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中臣名代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
中臣名代
時代 奈良時代
生誕 不詳
死没 天平17年9月19日745年10月18日
官位 従四位下神祇伯
主君 元正天皇聖武天皇
氏族 中臣氏
父母 父:中臣島麻呂
兄弟 人足名代形見
伊賀麻呂、鳥長、鷹養、鷹主、松成、竹成、田給、辛多太
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中臣 名代(なかとみ の なしろ)は、奈良時代貴族。最終官位散位従四位下。

生涯

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中臣島麻呂の子で、小錦上中臣垂目の孫。神亀5年(728年7月2日)に従六位下から四階昇進して従五位下に叙せられた。これは中央貴族に対して初めて外位への叙位がなされた例であり、同時に同じく中央貴族の巨勢少麻呂阿倍帯麻呂らが外従五位下に叙せられている。また叙位にあたって、この位階に留まるべきでないこと、勤務の状況に応じて内位に叙するので努力を怠らないこと、についてのが出されている[1]。翌神亀6年(729年4月6日)の長屋王の変後に行われた叙位において、少麻呂・帯麻呂と共に内位の従五位下に叙せられた。

天平4年(732年9月10日)、第10次遣唐使の副使(大使は多治比広成、判官は平群広成秦朝元ら)に任じられる[2]。天平5年3月(733年4月3日)に従五位上に昇叙され、4月に難波津から4隻の船に分かれて出立し、8月に4隻とも蘇州沿岸に漂着。天平6年(734年)4月に洛陽に入って玄宗への拝謁を果たした。後に蘇州から帰路についたが、東シナ海上で俄かに悪風が起こり4隻は互いに離れ離れになってしまった。名代の乗っていた第二船は福建方面に漂着し、一行は天平7年(735年)3月に長安に送り返された[3]。同年閏11月に名代の一行は長安を発ち、唐朝からの援助を受けて船を修理し、再び帰路についた。

天平8年8月(736年10月2日)に平城京に帰着して帰朝の挨拶をするために唐人3人(皇甫東朝道璿袁晋卿)と波斯人1人(李密翳)を引き連れて拝朝し、聖武天皇に謁した[4]。同年11月(12月9日)、渡唐の功労により三階昇進して従四位下に叙される[5]。天平10年5月24日738年6月15日)の時点で神祇伯に任じられており、右大臣であった橘諸兄右少弁であった紀宇美らと共に神宝を奉るために伊勢大神宮に派遣されている[6]

天平12年(740年)に再従甥の藤原広嗣を起こすと、連座して流罪となり、天平13年1月22日741年2月12日)に塩屋吉麻呂大養徳小東人らと共に大宰府に移された[7]

天平17年9月19日(745年10月18日)に卒去

官歴

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続日本紀』による。

系譜

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「中臣氏系図」(『群書類従』巻第62所収)による。

脚注

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注釈

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  1. ^ 名は乎多太とも表記される。

出典

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  1. ^ ウィキソース出典 (中国語)『『続日本紀』神亀五年五月丙辰条』。ウィキソースより閲覧。 
  2. ^ 村山 1998, pp. 95–96
  3. ^ ウィキソース出典 (中国語)『冊府元亀』。ウィキソースより閲覧。 
  4. ^ ウィキソース出典 (中国語)『『続日本紀』天平八年八月庚午条』。ウィキソースより閲覧。 
  5. ^ ヴェアシュア 2010, p. 26
  6. ^ ウィキソース出典 (中国語)『『続日本紀』天平十年五月辛夘条』。ウィキソースより閲覧。 
  7. ^ 遠山 2010, p. 77

参考資料

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  • 遠山美都男『検証 平城京の政変と内乱』学研パブリッシング学研新書〉、2010年1月1日。ISBN 978-4054044401 
  • 村山出「日本古代文化の形成 : 遣隋・唐留学生の場合(<特集>共同研究報告 : 近代日本における文化・文明のイメージ)」『北海学園大学人文論集』第10巻、北海学園大学人文学部、1998年3月31日、89-111頁、NAID 110001060146 
  • シャルロッテ・フォン・ヴェアシュアフランス語版帰国後の遣唐使の待遇について」『専修大学社会知性開発研究センター東アジア世界史研究センター年報』第4巻、専修大学社会知性開発研究センター、2010年3月19日、25-36頁、doi:10.34360/00008589NAID 120006785765