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「ギュスターヴ・カイユボット」の版間の差分

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{{Infobox 芸術家
{{Infobox 芸術家
| 称号 =
| name = ギュスターヴ・カイユボット<br />Gustave Caillebotte
| image = Caillebotteautoportrait.jpg
| 名前 = ギュスターヴ・カイユボット
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| 画像サイズ = 250px
| caption = 『自画像』(1892年頃) [[オルセー美術館]]蔵
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| 画像説明文 = 1878年頃の写真。
| birthdate = {{birth date|1848|8|19}}
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| 墓地 = [[ペール・ラシェーズ墓地]]<ref>{{Cite web |url=http://www.findagrave.com/memorial/6153/gustave-caillebotte |title=Gustave Caillebotte |publisher=Find a Grave |accessdate=2019-04-29}}</ref>
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'''ギュスターヴ・カイユボット'''(Gustave Caillebotte, [[1848年]][[8月19日]] - [[1894年]][[2月21日]])は、[[フランス]]の[[画家]]、[[印象派]]絵画収集家。印象派の画家たち経済的支援者であった
'''ギュスターヴ・カイユボット'''({{Lang|fr|Gustave Caillebotte}}, [[1848年]][[8月19日]] - [[1894年]][[2月21日]])は、[[フランス]]の[[画家]]、絵画収集家。画家としては[[写実主義]]的な傾向が強いが、第2回以降の[[印象派]]グループ展開催に経済的・精神的に大きく貢献し、自らもグループ展に作品を出品したことから、印象派の画家として挙げられるが通例であ


== 生涯 ==
== 生涯 ==
=== 生い立ち ===
富裕な衣料製造業者の子として、[[パリ]][[10区 (パリ)|10区]]のフォーブル・サン・ドニ通り([[:fr:Rue du Faubourg-Saint-Denis]])に生まれ、のち[[8区 (パリ)|8区]]のマルゼルブ大通り([[:fr:Boulevard Malesherbes]])付近のミロメニル通り([[:fr:Rue de Miromesnil]])とリスボンヌ通り([[:fr:Rue de Lisbonne]])界隈、そして[[9区 (パリ)|9区]]のオスマン大通り31番地([[:fr:Boulevard Haussmann]])に移った。
ギュスターヴ・カイユボットは、1848年、[[パリ]]の上流階級の家庭に生まれた。父マルシャル・カイユボット(1799-1874年)は、軍服製造業を継いで経営するとともに、[[セーヌ県]]の商業裁判所の裁判官でもあった。父は、妻と2度死別した後、セレステ・ドフレネ(1819-1878年)と結婚し、彼女との間にギュスターヴが生まれた。その後、弟のルネ(1851-1876年)と{{仮リンク|マルシャル・カイユボット|en|Martial Caillebotte|label=マルシャル}}(1853-1910年)が生まれた。生家はパリ[[10区 (パリ)|10区]]の{{仮リンク|フォーブル・サン・ドニ通り|en|Rue du Faubourg-Saint-Denis}}であった<ref name="Biography">{{Cite web |url=http://www.gustavcaillebotte.org/biography.html |title=Biography of Gustave Caillebotte |publisher=gustavcaillebotte.org |accessdate=2019-04-27}}</ref>。


[[ファイル:Propriété Caillebotte, Yerres.jpg|thumb|right|180px|イエールのカイユボット家別荘。]]
1857年、9歳の時に[[リセ・ルイ=ル=グラン|ルイ=ル=グラン高等中学]]に入り、1870年にはアカデミー・ドゥ・パリ法学部([[パリ大学]])を卒業して[[法律家]]免許を得た。その頃から[[レオン・ボナ]]の[[画塾]]に通い、1873年、[[エコール・デ・ボザール|パリ国立高等美術学校]]に入学したが、あまり登校しなかった。1874年、[[エドガー・ドガ|ドガ]]、[[クロード・モネ|モネ]]、[[オーギュスト・ルノワール|ルノワール]]らを知った。1875年の[[サロン・ド・パリ|官展]]に『床削りの人々』を持ち込んだが、「粗野」を理由に拒否された。
[[1860年]]、父マルシャルはパリ南郊の[[イエール (エソンヌ県)|イエール]]に広大な地所を購入し、一家は夏をイエールで過ごすようになった。カイユボットは、この頃から絵を描くようになったと思われる。1866年、一家はフォール・サン・ドニ通りから{{仮リンク|ミロムニル通り|en|Rue de Miromesnil}}に引っ越した<ref name="Biography" />。ここは、[[フランス第二帝政|第二帝政]]時代に上流階級の住宅地として新たに造成された地区であった<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 109)]]。</ref>。


フランスのエリート養成機関である[[リセ・ルイ=ル=グラン]]に通った後、[[1868年]]、法学部を卒業して学位を取得し、[[1870年]]には弁護士免許を取得した。その直後、[[普仏戦争]]で徴兵され、{{仮リンク|国民動員衛兵|fr|Garde nationale mobile}}として従軍した<ref name="Biography" />。
1878年(30歳)、分割相続した家産により画業に専念し、モネ、ルノワール、[[カミーユ・ピサロ|ピサロ]]、[[アルフレッド・シスレー|シスレー]]、ドガ、[[ポール・セザンヌ|セザンヌ]]らの作品を買うなどして、画家たちを経済的に助けられるようになった。


=== 第2回印象派展まで ===
印象派美術展開催の費用も提供し、自らも第2回(1876年)・第3回(1877年)・第4回(1879年)、第5回(1880年)・第7回(1882年)の会に自作を複数点出品した(→[[#主な作品|主な作品]])。また、購入済みの友人らの作品を展示用に貸し出した。
普仏戦争が終結すると、カイユボットは、[[レオン・ボナ]]の[[画塾]]に通い、本格的に絵の勉強を始めた。[[1873年]]、[[エコール・デ・ボザール]](官立美術学校)に入学したが、あまり登校しなかったようである。[[1874年]]、父マルシャルが亡くなった<ref name="Biography" />。


レオン・ボナの画塾では{{仮リンク|ジャン・ベロー|en|Jean Béraud}}と親しくなったほか、ミロムニル通りの近くに住んでいた{{仮リンク|アンリ・ルアール|en|Henri Rouart}}を通じて[[エドガー・ドガ]]と知り合い、その友人[[ジュゼッペ・デ・ニッティス]]とも親しくなった<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 109)]]。</ref>。ルアールとドガは、リセ・ルイ=ル=グランの先輩でもあった<ref>[[#木村|木村 (2012: 160)]]。</ref>。1974年、ドガやルアールはグループ展(後に第1回[[印象派]]展と呼ばれる)に参加したが、カイユボットは、これには参加していない<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 109)]]。</ref>。
彼の作品には、[[浮世絵]]、写真術、友人らの画風の影響などが見られるという。パリ南西郊の[[イエール (エソンヌ県)|イエール]]川畔を題材にした作品が多いのは、幼少時からそこで夏を過ごしたからである。


[[1875年]]、初期の代表作である『床削り』を制作し、この年の[[サロン・ド・パリ]]に提出したが、「低俗」と評され、落選した<ref name="Biography" />。この年、印象派グループ展のメンバーであるルノワール、モネ、[[アルフレッド・シスレー]]、[[ベルト・モリゾ]]が、{{仮リンク|オテル・ドゥルオ|en|Hôtel Drouot}}で競売会を開いたが、この頃以降、カイユボットは印象派の友人たちの作品を購入するようになっていった<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 124)]]。</ref>。
1881年(33歳)、パリ西北郊、[[セーヌ川]]畔のプティ・ジュヌヴィリエ(Petit-Gennevilliers)に敷地を求め、1888年から永住した。1882年以降は画を公表せず、園芸、ヨット作り、切手収集などに凝った。ルノワールが繁く訪れた。[[ジヴェルニー]]の温室で、モネと[[蘭]]を育てもした。


