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「織田幹雄」の版間の差分

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| 氏名 = 織田 幹雄
| 氏名 = 織田 幹雄
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| フルネーム = 織田 幹雄
| フルネーム = 織田 幹雄
| ラテン文字 = Mikio Oda
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| 生年月日 = [[1905]][[330]]
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| 身長 =
| 身長 =167[[センチメートル|cm]] (5ft 7in)
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| 体重 =65[[キログラム|kg]] (143lbs)
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| 走高跳 =1m92 (1927年)<!-- sports-reference.comより-->
| 走幅跳 =7m52 (1931年)<!-- sports-reference.comより-->
| 三段跳 =15m58 (1931年)<!-- sports-reference.comより-->
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}}
'''織田 幹雄'''(おだ みきお、[[1905年]]([[明治]]38年)[[3月30日]] - [[1998年]]([[平成]]10年)[[12月2日]])は、[[広島県]][[安芸郡 (広島県)|安芸郡]]海田市町(現・[[海田町]]稲荷町)出身の元[[陸上選手]]。'''日本人初のオリンピック金メダリスト'''。[[アジア系民族|アジア人]]としても個人初のオリンピック金メダリスト<ref name="Interview with Mikio Oda">[http://www.iaaf.org/news/kind=100/newsid=56570.html iaaf.org -Interview with Mikio Oda, first Japanese Olympic gold medallist]</ref><ref name="asahi.com">{{Cite news|url=http://www.asahi.com/sports/spo/TKY201004280159.html|title=asahi.com(朝新聞社):国際陸連HPに故織田幹雄氏の記事|publisher=[[朝日新聞]]|date=2010年4月28日}}</ref>。
'''織田 幹雄'''(おだ みきお、[[1905年]]([[明治]]38年)[[3月30日]] - [[1998年]]([[平成]]10年)[[12月2日]])は、[[日本]]の[[陸上選手]]、指導者。[[広島県]][[安芸郡 (広島県)|安芸郡]][[海田町]]出身[[1928年アムステルダムオリンピック]][[三段跳]]金メダリスト<ref name="meigen">{{Cite news|url=https://web.archive.org/web/20170326135702/http://www.yomiuri.co.jp/stream/?id=03076|title=強い者は美しい…織田幹雄の言葉 : 名言 : : ...|publisher=[[読売新聞]]|date=2014-01-04|accessdate=2014-04-24}}</ref><ref name="先人を訪ねて" >『先人を訪ねて』織田幹雄(広島県海田町)[[読売新聞]]、2012年3月26日、30面</ref><ref name="ph48223">{{Cite news|url=http://www.pref.hiroshima.lg.jp/uploaded/attachment/48223.pdf|format=PDF|title=強いものは美しい 本初の金メダリスト 織田幹雄|publisher=広島県教育委員会|accessdate=2014-04-24}}</ref>。


== 経歴 ==
== 人物 ==
{{ external media
[[1922年]]([[大正]]11年)、旧制広島一中(現・[[広島県立広島国泰寺高等学校]])徒歩部(陸上競技部)時代、全国中等学校陸上競技大会の[[走高跳]]と[[走幅跳]]で優勝。17歳で[[三段跳]]日本新記録を樹立。[[1923年]](大正12年)、第6回[[極東選手権]]で走幅跳、三段跳で優勝。[[1924年]](大正13年)の[[パリオリンピック (1924年)|パリ・オリンピック]]に出場。日本選手団は陸上・[[水泳]]・[[テニス]]・[[アマチュアレスリング|レスリング]]の全28人だった。当時の日本陸上は世界の情勢に程遠く、オリンピック村で他国のチーム関係者に話を聞いて驚くような状況だった。織田は走幅跳では惜しくも入賞を逃したが、三段跳で日本陸上初の入賞(6位)を果たした。[[1925年]](大正14年)、[[早稲田大学]][[商学部]]に進学、[[早稲田大学競走部]]で活躍。当時英語で「ホップ・ステップ・アンド・ジャンプ」と呼ばれた競技名を自ら「三段跳」と訳した。現在はトリプルジャンプと呼ばれている。[[1928年]]([[昭和]]3年)の[[アムステルダムオリンピック]]では日本選手団の主将として出場するとともに、[[8月2日]]に行われた三段跳決勝の2回目に15m21cmを記録し'''日本人初の[[金メダル]]を獲得'''した。なお、金メダルは銀台金張メダルなのが規定のはずだが織田が受賞したメダルは銅台金張メダルである。[[1931年]](昭和6年)、早稲田大学を卒業し[[朝日新聞社]]入社。同年[[10月27日]]、当時の三段跳の世界記録(15m58cm)を樹立した。
| topic = 現役時代の映像
[[画像:National Stadium of Japan Kasumigaoka.jpg|thumb|left|250px|国立霞ヶ丘陸上競技場内部。手前に見える白いポールが織田ポールである。]]
| align =
オリンピックにおける日本人初の金メダル獲得という偉業を記念して、[[国立霞ヶ丘陸上競技場]]のトラック内に、優勝記録と同じ長さの、高さ15m21cmのポールが立っている。(なお同様のポールとして、海田町立海田小学校国旗掲揚台のメインポールがある)場所は1番ゲート正面付近で「'''織田ポール'''」と呼ばれている他、[[渋谷区]]にある[[代々木公園陸上競技場]]も「'''織田フィールド'''」(全天候型トラックでありながら、無料で開放されている夜間の照明付陸上競技場、市民大会規模の競技会で使用される)と命名されている。
| width = 300px
| video1 = [https://www.youtube.com/watch?v=DlAY8-A6WOY Oda Becomes Asia's First Individual Olympic Champion - Amsterdam 1928 Olympics] - Olympics.org。1928年アムステルダム五輪の三段跳の跳躍と[[#逸話]]にある大きな日の丸の映像がある。
| video2 = [https://www.youtube.com/watch?v=mQkMKE9NEjc Japanese 'varsity Athletes (1928)] - British Pathé。1928年ロンドンで行われたアキレスクラブと早稲田大の対抗戦{{Sfn|早稲田|p=}}の映像。優勝した走幅跳の映像がある。
}}
「'''日本人初のオリンピック金メダリスト'''」であり、[[アジア系民族|アジア人]]初のオリンピック金メダリストでもある<ref name="Interview with Mikio Oda">{{Cite web|author=Ken Nakamura |url=http://www.iaaf.org/news/news/interview-with-mikio-oda-first-japanese-olymp|title=Interview with Mikio Oda, first Japanese Olympic gold medallist|language=英語|publisher=国際陸上競技連盟|date=2010-04-26|accessdate=2014-04-24}}</ref><ref>{{Citation|和書|url=http://www.wasedaweekly.jp/detail.php?item=448|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140416192012/wasedaweekly.jp/detail.php?item=448|title=早稲田偉人列伝 (2)織田 幹雄 (1905年~1998年)|periodical =早稲田ウィークリー|number=1282|date=2012-07-05|accessdate=2014-04-24|archivedate=2014-04-16}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://toyokeizai.net/articles/-/37694|title=早大競走部が受け継ぐ“魔法の言葉” 世界を目指す名門から学ぶ「上昇志向」|work=東洋経済オンライン|publisher=[[東洋経済新報社]]|date=2014-05-15|accessdate=2017-03-26}}</ref>。織田の[[金メダル]]により、日本陸上は一躍世界の第一線に躍り出たと言われる{{Sfn|激スポ史|p=3}}<ref>[http://www.sportsclick.jp/track/03/index16.html 最終回 - SportsClick]</ref>。当時[[英語]]で「ホップ・ステップ・アンド・ジャンプ」(現在はトリプルジャンプ)と呼ばれた競技名を「[[三段跳]]」と訳した{{Sfn|早稲田|p=}}<ref name="london2012" />{{Sfn|河野|p=53}}<ref name="早稲田スポーツ"/>。早稲田大学時代に競技会の[[小冊子|プログラム]]を作る際、織田が「三段跳」と訳した{{Sfn|金枡|pp=77–80}}。三段跳では、織田(1928年五輪)・[[南部忠平]]([[1932年ロサンゼルスオリンピック|1932年五輪]])・[[田島直人]]([[1936年ベルリンオリンピック|1936年五輪]])と3大会連続で金メダルを獲得したことから、当時は、「日本のお家芸」とも言われた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.zakzak.co.jp/sports/spo-column/news/20100802/spc1008021510000-n1.htm|title=五輪三段跳び 織田幹雄が日本人初の金メダル|publisher=zakzak|date=2010-08-02|accessdate=2014-04-24}}</ref>。なお、南部と織田は終生の友人であり、田島は織田の影響で三段跳を始めた関係でもある<ref name="早稲田スポーツ">[http://www.yomiuri.co.jp/adv/wol/culture/140312.html 「世界への跳躍、限界への挑戦 ——早稲田スポーツの先駆者たちとその時代」展に寄せて]、[http://wasedasports.com/feature/20140817_19113/ 【連載】『エンジの記憶』 第1回 織田幹雄] –[[早稲田スポーツ]]</ref>{{Sfn|20世紀|p=66}}<ref name="waseda">[http://www.waseda.jp/archives/chirasipdf.PDF 沖田芳夫・ 織田幹雄・ 南部忠平・ 西田修平 - 早稲田大学]</ref>。「'''陸上の神様'''」<ref name="london2012">{{Cite web|和書|url=http://london2012.nikkansports.com/column/memory/archives/f-cl-tp0-20120719-986088.html|title=穴狙って金1号/3段跳び・織田幹雄氏|publisher=ニッカンスポーツ|date=2012-07-19|accessdate=2014-04-24}}</ref><ref>[[朝日新聞]]、1999年1月10日(夕刊)、3面</ref>、あるいは「'''日本陸上界の父'''」<ref name="meigen"/><ref name="早稲田スポーツ"/>{{Sfn|陸連七十|p=40}}と呼ばれ、戦後日本全国で陸上競技を指導・普及した、いわば、育ての親のような存在である{{Sfn|陸連七十|p=390}}。[[国際オリンピック委員会]]オリンピック功労賞受賞。


[[文化功労者]]、広島県名誉県民、安芸郡海田町名誉町民、[[名誉都民|東京都名誉都民]]、[[渋谷区]]名誉区民。最終学歴は[[早稲田大学]][[商学部]]卒業。[[朝日新聞社]]に入社し最終的には[[朝日新聞]]運動部部長、のち早稲田大学教授を務めた。
[[1932年]](昭和7年)の[[ロサンゼルスオリンピック (1932年)|ロサンゼルスオリンピック]]には陸上競技日本代表の主将及びコーチを務め、自らも選手として出場した。現役を引退した後、第二次世界大戦後の[[1948年]](昭和23年)にJOC([[日本オリンピック委員会]])委員に就任する。[[1952年]](昭和27年)[[ヘルシンキオリンピック]]及び[[1954年]](昭和29年)、[[マニラ]][[アジア競技大会]]の陸上競技日本代表監督を務める。[[1964年]](昭和39年)、[[前東京オリンピック|東京オリンピック]]では陸上競技日本代表総監督として指揮を執った。


実兄は元[[中国電力]]筆頭理事で[[マイクロ水力発電|小水力発電]]メーカーを立ち上げた[[実業家]]の織田史郎<ref>{{Cite web|和書|author=沖武宏|url=http://www.pref.kochi.lg.jp/uploaded/life/78751_262011_misc.pdf|format=PDF|title=小水力発電による地域経済への貢献と産業振興の可能性について|publisher=イームル工業|accessdate=2014-04-24}}</ref>。妻は[[貴族院 (日本)|貴族院議員]]・[[中村純九郎]]の三女<ref name="アーカイブ室新聞">{{Cite web|和書|author=中桐正夫|url=https://prc.nao.ac.jp/prc_arc/arc_news/arc_news065.pdf|format=PDF|title=東京天文台初代台長寺尾寿の家系図を入手 - 国立天文台・天文情報センター・アーカイブ室新聞 第65号|publisher=[[国立天文台]]・天文情報センター・アーカイブ室|accessdate=2014-04-24}}</ref>。実業家で第7代[[住友財閥]]総理事の[[古田俊之助]]は義兄<ref name="アーカイブ室新聞"/>。妻の伯母は[[天文学者]]・[[寺尾寿]]の先妻<ref name="アーカイブ室新聞"/>。長男の正雄と次男の和雄は共に父・幹雄関連の著書で名を連ね関連イベントに登場する。正雄は日独協会理事を務めドイツ関連の書籍をいくつか出している{{Sfn|IAAF|p= }}。一方で二人は、[[上皇明仁]]の学友(正雄は[[学習院中・高等科|学習院中等科]]で同級生、和雄は2歳後輩のテニス仲間であり[[常陸宮正仁親王]]と同級生<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.asahi.com/articles/ASF0TKY201312220207.html|title=「皆に公平」若い頃から 友人4人が語る陛下の素顔|publisher=朝日新聞|date=2013-12-22|accessdate=2014-04-24}}</ref>)として知られ、[[上皇后美智子]]とを繋いだ関係者でもある<ref>{{Cite news|title=織田和雄さん死去 上皇さまの学習院時代の後輩|newspaper=時事通信|date=2022-12-04|url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2022120400253&g=soc|access-date=2022-12-08|archive-url=https://web.archive.org/web/20221208151650/https://www.jiji.com/jc/article?k=2022120400253&g=soc|archive-date=2022-12-08}}</ref>。
[[1965年]](昭和40年)に母校である早稲田大学教授に就任し、またIAAF([[国際陸上競技連盟]])の技術委員などを務めた。[[1989年]](平成元年)、JAAF([[日本陸上競技連盟]])名誉会長に就任し、死去するまで務めた。 それ故に織田は「'''陸上の神様'''」<ref>[[朝日新聞]]、1999年1月10日(夕刊)、3面</ref><ref>[http://www.city.shibuya.tokyo.jp/shibuya/town/public.html 渋谷区/公共施設]</ref>、或いは「'''日本陸上界の父'''」であり、育ての親のような存在である。 またその功績を称え[[1967年]](昭和42年)から「'''[[織田幹雄記念国際陸上競技大会]]'''」が毎年四月に広島で開催されている。また[[早稲田大学競走部]]も、所沢キャンパス内にある練習グラウンドを[[2005年]]、大先輩である織田の生誕100年を記念して「織田幹雄記念陸上競技場」と命名している<ref>[http://www.waseda.jp/sports/supoka/campus/tokorozawa13.html 織田幹雄記念陸上競技場 | 早稲田大学スポーツ科学部]</ref>。
== 来歴 ==
=== 若年期 ===
[[ファイル:Kaita Aerial Shoot.jpg|thumb|right|250px|海田町と近隣の町の空撮。写真中央を横断する川が[[瀬野川]]であり織田の若年期における走幅跳の練習場<ref name="meigen" /> だった。写真中央やや右下が[[海田市駅]]であり、稲荷町は駅と左下側(北方向)の山に挟まれた区域にあたる。駅から左斜め上、川を渡ってすぐの広地が海田小学校であるが織田が通っていた時代と場所は違う。]]
[[ファイル:Kokutaiji High School.JPG|thumb|right|250px|現在の広島国泰寺高校。[[被爆]]により全壊した歴史を持つが、現在も織田が通っていた当時と同じ場所に位置する。]]
[[1905年]]([[明治]]38年)、広島県安芸郡海田市町(現海田町稲荷町)に生まれた<ref name="ph48223" />{{Sfn|早稲田|p=}}。


海田尋常小学校(現[[海田町立海田小学校]])へ入学<ref name="ph48223" />、在学中に海田市町と隣の[[広島市]][[船越町|船越村]]の尋常小学校3校の合併で鼓浦尋常高等小学校<ref name="funakoshi">{{Cite web|和書|url=http://www.funakoshi-e.edu.city.hiroshima.jp/2008/gakkouno%20gaiyou/gaiyou2008.html|title=学校の概要|publisher=広島市立船越小学校|accessdate=2014-04-24}}</ref> ができ同校を卒業する{{Sfn|早稲田|p=}}。なお鼓浦尋常高小の後進は[[広島市立船越小学校]]であるが<ref name="funakoshi" />、この経緯から織田の出身校は海田小<ref name="ph48223" />{{Sfn|早稲田|p=}}で統一されている。尋常小学校時代に安芸郡の体育大会での[[200メートル競走|200m走]]で優勝している{{Sfn|織田1997|p=30}}。怒った顔を見たことがないといわれるほど温厚な人物だったが、小学校時代から人一倍負けず嫌いだった{{Sfn|金枡|pp=77–80}}。
尚、[[1959年]](昭和34年)、[[紫綬褒章]]を受章。[[1976年]](昭和51年)にIOC([[国際オリンピック委員会]])からオリンピック功労章を授与されている。[[1985年]](昭和60年)に[[東京都名誉都民]]、[[1988年]](昭和63年)には[[文化功労者]]に選出され、また故郷の広島県の名誉県民並びに広島県安芸郡海田町の名誉町民に選ばれている。


