「樺太」の版間の差分
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2019年10月29日 (火) 00:14時点における版
樺太島 | |
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所在地 |
ロシア (北樺太) ※日本政府はサンフランシスコ平和条約によって南樺太を放棄したが、ソ連邦が締結しなかったため、南樺太は帰属未定地である。 |
所在海域 | オホーツク海、日本海 |
座標 |
北緯45度54分 - 北緯54度20分 東経141度38分 - 東経144度45分 |
面積 | 76,400平方キロメートル km² |
最高標高 | 1,609メートル m |
最高峰 | ロパチン山 |
プロジェクト 地形 |
樺太(からふと)、樺太島(からふととう、ロシア語:Сахалин、中国語:庫頁島)、サハリン、サハリン島は、ユーラシア大陸の東方、オホーツク海の南西部にあるロシア連邦サハリン州が北緯50度以北を領有する島。広義の日本列島に含む場合もある。南北約948km、東西の幅最大約160kmで南北に細長い。面積76,400km2は世界第22位で21位の北海道(78,073km2)より若干小さい。人口約50万人。最大都市はサハリン州の州都でもあるユジノサハリンスク(日本名: 豊原)(人口約18万人)。
樺太は、日露戦争後のポーツマス条約により北緯50度線を境界に南北に分割され、それぞれ異なる沿革を経たため、ここでは北緯50度以北を「北樺太」(または「北サハリン」)、以南を「南樺太」と表記する。
現在、サハリンプロジェクトが進められている。
概要
この節には独自研究が含まれているおそれがあります。 |
1945年(昭和20年)までは北緯50度線を境にして、南半分(南樺太、南サハリン)を「樺太(カラフト)」として大日本帝国が、北半分(北樺太、北サハリン)を「サハリン(ロシア語:Сахалин)」としてソビエト連邦が領有していた。日本領有下においては、南樺太およびその付属島嶼を指す行政区画名として「樺太庁」が使用された。[1]
現在はロシア連邦が北樺太の領有に加え、南樺太をも実効支配している[2][3]。
日本政府は南樺太について、日本はサンフランシスコ講和条約によって南樺太を放棄したが、当時のソ連はこれに加盟していない為、条約の内容がソ連に適用される訳ではなく、南樺太は帰属未定地である、としている[4]。
第二次世界大戦末期、沖縄県における沖縄戦に続いて、日本本土(内地)最後の戦いが行われた地である(樺太の戦い)。
名称
「からふと」の名は、一説にはアイヌ語でこの島を「カムイ・カラ・プト・ヤ・モシリ 」(kamuy kar put ya mosir) と呼んだ事に由来すると言う。これはアイヌ語で「神が河口に造った島」を意味し、黒竜江(アムール川)の河口から見てその先に位置することからこのように呼ばれたとされる[5]。尚、樺太アイヌ語では、「陸地の国土」を意味するヤンケモシリと呼ばれ[6]、 北海道アイヌ語ではカラプト Karapto と呼ばれる [7]。
古くは1646年(正保3年)に成立した松前藩の歴史書『新羅之記録』に「唐渡之嶋」として見え、正保日本図にも「からとの嶋」が描かれている。1669年(寛文9年)のシャクシャインの戦いに関する同時代史料では「からふと」(「奉言上覚」『津軽一統志』)「からふとの島」(『蝦夷蜂起注進書』)という表記が確認できる[8]。1700年(元禄13年)の『松前島郷帳』には「からと嶋」とある。1704年(宝永元年)に蝦夷地へ渡った正光空念の史料では「からふと」「からふと嶋」という表記が多いものの、「唐ふとう嶋」「からふとふしま」「からとのしま」といった表記も見られる[9]。
1783年(天明3年)の『加模西葛杜加国風説考』では「カラフトの北にサカリインといふ大嶋有」とし、同書の付図では「カラフト」を大陸と地続きの半島として描き、別に「サカリイン」を島として描いている[10]。1785年(同5年)の『三国通覧図説』においても「カラフト嶋」は大陸の半島としてを描かれ、別に「北海中ノ一大国」として「サガリイン」を描いている。1809年(文化6年)以降は東西の蝦夷地に対して北蝦夷地とも呼ばれた(それ以前は西蝦夷地に含まれた)。その後、明治政府が北海道開拓使を設置するにあたり「樺太」という漢字表記が定められる。[11]
「サハリン」(古くは「サガレン」と表記)という名称は、清の皇帝が3人のイエズス会修道士に命じた清国版図測量の際に、黒竜江(満州語名:ᠰᠠᡥᠠᠯᡳᠶᠠᠨ
ᡠᠯᠠ 転写:sahaliyan ula、サハリヤン・ウラ)河口の対岸に島があると聞き、そこを満州語でサハリヤン・ウラ・アンガ・ハダ(ᠰᠠᡥᠠᠯᡳᠶᠠᠨ
ᡠᠯᠠ
ᠠᠩᡤᠠ
ᡥᠠᡩᠠ 転写:sahaliyan ula angga hada、「黒竜江の対岸の島」)と呼んだことに由来する。ポーツマス条約調印以降の日本では、単に「樺太」と言えば南樺太を指したため、北樺太を指してサガレン(薩哈嗹)と呼ぶ場合もあった。「サガレン州派遣軍」などは、その一例である。