[[1876年]]3月から、'''第2回印象派展'''が開催され、カイユボットはこれに参加した。この年の2月、[[ピエール=オーギュスト・ルノワール]]とルアールは、連名で、カイユボットに対し、「私たちは今一度みんなで私設の展覧会を組織することがよいだろうと考えました。この趣旨に関して[[ポール・デュラン=リュエル|デュラン=リュエル]]氏と合意に達しています。……この新しい試みにあなたが参加してくだされば非常に嬉しい。」という手紙を送っており、2人の勧めで参加したことが分かる<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 110)]]。</ref>。カイユボットは、8点の作品を出品し、そのうち2点の『[[床削り]]』は、極端な[[遠近法]]と、都市労働者の情景で注目された。同時に、『ピアノを弾く若い男』、『窓辺の若い男』、『昼食の後』といったブルジョワの風俗を描いた作品も出品した<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 266-67)]]。</ref>。印象派展に対しては厳しい批評が多かった。その中で、[[エミール・ゾラ]]は、[[クロード・モネ]]やルノワールを新しい流派として称賛する一方、ドガとカイユボットに対しては、写実的すぎるとして批判した<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 120)]]。</ref>。反対に、[[ルイ・エドモン・デュランティ]]は、鋭いデッサン力で都市風俗を描いたドガとカイユボットを称賛した<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 122)]]。</ref>。{{仮リンク|ジョルジュ・リヴィエール (美術批評家)|fr|Georges Rivière (critique d'art)|label=ジョルジュ・リヴィエール}}は、カイユボットを「ドガの弟子」と呼んだ。カイユボットは、これらのデュランティやリヴィエールの評を読んで感激し、絵画制作に専念してもう一度グループ展で発表したいと思うようになった<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 124)]]。</ref>。
1894年(45歳)、園芸作業中、肺鬱血により没し、パリの[[ペール・ラシェーズ墓地]]に葬られた。
<gallery>
ファイル:Gustave Caillebotte - The Floor Planers - Google Art Project.jpg|『[[床削り]]』1875年。油彩、キャンバス、102 × 147 cm。[[オルセー美術館]]。第2回印象派展出品<ref>{{Cite web |url=https://www.musee-orsay.fr/en/collections/index-of-works/notice.html?no_cache=1&nnumid=105 |title=Raboteurs de parquet |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2019-04-27}}</ref>。
ファイル:G. Caillebotte - Jeune homme à la fenêtre.jpg|『{{仮リンク|窓辺の若い男|en|Young Man at His Window}}』1875年。油彩、キャンバス、117 × 82 cm。私蔵。第2回印象派展出品。
ファイル:G. Caillebotte - Le déjeuner.jpg|『昼食』1876年。私蔵。第2回印象派展出品。
ファイル:G. Caillebotte - Jeune homme au piano.jpg|『ピアノを弾く若い男』1876年。81.3 × 116.8 cm。[[ブリヂストン美術館]]。第2回印象派展出品<ref>{{Cite web |url=http://www.bridgestone-museum.gr.jp/collection/category_01/ |title=印象派とその周辺:ピアノを弾く若い男 |publisher=ブリヂストン美術館 |accessdate=2019-04-28}}</ref>。
</gallery>


=== 第3回印象派展 ===
シャルロット・ベルティエ(Charlotte Berthier)と愛人関係にあったが、結婚はしなかった。
同年(1876年)11月、弟ルネが26歳で亡くなった<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 125)]]。</ref>。カイユボットはこれに衝撃を受け、28歳にして遺言書を作成した。その内容は、「非妥協派または印象派と呼ばれる画家たち」の展覧会の準備資金に、自分の遺産から相当額を割り当てること、ルノワールと弟のマルシャル・カイユボットを遺言執行者に指名すること、自分の絵画コレクションを国家へ[[遺贈]]することなどであった<ref>[[#ディステル|ディステル (1996: 51-52)]]</ref>。


カイユボットは、[[1877年]]1月、[[カミーユ・ピサロ]]の作品を購入した。その頃、ピサロに宛てて、夕食会に招待する手紙を送っており、「展覧会の可能性についての問題をあなたと議論したいと思います。ドガ、モネ、ルノワール、シスレー、それに[[エドゥアール・マネ|マネ]]が来る予定です。」と書いている。この手紙と遺言書から、カイユボットが中心となって第3回印象派展を推進したことが分かる<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 125-260)]]。</ref>。
ピサロ、モネ、ルノワール、シスレー、ドガ、セザンヌ、マネの、計68点を、フランス政府に遺贈する気でいたが、当時印象派絵画はまだ『日陰者』で、ルノワールの2年間の折衝ののち、政府は漸く38点を受け入れた。現在は[[オルセー美術館]]へ移管されている。


そして、4月、カイユボットが借りたアパルトマンを会場にして、'''第3回印象派展'''が開催された。参加人数は18人となった。カイユボットは、ルノワール、モネ、ピサロとともに展示委員を務め、作品の内容と形式に従って5つの部屋に配分して展示を行った。カイユボット自身は、『[[パリの通り、雨]]』や『ヨーロッパ橋』など6点を出品した<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 130-33)]]。</ref>。『ヨーロッパ橋』は、[[サン・ラザール駅]]のすぐ上にある陸橋、『パリの通り、雨』は、ヨーロッパ橋の東北方向にあるデュブラン広場を描いたものであるが、同じ部屋に展示されたモネの『[[サン・ラザール駅 (モネ)|サン・ラザール駅]]』連作と主題において呼応する作品といえる。しかし、カイユボットの透視図法と写真のような綿密な仕上げは、印象派よりはサロンの価値観に合うものであった<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 271)]]。</ref><ref group="注釈">なお、モネがサン・ラザール駅を描くために駅の近くにアトリエを借りる資金を出したのもカイユボットであった。[[#木村|木村 (2012: 160-61)]]。</ref>。[[テオドール・デュレ]]は、『印象派の画家たち』という小冊子で、モネ、シスレー、ピサロ、ルノワール、ベルト・モリゾの5人を印象派の画家として紹介しているが、その中で、ドガやカイユボットについては、「印象派ではないが、彼らとともに出品したことのある、優れた才能を持つ画家たち」と位置付けている<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 145)]]。</ref>。
カイユボット自身の作品は、1950年代になって子孫が漸く市場に出した。


