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|本名=(ブラジル名、帰化前名)アレサンドロ・ドス・サントス<ref name="kokuji527">2001年(平成13年)法務省告示第527号「日本国に帰化を許可する件」</ref> |
|本名=(ブラジル名、帰化前名)アレサンドロ・ドス・サントス<ref name="kokuji527">2001年(平成13年)法務省告示第527号「日本国に帰化を許可する件」</ref> |
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|愛称=アレックス、アレ |
|愛称=アレックス、アレ |
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|カタカナ表記=サントス アレサンドロ |
|カタカナ表記=サントス アレサンドロ |
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|アルファベット表記=SANTOS Alessandro |
|アルファベット表記=SANTOS Alessandro |
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|原語名=[[ポルトガル語]] |
|原語名=[[ポルトガル語]] |
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|原語表記=Alessandro dos Santos |
|原語表記=Alessandro dos Santos |
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|国={{JPN}}、{{BRA}}(二重国籍<ref name="GLOBE">朝日新聞 GLOBE『揺らぐ国籍』G-5ページ、2014年7月6日</ref>) |
|国={{JPN}}、{{BRA}}(二重国籍<ref name="GLOBE">朝日新聞 GLOBE『揺らぐ国籍』G-5ページ、2014年7月6日<br />{{cite web| author = 和気真也| date = 2014-07-06| url = http://globe.asahi.com/feature/article/2014070300006.html| title = <nowiki>[Part1]「だから僕は帰化した」/三都主アレサンドロ</nowiki>| work = 朝日新聞 GLOBE| publisher = 朝日新聞社| accessdate = 2015-12-13}}</ref>) |
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|誕生日={{生年月日と年齢|1977|7|20}}<ref name="kokuji527" /> |
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|出身地={{BRA}}・[[パラナ州]][[マリンガ]]<ref name="ニッケイ新聞20020614" /> |
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|身長=178 cm |
|身長=178 cm |
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|体重=69 kg |
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|所属チーム名= |
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|ポジション=[[ミッドフィールダー|MF]]、[[ディフェンダー (サッカー)|DF]] |
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|利き足=左足 |
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|クラブ1={{Flagicon|JPN}} [[清水エスパルス]] |
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|クラブ3=→{{Flagicon|AUT}} [[レッドブル・ザルツブルク]] (loan) |
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|クラブ4={{Flagicon|JPN}} [[名古屋グランパスエイト|名古屋グランパス]] |
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|クラブ5={{Flagicon|JPN}} [[栃木SC]] |
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|クラブ6={{Flagicon|JPN}} [[FC岐阜]] |
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|クラブ8={{Flagicon|BRA|size=18px}} [[グレミオ・マリンガ]] |
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|年1= 1997-2003 |
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|年2= 2004-2009 |
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|年5= 2013 |
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|年6= 2014 |
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|年7= 2015 |
|年7= 2015 |
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|年8= 2015 |
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|出場(得点)1= 198 (56) |
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|出場(得点)2= 100 (11) |
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|出場(得点)6= 18 (2) |
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|出場(得点)7= |
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|クラブ成績更新日=2015年02月01日 |
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|代表国={{JPNf}} |
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|代表年=2002-2006<ref name=nationalteam>{{Cite news|title=三都主 アレサンドロ|work=サッカー日本代表データベース|url=http://www.japannationalfootballteam.com/players_sa/alessandro_santos.html}}</ref> |
|代表年=2002-2006<ref name=nationalteam>{{Cite news|title=三都主 アレサンドロ|work=サッカー日本代表データベース|url=http://www.japannationalfootballteam.com/players_sa/alessandro_santos.html}}</ref> |
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|代表出場(得点)=82 (7) |
|代表出場(得点)=82 (7) |
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'''三都主 アレサンドロ'''(さんとす アレサンドロ、SANTOS Alessandro, [[1977年]][[7月20日]]<ref name="kokuji527" /> - )は、[[ブラジル]]出身の[[サッカー|サッカー選手]]<ref name="GLOBE" />。元[[サッカー日本代表|日本代表]]でキャップ数82<ref name="GLOBE" /> は歴代6位。愛称は[[アレックス]]。 |
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'''三都主 アレサンドロ'''(さんとす アレサンドロ、Santos Alessandro, [[1977年]][[7月20日]]<ref name="kokuji527" /> - )は、[[ブラジル]]・[[パラナ州]][[マリンガ]]出身<ref name="ニッケイ新聞20020614" />の[[サッカー|サッカー選手]]<ref name="GLOBE" />。元[[サッカー日本代表|日本代表]]でキャップ数82<ref name="GLOBE" />は歴代6位。[[2001年]][[11月12日]]、日本国に[[帰化]]し<ref name="kokuji527" />現在はブラジルと[[二重国籍]]<ref name="GLOBE" />。帰化以前の本名は'''アレサンドロ・ドス・サントス''' (Alessandro dos Santos) 、当時の[[登録名]]は'''アレックス''' (Alex) 。 |
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ポジションは左[[ミッドフィールダー|ウィングバック]]、[[ミッドフィールダー|攻撃的MF]]としての出場のほか、清水在籍時には[[フォワード (サッカー)|フォワード]]、名古屋加入以後は[[ミッドフィールダー|センターハーフ]]、日本代表では左[[ディフェンダー (サッカー)|サイドバック]]でも出場した。 |
利き足は左。ポジションは左[[ミッドフィールダー|ウィングバック]]、[[ミッドフィールダー|攻撃的MF]]としての出場のほか、清水在籍時には[[フォワード (サッカー)|フォワード]]、名古屋加入以後は[[ミッドフィールダー|センターハーフ]]、日本代表では左[[ディフェンダー (サッカー)|サイドバック]]でも出場した。 |
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16歳のときにサッカー留学生として日本の[[明徳義塾中学校・高等学校|明徳義塾高校]]に入学し、1997年に[[清水エスパルス]]入り。1999年に史上最年少の22歳で[[Jリーグアウォーズ|Jリーグ年間最優秀選手賞]]を受賞した。2004年に[[浦和レッドダイヤモンズ|浦和レッズ]]に移籍。2007年にはオーストリアの[[レッドブル・ザルツブルク]]でもプレーした。2008年に浦和に復帰後、2009年8月に[[名古屋グランパスエイト|名古屋グランパス]]に移籍。2013年からはJ2の[[FC岐阜]]、[[栃木SC]]にそれぞれ1年ずつ在籍。2015年にブラジルへ戻り{{仮リンク|マリンガFC|pt|Maringá Futebol Clube}}と{{仮リンク|グレミオ・マリンガ|pt|Grêmio de Esportes Maringá}}でプレーした。 |
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2001年に日本国籍取得後、2002年から2006年まで[[サッカー日本代表]]に招集されて82試合出場7得点。[[FIFAワールドカップ]]に2回([[2002 FIFAワールドカップ|2002年日韓大会]]、[[2006 FIFAワールドカップ|2006年ドイツ大会]])出場、[[AFCアジアカップ2004|2004年アジアカップ]]に優勝した。 |
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== 来歴 == |
== 来歴 == |
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=== 生い立ち === |
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[[1993年]]、ブラジルにスカウトに来ていた当時の[[明徳義塾中学校・高等学校|明徳義塾]]サッカー部監督の北村保夫の目に留まり、日本に誘われる<ref name="GLOBE" />。「日本でプロも目指せる」との言葉に心を動かされ、[[1994年]]、16歳の時に高知の明徳義塾高校にサッカー留学で訪日。高校時代は県予選突破が出来ず全国大会に出場できなかったため、ほとんど無名であった。高校時代はアレサンと呼ばれていた。 |
