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{{日本の歴史地震の西暦換算}}
'''明応地震'''(めいおうじしん)は、[[室町時代]]後期([[戦国時代 (日本)|戦国時代]]初期)に発生した[[地震]]である。[[南海トラフ]]沿いの[[巨大地震]]と推定される。
{{地震
|shindoarea=東海地方・甲信など
|name=明応地震
|date= 1498年9月20日<br>ユリウス暦1498年9月11日<br>明応7年8月25日
|center=東海道沖
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|tsunami=駿河湾沿岸江梨.小川で8m伊勢.志摩で6〜10m
|area=東海地方・甲信など|time=8時ごろ|image=1498 Meio earthquake intensity.png|image name=明応地震の震度分布<ref name="Usami-kaihou">宇佐美龍夫(1986): {{PDFlink|[http://cais.gsi.go.jp/KAIHOU/report/kaihou35/05_17.pdf 東海沖四大地震の震度分布(明応・宝永・安政東海・東南海地震)]}}, 地震予知連絡会報, '''35''', 343-351.</ref><ref name="usami1-46"/>|location={{Coord|34.0|||N|138.0|||E|display=inline, title}}<ref name=“日本地震学会”/><ref name="rika">{{Cite book|和書|author=国立天文台|authorlink=国立天文台|title=[[理科年表]] 令和3年|publisher=[[丸善]]|isbn= 978-4-621-30560-7 |page=775}}</ref>|map2={{Location map|Japan
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}}|caption=震央の位置}}
'''明応地震'''(めいおうじしん)は、[[室町時代]]後期([[戦国時代 (日本)|戦国時代]]初期)の西暦1498年9月20日<ref group="注">[[グレゴリオ暦]]換算。『理科年表』『日本被害地震総覧』『地震の事典』『大日本地震史料』『新収地震史料』など数多くの文献が、1582年以前の地震に付いてもグレゴリオ暦換算の西暦で表記されている。歴史地震研究会は1582年以前の地震はユリウス暦換算の表記を推奨している。</ref>(明応7年8月25日)に日本で発生した[[大地震]]である<ref name=“日本地震学会”/>。[[南海トラフ]]沿いの[[巨大地震]]([[南海トラフ巨大地震]])と推定されている<ref group="注">被害の記録から、東海・東南海・南海の3つの地震がほぼ同時に発生した、[[三連動地震]]であったと考えられている。</ref>。'''明応東海地震'''(めいおうとうかいじしん)とも呼ばれている<ref>[[新潟大学]]人文学部 矢田俊文「{{PDFlink|[http://www.histeq.jp/kaishi_20/03-Yata.pdf 1498 年明応東海地震の津波被害と中世安濃津の被災]}}」</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.gensai.nagoya-u.ac.jp/nankai-t/download/nu/11_nu_uratani.pdf|title=1498年明応東海地震と明応関東地震|accessdate=2021-07-06|publisher=名古屋大学減災連携研究センター エネルギー防災(中部電力)寄付研究部門 浦谷裕明|language=日本語}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://cir.nii.ac.jp/all?q=%E6%98%8E%E5%BF%9C%E6%9D%B1%E6%B5%B7%E5%9C%B0%E9%9C%87&count=20&sortorder=1|title=Cinii「明応東海地震」|accessdate=2021-07-06|publisher=[[Cinii]]|language=日本語}}</ref>。


== 概要 ==
記録にある被害分布が[[安政東海地震]]に類似しており<ref>{{PDFlink|[http://cais.gsi.go.jp/KAIHOU/report/kaihou35/05_17.pdf 宇佐美龍夫(1986)]}} 東海沖四大地震の震度分布(明応・宝永・安政東海・東南海地震)</ref>、震源域は[[東海地震]]・[[東南海地震]]と思われるものであった<ref name="Koyama">{{PDFlink|[http://sk01.ed.shizuoka.ac.jp/koyama/public_html/etc/onlinepaper/koyama2008a.pdf 小山真人(2008)]}}[[小山真人]] 「東海地震はどんな地震か?」『地震防災』 学術図書出版、2008年 1498 年明応東海地震-津波で外海とつながった浜名湖-</ref>。一方で、[[四国]]でも一部大地震があったとする記録が発見され、また発掘調査から同時期の[[南海地震]]の存在が浮き彫りになり、広義の[[東海・東南海・南海連動型地震]]に分類される可能性も高い。
震央は東海道沖として{{Coord|34.0|||N|138.0|||E|display=inline}}<ref name=“日本地震学会”/><ref group="注">歴史地震の震央は震度分布により一応は推定されている(河角, 1951など)。しかし、断層破壊開始点である本来の[[震源]]、その地表投影である[[震央]]ではない。地震学的な震源は地震計が無ければ決まらず、震源域が広大な巨大地震では無意味な上誤解を与える恐れがある。-[[#Ishabashi (2014)|石橋(2014), pp.7-8.]]</ref>。地震の規模はM8.2~8.4であったと推定されている<ref name=“日本地震学会”>{{Cite web|和書|url=https://www.zisin.jp/publications/document05_02.html|title=日本付近のおもな被害地震年代表|accessdate=2021-07-06|publisher=[[日本地震学会]]|website=https://www.zisin.jp|language=日本語|archive-url=https://web.archive.org/web/20190407042825/http://www.zisin.jp/publications/document05_02.html |archive-date=2019-04-07 |url-status=dead |url-status-date=2024-10-04}}</ref>。


紀伊から房総にかけての沿岸に[[津波]]が押し寄せ、伊勢大湊で家屋流失1千戸、溺死5千、伊勢・志摩で溺死1万、静岡県志太郡で流死2万6千などの被害が出たという<ref name=“日本地震学会”/>。記録にある被害分布が[[安政東海地震]]に類似しており<ref name="Usami-kaihou">宇佐美龍夫(1986): {{PDFlink|[http://cais.gsi.go.jp/KAIHOU/report/kaihou35/05_17.pdf 東海沖四大地震の震度分布(明応・宝永・安政東海・東南海地震)]}}, 地震予知連絡会報, '''35''', 343-351.</ref>、震源域は[[東海道]]沖と思われるものであった<ref name="Koyama">{{PDFlink|[http://sk01.ed.shizuoka.ac.jp/koyama/public_html/etc/onlinepaper/koyama2008a.pdf 里村幹夫 編、小山真人、林愛明 ほか共著:(2008) 東海地震はどんな地震か?]}}」, 『地震防災』 学術図書出版, 1498年明応東海地震 -津波で外海とつながった浜名湖- ISBN 978-4-87361-817-3</ref>。一方で、[[四国]]でも一部大地震があったとする記録が見出され、また発掘調査から同時期の[[南海地震|南海道沖の地震]]の存在の可能性が唱えられている。
== 東海地震の記録 ==
[[明応]]7年8月25日[[辰]]刻([[グレゴリオ暦]][[1498年]]9月20日8時ごろ、[[ユリウス暦]]1498年9月11日)、[[東海道]]沖に大地震が発生した。


== 東海道沖地震の古文書による記録 ==
[[紀伊国|紀伊]]から[[房総]]にかけて[[太平洋]]側で震動が強く、[[甲斐国|甲斐]]でも強い揺れであったことは安政東海地震や[[宝永地震]]に共通するが震害は少ない。[[熊野本宮]]の社殿が倒壊、[[那智]]の坊舎の崩壊、[[遠江国|遠江]]では山崩れに地割れがあった。『[[熊野年代記]]』の記録によれば紀伊[[湯の峰温泉|湯の峯温泉]]の湧出が10月8日まで停止した。
[[明応]]7年8月25日[[辰]]刻([[ユリウス暦]][[1498年]]9月11日8時頃)(以下西暦換算はユリウス暦)、東海道沖で大地震が発生した。


『[[御湯殿上日記|御湯殿の上の日記]]』<ref>[[#Shinsaiyobo|『大日本地震史料』, p151.]]</ref>、『[[実隆公記]]』<ref>[[#Shinsaiyobo|『大日本地震史料』, p151-152.]]</ref>、『[[後法興院記]]』<ref>[[#Shinsaiyobo|『大日本地震史料』, p152-153.]]</ref>、『[[言国卿記]]』<ref name="Shinsaiyobo-154">[[#Shinsaiyobo|『大日本地震史料』, p154.]]</ref>および『[[大乗院寺社雑事記]]』<ref name="Shinsaiyobo-154" />等に[[京都]]や[[奈良]]など[[畿内]]付近の記録が見られる。『言国卿記』や『御湯殿の上の日記』には閏10月まで、『実隆公記』には11月7日まで[[余震]]と思われる地震の記録がある。畿内の被害と思われるものは『大乗院寺社雑事記』にある[[興福寺]]と見られる[[地蔵堂]]の庇が崩壊した記録である。『後法興院記』の東海道沿岸における記録は伝聞によるもので「大地震之日、伊勢、参河、駿河、伊豆大浪打寄、海辺二三十町之民屋悉溺水、人歿命、其外牛馬類不知其数云々、前代未聞事也」とある。1096年[[永長地震]]では駿河や伊勢の津波被害は伝聞として伝えられ、京都で書かれた日記に記事が見られた<ref>[[#Yata (2009)|矢田(2009), p37-45.]]</ref>。しかし、明応の頃になると畿内付近のみならず、[[遠江国|遠江]]や[[駿河国|駿河]]で記された記録も確認されるようになる<ref>[[#Yata (2009)|矢田(2009), p90-105.]]</ref>。
[[津波]]は紀伊から房総にかけての沿岸に襲来し、波高は[[駿河湾]]沿岸の江梨や小川で8m、[[伊勢国|伊勢]]、[[志摩国|志摩]]で6 - 10mであった。[[鎌倉]]の[[八幡宮]]参道にも襲来し、また[[高徳院]]の大仏殿はこの地震による津波で倒壊して、鎌倉の大仏が室町時代末に露坐となったとする説がある<ref name="Kokushi">菊地勇次郎 「高徳院」『国史大辞典5』 吉川弘文館、1984年</ref>。伊勢[[大湊 (伊勢市)|大湊]]で家屋流失1千、溺死5千、伊勢、志摩で溺死1万、駿河湾岸で水死2万6千とされる<ref name="jiten">宇津徳治、嶋悦三、吉井敏尅、山科健一郎 『地震の事典』 朝倉書店、2001年</ref>。かつて淡水湖であった[[浜名湖]]が、津波により[[太平洋]]とつながり今切と呼ばれる湾口を形成し、湖が拡大した<ref name="Koyama" />。[[沼津市]]戸田地区の平目平には[[ヒラメ]]が打ち上げられた伝承が存在し、平目平の標高から津波の遡上高は36mに達した可能性が指摘されている<ref>[http://www.asahi.com/national/update/0917/TKY201109170541.html asahi.com] [[都司嘉宣]] 津波高さ36メートルまで到達? 500年前の東海地震</ref>。


