聞かせている[220]。夜明け間近になって阿南は侍従武官時代に昭和天皇から拝領した白いシャツを身につけた。阿南はそのシャツについて「これは陛下から拝領したもので、お上が肌につけておられたものだ。これを着て自分は逝こうと思う。武人としてこの上ない名誉だよ」と2人に説明している[16]。その上から一旦勲章を全部付けた軍服を羽織ったが、思い直して軍服は脱いで、床の間に置きその上に1943年に戦死した次男惟晟の遺影を置いて「惟晟と一緒に逝くんだ」と語った。そこに宮城事件の報告のため秘書官の林が訪れたが[221]、阿南は竹下と井田と一緒に林も一旦下がらせると、ひとり縁側で割腹した。竹下はそのとき、宮城事件の報告に来訪した憲兵司令官大城戸三治中将と面談していたが、真っ先に自決現場に駆け付けた林から阿南自決の事実を知らされると、すぐに阿南の元に戻った。既に阿南は割腹しており、左手で頸動脈を探っている状況であった。竹下が介錯を申し出たが、阿南は「無用、あっちに行け」と竹下を遠ざけた。その後、竹下は陸軍次官の若松からかかってきた電話に応対してから、阿南の様子を見に戻ったが、既に阿南は意識不明の様子で、弱い呼吸音だけが聞こえる状況であったので、竹下は阿南の手から短刀をとると、右頸部を深く切り込んで介錯した[222]。その頃、井田は官邸の庭の土の上に正座し、阿南がいる縁側の方を仰ぎ見ながら泣いていた[223]。
阿南は15日正午のラジオでの玉音放送を聴取することもなく、ポツダム宣言の最終的な受諾返電の直前の自決となった。「阿南陸相は、5時半、自刃、7時10分、絶命」と記録されている[224]。検視した衛生課長出月三郎大佐の鑑定においては「下腹部臍下一寸の所に左から右に引いた創があった」とし、割腹から絶命までに時間がかかったのは頸動脈が切れていなかったからとされており、頸部を深く切って介錯したとする竹下の証言とは食い違っている[225]。15日の夜、近くの陸軍省の建物で、機密書類を焼く煙が一日中たちこめるなか、阿南の遺体は市ヶ谷台の海軍重砲西側で荼毘に付された[226]。
死後
8月15日の玉音放送後、終戦に伴う臨時閣議が開催されたが、まず鈴木から「阿南陸軍大臣は、今暁午前5時に自決されました。反対論を吐露しつつ最後の場面までついて来て、立派に終戦の詔勅に副署してのち、自刃して逝かれた。このことは立派な態度であったと思います」「実に武人の最期らしく、淡々たるものであります・・・・謹んで、弔意を表する次第であります」との報告があり、阿南の遺書と辞世の句も披露した。閣僚たちは、1つだけ空いた陸軍大臣の席を見ながら、予想していたこととはいえ大きな衝撃を受けている[227]。
阿南の自決は終戦を具体的、強烈な形で全陸軍に告示することとなった。参謀本部河辺虎四郎参謀次長は「我が大陸軍70余年の盛衰は阿南大将の自決を以て終止符となすべきか」と当時の日記に書き[226]、陸軍省の軍事課長でクーデター計画の首謀者の1人でもあった荒尾は「全軍の信頼を集めている阿南将軍の切腹こそ全軍に最も強いショックを与え、鮮烈なるポツダム宣言受諾の意思表示であった。換言すれば大臣の自刃は天皇の命令を最も忠実に伝える日本的方式であった」と振り返っている。阿南の自決の結果、徹底抗戦や戦争継続の主張は止んでいって、終戦の現実を受け入れる劇的な効果を上げた[214]。宮中事件の首謀者のひとりであった井田も「当時、畑中のみならず、全陸軍の心の中に諦め切れぬ何ものかが残っていた。その残滓を断ち切るためには、陸相の自刃が最大の切り札であった」「阿南大将には、自分が死ねば全陸軍が承伏するという確信があった」と阿南が自分の死を以って、陸軍の妄動を抑え込もうとしたと推測している[228]。戦記作家の児島襄は、戦陣訓で日本陸軍軍人に求められる徳目として「軍紀」「必勝の信念」「敬神」「孝道」「敬礼挙惜」「責任」「清廉潔白」などが挙げられているが、阿南はその全てを体得した日本陸軍軍人の“理想像”であった、その清清たる阿南が、汚濁の道を歩んだ日本陸軍の葬儀人をつとめる形となったことは意義深かったと述べている[229]。
