「日本とイランの関係」の版間の差分
m +{イランの国際関係} |
→イラン・イスラム共和国時代(1979年~): ミールサリームのスペリングは分かち書きせず میرسلیم で1語なので、中黒の点「・」は不要かと。他の人名でもそうなっているし。 |
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{{Infobox 両国関係|日本とイランの|Iran|Japan|イラン|日本|}} |
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'''日本とイランの関係'''とは[[日本]]と[[イラン]]の[[外交関係]]であり、公式に樹立されたのは[[1926年]]であった<ref name="MOFA">{{cite web|url=http://www.mofa.go.jp/region/middle_e/iran/index.html|publisher=Ministry of Foreign Affairs, Japan|date=July 2007|accessdate=2007-08-07|title=Japan-Iran relations}}</ref>。歴史を通して両国は比較的友好的かつ強く戦略的な関係を維持してきた。 |
'''日本とイランの関係'''({{lang-fa|روابط ایران و ژاپن}}、{{lang-en|Iran–Japan relations}})とは、[[日本]]と[[イラン]]の[[外交関係]]であり、公式に樹立されたのは[[パフラヴィー朝]]ペルシャ時代の[[1926年]]であった<ref name="MOFA">{{cite web|url=http://www.mofa.go.jp/region/middle_e/iran/index.html|publisher=Ministry of Foreign Affairs, Japan|date=July 2007|accessdate=2007-08-07|title=Japan-Iran relations}}</ref>。[[第二次世界大戦]]中を例外とすれば、歴史を通して両国は比較的友好的かつ強く戦略的な関係を維持してきた。 |
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日本のイランとの外交政策と投資は、歴史的に安全が保障されたエネルギーの供給への要望に著しく影響されていた。イランは日本にとって、[[サウジアラビア]]と[[アラブ首長国連邦]]に続ぐ三番目に重要な石油供給国である<ref>{{cite news|url=http://knowledge.wharton.upenn.edu/article.cfm?articleid=1615&CFID=32052905&CFTOKEN=39775290&jsessionid=9a30d4c02e6c7831342b|publisher=Wharton School of Business, University of Pennsylvania|title=Japan Strives to Balance Energy Needs with World Politics|date=2006-11-26|accessdate=2007-08-08}}</ref>。また、日本とイランは[[アフガニスタン]]再建や[[イスラエル=パレスチナ紛争]]などの[[中東]]の地域的な外交関係において協調している<ref>{{cite news|url=http://english.peopledaily.com.cn/200205/05/eng20020505_95173.shtml|publisher=People's Daily|title=Iran, Japan Ready to Cooperate in Afghan, Palestinian Issues|date=2002-05-05|accessdate=2007-08-07}}</ref>。日本とイランの[[:en:balance of trade|貿易収支]]はイランに重大な比重があり、日本は自動車や電気製品、重要な石油製品や石油化学製品を輸出している。 |
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== 両国の比較 == |
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! {{flagicon|Iran}} '''イラン''' |
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! {{flagicon|Japan}} '''日本''' |
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! '''両国の差''' |
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| '''[[人口]]''' |
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| 7910万人(2015年)<ref name="Basic data of Iran by MOFAJ">[http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/iran/data.html イラン基礎データ | 外務省]</ref> |
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| 1億2711万人(2015年)<ref>[http://www.stat.go.jp/data/kokusei/2015/kekka/pdf/gaiyou.pdf 平成27年国勢調査人口速報集計 結果の概要] - 2016年2月26日</ref> |
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| 日本はイランの約1.6倍 |
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| '''国土面積''' |
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| 164万8195 km²<ref name="Basic data of Iran by MOFAJ"></ref> |
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| 37万7972 km²<ref>[http://www.stat.go.jp/data/nihon/pdf/16nikkatu.pdf 日本の統計2016 第1章~第29章 | 総務省統計局]</ref> |
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| イランは日本の約4.4倍 |
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| '''[[首都]]''' |
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| [[テヘラン]] |
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| [[東京]] |
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| '''最大都市''' |
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| [[テヘラン]] |
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| [[東京]] |
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| '''[[政体]]''' |
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| [[イスラム共和制]]<ref>[[イラン・イスラーム共和国憲法]]第1条で明確に定められている。</ref> |
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| [[議院内閣制]]<ref>[[日本国憲法]]で明確に定められている。</ref> |
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| '''[[公用語]]''' |
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| [[ペルシア語]]<ref>[[イラン・イスラーム共和国憲法]]第15条で明確に定められている。</ref> |
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| [[日本語]]([[デ・ファクト|事実上]]) |
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| '''[[国教]]''' |
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| [[イスラム教]][[シーア派]][[ジャアファル法学派]]([[十二イマーム派]])<ref>[[イラン・イスラーム共和国憲法]]第12条で明確に定められている。</ref> |
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| なし |
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| '''[[GDP]](名目)''' |
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| 3969億1500万[[アメリカ合衆国ドル|米ドル]](2015年)<ref name="IMF">[http://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2015/02/weodata/weorept.aspx?pr.x=70&pr.y=7&sy=2015&ey=2020&scsm=1&ssd=1&sort=country&ds=.&br=1&c=512%2C668%2C914%2C672%2C612%2C946%2C614%2C137%2C311%2C962%2C213%2C674%2C911%2C676%2C193%2C548%2C122%2C556%2C912%2C678%2C313%2C181%2C419%2C867%2C513%2C682%2C316%2C684%2C913%2C273%2C124%2C868%2C339%2C921%2C638%2C948%2C514%2C943%2C218%2C686%2C963%2C688%2C616%2C518%2C223%2C728%2C516%2C558%2C918%2C138%2C748%2C196%2C618%2C278%2C624%2C692%2C522%2C694%2C622%2C142%2C156%2C449%2C626%2C564%2C628%2C565%2C228%2C283%2C924%2C853%2C233%2C288%2C632%2C293%2C636%2C566%2C634%2C964%2C238%2C182%2C662%2C453%2C960%2C968%2C423%2C922%2C935%2C714%2C128%2C862%2C611%2C135%2C321%2C716%2C243%2C456%2C248%2C722%2C469%2C942%2C253%2C718%2C642%2C724%2C643%2C576%2C939%2C936%2C644%2C961%2C819%2C813%2C172%2C199%2C132%2C733%2C646%2C184%2C648%2C524%2C915%2C361%2C134%2C362%2C652%2C364%2C174%2C732%2C328%2C366%2C258%2C734%2C656%2C144%2C654%2C146%2C336%2C463%2C263%2C528%2C268%2C923%2C532%2C738%2C944%2C578%2C176%2C537%2C534%2C742%2C536%2C866%2C429%2C369%2C433%2C744%2C178%2C186%2C436%2C925%2C136%2C869%2C343%2C746%2C158%2C926%2C439%2C466%2C916%2C112%2C664%2C111%2C826%2C298%2C542%2C927%2C967%2C846%2C443%2C299%2C917%2C582%2C544%2C474%2C941%2C754%2C446%2C698%2C666&s=NGDPD%2CPPPGDP&grp=0&a= Report for Selected Countries and Subjects | International Monetary Fund] {{en icon}}</ref> |
