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2016年11月11日 (金) 01:37時点における版
おおむら こん 大村 崑 | |
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大村 崑 オロナミンCの看板 | |
本名 | 岡村 睦治(おかむら むつじ) |
別名義 | 崑ちゃん(こんちゃん) |
生年月日 | 1931年11月1日(93歳) |
職業 | コメディアン・俳優 |
活動期間 | 昭和30年代 - |
配偶者 | あり |
主な作品 | |
テレビドラマ 『やりくりアパート』 『番頭はんと丁稚どん』 『頓馬天狗』 『細うで繁盛記』 『赤い霊柩車シリーズ』 情報番組など 『午後は○○おもいッきりテレビ』 |
大村 崑(おおむら こん、1931年11月1日 - )は、日本のコメディアン・俳優。昭和30年代を中心としたテレビ黎明期の軽演劇で爆発的な人気を得た。大阪府箕面市在住。なお、生年月日はいかりや長介と同じ。
来歴
兵庫県神戸市長田区東尻池町出身。高校卒業後、神戸のキャバレー「新世紀」のボーイなどの仕事をしていたが、20歳前に肺結核に罹り右肺を切除、医師からは「あなたは40歳まで生きられないだろう」と告げられる[1]。限られた命ならばと、亡き父の影響で好きだった喜劇の世界へ足を踏み入れることを決意。1953年、大久保怜に師事し、司会の勉強をした後、1957年、大阪梅田の映画館「北野劇場」専属コメディアンとして舞台に立つ。この時、東宝専属で北野劇場はじめ東宝系の映画館や、北区角田町のOSミュージックホールなどで台本を書いていたコント作家・演出家こそ、その後長きにわたり大村の出演作を生み出した花登筺だった。三木のり平からヒントを得たと言われる「ずれ落ちたロイド眼鏡」と、とぼけた芸風で黎明期のテレビに進出、茶川一郎、佐々十郎とともに『やりくりアパート』(1958年、大阪テレビ→朝日放送)の学生役で人気を得る。その後、茶川、佐々、芦屋雁之助、芦屋小雁らと共演した『番頭はんと丁稚どん』(1959年、毎日放送)での“丁稚の崑松”役でさらに知名度をあげる。
1959年、花登が東宝から独立。雁之助・小雁、由美あづさらとともに『劇団・笑いの王国』[注 1]の結成に携わり、座長に就く。
同年、『笑いの王国』が全面的に関わった『頓馬天狗』(読売テレビ / 東宝テレビ部[注 2])の主役を務め、人気を決定づける。とぼけたキャラクターながら、秘薬を飲むと抜群の剣の腕となり、左手だけの「片手抜刀」など、毎回身軽でトリッキーな殺陣をみせる大村の「尾呂内南公」は当時の子供たちを中心に絶大な支持を受け[注 3][2]、「崑ちゃん」の知名度を全国区に広めた。元々映画館の幕間コントの演者に過ぎなかったが、テレビを通じて上方のお笑いを中田ダイマル・ラケット、藤田まこと、藤山寛美らと共に全国に波及させるきっかけを作った。
1963年、劇団内では「人気の崑、実力の雁之助」という2枚看板が成立していたが、雁之助はその演技力を評価されながらも二番手に甘んじていることへの不満などから、次第に花登や大村と距離を置くようになり、やがて軋轢を生む。大村とは気が合う仲だった弟・小雁も兄に追従していった。また看板女優の座に君臨する主宰者の妻である由美あづさの横暴など、座員間の人間関係の不協和音が表面化しはじめたことから、花登は劇団解散を決意する。
1965年、『日清ちびっこのどじまん』(フジテレビ系)の2代目司会者に抜擢[注 4]。『頓馬天狗』やCMで得た、子供視聴者からの絶大な人気にも支えられ、4年間にわたり司会を務めた。『ちびっこのどじまん』終了後は、それを引き継ぐ形で1971年、日本テレビ『おはよう!こどもショー』の1コーナーとして『こんちゃんのトンカチうたじまん』がスタート。こちらも4年半にわたる人気コーナーとなった[注 5]。こうした“子ども向け番組・イベント”などにも多く関わっており、1970年日本万国博覧会「こどもの祭り」を演出・司会。1981年には神戸ポートアイランド博覧会で「こどもの世界の祭り」の制作、演出、司会を担当した。
