コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「禅林墨跡」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
少し追加、修正
より大きい画像に差し替え
 
(33人の利用者による、間の111版が非表示)
1行目: 1行目:
{{参照方法|date=2015年10月}}
[[ファイル:Inkajo.jpg|thumb|right|300px|『[[#与虎丘紹隆印可状|与虎丘紹隆印可状]]』([[#圜悟克勤|圜悟克勤]]筆、[[東京国立博物館]]蔵、[[国宝]])]]
[[ファイル:Inkajo.jpg|thumb|right|300px|『[[#与虎丘紹隆印可状|与虎丘紹隆印可状]]』([[#圜悟克勤|圜悟克勤]]筆、[[東京国立博物館]]蔵、[[国宝]])]]
[[ファイル:Hogo Xutang Zhiyu.jpg|thumb|right|300px|『[[#与無象静照偈頌|与無象静照偈頌]]』([[#虚堂智愚|虚堂智愚]]筆、東京国立博物館蔵、国宝)]]
[[ファイル:Hogo Xutang Zhiyu.jpg|thumb|right|300px|『[[#虚堂智愚法語|法語]]』([[#虚堂智愚|虚堂智愚]]筆、東京国立博物館蔵、国宝)]]
[[ファイル:Enni inkajo.jpg|thumb|right|300px|『[[#与円爾印可状|与円爾印可状]]』([[#無準師範|無準師範]]筆、[[東福寺]]蔵、国宝)]]
[[ファイル:Handwritting of Wuzhun Shifan.png|thumb|right|300px|『[[無準師範#与円爾印可状|与円爾印可状]]』([[無準師範]]筆、[[東福寺]]蔵、国宝)]]
[[ファイル:Senbetsunoge.jpg|thumb|right|300px|『[[#与別源円旨送別偈|与別源円旨送別偈]]』(古林清茂筆、[[五島美術館]]蔵、国宝)]]
[[ファイル:Kanzan.jpg|thumb|right|300px|『[[#関山字号|関山字号]]』([[#宗峰妙超|宗峰妙超]]筆、[[妙心寺]]蔵、国宝)]]


'''禅林墨跡'''(ぜんりんぼくせき)とは、[[禅林]][[僧|高僧]]の[[直筆|真跡]]のこと。[[#印可状|印可状]]・[[#字号|字号]]・[[#法語|法語]]・[[#偈頌|偈頌]]・[[#遺偈|遺偈]]・[[#尺牘|尺牘]]などがある。単に'''墨跡'''ともいい、'''墨蹟'''・'''墨迹'''とも書く。
'''禅林墨跡'''(ぜんりんぼくせき)とは、[[禅林]][[僧|高僧]]の[[直筆|真跡]]のこと。[[#印可状|印可状]]・[[#字号|字号]]・[[#法語|法語]]・[[#偈頌|偈頌]]・[[#遺偈|遺偈]]・[[#尺牘|尺牘]]などがある。単に'''墨跡'''ともいい、'''墨蹟'''・'''墨迹'''とも書く。


墨跡という語は[[中国]]では真跡全般を意味するが、[[日本]]においては禅僧の真跡という極めて限った範囲にしか使わない習慣がある。その二義を区別するため、近年、後者を多くは'''禅林墨跡'''といい、その[[書道用語一覧#書風|書風]]を'''[[禅宗様#書道における禅宗様|禅宗様]]'''という(本項で単に墨跡は禅林墨跡を指す)<ref name="nakanishi595">中西慶爾 p.595</ref><ref>中西慶爾 p.897</ref><ref name="minegishi127">峯岸佳葉(決定版 中国書道史) pp..127-128</ref><ref name="komatsu26">小松茂美 pp..26-27</ref><ref>鈴木翠軒 p.133</ref>。
墨跡という語は[[中国]]では真跡全般を意味するが、[[日本]]においては禅僧の真跡という極めて限った範囲にしか使わない習慣がある。その二義を区別するため、近年、後者を多くは'''禅林墨跡'''といい、その[[書道用語一覧#書風|書風]]を'''[[禅宗様#書道における禅宗様|禅宗様]]'''という<ref name="nakanishi595">中西慶爾 p.595</ref><ref>中西慶爾 p.897</ref><ref name="minegishi127">峯岸佳葉(決定版 中国書道史) pp..127-128</ref><ref name="komatsu26">小松茂美 pp..26-27</ref><ref>鈴木翠軒 p.133</ref>。

本項で単に墨跡は禅林墨跡を指す。


== 概要 ==
== 概要 ==
[[ファイル:Dahui Zonggao letter.jpg|thumb|right|300px|『[[#与無相居士尺牘|与無相居士尺牘]]』([[#大慧宗杲|大慧宗杲]]筆、東京国立博物館蔵、国宝)]]

墨跡は[[武士]]が台頭した[[鎌倉時代]]に中国から伝来した。当時の日本の[[書道]]は、しばらく中国との国交が途絶えていたため[[和様]]色一色であったが、この時期に再び日中の交流が禅僧によってはじまり、[[宋 (王朝)|宋]]・[[元 (王朝)|元]]代の[[禅宗]]の伝来とともに、精神を重視する自由で人間味に富んだ禅僧の書が流入した。これが武士階級の趣向と合致して多大な影響を及ぼし、墨跡という新しい書の分野が生まれ、[[日本の書道史]]上、重要な位置を占めるようになった。
墨跡は[[武士]]が台頭した[[鎌倉時代]]に中国から伝来した。当時の日本の[[書道]]は、しばらく中国との国交が途絶えていたため[[和様]]色一色であったが、この時期に再び日中の交流が禅僧によってはじまり、[[宋 (王朝)|宋]]・[[元 (王朝)|元]]代の[[禅宗]]の伝来とともに、精神を重視する自由で人間味に富んだ禅僧の書が流入した。これが武士階級の趣向と合致して多大な影響を及ぼし、墨跡という新しい書の分野が生まれ、[[日本の書道史]]上、重要な位置を占めるようになった。


さらに[[室町時代]]に[[茶道]]が流行すると、墨跡は[[古筆切]]とともに茶席の第一の[[掛軸]]として欠くことのできない地位を獲得し、一国一城をかけても一幅の墨跡に替えるといった狂言的な風潮も生まれた。特に[[江戸時代]]の[[大徳寺]]の禅僧の間で流行し、多くの墨跡が遺され、今日ではそれが墨跡の主流となっている<ref name="nakanishi595"/><ref name="minegishi127"/><ref>可成屋 pp..4-5</ref><ref>二玄社(書道辞典) p.239</ref><ref>山内常正 pp..56-57</ref><ref name="nagoya87">名児耶明(決定版 日本書道史) pp..87-91</ref>。
さらに[[室町時代]]に[[茶道]]が流行すると、墨跡は[[古筆切]]とともに茶席の第一の[[掛軸]]として欠くことのできない地位を獲得し、一国一城をかけても一幅の墨跡に替えるといった狂言的な風潮も生まれた。特に[[江戸時代]]の[[大徳寺]]の禅僧の間で流行し、多くの墨跡が遺され、今日ではそれが墨跡の主流となっている<ref name="nakanishi595"/><ref name="minegishi127"/><ref>可成屋 pp..4-5</ref><ref>二玄社(書道辞典) p.239</ref><ref>山内常正 pp..56-57</ref><ref name="nagoya87">名児耶明(決定版 日本書道史) pp..87-91</ref>。

[[ファイル:Hogo.jpg|thumb|right|250px|『[[#法語・規則|法語]]』([[#蘭渓道隆|蘭渓道隆]]筆、[[建長寺]]蔵、国宝)]]


; 墨跡の二義の由来
; 墨跡の二義の由来
: 墨跡という語の用例として、古くは中国・[[六朝|六朝時代]]の『[[宋書]]』[[范曄]]伝に、「示以'''墨蹟'''」<ref>諸橋轍次 3巻 p.258</ref><ref>[[s:zh:宋書/卷69|『宋書』范曄伝の原文]]</ref>と見えるが、この語が広く普及したのは宋代になってからである。その中で当時の禅僧の書が数多く含まれた禅僧の詩文集に、単に真跡を意味する語として墨跡と記されていた。まさにこの頃、鎌倉時代の日本の禅僧が入宋し、禅を学び、持ち帰った禅僧の書を特に意味のないまま墨跡と称していたが、やがて専ら禅僧の書を指すようになったと推察される<ref name="minegishi127"/><ref name="kanda_soudai19">神田喜一郎(宋代禅僧の墨跡) pp..19-24</ref>。
: 墨跡という語の用例として、古くは中国・[[六朝|六朝時代]]の『[[宋書]]』[[范曄]]伝に、「示以'''墨蹟'''」<ref>諸橋轍次 3巻 p.258</ref><ref>[[s:zh:宋書/卷69|『宋書』范曄伝の原文]]</ref>と見えるが、この語が広く普及したのは宋代になってからである。その中で当時の禅僧の書が数多く含まれた禅僧の詩文集に、単に真跡を意味する語として墨跡と記されていた。まさにこの頃、鎌倉時代の日本の禅僧が入宋し、禅を学び、持ち帰った禅僧の書を特に意味のないまま墨跡と称していたが、やがて専ら禅僧の書を指すようになったと推察される<ref name="minegishi127"/><ref name="kanda_soudai19">神田喜一郎(宋代禅僧の墨跡) pp..19-24</ref>。


: 日本で墨跡を禅僧の真跡という限定した意味で使用した古い例としては、[[貞治]]2年/[[正平 (日本)|正平]]18年(1363年)の年紀を有する『仏日庵公物目録』(ぶつにちあんくもつもくろく、[[円覚寺]]の[[塔頭]]・仏日庵に蔵した書画の著録)があり、「墨蹟」という項目を設けて中国の禅僧の書と記している。[[法然]]・[[日蓮]]ら他宗の僧侶の筆跡に対して墨跡という言葉が用いられた例はほとんどない<ref name="minegishi127"/><ref name="kanda_soudai19"/><ref name="horie746">堀江知彦 pp..746-747</ref>。
: 日本で墨跡を禅僧の真跡という限定した意味で使用した古い例としては、[[貞治]]2年/[[正平 (日本)|正平]]18年(1363年)の年紀を有する『仏日庵公物目録』{{efn|『仏日庵公物目録』(ぶつにちあんくもつもくろく)は、[[円覚寺]]の[[塔頭]]・仏日庵に蔵した書画の著録のこと<ref>神田喜一郎(宋代禅僧の墨跡) p.19、堀江知彦 pp..746-747、峯岸佳葉(決定版 中国書道史 p.127</ref>。}}があり、「墨蹟」という項目を設けて中国の禅僧の書と記している。[[法然]]・[[日蓮]]ら他宗の僧侶の筆跡に対して墨跡という言葉が用いられた例はほとんどない<ref name="minegishi127"/><ref name="kanda_soudai19"/><ref name="horie746">堀江知彦 pp..746-747</ref>。


; 墨跡の書風
; 墨跡の書風
: 墨跡は本来、[[#印可状|印可状]]・[[#字号|字号]]・[[#法語|法語]]など、法のために書くものであって、書として鑑賞するために書いたものではない。したがって、それを書いた人物と内容が重視され、一般に書の巧拙を問題としない。つまり[[書法]]にとらわれず、各人が自在に自己の人間性を表現するものであり、自ずとその[[書道用語一覧#書風|書風]]は千差万別であるが、概ね、[[北宋]]の[[蘇軾]]・[[黄庭堅]]風のもの、[[南宋]]の[[張即之]]風のもの、元の[[趙孟フ|趙孟&#x982B;]]風のものに分けることができる<ref name="minegishi127"/><ref name="suzukisuiken142">鈴木翠軒 pp..142-143</ref><ref name="suzukihiro110">鈴木洋保 pp..110-113</ref><ref name="nakata132">中田勇次郎(書道藝術 中国書道史) pp..132-134</ref>。
: 墨跡は本来、[[#印可状|印可状]]・[[#字号|字号]]・[[#法語|法語]]など、法のために書くものであって、書として鑑賞するために書いたものではない。したがって、それを書いた人物と内容が重視され、一般に書の巧拙を問題としない。つまり[[書法]]にとらわれず、各人が自在に自己の人間性を表現するものであり、自ずとその[[書道用語一覧#書風|書風]]は千差万別であるが、概ね、[[北宋]]の[[蘇軾]]・[[黄庭堅]]風のもの、[[南宋]]の[[張即之]]風のもの、元の[[趙孟]]風のものに分けることができる<ref name="minegishi127"/><ref name="suzukisuiken142">鈴木翠軒 pp..142-143</ref><ref name="suzukihiro110">鈴木洋保 pp..110-113</ref><ref name="nakata132">中田勇次郎(書道藝術 中国書道史) pp..132-134</ref>。


; 墨跡の範囲
; 墨跡の範囲
: 墨跡の範囲は、中国の宋・元代の禅僧の書、日本の鎌倉時代から室町時代前期までの[[五山]]全盛時代の禅僧の書、江戸時代の大徳寺や[[妙心寺]]の禅僧の書をさす。さらに[[黄檗の三筆]]に代表される[[黄檗宗]]の書も入れているが、その中心は[[臨済宗]]のものである。また例外的に[[居士]]である張即之と[[#馮子振|馮子振]]の書も墨跡として扱われる場合が多い<ref name="komatsu26"/><ref name="suzukisuiken142"/>。
: 墨跡の範囲は、中国の宋・元代の禅僧の書、日本の鎌倉時代から室町時代前期までの[[五山]]全盛時代の禅僧の書、江戸時代の大徳寺や[[妙心寺]]の禅僧の書をさす。さらに[[黄檗の三筆]]に代表される[[黄檗宗]]の書も入れているが、その中心は[[臨済宗]]のものである。また例外的に[[居士]]である張即之と[[#馮子振|馮子振]]の書も墨跡として扱われる場合が多い<ref name="komatsu26"/><ref name="suzukisuiken142"/>。


: 墨跡は中国風の[[筆跡]]であるので広義には[[日本の書流#唐様|唐様]]の範囲であるが、一般に墨跡に対して唐様という表現はあまり用いない。唐様という語は実際にはもっと狭義に用いられ、江戸時代に[[儒教|儒学者]]や[[漢学|漢学者]]の間に流行をみた筆跡をさす。その書風は墨跡にさらに[[明]]の[[文徴明]]・[[董其昌]]や[[清]]の書加味したもので、墨跡と区別される<ref>梅棹忠夫 p.399</ref><ref>可成屋 p.6</ref><ref>伊藤峻嶺 p.129</ref><ref>二玄社(書道辞典) p.52</ref>。
: 墨跡は中国風の[[筆跡]]であるので広義には[[日本の書流#唐様|唐様]]の範囲であるが、一般に墨跡に対して唐様という表現はあまり用いない。唐様という語は実際にはもっと狭義に用いられ、江戸時代に[[儒教|儒学者]]や[[漢学|漢学者]]の間に流行をみた筆跡をさす。その書風は墨跡にさらに[[明]]の[[文徴明]]・[[董其昌]]や明末[[書道用語一覧#連綿草|連綿草]]の書{{efn|明末から初に活躍した[[張瑞図]]・[[黄道周]]・[[倪元璐]]・[[傅山]]らの[[書道用語一覧#連綿草|連綿草]]の書を指す<ref>石川九楊(日本書史) p.131</ref>。}}の影響を受けたもので、墨跡と区別される<ref>梅棹忠夫 p.399</ref><ref>可成屋 p.6</ref><ref>伊藤峻嶺 p.129</ref><ref>二玄社(書道辞典) p.52</ref><ref name="ishikawa128">石川九楊(日本書史) pp..128-132</ref>。


== 墨跡の伝来 ==
== 墨跡の伝来 ==
{{中国の歴史}}
{{中国の歴史}}


日本に禅宗が伝来して以後、宋・元の間、日本では鎌倉時代末期から[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]にかけて、禅僧の往来が頻繁になった。入宋僧は80人以上、宋から来日した僧は20人以上が知られ、元に至ってその交易はいっそう活発になり、入元僧は200人以上が知られ、元からの渡来僧は[[鎌倉幕府]]がその来日を制限しようとしたほど多くなったという。このように両国の交流は禅僧を介して密接になり、その影響は日本の[[政治]]・[[文学]]・[[建築]]・[[芸術]]にまで及び、書道の方面も中国の禅僧の墨跡が伝来して鎌倉時代の禅林の間に流行した。以下、その時代背景と墨跡の伝来について記す<ref name="minegishi127"/><ref name="kanda_soudai19"/><ref name="suzukihiro110"/><ref name="nakata132"/><ref name="suzukisuiken69">鈴木翠軒 pp..69-73</ref><ref>伊吹敦 pp..197-198</ref>。
日本に禅宗が伝来して以後、宋・元の間、日本では鎌倉時代末期から[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]にかけて、禅僧の往来が頻繁になった。入宋僧は80人以上、宋から来日した僧は20人以上が知られ、元に至ってその交易はいっそう活発になり、入元僧は200人以上、元からの渡来僧は[[鎌倉幕府]]がその来日を制限しようとしたほど多くなったという。このように両国の交流は禅僧を介して密接になり、その影響は日本の[[政治]]・[[文学]]・[[建築]]・[[芸術]]にまで及び、書道の方面も中国の禅僧の墨跡が伝来して鎌倉時代の禅林の間に流行した。以下、その時代背景と墨跡の伝来について記す<ref name="minegishi127"/><ref name="kanda_soudai19"/><ref name="suzukihiro110"/><ref name="nakata132"/><ref name="suzukisuiken69">鈴木翠軒 pp..69-73</ref><ref name="ibuki197">伊吹敦 pp..197-198</ref>。


=== 時代背景 ===
=== 時代背景 ===
==== 中国(宋・元時代) ====
==== 中国(宋・元時代) ====
「中国の[[近世]]は宋朝にはじまる」<ref>[[内藤湖南]]の[[学説]]。この学説はほぼ世界的に承認されている寺田隆信 p.163)。</ref>といわれるように、宋代以後、[[中国の歴史]]は新しい段階に入り、[[貴族]]に代わって[[士大夫]]が活躍した時代、政治的には武人政治が解体して[[皇帝]]独裁政治の時代であった。その武人と貴族の勢力を抑えるため、[[官吏]]の任用に[[科挙]]の制を用いて文治に力を注いだ結果、文学・芸術・[[宗教]]がすこぶる興隆発展することとなった<ref name="suzukisuiken69"/><ref>寺田隆信 pp..163-164</ref>。
「中国の[[近世]]は宋朝にはじまる」{{efn|[[内藤湖南]]の[[学説]]。この学説はほぼ世界的に承認されている<ref>寺田隆信 p.163</ref>。}}といわれるように、宋代以後、[[中国の歴史]]は新しい段階に入り、[[貴族]]に代わって[[士大夫]]が活躍した時代、政治的には武人政治が解体して[[皇帝]]独裁政治の時代であった。その武人と貴族の勢力を抑えるため、[[官吏]]の任用に[[科挙]]の制を用いて文治に力を注いだ結果、文学・芸術・[[宗教]]がすこぶる興隆発展することとなった<ref name="suzukisuiken69"/><ref>寺田隆信 pp..163-164</ref>。


; 書道
; 書道
{{main|中国の書道史#宋・遼・金|中国の書道史#元}}
{{main|中国の書道史#宋・遼・金|中国の書道史#元}}


書道においては、北宋のはじめ約半世紀ほどは中国の伝統的書法である[[書道用語一覧#晋唐の書|晋唐の書]]の模倣が続き、[[王羲之]]の書風が流行した。やがて[[唐人]]が書法や型に束縛されて生気を失ったことの反省から、宋人は自由に自己を表現しようと考え、[[蘇軾]]・[[黄庭堅]]・[[米フツ|米&#x82BE;]]の[[中国の書道史#宋の三大家|三大家]]によって大きく書風が革新された。その新書風は南宋に及んでも流行し、大多数の書人はそれに属するものであった。しかし南宋中期から次第に晋唐へと復古する傾向が見られ、南宋の書道には、[[二王]]を宗とするものと、宋の三大家に学ぶものとの二つの潮流があった。やがて、それが元の[[趙孟フ|趙孟&#x982B;]]の復古調の全盛時代という形で淘汰されていくが、晋唐の書へ復古するに至った理由は、宋人が自由と個性とを尊重して古法を軽んじ、粗放になったという反省からによるといわれている。以上が宋・元時代の書道の大勢である<ref name="nakata132"/><ref name="suzukisuiken69"/><ref>宇野雪村 p.31(前付)</ref><ref>比田井南谷 pp..230-231</ref>。
書道においては、北宋のはじめ約半世紀ほどは中国の伝統的書法である[[書道用語一覧#晋唐の書|晋唐の書]]の模倣が続き、[[王羲之]]の書風が流行した。やがて[[唐人]]が書法や型に束縛されて生気を失ったことの反省から、宋人は自由に自己を表現しようと考え、[[蘇軾]]・[[黄庭堅]]・[[米]]の[[中国の書道史#宋の三大家|三大家]]によって大きく書風が革新された。その新書風は南宋に及んでも流行し、大多数の書人はそれに属するものであった。しかし南宋中期から次第に晋唐へと復古する傾向が見られ、南宋の書道には、[[二王]]を宗とするものと、宋の三大家に学ぶものとの二つの潮流があった。やがて、それが元の[[趙孟]]の復古調の全盛時代という形で淘汰されていくが、晋唐の書へ復古するに至った理由は、宋人が自由と個性とを尊重して古法を軽んじ、粗放になったという反省からによるといわれている。以上が宋・元時代の書道の大勢である<ref name="nakata132"/><ref name="suzukisuiken69"/><ref>宇野雪村 p.31(前付)</ref><ref>比田井南谷 pp..230-231</ref>。


; 仏教
; 仏教
一方、宗教においては、宋・元の時期、禅仏教が盛況を呈した。宋朝は科挙によって官僚を登用する必要から[[儒教]]を重んじたが、同時に仏教や[[道教]]も保護し、この国家による保護政策によって仏教は隆盛に向かった。その中心は禅宗であり、宋代の禅宗は[[曹洞宗]]・[[法眼宗]]・[[雲門宗]]・[[&#x6F59;仰宗]]・[[臨済宗]]の五家と、その臨済宗が[[#楊岐派|楊岐派]]と[[#黄龍派|黄龍派]]に分かれることから[[禅#五家七宗|五家七宗]]と呼ばれる。宋の中期以後、楊岐派と黄龍派が次第に勢力を伸ばし、初めは黄龍派が盛んであったが、後には次第に楊岐派が優勢となった。そして南宋末の楊岐派の発展は目覚しく、殊に[[#圜悟克勤|圜悟克勤]]の門下から出た[[#大慧宗杲|大慧宗杲]]は多くの弟子を集めて一派をなした([[#大慧派|大慧派]])。その後、[[#密庵咸傑|密庵咸傑]]の活躍により、同じく圜悟の門下の[[#虎丘紹隆|虎丘紹隆]]の系統([[#虎丘派|虎丘派]])が盛んになり、その密庵門下では[[#松源崇|松源崇]]・[[#破庵祖先|破庵祖先]]の2人が特に有名で、それぞれ一派をなした([[#松源派|松源派]]・[[#破庵派|破庵派]])。南宋時代の禅文化に最も大きな影響を与えた[[#無準師範|無準師範]]は、その破庵派から出ている。
一方、宗教においては、宋・元の時期、禅仏教が盛況を呈した。宋朝は科挙によって官僚を登用する必要から[[儒教]]を重んじたが、同時に仏教や[[道教]]も保護し、この国家による保護政策によって仏教は隆盛に向かった。その中心は禅宗であり、宋代の禅宗は[[曹洞宗]]・[[法眼宗]]・[[雲門宗]]・[[仰宗]]・[[臨済宗]]の五家と、その臨済宗が[[#楊岐派|楊岐派]]と[[#黄龍派|黄龍派]]に分かれることから[[禅#五家七宗|五家七宗]]と呼ばれる。宋の中期以後、楊岐派と黄龍派が次第に勢力を伸ばし、初めは黄龍派が盛んであったが、後には次第に楊岐派が優勢となった。そして南宋末の楊岐派の発展は目覚しく、殊に[[#圜悟克勤|圜悟克勤]]の門下から出た[[#大慧宗杲|大慧宗杲]]は多くの弟子を集めて一派をなした([[#大慧派|大慧派]])。その後、[[#密庵咸傑|密庵咸傑]]の活躍により、同じく圜悟の門下の[[#虎丘紹隆|虎丘紹隆]]の系統([[#虎丘派|虎丘派]])が盛んになり、その密庵門下では[[#松源崇|松源崇]]・[[#破庵祖先|破庵祖先]]の2人が特に有名で、それぞれ一派をなした([[#松源派|松源派]]・[[#破庵派|破庵派]])。南宋時代の禅文化に最も大きな影響を与えた[[無準師範]]は、その破庵派から出ている。


元朝は、南宋以来の[[漢民族]]の生活と文化をほぼそのまま容認したため、元代も仏教の中心は禅宗で、活躍した禅僧の多くは臨済宗であった。その中で特に重要な人として、破庵派の[[中峰明本]]、松源派の[[#古林清茂|古林清茂]]や[[#了庵清欲|了庵清欲]]などをあげることができる。
元朝は、南宋以来の[[漢民族]]の生活と文化をほぼそのまま容認したため、元代も仏教の中心は禅宗で、活躍した禅僧の多くは臨済宗であった。その中で特に重要な人として、破庵派の[[#中峰明本|中峰明本]]、松源派の[[#古林清茂|古林清茂]]や[[#了庵清欲|了庵清欲]]などをあげることができる。


[[ファイル:Muin Genkai Poems.jpg|thumb|left|350px|『[[#与無隠元晦詩|与無隠元晦詩]]』([[#馮子振|馮子振]]筆、東京国立博物館蔵、国宝)]]
[[ファイル:Muin Genkai Poems.jpg|thumb|left|350px|『[[#与無隠元晦詩|与無隠元晦詩]]』([[#馮子振|馮子振]]筆、東京国立博物館蔵、国宝)]]


宋代に禅宗は他宗を圧倒するほどの勢いを見せたが、その要因に[[居士]]仏教の流行と出版業の隆盛がある。居士の[[参禅]]は、禅宗が一つの完成した姿を現出した[[唐|唐代]]に先例があったが、宋代以後、その比重は徐々に増していった。士大夫でも参禅した者が多く、北宋の[[王安石]]・蘇軾・[[蘇轍]]・黄庭堅、南宋末の[[張即之]]、元の[[#馮子振|馮子振]]などが知られる。科挙官僚の担い手となった士大夫に共通の教養は儒教であったが、当時の儒教は科挙に及第するための道具に過ぎず魅力がなかった。士大夫階級の[[哲学]]的欲求を満足させたのが禅宗であり、この新たな支持層を得たことにより、さらに名僧が輩出するという好循環を生んだ。また禅宗の権威の確立とともに、禅籍の刊行が行われるようになり、その出版による禅籍の流布は、禅宗が広く社会に浸透していった原動力の一つであったといえる。
宋代に禅宗は他宗を圧倒するほどの勢いを見せたが、その要因に[[居士]]仏教の流行と出版業の隆盛がある。居士の[[参禅]]は、禅宗が一つの完成した姿を現出した[[唐|唐代]]に先例があったが、宋代以後、その比重は徐々に増していった。北宋の[[王安石]]・蘇軾・[[蘇轍]]・黄庭堅、南宋末の[[張即之]]、元の[[#馮子振|馮子振]]などの士大夫の参禅が知られる。科挙官僚の担い手となった士大夫に共通の教養は儒教であったが、当時の儒教は科挙に及第するための道具に過ぎず魅力がなかった。士大夫階級の[[哲学]]的欲求を満足させたのが禅宗であり、この新たな支持層を得たことにより、さらに名僧が輩出するという好循環を生んだ。また禅宗の権威の確立とともに、禅籍の刊行が行われるようになり、その出版による禅籍の流布は、禅宗が広く社会に浸透していった原動力の一つであったといえる。


士大夫が参禅した例として、蘇軾が黄龍派の[[#東林常総|東林常総]]から[[印可]]を受け、黄庭堅も同派の[[#晦堂祖心|晦堂祖心]]の法を嗣いだ。張即之は禅に造詣が深く、大慧派の[[#無文道&#x74A8;|無文道&#x74A8;]]らと交際し馮子振も禅学に心を寄せ、元代禅林の巨頭・中峰明本や古林清茂らと親しく交わった。また趙孟&#x982B;も熱心な仏教信者で、中峰明本を師と仰いで親密な交流があり、松源派の[[#独孤淳朋|独孤淳朋]]や馮子振とも親交が深かった。
士大夫が参禅した例として、蘇軾が黄龍派の[[#東林常総|東林常総]]から[[印可]]を受け、黄庭堅も同派の[[#晦堂祖心|晦堂祖心]]の法を嗣いだ。張即之は禅に造詣が深く、大慧派の[[#無文道サン|無文道]]らと交際した。馮子振も禅学に心を寄せ、元代禅林の巨頭・中峰明本や古林清茂らと親しく交わった。また趙孟も熱心な仏教信者で、中峰明本を師と仰いで親密な交流があり、松源派の[[#独孤淳朋|独孤淳朋]]や馮子振とも親交が深かった。


; 墨跡
; 墨跡の変化
[[ファイル:Huang Tingjian Fu Bo Shen Ci.jpg|right|thumb|300px|『[[伏波神祠詩巻]]』([[黄庭堅]]筆、[[永青文庫]]蔵、[[重要文化財|重文]])]]
[[ファイル:Huang Tingjian Fu Bo Shen Ci.jpg|right|thumb|300px|『[[伏波神祠詩巻]]』([[黄庭堅]]筆、[[永青文庫]]蔵、[[重要文化財|重文]])]]


このような[[詩]]・[[書道|書]]・[[絵|画]]を能くした[[文化人]]の参禅は、芸術重視という禅の世俗化をもたらした。士大夫の才能が僧侶においても尊敬されるべき対象となったのである。その影響は墨跡にも見られ、北宋末以後、蘇軾・黄庭堅・張即之の書風が禅僧の間に流行した。特に黄庭堅の書の影響は大きく、[[#無学祖元|無学祖元]]など黄庭堅風のものが多くみられる。また[[竺仙梵僊]]は蘇軾の、[[#蘭渓道隆|蘭渓道隆]]は張即之の、了庵清欲は趙孟&#x982B;の影響を色濃く受けている<ref name="minegishi127"/><ref name="kanda_soudai19"/><ref name="suzukihiro110"/><ref name="nakata132"/><ref name="suzukisuiken69"/><ref name="suzukihiro102">鈴木洋保 p.102</ref><ref name="nishibayashi_godai125">西林昭一(五代・宋・金) pp..125-126</ref><ref>西林昭一(五代・宋・金) p.77</ref><ref>西林昭一(元・明) pp..44-45</ref><ref name="watanabe93">渡部清 p.93</ref><ref>堀江知彦 pp..565-566</ref><ref>伊吹敦 p.はしがきii、pp..84-88、pp..97-98、pp..105-106、pp..117-119、pp..133-134</ref><ref name="ibuki113">伊吹敦 pp..113-116</ref><ref name="ibuki127">伊吹敦 p.127</ref><ref name="ibuki136">伊吹敦 pp..136-137</ref>。
このような[[詩]]・[[書道|書]]・[[絵|画]]を能くした[[文化人]]の参禅は、芸術重視という禅の世俗化をもたらした。士大夫の才能が僧侶においても尊敬されるべき対象となったのである。その影響は墨跡にも見られ、北宋末以後、蘇軾・黄庭堅・張即之の書風が禅僧の間に流行した。特に黄庭堅の書の影響は大きく、[[#無学祖元|無学祖元]]など黄庭堅風のものが多くみられる。また[[竺仙梵僊]]は蘇軾の、[[#蘭渓道隆|蘭渓道隆]]は張即之の、了庵清欲は趙孟の影響を色濃く受けている<ref name="minegishi127"/><ref name="kanda_soudai19"/><ref name="suzukihiro110"/><ref name="nakata132"/><ref name="suzukisuiken69"/><ref name="suzukihiro102">鈴木洋保 p.102</ref><ref name="nishibayashi_godai125">西林昭一(五代・宋・金) pp..125-126</ref><ref>西林昭一(五代・宋・金) p.77</ref><ref>西林昭一(元・明) pp..44-45</ref><ref name="watanabe93">渡部清(楷書百科) p.93</ref><ref>堀江知彦 pp..565-566</ref><ref>伊吹敦 p.はしがきii、pp..84-88、pp..97-98、pp..105-106、pp..117-119、pp..133-134</ref><ref name="ibuki113">伊吹敦 pp..113-116</ref><ref name="ibuki127">伊吹敦 p.127</ref><ref name="ibuki136">伊吹敦 pp..136-137</ref>。


==== 日本(鎌倉時代) ====
==== 日本(鎌倉時代) ====
{{日本の歴史|Kanzan.jpg|画像説明=[[#関山字号|関山字号]]}}
{{日本の歴史|Mōko Shūrai Ekotoba 2.jpg|画像説明=蒙古襲来絵詞}}


[[平安時代]]から鎌倉時代に移行して、[[天皇]]を頂点とする古代的支配が崩壊し、[[将軍]]を頂点とする封建的支配が成立した。この一大変革により、社会・経済はもちろん、文化にも著しい変革があり、いわゆる公家文化から武家文化に変わった。その鎌倉時代はじめの文化の特徴は、現実的・写実的であり、実用性と個性を重視した<ref name="kandakamakura2_1">神田喜一郎(日本書道史7 鎌倉II) pp..1-11</ref><ref name="fujiwara288">藤原鶴来 pp..288-290</ref><ref name="nagoya_zusetsu100">名児耶明(図説 日本書道史) pp..100-101</ref>。
[[平安時代]]から鎌倉時代に移行して、[[天皇]]を頂点とする古代的支配が崩壊し、[[将軍]]を頂点とする封建的支配が成立した。この一大変革により、社会・経済はもちろん、文化にも著しい変革があり、いわゆる公家文化から武家文化に変わった。その鎌倉時代はじめの文化の特徴は、現実的・写実的であり、実用性と個性を重視した<ref name="kandakamakura2_1">神田喜一郎(日本書道史7 鎌倉II) pp..1-11</ref><ref name="fujiwara288">藤原鶴来 pp..288-290</ref><ref name="nagoya_zusetsu100">名児耶明(図説 日本書道史) pp..100-101</ref>。
66行目: 69行目:
{{main|日本の書道史#鎌倉時代}}
{{main|日本の書道史#鎌倉時代}}


その変革の影響は書の世界にも及び、その様子は平安時代末期からえる。そもそも日本の書道は中国の[[王羲之]]・[[王献之]]の書を宗として発達してきたものである。その[[二王]]の書は、中国において優麗典雅な貴族趣味に支持されてきたもので、それゆえ日本の平安朝の貴族に受け入れられた。したがって鎌倉時代になってその貴族が没落し日本の書道が大きく変革したのは必然の流れで、それまで[[和様]]を代表してきた優雅な[[世尊寺流]]とは趣を異にする力強い[[法性寺流]]という革新的な書が、平安時代末期から鎌倉時代初期に大流行した。その後は、その法性寺流の流れにある[[後京極流]]がその字形を引き継ぎ、一定の型に整理されながら鎌倉時代を通して多くの人に影響を与えた。このように鎌倉時代の書は大改革されるが、[[美]]を追求した平安時代とは異なり、実用に向く書流という特徴があった。さらに宋朝に新しく興った革新書道が伝来して、その変革に拍車がかかった<ref name="nagoya87"/><ref name="kandakamakura2_1"/><ref name="nagoya_zusetsu100"/>。
その変革の影響は書の世界にも及び、その様子は平安時代末期からうかがえる。そもそも日本の書道は中国の[[王羲之]]・[[王献之]]の書を宗として発達してきたものである。その[[二王]]の書は、中国において優麗典雅な貴族趣味に支持されてきたもので、それゆえ日本の平安朝の貴族に受け入れられた。したがって鎌倉時代になってその貴族が没落し日本の書道が大きく変革したのは必然の流れで、それまで[[和様]]を代表してきた優雅な[[世尊寺流]]とは趣を異にする力強い[[法性寺流]]という革新的な書が、平安時代末期から鎌倉時代初期に大流行した。その後は、その法性寺流の流れにある[[後京極流]]がその字形を引き継ぎ、一定の型に整理されながら鎌倉時代を通して多くの人に影響を与えた。このように鎌倉時代の書は大改革されるが、[[美]]を追求した平安時代とは異なり、実用に向く書流という特徴があった。さらに宋朝に新しく興った革新書道が伝来して、その変革に拍車がかかった<ref name="nagoya87"/><ref name="kandakamakura2_1"/><ref name="nagoya_zusetsu100"/>。