[[ファイル:G.Caillebotte - Autoportrait au chevalet.jpg|thumb|right|160px|『「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」を前にした自画像』1879年頃。第3回印象派展で購入したルノワールの作品が鏡で左右反転して描かれている<ref>[[#ディステル|ディステル (1996: 52)]]</ref>。]]
== 主な作品 ==
カイユボットは、ルノワールの『[[ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会]]』や、モネの『サン・ラザール駅』を購入した。ただ、第3回印象派展の全体の売れ行きは思わしくなく、参加者たちの間での温度差を生む要因となっていった<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 145)]]。</ref>。
以下で、例えば No.2 は、『第2回印象派美術展に出品した作品』である。太字の画は、次項の『[[#ギャラリー|ギャラリー]]』に画像がある。
<gallery>
* 『化粧台の前の女』(Femme à sa toilette)(1873)、個人蔵。
ファイル:Caillebotte-PontdeL'Europe-Geneva.jpg|『{{仮リンク|ヨーロッパ橋 (カイユボット)|en|Le Pont de l'Europe|label=ヨーロッパ橋}}』1876年頃。油彩、キャンバス、124.7 × 180.6 cm。{{仮リンク|プティ・パレ (ジュネーヴ)|fr|Petit Palais (Genève)|label=プティ・パレ}}([[ジュネーヴ]])。第3回印象派展出品。
* 『庭師たち』(Les Jardiniers)(1875-1877)、個人蔵。
ファイル:Gustave Caillebotte - Paris Street; Rainy Day - Google Art Project.jpg|『[[パリの通り、雨]]』1877年。油彩、キャンバス、212.2 × 276.2 cm。[[シカゴ美術館]]。第3回印象派展出品<ref>{{Cite web |url=https://www.artic.edu/artworks/20684/paris-street-rainy-day |title=Paris Street; Rainy Day |publisher=Art Institute Chicago |accessdate=2019-04-27}}</ref>。
* No.2、『'''床削りの人々'''』(Les Raboteurs de parquet)(1875)、[[オルセー美術館]]
</gallery>
* 『'''イエール、雨'''』(L'Yerres, pluie)(1875)、[[インディアナ大学美術館]]
* No.2、『'''窓辺の若い男'''』(Jeune homme à la fenêtre)(1875)、個人蔵。
* No.2、『'''昼餉'''』(Le déjeuner)(1876)、個人蔵。
* No.2、『'''ピアノを弾く若い男'''』(Jeune Homme au Piano)、(1876)、[[ブリヂストン美術館]]
* No.3、『'''田舎の肖像'''』(Portraits à la campagne)(1876)、[[バイユー]]の[[ジェラール男爵美術館]]
* No.3、『'''ヨーロッパ橋'''』(Le Pont de l'Europe)(1876)、[[オードロップゴー美術館]]
* No.3、『'''パリの通り、雨'''』(Rue de Paris, temps de pluie)(1877)、[[シカゴ美術館]]
* 『ボート漕ぎたち』(Canotiers)(1877)、個人蔵。
* No.3、『'''外装工'''』(Peintres en bâtiment)(1877)、個人蔵。
* No.4、『'''イエール川のカヌー'''』(Les Périssoires sur l'Yerres)(1877)、[[ナショナル・ギャラリー (ワシントン)|ナショナル・ギャラリー]]。
* No.4、『'''ボート遊び'''』(La Partie de bateau)(1877)、個人蔵。
* No.4、『'''ボート漕ぎ'''』(Les Périssoires)(1877)、[[ミルウォーキー美術館]]
* 『サン・ラザール駅』(La Gare Saint Lazare)(1877)、オルセー美術館
* 『'''イエール川、飛び込み台の男'''』(Baigneur s'apprêtant à plonger)(1878)、不明。
* 『'''イエール川畔の釣り人'''』(Pêcheur au bord de l'Yerres)(1878)、個人蔵。
* No.4、『'''オレンジの木'''』(Les Orangers)(1878)、[[ヒューストン美術館]]
* No.4、『'''ボート漕ぎ'''』(Les Périssoires)(1878)、[[レンヌ美術館]]
* No.4、『'''屋根の上の雪'''』(Vue de toits、effet de neige)(1878)、オルセー美術館。
* 『イエール川のカヌー遊び 』(Canotiers ramant sur l'Yerres)(1879)、個人蔵。
* No.7、『'''バルコニーの男、オスマン大通り'''』(Homme au balcon, boulevard Haussmann)(1880)、個人蔵。
* No.7、『'''バルコニー、オスマン大通り'''』(Un Balcon, Boulevard Haussmann)(1880)、個人蔵。
* No.5、『'''キャフェにて'''』(Dans un café)(1880)、[[ルーアン美術館]]
* 『室内』('''Intérieur''')(1880)、個人蔵。
* No.7、『'''店先の果物'''』(Fruits sur un étalage)(1882)、[[ボストン美術館]]。
* No.7、『カルタ遊び』(La Partie de bésigue)(1880)、個人蔵。
* No.5、『上から眺めた[[ブールバール|ブールヴァール]]』(Boulevard vu d'en haut)(1880)、個人蔵。
* No.7、『静物、店先の家禽と野鳥』(Nature morte. poulet et gibier à l'étalage)(1882)、ボストン美術館
* 『'''作業衣の男'''』(Homme portant une blouse)(1884)、個人蔵。
* 『'''トゥルヴィーユの別荘'''』(Villas à Trouville)(1884)、個人蔵。
* 『'''ジャンヌヴィリエの草原'''』(La Plaine de Gennevilliers)(1884)、個人蔵。
* 『'''アルジャントゥイユの帆舟群'''』(Voiliers à Argenteuil)(1888頃)、オルセー美術館。
* 『'''金蓮花'''』(Nasturces)(1892)、個人蔵。
* 『'''プティ・ジャンヌヴィリエの庭、冬'''』(Le jardin du Petit Gennevilliers en hiver)(1894)個人蔵。
* 『自画像』(Gustave Caillebotte, autoportrait)(1892)、個人蔵。


== ギャラリー ==
=== 第4回印象派展 ===
[[1878年]]5月から11月にかけて、[[パリ万国博覧会 (1878年)|パリ万国博覧会]]が開かれた。トロカデロ宮で美術展が行われたが、印象派はもちろん、[[ウジェーヌ・ドラクロワ]]や、[[ジャン=フランソワ・ミレー]]など[[バルビゾン派]]の画家たちでさえ排除された、保守的な展覧会となった。カイユボットは、これに憤慨し、[[カミーユ・ピサロ]]に、すぐに第4回印象派展を開くことを提案した。しかし、ドガは、万国博覧会が終わってからにすべきとの意見であった。この年、ルノワールがサロンに作品を応募して入選し、モネもサロンへの応募を希望したのに対し、ドガは、サロンを敵視し、グループ展参加者はサロンに応募すべきでないという考え方であり、グループ内での意見の対立が顕在化してきた<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 129, 146)]]。</ref>。カイユボットは、ドガの芸術を敬愛する一方で、狷介な性格で政治的主張に偏りがちなドガに辟易させられ、グループ展参加者の資格という大きな問題から、ポスターへの参加者名への記載のような小さな問題まで、しばしば意見の対立を繰り返した<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 138, 160)]]。</ref>。
<gallery caption=カイユボットの作品例>

Image:Gustave_Caillebotte_-_The_Floor_Planers_-_Google_Art_Project.jpg|<center>床削りの人々(1875)</center>
ピサロは、同年3月、カイユボットに送った手紙で、「[[エミール・ゾラ|ゾラ]]は[[ポール・セザンヌ|セザンヌ]]にサロン応募を勧めているのでしょう。シャルパンティエ夫妻がルノワールにサロン応募を勧めているように。私たちだけで展覧会を敢行できるでしょうか? ……残念なことだが、やがて完全なグループの崩壊が起きることを予想しておかなければならない。」と相談している<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 146-47)]]。</ref>。
Image:G. Caillebotte - L'Yerres, pluie.jpg|<center>イエール、雨(1875)</center>

Image:G. Caillebotte - Jeune homme à la fenêtre.jpg|<center>窓辺の若い男 (1875)</center>
カイユボットは、イエールの別荘に滞在し、イエール川の船漕ぎや水泳の情景を描いた。1878年10月、母が亡くなり、両親の遺産を弟とともに相続することになった<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 276)]]。</ref><ref name="Biography" />。
Image:G. Caillebotte - Le déjeuner.jpg|<center>昼餉(1876)</center>

File:G. Caillebotte - Jeune homme au piano.jpg|<center>ピアノを弾く若い男(1876)</center>
'''第4回印象派展'''は、[[1879年]]4月から開催されたが、この回は、ドガの主張が強く反映され、名称が「独立派(アンデパンダン)展」となり、サロン応募者は参加させないこととなった。カイユボットは、モネに、サロン応募を思いとどまり、グループ展に参加するよう説得した<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 150-51)]]。</ref>。結局、カイユボットが、所蔵者からモネの作品29点を借り集めて出品した<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 302-03)]]。</ref>。ルノワール、シスレー、セザンヌは、サロンに応募するため、グループ展には参加しなかった。ベルト・モリゾも不参加であり、グループの分裂が際立つ結果となった<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 158-59)]]。</ref>。
Image:CasinCaillebotte.jpg|<center>田舎の肖像(1876)</center>