阿南が最後まで身を挺して護ろうとした昭和天皇は、阿南が自決したという知らせを蓮沼蕃侍従武官長から聞かされると「あなんはあなんとしての考え方もあったに違いない。気の毒なことをした・・・」と蓮沼にもらしている[230]。侍従長の藤田尚徳によれば、阿南は昭和天皇が信頼する数少ない陸軍軍人で、阿南の率直豪快な性格を好んでおり、その死を悼んでいたという[231]。東郷は「そうか、腹を切ったか。阿南というのは本当にいい男だったな」と涙ながら語り、鈴木は「真に国を思ふ誠忠の人でした」と評した。戦後になって、鈴木没後に夫人の孝子は「鈴木が大任を果たし得たのは、全く阿南さんがおられたからこそでした」と振り返っている[232]。
阿南と閣議において対立した米内は「我々は立派な男を失ってしまった」と語った一方で、「私は阿南という人を最後までよくわからなかった」と人格的な違いを浮き彫りにする感想を残している。阿南の方も、米内とは気質は水と油のように合わないと自覚していたようで、義弟の竹下は「率直に言って阿南は米内がきらいだった」と回想している[233]。しかし、阿南の自決直後、米内は誰よりも早く阿南の弔問に訪れている。阿南も意見の相違こそあれ、米内を立派な武人として敬意を持っており、米内が1945年6月頃に辞意をもらしたときに、その翻意を願い、最も強く働きかけたのは阿南であった[234]。
阿南と陸大同期生で、東條との確執で予備役となって故郷山形県で隠遁生活を送っていた石原は、ご聖断による終戦を知人から聞かされると、まずは阿南の身を案じて「阿南の気持ちは俺がよく知っている。きっと阿南は死ぬだろう。すぐに使いを出すが、果たして間に合うか・・・」とその知人に話している。東条内閣が倒れて、次の総理大臣となった小磯から陸軍大臣についての意見を求められた石原は「阿南のほかに人無し」と推薦したこともあった[28]。
阿南の後任の陸軍航空本部長となった寺本熊市中将も、終戦後に「天皇陛下と多くの戦死者にお詫びし割腹自決す」と遺書を残して自決しており、陸軍中央で特攻を指揮した責任者は阿南と寺本と二代に渡って自決をしている[235]。
日本の内閣制度発足後、現職閣僚の自殺(自決)はこれが初めてで、その後も2007年(平成19年)5月28日に第1次安倍内閣における松岡利勝農林水産大臣(当時)まで例はなかった。
家族
- 長男・阿南惟晟(陸軍少尉、1943年〈昭和18年〉戦死)
- 次男・阿南惟敬(元防衛大学校教授)
- 三男・阿南惟正(元新日本製鐵副社長、靖国神社氏子総代)
- 四男・野間惟道(野間家へ養子、元講談社社長)
- 五男・阿南惟茂(元駐中国大使)
- 長女・喜美子
- 次女・聡子(大國昌彦元王子製紙社長の妻)
愛人などを囲って妻以外の女性関係を武勇伝のように誇った当時の軍人社会のなかでも、阿南は浮名を残すことには全く興味を示さず、妻綾子との夫婦関係を大事にし、夫婦仲はたいへん良く、軍内では「一穴居士」というあだ名がつけられたほどであった[236]。参謀本部第一部演習班在籍時の泊まりがけの出張のさいに、旅先で部下らが羽目を外したいと阿南を誘ってきて、部下が娼婦もしている旅館の女中を集め、阿南にも性病予防具を配ったが、阿南は突き返すこともなく「ありがとう」とポケットにしまった。翌日「一穴居士」のあだ名を知る部下の1人が、興味本位で阿南の相手をした女中に話しを聞くと、女中は「お茶を召し上がってお話しただけですぐにお帰りになりましたが、お金だけはちゃんといただきました」と答えたという。課長の柳川平助大佐は潔癖主義でこのような話しをするだけで叱責されたが、自分が羽目を外すことは決してしないかわりに、人に「やめろ」と説教じみたことをいわずに場をしらけさせることなく、また水商売の女性に恥もかかせず、営業妨害もしないといった阿南のスマートな対応に部下たちは「なるほど阿南さんらしい」と感心している[237]。