[[1918年]]([[大正]]7年)、広島市中心部にある広島県立広島中学校(のち県立広島第一中、現[[広島県立広島国泰寺高等学校]])へ入学{{Sfn|早稲田|p=}}、同年1年時に校内の8[[マイル]][[マラソン]](約13km)で優勝している<ref name="kindai97176">{{Cite web|和書|url={{NDLDC|971761}}|pages=21-22|title=極東オリムピツク優勝選手の練習法 : 陸上競技全国巡回コーチ記念|publisher=大阪毎日新聞社|date=1923|accessdate=2014-04-25}}</ref>。ただ当時同校には、陸上競技部は存在しておらず、足に自信があった織田は[[西日本]]で一番強かったサッカー部へ入部する{{Sfn|織田1997|p=30}}{{Sfn|陸連七十|pp=392-393}}。第4代[[日本サッカー協会]]会長の[[野津謙]]や[[広島東洋カープ|広島カープ]]の設立で知られる[[谷川昇]]はサッカー部の6年先輩、サッカー日本代表選手の[[深山静夫]]は5年先輩にあたる。利き足は左だったが両足でボールを蹴ることが出来、入部当初は試合に出られなかったが3年生から[[ディフェンダー (サッカー)|フルバック(DF)]]や[[フォワード (サッカー)|左ウイング(FW)]]など様々なポジションで試合に出られるようになる{{Sfn|織田1997|p=30}}<ref>『跳躍一路』日本政経公論社、1956年、77頁</ref>。のちの陸上跳躍競技でも織田はこの左足<ref name="kaitapark">{{Cite web|和書|url=http://www.kaita-park.jp/oda_kensyou.htm|title=日本人初の金メダリスト織田幹雄氏をたたえる|publisher=海田総合公園|accessdate=2014-04-24}}</ref> を使うことになっていった。
[http://www.iaaf.org/ 国際陸上競技連盟](IAAF)は、2010年4月、'''アジア人として個人初の五輪金メダルを獲得'''した織田の偉業を称え、織田の長文のインタビュー記事を公式ホームページに掲載した<ref name="Interview with Mikio Oda"/><ref name="asahi.com"/>。


=== 陸上の世界へ ===
晩年を夫妻で[[油壺]]に暮らしていたが、妻の死を期に[[藤沢市]][[鵠沼]]の有料老人ホームに入居した。[[1998年]][[12月2日]]、[[湘南鎌倉総合病院]]にて死去。{{没年齢|1905|3|30|1998|12|2}}。墓所は鎌倉[[東慶寺]]に在る。
[[1920年]](大正9年)、広島一中3年時に[[1920年アントワープオリンピックの陸上競技|アントワープ五輪陸上]][[十種競技]]代表の[[野口源三郎]]が広島で講習会を開くこととなり、参加することになった{{Sfn|早稲田|p=}}。この時に織田は[[走高跳]]で自分の身長(当時155cm)より高く飛んでみせ、それを見た野口から褒められたことが陸上へ進むきっかけとなった<ref name="ph48223" />。野口の指導を受けた5日間を記した[[ノートブック|ノート]]は「原点ノート」と呼ばれ、海田町ふるさと館に展示されている<ref name="先人を訪ねて" />。


[[1921年]](大正10年)広島一中4年時、徒歩部(陸上部)ができたことから、サッカー部を辞め徒歩部へ入部した{{Sfn|早稲田|p=}}。当時は強豪だったサッカー部がグラウンドを占拠したことから隅で練習を積み{{Sfn|陸連七十|pp=392-393}}、また徒歩部には指導者がいなかったため本屋を歩きまわり独学で練習した<ref name="ph48223" />。[[走幅跳]]の空中での動作がうまくいかず、自宅近くを流れる[[瀬野川]]に向かって跳び、足の振り方を練習した<ref name="meigen"/><ref name="先人を訪ねて" />。この年、[[上海]]で開かれた[[第5回極東選手権競技大会]]{{Sfn|スポーツ八十|pp=658–659}}で、日本の[[走高跳]]陣は惨敗した{{Sfn|金枡|pp=77–80}}。織田は自分の力なら十分入賞できることを知って残念がった{{Sfn|金枡|pp=77–80}}。織田の記録は地方に埋もれたままだった{{Sfn|金枡|pp=77–80}}。上海からの帰途、広島に立ち寄った[[極東選手権競技大会サッカー競技|極東大会のサッカー代表]]の中に[[十種競技]]をやっていた[[佐々木等]]がいた{{Sfn|金枡|pp=77–80}}。指導を受けた織田は何をやっても佐々木を凌ぎ、走高跳では日本記録を軽く超えた{{Sfn|金枡|pp=77–80}}{{Sfn|織田1997|p=36}}。びっくりした佐々木が惜しいことをしたと雑誌『運動界』に織田を紹介した{{Sfn|金枡|pp=77–80}}。
== エピソード ==
*アムステルダムオリンピックで金メダルを獲得したとき、掲揚用の日章旗を用意していなかった。持参したのは、勝者の体を包むための大型の旗だけだったので、やむなく表彰式ではこれを掲揚した。その結果、織田の日章旗だけが他の旗と比べて図抜けて大きいというアンバランスな形になり、写真にも残されている。この時の国歌は「千代に八千代に」と途中から流され国旗が掲揚されたと本人が伝えている。尚、この当時は表彰台は用意されておらず国旗を掲揚する形式でのみの表彰式となっていた。また、メダルは銀台金張りメダルと規定されている筈だが、織田のメダルは銅で作られており、同じ大会で金メダルを獲得した[[鶴田義行]]は銀で作られていて規定が必ずしも守られていなかった節が見受けられる。
*同学年の[[南部忠平]]とは、早大時代から兄弟よりも仲がいいと言われ、お互い切磋琢磨し大きな業績を残した。
*[[ハンマー投]]の[[沖田芳夫]]は広島一中および早大の1年先輩。1921年一中徒歩部創部時に共に入部している。
*織田は徒歩部創部前はサッカー部に所属していた。後に[[日本サッカー協会]]会長となる[[野津謙]]はサッカー部の6年先輩になる。また織田に最初に三段跳びを指導したのは、1922年当時広島に遠征していた元陸上選手で[[サッカー日本代表]]監督だった[[佐々木等]]である。
*当時[[ブリヂストン|ブリヂストンタイヤ]]久留米工場野球部でプレーしていた[[権藤博]](元[[中日ドラゴンズ]]投手)に「何とかコイツを1964年[[前東京オリンピック|東京オリンピック]]に出せないものか。出れば金メダルは確実」と東京オリンピックに向けて[[400mハードル]]の選手に転向してほしい」という要請をしたが断られた。その後、中日に入団した権藤は1年目で[[最多勝利|最多勝]]、[[最優秀防御率]]、[[最多奪三振]]、[[沢村栄治賞|沢村賞]] 、[[最優秀新人 (日本プロ野球)|新人王]]と賞を総ナメした。


[[1922年]](大正11年)、広島一中5年の時、9月に[[大阪府|大阪]]<!--寝屋川市{{Sfn|河野|pp=200–201}}-->で[[神戸商業大学 (旧制)|神戸高商]]主催の全国中等学校陸上競技大会が開かれることを新聞で知る<ref name="asahi8423" >[[中条一雄]]「連載 スポーツ人間ちょっといい話 校長の七十円で全国制覇した織田幹雄」『[[週刊朝日]]』1984年2月3日号、144頁。</ref>。矢もたてもたまらず校長室に行き、弘瀬時治校長に「全国大会に参加させてください」と直談判<ref name="asahi8423" />。弘瀬から「参加させてもいい。しかし本校の方針は参加させるだけではいかん。勝つ者しか参加させない主義である。キミは勝つ自信があるのか」と問われた。「勝てるかどうかわかりません」と言えば参加のチャンスは失われると考えた織田は思わず「絶対に全国制覇する自信があります」と答えた<ref name="asahi8423" />。弘瀬は「そんなに自信があるなら行け。石にかじりついても勝ってこい」と激励し「ところで遠征する金はあるのか」と聞いた。「ありません」と答えると弘瀬はポケットから70円を出し、「これでがんばってこい」とお金を手渡した<ref name="asahi8423" />{{Sfn|河野|pp=200–201}}。広島一中はサッカー部の全盛時代で陸上部は創部二年目で日陰の存在、部費は30円だった。70円は大金で織田は感激のあまり体が震えた。早速十数人の部員を集めて「どうしても勝とう」と誓い合った。夏休みの40日間、暑い広島の夏にサッカー部が朝夕の涼しい時間を練習時間に当てられ、陸上部が割り当てられたのは午後1時から3時まで。部員は[[日射病]]で次々に倒れ最後までやり抜いたのは織田と1年先輩の[[沖田芳夫]]の二人だけ{{Sfn|金枡|pp=77–80}}<ref name="asahi8423" />。織田はもともとジャンプが専門だったが部員がいなくなったため、あらゆる種目に取り組んだ。こうして広島一中は全国中等学校陸上競技大会に織田と沖田に貫田武を加え、たった3人で初参加し<ref name="asahi8423" />、初優勝を果たし、織田自身も走高跳と走幅跳で優勝した{{Sfn|陸連七十|pp=392-393}}{{Sfn|中条|p=10}}。織田と沖田は中国地方の大会ではほぼ二人だけで全競技勝利しており、のち「広島一中の双璧」と謳われる{{Sfn|早稲田|p=}}<ref name="kindai97176" />。
== 著書 ==

* 『陸上競技 其の本質と方法』([[旺文社]]、1942/9)
一か月後の11月、17歳の時に[[広島高等師範学校|広島高師]]で行われた[[第6回極東選手権競技大会]]一次予選会において走高跳1m73、走幅跳6m29の日本新記録を樹立{{Sfn|金枡|pp=77–80}}、三段跳は13m38で日本記録にあと7cm届かなかった{{Sfn|早稲田|p=}}<ref name="kindai97176" />。灼熱の猛練習が名選手への道を拓いた<ref name="asahi8423" />。
* 『陸上競技 (青年スポーツ新書)』([[旺文社]]、1946/8)

* 『世界記録を目ざして (スポーツ叢書)』([[御影文庫]]、1948/5)
[[1923年]](大正12年)、家庭の経済的理由から授業料のいらない[[広島高等師範学校]][[臨時教員養成所]]へ進学する{{Sfn|早稲田|p=}}。なお沖田はこの年に進学しており2人共1922年度つまり同年度に広島一中卒業ということになる<ref>{{Cite web|和書|url=http://rijo.gr.jp/%E9%AF%89%E5%9F%8E%E4%BA%BA%E7%89%A9%E9%8C%B2/%E5%A4%A7%E6%AD%A3%EF%BC%91%EF%BC%92%E5%B9%B4%E5%8D%92/|title=鯉城人物録/大正12年卒|publisher=鯉城同窓会|accessdate=2014-04-24}}</ref>。同年、第6回極東選手権に日本代表として初選出{{Sfn|河野|pp=200–201}}。うち広島出身者は織田と沖田、[[浅岡信夫]]ら5選手だった{{Sfn|河野|pp=200–201}}。初の国際競技会出場だった織田は走幅跳、三段跳で優勝{{Sfn|早稲田|p=}}<ref name="kindai97176" />。当時の毎日新聞は「日本一のジャンパー」「跳躍の鬼才」「ジャンプの麒麟児」と謳った<ref name="kindai97176" />。[[日本体育協会]]は「此の大会の偉大なる収穫は日本の陸上及び水泳競技においてようやく世界的レベルに至った一事と、陸上の織田幹雄、水泳の[[高石勝男]]と天才的少年が活躍したことである」と評した{{Sfn|スポーツ八十|pp=659–662}}。

[[1924年]](大正13年)広島高師臨教2年時、[[1924年パリオリンピック|パリ・オリンピック]]に出場{{Sfn|早稲田|p=}}。[[1924年パリオリンピックの日本選手団|五輪日本選手団]]は陸上・[[水泳]]・[[テニス]]・[[アマチュアレスリング|レスリング]]の全28人で、織田は跳躍では唯一の日本代表{{Sfn|早稲田|p=}}だった。当時の日本陸上は世界の情勢に程遠く、オリンピック村で他国のチーム関係者に話を聞いて驚くような状況だった。織田は走高跳では予選落ちするも、三段跳で14m35(日本新記録)をたたき出し、日本陸上初の入賞(6位)を果たした<ref name="ph48223" />{{Sfn|早稲田|p=}}。

=== 早稲田と金メダル ===
[[ファイル:Chūhei Nambu 1932.jpg|thumb|right|180px|南部忠平]]
[[ファイル:Olympic Stadium Amsterdam 1928.jpg|thumb|right|250px|織田が金メダルを獲得した[[オリンピスフ・スタディオン (アムステルダム)|アムステルダム・オリンピスフ・スタディオン]]]]
[[1925年]](大正14年)、奨学金を得て第一早稲田高等学院(現[[早稲田大学高等学院・中学部|早稲田大学高等学院]])へ進学、[[早稲田大学競走部]]に所属する{{Sfn|早稲田|p=}}{{Sfn|陸連七十|p=407}}。同郷で後に"日本レスリング界の父"と呼ばれる[[八田一朗]]は同学校の一学年下{{Sfn|中条|p=15}}、同じく同郷で後に[[日本水泳連盟]]会長となる[[藤田明]]も後輩にあたる。競走部には広島一中の先輩で親友であった沖田(1923年入部)、そして[[南部忠平]](1924年入部)がおり、特に南部とは以降70余年に及ぶ終生の親友となり兄弟よりも仲がいいと言われお互い切磋琢磨し大きな業績を残した{{Sfn|20世紀|p=66}}。五輪に日本代表として出た経験を持つ織田だったが、競走部では1年から雑用をやったことを回想している{{Sfn|早稲田|p=}}。在学中、走幅跳および三段跳で日本記録を更新しただけでなく、[[第7回極東選手権競技大会]]予選会では十種競技で、[[第13回日本陸上競技選手権大会]]では[[400メートルリレー走|400mリレー]]([[山口直三]]・[[大沢重憲]]・織田・南部)で日本新を記録している{{Sfn|早稲田|p=}}。

[[1928年]]([[昭和]]3年)、沖田の後を追う形で[[早稲田大学]][[商学部]]に進学する{{Sfn|早稲田|p=}}{{Sfn|陸連七十|p=407}}。引き続き早大競走部に在籍、沖田・南部らと競走部黄金期の立役者となり{{Sfn|早稲田|p=}}<ref name="waseda"/>、早稲田スポーツの先駆者となった<ref name="早稲田スポーツ"/>。自身の活躍と共に陸上のコーチはいない時代のため<ref name="早稲田スポーツ"/>{{Sfn|春秋三|p=40}}、[[中島亥太郎]]や織田を慕って入部してきた[[西田修平]]ら後輩を指導した{{Sfn|陸連七十|p=488}}。当時早大競走部部長{{Sfn|早稲田|p=}}であり同年に発足した[[日本学生陸上競技連合]]初代会長で、後に[[1940年東京オリンピック|1940年幻の東京オリンピック]]招致に動いた[[山本忠興]]は、織田を通じて陸上競技の知識を習得した<ref>橋本一夫『幻の東京オリンピック』[[日本放送出版協会]]、1994年、14頁</ref>。

同1928年、[[1928年アムステルダムオリンピック|アムステルダムオリンピック]]に出場、[[1928年アムステルダムオリンピックの日本選手団|五輪日本選手団]]には早大競走部から織田の他、沖田・南部・大沢・山口・[[住吉耕作]]・[[木村一夫]]・[[井沼清七]]<!-- 古山一郎は明大? -->が選ばれていた。[[7月28日]]に行われた走高跳では1m88で8位に終わる。[[8月2日]]<ref>[https://www.daily.co.jp/gossip/2016/08/02/0009347058.shtml キスマイ玉森 1億円あったらクルーザー 金の延べ棒20本を前に]</ref>、[[1928年アムステルダムオリンピックの陸上競技・男子三段跳|三段跳]]が行われ、予選で15m21を記録しトップで決勝へ進み、結局この記録が残り'''日本人初の[[金メダル]]を獲得'''する{{Sfn|早稲田|p=}}。この表彰式で有名な出来事があり、詳細は下記[[#逸話]]参照。なお、この五輪での金メダルは織田と競泳男子200m[[平泳ぎ]]の[[鶴田義行]]の2人だけであり、織田のメダル獲得の6日後に鶴田が獲得している<ref>{{Cite web|和書|url=http://sports.jiji.com/cgi-bin/beijing/c?t=contents_history0807&k=history_files9|title=日本人初の金メダルは織田幹雄=第9回アムステルダム(1928年)|publisher=時事通信|accessdate=2014-04-24}}</ref>。この時の祝勝会は国や早稲田大からは開いてもらえず、故郷の海田市町が祝ってくれたと回想している{{Sfn|IAAF|p=7}}。