中国語では清の時代の呼び名である「庫頁島」(クーイェダオ)と呼ばれる。また、ロシア語の音訳である「薩哈林島」(サハリンダオ)も使われる。
地理
樺太は、ユーラシア大陸の東方、北海道の北方に位置しており、北緯45度54分から54度20分、東経141度38分から144度45分にかけて広がる島である。島は南北に細長く、東西の幅が最大で約160km(最狭部は約26km)であるのに対し、南北は約948kmにも及ぶ。島の面積は北海道よりやや小さく76,400km2である(北海道本島の面積は77,981.87km2)。その面積のうちの約70%は山岳地帯によって占められており、平地は北部に集中している。
樺太は、南の北海道とは宗谷海峡により、また、西のユーラシア大陸とは間宮海峡により隔てられている。島の北岸および東岸はオホーツク海に面している。なお、2万年ほど前の氷河期には海水面が低下しており、今日のユーラシア大陸・樺太・北海道は互いに地続きだったと考えられている。
樺太の最北端は、シュミット半島の先端に位置しているガオト岬(エリザベート岬)である。シュミット半島から西方の樺太北岸から、対岸の大陸側であるアムール川河口地域の北岸までの海岸線を一続きとみると南に湾曲した湾状の海岸線となっている。この湾はサハリン湾と呼ばれている。
南の宗谷海峡に対しては、西側から能登呂半島が、また東側から中知床半島が突き出ており、これら2つの半島の間には南に開く亜庭湾(アニワ湾)がある。能登呂半島の先端は樺太の最南端となる西能登呂岬である。中知床半島の先端は中知床岬である。
樺太の西方はユーラシア大陸との間に間宮海峡が横たわっている。間宮海峡の最狭部は黒龍水道と呼ばれ、その幅は約7.3kmである。
東方のオホーツク海に対しては、島の中南部から北知床半島が突き出ている。先端の北知床岬から西方は北へ向かって海岸線が湾曲し、その湾は多来加湾(タライカ湾)と呼ばれている。
樺太の気候は亜寒帯モンスーン気候に属する。夏季は湿度が高く、霧が多く発生し、日照時間が少なくなる。冬はオホーツク海側で乾燥し、厳しい寒さとなり、海が氷結すると晴天が続く。日本海側では雪が多くなるものの、オホーツク海側と比較して冷え込みは緩む。また、夏と冬の寒暖の差が大きく、特に大陸の影響を受けやすい北樺太は、大洋の影響が大きい南樺太より気温差が大きく、2018年現在まで観測されている最高気温記録は、ノグリキで1977年7月に観測された39度、最低気温記録はティモフスコエで1980年1月に観測されたマイナス50度であり、寒暖差の大きさがデータでも確認することができる。南西部は対馬海流(暖流)の影響を受け比較的温暖であり冬季も海は結氷しないが、北東に行くにしたがい東樺太海流(寒流)の影響を受け気温が低く冬季は海が結氷する。植物の分布境界線として北樺太西海岸のヅエと南樺太東岸の内路を結ぶシュミット線が有名であり、日本固有種の分布はこの線より南側で、北側は針葉樹林などシベリア系の様相となっている。動物の分布境界線は八田線(宗谷線)があり、宗谷海峡を挟み樺太と北海道で両生類や爬虫類などの分布が異なっている。
地理的な日本列島(国家としての意味ではない)の中では、本州、北海道に次ぎ、3番目に大きい島である。
樺太の先住民には、南部のアイヌ、東岸中部以北(幌内川とロモウ川の流域)のウィルタ、北部のニヴフといった北方少数民族がいる。1905年から1945年までの日本統治下の南樺太では樺太庁はアイヌを除く樺太先住民(ウィルタ、ニヴフなど)は戸籍法上は樺太土人と扱って内地人と区別されていたが、日本国籍を付与していた(樺太アイヌは当初は樺太土人として内地人と区別されていたが、1932年1月に戸籍法上は内地人と同じとなった)。樺太の先住民は南樺太に居住して日本国籍を与えられていたために、ソ連による樺太占領後は残留意思を持った者を除き北海道に送還されている。日本では終戦後の1945年にアイヌを除く樺太先住民の参政権が停止されたものの、1952年のサンフランシスコ平和条約発効の際に就籍という形で参政権を回復した。現在の樺太住民の中にはアイヌを名乗る者が若干名存在するものの、統計が取られていないために詳細は不明である(ロシアにおけるアイヌも参照)。
ギャラリー
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ケープ「ティヒイ」
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山頂チェーホフからの眺め
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スパムバーグ山
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サハリンの背後地
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ケープラマノン、ウグレゴルスク (サハリン州)の南
主な山岳
主な湖沼
主な河川
島嶼
南樺太