1970年、花登の原作・脚本による『細うで繁盛記』にて主人公・加代(新珠三千代)を陰から支える理解者の一人である板前・善三役で出演。コミカルな演技から脱却し、渋い演技で新境地をみせた。1972年には花登が新たに結成した『劇団「喜劇」』に参加。再び劇団の主軸を支えることとなる。
1974年、劇団主宰者・花登と女優・星由里子の不倫問題が発覚。大村は花登と同様に、花登の当時の妻・由美にも恩義があり、妻・瑤子も由美と親しい仲であったため、板挟みの状態で、花登の行動を容認できない状況の中、苦渋の選択を強いられた。結局、花登に劇団退団を申し出、駆け出しの頃から築き上げた花登との「師弟関係」ともいうべき信頼関係は終わりを告げた[注 6]。
以来、主な活動の場をコメディーや司会から、俳優中心にシフト。飄々とした持ち味以外にも、激しい気性の役どころなどもこなし、演技の幅を広げながらキャリアを積んでいる。その後は情報番組のコメンテーターや、講演活動などもこなしている。
1989年、58歳の時に大腸癌を患っているが、内視鏡手術で切除[3]、その日のうちに『午後は○○おもいッきりテレビ』の生放送にも出演している。
人物
愛妻・瑤子
妻・瑤子(旧姓・橘)との出会いは1959年7月。瑤子がテレビ番組のオーディションでディレクターを訪問した際、たまたまその場にいた大村と目が合った事がきっかけだった。二人の関係は早くからマスコミが嗅ぎ付け、報道されていたが、この時、雁之助・小雁兄弟にも彼女が居ることを知っていた[注 7]花登は、これ以上のマスコミ報道の過熱を回避したい意向もあり、よみうりテレビに「結婚式のテレビ中継」の企画を打診する一方、「劇団のデモンストレーションにもなるから…」と本人たちを説得。こうして1960年3月1日、当時としては前代未聞に等しい、3組合同による『テレビ結婚式』が放送された。
瑤子は、片肺を失いながらも必死に働く大村を日々献身的に支え続けた。二人の出会いのきっかけとなった「愛の讃歌」を瑤子が歌うと、その当時のことを思い出し、今でも大村は涙を流すという。しかし、結婚生活がすべて順風満帆だった訳ではなく、結婚して10年を経た頃、大家族を切り盛りしなければならないストレスと、多忙を極める夫とは会話もままならない、というすれ違いの生活から遂には“置きテープ”を残して発作的に家出を決行し、知人を頼って単身渡米。橘家と双方で騒動となり、紆余曲折の末、両家で空港まで迎えに行くという「事件」を起こしている。この出来事以降、大村は家事を手伝い、自分の身の回りの事は自ら行い、夫婦のコミュニケーションに努めるなど模範的な夫へと「改心」し、夫婦の仲はより深まったとしている[4]。
また瑤子は、日本にネイルアートを普及させた功労者の一人としても知られている。1985年、その美しさに魅せられ、本場アメリカで技術を習得。その後ネイルサロンを開設し、後進の育成にも努めた。1986年には「徹子の部屋」に出演(2月27日放送分)。司会の黒柳徹子にインタビューを受けながら、エアブラシで黒柳の10指にアートを施し、その技術を紹介している[5][6]。元・日本ネイリスト協会・名誉会長[7]。その後2000年にネイル業界から引退。2001年以降、イタリア語とカンツォーネの勉強のため、毎夏イタリアへ留学している。2003年からは本格的に本場のカンツォーネ・ナポレターナを学ぶためナポリに毎年渡航、関西を中心にカンツォーネ歌手・岡村瑤子として活動している。
大村との間には2男を儲け、長男・純治は日本でも有数のブルース・リーマニア、グッズコレクターとして知られており、次男・政治は映像クリエーターとして活動している。また次男の妻は元・宝塚歌劇団男役で初代宙組組長だった、大峯麻友である[8]。
2010年3月1日には結婚50周年を迎え、「大村崑と瑤子の金婚を祝う会」が盛大に催された[9]。
CMキャラクターとして
ダイハツ工業提供の『やりくりアパート』では三輪自動車・ミゼットの生CMで佐々十郎、茶川一郎と車名を連呼し、売り上げに貢献した。この当時「コンちゃんミゼット倒れているよ」と声をかけられ、しばしば路上のミゼットを起こしに行く事もあったという。