Image:G. Caillebotte - Le pont de l'Europe.jpg|<center>ヨーロッパ橋(1876)</center>
カイユボット自身は、カタログによれば、絵画19点、パステル6点を出品した。イエール川の船漕ぎや水泳の作品、パリの風景画、肖像画と装飾パネルであった<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 276-77)]]。</ref>。デュランティは、展覧会評で、ドガ、カイユボット、[[メアリー・カサット]]を称賛している<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 155-56)]]。</ref>。
Image:Gustave Caillebotte - La Place de l'Europe, temps de pluie.jpg|<center>パリの通り、雨(1877)</center>
<gallery>
File:Caillebotte oarsmen.jpg|<center>イエール川のカヌー(1877)</center>
ファイル:Caillebotte oarsmen.jpg|『ボート漕ぎ』1877年。油彩、キャンバス、88.9 × 116.2 cm。[[ナショナル・ギャラリー (ワシントン)|ナショナル・ギャラリー]]([[ワシントンD.C.]])。第4回印象派展出品<ref>{{Cite web |url=https://www.nga.gov/collection/art-object-page.66404.html |title=Skiffs |publisher=National Gallery of Art |accessdate=2019-04-28}}</ref>。
File:G. Caillebotte - Les Périssoires (1877).jpg|<center>ボート漕ぎ(1877)</center>
ファイル:G. Caillebotte - Les Périssoires (1878).jpg|『ペリソワール』1878年。油彩、キャンバス、155.5 × 108.5 cm。[[レンヌ美術館]]。第4回印象派展出品<ref>{{Cite web |url=http://www2.culture.gouv.fr/public/mistral/joconde_fr?ACTION=CHERCHER&FIELD_1=REF&VALUE_1=00000074710 |title=Perissoires |publisher=Joconde |accessdate=2019-04-28}}</ref>。
Image:G. Caillebotte - Baigneur s'apprêtant à plonger.jpg|<center>イエール川、飛び込み台の男(1878)</center>
ファイル:G. Caillebotte - Baigneur s'apprêtant à plonger.jpg|『川に飛び込もうとする男』1878年。私蔵。
Image:G. Caillebotte - Pêcheur au bord de l'Yerres.jpg|<center>イエール川畔の釣り人(1878)</center>
ファイル:Gustave Caillebotte - The Orange Trees - Google Art Project.jpg|『{{仮リンク|オレンジの木々|en|Les Orangers}}』1878年。油彩、キャンバス、154.9 × 116.8 cm。[[ヒューストン美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://www.mfah.org/art/detail/43483 |title=The Orange Trees |publisher=The Museum of Fine Arts, Houston |accessdate=2019-04-28}}</ref>
Image:G. Caillebotte - Les orangers.jpg|<center>オレンジの木(1878)</center>
ファイル:Gustave Caillebotte - Rooftops in the Snow (snow effect) - Google Art Project.jpg|『{{仮リンク|屋根の眺め(雪の効果)|en|Vue de toits (Effet de neige)}}』1878年。油彩、キャンバス、64.5 × 81.0 cm。[[オルセー美術館]]。第4回印象派展出品<ref>{{Cite web |url=https://www.musee-orsay.fr/en/collections/index-of-works/notice.html?no_cache=1&nnumid=00108&cHash=ff186a6bb4 |title=Vue de toits (Effet de neige) |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2019-04-28}}</ref>。
Image:G. Caillebotte - Les Périssoires (1878).jpg|<center>ボート漕ぎ(1878)</center>
Image:Vue de toits (Effet de neige) - Gustave Caillebotte.jpg|<center>屋根の上の雪(1878)</center>
Image:Caillebotte, L'Homme au balcon, boulevard Haussmann - Christie's.jpg|<center>バルコニーの男、オスマン大通り(1880)</center>
Image:G. Caillebotte - Un balcon (1880).jpg|<center>バルコニー、オスマン大通り(1880)</center>
Image:G. Caillebotte - Dans un café.jpg|<center>キャフェにて(1880)</center>
Image:G. Caillebotte - Intérieur.jpg|<center>室内(1880)</center>
File:G. Caillebotte - Fruits sur un étalage.jpg|<center>店先の果物(1882)</center>
Image:G. Caillebotte - Homme portant une blouse.jpg|<center>作業衣の男(1884)</center>
File:G. Caillebotte - Villas à Trouville.jpg|<center>トゥルヴィーユの別荘(1884)</center>
Image:G. Caillebotte - Voiliers à Argenteuil.jpg|<center>アルジャントゥイユの帆舟群(1888)</center>
Image:G. Caillebotte - La Plaine de Gennevilliers.jpg|<center>ジャンヌヴィリエの草原(1888)</center>
Image:G. Caillebotte - Nasturces.jpg|<center>金蓮花(1892)</center>
Image:G. Caillebotte - Le jardin du Petit Gennevilliers en hiver.jpg|<center>プティ・ジャンヌヴィリエの庭、冬(1894)</center>
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=== 第5回印象派展 ===
== 参照した外部リンク ==
[[1880年]]にグループ展を開催するに際しても、カイユボットとドガは様々な点で対立した。ドガは、グループの名称を独立派(アンデパンダン)とすること、ポスターに出品者の名前を載せないこと、風俗的な主題を扱う画家たちにもグループ展への参加を認めることを主張したが、カイユボットは、いずれにも反対した<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 279)]]。</ref>。ドガは、3月に{{仮リンク|フェリックス・ブラックモン|en|Félix Bracquemond}}に宛てた手紙の中で、「(ポスターに出品者の)名前を記載するかどうかでカイユボットとの間に大きな戦いがありました。私が屈服し名前を乗せることにしました。……この世の中にいくら良い理由と趣味があっても、ほかの人たちの惰性とカイユボットの頑固さによって何も達成できません。」と、不満をあらわにしている<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 178-79)]]。</ref>。
{{参照方法|date=2012年12月}}

{{commons|Gustave Caillebotte}}
'''第5回印象派展'''は、[[1880年]]4月に開催された。ルノワール、シスレー、セザンヌに加え、モネもサロンに応募し、グループ展には参加しなかった<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 180)]]。</ref>。一方で、ドガが強く推した[[ジャン=フランソワ・ラファエリ]]が参加し、グループ展の内容は印象主義から相当離れたものになった<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 182)]]。</ref>。カイユボットは、カタログによれば、『カフェにて』、『室内』など11点を出品した<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 280)]]。</ref>。
* [http://caillebotte.net/ カイユボットに関する総合的なサイト]

* [http://www.salvastyle.com/menu_impressionism/caillebotte.html カイユボットの経歴と代表作]
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* フランス語版Wikipediaの、『Gustave Caillebotte』
ファイル:G. Caillebotte - Dans un café.jpg|『カフェにて』1880年。油彩、キャンバス、155 × 115 cm。[[ルーアン美術館]]。第5回印象派展出品<ref>{{Cite web |url=https://www.musee-orsay.fr/en/collections/index-of-works/notice.html?no_cache=1&nnumid=0069686&cHash=ff186a6bb4 |title=Au café |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2019-04-28}}</ref>。
* 英語版Wikipediaの、『Gustave Caillebotte』
ファイル:G. Caillebotte - Intérieur.jpg|『室内』1880年。私蔵。
ファイル:Gustave Caillebotte A Balcony.jpg|『バルコニー』1880年。
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=== 第6回印象派展への不参加 ===
第6回印象派展の方針についても、カイユボットとドガの対立は深刻化していた。カイユボットは、[[1881年]]1月、ピサロに宛てた手紙で、「展覧会はこの趣旨に本当に関心を寄せる人々によって構成されるべきことを願います。つまり、モネ、ルノワール、シスレー、モリゾ夫人、[[メアリー・カサット|カサット]]嬢、[[ポール・セザンヌ|セザンヌ]]、[[アルマン・ギヨマン|ギヨマン]]。お望みならば、[[ポール・ゴーギャン|ゴーギャン]]と多分{{仮リンク|フレデリック・コルデー|en|Frédéric Samuel Cordey|label=コルデー}}、それに私自身です。これで全員です。……ドガが私たちの中に不和を持ち込んだのです。彼にとって不幸なことですが、彼の性格は善良とはいえません。」と、ドガの態度を批判している。その一方で、「ドガはすばらしい才能の持ち主だ。私は彼の大ファンになった最初の人間です。」とも書いている。ピサロは、カイユボットに対し、カイユボット自身もドガの推薦でグループ展に参加できたことを指摘して、ドガを許容するように言ったが、カイユボットは、ついに第6回印象派展への参加を断念した<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 190-92)]]。</ref>。

=== 第7回印象派展 ===
カイユボットは、[[1882年]]初頭、第7回印象派展への準備を始めた。彼は、ラファエリの不参加を条件にドガの参加を認めるという妥協案を提案したが、ドガはラファエリの参加を強く主張した。ゴーギャンやピサロも調停を試みたが、交渉は難航した。そのような中、画商[[ポール・デュラン=リュエル]]がモネとルノワールにグループ展への参加を要請した結果、2人の同意が得られた。しかし、ドガは不参加となった<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 198-202)]]。</ref>。

