「チャールズ1世 (イングランド王)」の版間の差分
m編集の要約なし |
m編集の要約なし |
||
(2人の利用者による、間の8版が非表示) | |||
17行目: | 17行目: | ||
| 埋葬地 = {{ENG927}}、[[ウィンザー (イングランド)|ウィンザー]] |
| 埋葬地 = {{ENG927}}、[[ウィンザー (イングランド)|ウィンザー]] |
||
| 配偶者1 = [[ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス]] |
| 配偶者1 = [[ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス]] |
||
| 子女 = [[#子女|一覧参照]] |
|||
| 子女 = [[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]<br/>[[メアリー・ヘンリエッタ・ステュアート|メアリー・ヘンリエッタ]]<br/>[[ジェームズ2世 (イングランド王)|ジェームズ2世]]<br/>[[ヘンリエッタ・アン・ステュアート|ヘンリエッタ・アン]] |
|||
| 王家 = [[ステュアート朝|ステュアート家]] |
| 王家 = [[ステュアート朝|ステュアート家]] |
||
| 王朝 = [[ステュアート朝]] |
| 王朝 = [[ステュアート朝]] |
||
25行目: | 25行目: | ||
}} |
}} |
||
'''チャールズ1世'''('''Charles I''', [[1600年]][[11月19日]] - [[1649年]][[1月30日]])は、[[イングランド王国|イングランド]]、[[スコットランド王国|スコットランド]]、[[アイルランド王国|アイルランド]]の王(在位:[[1625年 |
'''チャールズ1世'''('''Charles I''', [[1600年]][[11月19日]] - [[1649年]][[1月30日]])は、[[ステュアート朝]]の[[イングランド王国|イングランド]]、[[スコットランド王国|スコットランド]]、[[アイルランド王国|アイルランド]]の王(在位:[[1625年]] - 1649年<ref>{{Cite book|和書 |author = [[木村靖二]], [[岸本美緒]], [[小松久男]] |year = 2017 |title = 詳説世界史 改訂版 |publisher = [[山川出版社]] |page = 224 |isbn = 978-4-634-70034-5}}</ref>)。宗教弾圧、スコットランド・アイルランドの反乱発生など数々の失政で[[イギリスの議会|議会]]の反発を生み[[清教徒革命]]([[イングランド内戦]])が勃発、敗れて処刑された。 |
||
== 生涯 == |
== 生涯 == |
||
=== 幼年期 === |
=== 幼年期 === |
||
スコットランド王[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ6世]](当時はイングランド王位継承以前、後のイングランド王ジェームズ1世)の次男として、スコットランドの[[ダンファームリン]]に生まれた。 |
スコットランド王[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ6世]](当時はイングランド王位継承以前、後のイングランド王ジェームズ1世)と妃[[アン・オブ・デンマーク]]の次男として、スコットランドの[[ダンファームリン]]に生まれた。兄に[[ヘンリー・フレデリック・ステュアート]]、姉に[[ライン宮中伯|プファルツ選帝侯]][[フリードリヒ5世 (プファルツ選帝侯)|フリードリヒ5世]]妃[[エリザベス・ステュアート]]がいる<ref>森(1986)、P401 - P403、P406。</ref>。 |
||
話し始めることと歩き始めることが非常に遅かった。父ジェームズ1世も歩き始めたのが5歳以降とも言われている。チャールズの舌と下顎を結ぶ腱の一部の切除、金属製の長靴様の拘束具(補強具としての使用を意図した)の使用の提案を医師団がしたが、結局乳母の反対により、辛抱強い教育で代用された。10歳頃には普通の子どものように動いたり話したりできるようになった。 |
話し始めることと歩き始めることが非常に遅かった。父ジェームズ1世も歩き始めたのが5歳以降とも言われている。チャールズの舌と下顎を結ぶ腱の一部の切除、金属製の長靴様の拘束具(補強具としての使用を意図した)の使用の提案を医師団がしたが、結局乳母の反対により、辛抱強い教育で代用された。10歳頃には普通の子どものように動いたり話したりできるようになった。 |
||
兄 |
兄ヘンリー・フレデリックが亡くなったため、[[1612年]]に[[コーンウォール公]]と[[ロスシー公]]に、[[1616年]]に[[プリンス・オブ・ウェールズ]](王太子)に叙位された。 |
||
=== 王太子時代 === |
|||
王太子の頃から政治に関わり始め、[[1621年]]に[[ヨーク公]]として[[イギリスの議会|イングランド議会]]の[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]議員になった<ref>今井、P172。</ref>。 |
|||
[[三十年戦争]]で争うヨーロッパ大陸の[[カトリック教会|カトリック]]と[[プロテスタント]]諸国の仲裁役を目指した父の意向で、姉は[[1613年]]にプロテスタントのプファルツ選帝侯フリードリヒ5世と結婚、チャールズはカトリックの[[スペイン]]王[[フェリペ3世 (スペイン王)|フェリペ3世]]の娘[[マリア・アナ・デ・アウストリア|マリア]]との結婚が計画された。[[1620年]]に義兄フリードリヒ5世がプファルツを奪われたため、父の目標はチャールズ結婚の持参金代わりに義兄の失地回復に変更されたが、父と反カトリックの議会との対立、スペインの交渉先延ばし工作などでチャールズの結婚は進まなかった<ref>今井、P160、P167、塚田、P66。</ref>。 |
|||
[[1623年]]2月、チャールズは父の寵臣だった[[バッキンガム公]][[ジョージ・ヴィリアーズ (初代バッキンガム公)|ジョージ・ヴィリアーズ]]の勧めで、父の許可を得ないまま自らスペイン旅行へ出かけ、3月に首都[[マドリード]]に着いた2人は[[フェリペ4世 (スペイン王)|フェリペ4世]](フェリペ3世の息子でマリアの兄)の寵臣の[[オリバーレス伯爵|オリバーレス伯公爵]][[ガスパール・デ・グスマン]]と交渉した。しかしフェリペ4世は妹をプロテスタントのイングランドへ嫁がせる気は全くなく、オリバーレス伯は交渉を長引かせイングランドを戦争の圏外に置くこと、あるいは結婚でイングランド国内のカトリック教徒に対する寛容を勝ち取ることを目論んでいたため、2人は無駄に時間を費やした挙句、6月にカトリックへの寛容と生まれてくる子供達をカトリックに育てるという条件を秘密裡に承諾したにも関わらず、スペインがプファルツを回復する気が無いことにやっと気付き、憤慨して交渉を破談し9月に帰国した。外交経験が無い素人2人組の外交は半年が空費され、相手から一方的に条件を呑まされる寸前になり失敗に終わった<ref group="注">しかし皮肉にも、帰国した2人は婚約破談により、反スペインで沸き立っていた民衆に歓迎された。この好意を当てにした2人は議会召集をジェームズ1世に進言、1624年2月に開会された。今井、P168、塚田、P68、清水、P19 - P20。</ref><ref name="松村136">松村、P136。</ref><ref>森(1986)、P406 - P407、今井、P167 - P168、塚田、P67 - P68、清水、P19 - P20。</ref>。 |