大塚製薬とは特に縁が深い。きっかけになった『頓馬天狗』は大塚製薬の一社提供で、役名もオロナイン軟膏をもじった「尾呂内南公」(おろない なんこう)。その後もオロナミンC(1965年から放映)等の大塚製薬の各CMに出演。「姓はオロナイン 名は軟膏」「うれしいと眼鏡が落ちるんですよ」「オロナミンCは小さな巨人です」等のCMコピーで知られる。昭和40年代には街中に「ソフト帽にずれ落ちた眼鏡姿」でオロナミンCを手にする大村のホーロー看板が設置された[10]。その看板のインパクトは抜群で、大人から子どもまで知らないものはいないまでのものとなった。創業者の大塚家とは親戚同様の付き合いであるという。大塚製薬はもともと徳島県発祥の企業であることから、毎年夏に行われる阿波踊りには大塚関連の企業連に夫婦で参加、大村はこれを30年以上続けている。
このほか、1970年代に玩具メーカー・エポック社のCMキャラクターとしても活躍し、「ちびっ子のアイドル」と称されていた。
先輩・三木のり平
風貌・芸風などが似ていることから先輩である三木のり平とは間違えられることがあった。実際、ずらしたロイド眼鏡は三木をヒントに使用し始めたが、三木は大村を弟分として可愛がっており、『とんま天狗』では大村の父親役で出演した際に「これから先も鼻眼鏡をかけてやるなら、やっていいよ」と芸を大村に譲り、これ以降、眼鏡を使用することを一切辞めた(トレードマークを大村に譲った理由については、後年「ボクはね、ひとつ何か当たると、それをすぐ飽きちゃうんだ」と語っている[11])。
1990年代以降の活動
1992年にスタートした『山村美紗サスペンス 赤い霊柩車シリーズ』での山村紅葉とのコミカルな掛け合いで魅せる傍ら、「子育て」「家族・夫婦関係」「健康」などに関する講演活動やコメンテーターなどを務めている。
趣味
神戸育ちで田舎を持たなかった大村は「自分の田舎を持ちたい」との夢を長年抱き続け、これを実現するため奔走。阪神・淡路大震災の影響で耐震構造を取り入れるなど中断を余儀なくされたが、1999年5月1日に兵庫県篠山市に芝居小屋付きの母屋「大村座」を中心に、資料館、屋外ステージなどが併設されたコミュニティ「崑の村」を総費用1億3000万円[12]で建設[13]し、夢を実現させた。自分だけでなく都会に暮らす人、地元の人も一緒に楽しんでもらえる「田舎」を目指しながら、タレント・芸人養成の拠点、四季の表情が豊かで風光明美な景観を活かしたドラマなどの撮影場所協力、ミゼットなどのオート三輪のレンタル[14]など、多角的な運営を進めたが、6年目からは赤字経営となり、止むなく開村から10年後の2009年9月23日をもって閉村(経営終了)。2016年現在、村は売家中になっている[15][12]。
このほか日本でも有数の眼鏡コレクターであり、そのコレクションは福井県鯖江市の「めがねミュージアム」で見る事が出来る[16]ほか、芸能界随一の好角家としても知られ、大阪場所や名古屋場所では砂かぶり席で観戦している様子がNHKの相撲中継でそのまま放送された事もある。力士との交流もあり、恵那櫻徹(押尾川部屋、1994年引退)と親交が深かったほか、上述の「金婚を祝う会」では高見盛精彦(東関部屋、2013年引退)が招かれスピーチを述べている。
また、舞台公演で全国各地を巡演していた頃は、公演先の各地にすぐ通院できる「かかりつけ医」的な病院を確保するようにしていたが、いつしかその診療券がコレクションのように溜まり、趣味の1つになっていた。
受賞歴・その他
- 1975年 - 大阪府民劇場奨励賞
- 1998年 - 第33回大阪市民表彰文化功労賞
- 2000年 - 「日本喜劇人協会」8代目会長に就任(現顧問)
- 2003年 - 「ゆうもあ大賞」を主催する「ゆうもあ・くらぶ」理事長就任。
- 2005年 - 福井県眼鏡大使に任命。
- 2012年 - 喜劇人大賞名誉功労賞受賞[17]。
出演
テレビドラマ
- 頓馬天狗(1959年、読売テレビ)
- シャープコミカルス・ちゃりんぼ兄弟(1960年、関西テレビ)
- 丹下左膳(1963年 - 1964年、毎日放送)
- 松本清張シリーズ 「いびき」(1965年、関西テレビ)