'''第7回印象派展'''は、1882年3月から開催された。カイユボットは、17点を出品し、うち人物画6点、静物画1点、風景画10点であった。特に、『トランプ(ベジッグ)遊び』、『バルコニーの男』などの人物画における正確なデッサンが好評価を得た。他方、『果物』の静物画や『高い所から見た大通り』は、大胆な俯瞰的構図を用いた作品であるが、それほど注目されなかった<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 210)]]。</ref>。
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ファイル:La-partie-de-bésigue.jpg|『{{仮リンク|トランプ(ベジッグ)遊び|fr|La Partie de bésigue}}』1881年。油彩、キャンバス、121 × 161 cm。{{仮リンク|ルーヴル・アブダビ|en|Louvre Abu Dhabi}}。
ファイル:Gustave Caillebotte - Fruit Displayed on a Stand - Google Art Project.jpg|『果物』1881-82年。油彩、キャンバス、76.5 × 100.6 cm。[[ボストン美術館]]。第7回印象派展出品<ref>{{Cite web |url=http://www.mfa.org/collections/object/fruit-displayed-on-a-stand-34313 |title=Fruit Displayed on a Stand |publisher=Museum of Fine Arts Boston |accessdate=2019-04-29}}</ref>。
</gallery>

=== 印象派展の終焉 ===
1886年4月、デュラン=リュエルが[[ニューヨーク]]で印象派作品の展覧会を行い、その中にカイユボットの作品も数点含まれていた<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 232)]]。</ref>。

他方、この年に開かれた第8回印象派展には、モネが不参加を表明し、カイユボット、ルノワール、シスレーも同調して不参加を決めた<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 235)]]。</ref>。グループ展として最後となるこの回は、デュラン=リュエルの後援の下、ピサロのグループとドガのグループが中心となって開かれ、特にピサロ陣営の[[ジョルジュ・スーラ]]、[[ポール・シニャック]]といった[[新印象派]]と呼ばれる点描技法の作品が注目を浴び、従来の印象主義とは内容が異なるものとなった<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 243-44)]]。</ref>。

=== 晩年 ===
{{Multiple image
|align = right |direction = horizontal
|image1 =Caillebotte Petit Gennevilliers.jpg |width1 =160 |caption1 = プティ・ジュヌヴィリエの邸宅と庭園(1891年)。
|image2 =Caillebotte février 1892.jpg |width2 =100 |caption2 =温室のカイユボット(1892年)。
}}
カイユボットは、[[1881年]]に[[セーヌ川]]のほとり、[[アルジャントゥイユ]]近くの[[ジュヌヴィリエ|プティ・ジュヌヴィリエ]]に地所を購入していたが、[[1888年]]、ここに移り住んだ。絵の発表はやめ、庭園作りとヨットに集中し、弟マルシャルや、しばしばプティ・ジュヌヴィリエを訪れた友人ルノワールとの付き合いを楽しんだ<ref name="Biography" />。

[[ファイル:Le café Riche, Paris.jpg|thumb|left|150px|パリのイタリアン大通りにあったカフェ・リシュ(1890年頃)。]]
印象派の画家たちは、かつてのように頻繁に会うことはなくなったが、1884年頃から、毎月第1木曜日に、[[イタリアン大通り]]の{{仮リンク|カフェ・リシュ|fr|Café Riche (Paris)}}で「印象派画家たちの夕食会」を開き、集まっていた。[[ギュスターヴ・ジェフロワ]]は、モネの伝記の中で、「1990年から1994年の時期に、私はモネを通じて印象主義の画家たちと知り合った。カフェ・リシュにおいて開かれる月例の晩餐に私も出席を許されたのである。この会には、クロード・モネとともに、カミーユ・ピサロ、オーギュスト・ルノワール、アルフレッド・シスレー、ギュスターヴ・カイユボット、[[ジョルジュ・ド・ベリオ|ド・ベリオ]]博士、テオドール・デュレ、[[オクターヴ・ミルボー]]、そして時折[[ステファヌ・マラルメ]]が出席した。」と記している<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 249-50)]]。</ref>。ジェフロワによれば、参加者たちは元気で騒々しく、その中でも、ルノワールが辛辣な言葉でカイユボットを茶化したり、やり込めたりすることが多く、怒りっぽいカイユボットがこれに激高しては顔色を変えていたという。話題は、芸術だけでなく、文学、政治、哲学など様々なテーマにわたった<ref>[[#デンヴァー|デンヴァー編 (1991: 167)]]。</ref>。

[[1883年]]に[[ジヴェルニー]]に移り庭園作りに情熱を燃やしたモネとは、庭仕事という共通の趣味でも親交を続けた。モネが、カイユボットに宛てて「約束どおり月曜日には必ず来てください。庭のアイリスは月曜が満開で、それを過ぎるとしぼんだのが混じってしまいます。」と書いた手紙が残っている<ref>[[#パタン|パタン (1997: 146)]]。</ref>。

[[ファイル:Père-Lachaise - Division 70 - Caillebotte 02.jpg|thumb|right|100px|パリの[[ペール・ラシェーズ墓地]]にあるカイユボットの墓。]]
1894年(45歳)、園芸作業中、肺鬱血により没し、パリの[[ペール・ラシェーズ墓地]]に葬られた。

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ファイル:Gustave Caillebotte - Henri Cordier - Google Art Project.jpg|『[[アンリ・コルディエ]]の肖像』1883年。油彩、キャンバス、65.0 × 81.5 cm。[[オルセー美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://www.musee-orsay.fr/en/collections/index-of-works/notice.html?no_cache=1&nnumid=107 |title=Henri Cordier |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2019-04-30}}</ref>。
ファイル:Gustave Caillebotte -Man at His Bath.jpg|『{{仮リンク|入浴する男|en|Homme au bain (painting)}}』1884年。油彩、キャンバス、144.8 × 114.3 cm。[[ボストン美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://www.mfa.org/collections/object/man-at-his-bath-537982 |title=Man at His Bath |publisher=Museum of Fine Arts, Boston |accessdate=2019-04-27}}</ref>。
ファイル:Gustave Caillebotte - Sailing Boats at Argenteuil - Google Art Project.jpg|『アルジャントゥイユのヨット』1888年頃。油彩、キャンバス、65.5 × 55.0 cm。[[オルセー美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/index-of-works/notice.html?no_cache=1&nnumid=010890&cHash=cf3587dff6 |title=Voiliers à Argenteuil |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2019-04-30}}</ref>。
ファイル:1892 Caillebotte Trocknende Wäsche am Ufer der Seine anagoria.jpg|『干した洗濯物』1892年。油彩、キャンバス、105.5 × 150.5 cm。[[ヴァルラフ・リヒャルツ美術館]]。
ファイル:Caillebotteautoportrait.jpg|『自画像』1892年頃。油彩、キャンバス、40.5 × 32.5 cm。[[オルセー美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://www.musee-orsay.fr/en/collections/index-of-works/notice.html?no_cache=1&nnumid=001346&cHash=f60c8f8786 |title=Portrait de l'artiste |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2019-04-27}}</ref>。
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== コレクションの遺贈 ==
カイユボットは、遺言書の中で、自分のコレクションを国家に遺贈しており、その遺言執行者としてルノワールを指名していたことから、ルノワールはその遺贈を実現する責任を負った。遺言には、「屋根裏部屋でも、地方の美術館でもなく、リュクサンブールへ、後にルーヴルへ」収めるようにと明記されていた。コレクションは、セザンヌ、ドガ、マネ、モネ、ピサロ、ルノワール、シスレーなど生前親しかった画家の作品と、[[ジャン=フランソワ・ミレー]]のデッサン2点、合計67点から成っていた<ref>[[#ディステル|ディステル (1996: 116)]]、[[#高階・パトロン|高階 (1997: 205-06)]]。</ref>。

しかし、遺贈の件が明らかになると、アカデミズム絵画やジャーナリズムの中から激しい反対が起き、政府は遺贈の受入れに難色を示すようになった<ref>[[#ディステル|ディステル (1996: 117)]]、、[[#高階・パトロン|高階 (1997: 205-06)]]。</ref>。アカデミズム絵画の泰斗[[ジャン=レオン・ジェローム]]は、「ここには、モネ氏、ピサロ氏といった人々の作品は含まれていないでしょうか? 政府がこうしたごみのようなものを受け入れたとなれば、道義上ひどい汚点を残すことになるでしょうから」と述べた<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 403)]]。</ref>。政府は、コレクションの一部だけを受け入れることで妥協を図り、選定委員会が設けられた結果、[[1896年]]、ようやく、40点が選ばれて美術館に受け入れられた<ref>[[#ディステル|ディステル (1996: 117)]]、[[#高階・パトロン|高階 (1997: 205-06)]]。</ref>。なお、カイユボットは、ルノワールに対し、コレクションの中から1点を自分用に選ぶように指示したため、ルノワールはドガのパステル画『ダンスのレッスン』を選んだ。しかし、ルノワールは金策の必要が生じてこの作品をデュラン=リュエルに売り、これを知ったドガと仲違いすることとなった<ref>[[#ディステル|ディステル (1996: 118-19)]]。</ref>。