南樺太は、日本施政下においては樺太と呼ばれる行政区画であった。地方行政官庁として樺太庁が設置され、太平洋戦争中の1942年(昭和17年)に外地から内地へと編入された。人口は1945年(昭和20年)当時、約40万人であった。当時の主要な産業は漁業、農業、林業と製紙・パルプなどの工業、石炭・石油の採掘業など。南樺太の中心都市は、樺太庁の置かれた豊原市(ユジノサハリンスク)。
1995年(平成7年)より稚内〜コフサコフ〜小樽[注釈 1]を結ぶ日露定期航路が開設されており、稚内港より船で渡航が可能である[12]。なお、稚内とコルサコフ間に定期航路が就航したのは50年ぶりである[12]。
石炭産業
1905年、明治政府は、樺太南部から中部までの地層を細かく調査、本州へも移出。塔路町周辺では良質の無煙炭が多く採れた。その富を求めて、人口が増加、塔路小学校では三千名の児童を抱え、六十名の教員が在職、「日本最大の小学校」と言われた。[13][14]
亜庭湾
樺太の留多加は比較的に温暖であり、農耕にも適しているが、亜庭湾においてホッキガイなどを採取し、採取後には暖を取るためたき火などもしていた[要出典]。
林業と製紙業
1905年(明治38年)の祖国復帰後、明治政府は蝦夷松・椴松がパルプの原料となることを調査・研究によって突き止め、1914年(大正3年)、第一次世界大戦の特需景気の恩恵を受け急成長を遂げる。王子製紙、富士製紙、樺太工業による三社寡占状態であったが、1933年(昭和8年)に王子製紙が競合二社を吸収合併、王子製品は本州へも移出された。また同時期には木材業者の合併も行われ、樺太木材統制組合が設立された。
森林伐採は、開発と不可分で進行するが島内ですべてを消費できることもなく、木材の島外への移出は活発となった。移出量は、1929年(昭和4年)にピークを迎え約1,300万石を記録。しかしその後は漸減し、第二次世界大戦直前の1941年(昭和16年)には約10万石に落ち込んだ。戦争中は、木材を運搬する船腹が不足し、積み出しが不能になったまま終戦を迎えた[15]。
新聞
日刊紙だけでも十紙以上が発行されていた(後、読売新聞社が経営、日刊各紙は読売に統合後、読売系樺太新聞となる)。代表的な日刊紙は、樺太日日新聞、樺太時事新聞、樺太毎日新聞、真岡毎日新聞、恵須取毎日新聞である[要出典]。
ラジオ放送
1936年(昭和11年)、豊原での試験放送が人気を得て、1941年(昭和16年)、日本放送協会(NHK)は豊原放送局を開設。
銭湯
島民の証言によると、豊原には数軒以上の銭湯があった[要出典]。
樺太出身の有名人
交通
遺骨
熊笹峠には、樺太の戦いにおけるソ連軍の南進を阻止し、同軍に北海道進攻を断念させた日本の将兵の遺骨が今も眠っている[要出典]。
皇太子裕仁親王の行啓
1925年(大正14年)、皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)が、樺太を訪問(行啓)。豊原市、真岡町、大泊町などで構成される樺太庁が出迎えた[要出典]。
樺太犬
樺太犬は日本固有種であり、きわめて飼い主に忠実である。南極物語に登場するタロとジロがそうである。
カラフトマス(樺太鱒)
マリモ
樺太の富内村には湖沼が多数存在し、マリモが多く生息し北海道のものとは種類が異なるため、樺太天然記念物として指定されている。
フレップ
フレップ(コケモモ)と呼ばれる直径約1cm程度の木の実があり、ジャムなどにもなる。フレップとは、アイヌ語で、「赤い物」という意味である。
競馬
日本の植民地時代の南樺太では6月から9月の間、競馬が盛んにおこなわれていた。1931年(昭和6年)には大小20か所の競馬場があり、その中で8か所が1932年(昭和7年)に樺太競馬規則による公認競馬場に認可された。
北樺太(北サハリン)
北樺太は、樺太・千島交換条約以来のロシア領であり、ロシア帝国時代は沿海州に属した。ソビエト連邦成立当初はシベリア出兵時発生した尼港事件を受け、1920年7月から1925年5月15日の約5年間日本のサガレン州派遣軍による保障占領下にあった。1925年(大正14年)に日ソ国交樹立で日本軍が撤退するとハバロフスク地方に編入され、その後はサハリン州に属し、ロシア連邦となった現在も引き続きサハリン州に属している。主な都市はオハやアレクサンドロフスク・サハリンスキー(日本名:オッチシ・落石、アイヌ語由来。ニヴフ名:イドイー)である。オハ油田、サハリンプロジェクト(サハリン1、サハリン2)が代表的な石油産業である。
歴史
この節に雑多な内容が羅列されています。 |
古代以前は南部に進出した続縄文人や、日本書紀上の粛慎とされるオホーツク文化人などが存在し、鎌倉時代以降は南部にアイヌ民族や和人が進出、アイヌ民族が「オロッコ」と呼んだ東岸(中部・幌内川と北部・ロモウ川の流域)のウィルタ民族、北部にニヴフ民族(ニヴヒとも。アイヌ民族は西岸を「スメレンクル」、東岸を「ニクブン」と呼んだ)などの北方少数民族もいた。
古代から近世
中国、朝鮮の古書(山海経、海東諸国記)には、いずれも「日本の北(又は領域)は黒龍江口に起こる。」と記載。また、飛鳥時代の斉明天皇のころ行われた蝦夷征討・粛慎討伐の際、阿倍比羅夫が交戦した幣賄弁島は樺太との説[16]もある。