二王の典型に反発した個性的な宋朝の新書風の特徴を最もよく具えていたのは[[黄庭堅]]と[[張即之]]の書で、その黄庭堅の書風を日本に初めて伝えたのは[[栄西]]であった。栄西は[[仁安 (日本)|仁安]]3年(1168年)と[[文治]]3年(1187年)に入宋し、[[建久]]2年(1191年)に帰朝したが、2回目の入宋時、南宋は栄えて勢力の盛んなときで、黄庭堅の書風が流行していた。栄西はその影響を受け、その筆法には黄庭堅を偲ばせるものがある。栄西に次いで新書風を伝えたのは[[俊じょう|俊&#x82BF;]]であり、[[正治]]元年(1199年)に入宋し、[[建暦]]元年(1211年)に帰朝した。俊&#x82BF;も黄庭堅をよく学び、帰朝に際し多数の書法の資料を持ち帰り、日本の書法に及ぼした影響は甚大であった。
二王の典型に反発した個性的な宋朝の新書風の特徴を最もよく具えていたのは[[黄庭堅]]と[[張即之]]の書で、その黄庭堅の書風を日本に初めて伝えたのは[[明菴栄西|栄西]]であった。栄西は[[仁安 (日本)|仁安]]3年(1168年)と[[文治]]3年(1187年)に入宋し、[[建久]]2年(1191年)に帰朝したが、2回目の入宋時、南宋は栄えて勢力の盛んなときで、黄庭堅の書風が流行していた。栄西はその影響を受け、その筆法には黄庭堅を偲ばせるものがある。栄西に次いで新書風を伝えたのは[[俊]]であり、[[正治]]元年(1199年)に入宋し、[[建暦]]元年(1211年)に帰朝した。俊も黄庭堅をよく学び、帰朝に際し多数の書法の資料を持ち帰り、日本の書法に及ぼした影響は甚大であった。


; 仏教
; 仏教
{{main|鎌倉仏教}}
{{main|鎌倉仏教}}


新しい時代の到来は思想界をも活性化させ、[[法然]]・栄西・[[親鸞]]・[[道元]]・[[日蓮]]らが新仏教を打ち立て、旧仏教の側からも、[[貞慶]]([[法相宗]])・[[明恵]]([[華厳宗]])・[[叡尊]]([[律宗]])らが現れて活躍した。そして栄西や道元によって中国で隆盛を極めていた禅宗が新たにもたらされたのである。栄西は2回目の入宋の際に[[臨済宗]][[#黄龍派|黄龍派]]の[[#虚庵懐敞|虚庵懐敞]]の法を得て、帰朝後、[[寿福寺]]や[[建仁寺]]を創建して臨済宗の法灯を伝え、その後、特に[[#楊岐派|楊岐派]]が日本で栄えた。また栄西は、のちに禅と結びつく[[茶]]をもたらしたため、茶祖としても尊ばれている。
新しい時代の到来は思想界をも活性化させ、[[法然]]・栄西・[[親鸞]]・[[道元]]・[[日蓮]]らが新仏教を打ち立て、旧仏教の側からも、[[貞慶]]([[法相宗]])・[[明恵]]([[華厳宗]])・[[叡尊]]([[律宗]])らが現れて活躍した。そして栄西や道元によって中国で隆盛を極めていた禅宗が新たにもたらされたのである。栄西は2回目の入宋の際に[[臨済宗]][[#黄龍派|黄龍派]]の[[#虚庵懐敞|虚庵懐敞]]の法を得て、帰朝後、[[寿福寺]]や[[建仁寺]]を創建して臨済宗の法灯を伝え、その後、特に[[#楊岐派|楊岐派]]が日本で栄えた。また栄西は、のちに禅と結びつく[[茶]]をもたらしたため、茶祖としても尊ばれている。


平安時代まで日本に禅は十分には根づかなかったが、鎌倉時代になって武士階級を中心にその受容が始まり、次第に定着していった。禅宗は中国における士大夫階級の場合と同様に、日本でも新興の実力者たちの心を捉えたのである。その要因として、[[戦闘]]という[[職業|生業]]を正当化するための新しい宗教を武士たちが求めていたこと、また[[朝廷]]の貴族たちの文化的伝統に対抗するため、禅宗を新しい文化と捉えて積極的に受け入れたことなどが考えられる。つまり禅を宗教として受容したことも事実であるが、当時の人々にとって禅は中国の先進文化、つまり[[士大夫]]の教養であった[[詩]][[書画]]などの代表であったことから、宗教の素養をもたない人々にも魅力的なものに映り、禅の普及に大きな役割を果たしたのである。さらに元朝という異民族国家に対する中国の有力な禅僧たちの反発が彼らの日本への渡来を後押ししいうこともその要因の一つとしてあげられる<ref name="kandakamakura2_1"/><ref name="fujiwara288"/><ref>伊吹敦 pp..188-189</ref><ref>伊吹敦 pp..205-207</ref>。
平安時代まで日本に禅は十分には根づかなかったが、鎌倉時代になって武士階級を中心にその受容が始まり、次第に定着していった。禅宗は中国における士大夫階級の場合と同様に、日本でも新興の実力者たちの心を捉えたのである。その要因として、[[戦闘]]という[[職業|生業]]を正当化するための新しい宗教を武士たちが求めていたこと、また[[朝廷 (日本)|朝廷]]の貴族たちの文化的伝統に対抗するため、禅宗を新しい文化と捉えて積極的に受け入れたことなどが考えられる。つまり禅を宗教として受容したことも事実であるが、当時の人々にとって禅は中国の先進文化、[[士大夫]]の教養であった[[詩]][[書画]]などの代表であったことから、宗教の素養をもたない人々にも魅力的なものに映り、禅の普及に大きな役割を果たしたのである。さらに元朝という異民族国家に対する中国の有力な禅僧たちの反発が彼らの日本への渡来を後押しし、日本での弘通の原動力なったこともその要因の一つとしてあげられる<ref name="kandakamakura2_1"/><ref name="fujiwara288"/><ref>伊吹敦 pp..188-189</ref><ref>伊吹敦 pp..205-207</ref>。


=== 墨跡の伝来 ===
=== 墨跡の伝来 ===
[[ファイル:Zenin gakuji.jpg|thumb|right|300px|『禅院額字方丈二大字』([[伝称筆者|伝]][[張即之]]筆、[[東福寺]]蔵、国宝)]]
[[ファイル:Zenin gakuji.jpg|thumb|right|300px|『[[#禅院額字方丈二大字|禅院額字方丈二大字]]』([[伝称筆者|伝]][[張即之]]筆、[[東福寺]]蔵、国宝)]]


中国禅僧の墨跡は、日本人留学僧が中国から持ち帰ったものと元や清の異民族国家を逃れた亡命僧たちが来朝後に書いたものとに大別される。
[[東福寺]]の[[開山 (仏教)|開山]]・[[円爾]]は、[[嘉禎]]元年(1235年)から6年間、南宋に留学した。この頃、南宋では張即之が書法の大家として名声をほしいままにしていた時代である。円爾は書法に深い関心を持っており、張即之の法に私淑し、帰朝に際して張即之の書を持ち帰っている。現在、東福寺には、「首座」・「書記」・「方丈」などと書かれた大きな[[#額字|額字]]が蔵されているが、張即之の筆と伝えられるもので、みな円爾が持ち帰ったものといわれている。なお、円爾は[[#無準師範|無準師範]]の法を嗣いだが、無準が帰国した円爾に送った墨跡が張即之のものであるともいわれている。


; 留学僧が将来した墨跡
日本だけでなく[[朝鮮]]からも中国の著名な禅僧のもとに多く集まり、その参徒数は中国人を凌ぐほどであったという。円爾の他、この時期の主な日本人留学僧には、[[#虚堂智愚|虚堂智愚]]に嗣法した[[南浦紹明]]、[[#断橋妙倫|断橋妙倫]]に参じた[[無関普門]]、[[#希叟紹曇|希叟紹曇]]に参じた[[#白雲慧暁|白雲慧暁]]などがいる。このように入宋・入元した禅僧は、その参禅した師匠から書き与えられた[[#印可状|印可状]]・[[#字号|字号]]・[[#法語|法語]]・[[#偈頌|偈頌]]などを持ち帰えり、それが大切に保存されて墨跡として珍重されている。
[[無準師範]]の[[法嗣]]、[[東福寺]]の[[開山 (仏教)|開山]]・[[円爾]]は、[[嘉禎]]元年(1235年)から6年間、南宋に留学した。この頃、南宋では張即之が書法の大家として名声をほしいままにしていた時代である。円爾は書法に深い関心を持っており、張即之の法に私淑し、帰朝に際して張即之の書を持ち帰っている。現在、東福寺には、「首座」・「書記」・「方丈」・「前後」・「栴檀林」・「東西蔵」などと書かれた大きな[[#額字|額字]]が蔵されているが、張即之の筆と伝えられるもので、みな円爾が持ち帰ったものといわれている{{efn|無準師範が帰国した円爾に送った墨跡が張即之のものであるともいわれている<ref>伊吹敦 p.127</ref>。}}。


中国の著名な禅僧のもとには、日本だけでなく[[朝鮮]]からも多く集まり、その参徒数は中国人を凌ぐほどであったという。円爾の他、この時期の主な日本人留学僧には、[[#虚堂智愚|虚堂智愚]]に嗣法した[[南浦紹明]]、[[#断橋妙倫|断橋妙倫]]に参じた[[無関普門]]、[[#希叟紹曇|希叟紹曇]]に参じた[[#白雲慧暁|白雲慧暁]]などがいる。
禅宗は[[鎌倉幕府]]に迎えられ、武家の[[帰依]]をえて[[鎌倉五山]]が定められた。そのため僧侶の地位は高く、墨跡はますます盛行した。鎌倉時代中頃になると幕府は禅宗を重視し、日本の禅僧の誘いや幕府の招聘を受けて、優れた中国の禅僧が来朝するようになった。その来朝僧の第一は[[建長寺]]の[[開山 (仏教)|開山]]・[[#蘭渓道隆|蘭渓道隆]]であり、その書風は張即之と見違えるほどである。この円爾と蘭渓道隆によって張即之の書は日本の新書風の典型となり、禅家に尊ばれて墨跡と同様に鑑賞されている。


元代になるとその墨跡は[[趙孟頫]]の影響を受けて書法的にすぐれたものが多く、これら趙孟頫の書法を伝えたのは、[[雪村友梅]]や[[寂室元光]]などの留学僧である。さらに[[無隠元晦]]などの留学僧によって[[#馮子振|馮子振]]の清新な書風の書がもたらされ、やはり禅林の書と同様に墨跡とよばれて[[茶人]]の間で愛玩された。
[[ファイル:Dahui Zonggao letter.jpg|thumb|left|280px|『[[#与無相居士尺牘|与無相居士尺牘]]』([[#大慧宗杲|大慧宗杲]]筆、東京国立博物館蔵、国宝)]]


このように入宋・入元した禅僧は、その参禅した師匠から書き与えられた[[#印可状|印可状]]・[[#字号|字号]]・[[#法語|法語]]・[[#偈頌|偈頌]]などを持ち帰えり、それが大切に保存されて墨跡として珍重されている。それらの墨跡の中で特に注目されたものは、まず第一に今日、日本に伝わる最古の[[#圜悟克勤|圜悟克勤]]のもの、その[[法嗣]]の[[#大慧宗杲|大慧宗杲]]のもの、[[#密庵咸傑|密庵咸傑]]・[[無準師範]]・[[#虚堂智愚|虚堂智愚]]など[[#虎丘派|虎丘派]]のもので、圜悟克勤の系統の[[#楊岐派|楊岐派]]のものにほぼ限られている。これらの禅僧も張即之と交流を結び、その影響を受けた者が多い。元代の墨跡では[[#松源派|松源派]]の[[#古林清茂|古林清茂]]・[[#月江正印|月江正印]]・[[#了庵清欲|了庵清欲]]、[[#大慧派|大慧派]]の[[#楚石梵琦|楚石梵琦]]などのものが注目され、趙孟頫の影響を受けている。
その他、来朝した中国の名僧には、宋代では[[兀庵普寧]]・[[大休正念]]、元代では[[#無学祖元|無学祖元]]・[[一山一寧]]・[[#西&#x7900;子曇|西&#x7900;子曇]]・[[#霊山道隠|霊山道隠]]・[[#清拙正澄|清拙正澄]]・[[明極楚俊]]・[[竺仙梵僊]]などがいる。これには日本側の懇請とともに、南宋末の政争や異民族国家である元朝への屈従に対する不満があったといわれている。そして彼らは来朝後に多くの墨跡を遺した。このように中国の禅僧の墨跡は、日本の禅僧が持ち帰ったものと来朝してから書いたものとがある。


; 来朝僧の墨跡
その中で特に注目された墨跡は、まず第一に今日、日本に伝わる最古の[[#圜悟克勤|圜悟克勤]]のもの、その[[法嗣]]の[[#大慧宗杲|大慧宗杲]]のもの、[[#密庵咸傑|密庵咸傑]]・[[#無準師範|無準師範]]・[[#虚堂智愚|虚堂智愚]]など[[#虎丘派|虎丘派]]のもので、圜悟克勤の系統の[[#楊岐派|楊岐派]]のものにほぼ限られている。これらの禅僧も張即之と交流を結び、その影響を受けた者が多い。
[[ファイル:Hogo.jpg|thumb|right|250px|『[[#法語・規則|法語]]』([[#蘭渓道隆|蘭渓道隆]]筆、[[建長寺]]蔵、国宝)]]


禅宗は[[鎌倉幕府]]に迎えられ、武家の[[帰依]]をえて[[鎌倉五山]]が定められた。そのため僧侶の地位は高く、墨跡はますます盛行した。鎌倉時代中頃になると幕府は禅宗を重視し、日本の禅僧の誘いや幕府の招聘を受けて、優れた中国の禅僧が来朝するようになった。その来朝僧の第一は[[建長寺]]の[[開山 (仏教)|開山]]・[[#蘭渓道隆|蘭渓道隆]]であり、その書風は張即之と見違えるほどである。この円爾と蘭渓道隆によって張即之の書は日本の新書風の典型となり、禅家に尊ばれて墨跡と同様に鑑賞されている。
元代の墨跡は[[趙孟フ|趙孟&#x982B;]]の影響を受けて書法的にすぐれたものが多く、[[#松源派|松源派]]の[[#古林清茂|古林清茂]]・[[#月江正印|月江正印]]・[[#了庵清欲|了庵清欲]]、[[#大慧派|大慧派]]の[[#楚石梵琦|楚石梵琦]]などのものが注目された。これら趙孟&#x982B;の書法を伝えたのは、[[雪村友梅]]や[[寂室元光]]などの留学僧である。さらに[[#無隠元晦|無隠元晦]]などの留学僧によって[[#馮子振|馮子振]]の清新な書風の書がもたらされ、やはり禅林の書と同様に墨跡とよばれて[[茶人]]の間で愛玩された。


その他、来朝した中国の名僧には、宋代では[[兀庵普寧]]・[[大休正念]]、元代では[[#無学祖元|無学祖元]]・[[一山一寧]]・[[#西カン子曇|西礀子曇]]・[[#霊山道隠|霊山道隠]]・[[#清拙正澄|清拙正澄]]・[[明極楚俊]]・[[竺仙梵僊]]などがいる。これには日本側の懇請とともに、南宋末の政争や異民族国家である元朝への屈従に対する不満があったといわれている。そして彼らは来朝後に多くの墨跡を遺した。
[[明]]末には、[[萬福寺]]を創建して[[黄檗宗|日本黄檗宗]]の開祖となった[[隠元隆き|隠元隆琦]]などの禅僧の来朝が続いたが、その背景には[[満州民族]]の侵攻による明の動乱という事態があった。隠元をはじめとする明の一流文化人の亡命は、禅のみでなく明代の文人趣味、いわゆる黄檗文化を持ち込み、日本文化に大きな影響を与えた。よって黄檗僧は宗教家というよりも文化人として受け入れられた面が強く、その黄檗文化を代表するものとして、絵画・書・[[篆刻]]・文学などをあげることができる。そして黄檗僧の中でも特に能書の3人、隠元・[[木庵性トウ|木庵性&#x746B;]]・[[即非如一]]([[黄檗の三筆]])の筆跡が墨跡として尊重された。その書の特徴は、濃墨を用いた太い字画、明末の[[狂草|狂草体]]の構成、一行書などで、やがて[[儒教|儒学者]]や[[漢学|漢学者]]の間に流行して一世を風靡した'''[[日本の書流#唐様|唐様]]'''のモデルとなったのである<ref name="minegishi127"/><ref name="nagoya87"/><ref name="kanda_soudai19"/><ref name="suzukihiro110"/><ref name="nakata132"/><ref name="suzukihiro102"/><ref name="nishibayashi_godai125"/><ref name="ibuki113"/><ref name="ibuki127"/><ref name="kandakamakura2_1"/><ref name="nagoya_zusetsu100"/><ref name="suzukisuiken133">鈴木翠軒 pp..133-134</ref><ref name="nakanishi45">中西慶爾 p.45</ref><ref name="ibuki233">伊吹敦 pp..233-234</ref><ref>伊吹敦 pp..261-266</ref><ref>石川九楊(日本書史) p.132</ref>。

また[[明]]末には、[[萬福寺]]を創建して[[黄檗宗|日本黄檗宗]]の開祖となった[[隠元隆琦]]などの禅僧の来朝が続いたが、南宋末の時と同様にその背景には[[満州民族]]の侵攻による明の滅亡という事態があった。隠元隆琦をはじめとする明の一流文化人の亡命は、禅のみでなく明代の文人趣味、いわゆる黄檗文化を持ち込み、日本文化に大きな影響を与えた。よって黄檗僧は宗教家というよりも文化人として受け入れられた面が強く、その黄檗文化を代表するものとして、絵画・書・[[篆刻]]・文学などをあげることができる。そして黄檗僧の中でも特に能書の3人、隠元隆琦・[[木庵性瑫]]・[[即非如一]]([[黄檗の三筆]])の筆跡が墨跡として尊重された。その書の特徴は、濃墨を用いた太い字画、明末の[[狂草|狂草体]]の構成、一行書などである。また[[承応]]2年(1653年)に来朝し、隠元について僧侶となった[[独立性易]]の墨跡は、黄檗僧のうち最も本格的な書で、祖国にあったときから書名が高く、『[[中国の書論#佩文斎書画譜|佩文斎書画譜]]』にもその伝がある。その筆法の正しい独立性易の書は、やがて[[儒教|儒学者]]や[[漢学|漢学者]]の間に流行して一世を風靡した'''[[日本の書流#唐様|唐様]]'''の先駆けとなった。

なお、この唐様ブームは江戸時代中期からであるが、このブームの下地は明の文化人の来朝の時、つまり江戸時代初頭にすでにあった。それは[[江戸幕府]]草創期に打ち出された儒学奨励策が中国文化尊重の気運を高め、日本への新書風の受け入れ体制を整えていたのである<ref name="minegishi127"/><ref name="nagoya87"/><ref name="kanda_soudai19"/><ref name="suzukihiro110"/><ref name="nakata132"/><ref name="ishikawa128"/><ref name="suzukihiro102"/><ref name="nishibayashi_godai125"/><ref name="ibuki113"/><ref name="ibuki127"/><ref name="kandakamakura2_1"/><ref name="nagoya_zusetsu100"/><ref name="suzukisuiken133">鈴木翠軒 pp..133-134</ref><ref name="nakanishi45">中西慶爾 p.45</ref><ref name="ibuki233">伊吹敦 pp..233-234</ref><ref>伊吹敦 pp..261-266</ref><ref>鈴木晴彦(別冊太陽) p.136</ref><ref name="tagami19">田上恵一 p.19</ref><ref>外山軍治 p.31</ref>。


== 日本の墨跡 ==
== 日本の墨跡 ==
[[ファイル:Keiringe Nangakuge.jpg|thumb|right|200px|『[[#渓林偈・南嶽偈|渓林偈・南嶽偈]]』([[#宗峰妙超|宗峰妙超]]筆、[[正木美術館]]蔵、国宝)]]
[[ファイル:Keiringe Nangakuge.jpg|thumb|right|200px|『[[#渓林偈・南嶽偈|渓林偈・南嶽偈]]』([[#宗峰妙超|宗峰妙超]]筆、[[正木美術館]]蔵、国宝)]]


鎌倉時代末から室町時代にかけて、日本の禅僧からも能書家が現れ、[[大徳寺]]開山・[[#宗峰妙超|宗峰妙超]]、[[夢窓疎石]]、[[虎関師錬]]などの墨跡人気を得た。いずれも黄庭堅張即之ら中国の影響を受けがらも独自の特色ある風を展開し特に宗峰書は日本第一の墨跡として尊重されている
鎌倉時代末から室町時代にかけて、日本の禅僧からも能書家が現れ、それまで宋元の書の影響下にある墨跡の書風('''[[禅宗様#書道における禅|]]''')少しつ和様化さた。がて宋元の書の影響を感じさせ書、すなわち[[#近世墨跡|近世の墨跡]]が生まれ、日本の禅林や[[茶の湯]]の文化の中で発展を遂げ、独特の概念伝統が形成され


=== 墨跡の和様化 ===
禅宗は鎌倉幕府以後も公家や武家の帰依を得て[[京都五山]]が定められた。五山の文化活動は様々な領域に及んだが、その中心は文学であった。そのため五山の禅僧の中には詩人が多く、蘇軾や黄庭堅の詩書が珍重され、当時の禅僧の生活に、「[[蘇軾|東坡]]、[[黄庭堅|山谷]]、味噌、醤油」は不可欠なものといわれるほどであった。書に関しては、そのような背景から禅林に宋風の書が流行したが、五山文化がもたらしたものとして[[条幅]]や[[掛軸]]という書の形式があり、従来の横に長く開く[[巻物]]から縦に吊り下げる形式へと変化した。渡来僧・[[一山一寧]]の『雪夜作』(せつやさく)という条幅が、当時の日本では先進国・元の最先端の表現と受けとめられたのである。そして宗峰妙超の『[[#渓林偈・南嶽偈|渓林偈・南嶽偈]]』、虎関師錬の『花屋号』(かおくごう)などの墨跡も条幅になっている。やがてこの形式は[[安土桃山時代]]から江戸時代になると茶道の茶席の禅語一行書の掛軸という近世日本独特の墨跡を生むことになった。
中国からの墨跡は、たちまち日本の禅僧の間にも広まり、[[高峰顕日]]や[[南浦紹明]]などを経て[[大徳寺]]の開山・[[#宗峰妙超|宗峰妙超]]、[[夢窓疎石]]、[[虎関師錬]]らに至って開花し人気を博した。いずれも黄庭堅や張即之らの中国書法の影響を受けながらも独自の特色ある書風を展開し、特に宗峰の書は日本第一の墨跡として尊重されている。その宗峰の書は宋代の書法ではあるが、代表作『[[#看読真詮榜|看読真詮榜]]』にはすでに和様が加味されている。やがて明の成立とともに日中間の往来が制限されたため和様化が進み、禅宗様と和様との折衷的な書風('''[[五山様]]''')が[[義堂周信]]・[[絶海中津]]・[[#仲芳中正|仲芳中正]]などを中心に行われた。


=== 巻物から掛軸へ ===
明の成立とともに日中間の往来が制限されたため、それまでの墨跡の書風('''[[禅宗様#書道における禅宗様|禅宗様]]''')に和様が加わり、その折衷的な書風('''[[五山様]]''')が[[義堂周信]]・[[絶海中津]]・[[#仲芳中正|仲芳中正]]などを中心に行われた。大徳寺の第48世・[[一休宗純]]の書も墨跡として人気を得たが、一見しただけでは中国書法とのつながりがほとんど感じられない書である。しかしその書には、黄庭堅や張即之の書風に[[#虚堂智愚|虚堂智愚]]の雑体書風が加味され、さらに宗峰の運筆が見られる。つまり和様と中国風が合体した無法の書で、近世墨跡の先駆けとなった。
禅宗は鎌倉幕府以後も公家や武家の帰依を得て[[京都五山]]が定められた。五山の文化活動は様々な領域に及んだが、その中心は文学であった([[五山文学]])。そのため五山の禅僧の中には詩人が多く、蘇軾や黄庭堅の詩書が珍重され、当時の禅僧の生活に、「[[蘇軾|東坡]]、[[黄庭堅|山谷]]、味噌、醤油」は不可欠なものといわれるほどであった。書に関しては、そのような背景から禅林に宋風の書が流行したが、五山文化がもたらしたものとして[[条幅]]や[[掛軸]]という書の形式があり、従来の横に長く開く[[巻物]]から縦に吊り下げる形式へと変化した。渡来僧・[[一山一寧]]の『[[#雪夜作|雪夜作]]』という条幅が、当時の日本では先進国・元の最先端の表現と受けとめられたのである。そして宗峰妙超の『[[#渓林偈・南嶽偈|渓林偈・南嶽偈]]』、虎関師錬の『[[#花屋号|花屋号]]』、[[雪村友梅]]の『[[#梅花詩|梅花詩]]』などの墨跡もその影響を受けて条幅の形式になっている。やがてこの形式は[[安土桃山時代]]から江戸時代になると茶道の茶席の禅語一行書の掛軸(茶掛け)という近世日本独特の墨跡を生むこととなった。


; 茶道との結びつき
=== 茶道との結びつき ===
[[ファイル:Hogo Xutang Zhiyu.jpg|thumb|left|260px|『[[#虚堂智愚法語|法語]]』([[#虚堂智愚|虚堂智愚]]筆、東京国立博物館蔵、国宝)]]
: 禅と[[茶道]]、そして墨跡と茶道の結びつきに大きな役割を果たしたのが[[一休宗純]]である。一休は[[#華叟宗曇|華叟宗曇]]に学び、大徳寺に住持し、[[能楽師]]の[[金春禅竹]]・[[金春禅鳳]]、茶人の[[村田珠光]]などの文化人と親交を結んで日本文化に禅思想の影響を与えた。


禅と[[茶道]]、そして墨跡と茶道の結びつきに大きな役割を果たしたのが[[#一休宗純|一休宗純]]である。一休は大徳寺に住持し、[[能楽師]]の[[金春禅竹]]・[[金春禅鳳]]、茶人の[[村田珠光]]などの文化人と親交を結び、日本文化に禅思想の影響を与えた。
: 大徳寺は[[五山十刹]]の[[官寺]]に属さず独自の展開をとげたが、[[応仁の乱]]で大きな被害をこうむった。一休はこの時に住持し、その復興を成し遂げた。また一休は禅林の世俗化を激しく批判するとともに、[[堺]]の街を木刀を提げて歩くなどの奇行によって、京都や堺の居住者の人気を得た。そして茶道は室町時代後期に、大徳寺の僧と堺の商人との交流の中に確立し、一休に参じた村田珠光がその先駆をなした。以来、茶道は禅に精神的な拠り所を求め、茶人にとって参禅は不可欠なものとなった。


茶道は室町時代後期に、大徳寺の僧と[[堺]]の商人との交流の中に確立し、一休に参じた村田珠光がその先駆をなした。以来、茶道は禅に精神的な拠り所を求め、茶人にとって参禅は不可欠なものとなった。
: 墨跡と茶道の結びつきは、一休が村田珠光に[[#圜悟克勤|圜悟克勤]]の墨跡を与えたことに起因する。やがて茶席の掛物として墨跡が尊ばれるという伝統が生まれ、特に大徳寺の僧の墨跡が珍重され、以後、大徳寺と茶道の関係は続いた。そして茶室の装飾品としての墨跡や[[古筆]]を[[豊臣秀吉]]が好んだことから民間にも広まり、その後、茶道の発達にともないその表装も贅をつくすようになり、永く国民に珍重された<ref name="nagoya87"/><ref name="suzukisuiken142"/><ref name="suzukihiro110"/><ref name="nakata132"/><ref name="nagoya_zusetsu100"/><ref name="ibuki233"/><ref>鈴木翠軒 pp..138-139</ref><ref>伊吹敦 pp..225-226</ref><ref>伊吹敦 p.229</ref><ref>伊吹敦 p.239</ref><ref>石川九楊(日本書史) pp..102-105</ref>。

墨跡と茶道の結びつきは、村田珠光が一休から与えられた[[#圜悟克勤|圜悟克勤]]の墨跡『[[#与虎丘紹隆印可状|与虎丘紹隆印可状]]』(流れ圜悟)を床に掛けたことに起因すると伝えられている。しかし記録上確認できるのは[[#北カン居簡|北礀居簡]]の墨跡が最も早い。そして室町時代末期から茶掛けとして墨跡が尊ばれるという伝統が生まれたが、当初は中国の墨跡が主流であった。その中で最も茶会で使用された墨跡は虚堂智愚の『[[#虚堂智愚法語|法語]]』(破れ虚堂)であった。その後、茶の湯の普及にともなって日本の墨跡、特に宗峰妙超や一休をはじめとする大徳寺の僧のものが珍重され、以後、大徳寺と茶道の関係は続いた。やがて茶室の装飾品としての墨跡や[[古筆]]を[[豊臣秀吉]]が好んだことから民間にも広まり、その後、茶道の発達にともないその表装も贅をつくすようになり、永く国民に珍重された。

=== 近世の墨跡 ===
江戸時代初期、大徳寺には第154世・[[沢庵宗彭]]、第157世・[[江月宗玩]]、第171世・[[#清巌宗渭|清巌宗渭]]の3人の能書、いわゆる'''大徳寺の三筆'''が現れた。彼らの間では、仏名や詩句などを太い線からなる縦一行に大書した一行書が流行し、茶掛けとして珍重された。日本の禅林に生まれたそのような中国風を脱した書が近世の墨跡であり、この形式は現在にも受け継がれて墨跡の主流となっている。

一方、近世になると[[江戸幕府]]の[[政教分離原則|政教分離]]政策によって、五山は政治的な力を失い、禅僧と社会との距離感は失調した。そのことが書にも反映し、字画が極限まで肥え、塗り込めた墨にわずかばかりの白い隙間があるという印象の無法の書が生まれた。[[白隠慧鶴]]の書がその代表で、社会との距離感を失ったその書は、[[戦後]]の[[前衛書道|前衛書]]の起点となった<ref name="nagoya87"/><ref name="suzukisuiken142"/><ref name="suzukihiro110"/><ref name="nakata132"/><ref name="ishikawa128"/><ref name="nagoya_zusetsu100"/><ref name="ibuki233"/><ref>鈴木翠軒 pp..138-139</ref><ref name="ibuki225">伊吹敦 pp..225-226</ref><ref>伊吹敦 p.229</ref><ref>伊吹敦 p.239</ref><ref name="ishikawa_syoshi101">石川九楊(日本書史) pp..101-105</ref><ref name="minegishi92">峯岸佳葉(別冊太陽) pp..92-101</ref><ref>峯岸佳葉(別冊太陽) p.127</ref><ref>橋本貴朗(別冊太陽) p.120</ref><ref name="nagoya_taiyou174">名児耶明(別冊太陽) p.174</ref><ref name="#1">可成屋 p.74</ref>。


== 墨跡の評価 ==
== 墨跡の評価 ==
118行目: 136行目:
墨跡の多くは中国伝統の[[書法]]から離れた破格の書である。伝統を重んじる中国ではそれに反するものは異端として拒否する傾向が強いため、今日、中国に墨跡はほとんど遺っていない。
墨跡の多くは中国伝統の[[書法]]から離れた破格の書である。伝統を重んじる中国ではそれに反するものは異端として拒否する傾向が強いため、今日、中国に墨跡はほとんど遺っていない。


その伝統を重んじる中国において破格の書である墨跡が生まれたのは、禅宗の教えからくる。禅宗では一切の権威と伝統を認めないため、書法においてもこれまで絶対的な権威と仰がれてきた[[王羲之]]の典型を否定し、ただ自己の個性を天真爛漫に発揮するだけであった。このような禅の精神による芸術を中国の古い文化の伝統は喜ばないのである。ただし、元代は[[趙孟フ|趙孟&#x982B;]]の書が一世を風靡し、趙孟&#x982B;を学ぶ禅僧が多かったため、技法の上でも相当すぐれていた。よって元代では宋代の墨跡に見られるような精神的なものばかりではなくなり、書の名家として知られる禅僧も少なくなかった<ref name="kanda_soudai19"/><ref name="suzukihiro110"/><ref name="nakata132"/>。
その伝統を重んじる中国において破格の書である墨跡が生まれたのは、禅宗の教えからくる。禅宗では一切の権威と伝統を認めないため、書法においてもこれまで絶対的な権威と仰がれてきた[[王羲之]]の典型を否定し、ただ自己の個性を天真爛漫に発揮するだけであった。このような禅の精神による芸術を中国の古い文化の伝統は喜ばないのである。ただし、元代は[[趙孟]]の書が一世を風靡し、趙孟を学ぶ禅僧が多かったため、技法の上でも相当すぐれていた。よって元代では宋代の墨跡に見られるような精神的なものばかりではなくなり、書の名家として知られる禅僧も少なくなかった<ref name="kanda_soudai19"/><ref name="suzukihiro110"/><ref name="nakata132"/>。


; 日本
; 日本
126行目: 144行目:


== 墨跡の内容 ==
== 墨跡の内容 ==
[[ファイル:Kanzan inkajo.jpg|thumb|right|300px|『[[#与関山慧玄印可状|与関山慧玄印可状]]』([[#宗峰妙超|宗峰妙超]]筆、[[妙心寺]]蔵、国宝)]]
[[ファイル:Getsurin Dogo.jpg|thumb|right|300px|『[[#月林道号|月林道号]]』([[#古林清茂|古林清茂]]筆、[[長福寺 (京都市)|長福寺]]蔵、国宝)]]
[[ファイル:Yuige.gif|thumb|right|300px|『[[#清拙正澄遺偈|清拙正澄遺偈]]』([[#清拙正澄|清拙正澄]]筆、[[常盤山文庫]]蔵、国宝)]]
[[ファイル:Hogo Liaoan Qingyu.jpg|thumb|right|300px|『[[#了庵清欲進道語|了庵清欲進道語]]』([[#了庵清欲|了庵清欲]]筆、東京国立博物館蔵、国宝)]]
[[ファイル:Zenin gakuji.jpg|thumb|right|300px|『禅院額字方丈二大字』([[伝称筆者|伝]][[張即之]]筆、[[東福寺]]蔵、国宝)]]
[[ファイル:Wuzhun Shifan letter.jpg|thumb|right|300px|『[[#与円爾尺牘|与円爾尺牘]]』([[#無準師範|無準師範]]筆、東京国立博物館蔵、国宝)]]

墨跡の内容は禅家特有のもので難解なものが多く、また実にさまざまであるが、大別すると次のように分けることができる<ref name="komatsu26"/><ref name="suzukisuiken142"/>。
墨跡の内容は禅家特有のもので難解なものが多く、また実にさまざまであるが、大別すると次のように分けることができる<ref name="komatsu26"/><ref name="suzukisuiken142"/>。


138行目: 149行目:
{{main|印可}}
{{main|印可}}


: 印可状(いんかじょう)とは、[[印可]]の証として作成される書面のこと。特に禅宗に多い。それは師僧が修行僧に対して悟りを開いたことを認めた証明書であるため、容易に授けられないものである。よって、その授受は大変重要なことであり、墨跡の中で最も高い位置を占める。[[#圜悟克勤|圜悟克勤]]の『[[#与虎丘紹隆印可状|与虎丘紹隆印可状]]』、[[#宗峰妙超|宗峰妙超]]の『[[#与関山慧玄印可状|与関山慧玄印可状]]』、[[#無準師範|無準師範]]の『[[#与円爾印可状|与円爾印可状]]』などがある<ref name="minegishi127"/><ref name="komatsu26"/><ref name="horie746"/><ref name="kanariya70">可成屋 pp..70-71</ref><ref>新川晴風 p.35</ref>。
: 印可状(いんかじょう)とは、[[印可]]の証として作成される書面のこと。特に禅宗に多い。それは師僧が修行僧に対して[[悟り]]を開いたことを認めた証明書であるため、容易に授けられないものである。よって、その授受は大変重要なことであり、墨跡の中で最も高い位置を占める。[[#圜悟克勤|圜悟克勤]]の『[[#与虎丘紹隆印可状|与虎丘紹隆印可状]]』、[[#宗峰妙超|宗峰妙超]]の『[[#与関山慧玄印可状|与関山慧玄印可状]]』、[[無準師範]]の『[[無準師範#与円爾印可状|与円爾印可状]]』などがある<ref name="minegishi127"/><ref name="komatsu26"/><ref name="horie746"/><ref name="kanariya70">可成屋 pp..70-71</ref><ref>新川晴風 p.35</ref>。

<gallery>
ファイル:Inkajo.jpg|[[#圜悟克勤|圜悟克勤]]『[[#与虎丘紹隆印可状|与虎丘紹隆印可状]]』
ファイル:Kanzan inkajo.jpg|[[#宗峰妙超|宗峰妙超]]『[[#与関山慧玄印可状|与関山慧玄印可状]]』
ファイル:Handwritting of Wuzhun Shifan.png|[[無準師範]]『[[無準師範#与円爾印可状|与円爾印可状]]』
</gallery>

