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「アポロ11号」の版間の差分

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{{Infobox Space mission
{{Infobox spaceflight
| name = アポロ11号
|insignia=Apollo 11 insignia.png
| image = Buzz salutes the U.S. Flag.jpg
|stats_ref=<ref name="Orloff">{{Citation|url=http://history.nasa.gov/SP-4029/Apollo_00g_Table_of_Contents.htm |title=''Apollo'' by the Numbers: A Statistical Reference (SP-4029) |author=Richard W. Orloff |publisher=NASA}}</ref>
| image_caption = [[月面]]での[[船外活動]]中に立てた星条旗に敬礼する[[バズ・オルドリン]]
|crew_size=3名
| insignia = Apollo_11_insignia.png
|command_module=CM-107<br />コールサイン ''Columbia''<br />質量 30,320 kg
| insignia_alt = 周囲を青色と金色で縁取った円の内側に、地球を背景にして月の上で翼を広げながらオリーブの枝を掴んでいるワシを表した徽章。
|service_module=SM-107
| insignia_caption = ミッション徽章
|lunar_module=LM-5<br />コールサイン ''Eagle''<br />質量 16,448 kg
| mission_type = 有人月面着陸
|booster=[[サターンV]] SA-506
| operator = [[アメリカ航空宇宙局|NASA]]
|launch_pad={{USA}}[[フロリダ州]]<br />{{nowrap|[[ケネディ宇宙センター]]}}<br />[[ケネディ宇宙センター第39発射施設|LC 39A]]
| COSPAR_ID = {{Unbulleted list
|launch_date=1969年7月16日<br />13:32:00 [[世界協定時|UTC]]
|CSM: 1969-059A
|lunar_landing=1969年7月20日<br />20:17:40 UTC<br />[[静かの海]]<br />{{Coord|0|40|26.69|N|23|28|22.69|E|globe:moon_type:landmark}}<br />([[国際天文学連合|IAU]] Mean Earth Polar Axis [[座標|coordinate system]]に基づく)
|LM: 1969-059C
|lunar_eva_duration=2 h 36 m 40 s
|lunar_surface_time=21 h 31 m 20 s
|lunar_sample_mass=21.55 kg (47.5 lb)
|lunar_orbits=30
|time_lunar_orbits=59 h 30 m 25.79 s
|landing=1969年7月24日<br />16:50:35 UTC<br />北太平洋<br />{{Coord|13|19|N|169|9|W|type:event|name=アポロ11号着水地}}
|mission_duration=8 d 03 h 18 m 35 s
|crew_photo=Apollo 11.jpg
|crew_caption=左から: [[ニール・アームストロング|アームストロング]]、[[マイケル・コリンズ (宇宙飛行士)|コリンズ]]、[[エドウィン・オルドリン|オルドリン]]
|previous_mission=[[File:Apollo-10-LOGO.png|35px]] [[アポロ10号]]
|next_mission=[[アポロ12号]]
}}
}}
| SATCAT = {{Unbulleted list
|CSM: 4039
|LM: 4041
}}
| mission_duration = 8日と3時間18分35秒


| spacecraft = {{Unbulleted list
'''アポロ11号'''は[[アメリカ合衆国]]の[[アポロ計画]]において、歴史上初めて[[ヒト|人類]]を[[月|月面]]に到達させた[[宇宙飛行]]である。
|[[アポロ司令・機械船|Apollo CSM]]-107
|[[アポロ月着陸船|Apollo LM]]-5
}}
| manufacturer = {{Unbulleted list
|CSM: [[ロックウェル・インターナショナル|North American Rockwell]]
|LM: [[グラマン|Grumman]]
}}
| launch_mass = {{convert|100756|lb|kg}}
| landing_mass = {{convert|10873|lb|kg}}


| launch_date = {{start date|1969|7|16|13|32|0|Z}}
== 概要 ==
| launch_rocket = [[サターンV]] SA-506
アポロ計画ではこれが5度目の[[有人宇宙飛行]]で、[[アポロ8号]]と[[アポロ10号]]に続く3度目の月飛行となった。搭乗員すべてがいずれも過去に宇宙飛行の経験を持っているのは、[[宇宙開発]]史上これが2度目のことだった。
| launch_site = [[ケネディ宇宙センター]] [[ケネディ宇宙センター第39発射施設|LC-39A]]


| landing_date = {{end date|1969|7|24|16|50|35|Z}}<ref name="Apollo 11 Mission Report" />
[[ニール・アームストロング]]船長、[[バズ・オルドリン]][[アポロ月着陸船|月着陸船]]操縦士、[[マイケル・コリンズ (宇宙飛行士)|マイケル・コリンズ]][[アポロ司令・機械船#司令船|司令船]]操縦士の3宇宙飛行士を乗せた[[サターンV 型ロケット]]は、[[1969年]][[7月16日]][[ケネディ宇宙センター第39発射施設]]から打ち上げられ、およそ3日半後に月周回軌道に到達。[[7月20日]]司令船「コロンビア」から分離された月着陸船「イーグル」は下段ロケットの噴射で減速しながら月面「静かの海」に軟着陸、アームストロングとオルドリンが、人類として初めて月面に降り立った。コリンズは「コロンビア」に残って周回軌道上に留り、月面を離脱後の「イーグル」上段との再[[宇宙機のドッキングおよび係留|ドッキング]]に備える傍ら、月面の写真撮影を行った。
| landing_site = 北太平洋<br/>{{Coord|13|19|N|169|9|W|type:event|name=アポロ11号着水地点}}<ref name="Apollo 11 Mission Report" />
| recovery_by = [[ホーネット (CV-12)|USS Hornet]]


| orbit_epoch = 1969年7月19日21:44&nbsp;UTC<ref name="orbit">{{cite web |url=http://airandspace.si.edu/explore-and-learn/topics/apollo/as11/a11sum.htm |title=Apollo 11 Mission Summary |publisher=Smithsonian National Air and Space Museum |work=The Apollo Program |accessdate=September 7, 2013 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130829082429/http://airandspace.si.edu/explore-and-learn/topics/apollo/as11/a11sum.htm |archivedate=August 29, 2013 |df=mdy}}</ref>
この飛行でアメリカ合衆国は、亡き[[ジョン・F・ケネディ|ケネディ大統領]]が1961年5月25日の[[一般教書演説|上下両院合同会議における演説]]で表明した「1960年代の終わりまでに人類を月面に到達させかつ安全に地球に帰還させる」という[[施政方針演説|施政方針]]<!-- ← 公約ではありません-->に応えるかたちでこれを見事に実現させたのである<!--([[1963年]][[11月22日]]に没したケネディは、この公約実現に立ち会えていない)--><!--自明蛇足-->。
| orbit_reference = [[月周回軌道]]
| orbit_periapsis = {{convert|54.5|nmi|km|order=flip|sp=us}}<ref name="orbit"/>
| orbit_apoapsis = {{convert|66.1|nmi|km|order=flip|sp=us}}<ref name="orbit"/>
| orbit_inclination = 1.25度<ref name="orbit"/>
| orbit_period = 2時間<ref name="orbit"/>
| apsis = selene


|interplanetary =
{{quotation|…… 私は、この60年代の終わりまでに人間を月に着陸させ、安全に地球に帰還させるという<br />その目標を達成することに、我が国民が取り組むべきだと確信しています。<br />{{smaller|''{{en|… I believe that this nation should commit itself to achieving the goal, before this decade is out, <br />of landing a man on the Moon and returning him safely to the Earth.}}''}}}}<!--この場合の commit は「取り組む」で、その主語は nation「国民」、ケネディはそうあるべきだと believe「確信している」のであって、彼自身がそれを行うと約束しているのではありません-->
{{Infobox spaceflight/IP
|type = orbiter
|object = 月
|component = 司令・機械船
|orbits = 30
|arrival_date = 1969年7月19日17:21:50&nbsp;UTC{{sfn|Orloff|2000|pp=102–110}}
|departure_date = 1969年7月22日04:55:42&nbsp;UTC{{sfn|Orloff|2000|pp=102–110}}
}}
{{Infobox spaceflight/IP
|type = lander
|object = 月
|component = 月着陸船
|arrival_date = 1969年7月20日20:17:40&nbsp;UTC<ref name="ALSJ 1" />
|departure_date = 1969年7月21日17:54&nbsp;UTC
|location = [[静かの海]]<br/>{{Lunar coords and quad cat|0.67408|N|23.47297|E}}<ref>{{cite web |url=http://nssdc.gsfc.nasa.gov/planetary/lunar/lunar_sites.html |title=Apollo Landing Site Coordinates |publisher=US National Space Science Data Center |first=David R. |last=Williams |date=December 11, 2003 |accessdate=September 7, 2013}}</ref>
|sample_mass = {{convert|47.51|lb|kg|order=flip}}
|surface_EVAs = 1
|surface_EVA_time = 2時間31分40秒
}}


| docking =
== 搭乗員 ==
{{Infobox spaceflight/Dock
<small>※ ( )内は、この飛行も含めた宇宙飛行回数</small>
| docking_target = 月着陸船
| docking_type = dock
| docking_date = 1969年7月16日16:56:03&nbsp;UTC{{sfn|Orloff|2000|pp=102–110}}
| undocking_date = 1969年7月20日17:44:00&nbsp;UTC{{sfn|Orloff|2000|pp=102–110}}
| time_docked =
}}
{{Infobox spaceflight/Dock
| docking_target = 月着陸船上段ロケット
| docking_type = dock
| docking_date = 1969年7月21日21:35:00&nbsp;UTC{{sfn|Orloff|2000|pp=102–110}}
| undocking_date = 1969年7月21日23:41:31&nbsp;UTC{{sfn|Orloff|2000|pp=102–110}}
| time_docked =
}}


| crew_size = 3名
=== 主搭乗員 ===
| crew_members = {{Unbulleted list
* ニール・アルデン・アームストロング (Neil Alden Armstrong) :船長 (2)
|[[ニール・アームストロング]]
* マイケル・コリンズ (Michael Collins) :司令船操縦士 (2)
|[[マイケル・コリンズ (宇宙飛行士)|マイケル・コリンズ]]
* エドウィン・E・オルドリンJr. (Edwin E. Aldrin, Jr.) :月着陸船操縦士 (2)
|[[バズ・オルドリン]]
}}
| crew_callsign = {{Unbulleted list
|CSM: ''Columbia''
|LM: ''Eagle''
|月面上: ''[[静かの基地|Tranquility Base]]''
}}
| crew_photo = apollo_11.jpg
| crew_photo_caption = 左から:[[ニール・アームストロング|アームストロング]]、[[マイケル・コリンズ (宇宙飛行士)|コリンズ]]、[[バズ・オルドリン|オルドリン]]
| crew_photo_alt = ヘルメットを脱いで宇宙服を着用したまま、大きな月の写真の前に座る3名の宇宙飛行士。


| previous_mission = [[アポロ10号]]
コリンズはアポロ8号の司令船操縦士に指名されていたが、外科手術で搭乗中止になったため、ジェームズ・ラベルと交替で司令船操縦士になった。
| next_mission = [[アポロ12号]]
| programme = [[アポロ計画]]
}}'''アポロ11号'''は、史上初めて[[ヒト|人類]]を[[月]]に[[月面着陸|着陸]]させることに成功した[[アポロ宇宙船]]、及びその{{仮リンク|アポロ計画のミッション一覧|en|List of Apollo missions|label=ミッション}}の名称である。

== 概要 ==
アポロ11号は[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]の[[アポロ計画]]の5度目の[[有人宇宙飛行|有人ミッション]]として、[[ニール・アームストロング]]船長、[[バズ・オルドリン]]操縦士、[[マイケル・コリンズ (宇宙飛行士)|マイケル・コリンズ]]操縦士の3名の宇宙飛行士を乗せて、1969年7月16日の[[東部夏時間]]午前9時32分 (13:32 UTC=[[協定世界時]]) に、[[フロリダ州]][[メリット島]]にある[[ケネディ宇宙センター]]から[[サターンV|サターンV型ロケット]]で打ち上げられた。アポロ宇宙船は、次の3つの部分から成る。3人の宇宙飛行士が乗り込める船室を備え、唯一地球に帰還する部分である[[アポロ司令・機械船#司令船|司令船]] (CM) 、推進力、電力、酸素、水を供給して司令船を支援する[[アポロ司令・機械船#司令船|機械船]] (SM) 、月に着陸するための下降段と、月を離陸して月周回軌道まで宇宙飛行士を再び帰すための上昇段の二段式になっている[[アポロ月着陸船|月着陸船]] (LM) である。

アポロ11号はサターンVの第三段の推力で[[月遷移軌道|月に向かい]]、途中で司令船をサターンVから切り離して着陸船と[[宇宙機のドッキングおよび係留|ドッキング]]し、およそ3日半かけて[[月周回軌道]]に到達した。アームストロングとオルドリンは二段式の月着陸船「イーグル」に乗り移り、司令船「コロンビア」から分離した後、下降段ロケットの噴射で減速しつつ、7月20日20:17 (UTC) に月面の[[静かの海]]に「イーグル」を軟着陸させた。着陸から6時間余り後の7月21日02:56:15 (UTC) にアームストロングは月面に足を降ろし、約20分後にオルドリンがそこに加わった。こうして二人は人類として初めて月面に降り立った人物となった。二人は共に2時間15分ほど船外で過ごし、{{convert|47.5|lb|kg}}の月物質を地球に持ち帰るために採集した。コリンズは司令船「コロンビア」に一人残り、二人が月面にいる間、月周回軌道上で司令船を操縦する傍ら、月面の写真撮影を行なった。アームストロングとオルドリンは21時間半を月面で過ごした後、「イーグル」上昇段を離陸させ、月周回軌道上にて司令船「コロンビア」と再ドッキングし、コリンズと合流した。「イーグル」を投棄した後、宇宙飛行士たちは司令船を地球へ帰還する軌道に乗せる操作を行い、ロケットを噴射して月軌道を離脱した。三人は8日間以上の宇宙飛行を終えて、7月24日に地球に帰還し、太平洋に{{仮リンク|着水|en|Splashdown}}した。

月への着陸の様子は世界中に向けてテレビジョン放送で生中継された。アームストロングは月面に足を降ろし、この出来事について「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」と述べた。アポロ11号は実質的に[[宇宙開発競争|宇宙競争]]を終わらせ、[[アメリカ合衆国]]は、1961年に故[[ジョン・F・ケネディ]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]が掲げた「この60年代の終わりまでに人間を月に着陸させ、安全に地球に帰還させる」という国家目標<!-- 1961年5月25日の[[一般教書演説|上下両院合同会議における演説]]でケネディ大統領が表明した[[施政方針演説|施政方針]] -->を見事に達成した<ref>{{Cite news |url=http://archives.cnn.com/2001/TECH/space/05/25/kennedy.moon/ |title=Man on the Moon: Kennedy speech ignited the dream |work=CNN |last=Stenger |first=Richard |date=May 25, 2001 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100606035837/http://archives.cnn.com/2001/TECH/space/05/25/kennedy.moon/ |archivedate=June 6, 2010}}</ref>。
<!-- {{quotation|…… 私は、この60年代の終わりまでに人間を月に着陸させ、安全に地球に帰還させるという<br />その目標を達成することに、我が国民が取り組むべきだと確信しています。<br />{{smaller|''{{en|… I believe that this nation should commit itself to achieving the goal, before this decade is out, <br />of landing a man on the Moon and returning him safely to the Earth.}}''}}}} -->

== 枠組み ==

=== 搭乗員 ===
{{Spaceflight crew
|terminology = 宇宙飛行士
|position1 = 船長
|crew1_up = [[ニール・アームストロング|ニール・A・アームストロング]]
|flights1_up = 最後にして2
|position2 = 司令船操縦士
|crew2_up = [[マイケル・コリンズ (宇宙飛行士)|マイケル・コリンズ]]
|flights2_up = 最後にして2
|position3 = 月着陸船操縦士
|crew3_up = [[バズ・オルドリン|エドウィン・E・オルドリンJr.]]
|flights3_up = 最後にして2
}}

ニール・アームストロングを船長に、ジム・ラヴェルを司令船操縦士 (CMP) に、バズ・オルドリンを月着陸船操縦士 (LMP) に、それぞれ割り当てることが公式に発表されたのは1967年11月20日のことだった{{sfn|Brooks et al.|2009|p=374}}。搭乗員全員がいずれも過去に宇宙飛行を経験したことのあるベテラン飛行士で編成されたのは、アメリカの宇宙開発史上、[[アポロ10号]]に次いで{{sfn|Orloff|2000|p=72}}これが2度目のことだった{{sfn|Orloff|2000|p=90}}。以後、全員がベテラン飛行士で編成される3度目の機会は、1988年の[[STS-26]]まで訪れることはなかった{{sfn|Orloff|2000|p=90}}。ラヴェルとオルドリンは以前、[[ジェミニ12号]]の搭乗員として一緒に飛行したことがあった。この搭乗員は当初、[[アポロ9号]]の予備搭乗員として編成されたが、月着陸船 (LM) の設計と製造に遅れが生じたため、[[アポロ8号]]とアポロ9号は搭乗員および予備搭乗員が交換され、アームストロング船長率いる搭乗員はアポロ8号の予備搭乗員になった。通常の搭乗員ローテーション計画に基づけば、アームストロングは当時アポロ11号の船長になることが予想されていたが{{sfn|Hansen|2005|pp=312–313}}、一人変更されることになった。アポロ8号に乗り組む予定だった[[マイケル・コリンズ (宇宙飛行士)|マイケル・コリンズ]]が両脚に故障を抱え始めたためである。医師らは、問題は5番目と6番目の椎骨間の骨の成長にあるとみられ、外科手術を要すると診断した{{sfn|Collins|2001|pp=288–289}}。このため、ラヴェルがコリンズに代わってアポロ8号の搭乗員になり、コリンズが故障から回復すると、コリンズは司令船操縦士としてアームストロング船長以下の搭乗員に加わった。その間、[[フレッド・ヘイズ]]が月着陸船操縦士として、オルドリンが司令船操縦士として、それぞれアポロ8号の予備搭乗員を務めた{{sfn|Cunningham|2010|p=109}}。


=== 予備搭乗員 ===
=== 予備搭乗員 ===
{{Spaceflight crew
* [[ジム・ラヴェル|ジェームズ・A・ラベルJr.]] (James A. Lovell, Jr.) :船長
|terminology = 宇宙飛行士
* ウィリアム・A・アンダース (William A. Anders) :司令船操縦士
|position1 = 船長
* フレッド・W・ヘイスJr. (Fred W. Haise, Jr.) :月着陸船操縦士
|crew1_up = [[ジム・ラヴェル|ジェームズ・A・ラヴェルJr.]]
|position2 = 司令船操縦士
|crew2_up = [[ウィリアム・アンダース|ウィリアム・A・アンダース]]
|position3 = 月着陸船操縦士
|crew3_up = [[フレッド・ヘイズ|フレッド・W・ヘイズJr.]]
}}


予備搭乗員の構成は、ラヴェルが船長、アンダースが司令船操縦士、ヘイズが月着陸船操縦士だった。このうち、アンダースとラヴェルはアポロ8号で一緒に飛行したことがあった{{sfn|Orloff|2000|p=90}}。ところが、1969年前半にアンダースは同年8月に実施される{{仮リンク|国家宇宙会議|en|National Space Council|label=国家航空宇宙会議}}との仕事を引き受け、その日に宇宙飛行士を引退することを発表した。その時点で、万が一アポロ11号が予定されていた7月の打ち上げより遅れてアンダースを任用できなくなった場合に備えて、{{仮リンク|ケン・マッティングリー|en|Ken Mattingly}}を地上支援員から異動させ、予備の司令船操縦士としてアンダースと並行して訓練を受けさせることにした。ラヴェル、ヘイズ、マッティングリーの3名は最終的に[[アポロ13号]]の搭乗員として配属されることになった{{sfn|Slayton|Cassutt|1994|p=237}}。
=== 地上支援飛行士 ===
* チャールズ・モス・デュークJr. (Charles Moss Duke, Jr.) :[[宇宙船通信担当官]] (Capsule Communicator, CAPCOM)
* ロナルド・エヴァンス (Ronald Evans) :CAPCOM
* オーウェン・K・ギャリオット (Owen K. Garriott) :CAPCOM
* ドン・L・リンド (Don L. Lind) :CAPCOM
* ケン・マッティングリー (Ken Mattingly) :CAPCOM
* [[ブルース・マッカンドレス2世]] (Bruce McCandless II) :CAPCOM
* ハリソン・シュミット (Harrison Schmitt) :CAPCOM
* ビル・ポーグ (Bill Pogue)
* [[ジャック・スワイガート]] (Jack Swigert)


=== 飛行主任 ===
=== 地上支援員 ===
* クリフ・チャールズス (Cliff Charlesworth) 発射および外活動担当
* [[チャールズ・デュク|チャーリー・デューク]][[宇宙通信担当官]] (CAPCOM)
* [[ロナルド・エヴァンス]]:CAPCOM
* グリン・ルーネイ (Glynn Lunney) :月面離陸担当
* {{仮リンク|オーウェン・ギャリオット|en|Owen K. Garriott|label=オーウェン・K・ギャリオット}}:CAPCOM
* ジーン・クランツ ([[:en:Gene Kranz|Gene Kranz]]) :月面着陸担当
* {{仮リンク|ドン・リンド|en|Don L. Lind|label=ドン・L・リンド}}:CAPCOM
* {{仮リンク|ケン・マッティングリー|en|Ken Mattingly}}:CAPCOM
* [[ブルース・マッカンドレス2世]]:CAPCOM
* [[ハリソン・シュミット]]:CAPCOM
* [[ウイリアム・ポーグ|ビル・ポーグ]]
* [[ジャック・スワイガート]]
* {{仮リンク|ウィリアム・カーペンティア|en|William Carpentier}}:航空医官 (SURGEON)


== 宇宙船名 ==
=== 飛行管制主任 ===
* {{仮リンク|クリフォード・チャールズワース|en|Clifford E. Charlesworth|label=クリフォード・E・チャールズワース}} (Green Team) - 打ち上げおよび[[船外活動]] (EVA) 担当
着陸船は、アメリカの[[国鳥]]である[[ハクトウワシ]]を計画の[[徽章]](右上参照)として使用することが決定された後、「イーグル (Eagle)」と命名された。また司令船の「コロンビア (Columbia)」はアメリカ自体を象徴する伝統的な女性名で、[[ジュール・ヴェルヌ]]の小説「[[月世界旅行]]」に登場する、宇宙船発射用の大型[[大砲]]「コロンビアード」にもちなんでいる。[[アメリカ航空宇宙局]]は計画段階では、司令船を「スノー・コーン(かき氷)」、着陸船を「ヘイスタック(干し草)」という暗号名で呼んでいたが、[[報道機関|マスコミ]]に公表する際に変更された。
* {{仮リンク|ジェラルド・グリフィン|en|Gerald D. Griffin|label=ジェラルド・D・グリフィン}} (Gold Team)
* {{仮リンク|ジーン・クランツ|en|Gene Kranz}} (White Team) -月面着陸担当
* {{仮リンク|グリン・ルーネイ|en|Glynn Lunney}} (Black Team) - 月面離陸担当


== 計画の焦点 ==
=== コールサイン ===
[[File:Apollo 11 CSM photographed from Lunar Module (AS11-37-5445).jpg|thumb|月着陸船「イーグル」から撮影した月周回軌道上のアポロ11号司令・機械船「コロンビア」]]
=== 発射と月面着陸 ===
アポロ10号の搭乗員が自分たちの搭乗するアポロ宇宙船を「[[チャーリー・ブラウン (ピーナッツ)|チャーリー・ブラウン]] ''(Charlie Brown)''」および「[[スヌーピー]] ''(Snoopy)''」(共に漫画『[[ピーナッツ (漫画)|ピーナッツ]]』のキャラクターに因む)と名付けた後で、広報担当のジュリアン・シアーは当時[[ジョンソン宇宙センター|有人宇宙船センター]]長だった{{仮リンク|ジョージ・ロウ|en|George Low}}に、アポロ11号の搭乗員が自分たちのアポロ宇宙船を命名する際はもう少し真面目な名前をつけてもらえないだろうかと提案する書簡を送った。NASAの計画の初期段階において、アポロ11号の司令船は「スノーコーン ''(Snowcone)''」([[かき氷]])、同じく着陸船は「ヘイスタック ''(Haystack)''」(干し草積み)という暗号名で呼ばれており、その報道発表で使用されていた<ref name="Snowcone">{{cite web |url=https://history.nasa.gov/ap11fj/pdf/a11-techsum.pdf |title=Technical Information Summary, Apollo-11 (AS-506) Apollo Saturn V Space Vehicle |date=June 25, 1969 |work=[[マーシャル宇宙飛行センター|George C. Marshall Space Flight Center]] |publisher=NASA |location=Huntsvill, AL |page=8 |format=PDF |id=Document ID: 19700011707; Accession Number: 70N21012; Report Number: NASA-TM-X-62812; S&E-ASTR-S-101-69 |accessdate=June 12, 2013 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120603093127/http://history.nasa.gov/ap11fj/pdf/a11-techsum.pdf |archivedate=June 3, 2012 |df=mdy-all}}</ref>。
[[ファイル:Apollo 11 Saturn V lifting off on July 16, 1969.jpg|thumb|right|発射台から離れる[[サターンV 型ロケット]]。1969年[[7月16日]]]]
[[ファイル:Apollo 11 launch.jpg|thumb|right|発射から1分後、[[マッハ数|マッハ]]1に近づき[[プラントル・グロワート・シンギュラリティ|ヴェイパー・コーン(圧縮雲)]]を発生させるサターンV]]
[[ファイル:Engineers Working apollo 11.png|thumb|right|管制センターの担当官たち]]
1969年[[7月16日]]13:32UTC(現地時間午前9時32分)、サターンV 型ロケットは[[ケネディ宇宙センター]]から発射された。