- 640年(舒明天皇12年) - 「流鬼」(オホーツク文化人?)が唐に入貢。
- 660年(斉明天皇6年)3月 - 阿倍比羅夫、『日本書紀』に記される粛慎を討つ。比羅夫は、粛慎に攻められた渡島の蝦夷に大河のほとりで助けを求められ、幣賄弁島まで追って粛慎と戦う。能登馬身龍が戦死するもこれを破る。
- 762年(天平宝字6年)12月1日 - 陸奥国(陸前国)の国府・多賀城に修造された多賀城碑に「去靺鞨(まっかつ)国界三千里(1,600km)」と記される。ちなみに、多賀城碑からの直線距離は、間宮海峡最狭部(黒龍水道)で約1,530km、それより北の黒龍江河口付近で約1,600kmである。
- 1217年(建保5年) - この年、北条義時が陸奥守となる。年代は不詳であるが、これ以後の義時執権在職時のいずれかの時点で、奥羽や渡島の蝦夷の押さえのために安藤太が津軽に配される(蝦夷沙汰職・蝦夷代官)。蝦夷代官は鎌倉幕府の政務のひとつである「東夷成敗」を担い、北方交易や流刑者の管理を通じて蝦夷を統括していたとみられる。この頃(13世紀前半)、アイヌが樺太に進出[17]。
- 1264年(文永元年) - 迷(ギレミ、吉烈滅)が「骨嵬(クイ)や亦里于(イリウ)が毎年のように侵入してくる」と訴えたため、蒙古帝国(1271年から、が3000人の軍勢を樺太に派兵し、住民の「骨嵬」を攻撃。
- 1284年(弘安7年)- 1286年(弘安9年) - 元、聶古帯(ニクタイ)を征東招討司に任じ、骨嵬征伐が20年ぶりに実行される。
- 1295年(永仁3年) - 日持が日蓮宗の布教活動のために樺太へ渡り、本斗郡本斗町阿幸に上陸し、布教活動を行ったとされる。
- 1297年(永仁5年)7月 - 王不廉古(ユプレンク)に率いられた骨嵬(樺太アイヌ)が外満州の黒龍江を遡上して払里河というところで元と交戦。海保嶺夫は、蝦夷沙汰職・蝦夷代官安藤氏が蝦夷を動員して元と戦ったという説を唱えたが[18]、榎森進はその推理には無理があると指摘している[19]。
- 1308年(徳治3年/延慶元年) - 吉里迷を仲介として、骨嵬が毛皮の朝貢を条件に元朝への和議・帰順を申し入れた。以降、40年以上に及んだ骨嵬と元朝の戦いは終了(安藤氏の乱も参照)。
- 1336年-1392年(南北朝時代)の具足(甲冑)が樺太から出土している。
- 1368年(南朝:正平23年、北朝:応安元年) - 元が中国大陸の支配権を失い北走、満洲方面を巡って新興の明を交えての戦乱と混乱が続き、樺太への干渉は霧消する。
- 1411年(応永18年) - 明は進出した黒龍江(アムール川)下流域、外満州のティルに奴児干都司設置。周辺諸民族に対し冊封を行う際、樺太北部3箇所の先住民首長にも名目的に衛(羈縻衛)指揮官の称号を付与[20]。これを介し南樺太以南に住むアイヌ民族と交易する(山丹交易も参照)。
- 1435年(永享7年) - 奴児干都司が廃止され、樺太北部3衛の先住民は明への朝貢から解放される。
- 1485年(文明17年) - 樺太アイヌの首長が、蝦夷管領・安東氏の代官武田信広(松前家の祖)に銅雀台を献じ(ウィマム[21]し)配下となる。
- 1593年(文禄2年) - 豊臣秀吉は松前慶広に先住民であるアイヌの保護を行うとともに、諸国から集まる人々を取り締まり、従来どおりこれらから税を取り立てる権利を認めた [22]。
- 1603年(慶長8年) - 松前藩によって宗谷に利尻・礼文・樺太を司さどる役宅が置かれた。
- 1604年(慶長9年) - 徳川家康は松前慶広に黒印状を発給。その中で、松前藩に蝦夷(アイヌ)に対する交易独占権を認めていた。
- 1635年(寛永12年) - 松前藩の松前公広が村上掃部左衛門を樺太巡察に派遣し、ウッシャムに至る。
- 1644年(寛永21年) - 江戸幕府が松前藩から提出の所領地図を基に作成した「正保御国絵図」に、樺太が北海道の北の大きな島として記載されている。
- 1679年(延宝7年) - 松前藩の穴陣屋が久春古丹(大泊郡大泊町楠渓)に設けられ、日本の漁場としての開拓が始まる。
- 1685年(貞享2年) - 樺太は松前藩家臣の知行地として開かれたソウヤ場所に含まれた(商場(場所)知行制を参照)。
- 1700年(元禄13年) - 松前藩は樺太を含む蝦夷地の地名を記した松前島郷帳を作成し、幕府に提出。
- 1709年(宝永6年) - 清の皇帝が3人のイエズス会修道士に命じて清国版図測量中に、満州語でサハリャン・ウラ・アンガ・ハダ(黒竜江河口対岸の峯、の意)と呼んだ。
- 1715年(正徳5年) - 幕府に対し、松前藩主は「十州島、唐太(樺太)、チュプカ諸島、勘察加」は松前藩領と報告。
- 1742年(寛保2年)頃 - 樺太アイヌが清商人から略奪をはたらき、清の役人が樺太アイヌを取り締まる。当時、直接大陸に渡るアイヌもいた(山丹交易も参照)。
- 1752年(宝暦2年) - ソウヤ場所から樺太場所が分立(場所請負制を参照)。
- 1787年(天明7年) - フランス海軍の軍人ラ・ペルーズが2隻のフリゲート艦で樺太西岸を探検。
- 1790年(寛政2年)
- 1792年(寛政4年) - 最上徳内、樺太西岸のクシュンナイ(久春内郡久春内村)まで調査。