; {{Visible anchor | 額字}}
: 額字(がくじ)とは、禅院に掲げる額の文字のこと。寺名・軒名・室銘などがある。東福寺の[[円爾]]が中国から持ち帰った[[張即之]]や[[無準師範]]のものが有名である。この2人の力強い筆線と確固たる書風は、後世の額字や[[#字号|道号]]の書にも受け継がれ、一つの模範となった。[[伝称筆者|伝]][[張即之]]の『[[#禅院額字方丈二大字|禅院額字方丈二大字]]』、[[#楚石梵琦|楚石梵琦]]の『[[#心華室銘|心華室銘]]』などがある<ref name="minegishi127"/><ref name="komatsu26"/><ref name="horie746"/>。


; {{Visible anchor | 字号}}
; {{Visible anchor | 字号}}
: 字号(じごう、[[道号]]・[[法号]]とも)とは、禅宗において、師僧が修行僧に[[号 (称号)|号]]を書き与えたもの。号を大書し、[[#偈頌|偈頌]]を書き添えて与えるのが一般的で、その偈頌は道号頌(どうごうのじゅ)などと称し、字号の由来や意義を詠んだ[[漢詩]]である。師僧が修行僧を一人前の禅僧として認めたときに与えるものであるため、[[#印可状|印可状]]同様に重要とされる。宗峰妙超の『[[#関山字号|関山字号]]』、[[#古林清茂|古林清茂]]の『[[#月林道号|月林道号]]』、[[#徹翁義亨|徹翁義亨]]の『[[#言外字号|言外字号]]』・『[[#虎林字号|虎林字号]]』などがある<ref name="minegishi127"/><ref name="komatsu26"/><ref name="horie746"/><ref name="kanariya70"/><ref>新川晴風 p.319</ref>。
: 字号(じごう、[[道号]]・[[法号]]とも)とは、禅宗において、師僧が修行僧に[[号 (称号)|号]]を書き与えたもの。号を大書し、[[#偈頌|偈頌]]を書き添えて与えるのが一般的で、その偈頌は道号頌(どうごうのじゅ)などと称し、字号の由来や意義を詠んだ[[漢詩]]である。師僧が修行僧を一人前の禅僧として認めたときに与えるものであるため、[[#印可状|印可状]]同様に重要とされる。宗峰妙超の『[[#関山字号|関山字号]]』、[[#古林清茂|古林清茂]]の『[[#月林道号|月林道号]]』、[[#清拙正澄|清拙正澄]]の『[[#平心字号|平心字号]]』、[[#徹翁義亨|徹翁義亨]]の『[[#言外字号|言外字号]]』・『[[#虎林字号|虎林字号]]』などがある<ref name="minegishi127"/><ref name="komatsu26"/><ref name="horie746"/><ref name="kanariya70"/><ref>新川晴風 p.319</ref>。

<gallery>
ファイル:Zenin gakuji.jpg|[[伝称筆者|伝]][[張即之]]『[[#禅院額字方丈二大字|禅院額字方丈二大字]]』
ファイル:Kanzan.jpg|[[#宗峰妙超|宗峰妙超]]『[[#関山字号|関山字号]]』
ファイル:Getsurin Dogo.jpg|[[#古林清茂|古林清茂]]『[[#月林道号|月林道号]]』
</gallery>


; {{Visible anchor | 法語}}
; {{Visible anchor | 法語}}
: 法語(ほうご)とは、師僧が修行僧に悟道の要諦を書き与えたもの。[[漢字|真名]]法語と[[仮名 (文字)|仮名]]法語があるが、禅家には仮名のものは少なく、[[漢文]]調のものがしばしば[[揮毫]]され、仮名法語が一般化したのは近世以降のことである。鎌倉時代の禅僧の思想は、中国の宋朝禅の模倣であり、仮名法語は漢文が読めない女性や俗人に対する方便の意味合いが強く、積極的に採用された表現法ではなかった。
: 法語(ほうご)とは、師僧が修行僧に悟道の要諦を書き与えたもの。[[漢字|真名]]法語と[[仮名 (文字)|仮名]]法語があるが、禅家には仮名のものは少なく、[[漢文]]調のものがしばしば[[揮毫]]され、仮名法語が一般化したのは近世以降のことである。鎌倉時代の禅僧の思想は、中国の宋朝禅の模倣であり、仮名法語は漢文が読めない女性や俗人に対する方便の意味合いが強く、積極的に採用された表現法ではなかった。


: 法語は広義には師弟間のみならず、同輩間においても贈られ、[[#進道語|進道語]]や[[#餞別語|餞別語]]なども含む。『[[#密庵咸傑法語|密庵咸傑法語]]』、[[#蘭渓道隆|蘭渓道隆]]の『[[#法語・規則|法語・規則]]』などがある<ref name="minegishi127"/><ref name="komatsu26"/><ref name="horie746"/><ref name="kanariya70"/><ref>新川晴風 p.733</ref><ref>伊吹敦 p.208</ref>。
: 法語は広義には師弟間のみならず、同輩間においても贈られ、[[#進道語|進道語]]や[[#餞別語|餞別語]]なども含む。[[#虚堂智愚|虚堂智愚]]の[[#虚堂智愚法語|法語]]』、[[#密庵咸傑|密庵咸傑]]の『[[#密庵咸傑法語|法語]]』、[[#蘭渓道隆|蘭渓道隆]]の『[[#法語・規則|法語・規則]]』などがある<ref name="minegishi127"/><ref name="komatsu26"/><ref name="horie746"/><ref name="kanariya70"/><ref>新川晴風 p.733</ref><ref>伊吹敦 p.208</ref>。

; {{Visible anchor | 餞別語}}
: 餞別語(せんべつご、餞別偈・送別語・送別偈とも)とは、日本から中国に渡航し、修行を終えて帰る禅僧に師友が餞別として書いて贈る[[#法語|法語]]、または[[#偈頌|偈頌]]のこと。[[#月江正印|月江正印]]の『[[#与鉄舟徳済餞別語|与鉄舟徳済餞別語]]』、[[#古林清茂|古林清茂]]の『[[#与別源円旨送別偈|与別源円旨送別偈]]』、[[#南楚師説|南楚師説]]の『[[#南楚師説送別語|送別語]]』、[[#竺田悟心|竺田悟心]]の『[[#竺田悟心餞別偈|餞別偈]]』などがある<ref name="minegishi127"/><ref name="komatsu26"/>。

; {{Visible anchor | 進道語}}
: 進道語(しんどうご)とは、師友の間で後進の修行僧に禅の肝要を書き与え、激励したもの。[[#了庵清欲|了庵清欲]]の『[[#了庵清欲進道語|進道語]]』、[[一山一寧]]の『[[#一山一寧進道語|進道語]]』などがある<ref name="minegishi127"/><ref name="komatsu26"/><ref name="horie746"/>。

<gallery>
ファイル:Hogo Xutang Zhiyu.jpg|[[#虚堂智愚|虚堂智愚]]『[[#虚堂智愚法語|法語]]』
ファイル:Hogo.jpg|[[#蘭渓道隆|蘭渓道隆]]『[[#法語・規則|法語]]』
ファイル:Senbetsunoge.jpg|[[#古林清茂|古林清茂]]『[[#与別源円旨送別偈|与別源円旨送別偈]]』
ファイル:Hogo Liaoan Qingyu.jpg|[[#了庵清欲|了庵清欲]]『[[#了庵清欲進道語|進道語]]』
</gallery>


; {{Visible anchor | 偈頌}}
; {{Visible anchor | 偈頌}}
{{main|偈}}
{{main|偈}}


: 偈頌(げじゅ、単に[[偈]]、または頌とも)とは、[[仏陀|仏]]の教えを漢詩で書いたもの。内容は[[#法語|法語]]に似ているが、法語が[[散文|散文体]]であるのに対し、偈頌は五言・七言の[[韻文|韻文体]]で表現している。[[#遺偈|遺偈]]・[[#餞別偈|餞別偈]]・[[#字号|道号頌]]・投機偈(とうきのげ、師僧からの公案に対して修行僧が悟りの心境を詠んだ漢詩)などに細分される。[[#虚堂智愚|虚堂智愚]]の『[[#与無象静照偈頌|与無象静照偈頌]]』、[[#古林清茂|古林清茂]]の『[[#送幽禅人偈頌|送幽禅人偈頌]]』、宗峰妙超の『[[#渓林偈・南嶽偈|渓林偈・南嶽偈]]』、[[#無学祖元|無学祖元]]の『[[#与長楽寺一翁偈語|与長楽寺一翁偈語]]』などがある<ref name="minegishi127"/><ref name="komatsu26"/><ref name="horie746"/><ref name="kanariya70"/><ref>新川晴風 p.200</ref>。
: 偈頌(げじゅ、単に[[偈]]、または頌とも)とは、[[仏陀|仏]]の教えを漢詩で書いたもの。内容は[[#法語|法語]]に似ているが、法語が[[散文|散文体]]であるのに対し、偈頌は五言・七言の[[韻文|韻文体]]で表現している。[[#遺偈|遺偈]]・[[#餞別偈|餞別偈]]・[[#字号|道号頌]]・投機偈(とうきのげ、師僧からの[[禅宗#方便|公案]]に対して修行僧が悟りの心境を詠んだ漢詩)などに細分される。[[#古林清茂|古林清茂]]の『[[#送幽禅人偈頌|送幽禅人偈頌]]』、宗峰妙超の『[[#渓林偈・南嶽偈|渓林偈・南嶽偈]]』、[[#無学祖元|無学祖元]]の『[[#与長楽寺一翁偈語|与長楽寺一翁偈語]]』などがある<ref name="minegishi127"/><ref name="komatsu26"/><ref name="horie746"/><ref name="kanariya70"/><ref>新川晴風 p.200</ref>。


; {{Visible anchor | 遺偈}}
; {{Visible anchor | 遺偈}}
: 遺偈(ゆいげ)とは、[[臨終]]を前に門弟に遺す[[#偈頌|偈頌]]のこと。禅僧特有のもので、死ぬ前に一言弟子たちに偈を遺す習慣があった。一生涯の悟りの境地が表された遺偈は偈の中でも特に珍重される。[[#清拙正澄遺偈|清拙正澄遺偈]]』などがある<ref name="minegishi127"/><ref name="komatsu26"/><ref name="horie746"/><ref name="kanariya70"/><ref>新川晴風 p.816</ref>。
: 遺偈(ゆいげ)とは、[[臨終]]を前に門弟に遺す[[#偈頌|偈頌]]のこと。禅僧特有のもので、死ぬ前に一言弟子たちに偈を遺す習慣があった。一生涯の悟りの境地が表された遺偈は偈の中でも特に珍重される。[[#清拙正澄|清拙正澄]]の『[[#清拙正澄遺偈|遺偈]]』、[[円爾]]の『[[#円爾遺偈|遺偈]]』、[[寂室元光]]の『[[#寂室元光遺偈|遺偈]]』、[[#一休宗純|一休宗純]]の『[[#一休宗純遺偈|遺偈]]』、[[独立性易]]の『[[#独立性易遺偈|遺偈]]』などがある<ref name="minegishi127"/><ref name="komatsu26"/><ref name="horie746"/><ref name="kanariya70"/><ref>新川晴風 p.816</ref>。


<gallery>
; {{Visible anchor | 餞別語}}
ファイル:Keiringe Nangakuge.jpg|宗峰妙超『[[#渓林偈・南嶽偈|渓林偈・南嶽偈]]』
: 餞別語(せんべつご、餞別偈・送別語・送別偈とも)とは、日本から中国に渡航し、修行を終えて帰る禅僧に師友が餞別として書いて贈る[[#法語|法語]]、または[[#偈頌|偈頌]]のこと。[[#月江正印|月江正印]]の『[[#与鉄舟徳済餞別語|与鉄舟徳済餞別語]]』、[[#古林清茂|古林清茂]]の『[[#与別源円旨送別偈|与別源円旨送別偈]]』、『[[#南楚師説送別語|南楚師説送別語]]』などがある<ref name="minegishi127"/><ref name="komatsu26"/>。
ファイル:Mugaku Soban Ichio.jpg|[[#無学祖元|無学祖元]]『[[#与長楽寺一翁偈語|与長楽寺一翁偈語]]』

ファイル:Yuige.gif|[[#清拙正澄|清拙正澄]]『[[#清拙正澄遺偈|遺偈]]』
; {{Visible anchor | 進道語}}
</gallery>
: 進道語(しんどうご)とは、師友の間で後進の修行僧に禅の肝要を書き与え、激励したもの。『[[#了庵清欲進道語|了庵清欲進道語]]』などがある<ref name="minegishi127"/><ref name="komatsu26"/><ref name="horie746"/>。

; {{Visible anchor | 額字}}
: 額字(がくじ)とは、禅院に掲げる額の文字のこと。寺名・軒名・室銘などがある。東福寺の[[円爾]]が中国から持ち帰った[[張即之]]や[[#無準師範|無準師範]]のものが有名である。この2人の力強い筆線と確固たる書風は、後世の額字や[[#字号|道号]]の書にも受け継がれ、一つの模範となった。[[伝称筆者|伝]][[張即之]]の『禅院額字方丈二大字』、[[#楚石梵琦|楚石梵琦]]の『[[#心華室銘|心華室銘]]』などがある<ref name="minegishi127"/><ref name="komatsu26"/><ref name="horie746"/>。


; {{Visible anchor | 尺牘}}
; {{Visible anchor | 尺牘}}
{{main|尺牘}}
{{main|尺牘}}


: 尺牘(せきとく)とは、純[[漢文|漢文体]]の[[手紙|書簡]]のこと。[[#大慧宗杲|大慧宗杲]]の『[[#与無相居士尺牘|与無相居士尺牘]]』、[[#無準師範|無準師範]]の『[[#与円爾尺牘|与円爾尺牘]]』などがある<ref name="kanariya70"/>。
: 尺牘(せきとく)とは、純[[漢文|漢文体]]の[[手紙|書簡]]のこと。[[#大慧宗杲|大慧宗杲]]の『[[#与無相居士尺牘|与無相居士尺牘]]』、[[無準師範]]の『[[無準師範#与円爾尺牘|与円爾尺牘]]』、[[兀庵普寧]]の『[[#与東巌慧安尺牘|与東巌慧安尺牘]]』などがある<ref name="kanariya70"/>。

; {{Visible anchor | 疏}}
: 疏(しょ、または、そ)とは、官僚化された禅林において、下位から上位に対して出される表白文のこと。新しい住持の入寺を祝う文を入寺疏(にゅうじしょ)・山門疏(さんもんしょ)などといい、種々の勧進のための文を幹縁疏(かんえんしょ)・[[書道用語一覧#勧縁疏|勧縁疏]]などという。[[無準師範]]の『[[#無準師範山門疏|山門疏]]』、[[#中峰明本|中峰明本]]の『[[#幻住庵勧縁疏|幻住庵勧縁疏]]』などがある<ref name="minegishi127"/><ref name="ibuki126">伊吹敦 p.126</ref>。

; {{Visible anchor | 榜}}
: 榜(ぼう)とは、官僚化された禅林において、上位から下位に対して告知される掲示文のこと。[[#宗峰妙超|宗峰妙超]]の『[[#看読真詮榜|看読真詮榜]]』などがある<ref name="minegishi127"/><ref name="ibuki126"/>。


; {{Visible anchor | 像賛}}
; {{Visible anchor | 像賛}}
: 像賛(ぞうさん)とは、[[頂相]]の[[賛]]のこと。頂相には賛が書かれるのが一般的である。[[絵画]]全般に添えられた賛は[[画賛]]という<ref name="minegishi127"/><ref name="kanariya70"/>。
: 像賛(ぞうさん)とは、[[頂相]]の[[画賛|賛]]のこと。頂相には賛が書かれるのが一般的である。[[絵画]]全般に添えられた賛は[[画賛]]という<ref name="minegishi127"/><ref name="kanariya70"/>。

<gallery>
ファイル:Dahui Zonggao letter.jpg|[[#大慧宗杲|大慧宗杲]]『[[#与無相居士尺牘|与無相居士尺牘]]』
ファイル:Wuzhun Shifan letter.jpg|[[無準師範]]『[[無準師範#与円爾尺牘|与円爾尺牘]]』
ファイル:Sanmonso.jpg|無準師範『[[#無準師範山門疏|山門疏]]』
ファイル:Bujun Shiban.jpg|無準師範[[頂相]]と[[#像賛|像賛]]
</gallery>

== 禅林墨跡一覧 ==
以下、主な墨跡の一覧を記す<ref name="tagami19"/><ref>別冊太陽(日本の書) p.10-11、p.95、pp..98-99、pp..115-117、pp..122-123、p.147、p.153</ref><ref>小松茂美 図版237・238・240・245・251・252・256・257</ref><ref>堀江知彦 p.23、p.267、p.318、p.425、p.502、p.788</ref><ref>石川九楊(日本書史) p.92、p.98、p.102、p.104</ref><ref>中西慶爾 p.241、pp..335-336、pp..945-946</ref><ref>中田勇次郎(法語 済侍者) pp..164-165</ref><ref>可成屋 pp..74-75、pp..102-103、pp..114-117</ref><ref name="#2">橋本貴朗(決定版 日本書道史) p.116</ref><ref name="nagoya_zusetsu114">名児耶明(図説 日本書道史) pp..114-115</ref><ref>木下政雄 pp..127-128</ref><ref>渡部清(図説 日本書道史) p.147</ref><ref>鈴木晴彦(図説 日本書道史) pp..168-170</ref><ref>鈴木晴彦(決定版 日本書道史) pp..154-156</ref><ref>外山軍治 p.29</ref>。

{| class="sortable wikitable"
|-
! 書写年 !! 名称 !! 筆者 !! 内容 !! 受納者 !! 書風 !! 収蔵先 !! 文化財
|-
| 1124年 || [[#与虎丘紹隆印可状|与虎丘紹隆印可状]] || [[#圜悟克勤|圜悟克勤]] || [[#印可状|印可状]] || [[#虎丘紹隆|虎丘紹隆]] || [[米芾]] || [[東京国立博物館]] || [[国宝]]
|-
| 1179年 || [[#密庵咸傑法語|法語]] || [[#密庵咸傑|密庵咸傑]] || [[#法語|法語]] || 璋禅人 || || [[龍光院 (京都市北区)|龍光院]] || 国宝
|-
| 1155年 || [[#与無相居士尺牘|与無相居士尺牘]] || [[#大慧宗杲|大慧宗杲]] || [[#尺牘|尺牘]] || 無相居士 || 米芾・[[蘇軾]] || 東京国立博物館 || 国宝
|-
| 11xx年(12世紀) || 尺牘 || 大慧宗杲 || 尺牘 || || 米芾・蘇軾 || [[畠山記念館]] || 国宝
|-
| 1237年 || [[無準師範#与円爾印可状|与円爾印可状]] || [[無準師範]] || 印可状 || [[円爾]] || [[張即之]] || [[東福寺]] || 国宝
|-
| 1242-1249年 || [[無準師範#与円爾尺牘|与円爾尺牘]] || 無準師範 || 尺牘 || [[円爾]] || 張即之 || 東京国立博物館 || 国宝
|-
| 12xx年(13世紀) || <span id="無準師範山門疏">山門疏</span> || 無準師範 || [[#疏|疏]] || || 張即之 || [[五島美術館]] || 国宝
|-
| 1270年 || <span id="与東巌慧安尺牘">与東巌慧安尺牘</span> || [[兀庵普寧]] || 尺牘 || [[東巌慧安]] || || [[北村美術館]] || [[重要文化財|重文]]
|-
| 1278年 || 舎利啓白文 || [[大休正念]] || || || || 東京国立博物館 || 重文
|-
| 1280年 || <span id="円爾遺偈">遺偈</span> || [[円爾]] || [[#遺偈|遺偈]] || なし || || 東福寺 || 重文
|-
| 12xx年 || [[#虚堂智愚法語|法語]] || [[#虚堂智愚|虚堂智愚]] || 法語 || [[無象静照]] || 張即之 || 東京国立博物館 || 国宝
|-
| 12xx年 || 達磨忌拈香語 || 虚堂智愚 || [[香語]] || || 張即之 || [[大徳寺]] || 国宝
|-
| 12xx年 || [[#法語・規則|法語・規則]] || [[#蘭渓道隆|蘭渓道隆]] || 法語 || なし || 張即之 || [[建長寺]] || 国宝
|-
| 12xx年 || 宋元二大字 || 蘭渓道隆 || || || 張即之 || ||
|-
| 12xx年 || <span id="禅院額字方丈二大字">禅院額字方丈二大字</span> || [[伝称筆者|伝]][[張即之]] || [[#額字|額字]] || || || 東福寺 || 国宝
|-
| 1279年 || [[#与長楽寺一翁偈語|与長楽寺一翁偈語]] || [[#無学祖元|無学祖元]] || [[#偈頌|偈頌]] || [[一翁院豪]] || [[黄庭堅]] || [[相国寺]] || 国宝
|-
| 1280年 || <span id="無学祖元偈頌">偈頌</span> || 無学祖元 || 偈頌 || 一翁院豪 || 黄庭堅 || [[根津美術館]] || 重文
|-
| 12xx-13xx年(13世紀から14世紀) || 遊高雄山詩 || [[高峰顕日]] || 詩 || 普賢院院主 || [[趙孟頫]] || 五島美術館 || 重文
|-
| 1307年 || 示宗観禅尼法語 || [[南浦紹明]] || 法語 || 宗観禅尼 || || 五島美術館 || 重文
|-
| 12xx-13xx年 || <span id="馮子振画跋">画跋</span> || [[#馮子振|馮子振]] || [[書道用語一覧#題跋|跋文]] || || 黄庭堅 || [[常盤山文庫]] || 国宝
|-
| 1312-1319年 || [[#与無隠元晦詩|与無隠元晦詩]] || 馮子振 || 偈頌 || [[無隠元晦]] || 黄庭堅 || 東京国立博物館 || 国宝
|-
| 1315年 || <span id="雪夜作">雪夜作(せつやさく)</span> || [[一山一寧]] || 詩 || || || [[建仁寺]] || 重文
|-
| 1316年 || <span id="一山一寧進道語">進道語</span> || 一山一寧 || [[#進道語|進道語]] || [[固山一鞏]] || || [[根津美術館]] || 重文
|-
| 12xx-13xx年 || [[#与済侍者法語|与済侍者法語]] || [[#中峰明本|中峰明本]] || 法語 || 済侍者 || || 常盤山文庫 || 重文
|-
| 1320-1321年 || [[#幻住庵勧縁疏|幻住庵勧縁疏]] || 中峰明本 || 疏 || [[檀那]] || || 五島美術館 ||
|-
| 1325年 || [[#与別源円旨送別偈|与別源円旨送別偈]] || [[#古林清茂|古林清茂]] || [[#餞別語|餞別語]] || [[#別源円旨|別源円旨]] || 趙孟頫 || 五島美術館 || 国宝
|-
| 1326年 || [[#送幽禅人偈頌|送幽禅人偈頌]] || 古林清茂 || 偈頌 || 幽禅人 || 趙孟頫 || [[福岡市美術館]] || 重文
|-
| 1327年 || [[#月林道号|月林道号]] || 古林清茂 || [[#字号|字号]] || [[月林道皎]] || 趙孟頫 || [[長福寺 (京都市右京区梅津)|長福寺]] || 国宝
|-
| 1327年 || <span id="竺田悟心餞別偈">餞別偈</span> || [[#竺田悟心|竺田悟心]] || 餞別語 || [[中巌円月]] || || [[正木美術館]] || 重文
|-
| 1329年 || [[#関山字号|関山字号]] || [[#宗峰妙超|宗峰妙超]] || 字号 || [[関山慧玄]] || 黄庭堅 || [[妙心寺]] || 国宝
|-
| 1330年 || [[#与関山慧玄印可状|与関山慧玄印可状]] || 宗峰妙超 || 印可状 || 関山慧玄 || 黄庭堅 || 妙心寺 || 国宝
|-
| 1330年 || 与宗悟大姉法語 || 宗峰妙超 || 法語 || 宗悟大姉 || 黄庭堅 || [[大仙院]] || 国宝
|-
| 1334年(推定 [[#看読真詮榜]]を参照) || [[#看読真詮榜|看読真詮榜]] || 宗峰妙超 || [[#榜|榜]] || なし || 黄庭堅 || [[真珠庵]] || 国宝
|-
| 13xx年<ref>14世紀</ref> || [[#渓林偈・南嶽偈|渓林偈・南嶽偈]] || 宗峰妙超 || 偈頌 || なし || 黄庭堅 || 正木美術館 || 国宝
|-
| 13xx年 || [[#言外字号|言外字号]] || [[#徹翁義亨|徹翁義亨]] || 字号 || [[#言外宗忠|言外宗忠]] || || [[大徳寺]] || 重文
|-
| 13xx年 || [[#虎林字号|虎林字号]] || 徹翁義亨 || 字号 || [[宗賛維那]] || || 東京国立博物館 ||
|-
| 13xx年 || 閑居偶成偈 || [[夢窓疎石]] || 偈頌 || || || [[天龍寺]] ||
|-
| 13xx年 || 古徳偈 || 夢窓疎石 || 偈頌 || 古徳 || || 五島美術館 ||
|-
| 13xx年 || <span id="花屋号">花屋号(かおくごう)</span> || [[虎関師錬]] || || || 黄庭堅 || [[三井記念美術館]] ||
|-
| 13xx年 || 松関二大字 || 虎関師錬 || || || 黄庭堅 || 五島美術館 ||
|-
| 13xx年 || 進学解 || 虎関師錬 || 詩{{efn|[[韓愈]]の『進学解』を筆写したもの<ref>石川九楊(日本書史) p.92</ref>。 }}|| || 黄庭堅 || 東福寺 || 重文
|-
| 13xx年 || 明叟斉哲開堂諸山疏 || [[竺仙梵僊]] || 疏 || || 蘇軾 || 龍光院 || 国宝
|-
| 1328年 || <span id="平心字号">平心字号</span> || [[#清拙正澄|清拙正澄]] || 字号 || 斉首座 || || [[香川県立ミュージアム]] || 重文
|-
| 1339年 || [[#清拙正澄遺偈|遺偈]] || 清拙正澄 || 遺偈 || なし || || 常盤山文庫 || 国宝
|-
| 1339年 || <span id="梅花詩">梅花詩</span> || [[雪村友梅]] || 詩 || なし || 趙孟頫 || [[北方文化博物館]] || 重文
|-
| 1341年 || [[#了庵清欲進道語|進道語]] || [[#了庵清欲|了庵清欲]] || 進道語 || 的蔵主 || 趙孟頫 || 東京国立博物館 || 国宝
|-
| 1342年 || [[#南楚師説送別語|送別語]] || [[#南楚師説|南楚師説]] || 餞別語 || [[#鉄舟徳済|鉄舟徳済]] || || 畠山記念館 || 重文
|-
| 1343年 || [[#与鉄舟徳済餞別語|与鉄舟徳済餞別語]] || [[#月江正印|月江正印]] || 餞別語 || 鉄舟徳済 || 趙孟頫 || 五島美術館 || 国宝
|-
| 1362年 || 文殊大士偈 || [[寂室元光]] || 偈頌 || || || [[藤田美術館]] ||
|-
| 1367年 || <span id="寂室元光遺偈">遺偈</span> || 寂室元光 || 遺偈 || なし || || [[永源寺]] || 重文
|-
| 1363年 || 勅額仏事語 || [[石室善玖]] || 慶讃辞 || なし || || 東京国立博物館 || 重文
|-
| 13xx年 || [[寒山詩]]|| 石室善玖 || 詩 || || || 根津美術館 ||
|-
| 1366年 || [[#心華室銘|心華室銘]] || [[#楚石梵琦|楚石梵琦]] || 額字 || [[#無我省吾|無我省吾]] || 趙孟頫 || [[永青文庫]] || 重文
|-
| 1395年 || 十牛頌(じゅうぎゅうじゅ) || [[絶海中津]] || 偈頌 || [[足利義満]]{{efn|[[足利義満]]の求めに応じて書いたものと推定される<ref>六人部克典 p.122</ref>。}} || 趙孟頫 || 相国寺 || 重文
|-
| 1453年 || [[#尊林号|尊林号]] || [[#一休宗純|一休宗純]] || 偈頌 || [[スズメ|雀]] || || 畠山記念館 ||
|-
| 14xx年(15世紀) || [[#一休宗純七仏通戒偈|七仏通戒偈]] || 一休宗純 || 偈頌 || || || 真珠庵 || 重文
|-
| 14xx年(15世紀中頃<ref name="#1"/>) || 与紹省偈頌 || 一休宗純 || 偈頌 || 紹省{{efn|紹省(じょうしょう)は一休の弟子<ref name="#1"/>。}} || || 五島美術館 ||
|-
| 1481年 || <span id="一休宗純遺偈">遺偈</span> || 一休宗純 || 遺偈 || なし || || 真珠庵 || 重文
|-
| 16xx年(17世紀前半<ref>可成屋 p.102</ref>) || 秀嶽二字 || [[沢庵宗彭]] || 詩 || || || ||
|-
| 16xx年(17世紀) || 一行書「惑乱多少人来」 || [[江月宗玩]] || || || || 東京国立博物館 ||
|-
| 1644-1673年 || 一行書「豁開正法眼」 || [[隠元隆琦]] || || || || [[万寿院]] ||
|-
| 1669年 || 拈香偈(ねんこうのげ) || 隠元隆琦 || 偈頌 || || || [[萬福寺]] ||
|-
| 1663年 || 竹林二字 || [[即非如一]] || || || || 萬福寺 ||
|-
| 1677年 || 鉄牛和尚五十初度偈 || [[木庵性瑫]] || 偈頌 || [[鉄牛道機]] || || [[浄住寺]] ||
|-
| 16xx年 || 白髪千梳詩 || [[独立性易]] || 詩 || || || [[京都国立博物館]] ||
|-
| 1672年 || <span id="独立性易遺偈">遺偈</span> || 独立性易 || 遺偈 || なし || || 萬福寺 ||
|-
| 17xx年(18世紀中頃<ref>可成屋 p.116</ref>) || 庵字 || [[白隠慧鶴]] || || || || [[松蔭寺 (沼津市)|松蔭寺]] ||
|-
| 17xx年(18世紀) || 寿字養気説 || 白隠慧鶴 || || || || [[瀧沢寺]] ||
|-
| 1767年 || 大燈国師示衆法語 || 白隠慧鶴 || 法語 || || || ||
|}


== 禅林高僧の略伝と墨跡の解説 ==
== 禅林高僧の略伝と墨跡の解説 ==
以下、主な禅林高僧の略伝とその墨跡解説を記す(居士の[[#馮子振|馮子振]]を含む)。
以下、主な禅林高僧の略伝とその墨跡解説す(居士の[[#馮子振|馮子振]]を含む)。


=== 圜悟克勤 ===
=== 圜悟克勤 ===
182行目: 377行目:
{{main|圜悟克勤}}
{{main|圜悟克勤}}


[[#五祖法演|五祖法演]]の法嗣。圜悟には[[#大慧宗杲|大慧宗杲]]と[[#虎丘紹隆|虎丘紹隆]]の高弟がいるが、[[#大慧派|大慧派]]には墨跡を遺しているものは少なく、[[#虎丘派|虎丘派]]が多くの墨跡を遺している。圜悟の書は気品に富み、風格が高い<ref name="minegishi127"/><ref name="kanda_soudai19"/><ref name="nakanishi45"/><ref name="fukushima163">福嶋俊翁 pp..163-166</ref>。
'''圜悟克勤'''は、[[#五祖法演|五祖法演]]の法嗣。圜悟には[[#大慧宗杲|大慧宗杲]]と[[#虎丘紹隆|虎丘紹隆]]の高弟がいるが、[[#大慧派|大慧派]]には墨跡を遺しているものは少なく、[[#虎丘派|虎丘派]]が多くの墨跡を遺している。圜悟の書は気品に富み、風格が高い<ref name="minegishi127"/><ref name="kanda_soudai19"/><ref name="nakanishi45"/><ref name="fukushima163">福嶋俊翁 pp..163-166</ref>。


; {{Visible anchor | 与虎丘紹隆印可状}}
; {{Visible anchor | 与虎丘紹隆印可状}}
: 『与虎丘紹隆印可状』(くきゅうじょうりゅうにあたう いんかじょう)は、[[宣和]]6年(1124年)12月、圜悟が弟子の[[#虎丘紹隆|虎丘紹隆]]に与えた[[#印可状|印可状]]。この印可状には、中国から[[キリ|桐]]の筒に入って薩摩[[坊津]]の海岸に流れ着いたという伝説があり、俗に'''流れ圜悟'''と呼ばれる。後半37行を失い、前半19行だけが現存する。小字だが、線は肥痩の変化に富み、字形は[[米フツ|米&#x82BE;]]の影響が見られる。[[一休宗純]]が[[印可]]の証としてこの墨跡を[[村田珠光]]に与えて以来、茶道において非常に尊重され、今日、日本に伝わる最高位、また最古の墨跡となっている。紙本。[[東京国立博物館]]蔵。[[国宝]](指定名称は'''圜悟克勤墨蹟(印可状)''')<ref name="minegishi127"/><ref name="suzukihiro110"/><ref name="fukushima163"/><ref name="horie53">堀江知彦 p.53</ref><ref>中西慶爾 p.787</ref>。
: 『与虎丘紹隆印可状』(くきゅうじょうりゅうにあたう いんかじょう)は、[[宣和]]6年(1124年)12月、圜悟が弟子の[[#虎丘紹隆|虎丘紹隆]]に与えた[[#印可状|印可状]]。この印可状には、中国から[[キリ|桐]]の筒に入って薩摩[[坊津]]の海岸に流れ着いたという伝説があり、俗に'''流れ圜悟'''と呼ばれる。後半37行を失い、前半19行だけが現存する。小字だが、線は肥痩の変化に富み、字形は[[米]]の影響が見られる。[[#一休宗純|一休宗純]]が[[印可]]の証としてこの墨跡を[[村田珠光]]に与えて以来、茶道において非常に尊重され、今日、日本に伝わる最高位、また最古の墨跡となっている。紙本。[[東京国立博物館]]蔵。[[国宝]](指定名称は'''圜悟克勤墨蹟(印可状)''')<ref name="minegishi127"/><ref name="suzukihiro110"/><ref name="fukushima163"/><ref name="horie53">堀江知彦 p.53</ref><ref>中西慶爾 p.787</ref>。


=== 大慧宗杲 ===
=== 大慧宗杲 ===
193行目: 388行目:
{{main|大慧宗杲}}
{{main|大慧宗杲}}


[[#圜悟克勤|圜悟克勤]]の法嗣、[[#大慧派|大慧派]]禅門の祖として著名。大慧は士大夫を通じて社会と積極的に関わろうと努めたことから、その門下には、[[#張九成|張九成]]・[[#李&#x90B4;|李&#x90B4;]]などの居士たちが集まった。そして、そのような能動的な姿勢は、その思想とともに[[朱子|朱熹]]などにも大きな影響を与えた。朱熹は若年の頃、大慧の弟子・[[#開善道謙|開善道謙]]に師事し、大慧の語録を愛読していたといわれ、朱熹の思想には禅的な要素が多分に認められる<ref name="ibuki113"/><ref name="horie460">堀江知彦 p.460</ref><ref>伊吹敦 p.125</ref>。
'''大慧宗杲'''は、[[#圜悟克勤|圜悟克勤]]の法嗣、[[#大慧派|大慧派]]禅門の祖として著名。大慧は[[#五祖法演|五祖法演]]から圜悟克勤へと継承された[[禅宗#方便|公案]]を用いた指導法を発展させ、[[禅宗#方便|公案禅]]を大成した。また士大夫を通じて社会と積極的に関わろうと努めたことから、その門下には、[[#張九成|張九成]]・[[#李ヘイ|李]]などの居士たちが集まった。そのような大慧の能動的な姿勢は、その思想とともに[[朱子|朱熹]]などにも大きな影響を与えた。朱熹は若年の頃、大慧の弟子・[[#開善道謙|開善道謙]]に師事し、大慧の語録を愛読していたといわれ、朱熹の思想には禅的な要素が多分に認められる<ref name="ibuki113"/><ref name="horie460">堀江知彦 p.460</ref><ref>伊吹敦 p.125</ref>。