[[1929年]](昭和4年)、早大競走部主将となる{{Sfn|早稲田|p=}}。以降も一線級の陸上競技者として活躍した{{Sfn|早稲田|p=}}。

=== 現役後期と戦争 ===
[[1931年]](昭和6年)、大学を卒業し[[朝日新聞社]]に入社し大阪朝日新聞社運動部に所属した<ref name="ph48223" />。同年第1回一般対学生陸上競技大会([[明治神宮外苑競技場|神宮]])にて、当時の三段跳の世界記録(15m58)を樹立した<ref name="wasedaacnr">{{Cite web|和書|url=http://www.waseda-ac.org/history/nationalrecord/nr.html|title=早稲田がつくった日本記録|publisher=早稲田大学競走部|accessdate=2014-04-24}}</ref>。なお、織田はいくつも日本記録を更新しているが、世界記録を更新したのはこの記録のみで、この記録も後に南部が更新することになる<ref name="wasedaacnr" />。また同大会では南部も走幅跳で世界記録を更新している<ref name="wasedaacnr" />。

[[1932年]](昭和7年)3月、[[台湾]]での指導中に足を負傷してしまい、これが織田の選手寿命を縮める結果となった{{Sfn|早稲田|p=}}。

同1932年、[[1932年ロサンゼルスオリンピック|ロサンゼルスオリンピック]]が開幕、織田は[[1932年ロサンゼルスオリンピックの日本選手団|五輪日本選手団]]の旗手を務め、陸上競技日本代表のコーチ・主将・選手として出場したものの{{Sfn|早稲田|p=}}、選手として出場した三段跳では記録が振るわなかった{{Sfn|早稲田|p=}}。ただ三段跳では南部が15m72の世界新記録を樹立し金メダルを<ref name="wasedaacnr" />、[[大島鎌吉]]が銅メダルを獲得している。

五輪が終わった同1932年11月、山本忠興を媒酌人として結婚した<ref>{{Cite web|和書|url={{NDLDC|1235603}}|author=[[下村宏]]|title=はきちがへ |publisher=四条書房|pages=264-265|date=1933|accessdate=2014-04-25}}</ref>。以降、怪我もあり陸上の第一線から退き、1934年(昭和9年)[[第34回日本陸上競技選手権大会]]での走高跳1m85を飛んで2位に入ったことが記録として最後のものとなった{{Sfn|早稲田|p=}}。

その後も織田は陸上競技指導者として活躍した。当時は指導者はおらず、陸上コーチは織田が中心になって始めた{{Sfn|陸連七十|p=406}}。現役時代の戦前から、一線を退いた戦後にかけて主に[[朝日新聞]]・[[毎日新聞]]主催で、南部らと[[都道府県庁所在地|県庁所在地]]で行かない所はないというくらい陸上の指導に全国を巡回した{{Sfn|陸連七十|pp=408-409}}。この間、戦争へ向かって進む中でスポーツ界に暗い影を落とす。その一つが、[[1938年]](昭和13年)[[1940年東京オリンピック|東京五輪開催権返上]]であった。織田は、コーチとして指導する中でアメリカに五輪の跳躍競技で勝てると確信していたが、準備委員会は機能しておらず東京の競技場の建設も止まり、国中が開催する雰囲気ではなかった、と回想している{{Sfn|IAAF|p=8}}。更に[[太平洋戦争]]では選手たちが死亡している{{Sfn|早稲田|p=}}。

終戦4ヶ月後にあたる[[1945年]](昭和20年)12月9日、織田の提案で東京大学競技場にて競技会が開かれ陸上競技愛好家が全国から集い織田も走高跳に出場した{{Sfn|早稲田|p=}}。同日、[[平沼亮三]]を会長として[[日本陸上競技連盟]](JAAF)新組織発足、織田はJAAF強化担当ヘッドコーチに就任する{{Sfn|陸連七十|p=415}}{{Sfn|陸連七十|p=433}}。つまりこの日が日本陸上界復活の日となった{{Sfn|早稲田|p=}}。

=== 戦後復興 ===
[[ファイル:Oda Mikio.JPG|200px|right|thumb|1948年アサヒグラフ掲載の織田]]
[[ファイル:Mikio Oda 01.jpg|200px|right|thumb|1956年毎日グラフ掲載の織田]]
戦後も織田は世界を相手に戦える人材の育成に奔走した<ref name="早稲田スポーツ"/>。[[1948年]](昭和23年)、[[日本オリンピック委員会]](JOC)委員に就任{{Sfn|早稲田|p=}}。同年に行われた[[1948年ロンドンオリンピック|ロンドンオリンピック]]には日本はまだ参加が許されず、また日本人の海外渡航も未だほとんど許されない時代、同郷の[[松本瀧藏]]らの支援を受け、この年強化の見識を広めるため単身5ヶ月に渡り欧米競技会を視察した{{Sfn|陸連七十|p=415}}{{Sfn|陸連七十|p=433}}。

[[1949年]](昭和24年)、戦後スポーツ最初の国際試合となった全米水泳選手権に[[古橋廣之進]]ら一行と渡米しアメリカのスポーツ界を見学{{Sfn|春秋三|p=560}}、そこで今後はスピード時代であると痛感し陸上界に進言し、また織田の大学の後輩でもあるアマチュアレスリングの[[八田一朗]]にも進言すると八田は翌1950年にアメリカ[[レスリング]]チームを日本に招いた{{Sfn|春秋三|p=560}}。それまで力一辺倒の日本レスリングにアメリカから学んだ技が加わり、日本レスリングは急激な進歩を遂げた{{Sfn|春秋三|p=560}}。同1949年、[[アマチュア運動連合|米国体育協会]](AAU)のダニエル・J・フェリス(ダン・フェリス)事務局長、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]][[民間情報教育局]](CIE)の{{仮リンク|ウィリアム・ニューフェルド|en|William Neufeld}}体育官に交渉して、米国陸上代表と一緒に欧州遠征に向かい、欧州の新しい技術や世界の新しい情勢を吸収する{{Sfn|陸連七十|p=488}}。招かれたスペインでは、織田は{{仮リンク|ルイス・フェリペ・アレタ|es|Luis Felipe Areta}}に跳躍技を指導した{{Sfn|陸連七十|p=488}}。後にアレタは[[1964年東京オリンピックの陸上競技|東京オリンピック走幅跳]]でスペイン陸上史上初の入賞(6位)を果たしたことから、スペインチーム団長だった[[フアン・アントニオ・サマランチ]]は織田の自宅にお礼に来たという{{Sfn|陸連七十|p=488}}。

これらの渡航資金は、カリフォルニアの[[フレッド・イサム・ワダ]](和田勇)やハワイの[[米谷克巳]]などアメリカ在住の日系人たちの支援によるものである<ref>「日系人と東京五輪の絆」読売新聞、2013年11月3日</ref>{{Sfn|IAAF|pp=10-11}}。和田には後にその金を返そうとすると第二の故郷である和歌山の学校に寄付してほしいと言い決してお金を受け取らなかった{{Sfn|IAAF|pp=10-11}}。[[第442連隊戦闘団]]出身で歯医者だった米谷には、織田がロンドン五輪視察前に立ち寄ったハワイでみすぼらしいスーツを着ていたためスーツと帽子を新調してもらっている{{Sfn|IAAF|pp=10-11}}。欧州遠征する選手全員のスーツをプレゼントしたのも米谷である{{Sfn|IAAF|pp=10-11}}。

[[1950年]](昭和25年)、[[国際陸上競技連盟]](IAAF)への復帰が許されIOCでオリンピックへの参加が許可されると、織田ヘッドコーチが適時コーチを選出する形でオリンピックだけを目指す強化体制がとられた{{Sfn|陸連七十|p=415}}。男女別に[[正月]]返上の強化合宿を行う{{Sfn|陸連七十|p=415}}。[[1951年]](昭和26年)戦後初の海外遠征となった[[1951年アジア競技大会|ニューデリーアジア競技大会]]から[[1952年]](昭和27年)[[1952年ヘルシンキオリンピック|ヘルシンキオリンピック]]、[[1954年]](昭和29年)[[1954年アジア競技大会|マニラアジア競技大会]]まで連続、陸上競技日本代表監督を務める{{Sfn|激スポ史|p=69}}{{Sfn|陸連七十|p=410}}。また1951年7月、14年ぶりに復活させた日米対抗戦を全国12ヶ所で18日間開催、この競技会は戦後の強化に大いに貢献して数十年の遅れを一年で回復したと言われる{{Sfn|陸連七十|p=410}}。

[[1958年]](昭和33年)、[[国立霞ヶ丘競技場陸上競技場]]が開場、「織田ポール」(後述)が建てられた{{Sfn|早稲田|p=}}。同年開催の[[1958年アジア競技大会|東京アジア競技大会]]がこけら落としとなり、織田は聖火ランナーの最終走者を務め、[[オリンピック聖火#聖火台|聖火台]]に点火した{{Sfn|早稲田|p=}}<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20150707-PBU5HV7FI5KUBLCJHAHMUHVBWM/|title=【オリンピズム】 64年東京のいまを歩く(13)語り継ぐことができる喜び|publisher=産経ニュース|date=2017-03-26|accessdate=2015-07-07}}</ref>。

=== 東京五輪 ===
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 183-C1012-0001-026, Tokio, XVIII. Olympiade, Gesamtdeutsche Mannschaft.jpg|thumb|right|200px|[[1964年東京オリンピックの開会式|東京五輪開会式]]]]
[[1959年]](昭和34年)、[[西田修平]]に代わりJAAF強化委員長に就任し、[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]までの5年間の強化を一任された{{Sfn|陸連七十|p=410}}。

[[1960年]](昭和35年)[[1960年ローマオリンピック|ローマオリンピック]]では入賞者0と惨憺たる成績で、織田は[[日本中学校体育連盟|中体連]]・[[全国高等学校体育連盟|高体連]]・[[日本学生陸上競技連合|学連]]・[[日本実業団陸上競技連合|実業団]]という一貫したレールの上での強化を考え、強化委員会・指導委員会・研究委員会の3つの委員会が協力して強化にあたるという構想を発表する{{Sfn|陸連七十|p=416}}。オリンピック東京大会選手強化指導本部を設置し本部長を兼任して組織を統合した。強化指導本部は4年間で成功をおさめるため、世界の優秀なコーチや研究者を招き、科学的な強化法に役立つ理論と実践を学ぶ{{Sfn|陸連七十|p=416}}。また専任コーチの設置、トレーニングセンターの建設などの強化方針を決めた{{Sfn|陸連七十|p=416}}。特に世界的なコーチといわれた{{仮リンク|アーサー・リディアード|en|Arthur Lydiard}}のマラソントレーニング方式は、[[高橋進 (陸上選手)|高橋進]]や[[中村清]]らに大きな影響を与え、後の日本マラソン界の繁栄に寄与した{{Sfn|陸連七十|p=416}}。

陸上界から完全に引退していた同郷の[[小掛照二]]をJAAF強化コーチとして復帰させたり<ref>{{Cite web|和書|url=http://www1.chugoku-np.co.jp/kikaku/ikite/ik100120.html|title=中国新聞 生きて 日本陸連名誉副会長 小掛照二さん(1932年~) <1> 導いた師 陸上・五輪と半生歩む|publisher=中国新聞|accessdate=2014-04-28}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.oaj.jp/interview/09_kogake/004.html|title=小掛照二さんインタビュー|publisher=日本オリンピアンズ協会|accessdate=2014-04-24}}</ref>、[[棒高跳]]に出場した[[盛田久生]]のために最先端の特注品ポールを五輪直前に渡米し作らせる<ref>{{Cite web|和書|url=http://sportsspecial.mainichi.jp/news/20140107ddlk08050169000c.html|title=つなぐ:半世紀の思い・1964-2020/5 東京五輪陸上男子棒高跳び・盛田久生さん /茨城|publisher=毎日新聞|date=2014-01-07|accessdate=2014-04-24}}</ref> など、ギリギリまで陸上強化に尽力した。

また陸上競技メダル獲得のため、当時身体能力に優れていたプロ野球入団前の野球選手<ref name="secom">{{Cite web|和書|url=http://www.secom.co.jp/otona/nagashima/1207.html|title=月刊長嶋茂雄 第22回 オリンピック好きに加わったあるニュアンス|publisher=セコム|accessdate=2014-04-24}}</ref> に声をかけていた。その中で有名なのが、[[権藤博]]である。織田は「何とかコイツを東京五輪に出せないものか。出れば金メダルは確実」「[[400メートルハードル|400mハードル]]の選手に転向してほしい」と要請をした{{Sfn|20世紀|p=126}}。具体的な競技種目まで話が進んだのは権藤のみである<ref name="secom" />{{Sfn|20世紀|p=126}}。また[[長嶋茂雄]]は「君のスピードなら陸上の中距離に転向すればメダルも夢ではない」と声をかけられたと証言している<ref name="secom" />。

[[1964年]](昭和39年)、[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]では織田は陸上競技日本代表総監督(JAAF強化委員長)として指揮を執し、南部が陸上競技監督として活躍した{{Sfn|早稲田|p=}}<ref name="早稲田スポーツ"/>{{Sfn|陸連七十|p=401}}。[[円谷幸吉]]をマラソンに転向させ、織田の狙い通り、円谷、[[君原健二]]、[[寺沢徹]]の三名をマラソン代表に選出、円谷が銅メダルを獲得した<ref name="meigen"/>{{Sfn|陸連七十|p=412}}<ref>{{Cite news|url=http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201701/20170112_64018.html|title=<円谷幸吉>スピードで頭角現す|publisher=[[河北新報]]|date=2017-01-12|accessdate=2014-04-24}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/olympic/column/edition/news/1580886.html|title=円谷幸吉は何を背負い何を感じたのか/証言1|publisher=ニッカンスポーツ|date=2017-03-26|accessdate=2015-12-18}}</ref>。

=== その後晩年まで ===
[[1965年]](昭和40年)に母校である早稲田大学教授に就任し、またIAAF技術委員などを務め長く後進を指導、選手育成に尽力した{{Sfn|中条|p=7}}<ref>[[長田渚左]]『こんな凄い奴がいた』ベースボール・マガジン社、2000年、12頁</ref><ref>[[読売新聞]]、2007年5月17日20面</ref>。国際陸連の技術委員を長く務めた織田の理論家としての名声は海外でも高く、東京・渋谷の自宅に教えを請いに来る人は、日本人より外国人の方が多かった<ref name="asahi8423" />。[[1980年]](昭和55年)[[1980年モスクワオリンピック|モスクワオリンピック]]ボイコット騒動の時には、当初から反対つまり五輪参加に向けて動いていた{{Sfn|IAAF|p=11}}<ref name="sportsnetwork">{{Cite web|和書|url=http://www.sportsnetwork.co.jp/adv/bn_writer_2010/takiguchi/vol486-1_col_takiguchi.html|title=織田幹雄さんからのメッセージ|publisher=スポーツデザイン研究所|accessdate=2014-04-24}}</ref>。同1980年、織田を会長に[[日本マスターズ陸上競技連合]]が創立<ref>[http://www.j-master.gr.jp/outline/masters-history.html マスターズ陸上の歴史 | 公益社団法人日本マスターズ陸上競技]</ref>。[[1989年]](平成元年)、JAAF名誉会長に就任し{{Sfn|早稲田|p=}}死去するまで務めた。

織田は晩年、色紙にはこの言葉を好んで書いた<ref name="meigen" /><ref name="ph48223" />。
{{quotation|「強い者は美しい」}}
[[ファイル:OdaMikio20111224.jpg|thumb|right|150px|東慶寺にある織田幹雄の墓。隣に銅像が併設されている。]]
また、織田は1986年4月には以下のものを残している{{Sfn|IAAF|p=17}}。
{{quotation|
陸上競技訓
::一、陸上競技は楽しく
::一、美しい動きを作れ
::一、身体の動きが技術
::一、練習で自信を作る
::一、笑えば緊張が解ける
::一、力だけでは勝てない
::一、走るには脚を前へ
::一、跳ぶには前脚で
::一、投げるには回転の早さで
::一、速さは低い姿勢から立つ
}}

