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藤江恵輔

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
藤江 恵輔
生誕 1885年11月8日
日本の旗 日本兵庫県
死没 (1969-02-27) 1969年2月27日(83歳没)
所属組織 日本陸軍
軍歴 1905年 - 1945年
最終階級 陸軍大将
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藤江 恵輔(ふじえ けいすけ、1885年(明治18年)11月8日 - 1969年(昭和44年)2月27日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将

経歴

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兵庫県出身。代々龍野藩儒を勤めた藤江家に生まれる。龍野から転籍して大阪府士族であった生國魂神社小宮司、藤江卓蔵の次男。大阪陸軍地方幼年学校陸軍中央幼年学校を経て、1905年(明治38年)11月、陸軍士官学校(18期)を卒業、翌年6月、砲兵少尉任官。1910年(明治43年)11月、陸軍砲工学校高等科を卒業。1914年(大正3年)11月、陸軍大学校(26期)を卒業した。

参謀本部員、フランス大使館武官補佐官、参謀本部付(欧州出張、ブカレストソフィア駐在)、陸大教官、野戦重砲兵第5連隊付、第16師団司令部付(京大配属)、陸軍兵器本廠付、ジュネーブ軍縮会議出張、野戦重砲兵第2連隊長などを歴任。1934年(昭和9年)8月、陸軍少将に進級し。陸軍野戦砲兵学校幹事、野戦重砲兵第4旅団長、関東憲兵隊司令部総務部長、同司令官、憲兵司令官などを経て、1937年(昭和12年)11月、陸軍中将となる。

第16師団長、参謀本部付、陸大校長を経て、1941年4月、西部軍司令官[1]1943年(昭和18年)2月、陸軍大将に昇進。東部軍司令官、第12方面軍司令官を勤め、1945年(昭和20年)3月、予備役となるが、同年6月に召集を受け、第11方面軍司令官兼東北軍管区司令官に同年10月まで在任した。

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[2]

栄典

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親族

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脚注

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  1. ^ 陸軍次官に木村兵太郎中将『東京日日新聞』(昭和16年4月11日夕刊)『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p784 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  2. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」13頁。
  3. ^ 『官報』第2431号「授爵・叙任及辞令」1920年9月8日。

参考文献

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  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。