- 1798年(寛政10年) - 東蝦夷地(北海道太平洋岸および千島)が公議御料(幕府直轄領)となり、場所請負制を通じて東蝦夷地のアイヌ人の宗門人別改帳(戸籍)が作成される。
- 1801年(享和元年) - 中村意積、高橋一貫ら、東岸のナイブツ(栄浜郡栄浜村内淵)、西岸のショウヤ岬(名好郡西柵丹村北宗谷)まで踏査。
- 1806年(文化3年) - 日本との通商を拒否されたニコライ・レザノフの部下のロシア海軍士官らが報復のため久春古丹を焼き討ちにする(文化露寇、1806〜1807年)。弁天社[24][25]の鳥居に真鍮でできた板を取り付け「樺太の占領」「先住民はロシアに服従した」と意味する内容が記された。ただし、ロシア帝国政府は文化露寇に関与しておらず、1813年(文化10年)イルクーツク県知事トレスキンとオホーツク長官ミニツキーの釈明書を松前奉行に提出・謝罪し事件は解決した。
- 1807年(文化4年) - ロシア海軍士官らが択捉島、礼文島などとともに留多加を襲撃する。警固のため幕府が秋田藩・弘前藩・仙台藩・会津藩などに蝦夷地への出兵を命じる。西蝦夷地(唐子エゾ居住地である北海道日本海岸・オホーツク海岸・樺太)も公議御料とし、以降樺太アイヌを含む全蝦夷地のアイヌ人の宗門人別改帳(戸籍)が作成されるようになる(江戸時代の日本の人口統計も参照)。
- 以下に幕府が把握した北蝦夷地(樺太)のアイヌ人の人口と、明治政府が把握した樺太人員の本籍人口をまとめる。
北蝦夷地(樺太)人員の変遷 西暦(元号) 人口 1804年(文化元年) 2,100 1822年(文政5年) 2,571 1839年(天保10年) 2,606 1854年(安政元年) 2,669 1873年(明治6年)1月1日 2,358 1875年(明治8年)1月1日 2,374
- 1808年(文化5年) - 江戸幕府が、最上徳内、松田伝十郎、間宮林蔵を相次いで派遣。松田伝十郎は樺太最西端ラッカ岬(北緯52度)に「大日本国国境」の国境標を建て間宮海峡を国境とした。
- 1809年(文化6年)
- 1821年(文政4年) - 幕府、全蝦夷地を松前藩に返還する。
- 1846年(弘化3年) - 松浦武四郎が草履取・運平と名乗り、はじめて渡樺。北蝦夷地勤務を下命された藩医・西川春庵に随行。
- 1848年(嘉永元年) - ロシアの東シベリア総督ムラヴィヨフは海軍軍人ゲンナジー・ネヴェリスコイに黒龍江河口部および樺太沿岸の調査を依頼。間宮海峡を初めて船舶で通過した。
幕末から明治初期
- 1853年(嘉永6年)
- ロシアが、北樺太北端クエグト岬に露国旗を掲げ、領有を宣言。同年秋、ネヴェリスコイ海軍大佐は久春古丹にムラヴィヨフ哨所(砦)を築き、国旗を掲揚し樺太全島の領有を宣言。哨所を築いた場所に日本人の倉庫があったのでこの建物を接収した(ロシア軍艦対馬占領事件や帝国主義・南下政策も参照)。
- ロシア使節プチャーチン、国境交渉と交易を求め長崎に来航。日本全権筒井肥前守・川路聖謨と交渉したが決裂。北緯50度線分割案も検討されたが、日本に属するアイヌ(オムシャや宗門人別改帳も参照)の居住地(西岸は北緯50°より少し北のホロコタン(幌渓、露名:ピレオ。樺太西岸におけるアイヌ居住地北限。)以南、東岸は北緯48.5°のフヌプ(元泊郡元泊村班伸)以南)は日本領、それより北もロシアの支配が及ばない無主地として国境交渉。当時、樺太の住民は南部の日本人(アイヌ及び和人)、東岸(中部・幌内川と北部・ロモウ川の流域)のウィルタ、北部のニヴフのみ。間宮海峡対岸の外満州でさえ清国領であり、ロシア領ではなかった[29]。
- 1854年(嘉永7年)
- 1854年(安政元年)
- 安政年間(1854 年~1860年)から明治初期にかけて、安房勝山藩、小浜藩、黒羽藩、烏山藩、笠間藩、加納藩の各藩もタライカ湾の静香川(敷香郡敷香町)近辺に警固の拠点を構えた。東岸でフヌプより北に居住するアイヌ(タライカ人)は60名で、多来加湾岸は東岸におけるアイヌ居住地北限であるが、特に多来加湖周辺ではニヴフやウィルタと混住していた。
- 1855年(安政2年) - 樺太を含む蝦夷地は再び公議御料(幕府直轄領)となり、秋田藩が白主と久春古丹に陣屋を築き警固を行った。また、この年以降番人を足軽に取立て武装化し冬季も警固した。
- 1856年(安政3年)
- 1857年(安政4年)
- 越後出身の蝦夷地御用方・松川弁之助が東岸のオチョポカ(富内郡富内村落帆)に漁場(ぎょば)を開拓する。
- 越後国蒲原郡井栗村の大工職の平次郎の妻よつ、樺太で身内が亡くなりワアレ(栄浜郡白縫村輪荒)まで一人で旅した[32]。
- 佐藤広右エ門、東海岸のマアヌイと西海岸の久春内に取締所と番屋(漁舎)、東海岸のオチョポッカや魯礼にも会所(運上屋)を建て漁場の経営に当った。
- 7月 - ロタノスケ率いるロシア軍がナヨロ(泊居郡名寄村)に上陸しクシニンナイに移動、クスナイスキー哨所を建設したが日本の警護が固く8月1日撤退。
- 同年、海軍大尉N.M.チハチョーフがニヴフ居住地・北樺太西海岸の土衣にドウーエ哨所を建設。