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| 4兆1162億4200万米ドル(2015年)<ref name="IMF"></ref> |
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| 日本はイランの約10.4倍 |
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| '''[[軍事費|防衛費]]''' |
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| 102億6500万米ドル(2015年)<ref name="SIPRI">[http://books.sipri.org/files/FS/SIPRIFS1604.pdf SIPRI Fact Sheet, April 2016] {{en icon}} - 2016年4月</ref> |
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| 409億米ドル(2015年)<ref name="SIPRI"></ref> |
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| 日本はイランの約4.0倍 |
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|} |
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== 歴史 == |
== 歴史 == |
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=== 明治維新以前(~1868年) === |
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[[1878年]]に[[ロシア帝国]]に向かった日本の使節、[[榎本武揚]]が[[サンクトペテルブルク]]でペルシャの国王[[ナーセロッディーン・シャー]]と公式に謁見した。しかしながら公式な外交関係は[[1926年]]まで樹立されなかった。日本とイランの友好条約が調印されたのは[[1939年]]であり、誠実な関係は1942年まで維持された。[[太平洋戦争]]勃発後のイランは[[中立]]を宣言したが、[[イギリス]]や[[ソビエト連邦]]への配慮もあり、[[1942年]]4月に日本との[[国交]]を断絶、[[1945年#2月|1945年]][[2月28日]]に[[宣戦布告]]した<ref>{{Cite web |url=http://www.mofa.go.jp/mofaj/ms/da/page25_000040.html |title=昭和戦前期のイランとの親善関係 |accessdate=2015-05-21 |date=2015-05-18 |work=外交史料館 特別展示「日本とペルシャ・イラン」 |publisher=[[外務省]]}}</ref>。公式な外交関係が復活したのは[[サンフランシスコ講和条約]]が調印された後の1953年だった<ref>Kodansha Encyclopedia of Japan, pp.623</ref>。 |
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[[File:LACQUERED EWER Shosoin.JPG||thumbnail|ペルシャ風水差し[[正倉院]]宝物の『漆胡瓶』<ref>{{cite news|url=http://www.iza.ne.jp/kiji/life/news/161021/lif16102116080008-n1.html|title=正倉院展あす開幕 「漆胡瓶」など64件 奈良国立博物館|newspaper=産経新聞|date=2016-10-21|accessdate=2016-10-25}}</ref>]] |
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地理的に離れていた日本とイラン(ペルシャ)は、有史以来[[19世紀]]まで全くと言っていいほど直接の交流を持っていない。[[明治維新]]以前の両国は、[[シルクロード]]を経由して、イランの影響を受けた美術品が日本にもたらされる程度の関係でしかなかった。 |
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数少ない例外として、[[奈良時代]]の[[天平|天平年間]]に日本を訪問したペルシャ人のことが、勅撰史書『[[続日本紀]]』に記載されている。[[736年]](天平8年)、ペルシャでは後に第6代[[イマーム]]となる[[ジャアファル・サーディク]]が信徒の精神的支柱となっていた時期、日本では[[藤原四兄弟|藤原四子政権]]晩期に相当する時期に、[[遣唐使|遣唐副使]][[中臣名代]]が[[唐|唐人]]3人と波斯人(ペルシャ人)1人を伴って日本に帰国し、[[聖武天皇]]に会った<ref>[[:s:zh:續日本紀/卷第十二|『続日本紀』巻第十二]] 天平八年八月庚午条。</ref>。[[李密翳]]という中国名で記録されたこのペルシャ人には位が授けられている<ref>[[:s:zh:續日本紀/卷第十二|『続日本紀』巻第十二]] 天平八年十一月戊寅(11月3日)条。「波斯人李密翳等ニハ位ヲ授クルコト、差アリ」</ref>が、その後の消息は不明である<ref>李密翳は、[[松本清張]]の[[歴史小説]]『[[眩人]]』のモデルにもなった。</ref>。平城宮跡から出土した木簡の解読により[[破斯清通]]という[[大学寮]]の官吏(765年当時)がいたことが2016年に判明したが、破斯(波斯)はペルシャを意味する名であり、李密翳もしくはその関連人物ではないかと推測されている<ref>{{cite news|url=http://www.yomiuri.co.jp/culture/20161004-OYT1T50163.html|title=奈良の都にペルシャ人役人がいた…木簡に名前|newspaper=読売新聞|date=2016-10-5|accessdate=2016-10-8}}</ref><ref>{{cite news|url=http://www.sankei.com/west/news/161005/wst1610050057-n1.html|title=平城宮にペルシャ人の役人が働いていた!! 765年木簡が証明 「国際的知識で登用か」と専門家|newspaper=産経新聞|date=2016-10-5|accessdate=2016-10-8}}</ref>。 |
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=== 明治維新から第二次大戦終結まで(1868~1945年) === |
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[[1878年]]に[[ロシア帝国]]に向かった日本の使節、[[榎本武揚]]が[[サンクトペテルブルク]]で[[ガージャール朝]]ペルシャの国王[[ナーセロッディーン・シャー]]と公式に謁見した。また[[1880年]]には[[外務省]]御用掛の[[吉田正春]]を正使とする使節団が記録に残る日本人として初めてペルシャの地を踏み、テヘランでナーセロッディーン・シャーに謁見し[[通商]]の許可を得ている。しかしながら、公式な外交関係はパフラヴィー朝成立後の[[1926年]]まで樹立されなかった。[[1935年]]、パフラヴィー朝は国号をペルシャからイランに改めた。日本とイランの友好条約が調印されたのは[[1939年]]で、国王の[[レザー・パフラヴィー|レザー・シャー]]が親ドイツであったこともあり、[[第二次世界大戦]]で中立を保っていた[[スペイン]]、[[スウェーデン]]、[[スイス]]などと同様に、日本との間で誠実な関係が築かれていた。[[太平洋戦争]]勃発後のイランは[[中立]]を宣言したが、既に[[イギリス]]と[[ソビエト連邦]]から露骨な内政干渉を受けていたイランが中立を守り抜くことは困難を極めた。 |
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[[File:Soviet tankmen of the 6th Armoured Division drive through the streets of Tabriz (2).jpg|thumbnail|[[タブリーズ]]を我が物顔で闊歩する[[赤軍]]の[[T-26 (戦車)|T-26]][[軽戦車]]と軍人たち]] |
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さかのぼる[[イラン進駐 (1941年)|1941年8~9月、英ソ両国の軍隊がイランの国土を蹂躙して]]親ドイツ派で政治手腕に長けていたレザー・シャーを強引に廃位させて、若年で扱いやすい[[モハンマド・レザー・パフラヴィー|モハンマド]]皇太子を新しい君主に据えるなど、英ソ両国によるイランへの内政干渉は止まることを知らなかった。こうした外交圧力の成果もあって、[[1942年]]4月にイランは日本との[[国交]]を断絶、[[1945年#2月|1945年]][[2月28日]]には日本を含む[[枢軸国]]に対して[[宣戦布告]]するに至った<ref>{{Cite web |url=http://www.mofa.go.jp/mofaj/ms/da/page25_000040.html |title=昭和戦前期のイランとの親善関係 |accessdate=2015-05-21 |date=2015-05-18 |work=外交史料館 特別展示「日本とペルシャ・イラン」 |publisher=[[外務省]]}}</ref>。その後、日本とイランは国交を回復することがないまま、[[1945年]]8月、日本は[[ポツダム宣言]]を受諾して降伏した。 |
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=== 第二次大戦終結からイラン革命まで(1945~1979年) === |
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日本とイランの間で公式な外交関係が復活したのは、[[サンフランシスコ講和条約]]が調印された後の1953年だった<ref>Kodansha Encyclopedia of Japan, pp.623</ref>。 |