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[[ブラジル]]の[[パラナ州]][[マリンガ]]<ref name="ニッケイ新聞20020614" />にてプロサッカー選手ウイルソン・ドス・サントスの長男アレサンドロ・ドス・サントスとして生まれる<ref name="ニッケイ新聞20020614">[[#海を渡ったサムライたち―日伯セレソン物語(13)|海を渡ったサムライたち―日伯セレソン物語(13)]]</ref>。10歳から父親も在籍した[[グレミオ・マリンガ]]の少年チームで育ち<ref name="sm0851" />、16歳のときには既にプロデビューを果たす<ref name="加部 2009">加部究「海を越えてきたフットボーラー 第42回 三都主アレサンドロ」</ref>。1998年8月{{sfn|竹澤|2002|p=28}}、留学生獲得のためブラジルを訪れていた[[明徳義塾中学校・高等学校|明徳義塾高校]]サッカー部の北村保夫部長とジョゼ・カルロス監督に練習試合でのプレーを高く評価され、1994年6月に明徳義塾高校に入学<ref name="加部 2009" />。同校には三都主を含め4名の留学生が一緒に入学した{{sfn|竹澤|2002|p=33}}<ref name="加部 2009" />。高校時代は一度も県予選を突破できず全国大会には無縁だった<ref name="加部 2009" />ため、ほとんど無名の存在だった。ポジションはブラジル時代はディフェンダー(センターバック<ref name="加部 2009" />)だったが、明徳在学中に徐々に前の方へと移っていった<ref name="加部 2009" />。 |
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=== 清水エスパルス === |
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明徳義塾高校卒業後、監督が[[清水エスパルス]]のスカウトと知り合いだったこともあり、清水の練習に練習生として参加し、契約を勝ち取る。[[1997年]]に正式入団<ref name="GLOBE" />、持ち前のドリブルで左サイドのスペシャリストとして頭角を現す。 |
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明徳義塾高校卒業後、監督が[[清水エスパルス]]のスカウトと知り合いだったこともあり、清水の練習に練習生として参加し、契約を勝ち取る。1997年に正式入団<ref name="GLOBE" />、持ち前のドリブルで左サイドのスペシャリストとして頭角を現す。「アレックス」という登録名は当時の清水の監督[[オズワルド・アルディレス]]によって付けられた<ref name="sm0831" />。 |
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入団当時、清水には[[カルロス・アルベルト・ソーザ・ドス・サントス|サントス]]、[[フェルナンド・ニコラス・オリバ|オリバ]]、[[マーク・ボウエン]]と3人の外国籍選手がおり、三都主は第4の選手とみなされていた<ref name="sm0831" />。しかし他の選手に故障が相次いだこともあり<ref name="sm0831" />1年目からリーグ戦27試合に出場した。体力不足もあって1年目のリーグ戦フル出場は1試合のみにとどまった<ref name="sm0831" />。1997年5月28日の1stステージ第11節[[アビスパ福岡]]戦では、自陣からドリブルで約70メートルを突破して初ゴールを決めた<ref name="sm0831" />。 |
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当初、清水ではスーパーサブ的な役割での出場が多かったが、1998年以降は左サイドでのスタメンでの出場機会が増えた。[[1999年のJリーグ|1999年]]にはスタメンとして左サイドのポジションを不動のものとし大ブレイク。同年2ndステージ優勝(年間勝点では1位)に大きく貢献、史上最年少の22歳でJリーグMVPを獲得した。また、1999-2000年アジアカップウイナーズカップ、[[2001年]][[天皇杯全日本サッカー選手権|天皇杯]]優勝にも貢献した。 |
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清水加入当初は色々なポジションで起用されていたが、1999年に左アウトサイドに定着<ref name="sm0866">「三都主アレサンドロ(日本代表)」『週刊サッカーマガジン』、2002年5月22日号 No.866、ベースボール・マガジン社、106頁。</ref>。清水はこの年に2ndステージで優勝、また年間勝ち点では2位以下に大きく差を付けて1位となった。この年に大きくブレイクした三都主は清水躍進の原動力となり<ref name="sm0866" /><ref name="sm0959">「左サイドの待ち人はアレックス/浦和」『週刊サッカーマガジン』、2004年2月10日号 No.959、ベースボール・マガジン社、100-101頁。</ref>、史上最年少の22歳で[[Jリーグアウォーズ|Jリーグ最優秀選手賞]]を受賞した。1999年12月11日に行われた[[ジュビロ磐田]]とのチャンピオンシップ第2戦では、相手選手を蹴りつけて35分に退場を命じられた<ref name="asahi_19991212">{{cite web| author = | date = 1999-12-12| url = http://www.asahi.com/sports/2005supercup/00-2.html| title = PK戦、磐田に女神 1999年 Jリーグ・チャンピオンシップ第2戦 | publisher = 朝日新聞| accessdate = 2015-12-12}}</ref><ref name="sm1003">「アレックス/5年越しのリベンジへ」『週刊サッカーマガジン』、2004年12月14日号 No.1003、ベースボール・マガジン社、13頁。</ref>。チームは奮闘したものの最終的にPK戦で磐田に敗れた。清水の監督[[スティーブ・ペリマン]]は「11人で戦っていれば勝っていた」と試合後に振り返った<ref name="sm1003" /><ref name="asahi_19991212" />。 |
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ちょうどその頃から、周囲から日本への帰化の話が持ち上がるようになっていた。かなりの期間日本で暮らして日本での生活にも慣れ、日本人の恋人もおり、[[サッカー日本代表|日本代表]]にも魅力を感じていた。悩んだアレックスは、以前に同じく清水に所属し、同様にサッカー留学から日本のサッカークラブに入団した[[三渡洲アデミール]]に相談。その三渡洲から「帰化するならその国に骨をうずめても良いというくらいの気持ちで帰化すべきで、代表に入りたいという理由だけで帰化するならやめた方がいい」とアドバイスされ、熟考の末に帰化申請を決意する。 |
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また、[[アジアカップウィナーズカップ1999-2000]]、[[第81回天皇杯全日本サッカー選手権大会|第81回天皇杯]]優勝にも貢献した。[[セレッソ大阪]]との天皇杯決勝で三都主は1得点1アシストし、3-2の勝利に貢献した<ref name="sm0831">「ニッポンの希望/アレックスの現在・過去・未来」『週刊サッカーマガジン』、2001年9月19日号 No.831、ベースボール・マガジン社、6-9頁。</ref><ref name="sm0850">「現地独占取材①三都主インタビュー/日本にはアレックスがいる」『週刊サッカーマガジン』、2002年1月30日号 No.850、ベースボール・マガジン社、6-13頁。</ref>。2001年9月3日に開催された[[JOMO CUP]]では、ワールド・ドリームス(外国籍選手選抜)のキャプテンマークを巻いた<ref name="sm0831" />。清水在籍最終シーズンとなった2003年にはチームキャプテンを務めた<ref>{{cite web| author = | date = 2015-01-26| url = http://www.s-pulse.co.jp/news/detail/28117| title = 2015シーズン キャプテン・副キャプテン決定のお知らせ| publisher = 清水エスパルス| accessdate = 2015-09-30}}</ref><ref name="sm0959" /> |
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2001年11月12日、帰化申請が認められ<ref name="kokuji527" />、日本名「三都主アレサンドロ」を届け出ている。「三都主」は、自身にとって思い出深い「ブラジル・高知・清水」の三つの都市を意味している<ref>{{cite web|url=http://sportsnews.blog.ocn.ne.jp/column/soccer100330_2_1.html|title=三都主アレサンドロ/名古屋グランパス(1/3)|work=[[OCN]]スポーツ|accessdate=2013.9.21}}</ref>。 |
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ただし、以前から呼ばれていた『'''アレックス'''』という[[名前の短縮型|通称]]に特別の思い入れを持っていたため、これからも'''アレックス'''と呼んで欲しいと言っていた。 |
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2000年シーズン終了後にはギリシャの[[パナシナイコスFC]]からオファーを受けていたが、契約には至らなかった<ref name="sm0886">「アレックス、プレミア上陸!」『週刊サッカーマガジン』、2002年9月4日号 No.886、ベースボール・マガジン社、6-13頁。</ref>。 |
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[[2002年]]、[[2002 FIFAワールドカップ|日韓W杯]]に日本代表として選出される<ref name="GLOBE" />。切り札として期待されていたが、出場機会は少なかった。それでも、決勝トーナメント1回戦のトルコ戦では、クロスバー直撃のFKを放った。大会後には、[[プレミアリーグ]]の[[チャールトン・アスレティックFC|チャールトン]]へ移籍金4億5000万円の5年契約で入団合意が伝えられたが<ref>{{cite web|url=http://www.47news.jp/CN/200208/CN2002082301000014.html|title=三都主の移籍が決定 プレミアのチャールトン|work=[[47NEWS]]|date=2002.8.22|accessdate=2012.9.28}}</ref>、労働許可証を取得できなかったため白紙となった<ref>{{cite web|url=http://www.47news.jp/CN/200208/CN2002082801000482.html|title=三都主の移籍が白紙に 英当局、労働許可出さず|work=[[47NEWS]]|date=2002.8.28|accessdate=2012.9.28}}</ref>。 |
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2002年8月、[[プレミアリーグ]]の[[チャールトン・アスレティックFC|チャールトン]]に移籍金350万ドル(約4億2000万円<ref name="sm0887">「連載「高野の7人プラス1」最新REPORT 完全移籍は実力で/アレックス(チャールトン)」『週刊サッカーマガジン』、2002年9月11日号 No.887、ベースボール・マガジン社、97-99頁。</ref>。または4億5000万円<ref name="47NEWS_20020822">{{cite web|url=http://www.47news.jp/CN/200208/CN2002082301000014.html|title=三都主の移籍が決定 プレミアのチャールトン|work=[[47NEWS]]|date=2002.8.22|accessdate=2012.9.28| archiveurl=https://web.archive.org/web/20140714135336/http://www.47news.jp/CN/200208/CN2002082301000014.html|archivedate=2014-07-14|deadlinkdate= 2015-12-13}}</ref>)、5年契約<ref name="sm0887" />で加入合意が伝えられたが<ref name="47NEWS_20020822" />、イギリス政府から労働許可証が発行されなかったため白紙になった<ref name="sm0905">「2003右肩上がりの30人 foot06 アレックス」『週刊サッカーマガジン』、2003年1月22日号 No.905、ベースボール・マガジン社、16頁。</ref><ref>{{cite web|url=http://www.47news.jp/CN/200208/CN2002082801000482.html|title=三都主の移籍が白紙に 英当局、労働許可出さず|work=[[47NEWS]]|date=2002.8.28|accessdate=2012.9.28 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131214112211/http://www.47news.jp/CN/200208/CN2002082801000482.html|archivedate=2013-12-14|deadlinkdate= 2015-12-13}}</ref>。 |
