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2016年6月8日 (水) 04:03時点における版
ばば えいいち 馬場 鍈一 | |
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生年月日 | 1879年10月5日 |
出生地 | 東京府芝区(現港区) |
没年月日 | 1937年12月21日 (58歳没) |
死没地 | 東京府東京市 |
出身校 | 東京帝国大学 |
前職 | 官僚 → 日本勧業銀行総裁 |
称号 | 勲一等旭日大綬章 |
第20代 法制局長官 | |
内閣 | 高橋内閣・加藤友三郎内閣 |
在任期間 | 1922年3月28日 - 1923年3月19日 |
第35代 大蔵大臣 | |
内閣 | 広田内閣 |
在任期間 | 1936年3月9日 - 1937年2月2日 |
第56代 内務大臣 | |
内閣 | 第一次近衛内閣 |
在任期間 | 1937年6月4日 - 1937年12月14日 |
その他の職歴 | |
日本勧業銀行総裁 (1927年10月7日 - 1936年3月9日) | |
貴族院議員(勅選) (1922年12月 - 1937年12月21日) |
馬場 鍈一(ばば えいいち、1879年(明治12年)10月5日 – 1937年(昭和12年)12月21日)は、日本の政治家、大蔵官僚、貴族院勅選議員。広田内閣で大蔵大臣、第一次近衛内閣で内務大臣をつとめた。蔵相時代に行った大規模な省内人事の刷新や極端な積極財政は、官界や財界に大きな混乱を招く結果となった。
来歴
東京府芝区(現在の東京都港区)に、旧幕臣・山本時光の長男として生まれる。時光は一時日雇人夫に身をやつしていたと伝えられ、生家は貧しかった。後に鉄道技師・馬場兼の婿養子となり改姓する。麹町区富士見小学校高等科3年から1892年(明治25年)4月に東京府尋常中学校2年へ編入学、1896年(明治29年)3月に尋中を卒業し、第一高等学校文科政治科へ入学。一高の寮では同期の岩崎小彌太と同室だった。1899年(明治32年)7月に一高を卒業し、東京帝国大学法科大学に入学。1903年(明治36年)東大法科大政治科を卒業。卒業順位は、1位が後に東京市助役となった小野義一、2位が後に商工大臣や鉄道大臣などを歴任した小川郷太郎、3位が後に憲法学者として天皇機関説を猛烈に批判した上杉慎吉で、馬場は4位だったが、続く高等文官試験では首席で合格、大蔵省に入省した[1]。
その後横浜税関監視部長、韓国統監府総務部経理課長を経て、1907年(明治40年)に法制局に転じ、1922年(大正11年)辞任した横田千之助の後任として高橋内閣の法制局長官となる。同年貴族院勅選議員に勅任され研究会に所属、妥協に長けた折衝の名人として頭角を顕わし会派の中心的存在となる。馬場はそれまで銀行畑とは縁がなかったが、1927年(昭和2年)には政友会の人事により日本勧業銀行総裁に就任[2]、1936年(昭和11年)までその任にあった。
勧銀総裁在任中、馬場は特に農村金融の充実に尽力した。彼はもともと正統的な均衡財政論者だったといい、浜口内閣の井上準之助蔵相による金解禁政策も支持していた。しかし勧銀総裁として金解禁後の不況による農村部の疲弊をつぶさに目にし、また満州事変以後ソ連と直接で国境を接することになって軍備の重要性を再認識したこともあり、この頃から積極財政主義に転向していったと考えられる。
1936年(昭和11年)に広田内閣が発足すると馬場は満を持して蔵相として入閣。前任者の高橋是清蔵相が掲げていた公債漸減主義を放棄し、国防の充実と地方振興のため増税と公債増発を行うという財政声明を出した。またその政策遂行のために省内の人事刷新にも着手、長沼弘毅を蔵相秘書官にして新たな人事を練らせた。まず津島寿一次官を退任させ、軍部と強硬に渡り合ってきた賀屋興宣主計局長を理財局長に異動させたほか、石渡荘太郎主税局長を内閣調査局調査官へ、青木一男理財局長を対満事務局次長へと、それぞれ省外へ放出した[3]。
こうして馬場が初めて主導権を握って作成した昭和十二度一般会計予算案の概要は次の通りだった。
十二度予算案 | 前年度比 | |
---|---|---|
歳出 | 30億3850万円 | 7億6650万円増(↑33.7%) |
うち軍事費 | 14億0800万円 | 3億4900万円増(↑33.0%) |
公債発行額 | 9億5700万円 | 2億7700万円増(↑40.7%) |
増税額 | 4億1750万円 | — |
増収額 | 1億5480万円 | — |
増税はタバコの値上げなどで賄うことにした。こうして昭和十二度予算案が明らかになると、軍需資材の需要増を見込んだ商社が一斉に輸入注文を出し、輸入為替が殺到して円が下落、輸入物資の高騰を招く混乱を招いた。この直後に浜田国松議員と寺内寿一陸相との間の「腹切り問答」が起き、これに憤慨した寺内が単独辞任をちらつかせながら衆議院を懲罰的に解散することを広田に要求すると、広田はあっさりと閣内不一致を理由に内閣総辞職したため、結局この予算案は廃案となった。しかし後に広田は賀屋興宣に対し、実は「腹切り問答」は助け舟のようなものだったことを打ち明けた。本当は馬場財政のあおりで外国為替や経済情勢が混乱して、どのみち内閣を投げ出さざるを得なかったのだという。
広田内閣総辞職から4か月後、1937年(昭和17年)6月に第一次近衛内閣が発足すると、馬場は軍部の強い後押しにより内務大臣として入閣した。軍部はもとより、近衛も当初は馬場を蔵相に再起用することを考えていたが、財界には馬場財政への不信が根強く、結局近衛は馬場を副総理格で内相に副えることになった。馬場はそれからわずか半年後に病気を理由に辞任すると、1週間後の12月21日に心筋梗塞を起こして急死した。満58歳。没後従二位勲一等旭日大綬章が贈られた。
栄典
出典
参考文献
- 青木信光 編『馬場鍈一傳』 故馬場鍈一氏記念会、1945年
- 長沼源太 編『長沼弘毅 — 長沼弘毅追悼録』 長沼源太、1978年、ASIN B000J8N7EY
- 一木豊『蔵相 — 時代と決断』 日本経済新聞社、1984年、ISBN 4532093465
- 大谷健『大蔵大臣の昭和史』 ビジネス社、1986年、ISBN 4828402667
- 井上寿一『政友会と民政党 — 戦前の二大政党制に何を学ぶか』 2012年、中公新書、ISBN 4121021924
関連項目
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