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'''准胝観音'''(じゅんていかんのん)、[[サンスクリット|梵名]]'''チュンディー'''(चुन्दी [{{lang|sa|Cundī}}]:{{要出典範囲|清浄の意味|date=2016-8}})またはチュンダー([{{lang|sa|Cundā}}])は、[[仏教]]における信仰対象である[[菩薩]]の一尊。准胝とはその音訳であり、'''準胝観音'''または'''準提観音'''とも書く。「[[六観音]]」(七観音)の一尊にも数えられる。インドでは観音は男性名詞のため男尊とされるが、准胝は女性名詞なので、「六観音」の中では唯一の女尊となる。 |
'''准胝観音'''(じゅんていかんのん)、[[サンスクリット|梵名]]'''チュンディー'''(चुन्दी [{{lang|sa|Cundī}}]:{{要出典範囲|清浄の意味|date=2016-8}})またはチュンダー([{{lang|sa|Cundā}}])は、[[仏教]]における信仰対象である[[菩薩]]の一尊。准胝とはその音訳であり、'''準胝観音'''または'''準提観音'''とも書く。「[[六観音]]」(七観音)の一尊にも数えられる。インドでは観音は男性名詞のため男尊とされるが、准胝は女性名詞なので、「六観音」の中では唯一の女尊となる。 |
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元々は[[ヒンドゥー教]]の女神[[ドゥルガー]]が仏教に観音(如来)として取り入れられた姿であるとされるが、異説もあり<ref>『密教の神々』(平河出版社)、「第六節 女神としての観音」、pp.109-122。</ref>、仏教の経典や儀軌に説かれる准胝観音のイメージがヒンドゥー教のドゥルガーと多くの隔たりがあるため、『チュンダー陀羅尼』より生じたという説<ref>『不空羂索・准胝観音』(至文堂)、p68。</ref><ref>[[清水乞]] 著、第五章 密教の美術「マーリーチーとチュンダー」、『アジア仏教史・インド編Ⅳ 密教』(佼成出版社)、pp.240-242。</ref>も有力である。{{誰によって|date=2016-11}} |
元々は[[ヒンドゥー教]]の女神[[ドゥルガー]]が仏教に観音(如来)として取り入れられた姿であるとされるが{{要出典範囲|元々はヒンドゥー教の女神ドゥルガーが仏教に観音(如来)として取り入れられた姿であるとされるが|date=2016-11}}、異説もあり<ref>『密教の神々』(平河出版社)、「第六節 女神としての観音」、pp.109-122。</ref>、仏教の経典や儀軌に説かれる准胝観音のイメージがヒンドゥー教のドゥルガーと多くの隔たりがあるため、『チュンダー陀羅尼』より生じたという説<ref>『不空羂索・准胝観音』(至文堂)、p68。</ref><ref>[[清水乞]] 著、第五章 密教の美術「マーリーチーとチュンダー」、『アジア仏教史・インド編Ⅳ 密教』(佼成出版社)、pp.240-242。</ref>も有力である。{{誰によって|date=2016-11}} |
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また、'''七倶胝仏母'''(しちくていぶつも)、梵名'''サプタコーティブッダ・マートリ'''(सप्तकोटिबुद्धमातृ [{{lang|sa|Saptakoṭibuddhamātṛ}}])とも呼ばれる。 |
また、'''七倶胝仏母'''(しちくていぶつも)、梵名'''サプタコーティブッダ・マートリ'''(सप्तकोटिबुद्धमातृ [{{lang|sa|Saptakoṭibuddhamātṛ}}])とも呼ばれる。 |
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密号は最勝金剛、降伏金剛。 |
密号は最勝金剛、降伏金剛。 |
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大乗仏教においては『仏説大乗荘厳宝王経』を典拠として、中国では浄土宗や禅宗のみならず[[道教]]においても広く信仰を集め、日本では[[空海]](弘法大師)の請来や[[隠元]]禅師の伝持によって密教や禅宗において信仰される。宋代の『仏説瑜伽大教王経』(大正藏№890:法賢 訳、幻化網タントラの抄訳)を先例として、チベット密教では新訳の『[[幻化網タントラ]]』(マーヤ・ジャーラ・タントラ)や、[[ニンマ派]]の依経である旧訳の『大[[幻化網タントラ]]』(グヒヤ・ガルバ・タントラ)において主要な尊挌である[[金剛薩た|金剛薩埵]]の[[ヤブユム]]の母尊となる'''尊那仏母'''、梵名スンダー(Sunda:美麗で光り輝くの意味)として説かれている。また、[[ニンマ派]]では、原初仏である[[法身普賢]]([[クントゥサンポ]])の[[ヤブユム]]の母尊である'''法身普賢仏母'''(クントゥサンモ)とする説もある<ref>『諾那呼圖克圖応化史略』(ノルラ・トゥルク・リンポチェ略伝;圓覚精舎 蔵版)、p。{{要ページ番号|date=2016-11}}</ref>。『 |
{{要出典範囲|大乗仏教においては『仏説大乗荘厳宝王経』を典拠として、中国では浄土宗や禅宗のみならず[[道教]]においても広く信仰を集め、日本では[[空海]](弘法大師)の請来や[[隠元]]禅師の伝持によって密教や禅宗において信仰される。宋代の『仏説瑜伽大教王経』(大正藏№890:法賢 訳、幻化網タントラの抄訳)を先例として、チベット密教では新訳の『[[幻化網タントラ]]』(マーヤ・ジャーラ・タントラ)や、[[ニンマ派]]の依経である旧訳の『大[[幻化網タントラ]]』(グヒヤ・ガルバ・タントラ)において主要な尊挌である[[金剛薩た|金剛薩埵]]の[[ヤブユム]]の母尊となる'''尊那仏母'''、梵名スンダー(Sunda:美麗で光り輝くの意味)として説かれている。|date=2016-11}}また、[[ニンマ派]]では、原初仏である[[法身普賢]]([[クントゥサンポ]])の[[ヤブユム]]の母尊である'''法身普賢仏母'''(クントゥサンモ)とする説もある<ref>『諾那呼圖克圖応化史略』(ノルラ・トゥルク・リンポチェ略伝;圓覚精舎 蔵版)、p。{{要ページ番号|date=2016-11}}</ref>。{{要出典範囲|『幻化網タントラ』の先行経典であり、密教の龍樹菩薩の著作『持明藏』より略出されたとする『仏説持明瑜伽大教尊那菩薩大明成就儀軌経』 四巻(大正蔵№1169:宋・法賢 訳|date=2016-1}}<ref group="注釈">経名『仏説持明瑜伽大教尊那菩薩大明成就儀軌経』四巻(大正蔵:第二十巻・密教部、pp.677-691)における「瑜伽大教」とは、『仏説瑜伽大教王経』(大正蔵:第十八巻、№890)のことを指している。経典としては、『仏説七倶胝仏母准提大明陀羅尼経』(大正蔵:第二十巻、№1075)や、『七倶胝仏母所説准提陀羅尼経』(大正蔵:第二十巻、№1076)の内容を大幅に増大させたものとなっているが、後期密教の先駆的内容も見られる。</ref>)が、現在のところ漢訳で残る資料としては准胝観音についての最も詳しい原典となる。{{要出典範囲|が、現在のところ漢訳で残る資料としては准胝観音についての最も詳しい原典となる。|date=2016-11}} |
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いわゆる准胝観音は、大乗仏教から中期[[密教]]、後期密教の[[無上瑜伽タントラ]]まで、仏教の広い分野に亘ってその影響を残している尊挌の一つである。 |
いわゆる准胝観音は、大乗仏教から中期[[密教]]、後期密教の[[無上瑜伽タントラ]]まで、仏教の広い分野に亘ってその影響を残している尊挌の一つである。 |
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== 概説 == |
== 概説 == |
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日本では「准胝仏母」、「准胝観音菩薩」、「准胝観世音菩薩」、「天人丈夫観音」などさまざまな呼称があり、更に中国では「尊那仏母」、「尊那菩薩」とも呼ばれる。異称のひとつ七倶胝仏母(サプタコーティブッダ・マートリ)とは「七千万の仏の母」・「過去無量諸仏の母」という意味で、この仏母(これは女性名詞である)が、人を[[悟り]]に導いて数限りない仏を誕生させる仏教の真理の擬人化であることを示す。一方、こうした原義から本来は女尊であり、観音(梵語で男性名詞のため男尊)ではないという説も有力である。図像的に准胝仏母と准胝観音の違いは何かと言うと、仏母形は五智の宝冠を頭に被り三目であるのに対して、観音形は五智の宝冠を被らず二目に白毫を描き、時に頭頂に化仏の「阿弥陀如来」を頂くもので、日本で初期の作例として挙げることのできる[[醍醐寺]]の五重塔の内部に描かれ重要文化財に指定された壁画の准胝観音は、五智の宝冠を被り仏母形に近い。また、中国のものは主に仏母形で中央の左右の第一手で「説法印」を結んでおり、チベットでは一面二臂と一面四臂が多いが、一面十八臂のものは観音形と如来形の両者の特徴を有している。 |
日本では「准胝仏母」、「准胝観音菩薩」、「准胝観世音菩薩」、「天人丈夫観音」などさまざまな呼称があり、{{要出典範囲|更に中国では「尊那仏母」、「尊那菩薩」とも呼ばれる。異称のひとつ七倶胝仏母(サプタコーティブッダ・マートリ)とは「七千万の仏の母」・「過去無量諸仏の母」という意味で、この仏母(これは女性名詞である)が、人を[[悟り]]に導いて数限りない仏を誕生させる仏教の真理の擬人化であることを示す。|date=2016-11}}一方、こうした原義から本来は女尊であり、観音(梵語で男性名詞のため男尊)ではないという説も有力である。{{要出典範囲|図像的に准胝仏母と准胝観音の違いは何かと言うと、仏母形は五智の宝冠を頭に被り三目であるのに対して、観音形は五智の宝冠を被らず二目に白毫を描き、時に頭頂に化仏の「阿弥陀如来」を頂くもので、日本で初期の作例として挙げることのできる[[醍醐寺]]の五重塔の内部に描かれ重要文化財に指定された壁画の准胝観音は、五智の宝冠を被り仏母形に近い。また、中国のものは主に仏母形で中央の左右の第一手で「説法印」を結んでおり、チベットでは一面二臂と一面四臂が多いが、一面十八臂のものは観音形と如来形の両者の特徴を有している。|date=2016-11}} |
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准胝観音は当初は准胝仏母といい、観音には含まれていなかった。その例として、[[高野山]]真言宗が伝承する密教の[[中院流]]では、醍醐の三宝院・宥深の説に基づき如来部([[仏部]])に配して准胝仏母とする<ref>『中院三十三尊』(高野山大学 編纂)、第二帖「准胝」&「表白集」P15。</ref>。いわゆる日本で准胝仏母が観音の名を付して呼ばれるようになったのは、[[咸平]]3年(1000年)に訳された『[[仏説大乗荘厳宝王経]]』(大正蔵№1050:[[北宋]]・[[天息災]] 訳)が日本に招来されて以後だと考えられる。 |
准胝観音は当初は准胝仏母といい、観音には含まれていなかった。その例として、[[高野山]]真言宗が伝承する密教の[[中院流]]では、醍醐の三宝院・宥深の説に基づき如来部([[仏部]])に配して准胝仏母とする<ref>『中院三十三尊』(高野山大学 編纂)、第二帖「准胝」&「表白集」P15。</ref>。{{要出典範囲|いわゆる日本で准胝仏母が観音の名を付して呼ばれるようになったのは、[[咸平]]3年(1000年)に訳された『[[仏説大乗荘厳宝王経]]』(大正蔵№1050:[[北宋]]・[[天息災]] 訳)が日本に招来されて以後だと考えられる。|date=2016-11}} |
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准胝観音は早くから中国で拝まれ、中国密教ではインド僧である[[金剛智]]三蔵が飢饉に際して勅命で准胝仏母を本尊として請雨法(雨乞い)を修して効果があり、その典拠を求められて『七倶胝仏母准提大明陀羅尼経』を訳したのが伝播の始まりで、この修法が金剛智から[[不空]]三蔵、不空から[[恵果]]阿闍梨、恵果から[[空海]]へと伝えられて日本に請来された。中国では密教、この後も広く禅宗や浄土宗、[[道教]]等でも信仰されるが、インドから東南アジア(初期の南方仏教:[[南伝密教]])<ref group="注釈">[[セイロン島]]や[[タイ王国|タイ]]、[[インドネシア]]を始めとする東南アジア一帯に伝播した後期大乗仏教としての密教を指す。これらの諸国は、今日では[[上座部仏教]]や[[イスラム教]]などで知られるが、もともとは大乗仏教と、その後に伝播した密教や[[ヒンドゥー教]]の文化圏でもあった。セイロン島は「ランカー・スートラ」の名を持つ『[[楞伽経]]』の発生地であり、この「ランカー」とは「スリランカ」の古語とされ、いわゆる[[梵語]]の「シリー」(吉祥)に「ランカー」をたして、「シリー・ランカー」(吉祥なランカー島)が「スリランカ」の語源と見られる。また、密教においては[[真言八祖]]の[[龍智]]菩薩が移り住み、[[不空]]三蔵がそこを訪ねたことでも知られている。インドネシアには、さまざまな密教遺跡やヒンドゥー教遺跡が残るが、東端の[[バリ島]]は、唯一のヒンドゥー教圏として有名であり、現在は土着の文化となった「[[ケチャ]]」は有力な観光資源となっている。</ref><ref>『インドネシアの遺跡と美術』(日本放送出版協会)、pp74-153。</ref>、そして日本でも[[密教]]において特に重視される。 |
{{要出典範囲|准胝観音は早くから中国で拝まれ、中国密教ではインド僧である[[金剛智]]三蔵が飢饉に際して勅命で准胝仏母を本尊として請雨法(雨乞い)を修して効果があり、その典拠を求められて『七倶胝仏母准提大明陀羅尼経』を訳したのが伝播の始まりで、|date=2016-11}}この修法が金剛智から[[不空]]三蔵、不空から[[恵果]]阿闍梨、恵果から[[空海]]へと伝えられて日本に請来された。中国では密教、この後も広く禅宗や浄土宗、[[道教]]等でも信仰されるが、インドから東南アジア(初期の南方仏教:[[南伝密教]])<ref group="注釈">[[セイロン島]]や[[タイ王国|タイ]]、[[インドネシア]]を始めとする東南アジア一帯に伝播した後期大乗仏教としての密教を指す。これらの諸国は、今日では[[上座部仏教]]や[[イスラム教]]などで知られるが、もともとは大乗仏教と、その後に伝播した密教や[[ヒンドゥー教]]の文化圏でもあった。セイロン島は「ランカー・スートラ」の名を持つ『[[楞伽経]]』の発生地であり、この「ランカー」とは「スリランカ」の古語とされ、いわゆる[[梵語]]の「シュリー」(吉祥)に「ランカー」をたして、「シュリー・ランカー」(吉祥なランカー島)が「スリランカ」の語源と見られる。また、密教においては[[真言八祖]]の[[龍智]]菩薩が移り住み、[[不空]]三蔵がそこを訪ねたことでも知られている。インドネシアには、さまざまな密教遺跡やヒンドゥー教遺跡が残るが、東端の[[バリ島]]は、唯一のヒンドゥー教圏として有名であり、現在は土着の文化となった「[[ケチャ]]」は有力な観光資源となっている。</ref><ref>『インドネシアの遺跡と美術』(日本放送出版協会)、pp74-153。</ref>、そして日本でも[[密教]]において特に重視される。 |
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日本の[[真言宗]]の開祖である[[空海]]が[[高野山]]の開基の際に、僧房の次にまず准胝堂を建立し、准胝観音を弟子たちの[[得度]]の本尊としてお祀りしたのは有名で、のちに高野山が荒廃した際にも僧俗の手によって庫裡にこの准胝観音を安置し守り続けられた。それゆえ、准胝堂の補修が行なわれた昭和の時代になるまで、高野山では准胝堂で僧侶となるための[[得度]]の儀式が執り行なわれていた<ref>『高野山』(総本山 金剛峯寺)、p15。</ref>。また、真言宗[[醍醐派]]の開祖・[[聖宝]]尊師がこれに倣って[[醍醐寺]]の開基に准胝観音を勧請し、その孫弟子の[[仁海]]は六観音に准胝観音を加え、その後も長く民衆の信仰を集めている。 |
日本の[[真言宗]]の開祖である[[空海]]が[[高野山]]の開基の際に、僧房の次にまず准胝堂を建立し、准胝観音を弟子たちの[[得度]]の本尊としてお祀りしたのは有名で、のちに高野山が荒廃した際にも僧俗の手によって庫裡にこの准胝観音を安置し守り続けられた。それゆえ、准胝堂の補修が行なわれた昭和の時代になるまで、高野山では准胝堂で僧侶となるための[[得度]]の儀式が執り行なわれていた<ref>『高野山』(総本山 金剛峯寺)、p15。</ref>。また、真言宗[[醍醐派]]の開祖・[[聖宝]]尊師がこれに倣って[[醍醐寺]]の開基に准胝観音を勧請し、その孫弟子の[[仁海]]は六観音に准胝観音を加え、その後も長く民衆の信仰を集めている。 |
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== 准胝法の伝播 == |
== 准胝法の伝播 == |
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准胝観音の修法である「准胝法」は中国密教では[[唐密]]に配される。空海が日本に教えを伝えた後、唐の[[武宗]]が大規模に「[[会昌の廃仏]]」を行ったために特別な施設や法具類を必要とする唐密は大きな打撃をうけ、入唐八家<ref group="注釈">入唐八家(にっとうはっか)とは、[[平安時代]]に中国の[[唐]]に渡り中国仏教や[[密教]]をはじめ、当時の様々な文化を日本に伝えた僧侶の八人を指して言う。年代順に名前を挙げると[[最澄]]、[[空海]]、[[常暁]]、[[円行]]、[[円仁]]、[[恵運]]、[[円珍]]、[[宗叡]]の八人となる。</ref>の[[円仁]](慈覚大師)や[[円珍]](智証大師)の時代にはまだ形を残してはいたが唐朝の衰微と共に、その教えの大系を失うことになる。 |