; {{Visible anchor | 与無相居士尺牘}}
; {{Visible anchor | 与無相居士尺牘}}
: 『与無相居士尺牘』(むそうこじにあたう せきとく)は、[[紹興 (宋)|紹興]]25年(1155年)頃、大慧が友人の無相居士にあてた[[#尺牘|尺牘]]。当時、南宋は[[金 (王朝)|金]]の侵略を恐れて金と和議を結んだが、大慧は主戦論者を支持したとされて流謫の身となった。この書簡はその流謫の地・[[梅州市|梅州]]から送ったもので、自らの安否を伝え、居士の動静を知りたいと述べている。書風は米&#x82BE;と[[蘇軾]]の影響が見られ、書簡であるから自ずと[[書道用語一覧#率意|率意]]の書であるが、気迫に満ち溢れており、大慧墨跡中の第一に推されるべきものである。紙本、38.1cm×65.7cm。東京国立博物館蔵。国宝(指定名称は'''大慧宗杲墨蹟(尺牘 十月初二日)''')<ref name="minegishi127"/><ref name="fukushima163"/><ref name="horie460"/><ref>中西慶爾 p.638</ref>。
: 『与無相居士尺牘』(むそうこじにあたう せきとく)は、[[紹興 (宋)|紹興]]25年(1155年)頃、大慧が友人の無相居士にあてた[[#尺牘|尺牘]]。当時、南宋は[[金 (王朝)|金]]の侵略を恐れて金と和議を結んだが、大慧は主戦論者を支持したとされて流謫の身となった。この書簡はその流謫の地・[[梅州市|梅州]]から送ったもので、自らの安否を伝え、居士の動静を知りたいと述べている。書風は米と[[蘇軾]]の影響が見られ、書簡であるから自ずと[[書道用語一覧#率意|率意]]の書である。紙本、38.1cm×65.7cm。東京国立博物館蔵。国宝(指定名称は'''大慧宗杲墨蹟(尺牘 十月初二日)''')<ref name="minegishi127"/><ref name="fukushima163"/><ref name="horie460"/><ref>中西慶爾 p.638</ref>。


=== 楚石梵琦 ===
=== 楚石梵琦 ===
----
----
'''楚石 梵琦'''(そせき ぼんき、1296年 - 1370年)は、中国・元時代の禅僧。仏日普照慧弁禅師。字は曇曜、俗姓は朱、西寧老人・西斎老人などと号した。[[象山県|象山]]の人。[[#元叟行端|元叟行端]]の法嗣。[[#月江正印|月江正印]]とともに元代禅林を代表する。詩書をよくし、その墨跡は元の禅僧中、最も[[趙孟フ|趙孟&#x982B;]]の書風に近く、伝統書法を示した第一人者である。よって墨跡としては珍しく端正な書風で日本では甚だ尊重される。『[[#心華室銘|心華室銘]]』はその代表作である<ref name="suzukihiro110"/><ref>中西慶爾 p.629</ref><ref>二玄社(書道辞典) p.165</ref><ref name="horie454">堀江知彦 pp..454-455</ref>。
'''楚石 梵琦'''(そせき ぼんき、1296年 - 1370年)は、中国・元時代の禅僧。仏日普照慧弁禅師。字は曇曜、俗姓は朱、西寧老人・西斎老人などと号した。[[象山県|象山]]の人。[[#元叟行端|元叟行端]]の法嗣。[[#月江正印|月江正印]]とともに元代禅林を代表する。詩書をよくし、その墨跡は元の禅僧中、最も[[趙孟]]の書風に近く、伝統書法を示した第一人者である。よって墨跡としては珍しく端正な書風で日本では甚だ尊重される。『[[#心華室銘|心華室銘]]』はその代表作である<ref name="suzukihiro110"/><ref>中西慶爾 p.629</ref><ref>二玄社(書道辞典) p.165</ref><ref name="horie454">堀江知彦 pp..454-455</ref>。


; {{Visible anchor | 心華室銘}}
; {{Visible anchor | 心華室銘}}
: 『心華室銘』(しんげしつめい)は、[[至正]]26年(1366年)9月、楚石が入元僧・[[#無我省吾|無我省吾]]の居室に銘したもの。無我は金陵牛頭山にあるこの居室で亡くなった。全8行・毎行24字の大幅。[[永青文庫]]蔵。[[重要文化財]]<ref name="horie454"/><ref name="nakanishi506">中西慶爾 p.506</ref>。
: 『心華室銘』(しんげしつめい)は、[[至正]]26年(1366年)9月、楚石が入元僧・[[#無我省吾|無我省吾]]の居室に銘したもの。無我は金陵牛頭山(ごづさん)にあるこの居室で亡くなった。全8行・毎行24字の大幅。[[永青文庫]]蔵。[[重要文化財]]<ref name="horie454"/><ref name="nakanishi506">中西慶爾 p.506</ref>。


=== 密庵咸傑 ===
=== 密庵咸傑 ===
----
----
'''密庵 咸傑'''(みったん かんけつ、1118年 - 1186年)は、中国・南宋時代の禅僧。名は咸傑、俗姓は鄭。[[福清市|福清]]の人。[[#応庵曇華|応庵曇華]]の法嗣。南宋はじめの禅林の巨匠である。密庵門下の[[#松源崇|松源崇]]・[[#破庵祖先|破庵祖先]]・[[#曹源道生|曹源道生]]の3人を'''密庵下の三傑'''と称し、この法系から多くの墨跡を生んだ。著名な墨跡の筆者は、[[#松源派|松源派]]では中国の[[#古林清茂|古林清茂]]・[[#了庵清欲|了庵清欲]]・[[#虚堂智愚|虚堂智愚]]・[[#蘭渓道隆|蘭渓道隆]]、日本の[[#宗峰妙超|宗峰妙超]]・[[一休宗純]]、[[#破庵派|破庵派]]では中国の[[#無準師範|無準師範]]・[[中峰明本]]・[[#無学祖元|無学祖元]]・[[#清拙正澄|清拙正澄]]、日本の[[夢窓疎石]]、[[#曹源派|曹源派]]では中国の[[一山一寧]]、日本の[[雪村友梅]]などがあげられる<ref name="kanda_soudai19"/><ref name="suzukihiro110"/><ref name="fukushima163"/><ref name="nakanishi910">中西慶爾 p.910</ref><ref name="horie768">堀江知彦 768</ref><ref>伊吹敦 p.112</ref>。
'''密庵 咸傑'''(みったん かんけつ、1118年 - 1186年)は、中国・[[南宋]]時代の[[禅僧]]。名は咸傑、俗姓は鄭。[[福清市|福清]]の人。[[#応庵曇華|応庵曇華]]の[[法嗣]]。南宋はじめの[[禅林]]の巨匠である。密庵門下の[[#松源崇|松源崇]]・[[#破庵祖先|破庵祖先]]・[[#曹源道生|曹源道生]]の3人を'''密庵下の三傑'''と称し、この法系から多くの墨跡を生んだ。著名な墨跡の筆者は、[[#松源派|松源派]]では中国の[[#古林清茂|古林清茂]]・[[#了庵清欲|了庵清欲]]・[[#虚堂智愚|虚堂智愚]]・[[#蘭渓道隆|蘭渓道隆]]、日本の[[#宗峰妙超|宗峰妙超]]・[[#一休宗純|一休宗純]]、[[#破庵派|破庵派]]では中国の[[無準師範]]・[[#中峰明本|中峰明本]]・[[#無学祖元|無学祖元]]・[[#清拙正澄|清拙正澄]]、日本の[[夢窓疎石]]、[[#曹源派|曹源派]]では中国の[[一山一寧]]、日本の[[雪村友梅]]などがあげられる<ref name="kanda_soudai19"/><ref name="suzukihiro110"/><ref name="fukushima163"/><ref name="nakanishi910">中西慶爾 p.910</ref><ref name="horie768">堀江知彦 768</ref><ref>伊吹敦 p.112</ref>。


; {{Visible anchor | 密庵咸傑法語}}
; {{Visible anchor | 密庵咸傑法語}}
: [[淳熙]]6年(1179年)8月、密庵に随従した璋禅人という人物の求めに応じて、禅の要旨を書き与えた[[#法語|法語]](印可状とも見られる)。27行・290文字を異例ともいうべき[[綾絹]]<ref>綾絹(あやぎぬ)とは、[[綾織り]]の[[絹]]のこと新村出 p.62)。</ref>の上に[[行書体|行書]]で濃淡自由に書いている。密庵は書法に長じたが、その墨跡は稀でこの法語が唯一とされる。これを秘蔵する[[龍光院 (京都市北区)|龍光院]]には、この墨跡以外は掛けないという「密庵床」と称する[[床の間|床]]が特設され、その茶席を「密庵席」と称している。龍光院蔵。国宝(指定名称は'''密庵咸傑墨蹟(法語 淳熙己亥仲秋日)''')<ref name="suzukihiro110"/><ref name="fukushima163"/><ref name="nakanishi910"/><ref name="horie768"/>。
: [[淳熙]]6年(1179年)8月、密庵に随従した璋禅人という人物の求めに応じて、禅の要旨を書き与えた[[#法語|法語]](印可状とも見られる)。27行・290文字を異例ともいうべき[[綾絹]]{{efn|綾絹(あやぎぬ)とは、[[綾織り]]の[[絹]]のこと<ref>新村出 p.62</ref>。}}の上に[[行書体|行書]]で濃淡自由に書いている。密庵は書法に長じたが、その墨跡は稀でこの法語が唯一とされる。これを秘蔵する[[龍光院 (京都市北区)|龍光院]]には、この墨跡以外は掛けないという「密庵床」と称する[[床の間|床]]が特設され、その茶席を「密庵席」と称している。[[龍光院]]蔵。[[国宝]](指定名称は'''密庵咸傑墨蹟(法語 淳熙己亥仲秋日)''')<ref name="suzukihiro110"/><ref name="fukushima163"/><ref name="nakanishi910"/><ref name="horie768"/>。


=== 古林清茂 ===
=== 古林清茂 ===
217行目: 412行目:
[[ファイル:Senbetsunoge.jpg|thumb|right|300px|『[[#与別源円旨送別偈|与別源円旨送別偈]]』(古林清茂筆、[[五島美術館]]蔵、国宝)]]
[[ファイル:Senbetsunoge.jpg|thumb|right|300px|『[[#与別源円旨送別偈|与別源円旨送別偈]]』(古林清茂筆、[[五島美術館]]蔵、国宝)]]


'''古林 清茂'''(くりん せいむ、1262年 - 1329年)は、中国・南宋から元時代の禅僧。俗姓は林、諱は清茂、字は古林、金剛憧・休居叟などと号した。[[温州市|温州]]の人。[[#横川如&#x73D9;|横川如&#x73D9;]]の[[法嗣]]、門下に[[#了庵清欲|了庵清欲]]・[[竺仙梵僊]]、日本僧では[[#月林道皎|月林道皎]]・[[#石室善玖|石室善玖]]らがいる。[[中峰明本]]と並んで元代中期の禅林の巨匠で、当時、日本からの渡航僧で古林に参ぜぬものなしといわれたほどの高僧である。著に『古林茂禅師語録』、『宗門統要続集』が知られる。
'''古林 清茂'''(くりん せいむ、1262年 - 1329年)は、中国・[[南宋]]から[[ (王朝)|元]]時代の[[禅僧]]。俗姓は林、[[]]は清茂、字は古林、金剛憧・休居叟などと号した。[[温州市|温州]]の人。[[#横川如コウ|横川如]]の[[法嗣]]、門下に[[#了庵清欲|了庵清欲]]・[[竺仙梵僊]]、日本僧では[[月林道皎]]・[[石室善玖]]らがいる。[[#中峰明本|中峰明本]]と並んで元代中期の[[禅林]]の巨匠で、当時、日本からの渡航僧で古林に参ぜぬものなしといわれたほどの[[高僧]]である。著に『古林茂禅師語録』、『宗門統要続集』が知られる。


古林は[[#馮子振|馮子振]]と交遊があり、書法に長じ、その書は格調高く貫禄を備えている。また文学にも造詣が深く、入元僧はそのような古林の士大夫的教養に憧れてその門に学んだ。元代は南宋時代に増して禅林が様々な文化との関わりを強め、特に文学への関心が高かった。しかし、その内容は次第に世俗化し、[[#大慧派|大慧派]]の人々の詩文は、禅僧の本分を弁えず一般の詩に同化していった。古林は題材を仏教に限定した[[#偈頌|偈頌]]を重視し、こうした傾向を阻止しようとしたが、禅林における[[駢文|四六駢儷文]]の大家で大慧派の[[#笑隠大&#x8A22;|笑隠大&#x8A22;]]の出現によって、禅林文学は偈頌から四六文にその中心を移したといわれる<ref name="ibuki136"/><ref name="nigensya73">二玄社(書道辞典) p.73</ref><ref name="horie198">堀江知彦 p.198</ref><ref>中西慶爾 pp..212-213</ref>。
古林は[[#馮子振|馮子振]]と交遊があり、書法に長じ、その書は格調高く貫禄を備えている。また文学にも造詣が深く、入元僧はそのような古林の士大夫的教養に憧れてその門に学んだ。元代は南宋時代に増して禅林が様々な文化との関わりを強め、特に文学への関心が高かった。、その内容は次第に世俗化し、禅僧の本分を弁えず[[#大慧派|大慧派]]の人々の詩文は一般の詩に同化していった。古林はこうした傾向を阻止しようと題材を仏教に限定した[[#偈頌|偈頌]]を重視したが、大慧派の[[#笑隠大キン|笑隠大]]の出現によって、禅林文学は[[偈頌]]から[[駢文|四六駢儷]]にその中心を移したといわれる<ref name="ibuki136"/><ref name="nigensya73">二玄社(書道辞典) p.73</ref><ref name="horie198">堀江知彦 p.198</ref><ref>中西慶爾 pp..212-213</ref>。


; {{Visible anchor | 月林道号}}
; {{Visible anchor | 月林道号}}
: 『月林道号』(げつりん どうごう)は、[[泰定 (元)|泰定]]4年(1327年)3月、古林が[[#月林道皎|月林道皎]]に書き与えた「月林」の[[#字号|道号]]。号のあとに[[七言絶句]]一首の[[#偈頌|偈]]がある。[[長福寺 (京都市)|長福寺]]蔵。国宝(指定名称は'''古林清茂墨蹟(月林道号 泰定四年三月望日)''')<ref name="horie198"/>。
: 『月林道号』(げつりん どうごう)は、[[泰定 (元)|泰定]]4年(1327年)3月、古林が[[月林道皎]]に書き与えた「月林」の[[#字号|道号]]。号のあとに[[七言絶句]]一首の[[#偈頌|偈]]がある。[[長福寺 (京都市右京区梅津)|長福寺]]蔵。国宝(指定名称は'''古林清茂墨蹟(月林道号 泰定四年三月望日)''')<ref name="horie198"/>。


; {{Visible anchor | 与別源円旨送別偈}}
; {{Visible anchor | 与別源円旨送別偈}}
232行目: 427行目:
=== 了庵清欲 ===
=== 了庵清欲 ===
----
----
[[ファイル:Hogo Liaoan Qingyu.jpg|thumb|right|300px|『[[#了庵清欲進道語|了庵清欲進道語]]』([[#了庵清欲|了庵清欲]]筆、東京国立博物館蔵、国宝)]]
[[ファイル:Hogo Liaoan Qingyu.jpg|thumb|right|300px|『[[#了庵清欲進道語|進道語]]』([[#了庵清欲|了庵清欲]]筆、[[東京国立博物館]]蔵、国宝)]]


'''了庵 清欲'''(りょうあん せいよく、1288年 - 1363年)は、中国・元時代の禅僧。俗姓は朱、号は南堂。[[台州]]の人。[[#古林清茂|古林清茂]]の法嗣<ref name="horie855">堀江知彦 p.855</ref><ref>中西慶爾 p.1001</ref>。
'''了庵 清欲'''(りょうあん せいよく、1288年 - 1363年)は、中国・[[ (王朝)|元]]時代の[[禅僧]]。俗姓は朱、号は南堂。[[台州]]の人。[[#古林清茂|古林清茂]]の法嗣。了庵は、古林清茂・[[#虎巌浄伏|虎巌浄伏]]・[[#即休契了|即休契了]]らとともに、元代における[[#松源派|松源派]]の重要な人物として挙げられる<ref name="horie855">堀江知彦 p.855</ref><ref>中西慶爾 p.1001</ref><ref>伊吹敦 pp..133-134</ref>。


; {{Visible anchor | 了庵清欲進道語}}
; {{Visible anchor | 了庵清欲進道語}}
: [[至元 (元順帝)|至元]]7年(1341年)1月、了庵が的蔵主に書き与えた[[#進道語|進道語]]。ただし的蔵主が何人であるか不明である。書風は温順端正を極め、[[趙孟フ|趙孟&#x982B;]]の影響が見られる。東京国立博物館蔵。国宝(指定名称は'''了菴清欲墨蹟(法語 至元七年正月十七日)''')<ref name="horie855"/><ref>中西慶爾 p.515</ref>。
: [[至元 (元順帝)|至元]]7年(1341年)1月、了庵が的蔵主に書き与えた[[#進道語|進道語]]。ただし的蔵主が何人であるか不明である。書風は温順端正を極め、[[趙孟]]の影響が見られる。[[東京国立博物館]]蔵。[[国宝]](指定名称は'''了菴清欲墨蹟(法語 至元七年正月十七日)''')<ref name="horie855"/><ref>中西慶爾 p.515</ref>。


=== 月江正印 ===
=== 月江正印 ===
248行目: 443行目:
=== 南楚師説 ===
=== 南楚師説 ===
----
----
'''南楚 師説'''(なんそ しせつ、? - 1342年以後)は、中国・元時代の禅僧。[[#虎巌浄伏|虎巌浄伏]]の法嗣<ref name="horie581">堀江知彦 p.581</ref>。
'''南楚 師説'''(なんそ しせつ、? - 1342年以後)は、中国・[[ (王朝)|元]]時代の[[禅僧]]。[[#虎巌浄伏|虎巌浄伏]]の[[法嗣]]<ref name="horie581">堀江知彦 p.581</ref>。


; {{Visible anchor | 南楚師説送別語}}
; {{Visible anchor | 南楚師説送別語}}
255行目: 450行目:
=== 虚堂智愚 ===
=== 虚堂智愚 ===
----
----
[[ファイル:Hogo Xutang Zhiyu.jpg|thumb|right|300px|『[[#与無象静照偈頌|与無象静照偈頌]]』([[#虚堂智愚|虚堂智愚]]筆、東京国立博物館蔵、国宝)]]
[[ファイル:Hogo Xutang Zhiyu.jpg|thumb|right|300px|『[[#虚堂智愚法語|法語]]』([[#虚堂智愚|虚堂智愚]]筆、東京国立博物館蔵、国宝)]]


'''虚堂 智愚'''(きどう ちぐ、1185年 - 1269年)は、中国・南宋時代の禅僧。名は智愚、息耕(そくこう)・息耕叟と号し、俗姓は陳。[[象山県|象山]]の人。[[#運庵普巌|運庵普巌]]の[[法嗣]]、門下に[[#霊石如芝|霊石如芝]]、日本僧では[[南浦紹明]]らがいる。南浦紹明の弟子が[[大徳寺]]の開山・[[#宗峰妙超|宗峰妙超]]であるが、大徳寺は茶道と縁が深く、茶道において宗峰の師としての虚堂の墨跡は鎌倉時代から特に重んじられた。その墨跡には張即之の書の影響が見られる。[[一休宗純]]は虚堂7世の孫にあたる。著に『虚堂和尚語録』がある<ref name="minegishi127"/><ref name="suzukihiro110"/><ref name="nishibayashi_godai125"/><ref>中西慶爾 p.167</ref>。
'''虚堂 智愚'''(きどう ちぐ、1185年 - 1269年)は、中国・[[南宋]]時代の禅僧。名は智愚、息耕(そくこう)・息耕叟と号し、俗姓は陳。[[象山県|象山]]の人。[[#運庵普巌|運庵普巌]]の[[法嗣]]、門下に[[#霊石如芝|霊石如芝]]、日本僧では[[南浦紹明]]らがいる。[[南浦紹明]]の弟子が[[大徳寺]]の開山・[[#宗峰妙超|宗峰妙超]]であるが、大徳寺は[[茶道]]と縁が深く、茶道において宗峰の師としての虚堂の墨跡は[[鎌倉時代]]から特に重んじられた。その墨跡には張即之の書の影響が見られる。[[#一休宗純|一休宗純]]は虚堂7世の孫にあたる。著に『虚堂和尚語録』(1269年刊)がある<ref name="minegishi127"/><ref name="suzukihiro110"/><ref name="nishibayashi_godai125"/><ref>中西慶爾 p.167</ref><ref>伊吹敦 p.119</ref>。


; {{Visible anchor | 与無象静照偈頌}}
; {{Visible anchor | 虚堂智愚法語}}
: 『与無象静照偈頌』(むしょうじょうしょうにあたう げじゅ)は、虚堂が入宋中の[[#無象静照|無象静照]]に与えた述懐の[[#偈頌|]]。京都の茶人・大文字屋が所蔵していたに破たことから、俗に'''破れ虚堂'''と呼ばれる。「日」の字と左払いの[[用筆]]が特異である。紙本28.5cm×70cm。東京国立博物館蔵。国宝(指定名称は'''虚堂智愚墨蹟(法語)''')<ref name="minegishi127"/><ref name="suzukihiro110"/><ref name="nishibayashi_godai125"/>。
: 虚堂が入宋中の[[無象静照]]に書き与えた[[#法語|法語]]。江戸時代、京都の茶人・大文字屋がこの墨跡を所蔵していたとき、その[[手代]]が蔵の中立てこもり、切りってしまったことから、俗に'''破れ虚堂'''と呼ばれる。後、[[松平治郷|松平不昧]]の手に渡り1938年に[[帝室博物館]](東京国立博物館の前身に寄贈された<ref>「特集 東京国立博物館陳列品収集の歩み」『MUSEUM』262号、pp.14, 26, 31</ref>。

: 墨跡中の「日」の字と左払いの[[用筆]]が特異である。紙本、28.5cm×70cm。東京国立博物館蔵。国宝(指定名称は'''虚堂智愚墨蹟(法語)''')<ref name="minegishi127"/><ref name="suzukihiro110"/><ref name="nishibayashi_godai125"/><ref name="nagoya_taiyou174"/>。


=== 宗峰妙超 ===
=== 宗峰妙超 ===
----
----
[[ファイル:Kanzan.jpg|thumb|left|300px|『[[#関山字号|関山字号]]』([[#宗峰妙超|宗峰妙超]]筆、[[妙心寺]]蔵、国宝)]]
[[ファイル:Kanzan.jpg|thumb|right|300px|『[[#関山字号|関山字号]]』([[#宗峰妙超|宗峰妙超]]筆、[[妙心寺]]蔵、国宝)]]
[[ファイル:Keiringe Nangakuge.jpg|thumb|right|200px|『[[#渓林偈・南嶽偈|渓林偈・南嶽偈]]』(宗峰妙超筆、[[正木美術館]]蔵、国宝)]]
[[ファイル:Keiringe Nangakuge.jpg|thumb|right|200px|『[[#渓林偈・南嶽偈|渓林偈・南嶽偈]]』(宗峰妙超筆、[[正木美術館]]蔵、国宝)]]
[[ファイル:Kanzan inkajo.jpg|thumb|right|300px|『[[#与関山慧玄印可状|与関山慧玄印可状]]』(宗峰妙超筆、妙心寺蔵、国宝)]]
[[ファイル:Kanzan inkajo.jpg|thumb|right|300px|『[[#与関山慧玄印可状|与関山慧玄印可状]]』(宗峰妙超筆、妙心寺蔵、国宝)]]
270行目: 467行目:
{{main|宗峰妙超}}
{{main|宗峰妙超}}


[[南浦紹明]]の法嗣、門下に[[関山慧玄]]・[[#徹翁義亨|徹翁義亨]]など多数いる。宗峰は[[大徳寺]]を開き、その二代目を徹翁義亨に定めた。関山慧玄は[[妙心寺]]の開山となる。宗峰の書は宋・元の墨跡に日本風を少し加えたもので、日本的墨跡の先駆をなし、当時より一級の墨跡として尊重されてきた<ref name="kanariya70"/><ref name="horie541">堀江知彦 p.541</ref><ref>石川九楊(書家101) pp..158-159</ref><ref name="kanariya72">可成屋 pp..72-73</ref><ref name="furuta176">古田紹欽 p.176</ref>。
'''宗峰妙超'''は、[[南浦紹明]]の法嗣、門下に[[関山慧玄]]・[[#徹翁義亨|徹翁義亨]]など多数いる。宗峰は[[大徳寺]]を開き、その二代目を[[徹翁義亨]]に定めた。関山慧玄は[[妙心寺]]の開山となる。宗峰の書は[[ (王朝)|宋]][[ (王朝)|元]]の墨跡に日本風を少し加えたもので、日本的墨跡の先駆をなし、当時より一級の墨跡として尊重されてきた<ref name="kanariya70"/><ref name="horie541">堀江知彦 p.541</ref><ref>石川九楊(書家101) pp..158-159</ref><ref name="kanariya72">可成屋 pp..72-73</ref><ref name="furuta176">古田紹欽 p.176</ref>。


; {{Visible anchor | 関山字号}}
; {{Visible anchor | 関山字号}}
276行目: 473行目:


; {{Visible anchor | 渓林偈・南嶽偈}}
; {{Visible anchor | 渓林偈・南嶽偈}}
: 『渓林偈・南嶽偈』(けいりんげ・なんがくげ、『虚堂和尚上堂語』とも)は、『渓林偈』と『南嶽偈』の両幅からなり、ともに[[#虚堂智愚|虚堂智愚]]の上堂<ref>上堂(じょうどう)とは、禅宗で[[説法]]のために[[法堂]]に上ること新村出 p.1067)。</ref>の語を書したもの。『虚堂和尚語録』巻1にその語が見える。語句の内容上、両幅に何の関係もないが、[[書道用語一覧#筆致|筆致]]から同じ時期に書いたものと考えられる。書体は[[書道用語一覧#連綿|連綿]][[草書体]]で、当時にはあまり見られない傑出した水準に達している。
: 『渓林偈・南嶽偈』(けいりんげ・なんがくげ、『虚堂和尚上堂語』とも)は、『渓林偈』と『南嶽偈』の両幅からなり、ともに[[#虚堂智愚|虚堂智愚]]の上堂{{efn|上堂(じょうどう)とは、禅宗で[[説法]]のために[[法堂]]に上ること<ref>新村出 p.1067</ref>。}}の語を書したもの。『虚堂和尚語録』巻1にその語が見える。語句の内容上、両幅に何の関係もないが、[[書道用語一覧#筆致|筆致]]から同じ時期に書いたものと考えられる。書体は[[書道用語一覧#三絶|連綿]][[草書体]]で、当時にはあまり見られない傑出した水準に達している。


: 『渓林偈』の最後に「寒」の字があるのは、途中、書き落としたためであり、本来は、「溪林葉墮塞鴈聲」の次に「寒」が入る。紙本、89.9cm<ref>『書道全集 第19巻』「日本7 鎌倉II」「『虚堂和尚上堂語』宗峰妙超」(古田紹欽 p.159)に、縦12.5cmとあるが、これは明らかに誤りであるので、横34.2cmと同図版53のサイズ(25.5cm×9.7cm)から算出して89.9cmとした。</ref>×34.2cm(各幅)。[[正木美術館]]蔵。国宝(指定名称は'''大燈国師墨蹟(渓林、南嶽偈)''')<ref name="furuta159">古田紹欽 p.159</ref><ref>石川九楊(日本書史) pp..97-98</ref>。
: 『渓林偈』の最後に「寒」の字があるのは、途中、書き落としたためであり、本来は、「溪林葉墮塞鴈聲」の次に「寒」が入る。紙本、89.9cm{{efn|『書道全集 第19巻』「日本7 鎌倉II」「『虚堂和尚上堂語』宗峰妙超」(古田紹欽 p.159)に、縦12.5cmとあるが、これは明らかに誤りであるので、横34.2cmと同図版53のサイズ(25.5cm×9.7cm)から算出して89.9cmとした。}}×34.2cm(各幅)。[[正木美術館]]蔵。国宝(指定名称は'''大燈国師墨蹟(渓林、南嶽偈)''')<ref name="furuta159">古田紹欽 p.159</ref><ref>石川九楊(日本書史) pp..97-98</ref>。


; {{Visible anchor | 与関山慧玄印可状}}
; {{Visible anchor | 与関山慧玄印可状}}
284行目: 481行目:


; {{Visible anchor | 看読真詮榜}}
; {{Visible anchor | 看読真詮榜}}
: 看読真詮榜(かんどくしんせんぼう、看経榜(かんきんぼう)とも)とは、正月の[[修正会]]や7月の[[盂蘭盆会]]などに読む[[経典|経]]名や[[呪]]名を列挙し、その下に担当僧が自分の名前を書くもの。[[榜]]とは一般大衆に告知する掲示のこと
: 看読真詮榜(かんどくしんせんぼう、看経榜(かんきんぼう)とも)とは、正月の[[修正会]]や7月の[[盂蘭盆会]]などに読む[[経典|経]]名や[[呪術|呪]]名を列挙し、その下に担当僧が自分の名前を書くもの。


: 『看読真詮榜』は、宗峰が担当僧である宗鏡の代わりに書いた榜語。古くより最も著名な墨跡の一つとされている。年紀はないが榜語の内容から[[建武 (日本)|建武]]元年(1334年)の修正会に際しての看経榜と考えられる。巻末に「宗鏡」の署名があるが、宗鏡が書いたのはこの署名のみで、他は書風から宗峰の書として知られる。その書風は黄庭堅の影響を受けたもので、ところどころに点画を長く伸ばしているが、肉厚かつシャープな筆線に和様との複合体という趣がある。筆致は豪放で堂々としており、驚くべき精神力を感じさせる。紙本、32.8cm×835.9cm。[[真珠庵]]蔵。国宝(指定名称は'''大燈国師墨蹟(看読真詮榜)''')<ref name="minegishi127"/><ref name="kanariya70"/><ref name="furuta159"/><ref>小松茂美 図版247</ref><ref>名児耶明(図説 日本書道史) p.115</ref><ref>石川九楊(日本書史) p.94</ref><ref name="minegishi92">峯岸佳葉(日本の書) pp..92-101</ref>。
: 『看読真詮榜』は、宗峰が担当僧である宗鏡の代わりに書いた[[#榜|榜語]]。古くより最も著名な墨跡の一つとされている。年紀はないが榜語の内容から[[建武 (日本)|建武]]元年(1334年)の修正会に際しての看経榜と考えられる。巻末に「宗鏡」の署名があるが、宗鏡が書いたのはこの署名のみで、他は書風から宗峰の書として知られる。その書風は黄庭堅の影響を受けたもので、ところどころに点画を長く伸ばしているが、肉厚かつシャープな筆線に和様との複合体という趣がある。筆致は豪放で堂々としており、驚くべき精神力を感じさせる。紙本、32.8cm×835.9cm。[[真珠庵]]蔵。国宝(指定名称は'''大燈国師墨蹟(看読真詮榜)''')<ref name="minegishi127"/><ref name="kanariya70"/><ref name="furuta159"/><ref name="minegishi92"/><ref name="nagoya_zusetsu114"/><ref>小松茂美 図版247</ref><ref>石川九楊(日本書史) p.94</ref>。


=== 徹翁義亨 ===
=== 徹翁義亨 ===
298行目: 495行目:
: 『虎林字号』(くりんじごう)は、徹翁が[[宗賛維那]](そうさん ゆいな、徹翁の門弟と思われる)に書き与えた「虎林」の[[#字号|字号]]。39.3cm×101.0cm。東京国立博物館蔵<ref name="horie541"/><ref name="kanariya72"/>。
: 『虎林字号』(くりんじごう)は、徹翁が[[宗賛維那]](そうさん ゆいな、徹翁の門弟と思われる)に書き与えた「虎林」の[[#字号|字号]]。39.3cm×101.0cm。東京国立博物館蔵<ref name="horie541"/><ref name="kanariya72"/>。


=== 蘭渓道隆 ===
=== 一休宗純 ===
----
----
{{main|一休宗純}}
[[ファイル:Hogo.jpg|thumb|right|250px|『[[#法語・規則|法語]]』([[#蘭渓道隆|蘭渓道隆]]筆、[[建長寺]]蔵、国宝)]]


'''一休宗純'''は、大徳寺第23世・[[華叟宗曇]]の法嗣、同寺第48世として住持する。大徳寺は[[五山十刹]]の[[官寺]]に属さず独自の展開をとげた{{efn|[[大徳寺]]は[[後醍醐天皇]]によって[[南禅寺]]と同格の地位を与えられえたり、[[十刹]]に[[官寺]]した時期もあったが、[[養叟宗頤]]のときに官寺から離脱した<ref>伊吹敦 p.225</ref>。}}が、[[応仁の乱]]で大きな被害をこうむった。一休が住持したのはこの時で、その復興を成し遂げた。また一休は名利を求めず権力に媚びない性格で、禅林の世俗化を激しく批判するとともに、[[堺]]の街を[[木刀]]や[[骸骨]]を提げて歩いたり、[[酒場]]や[[遊廓]]に繰り出したり、飼っていた[[スズメ|雀]]に[[僧位]]を与えたりなどの奇行によって、京都や堺の居住者の人気を得た。
{{main|蘭渓道隆}}


一休の書も中世から近世の墨跡の中で特に際立ち、珍重された。破格といえるその書は、一見しただけでは中国書法とのつながりがほとんど感じられない。しかしそこには、黄庭堅や張即之の書風に[[#虚堂智愚|虚堂智愚]]の雑体書風が加味され、さらに宗峰妙超の運筆が見られる。つまり和様と中国風が合体した無法の書で、[[#近世の墨跡|近世の墨跡]]の先駆けとなった<ref name="ibuki225"/><ref name="ishikawa_syoshi101"/><ref name="#1"/><ref name="mutobe123">六人部克典 p.123</ref>。
[[#無明慧性|無明慧性]]の法嗣、[[建長寺]]の開山。蘭渓は墨跡の書法の基礎をなした[[張即之]]の書をよく学び、その張即之の書風を日本に最初に移入した人物として[[日本の書道史|日本書道史]]上、注目される。したがって蘭渓の書は常に張即之の書と比較される<ref name="nakata_kamakura2_153">中田勇次郎(日本7 鎌倉II) pp..153-154</ref><ref>中西慶爾 p.953</ref><ref name="shinkawa834">新川晴風 p.834</ref>。


; {{Visible anchor | 法語・規則}}
; {{Visible anchor | 一休宗純七仏通戒偈}}
: 一行書「諸悪莫作」と「衆善奉行」の双幅で、[[七仏通戒偈]]の初めの2句を書したもの。書写年不詳。気迫ある堂々たる大字で、独自の風格をいかんなく発揮した傑作といえる。紙本、133.5cm×41.5cm(各幅)。真珠庵蔵。重要文化財<ref>堀江知彦 p.27</ref><ref>小松茂美 図版257</ref>。
: 『法語・規則』(ほうご・きそく)は、「見鞭影而後行」の文にはじまる『法語』と、「長老首座」にはじまる『規則』との対幅になっている。『法語』の内容は衆僧の怠慢を戒め、参禅弁道を教示したものであり、『規則』の内容は行規の厳格を要求し、違反者には罰を科すというもので、両内容とも『大覚拾遺録』に収められている。年紀はないが、蘭渓が[[建長寺]]に住していたときに両幅をほぼ同時に書いたと考えられる。書式文章ともに謹厳なもので、確固たる字形、太細の自在な変化、隅々まで行き渡る筆勢が伺える。その書風は張即之の書の影響が顕著であるが、それに拘泥しない禅人の質実な態度が感じられる。紙本、85.1cm×41.5cm(『法語』)、84.8cm×40.9cm(『規則』)。建長寺蔵。国宝(指定名称は'''大覚禅師墨蹟(法語規則)''')<ref name="nakata_kamakura2_153"/><ref name="shinkawa834"/><ref name="minegishi92"/>。


; {{Visible anchor | 尊林号}}
=== 無準師範 ===
: 『尊林号』(そんりんごう)は、[[享徳]]2年(1453年)8月19日、一休が愛育していた[[スズメ|雀]]の死に際し、「尊林」の[[#字号|字号]]をその雀に書き与えたもの。一休の深い慈愛の心、あるいは形式化する禅宗への風刺とも解される。奔放自在にして峻厳、一休独特のきわめて個性的な書風である。78.8cm×24.5cm。畠山記念館蔵<ref name="mutobe123"/><ref>橋本貴朗(決定版 日本書道史) pp..116-117</ref>。

=== 蘭渓道隆 ===
----
----
<div style="border:1px solid gray; background-color: #EEEEEE; padding: 5px ;margin: 5px; float: right; text-align: center">[[ファイル:Kisoku.jpg|150px]] [[ファイル:Hogo.jpg|153px]]<br/>『[[#法語・規則|法語・規則]]』(『法語』(右)・『規則』(左))<br/>[[#蘭渓道隆|蘭渓道隆]]筆、[[建長寺]]蔵、国宝</div>
[[ファイル:Wuzhun Shifan letter.jpg|thumb|right|300px|『[[#与円爾尺牘|与円爾尺牘]]』([[#無準師範|無準師範]]筆、東京国立博物館蔵、国宝)]]
[[ファイル:Enni inkajo.jpg|thumb|right|300px|『[[#与円爾印可状|与円爾印可状]]』(無準師範筆、[[東福寺]]蔵、国宝)]]
[[ファイル:Mugaku Soban Ichio.jpg|thumb|right|300px|『[[#与長楽寺一翁偈語|与長楽寺一翁偈語]]』([[#無学祖元|無学祖元]]筆、[[相国寺]]蔵、国宝)]]
[[ファイル:Yuige.gif|thumb|right|300px|『[[#清拙正澄遺偈|清拙正澄遺偈]]』([[#清拙正澄|清拙正澄]]筆、[[常盤山文庫]]蔵、国宝)]]