夫婦は5男2女をもうけたが、子煩悩も軍内では有名であった。子供とよく遊び、休みにはピクニック、デパートでの買い物、映画、外食に連れて行き、冬にはスキー、夏には海水浴の指導もしていた。また、勉強しろということもなく、自分も子供の傍で寝転びながらキングや少年倶楽部を読んだりしているので、子供たちは仕事の方は大丈夫なのだろうか?と心配するほどであったという[238]。
父親と同じ軍人の道を選んだ次男の惟晟が常徳殲滅作戦で戦死したと知らされたときには、前線においても、惟晟の写真を掲げ、その前にまんじゅうをそなえて冥福を祈り、遺品の軍刀を受け取ると、阿南は今までの太身の佩刀から、惟晟の遺品の細身の刀に代えて、常に我が子を傍に置くようにしている[236]。そして自決のさいには、脱いだ軍服のうえに惟晟の写真を置き、その写真を抱くように軍服の両袖を前に揃えて「惟晟と一緒に逝くんだ」と語ったという[222]。
陸軍でも家庭でも、大声をあげることも、他人を叱ることもほとんどなく、綾子は父親を想いかえして、こんな静かな軍人もいるのかと奇妙に感じるほどであったといい、たまにする夫婦喧嘩でも先に折れるのは常に阿南の方であった。そんな阿南が綾子の目の前で唯一声を荒げて怒ったのが、阿南の母親が運転手に非礼な言葉を言われたときだけであった。阿南の母親は1943年3月に他界したが、阿南は敬愛していた母親の他界を機に断酒し、それまでは好んできた酒を殆ど口にすることはなくなった[75]。阿南の人間性を熟知していた綾子は「私は、主人に陸軍大臣の職は重すぎたと今でも思っております」と手記で述べている[229]。
長女の喜美子は東京大空襲2日後の5月27日に結婚している。披露宴は帝国ホテルを予約していたが、空襲により営業を休止していたので、急遽九段下の軍人会館で行われた。空襲で電気も水道も停止していたので、花嫁の化粧の水は井戸からくんできて、照明は集めたローソクで代用するといった有様であった。空襲直後の式典は一部から非難をあびたが、子供思いの阿南は父親としての責務を果たそうと、自ら会場や神主などの手配をして式を断行している。最後には喜美子に「今度会うときには、戦争に勝っているよ」と嫁ぐ娘に心配させないようにと話しかけたが、阿南は「我が子の結婚式に出るのはこれが最初で最後」と覚悟しており、実際にその通りとなった[注 4][239][240]。
阿南が自決したのち、綾子も後を追いたいと願ったが、末子はまだ幼くその願いもかなわなかった。終戦直後、夫の杉山元大将と一緒に自決した杉山夫人を綾子が弔問したときに、夫人の霊位を前にして「誠にお羨しゅうございます。私には幼い子もいますので主人の伴も叶いません・・・・」と語りかけているのを、一緒に弔問した額田坦中将の妻女が聞き涙している[241]。戦後は他の高級軍人の遺族と同様に、国の支援は全くなかったので経済的に困窮し、やむなく一家は三鷹市下連雀にあった阿南の居宅を4つに間仕切りして賃貸しその賃料を生活費に充てて、自分らは阿南の本籍地である大分県竹田市に引っ越して1951年まで暮らした[242]。綾子は子供を育て上げたのちに出家、長野県聖光寺で夫・息子を始め戦没者の菩提を弔い続け1983年(昭和58年)に没した[241]。
終戦時の阿南の立場をめぐる議論
終戦前の阿南の真意をめぐっては、阿南自身が何も書き残していないため、諸説あり意見が分かれている[243]。
腹芸説
内閣書記官長であった迫水は、阿南は終戦を望む天皇の真意を汲み、暗黙裏に鈴木貫太郎首相と協力して終戦計画を遂行したと述べている。この説では、降伏に反発する軍の暴発を阻止するため、自身は強硬な言動をとって抗戦派を装っていたとする。そうした阿南の表裏は、鈴木が一番よく承知していたと迫水は推測している。阿南が当初から降伏を認めていれば、抗戦派に辞職を強要され、軍部大臣現役武官制により新任の大臣を出さないことで鈴木内閣の総辞職が必至で、この時点での降伏は実現しなかったとみられる。また阿南が本心から抗戦派であったなら、自ら辞職して鈴木内閣を葬ることは簡単であったはずである。これは腹芸説と呼ばれている[243]。海軍大臣秘書官として阿南と接する機会も多かった岡本功中佐は「海軍と比べてまるきり所帯の違う大武装軍団を、ピタリと一つにまとめて終戦へと持っていくのは想像以上に大変なこと」「こういうときには、芝居での原田甲斐[注 5]のような人が出てきて悪役を演じなくては事態は収まらない」「阿南さんは終戦がやむを得ないことをよく承知しながら、徹底抗戦を主張し、クーデターに賛成するかのような素振りを示し、時に煮え切らず、時に首相の方針に強く楯突いて、双方に対してわざと悪者になって見せたのではないか」「そうして、本土決戦を唱える陸軍の面目を立て、最後は落ち着くべきところに落ち着かせて、自分は自刃されたのだと思う」と腹芸説に賛同している[244]。
