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|監督年10=2013-2015|監督チーム10={{Flagicon|JPN}} 鹿島アントラーズ |
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'''トニーニョ・セレーゾ''' (Toninho Cerezo) こと、'''アントニオ・カルロス・セレーゾ'''({{lang-pt|Antônio Carlos Cerezo}}、[[1955年]][[4月21日]] - )は、[[ブラジル]]・[[ミナスジェライス州]][[ベロオリゾンテ]]出身<ref name="Brazil">[http://backpagefootball.com/world-cup-legends-brazil-toninho-cerezo/76986/ World Cup Legends: Brazil & Toninho Cerezo - BP Football 2014年7月12日]</ref>の元[[プロサッカー選手]]、サッカー指導者。現役時代のポジションは[[ミッドフィールダー]]([[ミッドフィールダー#守備的ミッドフィールダー|ボランチ]])。強固なフィジカルやタックルだけでなく、豊富な運動量と長短の正確なパスを武器に活躍した<ref name="Brazil">[http://backpagefootball.com/world-cup-legends-brazil-toninho-cerezo/76986/ World Cup Legends: Brazil & Toninho Cerezo - BP Football 2014年7月12日]</ref>。元オランダ代表の[[フランク・ライカールト]]が目標としていた選手であった<ref>[https://www.jleague.jp/jsgoal_archive/jsgoal/detail.php?press_code=00010065 【FCBARCELONA ON TOUR JAPAN 2004 鹿島 vs FCバルセロナ レポート】ファンタジスタ“ロナウジーニョ”のプレーに満員の国立が酔いしれた!(04.08.02)] J.League.jp</ref>。利き手は右<ref name="Hige">[http://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2017/09/09/kiji/20170908s00002179417000c.html |
'''トニーニョ・セレーゾ''' (Toninho Cerezo) こと、'''アントニオ・カルロス・セレーゾ'''({{lang-pt|Antônio Carlos Cerezo}}、[[1955年]][[4月21日]] - )は、[[ブラジル]]・[[ミナスジェライス州]][[ベロオリゾンテ]]出身<ref name="Brazil">[http://backpagefootball.com/world-cup-legends-brazil-toninho-cerezo/76986/ World Cup Legends: Brazil & Toninho Cerezo - BP Football 2014年7月12日]</ref>の元[[プロサッカー選手]]、サッカー指導者。現役時代のポジションは[[ミッドフィールダー]]([[ミッドフィールダー#守備的ミッドフィールダー|ボランチ]])。強固なフィジカルやタックルだけでなく、豊富な運動量と長短の正確なパスを武器に活躍した<ref name="Brazil">[http://backpagefootball.com/world-cup-legends-brazil-toninho-cerezo/76986/ World Cup Legends: Brazil & Toninho Cerezo - BP Football 2014年7月12日]</ref>。元オランダ代表の[[フランク・ライカールト]]が目標としていた選手であった<ref>[https://www.jleague.jp/jsgoal_archive/jsgoal/detail.php?press_code=00010065 【FCBARCELONA ON TOUR JAPAN 2004 鹿島 vs FCバルセロナ レポート】ファンタジスタ“ロナウジーニョ”のプレーに満員の国立が酔いしれた!(04.08.02)] J.League.jp</ref>。利き手は右<ref name="Hige">[http://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2017/09/09/kiji/20170908s00002179417000c.html ガンバ次期監督にセレーゾ氏浮上!幹部が近日中にブラジル入り - スポニチ 2017年9月9日]</ref>。 |
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ガンバ次期監督にセレーゾ氏浮上!幹部が近日中にブラジル入り - スポニチ 2017年9月9日]</ref>。 |
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== 経歴 == |
== 経歴 == |
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また、1999年に[[ECヴィトーリア]]の監督に就任して当時2部のクラブを若手主体で州選手権優勝に導いた。 |
また、1999年に[[ECヴィトーリア]]の監督に就任して当時2部のクラブを若手主体で州選手権優勝に導いた。 |