|||
スペインに振り回されたことに怒った2人は反スペイン派となり父の平和政策を覆し、[[1624年]]2月に開会された議会の好意的な姿勢に支えられスペインへ戦争すべく新たな同盟相手を求めた。そのため[[フランス王国|フランス]]王[[アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世]]の娘で[[ルイ13世 (フランス王)|ルイ13世]]の妹[[ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス|ヘンリエッタ・マリア]]とチャールズの結婚が進められたが、外交の素人バッキンガム公はスペインの時と同じ失態を繰り返し、フランス宰相[[リシュリュー]]との交渉で譲歩を強いられ、子供達をカトリックに教育、カトリック教徒への寛容などスペインと同様の条件を承諾した。同盟は成立したがイングランドの中途半端な対応でフランスがイングランド軍上陸を禁止、軍は疫病で自滅する羽目になり同盟の見通しは早くも不鮮明になり、イングランド国民はカトリック寛容を警戒し王家と国民の間に亀裂が生じた<ref group="注">元々戦争に反対していたジェームズ1世はスペインを刺激することを避けるため介入、同盟により出兵したイングランド軍に大陸のスペイン領通過を禁じた。これはフランスのイングランド軍上陸禁止に繋がり、ひいては準備不十分のイングランド軍がろくに戦わないまま疫病で自滅という惨めな結果をもたらした。今井、P170 - P171。</ref><ref name="松村136">松村、P136。</ref><ref>森(1986)、P407、今井、P168 - P171、塚田、P68 - P69。</ref>。 |
|||
=== 王位継承 === |
=== 王位継承 === |
||
1625年3月、父の死去に伴い王位を継承しイングランド・スコットランド・アイルランド王チャールズ1世に即位した。バッキンガム公の補佐を受け6月にはヘンリエッタ・マリアと結婚したが、カトリック教徒を王妃に迎えたことは反カトリック派の反感を買うことになった<ref group="注">バッキンガム公がフランスと約束した条件の中に、ヘンリエッタ・マリアの家庭内における宗教的寛容と聖堂の設置があり、ヘンリエッタ・マリアはイングランドでもカトリック教徒であり続け、[[セント・ジェームズ宮殿]]内部に[[イニゴー・ジョーンズ]]設計のクイーンズ・チャペルが建てられた。これらはプロテスタントに恐怖の念を抱かせた。森(1986)、P408、今井、P170。</ref>。またチャールズ1世は父同様に[[王権神授説]]を信奉し、議会と対立した。加えて権力独占と無能ぶりをさらけ出すバッキンガム公にスペイン熱が冷めた議会が非難を開始、同月開催された議会は戦争補助金を認めたが追加しないことを明言、チャールズ1世が[[イングランド国教会]]が奉じる[[カルヴァン主義]]に反対する[[アルミニウス主義]]を支持したことも議会の批判を高める原因になり、チャールズ1世はバッキンガム公を守るため8月に議会を解散した。しかし状況はむしろ悪化し、10月に大陸の遠征が失敗したこと、同盟に基づいてイングランド艦隊を提供されたフランスが艦隊を国内のプロテスタントである[[ユグノー]]攻撃に差し向けたことでバッキンガム公批判は増大した<ref group="注">だが、乏しい財政では質の悪い兵士しか集められなかったこと、本国からの補給が不十分だったこと、当時軍事技術は向上しており、イングランドがこの変化についていけなかったことも遠征失敗の原因であり、バッキンガム公に全て責任がある訳ではない。今井、P173 - P174。</ref><ref name="松村136"></ref><ref>森(1986)、P407 - P408、今井、P171 - P173、塚田、P69 - P73。</ref>。 |
|||
[[1625年]]3月、父の死去に伴い王位を継承した。6月には[[フランス王国|フランス]]王[[アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世]]の娘[[ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス|ヘンリエッタ・マリア]]と結婚した。しかし、[[カトリック教会|カトリック]]信徒を王妃に迎えたことは反カトリック派の反感を買うことになった。 |
|||
チャールズ1世とバッキンガム公はフランス外交を転換、プロテスタント諸国の盟主となるべく[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ]]と同盟、フランスとの同盟を保ちながらユグノー援助も計画したが、戦費の特別税を求めるため[[1626年]]2月に召集した議会でバッキンガム公は無定見な外交と権力乱用を前議会から引き続いて非難され、かつてバッキンガム公の部下だった{{仮リンク|ジョン・エリオット (政治家)|en|John Eliot (statesman)|label=ジョン・エリオット}}が彼にまつわる汚職・贔屓・外交の失敗を列挙して弾劾したが、チャールズ1世はバッキンガム公をかばいエリオットを投獄、議会解散を命じた。これにより特別税をほとんど得られなかったばかりか、フランスがイングランドを見限りスペインと和睦、イングランドは両国を敵に回り孤立した。しかもバッキンガム公が自ら指揮を執った[[1627年]]のフランス・ユグノー援助に失敗、1000人以上の兵を失う失態を演じ人々の更なる怒りを買い([[ラ・ロシェル包囲戦]])、チャールズ1世が特別税の代わりに強制借上げ金を徴収したことが[[ジョン・ハムデン]]ら[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員の反感を買い、政府は議会の信用を失っていった<ref name="松村136"></ref><ref>森(1986)、P408 - P409、今井、P174 - P178、P189 - P190、塚田、P73 - P78、清水、P20 - P21。</ref>。 |
|||
チャールズ1世は父同様に[[王権神授説]]を信奉し、議会と対立した。[[1628年]]、議会に「[[権利の請願]]」が提出され、課税には議会の承認を得ることを求められた。これに対しチャールズは、一旦は請願受託の署名を行うが、翌年議会を解散、議会の指導者を投獄し、専制政治を行った。 |
|||
[[1628年]]3月、チャールズ1世はバッキンガム公の要請で次こそ特別税を獲得すべく議会を召集したが、反バッキンガム公および反専制で固まった議会から「[[権利の請願]]」が提出され、課税には議会の承認を得ることを求められた。これに対しチャールズ1世は一旦請願受託の署名を行うが、相変わらずバッキンガム公批判を続ける議会から側近を守るため6月に議会を停会した。翌[[1629年]]1月に議会は再開されたが、3月に議会を解散、エリオットを再度投獄し[[1632年]]に獄死するまで監禁、議会が閉じられた状態で専制政治を行った(無議会政治)。しかしこの間、バッキンガム公は1628年6月に私怨で[[暗殺]]されチャールズ1世は側近を失った<ref name="松村136"></ref><ref>森(1986)、P409、今井、P178 - P180、塚田、P78、清水、P21 - P22。</ref>。 |
