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{{Redirect|マネ|スペイン出身のサッカー選手|ホセ・マヌエル・ヒメネス・オルティス}} |
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{{Infobox 芸術家 |
{{Infobox 芸術家 |
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| 称号 = |
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| 名前 = エドゥアール・マネ<br />{{Lang|fr|Édouard Manet}} |
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| イニシャル = |
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| image = Édouard Manet.jpg |
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| 画像 = ファイル:Édouard Manet.jpg |
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| caption = [[ナダール]]による肖像写真 |
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| 画像テキスト = |
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| birthdate = [[1832年]][[1月23日]] |
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| 画像説明文 = [[ナダール]]による肖像写真(1867-1870頃) |
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| location = {{FRA1830}}, [[パリ]] |
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| 現地語名 = |
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| deathdate = {{死亡年月日と没年齢|1832|1|23|1883|4|30}} |
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| 現地言語 = fr |
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| deathplace = {{FRA1870}}, [[パリ]] |
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| 本名 = |
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| 誕生日 = {{生年月日と年齢|1832|1|23|no}} |
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| 出生地 = {{FRA1830}} [[パリ]] |
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| movement = [[写実主義]]、[[印象派]] |
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| 死没地 = {{FRA1870}} [[パリ]] |
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| 墓地 = {{FRA}} [[パリ]] [[パッシー墓地]]<ref>{{Cite web |url=https://www.findagrave.com/memorial/2245 |title=Edouard Manet |publisher=Find a Grave |accessdate=2017-11-08}}</ref> |
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| patrons = |
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| 墓地座標 = {{Coord|48|51|45|N|2|17|07|E|type:landmark|display=inline}} |
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| influenced by = |
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| 国籍 = {{FRA}} |
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| 教育 = [[トマ・クチュール]]のアトリエ |
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| awards = |
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| 出身校 = |
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| 芸術分野 = [[絵画]]、[[版画]] |
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| 代表作 = 『[[草上の昼食]]』、『[[オランピア (絵画)|オランピア]]』、『[[笛を吹く少年]]』 |
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| 流派 = |
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| 運動・動向 = [[写実主義]]、[[印象派]] |
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| 配偶者 = |
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| 受賞 = [[レジオンドヌール勲章]]騎士章(1881年)<ref>[[#高橋|高橋 (2010: 57)]]。</ref> |
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| 会員選出組織 = |
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| patrons = [[ポール・デュラン=リュエル]]、[[ジャン=バティスト・フォール]] |
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| メモリアル = |
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| 被影響芸術家 = [[ティントレット]]、[[ティツィアーノ・ヴェチェッリオ|ティツィアーノ]]、[[ディエゴ・ベラスケス|ベラスケス]]、[[フランシスコ・デ・ゴヤ|ゴヤ]]、[[エドガー・ドガ]]、[[印象派]]<ref>[[#高階・絵画史|高階 (1975: 上73-74)]]。</ref> |
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| 与影響芸術家 = [[印象派]] |
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| ウェブサイト = |
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'''エドゥアール・マネ'''({{lang|fr|Édouard Manet}}, [[1832年]][[1月23日]] - [[1883年]][[4月30日]])は、[[19世紀]]の[[フランス]]の[[画家]]。 |
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[[ファイル:Manet autograph.png|thumb|180px|right|マネのサイン]] |
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== 概要 == |
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'''エドゥアール・マネ'''({{lang-fr|Édouard Manet}}, [[1832年]][[1月23日]] - [[1883年]][[4月30日]])は、[[19世紀]]の[[フランス]]の[[画家]]。 |
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エドゥアール・マネ(以下マネ)は、パリの裕福なブルジョワジーの家庭に生まれた。父はマネが法律家となることを希望していたが、中学校時代から、伯父の影響もあって絵画に興味を持った。海軍兵学校の入学試験に2回失敗すると、父も諦め、芸術家の道を歩むことを許された(→''[[#出生、少年時代|出生、少年時代]]'')。歴史画家であった[[トマ・クチュール]]に師事したが、マネは、伝統的なクチュールの姿勢に飽き足らず、[[ルーヴル美術館]]での模写やヨーロッパ各地への旅行で、[[ヴェネツィア派]]やスペインの巨匠の作品を模写した(→''[[#修業時代(1850年代)|修業時代(1850年代)]]'')。 |
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[[1859年]]以降、[[サロン・ド・パリ]]への応募を続け、[[1861年]]にスペインの写実主義的絵画に影響を受けた『スペインの歌手』などで初入選を果たした。理想化された主題や造形を追求する[[アカデミズム絵画]]とは一線を画し、近代パリの都市生活を、はっきりした輪郭や平面的な色面を用いながら描く作品は、サロンでは非難にさらされることが多かったが、詩人[[シャルル・ボードレール]]から支持を受けた(→''[[#サロン入選の努力(1860年代初頭)|サロン入選の努力(1860年代初頭)]]'')。[[1863年]]に[[ナポレオン3世]]の号令により開催された[[落選展]]で、『[[草上の昼食]]』を出展すると、パリの裸の女性が着衣の男性と談笑しているという主題が風紀に反すると非難を浴び、スキャンダルとなった。さらに[[1865年]]のサロンに『[[オランピア (絵画)|オランピア]]』を出品すると、パリの娼婦を描いたものであることが明らかであったことから、『草上の昼食』を上回る非難を浴びた。意気消沈したマネは、パリを離れてスペインに旅行し、ベラスケスの作品に接して影響を受けた(→''[[#絵画界のスキャンダル(1860年代半ば)|絵画界のスキャンダル(1860年代半ば)]]'')。ベラスケス研究の成果といえる『[[笛を吹く少年]]』を[[1866年]]のサロンに提出したが、落選した時、作家[[エミール・ゾラ]]の援護を受けた。この頃、マネは、パリのバティニョール地区にアトリエと住居を起き、[[カフェ・ゲルボワ]]に足繁く通っていたが、マネの周りには、ゾラを含む文筆家や芸術家が集まっていた。1860年代後半には、[[クロード・モネ|モネ]]、[[ピエール=オーギュスト・ルノワール|ルノワール]]などの若手画家もマネを慕って集まりに加わるようになり、バティニョール派と呼ばれるようになった。[[1870年]]に[[普仏戦争]]が勃発しプロイセン軍がパリに迫ると、マネは国民軍に入隊し、首都防衛戦に加わった(→''[[#バティニョール派の形成(1860年代後半)|バティニョール派の形成(1860年代後半)]]'')。 |
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== 人物 == |
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[[ギュスターヴ・クールベ]]と並び、西洋近代絵画史の冒頭を飾る画家の一人である。マネは1860年代後半、[[パリ]]、バティニョール街の「カフェ・ゲルボワ」に集まって芸術論を戦わせ、後に「[[印象派]]」となる画家グループの中心的存在であった。しかし、マネ自身が印象派展には一度も参加していないことからも分かるように、近年の研究ではマネと印象派は各々の創作活動を行っていたと考えられている。 |
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普仏戦争と[[パリ・コミューン]]の混乱が終息して[[フランス第三共和政|第三共和政]]の時代になると、バティニョール派の若手画家たちはサロンから独立したグループ展を立ち上げ、[[印象派]]と呼ばれるようになった。マネは、批評家からは印象派のリーダー格と目されていたが、自身はサロンで成功することを重視し、印象派グループ展への参加を拒絶した。それでも、特にモネとの親しい関係は続き、モネの[[アルジャントゥイユ]]の家を度々訪れ、[[戸外制作]]などの印象派の手法を取り入れた作品も制作している。また、詩人[[ステファヌ・マラルメ]]と親しくなり、その影響も受けた(→''[[#第三共和政のパリ(1870年代)|第三共和政のパリ(1870年代)]]'')。[[1880年]]頃からは、[[梅毒]]により左脚の壊疽が進み、パリ郊外で療養しながら制作を続けた。[[1882年]]のサロンに最後の大作『[[フォリー・ベルジェールのバー]]』を出品した。[[1883年]]4月、壊疽が進行した左脚を切断する手術を受けたが、経過が悪く、51歳で亡くなった(→''[[#晩年(1880年代初頭)|晩年(1880年代初頭)]]'')。 |
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マネの死後、[[1890年]]にモネの働きにより『オランピア』が国の[[リュクサンブール美術館]]に受け入れられ、[[1896年]]に[[ギュスターヴ・カイユボット]]の遺贈により『バルコニー』などが政府に受け入れられるなど、マネに対する公的な認知は進んだ。もっとも、これらの受入れの際にも美術界の保守派からは反対の声が上がり、マネと印象派に対する抵抗は根強いものがあった(→''[[#名声の確立|名声の確立]]'')。しかし、その後、美術市場でのマネの評価は急速に上がり、[[1989年]]には『旗で飾られたモニエ通り』が2400万ドル(34億7520万円)で落札されるなど、美術市場の上位を占めるに至っている(→''[[#市場での評価|市場での評価]]'')。 |
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マネの油彩画は400点余りとされている(→''[[#カタログ|カタログ]]'')。マネは、保守的なブルジョワであり、サロンでの成功を切望していたが、『草上の昼食』と『オランピア』は意図せずスキャンダルを呼び、美術界の革命を起こすことになった。主題の面では、娼婦の存在や、近代社会における人間同士の冷ややかな関係をありのまま描き出したことが、革新的であり、非難の的ともなった。造形の面では、陰影による肉付けや遠近法といった伝統的な約束事にとらわれない描写を生み出していった(→''[[#時代背景、画風|時代背景、画風]]'')。印象派の画家たちから敬愛され、彼らに大きな影響を与えた一方、マネ自身が後輩の印象派から影響を受けた。マネには印象主義的な要素の濃い作品もあるが、印象派グループ展には参加していないことから、印象派には含めず、印象派の指導者あるいは先駆者として位置付けられるのが一般的である(→''[[#印象派との関係|印象派との関係]]'')。後輩の印象派と同様、マネも、平面的な彩色やモティーフを切り取る構図などに日本の[[浮世絵]]の影響を受けていると考えられる(→''[[#ジャポニスム|ジャポニスム]]'')。 |
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== 生涯 == |
== 生涯 == |
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=== 出生、少年時代 === |
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[[ファイル:Carolus-Duran - Portrait of Edouard Manet.jpg|thumb|190px|left|カルロス・デュランによるマネの肖像画<br />(1880年)]] |
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[[ファイル:P1070498 Paris VI rue Bonaparte n°5 rwk.JPG|thumb|left|180px|プティ=ゾーギュスタン通りに残るマネの生家の門。[[エコール・デ・ボザール]]の目の前である<ref>[[#高橋|高橋 (2010: 6)]]。</ref>。]] |
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マネは1832年、パリの[[セーヌ川]]左岸の一角で対岸に[[ルーブル宮殿]]を望むボナパルト街で、謹厳な[[ブルジョワジー|ブルジョワ]]の家庭に3人兄弟の長男として生まれた。父は法務省の高級官僚で[[レジオンドヌール勲章]]も授与されており、母ウジェニーは[[ストックホルム]]駐在の外交官フルエニ家の娘であった。[[1844年]]名門中学コレージュ・ロランに入学。この頃から画家になることを考え始め、美術好きの伯父フルエニ大佐に連れられ、[[ルーブル美術館]]などで古典絵画作品に親しく接する。特に[[ルイ・フィリップ (フランス王)|ルイ・フィリップ国王]]がルーブル宮内に開設していた「[[スペイン]]絵画館」(1838~48年)で、当時一般には余り知られていなかった17世紀[[スペイン]]絵画の真摯な[[リアリズム]]に触れ、決定的な影響を受ける。 |
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マネは、1832年、パリのプティ=ゾーギュスタン通り(現在の{{仮リンク|ボナパルト通り|en|Rue Bonaparte}})で、裕福な[[ブルジョワジー]]の家庭に長男として生まれた。マネの父オーギュストは、法務省の高級官僚(司法官)で、共和主義者であった。母ウジェニーは、[[ストックホルム]]駐在の外交官フルエニ家の娘であった。マネの弟に、{{仮リンク|ウジェーヌ・マネ|en|Eugène Manet|label=ウジェーヌ}}(1833年生)とギュスターヴ(1835年生)が生まれた<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 16-17)]]、[[#高橋|高橋 (2010: 6)]]。</ref>。 |
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[[ファイル:Daguerreotype - Édouard Manet - 1846.jpg|thumb|right|180px|少年時代のマネ(1846年頃)。]] |
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[[1848年]]両親の意向で[[海軍兵学校]]を受験するも早々に落第。再試験を待つ間練習船に見習い船員となり、[[南アメリカ]]へ半年間航海に出る。帰国後の翌年、再試験を受けるがまたもや失敗。両親はマネの希望を受け入れ、17歳の時に本格的に画家への道に邁進出来るようになった。翌[[1850年]]に当時のアカデミスムの大家、[[トマ・クーチュール]]に弟子入りし、[[1856年]]まで学んだ。この6年間、マネは精力的に過去の巨匠たちの作品を模写、研究した。[[1859年]]、初めて[[サロン・ド・パリ|サロン]](官展)に出品した『[[アブサン]]を飲む男』が落選したが、審査員を務めた[[ウジェーヌ・ドラクロワ|ドラクロワ]]や、詩人の[[シャルル・ボードレール|ボードレール]]からは高く評価された。[[1861年]]、『スペインの歌手』と『オーギュスト・マネ夫妻の肖像』をサロンに出品し、2作とも初入選する。マネの画風は、[[ディエゴ・ベラスケス|ベラスケス]]を始めとするスペイン絵画や[[ヴェネツィア派]]、17世紀のフランドル・[[オランダ黄金時代の絵画|オランダ絵画]]の影響を受けつつも、明快な色彩、立体感や遠近感の表現を抑えた平面的な処理などは、近代絵画の到来を告げるものである。 |
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[[1844年]]から[[1848年]]まで、トリュデール大通りの中学校{{仮リンク|コレージュ・ロラン|fr|Collège-lycée Jacques-Decour}}に通った。父は、マネが法律家の道を継ぐことを望んでいた。一方、母方の伯父エドゥアール・フルニエ大尉は、芸術家肌の人物で、マネにデッサンの手ほどきをしたり、マネら3兄弟や、マネの中学校の友人[[アントナン・プルースト]](後に美術大臣)を[[ルーヴル美術館]]に連れて行ったりした。マネは、この頃から、絵画に興味を持っていたようであり、[[ルイ・フィリップ (フランス王)|ルイ・フィリップ]]がルーヴル美術館に設けたスペイン絵画館で17世紀スペインのレアリスム絵画に触れ、影響を受けた。プルーストの回想によれば、コレージュの歴史の授業で、画家が流行遅れの帽子を描いていることを[[ドゥニ・ディドロ]]が批判した展覧会評を読んだ時、マネが、「僕たちは、時代に即していかなければならない。流行など気にせず、見たままを描かなければならない。」と発言したという。また、伯父フルニエが絵画の課外授業に出席させてくれたが、言われたお手本を模写するのではなく、近くにいる生徒たちの顔をスケッチしていたという<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 17-19)]]、[[#高橋|高橋 (2010: 6-7)]]、[[#木村|木村 (2012: 96-97)]]。</ref>。 |
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マネは、芸術家の道を不安視する両親の意向を受け、水兵になると父に宣言して海軍兵学校の入学試験を受けたが、落第した。1848年12月、実習船に乗って[[リオデジャネイロ]]まで航海した。後に、マネは、「私はブラジル旅行でたくさんのものを得た。毎夜毎夜、船の航跡の中に、光と影の働きを見たものだった。昼間は上甲板で、水平線をじっと見つめていた。それで、空の位置を確定する方法が分かったのだ。」と述べている<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 20-21)]]。</ref>。[[1849年]]6月にパリに戻ると、海軍兵学校の入学試験を再び受けたが、また落第した。これに父も諦め、マネは芸術家の道を歩むことを許された<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 21)]]、[[#木村|木村 (2012: 97)]]。</ref>。 |
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[[1863年]]の[[落選展]]に出品した『[[草上の昼食]]』は物議をかもし、2年後の[[1865年]]のサロンに展示された『[[オランピア (絵画)|オランピア]]』は、さらに大きなスキャンダルとなった(その理由については[[#評価|評価]]の節を参照)。 |
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=== 修業時代(1850年代) === |
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1870年代以降は、自らが示唆を与えた[[印象派|印象主義]]から逆に影響を受け、戸外での制作を積極的に行い、作風も印象派に特有の素早い筆致が目立つようになった。ただし上記の通り、印象派展には一度も参加せず、あくまでも(芸術運動としての)印象派とは一定の距離を置き続けた。 |
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[[ファイル:Thomas Couture Carjat BNF.jpg|thumb|left|120px|マネが1849年~1856年(17~24歳頃)師事した[[トマ・クチュール]]。]] |