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[[2003年]][[12月]]に日本人と結婚(2005年9月第1子(長男)誕生)。清水エスパルスから[[浦和レッドダイヤモンズ]]に移籍する。移籍金は当時国内最高額となる3億5000万だった<ref>{{cite web|url=http://www.47news.jp/CN/200401/CN2004011901003727.html|title=三都主、最高額で浦和入り 安貞桓は横浜Mへ|work=[[47NEWS]]|date=2004.1.19|accessdate=2013.9.21}}</ref>。浦和での応援歌の原曲は[[ポパイ]]のテーマ。 |
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=== 浦和レッズ === |
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2002年W杯後に就任した[[ジーコ]]からも招集され続けたが、当初は[[中村俊輔]]ら攻撃的MFの控えであった。しかし、2003年6月に日本代表が[[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチン]]に0-4の大敗を喫し、それまで左サイドバックだった[[服部年宏]]がレギュラー落ちした為、後任の左サイドバックに抜擢。日本代表でもレギュラーとなり、3バック採用時は左サイドハーフとして、[[2006 FIFAワールドカップ|2006年W杯]]の最終戦まで約3年間スタメン出場を続けた。しかし、4バックの慣れない守備に追われ、サイドバックとしては難がある守備力を露呈することもあった。一方で、後に日本代表監督を務める[[イビチャ・オシム]](当時[[ジェフユナイテッド市原・千葉|ジェフ千葉]]監督)が「(ドイツ)W杯のクロアチア、オーストラリア戦を見たがアレックスが一番いいDFだったのではないか? 左利きは数少ない上にアレックスより優れた選手は何人いるでしょうか」と語るなど攻撃面は評価された<ref>[http://hochi.yomiuri.co.jp/soccer/japan/news/20061004-OHT1T00022.htm] [[スポーツ報知]]{{リンク切れ|date=2014年7月}}</ref>。2006年W杯後のオシムジャパンでは、DFではなく本来の左アウトサイドのMFとして起用され、攻撃に比重を置いたプレーが許されたこともあり、オシムジャパンのゴール第1号・第2号を記録し、アシストも多く記録した。しかし、監督が[[岡田武史]]に代わると代表に呼ばれなくなり、3回目のワールドカップ出場はならなかった。 |
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2004年1月、[[清水エスパルス]]から[[浦和レッドダイヤモンズ]]に完全移籍<ref name="sm0959" />。移籍金は1997年に[[横浜フリューゲルス]]から[[東京ヴェルディ1969|ヴェルディ川崎]]に移籍した[[前園真聖]]を超えて、当時の国内最高額となる推定3億8000万円<ref name="sm0959" />(または3億5000万円)<ref>{{cite web|url=http://www.47news.jp/CN/200401/CN2004011901003727.html|title=三都主、最高額で浦和入り 安貞桓は横浜Mへ|work=[[47NEWS]]|date=2004.1.19|accessdate=2013.9.21 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130921054252/http://www.47news.jp/CN/200401/CN2004011901003727.html|archivedate=2013-09-21|deadlinkdate= 2015-12-13}}</ref>だった。 |
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浦和では[[2004年のJリーグ|2004年のJ1 2ndステージ]]、[[2006年のJリーグ|2006年のJ1]]、[[第85回天皇杯全日本サッカー選手権大会|2005年度]]と[[第86回天皇杯全日本サッカー選手権大会|2006年度]]の[[天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]に優勝した。 |
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[[2007年]][[1月30日]]から1年間、浦和から[[サッカー・ブンデスリーガ (オーストリア)|オーストリア・ブンデスリーガ]]に所属する[[レッドブル・ザルツブルク]]へ期限付き移籍し、同リーグでの優勝を経験。 |
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=== ザルツブルク === |
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[[2008年]][[1月27日]]、浦和へ復帰するも、Jリーグ開幕前の練習試合で左足付け根に全治3ヶ月の怪我を負う。第14節の[[柏レイソル|柏]]戦にて復帰するが、出場僅か15分で怪我を再発。全治6ヶ月の重傷と診断を受け、同年の公式戦出場はこの1試合のみとなった。 |
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2007年1月30日から1年間、浦和からの期限付き移籍により[[サッカー・ブンデスリーガ (オーストリア)|オーストリア・ブンデスリーガ]]に所属する[[レッドブル・ザルツブルク]]でプレーした<ref>{{cite web| author = | date = 2006-12-21| url = http://www.urawa-reds.co.jp/topteamtopics/%E4%B8%89%E9%83%BD%E4%B8%BB%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AD%E3%80%81%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B6%E3%83%AB%E3%83%84%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%AF/| title = 三都主アレサンドロ、レッドブル・ザルツブルク(オーストリア)に期限付き移籍のお知らせ| publisher = 浦和レッドダイヤモンズ| accessdate = 2015-09-30}}</ref>。ザルツブルクでは加入した2006-07シーズンにリーグ優勝を経験。2007-08シーズン前半まで在籍し、リーグ戦通算11試合に出場した。移籍時には完全移籍や契約延長のオプション契約も含まれていたが、ザルツブルク側はそれらを行使しなかった<ref>{{cite web| author = | date = 2007-10-30| url = http://web.gekisaka.jp/news/detail/?29599-10193-fl| title = 三都主、浦和復帰が決定的に| publisher = ゲキサカ| accessdate = 2015-09-30}}</ref>。 |
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=== 浦和復帰 === |
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[[2009年]]、浦和の新監督として[[フォルカー・フィンケ]]が就任。三都主は負傷の回復が遅れた上に、フィンケの若手選手重用により出場機会が激減した。このため出場機会を求めて移籍を志願し、同年8月に[[ドラガン・ストイコビッチ]]監督のラブコールを受け[[名古屋グランパスエイト|名古屋グランパス]]へと完全移籍した。決して試合出場数は多くはなかったが、決定的なアシストで2010年の優勝にも貢献。2012年シーズンを以って契約満了となり、クラブを退団した。 |
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2008年1月、期限付き移籍期間満了により[[浦和レッドダイヤモンズ]]に復帰<ref>{{cite web| author = | date = 2008-01-31| url = http://www.urawa-reds.co.jp/topteamtopics/%E4%B8%89%E9%83%BD%E4%B8%BB%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AD%E3%80%81%E6%9C%9F%E9%99%90%E4%BB%98%E3%81%8D%E7%A7%BB%E7%B1%8D%E3%81%8B%E3%82%89%E5%BE%A9%E5%B8%B0/| title = 三都主アレサンドロ、期限付き移籍から復帰| publisher = 浦和レッドダイヤモンズ| accessdate = 2015-09-30}}</ref>。2008年Jリーグ開幕前の練習試合で左足付け根に全治3ヶ月の怪我を負う<ref>{{cite web| author = | date = 2008-03-05| url = http://www.nikkansports.com/soccer/news/p-sc-tp0-20080305-331491.html| title = 浦和三都主が左足けん断裂でJ前半戦絶望| publisher = nikkansports.com| accessdate = 2015-09-30}}</ref>。第14節の[[柏レイソル]]戦にて復帰するが、出場わずか15分で怪我を再発。全治6ヶ月の重傷と診断を受け<ref>{{cite web| author = | date = 2008-07-02| url = http://www.nikkansports.com/soccer/news/p-sc-tp0-20080702-378689.html| title = 三都主今季絶望、左太もも全治6カ月| publisher = nikkansports.com| accessdate = 2015-09-30}}</ref>、同年の公式戦出場はこの1試合のみとなった。 |
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2009年、浦和の新監督に[[フォルカー・フィンケ]]が就任。三都主は負傷の回復が遅れた上に、フィンケの若手選手重用により出場機会が激減。先発出場は8月までに2試合のみ<ref>{{cite web| author = | date = 2009-08-05 | url = http://web.gekisaka.jp/news/detail/?57707-40331-fl| title = 三都主が涙の別れ。フィンケ監督にはリベンジ宣言も| publisher = ゲキサカ| accessdate = 2015-09-30}}</ref>にとどまっていた。 |
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[[2013年]]、J2の[[栃木サッカークラブ|栃木SC]]に完全移籍<ref>{{cite web|url=http://www.tochigisc.jp/news/article/00004166.html|title=三都主アレサンドロ選手 完全移籍加入のお知らせ|work=栃木SC公式サイト|date=2013.1.11|accessdate=2013.1.11}}</ref>。シーズン終了をもって栃木との契約が満了した<ref>{{cite web|url=http://www.tochigisc.jp/news/article/00005134.html|title=三都主アレサンドロ選手 契約満了お知らせ|work=栃木SC公式サイト|date=2013.12.13|accessdate=2013.1.11}}</ref>。 |
