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「タニノムーティエ」の版間の差分

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{{出典の明記|date=2011年3月}}
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|名 = タニノムーティエ
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|金 = 1億666万5100円
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'''タニノムーティエ'''は[[日本]]の[[競走馬]]である。馬主は、[[谷水信夫]]。
'''タニノムーティエ'''([[1967年]][[5月9日]] - [[1991年]][[2月9日]])は[[日本]]の[[競走馬]]、[[種牡馬]]である


1969年に関西の3歳王者戦・[[阪神ジュベナイルフィリーズ|阪神3歳ステークス]]に優勝。翌1970年の[[中央競馬クラシック三冠|クラシック三冠路線]]では関東の[[アローエクスプレス]]とライバル関係を築き、その対戦は当時色濃かった東西対抗意識のなかで「A・T対決」とも呼ばれたが<ref>『優駿』2004年10月号、p.23</ref>、同馬を退けて[[皐月賞]]、[[東京優駿|東京優駿(日本ダービー)]]の春[[中央競馬クラシック三冠|クラシック]][[二冠馬|二冠]]を制した。同年秋には史上3頭目の三冠達成への期待を掛けられるも、夏の休養中、競走能力へ大きな影響を及ばす呼吸疾患の[[喘鳴症]]を発症し、三冠最終戦・[[菊花賞]]では大敗を喫して引退した。同年、[[JRA賞最優秀3歳牡馬|啓衆社賞最優秀4歳牡馬]]に選出。通算18戦12勝。以後は種牡馬となったが、産駒に[[中央競馬]]の重賞勝利馬はなく、1991年に死亡した。
== 概要 ==
[[東京優駿|東京優駿(日本ダービー)]]まで14戦を使うという2011年現在の[[中央競馬]]では考えられない[[ローテーション (競馬)|ローテーション]]で[[二冠馬|二冠]]を達成した。3歳時([[馬齢|旧表記]]4歳)までに賞金獲得額1億円を記録した最初の馬でもある。同馬の宿命のライバルとして、「AT対決」と騒がれた[[アローエクスプレス]]が挙げられる。


半弟(異父弟)に、1973年の[[天皇賞#天皇賞(秋)|天皇賞(秋)]]、1974年の[[有馬記念]]などに優勝した[[タニノチカラ]]がいる。
[[主戦騎手]]は[[安田伊佐夫]]。ただし2歳(旧3歳)時は[[宮本悳]]も騎乗しており、宮本騎乗で[[デイリー杯2歳ステークス|デイリー杯3歳ステークス]]を勝利している。


''※馬齢は日本で2000年以前に使用された[[数え年]]で統一して記述する。''
[[菊花賞]]を[[喘鳴症]]で11着に敗れたため幻の[[中央競馬クラシック三冠|三冠馬]]の一頭に数えられている。後方から豪快に[[脚質#追い込み|追い込む]]レーススタイルが印象的で、このことから同馬のレーススタイルは俗に'''ムーティエ街道'''と呼ばれた。[[競走馬の血統|半弟]]に[[タニノチカラ]]([[天皇賞#天皇賞(秋)|天皇賞(秋)]]、[[有馬記念]])がいる。
== 経歴 ==
=== デビューまで ===
1967年、[[北海道]][[静内町]]の[[カントリー牧場]]に生まれる。父[[ムーティエ]]はフランスからの輸入馬で、競走馬時代は[[ダリュー賞]]と[[オカール賞]]に優勝。本馬は日本における初年度産駒だった。母タニノチエリは不出走馬<ref>『サラブレッド種牡馬銘鑑・第4巻』p.42</ref>。


カントリー牧場はは実業家の[[谷水信夫]]が1963年に創業した新興で、「ハードトレーニングで馬を鍛える」という谷水の理念を具現化するための牧場だった<ref name="tanino">『優駿』1987年11月号、p.22</ref>。幼駒の頃の本馬(幼名ムーティシュヴァリー)はそれほど目立つ馬ではなかったが、本格的な運動が始まると、いくら追われても汗ひとつ掻かないという優れた心肺機能を見せた<ref name="tanino" />。またその走法は、首を低く下げる独特のもので、谷水はこれを「[[シェパード]]」と喩えた<ref name="tanino" />。牧場では同期生産馬のうちタニノモスボロー(後に京都4歳特別優勝)が一番馬と見られていたが、谷水は本馬を気に入り、息子の雄三に「これでダービーをとる」と宣言していた<ref>渡辺(1999)p.115</ref>。なお、牧場の同期馬20頭は育成調教の段階で次々と脱落し、無事にデビューを迎えることができたのは本馬も含めて5頭のみだったとされる<ref>河村(2008)p.23</ref>。
== 戦績 ==
[[1969年]][[7月18日]]にデビューすると2歳時(旧3歳)だけで9戦を使われ7勝をあげた。デビュー4戦目のはまなす賞では[[着差 (競馬)|大差]]勝ちを記録し、7戦目のオープン特別競走ではレコード勝ち、[[重賞]]は[[デイリー杯2歳ステークス|デイリー杯3歳ステークス]]、[[阪神ジュベナイルフィリーズ|阪神3歳ステークス]]に勝利した。


競走年齢の3歳に達した1969年、タニノムーティエと改名され[[京都競馬場]]の[[島崎宏]][[厩舎]]に入った。タニノムーティエは細身で見映えのしない馬体で厩舎関係者からの評価はさほど高くなく、島崎は「二つ勝てれば上々」だと感じていたという<ref>渡辺(1999)p.119</ref>。デビューに際しての騎手は、谷水と協力関係にあった[[戸山為夫]]の推薦で、若手の[[安田伊佐夫]]が選ばれた。安田は戸山の[[麻雀]]仲間という縁があったが、当時特に目立った成績は挙げていなかった<ref name="tanino2">渡辺(1999)pp.117-118</ref>。
3歳時(旧4歳)になるとまず[[きさらぎ賞]]、[[弥生賞]]を連勝し、[[スプリングステークス]]ではのちにライバルとなる[[アローエクスプレス]]と初対決となった。レースはアローエクスプレスが早めに先頭に立ちそのまま勝つかと思われたが、タニノムーティエが最後方から追い込みを決め、アローエクスプレスを4分の3馬身差し切って勝利した。2着と3着の差は6馬身も付いていた。[[皐月賞]]でも最後の直線でアローエクスプレスが先頭に並びかけたところを外から追い込み、アタマ差差しきり一冠目を獲得した。


=== 戦績 ===
次走の[[NHK杯 (競馬)|NHK杯]]では逆にアローエクスプレスが2馬身半差押し切っている。ダービーでもこの2頭の争いになると予想されたが、[[投票券 (公営競技)#単勝式|単勝]]1番[[人気]]に推されたアローエクスプレスは距離の壁に泣き5着に沈み、一方同2番人気のタニノムーティエは[[ダテテンリュウ]]との叩き合いを制し二冠目も獲得した。この時点での通算成績は15戦12勝。ダービーまでの出走レース数は、同じ[[カントリー牧場]]出身の[[タニノハローモア]](18戦)に次ぐ多さで、勝利数は[[中央競馬]]の長いダービー史でも最多と言われている。
==== 関西若駒の筆頭格 ====
[[1969年]][[7月18日]]に[[函館競馬場|函館開催]]でデビュー。スタートで遅れて後方からのレース運びとなるも、最終コーナーまでに差を詰めると、直線では安田が鞭を使うことなく2着に6馬身差をつけて勝利した<ref name="nabe">渡辺(1999)p.120</ref>。2戦目も5馬身差で圧勝した。重賞初出走となった[[函館2歳ステークス|函館3歳ステークス]]はスタートで大きく出遅れて<ref name="nabe" />同郷のタニノソブリンに敗れたが、[[札幌競馬場|札幌開催]]に移って臨んだ条件特別戦は大差(10馬身以上)で圧勝した。