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マネは、1849年秋頃、[[トマ・クチュール]]のアトリエに入り、ここで6年間修業した。クチュールは、[[1847年]]の[[サロン・ド・パリ]]に『退廃期のローマ人』を出品して成功した、当時の[[アカデミズム絵画]]界の中では革新的な歴史画家であった。マネは、クチュールの近代性から影響を受ける反面、伝統的な歴史画にこだわるクチュールの姿勢には反発した。マネがモデルに服を着させたままポーズをとらせていると、クチュールが入ってきて、「君は君の時代の[[オノレ・ドーミエ|ドーミエ]]にしかなれない」と批判した。また、マネは、アトリエで学ぶ傍ら、ルーヴル美術館で[[ティントレット]]、[[ティツィアーノ・ヴェチェッリオ]]、[[フランソワ・ブーシェ]]、[[ピーテル・パウル・ルーベンス]]などの作品を模写した。[[1852年]]には[[アムステルダム国立美術館]]を訪れ、[[1853年]]には弟ウジェーヌとともに[[ヴェネツィア]]、[[フィレンツェ]]を旅行し、ティツィアーノの『[[ウルビーノのヴィーナス]]』を模写した。さらに、この時、[[ドイツ]]や中央ヨーロッパまで足を延ばし、各地の美術館を訪れたようである。存命中の画家の中では、[[ギュスターヴ・クールベ]]の『オルナンの埋葬』、[[ジャン=バティスト・カミーユ・コロー]]、[[シャルル=フランソワ・ドービニー]]、[[ヨハン・ヨンキント]]らの風景画を高く評価していた<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 22-26)]]。</ref>。この頃、弟たちのピアノの家庭教師{{仮リンク|シュザンヌ・マネ|en|Suzanne Manet|label=シュザンヌ・レーンホフ}}と恋仲になった(後に妻となる)。1852年1月にはシュザンヌに男の子レオンが生まれ、戸籍上はシュザンヌの弟({{仮リンク|レオン・コエラ=レーンホフ|fr|Léon Koëlla-Leenhoff}})として届け出られた。実際には、レオンは、マネの子であった可能性が大きいと考えられている<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 40, 43-44)]]、[[#高橋|高橋 (2010: 7)]]。</ref><ref group="注釈">ただし、マネ自身は、シュザンヌと結婚した後もレオンを[[認知]]していない。このこともあって、近年では、マネの父オーギュストがレオンの父親だという説も浮上している([[#吉川|吉川 (2010: 142)]])。</ref>。 |
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1856年にクチュールのアトリエを去ると、友人の画家との共有で、{{仮リンク|バティニョール地区|en|Batignolles}}のラヴォワジエ通りにアトリエを構えた<ref>[[#高橋|高橋 (2010: 30)]]。</ref>。しばらくはサロンへの応募をせず、ルーヴル美術館で、ティントレット、[[ディエゴ・ベラスケス]]、ルーベンスなどの巨匠の模写を続けた。その中で、画家の[[アンリ・ファンタン=ラトゥール]]、[[エドガー・ドガ]]と知り合った<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 30)]]、[[#高橋|高橋 (2010: 63)]]。</ref>。1857年にはフィレンツェを再訪し、アヌンツィアータ教会の[[アンドレア・デル・サルト]]の壁画を模写した<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 25)]]。</ref>。 |
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[[1878年]]から体調が不安定になり、1880年代に入ると左足が[[壊死|壊疽]]にかかり歩行困難となった。[[1882年]]、晩年の代表作である『[[フォリー・ベルジェールのバー]]』をサロンに出品した。翌1883年に左足を切断したが、同年4月30日に死去した。 |
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=== サロン入選の努力(1860年代初頭) === |
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== 評価 == |
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'''[[1859年]]のサロン'''に、『アブサンを飲む男』を初めて提出したが、下絵のような無造作な描き方が不評だったのに加え、酔った男や足元の酒瓶という露骨な現実を画題とすることがサロンにふさわしくないと酷評され、落選した。もっとも、審査員だった[[ウジェーヌ・ドラクロワ]]からは評価された。詩人の[[シャルル・ボードレール]]も、この作品を賞賛した。この頃には、マネとボードレールは親しく交流していた<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 30-32)]]。</ref>。 |
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[[Image:Edouard Manet 024.jpg|thumb|right|300px|[[草上の昼食]](1862-63、[[オルセー美術館]])]][[Image:Edouard Manet 038.jpg|thumb|right|300px|[[オランピア (絵画)|オランピア]](1863、オルセー美術館)]] |
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『草上の昼食』と『オランピア』はいずれも激しいスキャンダルを巻き起こした作品として知られる。『草上の昼食』では、戸外にいる正装の男性と裸体の女性を描いたことから、不道徳であるとして物議をかもした。また、『オランピア』に描かれた裸体の女性は、部屋の雰囲気や道具立てなどから、明かに当時のフランスの娼婦であることがわかり、それが当時の人々の反感を買った。 |
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[[ファイル:Victorine Louise Meurent (1844 – 1927).jpg|thumb|right|100px|ヴィクトリーヌ・ムーラン。『草上の昼食』や『オランピア』のモデルにもなった。]] |
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西洋絵画史において裸婦像は数多く描かれてきたが、それらはあくまでもただの「裸婦」ではなく、[[ヴィーナス]]、ディアナなど神話の世界の「女神」たちの姿を描いたものであった。あるいは寝室や浴室など、描かれた女性が裸でいる事が自然なシチュエーションを選んで描いていた。しかし『草上の昼食』は着衣の男性と全裸の女性の組み合わせという明らかに不自然なシチュエーションを選んだ事、そして『オランピア』では娼婦を描いたため、「不道徳」だとされたのである。しかし、マネの絵画の抱える問題は、そのような社会的なものに留まらず、むしろ造形的な問題へと発展する。 |
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'''[[1861年]]のサロン'''に、『スペインの歌手』と、両親を描いた『オーギュスト・マネ夫妻の肖像』を応募し、いずれも初入選した。当時のフランスではスペイン趣味が流行しており、マネは、イタリア風の古典的作品に反発する立場から、スペインの写実主義的絵画に傾倒していた。彼は、マドリードの巨匠たちや[[フランス・ハルス]]を思い浮かべながら『スペインの歌手』を描いたと語っている<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 33-36)]]。</ref>。『スペインの歌手』は、サロン会場の人目につかない隅に展示されていたが、[[テオフィル・ゴーティエ]]が絶賛したことから、急に中央の良い場所に移され、優秀賞(佳作)の評価まで受けた<ref>[[#高階・絵画史|高階 (1975: 上75)]]、[[#カシャン|カシャン (2008: 35)]]。</ref>。一方、『オーギュスト・マネ夫妻の肖像』については、両親の間に奇妙な冷たさが流れていることから、批評家から、「マネは最も神聖な肉親の絆でさえも土足で踏みにじる」と非難された<ref>[[#吉川|吉川 (2010: 137-38)]]。</ref>。それでも、サロンでの成功を重んじる父に対し、約束を果たすことができた<ref>[[#木村|木村 (2012: 100)]]。</ref>。 |
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[[1862年]]には、[[テュイルリー宮殿]]に隣接する庭園で開かれたコンサートを題材とした『テュイルリー公園の音楽会』を制作し、テオフィル・ゴーティエ、ボードレール、[[ジャック・オッフェンバック]]、[[ザカリー・アストリュク]]、[[アンリ・ファンタン=ラトゥール]]といった社交界の友人たちをモデルとして登場させた。[[フランス第二帝政|第二帝政]]下の華やかなブルジョワ社会を描いた作品である<ref>[[#吉川|吉川 (2010: 94)]]、[[#カシャン|カシャン (2008: 37-39)]]。</ref>。マネは、1863年、マルティネ画廊での個展に『テュイルリー公園の音楽会』や『ローラ・ド・ヴァランス』を展示したが、輪郭がはっきりした筆遣いや、平面的な色面の処理が奇妙だと捉えられ、激しい非難にさらされた<ref>[[#木村|木村 (2012: 101)]]。</ref>。 |
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マネは他の近代画家の大多数と異なり、古典絵画を非常に尊敬し、その伝統を踏襲しつつ、西洋絵画を解体していった。[[写実主義]]から受け継いだ思想は、マネを「近代」の画家へと導いた。研究が高度に進んだ現代においても、最も謎を残す画家の一人である。なぜ彼がそれまでの伝統を打ち壊し、近代の画家となりえたのか。あるいは彼が描く絵画そのものに隠された謎のモチーフの数々の意味するところは何か(『草上の昼食』における蛙や鳥、『オランピア』における黒猫など)。これらの謎も、マネの大きな魅力の一つでもある。 |
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この時期、マネは、内縁の妻シュザンヌをモデルにした『驚くニンフ』や、レオン少年をモデルにした『剣を持つ少年』などを制作している<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 40, 44)]]。</ref>。[[1862年]]にマネの父が亡くなると、[[1863年]]10月、マネはシュザンヌと結婚した<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 42)]]。</ref>。また、この頃知り合った女性[[ヴィクトリーヌ・ムーラン]]にモデルを依頼して、『街の女歌手』、『ヴィクトリーヌ・ムーランの肖像』などを制作している<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 46-47)]]。</ref>。 |
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== 交流 == |
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マネは画家仲間のみならず詩人、作家との交流もあり、近代詩人の祖である[[シャルル・ボードレール]]、[[エミール・ゾラ]]、そして[[ステファヌ・マラルメ]]などと深い親交があった。ボードレールは[[エッチング]]、ゾラとマラルメは油彩による肖像画がマネによって描かれている。 |
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<gallery> |
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[[クロード・モネ]]とは、[[1866年]]のサロンにモネが出品した海景画がマネの作品と間違えられたのをきっかけに交際するようになった。マネは7歳年下の画家が持つ卓越した水の描写力をいち早く見抜き、モネを「水の[[ラファエロ・サンティ|ラファエロ]]」と讃えている。また、[[エドガー・ドガ|ドガ]]に描かれた室内画を「妻の顔が太りすぎている」という理由で一部を破り捨て、その後ドガとは一時険悪な関係になった。しかし、そのけんかも長くは続かず、マネの死後ドガはその作品を数多く購入している。なおこの絵は現在、[[北九州市立美術館]]で見ることが出来る[http://kmma.jp/collect/_dega01/dega0101.html]。 |
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ファイル:Edouard Manet - The Absinthe Drinker - Google Art Project.jpg|『{{仮リンク|アブサンを飲む男|en|The Absinthe Drinker (Manet painting)}}』1859年。油彩、キャンバス、180.5 × 105.6 cm。[[ニイ・カールスベルグ・グリプトテク美術館]]([[コペンハーゲン]])。同年サロン落選。 |
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ファイル:Edouard Manet - Le chanteur espagnol.jpg|『{{仮リンク|スペインの歌手|en|The Spanish Singer}}』1860年。油彩、キャンバス、147.3 × 114.3 cm。[[メトロポリタン美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://www.metmuseum.org/art/collection/search/436944 |title=The Spanish Singer |publisher=The Metropolitan Museum of Art |accessdate=2017-11-05}}</ref>。1861年サロン入選。 |
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ファイル:Edouard Manet 077.jpg|『{{仮リンク|オーギュスト・マネ夫妻の肖像|fr|Portrait de M. et Mme Auguste Manet}}』1860年。油彩、キャンバス、135 × 115 cm。[[オルセー美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/index-of-works/notice.html?no_cache=1&nnumid=009990&cHash=b4576a8374 |title=Monsieur et Madame Auguste Manet |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-11-05}}</ref>。1861年サロン入選。 |
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ファイル:Edouard Manet Die ueberraschte Nymphe.jpg|『{{仮リンク|驚くニンフ|en|La Nymphe surprise}}』1860-1861年。油彩、キャンバス、146 × 114 cm。{{仮リンク|ブエノスアイレス国立美術館|en|Museo Nacional de Bellas Artes (Buenos Aires)}}。 |
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ファイル:Édouard Manet - L'Enfant à l'épée.jpg|『{{仮リンク|剣を持つ少年|en|Boy Carrying a Sword}}』1861年。油彩、キャンバス、131.1 × 93.4 cm。メトロポリタン美術館<ref>{{Cite web |url=https://www.metmuseum.org/art/collection/search/436948 |title=Boy with a Sword |publisher=The Metropolitan Museum of Art |accessdate=2017-11-06}}</ref>。 |
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ファイル:MANET - Música en las Tullerías (National Gallery, Londres, 1862).jpg|『{{仮リンク|テュイルリー公園の音楽会|en|Music in the Tuileries}}』1862年。油彩、キャンバス、76.2 × 118.1 cm。[[ナショナル・ギャラリー (ロンドン)|ナショナル・ギャラリー]]([[ロンドン]])<ref>{{Cite web |url=http://www.nationalgallery.org.uk/paintings/edouard-manet-music-in-the-tuileries-gardens |title=Music in the Tuileries Gardens |publisher=The National Gallery |accessdate=2017-11-06}}</ref>。 |
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ファイル:Manet, Edouard - Lola de Valence.jpg|『{{仮リンク|ローラ・ド・ヴァランス|fr|Lola de Valence}}』1862年。油彩、キャンバス、123 × 92 cm。オルセー美術館<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/index-of-works/notice.html?no_cache=1&zsz=5&lnum=&nnumid=710 |title=Lola de Valence |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-11-08}}</ref>。 |
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ファイル:Édouard Manet - Le Vieux Musicien.jpg|『{{仮リンク|老音楽師|en|The Old Musician}}』1862年。油彩、キャンバス、187.4 × 248.2 cm。[[ナショナル・ギャラリー (ワシントン)|ナショナル・ギャラリー]]([[ワシントンD.C.]])<ref>{{Cite web |url=https://www.nga.gov/Collection/art-object-page.46637.html |title=The Old Musician |publisher=National Gallery of Art |accessdate=2017-11-08}}</ref>。 |
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ファイル:Edouard Manet - Street Singer - Google Art Project.jpg|『街の女歌手』1862年頃。油彩、キャンバス、171.1 × 105.8 cm。[[ボストン美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.mfa.org/collections/object/street-singer-33971 |title=Street Singer |publisher=Museum of Fine Arts, Boston |accessdate=2017-11-08}}</ref>。 |
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ファイル:Edouard Manet 088.jpg|『{{仮リンク|ヴィクトリーヌ・ムーランの肖像|fr|Portrait de Victorine Meurent}}』1862年頃。油彩、キャンバス、42.9 × 43.8 cm。ボストン美術館<ref>{{Cite web |url=http://www.mfa.org/collections/object/victorine-meurent-32976 |title=Victorine Meurent |publisher=Museum of Fine Arts, Boston |accessdate=2017-11-08}}</ref>。 |
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=== 絵画界のスキャンダル(1860年代半ば) === |
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女性画家[[エヴァ・ゴンザレス]]はマネに師事し、マネ唯一の弟子と言われる。 |
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[[ファイル:1863 Alexandre Cabanel - The Birth of Venus.jpg|thumb|left|『草上の昼食』が落選したのと同じ1863年のサロンで絶賛を浴びた[[アレクサンドル・カバネル]]『ヴィーナスの誕生』<ref>油彩、キャンバス、177 × 272.5 cm。[[オルセー美術館]]。{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/index-of-works/notice.html?no_cache=1&nnumid=000098&cHash=ea1d63f48e |title=Naissance de Vénus |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-11-08}}</ref>。]] |
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マネは、'''[[1863年]]のサロン'''に応募したが、落選した。この年のサロンの審査は例年に比べ非常に厳しく、落選者の不満が高まった。これを懸念した[[ナポレオン3世]]が、サロンと並行して、サロン落選作で構成する'''[[落選展]]'''を開催することを命じた<ref>[[#吉川|吉川 (2010: 55)]]。</ref>。マネの『水浴』(後に『[[草上の昼食]]』と改題)、『マホの衣装を着けた若者』、『エスパダの衣装を着けたヴィクトリーヌ・ムーラン』も落選展に展示された<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 52)]]。</ref>。ところが、特に『草上の昼食』は、批評家たちから酷評と嘲笑を浴び、一大スキャンダルとなった。当時、裸婦を描くこと自体は珍しいものではなく、実際、この年のサロンで賞賛された[[アレクサンドル・カバネル]]の『ヴィーナスの誕生』は、官能的な裸婦を描いているが、現実ではなく神話の世界を描いたものであるため、良識に反することはなかった。また、マネが発想源としたティツィアーノの『田園の奏楽』でも、裸のニンフと着衣の男性が描かれている。しかし、『草上の昼食』の裸婦は、パリの現実の女性が着衣の男性と談笑するというもので、風紀に反すると考えられた。裸婦の周りに、果物などの食べ物や、脱いだ後の流行のドレスが描かれることによって、裸婦がニンフなどではなく現実の女性であることが露骨に強調されることになった<ref>[[#吉川|吉川 (2010: 57-67)]]、[[#カシャン|カシャン (2008: 54-55)]]。</ref>。当時の鑑賞者は、この作品から、社会の陰の部分である[[売春]]の世界を読み取った<ref>[[#木村|木村 (2012: 103)]]。</ref>。批評家{{仮リンク|エルネスト・シェノー|fr|Ernest Chesneau}}は、「デッサンと遠近法を学べば、マネも才能を手に入れることができるだろう」と、描き方の稚拙さを指摘するとともに、「ベレー帽をかぶり短いコートを着た学生たちに囲まれ、葉の影しか身にまとっていない娘を木々の下に座らせている絵が、申し分なく清純な作品だとは思えない。……彼は俗悪な趣味の持ち主だ。」と、テーマ自体を厳しく批判した<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 52-53)]]。</ref>。 |
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[[1864年]]、{{仮リンク|バティニョール大通り|fr|Boulevard des Batignolles (Paris)}}34番地に引っ越した<ref>[[#高橋|高橋 (2010: 30)]]。</ref>。マネは、自由奔放な私生活を送っており、以前から、{{仮リンク|イタリアン大通り|en|Boulevard des Italiens}}の{{仮リンク|カフェ・トルトーニ (パリ)|fr|Café Tortoni de Paris|label=カフェ・トルトーニ}}や、カフェ・ド・バードに足繁く通っていたが、バティニョール大通りに移った頃から、{{仮リンク|カフェ・ゲルボワ|en|Café Guerbois}}に足を運ぶようになったと思われる。カフェ・ゲルボワのマネの周りには、次第に美術家や文学者が集まり始めた。その中には、詩人の[[ザカリー・アストリュク]]、中学時代・クチュール画塾時代からの友人アントナン・プルースト、写真家[[ナダール]]、批評家{{仮リンク|エドモン・デュランティ|en|Louis Edmond Duranty}}、[[テオドール・デュレ]]、{{仮リンク|フィリップ・ビュルティ|en|Philippe Burty}}、画家[[アンリ・ファンタン=ラトゥール]]、{{仮リンク|アントワーヌ・ギュメ|fr|Antoine Guillemet}}、版画家{{仮リンク|マルスラン・デブータン|en|Marcellin Desboutin}}などがいた<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 15-18)]]。</ref>。 |
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== 日本の美術館が所蔵する主なマネ作品 == |
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* サラマンカの学生たち ([[ポーラ美術館]]) 1860年 |