- 安政3年4年(1856・57)頃、幕府の施設でクシュンコタンに大砲4基が設置された台場1カ所が存在。陸上交通について、西岸は「通行屋」5カ所、「小休所」3カ所、ナヤス(名好郡名好村)以北のみに「露宿」あり。亜庭湾岸は「通行屋」8カ所と、「小休所」3カ所。東岸は「通行屋」5カ所と、「小休所」5カ所。
- 1858年(安政5年)
- 幕府は大野藩主土井利忠に北蝦夷地警固と開拓を命じた(大野藩準領ウショロ(鵜城)場所)。ウショロ場所には、名好郡やホロコタン(幌渓、露名:ピレオ)も含まれた。同年、クシュンナイ周辺が箱館奉行石狩役所の直捌場所となった(石狩御直場所)。
- 10代目・山田文右衛門(清富)が差配人並に任じられ、シュシュウシナイ(栄浜郡栄浜村栄浜)など東海岸に数か所の漁場を開いた。
- 米屋喜代作(慶応二年以降の佐野孫右衛門)等もイヌヌシナイ(栄浜郡栄浜村犬主)やマクンコタン(元泊郡帆寄村馬群潭)に漁場を開いた。
- マーヌイ(栄浜郡白縫村真縫)にマヌエ哨所を建設。少数のロシア兵が定住し、はじめて日露両国人の部分的な雑居状態が生じる。これを除くと、当時、樺太に居住するロシア人はニヴフ居住地の北樺太西岸・オッチシ(落石、露名:アレクサンドロフ・サハリンスキー)に12名のみである。
- 1859年(安政6年)7月26日 - ムラヴィヨフは、自ら軍艦7隻を率いて品川に来航。樺太全土は露領と威嚇、主張したが、虎ノ門天徳寺における江戸幕府とムラヴィヨフの会談の席上、幕府は外国事務掛遠藤胤統、酒井忠毘を通してこれを完全に退けた。
- 1860年(万延元年)
- 樺太南部の警固は仙台・会津・秋田・庄内の4藩となる。
- 佐藤広右衛門、中知床岬北東海岸に漁場7カ所を開く。
- 1862年 (文久2年)
- 1863年(文久3年) - 樺太南部の警固は仙台・秋田・庄内の3藩となる。
- 1865年(慶応元年)
- 岡本監輔が、樺太最北端ガオト岬(北緯55度)に至り、「大日本領」と記した標柱を建てる。
- ロシア軍艦が久春内に来航し、大砲二門を揚陸し強引に哨所を築く。
- 1866年(慶応2年)
- 2月 - 久春内幕史拘束事件
- 9月 - ロシア兵はナイブチ(内淵)川(栄浜郡栄浜村内淵)川口近くに小屋を建てた。
- 1867年(慶応3年)
- 1868年(慶応4年)
- 1869年(明治2年) - 開拓使直轄領となり、北蝦夷地を樺太と改称。この年からロシアは囚人を送込み始める。
- 1870年(明治3年)2月13日 - 樺太開拓使が開拓使から分離して、久春古丹に開設される。
- 1871年(明治4年)8月7日 - 樺太開拓使を閉鎖し、開拓使に再度統合する。
- 1872年(明治5年) - 羅卒(警察官)を樺太に派遣(壬申戸籍も参照)。
- 1873年(明治6年) - ロシア兵が破壊活動や消火活動妨害を行った函泊(大泊郡大泊町山下)出火事件を受け、羅卒を増員。
全島のロシア領期
- 1875年(明治8年)5月7日 - 樺太・千島交換条約締結により日本は樺太島の領有権を完全に放棄し、全島がロシア領となる。
- 1890年(明治23年) - 作家のアントン・チェーホフが、流刑地となっていた樺太を現地調査。主に漁業を営む現地の日本人島民とも交流。日本への渡航も企てるが失敗。後に報告記「サハリン島」を執筆する。
- 1905年(明治38年)7月 - 日露戦争末期、日本軍が樺太島に侵攻・攻略、全域を占領(樺太の戦い (1905年))。
南部の日本領期
- 1905年(明治38年)9月5日 - 日露戦争勝利後のポーツマス条約締結により、北緯50度以南の樺太島(南樺太)が日本領に復帰。行政機関として樺太民政署が設置される。
- 1907年(明治40年)4月1日
- 日本統治時代の樺太(南樺太)の人口変遷を以下にまとめる。
日本統治時代の樺太(南樺太)の人口変遷 調査年月日 人口 出典 1908年(明治41年)12月31日 26,393 樺太庁統計書 1913年(大正2年)12月31日 44,356 樺太庁統計書 1918年(大正7年)12月31日 79,795 樺太庁統計書 1920年(大正9年)10月1日 105,899 国勢調査 1925年(大正14年)10月1日 203,754 国勢調査 1930年(昭和5年)10月1日 295,196 国勢調査 1935年(昭和10年)10月1日 331,943 国勢調査 1940年(昭和15年)10月1日 414,891 国勢調査 1944年(昭和19年)2月22日 391,825 人口調査
- ただし、極寒の樺太では夏と冬では人口が違い、冬には避寒のため北海道や以南に戻る者が多く人口が減り、翌夏にはまた増える。例としては明治44年では夏の人口は57000人だが冬には36725人に減っている[36]。
- 1908年(明治41年)3月31日 - 内務省告示にて、地名を日本語式漢字表記に変更[37]。
- 1911年(明治44年) - 三井合名会社が樺太国有林の伐採権を得る。
- 1913年(大正2年) - 樺太守備隊廃止。以降、国境警察隊が国境警備を担当。
- 1915年(大正4年)6月26日 - 勅令第101号樺太ノ郡町村編制ニ関スル件により、17郡4町58村が設置される。