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=== 名古屋グランパス === |
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[[2014年]]、J2の[[FC岐阜]]に完全移籍<ref>{{cite web|url=http://www.fc-gifu.com/news/post-2661.html|title=三都主アレサンドロ選手、栃木SCより完全移籍加入のお知らせ|work=FC岐阜公式サイト|date=2014.1.15|accessdate=2014.1.15}}</ref>。18試合に出場し2得点を挙げたが、2015年1月、契約満了による退団が発表された<ref>{{cite web|url=http://www.fc-gifu.com/news/post-3244.html|title=契約満了選手のお知らせ|work=FC岐阜公式サイト|date=2015.1.11|accessdate=2015.1.11}}</ref>。 |
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[[ドラガン・ストイコビッチ]]監督のラブコールを受け、2009年8月3日に[[名古屋グランパスエイト|名古屋グランパス]]への完全移籍が発表された<ref>{{cite web| author = | date = 2008-08-03| url = http://www.nikkansports.com/soccer/news/f-sc-tp0-20090803-526812.html| title = 名古屋が三都主の完全移籍を発表| publisher = nikkansports.com| accessdate = 2015-09-30}}</ref>。8月15日の[[川崎フロンターレ]]戦に左サイドバックとしてフル出場したのが名古屋でのデビュー戦となった<ref>{{cite web |
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| author = | date = 2009-08-15| url = http://www.nikkansports.com/soccer/news/f-sc-tp0-20090815-531560.html| title = 三都主の名古屋デビュー戦は黒星/J1| publisher = nikkansports.com| accessdate = 2015-09-30}}</ref>。名古屋では左サイドやセントラルのミッドフィールダーとしても出場<ref>『Jリーグ2009シーズン総集編』日本スポーツ企画出版社、2009年、75頁。</ref>。 |
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名古屋がJ1リーグで優勝した2010年シーズンは、左サイドバックおよびアンカーをこなす貴重なバックアッパーとして25試合(先発は11試合)に起用された<ref>『Jリーグ2010シーズン総集編』日本スポーツ企画出版社、2010年、14頁。</ref>。 |
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2015年2月、日本を離れて地元ブラジルの{{仮リンク|マリンガFC|pt|Maringá Futebol Clube}}へ移籍<ref>{{cite web|url=http://www.footballchannel.jp/2015/02/23/post73322/|title=元日本代表MF三都主が故郷ブラジルのマリンガへ |work=フットボールチャンネル|date=2015.2.23|accessdate=2015.2.23}}</ref>。妻や子供をつれてブラジルの両親の元に戻り、日本での生活に終止符をうった。同年3月29日に行われたJ.マルセーリF S/A戦で移籍後初ゴールを挙げた<ref>{{cite web|url=http://www.maringafc.com/noticias.php?idN=79|title=Maringá FC vence mais uma e enfrenta o Londrina nas quartas do Paranaense |
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|work=マリンガFC 公式HP|date=2015.3.29|accessdate=2015.3.29}}</ref>。 |
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2012年シーズンをもって契約満了となり、クラブを退団した。 |
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=== 近年 === |
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2012年12月には[[Jリーグ合同トライアウト|合同トライアウト]]に参加<ref>{{cite web| author = | date = 2013-01-10| url = http://www.nikkansports.com/soccer/news/p-sc-tp0-20130110-1070053.html| title = 三都主、J2栃木入り決定的| work = nikkansports.com| publisher = 日刊スポーツ新聞社| accessdate = 2015-12-13}}</ref><ref>{{cite web| author = | date = 2012-12-11| url = http://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2012/12/11/kiji/K20121211004756280.html| title = 三都主、福田ら84選手がJリーグトライアウトに参加| work = Sponichi Annex| publisher = スポーツニッポン新聞社| accessdate = 2015-12-13}}</ref>。2013年1月にJ2の[[栃木サッカークラブ|栃木SC]]に完全移籍で加入<ref>{{cite web|url=http://www.tochigisc.jp/news/article/00004166.html|title=三都主アレサンドロ選手 完全移籍加入のお知らせ|work=栃木SC公式サイト|date=2013.1.11|accessdate=2013.1.11}}</ref>。シーズン終了をもって栃木との契約が満了した<ref>{{cite web|url=http://www.tochigisc.jp/news/article/00005134.html|title=三都主アレサンドロ選手 契約満了お知らせ|work=栃木SC公式サイト|date=2013.12.13|accessdate=2013.1.11}}</ref>。 |
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2014年、J2の[[FC岐阜]]に完全移籍<ref>{{cite web|url=http://www.fc-gifu.com/news/post-2661.html|title=三都主アレサンドロ選手、栃木SCより完全移籍加入のお知らせ|work=FC岐阜公式サイト|date=2014.1.15|accessdate=2014.1.15}}</ref>。18試合に出場し2得点を挙げたが、2015年1月、契約満了による退団が発表された<ref>{{cite web|url=http://www.fc-gifu.com/news/post-3244.html|title=契約満了選手のお知らせ|work=FC岐阜公式サイト|date=2015.1.11|accessdate=2015.1.11}}</ref>。 |
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2015年2月、日本を離れて地元ブラジルの[[カンピオナート・パラナエンセ|パラナ州選手権1部]]<ref name="asahi_20151208">{{cite web| author = 柴田真宏| date = 2015-12-08| url = http://digital.asahi.com/articles/ASHD42F7GHD4UHBI00B.html?rm=198| title = (@マリンガ)三都主選手に聞く、ブラジルと日本の違い| work = 朝日新聞デジタル| publisher = 朝日新聞社| accessdate = 2015-12-13}}</ref>・{{仮リンク|マリンガFC|pt|Maringá Futebol Clube}}へ移籍<ref>{{cite web|url=http://www.footballchannel.jp/2015/02/23/post73322/|title=元日本代表MF三都主が故郷ブラジルのマリンガへ |work=フットボールチャンネル|date=2015.2.23|accessdate=2015.2.23}}</ref>。妻や子供をつれてブラジルの両親の元に戻り、日本での生活に終止符をうった。同年3月29日に行われた[[SCコリンチャンス・パラナエンセ|J.マルセーリF S/A]]戦で移籍後初ゴールを挙げた<ref>{{cite web|url=http://www.maringafc.com/noticias.php?idN=79|title=Maringá FC vence mais uma e enfrenta o Londrina nas quartas do Paranaense |work=マリンガFC 公式HP|date=2015.3.29|accessdate=2015.3.29}}</ref>。同クラブでは6月までプレーした<ref name="asahi_20151208" />。 |
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2015年8月に古巣であるパラナ州選手権3部の{{仮リンク|グレミオ・マリンガ|pt|Grêmio de Esportes Maringá}}加入が発表され<ref>{{cite web| author = | date = 2015-08-27| url = http://www.galoguerreiro.com/#!Gr%C3%AAmio-Maring%C3%A1-anuncia-o-meia-Alex-Santos-como-refor%C3%A7o-para-o-estadual/ccrb/55ddd7560cf24e84f75928c1| title = Grêmio Maringá anuncia o meia Alex Santos como reforço para o estadual| publisher = Grêmio Maringá | accessdate = 2015-12-13}}</ref><ref>{{cite web| author = | date = 2015-08-27| url = http://redacaoemcampo.com/2015/08/27/gremio-maringa-anuncia-alex-santos/| title = Grêmio Maringá anuncia Alex Santos - | Porque o Futebol é a nossa paixão| publisher = Redação em Campo | accessdate = 2015-12-13}}</ref>、同年10月まで3ヶ月間プレーした<ref name="asahi_20151208" />。 |
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== 日本代表 == |
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2001年11月に日本への帰化申請が認められると<ref name="加部 2009" />、[[フィリップ・トルシエ]]によって[[サッカー日本代表|日本代表]]に招集され、2002年3月の[[サッカーウクライナ代表|ウクライナ]]との親善試合で代表デビューを果たす<ref name="加部 2009" />。[[2002 FIFAワールドカップ]]の日本代表にも選出された<ref name="GLOBE" />。同大会のグループリーグでは出番がなかったが、決勝トーナメント1回戦の[[サッカートルコ代表|トルコ]]戦で先発出場。42分に「蹴った瞬間、『入った!』と思った」<ref name="サッカーダイジェストweb20150508" />というクロスバー直撃のフリーキックを放った<ref name="加部 2009" />。前半終了後に交代させられたため、2002年大会は45分間の出場にとどまった<ref name="加部 2009" />。 |