|||
=== 清教徒革命へ === |
=== 清教徒革命へ === |
||
無議会政治の間チャールズ1世は外交を親フランスに切り替え1628年にフランス、[[1630年]]にスペインと和睦し三十年戦争から手を引いた。内政では財政再建のため[[国王大権 (イギリス)|国王大権]]を濫用、トン税・ポンド税・船舶税などを国民から強引に徴収、[[星室庁]]・高等宗務官裁判所などを使い反対派を処罰、新たな側近として[[トマス・ウェントワース (初代ストラフォード伯爵)|トマス・ウェントワース]](後に[[ストラフォード伯爵]])、[[カンタベリー大主教]][[ウィリアム・ロード]]を取り立て、ロードの助言で宗教をイングランド国教会統一に乗り出し、[[ピューリタン]]を弾圧した。だがロードの政策がスコットランドにも国教を強制するにおよんで、各地に反乱が起きた。一方ストラフォード伯はアイルランドへ赴任・統治したが、こちらも弾圧政策を行ったため不穏な情勢となった。[[1633年]]にチャールズ1世がスコットランド王戴冠式を行った時も儀式がカトリック的だとスコットランド国民から反感を買い、[[1637年]]に国教会の[[聖公会祈祷書|祈祷書]]押しつけに反対した国民が暴動を起こす有様だった<ref name="松村136"></ref><ref>森(1988)、P318 - P319、今井、P180 - P187、トランター、P271 - P272、塚田、P97 - P104、清水、P21 - P24。</ref>。 |
|||
やがて[[1639年]]、スコットランド貴族層が[[国民盟約]]を結成し[[主教戦争]]が発生すると、チャールズ1世はスコットランドへ出兵したが自軍が不利だったため、側近の[[ハミルトン公爵|ハミルトン侯爵]](後に公爵)[[ジェイムズ・ハミルトン (初代ハミルトン公爵)|ジェイムズ・ハミルトン]]の工作で一旦休戦したが([[ベリック条約 (1639年)|ベリック条約]])、反乱鎮圧のための戦費を得る目的で[[1640年]]、11年ぶりに議会を招集したが、議会は国王批判の場となった([[短期議会]]・[[長期議会]])。4月の短期議会は[[ジョン・ピム]]を先頭に専制に対する批判が続出したため5月に解散、戦費は得られずスコットランドは国民盟約が主導権を握り、8月の[[ニューバーンの戦い]]で国王軍が敗北するにおよびチャールズ1世は[[カヴェナンター|盟約派]]と和睦するしかなくなり([[リポン条約]])、和睦締結まで北イングランドに駐屯するスコットランド軍の費用を支払う羽目に陥り、財政難のため11月に長期議会を召集せざるを得なかった<ref name="松村136"></ref><ref>今井、P187 - P189、P191 - P192、トランター、P272 - P274、塚田、P104 - P107、P124 - P126、清水、P31 - P35。</ref>。 |
|||
一方、チャールズ1世は議会に対抗するため[[1641年]]8月にスコットランドを訪問、盟約派の幹部である[[アレクサンダー・レスリー (初代リーヴン伯)|アレクサンダー・レスリー]]と[[アーガイル公爵|アーガイル伯爵]][[アーチボルド・キャンベル (初代アーガイル侯爵)|アーチボルド・キャンベル]]をリーヴン伯爵・アーガイル侯爵に叙爵、アーガイル侯と対立し投獄された[[モントローズ公爵|モントローズ伯爵]](後に侯爵)[[ジェイムズ・グラハム (初代モントローズ侯爵)|ジェイムズ・グラハム]]を釈放させ、スコットランドの[[長老派教会]]を認めるなど譲歩で味方に付けようと図ったが、アーガイル侯らは敵対姿勢を継続したため当てが外れた<ref>森(1988)、P319 - P320、トランター、P274 - P276。</ref>。 |
|||
長期議会はピムが専制政治非難を続行、国王大権を制限するため改革法案を立法化、トン税・ポンド税・船舶税・星室庁・高等宗務官裁判所などが廃止され王権は制限をかけられ、ストラフォード伯とロードも議会に責任を問われ弾劾・投獄・処刑される事態となった(ストラフォード伯は1641年5月、ロードは[[1645年]]1月)。アイルランドでも同年10月に反乱が起こり[[アイルランド・カトリック同盟]]が結成され、イングランドが政情不安に包まれる中、11月に[[議会の大諫奏]](大抗議文)が議会で可決、追い詰められたチャールズ1世は翌[[1642年]]1月、兵隊を率いて反国王派のピム・ハムデンら5人の議員を逮捕しようとして失敗、[[円頂党|議会派]]と[[騎士党|王党派]]の対立が決定的になり議会から裁可を求められた[[民兵条例]]、[[19ヶ条提案]]を大権制限する内容のため拒否、8月にチャールズ1世は[[ノッティンガム]]で王旗を掲げ、ここに{{仮リンク|第一次イングランド内戦|en|First English Civil War}}が勃発した<ref name="松村136"></ref><ref>森(1986)、P409 - P410、今井、P192 - P197、塚田、P126 - P136、清水、P35 - P40、P43 - P51。</ref>。 |
|||
=== 議会との全面戦争 === |
|||
第一次内戦は当初、チャールズ1世の甥に当たる[[カンバーランド公]][[ルパート (カンバーランド公)|ルパート]]と[[ニューカッスル公爵|ニューカッスル伯]][[ウィリアム・キャヴェンディッシュ (初代ニューカッスル公)|ウィリアム・キャヴェンディッシュ]]の働きで10月の[[エッジヒルの戦い]]は引き分け、翌[[1643年]]6月の[[アドウォルトン・ムーアの戦い]]で勝利し互角あるいは王党派が優位であったが、[[9月25日]]に議会派と盟約派が[[厳粛な同盟と契約]]を締結、スコットランドが議会派に加勢し戦況は議会派に傾き始め、[[オリバー・クロムウェル]]率いる[[鉄騎隊]]の活躍により、[[1644年]]7月の[[マーストン・ムーアの戦い]]などで王党派が各地で打ち破られた。1645年6月の[[ネイズビーの戦い]]でチャールズ1世・ルパート率いる国王軍は[[トーマス・フェアファクス (第3代フェアファクス卿)|トーマス・フェアファクス]]を司令官、クロムウェルを副司令官とする{{仮リンク|ニューモデル軍|en|New Model Army}}に決定的な大敗を喫し、拠点を次々と議会派に奪われ、翌[[1646年]]5月にチャールズ1世はスコットランド軍に降伏し第一次内戦は王党派の敗北になり、囚われの身となった<ref name="松村136"></ref><ref>森(1986)、P410 - P411、森(1988)、P320 - P322、今井、P200 - P209、塚田、P136 - P138、P152 - P154、清水、P60 - P64、P69 - P71、P76 - P82、P88 - P96、P99 - P100。</ref>。 |
|||
