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1984年、25歳の時、タレント業を休業し、[[ニューヨーク]]の[[ニューヨーク市立大学ハンター校|ハンター大学]]に1年間、語学留学。[[ブロードウェイ]]に通いダンスを学ぶ。28歳で高校2年次に編入学、30歳で高校卒業([[通信教育]]<!--でラジオ聴きながら-->)。1989年から1992年にかけて、[[ロサンゼルス]]の[[ペパーダイン大学]]にて[[健康心理学]]、[[南カリフォルニア大学]]にて経済学を学ぶ。1993年、大学関連の知人のホームパーティーで知り合った男性と結婚。1994年2月<!--9日-->に<!--本人いわく35歳で-->長女、1995年8月<!--19日-->に<!--本人いわく37歳で-->次女<!--Yuki Kristina Chiang-->を共に台湾で出産。のちにアメリカに移住、2004年から10年ほどスポーツバーを経営<!--http://archive.is/MNRzC-->。 |
1984年、25歳の時、タレント業を休業し、[[ニューヨーク]]の[[ニューヨーク市立大学ハンター校|ハンター大学]]に1年間、語学留学。[[ブロードウェイ]]に通いダンスを学ぶ。28歳で高校2年次に編入学、30歳で高校卒業([[通信教育]]<!--でラジオ聴きながら-->)。1989年から1992年にかけて、[[ロサンゼルス]]の[[ペパーダイン大学]]にて[[健康心理学]]、[[南カリフォルニア大学]]にて経済学を学ぶ。1993年、大学関連の知人のホームパーティーで知り合った男性と結婚。1994年2月<!--9日-->に<!--本人いわく35歳で-->長女、1995年8月<!--19日-->に<!--本人いわく37歳で-->次女<!--Yuki Kristina Chiang-->を共に台湾で出産。のちにアメリカに移住、2004年から10年ほどスポーツバーを経営<!--http://archive.is/MNRzC-->。 |
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2013年7月18日の[[DDTプロレスリング|DDT]][[両国国技館]]大会にて[[赤井沙希]]がデビューすると知り、帰国して観戦した<ref>[https://web.archive.org/web/20131203041123/http://beamie.jp/?m=user&a=blog&k=detail&target_c_diary_id=205920 おどろき!](2013年12月3日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>。10月には20年振りに日本で本格的にタレント活動を復帰することを雑誌『[[女性自身]]』のインタビュー{{Full|date=2017年3月}}で語り、2014年に芸能復帰。活動再開後は[[生島企画室]]に所属<ref name="ikushimaprof" />。 |
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== 出演 == |
== 出演 == |
2017年9月4日 (月) 17:15時点における版
マッハ文朱 | |
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プロフィール | |
リングネーム | マッハ文朱 |
身長 | 174cm |
誕生日 | 1959年3月3日(65歳) |
出身地 | 熊本県 |
スポーツ歴 |
柔道 空手 合気道 |
デビュー | 1973年 |
引退 | 1976年 |
マッハ文朱(マッハふみあけ、1959年3月3日[1][2] - )は、日本の女優[2][1]、タレント[2]、歌手[1]。元女子プロレスラー。熊本県[1][2]。身長174cm、血液型はB型[1][2]。三人姉妹の次女[要出典]。
小学校時代に東京都葛飾区に転居[要出典]、葛飾区立半田小学校[要出典]、葛飾区立金町中学校[要出典]、東海大学付属望星高等学校卒業[要出典]。1993年、パイロットの台湾系アメリカ人ロバート・チャンと結婚。2人の娘の母。長女は宝塚歌劇団星組の桃堂純。アメリカ在住の次女はジュニア・オレンジ・ボウルに優勝したテニスプレーヤーYuki Chiangである[3]。
