ジョン・ボーフォート (初代サマセット公)
ジョン・ボーフォート John Beaufort | |
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初代サマセット公 | |
在位 | 1443年8月28日 - 1444年5月27日 |
出生 |
1404年3月25日以前 |
死去 |
1444年5月27日(40歳没) |
埋葬 | イングランド王国、ドーセット、ウィンボーン・ミンスター |
配偶者 | マーガレット・ビーチャム |
子女 | マーガレット・ボーフォート |
家名 | ボーフォート家 |
父親 | サマセット伯ジョン・ボーフォート |
母親 | マーガレット・ホランド |
初代サマセット公ジョン・ボーフォート(John Beaufort, 1st Duke of Somerset, KG, 1404年3月25日(洗礼) - 1444年5月27日)は、百年戦争期のイングランドの貴族で軍司令官。サマセット伯ジョン・ボーフォートの次男でヘンリー・ボーフォートは兄、エドムンド・ボーフォートは弟。ヘンリー4世の甥、ヘンリー5世の従弟に当たる。テューダー朝を開いたヘンリー7世は孫。
生涯
[編集]1418年、夭逝した兄ヘンリーの後を継いで第3代サマセット伯になった[1]。翌1419年のヘンリー5世のフランス遠征に従軍、1421年には王弟クラレンス公トマス・オブ・ランカスターに従ってアンジューで戦ったが、ボージェの戦いでクラレンス公は殺され、サマセット伯は弟と共に捕虜となってしまった。
1425年3月25日にサマセット伯は成年に達したが、投獄されていた彼には父の所領を継ぐことも出来ず、受け継ぐべき地所はその後も母が管理するしかなかった。結局彼は17年間収監された後、1438年に身代金を払って解放された。この後、彼はイングランドのフランス方面軍での主要な指揮官の1人になっていく。翌1439年にマーガレット・ビーチャムと結婚し、1443年に一人娘マーガレットが生まれた。
1442年にギュイエンヌ(ガスコーニュ)方面司令官に任命され、翌1443年にサマセット公に昇格、ケンダル伯に列せられた上にガーター騎士団のメンバーに叙任され、8月に大陸へ遠征した。しかし司令官としての力量は乏しく、就任は叔父のヘンリー・ボーフォート枢機卿の意向に依るところが大きく、彼がボーフォート家の勢力拡大と政敵のノルマンディー総督・ヨーク公リチャードの牽制を図った人事であった[2]。
フランスの遠征は上手くいかず失敗、1444年に急死した。自殺だったと言われている。嫡出の息子がいなかったため公位は消滅、弟のエドムンドはサマセット伯位を継いだが、やがてサマセット公位も継いだ。娘マーガレットはサフォーク公ウィリアム・ド・ラ・ポールに引き取られ息子ジョンと結婚した[3]。
子女
[編集]マーガレット・ビーチャムとの間に1人娘を儲けた。
- マーガレット・ボーフォート(1443年5月31日 - 1509年6月29日) - サフォーク公ジョン・ド・ラ・ポール、リッチモンド伯エドマンド・テューダー、ヘンリー・スタッフォード卿、ダービー伯トマス・スタンリーと結婚。ヘンリー7世の母。
また、3人の庶子が確認されている。
- ジャシンダ(1434年頃 - 1469年以降) - グレイ・ドゥ・ウィルトン男爵レジナルド・グレイと結婚
- トマシン(1444年以前 - 1494年頃)
- ジョン・オブ・サマセット(1444年頃 - 1453年)
脚注
[編集]参考文献
[編集]爵位・家督 | ||
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先代 新設 |
サマセット公 1443年 - 1444年 |
次代 消滅 |
先代 ヘンリー・ボーフォート |
サマセット伯 1418年 - 1443年 |
次代 エドムンド・ボーフォート |