織田は、晩年を夫妻で[[神奈川県]][[三浦市]][[油壺]]に暮らしていたが、妻の死を機に[[藤沢市]][[鵠沼]]の有料老人ホームに入居した<ref>{{Cite web|和書|url=http://kugenuma.sakura.ne.jp/03-04.html|title=鵠沼に居住した著名人(物故者)動静一覧|publisher=鵠沼を語る会|accessdate=2014-04-24}}</ref>。[[1998年]](平成10年)[[12月2日]]、織田は[[湘南鎌倉総合病院]]にてその生涯を閉じた。{{没年齢|1905|3|30|1998|12|2}}。

1998年12月25日に国立競技場で織田のお別れ会が開かれた{{Sfn|早稲田|p=}}。墓所は[[鎌倉市]]の[[東慶寺]]に在る{{Sfn|早稲田|p=}}。

1959年に[[紫綬褒章]]を受章している{{Sfn|中条|p=7}}。1976年IOCオリンピック功労章を授与{{Sfn|早稲田|p=}}。1988年陸上界初の[[文化功労者]]に選出{{Sfn|激スポ史|p=176}}。1984年渋谷区名誉区民、1985年[[東京都名誉都民]]、1986年故郷の安芸郡海田町名誉町民、1989年広島県名誉県民、広島市名誉市民に顕彰{{Sfn|早稲田|p=}}<ref name="shibuya">{{Cite web|和書|url=http://www.city.shibuya.tokyo.jp/shibuya/town/public.html|title=渋谷区/公共施設|publisher=渋谷区|accessdate=2014-04-24}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=渋谷区名誉区民|website=渋谷区|url=https://www.city.shibuya.tokyo.jp/kusei/ku/meiyokumin.html|accessdate=2022-07-12}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=広島県名誉県民|website=広島県|url=https://www.pref.hiroshima.lg.jp/site/kennsyou/1168847256781.html|accessdate=2022-07-12}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=広島市名誉市民|website=広島市|url=https://www.city.hiroshima.lg.jp/soshiki/7/17967.html|accessdate=2022-07-15}}</ref>。

=== 没後 ===
[[ファイル:National Stadium of Japan Kasumigaoka.jpg|thumb|right|250px|国立霞ヶ丘陸上競技場内部。手前に見える白いポールが織田ポールである。]]
[[ファイル:Bigarch050423.jpg|thumb|right|250px|広島広域公園陸上競技場。左端に見える白いポールが織田ポールである。]]
{{ external media
| topic = 海田町による紹介動画
| align =
| width = 250px
| video1 = [https://www.youtube.com/watch?v=HcB8SkPWQwc 海田町魅力発信動画 織田幹雄さん]
}}
織田の名前を冠したものがいくつか存在する。
* 「[[織田幹雄記念国際陸上競技大会]]」 - 広島広域公園陸上競技場で毎年4月末に開催される[[日本グランプリシリーズ]]。若いアスリートに「織田に続け」の願いを込められた大会であり{{Sfn|金枡|pp=77–80}}、織田が存命だった1967年から開催されている{{Sfn|早稲田|p=}}。
* 「織田幹雄賞」 - [[全日本マスターズ陸上競技選手権大会]]最優秀選手に贈られる賞<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.j-master.gr.jp/2014%20AMA%20Champs%20Entry%20Book.pdf|format=PDF|title=第 35 回全日本マスターズ陸上競技選手権大会|publisher=日本マスターズ陸上競技連合|accessdate=2014-04-29}}</ref>。

東京にあるものは以下のもの。
* 「織田ポール」 - オリンピックにおける日本人初の金メダル獲得という偉業を記念して、[[国立霞ヶ丘競技場陸上競技場]]開場年である1958年、トラック内に優勝記録と同じ長さの高さ15m21cmのポールが立てられた<ref name="london2012"/>。この織田ポールは2013年の旧国立霞ヶ丘競技場陸上競技場解体と共に[[ナショナルトレーニングセンター|味の素ナショナルトレーニングセンター]]([[東京都]][[北区 (東京都)|北区]][[西が丘]])に移設されている<ref>{{Cite web|和書|author= |url= https://edu-data.tokyo2020.org/data/jp/teach/texts/book/chapter3_lower-secondary_202104.pdf|title=過去のオリンピック大会における日本人選手の活躍 |website= オリンピック・パラリンピック
学習読本 小学生|publisher=東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会 |date= |accessdate=2021-08-01}}</ref>。
* 「織田フィールド」 - [[代々木公園陸上競技場]]の愛称<ref name="shibuya" />。
* 「織田幹雄記念陸上競技場」 - 母校早稲田大学の所沢キャンパス内にある[[早稲田大学競走部]]練習グラウンド。これは2005年に大先輩である織田の生誕100年記念として改名したもの<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.waseda.jp/sports/supoka/campus/tokorozawa13.html|title=織田幹雄記念陸上競技場|publisher=早稲田大学スポーツ科学部|accessdate=2014-04-24}}</ref><ref>[http://www.waseda.jp/athletic/odamikio/html/odamikio.html 織田幹雄生誕100年記念行事 - 早稲田大学]</ref>。

地元広島県にもいくつかある。
* 「織田幹雄記念ポール(織田ポール)」 - [[広島広域公園陸上競技場]]にも国立競技場と同サイズのポールがある<ref name="kaitapark" />。
* 地元海田町のいくつかの施設の国旗掲揚台メインポールは織田の金メダル記念として高さ15m21cmのものが立てられている<ref name="ph48223" />。現状は母校海田町立海田小学校、海田総合公園内の野球場及びテニスコートの3箇所<ref name="kaitapark" />。
* 海田総合公園には「顕彰碑」と、「記録体感ゾーン」と呼ばれる15m21cm時の足型3つが地面に付けられている<ref name="kaitapark" />。
* 海田町ふるさと館には、織田の遺品の幾つかが展示されている<ref name="kaitapark" />。
* 「織田幹雄スクエア」- [[2020年]][[4月1日]]、[[旧千葉家住宅]]の南隣に、海田公民館と「織田幹雄記念館」の[[複合施設]]としてオープンした<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chugoku-np.co.jp/local/news/article.php?comment_id=629101&comment_sub_id=0&category_id=112|title=織田幹雄PR拠点、海田にオープン 五輪金メダルなど50点|accessdate=2020-08-11|publisher=中国新聞}}</ref>。JR海田市駅の北口から徒歩5分にある、3階建ての建物のうち、2階の100平方メートルの一室が「織田幹雄記念館」となっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.town.kaita.lg.jp/site/modasquare-kyuchibake/114779.html|title=織田幹雄スクエアパンフレット|accessdate=2020-08-11|publisher=海田町}}</ref>。
織田は広島のスポーツ界が生んだ名選手の筆頭に挙げられる人である{{Sfn|金枡|pp=77–80}}。特に、織田の故郷の海田町では地元が産んだヒーローとして扱われ、生き様を学校の教材として用いたりしている<ref name="ph48223" />。

2010年4月、IAAFはアジア人として個人初の五輪金メダルを獲得した織田の偉業を称え、織田の長文のインタビュー記事({{Harvnb|IAAF|p=}}参照)を公式ホームページに掲載した<ref name="Interview with Mikio Oda"/>。これは[[中条一雄]]<ref>広島一中出身で、元朝日新聞論説委員。そのいずれにおいても織田の後輩に当たる。</ref> が織田の晩年である1996年から1997年にかけてインタビューしたものを、息子である織田正雄たちが主要な部分を抜き出し英文に訳した冊子が元になっている<ref name="sportsnetwork" />{{Sfn|IAAF|p=1}}。

== 逸話 ==
'''アムステルダム五輪表彰式'''
{{see also|1928年アムステルダムオリンピックの陸上競技・男子三段跳}}
:織田は[[1928年]]([[昭和]]3年)の[[1928年アムステルダムオリンピック|アムステルダムオリンピック]]で金メダルを獲得したが、当時日本は国力がなく、他国のインチキ臭い記録に文句をつけても何も通らない時代だった{{Sfn|春秋三|p=36}}{{Sfn|春秋三|pp=36-37}}。[[アムステルダム]]の[[デパート]]にも他国の[[旗]]はあっても[[日本の国旗|日の丸]]は置かれておらず、日本人の優勝はまさに想定外だった<ref name="先人を訪ねて" />。「[[君が代]]」は「さざれ石の」と途中から流された{{Sfn|春秋三|p=36}}。掲揚用の[[日本の国旗|日章旗]]さえなく、係員がうろうろしているのを見て「よし、きた」と織田自ら持参した勝者の体を包むための大型の旗を持ち、国旗掲揚台の上に駆け上がった。[[日本語]]で「これを上げろ」と言ったが、向こうは何のことか分からず、目を白黒させながら旗を受け取って掲揚した。その結果、織田の日章旗だけが他の旗と比べて四倍大きいというアンバランスな形になり、写真にも残されている([[#人物]]にあるOlympic.org動画参照)。当時は表彰台は用意されておらず、国旗を掲揚する形式でのみの表彰式が行われた。織田が渡した旗は[[カナダ]]チームが[[100メートル競走|100m]]で優勝した選手を旗にくるみ、皆でかついで場内を一周するのを前に見ていたため、織田が勝ったら[[南部忠平]]と身体をくるむために事前に用意していたものだった{{Sfn|春秋三|p=36}}。また、メダルは銀台金張りメダルと規定されているはずだったが、織田のメダルは銅で作られており、同じ大会で金メダルを獲得した[[鶴田義行]]は銀で作られており規定が必ずしも守られていなかった節が見受けられる。みんなに担がれて控室に行くと当時、オランダ公使だった[[広田弘毅]]が来て、全員で「[[君が代]]」を泣きながら歌った{{Sfn|春秋三|p=36}}。
:ただし、「巨大な日章旗」をめぐって「組織委員会が日章旗を用意していなかったから」とするよく知られた逸話については、スポーツジャーナリストの[[中条一雄]]が疑義を呈しており、日本の優勝がいかに予想外であったかを強調するために創られたものではないかとしている<ref name="chujo">{{Cite web|和書|url=https://blog.goo.ne.jp/k-chujo/e/fed2a07f32007d8fb30c8d613350a315|title=オリンピックあれこれ(1)|author=[[中条一雄]]|work=中条一雄のスポーツ炉辺閑話|date=2012年07月01日|accessdate=2023-3-16}}</ref>。中条によれば、大会組織委員会発行の報告書の写真を見る限り、アムステルダム大会では「すべての競技」の表彰式で優勝国の国旗が大きく{{efn|[[ハリナ・コノパッカ]](ポーランド、女子円盤投。オリンピック女子陸上競技最初の金メダリスト)<ref>{{cite web|url=https://www.youtube.com/watch?v=IO2gL-qOdeE|title=Halina Konopacka Wins First Ever Women's Discus Gold - Amsterdam 1928 Olympics|publisher= Olympic.org|accessdate=2023-3-16}}</ref>や、[[ジョン・クック (陸上選手)|ジョン・クック]](アメリカ合衆国、砲丸投)<ref>{{cite web|url=https://www.youtube.com/watch?v=nRhV3W1L3XU|title=John Kuck Wins Shot Put Gold With New World Record - Amsterdam 1928 Olympics|publisher= Olympic.org|accessdate=2023-3-16}}</ref>の表彰式の映像で、他より大きな金メダリスト所属国の国旗が確認できる。}}、これにより金メダルと銀・銅メダルの区別を行っていた(この大会ではまだ、金メダリストを1段高い位置で際立たせる表彰台はない)と見られる<ref name="chujo"/>{{efn|大会組織委員会発行の報告書の写真でこのことに気づいた中条が南部忠平(当時毎日新聞運動部長)に尋ねたところ、南部は自分が秩父宮下賜の日の丸(日章旗の出所については「秩父宮から「もし、織田が優勝したらこの日の丸で体をくるんでやれ」と下賜されたもの」というバリエーションがある<ref name="chujo"/>)を運んだということになっている話を面白がり、「おもしろい話は、そのままにしておけばいいんじゃないの」という返事であったという<ref name="chujo"/>。中条の文章は、ジャーナリストが古い文章や他人の言葉から適当な物語を引用することで間違った情報が固定化することの危険性を自戒とともに記す趣旨のものではあるが、南部の返答については「さすが大人物の南部さんでした」とコメントしている<ref name="chujo"/>。}}。中条の指摘によれば、織田は前回のパリ大会でも6位入賞を果たしており、メダル獲得が想定外とされるような選手ではなく<ref name="chujo"/>、日本大使館もあるオランダで組織委員会が日章旗を調達できないというということも考えにくいという<ref name="chujo"/>。
'''ダグラス・マッカーサーとの出会い'''
:[[連合国軍最高司令官総司令部]]最高司令官の[[ダグラス・マッカーサー]]とは、戦前に一度会っている。
:1924年パリ五輪に、アメリカ[[やり投]]代表{{仮リンク|ウィリアム・ニューフェルド|en|William Neufeld}}と知り合い、その次の1928年アムステルダム五輪で再会した際に当時五輪アメリカ選手団団長を務めていたマッカーサーを紹介してもらった<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.bpcj.or.jp/search/show_detail.php?program=126200|title=跳ぶ足 日本初の金メダリスト・織田幹雄|publisher=放送番組センター|accessdate=2014-04-24}}</ref>。織田は終戦時にマッカーサーがアメリカの将軍であったことに驚いたという。なお、ニューフェルドも上記[[#戦後復興]]の通り、戦後CIE体育担当官として来日しており、戦後の日本スポーツ界再建に貢献している。
'''東京五輪聖火リレー最終ランナー'''
[[ファイル:1964 Cauldron.JPG|thumb|right|200px|国立競技場聖火台]]
:[[1964年東京オリンピックの開会式|東京五輪開会式]]での[[聖火リレー]]最終ランナーは、当時19歳で[[広島市への原子爆弾投下|広島原爆投下の日]]である1945年8月6日に生まれた[[坂井義則]]になったが、初めは織田らメダリストが候補だった。しかし織田は「ぜひ戦後生まれの若いランナーに」と提言した<ref>「検証昭和報道167 高度成長と東京五輪」[[朝日新聞]]、2009年12月10日、27面</ref>。
:このことから坂井を選んだことは織田などJOC関係者が政治的意図を持って人選したとも言われるが、織田と同じく広島県出身で当時朝日新聞運動部に席をおいた[[中条一雄]]は、異を唱えている。当時決定権を持っていたのは[[青木半治]]JAAF理事長・[[竹田恒徳]]JOC委員長・[[久富達夫]]JOC相談役の3人であり、青木が若手の有望株の中から無作為に坂井を選び、元皇族の竹田に了承させたことにより政府も了承した、つまり選定の段階から広島原爆を全く意識していなかったものであり織田は選定に絡んでいなかった、と証言している<ref>{{Cite web|和書|url=https://blog.goo.ne.jp/k-chujo/e/bf2dd4b45ac80f3c363fa01fdd03fec1|title=オリンピックあれこれ(7)|publisher=中条一雄のスポーツ炉辺端閉話|date=2012-08-12|accessdate=2014-04-24}}</ref>。
'''新聞記者'''
:織田は大阪朝日の新聞記者として働いたが、織田の影響で新聞記者となったものが存在する。例えば[[川本信正]]は織田の推薦で読売新聞に入社し{{Sfn|陸連七十|p=403}}、[[矢田喜美雄]]は織田が進路相談し大阪朝日に入社している<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jare.org/kouwakai/col3.cgi?mode=dsp&no=9&num=|title=矢田喜美雄氏とその時代|publisher=南極OB会|accessdate=2014-04-24}}</ref>。