{{要出典範囲|准胝観音の修法である「准胝法」は中国密教では[[唐密]]に配される。|date=2016-11}}空海が日本に教えを伝えた後、唐の[[武宗]]が大規模に「[[会昌の廃仏]]」を行ったために特別な施設や法具類を必要とする唐密は大きな打撃をうけ、入唐八家<ref group="注釈">入唐八家(にっとうはっか)とは、[[平安時代]]に中国の[[唐]]に渡り中国仏教や[[密教]]をはじめ、当時の様々な文化を日本に伝えた僧侶の八人を指して言う。年代順に名前を挙げると[[最澄]]、[[空海]]、[[常暁]]、[[円行]]、[[円仁]]、[[恵運]]、[[円珍]]、[[宗叡]]の八人となる。</ref>の[[円仁]](慈覚大師)や[[円珍]](智証大師)の時代にはまだ形を残してはいたが唐朝の衰微と共に、その教えの大系を失うことになる。 |
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また、准胝観音の経典類は、[[空海]]の『[[御請来目録]]』([[国宝]])には、古訳の[[地婆訶羅]]三蔵の訳や旧訳の[[金剛智]]三蔵と[[善無畏]]三蔵の訳経も、新訳の[[不空]]三蔵の訳経も記載がなく「[[録外の請来品]]」となっており、その代わりに梵本2本が記載されていて、弟子たちへの著作『[[三学録]]』([[重文]])でも梵本2本のみ記される。なお、唐代・宋代の訳経と原典には以下のものがある。 |
また、准胝観音の経典類は、[[空海]]の『[[御請来目録]]』([[国宝]])には、古訳の[[地婆訶羅]]三蔵の訳や旧訳の[[金剛智]]三蔵と[[善無畏]]三蔵の訳経も、新訳の[[不空]]三蔵の訳経も記載がなく「[[録外の請来品]]」となっており、その代わりに梵本2本が記載されていて、弟子たちへの著作『[[三学録]]』([[重文]])でも梵本2本のみ記される。なお、唐代・宋代の訳経と原典には以下のものがある。 |
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*『七倶胝佛母所説准提陀羅尼経會釋』、清・弘賛<ref>『卍續藏經』、第三十七冊「中国撰述 大小乘釋經部」、p429。</ref> |
*『七倶胝佛母所説准提陀羅尼経會釋』、清・弘賛<ref>『卍續藏經』、第三十七冊「中国撰述 大小乘釋經部」、p429。</ref> |
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[[江戸時代]]には禅密双修の[[黄檗宗]]の開祖・[[隠元隆き|隠元隆琦]]らによって明代・[[清代]]の准胝仏母の尊像と密教の修法が日本にもたらされて、広く[[禅宗]]でも祀られるようになった。同時代には、[[長崎]]の[[出島]]で清国の中国[[僧]]から中国密教の諸法と[[出家]]戒を授かり、時の[[光格天皇]]の師となり、南海の龍と呼ばれた尾張[[大納言]]・[[徳川斉朝]]の庇護を受け、京都や[[尾張]]([[名古屋]])、[[江戸]]([[東京]])の地に准胝観音の信仰を広めて[[戒律復興運動]]に尽力した、[[天台宗]]の[[豪潮|豪潮律師]]<ref group="注釈">{{要出典範囲|豪潮律師は本来、密教の導師(グル)であるから[[阿闍梨]]と呼ぶのがふさわしいが、[[戒律復興運動]]に尽力して日本の[[天台宗]]に史上初めて体系的な[[戒律]]であるところの正式な[[出家]]戒と小乗戒、大乗戒と密教の[[三昧耶戒]]をもたらし、自身も戒律を守ることが堅固であったために[[律師]]の称号で呼ばれる。その大法伝授の際の故事を空海になぞらえ、密号(みつごう)を「遍照金剛」という。また、能書家でもあり、出身地の九州では[[北島雪山]]・[[秋山玉山]]らと共に「[[肥後国|肥後]]の[[三筆]]」に数えられて、その作品も数多く遺されている。|date=2016-11}}</ref>なども知られている。 |
{{要出典範囲|[[江戸時代]]には禅密双修の[[黄檗宗]]の開祖・[[隠元隆き|隠元隆琦]]らによって明代・[[清代]]の准胝仏母の尊像と密教の修法が日本にもたらされて、広く[[禅宗]]でも祀られるようになった。|date=2016-11}}{{要出典範囲|同時代には、[[長崎]]の[[出島]]で清国の中国[[僧]]から中国密教の諸法と[[出家]]戒を授かり、時の[[光格天皇]]の師となり、南海の龍と呼ばれた尾張[[大納言]]・[[徳川斉朝]]の庇護を受け、京都や[[尾張]]([[名古屋]])、[[江戸]]([[東京]])の地に准胝観音の信仰を広めて[[戒律復興運動]]に尽力した、[[天台宗]]の[[豪潮|豪潮律師]]|date=2016-11}}<ref group="注釈">{{要出典範囲|豪潮律師は本来、密教の導師(グル)であるから[[阿闍梨]]と呼ぶのがふさわしいが、[[戒律復興運動]]に尽力して日本の[[天台宗]]に史上初めて体系的な[[戒律]]であるところの正式な[[出家]]戒と小乗戒、大乗戒と密教の[[三昧耶戒]]をもたらし、自身も戒律を守ることが堅固であったために[[律師]]の称号で呼ばれる。その大法伝授の際の故事を空海になぞらえ、密号(みつごう)を「遍照金剛」という。また、能書家でもあり、出身地の九州では[[北島雪山]]・[[秋山玉山]]らと共に「[[肥後国|肥後]]の[[三筆]]」に数えられて、その作品も数多く遺されている。|date=2016-11}}</ref>{{要出典範囲|なども知られている。|date=2016-11}} |
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豪潮律師が伝授したと判明しているもので、現在も残っている著作類や同時代の資料には以下のようなものがあり、その内容から江戸時代に中国密教の「[[唐密]]」が日本に正確に伝えられていたことが分かる。 |
{{信頼性要検証範囲|豪潮律師が伝授したと判明しているもので、現在も残っている著作類や同時代の資料には以下のようなものがあり、その内容から江戸時代に中国密教の「[[唐密]]」が日本に正確に伝えられていたことが分かる。|date=2016-11}} |
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*『準提懺摩法 全』、豪潮 監修、江戸・喜福寺藏版、文政2年(1819年)<ref group="注釈">明代の資料である『大准提菩提焚修悉地懺悔玄文』(夏道人 著)に、内容が完全に一致する。この『准提懺摩法 全』は、江戸の本郷にあった喜福寺の蔵版になる准胝観音(準提仏母)を主尊とする「懺法」(さんぽう)の次第書。歴史上の釈尊以来の教えとして、小乗・大乗・金剛乗に共通して仏教徒となるためには[[戒律]]を授かる必要がある。そして、仏教徒になってからは、その戒律を維持するために毎月2回、普通は新月と満月の日か、旧暦の1日と15日に集まって懺悔(さんげ)のための「布薩会」(ふさつえ)という法要を行う。とりわけ准胝観音は、[[密教]]に不可欠な[[三昧耶戒]]を取り戻すための重要な尊挌とされている。</ref> |
*『準提懺摩法 全』、豪潮 監修、江戸・喜福寺藏版、文政2年(1819年)<ref group="注釈">明代の資料である『大准提菩提焚修悉地懺悔玄文』(夏道人 著)に、内容が完全に一致する。この『准提懺摩法 全』は、江戸の本郷にあった喜福寺の蔵版になる准胝観音(準提仏母)を主尊とする「懺法」(さんぽう)の次第書。歴史上の釈尊以来の教えとして、小乗・大乗・金剛乗に共通して仏教徒となるためには[[戒律]]を授かる必要がある。そして、仏教徒になってからは、その戒律を維持するために毎月2回、普通は新月と満月の日か、旧暦の1日と15日に集まって懺悔(さんげ)のための「布薩会」(ふさつえ)という法要を行う。とりわけ准胝観音は、[[密教]]に不可欠な[[三昧耶戒]]を取り戻すための重要な尊挌とされている。</ref> |
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*『佛母準提供私記』、豪潮 伝授、尾州・三密場蔵版、京都・貝葉書院、文政9年(1826年)<ref group="注釈">豪潮の口伝に基づき、弟子の享照が記述したもの。明代の資料である『准提簡易持誦法』を、四度立てに解釈し直した内容となっている。</ref> |
*『佛母準提供私記』、豪潮 伝授、尾州・三密場蔵版、京都・貝葉書院、文政9年(1826年)<ref group="注釈">豪潮の口伝に基づき、弟子の享照が記述したもの。明代の資料である『准提簡易持誦法』を、四度立てに解釈し直した内容となっている。</ref> |
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六観音の役割では[[六道]]のうち人間界を摂化するという。なお、天台系では前述のとおり准胝を観音とは認めないため、代わりに[[不空羂索観音]]を加えて六観音とする。更に准胝観音と不空羂索観音を共に数えて七観音とする場合もある。 |
六観音の役割では[[六道]]のうち人間界を摂化するという。なお、天台系では前述のとおり准胝を観音とは認めないため、代わりに[[不空羂索観音]]を加えて六観音とする。更に准胝観音と不空羂索観音を共に数えて七観音とする場合もある。 |
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また、准胝観音の姿は唐代の訳経である『仏説七倶胝仏母准胝陀羅尼経』([[金剛智]] 訳)や、『七倶胝仏母諸説准提陀羅尼経』([[不空]] 訳)に説かれる一面三目十八臂が一般的で、密教の仏であるからその姿には様々な象徴的な意味があり、『白宝口抄』<ref group="注釈">『白宝口抄』(びゃくほうくしょう)は『白宝口鈔』とも表記し、13世紀に[[東寺]]の[[観智院]]・[[亮禅]]と[[宝蓮華寺]]・[[亮尊]]による共著として、真言密教における[[事相]]と図像の百科事典であり、167巻からなる。亮禅は[[西院流]]の[[能禅]]より[[伝法潅頂]]を受け、後に東寺の二長者(にのちょうじゃ)をつとめ、1279年には東寺の[[菩提院]]の開山となった人物。</ref>にはその内容が具体的に述べられているので、その主なものを取上げて「本誓(ほんぜい)と功徳」としてここに紹介し、理解を深める一助とする。 |
また、准胝観音の姿は唐代の訳経である『仏説七倶胝仏母准胝陀羅尼経』([[金剛智]] 訳)や、『七倶胝仏母諸説准提陀羅尼経』([[不空]] 訳)に説かれる一面三目十八臂が一般的で、密教の仏であるからその姿には様々な象徴的な意味があり、『白宝口抄』<ref group="注釈">『白宝口抄』(びゃくほうくしょう)は『白宝口鈔』とも表記し、13世紀に[[東寺]]の[[観智院]]・[[亮禅]]と[[宝蓮華寺]]・[[亮尊]]による共著として、真言密教における[[事相]]と図像の百科事典であり、167巻からなる。亮禅は[[西院流]]の[[能禅]]より[[伝法潅頂]]を受け、後に東寺の二長者(にのちょうじゃ)をつとめ、1279年には東寺の[[菩提院]]の開山となった人物。</ref>にはその内容が具体的に述べられているので、{{独自研究範囲|その主なものを取上げて「本誓(ほんぜい)と功徳」としてここに紹介し、理解を深める一助とする。|date=2016-11}} |
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『'''本誓と功徳'''』 |
『'''本誓と功徳'''』 |
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*その身体は黄白色をしていることについて:この場合の黄色は「地大」に代表され『[[胎蔵界]]』を意味し、白色は「水大」に代表され『[[金剛界]]』を意味している。即ち、准胝観音は身体の黄白色によって「[[理智不二]]」([[金胎不二]])を象徴し、それ故、その本誓は「[[定慧一体]]」の境地であることを意味し、諸仏を出生するあらゆる徳をその身に備えていることを表している。 |
*{{要出典範囲|その身体は黄白色をしていることについて:この場合の黄色は「地大」に代表され『[[胎蔵界]]』を意味し、白色は「水大」に代表され『[[金剛界]]』を意味している。即ち、准胝観音は身体の黄白色によって「[[理智不二]]」([[金胎不二]])を象徴し、それ故、その本誓は「[[定慧一体]]」の境地であることを意味し、諸仏を出生するあらゆる徳をその身に備えていることを表している。|date=2016-11}} |
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*種々の装飾品でその身を荘厳していることについて:准胝観音はその身と腰に宝石を散りばめて、白衣を纏い、その身を着飾っている。衣の上には白い花の刺繍があり、また、ひらひらとしたケープを纏い、腰には真珠等の飾りの付いた白いベルトを緩めに締め、衣は朝露に濡れたように輝きがあり、網目模様の仕上がりとなっている。このように種々の装飾品でその身を荘厳することは、准胝観音が塵沙の如き数多くの妙法を身に付け、仏法のあらゆる教えの真理によって荘厳されていることを象徴している。そして、これは凡夫の煩悩を菩提へと転換させることをも意味しており、いわゆる[[輪廻]]の世界において[[菩薩]]として一切衆生を救済する働きの原動力となる、「[[煩悩即菩提]]」の真理を最もよく体現している仏と言うことができる。 |
*{{要出典範囲|種々の装飾品でその身を荘厳していることについて:准胝観音はその身と腰に宝石を散りばめて、白衣を纏い、その身を着飾っている。衣の上には白い花の刺繍があり、また、ひらひらとしたケープを纏い、腰には真珠等の飾りの付いた白いベルトを緩めに締め、衣は朝露に濡れたように輝きがあり、網目模様の仕上がりとなっている。このように種々の装飾品でその身を荘厳することは、准胝観音が塵沙の如き数多くの妙法を身に付け、仏法のあらゆる教えの真理によって荘厳されていることを象徴している。そして、これは凡夫の煩悩を菩提へと転換させることをも意味しており、いわゆる[[輪廻]]の世界において[[菩薩]]として一切衆生を救済する働きの原動力となる、「[[煩悩即菩提]]」の真理を最もよく体現している仏と言うことができる。|date=2016-11}} |
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*その身の周囲を火炎の如き光明が取り巻いていることについて:准胝観音の身体からは光明が火炎のように湧き上がっていて、智慧の光明が一切衆生を覆っている煩悩の暗闇を破り、妄想を取り除き、衆生にとってはその智慧が乳味の如く感じることができることを象徴している。<ref group="注釈">中国密教では、この准胝観音の三昧を指して、別名を『光明定』(こうみょうじょう:guang ming ding;コァンミンティン)とも言う。また、この『光明定』はチベット密教の[[ニンマ派]]の大成就法である[[ゾクチェン]]とも関連し、後に[[10世紀]]になると別系統の密教である[[カギュ派]]『[[ナーローパの六法]]』にみる「ウーセル」(光明)へと発展する。普方金剛大阿闍梨口述「準提法講解」より。</ref> |
*{{要出典範囲|その身の周囲を火炎の如き光明が取り巻いていることについて:准胝観音の身体からは光明が火炎のように湧き上がっていて、智慧の光明が一切衆生を覆っている煩悩の暗闇を破り、妄想を取り除き、衆生にとってはその智慧が乳味の如く感じることができることを象徴している。|date=2016-11}}<ref group="注釈">中国密教では、この准胝観音の三昧を指して、別名を『光明定』(こうみょうじょう:guang ming ding;コァンミンティン)とも言う。また、この『光明定』はチベット密教の[[ニンマ派]]の大成就法である[[ゾクチェン]]とも関連し、後に[[10世紀]]になると別系統の密教である[[カギュ派]]『[[ナーローパの六法]]』にみる「ウーセル」(光明)へと発展する。普方金剛大阿闍梨口述「準提法講解」より{{要ページ番号|date=2016-11}}。</ref> |
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*左右の一対の目に加えて額に「[[正法眼]]」を開いて、合わせて三目を持つことについて:准胝観音は三つの目を持つが、これは「理」と「智」と「事」の三つの意味を表し、更には、[[仏部]]・[[金剛部]]・[[蓮華部]]の三部(「[[三部三昧耶]]」:さんぶさんまや<ref group="注釈">「[[三部三昧耶]]」は、日本[[密教]]の入門的な修法となる「[[護身法]]」の別名で民間の経本にも取り上げられている。そのルーツは[[空海]]が師である[[恵果]]の教えを記した実践書の『[[十八契印]]』(じゅうはちげいいん)の中にある「行者荘厳法」の中心となるもので、ここで言う三部とは、空海が[[唐]]に渡るための啓示を得た『[[大日経]]』に基づくとする『[[胎蔵界曼荼羅]]』の中央に描かれる仏部・金剛部・蓮華部の三つを指し、『胎蔵界曼荼羅』は師の[[恵果]]の編纂になるものであるから、『[[十八契印]]』は同じく[[恵果]]の直伝であることが理解できる。現在、日本では口伝を伝えておらず『[[十八契印]]』は作法の目録と見られているが、[[中国密教]]の[[唐密]]では「[[三部三昧耶]]」を[[即身成仏]]の核心とする。</ref>)を表示している。或いは、「仏眼」と「法眼」と「慧眼」を表していて、三目が縦や横に一列に並ばずに三角をなすのは[[不縦不横]]といって、[[三諦]]が「[[一味平等]]」であることの広範な意味を持つ。 |
*{{要出典範囲|左右の一対の目に加えて額に「[[正法眼]]」を開いて、合わせて三目を持つことについて:准胝観音は三つの目を持つが、これは「理」と「智」と「事」の三つの意味を表し、更には、[[仏部]]・[[金剛部]]・[[蓮華部]]の三部(「[[三部三昧耶]]」:さんぶさんまや|date=2016-11}}<ref group="注釈">「[[三部三昧耶]]」は、日本[[密教]]の入門的な修法となる「[[護身法]]」の別名で民間の経本にも取り上げられている。そのルーツは[[空海]]が師である[[恵果]]の教えを記した実践書の『[[十八契印]]』(じゅうはちげいいん)の中にある「行者荘厳法」の中心となるもので、ここで言う三部とは、空海が[[唐]]に渡るための啓示を得た『[[大日経]]』に基づくとする『[[胎蔵界曼荼羅]]』の中央に描かれる仏部・金剛部・蓮華部の三つを指し、『胎蔵界曼荼羅』は師の[[恵果]]の編纂になるものであるから、『[[十八契印]]』は同じく[[恵果]]の直伝であることが理解できる。現在、日本では口伝を伝えておらず『[[十八契印]]』は作法の目録と見られているが、[[中国密教]]の[[唐密]]では「[[三部三昧耶]]」を[[即身成仏]]の核心とする。</ref>){{要出典範囲|を表示している。或いは、「仏眼」と「法眼」と「慧眼」を表していて、三目が縦や横に一列に並ばずに三角をなすのは[[不縦不横]]といって、[[三諦]]が「[[一味平等]]」であることの広範な意味を持つ。|date=2016-11}} |
