コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「山岡久乃」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m WP:BOTREQ: Category:東京都区部出身の人物新設に伴う貼り変え作業
391行目: 391行目:
[[Category:日本の女性声優]]
[[Category:日本の女性声優]]
[[Category:宝塚歌劇団卒業生]]
[[Category:宝塚歌劇団卒業生]]
[[Category:東京都出身の人物]]
[[Category:東京都区部出身の人物]]
[[category:紫綬褒章受章者]]
[[category:紫綬褒章受章者]]
[[Category:宝冠章受章者]]
[[Category:宝冠章受章者]]

2016年6月8日 (水) 05:42時点における版

やまおか ひさの
山岡 久乃
本名 山岡 比佐乃やまおか ひさの
生年月日 (1926-08-27) 1926年8月27日
没年月日 (1999-02-15) 1999年2月15日(72歳没)
出生地 日本の旗 日本東京都大田区
死没地 日本の旗 日本神奈川県川崎市
身長 162cm
ジャンル 女優声優
活動期間 1942年 - 1999年
主な作品
テレビドラマ
渡る世間は鬼ばかり
おかみ三代女の戦い
ありがとう
おんなの家
野々村病院物語
三男三女婿一匹
金のたまご
女と味噌汁
映画
しとやかな獣
 
受賞
日本アカデミー賞
会長特別賞
1994年
1997年
その他の賞
毎日映画コンクール
女優助演賞
1968年眠れる美女』、『女と味噌汁』、『カモとねぎ
ギャラクシー賞
菊田一夫演劇賞
文化庁芸術祭賞
紫綬褒章
勲四等宝冠章
テンプレートを表示

山岡 久乃やまおか ひさの[1]1926年大正15年)8月27日 - 1999年平成11年)2月15日)は、日本女優東京府東京市大森区馬込(現東京都大田区)生まれ。身長162cm、 体重49kg。趣味は乗馬手芸。特技はスキー

日本を代表するお母さん女優」の1人と称され、不動の地位を築いた。 過去の出演作品については、権利継承者である養女から、オフィス天童に委任されている。

来歴・人物

役者デビュー

1942年33期生として宝塚音楽舞踊学校に入学。男役志望で、清澄あきらの芸名も予定していたが、第二次世界大戦勃発・進展により劇団生活に限界を感じ、一度も舞台に立つことなく1944年に音楽学校を中途退学。

終戦後改めて俳優座養成所で演技の勉強をしなおし、1946年俳優座入団、同年の『文化議員』で初舞台を踏む。初出演映画は1953年の『やっさもっさ』である。1954年には、同じ俳優座の準劇団員だった東恵美子初井言栄らとともに劇団青年座を結成[1]。その後、日活と専属契約を結び多くの映画に出演し、青年座創生期は屋台骨として、劇団を支える。以来、舞台をはじめ映像分野でも幅広く活躍する総合女優として活躍。

1956年、同じ青年座創立メンバーだった俳優森塚敏結婚するも、1971年に離婚。離婚と同年、青年座を退団[1]。その後は終世独身を通した。 

テレビの世界へ

テレビドラマ初出演は、1953年NHK『竜舌蘭の誓い』とされる。本名・山岡比佐乃での主演作であった。以後、脇役を中心に、多くのテレビドラマに出演する傍ら、契約が切れる1960年代中盤まで日活の映画にも数多く出演した。1966年には、主演映画『こころの山脈』も公開され、女優としてステップアップしていった。

山岡の女優としてのスタンスを決定付けた作品が、1970年の『ありがとう』であった。母娘役で水前寺清子と共演。1974年の第3部まで「母・山岡、娘・水前寺」のコンビで好評を博し視聴率50%を突破、怪物ドラマと呼ばれた。この作品により森光子京塚昌子らとともに日本を代表する「お母さん女優」として、不動の地位を確立。以後、多くのホームドラマで母親役を演じ続け、「日本のお母さん」として慕われた[1]。またその面倒見のよさ、事務所の掃除やスタッフへ手料理を振舞うなどの気前のよさから、数々の俳優・女優からも「お母さん」として慕われていた。

TBS東芝日曜劇場には、多くの作品に出演した。杉村春子・山岡・奈良岡朋子の3女優が演じる3姉妹が経営する炉端焼「花舎」を舞台にした『おんなの家』は16作を数え、池内淳子主演で、山岡や長山藍子らが脇を固めた『女と味噌汁』も1965年から1980年までの間に、38作が放映された。