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[[ファイル:Velázquez - Pablo de Valladolid (Museo del Prado, 1636-37).jpg|thumb|right|120px|マネが1865年のスペイン旅行で見て影響を受けたベラスケスの『道化師パブロ・デ・ヴァリャドリード』(当時の表題『フェリペ4世の時代のある有名な俳優の肖像』)<ref group="注釈">1635年頃。油彩、キャンバス、209 × 123 cm。[[プラド美術館]]。{{Cite web |url=https://www.museodelprado.es/coleccion/obra-de-arte/pablo-de-valladolid/774285f3-fb64-4b00-96a9-df799ab10222 |title=Pablo de Valladolid |publisher=Museo Nacional del Prado |accessdate=2017-11-17}}</ref>。]] |
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* 腕白小僧・犬と少年 ([[茨城県近代美術館]]) 1868~74年 |
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マネは、'''[[1865年]]のサロン'''に、ヴィクトリーヌをモデルとした『[[オランピア (絵画)|オランピア]]』を出品し、入選した。ところが、この作品は、『草上の昼食』以上のスキャンダルを巻き起こした。裸婦がベッドに寝そべる構図は、ティツィアーノの『ウルビーノのヴィーナス』を発想源としていたが、マネの作品は、ヴィーナスとは程遠い、パリの娼婦を描くものであることが明らかであった。表題の「オランピア」とは、娼婦(ドゥミ・モンデーヌ)の源氏名として広く使われる名前であったし、黒人のメイドは娼館に多かった。メイドが運ぶ花束は、前夜の客から贈られたものである。『ウルビーノのヴィーナス』に描かれていた犬は忠誠・貞節のシンボルだが、マネが描き入れた黒猫は、性的なイメージを暗示するものと受け止められた。マネは、急速に近代化が進むパリのブルジョワ社会の暗部を赤裸々に描き出したのであった<ref>[[#吉川|吉川 (2010: 84-87)]]、[[#カシャン|カシャン (2008: 60-63)]]、[[#木村|木村 (2012: 104-05)]]。</ref>。なお、この時のサロンで、[[クロード・モネ]]が海景画2点を提出し、アルファベット順でマネと同じ部屋に並べられていたが、この海景画を見た人が、名前の似たマネの作品と誤解し、マネに祝福の言葉をかけた。マネは、自分の名前を悪用して名を売ろうとする画家がいると思い、憤慨したという<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 19)]]、[[#カシャン|カシャン (2008: 97-98)]]。</ref>。 |
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* バラ色のくつ([[ベルト・モリゾ]]) ([[ひろしま美術館]]) 1872年 |
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* オペラ座の仮面舞踏会 ([[ブリヂストン美術館]]) 1873年 |
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マネは、『オランピア』への批判に意気消沈し、[[ブリュッセル]]にいたボードレールに宛てて、「あなたがここにいてくださったらと思います。私の上には、罵詈雑言が雨あられと降っています。」と書き送り、ボードレールから励ましを受けている<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 65)]]。</ref>。マネは、物議に辟易し、8月から[[スペイン]]に旅行をした。[[マドリード]]の王立美術館(現[[プラド美術館]])でベラスケスを中心とするスペイン絵画に触れ、友人ファンタン=ラトゥールに、「ベラスケスを観るだけでも旅に出る意味がある。」と書き送っている<ref>[[#高橋|高橋 (2010: 23)]]。</ref>。また、マネは、「これらの素晴らしい作品の中で最も驚くべき作品、おそらくこれまでに描かれた最も驚くべき絵画作品は、フェリペ4世の時代のある有名な俳優の肖像と目録に記載されている絵だ。背景が消えている。黒一色の服を着て生き生きとしたこの男を取り囲んでいるのは空気なのだ。」と書いている<ref>[[#三浦・謎|三浦 (2012: 18-19)]]。</ref>。この旅の中で、批評家[[テオドール・デュレ]]と知り合い、親友となった<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 135-37)]]。</ref>。 |
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* 花の中の子ども ([[国立西洋美術館]]) 1876年 |
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* 自画像 (ブリヂストン美術館) 1878~79年 |
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:*[[肖像画]]を得意としたマネだったが、自画像は生涯2点しか描かなかったうちの1枚。ちなみにもう一枚は「パレットを持った自画像」(個人蔵、1879年)。 |
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* ブラン氏の肖像 (国立西洋美術館) 1879年 |
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* スペインの舞踏家 ([[村内美術館]]) 1879年 |
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* ベンチにて (ポーラ美術館) 1879年 |
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* 散歩 ([[東京富士美術館]]) 1880年 |
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* 黒い帽子のマルタン夫人 ([[メナード美術館]]) 1881年 |
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* 薄布のある帽子をかぶる女 ([[大原美術館]]) 1881年 |
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* メリー・ローラン (ブリヂストン美術館) 1882年 |
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* 灰色の羽根帽子の夫人 (ひろしま美術館) 1882年 |
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== ギャラリー == |
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ファイル:Édouard Manet - Le Déjeuner sur l'herbe.jpg|『[[草上の昼食]]』(当初の題は『水浴』)1863年。油彩、キャンバス、207 × 265 cm。[[オルセー美術館]]。1863年サロン落選、落選展展示<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/index-of-works/notice.html?no_cache=1&nnumid=000904&cHash=0ac4f8868a |title=Le déjeuner sur l'herbe |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-11-08}}</ref>。 |
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画像:Edouard Manet Music in the Tuileries 1862.jpg|テュイルリーの音楽会(1862) |
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ファイル:Edouard Manet - Mlle Victorine Meurent in the Costume of an Espada.JPG|『{{仮リンク|エスパダの衣装を着けたヴィクトリーヌ・ムーラン|fr|Mlle V. en costume d'espada}}』1862年。油彩、キャンバス、165.1 × 127.6 cm。[[メトロポリタン美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://www.metmuseum.org/art/collection/search/436945 |title=Mademoiselle V... in the Costume of an Espada |publisher=The Metropolitan Museum of Art |accessdate=2017-11-08}}</ref>。1863年サロン落選、落選展展示。 |
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画像:Manet, Edouard - Young Flautist, or The Fifer, 1866 (2).jpg|[[笛を吹く少年]](1866) |
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ファイル:Edouard Manet 082.jpg|『{{仮リンク|マホの衣装を着けた若者|fr|Jeune homme en costume de majo}}』1863年。油彩、キャンバス、188 × 124.8 cm。メトロポリタン美術館<ref>{{Cite web |url=https://www.metmuseum.org/art/collection/search/438819 |title=Young Man in the Costume of a Majo |publisher=The Metropolitan Museum of Art |accessdate=2017-11-08}}</ref>。1863年サロン落選、落選展展示。 |
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画像:Edouard Manet 022.jpg|[[皇帝マキシミリアンの処刑]](1867) |
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ファイル:Édouard Manet - Le Christ mort et les anges.jpg|『死せるキリストと天使たち』1864年。油彩、キャンバス、179.4 × 149.9 cm。メトロポリタン美術館<ref>{{Cite web |url=https://www.metmuseum.org/art/collection/search/436950 |title=The Dead Christ with Angels |publisher=The Metropolitan Museum of Art |accessdate=2017-11-08}}</ref>。1864年サロン入選。 |
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画像:Edouard Manet 049.jpg|[[エミール・ゾラの肖像|エミール・ゾラ]](1868) |
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ファイル:Edouard Manet - Olympia - Google Art Project 3.jpg|『[[オランピア (絵画)|オランピア]]』1863年。130.5 × 191 cm。オルセー美術館<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/index-of-works/notice.html?no_cache=1&nnumid=000712&cHash=3ebae2ac84 |title=Olympia |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-11-08}}</ref>。1865年サロン入選。 |
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画像:Edouard Manet 016.jpg|バルコニー(1868) |
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ファイル:Edouard Manet 073 (Toter Torero).jpg|『{{仮リンク|死せる闘牛士|fr|L'Homme mort}}』1864年? 油彩、キャンバス、75.9 ×153.3 cm。[[ナショナル・ギャラリー (ワシントン)|ナショナル・ギャラリー]]([[ワシントンD.C.]])<ref>{{Cite web |url=https://www.nga.gov/Collection/art-object-page.1179.html |title=The Dead Toreador |publisher=National Gallery of Art |accessdate=2017-11-08}}</ref>。1864年サロン入選作『闘牛のエピソード』をマネ自身が上下に分断した下部。 |
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画像:Edouard Manet 040.jpg|[[すみれの花束をつけたベルト・モリゾ|ベルト・モリゾ]](1872) |
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ファイル:Edouard Manet 056.jpg|『{{仮リンク|キアサージ号とアラバマ号の海戦|en|The Battle of the Kearsarge and the Alabama}}』1864年。油彩、キャンバス、137.8 × 128.9 cm。[[フィラデルフィア美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.philamuseum.org/collections/permanent/101707.html |title=The Battle of the U.S.S. "Kearsarge" and the C.S.S. "Alabama" |publisher=Philadelphia Museum of Art |accessdate=2017-11-11}}</ref>。 |
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画像:Edouard Manet 003.jpg|アルジャントゥイユ(1874) |
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画像:Portrait of Stéphane Mallarmé (Manet).jpg|[[ステファヌ・マラルメ]](1876) |
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画像:Edouard Manet 037.jpg|ナナ(1877) |
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画像:Edouard Manet 031.jpg|ラテュイユ親父の店にて(1879) |
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画像:Édouard Manet - Portrait of George Clemeceau.jpg|[[ジョルジュ・クレマンソー]](1880) |
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画像:Edouard Manet 004.jpg|[[フォリー・ベルジェールのバー]](1882) |
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</gallery> |
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=== バティニョール派の形成(1860年代後半) === |
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== 関連項目 == |
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[[ファイル:Manet par Fantin-Latour.jpg|thumb|right|160px|[[アンリ・ファンタン=ラトゥール]]によるマネの肖像画(1867年)<ref>油彩、キャンバス、117.5 × 90 cm。[[シカゴ美術館]]。{{Cite web |url=http://www.artic.edu/aic/collections/artwork/87467 |title=Édouard Manet, 1867 |publisher=Art Institute of Chicago |accessdate=2017-11-05}}</ref>。]] |
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'''作品''' |
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マネは、[[1866年]]、[[サン・ラザール駅]]近くの{{仮リンク|サン=ペテルスブール通り|fr|Rue de Saint-Pétersbourg}}に住居を移し、死去までこの通りに住んだ<ref>[[#高橋|高橋 (2010: 30)]]。</ref>。 |
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*[[草上の昼食]] |
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*[[オランピア (絵画)|オランピア]] |
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マネは、'''1866年のサロン'''に『[[笛を吹く少年]]』を提出したが、落選した。この作品は、スペイン旅行でベラスケスに学んだ単純で平坦な背景処理を実践したものであった<ref>[[#高橋|高橋 (2010: 29)]]。</ref>。駆け出しの作家だった[[エミール・ゾラ]]が、この年の春、画家[[アントワーヌ・ギュメ]]の紹介でマネのアトリエを訪れ、マネに心酔するようになった。ゾラは、『レヴェヌマン』紙で、サロンで落選した『笛を吹く少年』について、「私は、これほどまでに複雑でない方法で、これ以上力強い効果を得ることはできないように思う。」とマネを強く擁護した<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 72)]]。</ref>。 |
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*[[笛を吹く少年]] |
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*[[皇帝マキシミリアンの処刑]] |
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[[1867年]]の[[パリ万国博覧会 (1867年)|パリ万国博覧会]]では、[[ジャン=レオン・ジェローム]]やカバネルのような[[アカデミズム絵画]]のほか、[[ジャン=バティスト・カミーユ・コロー]]、[[ジャン=フランソワ・ミレー]]のような[[バルビゾン派]]の作品が展示されたが、マネの作品は展示されなかった。そこで、マネは、展覧会場から遠くない[[アルマ橋]]付近に、多額の費用をかけてパビリオンを建て<ref group="注釈">費用は1万8000フランで、高級官僚の年収1年分に相当した。マネの母親が費用を出した([[#木村|木村 (2012: 108)]])。</ref>、10年近くにわたる主要作品50点を展示する個展を開いた。マネは、ゾラに宛てて、「私は危険な賭けをしようとしていますが、あなたのような人々の助けがあるので、成功を確信しています。」と書いている。しかし、賞賛した批評家もわずかにいたものの、マネが期待したような社会的評価は得られなかった。ただ、マネの傑作全てを一堂に見られる充実した内容であり、これを見た若い画家たちは大きな影響を受けた<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 86-88)]]。</ref>。モネや[[フレデリック・バジール]]が、サロンに頼らずに自分たちのグループ展を計画するきっかけにもなった<ref>[[#木村|木村 (2012: 107-08)]]。</ref>。マネは、自分の作品についてほとんど文章を残していないが、個展に際しての「趣意書」の中では、次のように書いている<ref>[[#吉川|吉川 (2010: 144)]]。</ref>。 |
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*[[エミール・ゾラの肖像]] |
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{{Quotation|今日、芸術家{{Interp|マネ}}は、「欠点のない作品を見に来てくれ」とは言わず、「率直な作品を見に来てくれ」と言う。この率直さゆえに、画家はひたすら自分の印象を描いているにもかかわらず、作品は図らずも抗議の色合いを帯びてしまう。マネは抗議しようとしたことなど断じてない。{{Interp|中略}}彼は他の誰でもなく自分自身であろうと努めたにすぎない。|マネ|趣意書}} |
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*[[すみれの花束をつけたベルト・モリゾ]] |
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*[[フォリー・ベルジェールのバー]] |
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ゾラは、1867年、『レヴェヌマン』紙の記事を発展させて小冊子「マネ論」を発表し、マネの個展の中で販売した。ゾラは、その中で、次のように書いている。これは、絵画は純粋に色彩と形態を追求するものだというモダン・アートの先駆けとなる考え方であった<ref>[[#吉川|吉川 (2010: 123-24)]]。</ref>。 |
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'''絵画技法''' |
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{{Quotation|いかなる対象を前にしても、画家{{Interp|マネ}}は、対象の様々な色調を識別する自らの眼に従う。それは、壁を背に立つ人物の顔は灰色の地に塗られた白っぽい円にすぎず、顔の横に見える洋服は青みがかった色斑でしかない、といった具合だ。{{Interp|中略}}多くの画家たちは絵画で思想を表現しようと躍起になるが、この馬鹿げた過ちを彼は決して犯さない。{{Interp|中略}}複数のオブジェや人物を描く対象として選択するときの彼の方針は、自在な筆さばきによって色調の美しい煌めきを作り出せるかどうかということだけだ。|[[エミール・ゾラ]]|「マネ論」}} |
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*[[印象派]] |
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'''その他''' |
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[[ファイル:Henri Fantin-Latour - A Studio at Les Batignolles - Google Art Project.jpg|thumb|right|180px|[[アンリ・ファンタン=ラトゥール]]『バティニョールのアトリエ』1870年。[[ザカリー・アストリュク|アストリュク]]をモデルに絵筆を持ってマネを、[[ピエール=オーギュスト・ルノワール|ルノワール]]、[[フレデリック・バジール|バジール]]、[[エミール・ゾラ|ゾラ]]、[[クロード・モネ|モネ]]らが囲んでいる<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 23)]]。</ref>。]] |
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*[[トリビアの泉]]([[クロード・モネ|モネ]]と勘違いされ絶賛されたことがあるエピソードが紹介された) |
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マネは、ゾラの応援に意を強くし、'''[[1868年]]のサロン'''にはゾラの肖像を出品している。その机の上には、青い表紙の「マネ論」小冊子が描かれている<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 74)]]。</ref>。 |