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{{要出典範囲|2002年W杯後に就任した[[ジーコ]]からも招集され続けたが、当初は[[中村俊輔]]ら攻撃的MFの控えであった。しかし、2003年6月に日本代表が[[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチン]]に0-4の大敗を喫し、それまで左サイドバックだった[[服部年宏]]がレギュラー落ちした為、後任の左サイドバックに抜擢|date=2015年9月}}。レギュラーとなり、3バック採用時は左サイドハーフとして、[[2006 FIFAワールドカップ|2006年W杯]]の最終戦まで約3年間スタメン出場を続けた。しかし、4バックの慣れない守備に追われ、サイドバックとしては難がある守備力を露呈することもあった。一方で、後に日本代表監督を務める[[イビチャ・オシム]](当時[[ジェフユナイテッド市原・千葉|ジェフ千葉]]監督)は「(ドイツ)W杯のクロアチア、オーストラリア戦を見たがアレックスが一番いいDFだったのではないか。左利きは数少ない上にアレックスより優れた選手は何人いるでしょうか」と攻撃面を評価した<ref>[http://hochi.yomiuri.co.jp/soccer/japan/news/20061004-OHT1T00022.htm 三都主、左サイドバック…オシム監督常識覆す「W杯で一番いいDF」] [[スポーツ報知]]{{リンク切れ|date=2014年7月}}{{Wayback |url=http://hochi.yomiuri.co.jp/soccer/japan/news/20061004-OHT1T00022.htm |date=20061114205902}}</ref>。 |
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2006年W杯後のオシムジャパンでは、DFではなく本来の左アウトサイドのMFとして起用され、攻撃に比重を置いたプレーが許されたこともあり、オシムジャパンのゴール第1号・第2号を記録し、アシストも多く記録した。最終的には当時歴代4位となる82まで代表キャップ数を伸ばした<ref name="加部 2009" />。 |
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== 人物 == |
== 人物 == |
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2001年3月に日本への帰化を申請<ref name="サッカーダイジェストweb20150508">沢田啓明、サッカーダイジェストweb</ref>、2001年11月12日に帰化申請が認められ<ref name="kokuji527" />、日本名「三都主アレサンドロ」を届け出ている。「三都主」は、自身にとって思い出深い「ブラジル・高知・清水」の三つの都市を意味している<ref>{{cite web|url=http://sportsnews.blog.ocn.ne.jp/column/soccer100330_2_1.html|title=三都主アレサンドロ/名古屋グランパス(1/3)|work=[[OCN]]スポーツ|accessdate=2013.9.21}}{{Wayback |url=http://sportsnews.blog.ocn.ne.jp/column/soccer100330_2_1.html |date=20100409224237}}</ref>。 |
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清水時代、ゴールを決めた後、[[テツandトモ]]の「なんでだろ〜」のパフォーマンスをサポーターに披露。顔がアメリカ合衆国大統領の[[バラク・オバマ]]に似ていると評される。三都主自身も自覚しているようで、小学校訪問などでは「こんにちは、オバマです」と挨拶することがある。 |
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2003年12月に日本人と結婚。2005年9月に第1子(長男)誕生。 |
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父親のウイルソンは主に右サイドバック{{sfn|竹澤|2002|p=12}}<ref name="ニッケイ新聞20020614" />またはセンターバック<ref name="sm0851">「三都主、現地独占取材②」『週刊サッカーマガジン』、2002年2月6日号 No.851、ベースボール・マガジン社、10-13頁。</ref>{{sfn|竹澤|2002|p=12}}の選手として、[[グレミオ・マリンガ]]、[[ゴイアスEC|ゴイアス]]など6つのクラブで14年間プレーし<ref name="ニッケイ新聞20020614" />、1977年にはグレミオ・マリンガで[[カンピオナート・パラナエンセ|パラナ州選手権]]優勝の経験もある{{sfn|竹澤|2002|p=13}}<ref name="ニッケイ新聞20020614" />。1983年に引退した後は繊維工場で運転手として働いた{{sfn|竹澤|2002|p=15}}。 |
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帰化後もJリーグでの登録名は「アレックス」とし、2002年W杯での登録名も「アレックス(ALEX)」とするよう申請し、[[FIFA]]([[国際サッカー連盟]])も承認する。本人も「三都主でもアレックスでもどちらでもいい」と語る。チームメイトは「アレックス」や「アレ」と呼び、浦和やレッドブル・ザルツブルクの選手紹介の時には「アレックス」と紹介される。 |
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== 所属クラブ == |
== 所属クラブ == |
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*2013年 {{Flagicon|JPN}} [[栃木SC]] |
*2013年 {{Flagicon|JPN}} [[栃木SC]] |
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*2014年 {{Flagicon|JPN}} [[FC岐阜]] |
*2014年 {{Flagicon|JPN}} [[FC岐阜]] |
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*2015年 - {{Flagicon|BRA}} {{仮リンク|マリンガFC|pt|Maringá Futebol Clube}} |
*2015年2月 - 2015年6月 {{Flagicon|BRA}} {{仮リンク|マリンガFC|pt|Maringá Futebol Clube}} |
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*2015年8月 - 2015年10月 {{Flagicon|BRA}} {{仮リンク|グレミオ・マリンガ|pt|Grêmio de Esportes Maringá}} |
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== 個人成績 == |
== 個人成績 == |
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{{サッカー選手国内成績表 top|yy}} |
{{サッカー選手国内成績表 top|yy}} |
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== チームタイトル == |
== チームタイトル == |
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;清水エスパルス |
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* [[サッカー・ブンデスリーガ (オーストリア)|オーストリア・ブンデスリーガ]] 優勝 : 2007 |
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* Jリーグ セカンドステージ 優勝:1999 |
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* 天皇杯全日本サッカー選手権大会 優勝:2001 |
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* ゼロックススーパーカップ 優勝:2001 |
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* アジアカップウィナーズカップ 優勝:1999-2000 |
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;浦和レッズ |
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* Jリーグ セカンドステージ 優勝:2004 |
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* Jリーグ ディビジョン1 優勝:2006 |
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* 天皇杯全日本サッカー選手権大会 優勝:2005、2006 |
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;レッドブル・ザルツブルク |
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* [[サッカー・ブンデスリーガ (オーストリア)|オーストリア・ブンデスリーガ]] 優勝:2006-07 |
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;名古屋グランパス |
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* Jリーグ ディビジョン1 優勝:2010 |
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== 個人タイトル == |
== 個人タイトル == |
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243行目: | 289行目: | ||
*[[サントリー]]「デカビタC」(2002年) |
*[[サントリー]]「デカビタC」(2002年) |
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* [[レッドブル]]「エナジードリンク」(2007年)『宮本恒靖&三都主篇』 - [[宮本恒靖]]との共演 |
* [[レッドブル]]「エナジードリンク」(2007年)『宮本恒靖&三都主篇』 - [[宮本恒靖]]との共演 |
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== 関連書籍 == |
== 関連書籍 == |
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*褐色のドリブラー 三都主物語(著・北村保夫、2002年4月) |
*褐色のドリブラー 三都主物語(著・北村保夫、2002年4月) |
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{{脚注ヘルプ}} |
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{{Reflist}} |
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== 参考文献 == |
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* 加部究「海を越えてきたフットボーラー 第42回 三都主アレサンドロ」『サッカー批評』issue 45、双葉社、2009年、108-112頁。 |
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* {{Cite book|和書|author=竹澤哲|year=2002|title=フォルツァ!アレックス|publisher=文春ネスコ|isbn=978-4890361625|ref={{SfnRef|竹澤|2002}} }} |