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*左右の第一手をによって[[説法印]]を作ることについて:左右の両方の手により説法印を結ぶのは、「[[六観音]]」の中で主に[[人道]]を救うことを表しており、よく貪・瞋・痴の[[三毒]]の障害を取り除いて先の三眼の智慧を現すことを象徴し、また、説法によって一切衆生を導き、利益を与えることを意味している。 |
*{{要出典範囲|左右の第一手をによって[[説法印]]を作ることについて:左右の両方の手により説法印を結ぶのは、「[[六観音]]」の中で主に[[人道]]を救うことを表しており、よく貪・瞋・痴の[[三毒]]の障害を取り除いて先の三眼の智慧を現すことを象徴し、また、説法によって一切衆生を導き、利益を与えることを意味している。|date=2016-11}} |
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== 禅と准胝観音 == |
== 禅と准胝観音 == |
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[[禅]]と[[密教]]の出会いは、まだ禅が中国において[[禅宗]]と呼ばれて一派をなす前の時代、[[唐]]の時代に始まる。当時、禅は「仏心宗」とか「楞伽宗」とか呼ばれた時代で、個々の禅者によって教えも、用いる経典も様々であったとされる。こうした時代に、インドから[[善無畏]]三蔵が西暦716年に来唐し、その善無畏三蔵に対して当時の禅僧がインド密教の禅定について質問をした記録が残っており、[[善無畏]]三藏の教えであることから『[[無畏三蔵禅要]]』(善無畏三藏による禅定の要点)と呼ばれている。この『無畏三蔵禅要』(大正蔵№1050)<ref group="注釈">国訳としては、「新国訳大蔵経インド撰述部・密教部第7巻『無畏三蔵禅要』」(大蔵出版社、1996年刊)と、「国訳一切経・密教部第3巻『無畏三蔵禅要』」(大東出版社)等がある。</ref>は、日本では密教の[[三昧耶戒]]の資料として[[事相]]家が参考にするか、学問上の典籍としてしか扱われないが、大陸や台湾に伝わっていた中国禅では、戦前まで禅定の内容を記した本の一つとして僧侶育成の教科書にも数えられていた。 |
{{要出典範囲|[[禅]]と[[密教]]の出会いは、まだ禅が中国において[[禅宗]]と呼ばれて一派をなす前の時代、[[唐]]の時代に始まる。当時、禅は「仏心宗」とか「楞伽宗」とか呼ばれた時代で、個々の禅者によって教えも、用いる経典も様々であったとされる。|date=2016-11}}こうした時代に、インドから[[善無畏]]三蔵が西暦716年に来唐し、その善無畏三蔵に対して当時の禅僧がインド密教の禅定について質問をした記録が残っており、[[善無畏]]三藏の教えであることから『[[無畏三蔵禅要]]』(善無畏三藏による禅定の要点)と呼ばれている。この『無畏三蔵禅要』(大正蔵№1050)<ref group="注釈">国訳としては、「新国訳大蔵経インド撰述部・密教部第7巻『無畏三蔵禅要』」(大蔵出版社、1996年刊)と、「国訳一切経・密教部第3巻『無畏三蔵禅要』」(大東出版社)等がある。</ref>は、{{要出典範囲|日本では密教の[[三昧耶戒]]の資料として[[事相]]家が参考にするか、学問上の典籍としてしか扱われないが、大陸や台湾に伝わっていた中国禅では、戦前まで禅定の内容を記した本の一つとして僧侶育成の教科書にも数えられていた。|date=2016-11}} |
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それゆえ、無畏三蔵の訳である旧訳の『七佛倶胝佛母心大准提陀羅尼法』が、禅者に伝えられたのも同じく唐代の頃と思われる。当時の禅者による准胝観音への信仰の一端を伝える物語が、宋の[[無門慧開]](むもんえかい;1183-1260)が編集した『[[無門関]]』と、宋の圜悟克勤(えんごこくごん;1063-1135)の編集による『[[碧巌録]]』という[[禅]]の「[[公案]]集」等に残されているので、ここでは『無門関』の事例を取り上げる。<ref>「口語で読む禅の古典『無門関を読む』」(PHP研究所)、pp.54-58。</ref> |
{{独自研究範囲|それゆえ、無畏三蔵の訳である旧訳の『七佛倶胝佛母心大准提陀羅尼法』が、禅者に伝えられたのも同じく唐代の頃と思われる。|date=2016-11}}当時の禅者による准胝観音への信仰の一端を伝える物語が、宋の[[無門慧開]](むもんえかい;1183-1260)が編集した『[[無門関]]』と、宋の圜悟克勤(えんごこくごん;1063-1135)の編集による『[[碧巌録]]』という[[禅]]の「[[公案]]集」等に残されているので、ここでは『無門関』の事例を取り上げる。<ref>「口語で読む禅の古典『無門関を読む』」(PHP研究所)、pp.54-58。</ref> |
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::『無門関』第三則 【'''倶胝竪指'''】(ぐていじゅし)より |
::『無門関』第三則 【'''倶胝竪指'''】(ぐていじゅし)より |
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== 准胝曼荼羅 == |
== 准胝曼荼羅 == |
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[[唐]]の[[善無畏]]三蔵の訳になる『七倶胝佛母心大准提陀羅尼法』と『七倶胝獨部法』には、二十五部からなる大曼荼羅があったと書かれているが、今に伝わってはいない。日本密教では、[[空海]]以来の口伝が[[鎌倉時代]]に絶えているので、[[真言宗]]と[[天台宗]]の双方に「准胝曼荼羅」に相当する曼荼羅は存在しない。ただ、文献上では[[豪潮律師]]が、[[灌頂]]や[[懺法]]等を実施しているため、江戸時代の資料の内容にも見られるように「准胝曼荼羅」はあったと考えられている。 |
{{要出典範囲|[[唐]]の[[善無畏]]三蔵の訳になる『七倶胝佛母心大准提陀羅尼法』と『七倶胝獨部法』には、二十五部からなる大曼荼羅があったと書かれているが、今に伝わってはいない。日本密教では、[[空海]]以来の口伝が[[鎌倉時代]]に絶えているので、[[真言宗]]と[[天台宗]]の双方に「准胝曼荼羅」に相当する曼荼羅は存在しない。ただ、文献上では[[豪潮律師]]が、[[灌頂]]や[[懺法]]等を実施しているため、江戸時代の資料の内容にも見られるように「准胝曼荼羅」はあったと考えられている。|date=2016-11}} |
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現在、「准胝曼荼羅」は[[台湾]]と[[香港]]に伝わる中国密教の「唐密」に2種類、チベット密教の旧訳の『大[[幻化網タントラ]]』を依経とする[[ニンマ派]]と、新訳の『[[幻化網タントラ]]』を伝承する[[サキャ派]]と[[カギュ派]]のそれぞれに、大本である「タントラの曼荼羅」である『大幻化網曼荼羅』と『幻化網曼荼羅』、それに付随する各種の曼荼羅があり、主要な尊格として中心に准胝観音(尊那仏母)が描かれているので、これも広義の「准胝曼荼羅」と呼ぶことができ、いずれも現在では日本に請来されている。また、『仏説持明蔵瑜伽大教尊那菩薩大明成就儀軌経』(宋・法賢 訳)には、「准胝曼荼羅」について詳しく述べると共に、その曼荼羅に登場する諸尊を解説し、掛曼荼羅の「[[大曼荼羅]]」<ref group="注釈">ここでいう「大曼荼羅」とは、四種曼荼羅の「大曼荼羅」・「三昧耶曼荼羅」・「法曼荼羅」・「羯摩曼荼羅」のうちの一つを指す。</ref>と、敷曼荼羅に相当する土壇の「[[地曼荼羅]]」と、護摩炉を荘厳する「[[護摩曼荼羅]]」の三者を説く。 |
{{要出典範囲|現在、「准胝曼荼羅」は[[台湾]]と[[香港]]に伝わる中国密教の「唐密」に2種類、チベット密教の旧訳の『大[[幻化網タントラ]]』を依経とする[[ニンマ派]]と、新訳の『[[幻化網タントラ]]』を伝承する[[サキャ派]]と[[カギュ派]]のそれぞれに、大本である「タントラの曼荼羅」である『大幻化網曼荼羅』と『幻化網曼荼羅』、それに付随する各種の曼荼羅があり、主要な尊格として中心に准胝観音(尊那仏母)が描かれているので、これも広義の「准胝曼荼羅」と呼ぶことができ、いずれも現在では日本に請来されている。また、『仏説持明蔵瑜伽大教尊那菩薩大明成就儀軌経』(宋・法賢 訳)には、「准胝曼荼羅」について詳しく述べると共に、その曼荼羅に登場する諸尊を解説し、掛曼荼羅の「[[大曼荼羅]]」|date=2016-11}}<ref group="注釈">ここでいう「大曼荼羅」とは、四種曼荼羅の「大曼荼羅」・「三昧耶曼荼羅」・「法曼荼羅」・「羯摩曼荼羅」のうちの一つを指す。</ref>{{要出典範囲|と、敷曼荼羅に相当する土壇の「[[地曼荼羅]]」と、護摩炉を荘厳する「[[護摩曼荼羅]]」の三者を説く。|date=2016-11}} |
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「唐密」に伝わる「准胝曼荼羅」の2種類とは、説会(せつえ)の『心曼荼羅』と、准胝観音を中心とする『本尊曼荼羅』であり、それが修法の際に観想されたり、用いられたりする<ref>『尊那佛母所説陀羅尼修持法要』(正見學會)、p42。</ref>。 |
「唐密」に伝わる「准胝曼荼羅」の2種類とは、説会(せつえ)の『心曼荼羅』と、准胝観音を中心とする『本尊曼荼羅』であり、それが修法の際に観想されたり、用いられたりする<ref>『尊那佛母所説陀羅尼修持法要』(正見學會)、p42。</ref>。 |
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'''1.'''『'''心曼荼羅'''』 |
'''1.'''『'''心曼荼羅'''』 |
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*『心曼荼羅』とは、その尊挌の心真言<ref group="注釈">「心真言」(しんしんごん)は「心中真言」(しんちゅうしんごん)とも言うが、通常は、その尊格の最も短い真言を指す場合が多い。</ref>による「[[字輪観]]」より生じた、説会の曼荼羅のことを言う。准胝観音は[[不空]]三蔵訳『七倶胝佛母所説準提陀羅尼経』に対応する、[[宋代]]に[[大理国]]より伝えられた注釈書である『[[七倶胝佛母所説準提陀羅尼経節要]]』<ref>『尊那佛母諸説陀羅尼修持法要』(正見學會)所収、pp29-55。</ref><ref group="注釈">『七倶胝仏母所説準提陀羅尼経節要和訳』(蓮華堂出版部)を参照のこと。</ref>や、宋訳の『仏説持明蔵瑜伽大教尊那菩薩大明成就儀軌経』にあるように、短い真言(短呪)の「オン・シャ・レイ・シュ・レイ・ジュン・テイ・ソワ・カ」の真言九文字を月輪上に順に配置する。まず、オン字を中心に置き、シャ字を南方(正面・上方)に配して時計回りに、レイ字を南西に配し、シュ字を西方に配し、レイ字を北西に配し、ジュン字を北方(裏面・下方)に配し、テイ字を北東に配し、ソワ字を東方に配し、カ字を南東に配して字輪<ref group="注釈">「字輪」(じりん)は、「呪輪」(じゅりん:咒輪)とも言う。いわゆる真言を配置した輪(わ)のことを指す。</ref>とし、この字輪からそのまま「准提法」を説く説会の曼荼羅を生じる。こうして中央には[[大日如来]]、南方に[[大輪明王]]、南西に[[不動明王]]、西方に[[聖観音]](六字観音)、北西に[[不空羂索観音]]、北方に准胝観音、東南に[[金剛薩た|金剛薩埵]](金剛手菩薩)、東方に[[伊迦惹托]](イケイジャット)<ref group="注釈">伊迦惹托の「イケイジャット」は中国密教の呼称。梵名は「エカジャティ」または「エーカジャターラークシャーヤャ」といい、日本では「一髻羅刹」(いちけいらせつ)と訳される。チベット密教の[[ニンマ派]]では、「ガクスンマ」とも呼ばれ、憤怒相の十一面観音の明妃で、女尊の護法尊の筆頭とされている。なお、『仏説持明蔵腧伽大教尊那菩薩大明成就儀軌経』(大正蔵:第二十巻・密教部、№1169)には、一面四臂と一面六臂の二種類の尊様を説く。</ref>、南東に[[縛羅曩契]](プラナキ)<ref group="注釈">縛羅曩契の「プラナキ」は中国密教の呼称。日本では「バザラノウケイ」と読み、「バジラウンカラ」または「金剛ウンカラ」と呼ばれる尊挌に当る。また、『仏説持明蔵腧伽大教尊那菩薩大明成就儀軌経』には、「縛羅嚢契明王」や「金剛嚢契」とも訳されている。同経の第四巻(大正蔵:第二十巻・密教部、№1169、p691。)には、一面四臂で身体は明白色の尊様を説き、右手の一手に剣、第二手に鉞斧、左手の第一手に羂索、第二手に蓮華を持つとある。この尊格は、日本の[[胎蔵界曼荼羅]]の持明院に「[[勝三世明王]]」の別名でも登場するが、「[[降三世明王]]」と同名異体とする説と、同名同体とする説との二説があり、未だ解明されていない。</ref><ref>『両界曼荼羅 元禄本』(東京美術)、pp59-61。</ref>を配した曼荼羅を生じて、これを『心曼荼羅』とする。 |
*『心曼荼羅』とは、その尊挌の心真言<ref group="注釈">「心真言」(しんしんごん)は「心中真言」(しんちゅうしんごん)とも言うが、通常は、その尊格の最も短い真言を指す場合が多い。</ref>による「[[字輪観]]」より生じた、説会の曼荼羅のことを言う。准胝観音は[[不空]]三蔵訳『七倶胝佛母所説準提陀羅尼経』に対応する、[[宋代]]に[[大理国]]より伝えられた注釈書である『[[七倶胝佛母所説準提陀羅尼経節要]]』<ref>『尊那佛母諸説陀羅尼修持法要』(正見學會)所収、pp29-55。</ref><ref group="注釈">『七倶胝仏母所説準提陀羅尼経節要和訳』(蓮華堂出版部)を参照のこと。</ref>や、宋訳の『仏説持明蔵瑜伽大教尊那菩薩大明成就儀軌経』にあるように、短い真言(短呪)の「オン・シャ・レイ・シュ・レイ・ジュン・テイ・ソワ・カ」の真言九文字を月輪上に順に配置する。まず、オン字を中心に置き、シャ字を南方(正面・上方)に配して時計回りに、レイ字を南西に配し、シュ字を西方に配し、レイ字を北西に配し、ジュン字を北方(裏面・下方)に配し、テイ字を北東に配し、ソワ字を東方に配し、カ字を南東に配して字輪<ref group="注釈">「字輪」(じりん)は、「呪輪」(じゅりん:咒輪)とも言う。いわゆる真言を配置した輪(わ)のことを指す。</ref>とし、この字輪からそのまま「准提法」を説く説会の曼荼羅を生じる。こうして中央には[[大日如来]]、南方に[[大輪明王]]、南西に[[不動明王]]、西方に[[聖観音]](六字観音)、北西に[[不空羂索観音]]、北方に准胝観音、東南に[[金剛薩た|金剛薩埵]](金剛手菩薩)、東方に[[伊迦惹托]](イケイジャット)<ref group="注釈">{{要出典範囲|伊迦惹托の「イケイジャット」は中国密教の呼称。梵名は「エカジャティ」または「エーカジャターラークシャーヤャ」といい、日本では「一髻羅刹」(いちけいらせつ)と訳される。チベット密教の[[ニンマ派]]では、「ガクスンマ」とも呼ばれ、憤怒相の十一面観音の明妃で、女尊の護法尊の筆頭とされている。なお、『仏説持明蔵腧伽大教尊那菩薩大明成就儀軌経』(大正蔵:第二十巻・密教部、№1169)には、一面四臂と一面六臂の二種類の尊様を説く。|date=2016-11}}</ref>、南東に[[縛羅曩契]](プラナキ)<ref group="注釈">縛羅曩契の「プラナキ」は中国密教の呼称。日本では「バザラノウケイ」と読み、「バジラウンカラ」または「金剛ウンカラ」と呼ばれる尊挌に当る。また、『仏説持明蔵腧伽大教尊那菩薩大明成就儀軌経』には、「縛羅嚢契明王」や「金剛嚢契」とも訳されている。同経の第四巻(大正蔵:第二十巻・密教部、№1169、p691。)には、一面四臂で身体は明白色の尊様を説き、右手の一手に剣、第二手に鉞斧、左手の第一手に羂索、第二手に蓮華を持つとある。この尊格は、日本の[[胎蔵界曼荼羅]]の持明院に「[[勝三世明王]]」の別名でも登場するが、「[[降三世明王]]」と同名異体とする説と、同名同体とする説との二説があり、未だ解明されていない。</ref><ref>『両界曼荼羅 元禄本』(東京美術)、pp59-61。</ref>を配した曼荼羅を生じて、これを『心曼荼羅』とする。 |
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*この『心曼荼羅』は、日常の修法において「[[密教の三原則]]」である[[法身説法]]を体感するための重要な観法であり、日本密教では既に失伝したが、チベット密教や中国密教の[[唐密]]では今も残されている教えの一つである。 |
*{{要出典範囲|この『心曼荼羅』は、日常の修法において「[[密教の三原則]]」である[[法身説法]]を体感するための重要な観法であり、|date=2016-11}}日本密教では既に失伝したが、チベット密教や中国密教の[[唐密]]では今も残されている教えの一つである。 |
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'''2.'''『'''本尊曼荼羅'''』 |
'''2.'''『'''本尊曼荼羅'''』 |
2016年11月8日 (火) 21:52時点における版
准胝観音(じゅんていかんのん)、梵名チュンディー(चुन्दी [Cundī]:清浄の意味[要出典])またはチュンダー([Cundā])は、仏教における信仰対象である菩薩の一尊。准胝とはその音訳であり、準胝観音または準提観音とも書く。「六観音」(七観音)の一尊にも数えられる。インドでは観音は男性名詞のため男尊とされるが、准胝は女性名詞なので、「六観音」の中では唯一の女尊となる。 元々はヒンドゥー教の女神ドゥルガーが仏教に観音(如来)として取り入れられた姿であるとされるが元々はヒンドゥー教の女神ドゥルガーが仏教に観音(如来)として取り入れられた姿であるとされるが[要出典]、異説もあり[1]、仏教の経典や儀軌に説かれる准胝観音のイメージがヒンドゥー教のドゥルガーと多くの隔たりがあるため、『チュンダー陀羅尼』より生じたという説[2][3]も有力である。[誰によって?]