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[[2000年]]より[[鹿島アントラーズ]]の監督に就任。就任1年目にJリーグ初の年間3冠(Jリーグ年間王者、[[Jリーグカップ|ナビスコカップ]]、[[天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]])に輝くなど在任中に合計5冠を獲得した。[[2005年]]シーズン終了後に勇退。6シーズンという長期政権を敷いた<ref name="Hige">[http://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2017/09/09/kiji/20170908s00002179417000c.html |
[[2000年]]より[[鹿島アントラーズ]]の監督に就任。就任1年目にJリーグ初の年間3冠(Jリーグ年間王者、[[Jリーグカップ|ナビスコカップ]]、[[天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]])に輝くなど在任中に合計5冠を獲得した。[[2005年]]シーズン終了後に勇退。6シーズンという長期政権を敷いた<ref name="Hige">[http://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2017/09/09/kiji/20170908s00002179417000c.html ガンバ次期監督にセレーゾ氏浮上!幹部が近日中にブラジル入り - スポニチ 2017年9月9日]</ref>。 |
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ガンバ次期監督にセレーゾ氏浮上!幹部が近日中にブラジル入り - スポニチ 2017年9月9日]</ref>。 |
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[[2006年]]よりブラジル・[[グアラニFC]]の監督に就任したが、チームの2部降格、フロントとの衝突もあって2ヶ月で退任。 |
[[2006年]]よりブラジル・[[グアラニFC]]の監督に就任したが、チームの2部降格、フロントとの衝突もあって2ヶ月で退任。 |
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2011年、イタリア・[[UCサンプドリア]]の強化部で一時的にスカウトの仕事を務め、その後に古巣である[[ECヴィトーリア]]の監督に13年ぶりに就任。 |
2011年、イタリア・[[UCサンプドリア]]の強化部で一時的にスカウトの仕事を務め、その後に古巣である[[ECヴィトーリア]]の監督に13年ぶりに就任。 |
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2013年、8年ぶりに鹿島の監督に就任。第5節セレッソ大阪戦での勝利により、J1監督100勝目を史上最速で挙げた<ref name="Hige">[http://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2017/09/09/kiji/20170908s00002179417000c.html |
2013年、8年ぶりに鹿島の監督に就任。第5節セレッソ大阪戦での勝利により、J1監督100勝目を史上最速で挙げた<ref name="Hige">[http://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2017/09/09/kiji/20170908s00002179417000c.html ガンバ次期監督にセレーゾ氏浮上!幹部が近日中にブラジル入り - スポニチ 2017年9月9日]</ref>。外国人監督としてはハンス・オフトを抜いて、最速189試合目での到達となった。2014年は優勝争いをするも僅かに優勝には届かず。2015年7月21日、成績不振により解任<ref name="Hige">[http://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2017/09/09/kiji/20170908s00002179417000c.html ガンバ次期監督にセレーゾ氏浮上!幹部が近日中にブラジル入り - スポニチ 2017年9月9日]</ref>。下位クラブへの取りこぼしや、采配のワンパターンぶりを指摘された |
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ガンバ次期監督にセレーゾ氏浮上!幹部が近日中にブラジル入り - スポニチ 2017年9月9日]</ref>。外国人監督としてはハンス・オフトを抜いて、最速189試合目での到達となった。2014年は優勝争いをするも僅かに優勝には届かず。2015年7月21日、成績不振により解任<ref name="Hige">[http://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2017/09/09/kiji/20170908s00002179417000c.html |
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ガンバ次期監督にセレーゾ氏浮上!幹部が近日中にブラジル入り - スポニチ 2017年9月9日]</ref>。下位クラブへの取りこぼしや、采配のワンパターンぶりを指摘された |
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<ref>[http://www.nikkansports.com/soccer/news/1510848.html 鹿島セレーゾ監督解任 ワンパターン采配に批判の声] nikkansports.com</ref>。 |
