住吉耕作
表示
| ||||
---|---|---|---|---|
選手情報 | ||||
ラテン文字 | Kosaku SUMIYOSHI [1] | |||
国籍 | 日本 | |||
競技 | 陸上競技 | |||
種目 | やり投 | |||
大学 | 早稲田大学 | |||
生年月日 | 1907年10月1日[2] | |||
生誕地 | 日本 広島県 | |||
没年月日 | 1971年[2] | |||
死没地 | セイロン | |||
自己ベスト | ||||
やり投 | 66.42 m(1930年) | |||
編集 |
住吉 耕作(すみよし こうさく、1907年10月1日 - 1971年)は、日本の陸上競技(投擲)選手。
1920年代後半から1930年代前半までやり投で活躍した選手で、「槍の住吉」と呼ばれた[2]。オリンピック出場2回(1928年アムステルダム・1932年ロサンゼルス)。姓はのちに岩崎[2]。早稲田大学理工学部卒業。
生涯
[編集]広島県安芸郡江田島町(現在の江田島市)生まれ[2][3]。呉一中(現在の広島県立呉三津田高等学校)を卒業[2]。1925年の第7回極東選手権競技大会(マニラ)にやり投と走高跳で出場。
早稲田大学に進学後はやり投選手として活躍。1927年、第8回極東選手権競技大会(上海)ではやり投で優勝[4]。
1928年4月29日に関東選手権で61m08の記録を出して日本記録を更新[5]。以後、自らの持つ日本記録を4度塗り替えており、1930年8月31日にウィーンで開催された国際競技会(世界学生大会とも[2])で記録した66.42mが住吉の最高記録である[5][3]。1928年から日本陸上競技選手権大会で優勝4回。1928年にはアムステルダムオリンピックにやり投で出場した[2][4]。
1932年ロサンゼルスオリンピックにやり投で出場[2][注釈 2]。練習では好調で68m線を越えていたものの、本番では調子が上がらず7位に終わった[2]。
1936年ベルリンオリンピックでは日本選手団総務[2]。その後、結婚により姓が岩崎となる[2]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b “Japanese Delegation of Athletics Team : Rio de Janeiro 2016” (PDF). 日本陸上連盟. p. 38 (2016年). 2020年11月4日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 「ふるさと再発見 郷土ゆかりの偉人3 住吉耕作」『広報えたじま』2018年、17頁、2024年8月4日閲覧。
- ^ a b c “広島陸上人”. 一般財団法人広島陸上競技協会. 2021年5月7日閲覧。
- ^ a b “早稲田大学競走部年譜 昭和2年~”. 早稲田大学. 2020年11月4日閲覧。
- ^ a b “日本学生記録の変遷 男子やり投”. 日本学生陸上競技連合. 2020年11月4日閲覧。