また、『三男三女婿一匹』、『あんたがたどこさ』、『そして戦争が終った』など、森繁久彌とのコンビによる作品も多く製作された。なお、左とん平によると、「(芸能界の大御所である)森繁先生を叱れるのは山岡さんしかいなかった」とのこと。

どちらかといえば準主役級の名脇役としての印象が強い山岡だが、『ありがとう』以降はテレビドラマの主演作も多い。1972年みんなで7人』、1974年家族あわせ』、1976年いごこち満点』、1977年晴れのち晴れ』、1979年』、1981年ちょっといい姉妹』(京塚昌子と姉妹役)などの連続ドラマではいずれも主演、前述の東芝日曜劇場でも主演作は数多かった。また、1983年かあちゃんの黄色いトラック』、1986年母の叫び』、1987年嫁いびり姑三人旅』、1989年別宅にて急逝』、1990年お姑さんの登校拒否』など、1980年代から1990年代初頭は2時間ドラマサスペンスが多かった)での主演作も存在する。

石井ふく子がプロデュースしたドラマへの出演が多かったので、山岡は「石井ファミリーの看板女優」とみなされることが多かった。

また、「ミス・マープル」シリーズの吹き替えも好評で、山岡が新劇出身であることを改めて印象付けた。

ドラマ降板騒動

突然の降板と憶測

1998年10月1日、晩年の代表作とも言える1990年から続いてきたドラマ『渡る世間は鬼ばかり』シリーズの主役・岡倉節子役を降板。番組の顔とも言える山岡の突然の降板劇は、世間で数々の憶測を呼んだ。TBSは山岡の降板にあたり、異例の「山岡降板説明記者会見」をマスコミに対して開いている。第3シリーズ終了後、次シリーズへの出演拒否の意思を貫く山岡に対し、橋田や石井は何度も出演要請をするが、山岡の意思は変わらなかった。これに対し橋田はTBSに「山岡さんなしではドラマが成り立たないので、もうこのドラマはやめましょう」と打ち切りの方針を伝えたが、TBSは納得せず、節子を死亡した設定にして脚本も作り変え、製作することとなった。これに伴い、小島五月役の泉ピン子が主役に昇格した。

理由のはっきりしない山岡の突然の降板は、民放各局のワイドショー週刊誌などを中心に、世間を騒がすことになった(実際の降板理由は下記の通りで山岡の既定路線だったのだが、これに触れたメディアはない)。(山岡の)認知症発症説や山岡と橋田の確執説、山岡の橋田への報復説なども噂されることとなった。また、当時メディア出演が多くあった橋田が「山岡さんは私のことがよっぽどお嫌いなんでしょうね」などと山岡への不用意な発言を度々行ったことも騒動に火に油を注いだ。第4シリーズ放送開始後、山岡は胆管癌であることを公表。癌公表前の第3シリーズ出演中の時点で次シリーズの出演意思はなかった。

降板理由について

実際の降板理由は、「パート3撮影時に発覚した石井の脱税騒動で自分の名前が脱税のために勝手に利用されていたことによる石井への不信感と、(肝菅癌発症前に)総胆管結石および肝機能障害のため体調を崩し、自身の年齢も考えて、今後は自分の好きな仕事だけをしていくと決めたためだった」と山岡の死去後に週刊誌に報じられた。また、これと時を同じくして、東京にあった住まいを引き払い、愛知県豊田市に知人が開設する予定を立てていた老人ホームに「終の棲家」として入所することを決めており、引っ越しの準備もパート3が放送された時期には既に始めていたという(その際、財産整理という意味合いから姪と養子縁組を結んでいる)。

1998年12月、自らが胆管癌を患っていることを告白[1]。同月15日に所属事務所を通じて、山岡は「70年突っ走ってきてそろそろゆっくり歩いて行こうかと思っていた矢先に『癌』という最悪のシナリオを頂いてしまいました。ただ、幸いなことに、このシナリオには結末が書いてありません。私が自由に演じていいことになっているんですね。力が入りますよ。もう少し時間がかかると思いますが、しばらくこの女優の底力を見守ってください」というコメントを発表した。この発表を聞いた橋田はそれまでの自分の発言を悔い、神社へお百度参りし、山岡の回復を祈ったという。