その後は関西に戻り、[[デイリー杯2歳ステークス|デイリー杯3歳ステークス]]に出走。ここで騎手は前年に[[タニノハローモア]]で日本ダービーを制していたベテラン・[[宮本悳]]に替わった。この競走ではタニノソブリンに2馬身差を付けて勝利し、重賞初制覇を果たす。しかし続く紅葉杯ではレース要所で他馬から2回挟まれる不利を受けて4着と敗れた<ref name="tanino" />。この結果に怒った谷水は宮本を降板させ、騎手は安田に戻された。さらに谷水は島崎に対しても「調教不足だ」と怒鳴りつけ、「明日からは自分が直接調教する」と言い出したことから島崎が反発、一時転厩寸前となったが、戸山為夫らの仲介で収められた<ref>渡辺(1999)p.122</ref>。
ダービーのあと、[[秋]]に備えるため[[滋賀県]]の谷水牧場に放牧に出された。しかしここで異変が起こる。タニノムーティエは[[気管支喘息|喘息]]の一種である[[喘鳴症]](喉なり)を発症してしまう。しかも症状はかなり重症のものであった。ただでさえ、喘鳴症は競走馬にとって致命的とも言われる病であり、当時は手術で能力回復を試みる技術もまだ存在していなかった。このときの原因は牧場に撒かれた[[石灰]]か、この年は雨の多い冷夏でこの雨による高湿で喉を痛めたせいだと言われている。ここまでの実績に鑑みると、このアクシデントがなければ古馬になってからも大活躍していただろうと言われている<ref>同放牧地は何もない場所を切り崩して作った場所であり、設備もなければ管理する人材もいないため、厩舎関係者全体が連れて行くのを猛反対したが、[[馬主]]の[[谷水信夫]]は「自分の馬だから自分で見る」と押し切って連れて行った</ref>。


以後はオープン戦をレコードタイムで勝利、続く[[京都2歳ステークス|京都3歳ステークス]]も制し、1番人気に推された阪神3歳ステークスでは大外から先行勢を差し切って優勝、関西の3歳王者となった<ref name="tanino" />。安田にとってはこれが騎手生活7年目での重賞初勝利であった。当年は9戦7勝という成績を収めたが、[[JRA賞最優秀2歳牡馬|最優秀3歳牡馬]]には関東で5戦5勝の成績を収めたアローエクスプレスが選出された。
しかし、関係者はわずかな可能性に賭け[[朝日チャレンジカップ]]に出走させた。だが、やはり喘鳴症を克服することはできず4秒7差の最下位に大敗した。次走の[[京都新聞杯|京都盃]]でも惨敗したため、[[菊花賞]]で引退させることが決定。菊花賞ではすでに喘鳴症であることが発表されていたにもかかわらず5番人気に推されていた。結果は11着に敗北してしまったが、それでも第4コーナー手前から直線入口までの間で見せ場を作った。宿命のライバル・アローエクスプレスは1番人気に推されたものの距離の壁は如何ともし難く、タニノムーティエより2つだけ上の9着に沈んでいる。


いったん休養の後、翌1970年は春のクラシックを目標に、2月の[[きさらぎ賞]]から復帰。これに勝利したのち、クラシック初戦・皐月賞に備えて東上した<ref name="tanino" />。関東初出走となった[[弥生賞]]は、競走前日の降雪により施行馬場が芝から[[ダート]]へ変更された<ref name="nabe3">渡辺(1999)p.131</ref>。競走前のパドックでは、初めてその姿を見た関東のファンから馬体の貧弱さを揶揄する野次が盛んに飛ばされたが<ref name="nabe3" />、タニノムーティエは発馬機内での顔面強打による鼻血、左前脚と左後脚の負傷というアクシデントに見舞われながら<ref name="tanino" />、2着ウメノダイヤに3馬身差をつけ楽勝した<ref name="meiba">『日本の名馬・名勝負物語』p.359</ref>。
== その後 ==
引退後は[[種牡馬]]入りしたが、目立った[[産駒]]はハローキング([[東海桜花賞]]、[[名古屋大賞典]])・タニノレオ([[京都2歳ステークス|京都3歳ステークス]]、菊花賞5着)・タニノサイアス(京都3歳ステークス、[[紅梅ステークス|紅梅賞]]、[[桜花賞]]4着)程度で、ライバルで種牡馬として成功したアローエクスプレスには大きく水を開けられる結果になった。


==== アローエクスプレスとの対戦 ====
晩年は故郷・カントリー牧場で余生を過ごしたが、[[1991年]][[2月9日]]に老衰のため死亡。墓は同牧場の一角に建てられている。
次走の[[スプリングステークス]]で、デビュー以来6連勝中のアローエクスプレスと初対戦。東西両雄の初顔合わせに当日は10万人を超える観客<ref name="nabe4">渡辺(1999)pp.133-134</ref>が集まったなか、タニノムーティエが1番人気、アローエクスプレスが2番人気となった。レースではアローエクスプレスが先行4-5番手、タニノムーティエは中団後方を進み<ref name="meiba" />、最後の直線に入ったとき両馬の差は10馬身ほどあった<ref name="nabe4" />。いち早く抜け出したアローエクスプレスは後続を突き離したが<ref name="meiba" />、しかし追い込んだタニノムーティエがゴール寸前でこれを捉え、3/4馬身差を付けて勝利<ref name="nabe4" />。「A・T」初対戦を制した。なお、3着[[メジロムサシ]]は両馬から6馬身離されていた。タニノムーティエの最後の600メートル([[上がり (競馬)|上がり]]3ハロン)のタイムは、36秒台で優秀といわれた当時にあって、推定34秒台というものだった<ref name="nikkan">{{Cite web |url=https://web.archive.org/web/20121006164745/http://www.nikkankeiba.co.jp/chuo/meiba/09/09.html |title=日刊競馬で振り返るGI 1970年タニノムーティエ |author=梅沢直 |publisher=[[日刊競馬]] |accessdate=2015年2月18日 |date=}}</ref>。安田はこれを評して「ムーティエが使った生涯最高の脚」と語っている<ref name="nabe4" />。