終戦直前の陸軍青年将校によるクーデター計画の指揮官的な立場にあったのは陸軍省軍事課長の荒尾であったが、荒尾は他の首謀者たちから見ると「同志というよりは、むしろ我々の意見を(阿南)大臣に伝えるパイプ役という期待をかけていた」という位置づけであった。荒尾は阿南の陸軍人事局長時代からの部下で信頼されていたが、同時に血気盛んな青年将校たちからの人望も厚く、青年将校の暴発を防ぐためにうってつけの人物であった。阿南は、頭ごなしに青年将校を押さえつければ、阿南を殺害するか、「陸軍大臣語るに足らず」と離反すると考えて、あくまでも表面上は徹底抗戦を主張しながら、個人的にはクーデターには消極的であった荒尾を連絡役としてうまく使って、青年将校の暴発を防いでいたという推測もある[245]。信頼する荒尾が首謀者のなかにいたので、阿南は聖断が下って「承詔必謹」を命じるまでは、「僕の身体を君等にやる」とか「西郷隆盛の心境は分かる。よく考えてみよう」とか、あたかもクーデターに同調するかのような態度を見せていた[246]。阿南の同期で親しかった沢井は、荒尾ともポーランド武官時代以来親交があったので、終戦後何年も経ってからクーデターの真相について荒尾に尋ねたが、それまでは何でも語ってきた荒尾が、クーデターについてのことだけは一切語らなかった。沢田はこのことによって、阿南と荒尾の間に何らかの密約があって、その密約というのが、荒尾が阿南の腹芸に手を貸していたことと推測し、律儀な荒尾は阿南との約束を守って秘密にしていると察して、腹芸説に賛同している[247]。迫水も阿南と荒尾の間に密約があったものと確信しており、荒尾の一周忌の席で故人に対して「私は今日の日本があるのは、阿南大将とあなたの相互信頼関係が、一つの要素であったと思っております」と語りかけている[248]。
腹芸説を示唆する阿南自身の言動としては、1945年7月下旬、阿南は陸軍省次級副官兼大本営参謀小林四男治中佐と剣道の土用稽古をしたが、双方、汗びっしょりとなったので一緒に風呂に入ったとき、2人きりの風呂場で阿南はさりげなく「もう、条件がよければ講和の手を打たなきゃいかんなぁ、得るものは何もないかも知れんけど・・・・条件しだいだね」と小林に話しかけてきた。この頃、阿南は米内や東郷と本土決戦について激論を戦わせている時期であり、初めて阿南の口から講和という言葉を聞いた小林は驚いたが、のちに、(阿南)大臣は昭和天皇のご信任厚いだけに、大局的に事態を見たうえで、講和を念頭において動いていたが、本土決戦の準備を進める陸軍内でひとり苦労を重ねていたのではと振り返っている[249]。
一撃講和説
閣議における発言そのままに抗戦し、本土決戦で連合軍に一撃を与え、国体の護持など有利な条件を認めさせたうえで講和を結ぼうとした説である。軍事評論家伊藤正徳によれば、阿南は太平洋戦争に勝利できるとは考えていなかったが、1度でいいから日露戦争における遼陽会戦や奉天会戦のような、大軍同士の衝突による「会戦」を戦って、勝利した後に和平を講じたいという陸軍の総意には逆らえず、阿南自身も「会戦」に持ち込めば5分5分での勝利を夢想していたのではないかと推察している。本土決戦となれば、連合軍の南九州上陸作戦であるオリンピック作戦でようやく念願の「会戦」を戦うことができ、そこが連合軍に痛撃を与える最後の機会と阿南が考えていたと推察している[250]。終戦時の陸軍人事局長で、阿南が人事局長時に部下として働き指導を受けた額田坦も著書に「阿南大将のお考えは、何処かで敵を叩き落し、これを講和の端緒とするにあり」「米軍の九州来寇(奇しくも時期、兵力も想定通りで、兵力も日本軍精強兵団と全く同数であった)に際し、水際撃滅の敢闘に続く軍民一体となって行うゲリラ戦によって必ず米軍に一泡吹かせることができる。これこそ講和の好機であるとのご意図ではなかったか」と阿南の考えを推測して記述している[232]。