- エプロンおばさん 第65話「おばさん大阪へ行くの巻」(1964年、日本テレビ)
- いとはんと丁稚どん(1965年 - 1967年、朝日放送)
- 蛍火(1967年、フジテレビ)
- 船場 (1967年 - 1968年、関西テレビ)
- 伝七捕物帳(1968年、朝日放送)
- 堂島 (1968年 - 1969年、関西テレビ)
- 売らいでか!(1969年、読売テレビ) - 山内松雄役
- 細うで繁盛記(1970年1月 - 1971年4月、読売テレビ) - 山水館板前・善三役
- ぼてじゃこ物語 (1971年、読売テレビ)
- 女人武蔵 (1971年、関西テレビ) - 豊臣秀吉役
- すいーとぽてと(1971年 - 1972年、毎日放送)親子で出演
- おんぶおばけ(1972年、読売テレビ) - おはなし泥棒役の声
- どてらい男 (1973年、関西テレビ) - 岡田支配人役
- 走れ!ケー100 第10話「隆くんがやってきた 大阪の巻」(1973年、TBS)
- 日本沈没 第10話「阿蘇の火の滝」(1974年、TBS)
- 賞金稼ぎ(1975年、NETテレビ) - 用務員の九内役
- ご存じ金さん捕物帳 第26話「上方から来た男」(1975年、NETテレビ)親子で出演
- 連続テレビ小説・おはようさん(1975年 - 1976年、NHK総合) - 管理人の町田勘助役
- 人魚亭異聞 無法街の素浪人(1976年、NETテレビ/三船プロダクション) - なんでもやの平助役
- 銭形平次 (第82話:1967年 、第508話:1976年 、フジテレビ)
- 太陽にほえろ! 第203話「鳩時計」(1976年、日本テレビ/東宝) - 中村六太郎
- 遠山の金さん 第61話「浪花の仇を江戸で討て!」(1976年、テレビ朝日)親子で出演
- 平岩弓枝ドラマシリーズ(1978年 - 1985年、フジテレビ)
- コンチキ署特捜班(1978年、読売テレビ)
- 旅立ちは愛か(1979年、毎日放送) - 初の悪役
- 御宿かわせみ(1980年、NHK総合) - 長助役
- 価格破壊(1981年、NHK総合)
- なにわの源蔵事件帳 (1981年、NHK総合) - 吉岡甚作役
- 銀河テレビ小説・日の出食堂の青春(1982年、NHK総合)
- 花いちばん(1986年4月21日 - 10月17日、読売テレビ) - 木下文次 役
- 山村美紗サスペンス 赤い霊柩車シリーズ(1992年- 、フジテレビ) - 1級葬祭ディレクター、秋山隆男役
- 珠玉の女(1992年10月 - 1993年3月、読売テレビ・VSO) - 大西善三役
- HOTEL シリーズ3 第23・24話(1994年、TBS) - 大阪プラトンの名物ベルマン役
- 雲の上の青い空 (ドラマ新銀河 、1997年、NHK総合)
- 着物デザイナー 黛涼子の推理紀行(2000年 - 2005年、フジテレビ) - 馬場庄吉役
- 税務調査官・窓際太郎の事件簿10(2003年、TBS) - 長嶺銀次役
- 連続テレビ小説・てるてる家族(2003年 - 2004年、NHK総合) - 佐藤通夫役
- 水曜ミステリー9・捜査検事・近松茂道(2005年、テレビ東京) - 野口靖雄役
- 金曜プレステージ・潮風の診療所〜岬のドクター奮戦記〜(2007年、フジテレビ) - 道下正俊役
映画
- やりくりアパート(1959年、東宝) - コンちゃん役
- やりくりアパート びっくり大放送(1959年、東宝)
- サザエさんの脱線奥様(1959年、東宝) - 崑松役
- 番頭はんと丁稚どん(1960年、松竹) - 崑松役
- 爆笑嬢はん日記(1960年、東宝) - 崑松役
- 大日本殺し屋伝(1965年、日活) - ソロバンの崑松役
- 大阪ど根性物語 どえらい奴(1965年、東映) - 市助役
- 坊っちゃん(1966年、松竹) - 古賀役
- ガメラ対大悪獣ギロン(1969年 大映) - 近藤巡査役
- ガメラ対大魔獣ジャイガー(1970年 大映) - 北山良作役
- 男はつらいよ 浪花の恋の寅次郎(1981年 松竹) - 主任役
- 陽暉楼 (1983年 東映 、俳優座映画放送) - 大阪駅駅員役