4月12日に迎えた皐月賞では、前走に続きタニノムーティエ1番人気、アローエクスプレス2番人気の順となった。レースは先行勢の中にアローエクスプレス、タニノムーティエは中団と、前走と似た隊列で進んだが、第3コーナーでアローエクスプレスは突然失速し、大きく後退した<ref name="meiba2">『日本の名馬・名勝負物語』p.360</ref>。最終コーナーを回り態勢を立て直したアローエクスプレスがスパートを掛け、タニノムーティエもこれに続くと200メートルに渡って両馬の競り合いが続いたが、ゴール前でタニノムーティエがアタマ差抜け出して優勝<ref name="meiba2" />。クラシック一冠目を制した。同時に安田と島崎も[[八大競走]]初優勝となった。安田は「苦しいレースでしたが、アローと並んで勝てると思いました。それにしても一度後退したのにアローは強いね」と感想を語った<ref>『優駿』1987年11月号、p.23</ref>。なお、アローエクスプレスが位置を下げたのは、他馬が外から進出してきた際に、一気に抜け出すか、抑えて温存するかを騎手の[[加賀武見]]が迷い、そして抑えたためであり、加賀は自身の騎乗ミスだったとしている<ref>渡辺(1999)p.140</ref>。
なお、弟の[[タニノチカラ]]は、故障による長期休養を立ち直り、数々の重賞に勝利するなど活躍して兄の無念を晴らし、この血統の優秀さを示した。


その後タニノムーティエは日本ダービーの前に[[NHK杯 (競馬)|NHK杯]]に出走。直前に軽い外傷を負ったため、厩舎では回避と見込んでいたが、谷水の強い指示により出走に踏み切った<ref name="nabe5">渡辺(1999)pp.143-146</ref>。本競走にはアローエクスプレスも出走し、本番を前に3度目の対戦となった。先行策から最後の直線で抜け出したアローエクスプレスに対し、タニノムーティエは後方からの追い込みを見せた。しかし安田が残り200メートルを示す標識をゴール板と間違え<ref name="nabe5" />、いったん流してしまったこともあり、アローエクスプレスに2馬身半差の2着と初めて先着を許した。しかし完調ではない状態で、さらに大きなミスがあった上での2着に、陣営は却ってダービー優勝への自信を深めた<ref name="nabe5" />。
[[2000年]]に[[日本中央競馬会]]が実施した「[[Dream Horses 2000|20世紀の名馬大投票]]」では56位に選出された。

5月24日の日本ダービーは、片や関東馬、片や関西馬という地域的要因も絡み、「A・T」の雌雄を決する舞台となった<ref>『日本ダービー十番勝負』p.93</ref>。アローエクスプレスが41.9%の単勝支持を得て1番人気となり、タニノムーティエ同24.9%で2番人気となった<ref name="nikkan" />。しかし絶好調の状態だったタニノムーティエに対し、アローエクスプレスは調整に失敗し、パドックから著しく焦れ込んでいた<ref name="nabe6">渡辺(1999)pp.147-151</ref>。レースでは常の通り先行するアローエクスプレスを見ながら後方に控えると、第3コーナーから上位に進出していき、馬群を捌くのに手間取るアローエクスプレスを尻目に、好位で最後の直線に入った。直線半ばで先頭の[[ダテテンリュウ]]に並び、ここから200メートルにわたり競り合ったが、同馬を3/4馬身退けて優勝を果たした<ref name="yushun1987112425">『優駿』1987年11月号、pp.24-25</ref>。アローエクスプレスは5着であった<ref name="yushun1987112425" />。谷水は「完璧に仕上げたんやし、勝つ自信があった。ダービーは何回勝ってもいいものや。今後は爪があまり良くないので秋まで待機させ、三冠を狙いたい。そして菊に勝ったら、[[有馬記念|グランプリ]]も取り、来年は[[凱旋門賞]]にでも遠征させて終わりや」と語った<ref name="yushun1987112425" />。

なお、デビューからダービー優勝まで15戦という戦績は、カントリー牧場の先輩馬・[[タニノハローモア]]の18戦に次ぐ史上2番目の出走数であり、うち12勝は最多勝利記録である<ref>『優駿』1983年7月号、pp.92-93</ref>。また、この時点ですでに獲得賞金が1億円を超えていたが、4歳春での達成は史上初めてのことであった<ref name="yushun1987112425" />。

==== 喘鳴症発症 ====
日本ダービーの後、島崎はタニノムーティエの夏場の予定について、北海道へ放牧に出すか、あるいは厩舎に置いておくかのどちらかを考えていた<ref name="nabe7">渡辺(1999)pp.152-155</ref>。しかし谷水が自分で設営した[[滋賀県]][[大津市]]の放牧場へ連れていくと主張し、厩舎関係者全員での反対にもかかわらず、同地への放牧が強行された<ref name="nabe7" />。放牧中、島崎と安田と一緒に様子を見に行った際、タニノムーティエは降雨で寒い中に屋根も何もない場所で裸足のまま立っていたという<ref name="nabe7" />。こうした環境によるものか<ref name="nabe7" />、または谷水が土壌改良のために撒いた[[石灰]]を吸い込んだことが原因とする説もあるが<ref name="101tou">『サラブレッド101頭の死に方』pp.256-258</ref>、いずれにせよムーティエはこの放牧中に[[喘鳴症]]を発症する。これは走行時に呼吸するとき声帯の開閉に支障を来たして息苦しくなり、同時に喉から音がすることが特徴で、俗に「ノド鳴り」とも呼ばれ、競走能力に著しい悪影響をおよぼすものだった<ref name="nabe7" />。

その後、タニノムーティエは9月20日、古馬(5歳以上馬)混合戦の[[朝日チャレンジカップ]]から復帰したが、一般に対して喘鳴症の事実は伏せられた<ref name="nabe7" />。当日は60キログラムの[[負担重量|斤量]]を負わされながらも1番人気に支持されたが、レースでは大差の最下位で入線<ref name="yushun19871121">『優駿』1987年11月号、p.21</ref>。約1カ月後、三冠最終戦菊花賞の前哨戦・[[京都新聞杯|京都杯]]でも再び1番人気に推されたが、9頭立ての6着に終わる<ref name="yushun19871121" />。この競走後に初めてムーティエが喘鳴症を患っていることが発表された<ref name="nabe7" />。なお、当時のタニノムーティエの症状について、[[志摩直人]]が著作の中で次のように書き記している<ref name="shima">志摩(1991)pp.238-240</ref>。

{{Quotation|その追切り<ref group="注">競走数日前に行う仕上げの調教。</ref>の日は淀特有のガスが発生して、ガスの中を馬が見え隠れして走っていた。とても時計などとれる状態ではなかった。<br />そんな中で、ちらっ、ちらっ、と栗毛の馬が走っていた。直線すっかりガスの中にまぎれこんでしまっていたが、まるで笛を吹くような、ひゅー、ひゅー、という音が聞こえてきた。ゴールをよぎったところでガスは切れて、それがタニノムーティエの呼吸であることが確認されたときには驚いた。喘鳴症といっても、こんなに烈しいのははじめてだった。|}}

==== 三冠ならず引退 ====
菊花賞は[[セントライト]]、[[シンザン]]に次ぐ史上3頭目のクラシック三冠達成が懸かっていたが、調教では相変わらず喉を鳴らしており、3ハロンのタイムは43秒を切ることができなかった<ref name="yushun19871121" />。菊花賞を前に引退も検討されたが、谷水の希望により出走に踏み切る。「ダービー馬の名誉に傷が付くのではないか」との声に対して谷水は、「人気するかな、しないやろ。名残の菊や。ムーティエの走りっぷりをゆっくり見つめてほしい」と語った<ref name="yushun19871121" />。厩舎では万にひとつ症状が出ない可能性を信じ、あらゆる方法で喉の療養に努めた<ref name="yushun19871121" />。なお、島崎は出走に反対しており、谷水に「これだけ、ひとつだけでも、私の意見を聞いてほしかった」と恨み言を聞かせると、谷水は反論せず腕組みをして唸り声を漏らしたという<ref name="nabe7" />。