来歴
歌手志望で、1972年、13歳の時、『スター誕生!』に出場し、決戦大会(本戦合格者が出場する、芸能事務所・レコード会社参加の最終審査)まで進出したが、スカウトのプラカードは挙がらなかった。同決戦大会に山口百恵が出場していたことから後に「山口百恵に敗れた」という形容で呼ばれるようになった(なおスター誕生は「勝ち抜き戦」ではなく審査は個別に行われるもので、直接対決に敗れたのではなく20社のスカウトが集中した山口との対比を指した比喩である)。
おじがゴルフをやっていて、ゴルファーになることが決まっていたが、姉が「女子プロレスラー募集」という週刊誌の小さい募集記事を見つけてきた。1974年、15歳の時、姉に勧められ、一転して全日本女子プロレスに入門(結果的に芸能界に縁のあった者や志望者がプロレスに入門するというケースのはしりとなり、ミミ萩原、アストレスなどがそれに続いた)[4]。2011年10月1日付の『朝日新聞』の特集「うたの旅人」におけるインタビューで文朱はプロレス転身について、『スター誕生!』決戦大会後に番組プロデューサーから「いまはかわいい一辺倒のアイドル全盛だから、君は大人っぽくて中途半端だ」と言われたことから、体格と運動神経を生かしてスポーツの路に進むしかないと見極めがついた、と語っている。リングネーム「マッハ文朱」は、巴ゆき子の命名によるものであった。「タイガー茜」というリングネームに決まっていたが、マッハの強い希望で「マッハ文朱」になった。「マッハ」は何をするのも速いことから、「文」は本名から、「朱」は母におねだりして唯一買ってもらってよく着ていたセーターの色から。
長身、ルックスの良さ、もって生まれたスター性、前述のごとく歌も歌えることなどからすぐに注目され、旗揚げ後苦難が続いた同団体初のアイドルスター選手となり、従来の女子プロレスのイメージを変え、TVの人気も上がり、同団体の経営が確立した[4]。圧倒的な体格・体力だけでなく格闘技歴があったため、相手選手を壊さないように気をつけながらリングに上がっていたと本人は発言している。
1975年3月19日、WWWA世界シングル王座(第17代)獲得。同年4月15日、赤城マリ子とのタッグでWWWA世界タッグ王座(第61代)獲得。選手として強いだけではなく、プロの歌手としてレコードも出しそれをヒットさせ、試合後にリングで歌を披露するなど、それまでの女子プロレスラーにはなかった明るいアイドル性も備えており、女性ファンも多数獲得した[4]。マッハの活躍で全日本女子プロレスの隆盛が始まり、後のビューティ・ペアやクラッシュギャルズの雛形的な存在だったと言える。同年、東映映画『華麗なる追跡』で映画デビューも果たした。
1976年、「マッハ文朱」を名乗ってわずか2年8ヵ月でプロレスを引退。すぐに人気タレントとなる[4]。映画『トラック野郎・天下御免』(シリーズ4作目)に序盤のシーンで一番星号とワッパ勝負をする女ミキサー運転手として出演、菅原文太を投げ飛ばす。
1977年に東京12チャンネルと契約してリング復帰。異種格闘技戦を戦うが、長続きしなかった。
空手初段であり、大山倍達の指導を受けた経験を持つ。空手の他に、柔道初段、合気道3段も取得している。
1984年、25歳の時、タレント業を休業し、ニューヨークのハンター大学に1年間、語学留学。ブロードウェイに通いダンスを学ぶ。28歳で高校2年次に編入学、30歳で高校卒業(通信教育)。1989年から1992年にかけて、ロサンゼルスのペパーダイン大学にて健康心理学、南カリフォルニア大学にて経済学を学ぶ。1993年、大学関連の知人のホームパーティーで知り合った男性と結婚。1994年2月に長女、1995年8月に次女を共に台湾で出産。のちにアメリカに移住、2004年から10年ほどスポーツバーを経営。
2013年7月18日のDDT両国国技館大会にて赤井沙希がデビューすると知り、帰国して観戦した[5]。10月には20年振りに日本で本格的にタレント活動を復帰することを雑誌『女性自身』のインタビュー[要文献特定詳細情報]で語り、2014年に芸能復帰。活動再開後は生島企画室に所属[1]。
出演
映画
- 華麗なる追跡(東映、1975年)
- トラック野郎・天下御免(東映、1976年) 須田雅美 役
- ドカベン(東映、1977年) 夏川夏子 役
- 宇宙怪獣ガメラ(大映、1980年) キララ 役 ※映画初主演作
- マルサの女(東宝、1987年) 秋山 役