内戦の最中、チャールズ1世は反乱で背かれたスコットランドとアイルランドから援軍を求め交渉していた。スコットランドを王党派で平定すべく盟約派から王党派に離反したモントローズ伯を侯爵に昇叙、スコットランド総督に任じて帰国させた。モントローズ侯は期待に応え1644年8月に[[アイルランド貴族]]のアントリム伯{{仮リンク|ランダル・マクドネル (初代アントリム侯爵 1645年創設)|en|Randal MacDonnell, 1st Marquess of Antrim (1645 creation)|label=ランダル・マクドネル}}と親戚の{{仮リンク|アラスデア・マッコーラ|en|Alasdair Mac Colla}}と共にスコットランドで挙兵({{仮リンク|スコットランド内戦|en|Scotland in the Wars of the Three Kingdoms}})、1645年には[[インヴァロッヒーの戦い (1645年)|インヴァロッヒーの戦い]]([[2月2日]])・[[キルシスの戦い]]([[8月15日]])で連勝しアーガイル侯ら盟約派を追い落として平定に迫ったが、盟約派の反撃に遭い[[9月13日]]の[[フィリップホフの戦い]]で敗れ、スコットランド平定はならなかった<ref group="注">敗北後もモントローズ侯は諦めずゲリラで各地に出没、盟約派との戦いを続けていたが、1646年にスコットランド軍に捕らえられたチャールズ1世が軍解体を命令したためそれに従い、[[ノルウェー]]へ亡命した。ウェッジウッド、P578 - P582、P629、P637。</ref><ref>トランター、P276 - P280、ウェッジウッド、P374 - P378、P426 - P432、P495 - P502、P517 - P518。</ref>。 |
|||
アイルランドでは駐屯軍司令官で[[アイルランド総督 (ロード・レフテナント)|アイルランド総督]]の[[オーモンド伯爵 (アイルランド)|オーモンド侯]][[ジェームズ・バトラー (初代オーモンド公)|ジェームズ・バトラー]]に反乱勢力のアイルランド・カトリック同盟との交渉を任せ、和睦と援軍派遣を期待していたが、宗教の違いとそれぞれの無理な要求で交渉は難航、1643年[[9月15日]]に何とか休戦が成立した。ところが続く和睦交渉は暗礁に乗り上げ<ref group="注">アイルランド同盟はカトリック刑罰法の撤廃を、オーモンド侯はアイルランド同盟が占領したイングランド国教会の領土返還を要求した。この実現が難しい要求で交渉は進まず、援軍欲しさに撤廃に応じるチャールズ1世をオーモンド侯が諫めることもあった。山本、P140 - P141。</ref>、互いの要求を棚上げにして和睦条約が調印されたのは1646年[[3月28日]]と第一次内戦が終わる寸前であり、援軍を求めるにはあまりにも遅過ぎた。しかもこの間にチャールズ1世はオーモンド侯の頭越しにアイルランドへ密使を送ることを計画、密使として派遣され1645年7月にアイルランドに着いた寵臣のグラモーガン伯{{仮リンク|エドワード・サマセット (第2代ウスター侯)|label=エドワード・サマセット|en|Edward Somerset, 2nd Marquess of Worcester}}はオーモンド侯に協力するふりをしてアイルランド同盟と独自に接触した<ref>山本、P136 - P142、ウェッジウッド、P324 - P325、P492。</ref>。 |
|||
更に、11月にアイルランドへ派遣された[[教皇|ローマ教皇]][[インノケンティウス10世 (ローマ教皇)|インノケンティウス10世]]の特使{{仮リンク|ジョヴァンニ・バッティスタ・リヌチーニ|en|Giovanni Battista Rinuccini}}が和睦条約に反対して聖職者や軍人達を動かし、グラモーガン伯もリヌチーニと結びつきアイルランド人に対する土地返還とカトリック寛容を引き換えにした軍事援助の秘密条約実施を申し出た。だがリヌチーニはどちらの条約にも反対、グラモーガン伯は秘密交渉の発覚で逮捕され、チャールズ1世はグラモーガン伯との関与を否定したがアイルランド同盟から不信を抱かれ、オーモンド侯の和睦条約もリヌチーニに扇動された反対派により破棄され、もはやアイルランドからも援軍を期待出来なくなった<ref group="注">その後1649年[[1月17日]]に改めてオーモンド侯とアイルランド同盟は1646年と同様の条件で和睦、障害だったリヌチーニが2月にアイルランドを離れたため両者は手を結んだが、皮肉にも和睦した日はチャールズ1世が処刑される13日前だった。山本、P144。</ref><ref>山本、P142 - P144、ウェッジウッド、P541 - P546、P555 - P559、P617 - P620。</ref>。 |
|||
=== 再起失敗、処刑 === |
|||
[[File:The Execution of Charles I.jpg|thumb|left|チャールズ1世の処刑]] |
[[File:The Execution of Charles I.jpg|thumb|left|チャールズ1世の処刑]] |
||
[[1647年]]11月に一旦[[ワイト島]]へ脱出、ハミルトン公らスコットランド王党派と[[和解契約]]を結んで{{仮リンク|第二次イングランド内戦|en|Second English Civil War}}を勃発させたが、[[1648年]]8月に[[プレストンの戦い (1648年)|プレストンの戦い]]でハミルトン公率いるスコットランド軍({{仮リンク|エンゲージャーズ|en|Engagers}})がクロムウェルの議会軍に大敗、ハミルトン公が捕らえられたため第二次内戦も敗北に終わり(後にハミルトン公は処刑)、11月に再び議会軍に投降した。一方、議会派は戦争終結を巡り国王との妥協を図る[[長老派教会|長老派]]と徹底抗戦の{{仮リンク|独立派 (宗教)|en|Independent (religion)|label=独立派}}が対立、[[12月6日]]の[[プライドのパージ]]で長老派が議会から追放、独立派が残った[[ランプ議会 (イングランド内戦)|ランプ議会]]がチャールズ1世処刑の裁判を進めていった<ref name="松村136"></ref><ref>森(1988)、P411、今井、P213 - P215、塚田、P157 - P159、清水、P123、P126 - P127、P129 - P138。</ref>。 |
|||
この間チャールズは、[[カンタベリー大主教]][[ウィリアム・ロード]]の助言で国教統一に乗り出し、[[ピューリタン]]を弾圧した。ロードの政策がスコットランドにも国教を強制するにおよんで、各地に反乱が起きた。[[1640年]]、スコットランドの反乱鎮圧のための戦費を得る目的で11年ぶりに議会を招集したが、議会は国王批判の場となった([[短期議会]]・[[長期議会]])。[[1642年]]1月、チャールズは反国王派の5人の議員を逮捕しようとして失敗、議会派と王党派の内戦が勃発した([[イングランド内戦]]、[[清教徒革命|ピューリタン革命]])。 |
|||
⚫ | 1649年[[1月27日]]、裁判によってチャールズ1世の処刑が宣告された。1月30日、自ら[[ピーテル・パウル・ルーベンス|ルーベンス]]に内装及び天井画を依頼した[[ホワイトホール宮殿]]の[[バンケティング・ハウス]]前で[[公開処刑]]され、チャールズ1世は斬首された<ref name="松村136"></ref><ref>森(1986)、P404 - P406、P411 - P412、今井、P215、清水、P138 - P148。</ref>。彼の最期の言葉は「我は、この堕落した王位を離れ、堕落し得ぬ、人生の極致へと向かう。そこには如何なる争乱も存在し得ず、世界は安寧で満たされているのだ。」(原文"I go from a corruptible to an incorruptible Crown, where no disturbance can be, no disturbance in the World.")であった。([http://anglicanhistory.org/charles/charles1.html 30 January, 1649]). |