前売りの単勝オッズは3番人気、当日は5番人気となる<ref name="yushun19871121" />。1番人気はアローエクスプレスであった。レースでは後方に控えたのち、第3コーナーから最終コーナーにかけて先頭を窺う勢いで進出し、観衆を大きく湧かせたが、そこから失速してダテテンリュウの11着(アローエクスプレス9着)に終わり、史上3頭目の三冠は成らなかった<ref name="yushun19871121" />。志摩直人は最後に見せた脚を「これがタニノムーティエだといわんばかりの凄さの一端を示してみせたに過ぎなかったが、それはかつての日、中山の皐月賞で、府中のダービーで見せたあの豪脚の幻であった」と評している<ref name="shima" />。

これを最後に引退となり、11月29日、[[京都競馬場]]で引退式が行われた。厩務員の近藤昭は「[[シンザン]]以上の馬だった」と評しているが<ref name="nabe7" />、そのシンザンの調教師であった[[武田文吾]]は、タニノムーティエに対して「帰牧して 二冠の壺に 菊植えん」との一句を詠み、その引退を惜しんだ<ref name="yushun19871121" />。なお、この引退から約1年後の1971年11月18日、谷水信夫は交通事故により61歳で死去。長男の[[谷水雄三|雄三]]が競馬事業も引き継ぐことになった。

=== 種牡馬時代 ===
引退後は種牡馬として北海道静内町の静内種畜場に繋養された。初年度(1971年)には38頭の交配相手を集め、1973年に産駒がデビューすると、中央競馬では[[京都2歳ステークス|京都3歳ステークス]](当時はオープン特別競走)を制したタニノサイアスなど7頭中4頭が勝ち上がった。翌1974年には78頭の交配相手を集めたが<ref>『サラブレッド種牡馬銘鑑・第4巻』p.288</ref>、産駒成績は尻すぼみで<ref name="101tou" />、1979年からは九州へ、さらに1981年より再び静内、その翌年からカントリー牧場、1985年からは十勝の個人牧場と、繋養先を転々とした<ref name="yushun1987112425" />。中央での主な産駒には、それぞれ京都3歳ステークスに勝ったタニノサイアス(ほか桜花賞4着)とタニノレオ(同菊花賞5着)、[[地方競馬]]では[[東海桜花賞]]と[[名古屋大賞典]]に勝ったハローキング、[[中津記念]]に勝ったタニノガルフがいる<ref name="nikkan" />。

かつてのライバル・アローエクスプレスは種牡馬として大きな成功を収め、この点では対照的な結果となった。「競走馬としてタニノムーティエの圧勝、種牡馬としてはアローエクスプレスの圧勝」とも評される<ref>『日本ダービー十番勝負』pp.97-98</ref>。タニノムーティエの種牡馬としての失敗は、繁殖牝馬の交配相手として重用していたカントリー牧場の低迷を招く原因のひとつともなった<ref>河村(2009)pp.57-58</ref>。弟のタニノチカラが1974年に有馬記念を勝って以降、改革を経て2002年に[[タニノギムレット]]が日本ダービーを制するまでの28年間、カントリー牧場から八大競走・[[競馬の競走格付け|GI競走]]を制する馬は現れなかった。

晩年は故郷・カントリー牧場で余生を過ごしたが、[[1991年]][[2月9日]]に老衰のため死亡した<ref name="101tou" />。25歳没。それから24日後にはアローエクスプレスも老衰で死亡した。

== 競走成績 ==
{| style="font-size: 100%; text-align: center; border-collapse: collapse;"
|-
!colspan="3"|年月日!!開催場!!競走名!!頭数!!人気!!着順!!距離([[馬場状態|状態]])!!タイム!!着差!![[騎手]]!![[負担重量|斤量]]!!勝ち馬/(2着馬)
|-
| 1969
| 7.
| 18
| [[函館競馬場|函館]]
| オープン
| 5
| 2
| {{color|darkred|1着}}
| 芝1000[[メートル|m]](良)
| 59.7
| 0.9秒
| [[安田伊佐夫]]
| 51
| (スイノオーザ)
|-
|
| 8.
| 8
| 函館
| すずらん賞
| 4
| 1
| {{color|darkred|1着}}
| 芝1200m(良)
| 1:13.6
| 0.8秒
| 安田伊佐夫
| 52
| (スイノオーザ)
|-
|
| 8.
| 17
| 函館
| [[函館2歳ステークス|函館3歳ステークス]]
| 10
| 2
| {{color|darkblue|2着}}
| 芝1200m(良)
| 1:13.7
| 0.2秒
| 安田伊佐夫
| 51
| タニノソブリン
|-
|
| 9.
| 7
| [[札幌競馬場|札幌]]
| はまなす賞
| 4
| 1
| {{color|darkred|1着}}
| ダ1200m(稍)
| 1:13.3
| 大差
| 安田伊佐夫
| 53
| (タニノラスタム)
|-
|
| 10.
| 5
| [[阪神競馬場|阪神]]
| [[デイリー杯2歳ステークス|デイリー杯3歳ステークス]]
| 11
| 1
| {{color|darkred|1着}}
| 芝1400m(良)
| 1:24.1
| 0.3秒
| [[宮本悳]]
| 51
| タニノソブリン
|-
|
| 11.
| 2
| [[京都競馬場|京都]]
| 紅葉杯
| 11
| 1
| 4着
| 芝1600m(良)
| 1:38.6
| 0.2秒
| 宮本悳
| 54
| マサミンシオ
|-
|
| 11.
| 9
| 京都
| オープン
| 12
| 1
| {{color|darkred|1着}}
| 芝1400m(良)
| {{color|darkred|R1:24.6}}
| 0.3秒
| 安田伊佐夫
| 54
| ([[ジュピック]])
|-
|
| 11.
| 30
| 京都
| [[京都2歳ステークス|京都3歳ステークス]]
| 10
| 1
| {{color|darkred|1着}}
| 芝1600m(不)
| 1:43.2
| 0.2秒
| 安田伊佐夫
| 54
| (グランドプロス)
|-
|
| 12.
| 14
| 阪神
| [[阪神ジュベナイルフィリーズ|阪神3歳ステークス]]
| 15
| 1
| {{color|darkred|1着}}
| 芝1600m(良)
| 1:37.4
| 0.3秒
| 安田伊佐夫
| 52
| (ウメノダイヤ)
|-
| 1970
| 2.
| 8
| 京都
| [[きさらぎ賞]]
| 7
| 1
| {{color|darkred|1着}}
| 芝1600m(不)
| 1:42.4
| 0.2秒
| 安田伊佐夫
| 55
| (コマツオー)
|-
|
| 3.
| 1
| [[東京競馬場|東京]]
| [[弥生賞]]
| 14
| 2
| {{color|darkred|1着}}
| 芝1600m(不)
| 1:38.9
| 0.5秒
| 安田伊佐夫
| 56
| (ウメノダイヤ)
|-
|
| 3.
| 22
| [[中山競馬場|中山]]
| [[スプリングステークス]]
| 13
| 1
| {{color|darkred|1着}}
| 芝1800m(良)
| 1:49.9
| 0.1秒
| 安田伊佐夫
| 55
| ([[アローエクスプレス]])
|-
|
| 4.
| 12
| 中山
| '''[[皐月賞]]'''
| 12
| 1
| {{color|darkred|1着}}
| 芝2000m(重)
| 2:07.9
| アタマ
| 安田伊佐夫
| 57
| (アローエクスプレス)
|-
|
| 5.
| 20
| 東京
| [[NHK杯 (競馬)|NHK杯]]
| 10
| 2
| {{color|darkblue|2着}}
| 芝2000m(不)
| 2:08.9
| 0.4秒
| 安田伊佐夫
| 55
| アローエクスプレス
|-
|
| 5.
| 24
| 東京
| '''[[東京優駿]]'''
| 22
| 2
| {{color|darkred|1着}}
| 芝2400m(良)
| 2:30.0
| 0.1秒
| 安田伊佐夫
| 57
| ([[ダテテンリュウ]])
|-
|
| 9.
| 20
| 阪神
| [[朝日チャレンジカップ]]
| 8
| 1
| 8着
| 芝1600m(良)
| 2:09.8
| 大差
| 安田伊佐夫
| 60
| ケイサンタ
|-
|
| 10.
| 25
| 京都
| [[京都新聞杯|京都杯]]
| 9
| 1
| 6着
| 芝2000m(良)
| 2:05.8
| 1.3秒
| 安田伊佐夫
| 57
| タマホープ
|-
|
| 11.
| 15
| 京都
| '''[[菊花賞]]'''
| 16
| 5
| 11着
| 芝3000m(良)
| 3:12.6
| 2.2秒
| 安田伊佐夫
| 57
| ダテテンリュウ
|}
# 競走名太字は[[八大競走]]。
# タイム欄{{color|darkred|R}}はレコード勝ちを示す。

