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「多賀大社」の版間の差分

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[[和銅]]5年([[712年|西暦712年]])編纂の『[[古事記]]』の写本のうち真福寺本には「故其伊耶那岐大神者坐'''淡海'''之'''多賀'''也。」「伊邪那岐大神は淡海の多賀に坐すなり」(いざなぎのおおかみは あふみのたがに ましますなり)との記述があり、これが当社の記録だとする説がある。ただし『[[日本書紀]]』には「構幽宮於淡路之洲」、すなわち「幽宮(かくれみや)を淡路の洲(くに)に構(つく)りて」とあり、国産み・神産みを終えた伊弉諾尊が、最初に生んだ[[淡路島]]の地に幽宮(かくりみや、終焉の御住居)を構えたとあり、『古事記』真福寺本の「淡海」は「淡路」の誤写である可能性が高い<ref> 多賀大社の祭神は南北朝時代の頃までは伊弉諾尊ではなかったことが判明しており『古事記』の記述と多賀大社を結びつけることはできない。『古事記』では「近江」は「近淡海」とするのが常で、同じ『古事記』でも真福寺本以外の多くの写本が「故其伊耶那岐大神者坐'''淡路'''之'''多賀'''也。」になっており、その他の諸々の理由からも、学界でも「淡海」でなく「淡路」を支持する説が有力である(武田祐吉、直木孝二郎等)。なお、『日本書紀』では一貫して「淡路」と記され、「近江」に該当する名はない。</ref>。
[[和銅]]5年([[712年|西暦712年]])編纂の『[[古事記]]』の写本のうち真福寺本には「故其伊耶那岐大神者坐'''淡海'''之'''多賀'''也。」「伊邪那岐大神は淡海の多賀に坐すなり」(いざなぎのおおかみは あふみのたがに ましますなり)との記述があり、これが当社の記録だとする説がある。ただし『[[日本書紀]]』には「構幽宮於淡路之洲」、すなわち「幽宮(かくれみや)を淡路の洲(くに)に構(つく)りて」とあり、国産み・神産みを終えた伊弉諾尊が、最初に生んだ[[淡路島]]の地に幽宮(かくりみや、終焉の御住居)を構えたとあり、『古事記』真福寺本の「淡海」は「淡路」の誤写である可能性が高い<ref> 多賀大社の祭神は南北朝時代の頃までは伊弉諾尊ではなかったことが判明しており『古事記』の記述と多賀大社を結びつけることはできない。『古事記』では「近江」は「近淡海」とするのが常で、同じ『古事記』でも真福寺本以外の多くの写本が「故其伊耶那岐大神者坐'''淡路'''之'''多賀'''也。」になっており、その他の諸々の理由からも、学界でも「淡海」でなく「淡路」を支持する説が有力である(武田祐吉、直木孝二郎等)。なお、『日本書紀』では一貫して「淡路」と記され、「近江」に該当する名はない。</ref>。


『古事記』以前の時代には、一帯を支配した豪族・[[犬上氏|犬上君]]の祖神を祀ったとの説がある。犬上君(犬上氏は、[[ヤマトタケル|日本武尊]]の子の[[稲依別王]]の後裔とされ『[[日本書紀]]』[[景行天皇]]51年8月4日条、『[[古事記]]』景行条)多賀社がある「[[犬上郡]]」の[[名祖]]とされる。後に氏族からは[[飛鳥時代]]中期第5次[[遣隋使]]・第1次[[遣唐使]]知られる[[犬上御田鍬]]が出ている。
『古事記』以前の時代には、一帯を支配した豪族・[[犬上氏]]([[カバネ|姓]]は[[キミ (カバネ)|君]]の祖神を祀ったとの説がある。犬上氏は、[[ヤマトタケル|日本武尊]]の子の[[稲依別王]]の後裔とされ<ref>『[[日本書紀]]』[[景行天皇]]51年8月4日条、『[[古事記]]』景行天皇段。</ref>、[[飛鳥時代]]の[[遣隋使]]・[[遣唐使]]として知られる[[犬上御田鍬]]にはじまる<ref>『[[#keizu|古代豪族系図集覧]]』。</ref>。この犬上氏は、多賀社ある「[[犬上郡]]」の[[名祖]]とされる。


