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胡宮神社

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
胡宮神社
所在地 滋賀県犬上郡多賀町敏満寺49
主祭神 伊邪那岐命伊邪那美命
社格県社
創建 伝・敏達天皇の時代
本殿の様式 三間社流造
例祭 4月21日
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胡宮神社(このみやじんじゃ)は、滋賀県犬上郡多賀町敏満寺にある神社。旧社格県社多賀大社の別宮である。

祭神

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歴史

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当社の詳しい創建年代は明らかではないが、当社の東側にある青龍山(せいりゅうざん)の巨石信仰が当社の起源といわれる[1]。そのためか、当社の社伝によると敏達天皇の勅願所で聖徳太子による創建であるとしている[2]

当地には、聖徳太子の開基であるというが[1]、実際は平安時代に伊吹山寺の僧・三修によって創建[3]されたという天台宗の寺院・敏満寺(びんまんじ)があったが、当社はその鎮守社として[1]敏満寺の境内であり青龍山麓であるこの地に社殿を営みなおして建立された[4]。平安時代の赤染衛門の願文が所蔵されているので一条天皇の時代よりも以前に建立されたようである[2]

鎌倉時代には重源東大寺再興の砌り当社にて延寿の祈願をしたといわれている[2]

また、鎌倉時代の頃から敏満寺は隆盛を極め[2]、48伽藍120坊もの堂舎が立ち並び[5]、その勢力は西明寺金剛輪寺百済寺湖東三山と並ぶほどとなったという[1]

文和2年(1353年)には後光厳天皇足利義詮とともに当社に参拝している[2]

戦国時代、この近辺は六角氏京極氏浅井氏の大名権力の境目にあたり、所領地争いの最前線となっていた。そのため敏満寺は城塞化し、敏満寺城と呼ばれるほどになった[3]。当社もその城の曲輪の一角に入れられている。

しかし、敏満寺も当社も永禄5年(1562年)に浅井長政による久徳城攻めの兵火にあって焼失し、その後復興するも元亀3年(1572年)には織田信長にと相次いで焼き討ちされてしまい[6][5]、敏満寺は廃寺となった[1]。当社もことごとく荒廃してしまったが、寛永15年(1638年)に徳川家光によって再建された[5]

江戸時代になると神宮寺の福寿院が別当として当社を管理し、安永年間(1772年 - 1781年)より享和年間(1801年 - 1804年)の頃、僧・声海の時に社運は隆盛を極めた[2]

慶応4年(1868年)に神仏分離令が出されると福寿院は廃された。また、当社はそれまで多賀大社胡宮大明神と称されていたが、1869年明治2年)に社名を胡之神社と改称した[2]

当社は1881年(明治14年)に郷社、次いで1886年(明治19年)には県社に列格し、胡宮神社と改名した[2]

当社と東側にある青龍山の間には、石仏谷(いしぼとけだに)と呼ばれる山腹の斜面に中世の墓石群が7,000㎡に渡って広がり、千体以上の石仏が安置されている。敏満寺石仏谷墓跡と呼ばれている[5]

敏満寺城跡は当地の境内にもあるが、名神高速道路多賀サービスエリア(上り)に土塁が残されている[3]

境内

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  • 本殿
  • 幣殿
  • 拝殿
  • 斎館
  • 歴史民俗資料館
  • 蓮池
  • 絵馬堂
  • 福祉会館
  • 御輿倉
  • 仁王門跡 - かつての敏満寺の仁王門の跡[4]
  • 大日堂
  • 石仏群
  • 観音堂 - 本尊の石造聖観音立像は聖徳太子が自ら彫ったものであるという[5]
  • 社務所 - かつての福寿院[1]
  • 庭園 - 鑑賞式林泉園。室町時代末期の作庭[1]
  • 水月亭
  • 奥宮 - 青龍山の山頂に磐座がある。磐境とも呼ばれる[5]

摂末社

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文化財

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重要文化財

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  • 金銅製五輪塔 - 俊乗坊重源建久9年(1198年)12月に敏満寺に寄進したもの<ref name="近江の城めぐり 敏満寺城">。

祭事

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  • 1月20日 - 祈祷講祭
  • 11月23日 - 感謝祭

所在地

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  • 滋賀県犬上郡多賀町敏満寺49

アクセス

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脚注

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注釈

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出典

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周辺情報

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外部リンク

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