<ref>[http://www.nikkansports.com/soccer/news/1510848.html 鹿島セレーゾ監督解任 ワンパターン采配に批判の声] nikkansports.com</ref>。 |
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== 人物・エピソード == |
== 人物・エピソード == |
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* 現役時代から蓄えている口ひげがトレードマーク。愛称はヒゲ<ref name="Hige">[http://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2017/09/09/kiji/20170908s00002179417000c.html |
* 現役時代から蓄えている口ひげがトレードマーク。愛称はヒゲ<ref name="Hige">[http://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2017/09/09/kiji/20170908s00002179417000c.html ガンバ次期監督にセレーゾ氏浮上!幹部が近日中にブラジル入り - スポニチ 2017年9月9日]</ref>。 |
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ガンバ次期監督にセレーゾ氏浮上!幹部が近日中にブラジル入り - スポニチ 2017年9月9日]</ref>。 |
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* 息子のレオナルドは{{仮リンク|レア・ティー|en|Lea T}}の名前で[[トランスジェンダー]]の[[ファッションモデル]]として活躍しており、[[ジバンシィ]]の女性モデルに起用された<ref>[http://www.sanspo.com/worldcup2010/news/100724/wcb1007240500001-n1.htm セレーゾ息子、女性モデルで今秋デビュー] SANSPO.COM</ref>。 |
* 息子のレオナルドは{{仮リンク|レア・ティー|en|Lea T}}の名前で[[トランスジェンダー]]の[[ファッションモデル]]として活躍しており、[[ジバンシィ]]の女性モデルに起用された<ref>[http://www.sanspo.com/worldcup2010/news/100724/wcb1007240500001-n1.htm セレーゾ息子、女性モデルで今秋デビュー] SANSPO.COM</ref>。 |
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* サンプドリア在籍時には、ドリアーノ(サンプドリアのサポーター)より“ジェノバの救世主”と絶賛され、彼に対しての敬愛をこめて「トニーニョ・セレーゾ・サンバ」という応援歌が作られた<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=mGG6QG9bG3Y Canzone: Samba de Toninho Cerezo]</ref>。 |
* サンプドリア在籍時には、ドリアーノ(サンプドリアのサポーター)より“ジェノバの救世主”と絶賛され、彼に対しての敬愛をこめて「トニーニョ・セレーゾ・サンバ」という応援歌が作られた<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=mGG6QG9bG3Y Canzone: Samba de Toninho Cerezo]</ref>。 |
2017年9月28日 (木) 23:59時点における版
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名前 | ||||||
本名 |
アントニオ・カルロス・セレーゾ Antônio Carlos Cerezo | |||||
愛称 | ヒゲ、セレーゾ | |||||
ラテン文字 | TONINHO CEREZO | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | ブラジル | |||||
生年月日 | 1955年4月21日(69歳) | |||||
出身地 | ベロオリゾンテ | |||||
身長 | 183cm | |||||
体重 | 78kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF (DH) | |||||
利き足 | 右足 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1972-1983 | アトレチコ・ミネイロ | 112 | (12) | |||
1973 | → ナシオナルFC (loan) | 20 | (3) | |||
1983-1986 | ASローマ | 70 | (13) | |||
1986-1992 | UCサンプドリア | 145 | (14) | |||
1992-1993 | サンパウロFC | 72 | (7) | |||
1994-1994 | クルゼイロEC | 10 | (3) | |||
1995-1995 | パウリスタFC | |||||
1995-1995 | サンパウロFC | 8 | (0) | |||
1996-1996 | アトレチコ・ミネイロ | |||||
1996-1996 | アメリカ・ミネイロ | |||||
代表歴 | ||||||
1977-1985 | ブラジル | 74 | (6) | |||
監督歴 | ||||||
1999 | アトレチコ・ミネイロ | |||||
1999 | ECヴィトーリア | |||||
2000-2005 | 鹿島アントラーズ | |||||
2006-2006 | グアラニFC | |||||