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* {{cite web| author = 下薗昌記| date = 2002-06-14| url = http://200.218.30.171/2002/020614-62colonia.html| title = 海を渡ったサムライたち―日伯セレソン物語(13)―三都主アレサンドロ-1-プロの父持つ「親子鷹」-スタジアムを遊び場に育つ| publisher = ニッケイ新聞| accessdate = 2015-12-12|ref=海を渡ったサムライたち―日伯セレソン物語(13)}} |
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* {{cite web| author = 下薗昌記| date = 2002-06-15| url = http://200.218.30.171/2002/020615-62colonia.html| title = 海を渡ったサムライたち―日伯セレソン物語(14)―三都主アレサンドロ-2-代表入り喜ぶ母-帰化後も変らないきずな| publisher = ニッケイ新聞| accessdate = 2015-12-12|ref=海を渡ったサムライたち―日伯セレソン物語(14)}} |
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* {{cite web| author = 下薗昌記| date = 2002-06-18| url = http://200.218.30.171/2002/020618-62colonia.html| title = 海を渡ったサムライたち―日伯セレソン物語(15)―三都主アレサンドロ-3-左足で道切り開く-ブラジルとの対戦望む父| publisher = ニッケイ新聞| accessdate = 2015-12-12|ref=海を渡ったサムライたち―日伯セレソン物語(15)}} |
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* {{cite web| author = 沢田啓明| date = 2015-05-08| url = http://www.soccerdigestweb.com/news/detail/id=9049| title = 三都主アレサンドロが語る、日本での20年、故郷でのリスタート、将来の夢 |
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| publisher = サッカーダイジェストweb| accessdate = 2015-12-12|ref=サッカーダイジェストweb20150508}} |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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{{表2列| |
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* [[清水エスパルスの選手一覧]] |
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* [[浦和レッドダイヤモンズの選手一覧]] |
* [[浦和レッドダイヤモンズの選手一覧]] |
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258行目: | 313行目: | ||
* [[栃木SCの選手一覧]] |
* [[栃木SCの選手一覧]] |
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* [[FC岐阜の選手一覧]] |
* [[FC岐阜の選手一覧]] |
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* [[2002 FIFAワールドカップ日本代表]] |
* [[2002 FIFAワールドカップ日本代表]] |
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* [[2006 FIFAワールドカップ日本代表]] |
* [[2006 FIFAワールドカップ日本代表]] |
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* [[ソル・スポーツマネージメント]] - 所属マネジメント会社 |
* [[ソル・スポーツマネージメント]] - 所属マネジメント会社 |
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* [[バニラ (クラブ)|club vanilla]] |
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{{Navboxes|title = <span style="color:#FFF">日本代表 - 出場大会</span>|titlestyle =background:#00D; color:#FFF; |
{{Navboxes|title = <span style="color:#FFF">日本代表 - 出場大会</span>|titlestyle =background:#00D; color:#FFF; |
2016年1月24日 (日) 06:33時点における版
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名前 | ||||||
本名 | (ブラジル名、帰化前名)アレサンドロ・ドス・サントス[1] | |||||
愛称 | アレックス、アレ | |||||
カタカナ | サントス アレサンドロ | |||||
ラテン文字 | SANTOS Alessandro | |||||
ポルトガル語 | Alessandro dos Santos | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本、 ブラジル(二重国籍[2]) | |||||
生年月日 | 1977年7月20日(47歳)[1] | |||||
出身地 | ブラジル・パラナ州マリンガ[3] | |||||
身長 | 178 cm | |||||
体重 | 69 kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF、DF | |||||
利き足 | 左足 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 (得点) | ||||
1997-2003 | 清水エスパルス | 198 (56) | ||||
2004-2009 | 浦和レッドダイヤモンズ | 100 (11) | ||||
2007 | → レッドブル・ザルツブルク (loan) | 20 (1) | ||||
2009-2012 | 名古屋グランパス | 55 (0) | ||||
2013 | 栃木SC | 25 (2) | ||||
2014 | FC岐阜 | 18 (2) | ||||
2015 | マリンガFC | |||||
2015 | グレミオ・マリンガ | |||||
代表歴 | ||||||
2002-2006[4] | 日本 | 82 (7) | ||||
1. 国内リーグ戦に限る。2015年12月13日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
三都主 アレサンドロ(さんとす アレサンドロ、Santos Alessandro, 1977年7月20日[1] - )は、ブラジル・パラナ州マリンガ出身[3]のサッカー選手[2]。元日本代表でキャップ数82[2]は歴代6位。2001年11月12日、日本国に帰化し[1]現在はブラジルと二重国籍[2]。帰化以前の本名はアレサンドロ・ドス・サントス (Alessandro dos Santos) 、当時の登録名はアレックス (Alex) 。
利き足は左。ポジションは左ウィングバック、攻撃的MFとしての出場のほか、清水在籍時にはフォワード、名古屋加入以後はセンターハーフ、日本代表では左サイドバックでも出場した。
16歳のときにサッカー留学生として日本の明徳義塾高校に入学し、1997年に清水エスパルス入り。1999年に史上最年少の22歳でJリーグ年間最優秀選手賞を受賞した。2004年に浦和レッズに移籍。2007年にはオーストリアのレッドブル・ザルツブルクでもプレーした。2008年に浦和に復帰後、2009年8月に名古屋グランパスに移籍。2013年からはJ2のFC岐阜、栃木SCにそれぞれ1年ずつ在籍。2015年にブラジルへ戻りマリンガFCとグレミオ・マリンガでプレーした。
2001年に日本国籍取得後、2002年から2006年までサッカー日本代表に招集されて82試合出場7得点。FIFAワールドカップに2回(2002年日韓大会、2006年ドイツ大会)出場、2004年アジアカップに優勝した。
来歴
生い立ち
ブラジルのパラナ州マリンガ[3]にてプロサッカー選手ウイルソン・ドス・サントスの長男アレサンドロ・ドス・サントスとして生まれる[3]。10歳から父親も在籍したグレミオ・マリンガの少年チームで育ち[5]、16歳のときには既にプロデビューを果たす[6]。1998年8月[7]、留学生獲得のためブラジルを訪れていた明徳義塾高校サッカー部の北村保夫部長とジョゼ・カルロス監督に練習試合でのプレーを高く評価され、1994年6月に明徳義塾高校に入学[6]。同校には三都主を含め4名の留学生が一緒に入学した[8][6]。高校時代は一度も県予選を突破できず全国大会には無縁だった[6]ため、ほとんど無名の存在だった。ポジションはブラジル時代はディフェンダー(センターバック[6])だったが、明徳在学中に徐々に前の方へと移っていった[6]。
清水エスパルス
明徳義塾高校卒業後、監督が清水エスパルスのスカウトと知り合いだったこともあり、清水の練習に練習生として参加し、契約を勝ち取る。1997年に正式入団[2]、持ち前のドリブルで左サイドのスペシャリストとして頭角を現す。「アレックス」という登録名は当時の清水の監督オズワルド・アルディレスによって付けられた[9]。
入団当時、清水にはサントス、オリバ、マーク・ボウエンと3人の外国籍選手がおり、三都主は第4の選手とみなされていた[9]。しかし他の選手に故障が相次いだこともあり[9]1年目からリーグ戦27試合に出場した。体力不足もあって1年目のリーグ戦フル出場は1試合のみにとどまった[9]。1997年5月28日の1stステージ第11節アビスパ福岡戦では、自陣からドリブルで約70メートルを突破して初ゴールを決めた[9]。
清水加入当初は色々なポジションで起用されていたが、1999年に左アウトサイドに定着[10]。清水はこの年に2ndステージで優勝、また年間勝ち点では2位以下に大きく差を付けて1位となった。この年に大きくブレイクした三都主は清水躍進の原動力となり[10][11]、史上最年少の22歳でJリーグ最優秀選手賞を受賞した。1999年12月11日に行われたジュビロ磐田とのチャンピオンシップ第2戦では、相手選手を蹴りつけて35分に退場を命じられた[12][13]。チームは奮闘したものの最終的にPK戦で磐田に敗れた。清水の監督スティーブ・ペリマンは「11人で戦っていれば勝っていた」と試合後に振り返った[13][12]。
また、アジアカップウィナーズカップ1999-2000、第81回天皇杯優勝にも貢献した。セレッソ大阪との天皇杯決勝で三都主は1得点1アシストし、3-2の勝利に貢献した[9][14]。2001年9月3日に開催されたJOMO CUPでは、ワールド・ドリームス(外国籍選手選抜)のキャプテンマークを巻いた[9]。清水在籍最終シーズンとなった2003年にはチームキャプテンを務めた[15][11]
2000年シーズン終了後にはギリシャのパナシナイコスFCからオファーを受けていたが、契約には至らなかった[16]。
2002年8月、プレミアリーグのチャールトンに移籍金350万ドル(約4億2000万円[17]。または4億5000万円[18])、5年契約[17]で加入合意が伝えられたが[18]、イギリス政府から労働許可証が発行されなかったため白紙になった[19][20]。
浦和レッズ
2004年1月、清水エスパルスから浦和レッドダイヤモンズに完全移籍[11]。移籍金は1997年に横浜フリューゲルスからヴェルディ川崎に移籍した前園真聖を超えて、当時の国内最高額となる推定3億8000万円[11](または3億5000万円)[21]だった。
浦和では2004年のJ1 2ndステージ、2006年のJ1、2005年度と2006年度の天皇杯に優勝した。
ザルツブルク
2007年1月30日から1年間、浦和からの期限付き移籍によりオーストリア・ブンデスリーガに所属するレッドブル・ザルツブルクでプレーした[22]。ザルツブルクでは加入した2006-07シーズンにリーグ優勝を経験。2007-08シーズン前半まで在籍し、リーグ戦通算11試合に出場した。移籍時には完全移籍や契約延長のオプション契約も含まれていたが、ザルツブルク側はそれらを行使しなかった[23]。
浦和復帰
2008年1月、期限付き移籍期間満了により浦和レッドダイヤモンズに復帰[24]。2008年Jリーグ開幕前の練習試合で左足付け根に全治3ヶ月の怪我を負う[25]。第14節の柏レイソル戦にて復帰するが、出場わずか15分で怪我を再発。全治6ヶ月の重傷と診断を受け[26]、同年の公式戦出場はこの1試合のみとなった。