== 各種投票などによる評価 ==
日本中央競馬会が2000年に主催した「[[Dream Horses 2000|20世紀の名馬大投票]]」では第56位に選出。投票世代別では10~30代でいずれも100位以下だったのに対し、40代以上ではいずれも30位台以上で、50代の投票では20位だった<ref>『優駿』2000年10月号、p.120</ref>。また同会の広報誌『[[優駿]]』による「20世紀のベストホース100」にも名を連ねている<ref>『優駿』2000年11月号、p.18</ref>。その他、各種投票企画では以下のような記録を残している。
*『優駿』1985年9月号「読者が選ぶ歴代最強馬ベスト・テン」- 第17位
*『優駿』2004年10月号「記憶に残る名馬たち 個性派ホースBEST10」- 1950~1970年代追い込み馬部門・識者投票第2位
*『優駿』2010年8月号「未来に語り継ぎたい不滅の名馬たち」- 第93位
*『優駿増刊号TURF』創刊50周年記念(1991年)「新聞記者、競馬人、著名人への大アンケート・最強馬部門」 - 第11位
*『[[日本馬主協会連合会]]40年史』(2000年)「アンケートからみた20世紀の馬主たち・一番印象に残る競走馬」- 第15位
**同上「アンケートからみた20世紀の馬主たち・一番好きな競走馬」 - 第16位


== 血統表 ==
== 血統表 ==
{{競走馬血統表|
{{競走馬血統表
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|inf = (プリンスビオ系([[プリンスローズ系]]) / Nogara5×5=6.25%)
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}}


== 脚注 ==
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist|2}}

== 参考文献 ==
*『サラブレッド種牡馬銘鑑・第4巻』(日本中央競馬会、1977年)ASIN B000J8Q76E
*中央競馬ピーアール・センター編『日本の名馬・名勝負物語』(中央競馬ピーアール・センター、1980年)ASIN B000J86XWM
**後閑亮輔「四歳春までに燃焼 タニノムーティエ・アローエクスプレス」
*[[志摩直人]]『風はその背にたてがみに(文庫版)』(廣済堂文庫、1991年)ISBN 978-4331650943
*寺山修司、古井由吉ほか『「優駿」観戦記で甦る 日本ダービー十番勝負』(小学館、1998年)ISBN 978-4094024814
*渡辺敬一郎『最強の名馬たち - 「競馬名勝負」真実の証言』(講談社、1999年)ISBN 978-4062097123
*[[大川慶次郎]]ほか『サラブレッド101頭の死に方(文庫版)』(徳間書店、1999年)ISBN 978-4198911850
*[[河村清明]]『ウオッカの背中』(東邦出版、2009年)ISBN 978-4809407741
*『優駿』1983年7月号(日本中央競馬会)
**瀬上保男「日本ダービー・記録ノート 歴代なんでもNo.1」
*『優駿』1987年11月号(日本中央競馬会)
**横尾一彦「栗毛の風雲児 タニノムーティエ」


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
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2015年4月22日 (水) 12:10時点における版

タニノムーティエ
品種 サラブレッド
性別
毛色 栗毛
生誕 1967年5月9日
死没 1991年2月9日(24歳没)
ムーティエ
タニノチエリ
生国 日本の旗 日本北海道静内町
生産者 カントリー牧場
馬主 谷水信夫
調教師 島崎宏京都
競走成績
生涯成績 18戦12勝
獲得賞金 1億666万5100円
テンプレートを表示

タニノムーティエ1967年5月9日 - 1991年2月9日)は日本競走馬種牡馬である。

1969年に関西の3歳王者戦・阪神3歳ステークスに優勝。翌1970年のクラシック三冠路線では関東のアローエクスプレスとライバル関係を築き、その対戦は当時色濃かった東西対抗意識のなかで「A・T対決」とも呼ばれたが[1]、同馬を退けて皐月賞東京優駿(日本ダービー)の春クラシック二冠を制した。同年秋には史上3頭目の三冠達成への期待を掛けられるも、夏の休養中、競走能力へ大きな影響を及ばす呼吸疾患の喘鳴症を発症し、三冠最終戦・菊花賞では大敗を喫して引退した。同年、啓衆社賞最優秀4歳牡馬に選出。通算18戦12勝。以後は種牡馬となったが、産駒に中央競馬の重賞勝利馬はなく、1991年に死亡した。

半弟(異父弟)に、1973年の天皇賞(秋)、1974年の有馬記念などに優勝したタニノチカラがいる。

※馬齢は日本で2000年以前に使用された数え年で統一して記述する。

経歴

デビューまで

1967年、北海道静内町カントリー牧場に生まれる。父ムーティエはフランスからの輸入馬で、競走馬時代はダリュー賞オカール賞に優勝。本馬は日本における初年度産駒だった。母タニノチエリは不出走馬[2]

カントリー牧場はは実業家の谷水信夫が1963年に創業した新興で、「ハードトレーニングで馬を鍛える」という谷水の理念を具現化するための牧場だった[3]。幼駒の頃の本馬(幼名ムーティシュヴァリー)はそれほど目立つ馬ではなかったが、本格的な運動が始まると、いくら追われても汗ひとつ掻かないという優れた心肺機能を見せた[3]。またその走法は、首を低く下げる独特のもので、谷水はこれを「シェパード」と喩えた[3]。牧場では同期生産馬のうちタニノモスボロー(後に京都4歳特別優勝)が一番馬と見られていたが、谷水は本馬を気に入り、息子の雄三に「これでダービーをとる」と宣言していた[4]。なお、牧場の同期馬20頭は育成調教の段階で次々と脱落し、無事にデビューを迎えることができたのは本馬も含めて5頭のみだったとされる[5]