- 竜馬を斬った男(1987年 松竹) - 安浦惣兵衛役
- 吉原炎上 (1987年 東映) - 写真屋役
司会
- 親子でバッチリ!(ABC、かしまし娘との共演)
- 日清ちびっこのどじまん(1965年-1969年、CX)
- チャオ!トッポ・ジージョ(1967年-1968年、TBS)
- 大阪万博・こどものまつり(1970年、お祭り広場)
- ランデブークイズ・ペアでハッスル(1970年、MBS)2代目
- トンカチうたじまん(おはよう!こどもショー、1971年-1975年、NTV)
- ポートピア'81・子供のまつり(1981年、神戸市)
その他
- 象印スターものまね大合戦(1967年、NET、2回出場2回共優勝)
- オールスター家族対抗歌合戦(1972年 - 1986年、CX、家族で6回出場6回共優勝)
- 第26回NHK紅白歌合戦(1975年、NHK総合、応援合戦で出演)
- おもいッきりテレビ(NTV)準レギュラーコメンテーター
ほか多数
CM
- 大塚製薬
- オロナミンCドリンク(家族とも出演)
- オロナイン軟膏
- ウレパールプラス(現在は大鵬薬品が販売権を継承)
- あ!あれたべよ(大塚食品)
- ダイハツ・ミゼット(ダイハツ工業)
- コンちゃんソーセージ(日本ハム)
- 野球盤他各種ゲーム(エポック社、家族とも出演)
- メガネドラッグ
- 科学と学習(学研、1967年、親子で出演)
- アサヒペン(夫婦で出演)
- 崑ちゃんハイエイトチョコレート(フルタ製菓)
- サッポロ一番 かんさい新うどん かんさいうどん大ぎつね(サンヨー食品)
- 京都西川 ローズテクニー
- 中駒産業
- 中山石渠(夫婦で出演)
- 舞昆(こうはら本店養宜館)(崑ばあ:毎日放送・朝日放送・関西テレビ・読売テレビなど関西4局で放映:2008年11月10日~、
- 緑効青汁(アサヒ緑健、夫婦で出演)
- サイカン典礼(フジテレビのみ放映:2007年10月5日~)
- 八田グループ・報恩互助会
- 法倫會館(上田グループ)
- サンメンバーズ
- ハートライン
- 株式会社サニーライフ 明善社
レコード
- サーカスがやってくる/丁稚マンボNo.カックン(1960年9月)※A面の歌唱は和田弘とマヒナスターズ、B面の歌唱が大村崑、芦屋雁之助、芦屋小雁‐松竹映画「番頭はんと丁稚どん」主題歌
- とんとんとんまの天狗さん/らーめん親子(1960年11月)B面の歌唱は芦屋小雁 - YTV「頓馬天狗」主題歌
- ゴッツイ節/こぼんちゃん(1964年11月)※A面共演かしまし娘、佐々十郎、佐山俊二、由利徹、B面共演かしまし娘 - 日活映画「大日本シリーズ」主題歌
- おへそのうた/めがねのうた(1967年)- フジテレビ「日清ちびっこのどじまん」より
- こんちゃんのトンカチうたじまん/ちょっとモンダイだ!(1972年7月)‐NTV「おはよう!こどもショー」より
- キン・コン・カン(1970年2月)※共演谷幹一、石井均‐東京12チャンネル放映「〈爆笑愚連隊〉キン・コン・カン」主題歌
- テレビ主題歌集のコンパクト盤に収録
- 細うで繁盛記/伊豆どんと節※A面は新珠三千代の語り、B面の歌唱が大村崑、高島忠夫、谷幹一 - YTV「細うで繁盛記」より
- お風呂のマンボ/いつもあいつと(A面・B面共に作詞:阿久悠、作曲:小林亜星、編曲:筒井広志)
著書
- 『お父さん 親してますか!—崑ちゃんの“ふれあい”子育て論』ISBN 9784534011053 日本実業出版社
- 『崑ちゃん ボクの昭和青春譜』 ISBN 9784163905136 文藝春秋、2016年9月13日
脚注
- 注釈
- ^ 1933年、古川ロッパ、徳川夢声らによって結成され1943年まで活動した軽演劇劇団『笑の王国』とは無関係である。
- ^ そもそも花登の劇団結成は『やりくりアパート』のレギュラーだった子役・中山千夏の東京・芸術座での舞台起用に伴う処遇を巡り、花登と東宝との関係が悪化し、松竹の支援で結成に至ったものだったが、東宝側は「関係が切れるのは東京との関係で、と関西は今まで通りに…」と完全な決裂とはならなかった。また、「東宝テレビ部」はテレビ制作プロダクションとして、独立性が高かったこともあり、キャスティングに際してトラブルは発生しなかった。