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[[藤原忠平]]らによって[[延長 (日本)|延長]]5年([[927年]])に編まれた『[[延喜式神名帳]]』では、当社は「[[近江国]][[犬上郡]] 多何神社二座」と記載され、小社に列した。「二座」とあるが、伊邪那岐命・伊邪那美命とされていたわけではない。
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* [[上山春平]] 他『日本「神社」総覧』[[新人物往来社]]、1992年、162-163頁
* [[上山春平]] 他『日本「神社」総覧』[[新人物往来社]]、1992年、162-163頁
* 『神道の本』[[学研]]、1992年、205頁
* 『神道の本』[[学研]]、1992年、205頁
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== 外部リンク ==
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2018年7月3日 (火) 21:40時点における版

多賀大社

拝殿
所在地 滋賀県犬上郡多賀町多賀604
位置 北緯35度13分32秒 東経136度17分28秒 / 北緯35.22556度 東経136.29111度 / 35.22556; 136.29111 (多賀大社)座標: 北緯35度13分32秒 東経136度17分28秒 / 北緯35.22556度 東経136.29111度 / 35.22556; 136.29111 (多賀大社)
主祭神 伊邪那岐命
伊邪那美命
社格 式内社(小)
官幣大社
別表神社
創建古事記』以前の神代と考えられる
本殿の様式 大社造
札所等 神仏霊場巡拝の道第133番(滋賀第1番)
例祭 4月22日
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多賀大社の位置(日本内)
多賀大社
多賀大社
多賀大社の入り口

多賀大社(たがたいしゃ)は、滋賀県犬上郡多賀町多賀にある神社である。 伊邪那岐命(イザナギ)伊邪那美命(イザナミ)の2を祀り、古くから「お多賀さん」として親しまれた。 また、神仏習合中世期には「多賀大明神」として信仰を集めた。

式内社で、旧社格官幣大社。現在は神社本庁別表神社である。

当社にはお守りとしてしゃもじを授ける「お多賀杓子(おたがじゃくし)」という慣わしがあるが、これは「お玉杓子」や「オタマジャクシ」の名の由来とされている。

歴史

由緒

和銅5年(西暦712年)編纂の『古事記』の写本のうち真福寺本には「故其伊耶那岐大神者坐淡海多賀也。」「伊邪那岐大神は淡海の多賀に坐すなり」(いざなぎのおおかみは あふみのたがに ましますなり)との記述があり、これが当社の記録だとする説がある。ただし『日本書紀』には「構幽宮於淡路之洲」、すなわち「幽宮(かくれみや)を淡路の洲(くに)に構(つく)りて」とあり、国産み・神産みを終えた伊弉諾尊が、最初に生んだ淡路島の地に幽宮(かくりみや、終焉の御住居)を構えたとあり、『古事記』真福寺本の「淡海」は「淡路」の誤写である可能性が高い[1]

『古事記』以前の時代には、一帯を支配した豪族・犬上氏)の祖神を祀ったとの説がある。犬上氏は、日本武尊の子の稲依別王の後裔とされ[2]飛鳥時代遣隋使遣唐使として知られる犬上御田鍬にはじまる[3]。この犬上氏は、多賀社がある「犬上郡」の名祖とされる。

藤原忠平らによって延長5年(927年)に編まれた『延喜式神名帳』では、当社は「近江国犬上郡 多何神社二座」と記載され、小社に列した。「二座」とあるが、伊邪那岐命・伊邪那美命とされていたわけではない。

なお、摂社(境内社)で延喜式内社の日向神社は瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)を、同じ摂社の山田神社は猿田彦大神を祀る。多賀胡宮とも呼ばれる別宮の胡宮(このみや)神社は、伊邪那岐命・伊邪那美命・事勝国勝長狭(コトカツ クニカツ ナガサノミコト)の3柱を祀り、多賀社の南方2kmの小高い丘(神体山)に鎮座する。授子・授産、鎮火の神として崇敬される。