{{main|蘭渓道隆}}
'''無準 師範'''(ぶじゅん しばん、1177年 - 1249年)は、中国・南宋時代の禅僧。名は師範、俗姓は雍。[[四川省]][[綿州]][[梓潼県]]の人。[[#破庵祖先|破庵祖先]]の法嗣、門下に [[兀庵普寧]]・[[#西巌了恵|西巌了恵]]・[[#別山祖智|別山祖智]]・[[#断橋妙倫|断橋妙倫]](以上、'''四哲'''と称す)・[[#雪巌祖欽|雪巌祖欽]]・[[#無学祖元|無学祖元]]など、日本僧では[[円爾]]がいる。宋代禅林中の巨匠で[[理宗]]から'''仏鑑禅師'''を諡された。[[五山|中国五山]]の第一たる[[径山寺|径山万寿寺]]の第34世に住し、円爾をはじめとして日本から無準に参じた僧は多い。日本禅林との関係は最も深く、最も強い影響を与えている。


'''蘭渓道隆'''は、[[#無明慧性|無明慧性]]の法嗣、[[建長寺]]の開山。蘭渓は墨跡の書法の基礎をなした[[張即之]]の書をよく学び、その張即之の書風を日本に最初に移入した人物として[[日本の書道史|日本書道史]]上、注目される。したがって蘭渓の書は常に張即之の書と比較される。著に『大覚禅師語録』がある<ref name="nakata_kamakura2_153">中田勇次郎(日本7 鎌倉II) pp..153-154</ref><ref>中西慶爾 p.953</ref><ref name="shinkawa834">新川晴風 p.834</ref>。
無準は書法に長じ、多くの墨跡の名品を日本に伝えており、その書は[[張即之]]風で雄渾な大字で知られる。また『[[#与円爾尺牘|与円爾尺牘]]』の細字には別趣の味わいがあり、いずれも極めて格調が高い。無準は張即之と交渉をもったため、その弟子たちは好んで張即之の書を学んだ。また、無準は絵画にも非常に優れていたらしく、その弟子の[[牧谿]]は禅林が生んだ最大の画家で、その作品は日本にもたらされている。無準の著として『仏鑑禅師語録』が知られる<ref name="suzukihiro110"/><ref name="ibuki113"/><ref name="ibuki127"/><ref name="fukushima163"/><ref>木村卜堂 pp..178-179</ref><ref>二玄社(書道辞典) p.226</ref><ref name="horie654">堀江知彦 p.654</ref><ref>中西慶爾 p.855</ref>。


; {{Visible anchor | 与円爾尺牘}}
; {{Visible anchor | 法語・規則}}
: 『法語・規則』(ほうご・きそく)は、「見鞭影而後行」の文にはじまる『法語』と、「長老首座」にはじまる『規則』との対幅になっている。『法語』の内容は衆僧の怠慢を戒め、参禅弁道を教示したものであり、『規則』の内容は行規の厳格を要求し、違反者には罰を科すというもので、両内容とも『大覚拾遺録』に収められている。年紀はないが、蘭渓が[[建長寺]]に住していたときに両幅をほぼ同時に書いたと考えられる。書式文章ともに謹厳なもので、確固たる字形、太細の自在な変化、隅々まで行き渡る筆勢がうかがえる。その書風は張即之の書の影響が顕著であるが、それに拘泥しない禅人の質実な態度が感じられる。紙本、85.1cm×41.5cm(『法語』)、84.8cm×40.9cm(『規則』)。建長寺蔵。国宝(指定名称は'''大覚禅師墨蹟(法語規則)''')<ref name="nakata_kamakura2_153"/><ref name="shinkawa834"/><ref name="minegishi92"/>。
: 『与円爾尺牘』(えんににあたう せきとく)は、無準が[[円爾]]に書いた謝礼の[[#尺牘|尺牘]]。円爾が帰朝した翌年の[[淳祐 (南宋)|淳祐]]2年/[[仁治]]3年(1242年)の夏、径山の寺塔が火事になり、円爾はその復興のために[[博多]]から板1,000枚を径山に送った。それに対する無準の謝礼が本状である。そのため俗に'''板渡しの墨跡'''と呼ばれ珍重されている。東京国立博物館蔵。国宝(指定名称は'''無準師範墨蹟(尺牘)''')<ref name="horie654"/>。

; {{Visible anchor | 与円爾印可状}}
: 『与円爾印可状』(えんににあたう いんかじょう)は、[[嘉熙]]元年(1237年)10月、無準が円爾に書き与えた[[#印可状|印可状]]。「道無南北」の文からはじまるこの墨跡は、円爾が径山に上った翌年に与えられた。絹本、53.9cm×102.7cm。[[東福寺]]蔵。国宝(指定名称は'''無準師範墨蹟(円爾印可状 丁酉歳十月)''')<ref name="fukushima163"/>。


=== 無学祖元 ===
=== 無学祖元 ===
----
----
[[ファイル:Mugaku Soban Ichio.jpg|thumb|right|240px|『[[#与長楽寺一翁偈語|与長楽寺一翁偈語]]』([[#無学祖元|無学祖元]]筆、[[相国寺]]蔵、国宝)]]

{{main|無学祖元}}
{{main|無学祖元}}


[[#無準師範|無準師範]]の法嗣、建長寺の第3世、[[円覚寺]]の開山。[[黄庭堅]]の書風で知られる<ref name="watanabe93"/><ref name="horie788">堀江知彦 p.788</ref>。
'''無学祖元'''は、[[無準師範]]の法嗣、建長寺の第3世、[[円覚寺]]の開山。[[黄庭堅]]の書風で知られる<ref name="watanabe93"/><ref name="horie788">堀江知彦 p.788</ref>。


; {{Visible anchor | 与長楽寺一翁偈語}}
; {{Visible anchor | 与長楽寺一翁偈語}}
: 『与長楽寺一翁偈語』(ちょうらくじ いっとうにあたう げご)は、[[弘安]]2年(1279年)、無学が[[上野国]]世良田・[[長楽寺 (太田市)|長楽寺]]の[[#一翁院豪|一翁院豪]]に書いて与えた偈。もとは[[巻物|巻子]]であったと考えられるが、今は4幅に分けて表装されている。第3幅と第4幅は[[書道用語一覧#題跋|跋語]]になっており、その跋語によると一翁は無準師範の門下で、無学祖元と同門にあたるが、その時は互いに知らなかったとある。そして40年後、一翁は日本で無学に参じ、その法を嗣いだ。無学の書は概ね[[行書体|行書]]を用い、甚だ格調が高い。紙本、31.5cm×86.5cm(各幅)。[[相国寺]]蔵。国宝(指定名称は'''無学祖元墨蹟(与長楽寺一翁偈語 弘安二年十一月一日)''')<ref name="suzukihiro110"/><ref name="horie788"/><ref name="minegishi92"/><ref>中田勇次郎(日本7 鎌倉II) p.156</ref>。
: 『与長楽寺一翁偈語』(ちょうらくじ いっとうにあたう げご)は、[[弘安]]2年(1279年)、無学が[[上野国]]世良田・[[長楽寺 (太田市)|長楽寺]]の[[一翁院豪]]に書いて与えた偈。もとは[[巻物|巻子]]であったと考えられるが、今は4幅に分けて表装されている。第3幅と第4幅は[[書道用語一覧#題跋|跋語]]になっており、その跋語によると一翁は無準師範の門下で、無学祖元と同門にあたるが、その時は互いに知らなかったとある。そして40年後、一翁は日本で無学に参じ、その法を嗣いだ。無学の書は概ね[[行書体|行書]]を用い、甚だ格調が高い。紙本、31.5cm×86.5cm(各幅)。[[相国寺]]蔵。国宝(指定名称は'''無学祖元墨蹟(与長楽寺一翁偈語 弘安二年十一月一日)''')<ref name="suzukihiro110"/><ref name="minegishi92"/><ref name="horie788"/><ref>中田勇次郎(日本7 鎌倉II) p.156</ref>。

=== 中峰明本 ===
----
{{main|中峰明本}}

'''中峰明本'''は、[[#高峰原妙|高峰原妙]]の法嗣、元代一級の高僧である。放浪して居所を定めず、自ら幻住(げんじゅう)と称し、いたるところに幻住庵を構えた。能書の趙孟頫が深く中峰に[[帰依]]していたことは、趙孟頫の『与中峰明本書』(尺牘)によって知られるが、中峰が呉中(現在の[[蘇州市]])に庵を構えるとき、[[#馮子振|馮子振]]が泥を煉り、趙孟頫が運搬し、中峰が壁を塗ったという説話が伝えられている。

中峰は書をよくしたが、その書は破格であり、[[書法#露鋒|露鋒]]で扁平な[[筆画]]が柳や笹の葉に似ていることから、中国では柳葉体・柳葉書などといわれ、日本では古来、笹の葉書きと呼んでいる。ただし[[篆書体|篆書]]の一体に[[西晋]]の[[衛瓘]]が作ったとされる柳葉篆というものがあり、中峰の書は厳密にいえば必ずしも独創的なものではない。

中峰に参じた多くの日本人入元僧([[復庵宗己]]・[[#遠渓祖雄|遠渓祖雄]]・[[古先印元]]など)が帰朝後、中峰に倣って放浪の生活を好んだため、一括して幻住派(遠渓祖雄を祖とする)と呼ばれる。著に『幻住庵清規』など多数が知られる<ref name="suzukihiro110"/><ref name="horie502">堀江知彦 p.502</ref><ref>中田勇次郎(法語 済侍者) p.164</ref><ref>中西慶爾 p.490</ref><ref>中西慶爾 p.673</ref><ref>二玄社(書道辞典) p.178</ref><ref>伊吹敦 p.135</ref><ref>伊吹敦 p.243</ref>。

; {{Visible anchor | 与済侍者法語}}
: 『与済侍者法語』(せいじしゃにあたう ほうご)は、中峰が済侍者なるものに書き与えた法語。書写年代は不明である。また済侍者が誰のことも明らかではないが、[[#鉄舟徳済|鉄舟徳済]]との説がある。紙本17行、31.5cm×67.2cm。[[常盤山文庫]]蔵。重要文化財<ref>中田勇次郎(法語 済侍者) p.165</ref><ref>中西慶爾 pp..945-946</ref>。

; {{Visible anchor | 幻住庵勧縁疏}}
: 『幻住庵勧縁疏』(げんじゅうあん かんえんしょ)は、呉中の幻住庵(1300年創建)の腐朽がはなはだしいため、中峰が[[檀那]]に書いた[[書道用語一覧#勧縁疏|勧縁疏]]。[[延祐]]末年から[[至治 (元)|至治]]にかけて(1320年 - 1321年)の晩年の書と推定されている。五島美術館蔵<ref name="horie502"/><ref>中西慶爾 p.241</ref>。


=== 清拙正澄 ===
=== 清拙正澄 ===
----
----
{{main|清拙正澄}}
'''清拙 正澄'''(せいせつ せいちょう、1274年 - 1339年)は、中国・元時代の禅僧。[[#愚極智恵|愚極智恵]]の法嗣、[[#月江正印|月江正印]]の実弟にあたる<ref name="horie408">堀江知彦 p.408</ref>。
[[ファイル:Yuige.gif|thumb|right|240px|『[[#清拙正澄遺偈|遺偈]]』([[#清拙正澄|清拙正澄]]筆、[[常盤山文庫]]蔵、国宝)]]

'''清拙 正澄'''は、中国・元時代の禅僧。大鑑禅師。[[#愚極智慧|愚極智慧]]の法嗣、[[#月江正印|月江正印]]の実弟にあたる。[[泰定 (元)|泰定]]3年/[[嘉暦]]元年(1326年)に来朝したが、これは[[北条貞時]]や[[北条高時]]の招聘によるものであった。清拙は文学に優れたが、[[#偈頌|偈頌]]主義という点で[[#古林清茂|古林清茂]]と軌を一にした。著に『大鑑清規』(だいかんしんぎ、1332年)がある<ref name="ibuki197"/><ref name="horie408">堀江知彦 p.408</ref><ref>伊吹敦 p.139</ref><ref>伊吹敦 p.202</ref>。


; {{Visible anchor | 清拙正澄遺偈}}
; {{Visible anchor | 清拙正澄遺偈}}
: [[暦応]]2年(1339年)1月17日、清拙が[[入滅|入寂]]に際し書いた[[#遺偈|遺偈]]。数ある遺偈の中でも出色の墨跡として知られる。その臨終に間に合わなかった弟子が[[棺]]にすがって号泣したところ、棺を割って清拙が現れて戒法を授け、また眼を閉じたという伝説から、この遺偈を俗に'''棺割の墨跡'''(かんわりのぼくせき)という。[[常盤山文庫]]蔵。国宝(指定名称は'''清拙正澄墨蹟(遺偈 暦応二年正月十七日)''')<ref name="nagoya102"/><ref name="horie408"/>。
: [[暦応]]2年(1339年)1月17日、清拙が[[入滅|入寂]]に際し書いた[[#遺偈|遺偈]]。数ある遺偈の中でも出色の墨跡として知られる。その臨終に間に合わなかった弟子が[[棺]]にすがって号泣したところ、棺を割って清拙が現れて戒法を授け、また眼を閉じたという伝説から、この遺偈を俗に'''棺割の墨跡'''(かんわりのぼくせき)という。常盤山文庫蔵。国宝(指定名称は'''清拙正澄墨蹟(遺偈 暦応二年正月十七日)''')<ref name="nagoya102"/><ref name="horie408"/>。


=== 馮子振 ===
=== 馮子振 ===
----
----
[[ファイル:Muin Genkai Poems.jpg|thumb|right|240px|『[[#与無隠元晦詩|与無隠元晦詩]]』([[#馮子振|馮子振]]筆、東京国立博物館蔵、国宝)]]
'''馮 子振'''(ふう ししん、1257年 - 1327年以後)は、中国・元時代の[[居士]]の俊英として知られた。字は海粟(かいぞく)、海粟道人・怪道人などと号した。[[攸県|攸州]]の人。官は集賢待制史となる。博学で詩文にすぐれ、その博識ぶりは、天下の書で彼が知らないものはないと言われた。よって当時、能書家の趙孟&#x982B;とともに文名を馳せたが、馮子振の書風は特異であったため、その書を記載する文献は少なく、書人としての名はなかったようである。
[[ファイル:Gabatsu.gif|thumb|right|240px|『[[#馮子振画跋|画跋]]』([[#馮子振|馮子振]]筆、[[常盤山文庫]]蔵、国宝)]]


'''馮 子振'''(ふう ししん、1257年 - 1327年以後)は、中国・元時代の[[居士]]の俊英として知られた。字は海粟(かいぞく)、海粟道人・怪道人などと号した。[[攸県|攸州]]の人。官は集賢待制史となる。博学で詩文にすぐれ、その博識ぶりは、天下の書で彼が知らないものはないと言われた。よって当時、趙孟頫とともに文名を馳せたが、馮子振の書風は特異であったため、その書を記載する文献は少なく、書人としての名はなかったようである。
馮子振は禅学に心を寄せ、[[中峰明本]]や[[#古林清茂|古林清茂]]と親交があったため、僧侶ではないがその書は[[#無隠元晦|無隠元晦]]・[[放牛光林]](ほうぎゅう こうりん、1289年 - 1373年)・[[#月林道皎|月林道皎]]ら入元の禅僧らによって日本にもたらされ、墨跡と同等に尊重された。無隠と放牛は馮子振と交友があり、その書は馮子振から直接、贈られたものである<ref name="suzukihiro102"/><ref name="horie646">堀江知彦 p.646</ref><ref>中西慶爾 pp..844-845</ref><ref name="nishibayashi_gen44">西林昭一(元・明) pp..44-45</ref><ref name="nigensya223">二玄社(書道辞典) p.223</ref>。

馮子振は禅学に心を寄せ、[[#中峰明本|中峰明本]]や[[#古林清茂|古林清茂]]と親交があったため、僧侶ではないがその書は[[無隠元晦]]・[[放牛光林]](ほうぎゅう こうりん、1289年 - 1373年)・[[月林道皎]]ら入元の禅僧らによって日本にもたらされ、墨跡と同等に尊重された。無隠と放牛は馮子振と交友があり、その書は馮子振から直接、贈られたものである<ref name="suzukihiro102"/><ref name="horie646">堀江知彦 p.646</ref><ref>中西慶爾 pp..844-845</ref><ref name="nishibayashi_gen44">西林昭一(元・明) pp..44-45</ref><ref name="nigensya223">二玄社(書道辞典) p.223</ref>。


; {{Visible anchor | 与無隠元晦詩}}
; {{Visible anchor | 与無隠元晦詩}}
[[ファイル:Muin Genkai Poems.jpg|thumb|right|300px|『[[#与無隠元晦詩|与無隠元晦詩]]』([[#馮子振|馮子振]]筆、東京国立博物館蔵、国宝)]]


: 『与無隠元晦詩』(むいんげんまいにあたう し)は、馮子振が元朝に滞留中の[[#無隠元晦|無隠元晦]]に書き与えた偈。[[皇慶 (元)|皇慶]]・[[延祐]]年間(1312年 - 1319年)の頃のものと推定されている。黄庭堅の書法をふまえた書風で、元代の日常筆記体の一端を垣間見ることができる。紙本、32.7cm×102.5cm。東京国立博物館蔵。国宝(指定名称は'''馮子振墨蹟(与無隠元晦詩)''')<ref name="horie646"/><ref name="nishibayashi_gen44"/><ref name="nigensya223"/><ref>石川九楊(日本書史) p.100</ref>。
: 『与無隠元晦詩』(むいんげんまいにあたう し)は、馮子振が元朝に滞留中の[[無隠元晦]]に書き与えた偈。[[皇慶 (元)|皇慶]]・[[延祐]]年間(1312年 - 1319年)の頃のものと推定されている。黄庭堅の書法をふまえた書風で、元代の日常筆記体の一端を垣間見ることができる。紙本、32.7cm×102.5cm。東京国立博物館蔵。国宝(指定名称は'''馮子振墨蹟(与無隠元晦詩)''')<ref name="horie646"/><ref name="nishibayashi_gen44"/><ref name="nigensya223"/><ref>石川九楊(日本書史) p.100</ref>。


=== その他 ===
=== その他 ===
----
----
* <span id="笑隠大キン">'''笑隠 大訢'''</span>(しょういん だいきん、1284年 - 1344年)は、中国・元時代の禅僧。俗姓は陳。[[南昌市|南昌]]([[江西省]])の人。[[#晦機元煕|晦機元煕]]の法嗣、門下に[[#用章廷俊|用章廷俊]]がいる。禅林における[[駢文|四六駢儷文]]の大家で、著に『蒲室集』(ほしつしゅう)、『笑隠大訢禅師語録』などがある。『蒲室集』は四六文の作法の教科書として日本の五山でも重んじられた<ref name="ibuki136"/>。
* <span id="別源円旨">'''別源 円旨'''</span>(べつげん えんし、1294年 - 1364年)は、日本・南北朝時代の禅僧。[[#古林清茂|古林清茂]]の法嗣。別源は帰朝(1330年)後、[[弘祥寺]]の開山となり、[[五山文学]]にも名を馳せた人物である<ref name="horie198"/><ref>伊吹敦 pp..143-144</ref><ref>伊吹敦 p.197</ref>。

* <span id="別源円旨">'''別源 円旨'''</span>(べつげん えんし、1294年 - 1364年)は、日本・南北朝時代の禅僧。[[#古林清茂|古林清茂]]の法嗣。別源は帰朝(1330年)後、[[弘祥寺]]の開山となり、[[五山文学]]にも名を馳せた人物である<ref name="ibuki197"/><ref name="horie198"/><ref>伊吹敦 pp..143-144</ref>。


* <span id="鉄舟徳済">'''鉄舟 徳済'''</span>(てっしゅう とくさい、? - 1366年)は、日本・室町時代の禅僧。[[下野国|下野]]の人。[[夢窓疎石]]の法嗣。在元中、[[ダルマバラ|順宗]]から円通大師の号を贈られた。帰朝後、[[阿波国|阿波]]・[[宝陀寺]]の開山となり、[[万寿寺]]の第29世を嗣いだ<ref name="horie205"/><ref name="horie581"/><ref name="horie541"/>。
* <span id="鉄舟徳済">'''鉄舟 徳済'''</span>(てっしゅう とくさい、? - 1366年)は、日本・室町時代の禅僧。[[下野国|下野]]の人。[[夢窓疎石]]の法嗣。在元中、[[ダルマバラ|順宗]]から円通大師の号を贈られた。帰朝(1344年頃)後、[[阿波国|阿波]]・[[宝陀寺]]の開山となり、[[万寿寺]]の第29世を嗣いだ。鉄舟は文人画の流れを汲む墨戯としての絵画の作法を中国から伝え、[[竹]]や[[ラン科|蘭]]・[[ウメ|梅]]・[[ブドウ|葡萄]]などを描き、墨蘭の名手といわれた<ref name="horie205"/><ref name="horie581"/><ref name="horie541"/><ref>伊吹敦 p.223</ref><ref>伊吹敦 p.232</ref><ref>中西慶爾 p.945</ref>。


== 禅林墨跡略系譜 ==
== 禅林墨跡略系譜 ==
以下、[[臨済宗]]([[臨済義玄]]の法系)の略系譜を記す<ref name="minegishi127"/><ref name="kanda_soudai19"/><ref name="suzukihiro110"/><ref name="nakata132"/><ref name="nishibayashi_godai125"/><ref name="kanariya72"/><ref name="furuta176"/><ref>中西慶爾 p.596</ref><ref>飯島春敬 p.748</ref><ref>堀江知彦 p.53、p.68、p.191、pp..204-205、p.218、pp..324-325、p.331、p.348、p.404、pp..420-421、p.465、p.499、p.524、p.541、p.549、p.565、p.581、p.646、p.714、p.744、p.768、pp..787-788、p.847、p.855、p.857、p.861</ref><ref>伊吹敦 p.73、p.80、p.86、p.97、p.109、pp..113-116、p.125、pp..133-137、pp.143-144、pp..188-191、p.195、p.197、pp..199-200、pp..213-214、p.223、pp.225-226、p.229、pp..239-240、pp..249-250、p.261、p.282、pp..315-316</ref>。
以下、[[臨済宗]]([[臨済義玄]]の法系)の略系譜を記す<ref name="minegishi127"/><ref name="kanda_soudai19"/><ref name="suzukihiro110"/><ref name="nakata132"/><ref name="nishibayashi_godai125"/><ref name="kanariya72"/><ref name="furuta176"/><ref>中西慶爾 p.596</ref><ref>飯島春敬 p.748</ref><ref>堀江知彦 p.53、p.68、p.191、pp..204-205、p.218、p.267、p.318、pp..324-325、p.331、p.348、p.404、pp..420-421、p.465、p.499、p.524、p.541、p.549、p.565、p.581、p.646、p.714、p.744、p.768、pp..787-788、p.847、p.855、p.857、p.861</ref><ref>北川博邦 p.227、p.404</ref><ref>伊吹敦 p.73、p.80、p.86、p.97、p.109、pp..113-116、p.125、pp..133-137、pp..143-144、pp..188-191、p.195、p.197、pp..199-201、pp..213-214、p.223、pp..225-226、p.229、p.235、pp..238-240、pp..249-250、p.261、p.263、p.282、pp..315-316</ref><ref>可成屋 p.114</ref><ref name="#2"/><ref>小松茂美 図版237</ref><ref>外山軍治 p.29、p.174</ref>。


* [[興化存奨]](こうけ ぞんしょう、830年 - 888年、中国・唐)
* [[興化存奨]](こうけ ぞんしょう、830年 - 888年、中国・唐)
** [[南院慧&#x9852;]](なんいん えぎょう、860年 - 930年頃、中国・唐から五代)
** [[南院慧]](なんいん えぎょう、860年 - 930年頃、中国・唐から五代)
*** [[風穴延沼]](ふけつ えんしょう、896年 - 973年、中国・五代)
*** [[風穴延沼]](ふけつ えんしょう、896年 - 973年、中国・五代)
**** [[首山省念]](しゅざん しょうねん、926年 - 993年、中国・北宋)
**** [[首山省念]](しゅざん しょうねん、926年 - 993年、中国・北宋)
***** [[汾陽善昭]](ふんよう ぜんしょう、947年 - 1024年、中国・北宋)
***** [[汾陽善昭]](ふんよう ぜんしょう、947年 - 1024年、中国・北宋)
****** [[石霜楚円]](せきそう そえん、986年 - 1039年、中国・北宋)
****** [[石霜楚円]](せきそう そえん、986年 - 1039年、中国・北宋)
******* <span id="黄龍慧南">[[黄龍慧南]]</span>おうりょう えなん、1002年 - 1069年、中国・北宋、'''[[#黄龍派|黄龍派]]''')
******* [[黄龍慧南]](中国・北宋、'''[[#黄龍派|黄龍派]]''')
******* <span id="楊岐方会">[[楊岐方会]]</span>ようぎ ほうえ、992年 - 1049年、中国・北宋、'''[[#楊岐派|楊岐派]]''')
******* [[楊岐方会]](中国・北宋、'''[[#楊岐派|楊岐派]]''')


=== 黄龍派 ===
=== 黄龍派 ===
----
----
以下、[[#黄龍慧南|黄龍慧南]]の法系を記す。
以下、[[黄龍慧南]]の法系を記す。


* <span id="東林常総">[[東林常総]]</span>(とうりん じょうそう、1025年 - 1091年、中国・北宋)
* <span id="東林常総">[[東林常総]]</span>(とうりん じょうそう、1025年 - 1091年、中国・北宋)
382行目: 601行目:
*** ……
*** ……
**** <span id="虚庵懐敞">[[虚庵懐敞]]</span>(こあん えしょう、生没年不詳、中国・南宋)
**** <span id="虚庵懐敞">[[虚庵懐敞]]</span>(こあん えしょう、生没年不詳、中国・南宋)
***** [[栄西]](日本・鎌倉、1168年・1187年入宋、1191年帰朝、千光派)
***** [[明菴栄西|栄西]](日本・鎌倉、1168年・1187年入宋、1191年帰朝、千光派・[[臨済宗建仁寺派|建仁寺派]]
** [[黄庭堅]](中国・北宋、居士)
** [[黄庭堅]](中国・北宋、居士)


=== 楊岐派 ===
=== 楊岐派 ===
----
----
以下、[[#楊岐方会|楊岐方会]]の法系を記す。
以下、[[楊岐方会]]の法系を記す。


* [[白雲守端]](はくうん しゅたん、1025年 - 1072年、中国・北宋)
* [[白雲守端]](はくうん しゅたん、1025年 - 1072年、中国・北宋)
402行目: 621行目:
******* [[恭翁運良]](日本・南北朝)
******* [[恭翁運良]](日本・南北朝)
******* [[孤峰覚明]](日本・南北朝、1311年入元)
******* [[孤峰覚明]](日本・南北朝、1311年入元)
******** [[抜隊得勝]](日本・南北朝、[[臨済宗向嶽寺派|向嶽寺派]])
******** [[慈雲妙意]](日本・鎌倉から南北朝、[[臨済宗国泰寺派|国泰寺派]])


==== 大慧派 ====
==== 大慧派 ====
408行目: 629行目:


* [[拙庵徳光]](せったん とっこう、1121年 - 1203年、中国・南宋)
* [[拙庵徳光]](せったん とっこう、1121年 - 1203年、中国・南宋)
** [[北&#x7900;居簡]](ほっかん きょかん、敬叟居簡とも、1164年 - 1246年、中国・南宋)
** <span id="北カン居簡">[[北&#x7900;居簡]]</span>(ほっかん きょかん、敬叟居簡とも、1164年 - 1246年、中国・南宋)
*** [[物初大観]](もっしょ たいかん、1201年 - 1268年、中国・南宋)
*** [[物初大観]](もっしょ たいかん、1201年 - 1268年、中国・南宋)
**** [[晦機元煕]](まいき げんき、1238年 - 1319年、中国・南宋)
**** <span id="晦機元煕">[[晦機元煕]]</span>(まいき げんき、1238年 - 1319年、中国・南宋)
***** [[東陽徳輝]](とうよう てひ、14世紀前半、中国・元)
***** [[東陽徳輝]](とうよう てひ、14世紀前半、中国・元)
****** [[中巌円月]](日本・南北朝、1332年帰朝、中巌派)
****** [[中巌円月]](日本・南北朝、1332年帰朝、中巌派)
***** <span id="笑隠大&#x8A22;">[[笑隠大&#x8A22;]]</span>しょういん だいきん、1284年 - 1344年、中国・元)
***** [[#笑隠大キン|笑隠大]](中国・元)
****** <span id="用章廷俊">[[用章廷俊]]</span>(ようしょう てんしゅん、1299年 - 1368年、中国・元)
****** <span id="用章廷俊">[[用章廷俊]]</span>(ようしょう てんしゅん、1299年 - 1368年、中国・元)
******* <span id="無我省吾">[[無我省吾]]</span>(むが しょうご、1310年 - 1381年、日本・南北朝)
******* <span id="無我省吾">[[無我省吾]]</span>(むが しょうご、1310年 - 1381年、日本・南北朝)
***** [[石室祖瑛]](せきしつ そえい、1291年 - 1343年、中国・元)
***** [[石室祖瑛]](せきしつ そえい、1291年 - 1343年、中国・元)
** [[浙翁如&#x7430;]](せっとう にょえん、1151年 - 1225年、中国・南宋)
** [[浙翁如]](せっとう にょえん、1151年 - 1225年、中国・南宋)
*** [[偃渓広聞]](えんけい こうもん、1189年 - 1263年、中国・南宋)
*** [[偃渓広聞]](えんけい こうもん、1189年 - 1263年、中国・南宋)
*** [[大川普済]](だいせん ふさい、1179年 - 1253年、中国・南宋)
*** [[大川普済]](だいせん ふさい、1179年 - 1253年、中国・南宋)
426行目: 647行目:
** [[大日房能忍]](日本・鎌倉)
** [[大日房能忍]](日本・鎌倉)
* <span id="開善道謙">[[開善道謙]]</span>(かいぜん どうけん、12世紀中頃、中国・南宋)
* <span id="開善道謙">[[開善道謙]]</span>(かいぜん どうけん、12世紀中頃、中国・南宋)
* <span id="李&#x90B4;">[[李&#x90B4;]]</span>(り へい、1085年 - 1146年、中国・南宋、[[居士]])
* <span id="李ヘイ">[[李]]</span>(り へい、1085年 - 1146年、中国・南宋、[[居士]])
* <span id="張九成">[[張九成]]</span>(ちょう きゅうせい、1092年 - 1159年、中国・南宋、居士)
* <span id="張九成">[[張九成]]</span>(ちょう きゅうせい、1092年 - 1159年、中国・南宋、居士)
* [[無用浄全]](むゆう じょうぜん、1137年 - 1207年、中国・南宋)
* [[無用浄全]](むゆう じょうぜん、1137年 - 1207年、中国・南宋)
** [[笑翁妙堪]](しょうおう みょうたん、1176年 - 1247年、中国・南宋)
** [[笑翁妙堪]](しょうおう みょうたん、1176年 - 1247年、中国・南宋)
*** <span id="無文道&#x74A8;">[[無文道&#x74A8;]]</span>(むもん どうさん、1214年 - 1271年、中国・南宋)
*** <span id="無文道サン">[[無文道]]</span>(むもん どうさん、1214年 - 1271年、中国・南宋)


==== 虎丘派 ====
==== 虎丘派 ====
438行目: 659行目:
* <span id="応庵曇華">[[応庵曇華]]</span>(おうあん どんげ、1103年 - 1163年、中国・南宋)
* <span id="応庵曇華">[[応庵曇華]]</span>(おうあん どんげ、1103年 - 1163年、中国・南宋)
** '''[[#密庵咸傑|密庵咸傑]]'''(中国・南宋)
** '''[[#密庵咸傑|密庵咸傑]]'''(中国・南宋)
*** <span id="松源崇">[[松源崇]]</span>(しょうげん すうがく、1139年 - 1209年、中国・南宋、'''[[#松源派|松源派]]''')
*** <span id="松源崇">[[松源崇]]</span>(しょうげん すうがく、1139年 - 1209年、中国・南宋、'''[[#松源派|松源派]]''')
*** <span id="破庵祖先">[[破庵祖先]]</span>(はあん そせん、1136年 - 1211年、中国・南宋、'''[[#破庵派|破庵派]]''')
*** <span id="破庵祖先">[[破庵祖先]]</span>(はあん そせん、1136年 - 1211年、中国・南宋、'''[[#破庵派|破庵派]]''')
*** <span id="曹源道生">[[曹源道生]]</span>(そうげん どうしょう、生没年不詳、中国・南宋、'''[[#曹源派|曹源派]]''')
*** <span id="曹源道生">[[曹源道生]]</span>(そうげん どうしょう、生没年不詳、中国・南宋、'''[[#曹源派|曹源派]]''')
444行目: 665行目:
===== 松源派 =====
===== 松源派 =====
----
----
以下、[[#松源崇|松源崇]]の法系を記す。
以下、[[#松源崇|松源崇]]の法系を記す。


* [[滅翁文礼]](めっとう ぶんらい、生没年不詳、中国・南宋)
* [[滅翁文礼]](めっとう ぶんらい、生没年不詳、中国・南宋)
** <span id="横川如&#x73D9;">[[横川如&#x73D9;]]</span>(おうせん にょこう、1222年 - 1289年、中国・南宋)
** <span id="横川如コウ">[[横川如]]</span>(おうせん にょこう、1222年 - 1289年、中国・南宋)
*** '''[[#古林清茂|古林清茂]]'''(中国・元)
*** '''[[#古林清茂|古林清茂]]'''(中国・元)
**** '''[[#了庵清欲|了庵清欲]]'''(中国・元)
**** '''[[#了庵清欲|了庵清欲]]'''(中国・元)
**** [[竺仙梵僊]](中国・元、1330年来朝、竺仙派)
**** [[竺仙梵僊]](中国・元、1330年来朝、竺仙派)
**** <span id="月林道皎">[[月林道皎]]</span>げつりん どうこう、1293年 - 1351年、日本・鎌倉、1330年帰朝)
**** [[月林道皎]](日本・鎌倉、1330年帰朝)
**** [[#別源円旨|別源円旨]](日本・南北朝、1330年帰朝)
**** [[#別源円旨|別源円旨]](日本・南北朝、1330年帰朝)
**** <span id="石室善玖">[[石室善玖]]</span>せきしつ ぜんきゅう、1293年 - 1389年、日本・南北朝)
**** [[石室善玖]](日本・南北朝、1318年入元、1326年帰朝)
* [[無得覚通]](むとく かくつう、中国・南宋)
* [[無得覚通]](むとく かくつう、中国・南宋)
** [[虚舟普度]](きしゅう ふど、1196年 - 1277年、中国・南宋)
** [[虚舟普度]](きしゅう ふど、1196年 - 1277年、中国・南宋)
*** <span id="虎巌浄伏">[[虎巌浄伏]]</span>(こがん じょうふく、生没年不詳、中国・元)
*** <span id="虎巌浄伏">[[虎巌浄伏]]</span>(こがん じょうふく、生没年不詳、中国・元)
**** [[#月江正印|月江正印]](中国・元)
**** [[#月江正印|月江正印]](中国・元)
**** [[明極楚俊]](中国・元、1330年来朝、明極派&#x71C4;慧派))
**** [[明極楚俊]](中国・元、1330年来朝、明極派&#x71C4;慧派
**** [[#南楚師説|南楚師説]](中国・元)
**** '''[[#南楚師説|南楚師説]]'''(中国・元)
**** [[即休契了]](しっきゅう きつりょう、1269年 - 1351年、中国・元)
**** <span id="即休契了">[[即休契了]]</span>(しっきゅう きつりょう、1269年 - 1351年、中国・元)
***** [[愚中周及]](日本・南北朝、1351年帰朝、愚中派仏徳派))
***** [[愚中周及]](日本・南北朝、1351年帰朝、愚中派仏徳派・[[臨済宗佛通寺派|仏通寺派]])
**** <span id="独孤淳朋">[[独孤淳朋]]</span>(どっこ じゅんぽう、1259年 - 1336年、中国・元)
**** <span id="独孤淳朋">[[独孤淳朋]]</span>(どっこ じゅんぽう、1259年 - 1336年、中国・元)
* <span id="運庵普巌">[[運庵普巌]]</span>(うんあん ふがん、? - 1222年、中国・南宋)
* <span id="運庵普巌">[[運庵普巌]]</span>(うんあん ふがん、? - 1222年、中国・南宋)
** '''[[#虚堂智愚|虚堂智愚]]'''(中国・南宋)
** '''[[#虚堂智愚|虚堂智愚]]'''(中国・南宋)
*** <span id="霊石如芝">[[霊石如芝]]</span>(りんせき にょし、1246年 - 1322年以後、中国・南宋から元)
*** <span id="霊石如芝">[[霊石如芝]]</span>(りんせき にょし、1246年 - 1322年以後、中国・南宋から元)
*** [[南浦紹明]](日本・鎌倉、1267年帰朝、'''[[#大応派|大応派]]'''
*** [[南浦紹明]](日本・鎌倉、1267年帰朝、大応派)
**** '''[[#宗峰妙超|宗峰妙超]]'''(日本・鎌倉、大灯派・[[臨済宗大徳寺派|大徳寺派]])
***** '''[[関山慧玄]]'''(日本・鎌倉から南北朝、'''[[#関山派|関山派]]'''・[[臨済宗妙心寺派|妙心寺派]])
***** '''[[#徹翁義亨|徹翁義亨]]'''(日本・南北朝、'''[[#徹翁派|徹翁派]]''')
**** [[可翁|可翁宗然]](日本・鎌倉から南北朝、1326年帰朝)
** [[石帆惟衍]](しっぱん いえん、生没年不詳、中国・南宋)
** [[石帆惟衍]](しっぱん いえん、生没年不詳、中国・南宋)
*** <span id="西&#x7900;子曇">[[西&#x7900;子曇]]</span>(せいかん すどん、1249年 - 1306年、中国・南宋、1271年来朝、西&#x7900;大通派))
*** <span id="西カン子曇">[[西子曇]]</span>(せいかん すどん、1249年 - 1306年、中国・南宋、1271年来朝、西大通派
* [[掩室善開]](中国・南宋)
* [[掩室善開]](中国・南宋)
** <span id="石渓心月">[[石渓心月]]</span>(しっけい しんげつ、? - 1254年以後、中国・南宋)
** <span id="石渓心月">[[石渓心月]]</span>(しっけい しんげつ、? - 1254年以後、中国・南宋)
*** [[大休正念]](中国・南宋、1269年来朝、大休派仏源派))
*** [[大休正念]](中国・南宋、1269年来朝、大休派仏源派
*** <span id="無象静照">[[無象静照]]</span>むしょう じょうしょう、1234年 - 1306年、日本・鎌倉、1265年帰朝、法海派)
*** [[無象静照]](日本・鎌倉、1265年帰朝、法海派)
* <span id="無明慧性">[[無明慧性]]</span>(むみょう えしょう、1162年 - 1237年、中国・南宋)
* <span id="無明慧性">[[無明慧性]]</span>(むみょう えしょう、1162年 - 1237年、中国・南宋)
** '''[[#蘭渓道隆|蘭渓道隆]]'''(中国・南宋、1246年来朝、大覚派)
** '''[[#蘭渓道隆|蘭渓道隆]]'''(中国・南宋、1246年来朝、大覚派・[[臨済宗建長寺派|建長寺派]]
*** [[約翁徳倹]](やくおう とっけん、1245年 - 1320年、日本・鎌倉)
*** [[約翁徳倹]](やくおう とっけん、1245年 - 1320年、日本・鎌倉)
**** [[寂室元光]](日本・南北朝、1326年帰朝、円応派)
**** [[寂室元光]](日本・南北朝、1320年入元、1326年帰朝、円応派・[[臨済宗永源寺派|永源寺派]]