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1860年代後半には、[[クロード・モネ]]も、アストリュクの紹介でマネと知り合った。ゾラやモネのほか、[[ピエール=オーギュスト・ルノワール]]、[[フレデリック・バジール]]、[[カミーユ・ピサロ]]など、[[アカデミー・シュイス]]や[[シャルル・グレール]]画塾を中心として集まった若手画家たちも、カフェ・ゲルボワに顔を出すようになった。こうした若手画家たちは、「バティニョール派」と呼ばれるようになった。ファンタン=ラトゥールが描いた『バティニョールのアトリエ』には、マネを中心とする若手画家たちの集まりが描かれている<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 21-23)]]。</ref>。1868年には、ファンタン=ラトゥールを通じて、女性画家[[ベルト・モリゾ]]とその姉{{仮リンク|エドマ・モリゾ|en|Edma Morisot}}と知り合った。ベルト・モリゾは、マネの作品のモデルを務めるようになる<ref>[[#木村|木村 (2012: 111)]]。</ref>。[[1869年]]2月には、[[エヴァ・ゴンザレス]]がマネのアトリエに弟子入りした<ref name="Eva" />。 |
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[[ファイル:Edgar Degas - Monsieur et Madame Edouard Manet.jpg|thumb|left|160px|ドガ『マネとマネ夫人』1868-69年頃<ref group="注釈">油彩、キャンバス、65 × 71 cm。[[北九州市立美術館]]。</ref>。マネが切断し、怒ったドガが描き直すためにキャンバスを右側に継ぎ足したが、結局描かれないまま終わった<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 105)]]。</ref>。]] |
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[[エドガー・ドガ]]とは、ルーヴル美術館で模写をしている時に知り合って親しくなったが、ドガがカフェ・ゲルボワに出入りするようになったのは1868年春頃からである。2人は、互いに敬意を持ちながらも、遠慮なく辛辣な言葉の応酬を繰り返す関係だった。<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 22)]]、[[#カシャン|カシャン (2008: 104-05)]]。</ref>。ドガが、ピアノを弾くシュザンヌとマネを描いた作品を贈ったが、マネは、妻の姿が気に入らず、絵を切断してしまった。ドガは、その絵をマネの家で目にして激怒し、マネからもらった静物画をマネに送り返した。ドガは、晩年、画商[[アンブロワーズ・ヴォラール]]から、「でも、その後マネと仲直りしましたよね」と聞かれると、「マネと仲違いしたままでいられるはずはないよ!」と答えている<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 104-05)]]、[[#高橋|高橋 (2010: 53)]]、[[#ロワレット|ロワレット (2012: 50-52)]]。</ref>。 |
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'''[[1869年]]のサロン'''には、『バルコニー』と『アトリエでの昼食』が入選した。『バルコニー』には、[[ベルト・モリゾ]]がモデルとして登場している。左手前を見つめるモリゾを含め、3人の人物はぎこちなく、視線は虚ろで、かみ合っていない。モリゾは、サロン会場で見たこの作品について、「マネの作品は、いつものことですが、熟していない硬い果実のような印象をかもし出しています。……『バルコニー』に描かれた私は醜いというよりも奇妙です。」と書いている。批評家たちも、登場人物が何を考えているのか不明瞭で、静物画のようだと言ってけなした。しかし、現在では、近代の人間の中に存在する無関心を描き出すことこそがマネの本質であったと評されている<ref>[[#吉川|吉川 (2010: 111-19)]]、[[#木村|木村 (2012: 112)]]。</ref>。 |
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[[1870年]]7月、[[普仏戦争]]が勃発し、[[ナポレオン3世]]は9月に[[スダン]]で[[プロイセン王国|プロイセン]]軍に降伏した。マネは、プロイセン軍のパリ侵攻に備えて、家族を[[ピレネー山脈]]の[[オロロン=サント=マリー]]に疎開させた。11月、国民軍に中尉として入隊し、首都防衛戦に加わったが、[[1871年]]1月、フランス軍は包囲していたプロイセン軍に降伏し、開城した。マネは、2月、パリを去って疎開していた家族と合流し、パリに帰ろうとしたが、3月のパリ蜂起、[[パリ・コミューン]]成立と引き続く内戦によって足止めされ、5月の「血の1週間」でパリ・コミューンが鎮圧された頃にパリに戻ったと思われる。[[ベルト・モリゾ]]の弟が、戦闘中のパリでマネとドガの2人連れを目撃したという記録がある<ref>[[#高橋|高橋 (2010: 32-33, 44-45)]]、[[#島田・挑戦|島田 (2009: 43-44)]]。</ref>。 |
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ファイル:Manet, Edouard - Young Flautist, or The Fifer, 1866 (2).jpg|『[[笛を吹く少年]]』1866年。油彩、キャンバス、160.5 × 97 cm。[[オルセー美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/index-of-works/notice.html?no_cache=1&nnumid=000709&cHash=eb006f298d |title=Le fifre |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-11-08}}</ref>。1866年サロン落選。 |
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ファイル:Edouard Manet 053.jpg|『{{仮リンク|ロンシャンの競馬場|en|The Races at Longchamp}}』1866年。油彩、キャンバス、44 × 84.2 cm。[[シカゴ美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.artic.edu/aic/collections/artwork/81533 |title=The Races at Longchamp, 1866 |publisher=Art Institute of Chicago |accessdate=2017-11-09}}</ref>。 |
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ファイル:Manet - Blick auf die Weltausstellung von 1867.jpg|『1867年のパリ万国博覧会の光景』1867年。油彩、キャンバス、108 × 196 cm。[[オスロ国立美術館]]。 |
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ファイル:Edouard Manet 049.jpg|『[[エミール・ゾラの肖像]]』1868年。油彩、キャンバス、146 × 114 cm。オルセー美術館<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/index-of-works/notice.html?no_cache=1&nnumid=000713&cHash=6aa6b1d647 |title=Emile Zola |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-11-08}}</ref>。1868年サロン入選。 |
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ファイル:Edouard Manet 022.jpg|『[[皇帝マキシミリアンの処刑]]』1868年。油彩、キャンバス、252 × 305 cm。[[マンハイム市立美術館]]。 |
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ファイル:Edouard Manet 025.jpg|『{{仮リンク|アトリエでの昼食|en|Luncheon in the Studio}}』1868年。油彩、キャンバス、118 × 153.9 cm。[[ノイエ・ピナコテーク]]。1869年サロン入選。 |
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ファイル:Edouard Manet - The Balcony - Google Art Project.jpg|『{{仮リンク|バルコニー (絵画)|en|The Balcony (painting)|label=バルコニー}}』1868-69年。油彩、キャンバス、170 × 125 cm。[[オルセー美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/index-of-works/notice.html?no_cache=1&nnumid=000707 |title=Le balcon |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-11-09}}</ref>。1869年サロン入選。 |
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ファイル:Edouard Manet 091.jpg|『{{仮リンク|フォークストンの汽船の出航|fr|Le Départ du vapeur de Folkestone}}』1869年。油彩、キャンバス、63 × 73.5 cm。[[フィラデルフィア美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.philamuseum.org/collections/permanent/59193.html?mulR=1569835165 |title=The Folkestone Boat, Boulogne |publisher=Philadelphia Museum of Art |accessdate=2017-11-09}}</ref>。 |
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ファイル:Edouard Manet 041.jpg|『エヴァ・ゴンザレスの肖像』1870年。油彩、キャンバス、191.1 × 133.4 cm。[[ナショナル・ギャラリー (ロンドン)|ナショナル・ギャラリー]]([[ロンドン]])。1870年サロン入選<ref name="Eva">{{Cite web |url=https://www.nationalgallery.org.uk/paintings/edouard-manet-eva-gonzales |title=Eva Gonzalès |publisher=The National Gallery |accessdate=2017-11-15}}</ref>。 |
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ファイル:Edouard Manet - Guerre civile (Civil War) - Google Art Project.jpg|『内戦』1871-73年。[[リトグラフ]]、39.4 ×50.5 cm。[[ブラントン美術館]]。 |
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=== 第三共和政のパリ(1870年代) === |
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普仏戦争とパリ・コミューンの混乱が終息すると、[[ロンドン]]に難を逃れていたモネやピサロなど、「バティニョール派」の若い画家たちがパリに戻ってきた。モネは、パリ郊外の[[アルジャントゥイユ]]にアトリエを構えたが、その借家を周旋したのは、[[セーヌ川]]の対岸[[ジュヌヴィリエ]]に広大な土地を所有していたマネであった。マネや、ルノワール、[[アルフレッド・シスレー|シスレー]]らは、頻繁にモネのアトリエを訪れ、一緒に制作した<ref>[[#吉川|吉川 (2010: 167)]]。</ref>。マネは、モネら若い画家から敬愛される一方、モネらの新しい手法からも影響を受けていった<ref>[[#高橋|高橋 (2010: 33)]]。</ref>。 |
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ロンドンでモネやピサロと知り合った画商[[ポール・デュラン=リュエル]]が、他のバティニョール派の画家たちにも興味を持つようになり、1872年にはマネの作品24点を購入した<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 47)]]、[[#高橋|高橋 (2010: 33)]]。</ref>。 |
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[[フランス第三共和政|第三共和政]]の下で最初に行われた'''1872年のサロン'''には、マネは1864年制作の『キアサージ号とアラバマ号の海戦』を提出し、入選した。'''[[1873年]]のサロン'''には、『ル・ボン・ボック』と『休息(ベルト・モリゾの肖像)』が入選した。『ル・ボン・ボック』は、伝統的な表現手法による肖像画で、サロンでは好評だったが、バティニョール派からは評価されなかった<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 50)]]。</ref>。 |
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モネやピサロは、1873年のサロンには応募しなかった。彼らは、この頃から、サロンとは独立したグループ展の開催を計画していた。モネは、この年4月、ピサロへの手紙の中で、「マネ以外は、全ての人が賛同しています。」と書いている<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 55-56)]]。</ref>。そして、[[1874年]]4月、モネ、ピサロ、ルノワール、シスレー、ドガ、ベルト・モリゾなど30人の参加者で第1回グループ展を開いた。後に第1回印象派展と呼ばれる画期的な展覧会であった<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 67-68)]]。</ref>。マネは、1873年のサロンで『ル・ボン・ボック』が好評だったこともあって、サロンこそ画家の唯一の道であると考え、グループ展を開くことには反対であった。そのため、モネやドガから熱心に参加を進められたが、断った。参加しない口実として、「コテで描く左官にすぎないような[[ポール・セザンヌ|セザンヌ]]と関わりたくない」と公言していたという<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 69-70)]]、[[#カシャン|カシャン (2008: 102)]]。</ref>。マネは、同じ'''1874年のサロン'''に、『鉄道』を出品している。深い愛情で結ばれた理想的な母子像ではなく、読書に熱中する母親と、退屈そうにサン・ラザール駅の構内を眺める娘を冷ややかに描き出した作品である<ref>[[#吉川|吉川 (2010: 105-11)]]、[[#木村|木村 (2012: 112-13)]]。</ref>。マネは、こうした現代都市の人間像に関心を寄せていた点でも、戸外制作による風景画を主にしたモネら印象派とは方向性が違っていた<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 106)]]、[[#高橋|高橋 (2010: 56)]]。</ref>。 |
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ドガは、グループ展に参加しないマネについて、「写実主義のサロンが必要だ。マネはそのことを分かっていない。どう考えても、彼は利口というよりうぬぼれ屋だ。」と批判した<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 103)]]。</ref>。とはいえ、この年、グループ展の入場者数は30日で延べ約3500人だったのに対し、サロンの入場者数は40日間で延べ50万人を超えていたと見られ、公衆の認知を得るためにはサロンはいまだ大きな力を持っていた。グループ展は、批評家[[ルイ・ルロワ]]の風刺的な記事を筆頭に、嘲笑する声が大きく、経済的にも赤字に終わった<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 102-03)]]。</ref>。マネはグループ展に参加しなかったにもかかわらず、批評家たちは、「使徒マネ氏とその弟子たち」と書くなど、マネを印象派のリーダー格と目していた<ref>[[#吉川|吉川 (2010: 189-90)]]。</ref>。 |
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モネとの親しい関係は続き、度々アルジャントゥイユを訪れていた。モネが経済的困窮に陥り、マネに苦境を訴える手紙を送ると、マネは援助に応じた<ref>[[#パタン|パタン (1997: 47-52)]]。</ref>。モネは、小さなボートをアトリエ舟に仕立て、セーヌ川に浮かべて制作したが、その様子をマネが描いている<ref>[[#吉川|吉川 (2010: 168-70)]]。</ref>。モネの回想によれば、1874年、マネと[[ピエール=オーギュスト・ルノワール|ルノワール]]が、アルジャントゥイユのモネの家で、モネの妻カミーユと息子ジャンを一緒に描いたことがあったが(『庭のモネ一家』)、マネは、モネに、「あの青年には才能がない。君は友人なら、絵を諦めるように勧めなさい。」と言ったという。もっとも、マネは、心からルノワールを賞賛していたので、このエピソードは、ルノワールと競い合ったマネの苛立ちを表したものにすぎないとも指摘されている<ref>[[#リウォルド|リウォルド (2004: 254)]]。</ref>。ところで、マネはこの時初めて戸外にイーゼルを立てて制作したと思われるが、これは、戸外の明るい光の下で自然の印象を正確にとらえようというモネの[[戸外制作]]の手法に従ったものであった<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 98)]]。</ref>。マネは、印象派の技法をとりいれた『アルジャントゥイユ』を'''[[1875年]]のサロン'''に出品した。印象派に対するマネの支持表明といえる<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 98-99)]]。</ref>。しかし、背景のセーヌ川の描き方が青い壁のようだなどと酷評を浴びた<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 98-99)]]、[[#島田・挑戦|島田 (2009: 111)]]。</ref>。1874年12月には、マネの弟ウジェーヌ・マネと、ベルト・モリゾが結婚した<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 111)]]。</ref>。 |
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ファイル:Édouard Manet - Le repos.jpg|『{{仮リンク|休息(ベルト・モリゾの肖像)|fr|Le Repos (Manet)}}』1871年頃。油彩、キャンバス、150.2 × 114 cm。[[ロードアイランド・スクール・オブ・デザイン]]付設美術館<ref>{{Cite web |url=https://risdmuseum.org/art_design/objects/839 |title=Repose |publisher= Rhode Island School of Design |accessdate=2017-11-11}}</ref>。1873年サロン入選。 |
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ファイル:Edouard Manet - Berthe Morisot With a Bouquet of Violets - Google Art Project.jpg|『[[すみれの花束をつけたベルト・モリゾ]]』1872年。油彩、キャンバス、55.5 × 40.5 cm。[[オルセー美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/index-of-works/notice.html?no_cache=1&nnumid=100102&cHash=5a0dec3204 |title=Berthe Morisot au bouquet de violettes |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-11-11}}</ref>。 |
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ファイル:Édouard Manet, French - Le Bon Bock - Google Art Project.jpg|『ル・ボン・ボック』1873年。油彩、キャンバス、94.6 × 83.3 cm。[[フィラデルフィア美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.philamuseum.org/collections/permanent/59213.html |title=Le Bon Bock |publisher=Philadelphia Museum of Art |accessdate=2017-11-11}}</ref>。1873年サロン入選。 |
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ファイル:Edouard Manet - Le Chemin de fer - Google Art Project.jpg|『{{仮リンク|鉄道 (絵画)|en|The Railway|label=鉄道}}』1873年。油彩、キャンバス、93.3 × 111.5 cm 。[[ナショナル・ギャラリー (ワシントン)|ナショナル・ギャラリー]]([[ワシントンD.C.]])<ref>{{Cite web |url=https://www.nga.gov/Collection/art-object-page.43624.html |title=The Railway |publisher=National Gallery of Art |accessdate=2017-11-11}}</ref>。1874年サロン入選。 |
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ファイル:Edouard Manet 093.jpg|『オペラ座の仮面舞踏会』1873年。油彩、キャンバス、59.1 × 72.5 cm。[[ナショナル・ギャラリー (ワシントン)|ナショナル・ギャラリー]]([[ワシントンD.C.]])<ref>{{Cite web |url=https://www.nga.gov/Collection/art-object-page.61246.html |title=Masked Ball at the Opera |publisher=National Gallery of Art |accessdate=2017-11-11}}</ref>。 |
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ファイル:Edouard Manet 010.jpg|『{{仮リンク|アトリエ舟で描くクロード・モネ|fr|Claude Monet peignant dans son atelier}}』1874年。油彩、キャンバス、80 × 98 cm。[[ノイエ・ピナコテーク]]。 |
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ファイル:Edouard Manet Boating.jpg|『{{仮リンク|ボート遊び|fr|En bateau}}』1874年。油彩、キャンバス、97.2 × 130.2 cm。[[メトロポリタン美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://www.metmuseum.org/art/collection/search/436947 |title=Boating |publisher=The Metropolitan Museum of Art |accessdate=2017-11-11}}</ref>。 |