「お伊勢参らばお多賀へ参れ」

多賀大明神

室町時代中期の明応3年(1494年)には、神仏習合が進み、当社には神宮寺として不動院(天台宗)が建立された。 神宮寺配下の坊人[4]は全国にお札を配って信仰を広め、当社は中世から近世にかけて伊勢熊野とともに庶民の参詣で賑わった。 「お伊勢参らばお多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる」「お伊勢七度熊野へ三度 お多賀さまへは月参り」との俗謡もあり、ここに見る「お多賀の子」とは、伊勢神宮祭神である天照大神が伊邪那岐命・伊邪那美命両神の御子であることによる。 なお、社に残る垂迹曼荼羅(すいじゃくまんだら)は坊人が国を巡行して神徳を説く際に掲げたものである。 また、多賀社が隆盛したのは、近江国が交通の結節点だったことにもよる。

長寿祈願

多賀社は、特に長寿祈願の神として信仰された。

重源

鎌倉時代の僧である重源に以下の伝承がある。東大寺再建を発念して20年にならんとする61の重源が、着工時に成就祈願のため伊勢神宮に17日間参籠(さんろう)したところ、夢に天照大神が現れ、「事業成功のため寿命を延ばしたいなら、多賀神に祈願せよ」と告げた。重源が多賀社に参拝すると、ひとひらのの葉が舞い落ちてきた。見ればその葉は「」の字の形に虫食い跡の残るものであった。「莚」は「廿」(「卄」を異体字とする。wikt:廿参照。)と「延」に分けられ、「廿」は「二十」の意であるから、これは「(寿命が)二十年延びる」と読み解ける。神の意を得て大いに歓喜し奮い立った重源は以後さらに20年にわたる努力を続けて見事東大寺の再建を成し遂げ、報恩謝徳のため当社に赴き、境内の石に座り込むと眠るように亡くなったと伝わる。今日も境内にあるその石は「寿命石」と呼ばれる。また、当社の神紋の一つ「虫くい折れ柏紋」[5]はこの伝承が由来である(今一つに三つ巴がある)。

豊臣秀吉

天正16年(1588年)には、多賀社への信仰篤かった豊臣秀吉が「3年、それがだめなら2年、せめて30日でも」と母の延命を祈願し、成就したため社殿改修を行い大名に与えるに等しい1万石を寄進した。境内正面の石造りの太鼓橋(大僧正慈性により寛永15年〈1638年〉造営)は「太閤橋」の雅名でも呼ばれる。

喪失と再建の江戸期

元和元年(1615年)には社殿が焼失したが、寛永10年(1633年)に徳川家光が再建を命じ、5年後に完成した。明和3年(1766年)には屋根の葺き替え等の大改修が成る。ところが、安永2年(1773年)にまたも焼失。天明2年(1782年)にも火災に遭った。寛政3年(1791年)には暴風で社殿が倒壊した。このように江戸期の多賀社は災難続きであったが、その都度彦根藩および幕府からの手厚い寄進・寄付が行われた。

明治以降

明治初年の神仏分離令を機に廃仏毀釈の動きが広まり、多賀社の神宮寺も廃絶した。別当職不動院は1868年(明治元年)に復飾せられ、境内にあった全ての神宮寺は払拭せられた。御師講社は多賀社から分離されたため、1876年(明治9年)、「多賀教会」を結成し公認された。その後旧幕臣神職平山省斎を教長に迎えた。1878年(明治11年)、省斎は石門心学淘宮術の講社、大道教天理教の分派)など、教派や宗派としては規模が小さく公認される見込みがない団体を結集して大成教会を設立し、教長となった。1882年(明治15年)5月、大成教会は教派神道神道大成派として公認され、省斎が管長となった。同年11月には神道大成教と改称した。「多賀教会」は1883年(明治16年)、禊教会本院、蓮門教(法華神道)等とともにこれに属し、「大成教多賀教会」となった。大成教多賀教会本部は多賀社境内にあり、戦後神道大成教を離れ、「多賀講総本部」として多賀大社に復帰している。岡山県愛媛県の多賀教会は多賀大社に復帰せず、現在も神道大成教に残っている。多賀社は、1871年(明治4年)に県社兼郷社、1885年(明治18年)に官幣中社となり、1914年(大正3年)に官幣大社に昇格した。1947年(昭和22年)「多賀大社」に改称した。