== 作品 ==
カイユボットは、批評家によって「ドガの弟子」と呼ばれたように、初期の作品にはドガの影響が強く出ている<ref>[[#木村|木村 (2012: 160)]]。</ref>。第2回印象派展に出品した『床削り』は、写実主義と正確なデッサンが特徴であり、その現代性で注目を浴びた<ref>[[#フェレッティ|フェレッティ (2008: 87)]]。</ref>。

その後、『パリの通り、雨』や『ヨーロッパ橋』のように多くの都市風景を描いたが、色が明るさを増したほかは、当初の写実性が残っている。イエール川のカヌーを描いた作品や、『カフェにて』といった生活情景画は、人物が中心的役割を果たし、[[遠近法]]やコントラストを強調した構成的なものとなっている<ref>[[#フェレッティ|フェレッティ (2008: 87-88)]]。</ref>。

1880年代、モネやルノワールが印象主義を離れ、場所的にも[[アルジャントゥイユ]]を離れたちょうどその頃、カイユボットはアルジャントゥイユの真向かいにあるプティ・ジュヌヴィリエに移り住み、印象主義的な傾向に接近していった。『アルジャントゥイユのヨット』や『干した洗濯物』はその代表例である<ref>[[#フェレッティ|フェレッティ (2008: 88)]]。</ref>。

カイユボットの作品は、20世紀前半までは、遺族のもとにとどめられ、市場に出回ることがなかったため、画家としての評価は遅れたが、優れた作品は多い<ref>{{Cite web |url=http://www.britannica.com/biography/Gustave-Caillebotte |title=Gustave Caillebotte |publisher=Britannica |accessdate=2019-04-30}}</ref>。

== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}

=== 出典 ===
{{Reflist|2}}

== 参考文献 ==
* {{Cite book |和書 |author=木村泰司 |title=印象派という革命 |publisher=[[集英社]] |year=2012 |isbn=978-4-08-781496-5 |ref=木村}}
* {{Cite book |和書 |author=[[島田紀夫]] |title=印象派の挑戦――モネ、ルノワール、ドガたちの友情と闘い |publisher=[[小学館]] |year=2009 |isbn=978-4-09-682021-6 |ref=島田・挑戦}}
* {{Cite book |和書 |author=[[高階秀爾]] |title=芸術のパトロンたち |publisher=[[岩波書店]] |series=[[岩波新書]] |year=1997 |isbn=4-00-430490-3 |ref=高階・パトロン}}
* {{Cite book |和書 |author=アンヌ・ディステル |others=柴田都志子・田辺希久子訳、高階秀爾監修 |title=ルノワール――生命の讃歌 |publisher=[[創元社]] |series=「知の再発見」双書 |year=1996 |origyear=1993 |isbn=978-4-422-21115-2 |ref=ディステル}}
* {{Cite book |和書 |author=バーナード・デンヴァー編 |others=末永照和訳 |title=素顔の印象派 |publisher=[[美術出版社]] |year=1991 |origyear=1987 |isbn=4-568-20141-1 |ref=デンヴァー}}
* {{Cite book |和書 |author=シルヴィ・パタン |others=渡辺隆司・村上伸子訳、高階秀爾監修 |title=モネ――印象派の誕生 |publisher=[[創元社]] |series=[[「知の再発見」双書]] |year=1997 |origyear=1991 |isbn=4-422-21127-7 |ref=パタン}}
* {{Cite book |和書 |author=マリナ・フェレッティ |others=武藤剛史訳 |title=印象派[新版] |publisher=[[白水社]] |series=[[文庫クセジュ]] |year=2008 |origyear=2004 |isbn=978-4-560-50920-3 |ref=フェレッティ}}
* {{Cite book |和書 |author=ジョン・リウォルド |others=[[三浦篤]]、[[坂上桂子]]訳 |title=印象派の歴史 |publisher=[[角川学芸出版]] |year=2004 |origyear=(1st ed.) 1946 |isbn=4-04-651912-6 |ref=リウォルド}}


== 外部リンク ==
{{Commons&cat|Gustave Caillebotte}}
* [http://caillebotte.net/ ギュスターヴ=カイユボット (Caillebotte.net)]
* [http://www.salvastyle.com/menu_impressionism/caillebotte.html ギュスターヴ・カイユボット (Salvastyle.com)]
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2019年5月28日 (火) 22:29時点における版

ギュスターヴ・カイユボット
Gustave Caillebotte
1878年頃の写真。
生誕 (1848-08-19) 1848年8月19日
フランスの旗 フランス共和国 パリ
死没 (1894-02-21) 1894年2月21日(45歳没)
フランスの旗 フランス共和国 ジュヌヴィリエ
墓地 ペール・ラシェーズ墓地[2]
北緯48度51分45秒 東経2度23分32秒 / 北緯48.862426度 東経2.392155度 / 48.862426; 2.392155
国籍 フランスの旗 フランス
出身校 エコール・デ・ボザール
著名な実績 絵画
代表作床削り』、『パリの通り、雨
運動・動向 写実主義、印象派
影響を受けた
芸術家
エドガー・ドガクロード・モネ[1]

ギュスターヴ・カイユボットGustave Caillebotte, 1848年8月19日 - 1894年2月21日)は、フランス画家、絵画収集家。画家としては写実主義的な傾向が強いが、第2回以降の印象派グループ展の開催に経済的・精神的に大きく貢献し、自らもグループ展に作品を出品したことから、印象派の画家として挙げられるのが通例である。

生涯

生い立ち

ギュスターヴ・カイユボットは、1848年、パリの上流階級の家庭に生まれた。父マルシャル・カイユボット(1799-1874年)は、軍服製造業を継いで経営するとともに、セーヌ県の商業裁判所の裁判官でもあった。父は、妻と2度死別した後、セレステ・ドフレネ(1819-1878年)と結婚し、彼女との間にギュスターヴが生まれた。その後、弟のルネ(1851-1876年)とマルシャル英語版(1853-1910年)が生まれた。生家はパリ10区フォーブル・サン・ドニ通り英語版であった[3]

イエールのカイユボット家別荘。

1860年、父マルシャルはパリ南郊のイエールに広大な地所を購入し、一家は夏をイエールで過ごすようになった。カイユボットは、この頃から絵を描くようになったと思われる。1866年、一家はフォール・サン・ドニ通りからミロムニル通り英語版に引っ越した[3]。ここは、第二帝政時代に上流階級の住宅地として新たに造成された地区であった[4]

フランスのエリート養成機関であるリセ・ルイ=ル=グランに通った後、1868年、法学部を卒業して学位を取得し、1870年には弁護士免許を取得した。その直後、普仏戦争で徴兵され、国民動員衛兵フランス語版として従軍した[3]

第2回印象派展まで

普仏戦争が終結すると、カイユボットは、レオン・ボナ画塾に通い、本格的に絵の勉強を始めた。1873年エコール・デ・ボザール(官立美術学校)に入学したが、あまり登校しなかったようである。1874年、父マルシャルが亡くなった[3]

レオン・ボナの画塾ではジャン・ベローと親しくなったほか、ミロムニル通りの近くに住んでいたアンリ・ルアールを通じてエドガー・ドガと知り合い、その友人ジュゼッペ・デ・ニッティスとも親しくなった[5]。ルアールとドガは、リセ・ルイ=ル=グランの先輩でもあった[6]。1974年、ドガやルアールはグループ展(後に第1回印象派展と呼ばれる)に参加したが、カイユボットは、これには参加していない[7]

1875年、初期の代表作である『床削り』を制作し、この年のサロン・ド・パリに提出したが、「低俗」と評され、落選した[3]。この年、印象派グループ展のメンバーであるルノワール、モネ、アルフレッド・シスレーベルト・モリゾが、オテル・ドゥルオ英語版で競売会を開いたが、この頃以降、カイユボットは印象派の友人たちの作品を購入するようになっていった[8]