- マルサの女2(東宝、1988年) 秋山 役
- 肉体の門(東映、1988年) ビッグママお京 役
- ドラえもん のび太の南海大冒険(東宝、1998年) ジャック 役
- 破れ傘刀舟悪人狩り 第32話「旗本雷馬族」(テレビ朝日、1977年) お春 役
- ベルサイユのトラック姐ちゃん(テレビ朝日系・東映制作、1976年) 朱美 役
- 晴れのち晴れ(TBS、1977 - 1978年)
- 遠山の金さん 第65話「りんどう花が嵐を呼んだ」(テレビ朝日、1977年)
- 破れ傘刀舟悪人狩り 第32話「旗本雷馬族」(テレビ朝日、1977年) お春 役
- 気まぐれ本格派 (日本テレビ、1978年)
- 新・江戸の旋風 第3話「悪女伝の女たち」(1980年) お滝 役
- 黄土の嵐(日本テレビ、1980 - 1981年)十三妹役(レギュラー)
- 消防官物語・風に立て(TBS、1981 - 1982年)
- ここまでは他人(TBS、1981年)
- 人情紙風船(毎日放送、1982年)
- 遠山の金さん 第14話「母恋し! 緋牡丹仁義」(テレビ朝日、1982年) 清太郎 役
- 大奥 第38話「大奥のメリークリスマス」(関西テレビ、1983年) 紫野 役
- 西田敏行の泣いてたまるか 第5話「故郷は緑なりき」(TBS、1986年)
- 水曜ドラマスペシャル「水曜日の恋人たち 見合いの傾向と対策」(1986年、TBS)
- ザ・スクールコップ(フジテレビ、1988年) 石川明子 役
- 十九歳(NHK総合、1989年) 教師・川口 役
- 金曜ドラマシアター「おふくろシリーズ7・おふくろに…万歳!!」(フジテレビ、1991年)
- まさか、私が(東海テレビ、1991年)
クイズ番組
- シャープ・スターアクション(日本テレビ)
- 連想ゲーム(NHK総合)
- チャレンジQ(関西テレビ) 司会 役
- 霊感ヤマカン第六感(朝日放送)
- 笑って許して!!(日本テレビ)
- 象印クイズ ヒントでピント(テレビ朝日、1980年10月5日 - 1983年12月25日)
- クイズ!!ひらめきパスワード(毎日放送)
バラエティ
- スター誕生! 欽ちゃん一座正月公演(日本テレビ、1975年1月3日。初の『スタ誕』特番で、決戦大会で出逢った山口百恵と再会)
- ドカドカ大爆笑(テレビ朝日)
- 三枝の愛ラブ!爆笑クリニック(関西テレビ)
- 激突!お笑いルーレット(関西テレビ) 司会 役
- 街かどテレビ11:00(TBS)
- パソコントラベル君ならどうする(TBS) 司会 役
- ペケ×ポン(フジテレビ)(不定期出演)
その他のテレビ番組
- とびだせ!パンポロリン(テレビ朝日)
- 全日本ジュニア歌謡選抜(毎日放送) 司会 役
- 晴ればれハローショッピング(主に独立UHF局) 山田隆夫とともに司会、進行を担当。以前は吉村明宏と担当していた
- マッハ文朱のすこやか達人倶楽部
- 家族そろって三つの歌(日本テレビ) 家族で出演
- おやかまっさん(KBS京都) MC、2016年10月3日 -
- 明石家さんまのコンプレックス杯(テレビ朝日) デカ女代表、2016年3月18日
テレビCM
舞台
ディスコグラフィー
- レスラー時代
- 「花を咲かそう」(デビュー作)(「カップリング「ひとり星」)
- 「よろしくね」
- タレント転向後
- 「愛は未来へ…」(『宇宙怪獣ガメラ』主題歌)
- 「生きてるかぎり」
- 「ダンズビロック」
- 「ハッスルおばあちゃん」(のこいのこの「ハッスルばあちゃん」とは別曲)
- 「森のカーニバル」
- 「燃える青春」
- 「今日はPON PON」
- 「横浜模様」
- 「もういいよ」
タイトル歴
- WWWA世界シングル王座 - 第17代(最年少戴冠記録:16歳0か月 / デビュー後最短戴冠記録:7か月)
- WWWA世界タッグ王座 - 第61、62代(&赤城マリ子)
得意技
著書
- マッハ式やせてびっくり! - 私はこうして20キロやせた(講談社、1982年5月)
- マッハのバナナビクス(堀事務所、1984年1月)
- マッハ流痴漢ゲキタイ法 - 女のコの護身術(主婦の友社、1984年1月)
- マッハのハトムギ美人になろうよ - やせる+美肌(主婦の友社、1985年3月)
- マッハ式座弾&ダイエット - これはやせる!(講談社、1986年7月)
- 女をみがくスパ式心身美容法 - 心と体をシェイプアップする新ダイエット(講談社、1992年9月)