また、七倶胝仏母(しちくていぶつも)、梵名サプタコーティブッダ・マートリ(सप्तकोटिबुद्धमातृ [Saptakoṭibuddhamātṛ])とも呼ばれる。 密号は最勝金剛、降伏金剛。
大乗仏教においては『仏説大乗荘厳宝王経』を典拠として、中国では浄土宗や禅宗のみならず道教においても広く信仰を集め、日本では空海(弘法大師)の請来や隠元禅師の伝持によって密教や禅宗において信仰される。宋代の『仏説瑜伽大教王経』(大正藏№890:法賢 訳、幻化網タントラの抄訳)を先例として、チベット密教では新訳の『幻化網タントラ』(マーヤ・ジャーラ・タントラ)や、ニンマ派の依経である旧訳の『大幻化網タントラ』(グヒヤ・ガルバ・タントラ)において主要な尊挌である金剛薩埵のヤブユムの母尊となる尊那仏母、梵名スンダー(Sunda:美麗で光り輝くの意味)として説かれている。[要出典]また、ニンマ派では、原初仏である法身普賢(クントゥサンポ)のヤブユムの母尊である法身普賢仏母(クントゥサンモ)とする説もある[4]。『幻化網タントラ』の先行経典であり、密教の龍樹菩薩の著作『持明藏』より略出されたとする『仏説持明瑜伽大教尊那菩薩大明成就儀軌経』 四巻(大正蔵№1169:宋・法賢 訳[要出典][注釈 1])が、現在のところ漢訳で残る資料としては准胝観音についての最も詳しい原典となる。が、現在のところ漢訳で残る資料としては准胝観音についての最も詳しい原典となる。[要出典]
いわゆる准胝観音は、大乗仏教から中期密教、後期密教の無上瑜伽タントラまで、仏教の広い分野に亘ってその影響を残している尊挌の一つである。
概説
日本では「准胝仏母」、「准胝観音菩薩」、「准胝観世音菩薩」、「天人丈夫観音」などさまざまな呼称があり、更に中国では「尊那仏母」、「尊那菩薩」とも呼ばれる。異称のひとつ七倶胝仏母(サプタコーティブッダ・マートリ)とは「七千万の仏の母」・「過去無量諸仏の母」という意味で、この仏母(これは女性名詞である)が、人を悟りに導いて数限りない仏を誕生させる仏教の真理の擬人化であることを示す。[要出典]一方、こうした原義から本来は女尊であり、観音(梵語で男性名詞のため男尊)ではないという説も有力である。図像的に准胝仏母と准胝観音の違いは何かと言うと、仏母形は五智の宝冠を頭に被り三目であるのに対して、観音形は五智の宝冠を被らず二目に白毫を描き、時に頭頂に化仏の「阿弥陀如来」を頂くもので、日本で初期の作例として挙げることのできる醍醐寺の五重塔の内部に描かれ重要文化財に指定された壁画の准胝観音は、五智の宝冠を被り仏母形に近い。また、中国のものは主に仏母形で中央の左右の第一手で「説法印」を結んでおり、チベットでは一面二臂と一面四臂が多いが、一面十八臂のものは観音形と如来形の両者の特徴を有している。[要出典]
准胝観音は当初は准胝仏母といい、観音には含まれていなかった。その例として、高野山真言宗が伝承する密教の中院流では、醍醐の三宝院・宥深の説に基づき如来部(仏部)に配して准胝仏母とする[5]。いわゆる日本で准胝仏母が観音の名を付して呼ばれるようになったのは、咸平3年(1000年)に訳された『仏説大乗荘厳宝王経』(大正蔵№1050:北宋・天息災 訳)が日本に招来されて以後だと考えられる。[要出典]
准胝観音は早くから中国で拝まれ、中国密教ではインド僧である金剛智三蔵が飢饉に際して勅命で准胝仏母を本尊として請雨法(雨乞い)を修して効果があり、その典拠を求められて『七倶胝仏母准提大明陀羅尼経』を訳したのが伝播の始まりで、[要出典]この修法が金剛智から不空三蔵、不空から恵果阿闍梨、恵果から空海へと伝えられて日本に請来された。中国では密教、この後も広く禅宗や浄土宗、道教等でも信仰されるが、インドから東南アジア(初期の南方仏教:南伝密教)[注釈 2][6]、そして日本でも密教において特に重視される。
日本の真言宗の開祖である空海が高野山の開基の際に、僧房の次にまず准胝堂を建立し、准胝観音を弟子たちの得度の本尊としてお祀りしたのは有名で、のちに高野山が荒廃した際にも僧俗の手によって庫裡にこの准胝観音を安置し守り続けられた。それゆえ、准胝堂の補修が行なわれた昭和の時代になるまで、高野山では准胝堂で僧侶となるための得度の儀式が執り行なわれていた[7]。また、真言宗醍醐派の開祖・聖宝尊師がこれに倣って醍醐寺の開基に准胝観音を勧請し、その孫弟子の仁海は六観音に准胝観音を加え、その後も長く民衆の信仰を集めている。
准胝法の伝播
准胝観音の修法である「准胝法」は中国密教では唐密に配される。[要出典]空海が日本に教えを伝えた後、唐の武宗が大規模に「会昌の廃仏」を行ったために特別な施設や法具類を必要とする唐密は大きな打撃をうけ、入唐八家[注釈 3]の円仁(慈覚大師)や円珍(智証大師)の時代にはまだ形を残してはいたが唐朝の衰微と共に、その教えの大系を失うことになる。
また、准胝観音の経典類は、空海の『御請来目録』(国宝)には、古訳の地婆訶羅三蔵の訳や旧訳の金剛智三蔵と善無畏三蔵の訳経も、新訳の不空三蔵の訳経も記載がなく「録外の請来品」となっており、その代わりに梵本2本が記載されていて、弟子たちへの著作『三学録』(重文)でも梵本2本のみ記される。なお、唐代・宋代の訳経と原典には以下のものがある。
- 『仏説七倶胝仏母准提大明陀羅尼経』、唐・天竺三蔵 金剛智 訳[8]
- 『七倶胝仏母所説准提陀羅尼経』、唐・三蔵沙門 不空 訳[9]
- 『七倶胝準提陀羅尼念誦儀軌』、唐・三蔵沙門 不空 訳[10]
- 『仏説七倶胝仏母心大准提陀羅尼経』、唐・天竺三蔵 地婆訶羅 訳[11]
- 『七仏倶胝仏母心大准提陀羅尼法』、唐・三蔵沙門 善無畏 訳[12]
- 『七倶胝獨部法』、唐・三蔵沙門 善無畏 訳[13]
- 『梵字 七倶提佛母讃』、唐本・空海 請来[14]
- 『梵字 七倶提儀軌』、唐本・空海 請来[15][注釈 4]
- 『仏説大乗荘厳宝王経』、北宋・天息災 訳
- 『仏説持明瑜伽大教尊那菩薩大明成就儀軌経』、宋・法賢訳
- 『仏説瑜伽大教王経』、宋・法賢 訳
北宋の時代には後期密教の経典類が翻訳されるも、中国ではモンゴル系の元王朝の台頭や歴史の動乱の中でしだいにチベット系の密教や道教などに押されて、唐密は衰退していった。しかし、准胝観音は『仏説瑜伽大教王経』(幻化網タントラ)の影響もあってか、元代にも多くの信仰を集めていた[16]。
やがて明代になると、ヨーロッパ文化の流入により危機感を抱いた中国人らによって、各分野でルネサンスに匹敵する大掛かりな復古運動が中国に起こり、民間に残されていた唐代や宋代からの密教が再編成され、中国密教の四大法と呼ばれる「准胝法」・「穢跡金剛法」・「千手千眼観音法」・「尊勝仏母法」をはじめとする古法類が中国でも保存され、継承された。この四大法の中心となるものは「准胝法」であり、明初に刊行された版本には以下のようなものがある[17]。
- 『准提懺願儀梵本』、明・呉門聖恩寺沙門 弘壁
- 『准提集説』、明・瑞安林太史 任増志
- 『准提縁』、明・劉宇烈
- 『准提掌果』、明・庵星
- 『准提持法』、明・素華旭
- 『准提簡易持誦法』、明・四明 周邦台所輯[注釈 5]
- 『准胝儀軌』、明・項謙
- 『大准提菩薩焚修悉地懺悔玄文』、明・夏道人[注釈 6][18]
- 『顕密圓通成仏心要集』、唐・五台山金河寺沙門 道辰殳
このうち『顕密圓通成仏心要集』は後の中国仏教に大きな影響を及ぼし、この書の刊行によって、今日、中国仏教の特色として知られるような、禅の教えと密教を兼修する「禅密双修」、禅と浄土思想を兼修する「禅浄双修」、浄土思想と密教を兼修する「浄密双修」の教えに拍車がかかり、准胝観音の信仰も同時に中国仏教の全ての宗派に浸透していった[19]。また、明末から清代の資料は以下のようになり、このうち『准提心要』は江戸時代の日本でも刊行されて研究された。
- 『准提三昧行法』、明・景淳法師[20]
- 『准提心要』、明・施尭挺[21]
- 『正入不思議法門品』、清・浄伊禅師[注釈 7]
- 『准提儀軌』、清・揚権
- 『准提浄業』、清・謝于教[22]
- 『准提持誦儀軌』、清・謝于教
- 『持誦准提真言法要』、清・弘賛(1611-1685)
- 『七倶胝佛母所説准提陀羅尼経會釋』、清・弘賛[23]
江戸時代には禅密双修の黄檗宗の開祖・隠元隆琦らによって明代・清代の准胝仏母の尊像と密教の修法が日本にもたらされて、広く禅宗でも祀られるようになった。[要出典]同時代には、長崎の出島で清国の中国僧から中国密教の諸法と出家戒を授かり、時の光格天皇の師となり、南海の龍と呼ばれた尾張大納言・徳川斉朝の庇護を受け、京都や尾張(名古屋)、江戸(東京)の地に准胝観音の信仰を広めて戒律復興運動に尽力した、天台宗の豪潮律師[要出典][注釈 8]なども知られている。[要出典]
豪潮律師が伝授したと判明しているもので、現在も残っている著作類や同時代の資料には以下のようなものがあり、その内容から江戸時代に中国密教の「唐密」が日本に正確に伝えられていたことが分かる。[信頼性要検証]
- 『準提懺摩法 全』、豪潮 監修、江戸・喜福寺藏版、文政2年(1819年)[注釈 9]
- 『佛母準提供私記』、豪潮 伝授、尾州・三密場蔵版、京都・貝葉書院、文政9年(1826年)[注釈 10]
- 『佛母准提尊獨部秘法』(準提法伝授之証)、豪潮 筆刻[注釈 11]
- 『佛母准提尊』(図版)、豪潮 筆刻・印施[24]
- 『準提法口訣』、豪潮 秘伝
- 『準提心要』、慧雲 校訂、寛永2年(1625年)[注釈 12]
- 『準提菩薩念誦霊験記』、亮海 著、寛延2年(1749年)
- 『準提観音霊験記図会』、南山龍頷 著、辻本基定 撰、天保14年(1843年)
- 『準提観音像守護札』(図版)、大訥愚禅[注釈 13] 賛文・筆刻、江戸・駒込吉祥寺蔵版、文久3年(1863年)
- 『準提心要』、尭挺 著、享保14年(1729年)[注釈 14]
真言宗小野派三宝院流などでは観音に分類され、同流派の醍醐寺上醍醐准胝堂(西国三十三所第11番札所)の本尊は准胝観音である。一方、天台宗系では「准胝仏母」と呼称。実際現在の胎蔵曼荼羅でも蓮華院(観音院)には含まれず、遍智院において仏眼仏母と並んで配される。
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准胝観音(明代)
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准胝観音
平安時代の仏像図集『図像抄』(十巻抄)より
准胝観音の功徳
経典によると、准胝の修法をなす者は、清穢及び出家・在家を問わずに飲酒肉食し、かつ妻子あるも仏道修行を達成するという。また、心の働きを清浄にするほとけであり、「仏の母」という名から、安産、子授けの功徳もあるとされている。真言宗醍醐派の開祖である聖宝が准胝観音に祈って朱雀天皇や村上天皇を授かったという伝説も残されている。
- 善無畏三蔵の訳による『七仏倶胝仏母心大准提陀羅尼法』(大正蔵№1078)には、「仏いわく、この准胝仏母の真言と印契の密法によって、十悪罪や五逆罪等の一切の重い罪を滅して、よく一切の善法を成就し、さらには戒律を具足し、清廉潔白の身となって、速やかに心の清浄を得る。もし、在家の行人がいて飲酒や肉食を断つことなく、たとえ妻子があったとしても、ただ、この准胝仏母を本尊とすることで、あらゆる仏法・密法を成就することができる」と説かれている。[注釈 15]
- 地婆訶羅三藏の訳による『仏説七倶胝仏母心大准提陀羅尼経』(大正蔵№1077)には、「もし、在家の善男善女らが『准胝真言』を唱え、これを日々に保つことがあれば、その人の家には災難や事故、病気等による苦しみが無く、あらゆる行いには行き違いや望みが果たせないということも無く、その人の言葉は皆が信用して、よく聞いてくれるようになる。また、幸福に恵まれず、才能にも恵まれない人があって、密教の才覚もなく、僧侶の修行である『七科三十七道品』[注釈 16]という釈迦の教えに廻りあうことができない人がいたとしても、この准胝観音の『陀羅尼法』の伝授を受けることができたならば、速やかに無上の覚りを得ることができる。更には、『准胝真言』を常に記憶にとどめ、よくこの真言を唱えて善行となる戒律を守ることができれば、あらゆる願いも成就する」と説かれている。[25]
曹洞宗で「龍樹菩薩讃準提大明陀羅尼」としてよく唱えられ、真言宗では、醍醐寺の在家用の勤行次第「準提観音念誦次第」にも取り上げられている『準提功徳頌』は龍樹菩薩の作とされるが、これは顕教ではなく密教の龍樹菩薩(龍猛菩薩)を指し、江戸時代の戒律復興運動の際に禅密双修の中国密教から伝わったもので、その内容は以下のようになり、この後に少し長い真言の「準提中呪」が続く。この『準提功徳頌』の出典は、『仏説持明蔵瑜伽大教尊那菩薩大明成就儀軌経』第四巻(大正蔵:第二十巻、P691)にある「諸仏所説大尊那教 能満一切衆生之願」の偈頌[注釈 17][注釈 18]による。
『準提功徳頌』
- 本文読み下し
- 準提功徳衆、寂静にして心常に誦すれば、
- 一切諸々の大難、よくこの人を犯すこと無し。
- 天上及び人間、福を受くること仏の如く等し、
- この如意珠に遇はば、定んで無等等を得ん。
- もし我、誓願大悲のうち、二世の願を成ぜずんば、
- 我、虚妄罪過のうちに堕して、本覚に帰らず大悲を捨てん。
- 本文和訳
六観音の役割では六道のうち人間界を摂化するという。なお、天台系では前述のとおり准胝を観音とは認めないため、代わりに不空羂索観音を加えて六観音とする。更に准胝観音と不空羂索観音を共に数えて七観音とする場合もある。 また、准胝観音の姿は唐代の訳経である『仏説七倶胝仏母准胝陀羅尼経』(金剛智 訳)や、『七倶胝仏母諸説准提陀羅尼経』(不空 訳)に説かれる一面三目十八臂が一般的で、密教の仏であるからその姿には様々な象徴的な意味があり、『白宝口抄』[注釈 19]にはその内容が具体的に述べられているので、その主なものを取上げて「本誓(ほんぜい)と功徳」としてここに紹介し、理解を深める一助とする。[独自研究?]