その後、司令船は「コロンビア ''(Columbia)''」と命名され、その由来はアメリカを象徴的に擬人化した伝統的な女性名「[[コロンビア (古名)|コロンビア]]」で、[[ジュール・ヴェルヌ]]の1865年発表の小説『[[月世界旅行|地球から月へ]]』に登場する、(アポロと同様にフロリダから)宇宙船を発射するための巨大な大砲「[[コロンビヤード砲#小説におけるコロンビヤード砲|コロンビアード]]」にも因んでいる。月着陸船は、アメリカの[[国鳥]]である[[ハクトウワシ]]をミッションの[[記章|徽章]]の主役として起用することが決定された後、「イーグル ''(Eagle)''」と命名された{{sfn|Collins|2001|pp=334–335}}。
「当日は、発射場近くの[[高速道路]]や海岸には無数の人が群れ、数百万の人々が[[テレビ]]でこの光景を目撃しようとしていた」


=== 徽章 ===
と、NASAの主任広報官だったジャック・キングはコメントしている。[[リチャード・ニクソン|ニクソン大統領]]も、[[ホワイトハウス]]の執務室で発射の瞬間を見ていた。サターンV は12分後には軌道に乗り、地球を一周半した後、第三段[[S-IVB]] [[ロケット]]を再点火して月へと向かった。30分後、[[アポロ司令・機械船|司令・機械船]]がS-IVB から切り離され、月着陸船とドッキングした。
[[File:Apollo 11 Flown Silver Robbins Medallion (SN-416).jpg|thumb|アポロ11号と共に宇宙を飛行した銀の{{仮リンク|NASAのジェミニ・アポロ宇宙飛行記念メダル|en|NASA space-flown Gemini and Apollo medallions|label=ロビンス・メダル}}]]
アポロ11号の{{仮リンク|ミッションパッチ|en|Mission patch|label=ミッション徽章}}はコリンズが「アメリカ合衆国による平和的な月面着陸」を象徴することを願ってデザインした(ページ上部参照)。ラヴェルの提案で、コリンズは[[鷲|ワシ]]を象徴に選んだ上で、遠くに地球を望みながら月を背景にして、嘴(くちばし)に平和の象徴である{{仮リンク|オリーブの枝|en|Olive branch}}をくわえたワシを描いた。写実的に見れば、この画の中の日光は差してくる方向が正しくないし、地球の影も左ではなくもっと下の方に描かれるべきだった。NASAの役人たちには、このワシの鉤爪は(そのままでは)あまりに戦闘的すぎると見えたようで、かなりの議論があった後、オリーブの枝を嘴から足の爪に移すことで巧みに爪を隠した。アームストロングは "eleven" の表記では非英語話者には理解しにくいであろうことを懸念したので、"Apollo 11" とアラビア数字表記になった{{sfn|Collins|2001|pp=332–334}}。また、アポロ11号の搭乗員たちは自分たちの名前を徽章に記載しないことに決め<ref group="注">徽章内には宇宙飛行士名を入れるのが以前からの通例となっており、これはその後のアポロや[[スカイラブ計画|スカイラブ]]・[[スペースシャトル計画|スペースシャトル]]計画等でも行われているため、今回は異例の措置となった。</ref>、徽章は「月面着陸に向けて働いた“みんな”を代表する」ものとなった{{sfn|Collins|2001|p=332}}。使われたすべての色は自然に由来する色で、徽章は青色と金色で円周を縁取られた{{citation needed|date=March 2018}}。前述のように着陸船は徽章に合わせて「イーグル」と命名された。


1971年に[[1ドル硬貨 (アメリカ合衆国)#アイゼンハワー・ダラー(1971年〜1978年)|アイゼンハワーの1ドル硬貨]]が発行されたときには、硬貨の裏面にこの図案のワシが使用された<ref>{{cite web |url=http://coinsite.com/CoinSite-PF/pparticles/$1eisen.asp |title=1971–78 Dollar Eisenhower |work=CoinSite |publisher=ROKO Design Group, Inc. |date=1994 |accessdate=July 20, 2009}}</ref>。アポロ11号のミッションから10年後にあたる1979年に発行された小さな[[1ドル硬貨 (アメリカ合衆国)#アンソニー・ダラー(1979年〜1981年、1999年)|アンソニーの1ドル硬貨]]でも、この徽章の図案が使用された<ref>{{cite web |title=Susan B. Anthony Dollar – 1979–1999 |url=http://www.usmint.gov/historianscorner/?action=coinDetail&id=347 |publisher=United States Mint |accessdate=August 12, 2014 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140811123227/https://www.usmint.gov/historianscorner/?action=coinDetail&id=347 |archivedate=August 11, 2014 |df=mdy}}</ref>。
[[7月19日]]、11号は月の裏側で[[アポロ司令・機械船#機械船|機械船]]の[[ロケットエンジン]]に点火し、[[月周回軌道]]に乗った。軌道を13周した時、乗組員は[[静かの海]]サビーヌD[[クレーター]]の南西20キロの上空で、まさにこれから彼らが着陸しようとしている地点を目視することができた。ここが着陸地点に選ばれたのは、無人[[探査機]][[レインジャー計画|レインジャー]]8号・[[サーベイヤー計画|サーベイヤー]]5号による調査や、月周回衛星からの写真撮影によって、比較的平坦で着陸や[[船外活動]]を行なうのに支障がないと判断されたからであった。
[[ファイル:Apollo 11 Lunar Module Eagle in landing configuration in lunar orbit from the Command and Service Module Columbia.jpg|thumb|left|分離直後、司令船コロンビアから撮影された着陸船イーグル]]
1969年7月20日、着陸船イーグルは司令船コロンビアから切り離された。イーグルは機体をゆっくりと回転させ、コロンビアにひとり残ったコリンズは、離れていくイーグルが損傷を負っていないかを目視にて確認した。


=== 記念品 ===
エンジンに点火し、降下を開始してしばらくたってから、アームストロングとオルドリンは月面上の目標地点を通り過ぎるのが4秒ほど早すぎることに気づいた。これはすなわち、予定着陸地点を数[[マイル]]ほど行きすぎてしまうことを意味していた。その時、着陸船の航法[[コンピューター]]が警報を発した。地上の[[シミュレーター]]で数え切れないほど訓練を積んできた両飛行士にも、この警報が何を意味するのか理解できなかったが、[[テキサス州]][[ヒューストン]]の管制センターにいたコンピューター技師は、航法主任にこのまま降下を続けても何ら問題はないことを報告し、それはただちに飛行士たちにも伝えられた。
ニール・アームストロングは、自身の個人的な記念品である、[[ライト兄弟]]の1903年の飛行機の左のプロペラから取った木片と、その翼から取った布切れ{{sfn|Hansen |2005|p=527}}、そして当初[[ドナルド・スレイトン]]が[[アポロ1号]]の搭乗員の未亡人たちからもらった、ダイヤモンドが散りばめられた{{仮リンク|合衆国宇宙飛行士バッジ|en|United States Astronaut Badge|label=宇宙飛行士の階級章}}を月に持って行った。この階級章はアポロ1号で飛行し、ミッション後にスレイトンに与えられるはずだったが、発射台での悲惨な火災事故と後に続く葬儀を受けて、未亡人たちがスレイトンに渡したもので、アームストロングはそれを持ってアポロ11号に乗船した{{sfn|Slayton|Cassutt|1994|pp=191–192}}。
{{Clear}}


== ミッションのハイライト ==
だがその時アームストロングが窓の外を見ると、そこには直径100mほどもあるクレーターが待ちかまえていた。内部には乗用車ほどもある岩がいくつも転がっていて、その中に降りれば着陸船が転倒してしまうことは明らかであった。アームストロングは操縦を半手動に切り替え(一般的には全手動に切り替えたと思われているが、事実ではない)、傍らでオルドリンが[[高度]]と[[速度]]を読み上げ続けた。7月20日20:17 (UTC)、イーグルは月面に着陸したが、そのとき[[燃料]]は残り25秒と表示されていた。この着陸にいたるまでのアームストロングの心拍数は150を超えており、彼らが着陸失敗の恐怖と緊張の中にいたことを窺わせている<ref>ナショナル ジオグラフィック プレミアムセレクションDVD 70. ナショナル ジオグラフィックのさらなる挑戦 より</ref>。


=== 打ち上げと月軌道までの飛行 ===
先ほどの警報は、コンピューターが[[オーバーフロー]]を起こしたことを知らせるものであった。着陸の際、司令船との[[ランデブー (宇宙開発)|ランデブー]]用の[[レーダー]]は必要がなくなるが、万が一着陸を中止して緊急脱出する事態に備えて、スイッチがオンになっていた。そのためコンピューターには、高度測定用レーダーからのものとランデブー用レーダーからのものの2種類のデータが入ってきてしまい、演算処理が追いつかなくなったのである。地上の[[シミュレーション]]では、このような事態は想定していなかった。これはコンピューターではなく人間の側のミスだったが、訓練された飛行士たちによって大きな問題に発展することはくい止められた。また燃料はあとわずかしか残っていないと表示されていたが、これは月の[[重力]]が地球の6分の1しかないため、タンク内で燃料が予想以上に攪拌され、実際よりも少なく表示されたものであった。このため次回以降のミッションでは、タンクの中に燃料の動揺を抑える抑流板が設置された。
{{multiple image
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| header_align = center
| image1 = Apollo 11 Launch2.jpg
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| caption1 = アポロ11号を搭載したサターンVが発射塔のカメラの前を通過する様子
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| caption2 = 地球周回軌道を脱出([[月遷移軌道]]への投入)直後のアポロ11号から見た地球
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| caption3 = 打ち上げのエンジン点火時のビデオテープ映像 (500 fps) <!-- The [[S-II]] second stage ignites after the spent [[S-IC]] first stage separates from the vehicle -->
}}
「打ち上げ当日は、発射場近くの幹線道路や海岸に群がる見物客ばかりでなく、数百万の人々がテレビジョンでこの光景をじっと見守っていた」と、NASAの主任広報官だった{{仮リンク|ジャック・キング (NASA)|en|Jack King (NASA)|label=ジャック・キング}}はコメントしている。[[リチャード・ニクソン|リチャード・M・ニクソン]]大統領も[[ホワイトハウス]]で[[フランク・ボーマン]]と共に事の進行を見ていた<ref>{{cite web |title=President Richard Nixon's Daily Diary |url=https://www.nixonlibrary.gov/sites/default/files/virtuallibrary/documents/PDD/1969/013%20July%2016-31%201969.pdf |publisher=Richard Nixon Presidential Library |accessdate=September 3, 2018 |page=2 |date=July 16, 1969}}</ref>。


1969年7月16日13:32:00 UTC([[東部夏時間|現地時間]]午前9時32分00秒)、[[サターンV|サターンV型ロケット]]はアポロ11号を搭載して、[[ケネディ宇宙センター]]の[[ケネディ宇宙センター第39発射施設|第39発射施設]]内にある39A発射台から打ち上げられた。サターンVは12分後には、高度{{convert|98.9|nmi|km}}から{{convert|100.4|nmi|km}}の辺りで、地球を周回する軌道に入った。地球を一周半した後、ロケットの第三段 ([[S-IVB]]) を点火、16:22:13 (UTC) に[[月遷移軌道|月遷移投入]] (Trans-lunar injection, TLI) のためにエンジンを噴射して宇宙船を推進し、月へと向かう軌道に乗せた。約30分後、使い切ったロケットの第三段から[[アポロ司令・機械船]] (CSM) が切り離され、180度反転して、第三段に取り付けられている月着陸船とドッキングした。月着陸船が抽出された後で、合体した宇宙船は月に向かう針路をとる一方、他方の第三段は月を通過する弾道を描くように飛行して[[太陽周回軌道|太陽を周回する軌道]]に入った{{sfn|Orloff|2000|pp=102–110}}。
月面から最初の言葉を発したのは(技術的な専門用語だったが)オルドリンだった。降下している間、彼はずっと操縦を担当するアームストロングの横で航法データを読み上げていた。接地した瞬間に彼が言った言葉は、「接触灯点灯。オーケー、エンジンストップ。ACA([[操縦桿|Attitude Controller Assembly]])解放。」で、アームストロングが「ACA解放了解。」と確認し、再びオルドリンが「モードコントロールオート。降下用エンジン指令すべて停止。エンジンアーム、オフ。413イン。」と発声した。その次にアームストロングが、有名な次の言葉を放ったのである。


7月19日17:21:50 (UTC) にアポロ11号は月の裏側を通過して[[アポロ司令・機械船#機械船|機械船]]の推進エンジンを点火し、[[月周回軌道]]に乗った。その後、月を30周するうち<ref name="Apollo-11 (27)">{{cite web |url=http://science.ksc.nasa.gov/history/apollo/apollo-11/apollo-11.html |title=Apollo-11 (27) |work=Historical Archive for Manned Missions |publisher=NASA |accessdate=June 13, 2013}}</ref>、飛行士たちは[[静かの海]]南部の{{仮リンク|コリンズ (クレーター)|en|Collins (crater)|label=サビンD}}クレーター (0.67408N, 23.47297E) から南西に約{{convert|12|mi|km}}の辺りに位置する着陸地点の過ぎ行く景色を目にした。この着陸地点はある程度予め選定されていたのだが、それは無人探査機[[レインジャー8号]]と[[サーベイヤー5号]]による先行調査や、月周回衛星[[ルナ・オービター計画|ルナ・オービター]]が撮影した月面写真により、その比較的平坦で滑らかな地形が着陸や[[船外活動]] (EVA) を行うのに支障がないと判断されたためであった<ref>{{cite web |url=http://www.hq.nasa.gov/alsj/a11/A11_PressKit.pdf |title=Apollo 11 Lunar Landing Mission |date=July 6, 1969 |publisher=NASA |location=Washington, D.C. |type=Press kit |format=PDF |id=Release No: 69-83K |accessdate=June 13, 2013}}</ref>。
「ヒューストン、こちら[[静かの海|静かの海基地]]。イーグルは舞い降りた (Houston, Tranquility Base here. The Eagle has landed.)」


=== 月への降下 ===
アームストロングが宇宙船の名称を不意に「イーグル」から「静かの海基地」に変更したために、管制センターは一瞬混乱した。通信担当官が直ちに着陸を確認し、関係者は最も困難な作業である着陸操作が無事に行なわれたことで、ほっと一安心した。
[[File:Apollo 11 Lunar Module Eagle in landing configuration in lunar orbit from the Command and Service Module Columbia.jpg|thumb|司令船「コロンビア」から分離直後に撮影された着陸船「イーグル」]]
[[File:Duke, Lovell and Haise at the Apollo 11 Capcom, Johnson Space Center, Houston, Texas - 19690720.jpg|thumb|月へ降下中のアポロ11号と交信する[[宇宙船通信担当官|CAPCOM]]のチャールズ・デュークと、予備操縦士のジェームズ・ラヴェルおよびフレッド・ヘイズ]]
1969年7月20日、月着陸船「イーグル」が司令船「コロンビア」から切り離された。「コロンビア」に一人残ったコリンズは、機体をゆっくりと回転させる着陸船「イーグル」に損傷がないことを目視にて確認した。


エンジンを点火し、降下を開始してしばらく経ってから、アームストロングとオルドリンは月面上の目標地点を通り過ぎるのが4秒ほど早いことに気づき、彼らは「このままでは飛びすぎてしまう」と報告した。これはすなわち、予定していた着陸目標よりも数マイル西の地点に着陸してしまうことを示していた。
船外活動の準備を開始する直前、突然オルドリンが、


降下のためのエンジン燃焼に入る5分前、月面から高度{{convert|6000|ft|m|-2}}で、[[アポロ誘導コンピュータ|着陸船の航法・誘導コンピュータ]]が予期しない警報 "1202" と "1201" を発した{{sfn|Bizony|2009|pp=45-46}}。その時、テキサス州ヒューストンの{{仮リンク|クリストファー・C・クラフト・ジュニア・ミッションコントロールセンター|en|Christopher C. Kraft Jr. Mission Control Center|label=ミッションコントロールセンター}}内にいたコンピュータ技師の{{仮リンク|ジャック・ガーマン|en|Jack Garman}}は、誘導管制主任の{{仮リンク|スティーブ・ベイルズ|en|Steve Bales}}にこのまま降下を続けても安全であることを告げ、このことは直ちに飛行士たちにも伝えられた。これらの警報は「実行[[算術オーバーフロー|オーバーフロー]] ("executive overflows")」を表示し、誘導コンピュータがその全ての[[タスク]]の処理をリアルタイムで完了できず、そのうちのいくつかを遅延させなければならない状態にあることを意味していた<ref>{{cite book |last1=Collins |first1=Michael |last2=Aldrin |first2=Edwin E., Jr. |authorlink1=マイケル・コリンズ (宇宙飛行士) |authorlink2=バズ・オルドリン |editor-last=Cortright |editor-first=Edgar M |editor-link=エドガー・コートライト |title=Apollo Expeditions to the Moon |url=http://www.hq.nasa.gov/pao/History/SP-350/cover.html |accessdate=June 13, 2013 |date=1975 |publisher=NASA |location=Washington, D.C. |oclc=1623434 |id=NASA SP-350 |chapter=A Yellow Caution Light |chapterurl=https://history.nasa.gov/SP-350/ch-11-4.html}} Chapter 11.4.</ref>。着陸の際、司令船との[[ランデブー (宇宙開発)|ランデブー]]用の[[レーダー]]は必要ではなくなるが、万が一着陸を中止して緊急脱出する事態に備えて、スイッチがオンになっていた。そのため、コンピュータには高度測定用レーダーからのものとランデブー用レーダーからのものの2系統のデータが同時に入ってきてしまい、演算処理が追いつかなくなったのである。
「こちらは月着陸船パイロットです。この機会を借りて、私はこの放送を聞いている人々に対し、誰であろうと、またどこにいようと、しばらくの間手を止めて、この数時間に起こったできごとについて熟慮し、それぞれの方法で感謝をしてほしいと願います」


{{quote|チェックリストのマニュアルに誤りがあったため、ランデブーレーダーのスイッチが間違った場所に置かれていました。これによって、誤った信号がコンピュータに送信されたのです。その結果、コンピュータは、その時間の15%を費やす余分な負荷となる[[スプリアス]]データを受信しつつ、着陸のためのすべての通常の機能を実行するように求められていました。コンピュータ(というより、その中に入っているソフトウェア)は、十分に賢かったので、実行しなければならない命令以上に多くのことを頼まれているということを認識していました。それで、宇宙飛行士に分かるように警告を発して「今しなければならないこと以上に多くの命令が入ってきて手が回らない。だから遂行するのは重要な命令だけにするよ」と知らせました。すなわち、着陸に必要な命令を……。実際、コンピュータはエラー状態を認識する以上のことをするようにプログラムされていました。ソフトウェアには回復プログラム一式が組み込まれていたのです。ソフトウェアの動作としては、この場合、優先度の低い仕事を除外して、重要なものを再構築することでした。……もしコンピュータがこの問題を認識できずに回復動作をとらなかったら、アポロ11号の月への着陸が上手くいったかどうか、疑わしいと思います。<ref>{{cite journal |last=Hamilton |first=Margaret H. |authorlink=マーガレット・ハミルトン (科学者) |date=March 1, 1971 |title=Computer Got Loaded |journal=Datamation |publisher=Cahners Publishing Company |type=Letter |issn=0011-6963}}</ref>{{efn2|手紙に記述されている通り、ミッション中に原因はランデブーレーダーのスイッチが間違った場所にあったことにあると診断され、その結果、ランデブーレーダーと着陸レーダーの両方から同時に送られてきたデータをコンピュータに処理させようとしたのだった<ref name="Apollo 11 Mission Report">{{cite book |title=Apollo 11 Mission Report |url=https://history.nasa.gov/alsj/a11/A11_MissionReport.pdf |format=PDF |accessdate=July 10, 2013 |date=November 1969 |work=[[ジョンソン宇宙センター|Manned Spacecraft Center]], Mission Evaluation Team |publisher=NASA |location=Houston, Texas |oclc=10970862 |id=MSC-00171}}</ref><ref name="Martin">{{cite web |url=http://www.hq.nasa.gov/alsj/a11/a11.1201-fm.html |title=Apollo 11: 25 Years Later |last=Martin |first=Fred H. |date=July 1994 |work=Apollo 11 Lunar Surface Journal |publisher=NASA |accessdate=June 13, 2013}}</ref>。しかし、ソフトウェア技師のドン・アイルズ (Don Eyles) は、2005年の誘導制御会議 (Guidance and Control Conference) の論文で、実はこの問題は以前[[アポロ5号]]のために最初の無人月着陸船をテストしている最中に見られたハードウェア設計の欠陥が原因であると結論づけた。(緊急時着陸中止という万が一の事態に備えて)ランデブーレーダーをオンにしておくことはコンピュータとは関係ないはずだったが、無作為なハードウェアの電源の入れ方次第では、ランデブーレーダーシステムの2つの部品の間に生じる電気的位相の不整合により、コンピュータに対して固定型アンテナが2つのポジションの間を前後に[[ディザリング]]するように見えることがある。ランデブーレーダーがインボランタリ・カウンタを更新すると、余分な疑似[[サイクルスチール]]により、コンピュータは警告を発する<ref name="Eyles">{{cite web |url=http://klabs.org/history/apollo_11_alarms/eyles_2004/eyles_2004.htm |title=Tales from the Lunar Module Guidance Computer |last=Eyles |first=Don |date=February 6, 2004 |work=27th annual Guidance and Control Conference |publisher={{仮リンク|アメリカ宇宙航行学会|en|American Astronautical Society|label=American Astronautical Society}} |location=Breckenridge, Colorado |accessdate=June 13, 2013}}</ref>。アポロ宇宙船の司令船と着陸船の両方に搭載されているフライトソフトウェアは非同期実行を使って開発されたので、優先度の高い仕事が優先度の低い仕事に割り込めるようにできていた。アポロ11号の着陸過程で発生した一連の出来事は、そのグローバルエラー検出及び回復システムのおかげで、上手くいったのだった。これには、「強制終了してやり直し」する再起動能力及び再計算能力、そして、万が一の緊急事態に、通常の画面表示に優先度の高い警告表示を割り込ませる能力を提供する、表示インターフェースルーティン(「優先表示」)も含まれていた。このマルチプログラミング環境を利用した解決策を生み出すために以前より講じられていた措置としては、[[マルチプロセッシング]]のための解決策が提案された。マルチプログラミング環境では、ある一定の時刻でアクティブに実行されているのは1つのプロセスのみであるが、同じシステム内の他のプロセス(スリープ中または待機中)が実行中のプロセスと並行して存在している。これを背景にして、優先表示機構が生み出され、宇宙飛行士と搭載されるフライトソフトウェアとの[[マンマシンインタフェース]]を本質的に同期表示方式から非同期表示方式へと変えることで、ミッションをリアルタイムで再構成する必要が生じた場合にそのような再構成を可能にした<ref>{{cite journal |last1=Hamilton |first1=Margaret H. |last2=Hackler |first2=William R. |date=December 2008 |title=Universal Systems Language: Lessons Learned from Apollo |volume=41 |issue=12 |pages=34–43 |journal=Computer |location=Washington, D.C. |publisher=[[IEEE Computer Society]] |issn=0018-9162 |doi=10.1109/MC.2008.541 |url=http://doi.ieeecomputersociety.org/10.1109/MC.2008.541 |accessdate=June 13, 2013}}</ref>。}}|[[マーガレット・ハミルトン (科学者)|マーガレット・H・ハミルトン]] (Director of Apollo Flight Computer Programming MIT Draper Laboratory, Cambridge, Massachusetts) <ref>{{cite web |url=http://www.nasa.gov/50th/50th_magazine/scientists.html |title=NASA Engineers and Scientists-Transforming Dreams Into Reality |last=Rayl |first=A.J.S. |date=2008 |work=50th Magazine |publisher=NASA |accessdate=June 9, 2014}}</ref>からの手紙|"Computer Got Loaded" の題で、1971年3月1日刊『''{{仮リンク|データメーション (雑誌)|en|Datamation|label=Datamation}}''』誌上にて発表。}}
と言った。そのあと彼は、1人で[[聖餐式]]を行った。当時NASAは、[[アポロ8号]]の飛行士たちが月を周回している時に聖書の[[創世記]]の一節を朗読したことに関して、マダリン・マーレイ・オーヘイル<ref>[[無神論]]者の権利団体である「アメリカン・アテイスト(American Atheists)」の代表者で創設者である。マダリン・マレー・オヘアとも</ref>(Madalyn Murray O'Hair)から「宇宙飛行士は、宇宙にいる間は[[宗教]]的活動を控えるべきだ」と訴えられていた。そのためオルドリンは、月で聖餐式を行うという自分のこの計画を妻に対しても事前に打ち明けず、また地球に帰還してから何年も公にすることはなかった。彼はテキサス州{{仮リンク|ウェブスター (テキサス州)|en|Webster, Texas|label=ウェブスター}}にある[[教会 (キリスト教)|教会]]の古参の信者で、聖餐用具は同教会のディーン・ウッドラフ[[牧師]]が準備していた。この事実は、オルドリン自身の著書「月からの帰還」の中で初めて明らかにされた。後に同教会は、この時に用いられた杯を彼から受け取り、毎年7月20日に最も近い日曜日を「月の晩餐の日」として記念するようになった。