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ファイル:Edouard Manet 003.jpg|『{{仮リンク|アルジャントゥイユ (マネ)|fr|Argenteuil (Manet)|label=アルジャントゥイユ}}』1874年。油彩、キャンバス、149 ×115 cm。{{仮リンク|トゥルネ美術館|en|Musée des Beaux-Arts Tournai}}([[ベルギー]])。 |
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ファイル:Édouard Manet --The Monet Family in Their Garden at Argenteuil.jpg|『庭のモネ一家』1874年。油彩、キャンバス、61 × 99.7 cm。[[メトロポリタン美術館]]<ref>{{Cite web |url=https://www.metmuseum.org/art/collection/search/436965 |title=The Monet Family in Their Garden at Argenteuil |publisher=The Metropolitan Museum of Art |accessdate=2017-11-11}}</ref>。 |
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マネは、1873年頃、詩人[[ステファヌ・マラルメ]]と知り合い、親しくなった。1875年、マラルメが[[エドガー・アラン・ポー]]の『[[大鴉]]』を訳した時、その挿絵のために[[リトグラフ]]を制作した。翌[[1876年]]には、マラルメの『牧神の午後』の挿絵のために木版画を制作した<ref>[[#高橋|高橋 (2010: 60-61)]]。</ref>。 |
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マネは、'''1876年のサロン'''に、『洗濯』と、マルスラン・デブータンを描いた『画家』を応募したが、落選した。そこで、マネは、個展を開き、これらの落選作を公開した。招待状には、金色の文字で、「ありのままに描く、言いたいように言わせる」と書かれていた。この個展には、1日に400人もの来場者があり、新聞は大々的に報じた。「何ということ! 目鼻立ちがすっきりして、穏やかな眼差しをした、手入れされたブロンドのひげのこの紳士、{{Interp|中略}}パリッとしたシャツを着て、きちんと手袋をはめたこの紳士が、ボート遊びをする人々{{Interp|『アルジャントゥイユ』}}の作者なのだ!」と驚きをもって伝えており、相変わらずマネの作品に対する評価は低かった<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 106-08)]]。</ref>。 |
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一方、マラルメは、『洗濯』について、「おそらく画家{{Interp|マネ}}の経歴において、そして確実に美術史上、時代を画する作品」だと賞賛した。マネは、マラルメに肖像画を贈り、マラルメはこれをずっと自分の家に飾っていた<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 108)]]、[[#高橋|高橋 (2010: 60)]]。</ref>。マラルメは、ボードレール、ゾラに続くマネの擁護者としての役割を果たした<ref>[[#島田・挑戦|島田 (2009: 120-21)]]。</ref>。マネの死後、マラルメは、マネについて次のように述べている<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 109)]]、[[#高橋|高橋 (2010: 61)]]。</ref>。 |
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{{Quotation|失望の中にも、{{Interp|中略}}男らしい無邪気さがあった。つまり、カフェ・トルトーニでは、からかい好きで、粋な人間だった。その一方、アトリエでは、まるで一度も絵を描いたことがないかのように、白いキャンバスに激情を投げ付けていた。|[[ステファヌ・マラルメ]]|『とりとめのない話』「マネ」}} |
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'''[[1877年]]のサロン'''には、『ハムレットを演じるフォール』が入選した。モデルの{{仮リンク|ジャン=バティスト・フォール|en|Jean-Baptiste Faure}}は、有名なバリトン歌手で、印象派の作品を愛好しており、マネの作品を67点も収集していた。この絵は、フォールの当たり役ハムレットを演じるところを描いたものだが、サロンでは、「滑稽な肖像画だ」、「狂人になったハムレットが、マネ氏によって描かれた」などと風刺された<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 117-21)]]。</ref>。また、同じく1877年のサロンに応募した『ナナ』は、『オランピア』と同様、高級娼婦を描いた[[自然主義]]的な主題の作品だったが、落選した<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 122-23)]]、[[#高橋|高橋 (2010: 64-65)]]。</ref>。 |
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1877年の冬から[[1878年]]にかけて、サロンに出品するため、カフェ・コンセールを舞台にした大作にとりかかった。結局、マネはその作品を2分割し、『ビヤホールのウェイトレス』と『カフェにて』という2つの作品となった<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 126)]]。</ref>。 |
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ファイル:Edouard Manet 087.jpg|『{{仮リンク|洗濯 (マネ)|fr|Le Linge|label=洗濯}}』1875年。油彩、キャンバス、145 × 115 cm。[[バーンズ・コレクション]]。1876年サロン落選。 |
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ファイル:Manet - O artista – Retrato de Marcellin Desboutin 1875 3.jpg|『画家(マルスラン・デブータンの肖像)』1875年。油彩、キャンバス、195.5 × 131.5 cm。[[サンパウロ美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.masp.art.br/masp2010/acervo_detalheobra.php?id=244 |title=O Artista - Retrato de Marcellin Desboutin |publisher=Museu de Arte de São Paulo |accessdate=2017-11-11}}</ref>。1876年サロン落選。 |
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ファイル:Le Corbeau - Manet, Plate 2.jpg|マラルメ訳『[[大鴉]]』のための挿絵、1875年。リトグラフ。 |
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ファイル:Portrait of Stéphane Mallarmé (Manet).jpg|『ステファヌ・マラルメの肖像』1876年。油彩、キャンバス、27.2 × 35.7 cm。[[オルセー美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/index-of-works/notice.html?no_cache=1&nnumid=001133&cHash=b941a9d924 |title=Stéphane Mallarmé |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-11-11}}</ref>。 |
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ファイル:Edouard Manet Faure as Hamlet.JPG|『ハムレットを演じるフォール』1877年。油彩、キャンバス、196 × 131 cm。[[フォルクヴァンク美術館]]。 |
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ファイル:Edouard Manet 037.jpg|『{{仮リンク|ナナ (絵画)|en|Nana (painting)|label=ナナ}}』1877年。油彩、キャンバス、154 × 115 cm。[[ハンブルク美術館]]。1877年サロン落選。 |
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ファイル:Edouard Manet - The Plum - National Gallery of Art.jpg|『{{仮リンク|プラム (絵画)|en|The Plum|label=プラム}}』1877年頃。油彩、キャンバス、73.6 × 50.2 cm。[[ナショナル・ギャラリー (ワシントン)|ナショナル・ギャラリー]]([[ワシントンD.C.]])<ref>{{Cite web |url=https://www.nga.gov/Collection/art-object-page.53034.html |title=Plum Brandy |publisher=National Gallery of Art |accessdate=2017-11-11}}</ref>。 |
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ファイル:Édouard Manet, The Rue Mosnier with Flags, 1878.jpg|『{{仮リンク|旗で飾られたモニエ通り|fr|La Rue Mosnier aux drapeaux}}』1878年。油彩、キャンバス、65.4 × 80 cm。[[J・ポール・ゲティ美術館|ゲティ・センター]]<ref>{{Cite web |url=https://www.getty.edu/art/collection/objects/825/edouard-manet-the-rue-mosnier-with-flags-french-1878-000/ |title=The Rue Mosnier with Flags |publisher=The J. Paul Getty Trust |accessdate=2017-11-11}}</ref>。 |
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ファイル:Edouard Manet - Self-Portrait - Google Art Project.jpg|『自画像』1878-79年。油彩、キャンバス、94 × 63 cm。[[ブリヂストン美術館]]。 |
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ファイル:Edouard Manet 006.jpg|『{{仮リンク|ビヤホールのウェイトレス|fr|Coin de café-concert}}』推定1878-80年。油彩、キャンバス97.1 × 77.5 cm。[[ナショナル・ギャラリー (ロンドン)|ナショナル・ギャラリー]]([[ロンドン]])<ref>{{Cite web |url=http://www.nationalgallery.org.uk/paintings/edouard-manet-corner-of-a-cafe-concert |title=Corner of a Café-Concert |publisher= |accessdate=2017-11-11}}</ref>。 |
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ファイル:Edouard Manet 060.jpg|『{{仮リンク|パレットを持った自画像 (マネ)|en|Self-Portrait with Palette (Manet)|label=パレットを持った自画像}}』1879年。油彩、キャンバス、83 × 67 cm。私蔵。 |
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ファイル:In the Conservatory - edited.jpg|『温室にて』1879年。油彩、キャンバス、62 × 51 cm。[[旧国立美術館 (ベルリン)|旧国立美術館]]([[ベルリン]])。 |
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ファイル:Edouard Manet 031.jpg|『ラテュイユ親父の店』1879年。油彩、キャンバス、92 × 112 cm。[[トゥルネ美術館]]。 |
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=== 晩年(1880年代初頭) === |
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[[ファイル:Carolus-Duran - Portrait of Edouard Manet.jpg|thumb|160px|right|{{仮リンク|カルロス=デュラン|en|Carolus-Duran}}によるマネの肖像画(1880年頃)。]] |
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マネは、[[1880年]]頃から、16歳の時にブラジルで感染した[[梅毒]]の症状が悪化し、左脚の[[壊疽]]が進んできた<ref>[[#木村|木村 (2012: 114-15)]]。</ref>。医師から、田舎での静養を指示され、1880年の夏はパリ郊外のベルビューに滞在した。マネは、暇をまぎらわすため、友人たちや、お気に入りのモデル、イザベル・ルモニエに多くの手紙を送っている<ref>[[#高橋|高橋 (2010: 57, 77)]]、[[#カシャン|カシャン (2008: 117)]]。</ref>。晩年の2年間は、病気のため、大きな油彩画を制作することが難しくなり、[[パステル画]]を数多く描いている<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 116)]]。</ref>。 |
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'''[[1881年]]のサロン'''に、『アンリ・ロシュフォールの肖像』を含む肖像画2点を出品し、銀メダルを獲得した。これによって、以後のサロンには無審査で出品できることになった<ref>[[#木村|木村 (2012: 113)]]。</ref>。この年の夏は、[[ヴェルサイユ]]で療養した<ref>[[#高橋|高橋 (2010: 57)]]。</ref>。親友アントナン・プルーストが美術大臣に任命されると、その働きかけにより、マネは同年12月末、[[レジオンドヌール勲章]]を受章することができた<ref>[[#木村|木村 (2012: 113)]]、[[#高橋|高橋 (2010: 57)]]。</ref>。 |
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左脚の痛みに耐えながら、[[1881年]]冬から翌[[1882年]]にかけて、最後の大作『[[フォリー・ベルジェールのバー]]』の制作に取り組んだ。[[フォリー・ベルジェール]]劇場のバーで実際に働いていたシュゾンというウェイトレスに、モデルを依頼した。正面を向いたウェイトレスは、虚ろな視線であるが、鏡に映った後ろ姿では、飲み物を注文する男性客に向かって身をかがめ、話をしている。正面の姿と後ろ姿が一致しないことや、[[遠近法]]の歪みは、観る者を困惑させた<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 126-30)]]。</ref>。もっとも、これは、意図的に遠近法を無視し、ウェイトレスの空虚な表情に全力で焦点を当てたものとも説明されている<ref>[[#吉川|吉川 (2010: 145-52)]]。</ref>。 |
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1882年7月から10月にかけて、パリ西郊の[[リュエイユ=マルメゾン|リュエイユ]]に滞在した。マネのもとには、上流階級の男たちの愛人{{仮リンク|メリー・ローラン|fr|Méry Laurent}}、オペラ歌手{{仮リンク|エミリー・アンブル|en|Émilie Ambre}}、宝石商人の娘イザベル・ルモニエなど、多くの女性たちが訪れた。マネは、これらの女性の肖像画を数多く描いている<ref>[[#高橋|高橋 (2010: 57, 70)]]。</ref>。この頃、マネは、唯一の相続人として妻シュザンヌを指名する[[遺言]]を作成した。ただし、死後の作品売立ての売却益から5万フランをレオン・コエラに遺贈することとし、シュザンヌが相続した遺産は、彼女の死亡時、全てをレオンに相続させることとされていた<ref>[[#吉川|吉川 (2010: 141-42)]]。</ref>。 |
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[[1883年]]4月20日、壊疽が進行した左脚を切断する手術を受けた。しかし、経過は悪く、高熱にうなされた末、4月30日、51歳で亡くなった<ref>[[#木村|木村 (2012: 115)]]、[[#高橋|高橋 (2010: 76)]]。</ref>。葬儀は5月3日に行われ、パリの[[パッシー墓地]]に埋葬された。あらゆるグループの画家たちが葬儀に参列した。ドガは、「我々が考えていた以上に、彼は偉大だった」と語った<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 131)]]。</ref>。 |
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ファイル:Édouard Manet - La Promenade (Mme Gamby).jpg|『散歩』1880年頃。油彩、キャンバス、92.3 × 70.5 cm。[[東京富士美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.fujibi.or.jp/our-collection/profile-of-works.html?work_id=1114 |title=散歩 |publisher=東京富士美術館 |accessdate=2017-11-23}}</ref>。 |
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ファイル:Manet Emilie Ambre as Carmen.jpg|『カルメン姿のエミリー・アンブル』1880年。油彩、キャンバス、92.4 × 73.5 cm。[[フィラデルフィア美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.philamuseum.org/collections/permanent/59866.html |title=Portrait of Émilie Ambre as Carmen |publisher=Philadelphia Museum of Art |accessdate=2017-11-23}}</ref>。 |
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ファイル:Edouard Manet - Asparagus - Google Art Project.jpg|『{{仮リンク|アスパラガス (絵画)|fr|L'Asperge|label=アスパラガス}}』1880年。油彩、キャンバス、16.9 × 21.9 cm。[[オルセー美術館]]<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/collections/index-of-works/notice.html?no_cache=1&nnumid=1134 |title=L'asperge |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-11-23}}</ref>。 |
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ファイル:Edouard Manet Automne Mery Laurent.jpg|『秋(メリー・ローラン)』1881年。油彩、キャンバス、73 × 51 cm。[[ナンシー美術館]]。 |
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ファイル:Edouard Manet, A Bar at the Folies-Bergère.jpg|『[[フォリー・ベルジェールのバー]]』1882年。油彩、キャンバス、96 × 130 cm。[[コートールド・ギャラリー]]([[ロンドン]])<ref>{{Cite web |url=http://courtauld.ac.uk/gallery/collection/impressionism-post-impressionism/edouard-manet-a-bar-at-the-folies-bergere |title=A Bar at the Folies-Bergère |publisher=The Courtauld Institute Of Art |accessdate=2017-11-11}}</ref>。1882年サロン入選。 |
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ファイル:Edouard Manet - Landhaus in Rueil - Google Art Project.jpg|『リュエイユの家』1882年。油彩、キャンバス、71.5 × 92.3 cm。[[旧国立美術館 (ベルリン)|旧国立美術館]]([[ベルリン]])<ref>{{Cite web |url=https://www.google.com/culturalinstitute/beta/asset/RQHFJGIHSuisMQ |title=The House at Rueil |publisher=Google Arts & Culture |accessdate=2017-11-23}}</ref>。 |
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== 死後 == |
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=== 名声の確立 === |
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[[ファイル:Manet-grave.jpg|thumb|right|150px|パリ・[[パッシー墓地]]にあるマネの墓。]] |
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[[1884年]]1月、ウジェーヌ・マネとその妻ベルト・モリゾの企画により、[[エコール・デ・ボザール]](官立美術学校)でマネの回顧展が開かれた。116点の油彩のほか、版画、デッサン、水彩、パステル画など合計200点を集めた大規模なものであり、成功を収めた。ただ、マネの評価が高まりつつあったアメリカと比べ、フランスでの評価はまだまだ低かった<ref>[[#木村|木村 (2012: 115)]]、[[#高橋|高橋 (2010: 76)]]。</ref>。『笛を吹く少年』について、その平面的な彩色を嫌い、「これは扉に貼り付けられたダイヤのジャックだ」とけなした保守的な批評家もいた<ref>[[#三浦・謎|三浦 (2012: 23)]]。</ref>。 |
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[[1889年]]の[[パリ万国博覧会 (1889年)|パリ万国博覧会]]を記念して開かれた「フランス美術100年展」に、マネの『オランピア』が展示された。これを機に、モネは、『オランピア』を購入してルーヴル美術館に寄贈する計画を立てた。モネは、[[オーギュスト・ロダン]]宛ての手紙で、「これは、マネの業績に対する素晴らしい賛辞ですし、同時にこの絵の持ち主であるマネ夫人の経済状態をさりげなく援助することにもなります」と書いている<ref>[[#パタン|パタン (1997: 98-99)]]。</ref>。元美術大臣アントナン・プルーストの反対に遭ったが、最終的に、モネは、『オランピア』を購入し、[[1890年]]11月、国の[[リュクサンブール美術館]]に展示させることに成功した。その時でも、ルーヴル美術館にはふさわしくないという保守的アカデミズムの抵抗はまだ強かった。[[1907年]]に[[ジョルジュ・クレマンソー]]の働きかけにより、ようやくルーヴル美術館に移送された<ref>[[#パタン|パタン (1997: 100-01)]]、[[#木村|木村 (2012: 115-16)]]。</ref><ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/en/events/exhibitions/in-the-musee-dorsay/exhibitions-in-the-musee-dorsay/article/a-hundred-years-ago-olympia-4374.html?cHash=0445507a91 |title=A Hundred Years Ago : Olympia |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2016-11-26}}</ref>。 |