[[紀伊国|紀伊]]から[[房総]]にかけて[[太平洋]]側で震動が強い。[[山梨県]][[山梨市]]の[[窪八幡神社]]別当・普賢寺の『[[王代記]]』明応7年(1498年)条には「(前略)同二十四〔[[ママ (引用)|ママ]]〕辰剋、天地振動シテ国所々損、金山クツレ(崩れ)カゝミ(加々美)クツレ中山損」と記されており<ref>[[#Earthquake Research Institute (1983b)|『新収 日本地震史料 一巻』, p116.]]</ref>、[[甲斐国]]でも強い揺れであったと考えられている。甲州では、黒川金山を初め、中山金山、保村金山など[[武田信玄|信玄]]時代<ref group="注">信玄の父の[[武田信虎|信虎]]の代に溯るともされる(『日本の貨幣-収集の手引き-』改訂、2010年、p41.)。しかし、明応七年は信虎も[[数え年]]で5歳となる。</ref>に採掘された金山があり<ref>[[#Kobata (1999)|小葉田(1999), p27-28.]]</ref>、『王代記』にある「中山」は中山金山([[西八代郡]]、現・[[身延町]])と考えられる<ref>泉昌彦「武田氏の黄金山物語11 -[[甲州金]]の巻-」『月間ボナンザ7月号』、ボナンザ、1974年、p174.</ref>。あるいは、『王代記』に記される「金山」は地理的関係から[[甲州市]]塩山の[[黒川金山]]とも考えられている<ref>[[#Yamanashi pref. (2007)|萩原三雄「金山の開発」『山梨県史』, p449.]]</ref>。
河角廣により[[マグニチュード]]として''M'' 8.6が与えられていた<ref>Kawasumi, H., 1951, Measures of earthquakes danger and expectancy of maximum intensity throughout Japan as inferred from the seismic activity in historical times, ''Bull. Earthq. Res. Inst.'', Univ. Tokyo, 29, pp.469-482</ref>。また''M'' 8.3<ref name="jiten" /><ref>宇佐美龍夫 『日本被害地震総覧』 にある''M'' 8.2 - 8.4の中間値を採用。</ref>前後あるいは''M''w 8.5<ref name="Rikitake">力武常次 『固体地球科学入門』 共立出版、1994年</ref>と推定され、震度分布を推定する記録もこれ以前の地震よりはるかに充実しているが、[[江戸時代]]の地震より記録が少ない[[歴史地震]]であり、数値の精度は高いとはいえない。


各地の揺れは江戸時代の安政東海地震や[[宝永地震]]に共通するが震害の記録は少ない。震害はそれほどでもないと記す文献もあるが<ref name="RikaNenpyo2017">[[#NAOJ, RikaNenpyo2017|理科年表(2017), p732.]]</ref>、『円通松堂禅師語録』<ref name="ERI1983b-118">[[#Earthquake Research Institute (1983b)|『新収 日本地震史料 一巻』, p118-119.]]</ref>によれば遠江では山崩れや地割れがあり、同書に記された浅羽低地付近の揺れの激しさの描写は[[震度7]]に相当する可能性が高い<ref>[[#Ishabashi (2014)|石橋(2014), p66-67.]]</ref>。『[[熊野年代記]]』<ref name="Usami (2002)-8">[[#Usami (2002)|『日本の歴史地震史料 拾遺二』, p8.]]</ref>の記録によれば[[熊野本宮]]の社殿が倒壊、[[那智]]の坊舎の崩壊、紀伊[[湯の峰温泉|湯の峯温泉]]の湧出が10月8日まで42日間停止した<ref name="usami1-46">[[明応地震#usami1|『日本被害地震総覧』, p46-47.]]</ref>。
===日本最古の高台集団移住===
[[志摩半島]]の[[三重県]][[鳥羽市]]国崎町<ref>[[伊勢神宮]]に献上する[[熨斗あわび]]で知られる。</ref>は最大波高15mに達したとされ<ref>[http://opi-rina.chunichi.co.jp/topic/20110407-4.html 中日新聞2011/4/7] [[中日新聞]] 500年前の明応地震 識者「想定見直しを」</ref>、大津集落は明応地震津波で死者1万人という壊滅的な被害を受け、地震後住民は高台に移転し、その後500年間、2011年現在に至るまで低地に戻らなかった。漁師は高台から浜に通うのが普通だという<ref>日本経済新聞 2011年9月28日朝刊33面首都県経済「地域再生 震災が問う 安心への備え どこまで②集団移住、先人の教訓」。漁師の通いについては常福寺幸谷賢光住職談</ref>。[[1707年]]の[[宝永地震]]津波や、[[1854年]]の[[安政東海地震]]津波では溺死者を少数に抑えた。特に安政東海地震では国崎は津波特異点となり、「常福寺津
波流失塔」の碑文によれば7[[丈]]5[[尺]](22.7m)にも達したと記録されている<ref>{{PDFlink|[http://www.bousai.go.jp/oshirase/h15/031222/2-2.pdf 災害教訓の継承に関する専門調査会報告書原案]}} 災害教訓の継承に関する専門調査会報告書原案「1854年安政東海地震・安政南海地震」-明応7年(1498)東海地震による志摩国大津集落の高所移転-</ref>。


[[河角廣]]により規模''M''<sub>K</sub> = 7.5 が与えられ<ref>「[https://hdl.handle.net/2261/11692 有史以來の地震活動より見たる我國各地の地震危險度及び最高震度の期待値]」 東京大學地震研究所彙報. 第29冊第3号, 1951.10.5, pp.469-482, {{hdl|2261/11692}}</ref>、[[マグニチュード]]は''M'' 8.6 に換算されている。また''M'' 8.3<ref name="Utsu0">宇津『[[#Utsu0|地震の事典]]』p581.</ref><ref>『地震の事典』は、宇佐美龍夫 [[#usami1|『日本被害地震総覧』]],p46.にある''M'' 8.2 - 8.4の中間値を採用。</ref>前後、あるいは東海沖から伊豆半島南方沖と推定される断層モデルから[[地震モーメント]]は''M''<sub>0</sub> = 7 × 10<sup>21</sup>N・m<ref name="Aida">相田勇(1981)、「[https://hdl.handle.net/2261/12810 東海道沖に起こった歴史津波の数値実験]」 ''東京大学地震研究所彙報'', '''56''', 367-390., {{hdl|2261/12810}}</ref> (''M''w 8.5<ref>[[#Rikitake (1994)|力武(1994), p66-67.]]</ref>)と推定され、震度分布を推定する記録もこれ以前の地震よりはるかに充実しているが、[[江戸時代]]の地震より記録が少ない[[歴史地震]]であり、断層モデルによる近似の程度も悪く数値の精度は低い<ref name="Aida" />。震源域の東端が駿河湾に入っているのではなく、[[銭洲海嶺]]系の活断層が本地震に関連しているとの考えもある<ref name="Nakata2013a">中田高, 徳山英一, 隈元崇, 渡辺満久, [[鈴木康弘 (地質学者)|鈴木康弘]], 後藤秀昭, 西澤あずさ, 松浦律子(2013): {{PDFlink|[http://www2.jpgu.org/meeting/2013/session/PDF/S-SS35/SSS35-03.pdf 南海トラフ南方の銭洲断層と1498年明応地震]}},日本地球惑星科学連合2013年大会予稿集,SSS35-03.</ref>。
== 南海地震連動の可能性 ==
明応地震の歴史記録は、東海・東南海地震のみで、ほぼ同時期に連動する可能性の高い南海地震の記録を欠いたものとなっている。この時期は[[応仁の乱]]の時代であったため詳細な記録が残される様な状況に無かった可能性が高いとされる<ref>{{PDFlink|[http://sakuya.ed.shizuoka.ac.jp/rzisin/kaishi_20/13-Ando2.pdf 安藤雅孝(2005)]}} 安藤雅孝 「1605年慶長地震のメカニズム」『歴史地震』第20号、2005年</ref>。


== 津波 ==
1988年、[[高知県]][[中村市]][[四万十川]]支流の中筋川岸辺にあるアゾノ遺跡から[[15世紀]]末頃の噴砂が上昇した痕跡が発見され、1993年にはアゾノ遺跡に近接する船戸遺跡で地割れに石を並べた痕跡が発見された。アゾノ遺跡では噴砂痕より後の年代に人間の生活の痕跡が見られない。[[徳島県]][[板野町]]の[[吉野川]][[沖積低地]]では[[14世紀]]後半から[[16世紀]]初頭までに存続した集落跡の調査で、[[液状化現象]]による噴砂の痕跡が発見された<ref>寒川旭 『揺れる大地 日本列島の地震史』 同朋舎出版、1997年</ref>。加えて、[[愛媛県]][[新居浜市]]の『黒島神社文書』に、「明応七年の震災に、大地大に潰崩し、島の六七歩は流失し、此度二三の遺島となれり、明応七年の震災に罹り、本殿拝殿共破壊し、住民四方に散乱し」という記述が存在することが判明し、[[四国]]における15世紀末頃の大地震の記録・痕跡が相次いで発見されている<ref name="Sangawa">寒川旭 『地震 "なまず"の活動史』 大巧社、2001年</ref>。
[[津波]]は紀伊から房総にかけての沿岸に襲来し、波高は[[駿河湾]]沿岸の江梨や小川で8m、[[伊勢国|伊勢]]、[[志摩国|志摩]]で6 - 10mであった。津波規模は安政東海地震を上回り、[[伊豆半島]]西岸や[[志摩半島]]では局所的に大規模な津波が襲来していた。


