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尾崎剛毅

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尾崎 剛毅(おざき こうき、1904年明治37年)10月13日 - 没年不明)は、日本陸上競技選手。

経歴

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1904年10月13日、千葉県に生まれる[1]東京高等師範学校在学中の1924年1925年1926年の全日本選手権でやり投に出場し優勝している[2]。中でも、1926年に記録した57メートル17という記録は当時の日本記録であった[3]1925年第7回極東選手権競技大会にも出場している[3]1927年に東京高等師範学校を卒業し[4]京都師範学校教諭となる[3]京都市上京区に暮らし、近畿陸上競技協会技術委員も務めている[3]。その後、東京府体育運動主事[4]東京都教育庁社会教育部体育課長、同庁体育部長を歴任した[1]。その後、東京都教育委員会指導主事、墨田区立両国中学校長、東京都教育委員会体育課長、同体育部長を経験し[4]1961年9月に東京都立駒場高等学校長に就任[1]。校長としては2号館や生徒ホールの新設を主導し、1966年3月に定年退職した[5]。この間、1963年全国高校体育連盟理事長、1964年5月に同連盟会長に就任しており、スポーツ審議会委員、学校保健委員会委員、東京都体育協会常任理事も歴任している[4]

人物

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剣道四段を所持している[3]。家族は妻と長男、長女、次女がおり、スポーツ、武道、釣りを趣味としていた[4]

脚注

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  1. ^ a b c 人事興信所 編『人事興信録 第23版 上』人事興信所、1966年「お」73ページ
  2. ^ 男子やり投 日本陸上競技連盟(2023年8月2日閲覧)
  3. ^ a b c d e 大阪毎日新聞社, 東京日日新聞社 編『毎日年鑑 昭和11年』大阪毎日新聞社、1935年481ページ
  4. ^ a b c d e 帝国秘密探偵社 編『大衆人事録 第26版 東日本編』帝国秘密探偵社、1968年、252ページ
  5. ^ 1966年3月5日『松桜会報』駒場松桜会 1面