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[[1894年]]、印象派の画家で収集家でもあった[[ギュスターヴ・カイユボット]]が亡くなった時、マネや印象派の作品68点をリュクサンブール美術館に[[遺贈]]するとの遺言を残した。この当時も、美術界の保守派の抵抗は根強く、受入れには反対の声が強かった。結局、[[1896年]]2月、コレクションの中から40点が選ばれて、フランス政府が受け入れることになった。この中にマネの『バルコニー』も含まれている<ref>[[#木村|木村 (2012: 171)]]、[[#高橋|高橋 (2010: 76)]]。</ref>。 |
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[[1906年]]、近代美術の大収集家{{仮リンク|エティエンヌ・モロー・ネラトン|en|Étienne Moreau-Nélaton}}がルーヴル美術館に寄贈したコレクションの中に、マネの『草上の昼食』など5作品が含まれていた<ref>[[#高橋|高橋 (2010: 76)]]。</ref>。 |
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[[1932年]]、パリで生誕100年の記念展覧会が開かれた<ref>[[#高橋|高橋 (2010: 76)]]。</ref>。 |
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[[1983年]]には、パリの[[グラン・パレ]]美術館で、没後100年の回顧展が行われた<ref>[[#瀬木|瀬木 (1999: 91)]]。</ref>。 |
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=== 市場での評価 === |
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マネの生前の[[1878年]]、ジャン=バティスト・フォールが資金難により{{仮リンク|オテル・ドゥルオ|en|Hôtel Drouot}}でマネの作品を競売に出した時、1点が2000フラン(80ポンド)で売れただけで、その他は売れなかった。[[エルネスト・オシュデ]]が破産して同じ年にマネの作品を競売に出したが、1点当たり35フランから800フランの間でしか落札されなかった<ref>[[#瀬木|瀬木 (1999: 85)]]。</ref>。 |
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死の翌年1884年の回顧展後、オテル・ドゥルオでその作品の多くが競売されたが、『オランピア』が400ポンド(1万フラン)、『アルジャントゥイユ』が500ポンド(1万2500フラン)というのが高い方で、油絵93点ほかパステル画、水彩、デッサン、[[エッチング]]、リトグラフの総売上は4665ポンド(11万6637フラン)と、マネ家の期待を大きく下回った。落札者も大部分が遺族と友人であった<ref>[[#瀬木|瀬木 (1999: 85-86)]]。</ref>。 |
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マネの市場価格は、徐々に上がり、[[1898年]]、『ギターを持つ女』が2800ポンド(7万フラン)で売られた。[[1910年]]以降、マンハイム市立美術館が『[[皇帝マキシミリアンの処刑]]』を4500ポンドで購入するなど、ポンドで4桁台が常態となり、1920年代にはポンドで5桁台のものも現れるようになった。1926年には、{{仮リンク|サミュエル・コートールド|en|Samuel Courtauld (art collector)}}が『[[フォリー・ベルジェールのバー]]』を2万4100ポンド(手数料込み)で購入し、[[第2次世界大戦]]前のマネの最高記録となった<ref>[[#瀬木|瀬木 (1999: 87-88)]]。</ref>。 |
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第2次世界大戦後は、ポンドで5桁台が常態となり、[[1958年]]に『旗で飾られたモニエ通り』が11万3000ポンドで落札され、ポンド6桁台が現れるようになった。それでも、ルノワールに比べると、市場での人気は高くなかった。ところが、1980年代以降、美術市場全体で良品が払底するに従い、マネ作品の価格は更に高騰した。[[1986年]]12月1日、ロンドンの[[クリスティーズ]]で『舗装工のいるモニエ通り』が700ポンド(1017万ドル、16億5410万円)という高値を記録した。[[1989年]]11月14日、[[ニューヨーク]]のクリスティーズで、『旗で飾られたモニエ通り』が[[J・ポール・ゲティ美術館]]によって2400万ドル(34億7520万円)で落札され、マネの史上最高値を更新した。[[1997年]]には、『[[パレットを持った自画像 (マネ)|パレットを持った自画像]]』が1700万ドル(20億3320万円)という2番目の高値で落札された<ref>[[#瀬木|瀬木 (1999: 90-92)]]。</ref>。 |
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== 作品 == |
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=== カタログ === |
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[[ファイル:Manet autograph.png|thumb|180px|right|マネのサイン]] |
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マネは、遅筆で、生涯の制作数が比較的少ない。油絵は400点余り、水彩画100点余り、版画100種余りである<ref>[[#瀬木|瀬木 (1999: 91)]]。</ref>。 |
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=== 時代背景、画風 === |
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19世紀半ば、フランスの絵画を支配していたのは、[[芸術アカデミー]]と[[サロン・ド・パリ]]を牙城とする[[アカデミズム絵画]]であった。その主流を占める新古典主義は、[[古代ギリシア]]において完成された「理想の美」を規範とし、明快で安定した構図を追求した。また、色彩よりも、正確なデッサン(輪郭線)と、陰影による肉付法を重視していた<ref>[[#高階・絵画史|高階 (1975: 上34-36)]]。</ref>。歴史画や神話画が高貴なジャンルとされたのに対し、肖像画や風景画は低俗なジャンルとされていた<ref>[[#高階・絵画史|高階 (1975: 上52)]]。</ref>。明確な美の基準を持たない新興のブルジョワ階級は、伝統的なサロンの権威に盲従していたため、画家が絵を売って生活しようとすれば、サロンで入選し、賞をとることが絶対的な条件となっていた<ref>[[#高階・フランス|高階 (1990: 257)]]。</ref>。 |
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もっとも、こうした新古典主義に対抗して、[[ロマン主義]]を代表する[[ウジェーヌ・ドラクロワ]]は、ヴェネツィア派や[[ピーテル・パウル・ルーベンス]]を信奉して、豊かな色彩表現を追求し、革命の第1の波をもたらした<ref>[[#ゴンブリッチ|ゴンブリッチ (2011: 384)]]。</ref>。次いで、[[ギュスターヴ・クールベ]]は、[[写実主義]]を標榜し、卑近な題材を誠実に描こうとした。これは革命の第2の波であった<ref>[[#ゴンブリッチ|ゴンブリッチ (2011: 388)]]。</ref>。 |
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[[ファイル:Olympia Bertall.JPG|thumb|right|200px|{{仮リンク|ベルタール|en|Bertall}}による『オランピア』の風刺画。1865年。]] |
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マネは、保守的なブルジョワであり、彼自身はサロンに対する反旗を掲げるつもりはなく、むしろ過去の巨匠から積極的に学ぶことによって、サロンで成功することを切望していた。そのため、印象派グループ展が立ち上げられても参加せず、サロンへの応募を続けた<ref>[[#高階・絵画史|高階 (1975: 72-73)]]。</ref>。しかし、マネの『草上の昼食』や『オランピア』は、本人の意図に反して絵画界にとっての大スキャンダルを巻き起こし、第3の革命の引き金を引くことになった<ref>[[#ゴンブリッチ|ゴンブリッチ (2011: 390)]]。</ref>。その革命には、主題の問題と、造形の問題があった<ref>[[#高階・絵画史|高階 (1975: 76-77)]]、[[#高階・フランス|高階 (1990: 266)]]。</ref>。 |
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主題の面では、ニンフでも女神でもない現実の女性が、裸身をさらすということ自体、[[フランス第二帝政]]時代の厳格な道徳観の下では、強い非難に値した<ref>[[#高階・フランス|高階 (1990: 266-67)]]。</ref>。当時のフランスは、産業革命が急速に進行し、ブルジョワが台頭する時代であり、パリには大量の人口が流入し、都市として急拡大していた。娼婦は享楽に湧くパリの裏面を象徴する存在であり、それを露骨に描いた『オランピア』は、ブルジョワ社会に冷や水を浴びせる作品であった<ref>[[#吉川|吉川 (2010: 72, 85-87)]]。</ref>。『鉄道』や『バルコニー』では、近代社会における人間同士の冷ややかな関係や、[[人間疎外]]の様子を、冷徹に描いた。このように、近代化・都市化する時代をありのままに描くことがマネの本質であった<ref>[[#吉川|吉川 (2010: 105-24)]]。</ref>。 |
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一方、造形の面では、『草上の昼食』も、『オランピア』も、伝統的な陰影による肉付けが施されておらず、平面的に見える。『笛を吹く少年』では、背景は無地で、奥行きが感じられない。『フォリー・ベルジェールのバー』では、ウェイトレスの正面の姿と、背後の鏡に写った後ろ姿とが、遠近法的に矛盾を来している。このように、マネの作品は、伝統的な約束事にとらわれず、画家が目撃した現実を伝えようとする点で革新的であった<ref>[[#高階・絵画史|高階 (1975: 77-78)]]、[[#高階・フランス|高階 (1990: 267)]]、[[#ゴンブリッチ|ゴンブリッチ (2011: 393)]]。</ref>。 |
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=== 印象派との関係 === |
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[[ファイル:Frédéric Bazille - Bazille's Studio - Google Art Project.jpg|thumb|right|200px|[[フレデリック・バジール]]『バジールのアトリエ(ラ・コンダミンヌ通り)』1870年。油彩、キャンバス、98 × 128 cm。オルセー美術館<ref>{{Cite web |url=http://www.musee-orsay.fr/fr/collections/oeuvres-commentees/recherche/commentaire/commentaire_id/latelier-de-bazille-11400.html |title=L'atelier de Bazille |publisher=Musée d'Orsay |accessdate=2017-11-22}}</ref>。]] |
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マネは、若い印象派の画家たちから敬愛を受け、前述のように伝統的な約束事にとらわれない造形という点でも印象派に影響を与えた。[[フレデリック・バジール]]の『バジールのアトリエ』では、キャンバスの前でマネがバジールに助言を与えているところが描かれている<ref>[[#吉川|吉川 (2010: 15)]]。</ref>。明示的にマネにならった作品もあり、モネは、マネの『草上の昼食(水浴)』に発想を得て1865年-66年に同様の主題で『草上の昼食』を制作し<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 55)]]。</ref><ref group="注釈">『草上の昼食』という題はモネの作品の方が先であり、マネは、これにならって、1867年の個展で『水浴』を『草上の昼食』と変更した([[#カシャン|カシャン (2008: 55)]])。</ref>、[[ポール・セザンヌ]]は、『オランピア』に惹かれ、1869年-70年頃、『モデルヌ・オランピア(現代版オランピア)』を制作した<ref>[[#吉川|吉川 (2010: 87)]]。</ref>。 |
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[[ファイル:Édouard Manet - Les Courses (The Races at Longchamps) - Google Art Project.jpg|thumb|left|180px|マネ『ロンシャンの競馬場』1864/65-72年<ref group="注釈">リトグラフ、50.8 × 38.7 cm。[[ヒューストン美術館]]。{{Cite web |url=https://www.google.com/culturalinstitute/beta/asset/PAEn8bhDcecl0w |title=Les Courses (The Races at Longchamps) |publisher=Google Arts & Culture |accessdate=2017-11-22}}</ref>。]] |
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1864年-65年の『ロンシャンの競馬場』のリトグラフでは、馬は4本脚というような既存の知識に頼ることなく、一見殴り描きのような線で、一瞬の力強い動きを描写している。このような手法は、印象派に引き継がれている<ref>[[#ゴンブリッチ|ゴンブリッチ (2011: 394-95)]]。</ref>。 |
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他方、マネが、後輩のモネや弟子のベルト・モリゾら印象派から影響を受けた面もあり、1870年代には、印象派的な様式に近づいている<ref>[[#高階・絵画史|高階 (1975: 上74)]]。</ref>。モネにならって戸外制作を取り入れたり、印象派風の筆触分割を用いたりしている。もっとも、モネに代表される印象派が、光と大気の揺らぎをキャンバスに留めることに集中し、人物をラフな筆触で幻影のように描いたのとは異なり、マネの描く人物には存在感と現実感があり、印象派とはやや関心が異なっていた<ref>[[#カシャン|カシャン (2008: 98-100)]]、[[#吉川|吉川 (2010: 202-06)]]。</ref>。 |
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このように、マネは、印象派の画家たちと影響を与え合っており、印象主義的な要素の濃い作品もあることから、印象派の1人として語られることもあるが、印象派グループ展に参加しなかったことから、印象派そのものには含めず、印象派の指導者あるいは先駆者として位置付けられるのが一般的である<ref>[[#高階・絵画史|高階 (1975: 上72)]]、[[#吉川|吉川 (2010: 192-93)]]、[[#木村|木村 (2012: 96, 111)]]。</ref>。 |
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=== ジャポニスム === |
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マネの絵画には、1860年代から流行した[[ジャポニスム]]の影響も指摘されている<ref>[[#三浦・謎|三浦 (2012: 21)]]、[[#高階・フランス|高階 (1990: 251)]]。</ref>。マネの『エミール・ゾラの肖像』の背景には、日本の花鳥図屏風と[[浮世絵]]が飾られており、浮世絵への関心が窺える。マネの場合、単なる異国趣味として浮世絵を取り入れただけではなく、造形の中にこれを生かしている。『笛を吹く少年』の平面的な彩色には、ベラスケスからのほかに、浮世絵からの影響があると考えられる。『キアサージ号とアラバマ号の海戦』には、伝統的な遠近法と異なり、高い視点と水平線、船を画面の端に寄せる構図が採用されており、日本風の空間表現である。『ボート遊び』の、水平線をなくし背景全体を水面とする構図、モティーフを切り取る手法も、同様である<ref>[[#ジャポニスム|ジャポニスム学会 (2000: 36-37)]]。</ref>。 |
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ゾラは、「マネの単純化された絵画を日本の版画と比較するのは興味深いだろう。日本の版画は、未知の優美さと見事な色斑によって、マネの絵と似ているから。」と書いている<ref>[[#三浦・謎|三浦 (2012: 21)]]。</ref>。 |
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== 脚注 == |
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=== 注釈 === |
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{{Reflist|group="注釈"}} |
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=== 出典 === |
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{{Reflist|3}} |
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== 参考 |
== 参考文献 == |
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* {{Cite book |和書 |author=フランソワーズ・カシャン |others=[[藤田治彦]]監修、遠藤ゆかり訳 |title=マネ――近代絵画の誕生 |publisher=[[創元社]] |series=[[「知の再発見」双書]] |year=2008 |origyear=1994 |isbn=978-4-422-21197-8 |ref=カシャン}} |
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{{参照方法|date=2012年12月}} |
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* {{Cite book |和書 |author=木村泰司 |title=印象派という革命 |publisher=[[集英社]] |year=2012 |isbn=978-4-08-781496-5 |ref=木村}} |
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* [[高橋明也]] 『もっと知りたいマネ 生涯と作品』 [[東京美術]]〈アート・ビギナーズ・コレクション〉、2010年 ISBN 978-4-8087-0867-2 |
|||
* {{Cite book |和書 |author=[[エルンスト・ゴンブリッチ]] |title=美術の物語〔ポケット版〕 |publisher=ファイドン |year=2011 |origyear=1950 |isbn=978-4-86441-006-9 |ref=ゴンブリッチ}} |
|||
* アントナン・プルースト著/野村太郎訳 『マネの思い出』 美術公論社、1983年 |
|||
* {{Cite book |和書 |author=[[島田紀夫]] |title=印象派の挑戦――モネ、ルノワール、ドガたちの友情と闘い |publisher=[[小学館]] |year=2009 |isbn=978-4-09-682021-6 |ref=島田・挑戦}} |
|||
* アンリ・ペリュシュ著/[[河盛好蔵]]・市川慎一訳 『マネの生涯』 [[講談社]]、1983年 |
|||
* {{Cite book |和書 |author=ジャポニスム学会編 |title=ジャポニスム入門 |publisher=[[思文閣出版]] |year=2000 |isbn=978-4-7842-1053-4 |ref=ジャポニスム}} |
|||
* {{Cite book |和書 |author=[[瀬木慎一]] |title=西洋名画の値段 |series=[[新潮選書]] |publisher=[[新潮社]] |year=1999 |isbn=4-10-600576-X |ref=瀬木}} |
|||
* {{Cite book |和書 |author=[[高階秀爾]] |title=近代絵画史――ゴヤからモンドリアンまで |publisher=[[中央公論新社]] |series=[[中公新書]] |year=1975 |id=(上)ISBN 4-12-100385-3 (下)ISBN 4-12-100386-1 |ref=高階・絵画史}} |
|||
* {{Cite book |和書 |author=高階秀爾 |title=フランス絵画史――ルネサンスから世紀末まで |publisher=[[講談社]] |series=[[講談社学術文庫]] |year=1990 |isbn=4-06-158894-X |ref=高階・フランス}} |
|||
* {{Cite book |和書 |author=[[高橋明也]] |title=もっと知りたいマネ 生涯と作品 |publisher=[[東京美術]] |series=アート・ビギナーズ・コレクション |year=2010 |isbn=978-4-8087-0867-2 |ref=高橋}} |
|||
* {{Cite book |和書 |author=シルヴィ・パタン |others=高階秀爾監修、渡辺隆司・村上伸子訳 |title=モネ――印象派の誕生 |publisher=創元社 |series=「知の再発見」双書 |year=1997 |origyear=1991 |isbn=4-422-21127-7 |ref=パタン}} |
|||
* {{Cite book |和書 |author=[[三浦篤]] |title=名画に隠された「二重の謎」 |publisher=[[小学館]] |series=小学館101ビジュアル新書 |year=2012 |isbn=978-4-09-823023-5 |ref=三浦・謎}} |
|||
* {{Cite book |和書 |author=吉川節子 |title=印象派の誕生――マネとモネ |publisher=中央公論新社 |series=中公新書 |year=2010 |isbn=978-4-12-102052-9 |ref=吉川}} |
|||
* {{Cite book |和書 |author=ジョン・リウォルド |others=三浦篤、[[坂上桂子]]訳 |title=印象派の歴史 |publisher=[[角川学芸出版]] |year=2004 |origyear=(1st ed.) 1946 |isbn=4-04-651912-6 |ref=リウォルド}} |
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*[http://libmma.contentdm.oclc.org/cdm/compoundobject/collection/p15324coll10/id/78705/rec/222 ''Impressionism: a centenary exhibition''], an exhibition catalog from The Metropolitan Museum of Art (p. 110–130) |
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* [http://www.canal-educatif.fr/en/videos/art/6/ArtSleuth-2-manet/In-the-conservatory-Berlin.html Manet, a video documentary about his work] |
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*[http://gildedage2.omeka.net/exhibits/show/highlights/artists/manet Documenting the Gilded Age: New York City Exhibitions at the Turn of the 20th Century] |