南海トラフから東よりに津波の波源域が拡大している可能性があり、震源域を[[銭洲]]断層に仮定すると、志摩半島から[[御前崎]]、伊豆半島、[[房総半島]]に至る波高が説明できるとする説もある<ref name="Nakata2013a" />。
また、明応7年6月11日([[グレゴリオ暦]]1498年7月9日、[[ユリウス暦]]1498年6月30日)には[[九州]]において家屋倒壊被害の記録があり、[[伊予国|伊予]]では陥没などの地変を筆頭に[[1498年日向灘地震|日向灘地震]]と推定される地震の記録があったが、同日には[[畿内]]でも地震の記録が残っているため、これらが同一地震ならば震源域の変更が必要ともされている<ref name="Soran">宇佐美龍夫 『[[日本被害地震総覧]]』 東京大学出版会、2003年</ref>。さらに同日、[[紀ノ川]]で津波があり、[[中国]]の[[江蘇省]]、[[浙江省]]では[[長江|揚子江]]を初めとする河の水面の震動、池や井戸の水面の変化が見られ、同様の現象は宝永地震や[[安政南海地震]]でも観測されていることから、上述の日向灘地震は南海地震に含まれる、あるいは南海地震と連動した可能性も指摘されている<ref name="jiten" /><ref>[http://www.eri.u-tokyo.ac.jp/KOHO/PANKO2005/openlecture/tsuji.html 2004年インドネシア・スマトラ島西方沖地震津波の教訓]東京大学地震研究所</ref>。これが事実ならば、南海地震が東海・東南海地震に73日先行して発生したことになる。

古文書の記録や伝承によると、[[静岡県]][[沼津市]]においては、津波が斜面を駆け上り、[[海抜]]36メートルを超える地点まで達していた可能性があることがわかった<ref name=“日経36m“>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXDASDG15034_W1A910C1CR0000/|title=津波、海抜36メートル超到達か 1498年「明応東海地震」|accessdate=2021-07-06}}</ref>。明応東海地震の津波の高さは、1854年に発生した安政東海地震の約3~4倍もあったと考えられている。静岡県は東海地震の津波被害の想定として、安政東海地震を目安としていることから、地震学者の[[都司嘉宣]]は、明応地震の津波などを踏まえて、防災指針を見直すべきだとしている<ref name=“日経36m“/>。ちなみに、2011年3月11日に発生した[[東北地方太平洋沖地震]] (M9.0) による大津波では、津波が[[岩手県]][[宮古市]]の斜面を39.7メートルまでさかのぼったとも報告されている<ref name=“日経36m“/>。

{| class="wikitable" style="line-height:1.25em; margin-right:0px;"
|+ 津波の被害状況
! rowspan="2" colspan="2" style="background-color:#669999" | 地域 !! colspan="4" style="line-height:1.6em; background-color:#aad" | 推定波高・遡上高
|-
! 古文書の記録 !! style="white-space:nowrap;width:6em" | 羽鳥(1976)<ref name="Hatori1976">{{Cite journal|和書|author=羽鳥徳太郎 |title=明応7年・慶長9年の房総および東海南海道大津波の波源 |journal=東京大学地震研究所彙報 |ISSN=00408972 |publisher=東京大学地震研究所 |year=1976 |month=jan |volume=50 |issue=2 |pages=171-185 |naid=120000871397 |doi=10.15083/0000033244 |url=https://doi.org/10.15083/0000033244 |ref=harv}}<</ref> !! style="white-space:nowrap;width:6em"| [[飯田汲事|飯田]](1985)<ref name="Iida1985">[[飯田汲事]](1985): {{PDFlink|[http://www.seis.nagoya-u.ac.jp/taisaku/mikawa/mikawa/saigaishi.PDF/1.iidakumiji/1-1.pp.1-113/1-1-3.pp.33-39.pdf 3. 明応7年8月25日(1498年9月20日)の明応地震の震害と震度分布]}}, 東海地方地震・津波災害誌</ref> !! style="white-space:nowrap;width:6em" | [[都司嘉宣|都司]](2011)<ref name="Tsuji2011">都司嘉宣(2011): {{PDFlink|[http://www.tsunami.civil.tohoku.ac.jp/hokusai3/J/millennium_tsunami/repository/meeting_20110617/tsuji.pdf 歴史記録の上のミレニアム津波]}}</ref><ref name="Tsuji2012">都司嘉宣,小網汪世(2012): {{PDFlink|[http://www.histeq.jp/kaishi_27/HE27_062_062_Tsuji.pdf [講演要旨]明応東海地震(1498)による、駿河湾沿岸の津波被害]}}, 歴史地震, 第27号, 62.</ref>
|-
| [[安房国|安房]][[小湊町 (千葉県)|小湊]] || 現・[[千葉県]][[鴨川市]] || [[誕生寺 (鴨川市) |誕生寺]]、明応七年八月二十三日地震大海嘯のため土地陥没精舎も亦尽く没す、朱印も共に失う『安房郡誌』<ref>[[#Shinsaiyobo (1943)|『大日本地震史料 増訂 一巻』, p455-456.]]</ref> || 5m || 4-5m ||
|-
| [[相模国|相模]][[鎌倉]]<ref group="注">鎌倉の津波記録が記述通り明応四年ならば、明応七年の地震による津波ではないことになる。</ref> || 現・[[神奈川県]][[鎌倉市]] || 水勢入大佛殿破堂舎屋『鎌倉大日記』<ref name="Shinsaiyobo (1943)-443">[[#Shinsaiyobo (1943)|『大日本地震史料 増訂 一巻』, p443.]]</ref> || 8-10m || ||
|-
| [[江ノ島]] || 現・[[藤沢市]] || || || 5-6m ||
|-
| [[伊豆国|伊豆]][[八丈島]] || 現・[[東京都]][[八丈町]] || ナガクラにて、同月廿五日津浪上り、船、荷物諸共浪に払被『八丈島小島青ヶ島年代記』 || 4m || ||
|-
| 仁科 || 現・[[西伊豆町]] || 仁科郷海溢レテ陸地ニ上ル事凡十八九町、寺川、ノ以下ノ田園皆水ニ浸ス / 戊午歳海嘯ニハ、波頭寺川ノ大堰ニ到ル『佐波神社沿革』 || 5m || 4-5m || 佐波神社10m
|-
| 八木沢 || 現・[[伊豆市]] || 津浪、大門まで来る(妙蔵寺の宝永津浪?の伝承<ref name="Hatori1977">羽鳥徳太郎(1977)、「[https://hdl.handle.net/2261/12645 静岡県沿岸における宝永・安政東海地震の津波調査]」''地震研究所彙報'',52, 407-439., {{hdl|2261/12645}}</ref>) || || || 妙蔵寺22m
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| [[土肥町|土肥]] || 現・伊豆市 || 一瞬にして当村三十数名の命を奪い財産をなくした『栄源寺由来』 || || || 栄源寺18m
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| [[戸田村 (静岡県)|戸田]] || 現・[[沼津市]] || ヒラメが打ち上げられる(伝承) || || || 20m<br />平目平36.4m
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| [[江梨]] || 現・沼津市 || 未刻江梨村津浪寄来而、庶人海底沈没不知数『江梨航補院開基鈴木氏歴世法名録』 || || || 航補院16m
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| [[清水市|清水]] || 現・[[静岡市]][[清水区]] || 海辺の堂社仏閣人宅はことごとく水没し死す『日海記』 || || 5-6m<ref name="Iida">飯田汲事: {{PDFlink|[http://www.seis.nagoya-u.ac.jp/taisaku/mikawa/mikawa/saigaishi.PDF/1.iidakumiji/1-5.pp.669-789/1-5-5.pp765-776.pdf 5. 明応・慶長・宝永・安政・昭和の各東海地津波の比較]}}</ref> || 村松10m
|-
| [[焼津]] || 現・[[焼津市]] || 而溺死者大凡二萬六千人也、林叟之旧地忽変巨海也『林叟院記録』<ref name="Shinsaiyobo (1943)-456">[[#Shinsaiyobo (1943)|『大日本地震史料 増訂 一巻』, p456-457.]]</ref> || 6-8m || 会下島7-8m || 10m
|-
| [[浜岡]] || 現・[[御前崎市]] || 洪濤滔天来、而一弾指頃、掃地総巻去『円通松堂禅師語録』<ref name="ERI1983b-118" /> || || || 8m
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| [[遠江国|遠江]][[新居宿|新居]] || 現・[[湖西市]] || 一里余ノ渡シトナル、是ヲ今切ト号ス『東栄鑑』<ref name="Shinsaiyobo-155">[[#Shinsaiyobo|『大日本地震史料』, p155.]]</ref> || 6-8m || 6-8m ||
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| [[三河国|三河]][[渥美町|渥美]] || 現・[[田原市]] || 辰剋大地震、地破同時大海嘯満来『渥美郡史』<ref>[[#Shinsaiyobo (1943)|『大日本地震史料 増訂 一巻』, p455.]]</ref> || 5-6m || 5-8m ||
|-
| [[伊勢国|伊勢]][[大湊 (伊勢市)|大湊]] || 現・[[伊勢市]] || 今度大地震ノ高塩ニ、大湊ニハ家千間余人五千人許流死ト云々『内宮子良館記』<ref name="Shinsaiyobo-154a">[[#Shinsaiyobo|『大日本地震史料』, p154-155.]]</ref> || 6-8m || 6-10m ||
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| [[国崎町|国崎]] || 現・[[鳥羽市]] || 去八月廿五日大地震ニ、彼島家人大略流失『内宮子良館記』<ref name="Shinsaiyobo-154a" /> || || 8-15m ||
|-
| [[浜島町塩屋|塩屋]] || 現・[[志摩市]] || 大地震高浪来リ、其上宮川の上山ぬけにて大水一度に押来り、塩屋村家員百八拾軒余内御塩取役人百軒余、何れも補任頭戴の者共にて、内宮権禰宜荒木田姓ニ御座候、一時に大海へ押流、塩浜・田畑も一面の荒野と成候事『元田由来』 || || 8-15m ||
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| [[紀伊国|紀伊]][[熊野]] || 現・[[熊野市]]、[[新宮市]] || 浦々浪入新宮鐘楼堂ヲ崩ス『熊野年代記』<ref name="Usami (2002)-8" /> || 4-5m || 4-6m ||
|}
[[File:Kamakura Budda Daibutsu front 1885.jpg|thumb|250px|[[鎌倉大仏]](高徳院)]]
[[File:明応地震前の浜名湖図(lake of Hamanako was damaged by tsunami in Meiou - Toukai earthquake in 1498.).png|thumb|right|250px|明応地震により消滅した浜名湖の陸地<ref>矢田俊文(2005)「[講演記録] 1498年明応東海地震の津波被害と中世安濃津の被災」、『歴史地震』第20号、歴史地震研究会、2005年、 9-12 頁の図2を基に作成。</ref>]]
[[ファイル:Lake hamana landsat.jpg|thumb|250px|right|『東栄鑑』には「諸国大地震、遠州前坂ト坂本ノ間ノ川ニ津波入リ、一里余ノ渡シトナル、是ヲ今切ト号ス」、『遠江国風土記伝』には「湖水変為潮海矣」とあり、かつて淡水湖であった浜名湖が、津波により太平洋とつながり今切と呼ばれる湾口を形成し、湖が拡大したと伝えられている。]]
津波は[[鎌倉]]の[[鶴岡八幡宮]]参道にも襲来し、また[[高徳院]]の大仏殿はこの地震による津波で倒壊して、鎌倉の大仏が室町時代末に露坐となったとする説がある<ref name="Kokushi">[[#Kokushi1984|『国史大辞典 5巻』菊地勇次郎「高徳院」, p467.]]</ref>(後述、異説有)。{{see also|高徳院}}