1876年3月から、第2回印象派展が開催され、カイユボットはこれに参加した。この年の2月、ピエール=オーギュスト・ルノワールとルアールは、連名で、カイユボットに対し、「私たちは今一度みんなで私設の展覧会を組織することがよいだろうと考えました。この趣旨に関してデュラン=リュエル氏と合意に達しています。……この新しい試みにあなたが参加してくだされば非常に嬉しい。」という手紙を送っており、2人の勧めで参加したことが分かる[9]。カイユボットは、8点の作品を出品し、そのうち2点の『床削り』は、極端な遠近法と、都市労働者の情景で注目された。同時に、『ピアノを弾く若い男』、『窓辺の若い男』、『昼食の後』といったブルジョワの風俗を描いた作品も出品した[10]。印象派展に対しては厳しい批評が多かった。その中で、エミール・ゾラは、クロード・モネやルノワールを新しい流派として称賛する一方、ドガとカイユボットに対しては、写実的すぎるとして批判した[11]。反対に、ルイ・エドモン・デュランティは、鋭いデッサン力で都市風俗を描いたドガとカイユボットを称賛した[12]ジョルジュ・リヴィエールフランス語版は、カイユボットを「ドガの弟子」と呼んだ。カイユボットは、これらのデュランティやリヴィエールの評を読んで感激し、絵画制作に専念してもう一度グループ展で発表したいと思うようになった[13]

第3回印象派展

同年(1876年)11月、弟ルネが26歳で亡くなった[16]。カイユボットはこれに衝撃を受け、28歳にして遺言書を作成した。その内容は、「非妥協派または印象派と呼ばれる画家たち」の展覧会の準備資金に、自分の遺産から相当額を割り当てること、ルノワールと弟のマルシャル・カイユボットを遺言執行者に指名すること、自分の絵画コレクションを国家へ遺贈することなどであった[17]

カイユボットは、1877年1月、カミーユ・ピサロの作品を購入した。その頃、ピサロに宛てて、夕食会に招待する手紙を送っており、「展覧会の可能性についての問題をあなたと議論したいと思います。ドガ、モネ、ルノワール、シスレー、それにマネが来る予定です。」と書いている。この手紙と遺言書から、カイユボットが中心となって第3回印象派展を推進したことが分かる[18]

そして、4月、カイユボットが借りたアパルトマンを会場にして、第3回印象派展が開催された。参加人数は18人となった。カイユボットは、ルノワール、モネ、ピサロとともに展示委員を務め、作品の内容と形式に従って5つの部屋に配分して展示を行った。カイユボット自身は、『パリの通り、雨』や『ヨーロッパ橋』など6点を出品した[19]。『ヨーロッパ橋』は、サン・ラザール駅のすぐ上にある陸橋、『パリの通り、雨』は、ヨーロッパ橋の東北方向にあるデュブラン広場を描いたものであるが、同じ部屋に展示されたモネの『サン・ラザール駅』連作と主題において呼応する作品といえる。しかし、カイユボットの透視図法と写真のような綿密な仕上げは、印象派よりはサロンの価値観に合うものであった[20][注釈 1]テオドール・デュレは、『印象派の画家たち』という小冊子で、モネ、シスレー、ピサロ、ルノワール、ベルト・モリゾの5人を印象派の画家として紹介しているが、その中で、ドガやカイユボットについては、「印象派ではないが、彼らとともに出品したことのある、優れた才能を持つ画家たち」と位置付けている[21]

『「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」を前にした自画像』1879年頃。第3回印象派展で購入したルノワールの作品が鏡で左右反転して描かれている[22]

カイユボットは、ルノワールの『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』や、モネの『サン・ラザール駅』を購入した。ただ、第3回印象派展の全体の売れ行きは思わしくなく、参加者たちの間での温度差を生む要因となっていった[23]

第4回印象派展

1878年5月から11月にかけて、パリ万国博覧会が開かれた。トロカデロ宮で美術展が行われたが、印象派はもちろん、ウジェーヌ・ドラクロワや、ジャン=フランソワ・ミレーなどバルビゾン派の画家たちでさえ排除された、保守的な展覧会となった。カイユボットは、これに憤慨し、カミーユ・ピサロに、すぐに第4回印象派展を開くことを提案した。しかし、ドガは、万国博覧会が終わってからにすべきとの意見であった。この年、ルノワールがサロンに作品を応募して入選し、モネもサロンへの応募を希望したのに対し、ドガは、サロンを敵視し、グループ展参加者はサロンに応募すべきでないという考え方であり、グループ内での意見の対立が顕在化してきた[25]。カイユボットは、ドガの芸術を敬愛する一方で、狷介な性格で政治的主張に偏りがちなドガに辟易させられ、グループ展参加者の資格という大きな問題から、ポスターへの参加者名への記載のような小さな問題まで、しばしば意見の対立を繰り返した[26]

ピサロは、同年3月、カイユボットに送った手紙で、「ゾラセザンヌにサロン応募を勧めているのでしょう。シャルパンティエ夫妻がルノワールにサロン応募を勧めているように。私たちだけで展覧会を敢行できるでしょうか? ……残念なことだが、やがて完全なグループの崩壊が起きることを予想しておかなければならない。」と相談している[27]

カイユボットは、イエールの別荘に滞在し、イエール川の船漕ぎや水泳の情景を描いた。1878年10月、母が亡くなり、両親の遺産を弟とともに相続することになった[28][3]

第4回印象派展は、1879年4月から開催されたが、この回は、ドガの主張が強く反映され、名称が「独立派(アンデパンダン)展」となり、サロン応募者は参加させないこととなった。カイユボットは、モネに、サロン応募を思いとどまり、グループ展に参加するよう説得した[29]。結局、カイユボットが、所蔵者からモネの作品29点を借り集めて出品した[30]。ルノワール、シスレー、セザンヌは、サロンに応募するため、グループ展には参加しなかった。ベルト・モリゾも不参加であり、グループの分裂が際立つ結果となった[31]

カイユボット自身は、カタログによれば、絵画19点、パステル6点を出品した。イエール川の船漕ぎや水泳の作品、パリの風景画、肖像画と装飾パネルであった[32]。デュランティは、展覧会評で、ドガ、カイユボット、メアリー・カサットを称賛している[33]

第5回印象派展

1880年にグループ展を開催するに際しても、カイユボットとドガは様々な点で対立した。ドガは、グループの名称を独立派(アンデパンダン)とすること、ポスターに出品者の名前を載せないこと、風俗的な主題を扱う画家たちにもグループ展への参加を認めることを主張したが、カイユボットは、いずれにも反対した[38]。ドガは、3月にフェリックス・ブラックモンに宛てた手紙の中で、「(ポスターに出品者の)名前を記載するかどうかでカイユボットとの間に大きな戦いがありました。私が屈服し名前を乗せることにしました。……この世の中にいくら良い理由と趣味があっても、ほかの人たちの惰性とカイユボットの頑固さによって何も達成できません。」と、不満をあらわにしている[39]

第5回印象派展は、1880年4月に開催された。ルノワール、シスレー、セザンヌに加え、モネもサロンに応募し、グループ展には参加しなかった[40]。一方で、ドガが強く推したジャン=フランソワ・ラファエリが参加し、グループ展の内容は印象主義から相当離れたものになった[41]。カイユボットは、カタログによれば、『カフェにて』、『室内』など11点を出品した[42]

第6回印象派展への不参加

第6回印象派展の方針についても、カイユボットとドガの対立は深刻化していた。カイユボットは、1881年1月、ピサロに宛てた手紙で、「展覧会はこの趣旨に本当に関心を寄せる人々によって構成されるべきことを願います。つまり、モネ、ルノワール、シスレー、モリゾ夫人、カサット嬢、セザンヌギヨマン。お望みならば、ゴーギャンと多分コルデー英語版、それに私自身です。これで全員です。……ドガが私たちの中に不和を持ち込んだのです。彼にとって不幸なことですが、彼の性格は善良とはいえません。」と、ドガの態度を批判している。その一方で、「ドガはすばらしい才能の持ち主だ。私は彼の大ファンになった最初の人間です。」とも書いている。ピサロは、カイユボットに対し、カイユボット自身もドガの推薦でグループ展に参加できたことを指摘して、ドガを許容するように言ったが、カイユボットは、ついに第6回印象派展への参加を断念した[44]