一方で、終戦時の陸軍次官の若松は、阿南が「たとえ本土決戦に支障があっても構わぬ。敵に一大打撃を与えるため、陸軍航空の主力をこの際沖縄に投入すべきと思うが、君はどうも思うか」と意見を求められたことや、沖縄戦が終わり、連合軍機動部隊が日本近海に接近してきた頃に、航空総軍の高級参謀を招致して「本土決戦は考えなくてよい、陸軍航空の主力を以て、敵艦隊を攻撃することはできぬか」と作戦干渉的なことをしているのを目撃したことで、阿南はなるべく日本本土に戦火が及ばないような状況で、敵に一大打撃を加えて講和に持ち込もうとしていたと推測している。しかし、敵に一大打撃を与える機会を与えられないまま、ポツダム宣言受諾の聖断が下ったため、国体護持の確信が持てなかった阿南は、このまま無条件降伏するのは信念上で耐えられず、最後まで昭和天皇に御翻意を嘆願したが、終戦の聖断が下ると「承詔必謹」で、一死をもって日本陸軍の有終の美を為さしめたと振り返っている[251]。
徹底抗戦説
自決の前に「米内を斬れ。」と口走っていることなどから、実際は最後まで抗戦派であったのではないかと、その発言の真意をめぐる議論がある。阿南の本心はあくまでも陸軍の名誉挽回のための一戦を交えるというもので、まずは自らの自刃で陸軍将兵の士気を鼓舞してから、その後、決起した陸軍将兵が和平派の米内を殺害し、海軍の決起の障害を取り除けという意味であったとの推測する意見や[252]、作家の半藤一利は、絶対主義天皇制を信じる阿南は、本土決戦の混乱による共産主義革命を恐れ、早期に降伏し、天皇機関説に則って機関としてだけでも天皇制を残そうと画策していた米内を不忠であると思っており、このような発言に至ったと推測しているが[253]、この言葉を阿南から直接聞いたと証言した竹下によれば、阿南は終戦に関して米内と散々議論してきた直後でもあり、母親の死後絶っていた酒を久々に口にして酔っていたことや、自決前の気持ちの高ぶりもあって、この言葉には深い意味はなく、つい興奮のあまりに口走ってしまった感じだったという。その証拠として、この発言のあとに米内に関する話を続けることはなく、すぐに他の話題に移ったことをあげている[254]。阿南の秘書官であった松谷誠中佐も竹下と同じく「意味のない言葉だったんでしょう」と証言しているが、その根拠としては、「日頃から阿南さんは、深く考えてものをいう人ではなかった。自分の言葉の影響も余り考えず、瞬間的に頭にひらめいたことをすぐに口に出す人でした。それだけに、無邪気な、気のいい人だったと思います。」と阿南の普段の人柄を挙げている[255]。
またそのほかに、竹下とともに、阿南の自決に立ち会った井田による、阿南が求めていたのはただ国体護持のみであり、その目的のためあらゆる可能性を残しておくべく、抗戦派・終戦派のいずれにも解釈できる態度を取っていたいう見解や、秘書官林のように、阿南自身、戦争を早期に集結させるべきか、本土決戦を目指して抗戦を続けるべきか迷っていたという見解もある[256]。
年譜
- 1900年(明治33年)9月 - 広島陸軍地方幼年学校入校。
- 1905年(明治38年)11月 - 陸軍士官学校卒業(18期)。
- 1906年(明治39年)6月 - 陸軍歩兵少尉に任官。歩兵第1連隊附。
- 1908年(明治41年)12月 - 陸軍歩兵中尉に昇進。
- 1910年(明治43年)11月 - 陸軍中央幼年学校生徒監。
- 1916年(大正5年)11月 - 陸軍歩兵大尉に昇進。
- 1918年(大正7年)11月 - 陸軍大学校卒業(30期)。
- 1919年(大正8年)
- 4月 - 参謀本部附勤務。
- 12月 - 参謀本部員。