||
内戦は当初、互角あるいは王党派が優位であったが、[[オリバー・クロムウェル|オリヴァー・クロムウェル]]率いる[[鉄騎隊]]の活躍により、王党派が各地で打ち破られた。[[1646年]]5月、チャールズ1世はスコットランド軍に降伏し、囚われの身となった。一旦は脱出したものの、[[1648年]]11月に再び議会軍に投降した。 |
|||
チャールズ1世の処刑後王政は廃止され[[イングランド共和国]]が誕生、これを認めない王党派はチャールズ1世の長男[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]を擁立し議会派との戦いを継続したが({{仮リンク|第三次イングランド内戦|en|Third English Civil War}})、やがてそれらを平定したクロムウェルが[[1653年]]に[[護国卿]]となり、ステュアート朝に代わりイングランド・スコットランド・アイルランドを事実上統治した。チャールズ2世ら王党派がイングランドへ戻れるにはクロムウェル死後の[[1660年]]の[[イングランド王政復古|王政復古]]まで待たなければならなかった。 |
|||
1649年[[1月27日]]、裁判によってチャールズの処刑が宣告された。1月30日、自ら[[ピーテル・パウル・ルーベンス|ルーベンス]]に内装及び天井画を依頼した[[ホワイトホール宮殿]]の[[バンケティング・ハウス]]前で[[公開処刑]]され、チャールズは斬首された。 |
|||
⚫ | |||
== 子女 == |
|||
ヘンリエッタ・マリアとの間に4男5女を儲けた。 |
|||
* チャールズ・ジェームズ(1629年) - [[コーンウォール公]]、死産 |
|||
* [[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]](1630年 - 1685年) |
|||
* [[メアリー・ヘンリエッタ・ステュアート|メアリー・ヘンリエッタ]](1631年 - 1660年) - [[オラニエ=ナッサウ家|オラニエ公]][[ウィレム2世 (オラニエ公)|ウィレム2世]]と結婚 |
|||
* [[ジェームズ2世 (イングランド王)|ジェームズ2世]](1633年 - 1701年) |
|||
* エリザベス(1635年 - 1650年) |
|||
* アン(1637年 - 1640年) |
|||
* キャサリン(1639年) - 死産 |
|||
* {{仮リンク|ヘンリー・ステュアート (グロスター公)|en|Henry Stuart, Duke of Gloucester|label=ヘンリー}}(1640年 - 1660年) - [[グロスター公]]、[[ケンブリッジ伯]] |
|||
* [[ヘンリエッタ・アン・ステュアート|ヘンリエッタ・アン]](1644年 - 1670年) - [[オルレアン公]][[フィリップ1世 (オルレアン公)|フィリップ1世]]と結婚 |
|||
== 王位継承の家系図 == |
== 王位継承の家系図 == |
||
{{ステュアート朝の家系図}} |
{{ステュアート朝の家系図}} |
||
== 注釈 == |
|||
{{reflist|group="注" }} |
|||
== 脚注 == |
== 脚注 == |
||
{{脚注ヘルプ}} |
{{脚注ヘルプ}} |
||
{{reflist}} |
{{reflist}} |
||
== 参考文献 == |
|||
* [[森護]]『英国王室史話』[[大修館書店]]、1986年。 |
|||
* 森護『スコットランド王室史話』大修館書店、1988年。 |
|||
* [[今井宏 (歴史学者)|今井宏]]編『世界歴史大系 イギリス史2 -近世-』[[山川出版社]]、1990年。 |
|||
* [[ナイジェル・トランター]]著、[[杉本優]]訳『スコットランド物語』大修館書店、1997年。 |
|||
* [[松村赳]]・[[富田虎男]]編『英米史辞典』[[研究社]]、2000年。 |
|||
* [[塚田富治]]『近代イギリス政治家列伝 <small>かれらは我らの同時代人</small>』[[みすず書房]]、2001年。 |
|||
* [[山本正 (歴史学者)|山本正]]『「王国」と「植民地」 <small>近世イギリス帝国のなかのアイルランド</small>』[[思文閣出版]]、2002年。 |
|||
* [[清水雅夫]]『<small>王冠のないイギリス王</small> オリバー・クロムウェル<small>―ピューリタン革命史</small>』[[リーベル出版]]、2007年。 |
|||
* [[シセリー・ヴェロニカ・ウェッジウッド]]著、[[瀬原義生]]訳『イギリス・ピューリタン革命<small>―王の戦争―</small>』[[文理閣]]、2015年。 |
|||
== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
||
60行目: | 114行目: | ||
*[[ダルタニャン物語]] - 『二十年後』に登場。ダルタニャンや[[三銃士]]はチャールズ1世を救おうとしたが失敗する。 |
*[[ダルタニャン物語]] - 『二十年後』に登場。ダルタニャンや[[三銃士]]はチャールズ1世を救おうとしたが失敗する。 |
||
*[[アラトリステ]] - 1巻に登場。主人公[[ディエゴ・アラトリステ・イ・テノーリオ]]に命を救われる。 |
*[[アラトリステ]] - 1巻に登場。主人公[[ディエゴ・アラトリステ・イ・テノーリオ]]に命を救われる。 |
||
*[[ジョージ・ヴィリアーズ (初代バッキンガム公)]] - 父の寵臣で引き続きチャールズ1世に仕えたが、後に暗殺された。 |
|||
*[[トマス・ウェントワース (初代ストラフォード伯爵)]] - バッキンガム公の後任としてチャールズを支えたが、革命直前に処刑された。 |
|||
*[[ウィリアム・ロード]] - [[カンタベリー大主教]]。ストラフォード伯爵と同じく王の助言者だったが、革命の只中に処刑された。 |
|||
*[[クロムウェル (映画)]] ([[1970年]] 監督:[[ケン・ヒューズ]]) |
*[[クロムウェル (映画)]] ([[1970年]] 監督:[[ケン・ヒューズ]]) |
||
*[[クロムウェル〜英国王への挑戦〜]] ([[2003年]] 監督:[[マイク・バーカー]]) |
*[[クロムウェル〜英国王への挑戦〜]] ([[2003年]] 監督:[[マイク・バーカー]]) |
2018年12月30日 (日) 14:40時点における版
チャールズ1世 Charles I | |
---|---|
イングランド王 スコットランド王 | |
| |
在位 | 1625年3月27日 - 1649年1月30日 |
戴冠式 |
1626年1月2日(イングランド王) 1633年6月8日(スコットランド王) |
別号 |
アイルランド王 グレートブリテン王(非公式) |
出生 |