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[[1953年]]、[[日章丸事件]]が起こる。この事件が、イラン人が[[親日]]的である理由の一つと指摘されることがある。 |
[[1953年]]、[[日章丸事件]]が起こる。この事件が、イラン人が[[親日]]的である理由の一つと指摘されることがある。 |
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[[1955年]]、パフラヴィー朝イラン帝国とイギリス、[[トルコ]]、[[パキスタン]]、[[イラク王国]]の5ヶ国で[[中央条約機構|中東条約機構]](METO)を結成した。加盟国のうちイギリスを除く4ヶ国は全てソビエト連邦と国境を接しており、中東版の[[北大西洋条約機構]](NATO)、[[日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約|日米安保体制]]に位置づけられる反共ブロックであった。本部をイラクの首都[[バグダード]]に置いていたので、バグダード条約機構とも称された。同じ反共陣営の君主国同士として、正式な国交を樹立したばかりの日本とイランの二国関係は極めて良好なものであった。石油の輸出入を筆頭に経済関係が深まっただけでなく、両国の皇族がお互いに公式訪問もしている。(詳細は[[日本とイランの関係#パフラヴィー朝時代(1925~1979年)]]を参照。) |
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日本のイランとの外交政策と投資は、歴史的に安全が保障されたエネルギーの供給への要望に著しく影響されていた。イランは日本にとって、[[サウジアラビア]]と[[アラブ首長国連邦]]に続ぐ三番目に重要な石油供給国である<ref>{{cite news|url=http://knowledge.wharton.upenn.edu/article.cfm?articleid=1615&CFID=32052905&CFTOKEN=39775290&jsessionid=9a30d4c02e6c7831342b|publisher=Wharton School of Business, University of Pennsylvania|title=Japan Strives to Balance Energy Needs with World Politics|date=2006-11-26|accessdate=2007-08-08}}</ref>。1974年に日本とイランはビザ免除の観光協定に調印したが、この協定は1992年4月に不法滞在の[[在日イラン人]]の増加を理由に終焉した<ref>{{cite conference|title=Chapter III, Section 6: The Middle East|booktitle=Diplomatic Bluebook: Japan's Diplomatic Activities|publisher=Ministry of Foreign Affairs, Japan|url=http://www.mofa.jp/policy/other/bluebook/1992/1992-3-6.htm|date=1992|accessdate=2007-08-07}}</ref>。また、日本とイランは[[アフガニスタン]]再建や[[イスラエル=パレスチナ紛争]]などの[[中東]]の地域的な外交関係において協調している<ref>{{cite news|url=http://english.peopledaily.com.cn/200205/05/eng20020505_95173.shtml|publisher=People's Daily|title=Iran, Japan Ready to Cooperate in Afghan, Palestinian Issues|date=2002-05-05|accessdate=2007-08-07}}</ref>。[[2004年]]から日本はイラン最大の[[アーザーデガーン油田]]の開発事業を行っている<ref>{{cite news|url=http://www.irna.ir/en/news/view/line-18/0609159288125734.htm|title=Japan ready for talks with Iran on lucrative Azadegan oil venture|publisher=Islamic Republic News Agency|date=2006-09-15|accessdate=2007-08-07}}</ref>。 |
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日本とイランの[[:en:balance of trade|貿易収支]]はイランに重大な比重があり、日本は自動車や電気製品、重要な石油製品や石油化学製品を輸出している。 |
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[[1958年]]にはイランの隣国[[7月14日革命|イラクで王政打倒のクーデター]]が起こり、親米反共のイラク王国が崩壊。翌[[1959年]]には、ソビエト連邦との結び付きを深めたイラクが中東条約機構から脱退した。これにより、中東条約機構は[[中央条約機構]](CENTO)に改称され、本部は東側陣営に寝返ったイラクの首都バグダードからNATO加盟国でもあるトルコの首都[[アンカラ]]に移転した。引き続き反共陣営に留まったイランは、以後20年近くに渡って反共の親米国であり続け、相対的に中東における重要性を増して行った。パフラヴィー朝イラン帝国は[[秘密警察]]「{{仮リンク|サヴァク|fa|ساواک|en|SAVAK}}」が共産分子や宗教分子を取り締まる独裁国のような一面も持っていたが、同時代に親米の独裁体制を敷いていた[[大韓民国|韓国]]([[1993年]]まで軍事政権)や[[中華民国|台湾]]([[1987年]]まで戒厳令下の[[中国国民党|国民党]]一党独裁)、[[フィリピン]]([[1986年]]まで戒厳令下の独裁体制)、[[ベトナム共和国|南ベトナム]]([[1975年]]の滅亡まで軍事政権)などとの良好な関係と同様、日米安保体制を主軸とする日本にとってイランは友好国であり続けた。 |
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イランの大統領の[[モハンマド・ハータミー]]は[[2000年]]10月に日本を訪問した。 |
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[[1974年]]、日本とイランはビザ免除の観光協定に調印し、両国の国民はビザなしでお互い自由に観光訪問をすることが可能になった<ref name="visa free">{{cite conference|title=Chapter III, Section 6: The Middle East|booktitle=Diplomatic Bluebook: Japan's Diplomatic Activities|publisher=Ministry of Foreign Affairs, Japan|url=http://www.mofa.jp/policy/other/bluebook/1992/1992-3-6.htm|date=1992|accessdate=2007-08-07}}</ref>。日本とイランの友好関係は頂点に達したと言えよう。 |
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=== イラン革命以後(1979年~) === |
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しかし[[1979年]]2月、[[イラン革命|イランで革命が起こってパフラヴィー朝が崩壊]]し、同年11月には[[イランアメリカ大使館人質事件|首都テヘランのアメリカ大使館に暴徒が乱入してアメリカ人を人質に取った]]。これは宣戦布告同然の行為であり、本来であればイラン当局は暴徒を取り締まるべき立場にあったが、どういうわけかイラン当局は静観を決め込んで、アメリカ人の人質解放に積極的に動かなかった。[[1980年]]4月、業を煮やしたアメリカはイランに国交断絶を通告し、経済制裁を発動した。この事件を解決できなかったアメリカの[[ジミー・カーター]]大統領は威信を大いに傷つけられ、[[1980年アメリカ合衆国大統領選挙|大統領選]]での再選も叶わず、[[ロナルド・レーガン]]への政権交代を許す一因となった。イランのアメリカ大使館人質事件はレーガン大統領が就任してすぐに解決したが、この事件はイランとアメリカの関係を決定的に悪化させた。 |
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上記のアメリカ大使館人質事件に加えて、重要な親米国群である[[湾岸協力会議|湾岸諸国]]をイランによる王制転覆から守る意味合いからも、1980年代は、[[イラン・イラク戦争]](レーガン政権の時期とほぼ重なる)でアメリカがイランの敵イラクを支援するという構図が出来上がった。アメリカの外交政策の影響で、日本もイランとの関係を縮小させるように圧力がかけられ、一方で日本とイラクの関係が深まる結果となった。以降、日本は「アメリカの顔色を窺いながら、可能な範囲でイランとの関係を維持、強化する」という図式が定着している。 |
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[[1992年]]4月、観光目的で入国したにも関わらず不法滞在する[[在日イラン人]]の増加を理由に、革命前に締結されて継承もされていたビザ免除の観光協定が停止された<ref name="visa free"></ref>。[[2004年]]から日本はイラン最大の[[アーザーデガーン油田]]の開発事業を行っている<ref>{{cite news|url=http://www.irna.ir/en/news/view/line-18/0609159288125734.htm|title=Japan ready for talks with Iran on lucrative Azadegan oil venture|publisher=Islamic Republic News Agency|date=2006-09-15|accessdate=2007-08-07}}</ref>。 |
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[[2010年]][[2月23日]]、イランの[[アリー・ラーリージャーニー]]国会議長が[[衆議院]]の招待で来日した<ref name="kyoudou20100227">{{cite news |
[[2010年]][[2月23日]]、イランの[[アリー・ラーリージャーニー]]国会議長が[[衆議院]]の招待で来日した<ref name="kyoudou20100227">{{cite news |
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[[2011年]][[12月9日]]、日本は「国際連合安全保障理事会決議第1929号の履行に付随する措置の対象の追加について」に基づき、イランの原子力開発に関わる銀行3行(累次の決議及び昨年の付随措置との合計20行)、銀行以外の者106団体・1個人(累次の決議及び昨年の付随措置との合計267団体・66個人)に対する支払等及び指定された者との間の資本取引等を許可制とし、銀行とのコルレス関係を停止した。また、金融活動作業部会(FATF)の声明を受け、金融機関等に対し、顧客の本人確認義務、疑わしい取引の届出義務及び外国為替取引に係る通知義務の履行を徹底するよう要請した。 |