- 1918年(大正7年) - 共通法(大正7年法律第39号)(大正7年4月17日施行)1条2項で、樺太を内地に含むと規定[38]され、終戦まで基本的に国内法が適用されることとなった。
- 1920年(大正9年)
- 1923年(大正12年)
- 1925年(大正14年)5月15日 - 日ソ基本条約締結にともない北樺太から撤兵する。条約により北樺太の天然資源の利権を獲得(オハ油田も参照)。
- 1929年(昭和4年)
- 1937年(昭和12年)7月1日 - 樺太市制により、豊原町が市制施行する。
- 1938年(昭和13年)1月3日 - 女優・岡田嘉子、脚本家・杉本良吉とともに樺太国境を越境し北樺太に亡命。スパイ容疑でソ連当局に逮捕され、杉本は銃殺された(大粛清#外国人粛清者)。
- 1939年(昭和14年)
-
国境に設置された天第一號(日本側)
-
国境に設置された天第一號(ソ連側)
内地時代
- 1942年(昭和17年)11月1日 - 拓務省の廃止と大東亜省の設置に伴い樺太庁が内務省へ移管される。
- 1943年(昭和18年)
- 1945年(昭和20年)
- 2月28日 - 樺太混成旅団を基幹に、歩兵第306連隊(第30警備隊改編)と迫撃砲1個大隊を加えて、豊原にて第88師団が編成された。
- 4月以降に日銀豊原事務所開設。
- 6月15日 - 豊原海軍武官府開庁。
- 8月9日 - ソビエト連邦が日ソ中立条約を一方的に破棄して侵略開始(樺太の戦い (1945年)。本土最後の地上戦の開始[43]。)
- 8月20日 - 真岡郵便電信局事件が起こる。
- 8月22日 - 三船殉難事件が起こる。
- 8月24日 - 稚泊連絡船運行休止。
- 8月25日 - 赤軍が樺太全島を占領する(本土最後の地上戦の終結)。民間人の死者は三船殉難を含め3,500-3,700人と推定されるが、正確な人数は不明[44][出典無効]。
戦後の樺太
- 1945年(昭和20年)9月17日 - 南サハリン・クリル列島住民管理局の設置により、樺太庁が事実上廃止される。
- 1946年(昭和21年)1月 - 連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) より日本政府に対しSCAPIN-677が通達され、日本の政治的・行政的権限の行使の中止が指令される。
- 1946年(昭和21年)2月2日 - 1945年9月20日まで遡り南サハリン州が設置され旧日本領の千島列島とともに南樺太が編入される。
- 1947年(昭和22年)1月2日 - 樺太全島と千島列島からなるサハリン州に編入。
- 1949年(昭和24年)6月1日 - 国家行政組織法が施行される。これをもって日本の国内法的に樺太庁が廃止される。
- 1952年(昭和27年)4月28日 - 日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)の発効により日本が南樺太の権利、権原及び請求権を放棄。(ただしソ連は調印・批准していない)
- 1989年(昭和64年・平成元年) - ソ連のミハイル・ゴルバチョフ政権による緊張緩和により外国人の立ち入りが許可される。
- 1991年(平成3年)12月25日 - ソ連崩壊に伴いロシアがサハリン州を継承。
- 2001年(平成13年) - 日本がユジノサハリンスクに総領事館を開設。
帰属の歴史
幕末以来、日本とロシアの間で領有者がたびたび変遷した。
- 1855年 - 日露和親条約が締結され、樺太は「界を分たす 是まて仕来の通たるへし」と、日露混住の地と決められた[46]。
- 1867年 - 日露間樺太島仮規則が締結され、「カラフト島は是迄の通り両国の所領」とされた[47]。
- 1875年(明治8年) - 樺太・千島交換条約により、樺太全島はロシアの領土となった。
- 1904年(明治37年)2月8日 - 日本は清国旅順港に展開中のロシア艦隊を奇襲攻撃、日露戦争が勃発した。
- 1905年(明治38年)6月 - アメリカ合衆国大統領・セオドア・ルーズベルトの講和勧告を日露両国が受諾表明した。後に日本は樺太作戦を決定し、
- 1907年(明治40年) - 日本は樺太に樺太庁を設置。
- 1942年(昭和17年) - 「内地行政」への編入を行った。
- 1945年(昭和20年)
- 1946年(昭和21年)
- 1月29日 - GHQの指令SCAPIN-677が日本政府に通達され、日本の行政権が停止される。
- 2月2日 - ソ連は南樺太・千島列島を南サハリン州とし、これをロシア共和国ハバロフスク地方に編入した。
- 1952年(昭和27年) - 「日本国が南樺太と付属島嶼を放棄すること」とされたサンフランシスコ講和条約が発効(当時のソ連は調印・批准していない)、日本は南樺太の領有を放棄したが、その後の南樺太の領土帰属に対して、日本とロシアの見解に差異がある。
領土問題
1945年(昭和20年)8月9日、ソビエト連邦が日ソ中立条約を一方的に破棄し対日参戦、8月11日より南樺太に侵攻を開始した。8月14日のポツダム宣言受諾後も、8月22日に知取町で日ソ停戦協定が成立するまで侵攻を続けた。結果南樺太を占領し、現在の継承したロシアに至るまで実効支配を続けている。