また、当時伊豆国では、同国に進出していた駿河今川氏の重臣・伊勢盛時([[北条早雲]])と[[堀越公方]]・[[足利茶々丸]]が争っており、盛時が茶々丸討伐のために伊豆出兵を計画していたが、津波によって伊豆・駿河の沿岸は大被害を受けた。だが、津波による混乱で戦いが不利になることを恐れた盛時は8月末までに動員可能な兵だけで伊豆の[[深根城]]にいた茶々丸を襲って皆殺しにし、これを攻め滅ぼしたとされる<ref>家永遵嗣「北条早雲の伊豆征服」(初出:『伊豆の郷土研究』24集(1999年)/所収:黒田基樹 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第一〇巻 伊勢宗瑞』(戒光祥出版、2013年)ISBN 978-4-86403-071-7)</ref>(異説有)。

仁科では海岸から十八九[[町 (単位)|町]](約2km)内陸まで津波が到達したという(『増訂豆州志稿』)。ただし、この『増訂豆州志稿』は江戸時代に書かれたものであり、この地に建つ東福禅寺について記した『小田原衆所領役帳』には[[永和 (日本)|永和]]3年(1377年)津波、[[文明 (日本)|文明]]9年(1477年)洪水と明応以前の災害を記しているにも拘らず明応地震を何ら記していないなど疑問であるとされる<ref>[[#Hagiwara (1982)|萩原(1982), p55-59.]]</ref>。

八木沢の妙蔵寺(現・[[伊豆市]])には宝永津波が標高約20mの大門まで来たとする伝承があり、境内の[[スギ|杉]]に海草がかかったとも伝えられている<ref name="Hatori1977" />。この伝承は伊豆半島西海岸で余り被害の出なかった宝永津波ではなく明応津波の可能性も考えられるとされる<ref name="Tsuji2011" />。[[沼津市]]戸田地区の平目平には[[ヒラメ]]が打ち上げられた伝承が存在し、平目平の標高から津波の遡上高は36mに達した可能性が指摘されている<ref name="Tsuji2012" />。

『林叟院創記』には「加之大地震動海水大涌。而溺死者大凡二萬六千人也。林叟之旧地忽変巨海也」とあり、駿河湾岸の[[志太郡]]で流死2万6千と記述する文献があるが<ref name="RikaNenpyo2018">[[#NAOJ, RikaNenpyo2018|理科年表(2018), p738.]]</ref>、[[明治]]時代の志太郡の人口も2万6千人には満たず、260人の誤写<ref name="usami1-46" /><ref>[[#Earthquake Research Institute (1983b)|『新収 日本地震史料 一巻』「林叟院五百年史」, p112-114.]]</ref>であろうかと疑問視されていた。これは[[昭和]]初期に発刊された『静岡縣志太郡誌』<ref name="Shinsaiyobo (1943)-456" />に引用された『林叟院創記』の記述<ref>[[#Yata (2009)|矢田(2009), p112-115.]]</ref>を後の研究者が「志太郡で」と誤読した結果であり、地震全体の犠牲者数を[[林叟院 (焼津市)|林叟院]]が纏めたものであると考えるのが妥当とされる<ref>[[#Tsuji (2011)|都司(2011), p23-24.]]</ref>。また安政東海地震では焼津付近は隆起しているが、この記録は本地震で沈降したことを示唆している<ref name="Iida" />。

『東栄鑑』には「諸国大地震、遠州前坂ト坂本ノ間ノ川ニ津波入リ、一里余ノ渡シトナル、是ヲ今切ト号ス」<ref name="Shinsaiyobo-155" />、『遠江国風土記伝』には「湖水変為潮海矣」とあり<ref>[[#Shinsaiyobo|『大日本地震史料』, p155-156.]]</ref>、かつて淡水湖であった[[浜名湖]]が、津波により[[太平洋]]とつながり今切と呼ばれる湾口を形成し、湖が拡大した<ref name="Koyama" />。かつて浜名湖から遠州灘へ流れていた浜名川に架橋されていた浜名橋たもとに栄えていた橋本は津波で壊滅的打撃を受け、その後新居(元新居)に移転し、その新居も宝永津波により今切が拡大し再び移転を余儀なくされた<ref>[[#Yata (2009)|矢田(2009), p128-143.]]</ref><ref name="Fujiwara2010">藤原治,小野映介,矢田俊文,海津正倫,佐藤善輝,Vanessa Heyvaert(2010): {{PDFlink|[http://www.histeq.jp/kaishi_25/HE25_029_038_FujiwaraFont.pdf 1498年明応地震による遠州灘沿岸浜名川流域の地形変化]}}, 歴史地震, 第25号, 29-38.</ref><ref name="Yata2005">矢田俊文(2005): {{PDFlink|[http://www.histeq.jp/kaishi_20/03-Yata.pdf [講演記録]1498年明応東海地震の津波被害と中世安濃津の被災]}}, 『歴史地震』 第20号, 9-12.</ref>。ただし、今切が通じた時代には史料によって諸説あり、『遠江国風土記伝』には「応永12年(1405年)、大波この崎破る、或はいわく、文明7年8月8日(1475年9月8日)、明応8年6月10日(1499年7月18日)、甚雨大風、潮海と湖水の間、駅路没し、」とある<ref>[[#Yata (2009)|矢田(2009), p132-134.]]</ref>。また、『重編応仁記』には、永正7年8月27日(1510年9月30日)から翌日に掛けての津波によって浜名湖が海に通じて今切を生じたと記録されている<ref>[[#Shinsaiyobo (1943)|『大日本地震史料 増訂 一巻』, p472.]]</ref><ref>阿部浩一(1998)、「[https://doi.org/10.24471/shigaku.107.11_1997 中世浜名湖水運と地域社会(<シンポジウム>道・宿・湊 : 中世の交流と物流)]」 史学雑誌 1998年 107巻 11号 p.1997-1998, {{naid|110002362513}}, {{doi|10.24471/shigaku.107.11_1997}}</ref>。

湊町として栄えていた[[安濃津]](現・[[津市]])は遺跡の発掘から[[16世紀]]初頭から[[18世紀]]初頭頃まで空白期が見られ、明応地震津浪で壊滅的な打撃を受けて荒廃し、宝永地震以降に復興が始まったと推定されている。また[[大永]]2年(1522年)に安濃津を訪れた[[宗長]]は『宗長日記』で「この津、十余年以来荒野となりて四五千軒の家、塔あとのみ」と記している<ref>[[#Yata (2009)|矢田(2009), p96-99.]]</ref><ref name="Yata2005" />。

『内宮子良館記』には「今度大地震ノ高塩ニ、大湊ニハ家千間余人五千人許流死ト云々、其外伊勢島間ニ彼是一萬人許モ流死也」とあり<ref name="Shinsaiyobo-154a" />、伊勢[[大湊 (伊勢市)|大湊]]で家屋流失1千、溺死5千、伊勢、志摩で溺死1万とされ<ref name="usami1-46" /><ref name="Utsu0" />、[[宮川 (三重県)|宮川]]河口付近にあったと推定される塩屋村では[[塩田|塩浜]]が被害を受け塩業が成立しなくなったとされる<ref>[[#Yata (2009)|矢田(2009), p99-102.]]</ref><ref name="Yata2005" />。

紀伊では[[紀ノ川]]は、かつて河口付近で南流し現在の[[和歌川]]が本流で[[和歌浦]]に注いでいたが、『[[紀伊続風土記]]』の記述から現在の河口位置に変化したのは明応から[[寛永]]年間の間と考えられ、明応年間に住民や寺社が和田浦(現・[[和歌山市]])から湊村に移転したとする伝承があり、明応津波で被害を受け、紀ノ川が現在の河口位置に移ったとされる<ref name="Yata2005" />。ただし『紀伊続風土記』の記事は「明応ノ比津浪」、また『和歌山県神社寺院明細帳』では「明応ノ海嘯」とあるのみで具体的な年月日の記述はない。[[熊野本宮]]の社殿が倒れた<ref name="kanagawaken">[http://www.pref.kanagawa.jp/cnt/f360944/p393023.html 神奈川県公式サイト(明応型地震による津波浸水予測図)]</ref>。

=== 日本最古の高台集団移住 ===
志摩半島の[[三重県]][[鳥羽市]]国崎町<ref group="注">[[伊勢神宮]]に献上する[[熨斗あわび]]で知られる。</ref>は最大波高15mに達したとされ<ref name="Iida1985" /><ref>[http://opi-rina.chunichi.co.jp/topic/20110407-4.html 中日新聞2011/4/7] [[中日新聞]] 500年前の明応地震 識者「想定見直しを」</ref>、大津集落は明応地震津波で壊滅的な被害を受け、地震後住民は高台に移転し、その後500年間、2011年現在に至るまで低地に戻らなかった。漁師は高台から浜に通うのが普通だという<ref>日本経済新聞 2011年9月28日朝刊33面首都県経済「地域再生 震災が問う 安心への備え どこまで②集団移住、先人の教訓」。漁師の通いについては常福寺幸谷賢光住職談</ref>。1707年の[[宝永地震]]津波や、1854年の[[安政東海地震]]津波では溺死者を少数に抑えた。特に安政東海地震では国崎は津波特異点となり、「常福寺津波流失塔」の碑文によれば7[[丈]]5[[尺]](22.7m)にも達したと記録されている<ref>[[#Tsuji (2012)|都司(2012), p155-159.]]</ref><ref>災害教訓の継承に関する専門調査会報告書原案 {{PDFlink|[http://www.bousai.go.jp/oshirase/h15/031222/2-2.pdf 「1854年安政東海地震・安政南海地震」-明応7年(1498)東海地震による志摩国大津集落の高所移転-]}}</ref>。