1600年11月19日 スコットランド王国、ダンファームリン |
死去 |
1649年1月30日(48歳没) イングランド王国、ホワイトホール宮殿 |
埋葬 |
1649年2月7日 イングランド王国、ウィンザー |
配偶者 | ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス |
子女 | 一覧参照 |
家名 | ステュアート家 |
王朝 | ステュアート朝 |
父親 | ジェームズ1世/6世 |
母親 | アン・オブ・デンマーク |
チャールズ1世(Charles I, 1600年11月19日 - 1649年1月30日)は、ステュアート朝のイングランド、スコットランド、アイルランドの王(在位:1625年 - 1649年[1])。宗教弾圧、スコットランド・アイルランドの反乱発生など数々の失政で議会の反発を生み清教徒革命(イングランド内戦)が勃発、敗れて処刑された。
生涯
幼年期
スコットランド王ジェームズ6世(当時はイングランド王位継承以前、後のイングランド王ジェームズ1世)と妃アン・オブ・デンマークの次男として、スコットランドのダンファームリンに生まれた。兄にヘンリー・フレデリック・ステュアート、姉にプファルツ選帝侯フリードリヒ5世妃エリザベス・ステュアートがいる[2]。
話し始めることと歩き始めることが非常に遅かった。父ジェームズ1世も歩き始めたのが5歳以降とも言われている。チャールズの舌と下顎を結ぶ腱の一部の切除、金属製の長靴様の拘束具(補強具としての使用を意図した)の使用の提案を医師団がしたが、結局乳母の反対により、辛抱強い教育で代用された。10歳頃には普通の子どものように動いたり話したりできるようになった。
兄ヘンリー・フレデリックが亡くなったため、1612年にコーンウォール公とロスシー公に、1616年にプリンス・オブ・ウェールズ(王太子)に叙位された。
王太子時代
王太子の頃から政治に関わり始め、1621年にヨーク公としてイングランド議会の貴族院議員になった[3]。
三十年戦争で争うヨーロッパ大陸のカトリックとプロテスタント諸国の仲裁役を目指した父の意向で、姉は1613年にプロテスタントのプファルツ選帝侯フリードリヒ5世と結婚、チャールズはカトリックのスペイン王フェリペ3世の娘マリアとの結婚が計画された。1620年に義兄フリードリヒ5世がプファルツを奪われたため、父の目標はチャールズ結婚の持参金代わりに義兄の失地回復に変更されたが、父と反カトリックの議会との対立、スペインの交渉先延ばし工作などでチャールズの結婚は進まなかった[4]。
1623年2月、チャールズは父の寵臣だったバッキンガム公ジョージ・ヴィリアーズの勧めで、父の許可を得ないまま自らスペイン旅行へ出かけ、3月に首都マドリードに着いた2人はフェリペ4世(フェリペ3世の息子でマリアの兄)の寵臣のオリバーレス伯公爵ガスパール・デ・グスマンと交渉した。しかしフェリペ4世は妹をプロテスタントのイングランドへ嫁がせる気は全くなく、オリバーレス伯は交渉を長引かせイングランドを戦争の圏外に置くこと、あるいは結婚でイングランド国内のカトリック教徒に対する寛容を勝ち取ることを目論んでいたため、2人は無駄に時間を費やした挙句、6月にカトリックへの寛容と生まれてくる子供達をカトリックに育てるという条件を秘密裡に承諾したにも関わらず、スペインがプファルツを回復する気が無いことにやっと気付き、憤慨して交渉を破談し9月に帰国した。外交経験が無い素人2人組の外交は半年が空費され、相手から一方的に条件を呑まされる寸前になり失敗に終わった[注 1][5][6]。
スペインに振り回されたことに怒った2人は反スペイン派となり父の平和政策を覆し、1624年2月に開会された議会の好意的な姿勢に支えられスペインへ戦争すべく新たな同盟相手を求めた。そのためフランス王アンリ4世の娘でルイ13世の妹ヘンリエッタ・マリアとチャールズの結婚が進められたが、外交の素人バッキンガム公はスペインの時と同じ失態を繰り返し、フランス宰相リシュリューとの交渉で譲歩を強いられ、子供達をカトリックに教育、カトリック教徒への寛容などスペインと同様の条件を承諾した。同盟は成立したがイングランドの中途半端な対応でフランスがイングランド軍上陸を禁止、軍は疫病で自滅する羽目になり同盟の見通しは早くも不鮮明になり、イングランド国民はカトリック寛容を警戒し王家と国民の間に亀裂が生じた[注 2][5][7]。
王位継承
1625年3月、父の死去に伴い王位を継承しイングランド・スコットランド・アイルランド王チャールズ1世に即位した。バッキンガム公の補佐を受け6月にはヘンリエッタ・マリアと結婚したが、カトリック教徒を王妃に迎えたことは反カトリック派の反感を買うことになった[注 3]。またチャールズ1世は父同様に王権神授説を信奉し、議会と対立した。加えて権力独占と無能ぶりをさらけ出すバッキンガム公にスペイン熱が冷めた議会が非難を開始、同月開催された議会は戦争補助金を認めたが追加しないことを明言、チャールズ1世がイングランド国教会が奉じるカルヴァン主義に反対するアルミニウス主義を支持したことも議会の批判を高める原因になり、チャールズ1世はバッキンガム公を守るため8月に議会を解散した。しかし状況はむしろ悪化し、10月に大陸の遠征が失敗したこと、同盟に基づいてイングランド艦隊を提供されたフランスが艦隊を国内のプロテスタントであるユグノー攻撃に差し向けたことでバッキンガム公批判は増大した[注 4][5][8]。
チャールズ1世とバッキンガム公はフランス外交を転換、プロテスタント諸国の盟主となるべくオランダと同盟、フランスとの同盟を保ちながらユグノー援助も計画したが、戦費の特別税を求めるため1626年2月に召集した議会でバッキンガム公は無定見な外交と権力乱用を前議会から引き続いて非難され、かつてバッキンガム公の部下だったジョン・エリオットが彼にまつわる汚職・贔屓・外交の失敗を列挙して弾劾したが、チャールズ1世はバッキンガム公をかばいエリオットを投獄、議会解散を命じた。これにより特別税をほとんど得られなかったばかりか、フランスがイングランドを見限りスペインと和睦、イングランドは両国を敵に回り孤立した。しかもバッキンガム公が自ら指揮を執った1627年のフランス・ユグノー援助に失敗、1000人以上の兵を失う失態を演じ人々の更なる怒りを買い(ラ・ロシェル包囲戦)、チャールズ1世が特別税の代わりに強制借上げ金を徴収したことがジョン・ハムデンら庶民院議員の反感を買い、政府は議会の信用を失っていった[5][9]。
1628年3月、チャールズ1世はバッキンガム公の要請で次こそ特別税を獲得すべく議会を召集したが、反バッキンガム公および反専制で固まった議会から「権利の請願」が提出され、課税には議会の承認を得ることを求められた。これに対しチャールズ1世は一旦請願受託の署名を行うが、相変わらずバッキンガム公批判を続ける議会から側近を守るため6月に議会を停会した。翌1629年1月に議会は再開されたが、3月に議会を解散、エリオットを再度投獄し1632年に獄死するまで監禁、議会が閉じられた状態で専制政治を行った(無議会政治)。しかしこの間、バッキンガム公は1628年6月に私怨で暗殺されチャールズ1世は側近を失った[5][10]。
清教徒革命へ