== 主な記録 ==
''以下、早稲田大学競走部が取りまとめた世界および日本記録{{Sfn|早稲田|p=}}<ref name="wasedaacnr" /> を中心に記載する。''
{| class="wikitable" style="text-align: center; font-size:smaller;"
|-
!rowspan="2"|日付!!rowspan="2"|大会!!colspan="5"|記録!!rowspan="2"|所属!!rowspan="2"|備考
|-
!三段跳!!走幅跳!!走高跳!!400mR!!十種競技
|-
|align=right|1922年
||極東選手権予選||13m38||6m29||1m73||||||広島一中
||走幅/走高日本新
|-
|align=right|1923年5月
||極東選手権||||||||||||rowspan="2"|広島高師<br />臨教
||三段/走幅優勝
|- style="background-color: #D0E7FF"
|align=right|1924年7月
||パリ五輪||14m35||6m83||1m80||||
||三段6位入賞、走幅/走高10位
|-
|align=right|1925年4月
||極東選手権予選||||||||||6359.935||rowspan="19"|早稲田
||十種日本新
|-
|align=right|5月
||極東選手権||14m05||||||||
||優勝
|-
|align=right|7月
||早大対関学||||7m19||||||
||走幅日本新
|-
|align=right|9月
||東京市民||14m805||||||||
||三段日本新
|-
|align=right|11月
||日本選手権||14m315||7m24||||||6307.47
||走幅日本新
|-
|align=right|1926年5月
||日本選手権||||||||44秒2||
||400mR(3走)日本新
|-
|align=right|1927年6月
||関東選手権||||||||43秒6||
||400mR(2走)日本新
|-
|align=right|6月
||一高対早高||||||1m92||||
||走高日本新
|-
|align=right|7月
||早大対関学||||7m37||||||
||走幅日本新
|-
|align=right|8月
||日本選手権||15m343||||||43秒6||
||三段/400mR(2走)日本新
|-
|align=right|8月
||極東選手権||15m355||||||||
||三段日本新<br />三段/走幅/十種優勝
|-
|align=right|1928年5月
||日本選手権||15m41||||||||
||三段日本新
|-
|align=right|5月
||日本学生||||7m38||||||
||走幅日本新<br />110mH/走幅/三段優勝<br />走高2位
|-style="background-color:gold"
|align=right|8月
||アムステルダム五輪||15m21||7m11||1m88||||
||三段金メダル、走幅予選落、走高7位
|-
|align=right|8月
||国際学生||||||||||
||110mH/走幅4位<br />走高/五種競技6位
|-
|align=right|1929年5月
||日本学生||15m45||||||||
||三段日本新<br />走幅/三段/400mR優勝<br />110mH/走高/棒高2位
|-
|align=right|11月
||日本選手権||||||||42秒8||
||400mR(3走)日本新<br />三段/400mR優勝、十種2位
|-
|align=right|1930年5月
||日本学生||||||||||
||走幅/三段/棒高/400mR優勝<br />110mH3位
|-
|align=right|5月
||極東選手権||||||||||
||三段4連覇、走幅2位
|-
|align=right|6月
||学生対比印||||||||42秒8||||学生選抜<br />(早稲田)
||400mR(1走)日本新
|-
|align=right|1931年6月
||五輪準備会||15m48||||||||||rowspan="5"|早大クラブ<br />(大阪朝日)
||三段日本新
|-
|align=right|10月
||日本選手権予選||15m50||||||||
||三段日本新
|-
|align=right|10月
||学生対一般||'''15m58'''||||||||
||'''三段世界新'''
|- style="background-color: #D0E7FF"
|align=right|1932年7月
||ロサンゼルス五輪||13m97||||||||
||三段跳12位
|-
|align=right|1934年10月
||日本選手権||||||1m85||||
||走高2位
|}

== 関連書籍 ==
=== 著書 ===
<div class="NavFrame" style="clear:both; border:0">
<div class="NavHead">1940年代</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
* 『[[陸上競技]] 其の本質と方法』([[旺文社]]、1942/9)
* 『陸上競技(青年スポーツ新書)』([[旺文社]]、1946/8)
* 『世界記録を目ざして(スポーツ叢書)』([[御影文庫]]、1948/5)
* 『オリンピック物語』([[朝日新聞社]]、1948/8)
* 『オリンピック物語』([[朝日新聞社]]、1948/8)
* 『陸上競技 (旺文社スポーツ・シリーズ)』([[旺文社]]、1949/9)
* 『陸上競技旺文社スポーツ・シリーズ』([[旺文社]]、1949/9)
* 『新らしい陸上競技 上巻 競走篇』([[青雲社]]、1949/11)
* 『新らしい陸上競技 上巻 競走篇』([[青雲社]]、1949/11)
</div>
</div>
<div class="NavFrame" style="clear:both; border:0">
<div class="NavHead">1950年代</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
* 『欧米スポーツ行脚』([[朝日新聞社]]、1950)
* 『欧米スポーツ行脚』([[朝日新聞社]]、1950)
* 『陸上競技 改訂版 (旺文社スポーツ・シリーズ)』([[旺文社]]、1951)
* 『陸上競技 改訂版旺文社スポーツ・シリーズ』([[旺文社]]、1951)
* 『オリンピック物語 改定版』([[朝日新聞社]]、1952)
* 『オリンピック物語 改定版』([[朝日新聞社]]、1952)
* 『スポーツの見方 (入門百科叢書)』([[大泉書店]]、1952/5)
* 『スポーツの見方入門百科叢書』([[大泉書店]]、1952/5)
* 『スポーツ ([[岩波新書]]〈第101〉)』([[斎藤正躬]](共著)、[[岩波書店]]、1952)
* 『スポーツ[[岩波新書]]〈第101〉』([[斎藤正躬]]共著、[[岩波書店]]、1952)
* 『陸上競技 3訂版 (旺文社スポーツ・シリーズ)』([[旺文社]]、1952)
* 『陸上競技 3訂版旺文社スポーツ・シリーズ』([[旺文社]]、1952)
* 『陸上競技 4訂版 (旺文社スポーツ・シリーズ)』([[旺文社]]、1954)
* 『陸上競技 4訂版旺文社スポーツ・シリーズ』([[旺文社]]、1954)
* 『陸上競技五十年』([[時事通信社]]、1955)
* 『陸上競技五十年』([[時事通信社]]、1955)
* 『世界記録は破れる 陸上競技』([[万有出版]]、1956/5)
* 『世界記録は破れる 陸上競技』([[万有出版]]、1956/5)
* 『跳躍一路』([[日本政経公論社]]、1956/5)
* 『跳躍一路』([[日本政経公論社]]、1956/5)
* 『私の信条 スポーツ精神』([[ダヴィッド社]]、1957/10)
* 『私の信条 スポーツ精神』([[ダヴィッド社]]、1957/10)
* 『陸上競技 重版 (旺文社スポーツ・シリーズ)』([[旺文社]]、1957)
* 『陸上競技 重版旺文社スポーツ・シリーズ』([[旺文社]]、1957)
* 『オリンピック (現代教養文庫)』([[社会思想研究会出版部]]、1959/4)
* 『オリンピック現代教養文庫』([[社会思想研究会出版部]]、1959/4)
</div>
* 『陸上競技 重版 (旺文社スポーツ・シリーズ6)』([[旺文社]]、1961)
</div>
* 『陸上運動 (少年少女体育全集 ; 4)』([[ポプラ社]]、1962)
<div class="NavFrame" style="clear:both; border:0">
<div class="NavHead">1960年代</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
* 『陸上競技 重版(旺文社スポーツ・シリーズ6)』([[旺文社]]、1961)
* 『陸上運動(少年少女体育全集 ; 4)』([[ポプラ社]]、1962)
* 『陸上競技 紙上技術コーチ』([[ケン・ドーティ]](共著)、[[ベースボールマガジン社]]、1962/2)
* 『陸上競技 紙上技術コーチ』([[ケン・ドーティ]](共著)、[[ベースボールマガジン社]]、1962/2)
* 『全スポーツの筋力と柔軟性ためのコンディショニングの運動99例』([[ケン・ドーティ]](共著)、[[ベースボールマガジン社]]、1962)
* 『全スポーツの筋力と柔軟性ためのコンディショニングの運動99例』([[ケン・ドーティ]]共著、[[ベースボールマガジン社]]、1962)
* 『陸上競技 5訂版 (旺文社スポーツ・シリーズ)』([[旺文社]]、1963)
* 『陸上競技 5訂版旺文社スポーツ・シリーズ』([[旺文社]]、1963)
* 『東京オリンピック 少年少女20世紀の記録 22』(織田幹雄()、岸本健(写真)、[[あかね書房]]、1965/5)
* 『東京オリンピック 少年少女20世紀の記録 22』(織田幹雄、岸本健写真、[[あかね書房]]、1965/5)
* 『陸上競技百年』([[時事通信社]]、1966/9)
* 『陸上競技百年』([[時事通信社]]、1966/9)
* 『陸上競技 (旺文社スポーツ教室)』([[旺文社]]、1968)
* 『陸上競技旺文社スポーツ教室』([[旺文社]]、1968)
</div>
</div>
<div class="NavFrame" style="clear:both; border:0">
<div class="NavHead">1970年代</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
* 『陸上競技百年 改訂増補版』([[時事通信社]]、1970)
* 『陸上競技百年 改訂増補版』([[時事通信社]]、1970)
* 『金メダル』([[早稲田大学出版部]]、1972/7)
* 『金メダル』([[早稲田大学出版部]]、1972/7)
* 『21世紀への遺言』([[ベースボールマガジン社]]、1975/4)
* 『21世紀への遺言』([[ベースボールマガジン社]]、1975/4)
* 『最新陸上競技入門』([[ベースボールマガジン社]]、1975/6)
* 『最新陸上競技入門』([[ベースボールマガジン社]]、1975/6)
* 『陸上競技 改定版 (旺文社スポーツ教室)』([[旺文社]]、1976/1、ISBN 978-4010571552)
* 『陸上競技 改定版旺文社スポーツ教室』([[旺文社]]、1976/1、ISBN 978-4010571552)
* 『陸上競技百年 改訂新版』([[時事通信社]]、1976/5)
* 『陸上競技百年 改訂新版』([[時事通信社]]、1976/5)
* 『わが陸上人生』([[新日本出版社]]、1977/12)
* 『わが陸上人生』([[新日本出版社]]、1977/12)
</div>
* 『陸上競技 改定版 (旺文社スポーツ教室)』([[旺文社]]、1980/6)
</div>
* 『東京オリンピック 少年少女20世紀の記録 22』(織田幹雄(著)、岸本健(写真)、[[あかね書房]]、1982/4、ISBN 978-4251080820)
<div class="NavFrame" style="clear:both; border:0">
* 『陸上競技 (カラーブックス スポーツのみかた 666)』([[山田真市]](共著)、[[保育社]]、1984/12、ISBN 978-4586506668)
<div class="NavHead">1980年代</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
* 『陸上競技 改定版(旺文社スポーツ教室)』([[旺文社]]、1980/6)
* 『東京オリンピック 少年少女20世紀の記録 22』(織田幹雄(著)、岸本健(写真)、[[あかね書房]]、1982/4、ISBN 978-4251080820)
* 『陸上競技(カラーブックス スポーツのみかた 666)』([[山田真市]](共著)、[[保育社]]、1984/12、ISBN 978-4586506668)
</div>
</div>
<div class="NavFrame" style="clear:both; border:0">
<div class="NavHead">1990年代以降</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
* 『陸上競技わが人生』([[ベースボールマガジン社]]、1991/10、ISBN 978-4583029351)
* 『陸上競技わが人生』([[ベースボールマガジン社]]、1991/10、ISBN 978-4583029351)
* 『織田幹雄 わが陸上人生 (人間の記録 15)』([[日本図書センター]]、1997/2、1977年[[新日本出版社]]()『わが陸上人生』の改題、ISBN 978-4820542544)
* 『織田幹雄 わが陸上人生人間の記録 15)』([[日本図書センター]]、1997/2、1977年[[新日本出版社]]『わが陸上人生』の改題、ISBN 978-4820542544)
* 『陸上競技ヨロッパ転戦記 : 日本は強かった 織田幹雄日記から』(織田幹雄(著)、[[織田正雄]]・[[織田和雄]](編集)、[[有斐閣#関連会社|有斐閣アカデミア]]、2001/12)
* 『陸上競技ヨロッパ転戦記 : 日本は強かった 織田幹雄日記から』(織田幹雄(著)、[[織田正雄]]・[[織田和雄]](編集)、[[有斐閣#関連会社|有斐閣アカデミア]]、2001/12)
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== 関連書籍 ==
=== 監修 ===
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* 『陸上競技 理論と技術』(織田幹雄(編)、[[朝日新聞社]]、1948/6)
<div class="NavHead">1940年代</div>
* 『陸上競技読本』([[日本陸上競技連盟]]普及部(編)、[[万有社]]、織田幹雄が[[三段跳]]の項を執筆、1950)
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
* 『トラック技術 (講談社スポーツ叢書)』([[:en:Don Canham|ドン・カンハム]](著)、織田幹雄(翻訳)、[[講談社|大日本雄弁会講談社]]、1953/3)
* 『フィールド技術 (講談社スポーツ叢書)』([[:en:Don Canham|ドン・カンハム]](著)、織田幹雄(翻訳)、[[講談社|大本雄弁会講談社]]、1953/5)
* 『陸上競技 理論と技術』(織田幹雄(編)、[[新聞社]]、1948/6)
</div>
* 『スポーツと冒険物語 (新編・日本小国民文庫 10)』(織田幹雄・[[高橋健二 (ドイツ文学者)|高橋健二]](編)、[[新潮社]]、1957/1)
</div>
<div class="NavFrame" style="clear:both; border:0">
<div class="NavHead">1950年代</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
* 『欧米スポーツ行脚』([[朝日新聞社]]、1950)
* 『陸上競技読本』([[日本陸上競技連盟]]普及部(編)、[[万有社]]、織田幹雄が[[三段跳]]の項を執筆、1950)
* 『トラック技術(講談社スポーツ叢書)』([[:en:Don Canham|ドン・カンハム]](著)、織田幹雄(翻訳)、[[講談社|大日本雄弁会講談社]]、1953/3)
* 『フィールド技術(講談社スポーツ叢書)』([[:en:Don Canham|ドン・カンハム]](著)、織田幹雄(翻訳)、[[講談社|大日本雄弁会講談社]]、1953/5)
* 『スポーツと冒険物語(新編・日本小国民文庫 10)』(織田幹雄・[[高橋健二 (ドイツ文学者)|高橋健二]](編)、[[新潮社]]、1957/1)
</div>
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<div class="NavFrame" style="clear:both; border:0">
<div class="NavHead">1960年代</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
* 『東京オリンピック・ガイド』(織田幹雄・[[鈴木良徳]](責任編集)、[[旺文社]]、1963/7)
* 『東京オリンピック・ガイド』(織田幹雄・[[鈴木良徳]](責任編集)、[[旺文社]]、1963/7)
* 『記録をうちたてた人々 (さ・え・ら伝記ライブラリー 6)』([[鈴木良徳]]()、[[さ・え・ら書房]]、1965/10、[[ピエール・ド・クーベルタン]]、[[ジム・ソープ]]、[[パーヴォ・ヌルミ]]、織田幹雄、[[人見絹枝]]、[[ジェシー・オーエンス]]、[[フランシナ・ブランカース=クン]]、[[エミール・ザトペック]]を紹介、ISBN 978-4378018065)
* 『記録をうちたてた人々さ・え・ら伝記ライブラリー 6)』([[鈴木良徳]]、[[さ・え・ら書房]]、1965/10、[[ピエール・ド・クーベルタン]]、[[ジム・ソープ]]、[[パーヴォ・ヌルミ]]、織田幹雄、[[人見絹枝]]、[[ジェシー・オーエンス]]、[[フランシナ・ブランカース=クン]]、[[エミール・ザトペック]]を紹介、ISBN 978-4378018065)
</div>
* 『疾走スピード 技術・トレーニングの徹底研究』([[ジョージ・B.ディンティマン]](著)、織田幹雄・[[窪田登]](翻訳)、[[講談社]]、1972/9)
</div>
* 『40歳からのランニング入門』(織田幹雄(監修)、[[地球書館]]、1973/9)
<div class="NavFrame" style="clear:both; border:0">
* 『はしる (かがくのとも特製版)』([[阿部馨]](文)、[[堀内誠一]](絵)、織田幹雄(監修)、[[福音館書店]]、1973/9)
<div class="NavHead">1970年代</div>
* 『競技者とコーチのための陸上競技ダイナミックス』([[トム・エッカー]](著)、[[佐々木秀幸]](訳)、織田幹雄(監修)、[[ベースボールマガジン社]]、1974/4)
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
* 『陸上競技トレーニング教科書』([[ゼノン・ヴァジニ]](著)、[[清和洋子]](訳)、織田幹雄(監修)、[[ベースボールマガジン社]]、1975/2)
* 『疾走スピード 技術・トレーニングの徹底研究』([[ジョージ・B.ディンティマン]](著)、織田幹雄・[[窪田登]](翻訳)、[[講談社]]、1972/9)
* 『40歳からのランニング入門』(織田幹雄(監修)、[[地球書館]]、1973/9)
* 『はしる (かがくのとも特製版)』([[阿部馨]](文)、[[堀内誠一]](絵)、織田幹雄(監修)、[[福音館書店]]、1973/9)
* 『競技者とコーチのための陸上競技ダイナミックス』([[トム・エッカー]](著)、[[佐々木秀幸]](訳)、織田幹雄(監修)、[[ベースボールマガジン社]]、1974/4)
* 『陸上競技トレーニング教科書』([[ゼノン・ヴァジニ]](著)、[[清和洋子]](訳)、織田幹雄(監修)、[[ベースボールマガジン社]]、1975/2)
* 『左ききのためのゴルフ入門』([[:en:Bob Charles (golfer)|ボブ・チャールズ]](著)、[[川上哲治]](翻訳)、織田幹雄(監修)、[[ベースボールマガジン社]]、1975/10、ISBN 978-4583016818)
* 『左ききのためのゴルフ入門』([[:en:Bob Charles (golfer)|ボブ・チャールズ]](著)、[[川上哲治]](翻訳)、織田幹雄(監修)、[[ベースボールマガジン社]]、1975/10、ISBN 978-4583016818)
* 『陸上競技トレーナー用教科書』([[L.S.ホメンコフ]](編著)、[[小野耕三]](訳)、織田幹雄(監修)、[[ベースボールマガジン社]]、1978/11)
* 『運動力学による陸上競技の種目別最新技術』([[トム・エッカー]](著)、[[佐々木秀幸]]・[[井街悠共]](訳)、織田幹雄(監修)、[[ベースボールマガジン社]]、1979/8)
* 『短距離 (陸上競技入門シリーズ ; 1)』([[湯浅徹平]](著)、織田幹雄(監修)、[[ベースボールマガジン社]]、1983/7、ISBN 978-4583017204)
* 『中長距離・障害 (陸上競技入門シリーズ ; 2)』([[帖佐寛章]]・[[勝亦紘一]](共著)、織田幹雄(監修)、[[ベースボールマガジン社]]、1977/2、ISBN 978-4583017488)
* 『ハードル (陸上競技入門シリーズ ; 3)』([[福本久雄]](著)、織田幹雄(監修)、[[ベースボールマガジン社]]、1976/1、ISBN 978-4583016931)
* 『ハードル (陸上競技入門シリーズ ; 3)』([[福本久雄]](著)、織田幹雄(監修)、[[ベースボールマガジン社]]、1976/1、ISBN 978-4583016931)
* 『走高跳 (陸上競技入門シリーズ ; 4)』([[大西暁志]](著)、織田幹雄(監修)、[[ベースボールマガジン社]]、1977/2、ISBN 978-4583017457)
* 『棒高跳 (陸上競技入門シリーズ ; 5)』([[山崎国昭]](著)、織田幹雄(監修)、[[ベースボールマガジン社]]、1976/1、ISBN 978-4583017020)
* 『棒高跳 (陸上競技入門シリーズ ; 5)』([[山崎国昭]](著)、織田幹雄(監修)、[[ベースボールマガジン社]]、1976/1、ISBN 978-4583017020)
* 『走幅跳 (陸上競技入門シリーズ ; 6)』([[丸山吉五郎]](著)、織田幹雄(監修)、[[ベースボールマガジン社]]、1976/1、ISBN 978-4583017068)
* 『走幅跳 (陸上競技入門シリーズ ; 6)』([[丸山吉五郎]](著)、織田幹雄(監修)、[[ベースボールマガジン社]]、1976/1、ISBN 978-4583017068)
* 『三段跳 (陸上競技入門シリーズ ; 7)』([[関岡康雄]](著)、織田幹雄(監修)、[[ベースボールマガジン社]]、1982/7、ISBN 978-4583016832)
* 『砲丸投・ハンマー投 (陸上競技入門シリーズ ; 8)』([[西藤宏司]](著)、織田幹雄(監修)、[[ベースボールマガジン社]]、1977/1、ISBN 978-4583017938)
* 『砲丸投・ハンマー投 (陸上競技入門シリーズ ; 8)』([[西藤宏司]](著)、織田幹雄(監修)、[[ベースボールマガジン社]]、1977/1、ISBN 978-4583017938)
* 『中長距離・障害 (陸上競技入門シリーズ ; 2)』([[帖佐寛章]]・[[勝亦紘一]](共著)、織田幹雄(監修)、[[ベースボールマガジン社]]、1977/2、ISBN 978-4583017488)
* 『走高跳 (陸上競技入門シリーズ ; 4)』([[大西暁志]](著)、織田幹雄(監修)、[[ベースボールマガジン社]]、1977/2、ISBN 978-4583017457)
* 『円盤投・ヤリ投 (陸上競技入門シリーズ ; 9)』([[宮下桂治]]・[[金子今朝秋]](共著)、織田幹雄(監修)、[[ベースボールマガジン社]]、1977/9、ISBN 978-4583017846)
* 『円盤投・ヤリ投 (陸上競技入門シリーズ ; 9)』([[宮下桂治]]・[[金子今朝秋]](共著)、織田幹雄(監修)、[[ベースボールマガジン社]]、1977/9、ISBN 978-4583017846)
* 『陸上競技トレーナー用教科書』([[L.S.ホメンコフ]](編著)、[[小野耕三]](訳)、織田幹雄(監修)、[[ベースボールマガジン社]]、1978/11)
* 『運動力学による陸上競技の種目別最新技術』([[トム・エッカー]](著)、[[佐々木秀幸]]・[[井街悠共]](訳)、織田幹雄(監修)、[[ベースボールマガジン社]]、1979/8)
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<div class="NavFrame" style="clear:both; border:0">
<div class="NavHead">1980年代</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
* 『マラソン (陸上競技入門シリーズ ; 10)』([[築地美孝]](著)、織田幹雄(監修)、[[ベースボールマガジン社]]、1980/3、ISBN 978-4583017396)
* 『マラソン (陸上競技入門シリーズ ; 10)』([[築地美孝]](著)、織田幹雄(監修)、[[ベースボールマガジン社]]、1980/3、ISBN 978-4583017396)
* 『三段跳 (陸上競技入門シリーズ ; 7)』([[関岡康雄]](著)、織田幹雄(監修)、[[ベースボールマガジン社]]、1982/7、ISBN 978-4583016832)
* 『ザ・チャンピオン [[セバスチャン・コー]]物語』([[セバスチャン・コー]]、デヴィッド・ミラー(共著)、[[佐藤亘]](翻訳)、織田幹雄(監修)、[[ベースボールマガジン社]]、1983/1、ISBN 978-4583023052)
* 『ザ・チャンピオン [[セバスチャン・コー]]物語』([[セバスチャン・コー]]、デヴィッド・ミラー(共著)、[[佐藤亘]](翻訳)、織田幹雄(監修)、[[ベースボールマガジン社]]、1983/1、ISBN 978-4583023052)
* 『炎のスプリンター [[人見絹枝]]自伝』([[人見絹枝]](著)、織田幹雄・[[戸田純]](編集)、[[山陽新聞]]社出版局、1983/2、戦前刊行の[[人見絹枝]](著)『スパイクの跡』・『ゴールに入る』の主要部分を現代語訳にして再構成したもの)
* 『炎のスプリンター [[人見絹枝]]自伝』([[人見絹枝]](著)、織田幹雄・[[戸田純]](編集)、[[山陽新聞]]社出版局、1983/2、戦前刊行の[[人見絹枝]](著)『スパイクの跡』・『ゴールに入る』の主要部分を現代語訳にして再構成したもの)
* 『短距離 (陸上競技入門シリーズ ; 1)』([[湯浅徹平]](著)、織田幹雄(監修)、[[ベースボールマガジン社]]、1983/7、ISBN 978-4583017204)
* 『織田幹雄さんへのインタビュー 少年~選手~指導者時代を通して』(織田幹雄(述)、[[荒井貞光]](編集)、[[広島都市生活研究会]]、1983/3)
* 『織田幹雄さんへのインタビュー 少年~選手~指導者時代を通して』(織田幹雄(述)、[[荒井貞光]](編集)、[[広島都市生活研究会]]、1983/3)
* 『リラックス プレッシャーへの挑戦』([[:en:Lloyd (Bud) Winter|バド・ウィンター]](著)、[[荒井貞光]](翻訳)、織田幹雄(監修)、[[ベースボールマガジン社]]、1984/9、ISBN 978-4583024332)
* 『リラックス プレッシャーへの挑戦』([[:en:Lloyd (Bud) Winter|バド・ウィンター]](著)、[[荒井貞光]](翻訳)、織田幹雄(監修)、[[ベースボールマガジン社]]、1984/9、ISBN 978-4583024332)
* 『織田幹雄スポーツ資料目録 (広島市博物館資料調査報告書〈4〉)』([[広島市]]企画調整局文化担当(編)、[[荒井貞光]](監修)、[[広島都市生活研究会]]、1985/3)
* 『織田幹雄スポーツ資料目録 (広島市博物館資料調査報告書〈4〉)』([[広島市]]企画調整局文化担当(編)、[[荒井貞光]](監修)、[[広島都市生活研究会]]、1985/3)
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<div class="NavHead">1990年代</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
* 『広島名誉県民小伝 織田幹雄』([[渡辺靖彦]](著)、[[中国新聞社]]、1991)
* 『広島名誉県民小伝 織田幹雄』([[渡辺靖彦]](著)、[[中国新聞社]]、1991)
* 『[[人見絹枝]] 炎のスプリンター (人間の記録 32)』(織田幹雄・[[戸田純]](編集)、[[日本図書センター]]、1997/6、1983年[[山陽新聞]]出版局(刊)『炎のスプリンター [[人見絹枝]]自伝』の改題、ISBN 978-4820542735)
* 『[[人見絹枝]] 炎のスプリンター (人間の記録 32)』(織田幹雄・[[戸田純]](編集)、[[日本図書センター]]、1997/6、1983年[[山陽新聞]]出版局(刊)『炎のスプリンター [[人見絹枝]]自伝』の改題、ISBN 978-4820542735)
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== 参考 ==
*織田幹雄―わが陸上人生(日本図書センター、1997年)ISBN 9784820542544
*陸上競技(保育社、1984年) ISBN 9784586506668
*読売新聞 2010年10月31日日曜版


== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references />
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|3}}

== 参考資料 ==
*{{Cite book|和書|author=織田幹雄|year=1997|title=織田幹雄―わが陸上人生|publisher=日本図書センター|isbn=9784820542544|ref={{sfnRef|織田1997}}}}
*{{Cite book|和書|author=織田正雄・織田和雄|year=2003|title=陸上競技ヨーロッパ転戦記 : 日本は強かった 織田幹雄日記から|publisher=[[有斐閣#関連会社|有斐閣アカデミア]]|isbn=9784902027044|ref=}}
*{{Cite web|url=http://www.iaaf.org/download/download?filename=37bf4c48-f7f1-4602-a8a6-8249b1b85368.pdf&urlSlug=interview-with-mikio-oda-first-japanese-olymp|title=Interview with Mikio Oda , first Japanese Olympic gold medallist|editor=Masao Oda・James Gussman|format=PDF|language=英語|publisher=IAAF|accessdate=2014-04-24|ref={{sfnRef|IAAF}}}}
*{{Cite web|和書|url=http://www.waseda-ac.org/odamikio/nenpu.html|title=生誕100周年記念 織田幹雄年譜|publisher=[[早稲田大学競走部]]|accessdate=2014-04-24|ref={{sfnRef|早稲田}}}}
*{{Cite book|和書|author=織田幹雄|coauthors=山田真市|year=1984|title=陸上競技|publisher=[[保育社]]|isbn=9784586506668|ref=}}
*{{Cite book|和書|author=東敏郎|year=1959|title= スポーツ八十年史|publisher=[[日本体育協会]]|isbn=|ref={{sfnRef|スポーツ八十}}}}
*{{Cite book|和書|author=日本陸上競技連盟七十年史編集委員会|year=1995|title=日本陸上競技連盟七十年史|publisher=[[ベースボール・マガジン社]]|isbn=|ref={{sfnRef|陸連七十}}}}
*{{Cite book|和書|author=中条一雄|authorlink=中条一雄|year=1978|title=ひとすじの青春|publisher=藤森書店|isbn=|ref={{sfnRef|中条}}}}
*{{Cite book|和書|author=金枡晴海|year=1979|title=広島スポーツ100年|publisher=[[中国新聞社]]|isbn=|ref={{sfnRef|金枡}}}}
*{{Cite book|和書|author=河野徳男|year=1984|title=広島スポーツ史|publisher=財団法人広島県体育協会|isbn=|ref={{sfnRef|河野}}}}
*{{Cite book|和書|author=|year=1988|title=「文藝春秋」にみるスポーツ昭和史 第一巻|publisher=[[文藝春秋]]|isbn=|ref={{sfnRef|春秋一}}}}
*{{Cite book|和書|author=|year=1988|title=「文藝春秋」にみるスポーツ昭和史 第三巻|publisher=文藝春秋|isbn=|ref={{sfnRef|春秋三}}}}
*{{Cite book|和書|author=|year=1989|title=激動のスポーツ史⑦陸上競技|publisher=ベースボール・マガジン社|isbn=9784583027753|ref={{sfnRef|激スポ史}}}}
*{{Cite book|和書|author=|year=2000|title=スポーツ20世紀⑤|series=BB・MOOK143 「スポーツ20世紀」シリーズ5|publisher=ベースボール・マガジン社|isbn=|ref={{sfnRef|20世紀}}}}
* [[読売新聞]] 2010年10月31日日曜版
* [https://archive.fo/rRv1 特集 スポーツ県・広島](archive) - 広島県
* [http://rijo.gr.jp/%E9%AF%89%E5%9F%8E%E4%BA%BA%E7%89%A9%E9%8C%B2/%E5%A4%A7%E6%AD%A3%EF%BC%91%EF%BC%92%E5%B9%B4%E5%8D%92/%E7%B9%94%E7%94%B0%E5%B9%B9%E9%9B%84/ 織田幹雄(おだ みきお) 大正12年卒の人物] - 鯉城同窓会


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[スポーツに関する日本初の一覧]]
*[[日本の夏季オリンピック金メダル]]
* [[日本の夏季オリンピック金メダル]]
*[[田島直人]]
*[[1928年アムステルダムオリンピックの日本選手団]]
*[[円谷幸吉]]
*[[いだてん〜東京オリムピック噺〜]](演:[[松川尚瑠輝]])
*[[小掛照二]]
* [[日本陸上競技選手権大会の記録一覧 (男子)|日本陸上競技選手権大会の記録一覧]]
*[[村社講平]]
* [[広島県出身の人物一覧]]
*[[藤田明]]
* [[広島県立広島国泰寺高等学校の人物一覧]]
*[[織田幹雄記念国際陸上競技大会]] 
* [[早稲田大学高等学院の人物一覧]]
*[[日本陸上競技選手権大会の記録一覧 (男子)|日本陸上競技選手権大会の記録一覧]]
* [[早稲田大学の人物一覧]]


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Mikio Oda}}
*[http://www.olympic.org/mikio-oda 国際オリンピック委員会]
* {{Sports links}}
*[http://www.joc.or.jp/olympic/memorial/20050512.html JOC - オリンピック・メモリアルグッズ 日本初の金メダル-織田幹雄選手(陸上・三段跳)]
* [https://www.joc.or.jp/news/detail.html?id=10412&mode=pc 織田幹雄さん快挙から90年 努力、工夫で五輪金1号] - JOC
*[http://www.waseda-ac.org/odamikio/nenpu.html 生誕100周年記念 織田幹雄年譜] - [http://www.waseda-ac.org/ 早稲田大学競走部]
*{{NHK人物録|D0009072195_00000}}
*[http://www.pref.hiroshima.lg.jp/page/1168905980706/index.html 広島県ホームページ - 織田幹雄]
* {{Kotobank}}
*[http://www.pref.hiroshima.lg.jp/www/contents/1174350285817/html/common/45ff2f15010.html 特集 スポーツ県・広島]
* [https://hiroshimatf.org/athlete-of-hiroshima/ 織田幹雄 広島陸上人]<!--https://web.archive.org/web/20210416024039/https://hiroshimatf.org/athlete-of-hiroshima/ --> – [https://hiroshimatf.org/ 一般財団法人広島陸上競技協会</small>]

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[[Category:朝日新聞社の人物]]
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[[Category:1905年生]]
[[Category:1998年没]]
[[Category:1998年没]]
[[Category:オリンピック功労章受章者]]
[[Category:20世紀のスポーツ選手]]