2009年、浦和の新監督にフォルカー・フィンケが就任。三都主は負傷の回復が遅れた上に、フィンケの若手選手重用により出場機会が激減。先発出場は8月までに2試合のみ[27]にとどまっていた。
名古屋グランパス
ドラガン・ストイコビッチ監督のラブコールを受け、2009年8月3日に名古屋グランパスへの完全移籍が発表された[28]。8月15日の川崎フロンターレ戦に左サイドバックとしてフル出場したのが名古屋でのデビュー戦となった[29]。名古屋では左サイドやセントラルのミッドフィールダーとしても出場[30]。
名古屋がJ1リーグで優勝した2010年シーズンは、左サイドバックおよびアンカーをこなす貴重なバックアッパーとして25試合(先発は11試合)に起用された[31]。
2012年シーズンをもって契約満了となり、クラブを退団した。
近年
2012年12月には合同トライアウトに参加[32][33]。2013年1月にJ2の栃木SCに完全移籍で加入[34]。シーズン終了をもって栃木との契約が満了した[35]。
2014年、J2のFC岐阜に完全移籍[36]。18試合に出場し2得点を挙げたが、2015年1月、契約満了による退団が発表された[37]。
2015年2月、日本を離れて地元ブラジルのパラナ州選手権1部[38]・マリンガFCへ移籍[39]。妻や子供をつれてブラジルの両親の元に戻り、日本での生活に終止符をうった。同年3月29日に行われたJ.マルセーリF S/A戦で移籍後初ゴールを挙げた[40]。同クラブでは6月までプレーした[38]。
2015年8月に古巣であるパラナ州選手権3部のグレミオ・マリンガ加入が発表され[41][42]、同年10月まで3ヶ月間プレーした[38]。
日本代表
2001年11月に日本への帰化申請が認められると[6]、フィリップ・トルシエによって日本代表に招集され、2002年3月のウクライナとの親善試合で代表デビューを果たす[6]。2002 FIFAワールドカップの日本代表にも選出された[2]。同大会のグループリーグでは出番がなかったが、決勝トーナメント1回戦のトルコ戦で先発出場。42分に「蹴った瞬間、『入った!』と思った」[43]というクロスバー直撃のフリーキックを放った[6]。前半終了後に交代させられたため、2002年大会は45分間の出場にとどまった[6]。
2002年W杯後に就任したジーコからも招集され続けたが、当初は中村俊輔ら攻撃的MFの控えであった。しかし、2003年6月に日本代表がアルゼンチンに0-4の大敗を喫し、それまで左サイドバックだった服部年宏がレギュラー落ちした為、後任の左サイドバックに抜擢[要出典]。レギュラーとなり、3バック採用時は左サイドハーフとして、2006年W杯の最終戦まで約3年間スタメン出場を続けた。しかし、4バックの慣れない守備に追われ、サイドバックとしては難がある守備力を露呈することもあった。一方で、後に日本代表監督を務めるイビチャ・オシム(当時ジェフ千葉監督)は「(ドイツ)W杯のクロアチア、オーストラリア戦を見たがアレックスが一番いいDFだったのではないか。左利きは数少ない上にアレックスより優れた選手は何人いるでしょうか」と攻撃面を評価した[44]。
2006年W杯後のオシムジャパンでは、DFではなく本来の左アウトサイドのMFとして起用され、攻撃に比重を置いたプレーが許されたこともあり、オシムジャパンのゴール第1号・第2号を記録し、アシストも多く記録した。最終的には当時歴代4位となる82まで代表キャップ数を伸ばした[6]。
人物
2001年3月に日本への帰化を申請[43]、2001年11月12日に帰化申請が認められ[1]、日本名「三都主アレサンドロ」を届け出ている。「三都主」は、自身にとって思い出深い「ブラジル・高知・清水」の三つの都市を意味している[45]。
2003年12月に日本人と結婚。2005年9月に第1子(長男)誕生。
父親のウイルソンは主に右サイドバック[46][3]またはセンターバック[5][46]の選手として、グレミオ・マリンガ、ゴイアスなど6つのクラブで14年間プレーし[3]、1977年にはグレミオ・マリンガでパラナ州選手権優勝の経験もある[47][3]。1983年に引退した後は繊維工場で運転手として働いた[48]。
所属クラブ
- ユース経歴
- 1986年 - 1992年 グレミオ・マリンガ少年チーム
- 1993年 - 1994年 グレミオ・マリンガ
- 1994年 - 1996年 明徳義塾高等学校
- プロ経歴
- 1997年 - 2003年 清水エスパルス
- 2004年 - 2009年8月 浦和レッドダイヤモンズ
- 2007年 レッドブル・ザルツブルク (期限付き移籍)
- 2009年8月 - 2012年 名古屋グランパス
- 2013年 栃木SC
- 2014年 FC岐阜
- 2015年2月 - 2015年6月 マリンガFC
- 2015年8月 - 2015年10月 グレミオ・マリンガ
個人成績
国内大会個人成績 | |||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | リーグ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1997 | 清水 | 23 | J | 27 | 3 | 2 | 1 | 3 | 0 | 32 | 4 |
1998 | 17 | 26 | 10 | 5 | 0 | 5 | 2 | 36 | 12 | ||
1999 | 8 | J1 | 30 | 11 | 4 | 0 | 1 | 0 | 35 | 11 | |
2000 | 30 | 4 | 5 | 0 | 5 | 4 | 40 | 8 | |||
2001 | 30 | 12 | 2 | 1 | 5 | 1 | 37 | 14 | |||
2002 | 29 | 9 | 2 | 2 | 3 | 0 | 34 | 11 | |||
2003 | 26 | 7 | 4 | 0 | 4 | 0 | 34 | 7 | |||
2004 | 浦和 | 16 | 27 | 2 | 1 | 0 | 2 | 1 | 30 | 3 | |
2005 | 8 | 32 | 4 | 5 | 0 | 5 | 0 | 42 | 4 | ||
2006 | 34 | 5 | 0 | 0 | 1 | 0 | 35 | 5 | |||
オーストリア | リーグ戦 | リーグ杯 | オーストリア杯 | 期間通算 | |||||||
2006-07 | ザルツブルク | 8 | ブンデス | 9 | 0 | - | - | 9 | 0 | ||
2007-08 | 11 | 1 | - | - | 11 | 1 | |||||
日本 | リーグ戦 | リーグ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
2008 | 浦和 | 8 | J1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 |
2009 | 6 | 0 | 4 | 0 | - | 10 | 0 | ||||
名古屋 | 38 | 14 | 0 | - | 6 | 1 | 20 | 1 | |||
2010 | 25 | 0 | 1 | 0 | 3 | 1 | 29 | 1 | |||
2011 | 11 | 0 | 1 | 0 | 5 | 0 | 17 | 0 | |||
2012 | 5 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 7 | 0 | |||
2013 | 栃木 | 44 | J2 | 25 | 2 | - | 2 | 0 | 27 | 2 | |
2014 | 岐阜 | 11 | 18 | 2 | - | 0 | 0 | 18 | 2 | ||
ブラジル | リーグ戦 | ブラジル杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
2015 | マリンガ | パラナ州選手権1部 | |||||||||
通算 | 日本 | J1 | 353 | 67 | 36 | 4 | 50 | 10 | 439 | 81 | |
日本 | J2 | 43 | 4 | - | 2 | 0 | 45 | 4 | |||
オーストリア | ブンデス | 20 | 1 | - | - | 20 | 1 | ||||
ブラジル | パラナ州選手権1部 | ||||||||||
総通算 | 416 | 72 | 36 | 4 | 52 | 10 | 504 | 86 |
その他の公式戦
- 1999年
- スーパーカップ 1試合0得点
- Jリーグチャンピオンシップ 2試合0得点
- 2001年
- スーパーカップ 1試合1得点
- 2002年
- スーパーカップ 1試合0得点
- 2004年
- Jリーグチャンピオンシップ 2試合1得点
- 2006年
- スーパーカップ 1試合0得点
国際大会個人成績 | ||||
---|---|---|---|---|
年度 | クラブ | 背番号 | 出場 | 得点 |
AFC | ACL | |||
2002-03 | 清水 | 8 | 5 | 3 |
2009 | 名古屋 | 38 | 4 | 0 |
2011 | 3 | 0 | ||
2012 | 2 | 0 | ||
通算 | AFC | 17 | 3 |
その他の国際公式戦
- 2007年
- UEFAチャンピオンズリーグ予備予選2回戦 1試合0得点
チームタイトル
- 清水エスパルス
- Jリーグ セカンドステージ 優勝:1999
- 天皇杯全日本サッカー選手権大会 優勝:2001
- ゼロックススーパーカップ 優勝:2001
- アジアカップウィナーズカップ 優勝:1999-2000
- 浦和レッズ
- Jリーグ セカンドステージ 優勝:2004
- Jリーグ ディビジョン1 優勝:2006
- 天皇杯全日本サッカー選手権大会 優勝:2005、2006
- レッドブル・ザルツブルク
- オーストリア・ブンデスリーガ 優勝:2006-07
- 名古屋グランパス
- Jリーグ ディビジョン1 優勝:2010
個人タイトル
代表歴
出場大会
- 2002年 ワールドカップ日韓大会(ベスト16)
- 2003年 コンフェデレーションズカップフランス大会(グループリーグ敗退)
- 2004年 アジアカップ中国大会(優勝)
- 2005年 コンフェデレーションズカップドイツ大会(グループリーグ敗退)
- 2006年 ワールドカップドイツ大会(グループリーグ敗退)
試合数
- 国際Aマッチ 82試合 7得点(2002-2006)[4]
日本代表 | 国際Aマッチ | |
---|---|---|
年 | 出場 | 得点 |
2002 | 9 | 1 |
2003 | 15 | 1 |
2004 | 22 | 2 |
2005 | 17 | 1 |
2006 | 19 | 2 |
通算 | 82 | 7 |
ゴール
# | 開催年月日 | 開催地 | 対戦国 | 勝敗 | 試合概要 |
---|---|---|---|---|---|
1. | 2002年5月2日 | 日本、神戸市 | ホンジュラス | △ 3-3 | キリンカップサッカー2002 |
2. | 2003年12月7日 | 日本、さいたま市 | 香港 | ○ 1-0 | 東アジアサッカー選手権2003 |
3. | 2004年2月12日 | 日本、東京 | イラク | ○ 2-0 | 親善試合 |
4. | 2004年5月30日 | イングランド、マンチェスター | アイスランド | ○ 3-2 | 親善試合 |
5. | 2005年1月29日 | 日本、横浜市 | カザフスタン | ○ 4-0 | キリンチャレンジカップ2005 |
6. | 2006年8月9日 | 日本、東京 | トリニダード・トバゴ | ○ 2-0 | キリンチャレンジカップ2006 |
7. |
CM出演
- adidas「サッカー狂症候群(三都主アレサンドロ編)」(2002年)
- サントリー「デカビタC」(2002年)
- レッドブル「エナジードリンク」(2007年)『宮本恒靖&三都主篇』 - 宮本恒靖との共演
関連書籍
- 褐色のドリブラー 三都主物語(著・北村保夫、2002年4月)
- フォルツァ!アレックス (著・竹澤哲、2002年8月、文春ネスコ)
脚注
- ^ a b c d e 2001年(平成13年)法務省告示第527号「日本国に帰化を許可する件」
- ^ a b c d e f 朝日新聞 GLOBE『揺らぐ国籍』G-5ページ、2014年7月6日
和気真也 (2014年7月6日). “[Part1]「だから僕は帰化した」/三都主アレサンドロ”. 朝日新聞 GLOBE. 朝日新聞社. 2015年12月13日閲覧。 - ^ a b c d e f g 海を渡ったサムライたち―日伯セレソン物語(13)
- ^ a b “三都主 アレサンドロ”. サッカー日本代表データベース
- ^ a b 「三都主、現地独占取材②」『週刊サッカーマガジン』、2002年2月6日号 No.851、ベースボール・マガジン社、10-13頁。
- ^ a b c d e f g h i j k 加部究「海を越えてきたフットボーラー 第42回 三都主アレサンドロ」
- ^ 竹澤 2002, p. 28.