競走年齢の3歳に達した1969年、タニノムーティエと改名され京都競馬場島崎宏厩舎に入った。タニノムーティエは細身で見映えのしない馬体で厩舎関係者からの評価はさほど高くなく、島崎は「二つ勝てれば上々」だと感じていたという[6]。デビューに際しての騎手は、谷水と協力関係にあった戸山為夫の推薦で、若手の安田伊佐夫が選ばれた。安田は戸山の麻雀仲間という縁があったが、当時特に目立った成績は挙げていなかった[7]

戦績

関西若駒の筆頭格

1969年7月18日函館開催でデビュー。スタートで遅れて後方からのレース運びとなるも、最終コーナーまでに差を詰めると、直線では安田が鞭を使うことなく2着に6馬身差をつけて勝利した[8]。2戦目も5馬身差で圧勝した。重賞初出走となった函館3歳ステークスはスタートで大きく出遅れて[8]同郷のタニノソブリンに敗れたが、札幌開催に移って臨んだ条件特別戦は大差(10馬身以上)で圧勝した。

その後は関西に戻り、デイリー杯3歳ステークスに出走。ここで騎手は前年にタニノハローモアで日本ダービーを制していたベテラン・宮本悳に替わった。この競走ではタニノソブリンに2馬身差を付けて勝利し、重賞初制覇を果たす。しかし続く紅葉杯ではレース要所で他馬から2回挟まれる不利を受けて4着と敗れた[3]。この結果に怒った谷水は宮本を降板させ、騎手は安田に戻された。さらに谷水は島崎に対しても「調教不足だ」と怒鳴りつけ、「明日からは自分が直接調教する」と言い出したことから島崎が反発、一時転厩寸前となったが、戸山為夫らの仲介で収められた[9]

以後はオープン戦をレコードタイムで勝利、続く京都3歳ステークスも制し、1番人気に推された阪神3歳ステークスでは大外から先行勢を差し切って優勝、関西の3歳王者となった[3]。安田にとってはこれが騎手生活7年目での重賞初勝利であった。当年は9戦7勝という成績を収めたが、最優秀3歳牡馬には関東で5戦5勝の成績を収めたアローエクスプレスが選出された。

いったん休養の後、翌1970年は春のクラシックを目標に、2月のきさらぎ賞から復帰。これに勝利したのち、クラシック初戦・皐月賞に備えて東上した[3]。関東初出走となった弥生賞は、競走前日の降雪により施行馬場が芝からダートへ変更された[10]。競走前のパドックでは、初めてその姿を見た関東のファンから馬体の貧弱さを揶揄する野次が盛んに飛ばされたが[10]、タニノムーティエは発馬機内での顔面強打による鼻血、左前脚と左後脚の負傷というアクシデントに見舞われながら[3]、2着ウメノダイヤに3馬身差をつけ楽勝した[11]

アローエクスプレスとの対戦

次走のスプリングステークスで、デビュー以来6連勝中のアローエクスプレスと初対戦。東西両雄の初顔合わせに当日は10万人を超える観客[12]が集まったなか、タニノムーティエが1番人気、アローエクスプレスが2番人気となった。レースではアローエクスプレスが先行4-5番手、タニノムーティエは中団後方を進み[11]、最後の直線に入ったとき両馬の差は10馬身ほどあった[12]。いち早く抜け出したアローエクスプレスは後続を突き離したが[11]、しかし追い込んだタニノムーティエがゴール寸前でこれを捉え、3/4馬身差を付けて勝利[12]。「A・T」初対戦を制した。なお、3着メジロムサシは両馬から6馬身離されていた。タニノムーティエの最後の600メートル(上がり3ハロン)のタイムは、36秒台で優秀といわれた当時にあって、推定34秒台というものだった[13]。安田はこれを評して「ムーティエが使った生涯最高の脚」と語っている[12]

4月12日に迎えた皐月賞では、前走に続きタニノムーティエ1番人気、アローエクスプレス2番人気の順となった。レースは先行勢の中にアローエクスプレス、タニノムーティエは中団と、前走と似た隊列で進んだが、第3コーナーでアローエクスプレスは突然失速し、大きく後退した[14]。最終コーナーを回り態勢を立て直したアローエクスプレスがスパートを掛け、タニノムーティエもこれに続くと200メートルに渡って両馬の競り合いが続いたが、ゴール前でタニノムーティエがアタマ差抜け出して優勝[14]。クラシック一冠目を制した。同時に安田と島崎も八大競走初優勝となった。安田は「苦しいレースでしたが、アローと並んで勝てると思いました。それにしても一度後退したのにアローは強いね」と感想を語った[15]。なお、アローエクスプレスが位置を下げたのは、他馬が外から進出してきた際に、一気に抜け出すか、抑えて温存するかを騎手の加賀武見が迷い、そして抑えたためであり、加賀は自身の騎乗ミスだったとしている[16]

その後タニノムーティエは日本ダービーの前にNHK杯に出走。直前に軽い外傷を負ったため、厩舎では回避と見込んでいたが、谷水の強い指示により出走に踏み切った[17]。本競走にはアローエクスプレスも出走し、本番を前に3度目の対戦となった。先行策から最後の直線で抜け出したアローエクスプレスに対し、タニノムーティエは後方からの追い込みを見せた。しかし安田が残り200メートルを示す標識をゴール板と間違え[17]、いったん流してしまったこともあり、アローエクスプレスに2馬身半差の2着と初めて先着を許した。しかし完調ではない状態で、さらに大きなミスがあった上での2着に、陣営は却ってダービー優勝への自信を深めた[17]

5月24日の日本ダービーは、片や関東馬、片や関西馬という地域的要因も絡み、「A・T」の雌雄を決する舞台となった[18]。アローエクスプレスが41.9%の単勝支持を得て1番人気となり、タニノムーティエ同24.9%で2番人気となった[13]。しかし絶好調の状態だったタニノムーティエに対し、アローエクスプレスは調整に失敗し、パドックから著しく焦れ込んでいた[19]。レースでは常の通り先行するアローエクスプレスを見ながら後方に控えると、第3コーナーから上位に進出していき、馬群を捌くのに手間取るアローエクスプレスを尻目に、好位で最後の直線に入った。直線半ばで先頭のダテテンリュウに並び、ここから200メートルにわたり競り合ったが、同馬を3/4馬身退けて優勝を果たした[20]。アローエクスプレスは5着であった[20]。谷水は「完璧に仕上げたんやし、勝つ自信があった。ダービーは何回勝ってもいいものや。今後は爪があまり良くないので秋まで待機させ、三冠を狙いたい。そして菊に勝ったら、グランプリも取り、来年は凱旋門賞にでも遠征させて終わりや」と語った[20]

なお、デビューからダービー優勝まで15戦という戦績は、カントリー牧場の先輩馬・タニノハローモアの18戦に次ぐ史上2番目の出走数であり、うち12勝は最多勝利記録である[21]。また、この時点ですでに獲得賞金が1億円を超えていたが、4歳春での達成は史上初めてのことであった[20]