=== 月面活動 ===
=== 着陸 ===
[[File:AP11 FINAL APPROACH.ogv|thumb|right|1969年7月20日、月面に着陸。]]
[[ファイル:Apollo 11 first step.jpg|thumb|right|着陸船に搭載された低速度走査テレビがとらえた、はしごを下るアームストロングの姿]]
[[File:Apollo-11-landing-site.png|thumb|alt=月面上のアポロ11号の着陸地点(中央付近)を示した画像|静かの海 (Sea of Tranquility) 上のアポロ11号の着陸地点 (Landing)]]
飛行士たちは、まず最初に60度の視界がある着陸船の三角窓から外の様子を観察し、[[星条旗]]と科学観測機器を設置するのに適当な場所を探した。船外活動の準備は、予定よりも2時間も余計にかかってしまった。ジョン・ヤング飛行士によると、着陸船のハッチは開発の途中でサイズを小さく変更されていたのだが、[[宇宙服]]の背面に備わる生命維持装置には何の変更もなかった。そのためアームストロングは船外に這い出るのに大変な苦労を要し、飛行士の[[心拍数]]はハッチを出入りする際に最高値にはね上がったという。
[[File:A New Look at the Apollo 11 Landing Site.ogg|thumb|[[ルナー・リコネサンス・オービター|LRO]]から撮影された写真とステレオ画像数値標高モデルを用いて三次元画像化されたアポロ11号の着陸地点]]


アームストロングが再び窓の外に目をやると、コンピュータがはじき出した着陸目標が、直径{{convert|300|m|ft|adj=on}}ほどもあるクレーター<ref group="注">当初計画されていた着陸楕円の西部に位置していることに因み、後に{{仮リンク|ウェスト (月のクレーター)|en|West (lunar crater)|label=ウェスト}}と命名された。</ref>のすぐ北と東の大きな岩がいくつも転がっている地帯にあるのが見えた。アームストロングは操縦を半自動<!-- 書籍によっては「手動」とあるが、それは正確ではない。 -->に切り替え<ref name="Digital Apollo">{{Cite book |last=Mindell |first=David A. |title=Digital Apollo: Human and Machine in Spaceflight |date=2008 |publisher=MIT Press |location=Cambridge, Massachusetts |pages=195–197 |isbn=978-0-262-13497-2 |lccn=2007032255}}</ref>、オルドリンに高度と速度のデータを読み上げてもらいながら、およそ25秒分の燃料を残して、7月20日日曜日20:17:40 (UTC) に月面に着陸した<ref name="ALSJ 1" />。
アームストロングが足下を確認しながら9段のはしごを下っている間、[[マイクロフォン]]は彼の息づかいをはっきりととらえていた。脚の横に設置されている撮影機器のDの形をしたリングを引くと、[[低速度走査テレビジョン]]の[[カメラ]]が始動し、はしごを下りるアームストロングの姿が映し出された。しかしこの映像は[[NTSC|テレビ中継の規格]]には適合しなかったため、本放送では画質が劣る従来型のカメラで撮影された映像が表示されていた。信号はアメリカのゴールドストーン基地が受信していたが、[[オーストラリア]]の中継基地が受信していたもののほうがより鮮明だった。数分後、中継基地はより感度が良好な、オーストラリアの[[パークス天文台]]の[[電波望遠鏡]]に移行された。


アポロ11号は他のミッションよりも少ない残燃料量で着陸し、飛行士たちはかなり早い段階から燃料残量警告表示に直面することになった。これは後に、燃料タンク内で推進剤が想定以上に大きく揺れ動き([[スロッシング]])、燃料計の値が実際よりも少なく表示されていた結果であることが分かった。そのため、次回以降のミッションでは、これを抑える抑流板がタンク内に追加設置されることになった<ref name="ALSJ 1" />。
様々な技術的困難を乗り越え、月面からの史上初の船外活動をとらえた映像は、世界中に配信された。地球上ではこの瞬間、少なくとも6,000万人以上の人々がテレビでこの場面を見ていたと言われている。しかしながら低速度走査テレビで撮影した高画質の映像は長らく行方不明になっており、[[2009年]]にNASAが紛失したことを確認した。マザーテープは70年代から80年代の間に再利用されて上書きされてしまったものと見られている。アームストロングは着陸船の脚の上に降り立ち、月面の状態を「明るく、ほとんど粉のように見える (''fine and almost like a powder'')」と報告した後、着陸からおよそ6時間半後の1969年[[7月21日]]02:56 UTC(日本時間7月21日 午前11時56分<!-- NHK番組に107.. 108.. 109.. の実況がある。時刻に関する訂正が必要だろうか。-->、米東部夏時間7月20日午後10時56分)、月面に歴史的な第一歩を記し、有名な次の言葉を発した。


降下している間、オルドリンはずっと、[[アポロ月着陸船|着陸船]]の操縦で多忙なアームストロングの横で、航法データを読み上げ続けた。着陸の直前、「イーグル」の脚部から垂れ下がっていた、長さ{{convert|67|in|cm|0|adj=on}}の探針のうちの少なくとも1本が月面に接地したことを示すライトが点灯した。それを知ったオルドリンは「接触灯点灯! ("Contact Light!")」と言葉を発して、3秒後に「イーグル」が着陸し、アームストロングは「停止を確認。 ("Shutdown.")」と言った。すぐにオルドリンは「オーケー、エンジン停止。ACA ([[姿勢制御装置|Attitude Controller Assembly]]) 解放。 ("Okay, engine stop. ACA – out of detent.")」と確認した。アームストロングは「ACA解放了解。自動 ("Out of detent. Auto")」と復唱し、オルドリンは「モードコントロール、両自動。降下用エンジン指令すべて停止。エンジンアーム、オフ。413イン。 ("Mode control – both auto. Descent engine command override off. Engine arm – off. 413 is in.")」と続けた。
'''「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である''' (''That's one small step for [a] man, one giant leap for mankind.'')'''」'''
{{Listen|pos=left|filename=Frase de Neil Armstrong.ogg|title=「That's one small step for (a) man, one giant leap for mankind.<br />(これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である。)」|description=|format=[[Ogg]]}}
[[ファイル:Apollo 11 Landing - first steps on the moon.ogv|thumb|月面に第一歩を記すニール・アームストロング]]
'''【右の動画中のアームストロングの発言内容】'''


着陸段階にあった間、CAPCOM(通信担当官)だった[[チャールズ・デューク]]は「イーグル、君たちの着陸を確認した<!-- 直訳調だと「聞き届けた」か。 -->。 ("We copy you down, ''Eagle''.")」と応えて、彼らの着陸を承認した。
''I'm, ah... at the foot of the ladder. The LM footpads are only, ah... ah... depressed in the surface about, ah.... 1 or 2 inches, although the surface appears to be, ah... very, very fine grained, as you get close to it. It's almost like a powder. (The) ground mass, ah... is very fine.''


アームストロングは、オルドリンが「エンジンアーム、オフ。 ("Engine arm is off")」と言って、着陸後のチェックリストを付ける作業が一通り完了したのを確認すると、デュークに「ヒューストン、こちら[[静かの基地]]<!-- 注:《静かの海》基地ではない。 -->。イーグルは舞い降りた。 ("Houston, Tranquility Base here. The ''Eagle'' has landed.")」{{sfn|Bizony|2009|p=51}}と応答した。アームストロングがコールサインを「イーグル」から、予行演習にはなかった<ref name="failure">{{cite AV media |type=TV production |title=Failure is Not an Option |publisher=The History Channel |date=August 24, 2003 |oclc=54435670}}</ref>「静かの基地 (Tranquility Base)」に変更したことで、着陸が完全に成功したことが強調され、聴取者たちに伝えられた。それを聞いたデュークは、ミッション管制センターで安堵の気持ちを表し、それに応答する際に「了解、しず……静か、月面上の君たちを確認した。<!-- 同上「聞き届けた」か。 -->君らのおかげで沢山の奴らが真っ青になっているよ。これでやっと一息つける。どうもありがとう。 ("Roger, Twan— Tranquility, we copy you on the ground. You got a bunch of guys about to turn blue. We're breathing again. Thanks a lot.")」<ref name="ALSJ 1">{{cite web |url=http://www.hq.nasa.gov/alsj/a11/a11.landing.html |title=The First Lunar Landing |date=1995 |editor-last= Jones |editor-first=Eric M. |work=Apollo 11 Lunar Surface Journal |publisher=NASA |accessdate=June 13, 2013}}</ref><ref>{{cite web |url=http://www.bbc.co.uk/archive/moonlandings/7630.shtml?all=2&id=7630 |title=James May speaks to Charles Duke |date=2009 |work=BBC Archives |location=Perivale |accessdate=June 7, 2009}}</ref>と一瞬、言い淀んだ。
'''いま着陸船の脚の上に立っている。脚は月面に1インチか2インチほど沈んでいるが、月の表面は近づいて見るとかなり…、かなりなめらかだ。ほとんど粉のように見える。月面ははっきりと見えている。'''


着陸から2時間半後、船外活動の準備を始める前に、オルドリンは次のように地球に無線連絡した。
''I'm going to step off the LM now.''


{{Quote|こちらは月着陸船操縦士です。この機会を借りて、私はこの放送を聞いている人々に対し、誰であろうと、またどこにいようと、しばらくの間手を止めて、この数時間に起こったできごとについて熟慮し、それぞれの方法で感謝をしてほしいと願います。<ref name="ALSJ 2">{{cite web |url=http://www.hq.nasa.gov/alsj/a11/a11.postland.html |title=Post-landing Activities |date=1995 |editor-last=Jones |editor-first=Eric M. |work=Apollo 11 Lunar Surface Journal |publisher=NASA |accessdate=June 13, 2013}}</ref>}}
'''これより着陸船から足を踏み降ろす。'''


そのあと彼は、私的に[[聖餐式]]を行なった。この当時NASAは、{{仮リンク|アポロ8号の宇宙飛行士による創世記の朗読|en|Apollo 8 Genesis reading|label=アポロ8号の宇宙飛行士が月を周回中に聖書の創世記の一節を朗読したこと}}に反対していた[[無神論|無神論者]]の{{仮リンク|マダリン・マレー・オヘア|en|Madalyn Murray O'Hair}}と目下係争中であり、オヘアはNASAに対し、「宇宙飛行士は、宇宙にいる間は宗教的活動を放送することを控えるべきだ」と要求していた。それゆえ、オルドリンは月で聖餐式を行うことに直接言及することを差し控える選択をした。オルドリンはテキサス州{{仮リンク|ウェブスター (テキサス州)|en|Webster, Texas|label=ウェブスター}}にある[[長老派教会]]の長老で、聖餐用具は同教会の牧師であるディーン・ウッドラフ師が用意していた。オルドリンは月での聖餐式と教会及び牧師を巻き込んだことについて、『ガイドポスツ』誌の1970年10月号と自叙伝『地球への帰還』(原題:''"Return to Earth"'')の中で説明している。ウェブスターの長老派教会は、このとき月で使用された聖餐杯を所有しており、毎年7月20日に最も近い日曜日を「月の晩餐の日」として記念行事を行なっている<ref name="chaikin">{{Cite book |last=Chaikin |first=Andrew |title=A Man on the Moon: The Triumphant Story Of The Apollo Space Program |date=1994 |publisher=Penguin Group |location=New York |pages=204, 623 |isbn=0-14-027201-1}}</ref>。
''That's one small step for (a) man, one giant leap for mankind.''


この任務のスケジュールでは、宇宙飛行士たちが朝早くから起きていたことに表れているように、5時間の睡眠時間で着陸を履行することが求められていた。しかし、飛行士たちは睡眠時間を割愛することに決め、早期に船外活動の準備を始め、睡眠することはできないだろうと考えていた。
'''これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である。'''
{{Clear}}


=== 月面での活動 ===
{{See also|{{節リンク|ニール・アームストロング|月面への第一歩}}}}
[[File:Apollo 11 first step.jpg|thumb|right|着陸船に搭載された低速度走査テレビカメラがとらえた、月面に下りるはしごを下るアームストロング]]
[[File:As11-40-5886.jpg|thumb|right|月面上のオルドリンが撮影した、着陸船近くのアームストロングの写真。月面滞在中はほとんどアームストロングがカメラを持っていたので、月面上のアームストロング自身の姿が写ったものとしては、数少ない写真の一つ。]]


飛行士たちは、まず60度の視界がある着陸船の2つの三角窓から外の様子をよく観察し、初期アポロ科学実験装置群 (Early Apollo Scientific Experiment Package, EASEP) と呼ばれる科学観測機器<ref>{{cite web |url=http://ares.jsc.nasa.gov/HumanExplore/Exploration/EXLibrary/docs/ApolloCat/Part1/EASEP.htm |title=Experiment: Early Apollo Scientific Experiment Package |publisher=NASA |accessdate=July 18, 2009 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090718173757/https://ares.jsc.nasa.gov//HumanExplore/Exploration/EXLibrary/docs/ApolloCat/Part1/EASEP.htm |archivedate=July 18, 2009 |df=mdy}}</ref>と[[アメリカ合衆国の国旗|星条旗]](アメリカ国旗)をどこに設置するか計画を立てた。船外活動の準備は予定よりも2時間余計にかかってしまった。アームストロングは{{仮リンク|主生命維持システム|en|Primary Life Support System|label=船外活動用の生命維持装置}} (PLSS) を身に着けたまま最初にハッチを通り抜けようとする際に大変な苦労を要した。2度の月飛行を経験したベテランの[[ジョン・ヤング (宇宙飛行士)|ジョン・ヤング]]飛行士によると、着陸船のハッチは開発の途中で再設計されてサイズが小さく変更されていたのだが、[[宇宙服]]の背面に装備される生命維持装置の再設計にはそれが反映されていなかったため、アポロ宇宙飛行士たちの心拍数は月着陸船のハッチを出入りする時に最高値を記録することがよくあったそうである<ref name="ALSJ 3">{{cite web |url=http://www.hq.nasa.gov/alsj/a11/a11.summary.html |title=First Steps |date=1995 |editor1-last=Jones |editor1-first=Eric M. |editor2-last=Glover |editor2-first=Ken |work=Apollo 11 Lunar Surface Journal |publisher=NASA |accessdate=September 23, 2006}}</ref><ref>{{cite book |last1=Waligora |first1=J.M. |last2=Horrigan |first2=D.J. |editor-last1=Johnston |editor-first1=Richard S. |editor-last2=Dietlein |editor-first2=Lawrence F. |editor-last3=Berry |editor-first3=Charles A. |others=Foreword by [[クリストファー・C・クラフト・ジュニア|Christopher C. Kraft, Jr.]] |title=Biomedical Results of Apollo |url=https://history.nasa.gov/SP-368/sp368.htm |accessdate=February 14, 2017 |date=1975 |publisher=NASA |location=Washington, D.C. |id=NASA SP-368 |chapter=Chapter 4: Metabolism and Heat Dissipation During Apollo EVA Periods |chapterurl=https://history.nasa.gov/SP-368/s2ch4.htm}}</ref>。
アームストロングはまた、重力が地球の6分の1しかない月面は歩き回るには何の困難もなく、むしろ訓練よりもよほど楽であると報告した。
[[ファイル:Aldrin Apollo 11 original.jpg|thumb|right|アームストロングが撮影したオルドリン。ヘルメットにはアームストロング自身の姿が映っている。]]
11号の飛行は、ケネディ元[[大統領]]の「1960年代の終わりまでに人間を月面に到達させよ」という最高指令の実現であるのみならず、様々な技術への挑戦という側面も持っていた。アームストロングは後の飛行の参考になるよう、いろいろな角度から着陸船の写真を撮影し、そのあと細長い棒で砂サンプルをかき集めてバッグに詰め、右腿のポケットに押し込んだ。さらに着陸船の脚から[[テレビカメラ]]を取り出して月面を[[パノラマ]]撮影した後、それを12m離れた場所で[[三脚]]の上にセットした。カメラの[[ケーブル]]には巻きつけられていたときの丸みが残っていたため、引き伸ばすのにはやや苦労した。
[[ファイル:As11-40-5886.jpg|thumb|right|着陸船の傍らで作業するアームストロング]]
アームストロングから遅れること15分、オルドリンも月面に降り立ち、月の様子を「荘厳かつ荒涼とした風景」と表現した。両足で踏み切る「[[カンガルー]]・ジャンプ」など様々な歩行法を試みると、背中に負っている生命維持装置のために上体が後ろに反る傾向はあるものの、バランスを取るには何の問題もなく、慣れてくるとむしろ大股で歩いたほうがよいことが分かった。ただし移動する際は、常に六、七歩先のことを予想する必要があった。また月面の明るい部分はきわめて滑りやすく、[[太陽]]が照っている所から着陸船の影に入ったときには、宇宙服の中の温度には全く変化はなかったが、[[ヘルメット]]の内部には明白な温度差が感じられたと報告した。
[[ファイル:Apollo 11 bootprint.jpg|thumb|right|月面の状態を調査するためにつけられたオルドリンの足跡]]
飛行士たちが月面に星条旗を立てている最中、とつぜん緊急連絡が入ってきた。ニクソン大統領からのものだった。「かつてホワイトハウスからかけられた中で、最も歴史的なもの」と後にニクソン自身が語っているこの電話の中で、彼ははじめ、用意していた長いスピーチを読み上げようとしていた。だが、ホワイトハウスとの連絡担当官を務めていたNASAのフランク・ボーマンは、飛行士たちのスケジュールはぎっしりと詰まっていることを説明し、電話を早めに切り上げるよう説得した。


初期のミッション日程表では、最初に月に降り立つ人物として、ニール・アームストロングではなくバズ・オルドリンを挙げている書籍も複数ある<ref>{{cite book |last=Chaikin |first=Andrew |title=A Man on the Moon |publisher=Penguin Group |date=1998 |isbn=0-14-027201-1}}{{page needed|date=March 2018}}</ref>。
その後飛行士たちは、[[地震計]]や[[レーザー]]反射鏡などが搭載された科学実験装置を展開した。さらにアームストロングが写真撮影のために着陸船から120m離れたイースト・クレーターのへりまでロープを伸ばしている間、オルドリンは[[スコップ]]や伸張式の鋏を使って土壌サンプルや[[岩石]]を採集した。この間管制センターは、アームストロングの[[代謝]]率がやや高めだったので、少しペースを落とすように伝えていた。彼は時間内に任務をやり遂げようとして、あまりにも急ピッチに仕事をこなしていた。飛行士たちの[[呼吸]]や心拍数は予想されていた値よりは低かったが、管制センターは大事を取って予定を15分延長することを許可した。しかしながら月面活動の時間が予想外に長引いたため、サンプル採集活動は予定されていた34分間を途中で切り上げなければならなかった。


1969年7月21日月曜日02:39 (UTC) に、アームストロングはハッチを開け、02:51 (UTC) に月面へと降り始めた。胸の位置にある遠隔操作ユニット (Remote Control Unit) のせいで、アームストロングは自分の足元が見えなかった。9段のはしごを降りながら、アームストロングはDの字型のリングを引いて、「イーグル」の側面に折り畳まれていたモジュール装置積込アセンブリ (Modular Equipment Stowage Assembly, MESA) を展開してテレビカメラを起動した後、02:56:15 (UTC) にアームストロングは左足を月面に下ろした<ref name="neil82">{{cite news |title=Neil Armstrong, first man to step on the Moon, dies at 82 |first=Paul |last=Duggan |url=https://www.washingtonpost.com/national/health-science/neil-armstrong-first-man-to-step-on-the-moon-dies-at-82/2012/08/25/7091c8bc-412d-11e0-a16f-4c3fe0fd37f0_story.html |work=[[The Washington Post]] |date=August 25, 2012 |accessdate=May 25, 2013}}</ref><ref name="ALSJ 4">{{cite web |url=http://www.hq.nasa.gov/alsj/a11/a11.step.html |title=One Small Step |date=1995 |editor-last=Jones |editor-first=Eric M. |work=Apollo 11 Lunar Surface Journal |publisher=NASA |accessdate=June 13, 2013}}</ref>。一歩目の着地は[[低速度走査テレビジョン]]に映し出されたが、この映像はテレビ中継の際に使用される[[NTSC|商用のテレビジョン規格]]と互換性がなかった。そのため、一度特殊なモニタに映像を表示させておき、そのモニタの映像を従来型のテレビカメラで撮影することで本放送されたのだが、その画質は著しく低減されることとなった<ref name="Blunder 5">{{cite news |title=One giant blunder for mankind: how NASA lost Moon pictures |last=Macey |first=Richard |url=http://www.smh.com.au/news/national/one-giant-blunder-for-mankind-how-nasa-lost-moon-pictures/2006/08/04/1154198328978.html |work=[[The Sydney Morning Herald]] |location=Sydney |date=August 5, 2006 |accessdate=June 13, 2013}}</ref>。信号はアメリカの[[ゴールドストーン深宇宙通信施設|ゴールドストーン]]で受信されていたが、オーストラリアの{{仮リンク|ハニーサックル・クリーク追跡基地|en|Honeysuckle Creek Tracking Station}}が受信した信号のほうが[[Hi-Fi|忠実度が高く]]て鮮明だった。数分後、通信の中継基地は感度が良好なオーストラリアの[[パークス天文台|パークス電波望遠鏡]]に切り替えられた<ref name="tvbroadcasts">{{cite journal |last=Sarkissian |first=John M. |title=On Eagle's Wings: The Parkes Observatory's Support of the Apollo 11 Mission |date=2001 |journal=Publications of the Astronomical Society of Australia |volume=18 |issue=3 |pages=287–310 |location=Collingwood, Victoria |publisher=CSIRO Publishing for the [[オーストラリア天文学会|Astronomical Society of Australia]] |doi=10.1071/AS01038 |accessdate=May 24, 2013 |url=http://www.parkes.atnf.csiro.au/news_events/apollo11/tv_broadcasts.html |bibcode=2001PASA...18..287S |doi-access=free}} October 2000 website version, part 10 of 12: "The Television Broadcasts." Original version available from [http://www.parkes.atnf.csiro.au/news_events/apollo11/pasa/on_eagles_wings.pdf CSIRO Parkes Observatory] (PDF).</ref>。幾多の技術的困難と天候不順を乗り越え、月面からの史上初の船外活動をとらえた、ぼんやりとした白黒の映像が地球上で受信され、世界中の少なくとも6億人以上の人々がテレビ放送を通してこの映像を見ていたといわれている<ref name="Parkes">{{cite journal |last=Sarkissian |first=John M. |title=On Eagle's Wings: The Parkes Observatory's Support of the Apollo 11 Mission |date=2001 |journal=Publications of the Astronomical Society of Australia |volume=18 |issue=3 |pages=287–310 |location=Collingwood, Victoria |publisher=CSIRO Publishing for the Astronomical Society of Australia |format=PDF |doi=10.1071/AS01038 |accessdate=September 22, 2006 |url=http://www.parkes.atnf.csiro.au/news_events/apollo11/pasa/on_eagles_wings.pdf |bibcode=2001PASA...18..287S}}</ref>。この放送形式のビデオの複製物は保存されており、広く入手することが可能だが、{{仮リンク|アポロ11号の紛失したテープ|en|Apollo 11 missing tapes|label=低速度走査テレビカメラで撮影されて月から伝送された元の高画質の録画映像}}は、NASAの日常業務で磁気テープを繰り返し利用しているうちに誤って破損されてしまった。
=== 月面からの離陸と地球への帰還 ===
[[ファイル:Land on the Moon 7 21 1969-repair.jpg|thumb|1969年7月21日の[[ワシントン・ポスト]]。見出しは「イーグルは着陸した」「二人の男が月面を歩いた」]]
予定されていた月面活動をすべて消化すると、まずオルドリンが先に着陸船に入った。採集した岩石やフィルムなどを収めた箱は重量が22kgに達し、「月面[[コンベア]]」と呼ばれる装置で引っぱり上げたが、船内に入れるのには若干苦労した。それからアームストロングははしごの3段目まで一気にジャンプして飛び乗り、自分も船内に入った。宇宙服の生命維持装置、月面靴、カメラなどの必要がなくなった機材を放り捨てると、ハッチを閉め船内を与圧し、2人はようやく月面での初めての睡眠についた。


[[File:Apollo 11 plaque closeup on Moon.jpg|left|thumb|着陸船「イーグル」のはしごに残された銘板]]
オルドリンは船内で作業しているとき、誤って上昇用エンジンを起動させる[[ブレーカー]]のスイッチを壊してしまった。幸いにも[[ボールペン]]の先でスイッチを入れることができたが、もしエンジンに点火できなければ、彼らは永久に月面に取り残されることになっていたところであった。
アームストロングは、はしごに掛けたまま、着陸船下降段に載せられていた、(西半球と東半球の)2つの地球の図と銘刻、及び3名の宇宙飛行士とニクソン大統領の署名が描かれている{{仮リンク|月の銘板|en|Lunar plaque|label=銘板}}を除幕した。銘板には次の文章が刻印されていた。