2007-2007 | アル・ヒラル | |||||
2008-2009 | アル・シャバーブ | |||||
2009-2010 | アル・アインFC | |||||
2010 | スポルチ・レシフェ | |||||
2012 | ECヴィトーリア | |||||
2013-2015 | 鹿島アントラーズ | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
トニーニョ・セレーゾ (Toninho Cerezo) こと、アントニオ・カルロス・セレーゾ(ポルトガル語: Antônio Carlos Cerezo、1955年4月21日 - )は、ブラジル・ミナスジェライス州ベロオリゾンテ出身[1]の元プロサッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはミッドフィールダー(ボランチ)。強固なフィジカルやタックルだけでなく、豊富な運動量と長短の正確なパスを武器に活躍した[1]。元オランダ代表のフランク・ライカールトが目標としていた選手であった[2]。利き手は右[3]。
経歴
1980年代にサッカーブラジル代表ではジーコ、ソクラテス、パウロ・ロベルト・ファルカンと「黄金のカルテット」を中盤で形成し、数々のタイトルをもたらした。 ブラジルのアトレチコ・ミネイロでプロのキャリアをスタートさせ[1]、約10年間プレーし、ブラジル代表でも中心選手の一人として、1978年のアルゼンチンワールドカップに中心選手として出場、優勝には届かなかったが、ブラジルの3位に貢献した。1982年のスペインワールドカップにもジーコらと黄金のカルテットの一員として出場したが、セレーゾのミスパスによりロッシに得点を許し[1]、イタリアに敗れた後、全盛期にイタリアセリエAに渡った。
ASローマ
ASローマではブラジル代表のチームメートであるファルカン、イタリア代表の中心選手コンティ、ユベントスから移籍のボニエク、と共に中心選手の一人としてプレー。
1983-84シーズンにはコッパ・イタリアの優勝に貢献[1]、UEFAチャンピオンズカップ決勝進出に貢献したが決勝ではリヴァプールに敗れた。 1985-1986シーズンにはコッパ・イタリアで2度目の優勝に貢献した。怪我の為に、ブラジル代表として1986年メキシコワールドカップ出場を逃した[1]。
サンプドリア
UCサンプドリアに移り長年に渡り中心選手として活躍、チーム初のセリエA制覇やカップウィナーズカップ獲得など、ロベルト・マンチーニ、ビアリ、ビエルコウッドらとサンプドリアの黄金期を築いた。
1987-88のコパイタリア優勝に貢献[1]。
1988-89シーズンはコパイタリア優勝に貢献[1]、カップウィナ-ズカップ決勝の進出に貢献したが敗れた。
1989-90シーズン カップウィナ-ズカップ優勝に貢献[1]。
1990-91シーズンは、怪我で多くの試合を欠場したが[4]、7節のACミランとのゲームでは決勝点を[4] 、26節のナポリとのゲームの先制点、優勝が決定したレッチェとのゲームで先制点となるミドルシュートを決めるなど[4]、チーム初のスクデットに貢献。
1991-92シーズンのチャンピオンズカップ決勝の進出に貢献、決勝でも先発出場し、グアルディオラを押さえたが[1]、ビアリが決定的チャンスを3度逃がし[4]、バルセロナに敗れた。
サンパウロ
1991-92のセリエA終了後には、テレ・サンターナ元ブラジル代表監督の誘いで[1]、母国ブラジルのサンパウロFCに所属、カフー、ミューレルらと共に、サンパウロの黄金期を支えた。
1992年のリーグ優勝、トヨタカップの優勝に貢献。(1992年12月のトヨタカップでは、同年5月のサンプドリア所属時にチャンピオンズカップの決勝で敗れたバルセロナに勝利し雪辱を果たす。)
1993年リベルタドーレスカップ優勝、トヨタカップの優勝に貢献。ACミランとの対戦では、ACミランDF陣の隙を突く鋭いパスからミューレルの決勝点となるゴールをアシスト[1][5]、38歳ながら1ゴール1アシストを記録して大会MVPに選ばれた。 スーペルコパスダメリカーナ、レコパカップの優勝にも貢献した。
その後は1994年にクルゼイロでプレー、サンパウロFCへ復帰、最後はアトレチコ・ミネイロでプレー後、1997年に現役を引退した[1]。
監督として
また、1999年にECヴィトーリアの監督に就任して当時2部のクラブを若手主体で州選手権優勝に導いた。
2000年より鹿島アントラーズの監督に就任。就任1年目にJリーグ初の年間3冠(Jリーグ年間王者、ナビスコカップ、天皇杯)に輝くなど在任中に合計5冠を獲得した。2005年シーズン終了後に勇退。6シーズンという長期政権を敷いた[3]。
2006年よりブラジル・グアラニFCの監督に就任したが、チームの2部降格、フロントとの衝突もあって2ヶ月で退任。
2007年2月にサウジアラビアのアル・ヒラルの監督に就任したが、成績不振により2ヶ月で解任。
2008年、UAEのアル・シャバーブ・アル・アラビークラブの監督に就任し、チームを優勝に導き、最優秀監督賞を受賞。2009年10月、成績不振を理由に解任された。
2009年12月にUAEのアル・アインFCの監督に就任したが、2010年4月15日、AFCチャンピオンズリーグ2010でFCパフタコール・タシュケントに2-3で敗れた直後に解任された。
2011年、イタリア・UCサンプドリアの強化部で一時的にスカウトの仕事を務め、その後に古巣であるECヴィトーリアの監督に13年ぶりに就任。
2013年、8年ぶりに鹿島の監督に就任。第5節セレッソ大阪戦での勝利により、J1監督100勝目を史上最速で挙げた[3]。外国人監督としてはハンス・オフトを抜いて、最速189試合目での到達となった。2014年は優勝争いをするも僅かに優勝には届かず。2015年7月21日、成績不振により解任[3]。下位クラブへの取りこぼしや、采配のワンパターンぶりを指摘された [6]。
人物・エピソード
- 現役時代から蓄えている口ひげがトレードマーク。愛称はヒゲ[3]。