『本誓と功徳』
- その身体は黄白色をしていることについて:この場合の黄色は「地大」に代表され『胎蔵界』を意味し、白色は「水大」に代表され『金剛界』を意味している。即ち、准胝観音は身体の黄白色によって「理智不二」(金胎不二)を象徴し、それ故、その本誓は「定慧一体」の境地であることを意味し、諸仏を出生するあらゆる徳をその身に備えていることを表している。[要出典]
- 種々の装飾品でその身を荘厳していることについて:准胝観音はその身と腰に宝石を散りばめて、白衣を纏い、その身を着飾っている。衣の上には白い花の刺繍があり、また、ひらひらとしたケープを纏い、腰には真珠等の飾りの付いた白いベルトを緩めに締め、衣は朝露に濡れたように輝きがあり、網目模様の仕上がりとなっている。このように種々の装飾品でその身を荘厳することは、准胝観音が塵沙の如き数多くの妙法を身に付け、仏法のあらゆる教えの真理によって荘厳されていることを象徴している。そして、これは凡夫の煩悩を菩提へと転換させることをも意味しており、いわゆる輪廻の世界において菩薩として一切衆生を救済する働きの原動力となる、「煩悩即菩提」の真理を最もよく体現している仏と言うことができる。[要出典]
- その身の周囲を火炎の如き光明が取り巻いていることについて:准胝観音の身体からは光明が火炎のように湧き上がっていて、智慧の光明が一切衆生を覆っている煩悩の暗闇を破り、妄想を取り除き、衆生にとってはその智慧が乳味の如く感じることができることを象徴している。[要出典][注釈 20]
- 左右の一対の目に加えて額に「正法眼」を開いて、合わせて三目を持つことについて:准胝観音は三つの目を持つが、これは「理」と「智」と「事」の三つの意味を表し、更には、仏部・金剛部・蓮華部の三部(「三部三昧耶」:さんぶさんまや[要出典][注釈 21])を表示している。或いは、「仏眼」と「法眼」と「慧眼」を表していて、三目が縦や横に一列に並ばずに三角をなすのは不縦不横といって、三諦が「一味平等」であることの広範な意味を持つ。[要出典]
- 左右の第一手をによって説法印を作ることについて:左右の両方の手により説法印を結ぶのは、「六観音」の中で主に人道を救うことを表しており、よく貪・瞋・痴の三毒の障害を取り除いて先の三眼の智慧を現すことを象徴し、また、説法によって一切衆生を導き、利益を与えることを意味している。[要出典]
なお、准胝観音の手が十八臂あるのは、仏陀の覚りである「十八不共法」[注釈 22]を象徴し、それによって准胝観音の十八大願を表していて、『準提大曼荼羅法』に述べられている如く、印相や持物によるそれらの意味は以下のようになる[26]。
『准胝十八大願』
- 説法印・・・・・一切法(全ての仏法)を説くことを表す。
- 妙寶幢・・・・・よく最勝の大寶幢(旗印)を建立し、正しい教えを広める。
- 施無畏印・・・・一切衆生を速やかに苦しみや、恐怖から離れせしめる。
- 妙蓮華・・・・・穢れの泥沼から蓮華の如く抜け出させ、衆生の六根を清浄とする。
- 智慧剣・・・・・貪瞋痴の三毒に代表される煩悩の結縛を断ち切る。
- 灌頂瓶・・・・・甘露を流出して衆生を潤し、更には密教の灌頂を与える。
- 妙寶鬘・・・・・その願いに応じて、妙法との結びつきを確かなものとする。
- 金剛索・・・・・一切衆生を仏法へと導き、相応の法を獲得せしめる。
- 天妙果・・・・・菩提の果を表示し、広く修行の善果を完成させる。
- 八輻輪・・・・・常に大法輪を転じ、その威光により三界を照らす。
- 大鉞斧・・・・・堅固な不善の教えを破壊し、人我(にんが)の山を切り崩す。
- 大法螺・・・・・一切の清浄な教えを説き、三千世界を振動させる。
- 金剛鈎・・・・・その人に善となる一切の物事(人・物・金)を、よく引き寄せる。
- 如意瓶・・・・・この世の宝と経典類を流出し、それらを意の如く受用させる。
- 金剛杵・・・・・天龍八部を帰属させ、ならびに難伏の者たちを調伏する。
- 般若経・・・・・自然(じねん)の覚りをもたらし、仏法の「甚深微妙」の意味を理解させる。
- 摩尼珠[注釈 23]・・・心地(しんじ)を活発にし、智慧の光明を円満にして翳りを無くする。
- 両手説法印・・無上の密法を明らかにする。(法身説法)
禅と准胝観音
禅と密教の出会いは、まだ禅が中国において禅宗と呼ばれて一派をなす前の時代、唐の時代に始まる。当時、禅は「仏心宗」とか「楞伽宗」とか呼ばれた時代で、個々の禅者によって教えも、用いる経典も様々であったとされる。[要出典]こうした時代に、インドから善無畏三蔵が西暦716年に来唐し、その善無畏三蔵に対して当時の禅僧がインド密教の禅定について質問をした記録が残っており、善無畏三藏の教えであることから『無畏三蔵禅要』(善無畏三藏による禅定の要点)と呼ばれている。この『無畏三蔵禅要』(大正蔵№1050)[注釈 24]は、日本では密教の三昧耶戒の資料として事相家が参考にするか、学問上の典籍としてしか扱われないが、大陸や台湾に伝わっていた中国禅では、戦前まで禅定の内容を記した本の一つとして僧侶育成の教科書にも数えられていた。[要出典]
それゆえ、無畏三蔵の訳である旧訳の『七佛倶胝佛母心大准提陀羅尼法』が、禅者に伝えられたのも同じく唐代の頃と思われる。[独自研究?]当時の禅者による准胝観音への信仰の一端を伝える物語が、宋の無門慧開(むもんえかい;1183-1260)が編集した『無門関』と、宋の圜悟克勤(えんごこくごん;1063-1135)の編集による『碧巌録』という禅の「公案集」等に残されているので、ここでは『無門関』の事例を取り上げる。[27]
- 『無門関』第三則 【倶胝竪指】(ぐていじゅし)より
- 倶胝和尚(ぐていおしょう)は禅における馬祖の法嗣の大梅禅法常三世の法孫にあたる。この人の正確な名前は伝わっていないが、准胝観音を一心に信仰し修行前も、修行をなし終えてからも准胝観音の真言を口ずさむのが常であったため、准胝観音の別名である「七倶胝仏母」から名前を取り、倶胝和尚と呼ばれた。この人が寺を構えてそこの住職をしていたところ、尼僧が旅姿のまま土足で上がり込んで来て問答を挑み、「あなたが悟りにかなった言葉を言えば笠を取りましょう」と迫ったが、倶胝和尚が何も答えられずにいると、尼僧は吐き捨てるようにして袖を払って出て行ってしまった。倶胝和尚は一山の住職がこれではと情けなくなり悔しさのあまり涙して寝たところ、「准胝法」の特徴の一つでもある夢告によって夢に神人が現れて、もうすぐこの寺に生きた菩薩が現れると告げられた。その十日後に天龍老師という人が現れて、その人にわけを話して教えを請うたところ、天龍老師はただ黙って指を一本立てられた。その指を見たとたんに、倶胝和尚は落雷に打たれたようになってしまい、瞬時に執着に固まっていた心の底が抜け、無上の覚りを得ることが出来た。
- それ以来、倶胝和尚は生涯にわたって准胝観音の真言を唱えるかたわら、ただ指を立てるだけで弟子や信徒らを教化したとされている。この第三則の物語を編集者の無門慧開は、「覚りは指先のことではない、しかし、そこが分かれば皆が釈迦牟尼仏となることができる」と批評している。いわゆる中国では、説法印を正面で結んで指を立てる姿の准胝観音の仏像が好まれる理由の一つでもある。
また、明代には浙江省嘉善镸の出身である袁黄(1533-1606)という人物が、当時、占いの名人とされた孔先生に「三式」[注釈 25][28]という運命学を学び、師の孔先生より科挙を受けることを勧められて合格すると共に、その番号までを言い当てられた。その後の占いも一字一句が孔先生の言う通りであり、すっかり宿命論者となっていた。自身の一生を占ってもらったところ相応の出世はするが前世の業(カルマ)により壽命は53才[注釈 26]で、結婚はするが子供は無く、薄徳少福の身で失意のうちにその一生を終えると予言されていた。やがて、仏縁により禅密双修の禅僧の雲谷禅師に出会い自身の運命を語ったところ、『七佛倶胝佛母心准提陀羅尼法』の呪法を授かり、正しく戒律を守り善行を積むための『功過格』による指導を受けたことによって運命の呪縛を脱した。壽命が尽きるとされた53才の時に袁了凡(えんりょうぼん)と改名し、更に出世して高官となって交易と漁民に被害をなす倭寇を平定し、豊臣秀吉による朝鮮出兵の軍を退けた。准胝観音への信仰により願わずして子供にも恵まれ、その寿命も准提観音の延命の功徳と、『功過格』の積善の効果により74才まで長生きすることができた。遺言として子孫に残した『了凡四訓』の内容が後の世に伝えられて、『陰騭録』(いんしつろく)として有名になり日本でもよく読まれた。[29]
真言・三昧耶形・印
【真言】
真言は短呪の「オン・シャレイ・シュレイ・ジュンテイ・ソワカ」(oM cale cuule cundii svaahaa)などがよく知られている。
(なお、真言を唱える際には個別の灌頂[注釈 27][30] を必要とし[注釈 28][31]、正しく潅頂を得ていない場合には[32][33]、密教の三昧耶戒に違反し、その功徳を失う[注釈 29][34]。[未灌頂者 請勿誦呪][35][36])
【三昧形】
三昧耶形は「寶瓶」(方便)[注釈 30]、「金剛杵」(智慧)[37]、「甲冑」(慈悲)。
【種子】
種子はボ(bu)、またはジュン(cun)[注釈 31][38]。なお、胎蔵界曼荼羅の中台八葉院における観音(八葉の中央の主尊・大日如来に対して四方にいわゆる「四如来」が配されているが、その各間には「四菩薩」が配され、その左斜め下=西北に位置する)の種子は「ボ」であり、聖観音のものではなく、准胝観音のものになっている。
【手印】
手印は「甲冑印」を説法印とし、これが「准胝根本印」ともなるが、その印相には各種のバリエーションがある。[39][40]
- 准胝根本印
- 金剛拳印(両手)
- 蓮華印 A
- 蓮華印 B
- 准胝別印
- 准胝息災印
- 准胝増益印
- 准胝敬愛印
- 准胝降伏印
- 准胝鈎召印
- 大三昧印
現行のテキスト
【日本密教】
- 『中院三十三尊』
- 『三憲聖教』
- 『薄双紙』
- 『準提観音念誦次第』(醍醐寺蔵版・在家用勤行次第)
【中国密教】
- 『準提法簡易修持法要』
- 『準提大曼荼羅法』
- 『准提佛母焚修悉地寶懺』
- 『尊那佛母法簡易修持法要』
- 『尊那佛母曼荼羅儀軌』(月修・護摩専用)
- 『准提三昧行法』
- 『准提心要』
【チベット密教】
- 『準提佛母成就儀軌』(一面二臂)
- 『準提佛母簡易儀軌』(一面十八臂:ゲルク派)
- 『常用二十一尊次第集』(一面四臂:カルマ・カギュ派)
- 『成就百法・準提仏母成就法』(一面四臂:サキャ派)[注釈 32][注釈 33]
- 『大幻化網准提仏母成就儀軌』(三面三十二臂:ニンマ派)[注釈 34]
- 『大幻化金剛成就法日課儀軌』(短軌:サキャ派)
- 『大幻化金剛成就儀軌』(中軌・広軌:ニンマ派)[注釈 35]
「准胝法」の特徴
仏としての尊挌をお祀りして供養したり、その修法や法要を行なうには、それぞれの風格や儀軌に基づく約束ごとがある。ここでは唐密が伝承する「准胝法」の特徴について、お経による簡単な典拠を挙げながら紹介して行くこととする。
1.前世からの宿業(カルマ)をはじめ、あらゆる罪業を滅することが出来るとする点。
- 金剛智三蔵訳の『仏説七倶胝仏母准提大明陀羅尼経』[41]には、「もしも比丘、比丘尼、在家の男や女が、この陀羅尼を九十万回唱えたならば、無量の劫(カルパ)における五無間罪[注釈 36]等の一切諸々の罪業が、余すところなく悉く消滅する」と説かれ、不空三蔵訳の『仏説七倶胝仏母所説陀羅尼経』[42]には、「無量の劫[注釈 37]において造る十悪の罪[注釈 38]、四重禁の罪[注釈 39]、無間地獄に落ちる五つの罪などがすべて消滅する。また、それによりこの一生涯の間に、常に諸仏や諸菩薩に会うことが出来る」と説かれている。
- なお、空海が、高野山の開基の際に准胝観音を出家の得度の本尊としたのも、不空三蔵訳による『仏説七倶胝仏母所説陀羅尼経』の徹底した滅罪と、直接に仏やその教えの体現者である生きた菩薩や師僧と出会うことが出来るとする、この一節に基づくとされている。
2.出家と在家とを問わず、必ず成仏し、無上の覚りを得ることを説く点。
- 不空三蔵訳の『仏説七倶胝仏母所説陀羅尼経』[43]には、「まさに先の如く罪を滅して、後述の夢告や成就の諸相を得たならば、准胝観音の図像を描いて毎日三回、あるいは四回、六回、如法に供養すれば、求めるところの世間と出世間の悉地[注釈 40]を得て、そして無上の覚りを皆が悉く獲得することが出来る」と説き、金剛智三蔵訳の『仏説七倶胝仏母准提大明陀羅尼経』[44]には、「いかなる時も怠けることなく、准胝観音の真言を唱えるならば、善根は速やかに仏種[注釈 41]を生じ、無量の功徳が悉く成就し、無量の衆生が塵垢を離れ、必ず無上の覚りを成就する」と説かれている。
3.修法に際しては、『准胝鏡』(じゅんていきょう)という特別な法具の鏡を用いる点。[注釈 42][45]
- 金剛智三蔵訳の『仏説七倶胝仏母准提大明陀羅尼経』[46]には、「あるいは清浄で清潔な鏡(准胝鏡)に面して、好ましい花を持って真言を108回唱えて鏡の上に花びらを散らせば、その鏡の中に准胝観音の使者が姿を現し、また更に、花を取って(准胝鏡の)鏡面に散らせば、善悪の諸相である将来の出来事が鏡面に現れる。あるいは、朱砂や香油を親指の甲に塗り、真言を108回唱えれば、天神や仏や菩薩が姿を現し、行者の三世にわたる疑問や質問に対して、一々答えてくれるので、その善と悪とを知ることが出来る」と説き、不空三蔵訳の『仏説七具胝仏母所説陀羅尼経』[47]には、「もし壇上に明鏡(准胝鏡)を置いて花を持って加持し、真言を108回唱えたならば、鏡面に文字が現れて、その吉凶と善悪を知ることが出来る」と説かれている。
4.准胝観音の夢告によって、宿業の浄化の度合いや修行の進展、様々な出来事を知るとする点。
- 不空三蔵訳の『仏説七倶胝仏母所説陀羅尼経』[48]には、「もし真言を一万回唱えれば、夢の中において仏菩薩を見ることができ、自分の口から黒い物を吐く。また、その人の罪業が重い場合には、真言を二万回唱えれば、夢の中で諸天神の宮殿にのぼる」等々の成就の諸相が述べられ、金剛智三蔵訳の『仏説七倶胝仏母准提大明陀羅尼経』[49]には、「この真言を十万回唱えれば、夢に声聞や縁覚の聖者や諸仏・菩薩を見る。また、罪業が重くてこれらの諸相を夢に見ることが出来ない場合には、更に十万回唱えれば夢の中で口から黒飯を吐く、 -中略- もし、これらの相が現れたならば、即ち罪業が滅するのを知ることが出来る」と説かれている。
5.「准胝法」の壇は、准胝観音の三昧耶形である寶瓶を壇上の中央、及び四方に置いて荘厳する点。[注釈 43][50]
- 金剛智三蔵訳の『仏説七倶胝仏母准提大明陀羅尼経』[51]には、「壇上に描いた曼荼羅の四隅と中央に、各々に香水を満たした寶瓶を置く。行者が、西あるいは東に向かって座して真言を1080回唱えれば、成就の相として、その寶瓶が自ずから回転し、色々な方向に動き、あるいは高く飛び上がる」と説かれ、不空三蔵訳の『仏説七倶胝仏母所説陀羅尼経』[52]には、「香水を満たした寶瓶を壇上の中央に置き、真言を唱えれば、その寶瓶が動き、回転して、求めるところの願いが成就するのを知ることが出来る」と説かれている。
6.准胝観音と共に、『穢跡金剛』を秘密本尊(yidam:イダム)として祀る点。[53]
- 『穢跡金剛』の日本への伝来は、空海の請来になる唐本『金剛童子随心呪』(巻子本:重文)[注釈 44]に始まる。梵名は「ウッチュマ」(Ucchuma)、あるいは「ウッチュシュマ」(Ucchuṣma)[注釈 45]で「烏枢沙摩明王」とも漢訳され、日本密教では「烏枢沙摩明王」と『穢跡金剛』は異名同体の同じ尊挌とされるが、唐密では、異名異体の異なる尊挌とされている。また、チベット密教では同じ梵名の尊格「ウチュマ」が、その姿や働きの違いにより、青い『穢跡金剛』、赤い「火頭金剛」、緑の「烏枢沙摩明王」、黒い「黒財神」として、それぞれ別の尊挌とされている。