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織田 幹雄 Portal:陸上競技
選手情報
フルネーム 織田 幹雄
ラテン文字 Mikio Oda
国籍 日本の旗 日本
種目 走高跳/走幅跳/三段跳
生年月日 (1905-03-30) 1905年3月30日
生誕地 日本の旗 日本広島県安芸郡海田市町
(現海田町稲荷町)
没年月日 (1998-12-02) 1998年12月2日(93歳没)
死没地 日本の旗 日本神奈川県鎌倉市
身長 167cm (5ft 7in)
体重 65kg (143lbs)
自己ベスト
走高跳 1m92 (1927年)
走幅跳 7m52 (1931年)
三段跳 15m58 (1931年)
獲得メダル
日本の旗 日本
陸上競技
オリンピック
1928 アムステルダム 男子三段跳
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織田 幹雄(おだ みきお、1905年明治38年)3月30日 - 1998年平成10年)12月2日)は、日本陸上選手、指導者。広島県安芸郡海田町出身。1928年アムステルダムオリンピック三段跳金メダリスト[1][2][3]

人物

[編集]
映像外部リンク
現役時代の映像
Oda Becomes Asia's First Individual Olympic Champion - Amsterdam 1928 Olympics - Olympics.org。1928年アムステルダム五輪の三段跳の跳躍と#逸話にある大きな日の丸の映像がある。
Japanese 'varsity Athletes (1928) - British Pathé。1928年ロンドンで行われたアキレスクラブと早稲田大の対抗戦[4]の映像。優勝した走幅跳の映像がある。

日本人初のオリンピック金メダリスト」であり、アジア人初のオリンピック金メダリストでもある[5][6][7]。織田の金メダルにより、日本陸上は一躍世界の第一線に躍り出たと言われる[8][9]。当時英語で「ホップ・ステップ・アンド・ジャンプ」(現在はトリプルジャンプ)と呼ばれた競技名を「三段跳」と訳した[4][10][11][12]。早稲田大学時代に競技会のプログラムを作る際、織田が「三段跳」と訳した[13]。三段跳では、織田(1928年五輪)・南部忠平1932年五輪)・田島直人1936年五輪)と3大会連続で金メダルを獲得したことから、当時は、「日本のお家芸」とも言われた[14]。なお、南部と織田は終生の友人であり、田島は織田の影響で三段跳を始めた関係でもある[12][15][16]。「陸上の神様[10][17]、あるいは「日本陸上界の父[1][12][18]と呼ばれ、戦後日本全国で陸上競技を指導・普及した、いわば、育ての親のような存在である[19]国際オリンピック委員会オリンピック功労賞受賞。

文化功労者、広島県名誉県民、安芸郡海田町名誉町民、東京都名誉都民渋谷区名誉区民。最終学歴は早稲田大学商学部卒業。朝日新聞社に入社し最終的には朝日新聞運動部部長、のち早稲田大学教授を務めた。

実兄は元中国電力筆頭理事で小水力発電メーカーを立ち上げた実業家の織田史郎[20]。妻は貴族院議員中村純九郎の三女[21]。実業家で第7代住友財閥総理事の古田俊之助は義兄[21]。妻の伯母は天文学者寺尾寿の先妻[21]。長男の正雄と次男の和雄は共に父・幹雄関連の著書で名を連ね関連イベントに登場する。正雄は日独協会理事を務めドイツ関連の書籍をいくつか出している[22]。一方で二人は、上皇明仁の学友(正雄は学習院中等科で同級生、和雄は2歳後輩のテニス仲間であり常陸宮正仁親王と同級生[23])として知られ、上皇后美智子とを繋いだ関係者でもある[24]

来歴

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若年期

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海田町と近隣の町の空撮。写真中央を横断する川が瀬野川であり織田の若年期における走幅跳の練習場[1] だった。写真中央やや右下が海田市駅であり、稲荷町は駅と左下側(北方向)の山に挟まれた区域にあたる。駅から左斜め上、川を渡ってすぐの広地が海田小学校であるが織田が通っていた時代と場所は違う。
現在の広島国泰寺高校。被爆により全壊した歴史を持つが、現在も織田が通っていた当時と同じ場所に位置する。

1905年明治38年)、広島県安芸郡海田市町(現海田町稲荷町)に生まれた[3][4]

海田尋常小学校(現海田町立海田小学校)へ入学[3]、在学中に海田市町と隣の広島市船越村の尋常小学校3校の合併で鼓浦尋常高等小学校[25] ができ同校を卒業する[4]。なお鼓浦尋常高小の後進は広島市立船越小学校であるが[25]、この経緯から織田の出身校は海田小[3][4]で統一されている。尋常小学校時代に安芸郡の体育大会での200m走で優勝している[26]。怒った顔を見たことがないといわれるほど温厚な人物だったが、小学校時代から人一倍負けず嫌いだった[13]

1918年大正7年)、広島市中心部にある広島県立広島中学校(のち県立広島第一中、現広島県立広島国泰寺高等学校)へ入学[4]、同年1年時に校内の8マイルマラソン(約13km)で優勝している[27]。ただ当時同校には、陸上競技部は存在しておらず、足に自信があった織田は西日本で一番強かったサッカー部へ入部する[26][28]。第4代日本サッカー協会会長の野津謙広島カープの設立で知られる谷川昇はサッカー部の6年先輩、サッカー日本代表選手の深山静夫は5年先輩にあたる。利き足は左だったが両足でボールを蹴ることが出来、入部当初は試合に出られなかったが3年生からフルバック(DF)左ウイング(FW)など様々なポジションで試合に出られるようになる[26][29]。のちの陸上跳躍競技でも織田はこの左足[30] を使うことになっていった。

陸上の世界へ

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1920年(大正9年)、広島一中3年時にアントワープ五輪陸上十種競技代表の野口源三郎が広島で講習会を開くこととなり、参加することになった[4]。この時に織田は走高跳で自分の身長(当時155cm)より高く飛んでみせ、それを見た野口から褒められたことが陸上へ進むきっかけとなった[3]。野口の指導を受けた5日間を記したノートは「原点ノート」と呼ばれ、海田町ふるさと館に展示されている[2]

1921年(大正10年)広島一中4年時、徒歩部(陸上部)ができたことから、サッカー部を辞め徒歩部へ入部した[4]。当時は強豪だったサッカー部がグラウンドを占拠したことから隅で練習を積み[28]、また徒歩部には指導者がいなかったため本屋を歩きまわり独学で練習した[3]走幅跳の空中での動作がうまくいかず、自宅近くを流れる瀬野川に向かって跳び、足の振り方を練習した[1][2]。この年、上海で開かれた第5回極東選手権競技大会[31]で、日本の走高跳陣は惨敗した[13]。織田は自分の力なら十分入賞できることを知って残念がった[13]。織田の記録は地方に埋もれたままだった[13]。上海からの帰途、広島に立ち寄った極東大会のサッカー代表の中に十種競技をやっていた佐々木等がいた[13]。指導を受けた織田は何をやっても佐々木を凌ぎ、走高跳では日本記録を軽く超えた[13][32]。びっくりした佐々木が惜しいことをしたと雑誌『運動界』に織田を紹介した[13]

1922年(大正11年)、広島一中5年の時、9月に大阪神戸高商主催の全国中等学校陸上競技大会が開かれることを新聞で知る[33]。矢もたてもたまらず校長室に行き、弘瀬時治校長に「全国大会に参加させてください」と直談判[33]。弘瀬から「参加させてもいい。しかし本校の方針は参加させるだけではいかん。勝つ者しか参加させない主義である。キミは勝つ自信があるのか」と問われた。「勝てるかどうかわかりません」と言えば参加のチャンスは失われると考えた織田は思わず「絶対に全国制覇する自信があります」と答えた[33]。弘瀬は「そんなに自信があるなら行け。石にかじりついても勝ってこい」と激励し「ところで遠征する金はあるのか」と聞いた。「ありません」と答えると弘瀬はポケットから70円を出し、「これでがんばってこい」とお金を手渡した[33][34]。広島一中はサッカー部の全盛時代で陸上部は創部二年目で日陰の存在、部費は30円だった。70円は大金で織田は感激のあまり体が震えた。早速十数人の部員を集めて「どうしても勝とう」と誓い合った。夏休みの40日間、暑い広島の夏にサッカー部が朝夕の涼しい時間を練習時間に当てられ、陸上部が割り当てられたのは午後1時から3時まで。部員は日射病で次々に倒れ最後までやり抜いたのは織田と1年先輩の沖田芳夫の二人だけ[13][33]。織田はもともとジャンプが専門だったが部員がいなくなったため、あらゆる種目に取り組んだ。こうして広島一中は全国中等学校陸上競技大会に織田と沖田に貫田武を加え、たった3人で初参加し[33]、初優勝を果たし、織田自身も走高跳と走幅跳で優勝した[28][35]。織田と沖田は中国地方の大会ではほぼ二人だけで全競技勝利しており、のち「広島一中の双璧」と謳われる[4][27]

一か月後の11月、17歳の時に広島高師で行われた第6回極東選手権競技大会一次予選会において走高跳1m73、走幅跳6m29の日本新記録を樹立[13]、三段跳は13m38で日本記録にあと7cm届かなかった[4][27]。灼熱の猛練習が名選手への道を拓いた[33]

1923年(大正12年)、家庭の経済的理由から授業料のいらない広島高等師範学校臨時教員養成所へ進学する[4]。なお沖田はこの年に進学しており2人共1922年度つまり同年度に広島一中卒業ということになる[36]。同年、第6回極東選手権に日本代表として初選出[34]。うち広島出身者は織田と沖田、浅岡信夫ら5選手だった[34]。初の国際競技会出場だった織田は走幅跳、三段跳で優勝[4][27]。当時の毎日新聞は「日本一のジャンパー」「跳躍の鬼才」「ジャンプの麒麟児」と謳った[27]日本体育協会は「此の大会の偉大なる収穫は日本の陸上及び水泳競技においてようやく世界的レベルに至った一事と、陸上の織田幹雄、水泳の高石勝男と天才的少年が活躍したことである」と評した[37]

1924年(大正13年)広島高師臨教2年時、パリ・オリンピックに出場[4]五輪日本選手団は陸上・水泳テニスレスリングの全28人で、織田は跳躍では唯一の日本代表[4]だった。当時の日本陸上は世界の情勢に程遠く、オリンピック村で他国のチーム関係者に話を聞いて驚くような状況だった。織田は走高跳では予選落ちするも、三段跳で14m35(日本新記録)をたたき出し、日本陸上初の入賞(6位)を果たした[3][4]

早稲田と金メダル

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南部忠平
織田が金メダルを獲得したアムステルダム・オリンピスフ・スタディオン

1925年(大正14年)、奨学金を得て第一早稲田高等学院(現早稲田大学高等学院)へ進学、早稲田大学競走部に所属する[4][38]。同郷で後に"日本レスリング界の父"と呼ばれる八田一朗は同学校の一学年下[39]、同じく同郷で後に日本水泳連盟会長となる藤田明も後輩にあたる。競走部には広島一中の先輩で親友であった沖田(1923年入部)、そして南部忠平(1924年入部)がおり、特に南部とは以降70余年に及ぶ終生の親友となり兄弟よりも仲がいいと言われお互い切磋琢磨し大きな業績を残した[15]。五輪に日本代表として出た経験を持つ織田だったが、競走部では1年から雑用をやったことを回想している[4]。在学中、走幅跳および三段跳で日本記録を更新しただけでなく、第7回極東選手権競技大会予選会では十種競技で、第13回日本陸上競技選手権大会では400mリレー山口直三大沢重憲・織田・南部)で日本新を記録している[4]

1928年昭和3年)、沖田の後を追う形で早稲田大学商学部に進学する[4][38]。引き続き早大競走部に在籍、沖田・南部らと競走部黄金期の立役者となり[4][16]、早稲田スポーツの先駆者となった[12]。自身の活躍と共に陸上のコーチはいない時代のため[12][40]中島亥太郎や織田を慕って入部してきた西田修平ら後輩を指導した[41]。当時早大競走部部長[4]であり同年に発足した日本学生陸上競技連合初代会長で、後に1940年幻の東京オリンピック招致に動いた山本忠興は、織田を通じて陸上競技の知識を習得した[42]

同1928年、アムステルダムオリンピックに出場、五輪日本選手団には早大競走部から織田の他、沖田・南部・大沢・山口・住吉耕作木村一夫井沼清七が選ばれていた。7月28日に行われた走高跳では1m88で8位に終わる。8月2日[43]三段跳が行われ、予選で15m21を記録しトップで決勝へ進み、結局この記録が残り日本人初の金メダルを獲得する[4]。この表彰式で有名な出来事があり、詳細は下記#逸話参照。なお、この五輪での金メダルは織田と競泳男子200m平泳ぎ鶴田義行の2人だけであり、織田のメダル獲得の6日後に鶴田が獲得している[44]。この時の祝勝会は国や早稲田大からは開いてもらえず、故郷の海田市町が祝ってくれたと回想している[45]

1929年(昭和4年)、早大競走部主将となる[4]。以降も一線級の陸上競技者として活躍した[4]

現役後期と戦争

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1931年(昭和6年)、大学を卒業し朝日新聞社に入社し大阪朝日新聞社運動部に所属した[3]。同年第1回一般対学生陸上競技大会(神宮)にて、当時の三段跳の世界記録(15m58)を樹立した[46]。なお、織田はいくつも日本記録を更新しているが、世界記録を更新したのはこの記録のみで、この記録も後に南部が更新することになる[46]。また同大会では南部も走幅跳で世界記録を更新している[46]

1932年(昭和7年)3月、台湾での指導中に足を負傷してしまい、これが織田の選手寿命を縮める結果となった[4]

同1932年、ロサンゼルスオリンピックが開幕、織田は五輪日本選手団の旗手を務め、陸上競技日本代表のコーチ・主将・選手として出場したものの[4]、選手として出場した三段跳では記録が振るわなかった[4]。ただ三段跳では南部が15m72の世界新記録を樹立し金メダルを[46]大島鎌吉が銅メダルを獲得している。

五輪が終わった同1932年11月、山本忠興を媒酌人として結婚した[47]。以降、怪我もあり陸上の第一線から退き、1934年(昭和9年)第34回日本陸上競技選手権大会での走高跳1m85を飛んで2位に入ったことが記録として最後のものとなった[4]

その後も織田は陸上競技指導者として活躍した。当時は指導者はおらず、陸上コーチは織田が中心になって始めた[48]。現役時代の戦前から、一線を退いた戦後にかけて主に朝日新聞毎日新聞主催で、南部らと県庁所在地で行かない所はないというくらい陸上の指導に全国を巡回した[49]。この間、戦争へ向かって進む中でスポーツ界に暗い影を落とす。その一つが、1938年(昭和13年)東京五輪開催権返上であった。織田は、コーチとして指導する中でアメリカに五輪の跳躍競技で勝てると確信していたが、準備委員会は機能しておらず東京の競技場の建設も止まり、国中が開催する雰囲気ではなかった、と回想している[50]。更に太平洋戦争では選手たちが死亡している[4]

終戦4ヶ月後にあたる1945年(昭和20年)12月9日、織田の提案で東京大学競技場にて競技会が開かれ陸上競技愛好家が全国から集い織田も走高跳に出場した[4]。同日、平沼亮三を会長として日本陸上競技連盟(JAAF)新組織発足、織田はJAAF強化担当ヘッドコーチに就任する[51][52]。つまりこの日が日本陸上界復活の日となった[4]

戦後復興

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1948年アサヒグラフ掲載の織田
1956年毎日グラフ掲載の織田

戦後も織田は世界を相手に戦える人材の育成に奔走した[12]1948年(昭和23年)、日本オリンピック委員会(JOC)委員に就任[4]。同年に行われたロンドンオリンピックには日本はまだ参加が許されず、また日本人の海外渡航も未だほとんど許されない時代、同郷の松本瀧藏らの支援を受け、この年強化の見識を広めるため単身5ヶ月に渡り欧米競技会を視察した[51][52]

1949年(昭和24年)、戦後スポーツ最初の国際試合となった全米水泳選手権に古橋廣之進ら一行と渡米しアメリカのスポーツ界を見学[53]、そこで今後はスピード時代であると痛感し陸上界に進言し、また織田の大学の後輩でもあるアマチュアレスリングの八田一朗にも進言すると八田は翌1950年にアメリカレスリングチームを日本に招いた[53]。それまで力一辺倒の日本レスリングにアメリカから学んだ技が加わり、日本レスリングは急激な進歩を遂げた[53]。同1949年、米国体育協会(AAU)のダニエル・J・フェリス(ダン・フェリス)事務局長、GHQ民間情報教育局(CIE)のウィリアム・ニューフェルド英語版体育官に交渉して、米国陸上代表と一緒に欧州遠征に向かい、欧州の新しい技術や世界の新しい情勢を吸収する[41]。招かれたスペインでは、織田はルイス・フェリペ・アレタスペイン語版に跳躍技を指導した[41]。後にアレタは東京オリンピック走幅跳でスペイン陸上史上初の入賞(6位)を果たしたことから、スペインチーム団長だったフアン・アントニオ・サマランチは織田の自宅にお礼に来たという[41]