[[2011年]][[12月9日]]、日本は「国際連合安全保障理事会決議第1929号の履行に付随する措置の対象の追加について」に基づき、イランの原子力開発に関わる銀行3行(累次の決議及び昨年の付随措置との合計20行)、銀行以外の者106団体・1個人(累次の決議及び昨年の付随措置との合計267団体・66個人)に対する支払等及び指定された者との間の資本取引等を許可制とし、銀行とのコルレス関係を停止した。また、金融活動作業部会(FATF)の声明を受け、金融機関等に対し、顧客の本人確認義務、疑わしい取引の届出義務及び外国為替取引に係る通知義務の履行を徹底するよう要請した。 |
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[[File:President Rouhani meets with Japanese Prime Minister Shinzō Abe.jpg|thumbnail|二度目の[[安倍晋三|安倍]]・[[ハサン・ロウハーニー|ロウハーニー]]首脳会談、[[2014年]]、[[国際連合総会|国連総会]]開催中の[[国際連合本部ビル|国連本部]]内にて]] |
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[[2005年]]に[[モハンマド・ハータミー|ハータミー]]大統領が退陣してからは、長らく日本とイランの首脳会談は行われていなかった。しかし、[[第46回衆議院議員総選挙|2012年11月の衆院選]]の結果を受けて日本で[[安倍晋三]]が内閣総理大臣に返り咲き、イランでは強硬派の[[マフムード・アフマディーネジャード]]大統領が最長任期を満了して迎えた[[イラン大統領選挙 (2013年)|2013年6月の大統領選]]の結果を受けて同年8月から[[ハサン・ロウハーニー]]が大統領に就任すると、両国の首脳は急速に関係を改善させた。安倍首相は、いち早くロウハーニー大統領の就任に対して祝辞を述べ、翌9月には首相の親書を携えた[[高村正彦]]総理特使をイランに派遣してロウハーニー大統領らと会談を行った<ref>[http://www.mofa.go.jp/mofaj/kaidan/page18_000041.html 高村正彦総理特使のイラン・イスラム共和国訪問(結果概要) | 外務省] - 2013年9月10日</ref>。1979年のイラン革命後、未だ日本の現役首相がイランを公式訪問した実績はないものの、[[ニューヨーク]]で毎年開催される[[国際連合総会|国連総会]]など第三国の国際会議に参加する機会を捉えて安倍首相とロウハーニー大統領が会談することが慣例となっている。具体的には、[[2013年]]9月26日(現地時間、以下同)に国連総会開催中のニューヨークでロウハーニー大統領が就任してから初の首脳会談が実現し<ref>[http://www.mofa.go.jp/mofaj/kaidan/page24_000127.html 日・イラン首脳会談(概要) | 外務省] - 2013年9月26日</ref>、翌[[2014年]]9月23日には同じく国連総会開催中のニューヨークで二度目の首脳会談を行った<ref>[http://www.mofa.go.jp/mofaj/me_a/me2/ir/page1_000067.html 日・イラン首脳会談(概要) | 外務省] - 2014年9月23日</ref>。また、[[2015年]]は、9月27日に国連総会開催中のニューヨークで定例となった首脳会談を行っただけではなく<ref>[http://www.mofa.go.jp/mofaj/me_a/me2/ir/page3_001385.html 日・イラン首脳会談 | 外務省] - 2015年9月28日</ref>、遡る4月22日にも[[アジア・アフリカ会議#バンドン会議60周年を記念する首脳会議|60周年記念を迎えたアジア・アフリカ会議]]を開催中の[[ジャカルタ]]で首脳会談の場を設けた<ref>[http://www.mofa.go.jp/mofaj/me_a/me2/ir/page1_000104.html 日・イラン首脳会談 | 外務省] - 2015年4月22日</ref>。[[2016年]]9月、国連総会開催中のニューヨークで、同地では4度目、通算で5度目となる安倍・ロウハーニー首脳会談が行われた<ref>[http://www.mofa.go.jp/mofaj/me_a/me2/ir/page4_002384.html 日・イラン首脳会談 | 外務省] - 2016年9月21日</ref>。尚、2016年8月には、革命直前のイランを訪問した[[福田赳夫]]首相以来38年ぶりとなる日本の現役首相のイラン訪問が予定されていたが、急遽、日本側の都合により安倍首相のイラン訪問の中止が決定された。政府筋によると、安倍首相は[[2016年アメリカ合衆国大統領選挙|アメリカ大統領選]]の実施を待ち、その後にイラン訪問の是非を再検討する意向とのこと<ref>[http://parstoday.com/ja/news/japan-i13300 共同通信、「安倍首相がイラン訪問をアメリカ大統領選挙後に延期」 - Pars Today] - 2016年7月26日</ref>。 |
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== 要人往来 == |
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=== パフラヴィー朝時代(1925~1979年) === |
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[[1957年]]6月、イランの皇妹{{仮リンク|ファーテメ・パフラヴィー|fa|فاطمه پهلوی|en|Fatimeh Pahlavi}}と同夫君が訪日。[[1958年]]5月、皇弟{{仮リンク|ゴラームレザー・パフラヴィー|fa|غلامرضا پهلوی|en|Gholamreza Pahlavi}}が訪日し、その後、皇帝[[モハンマド・レザー・パフラヴィー]]が国賓待遇で訪日した<ref>[http://www.kunaicho.go.jp/about/gokomu/shinzen/hinkyaku/hinkyaku-s.html 国賓・公賓など外国賓客(元首・王族)一覧表(昭和27年~昭和63年) - 宮内庁]</ref>。その後、皇族が訪日することなく[[イラン革命|1979年に王政が打倒された]]ので、王政復古が起こらない限りは、これが史上最後のイラン皇族の訪日となる。また、これまで[[イランの最高指導者]]が訪日した例はないので、現時点では、1958年の皇帝来日がイラン[[元首|国家元首]]の最後の訪日となっている。(後にハータミー大統領が訪日するが、イランの国家元首は[[イランの最高指導者|最高指導者]]であり、大統領は首脳ではあるが国家元首ではない。) |
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[[1971年]]10月、[[三笠宮崇仁親王]]と[[崇仁親王妃百合子|同妃殿下]]が、[[イラン建国二千五百年祭典|ペルシャ帝国建国2500年式典]]参列のためイランを訪問<ref>[http://www.kunaicho.go.jp/about/gokomu/shinzen/gaikoku/gaikoku-s.html 天皇・皇族の外国ご訪問一覧表(戦後)(昭和28年~昭和63年) - 宮内庁]</ref>。以後、日本の皇族がイランを訪問したことはないので、これが日本の皇族がイランを訪問した最後の例になっている。 |
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[[1978年]]9月、[[福田赳夫]][[内閣総理大臣|総理]]がイランを訪問<ref name="Basic data of Iran by MOFAJ"></ref>。革命後に日本の現役首相がイランを訪問した例はないので、これが日本の現役首相としては最後のイラン訪問となっている。(現役首相ではなく首相経験者であれば、[[橋本龍太郎]]、[[鳩山由紀夫]]の両名が首相を辞任した後にイランを訪問したことはある<ref name="Basic data of Iran by MOFAJ"></ref>。) |
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=== イラン・イスラム共和国時代(1979年~) === |
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[[1979年]]10月、[[江崎真澄]][[経済産業大臣|通商産業大臣]]が日本の現役閣僚として初めて革命後のイランを訪問<ref name="Basic data of Iran by MOFAJ"></ref>。[[1983年]]8月、[[安倍晋太郎]]外務大臣が日本の現役外相として初めて革命後のイランを訪問<ref name="Basic data of Iran by MOFAJ"></ref>。[[1984年]]4月、[[アリーアクバル・ヴェラーヤティー]][[イランの外務大臣|外務大臣]]が革命後のイランの現役閣僚として初めて訪日<ref name="Basic data of Iran by MOFAJ"></ref>。 |
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[[1989年]]は、1月に[[昭和天皇]]が崩御し、6月に[[ルーホッラー・ホメイニー|ホメイニー師]]が逝去するという、日本とイランの両国において大きな悲しみが襲った年であった。同年2月、{{仮リンク|モスタファー・ミールサリーム|fa|سید مصطفی میرسلیم|en|Mostafa Mir-Salim}}副大統領が[[大喪の礼]]弔問使節として訪日<ref name="Basic data of Iran by MOFAJ"></ref>。同年7月、前月に亡くなった最高指導者ホメイニー師の弔問使節として、[[藤尾正行]][[自由民主党政務調査会|自民党政調会長]]がイランを訪問<ref name="Basic data of Iran by MOFAJ"></ref>。また、翌[[1990年]]の[[明仁|今上天皇]]の[[即位の礼]]に際して、モアエリ<!--Alireza Moayeri علیرضا معیری-->大統領顧問が訪日している<ref name="Basic data of Iran by MOFAJ"></ref>。 |
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[[2000年]]10月、イランの大統領[[モハンマド・ハータミー]]が日本を訪問。これは革命後のイラン首脳としては初の訪日で、パフラヴィー朝時代を含めると、1958年の皇帝来日以来の実に42年ぶりとなるイラン首脳の訪日となった。 |
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[[2004年]]8月、[[橋本龍太郎]][[内閣総理大臣|元総理大臣]]が日本の首相経験者として初めて革命後のイランを訪問<ref name="Basic data of Iran by MOFAJ"></ref>。[[2012年]]4月、[[鳩山由紀夫]]元総理大臣がイランを訪問<ref name="Basic data of Iran by MOFAJ"></ref>。 |
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== 文化交流 == |
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=== 日本におけるペルシア語教育 === |