- 唐本『金剛童子随心呪』では、『穢跡金剛』と「火頭金剛」が異なる二つの尊挌として記述されているので、唐代においても、中国密教では既に別の尊格として取り扱われ始めていたことが分かる。なお、『穢跡金剛』は、「大力金剛」(mahā bala:マハー・バーラ)の別名で胎蔵界曼荼羅の金剛手院にも描かれ、後の『幻化網曼荼羅』にも登場する。慈雲尊者(1718-1805)の『両部曼荼羅随聞記』には、大力金剛をサットバ・マハ・バーラ(sattva maha bala)として紹介し、軍荼利明王と大力金剛とは金剛手菩薩の待者であり、とりわけ大力金剛は人々に灌頂の機会を与えて曼荼羅へと導き、顕教から密教へと教え導き、一切の地獄の門を閉じて苦しむ人々を救い、清浄な如来の五智の眼を開かせ、仮の教えを捨てさせて真実の教えを理解させ、心における粗雑な意識だけではなく微細な意識の執着をも打ち砕いて、瑜伽行者を十地の菩薩へと登らしめるとしている。この説を受けて曼荼羅研究で知られる頼富本宏は、五大明王の中心である不動明王に匹敵する尊格とも述べている。[54]
- 『穢跡金剛』が准胝観音の秘密本尊とされる理由はというと、准胝観音の曼荼羅に「訶梨智母将主菩薩」(鬼子母神)[注釈 46]が配されるからである。『穢跡金剛』は、「訶梨智母将主菩薩」の子供で、その時の名をマハ・バーラといい、「大力夜叉大将」とも訳される。もとは人間を病気にして命を奪い、その肉体を食べる魔王であったが、母親と同様に仏教に帰依して、一切衆生を守護する大成就者となり『穢跡金剛』と呼ばれるに至った。『穢跡金剛』の梵名はウチュシュマ(Ucchusma)で、訳語には「火頭金剛」の別名を持ち、また、「金剛童子」として空海の著作にもあらわれるが共に旧訳の名とされる。現在の日本密教では新訳の名前で登場し、「火頭金剛」は天台宗で梵名を音写され五大明王に数え北方を護る「烏枢沙摩明王」となり、『穢跡金剛』は真言宗で意訳され、同じく五大明王に数え北方を護る「金剛夜叉明王」となった。「金剛夜叉明王」は、五大明王として数えられるだけではなく、真言宗の日課経典である『理趣経』にも登場する重要な尊格であったが、現在の日本密教では唐密の口伝が絶えており、『穢跡金剛』の出自をはじめ、邪魔の魂魄を消滅させる秘印と瑜伽(ヨーガ)行法については知られていない。[55][56][注釈 47]なお、『穢跡金剛』の修法類は空海の請来による梵本の『大威怒ウチュシュマ成就儀軌』(梵字)[57]や、先の『金剛童子随心呪』の伝とは別に、北宋時代(960-1127)に江蘇省鎮江市にあった金山寺から日本へ大乗徹通和尚が請来した伝が、江戸時代に写本を校訂し『釈氏洗浄法』[注釈 48]として刊行されている。
准胝曼荼羅
唐の善無畏三蔵の訳になる『七倶胝佛母心大准提陀羅尼法』と『七倶胝獨部法』には、二十五部からなる大曼荼羅があったと書かれているが、今に伝わってはいない。日本密教では、空海以来の口伝が鎌倉時代に絶えているので、真言宗と天台宗の双方に「准胝曼荼羅」に相当する曼荼羅は存在しない。ただ、文献上では豪潮律師が、灌頂や懺法等を実施しているため、江戸時代の資料の内容にも見られるように「准胝曼荼羅」はあったと考えられている。[要出典]
現在、「准胝曼荼羅」は台湾と香港に伝わる中国密教の「唐密」に2種類、チベット密教の旧訳の『大幻化網タントラ』を依経とするニンマ派と、新訳の『幻化網タントラ』を伝承するサキャ派とカギュ派のそれぞれに、大本である「タントラの曼荼羅」である『大幻化網曼荼羅』と『幻化網曼荼羅』、それに付随する各種の曼荼羅があり、主要な尊格として中心に准胝観音(尊那仏母)が描かれているので、これも広義の「准胝曼荼羅」と呼ぶことができ、いずれも現在では日本に請来されている。また、『仏説持明蔵瑜伽大教尊那菩薩大明成就儀軌経』(宋・法賢 訳)には、「准胝曼荼羅」について詳しく述べると共に、その曼荼羅に登場する諸尊を解説し、掛曼荼羅の「大曼荼羅」[要出典][注釈 49]と、敷曼荼羅に相当する土壇の「地曼荼羅」と、護摩炉を荘厳する「護摩曼荼羅」の三者を説く。[要出典]
「唐密」に伝わる「准胝曼荼羅」の2種類とは、説会(せつえ)の『心曼荼羅』と、准胝観音を中心とする『本尊曼荼羅』であり、それが修法の際に観想されたり、用いられたりする[58]。
1.『心曼荼羅』
- 『心曼荼羅』とは、その尊挌の心真言[注釈 50]による「字輪観」より生じた、説会の曼荼羅のことを言う。准胝観音は不空三蔵訳『七倶胝佛母所説準提陀羅尼経』に対応する、宋代に大理国より伝えられた注釈書である『七倶胝佛母所説準提陀羅尼経節要』[59][注釈 51]や、宋訳の『仏説持明蔵瑜伽大教尊那菩薩大明成就儀軌経』にあるように、短い真言(短呪)の「オン・シャ・レイ・シュ・レイ・ジュン・テイ・ソワ・カ」の真言九文字を月輪上に順に配置する。まず、オン字を中心に置き、シャ字を南方(正面・上方)に配して時計回りに、レイ字を南西に配し、シュ字を西方に配し、レイ字を北西に配し、ジュン字を北方(裏面・下方)に配し、テイ字を北東に配し、ソワ字を東方に配し、カ字を南東に配して字輪[注釈 52]とし、この字輪からそのまま「准提法」を説く説会の曼荼羅を生じる。こうして中央には大日如来、南方に大輪明王、南西に不動明王、西方に聖観音(六字観音)、北西に不空羂索観音、北方に准胝観音、東南に金剛薩埵(金剛手菩薩)、東方に伊迦惹托(イケイジャット)[注釈 53]、南東に縛羅曩契(プラナキ)[注釈 54][60]を配した曼荼羅を生じて、これを『心曼荼羅』とする。
- この『心曼荼羅』は、日常の修法において「密教の三原則」である法身説法を体感するための重要な観法であり、[要出典]日本密教では既に失伝したが、チベット密教や中国密教の唐密では今も残されている教えの一つである。
2.『本尊曼荼羅』
- 『本尊曼荼羅』とは、「唐密」において単尊の准胝観音を曼荼羅の本尊として中心に配置し、その周りを多数の尊格が取り囲む形式で描かれる曼荼羅のことで、日本では「別尊曼荼羅」とも呼ばれる。明本の『大准提菩薩焚修悉地懺悔玄文』に基づくものと、後の『準提大曼荼羅法』の儀軌に基づくものとでは尊格の異同があるが、ここでは『大准提菩薩焚修悉地懺悔玄文』によるもの[61]を紹介する。准胝観音の『本尊曼荼羅』の特徴としては、『幻化網タントラ』の曼荼羅と同じく日本の金剛界曼荼羅と胎蔵界曼荼羅の両方の講成を併せ持つことである。
- 中央に本尊となる七倶胝仏母尊那九界大菩薩(准胝観音)を配置し、その上方(南)に無相法界菩薩(大日如来)を置き、時計回りに仏頂大輪菩薩(大輪明王)、不動尊王菩薩(不動明王)、聖観自在菩薩(聖観音)、不空羂索菩薩(不空羂索観音)、金剛手菩薩(金剛薩埵)、伊迦惹托菩薩(一髻羅刹)、縛羅曩契菩薩(勝三世明王)を配する。以上で准胝観音を中心とする中台八葉の代表的な九尊が定まり、中台八葉の外側の四方には戯(嬉)・縵・歌・舞を供養する四菩薩を配置し、同じく四隅には准胝観音の寶瓶を配置する。内院となる四方には香・花・灯明・塗香を供養する四菩薩を配置し、四隅には鈎・索・鎖・鈴を持った四菩薩を配置する。その内院の下方(前面)には、持明院として結界の守護尊となる明王の甘露軍陀利菩薩(軍荼利明王)、烏枢沙摩菩薩(烏枢沙摩明王)、聖降三世菩薩(降三世明王)の3尊が並ぶ。また、その外院となる周囲には、諸仏菩薩として、上方に「准胝法」の法脈における祖師となる龍樹(龍猛)菩薩を配置し、そのすぐ下から時計回りに北辰妙見菩薩(マハカリ)、大威杜将主菩薩(大威徳明王)、聖孫那哩将主菩薩(スンナリ)、頂行将主菩薩(無能勝明妃)[注釈 55]、聖軍托利将主菩薩(持明王主)、聖矜羯羅将主菩薩(矜羯羅童子)、聖制托迦将主菩薩(制多迦童子)、訶梨智母将主菩薩(鬼子母神)、乾闥婆王将主菩薩(ガンダルバ)、灌頂部主菩薩(釈迦如来)、穢跡金剛菩薩、明蛇使者菩薩(八大竜王女)[注釈 56]の13尊らが回りを取り囲み、更には、護法諸天[注釈 57]を配置して、これを准胝観音の一切の聖衆が集会している『本尊曼荼羅』とする。
3.『幻化網曼荼羅』
4.『立体曼荼羅』
- 立体曼荼羅としては、灌頂の際に用いられる模型状のコンパクトな立体曼荼羅[注釈 58]と、寺院として建立され等身大の仏像などを配する立体曼荼羅の二つのタイプがある。ここでは、寺院として存在する史跡の准胝曼荼羅を紹介する[62]。
仏像の作例
経典や儀軌には二臂、四臂、六臂、十八臂、五十四臂、八十四臂を説くが、日本では『七倶胝仏母所説准提陀羅尼経』(唐・不空 訳)が広まり、そこで詳述された像容・一面三目十八臂とするものが最も多い。『仏説持明蔵瑜伽大教尊那菩薩大明成就儀軌経』(宋・法賢 訳)には、四臂は赤色(蓮華部)、六臂は黄色(宝生部)、十八臂は白色(仏部)と述べられている。また、その手の本数が多いことから、その尊像は時に千手観音と混同される場合もあるが、正面の左右の二手が「説法印」[注釈 59] を結んでいるのが准胝観音で、「合掌」をしているのが千手観音である。なお、醍醐寺准胝観音坐像のように、蓮華座の下に難陀・跋難陀の眷属二大龍王がいる造例が多い。
准胝観音は日本でも禅宗でよく拝まれ、黄檗宗、曹洞宗、臨済宗等の僧堂にその尊像が祀られているのを見ることができ、また、真言宗の泉涌寺の皇族が拝まれた秘仏も知られているが、いずれも江戸時代以降の作であり、奈良時代や平安時代の密教における単独の造像例はあまり多くない。真言宗智山派の寺である、京都・大報恩寺(千本釈迦堂)の六観音像(重要文化財)中には准胝観音の像がある。奈良・新薬師寺旧蔵の伝・千手観音立像(重要文化財、文化庁保管)は、その像容から本来は准胝観音像と考えられている。
寺院
日本における准胝観音の歴史は古く、観音信仰の広まりによる札所等や江戸時代の禅の復興に伴い、本尊や守護仏として准胝観音をお祀りする寺院も多い。
准胝観音を本尊とする寺院
- 高野山・准胝堂(和歌山県) - 「准胝観音坐像」。
- 醍醐寺上醍醐・准胝堂(京都府) - 「准胝観音坐像」、西国三十三所・第11番札所、焼失による修復中。
- 聖護院・積善院準提堂(京都府) - 「準提観音立像」、五大力尊・役行者霊跡札所。
- 興福寺(長崎県) - 「准胝観音坐像」、明末〜清初、17世紀。
- 長栄寺(愛知県) - 「準提観音坐像」、光格天皇の中宮欣子内親王御賜による伽羅の香木製、江戸時代。地元では豪潮長栄寺とも呼ばれる。
- 語歌堂(埼玉県・横瀬町) - 「准胝観音坐像」、秩父三十四観音霊場・第5番札所。
その他、准胝観音を祀る代表的な寺院
- 泉涌寺(京都府) - 「準提観音坐像」、江戸時代。
- 西明寺(栃木県:六観音) - 「准胝観音立像」、鎌倉時代。
- 總持寺(神奈川県・横浜市鶴見区) - 「準提観音坐像」。
- 宝戒寺(神奈川県・鎌倉市) - 「仏母准胝観音坐像」、鎌倉三十三観音霊場・第2番札所。
- 大報恩寺(京都府:六観音) - 「准胝観音立像」、室町時代、1562年作。
- 準提院(台湾・高雄市) - 「準提仏母坐像」、高野山真言宗。
- 興国禅寺・慈恩堂 - 「準提観音坐像」、伊達秩父・観音霊場第一番札所。
- 長久寺(宮崎県:六観音) - 「准胝観音坐像」、室町時代、1562年作。
- 仁和寺(奈良県)[注釈 60] - 「准胝曼荼羅図」、唐本白描、平安時代、12世紀。
- 蓮華堂(千葉県) - 「準提仏母坐像」・「準提曼荼羅」・「穢跡金剛立像」・「幻化網曼荼羅」他、高野山真言宗。
- 寒山寺(中国・江蘇省蘇州市) - 「準提仏母坐像」、唐代(修復済)。
美術館等
脚注
出典
- ^ 『密教の神々』(平河出版社)、「第六節 女神としての観音」、pp.109-122。
- ^ 『不空羂索・准胝観音』(至文堂)、p68。
- ^ 清水乞 著、第五章 密教の美術「マーリーチーとチュンダー」、『アジア仏教史・インド編Ⅳ 密教』(佼成出版社)、pp.240-242。
- ^ 『諾那呼圖克圖応化史略』(ノルラ・トゥルク・リンポチェ略伝;圓覚精舎 蔵版)、p。[要ページ番号]
- ^ 『中院三十三尊』(高野山大学 編纂)、第二帖「准胝」&「表白集」P15。
- ^ 『インドネシアの遺跡と美術』(日本放送出版協会)、pp74-153。
- ^ 『高野山』(総本山 金剛峯寺)、p15。
- ^ 『大正蔵』、第二十巻・密教部、№1075。
- ^ 『大正蔵』、第二十巻・密教部、№1076。
- ^ 『卍續藏經』、第三冊「印度撰述 密教軌部」、p762。
- ^ 『大正蔵』、第二十巻・密教部、№1077。
- ^ 『大正蔵』、第二十巻・密教部、№1078。『卍續藏經』、第三冊「印度撰述 密教軌部」、p403。
- ^ 『大正蔵』、第二十巻・密教部、№1079。『卍續藏經』、第三冊「印度撰述 密教軌部」、p404。
- ^ 『大師御請来 梵字真言集』(国書刊行会)、pp.397-401。
- ^ 『大師御請来 梵字真言集』(国書刊行会)、pp.483-490。
- ^ 呂建福 著 『中国密教史』(三)、p167。
- ^ 呂建福 著 『中国密教史』(三)、「准胝行法」pp.168-173。
- ^ 『卍續藏經』、第一二九冊「中国撰述 礼懺部」、p79。
- ^ 呂建福 著 『中国密教史』(三)、p168。
- ^ 『卍續藏經』、第一二九冊「中国撰述 礼懺部」、p62。
- ^ 『卍續藏經』、第一〇四冊「中国撰述 真言宗著述部」、p775。
- ^ 『卍續藏經』、第一〇四冊「中国撰述 真言宗著述部」、p731。
- ^ 『卍續藏經』、第三十七冊「中国撰述 大小乘釋經部」、p429。
- ^ 『豪潮律師遺墨』(日貿出版社)、p1。
- ^ 『現代語訳付き「七観音」経典集』(大法輪閣)、「准提陀羅尼經」、p156、p162。
- ^ 『尊那佛母所説陀羅尼修持法要』(正見學會)、p6。
- ^ 「口語で読む禅の古典『無門関を読む』」(PHP研究所)、pp.54-58。
- ^ 「東洋庶民道徳 - 『陰騭録の研究』 - 」(明徳出版社)、p19。
- ^ 『尊那佛母所説陀羅尼修持法』(正見學會)、p6。
- ^ 『幻化網タントラにおける潅頂』(印度學佛教學研究)、pp.859-861。
- ^ 『講説 理趣経』(四季社)、pp.220-226。『新出・空海書 請来上表』(墨美社)、p14、p42、pp.59-60。『皈依灌頂儀規』(總持寺出版社)、p10、p15。『中院流諸尊通用次第撮要』(親王院)、pp.4-7。『金剛乗殊勝心要宝蔵解説』(蓮華堂出版部)、pp75-79。『いのちつながる』(高野山真言宗総本山金剛峯寺)、pp.202-204。
- ^ 一行 著 『大日経疏』巻三(大正大蔵経39巻、p609)。「摩訶衍(マハヤーナ:大乗教。ここでは密教を含む)の中には、また真言を以って秘密の教えとする。未だ曼荼羅に入らざる者、即ち、潅頂を授かっていない者には、読誦せしめず。(中略)このゆえに、真言を修し学ぼうとする者は、先ず曼荼羅に入らしめて、潅頂を授けることを要するなり」。[要出典]
- ^ 『ダライ・ラマの密教入門』(光文社)、pp48-53。『【図説】曼荼羅大全』(東洋書林)、pp.37-40。
- ^ 『秘密三昧耶佛戒儀』(總持寺出版社)、p28。『外内密戒律金剛乗十四根本堕講義解』(總持寺出版社)、pp.9-10。『外内密戒律手冊』(總持寺出版社)、pp.41-44。『普通真言蔵』第二巻・付(東方出版社)、稲谷祐宣 著 「浄厳覚彦の『普通真言蔵』」、pp.50-52。『普通真言蔵』第二巻・付(東方出版社)、上田霊城 著 「浄厳和尚と真言陀羅尼」、pp.65-67。『中院流諸尊通用次第撮要』(親王院)、pp.261-272。『仏教タントリズムにおける言葉の問題』(日本密教学会)、pp.5-15。『金剛乗殊勝心要宝蔵解説』(蓮華堂出版部)、pp.51-53。『潅頂のための次第書』(蓮華堂出版部)、pp.9-13。『ダライ・ラマの密教入門』(光文社)、pp.137-141。