=== 地震痕跡 ===
痕跡が発見されたとする報告。
* 静岡県[[磐田市]]、元島遺跡<ref>[[#Sangawa (2007)|寒川(2007), p35, p73.]]</ref>
* 浜名湖岸 : 津波堆積物
* [[湖西市]]、長谷元屋敷遺跡 : 津波堆積物<ref>熊谷博之(1999)、「[https://doi.org/10.5026/jgeography.108.4_42 浜名湖周辺での東海沖の大地震に伴う津波堆積物の調査]」 『地學雜誌』 1999年 108巻 4号 p.424-432, {{doi|10.5026/jgeography.108.4_42}}</ref>
* 愛知県[[稲沢市]]、尾張国府跡
* 三重県[[紀伊長島町]] : 津波堆積物

痕跡は発見されなかったとする報告。
* 神奈川県鎌倉市および逗子市で隆起痕跡は見つからなかった<ref>萬年一剛, 金幸隆, 鈴木茂, 松島義章, 太田雄貴、「[https://www.onken.odawara.kanagawa.jp/earthquake/201802020000.html 過去の関東地震の発生時期に関する研究]」神奈川県温泉地学研究所 2018年02月02日</ref>。

== 明応4年8月15日の地震 ==
『[[鎌倉大日記]]』には明応4年8月15日(1495年9月3日)に大地震が発生し、[[由比ヶ浜]]から参詣道に津波が押寄せ、高徳院の大仏殿が破壊され、溺死者200人余出たとある<ref name="Shinsaiyobo (1943)-443" />。
{{Quotation|
明応四年[[乙卯]]八月十五日、大地震洪水、鎌倉由比濱海水到千度檀、水勢入大佛殿破堂舎屋、溺死人二百餘
}}

『大日本地震史料 増訂』では、この記録は明応7年8月25日の地震の誤記の可能性有としている<ref>[[#Shinsaiyobo (1943)|『大日本地震史料 増訂 一巻』, p452-453.]]</ref>。宇佐美(2003)も、この記事は疑わしく明応7年8月25日の地震との混同の可能性有としている<ref name="usami1-46a">[[#usami1|『日本被害地震総覧』, p46.]]</ref>。

一方で同日、『御湯殿の上の日記』に「地しんゆる」、『後法興院記』にも「十五日乙丑晴、酉刻地震」との記録もあり<ref>[[#Shinsaiyobo|『大日本地震史料』, p149.]]</ref>、少なくとも京都においてこの日、有感地震があったとされ<ref name="usami1-46a" />、また、古代・中世には未だ巨大地震が隠されている可能性があり、1495年の地震は[[相模トラフ巨大地震]]の検討候補とされている<ref>石橋克彦、佐竹健治、「[https://doi.org/10.4294/zisin1948.50.appendix_1 総合報告:古地震研究によるプレート境界巨大地震の長期予測の問題点 -日本付近のプレート沈み込み帯を中心として]」 『地震 第2輯』 1998年 50巻 appendix号 p.1-21, {{doi|10.4294/zisin1948.50.appendix_1}}</ref>。『熊野年代記』にも同日に「鎌倉大地震」とあり、複数の史料からこの日の地震の存在が裏付けられている。ただし『熊野年代記』は近世成立であり『鎌倉大日記』をもとに書かれた可能性が高い。現在の所、鎌倉の地震津波を記述する確かな史料は『鎌倉大日記』のみである<ref name="Kitahara2016">[[#Kitahara (2016)|北原(2016), p58-63.]]</ref>。

静岡県[[伊東市]]教育委員会の金子浩之主査を中心とした宇佐美遺跡の発掘調査で見出された砂層が15世紀末頃の津波堆積物であることが判明している。この堆積物は標高約7.8m付近に存在し、南海トラフの地震津波では説明できないことから、明応関東地震のものである可能性が高いとされた。また、878年の[[相模・武蔵地震|元慶地震]]<ref group="注">相模トラフ沿いの巨大地震とする説の他、伊勢原断層の地震とする説もあり確定的でない。</ref>と[[887年]]の[[仁和地震]]、1703年の[[元禄地震]]と1707年の宝永地震を例に[[相模トラフ]]と南海トラフが震源と推定される巨大地震が連続しており、1495年と1498年の地震も同様に連動した可能性が示唆される<ref name="Nikkei">金子浩之「特集:首都直下地震」『日経サイエンス』[http://www.nikkei-science.com/201304_032.html 2013年4月号]</ref>。

[[北条早雲]]が[[小田原城]]を奪取した時期には諸説あるが明応4年9月とする説が有力であり、明応4年8月に発生した地震津波によって小田原が壊滅的な被害を受け、その混乱に乗じて小田原城を奪取した可能性も考えられるとされる。さらに早雲は明応7年の東海地震後に伊豆半島西岸も占領した可能性があるという<ref name="Nikkei" /><ref>金子浩之、[http://www.sengoku-shizuoka.com/topics/izu/ 戦国時代の伊豆]</ref>。

== 明応7年6月11日の地震 ==
{{Location map|Japan Kyushu
| label =
| lat_deg = 33.00
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| position = right
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| caption = 1498年日向灘地震(1498年7月9日・M7~7.5)の震央<ref name=“日本地震学会”/>
}}
『御湯殿の上の日記』、『後法興院記』<ref>[[#Shinsaiyobo|『大日本地震史料』, p150.]]</ref>、『[[続史愚抄]]』<ref>[[#Shinsaiyobo (1943)|『大日本地震史料 増訂 一巻』, p446, 453.]]</ref>など幾つかの史料に明応7年6月11日未-申刻(1498年6月30日15時頃)、畿内付近における大地震の記録がある。ただし被害記録は見当たらず、史料数は明応7年8月25日の地震より遥かに少なく、『後法興院記』では8月25日の地震について「辰時大地震、去六月十一日地震一倍事也」と述べている事から、京都において8月25日の地震は6月11日の地震の2倍の強さであった事になる<ref>[[#Yata (2009)|矢田(2009), p78-81.]]</ref>。一方、1854年の安政地震については京都付近は[[安政東海地震|東海地震]]と[[安政南海地震|南海地震]]は同程度の揺れであったと記録され、京都における[[気象庁震度階級|震度]]は共に4 - 5程度と推定されている<ref>[[#usami1|『日本被害地震総覧』, p151-168.]]</ref>。

同日の巳刻(10時頃)に[[日向灘]]が震源とされる地震があり、宇佐美(2003)は別の地震と考えるとし<ref name="usami1-46a" />、『九州軍記』には以下のように記されている<ref>[[#Earthquake Research Institute (1983b)|『新収 日本地震史料 一巻』, p108-109.]]</ref>。
{{Quotation|
[[戊午]]六月十一日卯ノ中刻ヨリ九國ノ大地震隙ナク震フ巳ノ刻ニ至テハ天大ニ鳴渡リ地夥フ弥增ニ震フ山崩テハ海川ニ入リ地裂テハ泥湧出ル神社仏閣ノ鳥居石碑過半ハ顛倒セリ民屋ハ一宇モ全カラス

(中略)

今度ノ地震ハ九國ノミニ不限四國中國畿内東海北國奥州ノ果迄モ殘ル所ナシ
}}
{{main|日向灘地震 (1498年)}}

== 南海道沖地震との連動の可能性 ==
明応地震の歴史記録は、東海道沿いのみで、ほぼ同時期に連動する可能性の高いと考えられている南海道沖の地震の記録を欠いたものとなっている。この時期は[[応仁の乱]]以来戦乱が続いた時代であったため詳細な記録が残される様な状況に無かった可能性もあるとされる<ref>安藤雅孝 「{{PDFlink|[http://www.histeq.jp/kaishi_20/13-Ando2.pdf 1605年慶長地震のメカニズム]}}」『歴史地震』第20号、2005年</ref>。

1988年、高知県[[中村市]](現・[[四万十市]])[[四万十川]]支流の中筋川岸辺にあるアゾノ遺跡から[[15世紀]]末頃の噴砂が上昇した痕跡が発見され、1993年にはアゾノ遺跡に近接する船戸遺跡で地割れに石を並べた痕跡が発見された。アゾノ遺跡では噴砂痕より後の年代に人間の生活の痕跡が見られない。徳島県[[板野町]]の[[吉野川 (代表的なトピック)|吉野川]][[沖積低地]]では[[14世紀]]後半から[[16世紀]]初頭までに存続した集落跡の調査で、[[液状化現象]]による噴砂の痕跡が発見された<ref>[[#Sangawa (1997)|寒川(1997), p35-40.]]</ref>。加えて、愛媛県[[新居浜市]]の『[[黒嶋神宮|黒島神社]]文書』に、「明応七年の震災に、大地大に潰崩し、島の六七歩は流失し、此度二三の遺島となれり、明応七年の震災に罹り、本殿拝殿共破壊し、住民四方に散乱し」という記述<ref group="注">地震から約400年後の明治20年(1887年)に書かれたものであり、より古い確かな史料が求められる。([[#Ishabashi (2014)|石橋(2014), 注p20.]])</ref>が存在することが判明し、[[四国]]における15世紀末頃の大地震と思われる記録・痕跡も発見されている<ref>[[#Sangawa (2001)|寒川(2001), p70-75.]]</ref>。

また、明応7年6月11日未-申刻(1498年6月30日15時頃)には[[九州]]において家屋倒壊被害の記録があり、[[伊予国|伊予]]では陥没などの地変(上記の黒島の記録)を筆頭に[[日向灘地震 (1498年)|日向灘地震]]と推定される地震の記録があったが、同日には[[畿内]]でも地震の記録が残っているため、これらが同一地震ならば震源域の変更が必要ともされている<ref name="RikaNenpyo2017" />。紀ノ川河口付近の和田浦の津波は南海道沖の地震の可能性があり、さらに『中国地震歴史資料彙編』には6月11日、[[呉州 (江蘇省)|蘇州]]で「各邑河渠池及井泉震蕩、高涌数尺、良久乃定」の記録があり<ref name="Utsu1988">宇津徳治(1988)、「[https://doi.org/10.4294/zisin1948.41.4_613 日本の地震に関連する中国の史料]」 『地震』第2輯, 1988年 41巻 pp.613-614.,{{DOI|10.4294/zisin1948.41.4_613}}</ref>、[[中国]]の[[江蘇省]]、[[浙江省]]では[[長江|揚子江]]を初めとする河の水面の震動、池や井戸の水面の変化が見られ、同様の現象は宝永地震や[[安政南海地震]]でも観測されていることから、上述の日向灘地震とされた地震は南海道沖の地震であった可能性も指摘されている<ref name="Utsu0" /><ref>都司嘉宣、上田和枝(1997): 明応(1498)南海地震の存在とその日付について, 地球惑星科学関連学会1997年合同大会講演予稿集, 169.</ref><ref>[https://www.eri.u-tokyo.ac.jp/KOHO/PANKO2005/openlecture/tsuji.html 2004年インドネシア・スマトラ島西方沖地震津波の教訓]東京大学地震研究所</ref>。これが事実ならば、南海道沖の地震が東海道沖の地震に73日先行して発生したことになる<ref name="Tsuji (2012)-37">[[#Tsuji (2012)|都司(2012), p37-41.]]</ref>。