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[[1925年]]、[[大阪外国語学校]][[ヒンドゥスターニー語|印度語]]部の研修語として日本初の[[ペルシア語]]が開講<ref name="Osaka Univ">[http://www.sfs.osaka-u.ac.jp/user/persian/enkaku.html 大阪大学外国語学部外国語学科 ペルシア語専攻]</ref>。[[1961年]]、大阪外国語学校の流れを汲む[[大阪外国語大学]]がペルシア語学科を設置。イラン革命以前の日本においては、大阪外国語大学のみが常設のペルシア語学科を持っている大学であった。[[2007年]]には大阪外国語大学が[[大阪大学]]に統合されたが、大阪大学外国語学部外国語学科に所属する形でペルシア語専攻が存続している<ref name="Osaka Univ"></ref>。 |
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イラン革命が起こった翌年の[[1980年]]、[[東京外国語大学]]が日本の大学で二番目となるペルシア語学科を開設<ref name="tufs">[http://www.tufs.ac.jp/common/fs/asw/per/per2/pdfs/gaigokaiho96.pdf {{lang|fa|عاشق فارسی هستیم}} (’Aasheq-e Faarsi hastim) ペルシア語大好き ようやく「成人」したペルシア語専攻 -言葉の歴史は1千年に溯る-] - 2002年11月1日</ref>。[[1993年]]、東京外国語大学のペルシア語学科は中東語学科ペルシア語専攻に改組され、[[1995年]]には南・西アジア課程ペルシア語専攻となった<ref name="tufs"></ref>。 |
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=== イランにおける日本語教育 === |
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{{Main|中東の日本語教育#イラン}} |
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イランにおける日本語教育は、[[テヘラン大学]]を中心に行われている。 |
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=== 日本人のシーア派ムスリム(イスラム教徒) === |
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日本人の[[シーア派]][[ムスリム]]として最も高名なのは、[[澤田達一|エブラヒム澤田達一師]]である。シーア派学問の中心地である[[ゴム (イラン)|ゴム]]のイスラーム法学院で神学、法学、論理学、解釈学、政治学を学び、日本人として初のシーア派聖職者となり、[[1998年]]に日本へ帰国<ref>[http://www.asahi-net.or.jp/~fx8m-nkzw/articles/articles_0904.html ムスリムになった日本人(1) 日本で唯一のシーア派聖職者]</ref>。イランの宗教大学{{仮リンク|アルムスタファー国際大学|fa|جامعةالمصطفی|en|Al-Mustafa International University}}在日事務所の研究教務部長を務めるほか<ref>[http://samimijapan.jugem.jp/?eid=153 アルムスタファー国際大学と在日事務所のご紹介] - 2013年4月26日</ref>、[[クルアーン]]の日本語訳も出版している<ref>『聖クルアーン:日本語訳』(啓示翻訳文化研究所、2013年) ISBN 9786009254323</ref>。 |
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== 外交使節 == |
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=== 駐イラン日本全権大使・公使 === |
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;駐イラン日本全権公使 |
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*[[笠間杲雄]](1929~1932年) |
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| style="vertical-align:top" width=250| |
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*[[岡本武三]](1933~1936年) |
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| style="vertical-align:top" width=250| |
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*[[中山詳一]](1937~1940年) |
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| style="vertical-align:top" width=250| |
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*[[市河彦太郎]](1941~1942年) |
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|} |
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※1942~1955年は、イランへの駐箚なし |
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;駐イラン日本全権大使 |
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{| |
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| style="vertical-align:top" width=250| |
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*[[山田久就]](1955~1958年) |
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*[[寺岡洪平]](1958~1960年) |
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*[[千葉皓]](1960~1963年) |
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*[[安藤吉光]](1963~1967年) |
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*[[宇山厚]](1967~1969年) |
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*[[前田憲作 (外交官)|前田憲作]](1969~1972年) |
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| style="vertical-align:top" width=250| |
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*[[有田圭輔]](1972~1974年) |
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*[[井川克一]](1974~1978年) |
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*[[和田力]](1978~1981年) |
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*[[高橋正太郎]](1981~1983年) |
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*[[野村豊]](1983~1987年) |
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*[[藤本芳男]](1987~1989年) |
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| style="vertical-align:top" width=250| |
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*[[斎藤邦彦 (外務官僚)|斎藤邦彦]](1989~1991年) |
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*[[小宅庸夫]](1991~1993年) |
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*[[小原武]](1993~1997年) |
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*[[須藤隆也]](1997~1999年) |
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*[[孫崎享]](1999~2002年) |
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*[[河村武和]](2002~2004年) |
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| style="vertical-align:top" width=250| |
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*[[堂道秀明]](2004~2007年) |
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*[[城田安紀夫]](2007~2010年) |
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*[[駒野欽一]](2010~2012年) |
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*[[羽田浩二 (外交官)|羽田浩二]](2012~2015年) |
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*[[小林弘裕]](2015年~) |
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|} |
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=== 駐日イラン大使 === |
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[[File:Embassy of Iran in Tokyo.JPG||thumbnail|駐日イラン・イスラム共和国大使館(東京都港区南麻布)]] |
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* {{仮リンク|ホウハーネス・ハーン・マーセヘイヤーン|fa|هوهانس خان ماسحیان|en|Hovhannes Masehyan}}(1930~1931年) |