- 息子のレオナルドはレア・ティーの名前でトランスジェンダーのファッションモデルとして活躍しており、ジバンシィの女性モデルに起用された[7]。
- サンプドリア在籍時には、ドリアーノ(サンプドリアのサポーター)より“ジェノバの救世主”と絶賛され、彼に対しての敬愛をこめて「トニーニョ・セレーゾ・サンバ」という応援歌が作られた[8]。
- ロベルト・マンチーニとは大の親友で、鹿島の監督時にマンチーニの引退試合に急遽駆け付け、MVPを受賞した。
個人成績
国内大会個人成績 | |||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
ブラジル | リーグ戦 | ブラジル杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
1972 | アトレチコ-MG | 3 | 0 | ||||||||
1973 | 4 | 0 | |||||||||
1973 | ナシオナル-AM | 20 | 3 | ||||||||
1974 | アトレチコ-MG | 5 | 0 | ||||||||
1975 | 12 | 0 | |||||||||
1976 | 19 | 2 | |||||||||
1977 | 18 | 0 | |||||||||
1978 | |||||||||||
1979 | 8 | 1 | |||||||||
1980 | 19 | 4 | |||||||||
1981 | 9 | 3 | |||||||||
1982 | 3 | 0 | |||||||||
1983 | 11 | 2 | |||||||||
イタリア | リーグ戦 | イタリア杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
1983-84 | ローマ | セリエA | 30 | 6 | |||||||
1984-85 | 22 | 3 | |||||||||
1985-86 | 18 | 4 | |||||||||
1986-87 | サンプドリア | 28 | 3 | ||||||||
1987-88 | 28 | 3 | |||||||||
1988-89 | 29 | 2 | |||||||||
1989-90 | 21 | 2 | |||||||||
1990-91 | 12 | 3 | |||||||||
1991-92 | 27 | 1 | |||||||||
ブラジル | リーグ戦 | ブラジル杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
1992 | サンパウロ | ||||||||||
1993 | 13 | 1 | |||||||||
1994 | 10 | 3 | |||||||||
1995 | パウリスタ | 3部 | |||||||||
1995 | サンパウロ | 8 | 0 | ||||||||
1996 | アトレチコ-MG | ||||||||||
1996 | アメリカ-MG | 2部 | |||||||||
通算 | ブラジル | ||||||||||
イタリア | セリエA | ||||||||||
総通算 |
代表歴
- 1977年 - 1985年 ブラジル代表
- 1978年 - FIFAワールドカップ (3位)
- 1980年 - ムンディアリート (準優勝)
- 1982年 - FIFAワールドカップ
獲得タイトル
選手
- カンピオナート・アマゾネンセ:1回 (1974)
- カンピオナート・ミネイロ:7回 (1976, 1978, 1979, 1980, 1981, 1982, 1983)
- コッパ・イタリア:2回 (1984, 1986)
- セリエA:1回 (1990-91)
- コッパ・イタリア:2回 (1988, 1989)
- UEFAカップウィナーズカップ:1回 (1989-90)
- カンピオナート・パウリスタ:1回 (1992)
- トヨタカップ:2回 (1992, 1993)
- コパ・リベルタドーレス:1回 (1993)
- スーペルコパ・スダメリカーナ:1回 (1993)
- レコパ・スダメリカーナ:2回 (1993, 1994)
- トヨタカップ最優秀選手賞:1回 (1993)
指導者
- Jリーグ ディビジョン1:2回 (2000, 2001)
- ヤマザキナビスコカップ:2回 (2000, 2002)
- 天皇杯:1回 (2000)
- A3チャンピオンズカップ:1回 (2003)
- スルガ銀行チャンピオンシップ:1回 (2013)
- Jリーグ優勝監督賞:2回 (2000, 2001)
- UAEリーグ:1回 (2007-08)
脚注
- ^ a b c d e f g h i j k l m World Cup Legends: Brazil & Toninho Cerezo - BP Football 2014年7月12日
- ^ 【FCBARCELONA ON TOUR JAPAN 2004 鹿島 vs FCバルセロナ レポート】ファンタジスタ“ロナウジーニョ”のプレーに満員の国立が酔いしれた!(04.08.02) J.League.jp
- ^ a b c d e ガンバ次期監督にセレーゾ氏浮上!幹部が近日中にブラジル入り - スポニチ 2017年9月9日
- ^ a b c d The forgotten story of Sampdoria's only scudetto -theguardian 2009年2月25日
- ^ 連載 週刊サッカーダイジェスト・メモリアルアーカイブ その3 ― 1993年12月29日号 -SOCCERDIGESTWEB 2015年03月08日
- ^ 鹿島セレーゾ監督解任 ワンパターン采配に批判の声 nikkansports.com
- ^ セレーゾ息子、女性モデルで今秋デビュー SANSPO.COM
- ^ Canzone: Samba de Toninho Cerezo