死去

しかし、上記のコメント発表から僅か2ヶ月後の1999年2月15日、胆管癌による心不全のため、親族や池内、長山、石井らに看取られ神奈川県川崎市の病院で死去[1]。亡くなる前年の1998年1月6日に放送された、日本テレビ開局45周年記念ドラマ「嫁とり婿とり大騒動」への出演が山岡にとっての遺作となった(DVD等は発売されていない)。72歳没。同年7月8月に芸術座で予定されていた単独座長公演『月の光』の舞台を踏まぬままだった。山岡の代役は、親友の池内が務めた(池内は『月の光』による演技により菊田一夫演劇大賞等を受賞)。

なお、山岡の死去は、各局のニュース速報でも流れ、連日のワイドショーなどでも大きく報道された。一部スポーツ紙では、一面トップ記事扱いにもなった。築地本願寺で行われた通夜・葬儀には、「これだけ大物俳優・女優が揃う通夜・葬儀は珍しい」と評されるほど多くの俳優仲間・後輩が訪れ、一般の参列者も多く訪れた。喪主は養女が務め、通夜・葬儀の演出は石井ふく子が担当し、弔辞は森光子と長山が読んだ。棺の葬儀場入りの際は、棺を乗せた車が1時間をかけて明治座帝国劇場芸術座をまわり、沿道には1万人のファンが集まった。戒名は「華徳院妙伎日久大姉」。遺体は渋谷区代々幡斎場荼毘に付された。

同年2月19日にTBSが放送した追悼番組は、18.6%の視聴率を獲得した。

その他のエピソード

晩年は八千草薫黒柳徹子池内淳子永六輔夏木陽介らその他の仲の良い芸能人と皆で一緒に有料老人介護施設へ入居して隠居生活をしようと約束をしていたそうで、「そこで皆で仲良くのんびり過ごしたいわね」という話があったと語っている[2][3]

評価

演劇評論家の藤田洋は山岡の演技力と存在感を認め、「“お母さん女優”として、温かさと厳しさを併せ持った母親役をうまく演じてきた」と評した[1]