{{quote|Here men from the planet Earth first set foot upon the Moon, July 1969 A.D. We came in peace for all mankind.(西暦紀元1969年7月、惑星地球より来る我ら、ここに月面への第一歩をしるす。我ら全人類を代表して平和に来る。)}}
7時間の睡眠の後、2人はヒューストンからの目覚ましによって起こされ、離陸の準備を始めるよう指示された。2時間半後の17:54 (UTC)、月面から21.5kgのサンプルを持ち帰ったイーグルは上昇段のエンジンに点火し、離陸を開始した。司令船コロンビアとのドッキングにも成功して、軌道上で彼らを待っていたコリンズ飛行士と無事再会を果たした。
[[ファイル:Apollo11Plaque.jpg|right|thumb|着陸船イーグルの脚に貼られた、飛行を記念するプレート。[[風化#宇宙風化|宇宙風化]]は地球での風化に比べ極めて弱いため永らく月面に残ると考えられている]]


月面の塵について「とてもきめの細かい (very fine-grained)」「ほとんど粉のよう (almost like a powder)」と説明した後<ref name="ALSJ 4" />、着陸から6時間半が経とうとした頃に{{sfn|Orloff|2000|pp=102–110}}、アームストロングは「イーグル」の脚の上に降り立ち、次のように宣言した。
この時点で、アームストロングとオルドリンの2人が無事に月面を離陸しコリンズのいる司令船に戻ってこられたのだが、当時のNASAは司令船で月を周回することまでは成功していたが、月面からの離陸に関しては初の試みであり、2人を月から帰還させることについては完全に保証することができない状況であった。そのため、ニクソン大統領は2人が帰還できなくなった場合の「追悼の言葉」を事前に準備しており、これは後の[[1999年]]に[[アメリカ国立公文書記録管理局]]で発見され公開発表された<ref>Los Angeles Times, July 7, 1999 より</ref><ref>http://news.bbc.co.uk/2/hi/science/nature/390634.stm A silent death. Retrieved July 20, 2009.</ref><ref>{{Cite news| url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/science/nature/390933.stm | work=BBC News | title=Full text: Nixon's unused Apollo speech | date=July 10, 1999 | accessdate=March 30, 2010}}</ref>。


{{quote|これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である。 ("That's one small step for [a] man, one giant leap for mankind."){{efn2|NASAの録音の写しには、実際に言ったか否かにかかわらず、冠詞の "a" が意図されたと説明されており<ref name="ALSJ 4" />、そこには、個人の行為としての ''a man'' と種としての ''mankind'' を対比する意図があった。}}<ref>{{cite web |url=http://www.nasa.gov/audience/forstudents/5-8/features/F_Apollo_35th_Anniversary.html |title=Apollo Moon Landing&nbsp;– 35th Anniversary |date=July 15, 2004 |origyear=updated December 9, 2007 |editor-last=Canright |editor-first=Shelley |work=NASA Education |publisher=NASA |accessdate=June 13, 2013}} Includes the "a" article as intended.</ref><ref>{{Cite news |title=Armstrong 'got Moon quote right' |url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/americas/5398560.stm |date=October 2, 2006 |work=[[BBC News]] |location=London |accessdate=June 13, 2013}} News story on reanalysis which suggests the line was said correctly (with the "a" article).</ref><ref>{{cite news |title=Armstrong's 'poetic' slip on Moon |first=Pallab |last=Ghosh |url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/science/nature/8081817.stm |date=June 3, 2009 |work=BBC News |location=London |accessdate=June 13, 2013}} News story on later reanalysis which suggests the line was said incorrectly.</ref><ref>{{cite news |title=Hear what Neil Armstrong really said on the moon |first=Mark |last=Carreau |url=http://www.chron.com/news/nation-world/article/Hear-what-Neil-Armstrong-really-said-on-the-moon-1862496.php |work=[[Houston Chronicle]] |date=September 30, 2006 |accessdate=June 13, 2013}}</ref>}}
2時間半の月面活動で、飛行士たちは地震計や、地球と月との距離を測定するためのレーザー反射板など、様々な観測装置を月面に設置した。科学機器の他には、星条旗や、飛行を記念したプレートなども残してきた。記念プレートは着陸船の正面の脚に貼られていて、地球の東半球と西半球、3人の飛行士とニクソンの署名、そして「西暦1969年7月、[[惑星]]地球から来た人間が月面に初めて足を踏み降ろしたことをここに記念する。我々はすべての人類の平和のために来た」という声明が書かれていた。また彼らが月面に残してきた箱の中には、平和のシンボルである[[金]]の[[月桂冠]]と、飛行士3人が火災事故で犠牲になった[[アポロ1号]]の徽章、そして[[ドワイト・D・アイゼンハワー|アイゼンハワー]]、ケネディ、[[リンドン・ジョンソン|ジョンソン]]、ニクソンなどの歴代大統領や、世界73か国のリーダーたちの親善のメッセージを録音した[[シリコン]]製の[[レコード]]などが収められていた。このレコードの中では、[[アメリカ合衆国議会]]の代表者や、NASAの設立に尽力した上下両院の4つの委員会のメンバー、歴代[[NASA長官]]の名前なども読み上げられていた。[[1989年]]に出版された「月から帰ってきた男」という本の中で、オルドリンはこの箱の中には[[ソビエト連邦]]の[[宇宙飛行士]][[ユーリ・ガガーリン]]や[[ウラジミール・コマロフ]]を記念したメダルも入っていたと明かした。またNASAの宇宙飛行士訓練担当官ディーク・スレイトンは「月を狙う」という本の中で、アームストロングに[[ダイヤモンド]]の入った特製の飛行士の階級章を月面に置いてくるよう託していたと述べている。


アームストロングは「一人の男にとっては小さな一歩 ("That's one small step for a man")」と言うつもりでいたが、通信音声では "''a''" という単語は聞き取りにくく、最初、単語 "''a''" は生放送を見ていた大多数の人には伝えられていなかった。後にこの名文句について尋ねられたとき、アームストロングは「一人の男にとっては ("for a man")」と言ったと思っていたと述べており、後年発行されたこの句の活字版には、角括弧付きで "a" が含まれていた。ある解釈では、 "a" は欠落していたと主張され、彼は訛りによって "for a" の2単語を連続して不明瞭に発音したのだと説明されている。別の解釈では、[[パークス天文台]]付近の嵐をその一因とする、地球に繋いだ映像と音声の断続的性質で "a" の欠落を説明している。より最近のテープ音声のデジタル解析では、 "a" は発言されたかもしれないが、空電<ref group="注">空電とは、雷などの大気中の放電によって生じる電磁波で、ラジオなどの受信機の雑音の原因となる。</ref>のせいでよく聞き取れなかったことが明らかになったと主張されている<ref name="Straight Dope">{{cite web |url=http://www.straightdope.com/classics/a3_362.html |last=Adams |first=Cecil |title=Did astronaut Neil Armstrong muff his historic "one small step" line? |accessdate=2018-08-23}}</ref><ref name="snopes a">{{snopes | link = http://www.snopes.com/quotes/onesmall.asp | title = One Small Step }}</ref>。
離陸の際、上昇段の窓から月面を撮影した映像は、着陸船から8mほど離れたところに立てられた星条旗が、ロケット噴射で激しくはためく場面をとらえていた。オルドリンは、


{{Listen|pos=left|filename=Frase de Neil Armstrong.ogg|title=これは…小さな一歩だが…<br/>That's one small step&nbsp;...|description=|format=[[Ogg]]}}
「上昇を始めた時、私はコンピューターの操作に集中し、ニールは高度計を注視していたが、旗が吹き飛ばされるのははっきりと見ることができた」
{{Clear}}
月面に足を踏み入れて7分後、アームストロングは細長い棒で土壌サンプルを採取して試料袋に詰め、袋を畳み、右腿のポケットに押し込んだ。これは、万が一緊急時に飛行士たちが船外活動を断念して着陸船に戻らなければならなくなった場合でも、多少なりとも月の土壌を地球に持ち帰れるよう保証するための作戦行動だった<ref>{{cite web |url=http://curator.jsc.nasa.gov/lunar/lsc/10010.pdf |title=Lunar Sample Compendium: Contingency Soil (10010) |last=Meyer |first=Charles |date=2009 |work=Astromaterials Research & Exploration Science |publisher=NASA |format=PDF |accessdate=June 13, 2013}}</ref>。


土壌サンプルの採取が完了して12分後{{sfn|Orloff|2000|pp=102–110}}、オルドリンはアームストロングに続いて月に降り立ち、月面の風景について、簡潔な言い方で「荘厳な荒涼 ("Magnificent desolation")」と表現した<ref name="ALSJ 4" />。
と報告した。このため以後の飛行では、星条旗は着陸船から30m以上離れた場所に立てられることになった。


[[File:Aldrin Apollo 11 original.jpg|thumb|right|アームストロングが撮影したオルドリン。ヘルメットにはアームストロング自身の姿が映っている。]]
司令船とのランデブーとドッキングに成功した後、イーグルは1969年7月21日23:41 (UTC)、月周回軌道上に投棄された。[[アポロ12号]]の飛行の直前には、イーグルはいまだ軌道上にとどまっていることが確認されたが、NASAの報告ではその後次第に軌道が低下し、月面のどこかに落下したのだろうと述べられている。
アポロ11号は、1960年代の終わりまでに人間を月に着陸させるというケネディ大統領の指令を達成したばかりでなく<ref>{{cite news |title=Events of 1969: Apollo 11 |url=http://www.upi.com/Archives/Audio/Events-of-1969/Apollo-11/ |work=UPI.com |publisher=United Press International |date=1969 |accessdate=June 13, 2013}}</ref>、アポロシステムの工学技術試験でもあった。そのため、技師たちはアームストロングが撮った月着陸船のスナップ写真からその着陸後の状態を判断することが可能だった。アームストロングはMESA(着陸船の脚部)からテレビカメラを取り外して月面のパノラマ映像を撮影し、着陸船から{{convert|68|ft|m}}離れたところに設置した三脚の上にカメラを載せた。テレビカメラのケーブルには一部に巻きつけられていたときの癖が残っていたため、船外活動中はずっと、その曲がりくねった所に足を引っかけてつまづくおそれがあった。


アームストロングは、地球の6分の1しかない[[月の重力場|月の重力]]の中を移動するのは「ひょっとしたら模擬訓練よりもよほど楽かもしれない……歩き回るのに何の苦労もない。 ("even perhaps easier than the simulations&nbsp;... It's absolutely no trouble to walk around.")」と言った<ref name="ALSJ 4"/>。そこにオルドリンも参加して、両足で踏み切る「カンガルー・ジャンプ」など、様々な歩行法を試みた。すると、背中に生命維持装置を背負っているために上体が後ろに反る傾向はあるものの、バランスを取るには大した問題もなく、慣れてくると、むしろ大股で歩くのがよいことが分かった。ただし、移動する際は常に六、七歩先のことを予想して歩く必要があったり、粒の細かい土の部分はかなり滑りやすかったりしたので、注意を要した。また、太陽の照っている所から着陸船の影に入ったときには、宇宙服の中の温度は全く変化がなかったが、ヘルメットの内部では明白な温度差が感じられたとオルドリンは報告した<ref name="ALSJ 4"/>。
[[7月23日]]、帰還前の最後の夜に、3人の飛行士はテレビのインタビューに答えた。始めにコリンズが、


飛行士たちは{{仮リンク|ルナ・フラッグ・アセンブリ|en|Lunar Flag Assembly|label=特別にデザインされた星条旗}}をテレビカメラにはっきりと写る所に立てた。しばらくすると突然、電話無線伝送を通じてリチャード・ニクソン大統領が飛行士たちに話しかけてきた。後にニクソンはこの交信を「かつてホワイトハウスからかけられた電話の中で最も歴史的な通話 ("the most historic phone call ever made from the White House.")」と呼んだ<ref>{{cite web |url=https://www.archives.gov/exhibits/american_originals/apollo11.html |title=Exhibit: Apollo 11 and Nixon |date=March 1996 |work=American Originals |publisher=[[National Archives and Records Administration]] |location=Washington, D.C. |accessdate=April 13, 2008}}</ref>。ニクソンは当初、通話中に読み上げる長い演説文を用意していたが、当時NASAの連絡担当官でホワイトハウスにいた[[フランク・ボーマン]]は、故ケネディ大統領の遺産である月面着陸に敬意を表しつつも、飛行士たちのスケジュールがぎっしりと詰まっていることを大統領に説明し、通話を手短に済ませるよう説得した<ref group="注">この逸話はフランク・ボーマンが関わったドキュメンタリー番組『When We Left Earth: The NASA Missions{{enlink|When We Left Earth: The NASA Missions|英語版}}』のパート2で紹介されている。</ref>。アームストロングは大統領に謝辞を伝えた上で、この一瞬の重大さに簡潔に反応して次のような会話を交わした。
「我々を打ち上げたサターンV 型ロケットはきわめて複雑な機械だが、すべての部品は完璧に機能してくれた。我々はこの機械が何の問題もなく働いてくれるという信頼を常に持っていた。この飛行は、数え切れない人々の血と汗と涙によって可能になった。今あなたが目にしている私たち3人は、何千、何万もの人間によって支えられているのだ。そして私は、そのすべての人々に言いたい。『ありがとう』と」


[[File:Nixon Telephones Armstrong on the Moon - GPN-2000-001672.jpg|thumb|left|月に滞在中のアームストロングおよびオルドリン両飛行士と話すニクソン大統領]]
と述べ、オルドリンは、
'''ニクソン:''' こんにちは、ニールとバズ。私はホワイトハウスの執務室から電話で君たちに話しかけています。そして、これはきっとこれまでにかけられた電話の中で最も歴史的な通話になるでしょう。君たちの成し遂げたことがどれほど国民皆の誇りに思うことか、ただ伝えずにはいられません。すべてのアメリカ人にとって、今日は生涯で最も誇るべき日となることでしょう。そして、世界中の人々もアメリカ人とともに、これが何と素晴らしい偉業であることかを認めるだろうと私は確信しています。君たちが成し遂げたことで、天上は人間世界の一部になりました。そして、君たちが静かの海から私たちに呼びかけてくれたことで、私たちは励まされ、地球に平和と静寂をもたらすための努力を倍加します。全人類史の中でかけがえのないこの一瞬に、この地球上のすべての人々は真に一つです。君たちが成し遂げたことに対する誇りと、そして君たちが無事に地球に帰還するようにとの祈りとで、私たちは一つです。


'''アームストロング:''' ありがとうございます、大統領閣下。アメリカ合衆国のみならず、平和を愛するすべての国の人々を代表して、興味と好奇心、未来への展望を持って、私たちがここにいることは誠に光栄かつ名誉なことです。私たちが今日ここに与ることができて光栄に存じます。
「人間3人を月に送るという偉業は、政府や企業のみならず、国家や、あるいはそれ以上のものによって成し遂げられた。これは、人間の未知なる物への好奇心を象徴しているのだと思う。私は数日前のあの月面でのできごとを思い出すとき、[[賛美歌]]の一節が心に浮かんでくる。『天に思いを巡らすと、月や星の運行は、主によって導かれているものであるとしか思えない』。これは人が常に心にとどめておくべきことなのではないだろうか」


{{Clear}}
と続け、最後にアームストロングが、
[[File:Apollo 11 bootprint.jpg|thumb|right|月の[[レゴリス]]を試験する実験の一環で付けられたオルドリンの靴跡]]
MESAは安定した作業プラットフォームを提供することができず、飛行士は着陸船の影で活動することを余儀なくされたため、作業はいくぶん遅れることになった。作業しているうち、月面を歩行して灰色の塵を巻き上げ、宇宙服の外皮 (Integrated Thermal Meteoroid Garment, ITMG) を汚してしまった。


飛行士たちは、[[月震|受動月震計]]と[[月レーザー測距実験|月測距]]用[[リトロリフレクター|再帰反射器]] (Lunar Ranging Retroreflector, LRRR) を含めた、科学観測機器 (EASEP) を展開した。その際、オルドリンが2本の試料採取用のコアチューブを集めている間に、アームストロングは着陸船から{{convert|196|ft|m}}歩いて、{{仮リンク|リトルウェスト (月のクレーター)|en|Little West (lunar crater)|label=リトル・ウェスト・クレーター}}の周縁部でスナップ写真を撮った。アームストロングは{{仮リンク|地質学者のハンマー|en|Geologist's hammer|label=岩石ハンマー}}を使用してそれらのチューブを打ったのだが、アポロ11号でハンマーが使われたのはこの時だけである。そして、飛行士たちはスコップや伸張式の鋏を使って岩石試料を採集した。月面での活動の多くは想定よりも長引いたため、彼らは割り当てられていた34分間の活動時間の中頃で、採集した試料について文書に記載する手を止めなくてはならなかった。
「この飛行が実現したのは、まず第一に歴史において幾多の業績を残した科学史の偉大な先人たち、次にこれを成し遂げたいという意志を示したアメリカ国民、そしてそれを履行した政府と議会、さらに宇宙船や、[[サターンロケット]]、司令船コロンビア、着陸船イーグル、船外活動装置、月面における小さな宇宙船とも言うべき宇宙服などを作り上げた政府機関や企業など、多くの人々のおかげである。我々は、この宇宙船を設計し、試験し、完成させるために心血を注いだすべてのアメリカ人に心から感謝の意を捧げたい。そしてまたこの放送を聞いているすべての人々に、神の祝福があらんことを。以上、アポロ11号より」

[[File:Apollo 11 photo map.svg|thumb|着陸場所と写真の撮影場所を示した地図]]
この時に飛行士たちが採集した岩石試料からは、新種の鉱物として[[アーマルコライト]]、{{仮リンク|トランキリティアイト|en|Tranquillityite}}、{{仮リンク|パイロクスフェロアイト|en|Pyroxferroite}}の3種が発見された。このうち、アーマルコライト (Armalcolite) はアームストロング (Arm)、オルドリン (al)、コリンズ (col) の3名の宇宙飛行士の名に因んでいる。

月面で活動している間、ミッション管制センターは、アームストロングの代謝率がやや高めだったので、少しペースを落とすように伝えていた。彼は時間内に任務をやり遂げようとして、あまりにも急ピッチに仕事をこなしていた。しかし、月面を歩行している間は二人の飛行士の代謝率は予想されていた値よりも低かったため、管制センターは両飛行士に15分間の活動延長を許可した<ref name="ALSJ 5">{{cite web |url=http://www.hq.nasa.gov/alsj/a11/a11.clsout.html |title=EASEP Deployment and Closeout |editor-last=Jones |editor-first=Eric M. |date=1995 |work=Apollo 11 Lunar Surface Journal |publisher=NASA |accessdate=June 13, 2013}}</ref>。2010年のインタビューで、着陸船から最大で{{convert|196|ft|m}}歩いたアームストロングは、当時NASAが最初の月面歩行の時間と距離に制限をかけていたことを明かした。その理由は、月面で作業する間に飛行士たちの発する熱を下げるために、背中に備えられた生命維持装置がどの程度の量の冷却水を消費するかについて、経験に基づく裏付けが取れていなかったことによるものだった<ref name="neilmoonwalk">{{cite web |url=http://www.space.com/10469-neil-armstrong-explains-famous-apollo-11-moonwalk.html |title=Neil Armstrong Explains His Famous Apollo 11 Moonwalk |date=December 10, 2010 |work=space.com |publisher=TechMediaNetwork, Inc. |location=New York |accessdate=May 25, 2013}}</ref>。

=== 月面からの上昇と帰還 ===
[[File:Aldrin with experiment.jpg|thumb|受動月震実験装置群(写真中央)の隣に立つオルドリン(同左)と「イーグル」(同右)]]
予定されていた月面での活動をすべて消化すると、まずオルドリンが先に着陸船「イーグル」に戻った。採集した岩石や撮影したフィルムなどを収めた箱は重量が{{convert|21.55|kg|lb}}に上り、月面機材運搬機 (Lunar Equipment Conveyor) と呼ばれるフラットケーブル滑車装置で引っぱり上げたが、ハッチから船内に入れるのには若干苦労した。アームストロングは宇宙服のポケットの袖に入っている記念品の袋を忘れないようにとオルドリンに念を押し、オルドリンは袋を放り投げた。それから、アームストロングははしごの3段目まで一気にジャンプして飛び乗り、はしごを上って船内に入った。船内の生命維持システムに移った後、月周回軌道まで帰るための着陸船上昇段の明かりをつけ、宇宙服の船外活動用生命維持装置、月面靴、[[ハッセルブラッド]]製カメラなど、不要になった機材を放り捨てると、ハッチを閉め、船内を与圧し、2人はようやく月面での初めての睡眠についた<ref name="ALSJ 6">{{cite web |url=http://www.hq.nasa.gov/alsj/a11/a11.posteva.html |title=Trying to Rest |editor-last=Jones |editor-first=Eric M. |date=1995 |work=Apollo 11 Lunar Surface Journal |publisher=NASA |accessdate=June 13, 2013}}</ref>。

{{wikisource|In Event of Moon Disaster}}
ニクソン大統領のスピーチライターだった{{仮リンク|ウィリアム・セイファイア|en|William Safire}}は、最悪の事態として、万一アポロ11号の宇宙飛行士たちが月で遭難した場合を想定して、大統領がテレビ演説で読み上げる ''In Event of Moon Disaster'' (月で災難の場合)と題した追悼文を用意していた<ref name="lostinspace">{{cite web |url=http://www.thesmokinggun.com/documents/crime/white-house-lost-space-scenarios |title=White House 'Lost In Space' Scenarios |date=August 8, 2005 |work=The Smoking Gun |location=New York |accessdate=May 25, 2013}} Scanned copy of the "In Event of Moon Disaster" memo.</ref>。その不測の事態に対応するための計画は、セイファイアからニクソンの[[アメリカ合衆国大統領首席補佐官|大統領首席補佐官]]だった[[ハリー・ロビンス・ハルデマン|H・R・ハルデマン]]に渡されたメモが発端だった。そのメモには、もしアポロ11号が不慮の事態に見舞われ、ニクソン政権がそれに対する反応を求められるかもしれなかった状況で、セイファイアが作成した追悼の言葉の原案が示されていた<ref>{{cite news |title=The Story of a Tragedy That Was Not to Be |first=Jim |last=Mann |url=http://articles.latimes.com/1999/jul/07/news/mn-53678 |work=[[Los Angeles Times]] |date=July 7, 1999 |accessdate=May 25, 2013}}</ref><ref name="safire">{{cite news |title=Essay; Disaster Never Came |first=William |last=Safire |authorlink=ウィリアム・セイファイア |url=https://www.nytimes.com/1999/07/12/opinion/essay-disaster-never-came.html |work=[[The New York Times]] |date=July 12, 1999 |accessdate=May 25, 2013}}</ref>。その計画によれば、ミッション管制センターが月着陸船との「交信を絶つ ("close down communications")」と、聖職者が{{仮リンク|海葬|en|Burial at sea}}になぞらえた公的儀式で「彼らの魂を深い淵の底に委ね ("commend their souls to the deepest of the deep")」る手はずだった。用意された原稿の最後の一行では、[[ルパート・ブルック]]が第一次世界大戦期に詠んだ詩『{{仮リンク|兵士 (詩)|en|The Soldier (poem)|label=兵士}}』にそれとなく言及している<ref name="safire"/>。また、宇宙飛行士たちの妻らに大統領が見舞いの電話を入れることも計画されていた。

オルドリンは船内で作業しているとき、月面から離陸するために使用する上昇用エンジンを作動させる[[遮断器|回路ブレーカー]]のスイッチを誤って壊してしまった。このことで、船のエンジンの点火が妨げられ、彼らは月面に取り残されてしまう懸念があった。幸いにも、フェルトペンの先でスイッチを作動させることができたが<ref name="ALSJ 6" />、もしもそれがうまくいかなければ、上昇用エンジンを点火するために着陸船の電気回路は構成し直されていたかもしれなかった。

およそ7時間の睡眠の後、アームストロングとオルドリンはヒューストンからの目覚ましによって起こされ、帰還飛行の準備を始めるよう指示された。2時間半後の17:54 (UTC)、「イーグル」は上昇段のエンジンを点火して月から離陸し、コリンズが乗っている月周回軌道上の司令船「コロンビア」を目指した。

21時間半以上を月面で過ごした2人は、[[月レーザー測距実験]]に使用される[[リトロリフレクター|再帰反射器]]アレイや、[[月震]]の観測に使用される受動月震実験装置群などの科学観測機器を月面に残してきた。また、飛行士3人が火災事故で犠牲になったアポロ1号のミッションパッチや、古くから平和の象徴とされてきたオリーブの枝を模した金のレプリカ及び地球からのメッセージを収めたシリコンディスクを入れた記念袋も置いてきた。ディスクには、アメリカの[[ドワイト・D・アイゼンハワー|アイゼンハワー]]、ケネディ、[[リンドン・ジョンソン|ジョンソン]]、ニクソンの歴代大統領及び世界73か国のリーダーたちの{{仮リンク|アポロ11号の親善メッセージ|en|Apollo 11 goodwill messages|label=親善のメッセージ}}が収録されているほか、アメリカ合衆国議会の代表者たち、NASAの設立に尽力した上下両院の4つの委員会のメンバー、及び[[NASA長官|NASAの歴代長官]]の名前の一覧も記録されている<ref>{{cite press release |title=Apollo 11 Goodwill Messages |date=July 13, 1969 |publisher=NASA |location=Washington, D.C. |url=https://history.nasa.gov/ap11-35ann/goodwill/Apollo_11_material.pdf |format=PDF |id=Release No: 69-83F |accessdate=June 14, 2013}}</ref>。オルドリンは1989年に出版した自著『地球から来た男』(原題:''Men from Earth''<ref group="注">[[鈴木健次]]・[[古賀林幸]]訳による和訳書が1992年に角川書店から出版されている(ISBN 4-04-703233-6)。</ref>)で、その中にはソビエト連邦の宇宙飛行士[[ウラジーミル・コマロフ]]と[[ユーリイ・ガガーリン]]を記念したメダルも入っていたことを明かした。さらに、NASAの宇宙飛行士訓練担当官ドナルド・スレイトンの著書『ムーンショット』 (''Moonshot'') によると、アームストロングにダイヤモンドの入った特製の飛行士の階級章を月面に置いてくるよう託していたそうである。