喘鳴症発症

日本ダービーの後、島崎はタニノムーティエの夏場の予定について、北海道へ放牧に出すか、あるいは厩舎に置いておくかのどちらかを考えていた[22]。しかし谷水が自分で設営した滋賀県大津市の放牧場へ連れていくと主張し、厩舎関係者全員での反対にもかかわらず、同地への放牧が強行された[22]。放牧中、島崎と安田と一緒に様子を見に行った際、タニノムーティエは降雨で寒い中に屋根も何もない場所で裸足のまま立っていたという[22]。こうした環境によるものか[22]、または谷水が土壌改良のために撒いた石灰を吸い込んだことが原因とする説もあるが[23]、いずれにせよムーティエはこの放牧中に喘鳴症を発症する。これは走行時に呼吸するとき声帯の開閉に支障を来たして息苦しくなり、同時に喉から音がすることが特徴で、俗に「ノド鳴り」とも呼ばれ、競走能力に著しい悪影響をおよぼすものだった[22]

その後、タニノムーティエは9月20日、古馬(5歳以上馬)混合戦の朝日チャレンジカップから復帰したが、一般に対して喘鳴症の事実は伏せられた[22]。当日は60キログラムの斤量を負わされながらも1番人気に支持されたが、レースでは大差の最下位で入線[24]。約1カ月後、三冠最終戦菊花賞の前哨戦・京都杯でも再び1番人気に推されたが、9頭立ての6着に終わる[24]。この競走後に初めてムーティエが喘鳴症を患っていることが発表された[22]。なお、当時のタニノムーティエの症状について、志摩直人が著作の中で次のように書き記している[25]

その追切り[注 1]の日は淀特有のガスが発生して、ガスの中を馬が見え隠れして走っていた。とても時計などとれる状態ではなかった。
そんな中で、ちらっ、ちらっ、と栗毛の馬が走っていた。直線すっかりガスの中にまぎれこんでしまっていたが、まるで笛を吹くような、ひゅー、ひゅー、という音が聞こえてきた。ゴールをよぎったところでガスは切れて、それがタニノムーティエの呼吸であることが確認されたときには驚いた。喘鳴症といっても、こんなに烈しいのははじめてだった。

三冠ならず引退

菊花賞はセントライトシンザンに次ぐ史上3頭目のクラシック三冠達成が懸かっていたが、調教では相変わらず喉を鳴らしており、3ハロンのタイムは43秒を切ることができなかった[24]。菊花賞を前に引退も検討されたが、谷水の希望により出走に踏み切る。「ダービー馬の名誉に傷が付くのではないか」との声に対して谷水は、「人気するかな、しないやろ。名残の菊や。ムーティエの走りっぷりをゆっくり見つめてほしい」と語った[24]。厩舎では万にひとつ症状が出ない可能性を信じ、あらゆる方法で喉の療養に努めた[24]。なお、島崎は出走に反対しており、谷水に「これだけ、ひとつだけでも、私の意見を聞いてほしかった」と恨み言を聞かせると、谷水は反論せず腕組みをして唸り声を漏らしたという[22]

前売りの単勝オッズは3番人気、当日は5番人気となる[24]。1番人気はアローエクスプレスであった。レースでは後方に控えたのち、第3コーナーから最終コーナーにかけて先頭を窺う勢いで進出し、観衆を大きく湧かせたが、そこから失速してダテテンリュウの11着(アローエクスプレス9着)に終わり、史上3頭目の三冠は成らなかった[24]。志摩直人は最後に見せた脚を「これがタニノムーティエだといわんばかりの凄さの一端を示してみせたに過ぎなかったが、それはかつての日、中山の皐月賞で、府中のダービーで見せたあの豪脚の幻であった」と評している[25]

これを最後に引退となり、11月29日、京都競馬場で引退式が行われた。厩務員の近藤昭は「シンザン以上の馬だった」と評しているが[22]、そのシンザンの調教師であった武田文吾は、タニノムーティエに対して「帰牧して 二冠の壺に 菊植えん」との一句を詠み、その引退を惜しんだ[24]。なお、この引退から約1年後の1971年11月18日、谷水信夫は交通事故により61歳で死去。長男の雄三が競馬事業も引き継ぐことになった。

種牡馬時代

引退後は種牡馬として北海道静内町の静内種畜場に繋養された。初年度(1971年)には38頭の交配相手を集め、1973年に産駒がデビューすると、中央競馬では京都3歳ステークス(当時はオープン特別競走)を制したタニノサイアスなど7頭中4頭が勝ち上がった。翌1974年には78頭の交配相手を集めたが[26]、産駒成績は尻すぼみで[23]、1979年からは九州へ、さらに1981年より再び静内、その翌年からカントリー牧場、1985年からは十勝の個人牧場と、繋養先を転々とした[20]。中央での主な産駒には、それぞれ京都3歳ステークスに勝ったタニノサイアス(ほか桜花賞4着)とタニノレオ(同菊花賞5着)、地方競馬では東海桜花賞名古屋大賞典に勝ったハローキング、中津記念に勝ったタニノガルフがいる[13]

かつてのライバル・アローエクスプレスは種牡馬として大きな成功を収め、この点では対照的な結果となった。「競走馬としてタニノムーティエの圧勝、種牡馬としてはアローエクスプレスの圧勝」とも評される[27]。タニノムーティエの種牡馬としての失敗は、繁殖牝馬の交配相手として重用していたカントリー牧場の低迷を招く原因のひとつともなった[28]。弟のタニノチカラが1974年に有馬記念を勝って以降、改革を経て2002年にタニノギムレットが日本ダービーを制するまでの28年間、カントリー牧場から八大競走・GI競走を制する馬は現れなかった。