無議会政治の間チャールズ1世は外交を親フランスに切り替え1628年にフランス、1630年にスペインと和睦し三十年戦争から手を引いた。内政では財政再建のため国王大権を濫用、トン税・ポンド税・船舶税などを国民から強引に徴収、星室庁・高等宗務官裁判所などを使い反対派を処罰、新たな側近としてトマス・ウェントワース(後にストラフォード伯爵)、カンタベリー大主教ウィリアム・ロードを取り立て、ロードの助言で宗教をイングランド国教会統一に乗り出し、ピューリタンを弾圧した。だがロードの政策がスコットランドにも国教を強制するにおよんで、各地に反乱が起きた。一方ストラフォード伯はアイルランドへ赴任・統治したが、こちらも弾圧政策を行ったため不穏な情勢となった。1633年にチャールズ1世がスコットランド王戴冠式を行った時も儀式がカトリック的だとスコットランド国民から反感を買い、1637年に国教会の祈祷書押しつけに反対した国民が暴動を起こす有様だった[5][11]。
やがて1639年、スコットランド貴族層が国民盟約を結成し主教戦争が発生すると、チャールズ1世はスコットランドへ出兵したが自軍が不利だったため、側近のハミルトン侯爵(後に公爵)ジェイムズ・ハミルトンの工作で一旦休戦したが(ベリック条約)、反乱鎮圧のための戦費を得る目的で1640年、11年ぶりに議会を招集したが、議会は国王批判の場となった(短期議会・長期議会)。4月の短期議会はジョン・ピムを先頭に専制に対する批判が続出したため5月に解散、戦費は得られずスコットランドは国民盟約が主導権を握り、8月のニューバーンの戦いで国王軍が敗北するにおよびチャールズ1世は盟約派と和睦するしかなくなり(リポン条約)、和睦締結まで北イングランドに駐屯するスコットランド軍の費用を支払う羽目に陥り、財政難のため11月に長期議会を召集せざるを得なかった[5][12]。
一方、チャールズ1世は議会に対抗するため1641年8月にスコットランドを訪問、盟約派の幹部であるアレクサンダー・レスリーとアーガイル伯爵アーチボルド・キャンベルをリーヴン伯爵・アーガイル侯爵に叙爵、アーガイル侯と対立し投獄されたモントローズ伯爵(後に侯爵)ジェイムズ・グラハムを釈放させ、スコットランドの長老派教会を認めるなど譲歩で味方に付けようと図ったが、アーガイル侯らは敵対姿勢を継続したため当てが外れた[13]。
長期議会はピムが専制政治非難を続行、国王大権を制限するため改革法案を立法化、トン税・ポンド税・船舶税・星室庁・高等宗務官裁判所などが廃止され王権は制限をかけられ、ストラフォード伯とロードも議会に責任を問われ弾劾・投獄・処刑される事態となった(ストラフォード伯は1641年5月、ロードは1645年1月)。アイルランドでも同年10月に反乱が起こりアイルランド・カトリック同盟が結成され、イングランドが政情不安に包まれる中、11月に議会の大諫奏(大抗議文)が議会で可決、追い詰められたチャールズ1世は翌1642年1月、兵隊を率いて反国王派のピム・ハムデンら5人の議員を逮捕しようとして失敗、議会派と王党派の対立が決定的になり議会から裁可を求められた民兵条例、19ヶ条提案を大権制限する内容のため拒否、8月にチャールズ1世はノッティンガムで王旗を掲げ、ここに第一次イングランド内戦が勃発した[5][14]。
議会との全面戦争
第一次内戦は当初、チャールズ1世の甥に当たるカンバーランド公ルパートとニューカッスル伯ウィリアム・キャヴェンディッシュの働きで10月のエッジヒルの戦いは引き分け、翌1643年6月のアドウォルトン・ムーアの戦いで勝利し互角あるいは王党派が優位であったが、9月25日に議会派と盟約派が厳粛な同盟と契約を締結、スコットランドが議会派に加勢し戦況は議会派に傾き始め、オリバー・クロムウェル率いる鉄騎隊の活躍により、1644年7月のマーストン・ムーアの戦いなどで王党派が各地で打ち破られた。1645年6月のネイズビーの戦いでチャールズ1世・ルパート率いる国王軍はトーマス・フェアファクスを司令官、クロムウェルを副司令官とするニューモデル軍に決定的な大敗を喫し、拠点を次々と議会派に奪われ、翌1646年5月にチャールズ1世はスコットランド軍に降伏し第一次内戦は王党派の敗北になり、囚われの身となった[5][15]。
内戦の最中、チャールズ1世は反乱で背かれたスコットランドとアイルランドから援軍を求め交渉していた。スコットランドを王党派で平定すべく盟約派から王党派に離反したモントローズ伯を侯爵に昇叙、スコットランド総督に任じて帰国させた。モントローズ侯は期待に応え1644年8月にアイルランド貴族のアントリム伯ランダル・マクドネルと親戚のアラスデア・マッコーラと共にスコットランドで挙兵(スコットランド内戦)、1645年にはインヴァロッヒーの戦い(2月2日)・キルシスの戦い(8月15日)で連勝しアーガイル侯ら盟約派を追い落として平定に迫ったが、盟約派の反撃に遭い9月13日のフィリップホフの戦いで敗れ、スコットランド平定はならなかった[注 5][16]。
アイルランドでは駐屯軍司令官でアイルランド総督のオーモンド侯ジェームズ・バトラーに反乱勢力のアイルランド・カトリック同盟との交渉を任せ、和睦と援軍派遣を期待していたが、宗教の違いとそれぞれの無理な要求で交渉は難航、1643年9月15日に何とか休戦が成立した。ところが続く和睦交渉は暗礁に乗り上げ[注 6]、互いの要求を棚上げにして和睦条約が調印されたのは1646年3月28日と第一次内戦が終わる寸前であり、援軍を求めるにはあまりにも遅過ぎた。しかもこの間にチャールズ1世はオーモンド侯の頭越しにアイルランドへ密使を送ることを計画、密使として派遣され1645年7月にアイルランドに着いた寵臣のグラモーガン伯エドワード・サマセットはオーモンド侯に協力するふりをしてアイルランド同盟と独自に接触した[17]。
更に、11月にアイルランドへ派遣されたローマ教皇インノケンティウス10世の特使ジョヴァンニ・バッティスタ・リヌチーニが和睦条約に反対して聖職者や軍人達を動かし、グラモーガン伯もリヌチーニと結びつきアイルランド人に対する土地返還とカトリック寛容を引き換えにした軍事援助の秘密条約実施を申し出た。だがリヌチーニはどちらの条約にも反対、グラモーガン伯は秘密交渉の発覚で逮捕され、チャールズ1世はグラモーガン伯との関与を否定したがアイルランド同盟から不信を抱かれ、オーモンド侯の和睦条約もリヌチーニに扇動された反対派により破棄され、もはやアイルランドからも援軍を期待出来なくなった[注 7][18]。
再起失敗、処刑
1647年11月に一旦ワイト島へ脱出、ハミルトン公らスコットランド王党派と和解契約を結んで第二次イングランド内戦を勃発させたが、1648年8月にプレストンの戦いでハミルトン公率いるスコットランド軍(エンゲージャーズ)がクロムウェルの議会軍に大敗、ハミルトン公が捕らえられたため第二次内戦も敗北に終わり(後にハミルトン公は処刑)、11月に再び議会軍に投降した。一方、議会派は戦争終結を巡り国王との妥協を図る長老派と徹底抗戦の独立派が対立、12月6日のプライドのパージで長老派が議会から追放、独立派が残ったランプ議会がチャールズ1世処刑の裁判を進めていった[5][19]。
1649年1月27日、裁判によってチャールズ1世の処刑が宣告された。1月30日、自らルーベンスに内装及び天井画を依頼したホワイトホール宮殿のバンケティング・ハウス前で公開処刑され、チャールズ1世は斬首された[5][20]。彼の最期の言葉は「我は、この堕落した王位を離れ、堕落し得ぬ、人生の極致へと向かう。そこには如何なる争乱も存在し得ず、世界は安寧で満たされているのだ。」(原文"I go from a corruptible to an incorruptible Crown, where no disturbance can be, no disturbance in the World.")であった。(30 January, 1649).