[[File:Apollo 11 lunar module.jpg|thumb|司令船「コロンビア」に接近してくる「イーグル」の上昇段]]

離陸時に「イーグル」の上昇段から撮影された映像には、月面の下降段から{{Convert|25|ft|m|0}}ほど離れた場所に立てられた星条旗が、上昇段エンジンの噴射で激しくはためく様子がとらえられていた。オルドリンはちょうど旗がぐらついて倒れるのを目撃し{{sfn|Orloff|2000|pp=102–110}}、「上昇を始めた時、私はコンピュータの操作に集中し、ニールは[[姿勢指示器]]を注視していたが、旗が倒れるのを長い間見ていられた」と報告した<ref name="Apollo-11 (27)" />。このため、以後のアポロミッションでは、上昇段エンジンの噴射で吹き飛ばされることのないように、星条旗は着陸船から少なくとも{{Convert|100|ft|m|sigfig=1}}以上離れた場所に立てられることになった。

司令船「コロンビア」とのランデブーとドッキングに成功し、3人が再会した後、「イーグル」の上昇段は1969年7月21日23:41 (UTC) に月周回軌道上に投棄された。[[アポロ12号]]の飛行の直前には、「イーグル」は依然として軌道上に留まっているようであることが確認されたが、後に出されたNASAの報告書には、「イーグル」は軌道が次第に減衰した結果、月面の「不確かな場所」 ("uncertain location") に衝突したのだろうと記されている<ref>{{cite web |url=http://nssdc.gsfc.nasa.gov/planetary/lunar/apollo_tables.html |title=Apollo Tables |last=Williams |first=David R. |work=[[National Space Science Data Center]] |publisher=NASA |accessdate=September 23, 2006 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20061001125211/http://nssdc.gsfc.nasa.gov/planetary/lunar/apollo_tables.html |archivedate=October 1, 2006 |df=mdy-all}}</ref>。場所が不確かである理由は、「イーグル」上昇段は投棄された後に追跡されていなかったこと、そして月の重力場が十分に一様ではないために、少々時間を置いた後では宇宙船の軌道が予測不可能になってしまうことによる。NASAは「イーグル」の軌道は投棄から数か月以内に減衰し、月面に衝突したのだろうと推定している。

7月23日、着水前の最後の夜に、3名の宇宙飛行士はテレビ放送で次のようにコメントした。最初にコリンズが、

<blockquote>……我々を軌道に乗せたサターンV型ロケットは信じられないほど複雑な機械ですが、すべての部品は完璧に動作してくれました……我々は常に、この装備が正しく作動してくれることを確信していました。これはすべて、多くの人々が流した血と汗と涙によってのみ、可能になったことです……今皆様が目にしているのは私たち3人だけですが、水面下では何千、何万もの人たちによって支えられているのです。そして私は、それらすべての人々に申し上げたいです。『心からありがとう』と。</blockquote>

と述べ、続いてオルドリンが、

<blockquote>この飛行は、月に送られる使命を帯びた3人の男の奮闘以上に、政府と企業のチームの努力にとどまらず、さらには一国の努力さえも超えて、非常に大勢の方々のご尽力によって成し遂げられました。これは、未知なるものを探求する全人類の飽くなき好奇心を象徴しているのだと、私たちは感じています……個人的には、ここ数日のあの月での出来事を回想するとき、聖歌の一節が心に浮かんで参ります。『私はあなたの指の業なる天を見、あなたが設けられた月と星とを見て思います。人は何者なので、これを御心にとめられるのですか』</blockquote>

と加え、最後にアームストロングが、

<blockquote>この飛行に対して責任を担ってきたのは、まず第一に、この取り組みに先立つ科学の歴史とそれを築き上げてきた偉人たち、次いで、自らの意思を通じてこれを成し遂げたいという願いを表明したアメリカ国民、そして、国民の意思に従い、それを履行した4代にわたる政権と連邦議会、さらに、我々の宇宙船やサターンロケット、司令船コロンビア、着陸船イーグル、{{仮リンク|船外活動ユニット|en|Extravehicular Mobility Unit}}、月面における小さな宇宙船とも言うべき宇宙服などを作り上げた政府機関や企業のチームなどです。我々は、この宇宙船を設計し、試験し、建造し、飛行させるために心血を注ぎ、持てる限りの能力を発揮してくれたすべてのアメリカ人に対し、特別の感謝を捧げたく存じます。我々は今夜それらの方々に対して特別の感謝の言葉を申し上げ、また、今夜この放送を見聞きしている人々に神の祝福があらんことを祈ります。アポロ11号より、おやすみなさい<ref name="Apollo-11 (27)" />。</blockquote>


と結んだ。
と結んだ。


地球への帰還に際して、グアムの追跡基地で装置の軸受が故障したことで、もしかすると地球帰還時の連絡に関して最後の一部分の受信が妨げられていた可能性があった。通常の修復作業では与えられた時間内に作業を終えるのは無理だったが、基地の主任だったチャールズ・フォースは、自身の10歳の息子グレッグに、軸受箱の中にその小さな手を入れてグリスを塗ってもらって急場をしのいだ。お手柄のグレッグは後にアームストロングから感謝された<ref>{{cite news |title=The 10-year-old who helped Apollo 11, 40 years later |last=Rodriguez |first=Rachel |url=http://www.cnn.com/2009/TECH/space/07/20/apollo11.irpt/index.html |work=CNN |date=July 20, 2009 |accessdate=January 10, 2011}}</ref>。
[[7月24日]]、コロンビアは[[ウェーク島]]から2,660km東方、ジョンストン[[環礁]]から380km南方、[[航空母艦]][[ホーネット (CV-12)|ホーネット]] (USS Hornet) から離れることわずか24kmの、西経169度9分、北緯13度19分の[[太平洋]]上に無事帰還した<ref>このとき[[日本航空]]の国際線旅客機の運行乗務員が、[[ミッドウェー諸島]]付近にて大気圏内を2000km/hで落下中のアポロ11号を目撃した。撮影に夢中で客室への放送は忘れたという。</ref>。飛行士たちは着水からおよそ1時間後に[[ヘリコプター]]によって回収され、ただちに月面から[[病原菌]]や[[ウイルス]]を持ってきていないかを検査するために特別な病棟に隔離された。ニクソン大統領は、彼らを祝福するために全く個人的に空母を訪れた。

[[ファイル:President Nixon welcomes the Apollo 11 astronauts aboard the U.S.S. Hornet.jpg|thumb|right|隔離病棟に収容される飛行士たちと、彼らを祝福するニクソン大統領]]
=== 着水と検疫 ===
[[8月13日]]、3週間にわたる検査により異常がないことが確認されると、3人はようやく隔離から解放され、[[ニューヨーク]]、[[シカゴ]]、[[ロサンゼルス]]で(同じ日に)盛大な[[パレード]]で歓迎された。数週間後には[[メキシコシティ]]を訪れ、そこでも祝福を受けた。
[[File:Splashdown 3.jpg|thumb|洋上に浮かぶ「コロンビア」と飛行士たちの下船を助ける海軍のダイバーら]]
[[File:Apollo-11-quarantine-7.jpg|right|thumb|[[ホーネット (CV-12)|ホーネット]]艦上で生物隔離服に身を包む宇宙飛行士たち]]

7月24日、宇宙飛行士たちは司令船「コロンビア」に乗って地球に帰還し、太平洋の[[ウェーク島]]の東方{{convert|2660|km|nmi|abbr=on}}、[[ジョンストン島|ジョンストン環礁]]の南方{{convert|380|km|nmi|abbr=on}}、司令船と飛行士たちの回収任務を担う航空母艦[[ホーネット (CV-12)|ホーネット]]からの距離わずか{{convert|24|km|nmi|abbr=on}}の{{Coord|13|19|N|169|9|W|type:event|name=アポロ11号の着水地点}}の海上に着水した{{sfn|Orloff|2000|pp=102–110}}<ref group="注">このとき、[[日本航空]]の国際線旅客機の運行乗務員が、[[ミッドウェー諸島]]付近にて大気圏内を2000km/hで落下中のアポロ11号を目撃した。撮影に夢中で、客室への放送は忘れたという。{{要出典|date=2018年8月}}</ref>。現地時間のちょうど夜明け前 (16:51 UTC{{sfn|Orloff|2000|pp=102–110}}) のことだった。そこは[[アメリカ領サモア]]の{{仮リンク|ヴァティア (アメリカ領サモア)|en|Vatia, American Samoa|label=ヴァティア村}}の近辺だった<ref>{{cite web |url=https://www.afar.com/places/vatia-pago-pago |title=Vatia and Pola Tai |website=AFAR Media |accessdate=March 5, 2018}}</ref>。アポロ11号によって月に持ち込まれた[[アメリカ領サモアの旗]]は、アメリカ領サモアの首都[[パゴパゴ (アメリカ領サモア)|パゴパゴ]]にある{{仮リンク|ジーン・P・ヘイドン博物館|en|Jean P. Haydon Museum}}に展示されている<ref>{{cite web |url=http://www.fodors.com/world/australia-and-the-pacific/american-samoa/things-to-do/sights/reviews/jean-p-haydon-museum-584573 |title=Jean P. Haydon Museum |website=www.fodors.com |accessdate=March 5, 2018}}</ref>。

16:44 (UTC) に{{仮リンク|減速用パラシュート|en|Drogue parachute}}が開き、7分後に司令船は船体を力強く水面に叩きつけられた。{{仮リンク|着水|en|Splashdown}}時に司令船は上下逆さまに落下したが、浮力袋によって10分以内に立て直された。「すべて順調。チェックリストは完全だ。スイマーらを待つ。 ("Everything's okay. Our checklist is complete. Awaiting swimmers")」が、公式な通信記録に残る、アームストロングの「コロンビア」から最後に発した言葉だった。上空でホバリングする海軍のヘリコプターから下りてきたダイバーが、船が漂流することのないように、司令船に{{仮リンク|海錨|en|Sea anchor}}を取り付けた。別のダイバーらは船を安定させるために司令船に浮揚環管を取り付け、宇宙飛行士たちを下船させるためのボートを船の横につけた。月面から[[病原体]]を持ち帰る可能性がわずかに懸念されたが、たとえわずかでも起こりうることだとして、NASAは念のため回収現場で慎重な予防措置を取った。ダイバーらは宇宙飛行士たちに、ホーネット艦上の隔離施設に到着するまでの間ずっと、生物隔離服 (Biological Isolation Garment, BIG) を着用させた。さらに、宇宙飛行士たちは[[次亜塩素酸ナトリウム]]製剤を使用して身体を擦り拭かれ<!-- 「清拭」に類似するが、微妙に違うような。 -->、司令船は船体に付着しているかもしれない月の塵を[[ポビドンヨード|ベタダイン]]を使って拭き取られた。その後、除染物質を積んだボートは故意に沈められた<ref name="hornet">{{Cite book |last=Fish |first=Bob |others=Foreword by [[リチャード・F・ゴードン・ジュニア|Richard Gordon]] |title=Hornet Plus Three: The Story of the Apollo 11 Recovery |edition=1st |date=2009 |publisher=Creative Minds Press |location=Reno, Nevada |isbn=978-0-9749610-7-1}}{{page needed|date=March 2018}}</ref>。

もう一機のヘリコプター、[[SH-3 シーキング|シーキング]] &mdash;{{仮リンク|ヘリコプター66|en|Helicopter 66}}&mdash; は、宇宙飛行士たちを一人ずつ吊り上げ、ホーネットに帰艦するまでの{{convert|0.5|nmi|m}}の移動中に機内ではNASAの{{仮リンク|航空医官|en|Flight surgeon}}が各飛行士に簡単な健康診断を施した。

[[File:President Nixon welcomes the Apollo 11 astronauts aboard the U.S.S. Hornet.jpg|thumb|left|地球に帰還した後、[[検疫]]のために隔離施設に収容されるアポロ11号の搭乗員と、彼らを訪問するニクソン大統領。]]

ホーネット艦上に着地した後、宇宙飛行士たちはヘリコプターを降り、航空医官及び3人の乗組員と別れた。そのあと、ヘリコプターは格納庫ベイ2号へと入っていった。宇宙飛行士たちはそのベイの中を{{仮リンク|移動式隔離施設|en|Mobile Quarantine Facility}} (Mobile Quarantine Facility, MQF) まで{{convert|30|ft|m}}歩いて施設内に入り、地球ベースで21日分の[[検疫]]期間が開始された<ref>{{cite web |last1=Phillips |first1=Sam. C. |authorlink1=Samuel C. Phillips |title=Apollo 11 Prelaunch Mission Operation Report, no. M-932-69-1 |url=https://history.nasa.gov/afj/ap11fj/pdf/a11-prelaunch-rep1.pdf |publisher=NASA |accessdate=October 24, 2017 |page=49 |date=July 8, 1969 |quote=The crew will be quarantined for approximately 21 days after liftoff from the lunar surface.}}</ref>。この措置は、続く[[アポロ12号]]と[[アポロ14号]]の2つのアポロミッションでも実施されたが、後に月に生命が存在しないことが証明されると、検疫措置は取り止めになった<ref name="hornet" /><ref name="Smithsonian ">{{cite web |url=http://airandspace.si.edu/exhibitions/apollo-to-the-moon/online/a11.jh.3.html |archive-url=https://archive.is/20130815101507/http://airandspace.si.edu/exhibitions/apollo-to-the-moon/online/a11.jh.3.html |dead-url=yes |archive-date=2013-08-15 |title=After Splashdown |date=July 1999 |work=Apollo to the Moon |publisher=[[国立航空宇宙博物館|National Air and Space Museum]] |location=Washington, D.C. |accessdate=August 15, 2013}}</ref>。

リチャード・ニクソン大統領は個人的に、地球に帰還した宇宙飛行士たちを歓迎するために、ホーネットに乗艦していた。ニクソンは宇宙飛行士たちに「君たちが成し遂げたことのおかげで、世界はこれまでになく一層親密になった。 ("As a result of what you've done, the world has never been closer together before.")<ref>{{cite web |url=http://thenewnixon.org/2008/07/23/24-july-1969-home-from-the-moon/ |title=24 July 1969: Home From The Moon |last=Gannon |first=Frank |date=July 23, 2008 |work=The New Nixon |publisher=[[リチャード・ニクソン財団|Richard Nixon Foundation]] |accessdate=July 20, 2009 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100509164913/http://thenewnixon.org/2008/07/23/24-july-1969-home-from-the-moon/ |archivedate=May 9, 2010 |df=mdy}}</ref>」と祝福の言葉を伝えた。ニクソンが出発した後、ホーネットは重量5トンの司令船に近づいて舷側に寄せ、艦のクレーンを使って船を引き揚げ、台車に載せてMQFの隣まで運び込んだ。ホーネットはハワイの{{仮リンク|真珠湾海軍基地|en|Naval Station Pearl Harbor|label=真珠湾基地}}に向けて航行し、基地に到着すると「コロンビア」とMQFは[[ジョンソン宇宙センター|有人宇宙船センター]]まで空輸された<ref name="hornet" />。

7月16日にNASAが発布した一連の規定<ref>Extra-Terrestrial Exposure, 34 [[連邦官報|Fed. Reg.]] 11975 (July 16, 1969), ''codified at'' [[連邦航空規定|14 C.F.R.]] pt. [https://books.google.com/books?id=7rU5AAAAIAAJ&pg=PA94 1200]</ref>、{{仮リンク|地球外暴露法|en|Extra-Terrestrial Exposure Law}}に従い、検疫試験計画が成文化され、月には未発見の[[病原体]]が存在するかもしれず、月面滞在中に宇宙飛行士たちがそれに曝されたかもしれないとの懸念から、宇宙飛行士たちの検疫が続けられた。しかし、3週間の隔離<ref group="注">最初はアポロ宇宙船内、次にホーネット艦上のMQF、最後に有人宇宙船センターの[[月試料研究所]] (Lunar Receiving Laboratory, LRL) 内にて。</ref>を経て、宇宙飛行士たちに完全健康証明書が与えられた<ref>{{cite web |url=http://www.nasaexplores.com/extras/apollo11/hirasaki.html |archive-url=https://archive.is/20060319184027/http://www.nasaexplores.com/extras/apollo11/hirasaki.html |dead-url=yes |archive-date=March 19, 2006 |title=A Front Row Seat For History |date=July 15, 2004 |work=NASAexplores |publisher=NASA |accessdate=June 14, 2013}}</ref>。1969年8月10日にアトランタで、逆汚染に関する庁間委員会 (Interagency Committee on Back Contamination) の会合が開かれ、宇宙飛行士たち、飛行士の検疫に従事した者たち(NASAの医官{{仮リンク|ウィリアム・カーペンティア|en|William Carpentier}}とMQFプロジェクト技師{{仮リンク|ジョン・ヒラサキ|en|John Hirasaki}}<ref>{{cite book |last1=Carmichael |first1=Scott W. |title=Moon Men Return: USS Hornet and the Recovery of the Apollo 11 Astronauts |date=2010 |publisher=Naval Institute Press |location=Annapolis, Maryland |isbn=9781591141105 |page=118}}</ref>)、及び「コロンビア」自体の隔離がようやく解かれた<ref name=chronology>{{cite web |last1=Ertel |first1=Ivan D. |last2=Newkirk |first2=Roland W. |last3=Brooks |first3=Courtney G. |title=The Apollo Spacecraft - A Chronology. Vol. IV. Part 3 (1969 3rd quarter) |url=https://history.nasa.gov/SP-4009/v4p3e.htm |website=NASA History Program Office |publisher=NASA |accessdate=October 24, 2017 |page=312 |year=1978}}</ref>。宇宙船から取り外せる備品は、月試料が研究用に公開されるまでの間、隔離されたままだった<ref name=chronology/>。

=== 祝賀 ===
[[File:New York City Welcomes the Apollo 11 Astronauts - GPN-2002-000034.jpg|thumb|ニューヨーク市での祝賀パレードの様子]]
8月13日、ニューヨーク、シカゴ、ロサンゼルスで盛大なパレードが行われ、3人は歓迎と祝福を受けた<ref>{{cite news |last1=Taylor |first1=Alan |title=The Year Men Walked on the Moon |url=https://www.theatlantic.com/photo/2014/07/45-years-ago-we-landed-men-on-the-moon/100775/ |accessdate=October 24, 2017 |work=The Atlantic |date=July 15, 2014}}</ref><ref name=LADinner>{{cite web |title=Richard Nixon: Remarks at a Dinner in Los Angeles Honoring the Apollo 11 Astronauts |url=http://www.presidency.ucsb.edu/ws/?pid=2202 |website=The American Presidency Project |accessdate=October 24, 2017 |date=August 13, 1969}}</ref>。同日の晩にはロサンゼルスの{{仮リンク|センチュリー・プラザ・ホテル|en|The Century Plaza Hotel}}で、連邦議会議員、44州の知事、[[アメリカ合衆国最高裁判所長官|合衆国最高裁判所長官]]、83か国の大使らが主宰する公式晩餐会が開かれた<ref name=LADinner/>。その席上で、リチャード・ニクソン大統領と[[スピロ・アグニュー]][[アメリカ合衆国副大統領|副大統領]]から各宇宙飛行士の栄誉を称えて[[大統領自由勲章]]が授与された<ref name=LADinner/>。この祝賀会は以後45日間に及ぶ「偉大な飛躍 ("Giant Leap") ツアー」の始まりにすぎなかった。このツアーで3人の宇宙飛行士は25か国を歴訪し、イギリスの[[エリザベス2世|女王エリザベス2世]]など、世界の著名なリーダーたちを表敬訪問した。多くの国では、人類史上初の[[月面着陸]]を称える雑誌の特集が組まれたり、アポロ11号の記念切手や記念硬貨が発行されたりした<ref>{{cite journal |last=Wilson |first=Bill |title=Families Wait for Moon Men |date=July 23, 1969 |url=http://nla.gov.au/nla.news-article43460781 |journal=The Australian Women's Weekly |location=Sydney |volume=37 |number=8 |pages=2–4 |accessdate=July 19, 2013}}</ref><ref>{{cite web |url=http://www.lunarhall.org/missions/apollo/11.html |title=Lunar Missions: Apollo 11 |date=2008 |website=Lunar Hall of Fame |archiveurl=https://web.archive.org/web/20081024222503/http://www.lunarhall.org/missions/apollo/11.html |archivedate=2008-10-24 |deadurl=yes |accessdate=June 9, 2014}}</ref>。

1969年9月16日、3人の飛行士は{{仮リンク|キャピトル・ヒル|en|Capitol Hill}}での[[アメリカ合衆国議会合同会議|合衆国議会両院合同会議]]の開会前にスピーチし、月面に持って行った2枚の星条旗のうちの一方を下院に、もう一方を上院に渡した<ref>{{cite web |url=http://history.house.gov/HistoricalHighlight/Detail/35693 |title=The Apollo 11 Crew Members Appear Before a Joint Meeting of Congress|access-date=March 3, 2018 |publisher=United States House of Representatives}}</ref>。

=== 月着陸競争 ===
[[File:Luna-16.jpg|thumb|ルナ15号の完成予想図]]

ソビエト連邦は月面に人間を着陸させることにおいてアメリカ合衆国と競争していたが、アメリカのサターンVに匹敵する[[N-1]]ロケットの開発の度重なる失敗により、勝利への道は阻まれた<ref name="sovlun">{{cite web |url=http://ocw.mit.edu/courses/science-technology-and-society/sts-471j-engineering-apollo-the-moon-project-as-a-complex-system-spring-2007/readings/soviet_mand_lunr.pdf |title=The Soviet Manned Lunar Program |last=Lindroos |first=Marcus |work=[[MIT OpenCourseWare]] |publisher=[[Massachusetts Institute of Technology]] |format=PDF |accessdate=October 4, 2011}}</ref>。それでも、ソ連は何とかアメリカに勝とうとして、{{仮リンク|無人宇宙船|en|Unmanned spacecraft|label=無人探査機}}を用いて月物質を地球に持ち帰る計画を立てた。アポロ11号が打ち上げられる3日前の7月13日に、ソ連は[[ルナ15号]]を打ち上げ、アポロ11号よりも先に月周回軌道に到達させた。しかし、月面への降下中にルナ15号は機能不全に陥り、月面の[[危難の海]]に落下、衝突した。これは、アームストロングとオルドリンが月面を離陸して地球への帰路につく約2時間前のことだった。後に、イギリスにある[[ジョドレルバンク天文台]]の電波望遠鏡は、月面へ降下中のルナ15号から受信した通信記録を発見したことを、アポロ11号の40周年記念となる2009年7月に発表した<ref>{{cite news |title=Recording tracks Russia's Moon gatecrash attempt |first=Jonathan |last=Brown |url=https://www.independent.co.uk/news/science/recording-tracks-russias-moon-gatecrash-attempt-1730851.html |work=[[The Independent]] |location=London |date=July 3, 2009 |accessdate=January 10, 2011}}</ref>。

== 遺産 ==
=== 宇宙船の所在 ===
{{multiple image
| align = left
| direction = horizontal
| header =
| header_align = center
| image1 = NASA Apollo 11 command module.jpg
| width1 = 240
| caption1 = [[国立航空宇宙博物館]]に展示されていた司令船「コロンビア」
| image2 = Apollo11-LRO-March2012.jpg
| width2 = 180
| caption2 = 2012年に月周回衛星[[ルナー・リコネサンス・オービター|LRO]]が撮影したアポロ11号月着陸船の着陸地点
}}

司令船「コロンビア」は、首都ワシントンD.C.にある[[国立航空宇宙博物館]] (National Air and Space Museum, NASM) に展示されていた。「コロンビア」が展示されていた場所は同博物館のジェファーソン・ドライブ入り口正面の中央展示ホール内の ''Milestones of Flight'' コーナーで、同ホールには他に、[[ライトフライヤー号]]、[[スピリットオブセントルイス号]]、[[X-1 (航空機)|ベルX-1]]、[[X-15 (航空機)|ノースアメリカンX-15]]、[[マーキュリー計画|マーキュリー宇宙船]]・[[マーキュリー・アトラス6号|フレンドシップ7号]]、[[ジェミニ4号]]など、アメリカの航空宇宙史を開拓してきた機体が展示されている。アームストロングとオルドリンの宇宙服は同博物館内の ''Apollo to the Moon'' コーナーに展示されている。隔離施設、浮揚環管、転覆した船体の立て直しに用いられた浮力球は、バージニア州シャンティリーの[[ワシントン・ダレス国際空港]]に近い、NASMの別館である、スミソニアン協会の{{仮リンク|スティーブン・F・ウドバー=ハジー・センター|en|Steven F. Udvar-Hazy Center}}に展示されている。

月着陸船「イーグル」の下降段は月面に残されたままである。2009年、[[ルナー・リコネサンス・オービター]] (Lunar Reconnaissance Orbiter, LRO) が、月の表面のあちこちに位置するかつてのアポロ宇宙船の着陸地点を、月着陸船、科学観測機器、宇宙飛行士が月面歩行時につけた足跡を見分けられるほど十分に解像度の高い画像として、初めて画像化することに成功した。上昇段の遺物は、投棄されて月に再衝突した後、月の表面の不明な場所にあると推定されている。