晩年は故郷・カントリー牧場で余生を過ごしたが、1991年2月9日に老衰のため死亡した[23]。25歳没。それから24日後にはアローエクスプレスも老衰で死亡した。

競走成績

年月日 開催場 競走名 頭数 人気 着順 距離(状態 タイム 着差 騎手 斤量 勝ち馬/(2着馬)
1969 7. 18 函館 オープン 5 2 1着 芝1000m(良) 59.7 0.9秒 安田伊佐夫 51 (スイノオーザ)
8. 8 函館 すずらん賞 4 1 1着 芝1200m(良) 1:13.6 0.8秒 安田伊佐夫 52 (スイノオーザ)
8. 17 函館 函館3歳ステークス 10 2 2着 芝1200m(良) 1:13.7 0.2秒 安田伊佐夫 51 タニノソブリン
9. 7 札幌 はまなす賞 4 1 1着 ダ1200m(稍) 1:13.3 大差 安田伊佐夫 53 (タニノラスタム)
10. 5 阪神 デイリー杯3歳ステークス 11 1 1着 芝1400m(良) 1:24.1 0.3秒 宮本悳 51 タニノソブリン
11. 2 京都 紅葉杯 11 1 4着 芝1600m(良) 1:38.6 0.2秒 宮本悳 54 マサミンシオ
11. 9 京都 オープン 12 1 1着 芝1400m(良) R1:24.6 0.3秒 安田伊佐夫 54 ジュピック
11. 30 京都 京都3歳ステークス 10 1 1着 芝1600m(不) 1:43.2 0.2秒 安田伊佐夫 54 (グランドプロス)
12. 14 阪神 阪神3歳ステークス 15 1 1着 芝1600m(良) 1:37.4 0.3秒 安田伊佐夫 52 (ウメノダイヤ)
1970 2. 8 京都 きさらぎ賞 7 1 1着 芝1600m(不) 1:42.4 0.2秒 安田伊佐夫 55 (コマツオー)
3. 1 東京 弥生賞 14 2 1着 芝1600m(不) 1:38.9 0.5秒 安田伊佐夫 56 (ウメノダイヤ)
3. 22 中山 スプリングステークス 13 1 1着 芝1800m(良) 1:49.9 0.1秒 安田伊佐夫 55 アローエクスプレス
4. 12 中山 皐月賞 12 1 1着 芝2000m(重) 2:07.9 アタマ 安田伊佐夫 57 (アローエクスプレス)
5. 20 東京 NHK杯 10 2 2着 芝2000m(不) 2:08.9 0.4秒 安田伊佐夫 55 アローエクスプレス
5. 24 東京 東京優駿 22 2 1着 芝2400m(良) 2:30.0 0.1秒 安田伊佐夫 57 ダテテンリュウ
9. 20 阪神 朝日チャレンジカップ 8 1 8着 芝1600m(良) 2:09.8 大差 安田伊佐夫 60 ケイサンタ
10. 25 京都 京都杯 9 1 6着 芝2000m(良) 2:05.8 1.3秒 安田伊佐夫 57 タマホープ
11. 15 京都 菊花賞 16 5 11着 芝3000m(良) 3:12.6 2.2秒 安田伊佐夫 57 ダテテンリュウ
  1. 競走名太字は八大競走
  2. タイム欄Rはレコード勝ちを示す。

各種投票などによる評価

日本中央競馬会が2000年に主催した「20世紀の名馬大投票」では第56位に選出。投票世代別では10~30代でいずれも100位以下だったのに対し、40代以上ではいずれも30位台以上で、50代の投票では20位だった[29]。また同会の広報誌『優駿』による「20世紀のベストホース100」にも名を連ねている[30]。その他、各種投票企画では以下のような記録を残している。

  • 『優駿』1985年9月号「読者が選ぶ歴代最強馬ベスト・テン」- 第17位
  • 『優駿』2004年10月号「記憶に残る名馬たち 個性派ホースBEST10」- 1950~1970年代追い込み馬部門・識者投票第2位
  • 『優駿』2010年8月号「未来に語り継ぎたい不滅の名馬たち」- 第93位
  • 『優駿増刊号TURF』創刊50周年記念(1991年)「新聞記者、競馬人、著名人への大アンケート・最強馬部門」 - 第11位
  • 日本馬主協会連合会40年史』(2000年)「アンケートからみた20世紀の馬主たち・一番印象に残る競走馬」- 第15位
    • 同上「アンケートからみた20世紀の馬主たち・一番好きな競走馬」 - 第16位

血統表

タニノムーティエ血統(プリンスビオ系(プリンスローズ系) / Nogara5×5=6.25%) (血統表の出典)

*ムーティエ
Moutiers
1958 栗毛 フランス
父の父
Sicambre
1948 黒鹿毛 フランス
Prince Bio Prince Rose
Biologie
Sif Rialto
Suavita
父の母
Ballynash
1946 鹿毛 イギリス
Nasrullah Nearco
Mumtaz Begum
Ballywellbroke Ballyferis
The Beggar

タニノチエリ
1963 栗毛 日本
*ティエポロ
Tiepolo
1955 鹿毛 イタリア
Blue Peter Fairway
Fancy Free
Trevisana Niccolo Dell'Arca
Tofanella
母の母
*シーマン
Seaman
1951 栗毛 ニュージーランド
Able Seaman Admiral's Walk
Charameuse
Vermah Vermeer
Marheke F-No.12-g


脚注

注釈

  1. ^ 競走数日前に行う仕上げの調教。

出典

  1. ^ 『優駿』2004年10月号、p.23
  2. ^ 『サラブレッド種牡馬銘鑑・第4巻』p.42
  3. ^ a b c d e f g 『優駿』1987年11月号、p.22
  4. ^ 渡辺(1999)p.115
  5. ^ 河村(2008)p.23
  6. ^ 渡辺(1999)p.119
  7. ^ 渡辺(1999)pp.117-118
  8. ^ a b 渡辺(1999)p.120
  9. ^ 渡辺(1999)p.122
  10. ^ a b 渡辺(1999)p.131
  11. ^ a b c 『日本の名馬・名勝負物語』p.359
  12. ^ a b c d 渡辺(1999)pp.133-134
  13. ^ a b c 梅沢直. “日刊競馬で振り返るGI 1970年タニノムーティエ”. 日刊競馬. 2015年2月18日閲覧。
  14. ^ a b 『日本の名馬・名勝負物語』p.360
  15. ^ 『優駿』1987年11月号、p.23
  16. ^ 渡辺(1999)p.140
  17. ^ a b c 渡辺(1999)pp.143-146
  18. ^ 『日本ダービー十番勝負』p.93
  19. ^ 渡辺(1999)pp.147-151
  20. ^ a b c d e 『優駿』1987年11月号、pp.24-25
  21. ^ 『優駿』1983年7月号、pp.92-93
  22. ^ a b c d e f g h i 渡辺(1999)pp.152-155
  23. ^ a b c 『サラブレッド101頭の死に方』pp.256-258
  24. ^ a b c d e f g h 『優駿』1987年11月号、p.21
  25. ^ a b 志摩(1991)pp.238-240
  26. ^ 『サラブレッド種牡馬銘鑑・第4巻』p.288
  27. ^ 『日本ダービー十番勝負』pp.97-98
  28. ^ 河村(2009)pp.57-58
  29. ^ 『優駿』2000年10月号、p.120
  30. ^ 『優駿』2000年11月号、p.18

参考文献

  • 『サラブレッド種牡馬銘鑑・第4巻』(日本中央競馬会、1977年)ASIN B000J8Q76E
  • 中央競馬ピーアール・センター編『日本の名馬・名勝負物語』(中央競馬ピーアール・センター、1980年)ASIN B000J86XWM
    • 後閑亮輔「四歳春までに燃焼 タニノムーティエ・アローエクスプレス」
  • 志摩直人『風はその背にたてがみに(文庫版)』(廣済堂文庫、1991年)ISBN 978-4331650943
  • 寺山修司、古井由吉ほか『「優駿」観戦記で甦る 日本ダービー十番勝負』(小学館、1998年)ISBN 978-4094024814
  • 渡辺敬一郎『最強の名馬たち - 「競馬名勝負」真実の証言』(講談社、1999年)ISBN 978-4062097123
  • 大川慶次郎ほか『サラブレッド101頭の死に方(文庫版)』(徳間書店、1999年)ISBN 978-4198911850
  • 河村清明『ウオッカの背中』(東邦出版、2009年)ISBN 978-4809407741
  • 『優駿』1983年7月号(日本中央競馬会)
    • 瀬上保男「日本ダービー・記録ノート 歴代なんでもNo.1」
  • 『優駿』1987年11月号(日本中央競馬会)
    • 横尾一彦「栗毛の風雲児 タニノムーティエ」

外部リンク