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*[http://libmma.contentdm.oclc.org/cdm/ref/collection/p15324coll10/id/67210 ''The Private Collection of Edgar Degas''], material on Manet's relationship with Degas, Metropolitan Museum of Art |
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2017年11月24日 (金) 20:32時点における版
エドゥアール・マネ Édouard Manet | |
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ナダールによる肖像写真(1867-1870頃) | |
生誕 |
1832年1月23日 フランス王国 パリ |
死没 |
1883年4月30日(51歳没) フランス共和国 パリ |
墓地 |
フランス パリ パッシー墓地[2] 北緯48度51分45秒 東経2度17分07秒 / 北緯48.86250度 東経2.28528度 |
国籍 | フランス |
教育 | トマ・クチュールのアトリエ |
著名な実績 | 絵画、版画 |
代表作 | 『草上の昼食』、『オランピア』、『笛を吹く少年』 |
運動・動向 | 写実主義、印象派 |
受賞 | レジオンドヌール勲章騎士章(1881年)[3] |
後援者 | ポール・デュラン=リュエル、ジャン=バティスト・フォール |
影響を受けた 芸術家 | ティントレット、ティツィアーノ、ベラスケス、ゴヤ、エドガー・ドガ、印象派[1] |
影響を与えた 芸術家 | 印象派 |
エドゥアール・マネ(Édouard Manet, 1832年1月23日 - 1883年4月30日)は、19世紀のフランスの画家。
概要
エドゥアール・マネ(以下マネ)は、パリの裕福なブルジョワジーの家庭に生まれた。父はマネが法律家となることを希望していたが、中学校時代から、伯父の影響もあって絵画に興味を持った。海軍兵学校の入学試験に2回失敗すると、父も諦め、芸術家の道を歩むことを許された(→出生、少年時代)。歴史画家であったトマ・クチュールに師事したが、マネは、伝統的なクチュールの姿勢に飽き足らず、ルーヴル美術館での模写やヨーロッパ各地への旅行で、ヴェネツィア派やスペインの巨匠の作品を模写した(→修業時代(1850年代))。
1859年以降、サロン・ド・パリへの応募を続け、1861年にスペインの写実主義的絵画に影響を受けた『スペインの歌手』などで初入選を果たした。理想化された主題や造形を追求するアカデミズム絵画とは一線を画し、近代パリの都市生活を、はっきりした輪郭や平面的な色面を用いながら描く作品は、サロンでは非難にさらされることが多かったが、詩人シャルル・ボードレールから支持を受けた(→サロン入選の努力(1860年代初頭))。1863年にナポレオン3世の号令により開催された落選展で、『草上の昼食』を出展すると、パリの裸の女性が着衣の男性と談笑しているという主題が風紀に反すると非難を浴び、スキャンダルとなった。さらに1865年のサロンに『オランピア』を出品すると、パリの娼婦を描いたものであることが明らかであったことから、『草上の昼食』を上回る非難を浴びた。意気消沈したマネは、パリを離れてスペインに旅行し、ベラスケスの作品に接して影響を受けた(→絵画界のスキャンダル(1860年代半ば))。ベラスケス研究の成果といえる『笛を吹く少年』を1866年のサロンに提出したが、落選した時、作家エミール・ゾラの援護を受けた。この頃、マネは、パリのバティニョール地区にアトリエと住居を起き、カフェ・ゲルボワに足繁く通っていたが、マネの周りには、ゾラを含む文筆家や芸術家が集まっていた。1860年代後半には、モネ、ルノワールなどの若手画家もマネを慕って集まりに加わるようになり、バティニョール派と呼ばれるようになった。1870年に普仏戦争が勃発しプロイセン軍がパリに迫ると、マネは国民軍に入隊し、首都防衛戦に加わった(→バティニョール派の形成(1860年代後半))。
普仏戦争とパリ・コミューンの混乱が終息して第三共和政の時代になると、バティニョール派の若手画家たちはサロンから独立したグループ展を立ち上げ、印象派と呼ばれるようになった。マネは、批評家からは印象派のリーダー格と目されていたが、自身はサロンで成功することを重視し、印象派グループ展への参加を拒絶した。それでも、特にモネとの親しい関係は続き、モネのアルジャントゥイユの家を度々訪れ、戸外制作などの印象派の手法を取り入れた作品も制作している。また、詩人ステファヌ・マラルメと親しくなり、その影響も受けた(→第三共和政のパリ(1870年代))。1880年頃からは、梅毒により左脚の壊疽が進み、パリ郊外で療養しながら制作を続けた。1882年のサロンに最後の大作『フォリー・ベルジェールのバー』を出品した。1883年4月、壊疽が進行した左脚を切断する手術を受けたが、経過が悪く、51歳で亡くなった(→晩年(1880年代初頭))。
マネの死後、1890年にモネの働きにより『オランピア』が国のリュクサンブール美術館に受け入れられ、1896年にギュスターヴ・カイユボットの遺贈により『バルコニー』などが政府に受け入れられるなど、マネに対する公的な認知は進んだ。もっとも、これらの受入れの際にも美術界の保守派からは反対の声が上がり、マネと印象派に対する抵抗は根強いものがあった(→名声の確立)。しかし、その後、美術市場でのマネの評価は急速に上がり、1989年には『旗で飾られたモニエ通り』が2400万ドル(34億7520万円)で落札されるなど、美術市場の上位を占めるに至っている(→市場での評価)。
マネの油彩画は400点余りとされている(→カタログ)。マネは、保守的なブルジョワであり、サロンでの成功を切望していたが、『草上の昼食』と『オランピア』は意図せずスキャンダルを呼び、美術界の革命を起こすことになった。主題の面では、娼婦の存在や、近代社会における人間同士の冷ややかな関係をありのまま描き出したことが、革新的であり、非難の的ともなった。造形の面では、陰影による肉付けや遠近法といった伝統的な約束事にとらわれない描写を生み出していった(→時代背景、画風)。印象派の画家たちから敬愛され、彼らに大きな影響を与えた一方、マネ自身が後輩の印象派から影響を受けた。マネには印象主義的な要素の濃い作品もあるが、印象派グループ展には参加していないことから、印象派には含めず、印象派の指導者あるいは先駆者として位置付けられるのが一般的である(→印象派との関係)。後輩の印象派と同様、マネも、平面的な彩色やモティーフを切り取る構図などに日本の浮世絵の影響を受けていると考えられる(→ジャポニスム)。
生涯
出生、少年時代
マネは、1832年、パリのプティ=ゾーギュスタン通り(現在のボナパルト通り)で、裕福なブルジョワジーの家庭に長男として生まれた。マネの父オーギュストは、法務省の高級官僚(司法官)で、共和主義者であった。母ウジェニーは、ストックホルム駐在の外交官フルエニ家の娘であった。マネの弟に、ウジェーヌ(1833年生)とギュスターヴ(1835年生)が生まれた[5]。
1844年から1848年まで、トリュデール大通りの中学校コレージュ・ロランに通った。父は、マネが法律家の道を継ぐことを望んでいた。一方、母方の伯父エドゥアール・フルニエ大尉は、芸術家肌の人物で、マネにデッサンの手ほどきをしたり、マネら3兄弟や、マネの中学校の友人アントナン・プルースト(後に美術大臣)をルーヴル美術館に連れて行ったりした。マネは、この頃から、絵画に興味を持っていたようであり、ルイ・フィリップがルーヴル美術館に設けたスペイン絵画館で17世紀スペインのレアリスム絵画に触れ、影響を受けた。プルーストの回想によれば、コレージュの歴史の授業で、画家が流行遅れの帽子を描いていることをドゥニ・ディドロが批判した展覧会評を読んだ時、マネが、「僕たちは、時代に即していかなければならない。流行など気にせず、見たままを描かなければならない。」と発言したという。また、伯父フルニエが絵画の課外授業に出席させてくれたが、言われたお手本を模写するのではなく、近くにいる生徒たちの顔をスケッチしていたという[6]。
マネは、芸術家の道を不安視する両親の意向を受け、水兵になると父に宣言して海軍兵学校の入学試験を受けたが、落第した。1848年12月、実習船に乗ってリオデジャネイロまで航海した。後に、マネは、「私はブラジル旅行でたくさんのものを得た。毎夜毎夜、船の航跡の中に、光と影の働きを見たものだった。昼間は上甲板で、水平線をじっと見つめていた。それで、空の位置を確定する方法が分かったのだ。」と述べている[7]。1849年6月にパリに戻ると、海軍兵学校の入学試験を再び受けたが、また落第した。これに父も諦め、マネは芸術家の道を歩むことを許された[8]。
修業時代(1850年代)
マネは、1849年秋頃、トマ・クチュールのアトリエに入り、ここで6年間修業した。クチュールは、1847年のサロン・ド・パリに『退廃期のローマ人』を出品して成功した、当時のアカデミズム絵画界の中では革新的な歴史画家であった。マネは、クチュールの近代性から影響を受ける反面、伝統的な歴史画にこだわるクチュールの姿勢には反発した。マネがモデルに服を着させたままポーズをとらせていると、クチュールが入ってきて、「君は君の時代のドーミエにしかなれない」と批判した。また、マネは、アトリエで学ぶ傍ら、ルーヴル美術館でティントレット、ティツィアーノ・ヴェチェッリオ、フランソワ・ブーシェ、ピーテル・パウル・ルーベンスなどの作品を模写した。1852年にはアムステルダム国立美術館を訪れ、1853年には弟ウジェーヌとともにヴェネツィア、フィレンツェを旅行し、ティツィアーノの『ウルビーノのヴィーナス』を模写した。さらに、この時、ドイツや中央ヨーロッパまで足を延ばし、各地の美術館を訪れたようである。存命中の画家の中では、ギュスターヴ・クールベの『オルナンの埋葬』、ジャン=バティスト・カミーユ・コロー、シャルル=フランソワ・ドービニー、ヨハン・ヨンキントらの風景画を高く評価していた[9]。この頃、弟たちのピアノの家庭教師シュザンヌ・レーンホフと恋仲になった(後に妻となる)。1852年1月にはシュザンヌに男の子レオンが生まれ、戸籍上はシュザンヌの弟(レオン・コエラ=レーンホフ)として届け出られた。実際には、レオンは、マネの子であった可能性が大きいと考えられている[10][注釈 1]。
1856年にクチュールのアトリエを去ると、友人の画家との共有で、バティニョール地区のラヴォワジエ通りにアトリエを構えた[11]。しばらくはサロンへの応募をせず、ルーヴル美術館で、ティントレット、ディエゴ・ベラスケス、ルーベンスなどの巨匠の模写を続けた。その中で、画家のアンリ・ファンタン=ラトゥール、エドガー・ドガと知り合った[12]。1857年にはフィレンツェを再訪し、アヌンツィアータ教会のアンドレア・デル・サルトの壁画を模写した[13]。
サロン入選の努力(1860年代初頭)
1859年のサロンに、『アブサンを飲む男』を初めて提出したが、下絵のような無造作な描き方が不評だったのに加え、酔った男や足元の酒瓶という露骨な現実を画題とすることがサロンにふさわしくないと酷評され、落選した。もっとも、審査員だったウジェーヌ・ドラクロワからは評価された。詩人のシャルル・ボードレールも、この作品を賞賛した。この頃には、マネとボードレールは親しく交流していた[14]。
1861年のサロンに、『スペインの歌手』と、両親を描いた『オーギュスト・マネ夫妻の肖像』を応募し、いずれも初入選した。当時のフランスではスペイン趣味が流行しており、マネは、イタリア風の古典的作品に反発する立場から、スペインの写実主義的絵画に傾倒していた。彼は、マドリードの巨匠たちやフランス・ハルスを思い浮かべながら『スペインの歌手』を描いたと語っている[15]。『スペインの歌手』は、サロン会場の人目につかない隅に展示されていたが、テオフィル・ゴーティエが絶賛したことから、急に中央の良い場所に移され、優秀賞(佳作)の評価まで受けた[16]。一方、『オーギュスト・マネ夫妻の肖像』については、両親の間に奇妙な冷たさが流れていることから、批評家から、「マネは最も神聖な肉親の絆でさえも土足で踏みにじる」と非難された[17]。それでも、サロンでの成功を重んじる父に対し、約束を果たすことができた[18]。
1862年には、テュイルリー宮殿に隣接する庭園で開かれたコンサートを題材とした『テュイルリー公園の音楽会』を制作し、テオフィル・ゴーティエ、ボードレール、ジャック・オッフェンバック、ザカリー・アストリュク、アンリ・ファンタン=ラトゥールといった社交界の友人たちをモデルとして登場させた。第二帝政下の華やかなブルジョワ社会を描いた作品である[19]。マネは、1863年、マルティネ画廊での個展に『テュイルリー公園の音楽会』や『ローラ・ド・ヴァランス』を展示したが、輪郭がはっきりした筆遣いや、平面的な色面の処理が奇妙だと捉えられ、激しい非難にさらされた[20]。
この時期、マネは、内縁の妻シュザンヌをモデルにした『驚くニンフ』や、レオン少年をモデルにした『剣を持つ少年』などを制作している[21]。1862年にマネの父が亡くなると、1863年10月、マネはシュザンヌと結婚した[22]。また、この頃知り合った女性ヴィクトリーヌ・ムーランにモデルを依頼して、『街の女歌手』、『ヴィクトリーヌ・ムーランの肖像』などを制作している[23]。
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『驚くニンフ』1860-1861年。油彩、キャンバス、146 × 114 cm。ブエノスアイレス国立美術館。
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『ローラ・ド・ヴァランス』1862年。油彩、キャンバス、123 × 92 cm。オルセー美術館[28]。
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『ヴィクトリーヌ・ムーランの肖像』1862年頃。油彩、キャンバス、42.9 × 43.8 cm。ボストン美術館[31]。
絵画界のスキャンダル(1860年代半ば)
マネは、1863年のサロンに応募したが、落選した。この年のサロンの審査は例年に比べ非常に厳しく、落選者の不満が高まった。これを懸念したナポレオン3世が、サロンと並行して、サロン落選作で構成する落選展を開催することを命じた[33]。マネの『水浴』(後に『草上の昼食』と改題)、『マホの衣装を着けた若者』、『エスパダの衣装を着けたヴィクトリーヌ・ムーラン』も落選展に展示された[34]。ところが、特に『草上の昼食』は、批評家たちから酷評と嘲笑を浴び、一大スキャンダルとなった。当時、裸婦を描くこと自体は珍しいものではなく、実際、この年のサロンで賞賛されたアレクサンドル・カバネルの『ヴィーナスの誕生』は、官能的な裸婦を描いているが、現実ではなく神話の世界を描いたものであるため、良識に反することはなかった。また、マネが発想源としたティツィアーノの『田園の奏楽』でも、裸のニンフと着衣の男性が描かれている。しかし、『草上の昼食』の裸婦は、パリの現実の女性が着衣の男性と談笑するというもので、風紀に反すると考えられた。裸婦の周りに、果物などの食べ物や、脱いだ後の流行のドレスが描かれることによって、裸婦がニンフなどではなく現実の女性であることが露骨に強調されることになった[35]。当時の鑑賞者は、この作品から、社会の陰の部分である売春の世界を読み取った[36]。批評家エルネスト・シェノーは、「デッサンと遠近法を学べば、マネも才能を手に入れることができるだろう」と、描き方の稚拙さを指摘するとともに、「ベレー帽をかぶり短いコートを着た学生たちに囲まれ、葉の影しか身にまとっていない娘を木々の下に座らせている絵が、申し分なく清純な作品だとは思えない。……彼は俗悪な趣味の持ち主だ。」と、テーマ自体を厳しく批判した[37]。
1864年、バティニョール大通り34番地に引っ越した[38]。マネは、自由奔放な私生活を送っており、以前から、イタリアン大通りのカフェ・トルトーニや、カフェ・ド・バードに足繁く通っていたが、バティニョール大通りに移った頃から、カフェ・ゲルボワに足を運ぶようになったと思われる。カフェ・ゲルボワのマネの周りには、次第に美術家や文学者が集まり始めた。その中には、詩人のザカリー・アストリュク、中学時代・クチュール画塾時代からの友人アントナン・プルースト、写真家ナダール、批評家エドモン・デュランティ、テオドール・デュレ、フィリップ・ビュルティ、画家アンリ・ファンタン=ラトゥール、アントワーヌ・ギュメ、版画家マルスラン・デブータンなどがいた[39]。
マネは、1865年のサロンに、ヴィクトリーヌをモデルとした『オランピア』を出品し、入選した。ところが、この作品は、『草上の昼食』以上のスキャンダルを巻き起こした。裸婦がベッドに寝そべる構図は、ティツィアーノの『ウルビーノのヴィーナス』を発想源としていたが、マネの作品は、ヴィーナスとは程遠い、パリの娼婦を描くものであることが明らかであった。表題の「オランピア」とは、娼婦(ドゥミ・モンデーヌ)の源氏名として広く使われる名前であったし、黒人のメイドは娼館に多かった。メイドが運ぶ花束は、前夜の客から贈られたものである。『ウルビーノのヴィーナス』に描かれていた犬は忠誠・貞節のシンボルだが、マネが描き入れた黒猫は、性的なイメージを暗示するものと受け止められた。マネは、急速に近代化が進むパリのブルジョワ社会の暗部を赤裸々に描き出したのであった[40]。なお、この時のサロンで、クロード・モネが海景画2点を提出し、アルファベット順でマネと同じ部屋に並べられていたが、この海景画を見た人が、名前の似たマネの作品と誤解し、マネに祝福の言葉をかけた。マネは、自分の名前を悪用して名を売ろうとする画家がいると思い、憤慨したという[41]。
マネは、『オランピア』への批判に意気消沈し、ブリュッセルにいたボードレールに宛てて、「あなたがここにいてくださったらと思います。私の上には、罵詈雑言が雨あられと降っています。」と書き送り、ボードレールから励ましを受けている[42]。マネは、物議に辟易し、8月からスペインに旅行をした。マドリードの王立美術館(現プラド美術館)でベラスケスを中心とするスペイン絵画に触れ、友人ファンタン=ラトゥールに、「ベラスケスを観るだけでも旅に出る意味がある。」と書き送っている[43]。また、マネは、「これらの素晴らしい作品の中で最も驚くべき作品、おそらくこれまでに描かれた最も驚くべき絵画作品は、フェリペ4世の時代のある有名な俳優の肖像と目録に記載されている絵だ。背景が消えている。黒一色の服を着て生き生きとしたこの男を取り囲んでいるのは空気なのだ。」と書いている[44]。この旅の中で、批評家テオドール・デュレと知り合い、親友となった[45]。
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『マホの衣装を着けた若者』1863年。油彩、キャンバス、188 × 124.8 cm。メトロポリタン美術館[48]。1863年サロン落選、落選展展示。
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『死せるキリストと天使たち』1864年。油彩、キャンバス、179.4 × 149.9 cm。メトロポリタン美術館[49]。1864年サロン入選。
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『死せる闘牛士』1864年? 油彩、キャンバス、75.9 ×153.3 cm。ナショナル・ギャラリー(ワシントンD.C.)[51]。1864年サロン入選作『闘牛のエピソード』をマネ自身が上下に分断した下部。
バティニョール派の形成(1860年代後半)
マネは、1866年、サン・ラザール駅近くのサン=ペテルスブール通りに住居を移し、死去までこの通りに住んだ[54]。
マネは、1866年のサロンに『笛を吹く少年』を提出したが、落選した。この作品は、スペイン旅行でベラスケスに学んだ単純で平坦な背景処理を実践したものであった[55]。駆け出しの作家だったエミール・ゾラが、この年の春、画家アントワーヌ・ギュメの紹介でマネのアトリエを訪れ、マネに心酔するようになった。ゾラは、『レヴェヌマン』紙で、サロンで落選した『笛を吹く少年』について、「私は、これほどまでに複雑でない方法で、これ以上力強い効果を得ることはできないように思う。」とマネを強く擁護した[56]。
1867年のパリ万国博覧会では、ジャン=レオン・ジェロームやカバネルのようなアカデミズム絵画のほか、ジャン=バティスト・カミーユ・コロー、ジャン=フランソワ・ミレーのようなバルビゾン派の作品が展示されたが、マネの作品は展示されなかった。そこで、マネは、展覧会場から遠くないアルマ橋付近に、多額の費用をかけてパビリオンを建て[注釈 3]、10年近くにわたる主要作品50点を展示する個展を開いた。マネは、ゾラに宛てて、「私は危険な賭けをしようとしていますが、あなたのような人々の助けがあるので、成功を確信しています。」と書いている。しかし、賞賛した批評家もわずかにいたものの、マネが期待したような社会的評価は得られなかった。ただ、マネの傑作全てを一堂に見られる充実した内容であり、これを見た若い画家たちは大きな影響を受けた[57]。モネやフレデリック・バジールが、サロンに頼らずに自分たちのグループ展を計画するきっかけにもなった[58]。マネは、自分の作品についてほとんど文章を残していないが、個展に際しての「趣意書」の中では、次のように書いている[59]。
今日、芸術家[マネ]は、「欠点のない作品を見に来てくれ」とは言わず、「率直な作品を見に来てくれ」と言う。この率直さゆえに、画家はひたすら自分の印象を描いているにもかかわらず、作品は図らずも抗議の色合いを帯びてしまう。マネは抗議しようとしたことなど断じてない。[中略]彼は他の誰でもなく自分自身であろうと努めたにすぎない。 — マネ、趣意書
ゾラは、1867年、『レヴェヌマン』紙の記事を発展させて小冊子「マネ論」を発表し、マネの個展の中で販売した。ゾラは、その中で、次のように書いている。これは、絵画は純粋に色彩と形態を追求するものだというモダン・アートの先駆けとなる考え方であった[60]。
いかなる対象を前にしても、画家[マネ]は、対象の様々な色調を識別する自らの眼に従う。それは、壁を背に立つ人物の顔は灰色の地に塗られた白っぽい円にすぎず、顔の横に見える洋服は青みがかった色斑でしかない、といった具合だ。[中略]多くの画家たちは絵画で思想を表現しようと躍起になるが、この馬鹿げた過ちを彼は決して犯さない。[中略]複数のオブジェや人物を描く対象として選択するときの彼の方針は、自在な筆さばきによって色調の美しい煌めきを作り出せるかどうかということだけだ。 — エミール・ゾラ、「マネ論」
マネは、ゾラの応援に意を強くし、1868年のサロンにはゾラの肖像を出品している。その机の上には、青い表紙の「マネ論」小冊子が描かれている[62]。
1860年代後半には、クロード・モネも、アストリュクの紹介でマネと知り合った。ゾラやモネのほか、ピエール=オーギュスト・ルノワール、フレデリック・バジール、カミーユ・ピサロなど、アカデミー・シュイスやシャルル・グレール画塾を中心として集まった若手画家たちも、カフェ・ゲルボワに顔を出すようになった。こうした若手画家たちは、「バティニョール派」と呼ばれるようになった。ファンタン=ラトゥールが描いた『バティニョールのアトリエ』には、マネを中心とする若手画家たちの集まりが描かれている[63]。1868年には、ファンタン=ラトゥールを通じて、女性画家ベルト・モリゾとその姉エドマ・モリゾと知り合った。ベルト・モリゾは、マネの作品のモデルを務めるようになる[64]。1869年2月には、エヴァ・ゴンザレスがマネのアトリエに弟子入りした[65]。
エドガー・ドガとは、ルーヴル美術館で模写をしている時に知り合って親しくなったが、ドガがカフェ・ゲルボワに出入りするようになったのは1868年春頃からである。2人は、互いに敬意を持ちながらも、遠慮なく辛辣な言葉の応酬を繰り返す関係だった。[67]。ドガが、ピアノを弾くシュザンヌとマネを描いた作品を贈ったが、マネは、妻の姿が気に入らず、絵を切断してしまった。ドガは、その絵をマネの家で目にして激怒し、マネからもらった静物画をマネに送り返した。ドガは、晩年、画商アンブロワーズ・ヴォラールから、「でも、その後マネと仲直りしましたよね」と聞かれると、「マネと仲違いしたままでいられるはずはないよ!」と答えている[68]。
1869年のサロンには、『バルコニー』と『アトリエでの昼食』が入選した。『バルコニー』には、ベルト・モリゾがモデルとして登場している。左手前を見つめるモリゾを含め、3人の人物はぎこちなく、視線は虚ろで、かみ合っていない。モリゾは、サロン会場で見たこの作品について、「マネの作品は、いつものことですが、熟していない硬い果実のような印象をかもし出しています。……『バルコニー』に描かれた私は醜いというよりも奇妙です。」と書いている。批評家たちも、登場人物が何を考えているのか不明瞭で、静物画のようだと言ってけなした。しかし、現在では、近代の人間の中に存在する無関心を描き出すことこそがマネの本質であったと評されている[69]。
1870年7月、普仏戦争が勃発し、ナポレオン3世は9月にスダンでプロイセン軍に降伏した。マネは、プロイセン軍のパリ侵攻に備えて、家族をピレネー山脈のオロロン=サント=マリーに疎開させた。11月、国民軍に中尉として入隊し、首都防衛戦に加わったが、1871年1月、フランス軍は包囲していたプロイセン軍に降伏し、開城した。マネは、2月、パリを去って疎開していた家族と合流し、パリに帰ろうとしたが、3月のパリ蜂起、パリ・コミューン成立と引き続く内戦によって足止めされ、5月の「血の1週間」でパリ・コミューンが鎮圧された頃にパリに戻ったと思われる。ベルト・モリゾの弟が、戦闘中のパリでマネとドガの2人連れを目撃したという記録がある[70]。
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『1867年のパリ万国博覧会の光景』1867年。油彩、キャンバス、108 × 196 cm。オスロ国立美術館。
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『エミール・ゾラの肖像』1868年。油彩、キャンバス、146 × 114 cm。オルセー美術館[73]。1868年サロン入選。