2012年3月、[[Amazon.com|Amazon]]の創設者[[ジェフ・ベゾス]]から資金提供を受けた専門家チームは、アポロ11号を宇宙へと打ち上げた[[F-1ロケットエンジン]]の場所を特定した。エンジンは先進的な走査型超音波探知機を用いて大西洋の海底で発見された<ref>{{cite news |title=Amazon boss Jeff Bezos 'finds Apollo 11 Moon engines' |url=https://www.bbc.co.uk/news/world-us-canada-17544565 |work=BBC News |location=London |date=March 28, 2012 |accessdate=June 14, 2013}}</ref>。専門家チームは5基のエンジンのうちの2基の部品を海面まで引き揚げた。2013年7月、その大西洋から引き揚げられたエンジンのうちの1基の錆びついた表面の下にシリアルナンバーが記載されているのを管理人が発見し、NASAはそれがアポロ11号の打ち上げで使われたものであることを確認した<ref>{{cite news |url=https://www.washingtonpost.com/news/innovations/wp/2013/07/19/bezos-expeditions-retrieves-and-identifies-apollo-11-engine-5-nasa-confirms-identity/ |title=Bezos Expeditions retrieves and identifies Apollo 11 engine #5, NASA confirms identity |last=Kolawole |first=Emi |date=19 July 2013 |accessdate=13 February 2017}}</ref><ref>{{cite web |url=http://www.bezosexpeditions.com/updates.html |title=F-1 Engine Recovery - Updates |last=Bezos |first=Jeff |date=19 July 2013 |accessdate=2018-08-23}}</ref>。
[[File:Apollo 11 Command Module in Hangar.jpg|thumb|left|メアリー・ベイカー・エンゲン修復用格納庫で修復中の司令船「コロンビア」]]

「コロンビア」は2017年にバージニア州シャンティリーにある{{仮リンク|スティーブン・F・ウドバー=ハジー・センター|en|Steven F. Udvar-Hazy Center}}内の国立航空宇宙博物館メアリー・ベイカー・エンゲン修復用格納庫 (NASM Mary Baker Engen Restoration Hangar) に移され、アポロ11号の月面着陸50周年を記念して4都市で開催される ''Destination Moon: The Apollo 11 Mission'' (デスティネーションムーン:アポロ11号のミッション)と題した巡回展に向けて準備が進められている。この巡回展は、2017年10月14日から2018年3月18日まで[[スペースセンター・ヒューストン]]にて、2018年4月14日から同年9月3日まで{{仮リンク|セントルイス科学センター|en|Saint Louis Science Center}}にて、2018年9月29日から2019年2月18日までピッツバーグの{{仮リンク|ハインツ歴史センター|en|Heinz History Center}}にて、そして2019年3月16日から同年9月2日までシアトルの{{仮リンク|航空博物館|en|Museum of Flight}}にて、開催される予定である<ref>{{cite web |title=Apollo 11 Command Module Columbia |url=https://airandspace.si.edu/collection-objects/command-module-apollo-11 |accessdate=27 August 2017}}</ref><ref>{{cite web |url=http://www.airspacemag.com/daily-planet/apollo-11-artifacts-go-tour-180962247/#vdLWIR4Sfofhv24g.99 |title=Apollo 11 Moonship To Go On Tour |accessdate=August 27, 2017}}</ref>。


アポロ11号の[[月遷移軌道|月遷移投入]]に能力を発揮したサターンVの第三段[[S-IVB]]は、地球の公転軌道に近い、太陽周回軌道上に留まっている<ref>https://nssdc.gsfc.nasa.gov/nmc/spacecraftDisplay.do?id=1969-059B</ref>。
ロサンゼルスでパレードがあった日の夜には、連邦議員、44州の[[知事]]、[[合衆国最高裁判所]]長官、並びに83か国の[[大使]]らの主宰による歓迎の晩餐会が開かれ、ニクソン大統領および[[スピロ・アグニュー]][[アメリカ合衆国副大統領|副大統領]]からアメリカ最高勲章である[[大統領自由勲章]] (Presidential Medal of Freedom) が授与された。そしてこの晩餐会は、この後45日間にわたって続く「偉大な飛躍 (Giant Leap) ツアー」の始まりに過ぎなかった。彼らにはこれから25か国を歴訪し、各国の[[君主]]・[[元首]]・[[首脳]]を表敬訪問することが予定されていたのである。


=== 40周年記念行事 ===
世界の多くの国は、史上初の月面着陸を記念して[[切手]]や[[メダル]]を発行した。また[[北ベトナム]]のいくつかの[[捕虜収容所]]には、11号の飛行から数か月後にそれらの切手を貼った手紙が届けられ、アメリカが人間を月に着陸させたことがそれとなく知らされた。
[[File:Mike Simons, Director of the National Electronic Museum in Baltimore assembles an Apollo TV camera for display.jpg|thumb|[[ニュージアム]]での展示用にアポロテレビカメラを組み立てる{{仮リンク|国立電子技術博物館|en|National Electronics Museum}}のマイク・シモンズ館長]]
2009年7月15日に[[ライフ (雑誌)|Life.com]]は、同誌の写真家だった{{仮リンク|ラルフ・モース|en|Ralph Morse}}がアポロ11号の打ち上げに先立って撮影した宇宙飛行士の未公表写真をウェブ上の写真ギャラリーで公開した<ref>{{cite news |url=http://life.time.com/history/photos-up-close-with-apollo-11/#1 |title=LIFE: Up Close With Apollo 11 |work=[[ライフ (雑誌)|Life.com]] |accessdate=June 14, 2013 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130521161407/https://life.time.com/history/photos-up-close-with-apollo-11/ |archivedate=May 21, 2013 |df=mdy}}</ref>。2009年7月16日から同24日まで、NASAはアポロ11号ミッションで流れた本物の音声を40年前の月飛行の実時間に合わせてストリーミング配信した<ref>{{cite web |url=http://www.nasa.gov/mission_pages/apollo/40th/apollo11_audio.html |title=Apollo 11 Onboard Audio |work=Apollo 40th Anniversary |publisher=NASA |accessdate=June 14, 2013}}</ref>。さらに、当時のビデオフィルムの復元作業が進められており、重要な場面を集めた予告編が公開されている<ref>{{cite web |url=http://www.nasa.gov/multimedia/hd/apollo11_hdpage.html |title=Apollo 11 Partial Restoration HD Videos (Downloads) |editor-last=Garner |editor-first=Robert |publisher=NASA |accessdate=June 14, 2013}}</ref>。2010年7月、アポロ11号が月へ降下して着陸するまでの間に宇宙から地球に伝送されたミッション管制センターの音声録音とフィルム映像が再同調され、初めて公開された<ref>{{Cite news |title=Sound restored to mission control film shot during Apollo 11 moon landing |first=Christopher |last=Riley |url=https://www.theguardian.com/science/blog/2010/jul/20/sound-apollo-11-moon-landing |work=[[The Guardian]] |location=London |date=July 20, 2010 |accessdate=July 11, 2013}}</ref>。{{仮リンク|ジョン・F・ケネディ大統領図書館・博物館|en|John F. Kennedy Presidential Library and Museum}}は、アポロ11号が打ち上げられてから月に着陸するまでの交信記録を再放送する[[Adobe Flash|Flash]]ウェブサイトを立ち上げた<ref>{{cite web |url=http://wechoosethemoon.org/|archive-url=https://web.archive.org/web/20090617230719/http://wechoosethemoon.org/|dead-url=yes|archive-date=June 17, 2009 |title=We Choose the Moon |publisher=[[ジョン・F・ケネディ大統領図書館・博物館|John F. Kennedy Presidential Library and Museum]] |accessdate=July 19, 2009}}</ref>。


2009年7月20日、アポロ11号の搭乗員だったアームストロング、オルドリン、コリンズの3名は、ホワイトハウスで[[バラク・オバマ]]大統領と面会した<ref>{{cite web |url=http://www.nasa.gov/multimedia/imagegallery/image_feature_1422.html |title=Apollo 11 Crew Meets With President Obama |date=July 20, 2009 |work=Image of the Day Gallery |publisher=NASA |accessdate=June 9, 2014}}</ref>。オバマは「私たちが話しているように、向こうで空を見上げる別世代の子供たちが、次なるアームストロング、コリンズ、オルドリンになろうとすることを期待しています」と述べ、「彼らが(月への)旅路に就きたいとき、彼らのためにNASAがそこを目指していることを確実にしておきたい」と加えた<ref>{{cite news |url=https://www.nytimes.com/2009/07/21/science/space/21obama.html |work=The New York Times |first=Jeff |last=Zeleny |title=Obama Hails Apollo Crew From a Lens of Childhood |date=July 21, 2009}}</ref>。2009年8月7日、合衆国議会の法令により、アメリカで文民に贈られる最高位の賞である[[議会名誉黄金勲章|議会黄金勲章]]が3名の宇宙飛行士に授与された。この法案はフロリダ州選出の上院議員[[ビル・ネルソン]]と同州選出の下院議員{{仮リンク|アラン・グレイソン|en|Alan Grayson}}に支持されたものだった<ref>{{cite web |url=http://www.opencongress.org/bill/111-s951/text |title=Text of S.951 as Engrossed in Senate: New Frontier Congressional Gold Medal Act – U.S. Congress – OpenCongress |publisher=OpenCongress.org |accessdate=June 14, 2013 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20121103063854/https://www.opencongress.org/bill/111-s951/text |archivedate=November 3, 2012 |df=mdy}}</ref><ref>{{cite web |url=http://www.opencongress.org/bill/111-h2245/text |title=Text of H.R.2245 as Enrolled Bill: New Frontier Congressional Gold Medal Act – U.S. Congress – OpenCongress |publisher=OpenCongress.org |accessdate=June 14, 2013 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20121103064013/https://www.opencongress.org/bill/111-h2245/text |archivedate=November 3, 2012 |df=mdy}}</ref>。
[[ミズーリ州]][[セントルイス]]で開催された第27回世界[[SF大会]]では、「かつて(SF小説の中で)行なわれた月面着陸の中で、最もすばらしかったもの」として、SF雑誌のパイオニア、[[ヒューゴー・ガーンズバック]] (Hugo Gernsback) にちなんだ[[ヒューゴー賞|特別ヒューゴー賞]]が贈られた。


イギリスの科学者グループは、40周年記念行事の一環として行われたインタビューで、月面着陸の重要性に反応して、次のように答えた。
[[9月16日]]には、3人は連邦合同議会の開催前にスピーチを行ない、月面に持って行った2枚の星条旗のうちの1枚を[[アメリカ合衆国上院|上院]]に、もう1枚を[[アメリカ合衆国下院|下院]]に渡した。


{{quote|(月面着陸は)危険を冒しながらも、技術的に素晴らしい方法で実行されました……今日のリスク回避的世界{{sfn|Bizony|2009|loc=&sect;4 リスクの要素}}にあっては、あれは想像もつかないことだったように思います……アポロ計画は今までに人類が達成した中で最も偉大な技術的業績だと言ってよいでしょう……アポロ以後、アームストロング、オルドリンと彼らの後に続いた他の10名の宇宙飛行士たちが生み出したような興奮に近いものがありません<ref>{{Cite news |title=Moon landings: British scientists salute space heroes |url=https://www.telegraph.co.uk/science/space/5848707/Moon-landings-British-scientists-salute-space-heroes.html |work=[[The Daily Telegraph]] |location=London |date=July 17, 2009 |accessdate=June 14, 2013 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130308224145/https://www.telegraph.co.uk/science/space/5848707/Moon-landings-British-scientists-salute-space-heroes.html |archivedate=March 8, 2013 |df=mdy}}</ref>。}}
[[ファイル:Apollo11Smithonian.JPG|right|thumb|国立航空宇宙博物館に展示されているアポロ11号司令船]]
11号の司令船は、2009年現在[[ワシントンD.C.]]の[[国立航空宇宙博物館]]の中央展示ホールに、[[スピリット・オブ・セントルイス]]、[[ベルX-1]]、[[ノース・アメリカン]][[X-15 (航空機)|X-15]]、[[マーキュリー計画|マーキュリー宇宙船]][[マーキュリー・アトラス6号|フレンドシップ7]]、[[ジェミニ4号]]など、アメリカの航空史を開拓してきた機体とともに展示されている。隔離病棟、[[救命胴衣]]、[[天球儀]]などは[[ヴァージニア州]]の博物館に展示されている。


== 計画の表象 ==
== ギャラリー ==
<gallery class="center" widths="180">
アポロ11号の徽章として最もよく知られているのは、コリンズがデザインしたものであろう(ページ先頭参照)。最初彼は「アメリカ合衆国による平和的な月面着陸」を象徴させるために、地球と月を背景に、[[オリーブ]]の枝を嘴(くちばし)にくわえた鷲を表象にしたが、戦闘的に見えるのではないかという意見が出たため、結局オリーブの枝は嘴から足の爪に移された。また「アポロXI」のような[[ローマ数字]]による表記は一部の国の人々には分かりづらいだろうという意見も出たため、計画名は「アポロ11」と[[アラビア数字]]で表記することに決定された。また飛行士たちは、「計画の徽章は月面着陸のために働いたすべての人々のものである」として、自らの名前を記入することは控えた<ref>徽章内には宇宙飛行士名を入れるのが以前からの通例となっており、これはその後のアポロや[[スカイラブ計画|スカイラブ]]・[[スペースシャトル計画|スペースシャトル]]計画等でも行われているため異例の措置となった。</ref>。前述のように着陸船は徽章に合わせてイーグルと命名され、数年後にアイゼンハワーの1[[ドル]]硬貨が再発行されたときには、コインの裏側にこの図案が起用された。[[1979年]]、11号の飛行から10周年を記念して発行されたスーザン・B・アンソニー1ドル硬貨でも、この徽章が使用された。
File:Ap11-KSC-69PC-241HR.jpg|[[スペースシャトル組立棟|ロケット組立棟]]から発射台へ向かうサターンV AS-505
File:Apollo 11 Earth.jpg|飛行3日目にアポロ11号から見た地球
File:Apollo 11 Landing - first steps on the moon.ogv|月面を踏む前に月の表面の様子について説明するニール・アームストロング
File:Land on the Moon 7 21 1969-repair.jpg|1969年7月21日付の[[ワシントン・ポスト]]紙。「イーグル 着陸す」「二人の男 月面を歩く」の見出しが躍る。
</gallery>


== 注釈 ==
== LROから撮影されたアポロ11号の着陸地点 ==
{{Notelist2}}
月周回衛星[[LRO]]によってアポロ11号の着陸地点が撮影され、月着陸船や、月面に設置した機器等が撮影され、[[2012年]]3月に公開された[http://lroc.sese.asu.edu/news/index.php?/archives/531-A-Stark-Beauty-All-Its-Own.html#extended 写真はこちら]。


== 出典 ==
{{Reflist|2}}
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== 脚注 ==
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* {{cite book |和書 |last=Bizony |first=Piers |others=[[日暮雅通]](訳) |year=2009 |title=アポロ11号 月面着陸から現代へ |publisher=[[河出書房新社]] |isbn=978-4-309-25228-5 |ref=harv }}
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== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
{{commonscat}}
{{commonscat}}
{{ウィキポータルリンク|宇宙開発}}
* [http://www.apollomaniacs.com/apollo/ Apollo Maniacs(アポロ・マニアックス)]
* {{en icon}}[https://www.nasa.gov/mission_pages/apollo/apollo-11.html Apollo 11] - NASAホームページ上のミッション紹介。
* [http://life.time.com/history/apollo-11-to-the-moon-and-back-life-covers-the-1969-lunar-landing/?iid=lb-gal-viewagn#1 'TO THE MOON AND BACK': LIFE COVERS THE APOLLO 11 MISSION] - LIFE magazine Special Edition, August 11, 1969. - ''LIFE.TIME.com''([[ライフ (雑誌)|ライフ]]画像アーカイブ)
* {{en icon}}[https://history.nasa.gov/afj/ap11fj/index.html The Apollo 11 Flight Journal] - 「生きた文書」として更新が続けられている、NASA本部の歴史課が公開している詳細な飛行記録。
* {{en icon}}[https://history.nasa.gov/alsj/ The Apollo Lunar Surface Journal] - 上に同じく歴史課が公開している、アポロ11号を含むアポロ有人月面活動の記録。
* [https://amview.japan.usembassy.gov/account-of-apollo-11-lunar-landing-mission/ アポロ11号月面着陸ミッションの記録] - アメリカン・ビュー(駐日アメリカ大使館公式マガジン)
* [http://spaceinfo.jaxa.jp/ja/apollo_11.html アポロ11号] - JAXA宇宙情報センターの項目
* [https://www.apollomaniacs.com/apollo/ Apollo Maniacs(アポロ マニアックス)] - アポロに関する情報が豊富な個人ウェブサイト


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2018年9月7日 (金) 22:15時点における版

アポロ11号
月面での船外活動中に立てた星条旗に敬礼するバズ・オルドリン
任務種別有人月面着陸
運用者NASA
COSPAR ID
  • CSM: 1969-059A
  • LM: 1969-059C
SATCAT №
  • CSM: 4039
  • LM: 4041
任務期間8日と3時間18分35秒
特性
宇宙機
製造者
打ち上げ時重量100,756ポンド (45,702 kg)
着陸時重量10,873ポンド (4,932 kg)
乗員
乗員数3名
乗員
コールサイン
任務開始
打ち上げ日1969年7月16日13:32:00 (UTC) (1969-07-16T13:32:00Z)
ロケットサターンV SA-506
打上げ場所ケネディ宇宙センター LC-39A
任務終了
回収担当USS Hornet
着陸日1969年7月24日16時50分35秒 (UTC) (1969-7-24T16:50:35Z)[1]
着陸地点北太平洋
北緯13度19分 西経169度9分 / 北緯13.317度 西経169.150度 / 13.317; -169.150 (アポロ11号着水地点)[1]
軌道特性
参照座標月周回軌道
近点高度100.9 kilometers (54.5 nmi)[2]
遠点高度122.4 kilometers (66.1 nmi)[2]
傾斜角1.25度[2]
軌道周期2時間[2]
元期1969年7月19日21:44 UTC[2]
月オービター
宇宙船搭載構成物 司令・機械船
軌道投入 1969年7月19日17:21:50 UTC[3]
軌道脱出 1969年7月22日04:55:42 UTC[3]
軌道周回数 30
月着陸船
宇宙船搭載構成物 月着陸船
着陸 1969年7月20日20:17:40 UTC[4]
帰還 1969年7月21日17:54 UTC
着陸地点 静かの海
北緯0度40分27秒 東経23度28分23秒 / 北緯0.67408度 東経23.47297度 / 0.67408; 23.47297[5]
標本採集量 21.55キログラム (47.51 lb)
船外活動回数 1
船外活動時間 2時間31分40秒
月着陸船のドッキング(捕捉)
ドッキング(捕捉)日 1969年7月16日16:56:03 UTC[3]
分離日 1969年7月20日17:44:00 UTC[3]
月着陸船上段ロケットのドッキング(捕捉)
ドッキング(捕捉)日 1969年7月21日21:35:00 UTC[3]
分離日 1969年7月21日23:41:31 UTC[3]
周囲を青色と金色で縁取った円の内側に、地球を背景にして月の上で翼を広げながらオリーブの枝を掴んでいるワシを表した徽章。
ミッション徽章
ヘルメットを脱いで宇宙服を着用したまま、大きな月の写真の前に座る3名の宇宙飛行士。
左から:アームストロングコリンズオルドリン

アポロ11号は、史上初めて人類着陸させることに成功したアポロ宇宙船、及びそのミッション英語版の名称である。

概要

アポロ11号はNASAアポロ計画の5度目の有人ミッションとして、ニール・アームストロング船長、バズ・オルドリン操縦士、マイケル・コリンズ操縦士の3名の宇宙飛行士を乗せて、1969年7月16日の東部夏時間午前9時32分 (13:32 UTC=協定世界時) に、フロリダ州メリット島にあるケネディ宇宙センターからサターンV型ロケットで打ち上げられた。アポロ宇宙船は、次の3つの部分から成る。3人の宇宙飛行士が乗り込める船室を備え、唯一地球に帰還する部分である司令船 (CM) 、推進力、電力、酸素、水を供給して司令船を支援する機械船 (SM) 、月に着陸するための下降段と、月を離陸して月周回軌道まで宇宙飛行士を再び帰すための上昇段の二段式になっている月着陸船 (LM) である。

アポロ11号はサターンVの第三段の推力で月に向かい、途中で司令船をサターンVから切り離して着陸船とドッキングし、およそ3日半かけて月周回軌道に到達した。アームストロングとオルドリンは二段式の月着陸船「イーグル」に乗り移り、司令船「コロンビア」から分離した後、下降段ロケットの噴射で減速しつつ、7月20日20:17 (UTC) に月面の静かの海に「イーグル」を軟着陸させた。着陸から6時間余り後の7月21日02:56:15 (UTC) にアームストロングは月面に足を降ろし、約20分後にオルドリンがそこに加わった。こうして二人は人類として初めて月面に降り立った人物となった。二人は共に2時間15分ほど船外で過ごし、47.5ポンド (21.5 kg)の月物質を地球に持ち帰るために採集した。コリンズは司令船「コロンビア」に一人残り、二人が月面にいる間、月周回軌道上で司令船を操縦する傍ら、月面の写真撮影を行なった。アームストロングとオルドリンは21時間半を月面で過ごした後、「イーグル」上昇段を離陸させ、月周回軌道上にて司令船「コロンビア」と再ドッキングし、コリンズと合流した。「イーグル」を投棄した後、宇宙飛行士たちは司令船を地球へ帰還する軌道に乗せる操作を行い、ロケットを噴射して月軌道を離脱した。三人は8日間以上の宇宙飛行を終えて、7月24日に地球に帰還し、太平洋に着水した。

月への着陸の様子は世界中に向けてテレビジョン放送で生中継された。アームストロングは月面に足を降ろし、この出来事について「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」と述べた。アポロ11号は実質的に宇宙競争を終わらせ、アメリカ合衆国は、1961年に故ジョン・F・ケネディ大統領が掲げた「この60年代の終わりまでに人間を月に着陸させ、安全に地球に帰還させる」という国家目標を見事に達成した[6]

枠組み

搭乗員

地位 宇宙飛行士
船長 ニール・A・アームストロング
最後にして2回目の宇宙飛行
司令船操縦士 マイケル・コリンズ
最後にして2回目の宇宙飛行
月着陸船操縦士 エドウィン・E・オルドリンJr.
最後にして2回目の宇宙飛行

ニール・アームストロングを船長に、ジム・ラヴェルを司令船操縦士 (CMP) に、バズ・オルドリンを月着陸船操縦士 (LMP) に、それぞれ割り当てることが公式に発表されたのは1967年11月20日のことだった[7]。搭乗員全員がいずれも過去に宇宙飛行を経験したことのあるベテラン飛行士で編成されたのは、アメリカの宇宙開発史上、アポロ10号に次いで[8]これが2度目のことだった[9]。以後、全員がベテラン飛行士で編成される3度目の機会は、1988年のSTS-26まで訪れることはなかった[9]。ラヴェルとオルドリンは以前、ジェミニ12号の搭乗員として一緒に飛行したことがあった。この搭乗員は当初、アポロ9号の予備搭乗員として編成されたが、月着陸船 (LM) の設計と製造に遅れが生じたため、アポロ8号とアポロ9号は搭乗員および予備搭乗員が交換され、アームストロング船長率いる搭乗員はアポロ8号の予備搭乗員になった。通常の搭乗員ローテーション計画に基づけば、アームストロングは当時アポロ11号の船長になることが予想されていたが[10]、一人変更されることになった。アポロ8号に乗り組む予定だったマイケル・コリンズが両脚に故障を抱え始めたためである。医師らは、問題は5番目と6番目の椎骨間の骨の成長にあるとみられ、外科手術を要すると診断した[11]。このため、ラヴェルがコリンズに代わってアポロ8号の搭乗員になり、コリンズが故障から回復すると、コリンズは司令船操縦士としてアームストロング船長以下の搭乗員に加わった。その間、フレッド・ヘイズが月着陸船操縦士として、オルドリンが司令船操縦士として、それぞれアポロ8号の予備搭乗員を務めた[12]

予備搭乗員

地位 宇宙飛行士
船長 ジェームズ・A・ラヴェルJr.
司令船操縦士 ウィリアム・A・アンダース
月着陸船操縦士 フレッド・W・ヘイズJr.