- ^ 江戸時代の「戒律復興運動」に功績があり、如法真言律を提唱し、生涯において三十数万人の僧俗に対して正しい戒律と潅頂を授けた浄厳覚彦の『普通真言蔵』によると、真言について書かれた書物を売買してもいけないとして、真言の大切さと三昧耶戒の厳しさを説いている。
- ^ 『普通真言蔵』第一巻(東方出版社)、p1。
- ^ 「金剛杵」(こんごうしょ)は「五鈷杵」(ごこしょ)とも呼ばれる。「准胝法」においては菩提心を意味し、五鈷杵の中心部分に覚りとしての種子(しゅじ:密教用語)である梵字の唵(オン)字や阿(ア)字、吽(フーム)字を現出するので、三昧耶形においては智慧を司る。
- ^ 『尊那佛母所説陀羅尼修持法要』(正見學會)、p40。
- ^ 『准胝修法 顕密圓通成佛心要』(老古文化事業股份有限公司)、pp.107-111。
- ^ 『尊那佛母所説陀羅尼修持法要』(正見學會)、pp.31-37。
- ^ 『准提修法 顕密圓通成佛心要』(老古文化事業股份有限公司)、p42。
- ^ 『准提修法 顕密圓通成佛心要』(老古文化事業股份有限公司)、p67。
- ^ 『准提修法 顕密圓通成佛心要』(老古文化事業股份有限公司)、pp.68-69。
- ^ 『准提修法 顕密圓通成佛心要』(老古文化事業股份有限公司)、p49。
- ^ 『准提修法 顕密圓通成佛心要』(老古文化事業股份有限公司)、pp.16-17に鏡のイラストが載せられている。
- ^ 『准提修法 顕密圓通成佛心要』(老古文化事業股份有限公司)、p44。
- ^ 『准提修法 顕密圓通成佛心要』(老古文化事業股份有限公司)、p69。
- ^ 『准提修法 顕密圓通成佛心要』(老古文化事業股份有限公司)、p68。
- ^ 『准提修法 顕密圓通成佛心要』(老古文化事業股份有限公司)、p43。
- ^ 『密教の神々』(平河出版社)、「観音の持ち物」、pp.97-103。
- ^ 『准提修法 顕密圓通成佛心要』(老古文化事業股份有限公司)、pp.43-44。
- ^ 『准提修法 顕密圓通成佛心要』(老古文化事業股份有限公司)、p69。
- ^ 『穢跡金剛法本彙編』(大智度出版社)、pp.99-108。
- ^ 『曼荼羅講伝仏抄録』(同朋メディアプラン)、pp.166-167。
- ^ 『大黒天変相』(法蔵館)、「Ⅴ. 不浄の神・炎の神」、pp.219-260。
- ^ 『穢跡金剛法本彙編』(大智度出版社)、pp.109-111。
- ^ 『大師御請来 梵字真言集』、pp.539-550。
- ^ 『尊那佛母所説陀羅尼修持法要』(正見學會)、p42。
- ^ 『尊那佛母諸説陀羅尼修持法要』(正見學會)所収、pp29-55。
- ^ 『両界曼荼羅 元禄本』(東京美術)、pp59-61。
- ^ 『准提修法 顕密圓成佛心要』(老古文化事業股份有限公司)、pp.1-41。
- ^ 『インドネシアの密教』(法藏館)、pp53-150。
注釈
- ^ 経名『仏説持明瑜伽大教尊那菩薩大明成就儀軌経』四巻(大正蔵:第二十巻・密教部、pp.677-691)における「瑜伽大教」とは、『仏説瑜伽大教王経』(大正蔵:第十八巻、№890)のことを指している。経典としては、『仏説七倶胝仏母准提大明陀羅尼経』(大正蔵:第二十巻、№1075)や、『七倶胝仏母所説准提陀羅尼経』(大正蔵:第二十巻、№1076)の内容を大幅に増大させたものとなっているが、後期密教の先駆的内容も見られる。
- ^ セイロン島やタイ、インドネシアを始めとする東南アジア一帯に伝播した後期大乗仏教としての密教を指す。これらの諸国は、今日では上座部仏教やイスラム教などで知られるが、もともとは大乗仏教と、その後に伝播した密教やヒンドゥー教の文化圏でもあった。セイロン島は「ランカー・スートラ」の名を持つ『楞伽経』の発生地であり、この「ランカー」とは「スリランカ」の古語とされ、いわゆる梵語の「シュリー」(吉祥)に「ランカー」をたして、「シュリー・ランカー」(吉祥なランカー島)が「スリランカ」の語源と見られる。また、密教においては真言八祖の龍智菩薩が移り住み、不空三蔵がそこを訪ねたことでも知られている。インドネシアには、さまざまな密教遺跡やヒンドゥー教遺跡が残るが、東端のバリ島は、唯一のヒンドゥー教圏として有名であり、現在は土着の文化となった「ケチャ」は有力な観光資源となっている。
- ^ 入唐八家(にっとうはっか)とは、平安時代に中国の唐に渡り中国仏教や密教をはじめ、当時の様々な文化を日本に伝えた僧侶の八人を指して言う。年代順に名前を挙げると最澄、空海、常暁、円行、円仁、恵運、円珍、宗叡の八人となる。
- ^ 歴史上の空海が伝えた主要な法は、全て当時のサンスクリット文字(梵字)で書かれており、[要出典]そのことは空海自身が著書『三学録』の中で、「漢訳によらず、梵本によるように」と述べられていることでも分かる。いわゆる「次第書」の基となる儀軌類と呼べるものは全部で9本あって、資料となる『七倶胝儀軌』はその中の貴重な1本である。
- ^ 今日、中国密教の唐密(タンミィ)で、「准胝法」と呼ばれる修法の基本テキストとされている。そして、明代に福州市にあった寺院「準提堂」からの伝が、江戸時代の日本と、現在の台湾や香港に伝わっている。内容は東密(とうみつ:真言密教)とチベット密教に通じる修法と観想法を含みインド密教を源流とするが、直接の指導を受けなければ、ただの「礼賛法」と誤解するものとなっている。事実、台湾で一般に広く知られているものは中国密教と呼ぶが、実際には中国禅の「礼賛法」である。[要出典]
- ^ この書は、日本の豪潮律師が残した『準提懺摩法 全』の原典に当る。現在の中国禅では、原題のまま『懺悔文』(さんげもん)として唱えられているが、中国密教の唐密では『準提大曼荼羅法』と呼ばれ、同じ文章のテキストではあるが口伝に基づき「布薩会次第」、「葬儀次第」、「大曼荼羅供養次第」として内容を差し替えて別々の法要に用いられる。そのため、文献上で調べてもその違いや実際の修法は全く分からないようになっている。文字によらない教えともされる密教の特徴はこのようなところにも顕れている。
- ^ この書は、唐・不空三藏 訳 『七倶胝仏母所説准提陀羅尼経』を底本として、元代以来の准提経諸本を集約したもの。
- ^ 豪潮律師は本来、密教の導師(グル)であるから阿闍梨と呼ぶのがふさわしいが、戒律復興運動に尽力して日本の天台宗に史上初めて体系的な戒律であるところの正式な出家戒と小乗戒、大乗戒と密教の三昧耶戒をもたらし、自身も戒律を守ることが堅固であったために律師の称号で呼ばれる。その大法伝授の際の故事を空海になぞらえ、密号(みつごう)を「遍照金剛」という。また、能書家でもあり、出身地の九州では北島雪山・秋山玉山らと共に「肥後の三筆」に数えられて、その作品も数多く遺されている。[要出典]
- ^ 明代の資料である『大准提菩提焚修悉地懺悔玄文』(夏道人 著)に、内容が完全に一致する。この『准提懺摩法 全』は、江戸の本郷にあった喜福寺の蔵版になる准胝観音(準提仏母)を主尊とする「懺法」(さんぽう)の次第書。歴史上の釈尊以来の教えとして、小乗・大乗・金剛乗に共通して仏教徒となるためには戒律を授かる必要がある。そして、仏教徒になってからは、その戒律を維持するために毎月2回、普通は新月と満月の日か、旧暦の1日と15日に集まって懺悔(さんげ)のための「布薩会」(ふさつえ)という法要を行う。とりわけ准胝観音は、密教に不可欠な三昧耶戒を取り戻すための重要な尊挌とされている。
- ^ 豪潮の口伝に基づき、弟子の享照が記述したもの。明代の資料である『准提簡易持誦法』を、四度立てに解釈し直した内容となっている。
- ^ 「准胝法」に必要な印信類を記したもの。特に、日本には無いといわれていた「六字観音」の真言の伝授があり、その真言が梵字で書かれている。
- ^ 明代における福州市にあった寺院「準提堂」における伝授の内容の一部を伝えるもの。明代の施尭挺の著作とは内容が異なる。
- ^ 大訥愚禅(だいとつぐぜん:1786-1859)は江戸時代の曹洞宗の僧。天明6年(1786年)に越後国魚沼で生まれ、嘉永5年(1852年)に徳川十二代将軍・家慶の勅命により、徳川家の菩提寺の一つでもあった江戸・駒込吉祥寺の住職として任命され、禅学の学問所である「栴檀林」の総長となる。江戸時代には愚禅と名がつく禅の名僧が多くいるが、その中で代表の一人とされる。駒込吉祥寺の住職となってからは、吉祥愚禅とも名乗る。[要出典]
- ^ この書は、中国の資料である『准提心要』(明・施尭挺)と同じもの。
- ^ お経の原文は「仏言此呪印能滅十悪五逆一切重罪。成就一切白法。具戒清潔速得清浄。若在家人。従不断酒肉妻子。倶依我法無不成就。」となる。なお、現在の中国禅においては、このお経の一文の「若在家人。従不断酒肉妻子」を乱脱であるとして、厳しい具足戒を保ち、僧侶の修行者でなければ成仏や成就はしないとする説があるが、『仏説持明蔵腧伽大教尊那菩薩大明成就儀軌経』(大正蔵№1169)にも類似の記述が見られるので、乱脱とは考え難い。むしろ、准胝観音が発生した当初からの「准胝法」の特色とも捉えられ得るので、准胝観音は後の「後期密教」の思想を生む先駆的な尊格の一つとして考えることができる。
- ^ 『七科三十七道品』は、『三十七菩提分法』ともいう。
- ^ お経の原文には「尊那功徳聚、寂静心常持、一切諸大難、無能侵是人、天上及世間、受福如仏等、従茲如意宝、定獲無等等」となっている。
- ^ 『大准提菩薩焚修悉地懺悔玄文』(明・夏道人)には、「稽首功徳聚、寂静心常誦、一切諸大難、無能侵是人、天上及人間、受福如仏等、遇此如意珠、必得無等等」とあり、この偈頌の後に「准提真言」の短呪か中呪、「六字明呪」(四臂観音呪)、「一字文殊呪」、「一字金輪呪」等の真言が続く。
- ^ 『白宝口抄』(びゃくほうくしょう)は『白宝口鈔』とも表記し、13世紀に東寺の観智院・亮禅と宝蓮華寺・亮尊による共著として、真言密教における事相と図像の百科事典であり、167巻からなる。亮禅は西院流の能禅より伝法潅頂を受け、後に東寺の二長者(にのちょうじゃ)をつとめ、1279年には東寺の菩提院の開山となった人物。
- ^ 中国密教では、この准胝観音の三昧を指して、別名を『光明定』(こうみょうじょう:guang ming ding;コァンミンティン)とも言う。また、この『光明定』はチベット密教のニンマ派の大成就法であるゾクチェンとも関連し、後に10世紀になると別系統の密教であるカギュ派『ナーローパの六法』にみる「ウーセル」(光明)へと発展する。普方金剛大阿闍梨口述「準提法講解」より[要ページ番号]。
- ^ 「三部三昧耶」は、日本密教の入門的な修法となる「護身法」の別名で民間の経本にも取り上げられている。そのルーツは空海が師である恵果の教えを記した実践書の『十八契印』(じゅうはちげいいん)の中にある「行者荘厳法」の中心となるもので、ここで言う三部とは、空海が唐に渡るための啓示を得た『大日経』に基づくとする『胎蔵界曼荼羅』の中央に描かれる仏部・金剛部・蓮華部の三つを指し、『胎蔵界曼荼羅』は師の恵果の編纂になるものであるから、『十八契印』は同じく恵果の直伝であることが理解できる。現在、日本では口伝を伝えておらず『十八契印』は作法の目録と見られているが、中国密教の唐密では「三部三昧耶」を即身成仏の核心とする。
- ^ 十八不共法(じゅうはちふぐうほう)には、説一切有部の『大毘婆沙論』巻17に説かれるものと、初期の大乗経典の多くに説かれるものと、龍樹菩薩の『大智度論』巻26に説かれるものが知られている。その項目には多少の異同があり、説一切有部や初期大乗においては、仏陀の覚りを表す重要な教えと考えられていた。「准胝法」は龍樹菩薩の直伝とされるので、ここでは『大智度論』に説く十八不共法の内容を意味している。
- ^ 日本の図像や仏像ではこれを「念珠」としている。
- ^ 国訳としては、「新国訳大蔵経インド撰述部・密教部第7巻『無畏三蔵禅要』」(大蔵出版社、1996年刊)と、「国訳一切経・密教部第3巻『無畏三蔵禅要』」(大東出版社)等がある。
- ^ 「三式」(さんしき)は太乙神数・奇門遁甲・六壬神課の三つからなる古代中国の運命学の一つで、隋から唐の時代に完成されたといわれていて、日本にも飛鳥時代から平安時代に渡来したとされている。袁了凡が「三式」を学んだかどうかの史実は確認しがたいが、現在の中国の資料にそのような伝説が載せられている。これは「三式」の中の奇門遁甲が中国では軍学や兵術にも数えられ、袁了凡が倭寇を平定し、朝鮮出兵を退けたという史実に対して占術と結びつけて仮託されたものとも考えられる。また、袁了凡が学んだのは「三式」ではなく、『陰騭録』には「易の大家である邵康節先生の秘伝を受け継いだ孔先生」とあるところから、『皇極神数』(こうきょくしんすう;『邵子皇極経世』のこと)や、『鉄版神数』(てっぱんしんすう)であるとする説もある。『鉄板神数』は清代に中国で流行した易学であるが、日本ではまだあまり知られていない。その『鉄板神数』のなかでも、「中州派」と呼ばれる古流派は邵康節の伝とされ、江戸時代の日本には『前定易数』の別名で明代の版本が中国密教と共に伝わっていた。
- ^ ここでは数え年なので、52才とする見方もある。
- ^ 潅頂というと、日本では高野山で毎年5月に行われる『胎蔵界結縁潅頂』と、10月に行われる『金剛界結縁潅頂』が有名であるが、これらは『大日経』や『金剛頂経』などの「経典に基づく潅頂」であって、チベット密教では「タントラの潅頂」と呼ばれるものを指し、五大タントラにも数えられる『カーラチャクラの潅頂』(時輪タントラ)が世界的に知られている。ここでいう個別の潅頂とはこれらとは違い、チベット密教では「ジェナン」と言い「許可潅頂」と和訳される。この潅頂は正式な阿闍梨の資格をもつ者であれば、基本的に誰でも行うことができ、チベット密教や中国密教では日常的に行われている「諸尊の潅頂」である。日本では、空海の直筆の資料である『請来上表』の中には、「許可潅頂」と「授明潅頂」を授かること再三にわたると述べていて、一般には知られていないがそれほど特殊な潅頂ではない。現在の日本で知られる「諸尊の潅頂」としては、信貴山真言宗の朝護孫子寺で12年に一度の寅年に行われる「毘沙門天王結縁潅頂」、天台宗では黄不動で知られる園城寺(三井寺)で行われる「不動明王結縁潅頂」、真言宗では智山派の成田山新勝寺で行われる「不動明王結縁潅頂」、等がある。なお、愛染明王に関係するものとしては、高野山真言宗の金剛峯寺で行われる『瑜祇潅頂』がある。
- ^ いわゆる密教の実習の際には、まず先に「ワン」(潅頂)と「ルン」(口誦・口伝)と「ティ」(講義・伝授)を必要とする。潅頂を最初とするのは、小乗戒・大乗戒・三昧耶戒の三つの戒律を儀式の中で授かるからである。小乗戒を授からなければ正式な「仏教徒」ではないし、大乗戒を授からなければ菩提心を備えた「菩薩」ではない。さらには、三昧耶戒を授からなければ密教を修する資格を得た「瑜伽行者」とはいえない。これら三乗の戒を得ていなければ、仏教の瞑想にはならず、かりに密教のテキストに基づいたとしてもそれは外道の聖者の瞑想であり、結果的に外道の覚りを得るばかりで、六道輪廻の苦しみを離れることはない。それゆえ、潅頂の中で授かる戒律は、その教えの道を方向づける羅針盤の役目をする。また、その上で「潅頂の種類」と、その儀式の各所作の意味と、『三昧耶戒』の口伝について師僧から教えを受けて知っておく必要がある。なお、潅頂を授からずに真言を唱えることは、潅頂や戒律とは別に密教における真理を表す口密としての「真言」そのものの意義を失い、加えて『三昧耶戒』における「十四根本堕」の四重禁戒の項目「未熟な者には密教の教えを説いてはならない」に違反し、密教における「波羅夷罪」が適用される。ここで、一般の人の場合になぜ授かっててもいない戒律の適用を受けるかというと、三昧耶戒はあらゆる存在を通じて真理をその身に体現することを象徴するからである。それゆえ解説を加えると、この戒律の例として、正式な潅頂を授かっていない人に対しては、諸仏や諸尊の真言(マントラ)を教えてはいけないし、唱えさせてもいけないし、唱えることを許してもいけない。それを教えたり許可した際にはこの戒律に違反することになり、「波羅夷罪」が適用されて、たとえば僧侶の場合には「僧籍に加え全ての資格を失うと共に、2年間一切の宗教活動を禁止し、二度と僧侶となることは出来ない」ことになってしまう。