近年の改修と造営

1930年(昭和5年)、本殿を改修。大社造の本殿等の屋根の檜皮葺の葺き替え、ならびに参集殿新築造営は、1966年(昭和41年)から行われ、1972年(昭和47年)に完成した。また、当社は2002年(平成14年)から「平成の大造営」を行っており、2005年(平成17年)の時点で一部は竣工している。

社殿

文化財

重要文化財

  • 紙本金地著色調馬・厩馬図 六曲屏風

名勝

  • 奥書院庭園

滋賀県指定有形文化財

  • 奥書院
  • 一の鳥居・常夜灯 - 彦根市高宮町 寛永12年(1635年)に建立。1965年8月9日に滋賀県指定文化財に認定。本殿より約3km離れた高宮郵便局の脇にある。[6]
  • 紙本著色三十六歌仙絵 六曲屏風
  • 梵鐘
  • 大太刀 - 2件
  • 鉄黒漆塗二十八間筋兜
  • 多賀大社文書 - 136通

町指定有形文化財

  • そり橋
  • 多賀大社建造物 11棟

ほか

祭事

新年恒例の能舞台での神楽
万灯祭
  • 1月1日 0時 歳旦祭(さいたんさい)
  • 1月3日 11時 翁始式(おきなはじめしき)
  • 2月3日 午前11時/午後 2時 節分祭(せつぶんさい)
  • 2月11日 10時 紀元祭(きげんさい)
  • 3月17日 11時 祈年祭(きねんさい)
  • 4月25日 米寿莚寿祭(べいじゅえんじゅさい)
  • 3月下旬 勧学祭(かんがくさい)
  • 4月5日 金婚莚寿祭(きんこんえんじゅさい)
  • 4月22日 8時から終日 古例大祭(これいたいさい)
  • 5月5日 11時 神恩感謝祭(しんおんかんしゃさい)
  • 5月17日 11時 御日供講大祭(おにっくこうたいさい)
  • 6月7日 御田植祭(おたうえさい)
  • 6月30日 15時 夏越の大祓(なごしのおおはらえしき)
  • 8月3日~8月5日 午後7時一斉点火 万灯祭(まんとうさい)
  • 9月9日 13時 九月古例祭(これいさい)
  • 9月20日 古稀莚寿祭(こきえんじゅさい)
  • 9月14日 喜寿莚寿祭(きじゅえんじゅさい)
  • 9月27日 池坊献華式(いけのぼうけんげしき)
  • 9月28日 多賀講講社大祭(たがこうこうしゃたいさい)
  • 9月26日 抜穂祭(ぬいぼさい)
  • 10月3日 観月祭(かんげつさい)
  • 10月5日 傘寿莚寿祭(さんじゅえんじゅさい)
  • 10月17日 神嘗祭当日祭(かんなめさいとうじつさい)
  • 10月21日 10時 献茶式(けんちゃしき)
  • 11月3日 明治祭(めいじさい)
  • 11月8日 金咲稲荷神社例祭(かねさきいなりじんじゃれいさい)
  • 11月15日 大宮祭(おおみやさい)
  • 11月23日 11時 新嘗祭(にいなめさい)
  • 12月20日 早朝 御煤祓式(おすすはらいしき)
  • 12月23日 11時 天長祭(てんちょうさい)
  • 12月31日 15時 大祓式(おおはらえしき)
  • 12月31日 除夜祭(じょやさい)

例祭

  • 毎日 7時 御日供祭(おにっくさい)
  • 毎月1日,15日,28日 月次祭(つきなみさい)
  • 毎月1日 7時 お朔日参り(おついたちまいり)