一方で6月11日の地震を南海道沖の地震と断定するには津波伝播のシミュレーションなど更なる作業を必要とし、むしろ紀ノ川河口付近の津波を東海地震と同日の8月25日と考え、明応地震は宝永地震と同様に東海道沖の地震および南海道沖の地震が連動した可能性も検討すべきとされる<ref>石橋克彦(2002): フィリピン海スラブ沈み込みの境界条件としての東海・南海巨大地震 -史料地震学による概要-, 京都大学防災研究所研究集会13K-7, 報告書, 1-9.</ref>。『九州軍記』の記述を話半分に聞けば九州付近で起こったスラブ内地震であるという解釈も可能であり、また、都司(1997)が南海地震の根拠としている上海付近の[[セイシュ]]と推定される水面の震動は、南海道沖の地震に限らず安政南海地震の最大余震である[[豊予海峡地震]]の時も見られた<ref name="Utsu1988" />ことから、6月11日の地震はフィリピン海プレート内地震の可能性も考えられ、このプレート内地震が京都付近で強震動をもたらすことも充分有り得るとされる<ref>[[#Ishabashi (2014)|石橋(2014), p68.]]</ref>。

さらに、もともと信頼性に問題があるとされた『九州軍記』は100年以上後に描かれた創作であり、明応7年の地震に加えて[[慶長豊後地震]]なども軍記の創作に影響した可能性も考えられ、6月11日の地震が日向灘地震であった可能性は否定されるとの見方がある<ref name="harada2016">原田智也 (2016):“東京大学地震研究所 地震活動セミナー 第79回「[http://wwweic.eri.u-tokyo.ac.jp/ZISINKATSUDO/ 明応七年六月十一日(ユリウス暦1498年6月30日)の日向灘地震は実在したか?]」”. 東京大学地震研究所.</ref>。

== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
<!-- 実際に参考にした文献一覧 -->
{{reflist}}
* {{Cite book|和書|author= 萩原尊禮・藤田和夫・山本武夫・松田時彦・大長昭雄 |title=古地震 -歴史資料と活断層からさぐる |publisher=[[東京大学出版会]] |date=1982-11 |isbn= |ref=Hagiwara (1982)}}
* {{Cite book|和書|author=石橋克彦|authorlink=石橋克彦 |title=南海トラフ巨大地震 -歴史・科学・社会- |publisher=[[岩波書店]] |date=2014-03 |isbn=978-4-00-028531-5 |ref=Ishabashi (2014)}}
* {{Cite book|和書|author=北原糸子|authorlink=北原糸子 |title=日本震災史 -復旧から復興への歩み |publisher=ちくま新書 |date=2016-09 |isbn=978-4-480-06916-0 |ref=Kitahara (2016)}}
* {{Cite book|和書|author=小葉田淳|authorlink=小葉田淳 |title=貨幣と鉱山 |edition= |series= |volume= |publisher=[[思文閣出版]] |date=1999 |isbn=978-4-7842-1004-6 |ref=Kobata (1999)}}
* {{Cite book|和書|author=力武常次|authorlink=力武常次 |title=固体地球科学入門―地球とその物理 |edition=第2版 |series= |volume= |publisher=[[共立出版]] |date=1994-05 |isbn=978-4-3200-4670-2 |ref=Rikitake (1994)}}
* {{Cite book|和書|author=寒川旭 |title=揺れる大地―日本列島の地震史 |publisher=[[同朋舎出版]] |date=1997-01 |isbn=978-4-8104-2363-1 |ref=Sangawa (1997)}}
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* {{Anchors|usami1}}[[宇佐美龍夫]] 『最新版 日本被害地震総覧』 東京大学出版会、2003年
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* {{Cite book|和書|editor=東京大学地震研究所 |title=新収 日本地震史料 一巻 自允恭天皇五年至文禄四年 |publisher=日本電気協会 |date=1981 |isbn= |ref=Earthquake Research Institute (1983b)}} pp.109-124
* {{Cite book|和書|editor=東京大学地震研究所 |title=新収 日本地震史料 補遺 自推古天皇三十六年至明治三十年 |publisher=日本電気協会 |date=1989 |isbn= |ref=Earthquake Research Institute (1989)}} pp.44-56
* {{Cite book|和書|editor=東京大学地震研究所 |title=新収 日本地震史料 続補遺 自天平六年至大正十五年 |publisher=日本電気協会 |date=1994 |isbn= |ref=Earthquake Research Institute (1994)}} pp.19-20
* {{Cite book|和書|author=宇佐美龍夫 |title=日本の歴史地震史料 拾遺 |publisher=東京大学地震研究所 |date=1999-03 |isbn= |ref=Usami (1999)}} pp.6-8
* {{Cite book|和書|author=宇佐美龍夫 |title=日本の歴史地震史料 拾遺二 |publisher=東京大学地震研究所 |date=2002-03 |isbn= |ref=Usami (2002)}} pp.8-31
* {{Cite book|和書|author=宇佐美龍夫 |title=日本の歴史地震史料 拾遺三 |publisher=東京大学地震研究所 |date=2005-03 |isbn= |ref=Usami (2005)}} pp.15-29
* {{Cite book|和書|author=宇佐美龍夫 |title=日本の歴史地震史料 拾遺四ノ上 |publisher=東京大学地震研究所 |date=2008-06 |isbn= |ref=Usami (2008)}} pp.7-26
* {{Cite book|和書|author=宇佐美龍夫 |title=日本の歴史地震史料 拾遺五ノ上 |publisher=東京大学地震研究所 |date=2012-06 |isbn= |ref=Usami (2012)}} p.12

==関連項目==
<!-- 関連するウィキリンク、ウィキ間リンク -->
* [[災害記念碑]] - 常福寺津波流失塔(三重県[[鳥羽市]][[国崎町]])、佐波神社(静岡県[[西伊豆町]]仁科)


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明応地震
明応地震の震度分布[1][2]
明応地震の位置(日本内)
明応地震
震央の位置
本震
発生日 1498年9月20日
ユリウス暦1498年9月11日
明応7年8月25日
発生時刻 8時ごろ
震央 東海道沖
座標 北緯34度00分 東経138度00分 / 北緯34.0度 東経138.0度 / 34.0; 138.0座標: 北緯34度00分 東経138度00分 / 北緯34.0度 東経138.0度 / 34.0; 138.0[3][4]
規模    M8.2- 8.4
最大震度    震度6:東海地方・甲信など
津波 駿河湾沿岸江梨.小川で8m伊勢.志摩で6〜10m
被害
被害地域 東海地方・甲信など
プロジェクト:地球科学
プロジェクト:災害
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明応地震(めいおうじしん)は、室町時代後期(戦国時代初期)の西暦1498年9月20日[注 1](明応7年8月25日)に日本で発生した大地震である[3]南海トラフ沿いの巨大地震南海トラフ巨大地震)と推定されている[注 2]明応東海地震(めいおうとうかいじしん)とも呼ばれている[5][6][7]

概要

[編集]

震央は東海道沖として北緯34度00分 東経138度00分 / 北緯34.0度 東経138.0度 / 34.0; 138.0[3][注 3]。地震の規模はM8.2~8.4であったと推定されている[3]

紀伊から房総にかけての沿岸に津波が押し寄せ、伊勢大湊で家屋流失1千戸、溺死5千、伊勢・志摩で溺死1万、静岡県志太郡で流死2万6千などの被害が出たという[3]。記録にある被害分布が安政東海地震に類似しており[1]、震源域は東海道沖と思われるものであった[8]。一方で、四国でも一部大地震があったとする記録が見出され、また発掘調査から同時期の南海道沖の地震の存在の可能性が唱えられている。

東海道沖地震の古文書による記録

[編集]

明応7年8月25日刻(ユリウス暦1498年9月11日8時頃)(以下西暦換算はユリウス暦)、東海道沖で大地震が発生した。

御湯殿の上の日記[9]、『実隆公記[10]、『後法興院記[11]、『言国卿記[12]および『大乗院寺社雑事記[12]等に京都奈良など畿内付近の記録が見られる。『言国卿記』や『御湯殿の上の日記』には閏10月まで、『実隆公記』には11月7日まで余震と思われる地震の記録がある。畿内の被害と思われるものは『大乗院寺社雑事記』にある興福寺と見られる地蔵堂の庇が崩壊した記録である。『後法興院記』の東海道沿岸における記録は伝聞によるもので「大地震之日、伊勢、参河、駿河、伊豆大浪打寄、海辺二三十町之民屋悉溺水、人歿命、其外牛馬類不知其数云々、前代未聞事也」とある。1096年永長地震では駿河や伊勢の津波被害は伝聞として伝えられ、京都で書かれた日記に記事が見られた[13]。しかし、明応の頃になると畿内付近のみならず、遠江駿河で記された記録も確認されるようになる[14]

紀伊から房総にかけて太平洋側で震動が強い。山梨県山梨市窪八幡神社別当・普賢寺の『王代記』明応7年(1498年)条には「(前略)同二十四〔ママ〕辰剋、天地振動シテ国所々損、金山クツレ(崩れ)カゝミ(加々美)クツレ中山損」と記されており[15]甲斐国でも強い揺れであったと考えられている。甲州では、黒川金山を初め、中山金山、保村金山など信玄時代[注 4]に採掘された金山があり[16]、『王代記』にある「中山」は中山金山(西八代郡、現・身延町)と考えられる[17]。あるいは、『王代記』に記される「金山」は地理的関係から甲州市塩山の黒川金山とも考えられている[18]

各地の揺れは江戸時代の安政東海地震や宝永地震に共通するが震害の記録は少ない。震害はそれほどでもないと記す文献もあるが[19]、『円通松堂禅師語録』[20]によれば遠江では山崩れや地割れがあり、同書に記された浅羽低地付近の揺れの激しさの描写は震度7に相当する可能性が高い[21]。『熊野年代記[22]の記録によれば熊野本宮の社殿が倒壊、那智の坊舎の崩壊、紀伊湯の峯温泉の湧出が10月8日まで42日間停止した[2]