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* {{仮リンク|ハサンアリー・カマール・ヘダーヤト|fa|حسنعلی کمال هدایت}}<!--Hasanali Kamal Hedayat-->(1931~1933年) |
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* [[バーゲル・アズィーミー]]<!--باقر عظیمی--><!--Bagher Azimi-->(1933~1937年) |
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* [[アリーモハンマド・シャイバーニー]]<!--علیمحمد شیبانی--><!--Ali-Mohammad Shaibani-->(1937~1938年) |
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* [[マフムード・バハードリー]]<!--محمود بهادری--><!--Mahmud Bahadori-->(1938~1940年) |
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* {{仮リンク|アブールガーセム・ナジュム|fa|ابوالقاسم نجم|en|Abolqasem Najm}}(1940~1942年) |
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※1942~1955年は、イランから日本への駐箚なし |
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* {{仮リンク|ムーサー・ヌーリー・エスファンディヤーリー|fa|موسی نوری اسفندیاری}}<!--Musa Nuri Esfandiari-->(1955~1956年) |
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* {{仮リンク|ホセイン・ゴドゥス・ナハイー|fa|حسین قدس نخعی|en|Hossein Ghods-Nakhai}}(1956~1958年) |
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* {{仮リンク|ゴラームアッバース・アーラーム|fa|غلامعباس آرام|en|Abbas Aram}}(1958~1959年) |
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* {{仮リンク|ジャヴァード・サドル|fa|جواد صدر}}<!--Jawad Sadr-->(1959~1963年) |
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* [[ホルモズ・ガリーブ]]<!--هرمز قریب--><!--Hormoz Gharib-->(1964~1968年) |
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* [[ファドラッラーフ・ヌールッディーン・キヤー]]<!--فضلالله نورالدین کیا--><!--Fadlallah Nur-al-Din Kia-->(1968~1972年) |
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* [[アブドルホセイン・ハムザーヴィー]]<!--عبدالحسین حمزاوی--><!--Abd-al-Hosayn Hamzawi-->(1972年) |
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* [[ナーセル・マジド・アラダカーニー]]<!--ناصر مجد اردکانی--><!--Naser Majd Ardakani-->(1972~1977年) |
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* [[ガーセム・サーレフフー]]<!--قاسم صالحخو--><!--Qasem Saleh-ku-->(1977~1979年) |
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* [[アブドルラヒーム・ゴヴァーヒー]](1982~1987年) |
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* {{仮リンク|モハンマドホセイン・アーデリー|fa|محمدحسین عادلی|en|Mohammad Hossein Adeli}}(1987~1989年) |
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* {{仮リンク|ホセイン・カーゼンプール・アルダビーリー|fa|حسین کاظمپور اردبیلی|en|Hossein Kazempour Ardabili}}(1989~1995年) |
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* [[マヌーチェフル・モッタキー]](1995~1999年) |
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* {{仮リンク|アリー・マージェディー|fa|علی ماجدی}}<!--Ali Majedi-->(2000~2004年) |
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* [[モフセン・タラーイー]]<!--ペルシャ語スペル محسن طلایی 、英語スペル Mohsen Talaei -->(2004~2007年) |
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* {{仮リンク|アッバース・アラーグチー|label=セイエッド・アッバス・アラグチ|fa|عباس عراقچی|en|Abbas Araghchi}}(2007年~2011年<ref>[http://www.mfa.gov.ir/index.aspx?siteid=3&pageid=2126 Ministry of Foreign Affairs Islamic Republic of IRAN - Deputy for Legal & International Affairs] {{en icon}}</ref>、信任状捧呈は2008年3月11日<ref>[http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/h20/3/1178517_904.html 外務省: 新任駐日イラン大使の信任状捧呈] - 2008年3月10日</ref>) |
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* [[レザー・ナザルアーハーリー|レザー・ナザルアーハリ]]<!--ペルシャ語スペル رضا نظرآهاری 、英語スペル Reza Nazar-Ahari / Reza NAZARAHARI -->(2012年~、信任状捧呈は2012年11月27日<ref>[http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/24/11/1127_04.html 新任駐日イラン・イスラム共和国大使の信任状捧呈について] - 2012年11月27日</ref>) |
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== 脚注 == |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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* [[日本の国際関係]] |
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* [[天平文化]] |
* [[天平文化]] |
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**[[破斯清通]] |
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* [[在日イラン人]] |
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** [[サヘル・ローズ]] |
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* [[高村正彦]] |
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* [[出光佐三]] |
* [[出光佐三]] |
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* [[孫崎享]] |
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* [[駒野欽一]] |
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* [[岡田恵美子]] - 日本・イラン文化交流協会会長 |
* [[岡田恵美子]] - 日本・イラン文化交流協会会長 |
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* [[おしん]] - イラン国営テレビでの放映が最高視聴率90%超を記録し爆発的人気をほこる |
* [[おしん]] - イラン国営テレビでの放映が最高視聴率90%超を記録し爆発的人気をほこる |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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*[http://www. |
* [http://www.ir.emb-japan.go.jp/jp/ 在イラン日本国大使館] |
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* [http://jp.tokyo.mfa.ir/ 駐日イラン・イスラム共和国大使館] |
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* [http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/iran/ イラン・イスラム共和国] - 日本の外務省のサイト内のページ |
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== 脚注 == |
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{{日本の国際関係}} |
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{{イランの国際関係}} |
{{イランの国際関係}} |
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[[Category:日本・イラン関係|*]] |
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[[Category:日本の二国間関係|いらん]] |
[[Category:日本の二国間関係|いらん]] |
