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マキ上田

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
マキ 上田
プロフィール
リングネーム マキ 上田
本名 上田 真基子
身長 168cm
体重 62kg
誕生日 (1959-03-08) 1959年3月8日(65歳)
出身地 鳥取県鳥取市
所属 全日本女子プロレス
スポーツ歴 バレーボール
デビュー 1975年3月19日
引退 1979年2月27日
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マキ上田(マキうえだ、1959年3月8日[1] - )は、元女子プロレスラー。本名:上田 真基子(うえだ まきこ)[1]ジャッキー佐藤とのタッグ「ビューティ・ペア」で一世を風靡した。

経歴

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三人姉妹の長女[1]。兄が1人居たが、マキが生まれる前に肺炎により死去。

鳥取県立鳥取農業高等学校(2001年鳥取県立鳥取湖陵高等学校に統合)を1年で中退して[1]全日本女子プロレスに入門し、1975年3月19日デビュー。デビュー戦は後にビューティ・ペアのパートナーとなるジャッキー佐藤よりわずかに早い。

ジャッキーとビューティ・ペアを結成して、結成初戦の1976年2月24日WWWA世界タッグ王座決定戦で、シルビア・ハックニー&ソニア・オリアーナペアに勝利し、同王座を獲得する。また、ビューティ・ペアは歌手として『かけめぐる青春』をレコード80万枚売り上げ[2]、その後『真赤な青春』『バンババン』『青春にバラはいらない』などの曲が大ヒットするアイドル的存在で、試合の観客席が常にファンの女の子たちで満員になり、試合前のリングで歌を披露する際はリング上が紙テープや紙吹雪でいっぱいになるなど、熱狂的な人気を得た。

同年の1976年6月8日ジャンボ宮本からWWWA世界シングル王座を地元鳥取で獲得。11月30日に赤城マリ子に王座を奪われるものの、翌1977年7月29日に赤城から王座を奪回。11月1日にはマキが持つWWWA世界シングル王座にジャッキーが挑戦。この試合はビューティ・ペア同士の対決として注目され、互いに譲らず60分時間切れ、判定でタイトルを失う。

1978年8月9日チャベラ・ロメロからハワイアンパシフィック王座(後にオールパシフィック王座に改称)を獲得。これにより、WWWAの主要3タイトル(WWWA世界シングル王座、WWWA世界タッグ王座、オールパシフィック王座)を全て獲得した初めての選手となる。

1979年2月27日日本武道館大会では「敗者引退」という過酷なルールでジャッキーと再対決し、48分7秒エビ固めで敗れ引退。オールパシフィック王座を返上、ビューティ・ペアにも終止符が打たれた。マキ上田は当時19歳だった。

この試合は、マキが当時の全日本女子プロレスの社長・松永に自身の引退とビューティ・ペア解散の話を持ちかけたところ、「戦って負けた方が引退」と言われてやったものであり、マキには最初から勝つ気はなかった。一方、約2か月前の1月4日に行われた試合開催発表までジャッキーはそれらについてはまったく知らされていなかった。

引退後

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引退後の一時期は女優として活動し、『ザ・スーパーガール』(東京12チャンネル)のゲスト出演で女優デビューした[1]後、特撮ヒーロー番組『バトルフィーバーJ』にスーパー戦隊シリーズとしては最初の悪役女性幹部・サロメ役で出演[2]。また、歌手としてもシングルレコード「インベーダーWALK」をリリースしている[2]

その後、鳥取市内でスナック「マキの店」を経営していた[2]

1999年8月9日、ジャッキー佐藤が胃癌により41歳で死去した。ジャッキーは最期まで病名をマキには教えていなかったという。ジャッキーの訃報に接し、マキは「いつまでもライバルとして見ていてくれたことがとても嬉しい」と、込み上げる悲しみを抑えるようにコメントした。

48歳の時、ファンの一般男性と結婚。2023年現在は夫が経営する東京都浅草釜飯店「田毎」を女将として支えている[2]

タイトル歴

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メディア出演

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テレビ

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映画

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レコード

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  • インベーダーWALK / あいつはインベーダー(1979年、ミノルフォンレコード、KA-1168) - スペースインベーダーを題材とした楽曲

脚注

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  1. ^ a b c d e 週刊テレビ番組(東京ポスト)1979年9月28日号 22頁「プロフィール」
  2. ^ a b c d e 元ビューティ・ペアのマキ上田さんは、浅草で釜飯屋の女将に毎度なニュース(2020.08.31)2024.10.02Lastaccess

関連項目

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