河角廣により規模MK = 7.5 が与えられ[23]マグニチュードM 8.6 に換算されている。またM 8.3[24][25]前後、あるいは東海沖から伊豆半島南方沖と推定される断層モデルから地震モーメントM0 = 7 × 1021N・m[26] (Mw 8.5[27])と推定され、震度分布を推定する記録もこれ以前の地震よりはるかに充実しているが、江戸時代の地震より記録が少ない歴史地震であり、断層モデルによる近似の程度も悪く数値の精度は低い[26]。震源域の東端が駿河湾に入っているのではなく、銭洲海嶺系の活断層が本地震に関連しているとの考えもある[28]

津波

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津波は紀伊から房総にかけての沿岸に襲来し、波高は駿河湾沿岸の江梨や小川で8m、伊勢志摩で6 - 10mであった。津波規模は安政東海地震を上回り、伊豆半島西岸や志摩半島では局所的に大規模な津波が襲来していた。

南海トラフから東よりに津波の波源域が拡大している可能性があり、震源域を銭洲断層に仮定すると、志摩半島から御前崎、伊豆半島、房総半島に至る波高が説明できるとする説もある[28]

古文書の記録や伝承によると、静岡県沼津市においては、津波が斜面を駆け上り、海抜36メートルを超える地点まで達していた可能性があることがわかった[29]。明応東海地震の津波の高さは、1854年に発生した安政東海地震の約3~4倍もあったと考えられている。静岡県は東海地震の津波被害の想定として、安政東海地震を目安としていることから、地震学者の都司嘉宣は、明応地震の津波などを踏まえて、防災指針を見直すべきだとしている[29]。ちなみに、2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震 (M9.0) による大津波では、津波が岩手県宮古市の斜面を39.7メートルまでさかのぼったとも報告されている[29]

津波の被害状況
地域 推定波高・遡上高
古文書の記録 羽鳥(1976)[30] 飯田(1985)[31] 都司(2011)[32][33]
安房小湊 現・千葉県鴨川市 誕生寺、明応七年八月二十三日地震大海嘯のため土地陥没精舎も亦尽く没す、朱印も共に失う『安房郡誌』[34] 5m 4-5m
相模鎌倉[注 5] 現・神奈川県鎌倉市 水勢入大佛殿破堂舎屋『鎌倉大日記』[35] 8-10m
江ノ島 現・藤沢市 5-6m
伊豆八丈島 現・東京都八丈町 ナガクラにて、同月廿五日津浪上り、船、荷物諸共浪に払被『八丈島小島青ヶ島年代記』 4m
仁科 現・西伊豆町 仁科郷海溢レテ陸地ニ上ル事凡十八九町、寺川、ノ以下ノ田園皆水ニ浸ス / 戊午歳海嘯ニハ、波頭寺川ノ大堰ニ到ル『佐波神社沿革』 5m 4-5m 佐波神社10m
八木沢 現・伊豆市 津浪、大門まで来る(妙蔵寺の宝永津浪?の伝承[36] 妙蔵寺22m
土肥 現・伊豆市 一瞬にして当村三十数名の命を奪い財産をなくした『栄源寺由来』 栄源寺18m
戸田 現・沼津市 ヒラメが打ち上げられる(伝承) 20m
平目平36.4m
江梨 現・沼津市 未刻江梨村津浪寄来而、庶人海底沈没不知数『江梨航補院開基鈴木氏歴世法名録』 航補院16m
清水 現・静岡市清水区 海辺の堂社仏閣人宅はことごとく水没し死す『日海記』 5-6m[37] 村松10m
焼津 現・焼津市 而溺死者大凡二萬六千人也、林叟之旧地忽変巨海也『林叟院記録』[38] 6-8m 会下島7-8m 10m
浜岡 現・御前崎市 洪濤滔天来、而一弾指頃、掃地総巻去『円通松堂禅師語録』[20] 8m
遠江新居 現・湖西市 一里余ノ渡シトナル、是ヲ今切ト号ス『東栄鑑』[39] 6-8m 6-8m
三河渥美 現・田原市 辰剋大地震、地破同時大海嘯満来『渥美郡史』[40] 5-6m 5-8m
伊勢大湊 現・伊勢市 今度大地震ノ高塩ニ、大湊ニハ家千間余人五千人許流死ト云々『内宮子良館記』[41] 6-8m 6-10m
国崎 現・鳥羽市 去八月廿五日大地震ニ、彼島家人大略流失『内宮子良館記』[41] 8-15m
塩屋 現・志摩市 大地震高浪来リ、其上宮川の上山ぬけにて大水一度に押来り、塩屋村家員百八拾軒余内御塩取役人百軒余、何れも補任頭戴の者共にて、内宮権禰宜荒木田姓ニ御座候、一時に大海へ押流、塩浜・田畑も一面の荒野と成候事『元田由来』 8-15m
紀伊熊野 現・熊野市新宮市 浦々浪入新宮鐘楼堂ヲ崩ス『熊野年代記』[22] 4-5m 4-6m
鎌倉大仏(高徳院)
明応地震により消滅した浜名湖の陸地[42]
『東栄鑑』には「諸国大地震、遠州前坂ト坂本ノ間ノ川ニ津波入リ、一里余ノ渡シトナル、是ヲ今切ト号ス」、『遠江国風土記伝』には「湖水変為潮海矣」とあり、かつて淡水湖であった浜名湖が、津波により太平洋とつながり今切と呼ばれる湾口を形成し、湖が拡大したと伝えられている。

津波は鎌倉鶴岡八幡宮参道にも襲来し、また高徳院の大仏殿はこの地震による津波で倒壊して、鎌倉の大仏が室町時代末に露坐となったとする説がある[43](後述、異説有)。

また、当時伊豆国では、同国に進出していた駿河今川氏の重臣・伊勢盛時(北条早雲)と堀越公方足利茶々丸が争っており、盛時が茶々丸討伐のために伊豆出兵を計画していたが、津波によって伊豆・駿河の沿岸は大被害を受けた。だが、津波による混乱で戦いが不利になることを恐れた盛時は8月末までに動員可能な兵だけで伊豆の深根城にいた茶々丸を襲って皆殺しにし、これを攻め滅ぼしたとされる[44](異説有)。

仁科では海岸から十八九(約2km)内陸まで津波が到達したという(『増訂豆州志稿』)。ただし、この『増訂豆州志稿』は江戸時代に書かれたものであり、この地に建つ東福禅寺について記した『小田原衆所領役帳』には永和3年(1377年)津波、文明9年(1477年)洪水と明応以前の災害を記しているにも拘らず明応地震を何ら記していないなど疑問であるとされる[45]

八木沢の妙蔵寺(現・伊豆市)には宝永津波が標高約20mの大門まで来たとする伝承があり、境内のに海草がかかったとも伝えられている[36]。この伝承は伊豆半島西海岸で余り被害の出なかった宝永津波ではなく明応津波の可能性も考えられるとされる[32]沼津市戸田地区の平目平にはヒラメが打ち上げられた伝承が存在し、平目平の標高から津波の遡上高は36mに達した可能性が指摘されている[33]

『林叟院創記』には「加之大地震動海水大涌。而溺死者大凡二萬六千人也。林叟之旧地忽変巨海也」とあり、駿河湾岸の志太郡で流死2万6千と記述する文献があるが[46]明治時代の志太郡の人口も2万6千人には満たず、260人の誤写[2][47]であろうかと疑問視されていた。これは昭和初期に発刊された『静岡縣志太郡誌』[38]に引用された『林叟院創記』の記述[48]を後の研究者が「志太郡で」と誤読した結果であり、地震全体の犠牲者数を林叟院が纏めたものであると考えるのが妥当とされる[49]。また安政東海地震では焼津付近は隆起しているが、この記録は本地震で沈降したことを示唆している[37]

『東栄鑑』には「諸国大地震、遠州前坂ト坂本ノ間ノ川ニ津波入リ、一里余ノ渡シトナル、是ヲ今切ト号ス」[39]、『遠江国風土記伝』には「湖水変為潮海矣」とあり[50]、かつて淡水湖であった浜名湖が、津波により太平洋とつながり今切と呼ばれる湾口を形成し、湖が拡大した[8]。かつて浜名湖から遠州灘へ流れていた浜名川に架橋されていた浜名橋たもとに栄えていた橋本は津波で壊滅的打撃を受け、その後新居(元新居)に移転し、その新居も宝永津波により今切が拡大し再び移転を余儀なくされた[51][52][53]。ただし、今切が通じた時代には史料によって諸説あり、『遠江国風土記伝』には「応永12年(1405年)、大波この崎破る、或はいわく、文明7年8月8日(1475年9月8日)、明応8年6月10日(1499年7月18日)、甚雨大風、潮海と湖水の間、駅路没し、」とある[54]。また、『重編応仁記』には、永正7年8月27日(1510年9月30日)から翌日に掛けての津波によって浜名湖が海に通じて今切を生じたと記録されている[55][56]

湊町として栄えていた安濃津(現・津市)は遺跡の発掘から16世紀初頭から18世紀初頭頃まで空白期が見られ、明応地震津浪で壊滅的な打撃を受けて荒廃し、宝永地震以降に復興が始まったと推定されている。また大永2年(1522年)に安濃津を訪れた宗長は『宗長日記』で「この津、十余年以来荒野となりて四五千軒の家、塔あとのみ」と記している[57][53]

『内宮子良館記』には「今度大地震ノ高塩ニ、大湊ニハ家千間余人五千人許流死ト云々、其外伊勢島間ニ彼是一萬人許モ流死也」とあり[41]、伊勢大湊で家屋流失1千、溺死5千、伊勢、志摩で溺死1万とされ[2][24]宮川河口付近にあったと推定される塩屋村では塩浜が被害を受け塩業が成立しなくなったとされる[58][53]

紀伊では紀ノ川は、かつて河口付近で南流し現在の和歌川が本流で和歌浦に注いでいたが、『紀伊続風土記』の記述から現在の河口位置に変化したのは明応から寛永年間の間と考えられ、明応年間に住民や寺社が和田浦(現・和歌山市)から湊村に移転したとする伝承があり、明応津波で被害を受け、紀ノ川が現在の河口位置に移ったとされる[53]。ただし『紀伊続風土記』の記事は「明応ノ比津浪」、また『和歌山県神社寺院明細帳』では「明応ノ海嘯」とあるのみで具体的な年月日の記述はない。熊野本宮の社殿が倒れた[59]