受賞

出演作品

テレビドラマ

NHK

日本テレビ

TBS系列

フジテレビ

テレビ朝日

映画

  • やっさもっさ(監督:渋谷実、1953年
  • 雲ながるる果てに(監督:家城巳代治、1953年)
  • 旗本退屈男 どくろ屋敷(監督:松田定次、1954年
  • 姿三四郎 第一部(監督:田中重雄、1955年
  • うちのおばあちゃん(監督:春原政久、1955年)
  • 未成年(監督:井上海次、1955年)
  • 第8監房(監督:阿部豊、1956年
  • 死の十字路(監督:井上海次、1956年)
  • 色ざんげ(監督:阿部豊、1956年)
  • 火の鳥(監督:井上海次、1956年)
  • ニコヨン物語(監督:井上海次、1956年)
  • 肉体の密輸(監督:阿部豊、1956年)
  • デンスケの宣伝狂(監督:吉村廉、1956年)
  • 感傷夫人(監督:堀池清、1956年)
  • 若いお巡りさん(監督:森永健次郎、1956年)
  • 浮草の宿(監督:鈴木清順、1957年
  • 街燈(監督:中平康、1957年)
  • 幕末太陽傳(監督:川島雄三、1957年)
  • 九人の死刑囚(監督:古川卓巳、1957年)
  • 禁じられた唇(監督:堀池清、1958年)
  • 佳人(監督:滝沢英輔、1958年)
  • 素晴らしき男性(監督:井上海次、1958年)
  • 西銀座駅前(監督:今村昌平、1958年)
  • 風速40米(監督:蔵原惟繕、1958年)
  • 船方さんよ(監督:小杉勇、1958年)
  • これが最後だ(監督:斎藤武市、1958年)
  • 蟻の街のマリア(監督:五所平之助、1958年)
  • 紅の翼(監督:中平廉、1958年)
  • 人形の歌(監督;斎藤武市、1959年
  • にあんちゃん(監督:今村昌平、1959年)
  • 打倒 ノック・ダウン(監督:松尾昭典、1960年
  • けものの眠り(監督;鈴木清順、1960年)
  • 疾風小僧(監督:西河克己、1960年)
  • 十六歳(監督:滝沢英輔、1960年)
  • 笛吹川(監督:木下惠介、1960年)
  • 「赤坂の姉妹」より 夜の肌(監督:川島雄三、1960年)
  • 無鉄砲大将(監督:鈴木清順、1961年
  • いのちの朝(監督:阿部豊、1961年)
  • 青い狩人(監督:井田探、1961年)
  • 女は二度生まれる(監督:川島雄三1961年、筒井圭子役)
  • 海峡 血に染めて(監督:鈴木清順、1961年)
  • 草を刈る娘(監督:西河克己、1961年)
  • 花影(監督:川島雄三、1961年)
  • アラブの嵐(監督:中平廉、1961年)
  • ある関係(監督:木村恵吾、1962年
  • 人間狩り(監督:松尾昭典、1962年)
  • 若い爪あと(監督:中島義次、1962年)
  • 若者に夢あり(監督:松尾昭典、1962年)
  • しとやかな獣(監督:川島雄三、1962年、前田よしの役)
  • 都会の奔流(監督:井田探、1963年
  • 若い東京の屋根の下(監督:斎藤武市、1963年)
  • みれん(監督:千葉泰樹、1963年)
  • 成熟する季節(監督:斉藤武市、1964年
  • 人生劇場(監督:舛田利雄、1964年)
  • 浅草の灯 踊子物語(監督:斎藤武市、1964年)
  • ただいま診療中(監督:青柳信雄、1964年)
  • 青い性(監督:井上芳夫、1964年)
  • 五弁の椿(監督:野村芳太郎、1964年)
  • 青春前期 青い果実(監督:堀池清、1965年
  • 青いくちづけ(監督:井上芳夫、1965年)
  • こころの山脈(監督:吉村公三郎、1966年
  • (監督:池広一夫1966年
  • 湖の琴(監督:田坂具隆、1966年)
  • 命果てる日まで(監督:野村芳太郎、1966年)
  • 嵐を呼ぶ男(監督:舛田利雄、1966年)
  • 星よ嘆くな 勝利の男(監督:舛田利雄、1967年
  • 上意討ち 拝領妻始末(監督:小林正樹、1967年)
  • 砂糖菓子が壊れるとき(監督:今井正、1967年)
  • 君に幸福を センチメンタル・ボーイ(監督:丸山誠治、1967年)
  • 眠れる美女(監督:吉村公三郎、1968年
  • 女と味噌汁(監督:五所平之助、1968年)
  • カモとねぎ(監督:谷口千吉、1968年)
  • 夜の手配師(監督:村山新冶、1968年)
  • 講門館破門状(監督:井上昭、1968年)
  • ザ・テンプターズ 涙のあとに微笑みを(監督:内川清一郎、1969年
  • かげろう(監督:新藤兼人監督、1969年)
  • 赤頭巾ちゃんに気をつけて(監督:森谷司郎、1970年
  • 海軍特別年少兵(監督:今井正、1972年
  • 青幻記 遠い日の母は美しく (1973年、東和
  • 陽のあたる坂道(監督:吉松安弘、1975年
  • 喜劇 百点満点(監督:松林宗惠、1976年
  • 悪魔の手毬唄(監督:市川崑1977年、井筒いと役)
  • 植村直己物語(監督:佐藤純彌1986年
  • 次郎物語(監督:森川時久1987年
  • 善人の条件(監督:ジェームス三木1989年、清川いさ子役)
  • パチンコ物語(監督:辻理、1990年
  • 釣りバカ日誌7(監督:栗山富夫1994年、田上夏江役)
  • 秋桜(監督:すずきじゅんいち1997年

舞台

文化庁芸術祭賞菊田一夫演劇賞を受賞。

ラジオ

劇場アニメ

吹き替え

CM

脚注・出典

  1. ^ a b c d e f g h i “山岡久乃さん死去”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社): p. 39. (1999年2月16日) 
  2. ^ 黒柳徹子が盟友・池内淳子に「本当に今までの友情、ありがとう」と涙のコメント”. ウォーカープラス (2010年10月1日). 2015年2月9日閲覧。
  3. ^ TVでた蔵「2010年9月24日放送 徹子の部屋」”. ワイヤーアクション (2010年9月24日). 2015年2月9日閲覧。
  4. ^ 第7回(1969年度)期間選奨”. 放送批評懇談会. 2015年2月10日閲覧。

その他

外部リンク