1951年(昭和26年)9月8日、サンフランシスコ講和条約締結により、南樺太の領有権を日本政府は放棄した。
ソビエト連邦はサンフランシスコ講和条約締結国でなく、南樺太の領有権の帰属先は条約上は未定のままとなっている。
冷戦下の1952年(昭和27年)3月20日にアメリカ合衆国上院は、同年4月28日に発効するサンフランシスコ平和条約の解釈から南樺太の領土、権利、権益をソビエト連邦の利益のために、南樺太の権利、権原及び権益をソビエト連邦に引き渡すことをこの条約は含んでいない、とする決議を行っている。
しかし、このような議論は一般的なものではなく、日本政府もサンフランシスコ平和条約の立場上、領土返還要求を行ってはいない。この点が、いわゆる北方領土問題(北方地域)とは異なっている。
ソビエト連邦崩壊後、それを継承したロシア連邦がいまなお南樺太全体を実効支配している。日本政府は南樺太の帰属は未確定で、最終的な帰属は将来の国際的解決手段に委ねられると主張している[48]。一方で、ロシアによる実効支配についてロシア以外のいかなる国の政府も領有権の主張を行っておらず、領有権を放棄した日本政府も異議を唱える立場にはないとしている[48]。
また、日本政府は仮に将来において何らかの国際的解決手段により南樺太の帰属が決定される場合にはその内容に応じて在ユジノサハリンスク総領事館について必要な措置を取ると主張している[48]。
ロシア側の立場は、ソ連はサンフランシスコ講和条約に調印しなかったが日本は国際条約で領有権を放棄している、ロシアの南樺太領有は戦争の結果であり、また既にソ連国内法により編入されているというものである。
領土が未帰属であることから北方領土問題とともに取り上げられることも少なくない。架空戦記の話題にもなった[49]。
樺太等在留邦人
樺太等に住んでいたが敗戦の混乱により帰国できなかった日本人。2018年現在では家族を含め275人が永住帰国を果たし86人が樺太に23人が旧ソ連圏に暮らしている[50]。
脚注
- ^ 「樺太―カラフト」を知る ニッポン 領土問題の原点 侵奪―回復ー放棄―不法占拠―そして? (別冊正論25)12頁
- ^ 阿部照哉・畑博行編『世界の憲法集 〔第二版〕』(有信堂、1998年8月発行)の「18 ロシア連邦」(宮地芳範が訳出及び解説を執筆)の「ロシア連邦憲法」第3章(連邦体制)第65条(ロシア連邦の主体)第1項によれば、サハリン州がロシア連邦を構成する主体となっている。
- ^ サハリン州憲章(1996年施行)第3条第1項によれば、「サハリン州の領土には、サハリン島とそれに隣接する領土、小クリル列島を含む千島列島の領土、ならびにロシア連邦の国際的条約と連邦法によってその境界が定められる内水と領海が入る。」と規定されている。
- ^ “北方領土問題に関するQ&A”. 2019年1月31日閲覧。
- ^ 西鶴定嘉説
- ^ 中川裕; 北原次郎太; 永山ゆかり; バヤリタ; ブリガ; 児倉徳和; 久保智之; 西田文信 ほか『ニューエクスプレス・スペシャル 日本語の隣人たちⅡ』白水社、2012年。ISBN 9784560086162。
- ^ 同上、及び 田村すず子『アイヌ語沙流方言辞典』草風館、1996年。ISBN 9784883230938。 、ほか多数
- ^ 海保嶺夫『北方史史料集成』北海道出版企画センター〈第4巻〉、1998年。ISBN 9784832898028。
- ^ 國東利行『廻国僧正光空念師宝永元年松前・蝦夷地納経記』北海道出版企画センター、2010年。ISBN 9784832810099。
- ^ 岩崎奈緒子「史料紹介 天理大学付属天理図書館所蔵 加模西葛杜加国風説考」『北海道・東北史研究』第3号、北海道・東北史研究会、2006年12月、NAID 40015350264。
- ^ 「ニッポン 領土問題の原点!!「樺太-カラフト」を知るの15頁の上段4行目。侵奪―回復―放棄―不法占拠―そして?【発行所:産経新聞社 発売所:日本工業新聞社】
- ^ a b c 建設産業部サハリン課. “サハリンへの旅”. 稚内市. 2019年10月21日閲覧。
- ^ 樺太の石炭産業の起源については、「十九世紀中旬、ロマノフ朝東シベリア総督が、樺太に送り込んだ囚人の一部を炭坑夫として労働させ、ごく小規模な炭鉱経営を開始したと考えられている(出典:太陽出版『絵で見る樺太の歴史』78ページ)
- ^ 『樺太の炭坑』(Website "樺太大百科")http://kam-r.sub.jp/ainu/karafutohyakka.html
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- ^ ウィマムとは藩主や役人にお目見えすること。
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注釈
参考文献
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- アントン・チェーホフ 『サハリン島』 原卓也訳、中央公論新社 新版2009年。