日本最古の高台集団移住

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志摩半島の三重県鳥羽市国崎町[注 6]は最大波高15mに達したとされ[31][60]、大津集落は明応地震津波で壊滅的な被害を受け、地震後住民は高台に移転し、その後500年間、2011年現在に至るまで低地に戻らなかった。漁師は高台から浜に通うのが普通だという[61]。1707年の宝永地震津波や、1854年の安政東海地震津波では溺死者を少数に抑えた。特に安政東海地震では国崎は津波特異点となり、「常福寺津波流失塔」の碑文によれば75(22.7m)にも達したと記録されている[62][63]

地震痕跡

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痕跡が発見されたとする報告。

痕跡は発見されなかったとする報告。

  • 神奈川県鎌倉市および逗子市で隆起痕跡は見つからなかった[66]

明応4年8月15日の地震

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鎌倉大日記』には明応4年8月15日(1495年9月3日)に大地震が発生し、由比ヶ浜から参詣道に津波が押寄せ、高徳院の大仏殿が破壊され、溺死者200人余出たとある[35]

明応四年乙卯八月十五日、大地震洪水、鎌倉由比濱海水到千度檀、水勢入大佛殿破堂舎屋、溺死人二百餘

『大日本地震史料 増訂』では、この記録は明応7年8月25日の地震の誤記の可能性有としている[67]。宇佐美(2003)も、この記事は疑わしく明応7年8月25日の地震との混同の可能性有としている[68]

一方で同日、『御湯殿の上の日記』に「地しんゆる」、『後法興院記』にも「十五日乙丑晴、酉刻地震」との記録もあり[69]、少なくとも京都においてこの日、有感地震があったとされ[68]、また、古代・中世には未だ巨大地震が隠されている可能性があり、1495年の地震は相模トラフ巨大地震の検討候補とされている[70]。『熊野年代記』にも同日に「鎌倉大地震」とあり、複数の史料からこの日の地震の存在が裏付けられている。ただし『熊野年代記』は近世成立であり『鎌倉大日記』をもとに書かれた可能性が高い。現在の所、鎌倉の地震津波を記述する確かな史料は『鎌倉大日記』のみである[71]

静岡県伊東市教育委員会の金子浩之主査を中心とした宇佐美遺跡の発掘調査で見出された砂層が15世紀末頃の津波堆積物であることが判明している。この堆積物は標高約7.8m付近に存在し、南海トラフの地震津波では説明できないことから、明応関東地震のものである可能性が高いとされた。また、878年の元慶地震[注 7]887年仁和地震、1703年の元禄地震と1707年の宝永地震を例に相模トラフと南海トラフが震源と推定される巨大地震が連続しており、1495年と1498年の地震も同様に連動した可能性が示唆される[72]

北条早雲小田原城を奪取した時期には諸説あるが明応4年9月とする説が有力であり、明応4年8月に発生した地震津波によって小田原が壊滅的な被害を受け、その混乱に乗じて小田原城を奪取した可能性も考えられるとされる。さらに早雲は明応7年の東海地震後に伊豆半島西岸も占領した可能性があるという[72][73]

明応7年6月11日の地震

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明応地震の位置(九州内)
明応地震
1498年日向灘地震(1498年7月9日・M7~7.5)の震央[3]

『御湯殿の上の日記』、『後法興院記』[74]、『続史愚抄[75]など幾つかの史料に明応7年6月11日未-申刻(1498年6月30日15時頃)、畿内付近における大地震の記録がある。ただし被害記録は見当たらず、史料数は明応7年8月25日の地震より遥かに少なく、『後法興院記』では8月25日の地震について「辰時大地震、去六月十一日地震一倍事也」と述べている事から、京都において8月25日の地震は6月11日の地震の2倍の強さであった事になる[76]。一方、1854年の安政地震については京都付近は東海地震南海地震は同程度の揺れであったと記録され、京都における震度は共に4 - 5程度と推定されている[77]

同日の巳刻(10時頃)に日向灘が震源とされる地震があり、宇佐美(2003)は別の地震と考えるとし[68]、『九州軍記』には以下のように記されている[78]

戊午六月十一日卯ノ中刻ヨリ九國ノ大地震隙ナク震フ巳ノ刻ニ至テハ天大ニ鳴渡リ地夥フ弥增ニ震フ山崩テハ海川ニ入リ地裂テハ泥湧出ル神社仏閣ノ鳥居石碑過半ハ顛倒セリ民屋ハ一宇モ全カラス

(中略)

今度ノ地震ハ九國ノミニ不限四國中國畿内東海北國奥州ノ果迄モ殘ル所ナシ

南海道沖地震との連動の可能性

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明応地震の歴史記録は、東海道沿いのみで、ほぼ同時期に連動する可能性の高いと考えられている南海道沖の地震の記録を欠いたものとなっている。この時期は応仁の乱以来戦乱が続いた時代であったため詳細な記録が残される様な状況に無かった可能性もあるとされる[79]

1988年、高知県中村市(現・四万十市四万十川支流の中筋川岸辺にあるアゾノ遺跡から15世紀末頃の噴砂が上昇した痕跡が発見され、1993年にはアゾノ遺跡に近接する船戸遺跡で地割れに石を並べた痕跡が発見された。アゾノ遺跡では噴砂痕より後の年代に人間の生活の痕跡が見られない。徳島県板野町吉野川沖積低地では14世紀後半から16世紀初頭までに存続した集落跡の調査で、液状化現象による噴砂の痕跡が発見された[80]。加えて、愛媛県新居浜市の『黒島神社文書』に、「明応七年の震災に、大地大に潰崩し、島の六七歩は流失し、此度二三の遺島となれり、明応七年の震災に罹り、本殿拝殿共破壊し、住民四方に散乱し」という記述[注 8]が存在することが判明し、四国における15世紀末頃の大地震と思われる記録・痕跡も発見されている[81]

また、明応7年6月11日未-申刻(1498年6月30日15時頃)には九州において家屋倒壊被害の記録があり、伊予では陥没などの地変(上記の黒島の記録)を筆頭に日向灘地震と推定される地震の記録があったが、同日には畿内でも地震の記録が残っているため、これらが同一地震ならば震源域の変更が必要ともされている[19]。紀ノ川河口付近の和田浦の津波は南海道沖の地震の可能性があり、さらに『中国地震歴史資料彙編』には6月11日、蘇州で「各邑河渠池及井泉震蕩、高涌数尺、良久乃定」の記録があり[82]中国江蘇省浙江省では揚子江を初めとする河の水面の震動、池や井戸の水面の変化が見られ、同様の現象は宝永地震や安政南海地震でも観測されていることから、上述の日向灘地震とされた地震は南海道沖の地震であった可能性も指摘されている[24][83][84]。これが事実ならば、南海道沖の地震が東海道沖の地震に73日先行して発生したことになる[85]

一方で6月11日の地震を南海道沖の地震と断定するには津波伝播のシミュレーションなど更なる作業を必要とし、むしろ紀ノ川河口付近の津波を東海地震と同日の8月25日と考え、明応地震は宝永地震と同様に東海道沖の地震および南海道沖の地震が連動した可能性も検討すべきとされる[86]。『九州軍記』の記述を話半分に聞けば九州付近で起こったスラブ内地震であるという解釈も可能であり、また、都司(1997)が南海地震の根拠としている上海付近のセイシュと推定される水面の震動は、南海道沖の地震に限らず安政南海地震の最大余震である豊予海峡地震の時も見られた[82]ことから、6月11日の地震はフィリピン海プレート内地震の可能性も考えられ、このプレート内地震が京都付近で強震動をもたらすことも充分有り得るとされる[87]

さらに、もともと信頼性に問題があるとされた『九州軍記』は100年以上後に描かれた創作であり、明応7年の地震に加えて慶長豊後地震なども軍記の創作に影響した可能性も考えられ、6月11日の地震が日向灘地震であった可能性は否定されるとの見方がある[88]

脚注

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注釈

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  1. ^ グレゴリオ暦換算。『理科年表』『日本被害地震総覧』『地震の事典』『大日本地震史料』『新収地震史料』など数多くの文献が、1582年以前の地震に付いてもグレゴリオ暦換算の西暦で表記されている。歴史地震研究会は1582年以前の地震はユリウス暦換算の表記を推奨している。
  2. ^ 被害の記録から、東海・東南海・南海の3つの地震がほぼ同時に発生した、三連動地震であったと考えられている。
  3. ^ 歴史地震の震央は震度分布により一応は推定されている(河角, 1951など)。しかし、断層破壊開始点である本来の震源、その地表投影である震央ではない。地震学的な震源は地震計が無ければ決まらず、震源域が広大な巨大地震では無意味な上誤解を与える恐れがある。-石橋(2014), pp.7-8.
  4. ^ 信玄の父の信虎の代に溯るともされる(『日本の貨幣-収集の手引き-』改訂、2010年、p41.)。しかし、明応七年は信虎も数え年で5歳となる。
  5. ^ 鎌倉の津波記録が記述通り明応四年ならば、明応七年の地震による津波ではないことになる。
  6. ^ 伊勢神宮に献上する熨斗あわびで知られる。
  7. ^ 相模トラフ沿いの巨大地震とする説の他、伊勢原断層の地震とする説もあり確定的でない。
  8. ^ 地震から約400年後の明治20年(1887年)に書かれたものであり、より古い確かな史料が求められる。(石橋(2014), 注p20.

出典

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参考文献

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  • 震災予防調査会 編『大日本地震史料 上巻』丸善、1904年。  pp.151-157 国立国会図書館サーチ
  • 武者金吉 編『大日本地震史料 増訂 一巻』文部省震災予防評議会、1941年。  pp.446-459 国立国会図書館サーチ
  • 東京大学地震研究所 編『新収 日本地震史料 一巻 自允恭天皇五年至文禄四年』日本電気協会、1981年。  pp.109-124
  • 東京大学地震研究所 編『新収 日本地震史料 補遺 自推古天皇三十六年至明治三十年』日本電気協会、1989年。  pp.44-56
  • 東京大学地震研究所 編『新収 日本地震史料 続補遺 自天平六年至大正十五年』日本電気協会、1994年。  pp.19-20
  • 宇佐美龍夫『日本の歴史地震史料 拾遺』東京大学地震研究所、1999年3月。  pp.6-8
  • 宇佐美龍夫『日本の歴史地震史料 拾遺二』東京大学地震研究所、2002年3月。  pp.8-31
  • 宇佐美龍夫『日本の歴史地震史料 拾遺三』東京大学地震研究所、2005年3月。  pp.15-29
  • 宇佐美龍夫『日本の歴史地震史料 拾遺四ノ上』東京大学地震研究所、2008年6月。  pp.7-26
  • 宇佐美龍夫『日本の歴史地震史料 拾遺五ノ上』東京大学地震研究所、2012年6月。  p.12

関連項目

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