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『皇帝マキシミリアンの処刑』1868年。油彩、キャンバス、252 × 305 cm。マンハイム市立美術館。
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『アトリエでの昼食』1868年。油彩、キャンバス、118 × 153.9 cm。ノイエ・ピナコテーク。1869年サロン入選。
第三共和政のパリ(1870年代)
普仏戦争とパリ・コミューンの混乱が終息すると、ロンドンに難を逃れていたモネやピサロなど、「バティニョール派」の若い画家たちがパリに戻ってきた。モネは、パリ郊外のアルジャントゥイユにアトリエを構えたが、その借家を周旋したのは、セーヌ川の対岸ジュヌヴィリエに広大な土地を所有していたマネであった。マネや、ルノワール、シスレーらは、頻繁にモネのアトリエを訪れ、一緒に制作した[76]。マネは、モネら若い画家から敬愛される一方、モネらの新しい手法からも影響を受けていった[77]。
ロンドンでモネやピサロと知り合った画商ポール・デュラン=リュエルが、他のバティニョール派の画家たちにも興味を持つようになり、1872年にはマネの作品24点を購入した[78]。
第三共和政の下で最初に行われた1872年のサロンには、マネは1864年制作の『キアサージ号とアラバマ号の海戦』を提出し、入選した。1873年のサロンには、『ル・ボン・ボック』と『休息(ベルト・モリゾの肖像)』が入選した。『ル・ボン・ボック』は、伝統的な表現手法による肖像画で、サロンでは好評だったが、バティニョール派からは評価されなかった[79]。
モネやピサロは、1873年のサロンには応募しなかった。彼らは、この頃から、サロンとは独立したグループ展の開催を計画していた。モネは、この年4月、ピサロへの手紙の中で、「マネ以外は、全ての人が賛同しています。」と書いている[80]。そして、1874年4月、モネ、ピサロ、ルノワール、シスレー、ドガ、ベルト・モリゾなど30人の参加者で第1回グループ展を開いた。後に第1回印象派展と呼ばれる画期的な展覧会であった[81]。マネは、1873年のサロンで『ル・ボン・ボック』が好評だったこともあって、サロンこそ画家の唯一の道であると考え、グループ展を開くことには反対であった。そのため、モネやドガから熱心に参加を進められたが、断った。参加しない口実として、「コテで描く左官にすぎないようなセザンヌと関わりたくない」と公言していたという[82]。マネは、同じ1874年のサロンに、『鉄道』を出品している。深い愛情で結ばれた理想的な母子像ではなく、読書に熱中する母親と、退屈そうにサン・ラザール駅の構内を眺める娘を冷ややかに描き出した作品である[83]。マネは、こうした現代都市の人間像に関心を寄せていた点でも、戸外制作による風景画を主にしたモネら印象派とは方向性が違っていた[84]。
ドガは、グループ展に参加しないマネについて、「写実主義のサロンが必要だ。マネはそのことを分かっていない。どう考えても、彼は利口というよりうぬぼれ屋だ。」と批判した[85]。とはいえ、この年、グループ展の入場者数は30日で延べ約3500人だったのに対し、サロンの入場者数は40日間で延べ50万人を超えていたと見られ、公衆の認知を得るためにはサロンはいまだ大きな力を持っていた。グループ展は、批評家ルイ・ルロワの風刺的な記事を筆頭に、嘲笑する声が大きく、経済的にも赤字に終わった[86]。マネはグループ展に参加しなかったにもかかわらず、批評家たちは、「使徒マネ氏とその弟子たち」と書くなど、マネを印象派のリーダー格と目していた[87]。
モネとの親しい関係は続き、度々アルジャントゥイユを訪れていた。モネが経済的困窮に陥り、マネに苦境を訴える手紙を送ると、マネは援助に応じた[88]。モネは、小さなボートをアトリエ舟に仕立て、セーヌ川に浮かべて制作したが、その様子をマネが描いている[89]。モネの回想によれば、1874年、マネとルノワールが、アルジャントゥイユのモネの家で、モネの妻カミーユと息子ジャンを一緒に描いたことがあったが(『庭のモネ一家』)、マネは、モネに、「あの青年には才能がない。君は友人なら、絵を諦めるように勧めなさい。」と言ったという。もっとも、マネは、心からルノワールを賞賛していたので、このエピソードは、ルノワールと競い合ったマネの苛立ちを表したものにすぎないとも指摘されている[90]。ところで、マネはこの時初めて戸外にイーゼルを立てて制作したと思われるが、これは、戸外の明るい光の下で自然の印象を正確にとらえようというモネの戸外制作の手法に従ったものであった[91]。マネは、印象派の技法をとりいれた『アルジャントゥイユ』を1875年のサロンに出品した。印象派に対するマネの支持表明といえる[92]。しかし、背景のセーヌ川の描き方が青い壁のようだなどと酷評を浴びた[93]。1874年12月には、マネの弟ウジェーヌ・マネと、ベルト・モリゾが結婚した[94]。
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『ル・ボン・ボック』1873年。油彩、キャンバス、94.6 × 83.3 cm。フィラデルフィア美術館[97]。1873年サロン入選。
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『アトリエ舟で描くクロード・モネ』1874年。油彩、キャンバス、80 × 98 cm。ノイエ・ピナコテーク。
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『庭のモネ一家』1874年。油彩、キャンバス、61 × 99.7 cm。メトロポリタン美術館[101]。
マネは、1873年頃、詩人ステファヌ・マラルメと知り合い、親しくなった。1875年、マラルメがエドガー・アラン・ポーの『大鴉』を訳した時、その挿絵のためにリトグラフを制作した。翌1876年には、マラルメの『牧神の午後』の挿絵のために木版画を制作した[102]。
マネは、1876年のサロンに、『洗濯』と、マルスラン・デブータンを描いた『画家』を応募したが、落選した。そこで、マネは、個展を開き、これらの落選作を公開した。招待状には、金色の文字で、「ありのままに描く、言いたいように言わせる」と書かれていた。この個展には、1日に400人もの来場者があり、新聞は大々的に報じた。「何ということ! 目鼻立ちがすっきりして、穏やかな眼差しをした、手入れされたブロンドのひげのこの紳士、[中略]パリッとしたシャツを着て、きちんと手袋をはめたこの紳士が、ボート遊びをする人々[『アルジャントゥイユ』]の作者なのだ!」と驚きをもって伝えており、相変わらずマネの作品に対する評価は低かった[103]。
一方、マラルメは、『洗濯』について、「おそらく画家[マネ]の経歴において、そして確実に美術史上、時代を画する作品」だと賞賛した。マネは、マラルメに肖像画を贈り、マラルメはこれをずっと自分の家に飾っていた[104]。マラルメは、ボードレール、ゾラに続くマネの擁護者としての役割を果たした[105]。マネの死後、マラルメは、マネについて次のように述べている[106]。
失望の中にも、[中略]男らしい無邪気さがあった。つまり、カフェ・トルトーニでは、からかい好きで、粋な人間だった。その一方、アトリエでは、まるで一度も絵を描いたことがないかのように、白いキャンバスに激情を投げ付けていた。 — ステファヌ・マラルメ、『とりとめのない話』「マネ」
1877年のサロンには、『ハムレットを演じるフォール』が入選した。モデルのジャン=バティスト・フォールは、有名なバリトン歌手で、印象派の作品を愛好しており、マネの作品を67点も収集していた。この絵は、フォールの当たり役ハムレットを演じるところを描いたものだが、サロンでは、「滑稽な肖像画だ」、「狂人になったハムレットが、マネ氏によって描かれた」などと風刺された[107]。また、同じく1877年のサロンに応募した『ナナ』は、『オランピア』と同様、高級娼婦を描いた自然主義的な主題の作品だったが、落選した[108]。
1877年の冬から1878年にかけて、サロンに出品するため、カフェ・コンセールを舞台にした大作にとりかかった。結局、マネはその作品を2分割し、『ビヤホールのウェイトレス』と『カフェにて』という2つの作品となった[109]。
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『洗濯』1875年。油彩、キャンバス、145 × 115 cm。バーンズ・コレクション。1876年サロン落選。
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マラルメ訳『大鴉』のための挿絵、1875年。リトグラフ。
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『ハムレットを演じるフォール』1877年。油彩、キャンバス、196 × 131 cm。フォルクヴァンク美術館。
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『自画像』1878-79年。油彩、キャンバス、94 × 63 cm。ブリヂストン美術館。
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『パレットを持った自画像』1879年。油彩、キャンバス、83 × 67 cm。私蔵。
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『ラテュイユ親父の店』1879年。油彩、キャンバス、92 × 112 cm。トゥルネ美術館。
晩年(1880年代初頭)
マネは、1880年頃から、16歳の時にブラジルで感染した梅毒の症状が悪化し、左脚の壊疽が進んできた[115]。医師から、田舎での静養を指示され、1880年の夏はパリ郊外のベルビューに滞在した。マネは、暇をまぎらわすため、友人たちや、お気に入りのモデル、イザベル・ルモニエに多くの手紙を送っている[116]。晩年の2年間は、病気のため、大きな油彩画を制作することが難しくなり、パステル画を数多く描いている[117]。
1881年のサロンに、『アンリ・ロシュフォールの肖像』を含む肖像画2点を出品し、銀メダルを獲得した。これによって、以後のサロンには無審査で出品できることになった[118]。この年の夏は、ヴェルサイユで療養した[119]。親友アントナン・プルーストが美術大臣に任命されると、その働きかけにより、マネは同年12月末、レジオンドヌール勲章を受章することができた[120]。
左脚の痛みに耐えながら、1881年冬から翌1882年にかけて、最後の大作『フォリー・ベルジェールのバー』の制作に取り組んだ。フォリー・ベルジェール劇場のバーで実際に働いていたシュゾンというウェイトレスに、モデルを依頼した。正面を向いたウェイトレスは、虚ろな視線であるが、鏡に映った後ろ姿では、飲み物を注文する男性客に向かって身をかがめ、話をしている。正面の姿と後ろ姿が一致しないことや、遠近法の歪みは、観る者を困惑させた[121]。もっとも、これは、意図的に遠近法を無視し、ウェイトレスの空虚な表情に全力で焦点を当てたものとも説明されている[122]。
1882年7月から10月にかけて、パリ西郊のリュエイユに滞在した。マネのもとには、上流階級の男たちの愛人メリー・ローラン、オペラ歌手エミリー・アンブル、宝石商人の娘イザベル・ルモニエなど、多くの女性たちが訪れた。マネは、これらの女性の肖像画を数多く描いている[123]。この頃、マネは、唯一の相続人として妻シュザンヌを指名する遺言を作成した。ただし、死後の作品売立ての売却益から5万フランをレオン・コエラに遺贈することとし、シュザンヌが相続した遺産は、彼女の死亡時、全てをレオンに相続させることとされていた[124]。
1883年4月20日、壊疽が進行した左脚を切断する手術を受けた。しかし、経過は悪く、高熱にうなされた末、4月30日、51歳で亡くなった[125]。葬儀は5月3日に行われ、パリのパッシー墓地に埋葬された。あらゆるグループの画家たちが葬儀に参列した。ドガは、「我々が考えていた以上に、彼は偉大だった」と語った[126]。
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『カルメン姿のエミリー・アンブル』1880年。油彩、キャンバス、92.4 × 73.5 cm。フィラデルフィア美術館[128]。
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『秋(メリー・ローラン)』1881年。油彩、キャンバス、73 × 51 cm。ナンシー美術館。
死後
名声の確立
1884年1月、ウジェーヌ・マネとその妻ベルト・モリゾの企画により、エコール・デ・ボザール(官立美術学校)でマネの回顧展が開かれた。116点の油彩のほか、版画、デッサン、水彩、パステル画など合計200点を集めた大規模なものであり、成功を収めた。ただ、マネの評価が高まりつつあったアメリカと比べ、フランスでの評価はまだまだ低かった[132]。『笛を吹く少年』について、その平面的な彩色を嫌い、「これは扉に貼り付けられたダイヤのジャックだ」とけなした保守的な批評家もいた[133]。
1889年のパリ万国博覧会を記念して開かれた「フランス美術100年展」に、マネの『オランピア』が展示された。これを機に、モネは、『オランピア』を購入してルーヴル美術館に寄贈する計画を立てた。モネは、オーギュスト・ロダン宛ての手紙で、「これは、マネの業績に対する素晴らしい賛辞ですし、同時にこの絵の持ち主であるマネ夫人の経済状態をさりげなく援助することにもなります」と書いている[134]。元美術大臣アントナン・プルーストの反対に遭ったが、最終的に、モネは、『オランピア』を購入し、1890年11月、国のリュクサンブール美術館に展示させることに成功した。その時でも、ルーヴル美術館にはふさわしくないという保守的アカデミズムの抵抗はまだ強かった。1907年にジョルジュ・クレマンソーの働きかけにより、ようやくルーヴル美術館に移送された[135][136]。
1894年、印象派の画家で収集家でもあったギュスターヴ・カイユボットが亡くなった時、マネや印象派の作品68点をリュクサンブール美術館に遺贈するとの遺言を残した。この当時も、美術界の保守派の抵抗は根強く、受入れには反対の声が強かった。結局、1896年2月、コレクションの中から40点が選ばれて、フランス政府が受け入れることになった。この中にマネの『バルコニー』も含まれている[137]。
1906年、近代美術の大収集家エティエンヌ・モロー・ネラトンがルーヴル美術館に寄贈したコレクションの中に、マネの『草上の昼食』など5作品が含まれていた[138]。
1932年、パリで生誕100年の記念展覧会が開かれた[139]。
1983年には、パリのグラン・パレ美術館で、没後100年の回顧展が行われた[140]。
市場での評価
マネの生前の1878年、ジャン=バティスト・フォールが資金難によりオテル・ドゥルオでマネの作品を競売に出した時、1点が2000フラン(80ポンド)で売れただけで、その他は売れなかった。エルネスト・オシュデが破産して同じ年にマネの作品を競売に出したが、1点当たり35フランから800フランの間でしか落札されなかった[141]。
死の翌年1884年の回顧展後、オテル・ドゥルオでその作品の多くが競売されたが、『オランピア』が400ポンド(1万フラン)、『アルジャントゥイユ』が500ポンド(1万2500フラン)というのが高い方で、油絵93点ほかパステル画、水彩、デッサン、エッチング、リトグラフの総売上は4665ポンド(11万6637フラン)と、マネ家の期待を大きく下回った。落札者も大部分が遺族と友人であった[142]。
マネの市場価格は、徐々に上がり、1898年、『ギターを持つ女』が2800ポンド(7万フラン)で売られた。1910年以降、マンハイム市立美術館が『皇帝マキシミリアンの処刑』を4500ポンドで購入するなど、ポンドで4桁台が常態となり、1920年代にはポンドで5桁台のものも現れるようになった。1926年には、サミュエル・コートールドが『フォリー・ベルジェールのバー』を2万4100ポンド(手数料込み)で購入し、第2次世界大戦前のマネの最高記録となった[143]。
第2次世界大戦後は、ポンドで5桁台が常態となり、1958年に『旗で飾られたモニエ通り』が11万3000ポンドで落札され、ポンド6桁台が現れるようになった。それでも、ルノワールに比べると、市場での人気は高くなかった。ところが、1980年代以降、美術市場全体で良品が払底するに従い、マネ作品の価格は更に高騰した。1986年12月1日、ロンドンのクリスティーズで『舗装工のいるモニエ通り』が700ポンド(1017万ドル、16億5410万円)という高値を記録した。1989年11月14日、ニューヨークのクリスティーズで、『旗で飾られたモニエ通り』がJ・ポール・ゲティ美術館によって2400万ドル(34億7520万円)で落札され、マネの史上最高値を更新した。1997年には、『パレットを持った自画像』が1700万ドル(20億3320万円)という2番目の高値で落札された[144]。
作品
カタログ
マネは、遅筆で、生涯の制作数が比較的少ない。油絵は400点余り、水彩画100点余り、版画100種余りである[145]。
時代背景、画風
19世紀半ば、フランスの絵画を支配していたのは、芸術アカデミーとサロン・ド・パリを牙城とするアカデミズム絵画であった。その主流を占める新古典主義は、古代ギリシアにおいて完成された「理想の美」を規範とし、明快で安定した構図を追求した。また、色彩よりも、正確なデッサン(輪郭線)と、陰影による肉付法を重視していた[146]。歴史画や神話画が高貴なジャンルとされたのに対し、肖像画や風景画は低俗なジャンルとされていた[147]。明確な美の基準を持たない新興のブルジョワ階級は、伝統的なサロンの権威に盲従していたため、画家が絵を売って生活しようとすれば、サロンで入選し、賞をとることが絶対的な条件となっていた[148]。
もっとも、こうした新古典主義に対抗して、ロマン主義を代表するウジェーヌ・ドラクロワは、ヴェネツィア派やピーテル・パウル・ルーベンスを信奉して、豊かな色彩表現を追求し、革命の第1の波をもたらした[149]。次いで、ギュスターヴ・クールベは、写実主義を標榜し、卑近な題材を誠実に描こうとした。これは革命の第2の波であった[150]。
マネは、保守的なブルジョワであり、彼自身はサロンに対する反旗を掲げるつもりはなく、むしろ過去の巨匠から積極的に学ぶことによって、サロンで成功することを切望していた。そのため、印象派グループ展が立ち上げられても参加せず、サロンへの応募を続けた[151]。しかし、マネの『草上の昼食』や『オランピア』は、本人の意図に反して絵画界にとっての大スキャンダルを巻き起こし、第3の革命の引き金を引くことになった[152]。その革命には、主題の問題と、造形の問題があった[153]。
主題の面では、ニンフでも女神でもない現実の女性が、裸身をさらすということ自体、フランス第二帝政時代の厳格な道徳観の下では、強い非難に値した[154]。当時のフランスは、産業革命が急速に進行し、ブルジョワが台頭する時代であり、パリには大量の人口が流入し、都市として急拡大していた。娼婦は享楽に湧くパリの裏面を象徴する存在であり、それを露骨に描いた『オランピア』は、ブルジョワ社会に冷や水を浴びせる作品であった[155]。『鉄道』や『バルコニー』では、近代社会における人間同士の冷ややかな関係や、人間疎外の様子を、冷徹に描いた。このように、近代化・都市化する時代をありのままに描くことがマネの本質であった[156]。
一方、造形の面では、『草上の昼食』も、『オランピア』も、伝統的な陰影による肉付けが施されておらず、平面的に見える。『笛を吹く少年』では、背景は無地で、奥行きが感じられない。『フォリー・ベルジェールのバー』では、ウェイトレスの正面の姿と、背後の鏡に写った後ろ姿とが、遠近法的に矛盾を来している。このように、マネの作品は、伝統的な約束事にとらわれず、画家が目撃した現実を伝えようとする点で革新的であった[157]。
印象派との関係
マネは、若い印象派の画家たちから敬愛を受け、前述のように伝統的な約束事にとらわれない造形という点でも印象派に影響を与えた。フレデリック・バジールの『バジールのアトリエ』では、キャンバスの前でマネがバジールに助言を与えているところが描かれている[159]。明示的にマネにならった作品もあり、モネは、マネの『草上の昼食(水浴)』に発想を得て1865年-66年に同様の主題で『草上の昼食』を制作し[160][注釈 5]、ポール・セザンヌは、『オランピア』に惹かれ、1869年-70年頃、『モデルヌ・オランピア(現代版オランピア)』を制作した[161]。
1864年-65年の『ロンシャンの競馬場』のリトグラフでは、馬は4本脚というような既存の知識に頼ることなく、一見殴り描きのような線で、一瞬の力強い動きを描写している。このような手法は、印象派に引き継がれている[162]。
他方、マネが、後輩のモネや弟子のベルト・モリゾら印象派から影響を受けた面もあり、1870年代には、印象派的な様式に近づいている[163]。モネにならって戸外制作を取り入れたり、印象派風の筆触分割を用いたりしている。もっとも、モネに代表される印象派が、光と大気の揺らぎをキャンバスに留めることに集中し、人物をラフな筆触で幻影のように描いたのとは異なり、マネの描く人物には存在感と現実感があり、印象派とはやや関心が異なっていた[164]。
このように、マネは、印象派の画家たちと影響を与え合っており、印象主義的な要素の濃い作品もあることから、印象派の1人として語られることもあるが、印象派グループ展に参加しなかったことから、印象派そのものには含めず、印象派の指導者あるいは先駆者として位置付けられるのが一般的である[165]。
ジャポニスム
マネの絵画には、1860年代から流行したジャポニスムの影響も指摘されている[166]。マネの『エミール・ゾラの肖像』の背景には、日本の花鳥図屏風と浮世絵が飾られており、浮世絵への関心が窺える。マネの場合、単なる異国趣味として浮世絵を取り入れただけではなく、造形の中にこれを生かしている。『笛を吹く少年』の平面的な彩色には、ベラスケスからのほかに、浮世絵からの影響があると考えられる。『キアサージ号とアラバマ号の海戦』には、伝統的な遠近法と異なり、高い視点と水平線、船を画面の端に寄せる構図が採用されており、日本風の空間表現である。『ボート遊び』の、水平線をなくし背景全体を水面とする構図、モティーフを切り取る手法も、同様である[167]。
ゾラは、「マネの単純化された絵画を日本の版画と比較するのは興味深いだろう。日本の版画は、未知の優美さと見事な色斑によって、マネの絵と似ているから。」と書いている[168]。
脚注
注釈
- ^ ただし、マネ自身は、シュザンヌと結婚した後もレオンを認知していない。このこともあって、近年では、マネの父オーギュストがレオンの父親だという説も浮上している(吉川 (2010: 142))。
- ^ 1635年頃。油彩、キャンバス、209 × 123 cm。プラド美術館。“Pablo de Valladolid”. Museo Nacional del Prado. 2017年11月17日閲覧。
- ^ 費用は1万8000フランで、高級官僚の年収1年分に相当した。マネの母親が費用を出した(木村 (2012: 108))。
- ^ 油彩、キャンバス、65 × 71 cm。北九州市立美術館。
- ^ 『草上の昼食』という題はモネの作品の方が先であり、マネは、これにならって、1867年の個展で『水浴』を『草上の昼食』と変更した(カシャン (2008: 55))。
- ^ リトグラフ、50.8 × 38.7 cm。ヒューストン美術館。“Les Courses (The Races at Longchamps)”. Google Arts & Culture. 2017年11月22日閲覧。
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参考文献
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- 高橋明也『もっと知りたいマネ 生涯と作品』東京美術〈アート・ビギナーズ・コレクション〉、2010年。ISBN 978-4-8087-0867-2。
- シルヴィ・パタン『モネ――印象派の誕生』高階秀爾監修、渡辺隆司・村上伸子訳、創元社〈「知の再発見」双書〉、1997年(原著1991年)。ISBN 4-422-21127-7。
- 三浦篤『名画に隠された「二重の謎」』小学館〈小学館101ビジュアル新書〉、2012年。ISBN 978-4-09-823023-5。
- 吉川節子『印象派の誕生――マネとモネ』中央公論新社〈中公新書〉、2010年。ISBN 978-4-12-102052-9。
- ジョン・リウォルド『印象派の歴史』三浦篤、坂上桂子訳、角川学芸出版、2004年(原著(1st ed.) 1946)。ISBN 4-04-651912-6。
- アンリ・ロワレット『ドガ――踊り子の画家』千足伸行監修、遠藤ゆかり訳、創元社〈「知の再発見」双書〉、2012年(原著1988年)。ISBN 978-4-422-21216-6。
外部リンク
- Édouard Manetに関連する著作物 - インターネットアーカイブ
- 20点掲載しているエドゥアール・マネの絵画作品 - Art UK
- Union List of Artist Names, Getty Vocabularies. ULAN Full Record Display for Édouard Manet, Getty Research Institute
- Impressionism: a centenary exhibition, an exhibition catalog from The Metropolitan Museum of Art (p. 110–130)
- Manet, a video documentary about his work
- Documenting the Gilded Age: New York City Exhibitions at the Turn of the 20th Century
- The Private Collection of Edgar Degas, material on Manet's relationship with Degas, Metropolitan Museum of Art