予備搭乗員の構成は、ラヴェルが船長、アンダースが司令船操縦士、ヘイズが月着陸船操縦士だった。このうち、アンダースとラヴェルはアポロ8号で一緒に飛行したことがあった[9]。ところが、1969年前半にアンダースは同年8月に実施される国家航空宇宙会議英語版との仕事を引き受け、その日に宇宙飛行士を引退することを発表した。その時点で、万が一アポロ11号が予定されていた7月の打ち上げより遅れてアンダースを任用できなくなった場合に備えて、ケン・マッティングリーを地上支援員から異動させ、予備の司令船操縦士としてアンダースと並行して訓練を受けさせることにした。ラヴェル、ヘイズ、マッティングリーの3名は最終的にアポロ13号の搭乗員として配属されることになった[13]

地上支援員

飛行管制主任

コールサイン

月着陸船「イーグル」から撮影した月周回軌道上のアポロ11号司令・機械船「コロンビア」

アポロ10号の搭乗員が自分たちの搭乗するアポロ宇宙船を「チャーリー・ブラウン (Charlie Brown)」および「スヌーピー (Snoopy)」(共に漫画『ピーナッツ』のキャラクターに因む)と名付けた後で、広報担当のジュリアン・シアーは当時有人宇宙船センター長だったジョージ・ロウ英語版に、アポロ11号の搭乗員が自分たちのアポロ宇宙船を命名する際はもう少し真面目な名前をつけてもらえないだろうかと提案する書簡を送った。NASAの計画の初期段階において、アポロ11号の司令船は「スノーコーン (Snowcone)」(かき氷)、同じく着陸船は「ヘイスタック (Haystack)」(干し草積み)という暗号名で呼ばれており、その報道発表で使用されていた[14]

その後、司令船は「コロンビア (Columbia)」と命名され、その由来はアメリカを象徴的に擬人化した伝統的な女性名「コロンビア」で、ジュール・ヴェルヌの1865年発表の小説『地球から月へ』に登場する、(アポロと同様にフロリダから)宇宙船を発射するための巨大な大砲「コロンビアード」にも因んでいる。月着陸船は、アメリカの国鳥であるハクトウワシをミッションの徽章の主役として起用することが決定された後、「イーグル (Eagle)」と命名された[15]

徽章

アポロ11号と共に宇宙を飛行した銀のロビンス・メダル英語版

アポロ11号のミッション徽章英語版はコリンズが「アメリカ合衆国による平和的な月面着陸」を象徴することを願ってデザインした(ページ上部参照)。ラヴェルの提案で、コリンズはワシを象徴に選んだ上で、遠くに地球を望みながら月を背景にして、嘴(くちばし)に平和の象徴であるオリーブの枝をくわえたワシを描いた。写実的に見れば、この画の中の日光は差してくる方向が正しくないし、地球の影も左ではなくもっと下の方に描かれるべきだった。NASAの役人たちには、このワシの鉤爪は(そのままでは)あまりに戦闘的すぎると見えたようで、かなりの議論があった後、オリーブの枝を嘴から足の爪に移すことで巧みに爪を隠した。アームストロングは "eleven" の表記では非英語話者には理解しにくいであろうことを懸念したので、"Apollo 11" とアラビア数字表記になった[16]。また、アポロ11号の搭乗員たちは自分たちの名前を徽章に記載しないことに決め[注 1]、徽章は「月面着陸に向けて働いた“みんな”を代表する」ものとなった[17]。使われたすべての色は自然に由来する色で、徽章は青色と金色で円周を縁取られた[要出典]。前述のように着陸船は徽章に合わせて「イーグル」と命名された。

1971年にアイゼンハワーの1ドル硬貨が発行されたときには、硬貨の裏面にこの図案のワシが使用された[18]。アポロ11号のミッションから10年後にあたる1979年に発行された小さなアンソニーの1ドル硬貨でも、この徽章の図案が使用された[19]

記念品

ニール・アームストロングは、自身の個人的な記念品である、ライト兄弟の1903年の飛行機の左のプロペラから取った木片と、その翼から取った布切れ[20]、そして当初ドナルド・スレイトンアポロ1号の搭乗員の未亡人たちからもらった、ダイヤモンドが散りばめられた宇宙飛行士の階級章英語版を月に持って行った。この階級章はアポロ1号で飛行し、ミッション後にスレイトンに与えられるはずだったが、発射台での悲惨な火災事故と後に続く葬儀を受けて、未亡人たちがスレイトンに渡したもので、アームストロングはそれを持ってアポロ11号に乗船した[21]

ミッションのハイライト

打ち上げと月軌道までの飛行

アポロ11号を搭載したサターンVが発射塔のカメラの前を通過する様子
地球周回軌道を脱出(月遷移軌道への投入)直後のアポロ11号から見た地球
打ち上げのエンジン点火時のビデオテープ映像 (500 fps)

「打ち上げ当日は、発射場近くの幹線道路や海岸に群がる見物客ばかりでなく、数百万の人々がテレビジョンでこの光景をじっと見守っていた」と、NASAの主任広報官だったジャック・キング英語版はコメントしている。リチャード・M・ニクソン大統領もホワイトハウスフランク・ボーマンと共に事の進行を見ていた[22]

1969年7月16日13:32:00 UTC(現地時間午前9時32分00秒)、サターンV型ロケットはアポロ11号を搭載して、ケネディ宇宙センター第39発射施設内にある39A発射台から打ち上げられた。サターンVは12分後には、高度98.9海里 (183.2 km)から100.4海里 (185.9 km)の辺りで、地球を周回する軌道に入った。地球を一周半した後、ロケットの第三段 (S-IVB) を点火、16:22:13 (UTC) に月遷移投入 (Trans-lunar injection, TLI) のためにエンジンを噴射して宇宙船を推進し、月へと向かう軌道に乗せた。約30分後、使い切ったロケットの第三段からアポロ司令・機械船 (CSM) が切り離され、180度反転して、第三段に取り付けられている月着陸船とドッキングした。月着陸船が抽出された後で、合体した宇宙船は月に向かう針路をとる一方、他方の第三段は月を通過する弾道を描くように飛行して太陽を周回する軌道に入った[3]

7月19日17:21:50 (UTC) にアポロ11号は月の裏側を通過して機械船の推進エンジンを点火し、月周回軌道に乗った。その後、月を30周するうち[23]、飛行士たちは静かの海南部のサビンD英語版クレーター (0.67408N, 23.47297E) から南西に約12マイル (19 km)の辺りに位置する着陸地点の過ぎ行く景色を目にした。この着陸地点はある程度予め選定されていたのだが、それは無人探査機レインジャー8号サーベイヤー5号による先行調査や、月周回衛星ルナ・オービターが撮影した月面写真により、その比較的平坦で滑らかな地形が着陸や船外活動 (EVA) を行うのに支障がないと判断されたためであった[24]

月への降下

司令船「コロンビア」から分離直後に撮影された着陸船「イーグル」
月へ降下中のアポロ11号と交信するCAPCOMのチャールズ・デュークと、予備操縦士のジェームズ・ラヴェルおよびフレッド・ヘイズ

1969年7月20日、月着陸船「イーグル」が司令船「コロンビア」から切り離された。「コロンビア」に一人残ったコリンズは、機体をゆっくりと回転させる着陸船「イーグル」に損傷がないことを目視にて確認した。

エンジンを点火し、降下を開始してしばらく経ってから、アームストロングとオルドリンは月面上の目標地点を通り過ぎるのが4秒ほど早いことに気づき、彼らは「このままでは飛びすぎてしまう」と報告した。これはすなわち、予定していた着陸目標よりも数マイル西の地点に着陸してしまうことを示していた。

降下のためのエンジン燃焼に入る5分前、月面から高度6,000フィート (1,800 m)で、着陸船の航法・誘導コンピュータが予期しない警報 "1202" と "1201" を発した[25]。その時、テキサス州ヒューストンのミッションコントロールセンター英語版内にいたコンピュータ技師のジャック・ガーマン英語版は、誘導管制主任のスティーブ・ベイルズ英語版にこのまま降下を続けても安全であることを告げ、このことは直ちに飛行士たちにも伝えられた。これらの警報は「実行オーバーフロー ("executive overflows")」を表示し、誘導コンピュータがその全てのタスクの処理をリアルタイムで完了できず、そのうちのいくつかを遅延させなければならない状態にあることを意味していた[26]。着陸の際、司令船とのランデブー用のレーダーは必要ではなくなるが、万が一着陸を中止して緊急脱出する事態に備えて、スイッチがオンになっていた。そのため、コンピュータには高度測定用レーダーからのものとランデブー用レーダーからのものの2系統のデータが同時に入ってきてしまい、演算処理が追いつかなくなったのである。

チェックリストのマニュアルに誤りがあったため、ランデブーレーダーのスイッチが間違った場所に置かれていました。これによって、誤った信号がコンピュータに送信されたのです。その結果、コンピュータは、その時間の15%を費やす余分な負荷となるスプリアスデータを受信しつつ、着陸のためのすべての通常の機能を実行するように求められていました。コンピュータ(というより、その中に入っているソフトウェア)は、十分に賢かったので、実行しなければならない命令以上に多くのことを頼まれているということを認識していました。それで、宇宙飛行士に分かるように警告を発して「今しなければならないこと以上に多くの命令が入ってきて手が回らない。だから遂行するのは重要な命令だけにするよ」と知らせました。すなわち、着陸に必要な命令を……。実際、コンピュータはエラー状態を認識する以上のことをするようにプログラムされていました。ソフトウェアには回復プログラム一式が組み込まれていたのです。ソフトウェアの動作としては、この場合、優先度の低い仕事を除外して、重要なものを再構築することでした。……もしコンピュータがこの問題を認識できずに回復動作をとらなかったら、アポロ11号の月への着陸が上手くいったかどうか、疑わしいと思います。[27][注 2]
マーガレット・H・ハミルトン (Director of Apollo Flight Computer Programming MIT Draper Laboratory, Cambridge, Massachusetts) [31]からの手紙、"Computer Got Loaded" の題で、1971年3月1日刊『Datamation英語版』誌上にて発表。

着陸

1969年7月20日、月面に着陸。
月面上のアポロ11号の着陸地点(中央付近)を示した画像
静かの海 (Sea of Tranquility) 上のアポロ11号の着陸地点 (Landing)
LROから撮影された写真とステレオ画像数値標高モデルを用いて三次元画像化されたアポロ11号の着陸地点

アームストロングが再び窓の外に目をやると、コンピュータがはじき出した着陸目標が、直径300-メートル (980 ft)ほどもあるクレーター[注 3]のすぐ北と東の大きな岩がいくつも転がっている地帯にあるのが見えた。アームストロングは操縦を半自動に切り替え[32]、オルドリンに高度と速度のデータを読み上げてもらいながら、およそ25秒分の燃料を残して、7月20日日曜日20:17:40 (UTC) に月面に着陸した[4]

アポロ11号は他のミッションよりも少ない残燃料量で着陸し、飛行士たちはかなり早い段階から燃料残量警告表示に直面することになった。これは後に、燃料タンク内で推進剤が想定以上に大きく揺れ動き(スロッシング)、燃料計の値が実際よりも少なく表示されていた結果であることが分かった。そのため、次回以降のミッションでは、これを抑える抑流板がタンク内に追加設置されることになった[4]

降下している間、オルドリンはずっと、着陸船の操縦で多忙なアームストロングの横で、航法データを読み上げ続けた。着陸の直前、「イーグル」の脚部から垂れ下がっていた、長さ67-インチ (170 cm)の探針のうちの少なくとも1本が月面に接地したことを示すライトが点灯した。それを知ったオルドリンは「接触灯点灯! ("Contact Light!")」と言葉を発して、3秒後に「イーグル」が着陸し、アームストロングは「停止を確認。 ("Shutdown.")」と言った。すぐにオルドリンは「オーケー、エンジン停止。ACA (Attitude Controller Assembly) 解放。 ("Okay, engine stop. ACA – out of detent.")」と確認した。アームストロングは「ACA解放了解。自動 ("Out of detent. Auto")」と復唱し、オルドリンは「モードコントロール、両自動。降下用エンジン指令すべて停止。エンジンアーム、オフ。413イン。 ("Mode control – both auto. Descent engine command override off. Engine arm – off. 413 is in.")」と続けた。

着陸段階にあった間、CAPCOM(通信担当官)だったチャールズ・デュークは「イーグル、君たちの着陸を確認した。 ("We copy you down, Eagle.")」と応えて、彼らの着陸を承認した。

アームストロングは、オルドリンが「エンジンアーム、オフ。 ("Engine arm is off")」と言って、着陸後のチェックリストを付ける作業が一通り完了したのを確認すると、デュークに「ヒューストン、こちら静かの基地。イーグルは舞い降りた。 ("Houston, Tranquility Base here. The Eagle has landed.")」[33]と応答した。アームストロングがコールサインを「イーグル」から、予行演習にはなかった[34]「静かの基地 (Tranquility Base)」に変更したことで、着陸が完全に成功したことが強調され、聴取者たちに伝えられた。それを聞いたデュークは、ミッション管制センターで安堵の気持ちを表し、それに応答する際に「了解、しず……静か、月面上の君たちを確認した。君らのおかげで沢山の奴らが真っ青になっているよ。これでやっと一息つける。どうもありがとう。 ("Roger, Twan— Tranquility, we copy you on the ground. You got a bunch of guys about to turn blue. We're breathing again. Thanks a lot.")」[4][35]と一瞬、言い淀んだ。

着陸から2時間半後、船外活動の準備を始める前に、オルドリンは次のように地球に無線連絡した。

こちらは月着陸船操縦士です。この機会を借りて、私はこの放送を聞いている人々に対し、誰であろうと、またどこにいようと、しばらくの間手を止めて、この数時間に起こったできごとについて熟慮し、それぞれの方法で感謝をしてほしいと願います。[36]

そのあと彼は、私的に聖餐式を行なった。この当時NASAは、アポロ8号の宇宙飛行士が月を周回中に聖書の創世記の一節を朗読したこと英語版に反対していた無神論者マダリン・マレー・オヘア英語版と目下係争中であり、オヘアはNASAに対し、「宇宙飛行士は、宇宙にいる間は宗教的活動を放送することを控えるべきだ」と要求していた。それゆえ、オルドリンは月で聖餐式を行うことに直接言及することを差し控える選択をした。オルドリンはテキサス州ウェブスター英語版にある長老派教会の長老で、聖餐用具は同教会の牧師であるディーン・ウッドラフ師が用意していた。オルドリンは月での聖餐式と教会及び牧師を巻き込んだことについて、『ガイドポスツ』誌の1970年10月号と自叙伝『地球への帰還』(原題:"Return to Earth")の中で説明している。ウェブスターの長老派教会は、このとき月で使用された聖餐杯を所有しており、毎年7月20日に最も近い日曜日を「月の晩餐の日」として記念行事を行なっている[37]

この任務のスケジュールでは、宇宙飛行士たちが朝早くから起きていたことに表れているように、5時間の睡眠時間で着陸を履行することが求められていた。しかし、飛行士たちは睡眠時間を割愛することに決め、早期に船外活動の準備を始め、睡眠することはできないだろうと考えていた。

月面での活動

着陸船に搭載された低速度走査テレビカメラがとらえた、月面に下りるはしごを下るアームストロング
月面上のオルドリンが撮影した、着陸船近くのアームストロングの写真。月面滞在中はほとんどアームストロングがカメラを持っていたので、月面上のアームストロング自身の姿が写ったものとしては、数少ない写真の一つ。

飛行士たちは、まず60度の視界がある着陸船の2つの三角窓から外の様子をよく観察し、初期アポロ科学実験装置群 (Early Apollo Scientific Experiment Package, EASEP) と呼ばれる科学観測機器[38]星条旗(アメリカ国旗)をどこに設置するか計画を立てた。船外活動の準備は予定よりも2時間余計にかかってしまった。アームストロングは船外活動用の生命維持装置英語版 (PLSS) を身に着けたまま最初にハッチを通り抜けようとする際に大変な苦労を要した。2度の月飛行を経験したベテランのジョン・ヤング飛行士によると、着陸船のハッチは開発の途中で再設計されてサイズが小さく変更されていたのだが、宇宙服の背面に装備される生命維持装置の再設計にはそれが反映されていなかったため、アポロ宇宙飛行士たちの心拍数は月着陸船のハッチを出入りする時に最高値を記録することがよくあったそうである[39][40]

初期のミッション日程表では、最初に月に降り立つ人物として、ニール・アームストロングではなくバズ・オルドリンを挙げている書籍も複数ある[41]

1969年7月21日月曜日02:39 (UTC) に、アームストロングはハッチを開け、02:51 (UTC) に月面へと降り始めた。胸の位置にある遠隔操作ユニット (Remote Control Unit) のせいで、アームストロングは自分の足元が見えなかった。9段のはしごを降りながら、アームストロングはDの字型のリングを引いて、「イーグル」の側面に折り畳まれていたモジュール装置積込アセンブリ (Modular Equipment Stowage Assembly, MESA) を展開してテレビカメラを起動した後、02:56:15 (UTC) にアームストロングは左足を月面に下ろした[42][43]。一歩目の着地は低速度走査テレビジョンに映し出されたが、この映像はテレビ中継の際に使用される商用のテレビジョン規格と互換性がなかった。そのため、一度特殊なモニタに映像を表示させておき、そのモニタの映像を従来型のテレビカメラで撮影することで本放送されたのだが、その画質は著しく低減されることとなった[44]。信号はアメリカのゴールドストーンで受信されていたが、オーストラリアのハニーサックル・クリーク追跡基地英語版が受信した信号のほうが忠実度が高くて鮮明だった。数分後、通信の中継基地は感度が良好なオーストラリアのパークス電波望遠鏡に切り替えられた[45]。幾多の技術的困難と天候不順を乗り越え、月面からの史上初の船外活動をとらえた、ぼんやりとした白黒の映像が地球上で受信され、世界中の少なくとも6億人以上の人々がテレビ放送を通してこの映像を見ていたといわれている[46]。この放送形式のビデオの複製物は保存されており、広く入手することが可能だが、低速度走査テレビカメラで撮影されて月から伝送された元の高画質の録画映像英語版は、NASAの日常業務で磁気テープを繰り返し利用しているうちに誤って破損されてしまった。

着陸船「イーグル」のはしごに残された銘板

アームストロングは、はしごに掛けたまま、着陸船下降段に載せられていた、(西半球と東半球の)2つの地球の図と銘刻、及び3名の宇宙飛行士とニクソン大統領の署名が描かれている銘板英語版を除幕した。銘板には次の文章が刻印されていた。

Here men from the planet Earth first set foot upon the Moon, July 1969 A.D. We came in peace for all mankind.(西暦紀元1969年7月、惑星地球より来る我ら、ここに月面への第一歩をしるす。我ら全人類を代表して平和に来る。)

月面の塵について「とてもきめの細かい (very fine-grained)」「ほとんど粉のよう (almost like a powder)」と説明した後[43]、着陸から6時間半が経とうとした頃に[3]、アームストロングは「イーグル」の脚の上に降り立ち、次のように宣言した。

これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である。 ("That's one small step for [a] man, one giant leap for mankind.")[注 4][47][48][49][50]

アームストロングは「一人の男にとっては小さな一歩 ("That's one small step for a man")」と言うつもりでいたが、通信音声では "a" という単語は聞き取りにくく、最初、単語 "a" は生放送を見ていた大多数の人には伝えられていなかった。後にこの名文句について尋ねられたとき、アームストロングは「一人の男にとっては ("for a man")」と言ったと思っていたと述べており、後年発行されたこの句の活字版には、角括弧付きで "a" が含まれていた。ある解釈では、 "a" は欠落していたと主張され、彼は訛りによって "for a" の2単語を連続して不明瞭に発音したのだと説明されている。別の解釈では、パークス天文台付近の嵐をその一因とする、地球に繋いだ映像と音声の断続的性質で "a" の欠落を説明している。より最近のテープ音声のデジタル解析では、 "a" は発言されたかもしれないが、空電[注 5]のせいでよく聞き取れなかったことが明らかになったと主張されている[51][52]

月面に足を踏み入れて7分後、アームストロングは細長い棒で土壌サンプルを採取して試料袋に詰め、袋を畳み、右腿のポケットに押し込んだ。これは、万が一緊急時に飛行士たちが船外活動を断念して着陸船に戻らなければならなくなった場合でも、多少なりとも月の土壌を地球に持ち帰れるよう保証するための作戦行動だった[53]

土壌サンプルの採取が完了して12分後[3]、オルドリンはアームストロングに続いて月に降り立ち、月面の風景について、簡潔な言い方で「荘厳な荒涼 ("Magnificent desolation")」と表現した[43]

アームストロングが撮影したオルドリン。ヘルメットにはアームストロング自身の姿が映っている。

アポロ11号は、1960年代の終わりまでに人間を月に着陸させるというケネディ大統領の指令を達成したばかりでなく[54]、アポロシステムの工学技術試験でもあった。そのため、技師たちはアームストロングが撮った月着陸船のスナップ写真からその着陸後の状態を判断することが可能だった。アームストロングはMESA(着陸船の脚部)からテレビカメラを取り外して月面のパノラマ映像を撮影し、着陸船から68フィート (21 m)離れたところに設置した三脚の上にカメラを載せた。テレビカメラのケーブルには一部に巻きつけられていたときの癖が残っていたため、船外活動中はずっと、その曲がりくねった所に足を引っかけてつまづくおそれがあった。

アームストロングは、地球の6分の1しかない月の重力の中を移動するのは「ひょっとしたら模擬訓練よりもよほど楽かもしれない……歩き回るのに何の苦労もない。 ("even perhaps easier than the simulations ... It's absolutely no trouble to walk around.")」と言った[43]。そこにオルドリンも参加して、両足で踏み切る「カンガルー・ジャンプ」など、様々な歩行法を試みた。すると、背中に生命維持装置を背負っているために上体が後ろに反る傾向はあるものの、バランスを取るには大した問題もなく、慣れてくると、むしろ大股で歩くのがよいことが分かった。ただし、移動する際は常に六、七歩先のことを予想して歩く必要があったり、粒の細かい土の部分はかなり滑りやすかったりしたので、注意を要した。また、太陽の照っている所から着陸船の影に入ったときには、宇宙服の中の温度は全く変化がなかったが、ヘルメットの内部では明白な温度差が感じられたとオルドリンは報告した[43]

飛行士たちは特別にデザインされた星条旗英語版をテレビカメラにはっきりと写る所に立てた。しばらくすると突然、電話無線伝送を通じてリチャード・ニクソン大統領が飛行士たちに話しかけてきた。後にニクソンはこの交信を「かつてホワイトハウスからかけられた電話の中で最も歴史的な通話 ("the most historic phone call ever made from the White House.")」と呼んだ[55]。ニクソンは当初、通話中に読み上げる長い演説文を用意していたが、当時NASAの連絡担当官でホワイトハウスにいたフランク・ボーマンは、故ケネディ大統領の遺産である月面着陸に敬意を表しつつも、飛行士たちのスケジュールがぎっしりと詰まっていることを大統領に説明し、通話を手短に済ませるよう説得した[注 6]。アームストロングは大統領に謝辞を伝えた上で、この一瞬の重大さに簡潔に反応して次のような会話を交わした。

月に滞在中のアームストロングおよびオルドリン両飛行士と話すニクソン大統領

ニクソン: こんにちは、ニールとバズ。私はホワイトハウスの執務室から電話で君たちに話しかけています。そして、これはきっとこれまでにかけられた電話の中で最も歴史的な通話になるでしょう。君たちの成し遂げたことがどれほど国民皆の誇りに思うことか、ただ伝えずにはいられません。すべてのアメリカ人にとって、今日は生涯で最も誇るべき日となることでしょう。そして、世界中の人々もアメリカ人とともに、これが何と素晴らしい偉業であることかを認めるだろうと私は確信しています。君たちが成し遂げたことで、天上は人間世界の一部になりました。そして、君たちが静かの海から私たちに呼びかけてくれたことで、私たちは励まされ、地球に平和と静寂をもたらすための努力を倍加します。全人類史の中でかけがえのないこの一瞬に、この地球上のすべての人々は真に一つです。君たちが成し遂げたことに対する誇りと、そして君たちが無事に地球に帰還するようにとの祈りとで、私たちは一つです。

アームストロング: ありがとうございます、大統領閣下。アメリカ合衆国のみならず、平和を愛するすべての国の人々を代表して、興味と好奇心、未来への展望を持って、私たちがここにいることは誠に光栄かつ名誉なことです。私たちが今日ここに与ることができて光栄に存じます。

月のレゴリスを試験する実験の一環で付けられたオルドリンの靴跡

MESAは安定した作業プラットフォームを提供することができず、飛行士は着陸船の影で活動することを余儀なくされたため、作業はいくぶん遅れることになった。作業しているうち、月面を歩行して灰色の塵を巻き上げ、宇宙服の外皮 (Integrated Thermal Meteoroid Garment, ITMG) を汚してしまった。

飛行士たちは、受動月震計月測距再帰反射器 (Lunar Ranging Retroreflector, LRRR) を含めた、科学観測機器 (EASEP) を展開した。その際、オルドリンが2本の試料採取用のコアチューブを集めている間に、アームストロングは着陸船から196フィート (60 m)歩いて、リトル・ウェスト・クレーター英語版の周縁部でスナップ写真を撮った。アームストロングは岩石ハンマーを使用してそれらのチューブを打ったのだが、アポロ11号でハンマーが使われたのはこの時だけである。そして、飛行士たちはスコップや伸張式の鋏を使って岩石試料を採集した。月面での活動の多くは想定よりも長引いたため、彼らは割り当てられていた34分間の活動時間の中頃で、採集した試料について文書に記載する手を止めなくてはならなかった。

着陸場所と写真の撮影場所を示した地図

この時に飛行士たちが採集した岩石試料からは、新種の鉱物としてアーマルコライトトランキリティアイトパイロクスフェロアイト英語版の3種が発見された。このうち、アーマルコライト (Armalcolite) はアームストロング (Arm)、オルドリン (al)、コリンズ (col) の3名の宇宙飛行士の名に因んでいる。

月面で活動している間、ミッション管制センターは、アームストロングの代謝率がやや高めだったので、少しペースを落とすように伝えていた。彼は時間内に任務をやり遂げようとして、あまりにも急ピッチに仕事をこなしていた。しかし、月面を歩行している間は二人の飛行士の代謝率は予想されていた値よりも低かったため、管制センターは両飛行士に15分間の活動延長を許可した[56]。2010年のインタビューで、着陸船から最大で196フィート (60 m)歩いたアームストロングは、当時NASAが最初の月面歩行の時間と距離に制限をかけていたことを明かした。その理由は、月面で作業する間に飛行士たちの発する熱を下げるために、背中に備えられた生命維持装置がどの程度の量の冷却水を消費するかについて、経験に基づく裏付けが取れていなかったことによるものだった[57]