- 1922年(大正11年)2月 - 陸軍歩兵少佐に昇進。
- 1923年(大正12年)8月 - サガレン州派遣軍参謀。
- 1925年(大正14年)8月 - 陸軍歩兵中佐に昇進。
- 1926年(大正15年)4月 - 参謀本部第一部演習班班長
- 1927年(昭和2年)
- 1928年(昭和3年)8月10日 - 留守歩兵第45連隊長。
- 1929年(昭和4年)8月1日 - 侍従武官。
- 1930年(昭和5年)8月1日 - 陸軍歩兵大佐に昇進。
- 1933年(昭和8年)8月1日 - 近衛歩兵第2連隊長。
- 1934年(昭和9年)8月1日 - 東京陸軍幼年学校長。
- 1935年(昭和10年)3月15日 - 陸軍少将に昇進。
- 1936年(昭和11年)8月1日 - 陸軍省兵務局長。
- 1937年(昭和12年)3月1日 - 陸軍省人事局長。
- 1938年(昭和13年)
- 3月1日 - 陸軍中将に昇進。
- 11月9日 - 第109師団長。
- 1939年(昭和14年)
- 9月12日 - 参謀本部附。
- 10月14日 - 陸軍次官。
- 1941年(昭和16年)4月10日 - 第11軍司令官。
- 1942年(昭和17年)7月1日 - 第2方面軍司令官。
- 1943年(昭和18年)5月1日 - 陸軍大将に昇進。
- 1944年(昭和19年)12月26日 - 航空総監兼軍事参議官。
- 1945年(昭和20年)4月7日 - 陸軍大臣(~8月14日)。
栄典
阿南を演じた俳優
- 早川雪洲「日本敗れず」(1954年 新東宝) 劇中での役名は「川浪大将」
- 三船敏郎「日本のいちばん長い日」(1967年 東宝)
- 小林桂樹「歴史の涙」(1980年 TBS)
- 二谷英明「一死、大罪を謝す」(1981年 CX)
- 近藤宏「大日本帝国」(1982年 東映)
- 相馬剛三「山河燃ゆ」(1984年 NHK大河ドラマ)
- 芦田伸介「そして戦争が終った」(1985年 TBS終戦40年記念ドラマ)
- 高橋幸治「ヒロシマ 原爆投下までの4か月」(1996年 NHK総合)
- 浜田晃「聖断」(2005年 テレビ東京)
- 六平直政「太陽」(2005年 ロシア)
- 柴俊夫「日輪の遺産」(2011年 角川映画)
- 役所広司「日本のいちばん長い日」(2015年 松竹映画)
脚注
注釈
- ^ なお、下村定が就任する前に内閣総理大臣の東久邇宮稔彦王が陸軍大臣を兼摂しており、阿南の後任陸軍大臣は稔彦王である。
- ^ 総選挙に伴う首相交代による。チャーチルは7月26日まで。アトリーは27日以降(ただし前半も次席として参加)。
- ^ 十七条憲法の第三条の条文、「詔を承りては必ず謹め」(天皇の命令は必ず謹んで聞け)という意味
- ^ 貴美子の媒酌人をつとめた内閣法制局長官村瀬直美によれば、貴美子の披露宴は空襲当日の5月25日で、場所は初めから軍人会館だった。式の途中で空襲が始まったが、電灯が消える中でも式を続行したという。後日、阿南自らがお礼として花瓶を持って自宅まで来訪したが、村瀬は戦後になってもその花瓶を大切にしていた。
- ^ 原田甲斐こと仙台藩重臣原田宗輔が起こした伊達騒動について、従来極悪人扱いされてきた甲斐が実は忠臣であり、仙台藩乗っ取りの陰謀を知ってわざと悪人を演じ、最後は乱心を装って乗っ取りの首謀者伊達宗重らを殺害したとする視点での読み物や芝居が古くからあったが、山本周五郎の小説『樅の木は残った』とその映像化によって甲斐忠臣説はよく知られるようになっていた。
出典
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関連項目
外部リンク
- 人物探訪:阿南惟幾~軍を失うも国を失わず
- 阿南惟幾 - 歴史が眠る多磨霊園
- ウィキメディア・コモンズには、阿南惟幾に関するカテゴリがあります。
公職 | ||
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先代 杉山元 |
陸軍大臣 第33代:1945 |
次代 東久邇宮稔彦王 |