チャールズ1世の処刑後王政は廃止されイングランド共和国が誕生、これを認めない王党派はチャールズ1世の長男チャールズ2世を擁立し議会派との戦いを継続したが(第三次イングランド内戦)、やがてそれらを平定したクロムウェルが1653年に護国卿となり、ステュアート朝に代わりイングランド・スコットランド・アイルランドを事実上統治した。チャールズ2世ら王党派がイングランドへ戻れるにはクロムウェル死後の1660年の王政復古まで待たなければならなかった。
子女
ヘンリエッタ・マリアとの間に4男5女を儲けた。
- チャールズ・ジェームズ(1629年) - コーンウォール公、死産
- チャールズ2世(1630年 - 1685年)
- メアリー・ヘンリエッタ(1631年 - 1660年) - オラニエ公ウィレム2世と結婚
- ジェームズ2世(1633年 - 1701年)
- エリザベス(1635年 - 1650年)
- アン(1637年 - 1640年)
- キャサリン(1639年) - 死産
- ヘンリー(1640年 - 1660年) - グロスター公、ケンブリッジ伯
- ヘンリエッタ・アン(1644年 - 1670年) - オルレアン公フィリップ1世と結婚
王位継承の家系図
ロバート1世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ウォルター・ステュアート | マージョリー・ブルース | デイヴィッド2世 | マーガレット・ドラモンド | ジョン・ドラモンド | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
エリザベス・ミュア | (1)ロバート2世 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(2)ロバート3世 | アナベラ・ドラモンド | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(3)ジェームズ1世 | ジョーン・ボーフォート | ジョン・ボーフォート | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
メアリー・オブ・グエルダース | (4)ジェームズ2世 | マーガレット・ボーフォート | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
マーガレット・オブ・デンマーク | (5)ジェームズ3世 | メアリー・ステュアート | ヘンリー7世 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(6)ジェームズ4世 | マーガレット・テューダー | アーチボルド・ダグラス | ヘンリー8世 | メアリー・テューダー | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
メアリー・オブ・ギーズ | (7)ジェームズ5世 | マーガレット・ダグラス | マシュー・ステュアート | メアリー1世 | エリザベス1世 | エドワード6世 | フランセス・ブランドン | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
フランス王 フランソワ2世 | (8)メアリー1世 | ヘンリー・ステュアート | ジェーン・グレイ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(9,I)ジェームズ6世/1世 | アン・オブ・デンマーク | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス | (10,II)チャールズ1世 | エリザベス (プファルツ選帝侯妃) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
キャサリン・オブ・ブラガンザ | (11,III)チャールズ2世 | メアリー・ヘンリエッタ | オラニエ公ウィレム2世 (オランダ総督) | アン・ハイド | (12,IV)ジェームズ7世/2世 | メアリー・オブ・モデナ | ヘンリエッタ・アン | オルレアン公 フィリップ1世 | ゾフィー (ハノーファー選帝侯妃) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(庶子多数) | (13,V)ウィリアム2世/3世 | (13,V)メアリー2世 | (14,VI)アン | ジョージ・オブ・デンマーク | ジェームズ (老僭王) | ジョージ1世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(夭逝) | チャールズ (若僭王) | ヘンリー・ベネディクト | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
- 凡例
注釈
- ^ しかし皮肉にも、帰国した2人は婚約破談により、反スペインで沸き立っていた民衆に歓迎された。この好意を当てにした2人は議会召集をジェームズ1世に進言、1624年2月に開会された。今井、P168、塚田、P68、清水、P19 - P20。
- ^ 元々戦争に反対していたジェームズ1世はスペインを刺激することを避けるため介入、同盟により出兵したイングランド軍に大陸のスペイン領通過を禁じた。これはフランスのイングランド軍上陸禁止に繋がり、ひいては準備不十分のイングランド軍がろくに戦わないまま疫病で自滅という惨めな結果をもたらした。今井、P170 - P171。
- ^ バッキンガム公がフランスと約束した条件の中に、ヘンリエッタ・マリアの家庭内における宗教的寛容と聖堂の設置があり、ヘンリエッタ・マリアはイングランドでもカトリック教徒であり続け、セント・ジェームズ宮殿内部にイニゴー・ジョーンズ設計のクイーンズ・チャペルが建てられた。これらはプロテスタントに恐怖の念を抱かせた。森(1986)、P408、今井、P170。
- ^ だが、乏しい財政では質の悪い兵士しか集められなかったこと、本国からの補給が不十分だったこと、当時軍事技術は向上しており、イングランドがこの変化についていけなかったことも遠征失敗の原因であり、バッキンガム公に全て責任がある訳ではない。今井、P173 - P174。
- ^ 敗北後もモントローズ侯は諦めずゲリラで各地に出没、盟約派との戦いを続けていたが、1646年にスコットランド軍に捕らえられたチャールズ1世が軍解体を命令したためそれに従い、ノルウェーへ亡命した。ウェッジウッド、P578 - P582、P629、P637。
- ^ アイルランド同盟はカトリック刑罰法の撤廃を、オーモンド侯はアイルランド同盟が占領したイングランド国教会の領土返還を要求した。この実現が難しい要求で交渉は進まず、援軍欲しさに撤廃に応じるチャールズ1世をオーモンド侯が諫めることもあった。山本、P140 - P141。
- ^ その後1649年1月17日に改めてオーモンド侯とアイルランド同盟は1646年と同様の条件で和睦、障害だったリヌチーニが2月にアイルランドを離れたため両者は手を結んだが、皮肉にも和睦した日はチャールズ1世が処刑される13日前だった。山本、P144。
脚注
- ^ 木村靖二, 岸本美緒, 小松久男『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2017年、224頁。ISBN 978-4-634-70034-5。
- ^ 森(1986)、P401 - P403、P406。
- ^ 今井、P172。
- ^ 今井、P160、P167、塚田、P66。
- ^ a b c d e f g h i j k 松村、P136。
- ^ 森(1986)、P406 - P407、今井、P167 - P168、塚田、P67 - P68、清水、P19 - P20。
- ^ 森(1986)、P407、今井、P168 - P171、塚田、P68 - P69。
- ^ 森(1986)、P407 - P408、今井、P171 - P173、塚田、P69 - P73。
- ^ 森(1986)、P408 - P409、今井、P174 - P178、P189 - P190、塚田、P73 - P78、清水、P20 - P21。
- ^ 森(1986)、P409、今井、P178 - P180、塚田、P78、清水、P21 - P22。
- ^ 森(1988)、P318 - P319、今井、P180 - P187、トランター、P271 - P272、塚田、P97 - P104、清水、P21 - P24。
- ^ 今井、P187 - P189、P191 - P192、トランター、P272 - P274、塚田、P104 - P107、P124 - P126、清水、P31 - P35。
- ^ 森(1988)、P319 - P320、トランター、P274 - P276。
- ^ 森(1986)、P409 - P410、今井、P192 - P197、塚田、P126 - P136、清水、P35 - P40、P43 - P51。
- ^ 森(1986)、P410 - P411、森(1988)、P320 - P322、今井、P200 - P209、塚田、P136 - P138、P152 - P154、清水、P60 - P64、P69 - P71、P76 - P82、P88 - P96、P99 - P100。
- ^ トランター、P276 - P280、ウェッジウッド、P374 - P378、P426 - P432、P495 - P502、P517 - P518。
- ^ 山本、P136 - P142、ウェッジウッド、P324 - P325、P492。
- ^ 山本、P142 - P144、ウェッジウッド、P541 - P546、P555 - P559、P617 - P620。
- ^ 森(1988)、P411、今井、P213 - P215、塚田、P157 - P159、清水、P123、P126 - P127、P129 - P138。
- ^ 森(1986)、P404 - P406、P411 - P412、今井、P215、清水、P138 - P148。
参考文献
- 森護『英国王室史話』大修館書店、1986年。
- 森護『スコットランド王室史話』大修館書店、1988年。
- 今井宏編『世界歴史大系 イギリス史2 -近世-』山川出版社、1990年。
- ナイジェル・トランター著、杉本優訳『スコットランド物語』大修館書店、1997年。
- 松村赳・富田虎男編『英米史辞典』研究社、2000年。
- 塚田富治『近代イギリス政治家列伝 かれらは我らの同時代人』みすず書房、2001年。
- 山本正『「王国」と「植民地」 近世イギリス帝国のなかのアイルランド』思文閣出版、2002年。
- 清水雅夫『王冠のないイギリス王 オリバー・クロムウェル―ピューリタン革命史』リーベル出版、2007年。
- シセリー・ヴェロニカ・ウェッジウッド著、瀬原義生訳『イギリス・ピューリタン革命―王の戦争―』文理閣、2015年。
関連項目
- ダルタニャン物語 - 『二十年後』に登場。ダルタニャンや三銃士はチャールズ1世を救おうとしたが失敗する。
- アラトリステ - 1巻に登場。主人公ディエゴ・アラトリステ・イ・テノーリオに命を救われる。
- クロムウェル (映画) (1970年 監督:ケン・ヒューズ)
- クロムウェル〜英国王への挑戦〜 (2003年 監督:マイク・バーカー)
先代 ジェームズ1世/6世 |
イングランド王・アイルランド王 1625年 - 1649年 |
次代 チャールズ2世 |
スコットランド王 1625年 - 1649年 |