月面からの上昇と帰還

受動月震実験装置群(写真中央)の隣に立つオルドリン(同左)と「イーグル」(同右)

予定されていた月面での活動をすべて消化すると、まずオルドリンが先に着陸船「イーグル」に戻った。採集した岩石や撮影したフィルムなどを収めた箱は重量が21.55キログラム (47.5 lb)に上り、月面機材運搬機 (Lunar Equipment Conveyor) と呼ばれるフラットケーブル滑車装置で引っぱり上げたが、ハッチから船内に入れるのには若干苦労した。アームストロングは宇宙服のポケットの袖に入っている記念品の袋を忘れないようにとオルドリンに念を押し、オルドリンは袋を放り投げた。それから、アームストロングははしごの3段目まで一気にジャンプして飛び乗り、はしごを上って船内に入った。船内の生命維持システムに移った後、月周回軌道まで帰るための着陸船上昇段の明かりをつけ、宇宙服の船外活動用生命維持装置、月面靴、ハッセルブラッド製カメラなど、不要になった機材を放り捨てると、ハッチを閉め、船内を与圧し、2人はようやく月面での初めての睡眠についた[58]

ニクソン大統領のスピーチライターだったウィリアム・セイファイア英語版は、最悪の事態として、万一アポロ11号の宇宙飛行士たちが月で遭難した場合を想定して、大統領がテレビ演説で読み上げる In Event of Moon Disaster (月で災難の場合)と題した追悼文を用意していた[59]。その不測の事態に対応するための計画は、セイファイアからニクソンの大統領首席補佐官だったH・R・ハルデマンに渡されたメモが発端だった。そのメモには、もしアポロ11号が不慮の事態に見舞われ、ニクソン政権がそれに対する反応を求められるかもしれなかった状況で、セイファイアが作成した追悼の言葉の原案が示されていた[60][61]。その計画によれば、ミッション管制センターが月着陸船との「交信を絶つ ("close down communications")」と、聖職者が海葬になぞらえた公的儀式で「彼らの魂を深い淵の底に委ね ("commend their souls to the deepest of the deep")」る手はずだった。用意された原稿の最後の一行では、ルパート・ブルックが第一次世界大戦期に詠んだ詩『兵士英語版』にそれとなく言及している[61]。また、宇宙飛行士たちの妻らに大統領が見舞いの電話を入れることも計画されていた。

オルドリンは船内で作業しているとき、月面から離陸するために使用する上昇用エンジンを作動させる回路ブレーカーのスイッチを誤って壊してしまった。このことで、船のエンジンの点火が妨げられ、彼らは月面に取り残されてしまう懸念があった。幸いにも、フェルトペンの先でスイッチを作動させることができたが[58]、もしもそれがうまくいかなければ、上昇用エンジンを点火するために着陸船の電気回路は構成し直されていたかもしれなかった。

およそ7時間の睡眠の後、アームストロングとオルドリンはヒューストンからの目覚ましによって起こされ、帰還飛行の準備を始めるよう指示された。2時間半後の17:54 (UTC)、「イーグル」は上昇段のエンジンを点火して月から離陸し、コリンズが乗っている月周回軌道上の司令船「コロンビア」を目指した。

21時間半以上を月面で過ごした2人は、月レーザー測距実験に使用される再帰反射器アレイや、月震の観測に使用される受動月震実験装置群などの科学観測機器を月面に残してきた。また、飛行士3人が火災事故で犠牲になったアポロ1号のミッションパッチや、古くから平和の象徴とされてきたオリーブの枝を模した金のレプリカ及び地球からのメッセージを収めたシリコンディスクを入れた記念袋も置いてきた。ディスクには、アメリカのアイゼンハワー、ケネディ、ジョンソン、ニクソンの歴代大統領及び世界73か国のリーダーたちの親善のメッセージ英語版が収録されているほか、アメリカ合衆国議会の代表者たち、NASAの設立に尽力した上下両院の4つの委員会のメンバー、及びNASAの歴代長官の名前の一覧も記録されている[62]。オルドリンは1989年に出版した自著『地球から来た男』(原題:Men from Earth[注 7])で、その中にはソビエト連邦の宇宙飛行士ウラジーミル・コマロフユーリイ・ガガーリンを記念したメダルも入っていたことを明かした。さらに、NASAの宇宙飛行士訓練担当官ドナルド・スレイトンの著書『ムーンショット』 (Moonshot) によると、アームストロングにダイヤモンドの入った特製の飛行士の階級章を月面に置いてくるよう託していたそうである。

司令船「コロンビア」に接近してくる「イーグル」の上昇段

離陸時に「イーグル」の上昇段から撮影された映像には、月面の下降段から25フィート (8 m)ほど離れた場所に立てられた星条旗が、上昇段エンジンの噴射で激しくはためく様子がとらえられていた。オルドリンはちょうど旗がぐらついて倒れるのを目撃し[3]、「上昇を始めた時、私はコンピュータの操作に集中し、ニールは姿勢指示器を注視していたが、旗が倒れるのを長い間見ていられた」と報告した[23]。このため、以後のアポロミッションでは、上昇段エンジンの噴射で吹き飛ばされることのないように、星条旗は着陸船から少なくとも100フィート (30 m)以上離れた場所に立てられることになった。

司令船「コロンビア」とのランデブーとドッキングに成功し、3人が再会した後、「イーグル」の上昇段は1969年7月21日23:41 (UTC) に月周回軌道上に投棄された。アポロ12号の飛行の直前には、「イーグル」は依然として軌道上に留まっているようであることが確認されたが、後に出されたNASAの報告書には、「イーグル」は軌道が次第に減衰した結果、月面の「不確かな場所」 ("uncertain location") に衝突したのだろうと記されている[63]。場所が不確かである理由は、「イーグル」上昇段は投棄された後に追跡されていなかったこと、そして月の重力場が十分に一様ではないために、少々時間を置いた後では宇宙船の軌道が予測不可能になってしまうことによる。NASAは「イーグル」の軌道は投棄から数か月以内に減衰し、月面に衝突したのだろうと推定している。

7月23日、着水前の最後の夜に、3名の宇宙飛行士はテレビ放送で次のようにコメントした。最初にコリンズが、

……我々を軌道に乗せたサターンV型ロケットは信じられないほど複雑な機械ですが、すべての部品は完璧に動作してくれました……我々は常に、この装備が正しく作動してくれることを確信していました。これはすべて、多くの人々が流した血と汗と涙によってのみ、可能になったことです……今皆様が目にしているのは私たち3人だけですが、水面下では何千、何万もの人たちによって支えられているのです。そして私は、それらすべての人々に申し上げたいです。『心からありがとう』と。

と述べ、続いてオルドリンが、

この飛行は、月に送られる使命を帯びた3人の男の奮闘以上に、政府と企業のチームの努力にとどまらず、さらには一国の努力さえも超えて、非常に大勢の方々のご尽力によって成し遂げられました。これは、未知なるものを探求する全人類の飽くなき好奇心を象徴しているのだと、私たちは感じています……個人的には、ここ数日のあの月での出来事を回想するとき、聖歌の一節が心に浮かんで参ります。『私はあなたの指の業なる天を見、あなたが設けられた月と星とを見て思います。人は何者なので、これを御心にとめられるのですか』

と加え、最後にアームストロングが、

この飛行に対して責任を担ってきたのは、まず第一に、この取り組みに先立つ科学の歴史とそれを築き上げてきた偉人たち、次いで、自らの意思を通じてこれを成し遂げたいという願いを表明したアメリカ国民、そして、国民の意思に従い、それを履行した4代にわたる政権と連邦議会、さらに、我々の宇宙船やサターンロケット、司令船コロンビア、着陸船イーグル、船外活動ユニット英語版、月面における小さな宇宙船とも言うべき宇宙服などを作り上げた政府機関や企業のチームなどです。我々は、この宇宙船を設計し、試験し、建造し、飛行させるために心血を注ぎ、持てる限りの能力を発揮してくれたすべてのアメリカ人に対し、特別の感謝を捧げたく存じます。我々は今夜それらの方々に対して特別の感謝の言葉を申し上げ、また、今夜この放送を見聞きしている人々に神の祝福があらんことを祈ります。アポロ11号より、おやすみなさい[23]

と結んだ。

地球への帰還に際して、グアムの追跡基地で装置の軸受が故障したことで、もしかすると地球帰還時の連絡に関して最後の一部分の受信が妨げられていた可能性があった。通常の修復作業では与えられた時間内に作業を終えるのは無理だったが、基地の主任だったチャールズ・フォースは、自身の10歳の息子グレッグに、軸受箱の中にその小さな手を入れてグリスを塗ってもらって急場をしのいだ。お手柄のグレッグは後にアームストロングから感謝された[64]

着水と検疫

洋上に浮かぶ「コロンビア」と飛行士たちの下船を助ける海軍のダイバーら
ホーネット艦上で生物隔離服に身を包む宇宙飛行士たち

7月24日、宇宙飛行士たちは司令船「コロンビア」に乗って地球に帰還し、太平洋のウェーク島の東方2,660 km (1,440 nmi)、ジョンストン環礁の南方380 km (210 nmi)、司令船と飛行士たちの回収任務を担う航空母艦ホーネットからの距離わずか24 km (13 nmi)の北緯13度19分 西経169度9分 / 北緯13.317度 西経169.150度 / 13.317; -169.150 (アポロ11号の着水地点)の海上に着水した[3][注 8]。現地時間のちょうど夜明け前 (16:51 UTC[3]) のことだった。そこはアメリカ領サモアヴァティア村英語版の近辺だった[65]。アポロ11号によって月に持ち込まれたアメリカ領サモアの旗は、アメリカ領サモアの首都パゴパゴにあるジーン・P・ヘイドン博物館英語版に展示されている[66]

16:44 (UTC) に減速用パラシュート英語版が開き、7分後に司令船は船体を力強く水面に叩きつけられた。着水時に司令船は上下逆さまに落下したが、浮力袋によって10分以内に立て直された。「すべて順調。チェックリストは完全だ。スイマーらを待つ。 ("Everything's okay. Our checklist is complete. Awaiting swimmers")」が、公式な通信記録に残る、アームストロングの「コロンビア」から最後に発した言葉だった。上空でホバリングする海軍のヘリコプターから下りてきたダイバーが、船が漂流することのないように、司令船に海錨を取り付けた。別のダイバーらは船を安定させるために司令船に浮揚環管を取り付け、宇宙飛行士たちを下船させるためのボートを船の横につけた。月面から病原体を持ち帰る可能性がわずかに懸念されたが、たとえわずかでも起こりうることだとして、NASAは念のため回収現場で慎重な予防措置を取った。ダイバーらは宇宙飛行士たちに、ホーネット艦上の隔離施設に到着するまでの間ずっと、生物隔離服 (Biological Isolation Garment, BIG) を着用させた。さらに、宇宙飛行士たちは次亜塩素酸ナトリウム製剤を使用して身体を擦り拭かれ、司令船は船体に付着しているかもしれない月の塵をベタダインを使って拭き取られた。その後、除染物質を積んだボートは故意に沈められた[67]

もう一機のヘリコプター、シーキングヘリコプター66英語版— は、宇宙飛行士たちを一人ずつ吊り上げ、ホーネットに帰艦するまでの0.5海里 (930 m)の移動中に機内ではNASAの航空医官英語版が各飛行士に簡単な健康診断を施した。

地球に帰還した後、検疫のために隔離施設に収容されるアポロ11号の搭乗員と、彼らを訪問するニクソン大統領。

ホーネット艦上に着地した後、宇宙飛行士たちはヘリコプターを降り、航空医官及び3人の乗組員と別れた。そのあと、ヘリコプターは格納庫ベイ2号へと入っていった。宇宙飛行士たちはそのベイの中を移動式隔離施設英語版 (Mobile Quarantine Facility, MQF) まで30フィート (9.1 m)歩いて施設内に入り、地球ベースで21日分の検疫期間が開始された[68]。この措置は、続くアポロ12号アポロ14号の2つのアポロミッションでも実施されたが、後に月に生命が存在しないことが証明されると、検疫措置は取り止めになった[67][69]

リチャード・ニクソン大統領は個人的に、地球に帰還した宇宙飛行士たちを歓迎するために、ホーネットに乗艦していた。ニクソンは宇宙飛行士たちに「君たちが成し遂げたことのおかげで、世界はこれまでになく一層親密になった。 ("As a result of what you've done, the world has never been closer together before.")[70]」と祝福の言葉を伝えた。ニクソンが出発した後、ホーネットは重量5トンの司令船に近づいて舷側に寄せ、艦のクレーンを使って船を引き揚げ、台車に載せてMQFの隣まで運び込んだ。ホーネットはハワイの真珠湾基地に向けて航行し、基地に到着すると「コロンビア」とMQFは有人宇宙船センターまで空輸された[67]

7月16日にNASAが発布した一連の規定[71]地球外暴露法英語版に従い、検疫試験計画が成文化され、月には未発見の病原体が存在するかもしれず、月面滞在中に宇宙飛行士たちがそれに曝されたかもしれないとの懸念から、宇宙飛行士たちの検疫が続けられた。しかし、3週間の隔離[注 9]を経て、宇宙飛行士たちに完全健康証明書が与えられた[72]。1969年8月10日にアトランタで、逆汚染に関する庁間委員会 (Interagency Committee on Back Contamination) の会合が開かれ、宇宙飛行士たち、飛行士の検疫に従事した者たち(NASAの医官ウィリアム・カーペンティア英語版とMQFプロジェクト技師ジョン・ヒラサキ英語版[73])、及び「コロンビア」自体の隔離がようやく解かれた[74]。宇宙船から取り外せる備品は、月試料が研究用に公開されるまでの間、隔離されたままだった[74]

祝賀

ニューヨーク市での祝賀パレードの様子

8月13日、ニューヨーク、シカゴ、ロサンゼルスで盛大なパレードが行われ、3人は歓迎と祝福を受けた[75][76]。同日の晩にはロサンゼルスのセンチュリー・プラザ・ホテル英語版で、連邦議会議員、44州の知事、合衆国最高裁判所長官、83か国の大使らが主宰する公式晩餐会が開かれた[76]。その席上で、リチャード・ニクソン大統領とスピロ・アグニュー副大統領から各宇宙飛行士の栄誉を称えて大統領自由勲章が授与された[76]。この祝賀会は以後45日間に及ぶ「偉大な飛躍 ("Giant Leap") ツアー」の始まりにすぎなかった。このツアーで3人の宇宙飛行士は25か国を歴訪し、イギリスの女王エリザベス2世など、世界の著名なリーダーたちを表敬訪問した。多くの国では、人類史上初の月面着陸を称える雑誌の特集が組まれたり、アポロ11号の記念切手や記念硬貨が発行されたりした[77][78]

1969年9月16日、3人の飛行士はキャピトル・ヒル英語版での合衆国議会両院合同会議の開会前にスピーチし、月面に持って行った2枚の星条旗のうちの一方を下院に、もう一方を上院に渡した[79]

月着陸競争

ファイル:Luna-16.jpg
ルナ15号の完成予想図

ソビエト連邦は月面に人間を着陸させることにおいてアメリカ合衆国と競争していたが、アメリカのサターンVに匹敵するN-1ロケットの開発の度重なる失敗により、勝利への道は阻まれた[80]。それでも、ソ連は何とかアメリカに勝とうとして、無人探査機英語版を用いて月物質を地球に持ち帰る計画を立てた。アポロ11号が打ち上げられる3日前の7月13日に、ソ連はルナ15号を打ち上げ、アポロ11号よりも先に月周回軌道に到達させた。しかし、月面への降下中にルナ15号は機能不全に陥り、月面の危難の海に落下、衝突した。これは、アームストロングとオルドリンが月面を離陸して地球への帰路につく約2時間前のことだった。後に、イギリスにあるジョドレルバンク天文台の電波望遠鏡は、月面へ降下中のルナ15号から受信した通信記録を発見したことを、アポロ11号の40周年記念となる2009年7月に発表した[81]

遺産

宇宙船の所在

国立航空宇宙博物館に展示されていた司令船「コロンビア」
2012年に月周回衛星LROが撮影したアポロ11号月着陸船の着陸地点

司令船「コロンビア」は、首都ワシントンD.C.にある国立航空宇宙博物館 (National Air and Space Museum, NASM) に展示されていた。「コロンビア」が展示されていた場所は同博物館のジェファーソン・ドライブ入り口正面の中央展示ホール内の Milestones of Flight コーナーで、同ホールには他に、ライトフライヤー号スピリットオブセントルイス号ベルX-1ノースアメリカンX-15マーキュリー宇宙船フレンドシップ7号ジェミニ4号など、アメリカの航空宇宙史を開拓してきた機体が展示されている。アームストロングとオルドリンの宇宙服は同博物館内の Apollo to the Moon コーナーに展示されている。隔離施設、浮揚環管、転覆した船体の立て直しに用いられた浮力球は、バージニア州シャンティリーのワシントン・ダレス国際空港に近い、NASMの別館である、スミソニアン協会のスティーブン・F・ウドバー=ハジー・センター英語版に展示されている。

月着陸船「イーグル」の下降段は月面に残されたままである。2009年、ルナー・リコネサンス・オービター (Lunar Reconnaissance Orbiter, LRO) が、月の表面のあちこちに位置するかつてのアポロ宇宙船の着陸地点を、月着陸船、科学観測機器、宇宙飛行士が月面歩行時につけた足跡を見分けられるほど十分に解像度の高い画像として、初めて画像化することに成功した。上昇段の遺物は、投棄されて月に再衝突した後、月の表面の不明な場所にあると推定されている。

2012年3月、Amazonの創設者ジェフ・ベゾスから資金提供を受けた専門家チームは、アポロ11号を宇宙へと打ち上げたF-1ロケットエンジンの場所を特定した。エンジンは先進的な走査型超音波探知機を用いて大西洋の海底で発見された[82]。専門家チームは5基のエンジンのうちの2基の部品を海面まで引き揚げた。2013年7月、その大西洋から引き揚げられたエンジンのうちの1基の錆びついた表面の下にシリアルナンバーが記載されているのを管理人が発見し、NASAはそれがアポロ11号の打ち上げで使われたものであることを確認した[83][84]

メアリー・ベイカー・エンゲン修復用格納庫で修復中の司令船「コロンビア」

「コロンビア」は2017年にバージニア州シャンティリーにあるスティーブン・F・ウドバー=ハジー・センター英語版内の国立航空宇宙博物館メアリー・ベイカー・エンゲン修復用格納庫 (NASM Mary Baker Engen Restoration Hangar) に移され、アポロ11号の月面着陸50周年を記念して4都市で開催される Destination Moon: The Apollo 11 Mission (デスティネーションムーン:アポロ11号のミッション)と題した巡回展に向けて準備が進められている。この巡回展は、2017年10月14日から2018年3月18日までスペースセンター・ヒューストンにて、2018年4月14日から同年9月3日までセントルイス科学センター英語版にて、2018年9月29日から2019年2月18日までピッツバーグのハインツ歴史センター英語版にて、そして2019年3月16日から同年9月2日までシアトルの航空博物館英語版にて、開催される予定である[85][86]

アポロ11号の月遷移投入に能力を発揮したサターンVの第三段S-IVBは、地球の公転軌道に近い、太陽周回軌道上に留まっている[87]

40周年記念行事

ニュージアムでの展示用にアポロテレビカメラを組み立てる国立電子技術博物館英語版のマイク・シモンズ館長

2009年7月15日にLife.comは、同誌の写真家だったラルフ・モース英語版がアポロ11号の打ち上げに先立って撮影した宇宙飛行士の未公表写真をウェブ上の写真ギャラリーで公開した[88]。2009年7月16日から同24日まで、NASAはアポロ11号ミッションで流れた本物の音声を40年前の月飛行の実時間に合わせてストリーミング配信した[89]。さらに、当時のビデオフィルムの復元作業が進められており、重要な場面を集めた予告編が公開されている[90]。2010年7月、アポロ11号が月へ降下して着陸するまでの間に宇宙から地球に伝送されたミッション管制センターの音声録音とフィルム映像が再同調され、初めて公開された[91]ジョン・F・ケネディ大統領図書館・博物館英語版は、アポロ11号が打ち上げられてから月に着陸するまでの交信記録を再放送するFlashウェブサイトを立ち上げた[92]

2009年7月20日、アポロ11号の搭乗員だったアームストロング、オルドリン、コリンズの3名は、ホワイトハウスでバラク・オバマ大統領と面会した[93]。オバマは「私たちが話しているように、向こうで空を見上げる別世代の子供たちが、次なるアームストロング、コリンズ、オルドリンになろうとすることを期待しています」と述べ、「彼らが(月への)旅路に就きたいとき、彼らのためにNASAがそこを目指していることを確実にしておきたい」と加えた[94]。2009年8月7日、合衆国議会の法令により、アメリカで文民に贈られる最高位の賞である議会黄金勲章が3名の宇宙飛行士に授与された。この法案はフロリダ州選出の上院議員ビル・ネルソンと同州選出の下院議員アラン・グレイソン英語版に支持されたものだった[95][96]

イギリスの科学者グループは、40周年記念行事の一環として行われたインタビューで、月面着陸の重要性に反応して、次のように答えた。

(月面着陸は)危険を冒しながらも、技術的に素晴らしい方法で実行されました……今日のリスク回避的世界[97]にあっては、あれは想像もつかないことだったように思います……アポロ計画は今までに人類が達成した中で最も偉大な技術的業績だと言ってよいでしょう……アポロ以後、アームストロング、オルドリンと彼らの後に続いた他の10名の宇宙飛行士たちが生み出したような興奮に近いものがありません[98]

ギャラリー

注釈

  1. ^ 徽章内には宇宙飛行士名を入れるのが以前からの通例となっており、これはその後のアポロやスカイラブスペースシャトル計画等でも行われているため、今回は異例の措置となった。
  2. ^ 手紙に記述されている通り、ミッション中に原因はランデブーレーダーのスイッチが間違った場所にあったことにあると診断され、その結果、ランデブーレーダーと着陸レーダーの両方から同時に送られてきたデータをコンピュータに処理させようとしたのだった[1][28]。しかし、ソフトウェア技師のドン・アイルズ (Don Eyles) は、2005年の誘導制御会議 (Guidance and Control Conference) の論文で、実はこの問題は以前アポロ5号のために最初の無人月着陸船をテストしている最中に見られたハードウェア設計の欠陥が原因であると結論づけた。(緊急時着陸中止という万が一の事態に備えて)ランデブーレーダーをオンにしておくことはコンピュータとは関係ないはずだったが、無作為なハードウェアの電源の入れ方次第では、ランデブーレーダーシステムの2つの部品の間に生じる電気的位相の不整合により、コンピュータに対して固定型アンテナが2つのポジションの間を前後にディザリングするように見えることがある。ランデブーレーダーがインボランタリ・カウンタを更新すると、余分な疑似サイクルスチールにより、コンピュータは警告を発する[29]。アポロ宇宙船の司令船と着陸船の両方に搭載されているフライトソフトウェアは非同期実行を使って開発されたので、優先度の高い仕事が優先度の低い仕事に割り込めるようにできていた。アポロ11号の着陸過程で発生した一連の出来事は、そのグローバルエラー検出及び回復システムのおかげで、上手くいったのだった。これには、「強制終了してやり直し」する再起動能力及び再計算能力、そして、万が一の緊急事態に、通常の画面表示に優先度の高い警告表示を割り込ませる能力を提供する、表示インターフェースルーティン(「優先表示」)も含まれていた。このマルチプログラミング環境を利用した解決策を生み出すために以前より講じられていた措置としては、マルチプロセッシングのための解決策が提案された。マルチプログラミング環境では、ある一定の時刻でアクティブに実行されているのは1つのプロセスのみであるが、同じシステム内の他のプロセス(スリープ中または待機中)が実行中のプロセスと並行して存在している。これを背景にして、優先表示機構が生み出され、宇宙飛行士と搭載されるフライトソフトウェアとのマンマシンインタフェースを本質的に同期表示方式から非同期表示方式へと変えることで、ミッションをリアルタイムで再構成する必要が生じた場合にそのような再構成を可能にした[30]
  3. ^ 当初計画されていた着陸楕円の西部に位置していることに因み、後にウェスト英語版と命名された。
  4. ^ NASAの録音の写しには、実際に言ったか否かにかかわらず、冠詞の "a" が意図されたと説明されており[43]、そこには、個人の行為としての a man と種としての mankind を対比する意図があった。
  5. ^ 空電とは、雷などの大気中の放電によって生じる電磁波で、ラジオなどの受信機の雑音の原因となる。
  6. ^ この逸話はフランク・ボーマンが関わったドキュメンタリー番組『When We Left Earth: The NASA Missions (英語版』のパート2で紹介されている。
  7. ^ 鈴木健次古賀林幸訳による和訳書が1992年に角川書店から出版されている(ISBN 4-04-703233-6)。
  8. ^ このとき、日本航空の国際線旅客機の運行乗務員が、ミッドウェー諸島付近にて大気圏内を2000km/hで落下中のアポロ11号を目撃した。撮影に夢中で、客室への放送は忘れたという。[要出典]
  9. ^ 最初はアポロ宇宙船内、次にホーネット艦上のMQF、最後に有人宇宙船センターの月試料研究所 (Lunar Receiving Laboratory, LRL) 内にて。

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参考文献

外部リンク