====== 大応派 ======
====== 関山派 ======
----
----
以下、[[南浦紹明]]の法系を記す。
以下、[[関山慧玄]]の法系(妙心寺派)を記す。


* '''[[#峰妙超|宗峰妙超]]'''(日本・鎌倉)
* [[授翁]](日本・鎌倉から南北朝
** [[関山慧玄]](日本・鎌倉から南北朝、関山派
** [[無因宗因]](日本・南北朝から室町
*** [[授翁]](日本・鎌倉から南北朝
*** [[日峰]](日本・室町
**** [[無因宗因]](むいん そういん、1326年 - 1410年、日本・南北朝から室町)
**** [[義天玄詔]](日本・室町)
***** [[日峰]](日本・室町)
***** [[雪江]](日本・室町)
****** [[義天玄詔]](日本・室町)
****** [[悟渓宗頓]](日本・室町、東海派
******* [[雪江宗深]](日本・室町)
****** [[特芳禅傑]](日本・室町、聖沢派
******** [[悟渓]](ごけい そうとん、1416年 - 1500年、日本・室町、東海派)
****** [[景川]](日本・室町、龍泉派)
******** [[特芳禅傑]](とくほう ぜんけつ、1419年 - 1506年、日本・室町、聖沢派)
****** [[東陽英朝]](日本・室町、霊雲派)
******* ……
******** [[景川宗隆]](けいせん そうりゅう、1426年 - 1500年、日本・室町、龍泉派)
******** [[東陽英朝]](とうよう えいちょう、1426年 - 1504年、日本・室町、霊雲派
******** [[愚堂]](日本・江戸初期
** [[#徹翁義亨|徹翁義亨]](日本・南北朝、徹翁派
********* [[至道無難]](日本・江戸初期
********** [[道鏡慧端]](日本・江戸中期)
*** <span id="言外宗忠">[[言外宗忠]]</span>(ごんがい そうちゅう、1305年 - 1390年、日本・南北朝)
*********** [[白隠慧鶴]](日本・江戸中期)
**** <span id="華叟宗曇">[[華叟宗曇]]</span>(けそう そうどん、1352年 - 1428年、日本・室町)

***** [[一休宗純]](日本・室町)
====== 徹翁派 ======
****** [[墨斎紹等]](ぼくさい しょうとう、? - 1496年、日本・室町)
----
***** [[養叟宗頤]](ようそう そうい、1379年 - 1458年、日本・室町)
以下、[[#徹翁義亨|徹翁義亨]]の法系([[#宗峰妙超|宗峰妙超]]に始まる大徳寺派)を記す。
* [[可翁|可翁宗然]](日本・鎌倉から南北朝、1326年帰朝)

* <span id="言外宗忠">[[言外宗忠]]</span>(ごんがい そうちゅう、1305年 - 1390年、日本・南北朝)
** [[華叟宗曇]](日本・室町)
*** '''[[#一休宗純|一休宗純]]'''(日本・室町)
**** [[墨斎紹等]](ぼくさい しょうとう、? - 1496年、日本・室町)
*** [[養叟宗頤]](日本・室町)
**** [[春浦宗煕]](しゅんぽ そうき、1416年 - 1496年、日本・室町)
***** [[実伝宗真]](じつでん そうしん、1434年 - 1507年、日本・室町)
****** [[古嶽宗亘]](こがく そうこう、1465年 - 1548年、日本・室町)
******* [[伝庵宗器]](でんあん そうき、日本・室町)
******** [[大林宗套]](日本・室町)
********* [[笑嶺宗訢]](日本・室町)
********** [[古渓宗陳]](日本・安土桃山)
*********** [[玉甫紹琮]](ぎょくほ じょうそう、1546年 - 1613年、日本・江戸初期)
************ [[賢谷宗良]](けんこく そうりょう、日本・江戸初期)
************* <span id="清巌宗渭">[[清巌宗渭]]</span>(せいがん そうい、1588年 - 1661年、日本・江戸初期)
********** [[春屋宗園]](日本・安土桃山から江戸初期)
*********** [[江月宗玩]](日本・江戸初期)
********** [[一凍紹滴]](いっとう じょうてき、1539年 - 1612年、日本・江戸初期)
*********** [[沢庵宗彭]](日本・安土桃山から江戸初期)


===== 破庵派 =====
===== 破庵派 =====
505行目: 750行目:
以下、[[#破庵祖先|破庵祖先]]の法系を記す。
以下、[[#破庵祖先|破庵祖先]]の法系を記す。


* '''[[#無準師範|無準師範]]'''(中国・南宋)
* [[無準師範]](中国・南宋)
** [[兀庵普寧]](中国・南宋、1260年来朝、1265年帰国、兀庵派宗覚派))
** [[兀庵普寧]](中国・南宋、1260年来朝、1265年帰国、兀庵派宗覚派
*** [[東巌慧安]](日本・鎌倉)
** <span id="西巌了恵">[[西巌了恵]]</span>(せいがん りょうえ、1198年 - 1262年、中国・南宋)
** <span id="西巌了恵">[[西巌了恵]]</span>(せいがん りょうえ、1198年 - 1262年、中国・南宋)
*** [[東巌浄日]](とうがん じょうにち、生没年不詳、中国・元)
*** [[東巌浄日]](とうがん じょうにち、生没年不詳、中国・元)
513行目: 759行目:
** [[石梁以忠]](せきりょう いちゅう、生没年不詳、中国・南宋)
** [[石梁以忠]](せきりょう いちゅう、生没年不詳、中国・南宋)
** [[環渓惟一]](かんけい いいつ、1202年 - 1281年、中国・南宋)
** [[環渓惟一]](かんけい いいつ、1202年 - 1281年、中国・南宋)
*** [[鏡堂覚円]](きょうどう かくえん、中国・南宋、1279年来朝、鏡堂派大円派))
*** [[鏡堂覚円]](きょうどう かくえん、中国・南宋、1279年来朝、鏡堂派大円派
** '''[[#無学祖元|無学祖元]]'''(中国・南宋、1279年来朝、'''[[#無学派(仏光派)|無学派(仏光派)]]''')
** '''[[#無学祖元|無学祖元]]'''(中国・南宋、1279年来朝、'''[[#無学派|無学派]]'''・仏光派・[[臨済宗円覚寺派|円覚寺派]]
** [[牧谿]](中国・南宋から元)
** [[牧谿]](中国・南宋から元)
** <span id="雪巌祖欽">[[雪巌祖欽]]</span>(せつがん そきん、? - 1287年、中国・南宋から元)
** <span id="雪巌祖欽">[[雪巌祖欽]]</span>(せつがん そきん、? - 1287年、中国・南宋から元、'''[[#雪巌の法系|雪巌の法系]]'''
*** <span id="霊山道隠">[[霊山道隠]]</span>(りょうざん どういん、1255年 - 1325年、中国・元、1319年来朝、仏慧派)
*** [[鉄牛持定]](中国・元)
**** [[絶学世誠]](中国・元)
***** [[古梅正友]](中国・元)
****** [[無文元選]](日本・南北朝、聖鑑派)
*** [[高峰原妙]](こうほう げんみょう、1238年 - 1295年、中国・南宋から元)
**** [[中峰明本]](中国・元)
***** [[千巌元長]](せんがん げんちょう、1284年 - 1357年、中国・元)
****** [[万峰時蔚]](中国)
******* ……
******** [[費隠通容]](中国・明)
********* [[隠元隆き|隠元隆琦]](中国・明、1654年来朝、'''[[黄檗宗]]''')
********** [[木庵性トウ|木庵性&#x746B;]](中国・明、1655年来朝)
********** [[即非如一]](中国・明、1657年来朝)
****** [[大拙祖能]](日本・南北朝、1358年帰朝、大拙派)
***** [[復庵宗己]](ふくあん そうこ、1280年 - 1358年、日本・鎌倉から南北朝、復庵派)
***** <span id="遠渓祖雄">[[遠渓祖雄]]</span>(えんけい そおう、1286年 - 1344年、日本・鎌倉から南北朝、1316年帰朝、遠渓派(幻住派<ref>[[中峰明本]]に参じた多くの日本人入元僧が帰朝後、一括して幻住派と呼ばれた。[[#遠渓祖雄|遠渓祖雄]]を幻住派の祖としている(伊吹敦 p.135、p.243)。</ref>))
***** [[古先印元]](こせん いんげん、1295年 - 1374年、日本・鎌倉から南北朝、1326年帰朝、古先派)
***** '''[[#馮子振|馮子振]]'''(中国・元、[[居士]])
***** <span id="無隠元晦">[[無隠元晦]]</span>(むいん げんまい、? - 1358年、日本・南北朝、[[豊前国|豊前]]の人)
** <span id="希叟紹曇">[[希叟紹曇]]</span>(きそう しょうどん、生没年不詳、中国・元)
** <span id="希叟紹曇">[[希叟紹曇]]</span>(きそう しょうどん、生没年不詳、中国・元)
** [[退耕徳寧]](ついかん とくねい、生没年不詳、中国・元)
** [[退耕徳寧]](ついかん とくねい、生没年不詳、中国・元)
** [[円爾]](日本・鎌倉、1241年帰朝、'''[[#聖一派|聖一派]]''')
** [[円爾]](日本・鎌倉、1241年帰朝、'''[[#聖一派|聖一派]]'''・[[臨済宗東福寺派|東福寺派]]
* [[石田法薫]](せきでん ほうくん、1171年 - 1245年、中国・南宋)
* [[石田法薫]](せきでん ほうくん、1171年 - 1245年、中国・南宋)
** <span id="愚極智">[[愚極智]]</span>(ぐごく ちえ、生没年不詳、中国・元)
** <span id="愚極智">[[愚極智]]</span>(ぐごく ちえ、生没年不詳、中国・元)
*** '''[[#清拙正澄|清拙正澄]]'''(中国・元、1326年来朝、清拙派大鑑派))
*** '''[[#清拙正澄|清拙正澄]]'''(中国・元、1326年来朝、清拙派大鑑派
*** [[竺田悟心]](じくでん ごしん、生没年不詳、中国・元)
*** <span id="竺田悟心">[[竺田悟心]]</span>(じくでん ごしん、生没年不詳、中国・元)
*** [[樵隠悟逸]](しょういん ごいつ、1262年 - ?、中国・元)
*** [[樵隠悟逸]](しょういん ごいつ、1262年 - ?、中国・元)


====== 無学派(仏光派) ======
====== 無学派 ======
----
----
以下、[[#無学祖元|無学祖元]]の法系を記す。
以下、[[#無学祖元|無学祖元]]の法系を記す。


* [[高峰顕日]](日本・鎌倉)
* [[高峰顕日]](日本・鎌倉)
** [[天岸慧広]](でんがん えこう、1273年 - 1335年、日本・鎌倉から南北朝、1329年帰朝)
** [[天岸慧広]](日本・鎌倉から南北朝、1329年帰朝)
** [[夢窓疎石]](日本・鎌倉から南北朝、夢窓派)
** [[夢窓疎石]](日本・鎌倉から南北朝、夢窓派・[[臨済宗天龍寺派|天龍寺派]]・[[臨済宗相国寺派|相国寺派]]
*** [[無極志玄]](日本・鎌倉から南北朝)
*** [[無極志玄]](日本・鎌倉から南北朝)
**** [[空谷明応]](日本・南北朝)
**** [[空谷明応]](日本・南北朝)
562行目: 788行目:
*** [[#鉄舟徳済|鉄舟徳済]](日本・南北朝、1344年頃帰朝)
*** [[#鉄舟徳済|鉄舟徳済]](日本・南北朝、1344年頃帰朝)
*** [[龍湫周沢]](日本・南北朝)
*** [[龍湫周沢]](日本・南北朝)
* <span id="一翁院豪">[[一翁院豪]]</span>いっとう いんごう、1210年 - 1281年、日本・鎌倉)
* [[一翁院豪]](日本・鎌倉)

====== 雪巌の法系 ======
----
以下、[[#雪巌祖欽|雪巌祖欽]]の法系を記す。

* <span id="霊山道隠">[[霊山道隠]]</span>(りょうざん どういん、1255年 - 1325年、中国・元、1319年来朝、仏慧派)
* [[鉄牛持定]](中国・元)
** [[絶学世誠]](中国・元)
*** [[古梅正友]](中国・元)
**** [[無文元選]](日本・南北朝、聖鑑派・[[臨済宗方広寺派|方広寺派]])
* <span id="高峰原妙">[[高峰原妙]]</span>(こうほう げんみょう、1238年 - 1295年、中国・南宋から元)
** '''[[#中峰明本|中峰明本]]'''(中国・元)
*** [[千巌元長]](せんがん げんちょう、1284年 - 1357年、中国・元)
**** [[万峰時蔚]](中国)
***** ……
****** [[費隠通容]](中国・明)
******* [[隠元隆琦]](中国・明から清、1654年来朝、'''[[黄檗宗]]'''・隠元派)
******** [[木庵性瑫]](中国・明から清、1655年来朝)
********* [[鉄牛道機]](日本・江戸初期)
******** [[即非如一]](中国・明から清、1657年来朝)
******** [[独立性易]](中国・明から清、1653年来朝)
**** [[大拙祖能]](日本・南北朝、1358年帰朝、大拙派)
*** [[復庵宗己]](日本・鎌倉から南北朝、復庵派)
*** <span id="遠渓祖雄">[[遠渓祖雄]]</span>(えんけい そおう、1286年 - 1344年、日本・鎌倉から南北朝、1316年帰朝、遠渓派・幻住派)
*** [[古先印元]](日本・鎌倉から南北朝、1326年帰朝、古先派)
*** '''[[#馮子振|馮子振]]'''(中国・元、[[居士]])
*** [[無隠元晦]](日本・南北朝、[[豊前国|豊前]]の人)


====== 聖一派 ======
====== 聖一派 ======
568行目: 821行目:
以下、[[円爾]]の法系を記す。
以下、[[円爾]]の法系を記す。


* [[東山湛照]](とうざん たんしょう、1231年 - 1291年、日本・鎌倉)
* [[東山湛照]](日本・鎌倉)
** [[虎関師錬]](日本・南北朝)
** [[虎関師錬]](日本・南北朝)
* [[無関普門]](日本・鎌倉、1262年帰朝)
* [[無関普門]](日本・鎌倉、1251年入宋、1262年帰朝、[[臨済宗南禅寺派|南禅寺派]]
* [[南山士雲]](日本)
* [[南山士雲]](なんざん しうん、1254年 - 1335年、日本・鎌倉
** [[乾峰士曇]](けんぽう しどん、1285年 - 1361年、日本・鎌倉から南北朝)
** [[乾峰士曇]](けんぽう しどん、1285年 - 1361年、日本・鎌倉から南北朝)
* <span id="白雲慧暁">[[白雲慧暁]]</span>(はくうん えぎょう、1228年 - 1297年、日本・鎌倉)
* <span id="白雲慧暁">[[白雲慧暁]]</span>(はくうん えぎょう、1228年 - 1297年、日本・鎌倉)
* [[兀大慧]](ちごつ だいえ、1229年 - 1312年、日本・鎌倉)
* [[兀大慧]](日本・鎌倉)
* [[蔵山順空]](日本・鎌倉)
** [[固山一鞏]](日本・鎌倉から南北朝)


===== 曹源派 =====
===== 曹源派 =====
585行目: 840行目:
**** [[雪村友梅]](日本・南北朝、1329年帰朝)
**** [[雪村友梅]](日本・南北朝、1329年帰朝)
***** [[太清宗渭]](日本・南北朝)
***** [[太清宗渭]](日本・南北朝)
****** [[太白真玄]](たいはく しんげん、? - 1415年、日本・南北朝から室町)
****** [[太白真玄]](日本・南北朝から室町)


== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{Reflist|2}}
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|3}}


== 出典・参考文献 ==
== 参考文献 ==
* 飯島春敬編『書道辞典』([[東京堂出版]]、初版1975年)
* 飯島春敬編『書道辞典』([[東京堂出版]]、初版1975年)
** 堀江知彦「墨跡」ほか、「圜悟克勤」「古林清茂」「無準師範」などの禅僧。
** 堀江知彦「墨跡」ほか、「圜悟克勤」「古林清茂」「無準師範」などの禅僧。
596行目: 855行目:
** 宇野雪村「中国書道概説」
** 宇野雪村「中国書道概説」
** 伊藤峻嶺「唐様」
** 伊藤峻嶺「唐様」
** 北川博邦「江月」「清巌宗渭」
* 中西慶爾編『中国書道辞典』([[木耳社]]、初版1981年)
* 中西慶爾編『中国書道辞典』([[木耳社]]、初版1981年)
* 二玄社編集部編『書道辞典 増補版』([[二玄社]]、初版2010年)ISBN 978-4-544-12008-0
* 二玄社編集部編『書道辞典 増補版』([[二玄社]]、初版2010年)ISBN 978-4-544-12008-0
* [[諸橋轍次]]著『[[大漢和辞典]]』([[大修館書店]]、新版1968年(初版1957年))
* [[諸橋轍次]]著『[[大漢和辞典]]』([[大修館書店]]、新版1968年(初版1957年))
* [[服部宇之吉]]・[[小柳司気太]]共著『詳解漢和大字典』([[冨山房]]、新版1965年(初版1916年))
* [[新村出]] 『[[広辞苑]] 第1版』([[岩波書店]]、新版1964年(初版1955年))
* [[新村出]] 『[[広辞苑]] 第1版』([[岩波書店]]、新版1964年(初版1955年))
* [[梅棹忠夫]]ほか 『[[日本語大辞典]]』([[講談社]]、1989年)ISBN 4-06-121057-2
* [[梅棹忠夫]]ほか 『[[日本語大辞典]]』([[講談社]]、1989年)ISBN 4-06-121057-2
608行目: 867行目:
** [[古田紹欽]]「大燈国師の墨跡」「『虚堂和尚上堂語』宗峰妙超」「『看読真詮榜』宗峰妙超」「書人小伝・宗峰妙超」
** [[古田紹欽]]「大燈国師の墨跡」「『虚堂和尚上堂語』宗峰妙超」「『看読真詮榜』宗峰妙超」「書人小伝・宗峰妙超」
** [[中田勇次郎]]「『法語』蘭渓道隆」「『偈』無学祖元」
** [[中田勇次郎]]「『法語』蘭渓道隆」「『偈』無学祖元」
* 「日本9 江戸 I」(『書道全集 第22巻』 [[平凡社]]、新版1971年(初版1966年))
** [[外山軍治]]「明末の帰化僧と日本文化」「鉄牛和尚五十初度偈」
* [[小松茂美]]「特別展 日本の書への手引き」(『特別展 日本の書』[[東京国立博物館]]、初版1978年)
* [[小松茂美]]「特別展 日本の書への手引き」(『特別展 日本の書』[[東京国立博物館]]、初版1978年)
* 可成屋 『すぐわかる日本の書』([[東京美術]]、新版2008年(初版2002年))ISBN 978-4-8087-0734-7
* 可成屋 『すぐわかる日本の書』([[東京美術]]、新版2008年(初版2002年))ISBN 978-4-8087-0734-7
* 名児耶明「鎌倉」(名児耶明監修『決定版 日本書道史』芸術新聞社、初版2009年)ISBN 978-4-87586-166-9
* 名児耶明監修『決定版 日本書道史』芸術新聞社、初版2009年)ISBN 978-4-87586-166-9
* 名児耶明「名品鑑賞 鎌倉」「図説 日本書道史」『[[墨 (書道雑誌)#季刊 『墨スペシャル』|墨スペシャル]] 第12号 1992年7月』[[芸術新聞社]])
** 名児耶明「鎌倉」
** 橋本貴朗「南北朝・室町」
** 鈴木晴彦「江戸中・後期」
* 「図説 日本書道史」『[[墨 (書道雑誌)#季刊 『墨スペシャル』|墨スペシャル]] 第12号 1992年7月』[[芸術新聞社]])
** 名児耶明「名品鑑賞 鎌倉」
* 山内常正「書法の歴史」(古谷稔監修 『書道の知識百科』[[主婦と生活社]]、新版1996年(初版1994年))ISBN 4-391-11937-4
** 木下政雄「名品鑑賞 南北朝・室町」
** 渡部清「名品鑑賞 安土桃山・江戸前期」
** 鈴木晴彦「名品鑑賞 江戸中・後期」
* 古谷稔監修 『書道の知識百科』([[主婦と生活社]]、新版1996年(初版1994年))ISBN 4-391-11937-4
** 田上恵一「古典に親しむ」
** 山内常正「書法の歴史」
* [[石川九楊]]『説き語り 日本書史』([[新潮選書]]、初版2011年)ISBN 978-4-10-603694-1
* [[石川九楊]]『説き語り 日本書史』([[新潮選書]]、初版2011年)ISBN 978-4-10-603694-1
* 峯岸佳葉「墨跡」(『別冊太陽 日本のこころ191 日本の書 古代から江戸時代まで』平凡社、初版2012年)
* 『別冊太陽 日本のこころ191 日本の書 古代から江戸時代まで』平凡社、初版2012年)
** 峯岸佳葉「墨跡」「茶掛けの流行 墨跡から和歌書へ」
** 橋本貴朗「室町時代」
** 六人部克典「名品紹介 室町時代」
** 鈴木晴彦「江戸時代」
** 名児耶明「日本の書をもっと楽しむためのQ&A」


; 中国
; 中国
620行目: 895行目:
** 神田喜一郎「宋代禅僧の墨跡」
** 神田喜一郎「宋代禅僧の墨跡」
** 福嶋俊翁「『印可状』無準師範」「『印可状』圜悟克勤」「『尺牘 与無相居士』大慧宗杲」「『法語』密庵咸傑」
** 福嶋俊翁「『印可状』無準師範」「『印可状』圜悟克勤」「『尺牘 与無相居士』大慧宗杲」「『法語』密庵咸傑」
* 中田勇次郎「法語 与済侍者」(「中国12 元・明 I」『書道全集 第17巻』 平凡社、新版1971年(初版1967年))
* 峯岸佳葉「墨跡について」(角井博監修『決定版 中国書道史』芸術新聞社、初版2009年)ISBN 978-4-87586-165-2
* 峯岸佳葉「墨跡について」(角井博監修『決定版 中国書道史』芸術新聞社、初版2009年)ISBN 978-4-87586-165-2
* 西林昭一・[[石田肇]]「五代・宋・金」(『ヴィジュアル書芸術全集 第7巻』 [[雄山閣]]、1992年)ISBN 4-639-01036-2
* 西林昭一・[[石田肇]]「五代・宋・金」(『ヴィジュアル書芸術全集 第7巻』 [[雄山閣]]、1992年)ISBN 4-639-01036-2
640行目: 916行目:
* [[日本の書道史]] - [[日本の書流]]
* [[日本の書道史]] - [[日本の書流]]
* [[国宝一覧#墨蹟]]
* [[国宝一覧#墨蹟]]
* [[東京国立博物館所蔵文化財一覧#書跡典籍・古文書]]
* [[東京国立博物館所蔵文化財一覧#書跡典籍・古文書]]

== 外部リンク ==
* [[:en:List of National Treasures of Japan (writings: others)]]


{{Good article}}
{{Good article}}
{{DEFAULTSORT:せんりん ほくせき}}
{{DEFAULTSORT:せんりん ほくせき}}
[[Category:書]]
[[Category:書作品|*せんりんほくせき]]
[[Category:禅]]
[[Category:禅の書画]]
[[Category:書道流派]]
[[Category:書道流派]]
[[Category:日本美術史]]
[[Category:日本美術史]]
[[Category:中国の史]]
[[Category:中国の文化史]]
[[Category:鎌倉時代の文化]]
[[Category:鎌倉時代の文化]]
[[Category:室町時代の文化]]
[[Category:室町時代の文化]]
[[Category:安土桃山時代の文化]]
[[Category:前近代の日本の中国系文化]]<!--江戸時代以前。-->
[[Category:江戸時代の美術]]
[[Category:江戸時代の仏教]]
[[Category:江戸時代の中国系文化]]
[[Category:禅用語]]

2024年12月8日 (日) 15:39時点における最新版

与虎丘紹隆印可状』(圜悟克勤筆、東京国立博物館蔵、国宝
法語』(虚堂智愚筆、東京国立博物館蔵、国宝)
与円爾印可状』(無準師範筆、東福寺蔵、国宝)
関山字号』(宗峰妙超筆、妙心寺蔵、国宝)

禅林墨跡(ぜんりんぼくせき)とは、禅林高僧真跡のこと。印可状字号法語偈頌遺偈尺牘などがある。単に墨跡ともいい、墨蹟墨迹とも書く。

墨跡という語は中国では真跡全般を意味するが、日本においては禅僧の真跡という極めて限った範囲にしか使わない習慣がある。その二義を区別するため、近年、後者を多くは禅林墨跡といい、その書風禅宗様という[1][2][3][4][5]

本項で単に墨跡は禅林墨跡を指す。

概要

[編集]
与無相居士尺牘』(大慧宗杲筆、東京国立博物館蔵、国宝)

墨跡は武士が台頭した鎌倉時代に中国から伝来した。当時の日本の書道は、しばらく中国との国交が途絶えていたため和様色一色であったが、この時期に再び日中の交流が禅僧によってはじまり、代の禅宗の伝来とともに、精神を重視する自由で人間味に富んだ禅僧の書が流入した。これが武士階級の趣向と合致して多大な影響を及ぼし、墨跡という新しい書の分野が生まれ、日本の書道史上、重要な位置を占めるようになった。

さらに室町時代茶道が流行すると、墨跡は古筆切とともに茶席の第一の掛軸として欠くことのできない地位を獲得し、一国一城をかけても一幅の墨跡に替えるといった狂言的な風潮も生まれた。特に江戸時代大徳寺の禅僧の間で流行し、多くの墨跡が遺され、今日ではそれが墨跡の主流となっている[1][3][6][7][8][9]

墨跡の二義の由来
墨跡という語の用例として、古くは中国・六朝時代の『宋書范曄伝に、「示以墨蹟[10][11]と見えるが、この語が広く普及したのは宋代になってからである。その中で当時の禅僧の書が数多く含まれた禅僧の詩文集に、単に真跡を意味する語として墨跡と記されていた。まさにこの頃、鎌倉時代の日本の禅僧が入宋し、禅を学び、持ち帰った禅僧の書を特に意味のないまま墨跡と称していたが、やがて専ら禅僧の書を指すようになったと推察される[3][12]
日本で墨跡を禅僧の真跡という限定した意味で使用した古い例としては、貞治2年/正平18年(1363年)の年紀を有する『仏日庵公物目録』[注釈 1]があり、「墨蹟」という項目を設けて中国の禅僧の書と記している。法然日蓮ら他宗の僧侶の筆跡に対して墨跡という言葉が用いられた例はほとんどない[3][12][14]
墨跡の書風
墨跡は本来、印可状字号法語など、法のために書くものであって、書として鑑賞するために書いたものではない。したがって、それを書いた人物と内容が重視され、一般に書の巧拙を問題としない。つまり書法にとらわれず、各人が自在に自己の人間性を表現するものであり、自ずとその書風は千差万別であるが、概ね、北宋蘇軾黄庭堅風のもの、南宋張即之風のもの、元の趙孟頫風のものに分けることができる[3][15][16][17]
墨跡の範囲
墨跡の範囲は、中国の宋・元代の禅僧の書、日本の鎌倉時代から室町時代前期までの五山全盛時代の禅僧の書、江戸時代の大徳寺や妙心寺の禅僧の書をさす。さらに黄檗の三筆に代表される黄檗宗の書も入れているが、その中心は臨済宗のものである。また例外的に居士である張即之と馮子振の書も墨跡として扱われる場合が多い[4][15]
墨跡は中国風の筆跡であるので広義には唐様の範囲であるが、一般に墨跡に対して唐様という表現はあまり用いない。唐様という語は実際にはもっと狭義に用いられ、江戸時代に儒学者漢学者の間に流行をみた筆跡をさす。その書風は墨跡にさらに文徴明董其昌や明末連綿草の書[注釈 2]の影響を受けたもので、墨跡と区別される[19][20][21][22][23]

墨跡の伝来

[編集]
中国歴史
中国歴史
先史時代中国語版
中石器時代中国語版
新石器時代
三皇五帝
古国時代
黄河文明
長江文明
遼河文明
西周

東周
春秋時代
戦国時代
前漢
後漢

孫呉

蜀漢

曹魏
西晋
東晋 十六国
劉宋 北魏
南斉

(西魏)

(東魏)

(後梁)

(北周)

(北斉)
 
武周
 
五代十国 契丹

北宋

(西夏)

南宋

(北元)

南明
後金
 
 
中華民国 満洲国
 
中華
民国

台湾
中華人民共和国

日本に禅宗が伝来して以後、宋・元の間、日本では鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて、禅僧の往来が頻繁になった。入宋僧は80人以上、宋から来日した僧は20人以上が知られ、元に至ってその交易はいっそう活発になり、入元僧は200人以上、元からの渡来僧は鎌倉幕府がその来日を制限しようとしたほど多くなったという。このように両国の交流は禅僧を介して密接になり、その影響は日本の政治文学建築芸術にまで及び、書道の方面も中国の禅僧の墨跡が伝来して鎌倉時代の禅林の間に流行した。以下、その時代背景と墨跡の伝来について記す[3][12][16][17][24][25]

時代背景

[編集]

中国(宋・元時代)

[編集]

「中国の近世は宋朝にはじまる」[注釈 3]といわれるように、宋代以後、中国の歴史は新しい段階に入り、貴族に代わって士大夫が活躍した時代、政治的には武人政治が解体して皇帝独裁政治の時代であった。その武人と貴族の勢力を抑えるため、官吏の任用に科挙の制を用いて文治に力を注いだ結果、文学・芸術・宗教がすこぶる興隆発展することとなった[24][27]

書道

書道においては、北宋のはじめ約半世紀ほどは中国の伝統的書法である晋唐の書の模倣が続き、王羲之の書風が流行した。やがて唐人が書法や型に束縛されて生気を失ったことの反省から、宋人は自由に自己を表現しようと考え、蘇軾黄庭堅米芾三大家によって大きく書風が革新された。その新書風は南宋に及んでも流行し、大多数の書人はそれに属するものであった。しかし南宋中期から次第に晋唐へと復古する傾向が見られ、南宋の書道には、二王を宗とするものと、宋の三大家に学ぶものとの二つの潮流があった。やがて、それが元の趙孟頫の復古調の全盛時代という形で淘汰されていくが、晋唐の書へ復古するに至った理由は、宋人が自由と個性とを尊重して古法を軽んじ、粗放になったという反省からによるといわれている。以上が宋・元時代の書道の大勢である[17][24][28][29]

仏教

一方、宗教においては、宋・元の時期、禅仏教が盛況を呈した。宋朝は科挙によって官僚を登用する必要から儒教を重んじたが、同時に仏教や道教も保護し、この国家による保護政策によって仏教は隆盛に向かった。その中心は禅宗であり、宋代の禅宗は曹洞宗法眼宗雲門宗潙仰宗臨済宗の五家と、その臨済宗が楊岐派黄龍派に分かれることから五家七宗と呼ばれる。宋の中期以後、楊岐派と黄龍派が次第に勢力を伸ばし、初めは黄龍派が盛んであったが、後には次第に楊岐派が優勢となった。そして南宋末の楊岐派の発展は目覚しく、殊に圜悟克勤の門下から出た大慧宗杲は多くの弟子を集めて一派をなした(大慧派)。その後、密庵咸傑の活躍により、同じく圜悟の門下の虎丘紹隆の系統(虎丘派)が盛んになり、その密庵門下では松源崇嶽破庵祖先の2人が特に有名で、それぞれ一派をなした(松源派破庵派)。南宋時代の禅文化に最も大きな影響を与えた無準師範は、その破庵派から出ている。

元朝は、南宋以来の漢民族の生活と文化をほぼそのまま容認したため、元代も仏教の中心は禅宗で、活躍した禅僧の多くは臨済宗であった。その中で特に重要な人として、破庵派の中峰明本、松源派の古林清茂了庵清欲などをあげることができる。

与無隠元晦詩』(馮子振筆、東京国立博物館蔵、国宝)

宋代に禅宗は他宗を圧倒するほどの勢いを見せたが、その要因に居士仏教の流行と出版業の隆盛がある。居士の参禅は、禅宗が一つの完成した姿を現出した唐代に先例があったが、宋代以後、その比重は徐々に増していった。北宋の王安石・蘇軾・蘇轍・黄庭堅、南宋末の張即之、元の馮子振などの士大夫の参禅が知られる。科挙官僚の担い手となった士大夫に共通の教養は儒教であったが、当時の儒教は科挙に及第するための道具に過ぎず魅力がなかった。士大夫階級の哲学的欲求を満足させたのが禅宗であり、この新たな支持層を得たことにより、さらに名僧が輩出するという好循環を生んだ。また禅宗の権威の確立とともに、禅籍の刊行が行われるようになり、その出版による禅籍の流布は、禅宗が広く社会に浸透していった原動力の一つであったといえる。

士大夫が参禅した例として、蘇軾が黄龍派の東林常総から印可を受け、黄庭堅も同派の晦堂祖心の法を嗣いだ。張即之は禅に造詣が深く、大慧派の無文道璨らと交際した。馮子振も禅学に心を寄せ、元代禅林の巨頭・中峰明本や古林清茂らと親しく交わった。また趙孟頫も熱心な仏教信者で、中峰明本を師と仰いで親密な交流があり、松源派の独孤淳朋や馮子振とも親交が深かった。