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[[Category:イランの二国間関係|にほん]] |
[[Category:イランの二国間関係|にほん]] |
2016年10月26日 (水) 08:04時点における版
イラン |
日本 |
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日本とイランの関係(ペルシア語: روابط ایران و ژاپن、英語: Iran–Japan relations)とは、日本とイランの外交関係であり、公式に樹立されたのはパフラヴィー朝ペルシャ時代の1926年であった[1]。第二次世界大戦中を例外とすれば、歴史を通して両国は比較的友好的かつ強く戦略的な関係を維持してきた。
日本のイランとの外交政策と投資は、歴史的に安全が保障されたエネルギーの供給への要望に著しく影響されていた。イランは日本にとって、サウジアラビアとアラブ首長国連邦に続ぐ三番目に重要な石油供給国である[2]。また、日本とイランはアフガニスタン再建やイスラエル=パレスチナ紛争などの中東の地域的な外交関係において協調している[3]。日本とイランの貿易収支はイランに重大な比重があり、日本は自動車や電気製品、重要な石油製品や石油化学製品を輸出している。
両国の比較
イラン | 日本 | 両国の差 | |
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人口 | 7910万人(2015年)[4] | 1億2711万人(2015年)[5] | 日本はイランの約1.6倍 |
国土面積 | 164万8195 km²[4] | 37万7972 km²[6] | イランは日本の約4.4倍 |
首都 | テヘラン | 東京 | |
最大都市 | テヘラン | 東京 | |
政体 | イスラム共和制[7] | 議院内閣制[8] | |
公用語 | ペルシア語[9] | 日本語(事実上) | |
国教 | イスラム教シーア派ジャアファル法学派(十二イマーム派)[10] | なし | |
GDP(名目) | 3969億1500万米ドル(2015年)[11] | 4兆1162億4200万米ドル(2015年)[11] | 日本はイランの約10.4倍 |
防衛費 | 102億6500万米ドル(2015年)[12] | 409億米ドル(2015年)[12] | 日本はイランの約4.0倍 |
歴史
明治維新以前(~1868年)
地理的に離れていた日本とイラン(ペルシャ)は、有史以来19世紀まで全くと言っていいほど直接の交流を持っていない。明治維新以前の両国は、シルクロードを経由して、イランの影響を受けた美術品が日本にもたらされる程度の関係でしかなかった。
数少ない例外として、奈良時代の天平年間に日本を訪問したペルシャ人のことが、勅撰史書『続日本紀』に記載されている。736年(天平8年)、ペルシャでは後に第6代イマームとなるジャアファル・サーディクが信徒の精神的支柱となっていた時期、日本では藤原四子政権晩期に相当する時期に、遣唐副使中臣名代が唐人3人と波斯人(ペルシャ人)1人を伴って日本に帰国し、聖武天皇に会った[14]。李密翳という中国名で記録されたこのペルシャ人には位が授けられている[15]が、その後の消息は不明である[16]。平城宮跡から出土した木簡の解読により破斯清通という大学寮の官吏(765年当時)がいたことが2016年に判明したが、破斯(波斯)はペルシャを意味する名であり、李密翳もしくはその関連人物ではないかと推測されている[17][18]。
明治維新から第二次大戦終結まで(1868~1945年)
1878年にロシア帝国に向かった日本の使節、榎本武揚がサンクトペテルブルクでガージャール朝ペルシャの国王ナーセロッディーン・シャーと公式に謁見した。また1880年には外務省御用掛の吉田正春を正使とする使節団が記録に残る日本人として初めてペルシャの地を踏み、テヘランでナーセロッディーン・シャーに謁見し通商の許可を得ている。しかしながら、公式な外交関係はパフラヴィー朝成立後の1926年まで樹立されなかった。1935年、パフラヴィー朝は国号をペルシャからイランに改めた。日本とイランの友好条約が調印されたのは1939年で、国王のレザー・シャーが親ドイツであったこともあり、第二次世界大戦で中立を保っていたスペイン、スウェーデン、スイスなどと同様に、日本との間で誠実な関係が築かれていた。太平洋戦争勃発後のイランは中立を宣言したが、既にイギリスとソビエト連邦から露骨な内政干渉を受けていたイランが中立を守り抜くことは困難を極めた。
さかのぼる1941年8~9月、英ソ両国の軍隊がイランの国土を蹂躙して親ドイツ派で政治手腕に長けていたレザー・シャーを強引に廃位させて、若年で扱いやすいモハンマド皇太子を新しい君主に据えるなど、英ソ両国によるイランへの内政干渉は止まることを知らなかった。こうした外交圧力の成果もあって、1942年4月にイランは日本との国交を断絶、1945年2月28日には日本を含む枢軸国に対して宣戦布告するに至った[19]。その後、日本とイランは国交を回復することがないまま、1945年8月、日本はポツダム宣言を受諾して降伏した。
第二次大戦終結からイラン革命まで(1945~1979年)
日本とイランの間で公式な外交関係が復活したのは、サンフランシスコ講和条約が調印された後の1953年だった[20]。
1953年、日章丸事件が起こる。この事件が、イラン人が親日的である理由の一つと指摘されることがある。
1955年、パフラヴィー朝イラン帝国とイギリス、トルコ、パキスタン、イラク王国の5ヶ国で中東条約機構(METO)を結成した。加盟国のうちイギリスを除く4ヶ国は全てソビエト連邦と国境を接しており、中東版の北大西洋条約機構(NATO)、日米安保体制に位置づけられる反共ブロックであった。本部をイラクの首都バグダードに置いていたので、バグダード条約機構とも称された。同じ反共陣営の君主国同士として、正式な国交を樹立したばかりの日本とイランの二国関係は極めて良好なものであった。石油の輸出入を筆頭に経済関係が深まっただけでなく、両国の皇族がお互いに公式訪問もしている。(詳細は日本とイランの関係#パフラヴィー朝時代(1925~1979年)を参照。)
1958年にはイランの隣国イラクで王政打倒のクーデターが起こり、親米反共のイラク王国が崩壊。翌1959年には、ソビエト連邦との結び付きを深めたイラクが中東条約機構から脱退した。これにより、中東条約機構は中央条約機構(CENTO)に改称され、本部は東側陣営に寝返ったイラクの首都バグダードからNATO加盟国でもあるトルコの首都アンカラに移転した。引き続き反共陣営に留まったイランは、以後20年近くに渡って反共の親米国であり続け、相対的に中東における重要性を増して行った。パフラヴィー朝イラン帝国は秘密警察「サヴァク」が共産分子や宗教分子を取り締まる独裁国のような一面も持っていたが、同時代に親米の独裁体制を敷いていた韓国(1993年まで軍事政権)や台湾(1987年まで戒厳令下の国民党一党独裁)、フィリピン(1986年まで戒厳令下の独裁体制)、南ベトナム(1975年の滅亡まで軍事政権)などとの良好な関係と同様、日米安保体制を主軸とする日本にとってイランは友好国であり続けた。
1974年、日本とイランはビザ免除の観光協定に調印し、両国の国民はビザなしでお互い自由に観光訪問をすることが可能になった[21]。日本とイランの友好関係は頂点に達したと言えよう。
イラン革命以後(1979年~)
しかし1979年2月、イランで革命が起こってパフラヴィー朝が崩壊し、同年11月には首都テヘランのアメリカ大使館に暴徒が乱入してアメリカ人を人質に取った。これは宣戦布告同然の行為であり、本来であればイラン当局は暴徒を取り締まるべき立場にあったが、どういうわけかイラン当局は静観を決め込んで、アメリカ人の人質解放に積極的に動かなかった。1980年4月、業を煮やしたアメリカはイランに国交断絶を通告し、経済制裁を発動した。この事件を解決できなかったアメリカのジミー・カーター大統領は威信を大いに傷つけられ、大統領選での再選も叶わず、ロナルド・レーガンへの政権交代を許す一因となった。イランのアメリカ大使館人質事件はレーガン大統領が就任してすぐに解決したが、この事件はイランとアメリカの関係を決定的に悪化させた。
上記のアメリカ大使館人質事件に加えて、重要な親米国群である湾岸諸国をイランによる王制転覆から守る意味合いからも、1980年代は、イラン・イラク戦争(レーガン政権の時期とほぼ重なる)でアメリカがイランの敵イラクを支援するという構図が出来上がった。アメリカの外交政策の影響で、日本もイランとの関係を縮小させるように圧力がかけられ、一方で日本とイラクの関係が深まる結果となった。以降、日本は「アメリカの顔色を窺いながら、可能な範囲でイランとの関係を維持、強化する」という図式が定着している。
1992年4月、観光目的で入国したにも関わらず不法滞在する在日イラン人の増加を理由に、革命前に締結されて継承もされていたビザ免除の観光協定が停止された[21]。2004年から日本はイラン最大のアーザーデガーン油田の開発事業を行っている[22]。
2010年2月23日、イランのアリー・ラーリージャーニー国会議長が衆議院の招待で来日した[23]。議長は、同月24日に岡田克也外務大臣と会談し[24]、同月27日には長崎市を初めて訪れ、長崎原爆資料館を見学した。議長は記者団に「世界に一つでも原爆が存在すれば人類への脅威だ。人々は、核のない世界に向けて立ち上がるべきだ」と感想を述べた。見学後、田上富久長崎市長らと共に、資料館近くの爆心地公園にある原爆落下中心地碑に献花した[23]。
2011年12月9日、日本は「国際連合安全保障理事会決議第1929号の履行に付随する措置の対象の追加について」に基づき、イランの原子力開発に関わる銀行3行(累次の決議及び昨年の付随措置との合計20行)、銀行以外の者106団体・1個人(累次の決議及び昨年の付随措置との合計267団体・66個人)に対する支払等及び指定された者との間の資本取引等を許可制とし、銀行とのコルレス関係を停止した。また、金融活動作業部会(FATF)の声明を受け、金融機関等に対し、顧客の本人確認義務、疑わしい取引の届出義務及び外国為替取引に係る通知義務の履行を徹底するよう要請した。
2005年にハータミー大統領が退陣してからは、長らく日本とイランの首脳会談は行われていなかった。しかし、2012年11月の衆院選の結果を受けて日本で安倍晋三が内閣総理大臣に返り咲き、イランでは強硬派のマフムード・アフマディーネジャード大統領が最長任期を満了して迎えた2013年6月の大統領選の結果を受けて同年8月からハサン・ロウハーニーが大統領に就任すると、両国の首脳は急速に関係を改善させた。安倍首相は、いち早くロウハーニー大統領の就任に対して祝辞を述べ、翌9月には首相の親書を携えた高村正彦総理特使をイランに派遣してロウハーニー大統領らと会談を行った[25]。1979年のイラン革命後、未だ日本の現役首相がイランを公式訪問した実績はないものの、ニューヨークで毎年開催される国連総会など第三国の国際会議に参加する機会を捉えて安倍首相とロウハーニー大統領が会談することが慣例となっている。具体的には、2013年9月26日(現地時間、以下同)に国連総会開催中のニューヨークでロウハーニー大統領が就任してから初の首脳会談が実現し[26]、翌2014年9月23日には同じく国連総会開催中のニューヨークで二度目の首脳会談を行った[27]。また、2015年は、9月27日に国連総会開催中のニューヨークで定例となった首脳会談を行っただけではなく[28]、遡る4月22日にも60周年記念を迎えたアジア・アフリカ会議を開催中のジャカルタで首脳会談の場を設けた[29]。2016年9月、国連総会開催中のニューヨークで、同地では4度目、通算で5度目となる安倍・ロウハーニー首脳会談が行われた[30]。尚、2016年8月には、革命直前のイランを訪問した福田赳夫首相以来38年ぶりとなる日本の現役首相のイラン訪問が予定されていたが、急遽、日本側の都合により安倍首相のイラン訪問の中止が決定された。政府筋によると、安倍首相はアメリカ大統領選の実施を待ち、その後にイラン訪問の是非を再検討する意向とのこと[31]。