- ^ 不空 訳 『蕤キ耶経』巻下(大正大蔵経18巻、p772)。「もし、愚人あって、曼荼羅に入らずして(潅頂を授かっていないのに)真言を唱えたならば、遍数を満ずるといえども、ついに成就せず。復た、(真言を唱えたために)邪見を起こしたならば、その人は命が尽きてから地獄に堕ちる。もし、人あって彼に真言の法を教えたならば、その人もまた、三昧耶戒に違反することとなり、命を終えた後に、叫喚地獄(raurava)に堕ちる」[要出典]。
- ^ ここでいう「寶瓶」(ほうびょう)は、准胝観音の持物である「如意瓶」を指している。「如意瓶」は、「准胝法」において道場荘厳用の重要な法具でもあり、三昧耶形においては衆生を潤す方便を司る。。
- ^ 准胝観音の種子である梵字を「ジュン」(cun)とするのは、台密・豪潮律師の『佛母準提供私記』と、中国密教の『七倶胝佛母所説準提陀羅尼經節要』の説による。
- ^ サキャ派には、一般的な諸尊法を集めた日課行法の『成就百法』と呼ばれる「一尊法」のテキスト集があり、その中の一冊。なお、サキャ派はチベット密教でも、ニンマ派に次いで古い流派なので、『成就百法』以外にも多数の諸尊法集のテキスト群や「準提法」のテキストが伝えられている。
- ^ 『成就百法中準提佛母成就法』(中國藏密薩迦佛學研究會)を参照のこと。
- ^ 『寶源百法摘録准提佛母成就略軌』(台灣智慧輪佛學會)を参照のこと。
- ^ 『大幻化金剛成就儀軌』(蓮華堂出版部)を参照のこと。
- ^ 「五無間罪」は、「五逆罪」あるいは「五無間業」とも言う。地獄の最下層である、「無間地獄」に落ちる原因となる五つの罪業のことを指している。その五つの罪業とは、1:母を殺すこと、2:父を殺すこと、3:阿羅漢(アラカン)を殺すこと、4:暴力などの行為によって仏陀の身体より血を流させること、5:僧団(サンガ)の和合を破壊することの五つである。現代では、親族殺人に関する特別な刑罰がないので意識され難いが、仏教では身近な人に対する暴力や殺人は否定されるべものとして強く戒められ、更には信仰の拠り所となる仏陀や僧団への罪は、重罪として挙げられている。顕教では、阿弥陀仏でさえ「五逆罪」を犯した者だけは浄土に迎え入れないとするが、密教では、准胝観音が心よりその罪を懺悔(さんげ)する者があれば、その全ての罪業を滅して成仏を約束する。
- ^ ここでは、「過去における無限の生まれ変わりの生」の意味となる。
- ^ 十善戒に違反する悪しき行いの数々を指している。
- ^ ここでは、顕教の場合には1:姦淫、2:殺人、3:窃盗、4:大妄語(詐欺・覚りを偽る・僧団の和合を破壊する)の四つを指す。密教の場合は、密教に不可欠な戒律である『三昧耶戒』のうち、中期密教を代表する戒律の「十四根本堕」に説かれる中心となる四つの戒律である、四重禁戒に違反する悪しき行いの数々を指している。
- ^ 世俗における願いが成就し、出家あるいは仏教的な願いが成就すること。
- ^ ここでの仏種は、三昧耶戒にも説かれる「プトガラ」(pudgala)のことをいう。
- ^ 『准胝鏡』は丸い鏡で、その表面は鏡面の周りに梵字の真言を配置し、鏡の裏面は漢字の真言に加えて、准胝観音の図像の後ろ姿等を描き、取り外しのできる台座は、ナンダ竜王とウパナンダ竜王が鏡を支える姿形をとるのが伝統的なスタイルとなっている法具である。
- ^ 准胝観音の寶瓶は、古代バラモン教におけるドゥルガー神の「水瓶の祭り」に起因する。現在のヒンドゥー教のドゥルガー神は恐ろしい怒りの神とされるが、古代のドゥルガー神は地蔵菩薩と同じく実りをもたらす「地母神」に由来し、水瓶は種籾を育てるための「五穀豊穣」の祈りにとって神器とされた。それゆえ、准胝観音の寶瓶は、智慧の水によって「仏種」を育てて覚りをもたらし、一切衆生を利益する方便の象徴でもある。
- ^ この『金剛童子随心呪』は、当初は興福寺に伝わっていたが、後に加賀の前田家に秘蔵され、伝承では空海の筆になるとされていたが、調査により空海以前の唐僧の手になることが判明して、空海の「録外の請来品」とされている。書道や美術関係では有名な資料であり、昭和26年には前田育徳会から「尊経閣叢刊」として忠実な複製が発行された。題名に金剛童子とあるために、バジュラクマ-ラ(Vadjra kumāra)や蘇婆呼童子(ソバコ:Subahu)等の金剛童子の諸尊と間違われるが、実際の内容は『穢跡金剛』の儀軌次第である。この『金剛童子随心呪』は、金剛智三蔵の訳経を底本としており、文中に鳩摩羅什(羅什法師)の穢跡金剛法の事歴について触れているので、不空三蔵以降に中国で書かれたことが分かり、師である恵果阿闍梨あるいは、その弟子の手になるものとも考えられ得る。
- ^ 「烏枢沙摩明王」は、別名の「ウッチュシュマ:Ucchuṣma」の音訳。
- ^ 「訶梨智母将主菩薩」は中国密教での呼び名で、梵語で「ハーリーティー」(Hārītī)といい、ヒンドゥー教では大魔女であり夜叉女神の一人とされる。もとは人間の子供を食べる鬼神であったが、仏教に帰依してからは心を改め、日本では鬼子母神と呼ばれ、母親の安産と子供の守護者となった。
- ^ 「烏枢沙摩明王」には、十二天の「火天」(アグニ)を出自とするという説があるが、これは『穢跡金剛』の別名である「火頭金剛」に由来する。「火頭金剛」は文字通り、頭の毛が逆立って常に燃え上がり、全身が赤い色の姿をしていてこの世の不浄を焼き払うとするので、明らかに「火天」からの出自を窺わせるものである。なお、「金剛夜叉明王」の梵名をヴァジュラヤクシャ(vajra-ykṣa)とするのは、漢名から梵語(サンスクリット)へと還元された梵名である。
- ^ 『釈氏洗浄法』には、その由来と儀軌やお手洗いの作法(僧侶の四威儀)等が版刻して述べられている。古書により多数の書き込みがあり、図面に加えて修法の壇や、旅先で生水にあたらないようにする薬法や入浴の作法が加えられている。原文は漢文で、現在のところ穢跡金剛法の伝は中国大陸や台湾と香港にも伝わってはいるが、共に明代からの伝で清代以降の版本を基としているので、日本に伝わった唐代の空海の請来による梵本の儀軌と『金剛童子随心呪』、徹通和尚の請来による宋代の『釈氏洗浄法』の三者を伝授に関する最古の資料とすることができる。
- ^ ここでいう「大曼荼羅」とは、四種曼荼羅の「大曼荼羅」・「三昧耶曼荼羅」・「法曼荼羅」・「羯摩曼荼羅」のうちの一つを指す。
- ^ 「心真言」(しんしんごん)は「心中真言」(しんちゅうしんごん)とも言うが、通常は、その尊格の最も短い真言を指す場合が多い。
- ^ 『七倶胝仏母所説準提陀羅尼経節要和訳』(蓮華堂出版部)を参照のこと。
- ^ 「字輪」(じりん)は、「呪輪」(じゅりん:咒輪)とも言う。いわゆる真言を配置した輪(わ)のことを指す。
- ^ 伊迦惹托の「イケイジャット」は中国密教の呼称。梵名は「エカジャティ」または「エーカジャターラークシャーヤャ」といい、日本では「一髻羅刹」(いちけいらせつ)と訳される。チベット密教のニンマ派では、「ガクスンマ」とも呼ばれ、憤怒相の十一面観音の明妃で、女尊の護法尊の筆頭とされている。なお、『仏説持明蔵腧伽大教尊那菩薩大明成就儀軌経』(大正蔵:第二十巻・密教部、№1169)には、一面四臂と一面六臂の二種類の尊様を説く。[要出典]
- ^ 縛羅曩契の「プラナキ」は中国密教の呼称。日本では「バザラノウケイ」と読み、「バジラウンカラ」または「金剛ウンカラ」と呼ばれる尊挌に当る。また、『仏説持明蔵腧伽大教尊那菩薩大明成就儀軌経』には、「縛羅嚢契明王」や「金剛嚢契」とも訳されている。同経の第四巻(大正蔵:第二十巻・密教部、№1169、p691。)には、一面四臂で身体は明白色の尊様を説き、右手の一手に剣、第二手に鉞斧、左手の第一手に羂索、第二手に蓮華を持つとある。この尊格は、日本の胎蔵界曼荼羅の持明院に「勝三世明王」の別名でも登場するが、「降三世明王」と同名異体とする説と、同名同体とする説との二説があり、未だ解明されていない。
- ^ 無能勝明妃(アパラージター:Aparājitā)は、無能勝明王の明妃であり、日本では無能勝妃あるいは無能勝明王妃とも表記される。両尊は胎蔵界曼荼羅において釈迦如来の左右に描かれていて、無能勝明王は釈迦如来が「降魔成道」を行った際の禅定を擬人化したもので、釈迦如来の化身とする説と、地蔵菩薩の化身であるという二説がある。インドにおいては釈迦如来は男尊であり、地蔵菩薩は女尊なので、無能勝明王が釈迦如来の化身で、無能勝明妃が地蔵菩薩の化身とも考えられる。
- ^ 明蛇使者菩薩を、ここでは准胝観音の眷属である「八大竜王」を統括するので「八大竜王女」と訳す。この尊挌をチベット密教では龍女(ナーギニー)と呼ぶが、実際は水天の明妃である水天妃(ヴァルナニー:varuṇanī)を指し、日本密教では胎蔵界曼荼羅の西院に登場する。なお、「深沙大将」または、「水天」であるとする説もある。
- ^ 大黒天(マハーカーラ)を筆頭とする諸天神。また、中国密教では、これに伽藍神としての韋駄天と世護法(関帝)を加えることが多い。
- ^ 灌頂用の立体曼荼羅は日本密教では全く馴染みがないが、中国密教やチベット密教において用いられる。小さいものは50センチ四方の立体的な大きさから、大きいものは3メートル四方の立体的なものまである。
- ^ 説法印には2種類ある。日本式の尊像は両手を開いた、如来もしくは菩薩形の説法印、中国式の尊像は両手の指を組んだ「准胝根本印」とも呼ばれる説法印を結ぶ。
- ^ 京都にある仁和寺ではありませんので、ご注意ください。
参考文献
- 佐藤任 著 『密教の神々』、平河出版社、1979年刊。
- 中村元/笠原一男/金岡秀友 監修・編集 『アジア仏教史・インド編Ⅳ 密教』 - 最後の仏教 - 、佼成出版社、昭和49年(1974年)刊。
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- 『新編 卍續藏經 總目録・目録索引』、新文豊編審部、新文豊出版有限公司、民国83年(1994年)刊。
- 宮坂宥勝 著 『講説 理趣経』 -『理趣釈』併録- 、四季社、平成17年刊。
- 飯島太千雄 写真・文 『新出・空海書 請来上表』(№286)、墨美社、1978年刊。
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- 普方金剛大阿闍梨 編著 『外内密戒律手冊』、總持寺出版社、民国69年(1980年)刊。
- ダライ・ラマ十四世 著 『ダライ・ラマの密教入門』(文庫版)、石濱裕美子 訳、光文社、2001年刊。
- マルティン・ブラウエン 著 『【図説】曼荼羅大全』、森雅秀 訳、東洋書林、2002年刊。
- 岡坂勝芳 訳 『潅頂のための次第書』、ナムカ・キュンゾン・ダルマ・ソサイェティ 監修、蓮華堂出版部、2006年刊。
- 岡坂勝芳 編著 『金剛乗殊勝心要宝蔵解説』、ギェーパ・ドルジェ・リンポチェ 伝戒・許可、蓮華堂出版部、2003年刊。
- 梶山雄一 著 『仏教タントリズムにおける言葉の問題』(密教学研究 第11号)、日本密教学会、昭和54年(1979年)刊。
- 金剛峯寺 編 『いのちつながる』 -松長有慶 講演集- 、高野山真言宗総本山金剛峯寺開創法会事務局、平成24年刊。
- 中川善教 著 『中院流諸尊通用次第撮要』、親王院、昭和63年(1988年)刊。
- 稲谷祐宣 編著 『普通真言蔵』全2冊、浄厳 原著、東方出版社、1981年刊。
- 普方金剛大阿闍梨 校訂 『準提法簡易修持法要』、總持寺出版社、民国61年(1972年)刊。
- 『準提法簡易修持法要』(日本人用)、普方金剛大阿闍梨 伝授、岡坂勝芳 和訳・校訂、密宗總持寺蔵版、1990年刊。 [上記の和訳・校訂本]
- 普方金剛大阿闍梨 校訂 『準提大曼荼羅法』、總持寺出版社、民国69年(1980年)刊。
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- 圓省金剛阿闍梨 監修 『密宗總持寺伝法簡介』、岡坂勝芳 編訳、密宗總持寺蔵版、1995年刊。
- 唐・道辰殳等輯著 『准提修法 顕密圓通成佛心要』、老古文化事業股份有限公司、民国88年(1999年)刊。
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- 秋月龍珉 著 「口語で読む禅の古典『無門関を読む』」、PHP研究所、平成2年(1990年)刊。
- 浅井和春 著 『不空羂索・准胝観音像』(日本の美術382)、文化庁・東京国立博物館・京都国立博物館・奈良国立博物館 監修、 至文堂、1998年、ISBN 978-4-7843-3382-0。
- 伊藤丈 著 『現代語訳付き「七観音」経典集』、大法輪閣、平成8年(1996年)刊。
- 日野西眞定 監修 『高野山』、総本山 金剛峯寺編集・発行、平成10年(1998年)刊。
- 呂建福 著 『中国密教史』全3巻、空庭書苑有限公司、民国100年(2011年)刊。
- 宇野廉太郎 著 「郷土文化叢書4 『豪潮律師の研究』」、日本談義社、昭和28年(1953年)刊。
- 石田豪澄 著 『豪潮律師遺墨-永逝150年遠忌出版』(限定版)、日貿出版社、昭和57年(1982年)刊。
- 永松譲一 編 『豪潮』、城野印刷、昭和47年(1972年)刊。
- 那須政隆 著 『瑜伽大教王経所説の曼荼羅について』、智山学報(新第11巻)、昭和12年(1937年)刊。
- 木村秀明 著 『幻化網タントラの潅頂』、印度學佛教学研究39巻第2號、平成3年刊。
- 中条裕康 著 『幻化網タントラにおける曼荼羅』、豊山教学大会紀要(通号16)、1988年刊。
- 立川武蔵 監修 『マンダラ -宇宙が舞い降りる-』、マンダラ研究会 発行、(株)新國民社 発売、1990年刊。
- 彌永信美 著 『大黒天変相』、法蔵館、2002年刊。
- 圓烈金剛阿闍梨 編著 『穢跡金剛法本彙編』、正見學會 恭録、大智度出版社、民国82年(1993年)刊。
- 石田尚豊 著 『両界曼荼羅 元禄本』、東京美術、昭和52年(1977年)刊。
- 松長恵史 著 『インドネシアの密教』、法藏館、1999年刊。
- 佐和隆研 編 『インドネシアの遺跡と美術』、日本放送出版協会、昭和48年(1973年)刊。
- 頼富本宏 著 「無能勝明妃(アパラージター)の成立と展開」(『宗教研究』通巻323)、2003年刊。
- 法護 訳 『成就百法中準提佛母成就法』、白雅祖古仁波切 指導、中國藏密薩迦佛學研究會(台湾)、2003年刊。
- 康卓仁波切 監修 『寶源百法摘録之准提佛母成就略軌』、台灣智慧輪佛學會、2014年刊。
- 岡坂勝芳 訳 『大幻化金剛成就儀軌』、ペノル・リンポチェ灌頂・伝授、ギェーパ・ドルジェ・リンポチェ口伝、蓮華堂出版部、2015年刊。
- 岡坂勝芳 訳註 『七倶胝仏母所説準提陀羅尼経説要和訳』、蓮華堂出版部、2015年刊。
- 頼富本宏 著 『曼荼羅講伝仏抄録』、(株)同朋メディアプラン、平成25年(2013年)刊。
- 西澤嘉朗 著 「東洋庶民道徳 - 『陰騭録』の研究 - 」、明徳出版社、平成27年刊。
- 老頑 述 『釈氏洗浄法』、若州(福井県)・永福精舎、宝暦2年(1752年)刊。
- 岡坂勝芳 訳 『釈氏洗浄法和訳』、蓮華堂出版部、2016年刊。[上記の和訳本]
- 『準提心要』、天台沙門・慧雲 校訂、蓮華堂出版部蔵版、平成12年(2000年)刊。
- 長谷宝秀 編『大師御請来 梵字真言集』、国書刊行会、昭和51年(1976年)刊。