墨跡の変化
伏波神祠詩巻』(黄庭堅筆、永青文庫蔵、重文

このようなを能くした文化人の参禅は、芸術重視という禅の世俗化をもたらした。士大夫の才能が僧侶においても尊敬されるべき対象となったのである。その影響は墨跡にも見られ、北宋末以後、蘇軾・黄庭堅・張即之の書風が禅僧の間に流行した。特に黄庭堅の書の影響は大きく、無学祖元など黄庭堅風のものが多くみられる。また竺仙梵僊は蘇軾の、蘭渓道隆は張即之の、了庵清欲は趙孟頫の影響を色濃く受けている[3][12][16][17][24][30][31][32][33][34][35][36][37][38][39]

日本(鎌倉時代)

[編集]

平安時代から鎌倉時代に移行して、天皇を頂点とする古代的支配が崩壊し、将軍を頂点とする封建的支配が成立した。この一大変革により、社会・経済はもちろん、文化にも著しい変革があり、いわゆる公家文化から武家文化に変わった。その鎌倉時代はじめの文化の特徴は、現実的・写実的であり、実用性と個性を重視した[40][41][42]

書道

その変革の影響は書の世界にも及び、その様子は平安時代末期からうかがえる。そもそも日本の書道は中国の王羲之王献之の書を宗として発達してきたものである。その二王の書は、中国において優麗典雅な貴族趣味に支持されてきたもので、それゆえ日本の平安朝の貴族に受け入れられた。したがって鎌倉時代になってその貴族が没落して日本の書道が大きく変革したのは必然の流れで、それまで和様を代表してきた優雅な世尊寺流とは趣を異にする力強い法性寺流という革新的な書が、平安時代末期から鎌倉時代初期に大流行した。その後は、その法性寺流の流れにある後京極流がその字形を引き継ぎ、一定の型に整理されながら鎌倉時代を通して多くの人に影響を与えた。このように鎌倉時代の書は大改革されるが、を追求した平安時代とは異なり、実用に向く書流という特徴があった。さらに宋朝に新しく興った革新書道が伝来して、その変革に拍車がかかった[9][40][42]

二王の典型に反発した個性的な宋朝の新書風の特徴を最もよく具えていたのは黄庭堅張即之の書で、その黄庭堅の書風を日本に初めて伝えたのは栄西であった。栄西は仁安3年(1168年)と文治3年(1187年)に入宋し、建久2年(1191年)に帰朝したが、2回目の入宋時、南宋は栄えて勢力の盛んなときで、黄庭堅の書風が流行していた。栄西はその影響を受け、その筆法には黄庭堅を偲ばせるものがある。栄西に次いで新書風を伝えたのは俊芿であり、正治元年(1199年)に入宋し、建暦元年(1211年)に帰朝した。俊芿も黄庭堅をよく学び、帰朝に際し多数の書法の資料を持ち帰り、日本の書法に及ぼした影響は甚大であった。

仏教

新しい時代の到来は思想界をも活性化させ、法然・栄西・親鸞道元日蓮らが新仏教を打ち立て、旧仏教の側からも、貞慶法相宗)・明恵華厳宗)・叡尊律宗)らが現れて活躍した。そして栄西や道元によって中国で隆盛を極めていた禅宗が新たにもたらされたのである。栄西は2回目の入宋の際に臨済宗黄龍派虚庵懐敞の法を得て、帰朝後、寿福寺建仁寺を創建して臨済宗の法灯を伝え、その後、特に楊岐派が日本で栄えた。また栄西は、のちに禅と結びつくをもたらしたため、茶祖としても尊ばれている。

平安時代まで日本に禅は十分には根づかなかったが、鎌倉時代になって武士階級を中心にその受容が始まり、次第に定着していった。禅宗は中国における士大夫階級の場合と同様に、日本でも新興の実力者たちの心を捉えたのである。その要因として、戦闘という生業を正当化するための新しい宗教を武士たちが求めていたこと、また朝廷の貴族たちの文化的伝統に対抗するため、禅宗を新しい文化と捉えて積極的に受け入れたことなどが考えられる。つまり禅を宗教として受容したことも事実であるが、当時の人々にとって禅は中国の先進文化、士大夫の教養であった書画などの代表であったことから、宗教の素養をもたない人々にも魅力的なものに映り、禅の普及に大きな役割を果たしたのである。さらに元朝という異民族国家に対する中国の有力な禅僧たちの反発が彼らの日本への渡来を後押しし、日本での弘通の原動力となったこともその要因の一つとしてあげられる[40][41][43][44]

墨跡の伝来

[編集]
禅院額字方丈二大字』(張即之筆、東福寺蔵、国宝)

中国禅僧の墨跡は、日本人留学僧が中国から持ち帰ったものと元や清の異民族国家を逃れた亡命僧たちが来朝後に書いたものとに大別される。

留学僧が将来した墨跡

無準師範法嗣東福寺開山円爾は、嘉禎元年(1235年)から6年間、南宋に留学した。この頃、南宋では張即之が書法の大家として名声をほしいままにしていた時代である。円爾は書法に深い関心を持っており、張即之の法に私淑し、帰朝に際して張即之の書を持ち帰っている。現在、東福寺には、「首座」・「書記」・「方丈」・「前後」・「栴檀林」・「東西蔵」などと書かれた大きな額字が蔵されているが、張即之の筆と伝えられるもので、みな円爾が持ち帰ったものといわれている[注釈 4]

中国の著名な禅僧のもとには、日本だけでなく朝鮮からも多く集まり、その参徒数は中国人を凌ぐほどであったという。円爾の他、この時期の主な日本人留学僧には、虚堂智愚に嗣法した南浦紹明断橋妙倫に参じた無関普門希叟紹曇に参じた白雲慧暁などがいる。

元代になるとその墨跡は趙孟頫の影響を受けて書法的にすぐれたものが多く、これら趙孟頫の書法を伝えたのは、雪村友梅寂室元光などの留学僧である。さらに無隠元晦などの留学僧によって馮子振の清新な書風の書がもたらされ、やはり禅林の書と同様に墨跡とよばれて茶人の間で愛玩された。

このように入宋・入元した禅僧は、その参禅した師匠から書き与えられた印可状字号法語偈頌などを持ち帰えり、それが大切に保存されて墨跡として珍重されている。それらの墨跡の中で特に注目されたものは、まず第一に今日、日本に伝わる最古の圜悟克勤のもの、その法嗣大慧宗杲のもの、密庵咸傑無準師範虚堂智愚など虎丘派のもので、圜悟克勤の系統の楊岐派のものにほぼ限られている。これらの禅僧も張即之と交流を結び、その影響を受けた者が多い。元代の墨跡では松源派古林清茂月江正印了庵清欲大慧派楚石梵琦などのものが注目され、趙孟頫の影響を受けている。

来朝僧の墨跡
法語』(蘭渓道隆筆、建長寺蔵、国宝)

禅宗は鎌倉幕府に迎えられ、武家の帰依をえて鎌倉五山が定められた。そのため僧侶の地位は高く、墨跡はますます盛行した。鎌倉時代中頃になると幕府は禅宗を重視し、日本の禅僧の誘いや幕府の招聘を受けて、優れた中国の禅僧が来朝するようになった。その来朝僧の第一は建長寺開山蘭渓道隆であり、その書風は張即之と見違えるほどである。この円爾と蘭渓道隆によって張即之の書は日本の新書風の典型となり、禅家に尊ばれて墨跡と同様に鑑賞されている。

その他、来朝した中国の名僧には、宋代では兀庵普寧大休正念、元代では無学祖元一山一寧西礀子曇霊山道隠清拙正澄明極楚俊竺仙梵僊などがいる。これには日本側の懇請とともに、南宋末の政争や異民族国家である元朝への屈従に対する不満があったといわれている。そして彼らは来朝後に多くの墨跡を遺した。

また末には、萬福寺を創建して日本黄檗宗の開祖となった隠元隆琦などの禅僧の来朝が続いたが、南宋末の時と同様にその背景には満州民族の侵攻による明の滅亡という事態があった。隠元隆琦をはじめとする明の一流文化人の亡命は、禅のみでなく明代の文人趣味、いわゆる黄檗文化を持ち込み、日本文化に大きな影響を与えた。よって黄檗僧は宗教家というよりも文化人として受け入れられた面が強く、その黄檗文化を代表するものとして、絵画・書・篆刻・文学などをあげることができる。そして黄檗僧の中でも特に能書の3人、隠元隆琦・木庵性瑫即非如一黄檗の三筆)の筆跡が墨跡として尊重された。その書の特徴は、濃墨を用いた太い字画、明末の狂草体の構成、一行書などである。また承応2年(1653年)に来朝し、隠元について僧侶となった独立性易の墨跡は、黄檗僧のうち最も本格的な書で、祖国にあったときから書名が高く、『佩文斎書画譜』にもその伝がある。その筆法の正しい独立性易の書は、やがて儒学者漢学者の間に流行して一世を風靡した唐様の先駆けとなった。

なお、この唐様ブームは江戸時代中期からであるが、このブームの下地は明の文化人の来朝の時、つまり江戸時代初頭にすでにあった。それは江戸幕府草創期に打ち出された儒学奨励策が中国文化尊重の気運を高め、日本への新書風の受け入れ体制を整えていたのである[3][9][12][16][17][23][30][31][37][38][40][42][46][47][48][49][50][51][52]

日本の墨跡

[編集]
渓林偈・南嶽偈』(宗峰妙超筆、正木美術館蔵、国宝)

鎌倉時代末から室町時代にかけて、日本の禅僧からも能書家が現れ、それまでの宋元の書の影響下にある墨跡の書風(禅宗様)が少しずつ和様化された。やがて宋元の書の影響を感じさせない書、すなわち近世の墨跡が生まれ、日本の禅林や茶の湯の文化の中で発展を遂げ、独特の概念と伝統が形成された。

墨跡の和様化

[編集]

中国からの墨跡は、たちまち日本の禅僧の間にも広まり、高峰顕日南浦紹明などを経て大徳寺の開山・宗峰妙超夢窓疎石虎関師錬らに至って開花し人気を博した。いずれも黄庭堅や張即之らの中国書法の影響を受けながらも独自の特色ある書風を展開し、特に宗峰の書は日本第一の墨跡として尊重されている。その宗峰の書は宋代の書法ではあるが、代表作『看読真詮榜』にはすでに和様が加味されている。やがて明の成立とともに日中間の往来が制限されたため和様化が進み、禅宗様と和様との折衷的な書風(五山様)が義堂周信絶海中津仲芳中正などを中心に行われた。

巻物から掛軸へ

[編集]

禅宗は鎌倉幕府以後も公家や武家の帰依を得て京都五山が定められた。五山の文化活動は様々な領域に及んだが、その中心は文学であった(五山文学)。そのため五山の禅僧の中には詩人が多く、蘇軾や黄庭堅の詩書が珍重され、当時の禅僧の生活に、「東坡山谷、味噌、醤油」は不可欠なものといわれるほどであった。書に関しては、そのような背景から禅林に宋風の書が流行したが、五山文化がもたらしたものとして条幅掛軸という書の形式があり、従来の横に長く開く巻物から縦に吊り下げる形式へと変化した。渡来僧・一山一寧の『雪夜作』という条幅が、当時の日本では先進国・元の最先端の表現と受けとめられたのである。そして宗峰妙超の『渓林偈・南嶽偈』、虎関師錬の『花屋号』、雪村友梅の『梅花詩』などの墨跡もその影響を受けて条幅の形式になっている。やがてこの形式は安土桃山時代から江戸時代になると茶道の茶席の禅語一行書の掛軸(茶掛け)という近世日本独特の墨跡を生むこととなった。

茶道との結びつき

[編集]
法語』(虚堂智愚筆、東京国立博物館蔵、国宝)

禅と茶道、そして墨跡と茶道の結びつきに大きな役割を果たしたのが一休宗純である。一休は大徳寺に住持し、能楽師金春禅竹金春禅鳳、茶人の村田珠光などの文化人と親交を結び、日本文化に禅思想の影響を与えた。

茶道は室町時代後期に、大徳寺の僧との商人との交流の中に確立し、一休に参じた村田珠光がその先駆をなした。以来、茶道は禅に精神的な拠り所を求め、茶人にとって参禅は不可欠なものとなった。

墨跡と茶道の結びつきは、村田珠光が一休から与えられた圜悟克勤の墨跡『与虎丘紹隆印可状』(流れ圜悟)を床に掛けたことに起因すると伝えられている。しかし記録上確認できるのは北礀居簡の墨跡が最も早い。そして室町時代末期から茶掛けとして墨跡が尊ばれるという伝統が生まれたが、当初は中国の墨跡が主流であった。その中で最も茶会で使用された墨跡は虚堂智愚の『法語』(破れ虚堂)であった。その後、茶の湯の普及にともなって日本の墨跡、特に宗峰妙超や一休をはじめとする大徳寺の僧のものが珍重され、以後、大徳寺と茶道の関係は続いた。やがて茶室の装飾品としての墨跡や古筆豊臣秀吉が好んだことから民間にも広まり、その後、茶道の発達にともないその表装も贅をつくすようになり、永く国民に珍重された。

近世の墨跡

[編集]

江戸時代初期、大徳寺には第154世・沢庵宗彭、第157世・江月宗玩、第171世・清巌宗渭の3人の能書、いわゆる大徳寺の三筆が現れた。彼らの間では、仏名や詩句などを太い線からなる縦一行に大書した一行書が流行し、茶掛けとして珍重された。日本の禅林に生まれたそのような中国風を脱した書が近世の墨跡であり、この形式は現在にも受け継がれて墨跡の主流となっている。

一方、近世になると江戸幕府政教分離政策によって、五山は政治的な力を失い、禅僧と社会との距離感は失調した。そのことが書にも反映し、字画が極限まで肥え、塗り込めた墨にわずかばかりの白い隙間があるという印象の無法の書が生まれた。白隠慧鶴の書がその代表で、社会との距離感を失ったその書は、戦後前衛書の起点となった[9][15][16][17][23][42][48][53][54][55][56][57][58][59][60][61][62]

墨跡の評価

[編集]

墨跡は日本において尊重されてきたが、その発祥の地である中国では排斥された。以下、両国の墨跡の評価を記す。

中国

墨跡の多くは中国伝統の書法から離れた破格の書である。伝統を重んじる中国ではそれに反するものは異端として拒否する傾向が強いため、今日、中国に墨跡はほとんど遺っていない。

その伝統を重んじる中国において破格の書である墨跡が生まれたのは、禅宗の教えからくる。禅宗では一切の権威と伝統を認めないため、書法においてもこれまで絶対的な権威と仰がれてきた王羲之の典型を否定し、ただ自己の個性を天真爛漫に発揮するだけであった。このような禅の精神による芸術を中国の古い文化の伝統は喜ばないのである。ただし、元代は趙孟頫の書が一世を風靡し、趙孟頫を学ぶ禅僧が多かったため、技法の上でも相当すぐれていた。よって元代では宋代の墨跡に見られるような精神的なものばかりではなくなり、書の名家として知られる禅僧も少なくなかった[12][16][17]

日本

日本において墨跡は、嗣法や門派の証、また高徳の僧を偲ぶよすがとして重んじられ、寺院に代々伝えられてきた。日本には根強い文化の伝統がないため、容易に受け入れられたのである。しかし書としての芸術性という面から鑑賞されるようになったのは近代になってからのことで、大勢からいうと鎌倉時代の書法を支配していたのは、世尊寺流・法性寺流・後京極流などの和様であり、この時代の書流の本流であった。つまり墨跡は一般に流行した書というわけではなく、当時の知識層の中でも特に上層の禅僧と一部の進歩的な思想を抱く限られた公家や武家の間に好まれたに過ぎなかった。その理由は、墨跡は宋朝の新書風を法としながらも、それを個性の強い禅僧によって甚だ歪曲されて伝えられたものであり、真の宋朝の品格と筆法が具わった書として認められなかったことにある。

ただ、旧来の伝統を守る和様が極めて保守的で形式化し、ほとんど個性が見出せず生気を欠いていたのに対し、墨跡の作品には迫力のあるものが多く、近代になって墨跡が鎌倉時代を代表する書の一つとして、和様よりも注目度が高いという傾向にある[9][16][40][42]

墨跡の内容

[編集]

墨跡の内容は禅家特有のもので難解なものが多く、また実にさまざまであるが、大別すると次のように分けることができる[4][15]

印可状
印可状(いんかじょう)とは、印可の証として作成される書面のこと。特に禅宗に多い。それは師僧が修行僧に対して悟りを開いたことを認めた証明書であるため、容易に授けられないものである。よって、その授受は大変重要なことであり、墨跡の中で最も高い位置を占める。圜悟克勤の『与虎丘紹隆印可状』、宗峰妙超の『与関山慧玄印可状』、無準師範の『与円爾印可状』などがある[3][4][14][63][64]
額字
額字(がくじ)とは、禅院に掲げる額の文字のこと。寺名・軒名・室銘などがある。東福寺の円爾が中国から持ち帰った張即之無準師範のものが有名である。この2人の力強い筆線と確固たる書風は、後世の額字や道号の書にも受け継がれ、一つの模範となった。張即之の『禅院額字方丈二大字』、楚石梵琦の『心華室銘』などがある[3][4][14]
字号
字号(じごう、道号法号とも)とは、禅宗において、師僧が修行僧にを書き与えたもの。号を大書し、偈頌を書き添えて与えるのが一般的で、その偈頌は道号頌(どうごうのじゅ)などと称し、字号の由来や意義を詠んだ漢詩である。師僧が修行僧を一人前の禅僧として認めたときに与えるものであるため、印可状同様に重要とされる。宗峰妙超の『関山字号』、古林清茂の『月林道号』、清拙正澄の『平心字号』、徹翁義亨の『言外字号』・『虎林字号』などがある[3][4][14][63][65]
法語
法語(ほうご)とは、師僧が修行僧に悟道の要諦を書き与えたもの。真名法語と仮名法語があるが、禅家には仮名のものは少なく、漢文調のものがしばしば揮毫され、仮名法語が一般化したのは近世以降のことである。鎌倉時代の禅僧の思想は、中国の宋朝禅の模倣であり、仮名法語は漢文が読めない女性や俗人に対する方便の意味合いが強く、積極的に採用された表現法ではなかった。
法語は広義には師弟間のみならず、同輩間においても贈られ、進道語餞別語なども含む。虚堂智愚の『法語』、密庵咸傑の『法語』、蘭渓道隆の『法語・規則』などがある[3][4][14][63][66][67]
餞別語
餞別語(せんべつご、餞別偈・送別語・送別偈とも)とは、日本から中国に渡航し、修行を終えて帰る禅僧に師友が餞別として書いて贈る法語、または偈頌のこと。月江正印の『与鉄舟徳済餞別語』、古林清茂の『与別源円旨送別偈』、南楚師説の『送別語』、竺田悟心の『餞別偈』などがある[3][4]
進道語
進道語(しんどうご)とは、師友の間で後進の修行僧に禅の肝要を書き与え、激励したもの。了庵清欲の『進道語』、一山一寧の『進道語』などがある[3][4][14]
偈頌
偈頌(げじゅ、単に、または頌とも)とは、の教えを漢詩で書いたもの。内容は法語に似ているが、法語が散文体であるのに対し、偈頌は五言・七言の韻文体で表現している。遺偈餞別偈道号頌・投機偈(とうきのげ、師僧からの公案に対して修行僧が悟りの心境を詠んだ漢詩)などに細分される。古林清茂の『送幽禅人偈頌』、宗峰妙超の『渓林偈・南嶽偈』、無学祖元の『与長楽寺一翁偈語』などがある[3][4][14][63][68]
遺偈
遺偈(ゆいげ)とは、臨終を前に門弟に遺す偈頌のこと。禅僧特有のもので、死ぬ前に一言弟子たちに偈を遺す習慣があった。一生涯の悟りの境地が表された遺偈は偈の中でも特に珍重される。清拙正澄の『遺偈』、円爾の『遺偈』、寂室元光の『遺偈』、一休宗純の『遺偈』、独立性易の『遺偈』などがある[3][4][14][63][69]
尺牘
尺牘(せきとく)とは、純漢文体書簡のこと。大慧宗杲の『与無相居士尺牘』、無準師範の『与円爾尺牘』、兀庵普寧の『与東巌慧安尺牘』などがある[63]
疏(しょ、または、そ)とは、官僚化された禅林において、下位から上位に対して出される表白文のこと。新しい住持の入寺を祝う文を入寺疏(にゅうじしょ)・山門疏(さんもんしょ)などといい、種々の勧進のための文を幹縁疏(かんえんしょ)・勧縁疏などという。無準師範の『山門疏』、中峰明本の『幻住庵勧縁疏』などがある[3][70]
榜(ぼう)とは、官僚化された禅林において、上位から下位に対して告知される掲示文のこと。宗峰妙超の『看読真詮榜』などがある[3][70]
像賛
像賛(ぞうさん)とは、頂相のこと。頂相には賛が書かれるのが一般的である。絵画全般に添えられた賛は画賛という[3][63]

禅林墨跡一覧

[編集]

以下、主な墨跡の一覧を記す[51][71][72][73][74][75][76][77][78][79][80][81][82][83][84]

書写年 名称 筆者 内容 受納者 書風 収蔵先 文化財
1124年 与虎丘紹隆印可状 圜悟克勤 印可状 虎丘紹隆 米芾 東京国立博物館 国宝
1179年 法語 密庵咸傑 法語 璋禅人 龍光院 国宝
1155年 与無相居士尺牘 大慧宗杲 尺牘 無相居士 米芾・蘇軾 東京国立博物館 国宝
11xx年(12世紀) 尺牘 大慧宗杲 尺牘 米芾・蘇軾 畠山記念館 国宝
1237年 与円爾印可状 無準師範 印可状 円爾 張即之 東福寺 国宝
1242-1249年 与円爾尺牘 無準師範 尺牘 円爾 張即之 東京国立博物館 国宝
12xx年(13世紀) 山門疏 無準師範 張即之 五島美術館 国宝
1270年 与東巌慧安尺牘 兀庵普寧 尺牘 東巌慧安 北村美術館 重文
1278年 舎利啓白文 大休正念 東京国立博物館 重文
1280年 遺偈 円爾 遺偈 なし 東福寺 重文
12xx年 法語 虚堂智愚 法語 無象静照 張即之 東京国立博物館 国宝
12xx年 達磨忌拈香語 虚堂智愚 香語 張即之 大徳寺 国宝
12xx年 法語・規則 蘭渓道隆 法語 なし 張即之 建長寺 国宝
12xx年 宋元二大字 蘭渓道隆 張即之
12xx年 禅院額字方丈二大字 張即之 額字 東福寺 国宝
1279年 与長楽寺一翁偈語 無学祖元 偈頌 一翁院豪 黄庭堅 相国寺 国宝
1280年 偈頌 無学祖元 偈頌 一翁院豪 黄庭堅 根津美術館 重文
12xx-13xx年(13世紀から14世紀) 遊高雄山詩 高峰顕日 普賢院院主 趙孟頫 五島美術館 重文
1307年 示宗観禅尼法語 南浦紹明 法語 宗観禅尼 五島美術館 重文
12xx-13xx年 画跋 馮子振 跋文 黄庭堅 常盤山文庫 国宝
1312-1319年 与無隠元晦詩 馮子振 偈頌 無隠元晦 黄庭堅 東京国立博物館 国宝
1315年 雪夜作(せつやさく) 一山一寧 建仁寺 重文
1316年 進道語 一山一寧 進道語 固山一鞏 根津美術館 重文
12xx-13xx年 与済侍者法語 中峰明本 法語 済侍者 常盤山文庫 重文
1320-1321年 幻住庵勧縁疏 中峰明本 檀那 五島美術館
1325年 与別源円旨送別偈 古林清茂 餞別語 別源円旨 趙孟頫 五島美術館 国宝
1326年 送幽禅人偈頌 古林清茂 偈頌 幽禅人 趙孟頫 福岡市美術館 重文
1327年 月林道号 古林清茂 字号 月林道皎 趙孟頫 長福寺 国宝
1327年 餞別偈 竺田悟心 餞別語 中巌円月 正木美術館 重文
1329年 関山字号 宗峰妙超 字号 関山慧玄 黄庭堅 妙心寺 国宝
1330年 与関山慧玄印可状 宗峰妙超 印可状 関山慧玄 黄庭堅 妙心寺 国宝
1330年 与宗悟大姉法語 宗峰妙超 法語 宗悟大姉 黄庭堅 大仙院 国宝
1334年(推定 #看読真詮榜を参照) 看読真詮榜 宗峰妙超 なし 黄庭堅 真珠庵 国宝
13xx年[85] 渓林偈・南嶽偈 宗峰妙超 偈頌 なし 黄庭堅 正木美術館 国宝
13xx年 言外字号 徹翁義亨 字号 言外宗忠 大徳寺 重文
13xx年 虎林字号 徹翁義亨 字号 宗賛維那 東京国立博物館
13xx年 閑居偶成偈 夢窓疎石 偈頌 天龍寺
13xx年 古徳偈 夢窓疎石 偈頌 古徳 五島美術館
13xx年 花屋号(かおくごう) 虎関師錬 黄庭堅 三井記念美術館
13xx年 松関二大字 虎関師錬 黄庭堅 五島美術館
13xx年 進学解 虎関師錬 [注釈 5] 黄庭堅 東福寺 重文
13xx年 明叟斉哲開堂諸山疏 竺仙梵僊 蘇軾 龍光院 国宝
1328年 平心字号 清拙正澄 字号 斉首座 香川県立ミュージアム 重文
1339年 遺偈 清拙正澄 遺偈 なし 常盤山文庫 国宝
1339年 梅花詩 雪村友梅 なし 趙孟頫 北方文化博物館 重文
1341年 進道語 了庵清欲 進道語 的蔵主 趙孟頫 東京国立博物館 国宝
1342年 送別語 南楚師説 餞別語 鉄舟徳済 畠山記念館 重文
1343年 与鉄舟徳済餞別語 月江正印 餞別語 鉄舟徳済 趙孟頫 五島美術館 国宝
1362年 文殊大士偈 寂室元光 偈頌 藤田美術館
1367年 遺偈 寂室元光 遺偈 なし 永源寺 重文
1363年 勅額仏事語 石室善玖 慶讃辞 なし 東京国立博物館 重文
13xx年 寒山詩 石室善玖 根津美術館
1366年 心華室銘 楚石梵琦 額字 無我省吾 趙孟頫 永青文庫 重文
1395年 十牛頌(じゅうぎゅうじゅ) 絶海中津 偈頌 足利義満[注釈 6] 趙孟頫 相国寺 重文
1453年 尊林号 一休宗純 偈頌 畠山記念館
14xx年(15世紀) 七仏通戒偈 一休宗純 偈頌 真珠庵 重文
14xx年(15世紀中頃[62] 与紹省偈頌 一休宗純 偈頌 紹省[注釈 7] 五島美術館
1481年 遺偈 一休宗純 遺偈 なし 真珠庵 重文
16xx年(17世紀前半[88] 秀嶽二字 沢庵宗彭
16xx年(17世紀) 一行書「惑乱多少人来」 江月宗玩 東京国立博物館
1644-1673年 一行書「豁開正法眼」 隠元隆琦 万寿院
1669年 拈香偈(ねんこうのげ) 隠元隆琦 偈頌 萬福寺
1663年 竹林二字 即非如一 萬福寺
1677年 鉄牛和尚五十初度偈 木庵性瑫 偈頌 鉄牛道機 浄住寺
16xx年 白髪千梳詩 独立性易 京都国立博物館
1672年 遺偈 独立性易 遺偈 なし 萬福寺
17xx年(18世紀中頃[89] 庵字 白隠慧鶴 松蔭寺
17xx年(18世紀) 寿字養気説 白隠慧鶴 瀧沢寺
1767年 大燈国師示衆法語 白隠慧鶴 法語

禅林高僧の略伝と墨跡の解説

[編集]

以下、主な禅林高僧の略伝とその墨跡を解説する(居士の馮子振を含む)。

圜悟克勤

[編集]

与虎丘紹隆印可状』(圜悟克勤筆、東京国立博物館蔵、国宝

圜悟克勤は、五祖法演の法嗣。圜悟には大慧宗杲虎丘紹隆の高弟がいるが、大慧派には墨跡を遺しているものは少なく、虎丘派が多くの墨跡を遺している。圜悟の書は気品に富み、風格が高い[3][12][47][90]

与虎丘紹隆印可状
『与虎丘紹隆印可状』(くきゅうじょうりゅうにあたう いんかじょう)は、宣和6年(1124年)12月、圜悟が弟子の虎丘紹隆に与えた印可状。この印可状には、中国からの筒に入って薩摩坊津の海岸に流れ着いたという伝説があり、俗に流れ圜悟と呼ばれる。後半37行を失い、前半19行だけが現存する。小字だが、線は肥痩の変化に富み、字形は米芾の影響が見られる。一休宗純印可の証としてこの墨跡を村田珠光に与えて以来、茶道において非常に尊重され、今日、日本に伝わる最高位、また最古の墨跡となっている。紙本。東京国立博物館蔵。国宝(指定名称は圜悟克勤墨蹟(印可状)[3][16][90][91][92]

大慧宗杲

[編集]

与無相居士尺牘』(大慧宗杲筆、東京国立博物館蔵、国宝)

大慧宗杲は、圜悟克勤の法嗣、大慧派禅門の祖として著名。大慧は五祖法演から圜悟克勤へと継承された公案を用いた指導法を発展させ、公案禅を大成した。また士大夫を通じて社会と積極的に関わろうと努めたことから、その門下には、張九成李邴などの居士たちが集まった。そのような大慧の能動的な姿勢は、その思想とともに朱熹などにも大きな影響を与えた。朱熹は若年の頃、大慧の弟子・開善道謙に師事し、大慧の語録を愛読していたといわれ、朱熹の思想には禅的な要素が多分に認められる[37][93][94]

与無相居士尺牘
『与無相居士尺牘』(むそうこじにあたう せきとく)は、紹興25年(1155年)頃、大慧が友人の無相居士にあてた尺牘。当時、南宋はの侵略を恐れて金と和議を結んだが、大慧は主戦論者を支持したとされて流謫の身となった。この書簡はその流謫の地・梅州から送ったもので、自らの安否を伝え、居士の動静を知りたいと述べている。書風は米芾と蘇軾の影響が見られ、書簡であるから自ずと率意の書である。紙本、38.1cm×65.7cm。東京国立博物館蔵。国宝(指定名称は大慧宗杲墨蹟(尺牘 十月初二日)[3][90][93][95]

楚石梵琦

[編集]

楚石 梵琦(そせき ぼんき、1296年 - 1370年)は、中国・元時代の禅僧。仏日普照慧弁禅師。字は曇曜、俗姓は朱、西寧老人・西斎老人などと号した。象山の人。元叟行端の法嗣。月江正印とともに元代禅林を代表する。詩書をよくし、その墨跡は元の禅僧中、最も趙孟頫の書風に近く、伝統書法を示した第一人者である。よって墨跡としては珍しく端正な書風で日本では甚だ尊重される。『心華室銘』はその代表作である[16][96][97][98]

心華室銘
『心華室銘』(しんげしつめい)は、至正26年(1366年)9月、楚石が入元僧・無我省吾の居室に銘したもの。無我は金陵牛頭山(ごづさん)にあるこの居室で亡くなった。全8行・毎行24字の大幅。永青文庫蔵。重要文化財[98][99]

密庵咸傑

[編集]

密庵 咸傑(みったん かんけつ、1118年 - 1186年)は、中国・南宋時代の禅僧。名は咸傑、俗姓は鄭。福清の人。応庵曇華法嗣。南宋はじめの禅林の巨匠である。密庵門下の松源崇嶽破庵祖先曹源道生の3人を密庵下の三傑と称し、この法系から多くの墨跡を生んだ。著名な墨跡の筆者は、松源派では中国の古林清茂了庵清欲虚堂智愚蘭渓道隆、日本の宗峰妙超一休宗純破庵派では中国の無準師範中峰明本無学祖元清拙正澄、日本の夢窓疎石曹源派では中国の一山一寧、日本の雪村友梅などがあげられる[12][16][90][100][101][102]

密庵咸傑法語
淳熙6年(1179年)8月、密庵に随従した璋禅人という人物の求めに応じて、禅の要旨を書き与えた法語(印可状とも見られる)。27行・290文字を異例ともいうべき綾絹[注釈 8]の上に行書で濃淡自由に書いている。密庵は書法に長じたが、その墨跡は稀でこの法語が唯一とされる。これを秘蔵する龍光院には、この墨跡以外は掛けないという「密庵床」と称するが特設され、その茶席を「密庵席」と称している。龍光院蔵。国宝(指定名称は密庵咸傑墨蹟(法語 淳熙己亥仲秋日)[16][90][100][101]

古林清茂

[編集]

月林道号』(古林清茂筆、長福寺蔵、国宝)
与別源円旨送別偈』(古林清茂筆、五島美術館蔵、国宝)

古林 清茂(くりん せいむ、1262年 - 1329年)は、中国・南宋から時代の禅僧。俗姓は林、は清茂、字は古林、金剛憧・休居叟などと号した。温州の人。横川如珙法嗣、門下に了庵清欲竺仙梵僊、日本僧では月林道皎石室善玖らがいる。中峰明本と並んで元代中期の禅林の巨匠で、当時、日本からの渡航僧で古林に参ぜぬものなしといわれたほどの高僧である。著に『古林茂禅師語録』、『宗門統要続集』が知られる。

古林は馮子振と交遊があり、書法に長じ、その書は格調高く貫禄を備えている。また文学にも造詣が深く、入元僧はそのような古林の士大夫的教養に憧れてその門に学んだ。元代は南宋時代に増して禅林が様々な文化との関わりを強め、特に文学への関心が高かった。が、その内容は次第に世俗化し、禅僧の本分を弁えず大慧派の人々の詩文は一般の詩に同化していった。古林はこうした傾向を阻止しようと題材を仏教に限定した偈頌を重視したが、大慧派の笑隠大訢の出現によって、禅林文学は偈頌から四六駢儷文にその中心を移したといわれる[39][104][105][106]

月林道号
『月林道号』(げつりん どうごう)は、泰定4年(1327年)3月、古林が月林道皎に書き与えた「月林」の道号。号のあとに七言絶句一首のがある。長福寺蔵。国宝(指定名称は古林清茂墨蹟(月林道号 泰定四年三月望日)[105]
与別源円旨送別偈
『与別源円旨送別偈』(べつげんえんしにあたう そうべつのげ)は、泰定2年(1325年)、古林が入元僧・別源円旨に書き与えた。別源が帰朝する5年前に与えられたもので、送別偈といわれるが内容は印可状と同じ意味の重さを持つ。織田信長が秘蔵していたという由緒ある墨跡である。五島美術館蔵。国宝(指定名称は古林清茂墨蹟(別源円旨送別偈 泰定二年九月二日)[105]
送幽禅人偈頌
『送幽禅人偈頌』(ゆうぜんじんにおくる げじゅ)は、泰定3年(1326年)、古林が幽禅人に与えた偈。福岡市美術館蔵。重要文化財(指定名称は古林清茂墨蹟(泰定三年秋孟))。幽禅人は曇幽という入元の日本僧といわれるが、その伝記は不明である。至治2年(1322年)、霊石如芝も幽禅人に餞別語を与えている[104][107][108]

了庵清欲

[編集]

進道語』(了庵清欲筆、東京国立博物館蔵、国宝)

了庵 清欲(りょうあん せいよく、1288年 - 1363年)は、中国・時代の禅僧。俗姓は朱、号は南堂。台州の人。古林清茂の法嗣。了庵は、古林清茂・虎巌浄伏即休契了らとともに、元代における松源派の重要な人物として挙げられる[109][110][111]

了庵清欲進道語
至元7年(1341年)1月、了庵が的蔵主に書き与えた進道語。ただし的蔵主が何人であるか不明である。書風は温順端正を極め、趙孟頫の影響が見られる。東京国立博物館蔵。国宝(指定名称は了菴清欲墨蹟(法語 至元七年正月十七日)[109][112]

月江正印

[編集]

月江 正印(げっこう しょういん、1267年 - 1343年以後)は、中国・元時代の禅僧。仏心普鑑禅師。俗姓は劉、松月翁と号した。福州の人。虎巌浄伏の法嗣。清拙正澄の実兄にあたる[113][114]

与鉄舟徳済餞別語
『与鉄舟徳済餞別語』(てっしゅうとくさいにあたう せんべつご)は、至正3年(1343年)、月江が鉄舟徳済に書き与えた餞別語五島美術館蔵。重要文化財[113]

南楚師説

[編集]

南楚 師説(なんそ しせつ、? - 1342年以後)は、中国・時代の禅僧虎巌浄伏法嗣[115]

南楚師説送別語
至正2年(1342年)の秋、南楚が鉄舟徳済に書き与えた送別語。南楚の墨跡として現存唯一のものである。畠山記念館蔵。重要文化財[115]

虚堂智愚

[編集]

法語』(虚堂智愚筆、東京国立博物館蔵、国宝)