- ^ 2012年12月に死去した十八代目 中村勘三郎も、五代目 勘九郎の子ども時代『頓馬天狗』の大ファンで、放送当時、十七代目宅に招かれ、勘九郎とチャンバラをした思い出があるという。
- ^ これは初代司会者・桂小金治が「子どもが“惚れたはれた”を扱う大人びた歌謡曲を歌う事」に異議を唱え、7回で降板したため。
- ^ 大村の司会降板後も「こどものどじまんコーナー」として継続された。
- ^ 花登は1983年に週刊朝日に連載し、没後に単行本化された『私の裏切り裏切られ史』(朝日新聞社、ASIN B000J79Q4U)の中で大村の事を「愛弟子」と表し、“愛情の裏返し”ともとれる痛烈な批判を著しているが、大村はこの連載開始以降、花登に対して「師」という表現を一切使用しなくなった。
- ^ 雁之助の最初の妻は元・OSミュージックのダンサー、夏丘梨枝。小雁の結婚相手は女性デュエットコーラス「ラブリーラークス」のメンバーの1人だった。
- 出典
- ^ アサヒ緑健の青汁通販番組『人生(たび)の切符』で明らかにしている。“人生(たび)の切符 大村 崑”. アサヒ緑健. 2012年5月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月29日閲覧。
- ^ “大村崑「悔しい」 勘三郎さんしのぶ”. デイリースポーツOnline. オリジナルの2012年12月7日時点におけるアーカイブ。 2014年3月26日閲覧。
- ^ “患者は医者を選ぶべきそして、明るく元気に乗り切ろう”. がんサポート (2013年8月1日). 2014年3月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月26日閲覧。
- ^ “大村崑の妻 会話がない夫婦生活に耐えられず米国に家出した”. NEWSポストセブン(小学館). (2013年12月15日). オリジナルの2014年4月27日時点におけるアーカイブ。 2014年4月27日閲覧。
- ^ “徹子の部屋”. Yoko Okamura Blog (2008年2月4日). 2014年3月31日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月31日閲覧。
- ^ “■ 第11回 岡村瑤子… vol.28 2000年1月”. FUJIWARA ISM. 2014年3月29日閲覧。
- ^ “会社概要”. 株式会社ネイルズ. 2014年3月29日閲覧。
- ^ “元宝塚・大峯麻友&大村崑二男、結婚!西宮で挙式”. Sponichi Annex. (2010年6月13日). オリジナルの2014年4月22日時点におけるアーカイブ。 2014年4月22日閲覧。
- ^ “大村崑よりご挨拶 「大村崑と瑤子の金婚を祝う会」”. Yoko Okamura Blog (2010年3月3日). 2014年3月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月29日閲覧。
- ^ “大塚系れとろ看板”. れとろ看板写真館. 2014年5月13日閲覧。
- ^ “桃屋と三木のり平”. 桃屋. 2012年9月8日閲覧。
- ^ a b 爆報! THE フライデー 芸能人新居に引越しSP(TBS、2012年11月30日放送)
- ^ 大村崑. “「田舎を持ちたい!」崑ちゃんの夢”. 2012年5月1日閲覧。
- ^ 映画『ALWAYS 三丁目の夕日』に使用された実績がある。
- ^ 土曜はダメよ!小枝不動産. “2011/01/29 『こんなに素晴らしい家』”. 読売テレビ. 2012年5月1日閲覧。
- ^ “めがね博物館”. めがねの聖地、鯖江市にある「めがねミュージアム」. 2014年5月14日閲覧。
- ^ “西田敏行が「喜劇人大賞」受賞”. YOMIURI ONLINE. (2012年4月2日). オリジナルの2012年4月4日時点におけるアーカイブ。 2013年7月17日閲覧。