- ^ 竹澤 2002, p. 33.
- ^ a b c d e f g 「ニッポンの希望/アレックスの現在・過去・未来」『週刊サッカーマガジン』、2001年9月19日号 No.831、ベースボール・マガジン社、6-9頁。
- ^ a b 「三都主アレサンドロ(日本代表)」『週刊サッカーマガジン』、2002年5月22日号 No.866、ベースボール・マガジン社、106頁。
- ^ a b c d 「左サイドの待ち人はアレックス/浦和」『週刊サッカーマガジン』、2004年2月10日号 No.959、ベースボール・マガジン社、100-101頁。
- ^ a b “PK戦、磐田に女神 1999年 Jリーグ・チャンピオンシップ第2戦”. 朝日新聞 (1999年12月12日). 2015年12月12日閲覧。
- ^ a b 「アレックス/5年越しのリベンジへ」『週刊サッカーマガジン』、2004年12月14日号 No.1003、ベースボール・マガジン社、13頁。
- ^ 「現地独占取材①三都主インタビュー/日本にはアレックスがいる」『週刊サッカーマガジン』、2002年1月30日号 No.850、ベースボール・マガジン社、6-13頁。
- ^ “2015シーズン キャプテン・副キャプテン決定のお知らせ”. 清水エスパルス (2015年1月26日). 2015年9月30日閲覧。
- ^ 「アレックス、プレミア上陸!」『週刊サッカーマガジン』、2002年9月4日号 No.886、ベースボール・マガジン社、6-13頁。
- ^ a b 「連載「高野の7人プラス1」最新REPORT 完全移籍は実力で/アレックス(チャールトン)」『週刊サッカーマガジン』、2002年9月11日号 No.887、ベースボール・マガジン社、97-99頁。
- ^ a b “三都主の移籍が決定 プレミアのチャールトン”. 47NEWS (2002年8月22日). 2014年7月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年9月28日閲覧。
- ^ 「2003右肩上がりの30人 foot06 アレックス」『週刊サッカーマガジン』、2003年1月22日号 No.905、ベースボール・マガジン社、16頁。
- ^ “三都主の移籍が白紙に 英当局、労働許可出さず”. 47NEWS (2002年8月28日). 2013年12月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年9月28日閲覧。
- ^ “三都主、最高額で浦和入り 安貞桓は横浜Mへ”. 47NEWS (2004年1月19日). 2013年9月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年9月21日閲覧。
- ^ “三都主アレサンドロ、レッドブル・ザルツブルク(オーストリア)に期限付き移籍のお知らせ”. 浦和レッドダイヤモンズ (2006年12月21日). 2015年9月30日閲覧。
- ^ “三都主、浦和復帰が決定的に”. ゲキサカ (2007年10月30日). 2015年9月30日閲覧。
- ^ “三都主アレサンドロ、期限付き移籍から復帰”. 浦和レッドダイヤモンズ (2008年1月31日). 2015年9月30日閲覧。
- ^ “浦和三都主が左足けん断裂でJ前半戦絶望”. nikkansports.com (2008年3月5日). 2015年9月30日閲覧。
- ^ “三都主今季絶望、左太もも全治6カ月”. nikkansports.com (2008年7月2日). 2015年9月30日閲覧。
- ^ “三都主が涙の別れ。フィンケ監督にはリベンジ宣言も”. ゲキサカ (2009年8月5日). 2015年9月30日閲覧。
- ^ “名古屋が三都主の完全移籍を発表”. nikkansports.com (2008年8月3日). 2015年9月30日閲覧。
- ^ “三都主の名古屋デビュー戦は黒星/J1”. nikkansports.com (2009年8月15日). 2015年9月30日閲覧。
- ^ 『Jリーグ2009シーズン総集編』日本スポーツ企画出版社、2009年、75頁。
- ^ 『Jリーグ2010シーズン総集編』日本スポーツ企画出版社、2010年、14頁。
- ^ “三都主、J2栃木入り決定的”. nikkansports.com. 日刊スポーツ新聞社 (2013年1月10日). 2015年12月13日閲覧。
- ^ “三都主、福田ら84選手がJリーグトライアウトに参加”. Sponichi Annex. スポーツニッポン新聞社 (2012年12月11日). 2015年12月13日閲覧。
- ^ “三都主アレサンドロ選手 完全移籍加入のお知らせ”. 栃木SC公式サイト (2013年1月11日). 2013年1月11日閲覧。
- ^ “三都主アレサンドロ選手 契約満了お知らせ”. 栃木SC公式サイト (2013年12月13日). 2013年1月11日閲覧。
- ^ “三都主アレサンドロ選手、栃木SCより完全移籍加入のお知らせ”. FC岐阜公式サイト (2014年1月15日). 2014年1月15日閲覧。
- ^ “契約満了選手のお知らせ”. FC岐阜公式サイト (2015年1月11日). 2015年1月11日閲覧。
- ^ a b c 柴田真宏 (2015年12月8日). “(@マリンガ)三都主選手に聞く、ブラジルと日本の違い”. 朝日新聞デジタル. 朝日新聞社. 2015年12月13日閲覧。
- ^ “元日本代表MF三都主が故郷ブラジルのマリンガへ”. フットボールチャンネル (2015年2月23日). 2015年2月23日閲覧。
- ^ “Maringá FC vence mais uma e enfrenta o Londrina nas quartas do Paranaense”. マリンガFC 公式HP (2015年3月29日). 2015年3月29日閲覧。
- ^ “Grêmio Maringá anuncia o meia Alex Santos como reforço para o estadual”. Grêmio Maringá (2015年8月27日). 2015年12月13日閲覧。
- ^ “Grêmio Maringá anuncia Alex Santos -”. Redação em Campo (2015年8月27日). 2015年12月13日閲覧。
- ^ a b 沢田啓明、サッカーダイジェストweb
- ^ 三都主、左サイドバック…オシム監督常識覆す「W杯で一番いいDF」 スポーツ報知[リンク切れ]アーカイブ 2006年11月14日 - ウェイバックマシン
- ^ “三都主アレサンドロ/名古屋グランパス(1/3)”. OCNスポーツ. 2013年9月21日閲覧。アーカイブ 2010年4月9日 - ウェイバックマシン
- ^ a b 竹澤 2002, p. 12.
- ^ 竹澤 2002, p. 13.
- ^ 竹澤 2002, p. 15.
参考文献
- 加部究「海を越えてきたフットボーラー 第42回 三都主アレサンドロ」『サッカー批評』issue 45、双葉社、2009年、108-112頁。
- 竹澤哲『フォルツァ!アレックス』文春ネスコ、2002年。ISBN 978-4890361625。
- 下薗昌記 (2002年6月14日). “海を渡ったサムライたち―日伯セレソン物語(13)―三都主アレサンドロ-1-プロの父持つ「親子鷹」-スタジアムを遊び場に育つ”. ニッケイ新聞. 2015年12月12日閲覧。
- 下薗昌記 (2002年6月15日). “海を渡ったサムライたち―日伯セレソン物語(14)―三都主アレサンドロ-2-代表入り喜ぶ母-帰化後も変らないきずな”. ニッケイ新聞. 2015年12月12日閲覧。
- 下薗昌記 (2002年6月18日). “海を渡ったサムライたち―日伯セレソン物語(15)―三都主アレサンドロ-3-左足で道切り開く-ブラジルとの対戦望む父”. ニッケイ新聞. 2015年12月12日閲覧。
- 沢田啓明 (2015年5月8日). “三都主アレサンドロが語る、日本での20年、故郷でのリスタート、将来の夢”. サッカーダイジェストweb. 2015年12月12日閲覧。
関連項目
- 清水エスパルスの選手一覧
- 浦和レッドダイヤモンズの選手一覧
- 名古屋グランパスの選手一覧
- 栃木SCの選手一覧
- FC岐阜の選手一覧
- 2002 FIFAワールドカップ日本代表
- 2006 FIFAワールドカップ日本代表
- ソル・スポーツマネージメント - 所属マネジメント会社