第7回印象派展

カイユボットは、1882年初頭、第7回印象派展への準備を始めた。彼は、ラファエリの不参加を条件にドガの参加を認めるという妥協案を提案したが、ドガはラファエリの参加を強く主張した。ゴーギャンやピサロも調停を試みたが、交渉は難航した。そのような中、画商ポール・デュラン=リュエルがモネとルノワールにグループ展への参加を要請した結果、2人の同意が得られた。しかし、ドガは不参加となった[45]

第7回印象派展は、1882年3月から開催された。カイユボットは、17点を出品し、うち人物画6点、静物画1点、風景画10点であった。特に、『トランプ(ベジッグ)遊び』、『バルコニーの男』などの人物画における正確なデッサンが好評価を得た。他方、『果物』の静物画や『高い所から見た大通り』は、大胆な俯瞰的構図を用いた作品であるが、それほど注目されなかった[46]

印象派展の終焉

1886年4月、デュラン=リュエルがニューヨークで印象派作品の展覧会を行い、その中にカイユボットの作品も数点含まれていた[48]

他方、この年に開かれた第8回印象派展には、モネが不参加を表明し、カイユボット、ルノワール、シスレーも同調して不参加を決めた[49]。グループ展として最後となるこの回は、デュラン=リュエルの後援の下、ピサロのグループとドガのグループが中心となって開かれ、特にピサロ陣営のジョルジュ・スーラポール・シニャックといった新印象派と呼ばれる点描技法の作品が注目を浴び、従来の印象主義とは内容が異なるものとなった[50]

晩年

プティ・ジュヌヴィリエの邸宅と庭園(1891年)。
温室のカイユボット(1892年)。

カイユボットは、1881年セーヌ川のほとり、アルジャントゥイユ近くのプティ・ジュヌヴィリエに地所を購入していたが、1888年、ここに移り住んだ。絵の発表はやめ、庭園作りとヨットに集中し、弟マルシャルや、しばしばプティ・ジュヌヴィリエを訪れた友人ルノワールとの付き合いを楽しんだ[3]

パリのイタリアン大通りにあったカフェ・リシュ(1890年頃)。

印象派の画家たちは、かつてのように頻繁に会うことはなくなったが、1884年頃から、毎月第1木曜日に、イタリアン大通りカフェ・リシュフランス語版で「印象派画家たちの夕食会」を開き、集まっていた。ギュスターヴ・ジェフロワは、モネの伝記の中で、「1990年から1994年の時期に、私はモネを通じて印象主義の画家たちと知り合った。カフェ・リシュにおいて開かれる月例の晩餐に私も出席を許されたのである。この会には、クロード・モネとともに、カミーユ・ピサロ、オーギュスト・ルノワール、アルフレッド・シスレー、ギュスターヴ・カイユボット、ド・ベリオ博士、テオドール・デュレ、オクターヴ・ミルボー、そして時折ステファヌ・マラルメが出席した。」と記している[51]。ジェフロワによれば、参加者たちは元気で騒々しく、その中でも、ルノワールが辛辣な言葉でカイユボットを茶化したり、やり込めたりすることが多く、怒りっぽいカイユボットがこれに激高しては顔色を変えていたという。話題は、芸術だけでなく、文学、政治、哲学など様々なテーマにわたった[52]

1883年ジヴェルニーに移り庭園作りに情熱を燃やしたモネとは、庭仕事という共通の趣味でも親交を続けた。モネが、カイユボットに宛てて「約束どおり月曜日には必ず来てください。庭のアイリスは月曜が満開で、それを過ぎるとしぼんだのが混じってしまいます。」と書いた手紙が残っている[53]

パリのペール・ラシェーズ墓地にあるカイユボットの墓。

1894年(45歳)、園芸作業中、肺鬱血により没し、パリのペール・ラシェーズ墓地に葬られた。

コレクションの遺贈

カイユボットは、遺言書の中で、自分のコレクションを国家に遺贈しており、その遺言執行者としてルノワールを指名していたことから、ルノワールはその遺贈を実現する責任を負った。遺言には、「屋根裏部屋でも、地方の美術館でもなく、リュクサンブールへ、後にルーヴルへ」収めるようにと明記されていた。コレクションは、セザンヌ、ドガ、マネ、モネ、ピサロ、ルノワール、シスレーなど生前親しかった画家の作品と、ジャン=フランソワ・ミレーのデッサン2点、合計67点から成っていた[58]

しかし、遺贈の件が明らかになると、アカデミズム絵画やジャーナリズムの中から激しい反対が起き、政府は遺贈の受入れに難色を示すようになった[59]。アカデミズム絵画の泰斗ジャン=レオン・ジェロームは、「ここには、モネ氏、ピサロ氏といった人々の作品は含まれていないでしょうか? 政府がこうしたごみのようなものを受け入れたとなれば、道義上ひどい汚点を残すことになるでしょうから」と述べた[60]。政府は、コレクションの一部だけを受け入れることで妥協を図り、選定委員会が設けられた結果、1896年、ようやく、40点が選ばれて美術館に受け入れられた[61]。なお、カイユボットは、ルノワールに対し、コレクションの中から1点を自分用に選ぶように指示したため、ルノワールはドガのパステル画『ダンスのレッスン』を選んだ。しかし、ルノワールは金策の必要が生じてこの作品をデュラン=リュエルに売り、これを知ったドガと仲違いすることとなった[62]

作品

カイユボットは、批評家によって「ドガの弟子」と呼ばれたように、初期の作品にはドガの影響が強く出ている[63]。第2回印象派展に出品した『床削り』は、写実主義と正確なデッサンが特徴であり、その現代性で注目を浴びた[64]

その後、『パリの通り、雨』や『ヨーロッパ橋』のように多くの都市風景を描いたが、色が明るさを増したほかは、当初の写実性が残っている。イエール川のカヌーを描いた作品や、『カフェにて』といった生活情景画は、人物が中心的役割を果たし、遠近法やコントラストを強調した構成的なものとなっている[65]

1880年代、モネやルノワールが印象主義を離れ、場所的にもアルジャントゥイユを離れたちょうどその頃、カイユボットはアルジャントゥイユの真向かいにあるプティ・ジュヌヴィリエに移り住み、印象主義的な傾向に接近していった。『アルジャントゥイユのヨット』や『干した洗濯物』はその代表例である[66]

カイユボットの作品は、20世紀前半までは、遺族のもとにとどめられ、市場に出回ることがなかったため、画家としての評価は遅れたが、優れた作品は多い[67]

脚注

注釈

  1. ^ なお、モネがサン・ラザール駅を描くために駅の近くにアトリエを借りる資金を出したのもカイユボットであった。木村 (2012: 160-61)

出典

  1. ^ 木村 (2012: 160)
  2. ^ Gustave Caillebotte”. Find a Grave. 2019年4月29日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g Biography of Gustave Caillebotte”. gustavcaillebotte.org. 2019年4月27日閲覧。
  4. ^ 島田 (2009: 109)
  5. ^ 島田 (2009: 109)
  6. ^ 木村 (2012: 160)
  7. ^ 島田 (2009: 109)
  8. ^ 島田 (2009: 124)
  9. ^ 島田 (2009: 110)
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  11. ^ 島田 (2009: 120)
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参考文献

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  • 高階秀爾『芸術のパトロンたち』岩波書店岩波新書〉、1997年。ISBN 4-00-430490-3 
  • アンヌ・ディステル『ルノワール――生命の讃歌』柴田都志子・田辺希久子訳、高階秀爾監修、創元社〈「知の再発見」双書〉、1996年(原著1993年)。ISBN 978-4-422-21115-2 
  • バーナード・デンヴァー編『素顔の印象派』末永照和訳、美術出版社、1991年(原著1987年)。ISBN 4-568-20141-1 
  • シルヴィ・パタン『モネ――印象派の誕生』渡辺隆司・村上伸子訳、高階秀爾監修、創元社「知の再発見」双書〉、1997年(原著1991年)。ISBN 4-422-21127-7 
  • マリナ・フェレッティ『印象派[新版]』武藤剛史訳、白水社文庫クセジュ〉、2008年(原著2004年)。ISBN 978-4-560-50920-3 
  • ジョン・リウォルド『印象派の歴史』三浦篤坂上桂子訳、角川学芸出版、2004年(原著(1st ed.) 1946)。ISBN 4-04-651912-6 

外部リンク