お多賀杓子

拝殿内にある「お多賀杓子」

元正帝の縁起

多賀社のお守りとして知られるお多賀杓子は、元正天皇養老年中、多賀社の神官らが帝の病の平癒を祈念して強飯(こわめし)を炊き、シデの木[7]で作った杓子を添えて献上したところ、帝の病が全快したため、霊験あらたかな無病長寿の縁起物として信仰を集めたと伝わる。元正天皇のころは精米技術が未発達で、米飯は粘り気を持つ現代のものとは違い、硬くてパラパラとこぼれるものだったらしく、それをすくい取るためにお多賀杓子のお玉の部分は大きく窪んでいて、また、柄は湾曲していたとのことで、かなり特徴のある形だったという。なお、現代のお多賀杓子はお玉の形をしていない物が多く、今様の米に合わせて平板な物が大半である。このお守りは、実用的な物もあれば飾るための大きな物もある。

なお、多賀社より数キロメートル西にある「飯盛木(いもろ-ぎ)」は、帝の杓子の素となった木の枝を地に差したところ根が生じて大木に育ったものと伝わる。この飯盛木には、男飯盛木と女飯盛木の2本がある。

お多賀杓子・お玉杓子・おたまじゃくし

かつて際立った形状であった「お多賀杓子(お-たが-じゃくし)」は、「お玉杓子(おたまじゃくし、玉杓子お玉)」の語源になったと考えられる。カエル幼生「おたまじゃくし」は、「お玉杓子」から派生した名称なので、「オタマジャクシの語源もまた、「お多賀杓子」ということになる。後者のような言語的変化は、形状の相似によると思われる。

交通アクセス

公共交通

自動車

トピック

近江鉄道本線は、運行主系統が米原駅~八日市駅近江八幡駅となった現在でも、米原駅~貴生川駅(JR草津線)が正式な区間である。これは同鉄道の創立時、多賀大社と縁の深い伊勢神宮に向けて、官鉄(国鉄)の草津線・関西本線参宮線等を介して結ぼうとしたためと言われる。なお、「近江鉄道宇治山田延伸構想」がこの経緯に詳しい。

関連項目

脚注

  1. ^ 多賀大社の祭神は南北朝時代の頃までは伊弉諾尊ではなかったことが判明しており『古事記』の記述と多賀大社を結びつけることはできない。『古事記』では「近江」は「近淡海」とするのが常で、同じ『古事記』でも真福寺本以外の多くの写本が「故其伊耶那岐大神者坐淡路多賀也。」になっており、その他の諸々の理由からも、学界でも「淡海」でなく「淡路」を支持する説が有力である(武田祐吉、直木孝二郎等)。なお、『日本書紀』では一貫して「淡路」と記され、「近江」に該当する名はない。
  2. ^ 日本書紀景行天皇51年8月4日条、『古事記』景行天皇段。
  3. ^ 古代豪族系図集覧』。
  4. ^ 不動院、および、配下三院(観音院般若院成就院)に属する使僧をいう。「同宿輩」とも呼ばれ、全国規模で布教した。多賀社の坊人は隆盛期には100人余に達した。
  5. ^ 多賀大社”. 玄松子の記憶. 2017年8月28日閲覧。
  6. ^ 彦根市役所 彦根市内の指定文化財一覧表
  7. ^ クマシデイヌシデアカシデなどのクマシデ属

関連図書

  • 安津素彦梅田義彦 編集兼監修者『神道辞典』神社新報社、1968年、35頁
  • 白井永二土岐昌訓編集『神社辞典』東京堂出版、1979年、207頁
  • 菅田正昭『日本の神社を知る「事典」』日本文芸社、1989年、158頁
  • 上山春平 他『日本「神社」総覧』新人物往来社、1992年、162-163頁
  • 『神道の本』学研、1992年、205頁
  • 近藤敏喬 編『古代豪族系図集覧』東京堂出版、1993年、338頁。ISBN 4-490-20225-3 

外部リンク