これらの渡航資金は、カリフォルニアのフレッド・イサム・ワダ(和田勇)やハワイの米谷克巳などアメリカ在住の日系人たちの支援によるものである[54][55]。和田には後にその金を返そうとすると第二の故郷である和歌山の学校に寄付してほしいと言い決してお金を受け取らなかった[55]第442連隊戦闘団出身で歯医者だった米谷には、織田がロンドン五輪視察前に立ち寄ったハワイでみすぼらしいスーツを着ていたためスーツと帽子を新調してもらっている[55]。欧州遠征する選手全員のスーツをプレゼントしたのも米谷である[55]

1950年(昭和25年)、国際陸上競技連盟(IAAF)への復帰が許されIOCでオリンピックへの参加が許可されると、織田ヘッドコーチが適時コーチを選出する形でオリンピックだけを目指す強化体制がとられた[51]。男女別に正月返上の強化合宿を行う[51]1951年(昭和26年)戦後初の海外遠征となったニューデリーアジア競技大会から1952年(昭和27年)ヘルシンキオリンピック1954年(昭和29年)マニラアジア競技大会まで連続、陸上競技日本代表監督を務める[56][57]。また1951年7月、14年ぶりに復活させた日米対抗戦を全国12ヶ所で18日間開催、この競技会は戦後の強化に大いに貢献して数十年の遅れを一年で回復したと言われる[57]

1958年(昭和33年)、国立霞ヶ丘競技場陸上競技場が開場、「織田ポール」(後述)が建てられた[4]。同年開催の東京アジア競技大会がこけら落としとなり、織田は聖火ランナーの最終走者を務め、聖火台に点火した[4][58]

東京五輪

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東京五輪開会式

1959年(昭和34年)、西田修平に代わりJAAF強化委員長に就任し、東京オリンピックまでの5年間の強化を一任された[57]

1960年(昭和35年)ローマオリンピックでは入賞者0と惨憺たる成績で、織田は中体連高体連学連実業団という一貫したレールの上での強化を考え、強化委員会・指導委員会・研究委員会の3つの委員会が協力して強化にあたるという構想を発表する[59]。オリンピック東京大会選手強化指導本部を設置し本部長を兼任して組織を統合した。強化指導本部は4年間で成功をおさめるため、世界の優秀なコーチや研究者を招き、科学的な強化法に役立つ理論と実践を学ぶ[59]。また専任コーチの設置、トレーニングセンターの建設などの強化方針を決めた[59]。特に世界的なコーチといわれたアーサー・リディアード英語版のマラソントレーニング方式は、高橋進中村清らに大きな影響を与え、後の日本マラソン界の繁栄に寄与した[59]

陸上界から完全に引退していた同郷の小掛照二をJAAF強化コーチとして復帰させたり[60][61]棒高跳に出場した盛田久生のために最先端の特注品ポールを五輪直前に渡米し作らせる[62] など、ギリギリまで陸上強化に尽力した。

また陸上競技メダル獲得のため、当時身体能力に優れていたプロ野球入団前の野球選手[63] に声をかけていた。その中で有名なのが、権藤博である。織田は「何とかコイツを東京五輪に出せないものか。出れば金メダルは確実」「400mハードルの選手に転向してほしい」と要請をした[64]。具体的な競技種目まで話が進んだのは権藤のみである[63][64]。また長嶋茂雄は「君のスピードなら陸上の中距離に転向すればメダルも夢ではない」と声をかけられたと証言している[63]

1964年(昭和39年)、東京オリンピックでは織田は陸上競技日本代表総監督(JAAF強化委員長)として指揮を執し、南部が陸上競技監督として活躍した[4][12][65]円谷幸吉をマラソンに転向させ、織田の狙い通り、円谷、君原健二寺沢徹の三名をマラソン代表に選出、円谷が銅メダルを獲得した[1][66][67][68]

その後晩年まで

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1965年(昭和40年)に母校である早稲田大学教授に就任し、またIAAF技術委員などを務め長く後進を指導、選手育成に尽力した[69][70][71]。国際陸連の技術委員を長く務めた織田の理論家としての名声は海外でも高く、東京・渋谷の自宅に教えを請いに来る人は、日本人より外国人の方が多かった[33]1980年(昭和55年)モスクワオリンピックボイコット騒動の時には、当初から反対つまり五輪参加に向けて動いていた[72][73]。同1980年、織田を会長に日本マスターズ陸上競技連合が創立[74]1989年(平成元年)、JAAF名誉会長に就任し[4]死去するまで務めた。

織田は晩年、色紙にはこの言葉を好んで書いた[1][3]

「強い者は美しい」
東慶寺にある織田幹雄の墓。隣に銅像が併設されている。

また、織田は1986年4月には以下のものを残している[75]

陸上競技訓

一、陸上競技は楽しく
一、美しい動きを作れ
一、身体の動きが技術
一、練習で自信を作る
一、笑えば緊張が解ける
一、力だけでは勝てない
一、走るには脚を前へ
一、跳ぶには前脚で
一、投げるには回転の早さで
一、速さは低い姿勢から立つ

織田は、晩年を夫妻で神奈川県三浦市油壺に暮らしていたが、妻の死を機に藤沢市鵠沼の有料老人ホームに入居した[76]1998年(平成10年)12月2日、織田は湘南鎌倉総合病院にてその生涯を閉じた。93歳没。

1998年12月25日に国立競技場で織田のお別れ会が開かれた[4]。墓所は鎌倉市東慶寺に在る[4]

1959年に紫綬褒章を受章している[69]。1976年IOCオリンピック功労章を授与[4]。1988年陸上界初の文化功労者に選出[77]。1984年渋谷区名誉区民、1985年東京都名誉都民、1986年故郷の安芸郡海田町名誉町民、1989年広島県名誉県民、広島市名誉市民に顕彰[4][78][79][80][81]

没後

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国立霞ヶ丘陸上競技場内部。手前に見える白いポールが織田ポールである。
広島広域公園陸上競技場。左端に見える白いポールが織田ポールである。
映像外部リンク
海田町による紹介動画
海田町魅力発信動画 織田幹雄さん

織田の名前を冠したものがいくつか存在する。

東京にあるものは以下のもの。

地元広島県にもいくつかある。

  • 「織田幹雄記念ポール(織田ポール)」 - 広島広域公園陸上競技場にも国立競技場と同サイズのポールがある[30]
  • 地元海田町のいくつかの施設の国旗掲揚台メインポールは織田の金メダル記念として高さ15m21cmのものが立てられている[3]。現状は母校海田町立海田小学校、海田総合公園内の野球場及びテニスコートの3箇所[30]
  • 海田総合公園には「顕彰碑」と、「記録体感ゾーン」と呼ばれる15m21cm時の足型3つが地面に付けられている[30]
  • 海田町ふるさと館には、織田の遺品の幾つかが展示されている[30]
  • 「織田幹雄スクエア」- 2020年4月1日旧千葉家住宅の南隣に、海田公民館と「織田幹雄記念館」の複合施設としてオープンした[86]。JR海田市駅の北口から徒歩5分にある、3階建ての建物のうち、2階の100平方メートルの一室が「織田幹雄記念館」となっている[87]

織田は広島のスポーツ界が生んだ名選手の筆頭に挙げられる人である[13]。特に、織田の故郷の海田町では地元が産んだヒーローとして扱われ、生き様を学校の教材として用いたりしている[3]

2010年4月、IAAFはアジア人として個人初の五輪金メダルを獲得した織田の偉業を称え、織田の長文のインタビュー記事(IAAF参照)を公式ホームページに掲載した[5]。これは中条一雄[88] が織田の晩年である1996年から1997年にかけてインタビューしたものを、息子である織田正雄たちが主要な部分を抜き出し英文に訳した冊子が元になっている[73][89]

逸話

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アムステルダム五輪表彰式

織田は1928年昭和3年)のアムステルダムオリンピックで金メダルを獲得したが、当時日本は国力がなく、他国のインチキ臭い記録に文句をつけても何も通らない時代だった[90][91]アムステルダムデパートにも他国のはあっても日の丸は置かれておらず、日本人の優勝はまさに想定外だった[2]。「君が代」は「さざれ石の」と途中から流された[90]。掲揚用の日章旗さえなく、係員がうろうろしているのを見て「よし、きた」と織田自ら持参した勝者の体を包むための大型の旗を持ち、国旗掲揚台の上に駆け上がった。日本語で「これを上げろ」と言ったが、向こうは何のことか分からず、目を白黒させながら旗を受け取って掲揚した。その結果、織田の日章旗だけが他の旗と比べて四倍大きいというアンバランスな形になり、写真にも残されている(#人物にあるOlympic.org動画参照)。当時は表彰台は用意されておらず、国旗を掲揚する形式でのみの表彰式が行われた。織田が渡した旗はカナダチームが100mで優勝した選手を旗にくるみ、皆でかついで場内を一周するのを前に見ていたため、織田が勝ったら南部忠平と身体をくるむために事前に用意していたものだった[90]。また、メダルは銀台金張りメダルと規定されているはずだったが、織田のメダルは銅で作られており、同じ大会で金メダルを獲得した鶴田義行は銀で作られており規定が必ずしも守られていなかった節が見受けられる。みんなに担がれて控室に行くと当時、オランダ公使だった広田弘毅が来て、全員で「君が代」を泣きながら歌った[90]
ただし、「巨大な日章旗」をめぐって「組織委員会が日章旗を用意していなかったから」とするよく知られた逸話については、スポーツジャーナリストの中条一雄が疑義を呈しており、日本の優勝がいかに予想外であったかを強調するために創られたものではないかとしている[92]。中条によれば、大会組織委員会発行の報告書の写真を見る限り、アムステルダム大会では「すべての競技」の表彰式で優勝国の国旗が大きく[注釈 1]、これにより金メダルと銀・銅メダルの区別を行っていた(この大会ではまだ、金メダリストを1段高い位置で際立たせる表彰台はない)と見られる[92][注釈 2]。中条の指摘によれば、織田は前回のパリ大会でも6位入賞を果たしており、メダル獲得が想定外とされるような選手ではなく[92]、日本大使館もあるオランダで組織委員会が日章旗を調達できないというということも考えにくいという[92]

ダグラス・マッカーサーとの出会い

連合国軍最高司令官総司令部最高司令官のダグラス・マッカーサーとは、戦前に一度会っている。
1924年パリ五輪に、アメリカやり投代表ウィリアム・ニューフェルド英語版と知り合い、その次の1928年アムステルダム五輪で再会した際に当時五輪アメリカ選手団団長を務めていたマッカーサーを紹介してもらった[95]。織田は終戦時にマッカーサーがアメリカの将軍であったことに驚いたという。なお、ニューフェルドも上記#戦後復興の通り、戦後CIE体育担当官として来日しており、戦後の日本スポーツ界再建に貢献している。

東京五輪聖火リレー最終ランナー

国立競技場聖火台
東京五輪開会式での聖火リレー最終ランナーは、当時19歳で広島原爆投下の日である1945年8月6日に生まれた坂井義則になったが、初めは織田らメダリストが候補だった。しかし織田は「ぜひ戦後生まれの若いランナーに」と提言した[96]
このことから坂井を選んだことは織田などJOC関係者が政治的意図を持って人選したとも言われるが、織田と同じく広島県出身で当時朝日新聞運動部に席をおいた中条一雄は、異を唱えている。当時決定権を持っていたのは青木半治JAAF理事長・竹田恒徳JOC委員長・久富達夫JOC相談役の3人であり、青木が若手の有望株の中から無作為に坂井を選び、元皇族の竹田に了承させたことにより政府も了承した、つまり選定の段階から広島原爆を全く意識していなかったものであり織田は選定に絡んでいなかった、と証言している[97]

新聞記者

織田は大阪朝日の新聞記者として働いたが、織田の影響で新聞記者となったものが存在する。例えば川本信正は織田の推薦で読売新聞に入社し[98]矢田喜美雄は織田が進路相談し大阪朝日に入社している[99]

主な記録

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以下、早稲田大学競走部が取りまとめた世界および日本記録[4][46] を中心に記載する。

日付 大会 記録 所属 備考
三段跳 走幅跳 走高跳 400mR 十種競技
1922年 極東選手権予選 13m38 6m29 1m73 広島一中 走幅/走高日本新
1923年5月 極東選手権 広島高師
臨教
三段/走幅優勝
1924年7月 パリ五輪 14m35 6m83 1m80 三段6位入賞、走幅/走高10位
1925年4月 極東選手権予選 6359.935 早稲田 十種日本新
5月 極東選手権 14m05 優勝
7月 早大対関学 7m19 走幅日本新
9月 東京市民 14m805 三段日本新
11月 日本選手権 14m315 7m24 6307.47 走幅日本新
1926年5月 日本選手権 44秒2 400mR(3走)日本新
1927年6月 関東選手権 43秒6 400mR(2走)日本新
6月 一高対早高 1m92 走高日本新
7月 早大対関学 7m37 走幅日本新
8月 日本選手権 15m343 43秒6 三段/400mR(2走)日本新
8月 極東選手権 15m355 三段日本新
三段/走幅/十種優勝
1928年5月 日本選手権 15m41 三段日本新
5月 日本学生 7m38 走幅日本新
110mH/走幅/三段優勝
走高2位
8月 アムステルダム五輪 15m21 7m11 1m88 三段金メダル、走幅予選落、走高7位
8月 国際学生 110mH/走幅4位
走高/五種競技6位
1929年5月 日本学生 15m45 三段日本新
走幅/三段/400mR優勝
110mH/走高/棒高2位
11月 日本選手権 42秒8 400mR(3走)日本新
三段/400mR優勝、十種2位
1930年5月 日本学生 走幅/三段/棒高/400mR優勝
110mH3位
5月 極東選手権 三段4連覇、走幅2位
6月 学生対比印 42秒8 学生選抜
(早稲田)
400mR(1走)日本新
1931年6月 五輪準備会 15m48 早大クラブ
(大阪朝日)
三段日本新
10月 日本選手権予選 15m50 三段日本新
10月 学生対一般 15m58 三段世界新
1932年7月 ロサンゼルス五輪 13m97 三段跳12位
1934年10月 日本選手権 1m85 走高2位

関連書籍

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著書

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監修

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脚注

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注釈

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  1. ^ ハリナ・コノパッカ(ポーランド、女子円盤投。オリンピック女子陸上競技最初の金メダリスト)[93]や、ジョン・クック(アメリカ合衆国、砲丸投)[94]の表彰式の映像で、他より大きな金メダリスト所属国の国旗が確認できる。
  2. ^ 大会組織委員会発行の報告書の写真でこのことに気づいた中条が南部忠平(当時毎日新聞運動部長)に尋ねたところ、南部は自分が秩父宮下賜の日の丸(日章旗の出所については「秩父宮から「もし、織田が優勝したらこの日の丸で体をくるんでやれ」と下賜されたもの」というバリエーションがある[92])を運んだということになっている話を面白がり、「おもしろい話は、そのままにしておけばいいんじゃないの」という返事であったという[92]。中条の文章は、ジャーナリストが古い文章や他人の言葉から適当な物語を引用することで間違った情報が固定化することの危険性を自戒とともに記す趣旨のものではあるが、南部の返答については「さすが大人物の南部さんでした」とコメントしている[92]

出典

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参考資料

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  • 東敏郎『スポーツ八十年史』日本体育協会、1959年。 
  • 日本陸上競技連盟七十年史編集委員会『日本陸上競技連盟七十年史』ベースボール・マガジン社、1995年。 
  • 中条一雄『ひとすじの青春』藤森書店、1978年。 
  • 金枡晴海『広島スポーツ100年』中国新聞社、1979年。 
  • 河野徳男『広島スポーツ史』財団法人広島県体育協会、1984年。 
  • 『「文藝春秋」にみるスポーツ昭和史 第一巻』文藝春秋、1988年。 
  • 『「文藝春秋」にみるスポーツ昭和史 第三巻』文藝春秋、1988年。 
  • 『激動のスポーツ史⑦陸上競技』ベースボール・マガジン社、1989年。ISBN 9784583027753 
  • 『スポーツ20世紀⑤』ベースボール・マガジン社〈BB・MOOK143 「スポーツ20世紀」シリーズ5〉、2000年。 
  • 読売新聞 2010年10月31日日曜版
  • 特集 スポーツ県・広島(archive) - 広島県
  • 織田幹雄(おだ みきお) 大正12年卒の人物 - 鯉城同窓会

関連項目

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外部リンク

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