要人往来
パフラヴィー朝時代(1925~1979年)
1957年6月、イランの皇妹ファーテメ・パフラヴィーと同夫君が訪日。1958年5月、皇弟ゴラームレザー・パフラヴィーが訪日し、その後、皇帝モハンマド・レザー・パフラヴィーが国賓待遇で訪日した[32]。その後、皇族が訪日することなく1979年に王政が打倒されたので、王政復古が起こらない限りは、これが史上最後のイラン皇族の訪日となる。また、これまでイランの最高指導者が訪日した例はないので、現時点では、1958年の皇帝来日がイラン国家元首の最後の訪日となっている。(後にハータミー大統領が訪日するが、イランの国家元首は最高指導者であり、大統領は首脳ではあるが国家元首ではない。)
1971年10月、三笠宮崇仁親王と同妃殿下が、ペルシャ帝国建国2500年式典参列のためイランを訪問[33]。以後、日本の皇族がイランを訪問したことはないので、これが日本の皇族がイランを訪問した最後の例になっている。
1978年9月、福田赳夫総理がイランを訪問[4]。革命後に日本の現役首相がイランを訪問した例はないので、これが日本の現役首相としては最後のイラン訪問となっている。(現役首相ではなく首相経験者であれば、橋本龍太郎、鳩山由紀夫の両名が首相を辞任した後にイランを訪問したことはある[4]。)
イラン・イスラム共和国時代(1979年~)
1979年10月、江崎真澄通商産業大臣が日本の現役閣僚として初めて革命後のイランを訪問[4]。1983年8月、安倍晋太郎外務大臣が日本の現役外相として初めて革命後のイランを訪問[4]。1984年4月、アリーアクバル・ヴェラーヤティー外務大臣が革命後のイランの現役閣僚として初めて訪日[4]。
1989年は、1月に昭和天皇が崩御し、6月にホメイニー師が逝去するという、日本とイランの両国において大きな悲しみが襲った年であった。同年2月、モスタファー・ミールサリーム副大統領が大喪の礼弔問使節として訪日[4]。同年7月、前月に亡くなった最高指導者ホメイニー師の弔問使節として、藤尾正行自民党政調会長がイランを訪問[4]。また、翌1990年の今上天皇の即位の礼に際して、モアエリ大統領顧問が訪日している[4]。
2000年10月、イランの大統領モハンマド・ハータミーが日本を訪問。これは革命後のイラン首脳としては初の訪日で、パフラヴィー朝時代を含めると、1958年の皇帝来日以来の実に42年ぶりとなるイラン首脳の訪日となった。
2004年8月、橋本龍太郎元総理大臣が日本の首相経験者として初めて革命後のイランを訪問[4]。2012年4月、鳩山由紀夫元総理大臣がイランを訪問[4]。
文化交流
日本におけるペルシア語教育
1925年、大阪外国語学校印度語部の研修語として日本初のペルシア語が開講[34]。1961年、大阪外国語学校の流れを汲む大阪外国語大学がペルシア語学科を設置。イラン革命以前の日本においては、大阪外国語大学のみが常設のペルシア語学科を持っている大学であった。2007年には大阪外国語大学が大阪大学に統合されたが、大阪大学外国語学部外国語学科に所属する形でペルシア語専攻が存続している[34]。
イラン革命が起こった翌年の1980年、東京外国語大学が日本の大学で二番目となるペルシア語学科を開設[35]。1993年、東京外国語大学のペルシア語学科は中東語学科ペルシア語専攻に改組され、1995年には南・西アジア課程ペルシア語専攻となった[35]。
イランにおける日本語教育
イランにおける日本語教育は、テヘラン大学を中心に行われている。
日本人のシーア派ムスリム(イスラム教徒)
日本人のシーア派ムスリムとして最も高名なのは、エブラヒム澤田達一師である。シーア派学問の中心地であるゴムのイスラーム法学院で神学、法学、論理学、解釈学、政治学を学び、日本人として初のシーア派聖職者となり、1998年に日本へ帰国[36]。イランの宗教大学アルムスタファー国際大学在日事務所の研究教務部長を務めるほか[37]、クルアーンの日本語訳も出版している[38]。
外交使節
駐イラン日本全権大使・公使
- 駐イラン日本全権公使
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※1942~1955年は、イランへの駐箚なし
- 駐イラン日本全権大使
駐日イラン大使
- ホウハーネス・ハーン・マーセヘイヤーン(1930~1931年)
- ハサンアリー・カマール・ヘダーヤト(1931~1933年)
- バーゲル・アズィーミー(1933~1937年)
- アリーモハンマド・シャイバーニー(1937~1938年)
- マフムード・バハードリー(1938~1940年)
- アブールガーセム・ナジュム(1940~1942年)
※1942~1955年は、イランから日本への駐箚なし
- ムーサー・ヌーリー・エスファンディヤーリー(1955~1956年)
- ホセイン・ゴドゥス・ナハイー(1956~1958年)
- ゴラームアッバース・アーラーム(1958~1959年)
- ジャヴァード・サドル(1959~1963年)
- ホルモズ・ガリーブ(1964~1968年)
- ファドラッラーフ・ヌールッディーン・キヤー(1968~1972年)
- アブドルホセイン・ハムザーヴィー(1972年)
- ナーセル・マジド・アラダカーニー(1972~1977年)
- ガーセム・サーレフフー(1977~1979年)
- アブドルラヒーム・ゴヴァーヒー(1982~1987年)
- モハンマドホセイン・アーデリー(1987~1989年)
- ホセイン・カーゼンプール・アルダビーリー(1989~1995年)
- マヌーチェフル・モッタキー(1995~1999年)
- アリー・マージェディー(2000~2004年)
- モフセン・タラーイー(2004~2007年)
- セイエッド・アッバス・アラグチ(2007年~2011年[39]、信任状捧呈は2008年3月11日[40])
- レザー・ナザルアーハリ(2012年~、信任状捧呈は2012年11月27日[41])
脚注
- ^ “Japan-Iran relations”. Ministry of Foreign Affairs, Japan (July 2007). 2007年8月7日閲覧。
- ^ “Japan Strives to Balance Energy Needs with World Politics”. Wharton School of Business, University of Pennsylvania. (2006年11月26日) 2007年8月8日閲覧。
- ^ “Iran, Japan Ready to Cooperate in Afghan, Palestinian Issues”. People's Daily. (2002年5月5日) 2007年8月7日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l イラン基礎データ | 外務省
- ^ 平成27年国勢調査人口速報集計 結果の概要 - 2016年2月26日
- ^ 日本の統計2016 第1章~第29章 | 総務省統計局
- ^ イラン・イスラーム共和国憲法第1条で明確に定められている。
- ^ 日本国憲法で明確に定められている。
- ^ イラン・イスラーム共和国憲法第15条で明確に定められている。
- ^ イラン・イスラーム共和国憲法第12条で明確に定められている。
- ^ a b Report for Selected Countries and Subjects | International Monetary Fund
- ^ a b SIPRI Fact Sheet, April 2016 - 2016年4月
- ^ “正倉院展あす開幕 「漆胡瓶」など64件 奈良国立博物館”. 産経新聞. (2016年10月21日) 2016年10月25日閲覧。
- ^ 『続日本紀』巻第十二 天平八年八月庚午条。
- ^ 『続日本紀』巻第十二 天平八年十一月戊寅(11月3日)条。「波斯人李密翳等ニハ位ヲ授クルコト、差アリ」
- ^ 李密翳は、松本清張の歴史小説『眩人』のモデルにもなった。
- ^ “奈良の都にペルシャ人役人がいた…木簡に名前”. 読売新聞. (2016年10月5日) 2016年10月8日閲覧。
- ^ “平城宮にペルシャ人の役人が働いていた!! 765年木簡が証明 「国際的知識で登用か」と専門家”. 産経新聞. (2016年10月5日) 2016年10月8日閲覧。
- ^ “昭和戦前期のイランとの親善関係”. 外交史料館 特別展示「日本とペルシャ・イラン」. 外務省 (2015年5月18日). 2015年5月21日閲覧。
- ^ Kodansha Encyclopedia of Japan, pp.623
- ^ a b "Chapter III, Section 6: The Middle East". Diplomatic Bluebook: Japan's Diplomatic Activities. Ministry of Foreign Affairs, Japan. 1992. 2007年8月7日閲覧。
- ^ “Japan ready for talks with Iran on lucrative Azadegan oil venture”. Islamic Republic News Agency. (2006年9月15日) 2007年8月7日閲覧。
- ^ a b “「原爆は脅威」イラン議長が長崎訪問”. MSN産経ニュース(産経新聞). (2010年2月27日) 2010年3月8日閲覧。
- ^ “岡田氏「制裁決議採択なら従う」 イラン議長と会談”. 47NEWS(共同通信). (2010年2月24日) 2010年3月8日閲覧。
- ^ 高村正彦総理特使のイラン・イスラム共和国訪問(結果概要) | 外務省 - 2013年9月10日
- ^ 日・イラン首脳会談(概要) | 外務省 - 2013年9月26日
- ^ 日・イラン首脳会談(概要) | 外務省 - 2014年9月23日
- ^ 日・イラン首脳会談 | 外務省 - 2015年9月28日
- ^ 日・イラン首脳会談 | 外務省 - 2015年4月22日
- ^ 日・イラン首脳会談 | 外務省 - 2016年9月21日
- ^ 共同通信、「安倍首相がイラン訪問をアメリカ大統領選挙後に延期」 - Pars Today - 2016年7月26日
- ^ 国賓・公賓など外国賓客(元首・王族)一覧表(昭和27年~昭和63年) - 宮内庁
- ^ 天皇・皇族の外国ご訪問一覧表(戦後)(昭和28年~昭和63年) - 宮内庁
- ^ a b 大阪大学外国語学部外国語学科 ペルシア語専攻
- ^ a b عاشق فارسی هستیم (’Aasheq-e Faarsi hastim) ペルシア語大好き ようやく「成人」したペルシア語専攻 -言葉の歴史は1千年に溯る- - 2002年11月1日
- ^ ムスリムになった日本人(1) 日本で唯一のシーア派聖職者
- ^ アルムスタファー国際大学と在日事務所のご紹介 - 2013年4月26日
- ^ 『聖クルアーン:日本語訳』(啓示翻訳文化研究所、2013年) ISBN 9786009254323
- ^ Ministry of Foreign Affairs Islamic Republic of IRAN - Deputy for Legal & International Affairs
- ^ 外務省: 新任駐日イラン大使の信任状捧呈 - 2008年3月10日
- ^ 新任駐日イラン・イスラム共和国大使の信任状捧呈について - 2012年11月27日
関連項目
- イランの国際関係
- 日本の国際関係
- 天平文化
- 在日イラン人
- 高村正彦
- 出光佐三
- 岡田恵美子 - 日本・イラン文化交流協会会長
- おしん - イラン国営テレビでの放映が最高視聴率90%超を記録し爆発的人気をほこる
外部リンク
- 在イラン日本国大使館
- 駐日イラン・イスラム共和国大使館
- イラン・イスラム共和国 - 日本の外務省のサイト内のページ