虚堂 智愚(きどう ちぐ、1185年 - 1269年)は、中国・南宋時代の禅僧。名は智愚、息耕(そくこう)・息耕叟と号し、俗姓は陳。象山の人。運庵普巌法嗣、門下に霊石如芝、日本僧では南浦紹明らがいる。南浦紹明の弟子が大徳寺の開山・宗峰妙超であるが、大徳寺は茶道と縁が深く、茶道において宗峰の師としての虚堂の墨跡は鎌倉時代から特に重んじられた。その墨跡には張即之の書の影響が見られる。一休宗純は虚堂7世の孫にあたる。著に『虚堂和尚語録』(1269年刊)がある[3][16][31][116][117]

虚堂智愚法語
虚堂が入宋中の無象静照に書き与えた法語。江戸時代、京都の茶人・大文字屋がこの墨跡を所蔵していたとき、その手代が蔵の中に立てこもり、切り破ってしまったことから、俗に破れ虚堂と呼ばれる。その後、松平不昧の手に渡り、1938年に帝室博物館(東京国立博物館の前身)に寄贈された[118]
墨跡中の「日」の字と左払いの用筆が特異である。紙本、28.5cm×70cm。東京国立博物館蔵。国宝(指定名称は虚堂智愚墨蹟(法語)[3][16][31][61]

宗峰妙超

[編集]

関山字号』(宗峰妙超筆、妙心寺蔵、国宝)
渓林偈・南嶽偈』(宗峰妙超筆、正木美術館蔵、国宝)
与関山慧玄印可状』(宗峰妙超筆、妙心寺蔵、国宝)

宗峰妙超は、南浦紹明の法嗣、門下に関山慧玄徹翁義亨など多数いる。宗峰は大徳寺を開き、その二代目を徹翁義亨に定めた。関山慧玄は妙心寺の開山となる。宗峰の書はの墨跡に日本風を少し加えたもので、日本的墨跡の先駆をなし、当時より一級の墨跡として尊重されてきた[63][119][120][121][122]

関山字号
『関山字号』(かんざん じごう)は、嘉暦4年(1329年)、宗峰が関山慧玄に書き与えた「関山」の字号。現在は字号の下に七言偈が書かれているが、もとは字号の横に偈が書かれた巻子になっていた。紙本、66.7cm×61.8cm。妙心寺蔵。国宝(指定名称は大燈国師墨蹟(関山字号 嘉暦己巳仲春)[123][124][125]
渓林偈・南嶽偈
『渓林偈・南嶽偈』(けいりんげ・なんがくげ、『虚堂和尚上堂語』とも)は、『渓林偈』と『南嶽偈』の両幅からなり、ともに虚堂智愚の上堂[注釈 9]の語を書したもの。『虚堂和尚語録』巻1にその語が見える。語句の内容上、両幅に何の関係もないが、筆致から同じ時期に書いたものと考えられる。書体は連綿草書体で、当時にはあまり見られない傑出した水準に達している。
『渓林偈』の最後に「寒」の字があるのは、途中、書き落としたためであり、本来は、「溪林葉墮塞鴈聲」の次に「寒」が入る。紙本、89.9cm[注釈 10]×34.2cm(各幅)。正木美術館蔵。国宝(指定名称は大燈国師墨蹟(渓林、南嶽偈)[127][128]
与関山慧玄印可状
『与関山慧玄印可状』(かんざんえげんにあたう いんかじょう)は、元徳2年(1330年)、宗峰が関山慧玄に書き与えた印可状。妙心寺蔵。国宝(指定名称は大燈国師墨蹟(印可状 元徳二年仲夏上澣)[129]
看読真詮榜
看読真詮榜(かんどくしんせんぼう、看経榜(かんきんぼう)とも)とは、正月の修正会や7月の盂蘭盆会などに読む名や名を列挙し、その下に担当僧が自分の名前を書くもの。
『看読真詮榜』は、宗峰が担当僧である宗鏡の代わりに書いた榜語。古くより最も著名な墨跡の一つとされている。年紀はないが榜語の内容から建武元年(1334年)の修正会に際しての看経榜と考えられる。巻末に「宗鏡」の署名があるが、宗鏡が書いたのはこの署名のみで、他は書風から宗峰の書として知られる。その書風は黄庭堅の影響を受けたもので、ところどころに点画を長く伸ばしているが、肉厚かつシャープな筆線に和様との複合体という趣がある。筆致は豪放で堂々としており、驚くべき精神力を感じさせる。紙本、32.8cm×835.9cm。真珠庵蔵。国宝(指定名称は大燈国師墨蹟(看読真詮榜)[3][63][127][58][79][130][131]

徹翁義亨

[編集]

徹翁 義亨(てっとう ぎこう、1295年 - 1369年)は、日本・南北朝時代の禅僧。宗峰妙超の法嗣、門下に言外宗忠がいる。大徳寺の第2世。徹翁は経営の才に富み、大徳寺山内に徳禅寺を開いて数々の制法を定め、大徳寺経営の基礎を固めた[119][121]

言外字号
『言外字号』(ごんがいじごう)は、徹翁が言外宗忠に書き与えた「言外」の字号。大徳寺蔵。重要文化財[119]
虎林字号
『虎林字号』(くりんじごう)は、徹翁が宗賛維那(そうさん ゆいな、徹翁の門弟と思われる)に書き与えた「虎林」の字号。39.3cm×101.0cm。東京国立博物館蔵[119][121]

一休宗純

[編集]

一休宗純は、大徳寺第23世・華叟宗曇の法嗣、同寺第48世として住持する。大徳寺は五山十刹官寺に属さず独自の展開をとげた[注釈 11]が、応仁の乱で大きな被害をこうむった。一休が住持したのはこの時で、その復興を成し遂げた。また一休は名利を求めず権力に媚びない性格で、禅林の世俗化を激しく批判するとともに、の街を木刀骸骨を提げて歩いたり、酒場遊廓に繰り出したり、飼っていた僧位を与えたりなどの奇行によって、京都や堺の居住者の人気を得た。

一休の書も中世から近世の墨跡の中で特に際立ち、珍重された。破格といえるその書は、一見しただけでは中国書法とのつながりがほとんど感じられない。しかしそこには、黄庭堅や張即之の書風に虚堂智愚の雑体書風が加味され、さらに宗峰妙超の運筆が見られる。つまり和様と中国風が合体した無法の書で、近世の墨跡の先駆けとなった[54][57][62][133]

一休宗純七仏通戒偈
一行書「諸悪莫作」と「衆善奉行」の双幅で、七仏通戒偈の初めの2句を書したもの。書写年不詳。気迫ある堂々たる大字で、独自の風格をいかんなく発揮した傑作といえる。紙本、133.5cm×41.5cm(各幅)。真珠庵蔵。重要文化財[134][135]
尊林号
『尊林号』(そんりんごう)は、享徳2年(1453年)8月19日、一休が愛育していたの死に際し、「尊林」の字号をその雀に書き与えたもの。一休の深い慈愛の心、あるいは形式化する禅宗への風刺とも解される。奔放自在にして峻厳、一休独特のきわめて個性的な書風である。78.8cm×24.5cm。畠山記念館蔵[133][136]

蘭渓道隆

[編集]


法語・規則』(『法語』(右)・『規則』(左))
蘭渓道隆筆、建長寺蔵、国宝

蘭渓道隆は、無明慧性の法嗣、建長寺の開山。蘭渓は墨跡の書法の基礎をなした張即之の書をよく学び、その張即之の書風を日本に最初に移入した人物として日本書道史上、注目される。したがって蘭渓の書は常に張即之の書と比較される。著に『大覚禅師語録』がある[137][138][139]

法語・規則
『法語・規則』(ほうご・きそく)は、「見鞭影而後行」の文にはじまる『法語』と、「長老首座」にはじまる『規則』との対幅になっている。『法語』の内容は衆僧の怠慢を戒め、参禅弁道を教示したものであり、『規則』の内容は行規の厳格を要求し、違反者には罰を科すというもので、両内容とも『大覚拾遺録』に収められている。年紀はないが、蘭渓が建長寺に住していたときに両幅をほぼ同時に書いたと考えられる。書式文章ともに謹厳なもので、確固たる字形、太細の自在な変化、隅々まで行き渡る筆勢がうかがえる。その書風は張即之の書の影響が顕著であるが、それに拘泥しない禅人の質実な態度が感じられる。紙本、85.1cm×41.5cm(『法語』)、84.8cm×40.9cm(『規則』)。建長寺蔵。国宝(指定名称は大覚禅師墨蹟(法語規則)[137][139][58]

無学祖元

[編集]

与長楽寺一翁偈語』(無学祖元筆、相国寺蔵、国宝)

無学祖元は、無準師範の法嗣、建長寺の第3世、円覚寺の開山。黄庭堅の書風で知られる[34][140]

与長楽寺一翁偈語
『与長楽寺一翁偈語』(ちょうらくじ いっとうにあたう げご)は、弘安2年(1279年)、無学が上野国世良田・長楽寺一翁院豪に書いて与えた偈。もとは巻子であったと考えられるが、今は4幅に分けて表装されている。第3幅と第4幅は跋語になっており、その跋語によると一翁は無準師範の門下で、無学祖元と同門にあたるが、その時は互いに知らなかったとある。そして40年後、一翁は日本で無学に参じ、その法を嗣いだ。無学の書は概ね行書を用い、甚だ格調が高い。紙本、31.5cm×86.5cm(各幅)。相国寺蔵。国宝(指定名称は無学祖元墨蹟(与長楽寺一翁偈語 弘安二年十一月一日)[16][58][140][141]

中峰明本

[編集]

中峰明本は、高峰原妙の法嗣、元代一級の高僧である。放浪して居所を定めず、自ら幻住(げんじゅう)と称し、いたるところに幻住庵を構えた。能書の趙孟頫が深く中峰に帰依していたことは、趙孟頫の『与中峰明本書』(尺牘)によって知られるが、中峰が呉中(現在の蘇州市)に庵を構えるとき、馮子振が泥を煉り、趙孟頫が運搬し、中峰が壁を塗ったという説話が伝えられている。

中峰は書をよくしたが、その書は破格であり、露鋒で扁平な筆画が柳や笹の葉に似ていることから、中国では柳葉体・柳葉書などといわれ、日本では古来、笹の葉書きと呼んでいる。ただし篆書の一体に西晋衛瓘が作ったとされる柳葉篆というものがあり、中峰の書は厳密にいえば必ずしも独創的なものではない。

中峰に参じた多くの日本人入元僧(復庵宗己遠渓祖雄古先印元など)が帰朝後、中峰に倣って放浪の生活を好んだため、一括して幻住派(遠渓祖雄を祖とする)と呼ばれる。著に『幻住庵清規』など多数が知られる[16][142][143][144][145][146][147][148]

与済侍者法語
『与済侍者法語』(せいじしゃにあたう ほうご)は、中峰が済侍者なるものに書き与えた法語。書写年代は不明である。また済侍者が誰のことも明らかではないが、鉄舟徳済との説がある。紙本17行、31.5cm×67.2cm。常盤山文庫蔵。重要文化財[149][150]
幻住庵勧縁疏
『幻住庵勧縁疏』(げんじゅうあん かんえんしょ)は、呉中の幻住庵(1300年創建)の腐朽がはなはだしいため、中峰が檀那に書いた勧縁疏延祐末年から至治にかけて(1320年 - 1321年)の晩年の書と推定されている。五島美術館蔵[142][151]

清拙正澄

[編集]

遺偈』(清拙正澄筆、常盤山文庫蔵、国宝)

清拙 正澄は、中国・元時代の禅僧。大鑑禅師。愚極智慧の法嗣、月江正印の実弟にあたる。泰定3年/嘉暦元年(1326年)に来朝したが、これは北条貞時北条高時の招聘によるものであった。清拙は文学に優れたが、偈頌主義という点で古林清茂と軌を一にした。著に『大鑑清規』(だいかんしんぎ、1332年)がある[25][152][153][154]

清拙正澄遺偈
暦応2年(1339年)1月17日、清拙が入寂に際し書いた遺偈。数ある遺偈の中でも出色の墨跡として知られる。その臨終に間に合わなかった弟子がにすがって号泣したところ、棺を割って清拙が現れて戒法を授け、また眼を閉じたという伝説から、この遺偈を俗に棺割の墨跡(かんわりのぼくせき)という。常盤山文庫蔵。国宝(指定名称は清拙正澄墨蹟(遺偈 暦応二年正月十七日)[123][152]

馮子振

[編集]

与無隠元晦詩』(馮子振筆、東京国立博物館蔵、国宝)
画跋』(馮子振筆、常盤山文庫蔵、国宝)

馮 子振(ふう ししん、1257年 - 1327年以後)は、中国・元時代の居士の俊英として知られた。字は海粟(かいぞく)、海粟道人・怪道人などと号した。攸州の人。官は集賢待制史となる。博学で詩文にすぐれ、その博識ぶりは、天下の書で彼が知らないものはないと言われた。よって当時、趙孟頫とともに文名を馳せたが、馮子振の書風は特異であったため、その書を記載する文献は少なく、書人としての名はなかったようである。

馮子振は禅学に心を寄せ、中峰明本古林清茂と親交があったため、僧侶ではないがその書は無隠元晦放牛光林(ほうぎゅう こうりん、1289年 - 1373年)・月林道皎ら入元の禅僧らによって日本にもたらされ、墨跡と同等に尊重された。無隠と放牛は馮子振と交友があり、その書は馮子振から直接、贈られたものである[30][155][156][157][158]

与無隠元晦詩
『与無隠元晦詩』(むいんげんまいにあたう し)は、馮子振が元朝に滞留中の無隠元晦に書き与えた偈。皇慶延祐年間(1312年 - 1319年)の頃のものと推定されている。黄庭堅の書法をふまえた書風で、元代の日常筆記体の一端を垣間見ることができる。紙本、32.7cm×102.5cm。東京国立博物館蔵。国宝(指定名称は馮子振墨蹟(与無隠元晦詩)[155][157][158][159]

その他

[編集]

  • 笑隠 大訢(しょういん だいきん、1284年 - 1344年)は、中国・元時代の禅僧。俗姓は陳。南昌江西省)の人。晦機元煕の法嗣、門下に用章廷俊がいる。禅林における四六駢儷文の大家で、著に『蒲室集』(ほしつしゅう)、『笑隠大訢禅師語録』などがある。『蒲室集』は四六文の作法の教科書として日本の五山でも重んじられた[39]
  • 別源 円旨(べつげん えんし、1294年 - 1364年)は、日本・南北朝時代の禅僧。古林清茂の法嗣。別源は帰朝(1330年)後、弘祥寺の開山となり、五山文学にも名を馳せた人物である[25][105][160]
  • 鉄舟 徳済(てっしゅう とくさい、? - 1366年)は、日本・室町時代の禅僧。下野の人。夢窓疎石の法嗣。在元中、順宗から円通大師の号を贈られた。帰朝(1344年頃)後、阿波宝陀寺の開山となり、万寿寺の第29世を嗣いだ。鉄舟は文人画の流れを汲む墨戯としての絵画の作法を中国から伝え、葡萄などを描き、墨蘭の名手といわれた[113][115][119][161][162][163]

禅林墨跡略系譜

[編集]

以下、臨済宗臨済義玄の法系)の略系譜を記す[3][12][16][17][31][121][122][164][165][166][167][168][169][78][170][171]

  • 興化存奨(こうけ ぞんしょう、830年 - 888年、中国・唐)

黄龍派

[編集]

以下、黄龍慧南の法系を記す。

  • 東林常総(とうりん じょうそう、1025年 - 1091年、中国・北宋)
  • 晦堂祖心(まいどう そしん、1025年 - 1100年、中国・北宋)
    • 死心悟新(ししん ごしん、1043年 - 1114年、中国・北宋)
    • 霊源惟清(れいげん いせい、? - 1117年、中国・北宋)
      • ……
        • 虚庵懐敞(こあん えしょう、生没年不詳、中国・南宋)
          • 栄西(日本・鎌倉、1168年・1187年入宋、1191年帰朝、千光派・建仁寺派
    • 黄庭堅(中国・北宋、居士)

楊岐派

[編集]

以下、楊岐方会の法系を記す。

大慧派

[編集]

以下、大慧宗杲の法系を記す。

  • 拙庵徳光(せったん とっこう、1121年 - 1203年、中国・南宋)
    • 北礀居簡(ほっかん きょかん、敬叟居簡とも、1164年 - 1246年、中国・南宋)
      • 物初大観(もっしょ たいかん、1201年 - 1268年、中国・南宋)
        • 晦機元煕(まいき げんき、1238年 - 1319年、中国・南宋)
          • 東陽徳輝(とうよう てひ、14世紀前半、中国・元)
            • 中巌円月(日本・南北朝、1332年帰朝、中巌派)
          • 笑隠大訢(中国・元)
            • 用章廷俊(ようしょう てんしゅん、1299年 - 1368年、中国・元)
              • 無我省吾(むが しょうご、1310年 - 1381年、日本・南北朝)
          • 石室祖瑛(せきしつ そえい、1291年 - 1343年、中国・元)
    • 浙翁如琰(せっとう にょえん、1151年 - 1225年、中国・南宋)
      • 偃渓広聞(えんけい こうもん、1189年 - 1263年、中国・南宋)
      • 大川普済(だいせん ふさい、1179年 - 1253年、中国・南宋)
    • 妙峰之善(みょうほう しぜん、1152年 - 1235年、中国・南宋)
      • 蔵叟善珍(ぞうそう ぜんちん、1194年 - 1277年、中国・南宋)
    • 大日房能忍(日本・鎌倉)
  • 開善道謙(かいぜん どうけん、12世紀中頃、中国・南宋)
  • 李邴(り へい、1085年 - 1146年、中国・南宋、居士
  • 張九成(ちょう きゅうせい、1092年 - 1159年、中国・南宋、居士)
  • 無用浄全(むゆう じょうぜん、1137年 - 1207年、中国・南宋)
    • 笑翁妙堪(しょうおう みょうたん、1176年 - 1247年、中国・南宋)
      • 無文道璨(むもん どうさん、1214年 - 1271年、中国・南宋)

虎丘派

[編集]

以下、虎丘紹隆の法系を記す。

松源派
[編集]

以下、松源崇嶽の法系を記す。

関山派
[編集]

以下、関山慧玄の法系(妙心寺派)を記す。

徹翁派
[編集]

以下、徹翁義亨の法系(宗峰妙超に始まる大徳寺派)を記す。

  • 言外宗忠(ごんがい そうちゅう、1305年 - 1390年、日本・南北朝)
    • 華叟宗曇(日本・室町)
      • 一休宗純(日本・室町)
        • 墨斎紹等(ぼくさい しょうとう、? - 1496年、日本・室町)
      • 養叟宗頤(日本・室町)
        • 春浦宗煕(しゅんぽ そうき、1416年 - 1496年、日本・室町)
          • 実伝宗真(じつでん そうしん、1434年 - 1507年、日本・室町)
            • 古嶽宗亘(こがく そうこう、1465年 - 1548年、日本・室町)
              • 伝庵宗器(でんあん そうき、日本・室町)
                • 大林宗套(日本・室町)
                  • 笑嶺宗訢(日本・室町)
                    • 古渓宗陳(日本・安土桃山)
                      • 玉甫紹琮(ぎょくほ じょうそう、1546年 - 1613年、日本・江戸初期)
                        • 賢谷宗良(けんこく そうりょう、日本・江戸初期)
                          • 清巌宗渭(せいがん そうい、1588年 - 1661年、日本・江戸初期)
                    • 春屋宗園(日本・安土桃山から江戸初期)
                    • 一凍紹滴(いっとう じょうてき、1539年 - 1612年、日本・江戸初期)
破庵派
[編集]

以下、破庵祖先の法系を記す。

  • 無準師範(中国・南宋)
    • 兀庵普寧(中国・南宋、1260年来朝、1265年帰国、兀庵派・宗覚派)
    • 西巌了恵(せいがん りょうえ、1198年 - 1262年、中国・南宋)
      • 東巌浄日(とうがん じょうにち、生没年不詳、中国・元)
    • 別山祖智(べつざん そち、1200年 - 1260年、中国・南宋)
    • 断橋妙倫(どんきょう みょうりん、1201年 - 1261年、中国・南宋)
    • 石梁以忠(せきりょう いちゅう、生没年不詳、中国・南宋)
    • 環渓惟一(かんけい いいつ、1202年 - 1281年、中国・南宋)
      • 鏡堂覚円(きょうどう かくえん、中国・南宋、1279年来朝、鏡堂派・大円派)
    • 無学祖元(中国・南宋、1279年来朝、無学派・仏光派・円覚寺派
    • 牧谿(中国・南宋から元)
    • 雪巌祖欽(せつがん そきん、? - 1287年、中国・南宋から元、雪巌の法系
    • 希叟紹曇(きそう しょうどん、生没年不詳、中国・元)
    • 退耕徳寧(ついかん とくねい、生没年不詳、中国・元)
    • 円爾(日本・鎌倉、1241年帰朝、聖一派東福寺派
  • 石田法薫(せきでん ほうくん、1171年 - 1245年、中国・南宋)
    • 愚極智慧(ぐごく ちえ、生没年不詳、中国・元)
      • 清拙正澄(中国・元、1326年来朝、清拙派・大鑑派)
      • 竺田悟心(じくでん ごしん、生没年不詳、中国・元)
      • 樵隠悟逸(しょういん ごいつ、1262年 - ?、中国・元)
無学派
[編集]

以下、無学祖元の法系を記す。

雪巌の法系
[編集]

以下、雪巌祖欽の法系を記す。

聖一派
[編集]

以下、円爾の法系を記す。

曹源派
[編集]

以下、曹源道生の法系を記す。

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 『仏日庵公物目録』(ぶつにちあんくもつもくろく)は、円覚寺塔頭・仏日庵に蔵した書画の著録のこと[13]
  2. ^ 明末から清初に活躍した張瑞図黄道周倪元璐傅山らの連綿草の書を指す[18]
  3. ^ 内藤湖南学説。この学説はほぼ世界的に承認されている[26]
  4. ^ 無準師範が帰国した円爾に送った墨跡が張即之のものであるともいわれている[45]
  5. ^ 韓愈の『進学解』を筆写したもの[86]
  6. ^ 足利義満の求めに応じて書いたものと推定される[87]
  7. ^ 紹省(じょうしょう)は一休の弟子[62]
  8. ^ 綾絹(あやぎぬ)とは、綾織りのこと[103]
  9. ^ 上堂(じょうどう)とは、禅宗で説法のために法堂に上ること[126]
  10. ^ 『書道全集 第19巻』「日本7 鎌倉II」「『虚堂和尚上堂語』宗峰妙超」(古田紹欽 p.159)に、縦12.5cmとあるが、これは明らかに誤りであるので、横34.2cmと同図版53のサイズ(25.5cm×9.7cm)から算出して89.9cmとした。
  11. ^ 大徳寺後醍醐天皇によって南禅寺と同格の地位を与えられえたり、十刹官寺した時期もあったが、養叟宗頤のときに官寺から離脱した[132]

出典

[編集]
  1. ^ a b 中西慶爾 p.595
  2. ^ 中西慶爾 p.897
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z 峯岸佳葉(決定版 中国書道史) pp..127-128
  4. ^ a b c d e f g h i j k 小松茂美 pp..26-27
  5. ^ 鈴木翠軒 p.133
  6. ^ 可成屋 pp..4-5
  7. ^ 二玄社(書道辞典) p.239
  8. ^ 山内常正 pp..56-57
  9. ^ a b c d e 名児耶明(決定版 日本書道史) pp..87-91
  10. ^ 諸橋轍次 3巻 p.258
  11. ^ 『宋書』范曄伝の原文
  12. ^ a b c d e f g h i 神田喜一郎(宋代禅僧の墨跡) pp..19-24
  13. ^ 神田喜一郎(宋代禅僧の墨跡) p.19、堀江知彦 pp..746-747、峯岸佳葉(決定版 中国書道史) p.127
  14. ^ a b c d e f g h 堀江知彦 pp..746-747
  15. ^ a b c d 鈴木翠軒 pp..142-143
  16. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 鈴木洋保 pp..110-113
  17. ^ a b c d e f g h 中田勇次郎(書道藝術 中国書道史) pp..132-134
  18. ^ 石川九楊(日本書史) p.131
  19. ^ 梅棹忠夫 p.399
  20. ^ 可成屋 p.6
  21. ^ 伊藤峻嶺 p.129
  22. ^ 二玄社(書道辞典) p.52
  23. ^ a b c 石川九楊(日本書史) pp..128-132
  24. ^ a b c d 鈴木翠軒 pp..69-73
  25. ^ a b c 伊吹敦 pp..197-198
  26. ^ 寺田隆信 p.163
  27. ^ 寺田隆信 pp..163-164
  28. ^ 宇野雪村 p.31(前付)
  29. ^ 比田井南谷 pp..230-231
  30. ^ a b c 鈴木洋保 p.102
  31. ^ a b c d e 西林昭一(五代・宋・金) pp..125-126
  32. ^ 西林昭一(五代・宋・金) p.77
  33. ^ 西林昭一(元・明) pp..44-45
  34. ^ a b 渡部清(楷書百科) p.93
  35. ^ 堀江知彦 pp..565-566
  36. ^ 伊吹敦 p.はしがきii、pp..84-88、pp..97-98、pp..105-106、pp..117-119、pp..133-134
  37. ^ a b c 伊吹敦 pp..113-116
  38. ^ a b 伊吹敦 p.127
  39. ^ a b c 伊吹敦 pp..136-137
  40. ^ a b c d e 神田喜一郎(日本書道史7 鎌倉II) pp..1-11
  41. ^ a b 藤原鶴来 pp..288-290
  42. ^ a b c d e 名児耶明(図説 日本書道史) pp..100-101
  43. ^ 伊吹敦 pp..188-189
  44. ^ 伊吹敦 pp..205-207
  45. ^ 伊吹敦 p.127
  46. ^ 鈴木翠軒 pp..133-134
  47. ^ a b 中西慶爾 p.45
  48. ^ a b 伊吹敦 pp..233-234
  49. ^ 伊吹敦 pp..261-266
  50. ^ 鈴木晴彦(別冊太陽) p.136
  51. ^ a b 田上恵一 p.19
  52. ^ 外山軍治 p.31
  53. ^ 鈴木翠軒 pp..138-139
  54. ^ a b 伊吹敦 pp..225-226
  55. ^ 伊吹敦 p.229
  56. ^ 伊吹敦 p.239
  57. ^ a b 石川九楊(日本書史) pp..101-105
  58. ^ a b c d 峯岸佳葉(別冊太陽) pp..92-101
  59. ^ 峯岸佳葉(別冊太陽) p.127
  60. ^ 橋本貴朗(別冊太陽) p.120
  61. ^ a b 名児耶明(別冊太陽) p.174
  62. ^ a b c d 可成屋 p.74
  63. ^ a b c d e f g h i 可成屋 pp..70-71
  64. ^ 新川晴風 p.35
  65. ^ 新川晴風 p.319
  66. ^ 新川晴風 p.733
  67. ^ 伊吹敦 p.208
  68. ^ 新川晴風 p.200
  69. ^ 新川晴風 p.816
  70. ^ a b 伊吹敦 p.126
  71. ^ 別冊太陽(日本の書) p.10-11、p.95、pp..98-99、pp..115-117、pp..122-123、p.147、p.153
  72. ^ 小松茂美 図版237・238・240・245・251・252・256・257
  73. ^ 堀江知彦 p.23、p.267、p.318、p.425、p.502、p.788
  74. ^ 石川九楊(日本書史) p.92、p.98、p.102、p.104
  75. ^ 中西慶爾 p.241、pp..335-336、pp..945-946
  76. ^ 中田勇次郎(法語 済侍者) pp..164-165
  77. ^ 可成屋 pp..74-75、pp..102-103、pp..114-117
  78. ^ a b 橋本貴朗(決定版 日本書道史) p.116
  79. ^ a b 名児耶明(図説 日本書道史) pp..114-115
  80. ^ 木下政雄 pp..127-128
  81. ^ 渡部清(図説 日本書道史) p.147
  82. ^ 鈴木晴彦(図説 日本書道史) pp..168-170
  83. ^ 鈴木晴彦(決定版 日本書道史) pp..154-156
  84. ^ 外山軍治 p.29
  85. ^ 14世紀
  86. ^ 石川九楊(日本書史) p.92
  87. ^ 六人部克典 p.122
  88. ^ 可成屋 p.102
  89. ^ 可成屋 p.116
  90. ^ a b c d e 福嶋俊翁 pp..163-166
  91. ^ 堀江知彦 p.53
  92. ^ 中西慶爾 p.787
  93. ^ a b 堀江知彦 p.460
  94. ^ 伊吹敦 p.125
  95. ^ 中西慶爾 p.638
  96. ^ 中西慶爾 p.629
  97. ^ 二玄社(書道辞典) p.165
  98. ^ a b 堀江知彦 pp..454-455
  99. ^ 中西慶爾 p.506
  100. ^ a b 中西慶爾 p.910
  101. ^ a b 堀江知彦 768
  102. ^ 伊吹敦 p.112
  103. ^ 新村出 p.62
  104. ^ a b 二玄社(書道辞典) p.73
  105. ^ a b c d 堀江知彦 p.198
  106. ^ 中西慶爾 pp..212-213
  107. ^ 中西慶爾 p.618
  108. ^ 堀江知彦 p.861
  109. ^ a b 堀江知彦 p.855
  110. ^ 中西慶爾 p.1001
  111. ^ 伊吹敦 pp..133-134
  112. ^ 中西慶爾 p.515
  113. ^ a b c 堀江知彦 p.205
  114. ^ 中西慶爾 pp..228-229
  115. ^ a b c 堀江知彦 p.581
  116. ^ 中西慶爾 p.167
  117. ^ 伊吹敦 p.119
  118. ^ 「特集 東京国立博物館陳列品収集の歩み」『MUSEUM』262号、pp.14, 26, 31
  119. ^ a b c d e 堀江知彦 p.541
  120. ^ 石川九楊(書家101) pp..158-159
  121. ^ a b c d 可成屋 pp..72-73
  122. ^ a b 古田紹欽 p.176
  123. ^ a b 名児耶明(決定版 日本書道史) pp..102-103
  124. ^ 堀江知彦 p.340
  125. ^ 小松茂美 p.310
  126. ^ 新村出 p.1067
  127. ^ a b 古田紹欽 p.159
  128. ^ 石川九楊(日本書史) pp..97-98
  129. ^ 古田紹欽 pp..20-28
  130. ^ 小松茂美 図版247
  131. ^ 石川九楊(日本書史) p.94
  132. ^ 伊吹敦 p.225
  133. ^ a b 六人部克典 p.123
  134. ^ 堀江知彦 p.27
  135. ^ 小松茂美 図版257
  136. ^ 橋本貴朗(決定版 日本書道史) pp..116-117
  137. ^ a b 中田勇次郎(日本7 鎌倉II) pp..153-154
  138. ^ 中西慶爾 p.953
  139. ^ a b 新川晴風 p.834
  140. ^ a b 堀江知彦 p.788
  141. ^ 中田勇次郎(日本7 鎌倉II) p.156
  142. ^ a b 堀江知彦 p.502
  143. ^ 中田勇次郎(法語 済侍者) p.164
  144. ^ 中西慶爾 p.490
  145. ^ 中西慶爾 p.673
  146. ^ 二玄社(書道辞典) p.178
  147. ^ 伊吹敦 p.135
  148. ^ 伊吹敦 p.243
  149. ^ 中田勇次郎(法語 済侍者) p.165
  150. ^ 中西慶爾 pp..945-946
  151. ^ 中西慶爾 p.241
  152. ^ a b 堀江知彦 p.408
  153. ^ 伊吹敦 p.139
  154. ^ 伊吹敦 p.202
  155. ^ a b 堀江知彦 p.646
  156. ^ 中西慶爾 pp..844-845
  157. ^ a b 西林昭一(元・明) pp..44-45
  158. ^ a b 二玄社(書道辞典) p.223
  159. ^ 石川九楊(日本書史) p.100
  160. ^ 伊吹敦 pp..143-144
  161. ^ 伊吹敦 p.223
  162. ^ 伊吹敦 p.232
  163. ^ 中西慶爾 p.945
  164. ^ 中西慶爾 p.596
  165. ^ 飯島春敬 p.748
  166. ^ 堀江知彦 p.53、p.68、p.191、pp..204-205、p.218、p.267、p.318、pp..324-325、p.331、p.348、p.404、pp..420-421、p.465、p.499、p.524、p.541、p.549、p.565、p.581、p.646、p.714、p.744、p.768、pp..787-788、p.847、p.855、p.857、p.861
  167. ^ 北川博邦 p.227、p.404
  168. ^ 伊吹敦 p.73、p.80、p.86、p.97、p.109、pp..113-116、p.125、pp..133-137、pp..143-144、pp..188-191、p.195、p.197、pp..199-201、pp..213-214、p.223、pp..225-226、p.229、p.235、pp..238-240、pp..249-250、p.261、p.263、p.282、pp..315-316
  169. ^ 可成屋 p.114
  170. ^ 小松茂美 図版237
  171. ^ 外山軍治 p.29、p.174

参考文献

[編集]
日本
  • 「日本7 鎌倉II」(『書道全集 第19巻』平凡社、新版1971年(初版1966年))
    • 神田喜一郎「日本書道史7 鎌倉II」
    • 古田紹欽「大燈国師の墨跡」「『虚堂和尚上堂語』宗峰妙超」「『看読真詮榜』宗峰妙超」「書人小伝・宗峰妙超」
    • 中田勇次郎「『法語』蘭渓道隆」「『偈』無学祖元」
  • 「日本9 江戸 I」(『書道全集 第22巻』 平凡社、新版1971年(初版1966年))
    • 外山軍治「明末の帰化僧と日本文化」「鉄牛和尚五十初度偈」
  • 小松茂美「特別展 日本の書への手引き」(『特別展 日本の書』東京国立博物館、初版1978年)
  • 可成屋 『すぐわかる日本の書』(東京美術、新版2008年(初版2002年))ISBN 978-4-8087-0734-7
  • 名児耶明監修『決定版 日本書道史』(芸術新聞社、初版2009年)ISBN 978-4-87586-166-9
    • 名児耶明「鎌倉」
    • 橋本貴朗「南北朝・室町」
    • 鈴木晴彦「江戸中・後期」
  • 「図説 日本書道史」(『墨スペシャル 第12号 1992年7月』芸術新聞社
    • 名児耶明「名品鑑賞 鎌倉」
    • 木下政雄「名品鑑賞 南北朝・室町」
    • 渡部清「名品鑑賞 安土桃山・江戸前期」
    • 鈴木晴彦「名品鑑賞 江戸中・後期」
  • 古谷稔監修 『書道の知識百科』(主婦と生活社、新版1996年(初版1994年))ISBN 4-391-11937-4
    • 田上恵一「古典に親しむ」
    • 山内常正「書法の歴史」
  • 石川九楊『説き語り 日本書史』(新潮選書、初版2011年)ISBN 978-4-10-603694-1
  • 『別冊太陽 日本のこころ191 日本の書 古代から江戸時代まで』(平凡社、初版2012年)
    • 峯岸佳葉「墨跡」「茶掛けの流行 墨跡から和歌書へ」
    • 橋本貴朗「室町時代」
    • 六人部克典「名品紹介 室町時代」
    • 鈴木晴彦「江戸時代」
    • 名児耶明「日本の書をもっと楽しむためのQ&A」
中国
  • 「中国11 宋II」(『書道全集 第16巻』平凡社、新版1971年(初版1967年))
    • 神田喜一郎「宋代禅僧の墨跡」
    • 福嶋俊翁「『印可状』無準師範」「『印可状』圜悟克勤」「『尺牘 与無相居士』大慧宗杲」「『法語』密庵咸傑」
  • 中田勇次郎「法語 与済侍者」(「中国12 元・明 I」『書道全集 第17巻』 平凡社、新版1971年(初版1967年))
  • 峯岸佳葉「墨跡について」(角井博監修『決定版 中国書道史』芸術新聞社、初版2009年)ISBN 978-4-87586-165-2
  • 西林昭一・石田肇「五代・宋・金」(『ヴィジュアル書芸術全集 第7巻』 雄山閣、1992年)ISBN 4-639-01036-2
  • 西林昭一・澤田雅弘「元・明」(『ヴィジュアル書芸術全集 第8巻』 雄山閣、初版1992年)ISBN 4-639-01036-2
  • 鈴木洋保・弓野隆之・菅野智明『中国書人名鑑』(二玄社、初版2007年)ISBN 978-4-544-01078-7
  • 中田勇次郎「宋」(「中国書道史」『書道藝術 別巻第3』 中央公論社、初版1977年)
  • 寺田隆信『物語 中国の歴史』(中公新書、新版2006年(初版1997年))ISBN 4-12-101353-0
  • 比田井南谷 『中国書道史事典 普及版』(天来書院、初版2008年)ISBN 978-4-88715-207-6
日中

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]