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|社名 = 神奈川中央交通株式会社
|社名 = 神奈川中央交通株式会社
|英文社名 = Kanagawa Chuo Kotsu Co., Ltd.
|英文社名 = Kanagawa Chuo Kotsu Co., Ltd.
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'''神奈川中央交通株式会社'''(かながわちゅうおうこうつう)は、三浦や足柄を除く[[神奈川県]]の大部分の地域と[[町田市]]・[[多摩市]]などの[[東京都]]多摩南西部を中心に[[路線バス]]や[[貸切バス]]の運行を行っている[[小田急グループ]]の[[バス (交通機関)|バス]]会社。通称'''神奈中バス'''(かなちゅうバス)。
'''神奈川中央交通株式会社'''(かながわちゅうおうこうつう)は、[[神奈川県]][[平塚市]]に本社を設置し、三浦や足柄を除く[[神奈川県]]の大部分の地域と[[町田市]]・[[多摩市]]などの[[東京都]]多摩南西部を中心に[[路線バス]]や[[貸切バス]]の運行を行っている[[小田急グループ]]の[[バス (交通機関)|バス]]事業者である。通称'''神奈中バス'''(かなちゅうバス)


東日本では最大のバス事業者で<ref name="br68-43"/><!--出典『バスラマ・インターナショナル』通巻68号 p.43でこのように記載されているので、ここを変えようと思ったら別の出典を提示してください-->、バス専業の事業者としても日本一の規模であり<ref name="bj57-18"/><!--出典『バスジャパン・ハンドブックR・57』p.18でこのように記載されているので、ここを変えようと思ったら別の出典を提示してください-->、業界のリーダー的存在とされている<ref name="bj23-16"/>。[[神奈川県バス協会]]と[[東京バス協会]]の双方に加盟しており<ref name="kanagawabus">{{Cite web |url=http://www.kanagawabus.or.jp/ncompany.html |title=乗合バス事業者一覧 |publisher=[http://www.kanagawabus.or.jp/ 神奈川県バス協会] |language=日本語 |accessdate=2012-04-19}}</ref><ref name="tokyobus">{{Cite web |url=http://www.tokyobus.or.jp/company/ncompany.html |title=会員バス事業者一覧 |publisher=[http://www.tokyobus.or.jp/ 東京バス協会] |language=日本語 |accessdate=2012-04-19}}</ref>、神奈川県内及び東京都南多摩地域の路線バスの他にも、東京駅・新宿駅からの[[深夜バス|深夜急行バス]]や、[[東京国際空港]]・[[成田国際空港]]への[[リムジンバス|空港連絡バス]]を運行する。かつては横浜・町田・本厚木などから[[近畿地方]]各地や[[盛岡駅]]への[[高速バス]]路線の運行も行なっていた([[#夜行高速バス|後述]])。
神奈川県内及び東京都南多摩地域の路線バスの他にも、東京駅・新宿駅~平塚駅、新宿駅~町田バスセンター・相模大野駅・本厚木駅間の[[深夜バス|深夜急行バス]]を運行する。かつては横浜・町田・本厚木などから[[近畿地方]]各地や[[盛岡駅]]への[[高速バス]]路線があった(廃止前は子会社の[[横浜神奈交バス]]が運行していた)。現在も路線自体は現地のバス会社により運行されている。

2011年(平成23年)3月31日現在での車両規模は2,091台(乗合1,925台、特定他166台<ref>[http://www.kanachu.co.jp/kanachu/corporate/outline.html 会社概要]</ref>。神奈交車・神奈中観光など子会社の台数は含まず)である。

なお、同社は、[[神奈川県バス協会]]と[[東京バス協会]]の双方に加盟している。


== 歴史 ==
== 歴史 ==
=== 創業期 ===
=== 創業期 ===
[[2009年]]現在の神奈川中央交通が主な営業エリアとしている[[神奈川県]]中央部に乗合自動車が走り始めたのは、[[1910年]]に佐藤某<ref group="注釈">[[#50年史|『神奈川中央交通五十年史』 p.6]]の表記による。</ref>が設立した合資会社による、[[厚木市|厚木]]と[[平塚市|平塚]]を結ぶ幌つき自動車による路線の開設に端を発する<ref name="bj23-16"/>。これに続くように、[[1911年]]には相陽自動車が車両3台で秦野と平塚を結ぶ路線の運行を開始している。しかし、乗合馬車や人力車の方が安かったこと<ref name="50-6"/>や、道路が悪く運転技術も未熟だった<ref name="50-6"/>こともあり、いずれも1年程度で廃業となっている<ref name="bj23-16"/>。
神奈川中央交通の直接的な起源は、[[1921年]]([[大正]]10年)[[6月5日]]に[[横浜市]]大岡町を拠点として設立された相武自動車だが、その前身は、現在の横浜市栄区本郷石橋の有志により、弘明寺と鎌倉を結ぶバス会社であった。
[[2009年]]現在の神奈川中央交通が主な営業エリアとしている[[神奈川県]]中央部に乗合自動車が走り始めたのは、それ以前の[[1919年]](大正8年)に本田綱次が設立した合資会社による、[[厚木市]]と[[平塚市]]を結ぶ路線の開設に端を発する。これに続くように、[[1920年]](大正9年)には伊勢原自働車運輸が平塚と[[伊勢原市]]を結ぶ路線で運行を開始<ref name="bjh57-18">バスジャパン・ハンドブックR「57 神奈川中央交通」p18</ref>、さらに1921年(大正10年)には秦野自動車が[[秦野市]]と平塚を結ぶ路線の運行を開始した<ref name="bjh57-18"/>。同年には大谷仁三郎により橋本と田名村(当時)を結ぶ路線などの運行が開始されている<ref name="bjh57-18"/>ほか、厚木と横浜を結ぶ路線が厚木町(当時)の有力者により開設されている。厚木 - 横浜線は[[1923年]](大正12年)に設立された中央相武自動車に営業譲渡されている<ref name="bjh57-18"/>。この他にも、厚木と[[藤沢市|藤沢]]を結ぶ片瀬自動車商会、厚木と戸塚を結ぶ鶴屋自動車商会の路線が開業するなど、[[1930年]]([[昭和]]5年)までに10数社のバス事業者が設立されている<ref name="bjh57-18"/>。[[東海道本線]]の鉄道駅と[[大山道]]の宿場町を結んで開設された路線が目立った。一方、[[東京府]](当時)でのバス営業は[[1934年]](昭和9年)に原町田乗合自動車が原町田と鶴川・淵野辺と小野路を結ぶ路線を開業させたのが端緒である<ref name="bjh57-19">バスジャパン・ハンドブックR「57 神奈川中央交通」p19</ref>。


[[第一次世界大戦]]後の好景気により、[[横浜市]]内ではまず賃貸自動車営業<ref group="注釈">現代でいう[[タクシー]]のこと([[#60年史|『神奈川中央交通五十年史』 p.6]])。</ref>が開始され、続いてその兼営という形で乗合自動車の運行開始が行われるようになった<ref name="50-8"/>。[[1917年]]頃から個人営業による乗合自動車業が設立されるようになり<ref name="50-8"/>、当時市街地として発展していた弘明寺を中心に、複数の乗合自動車が激しい乗客争奪戦を行っていた<ref name="50-8"/>。そのうち、無益な競争をやめて整理統合する機運が高まり<ref name="50-8"/>、[[1921年]][[6月5日]]には[[横浜市]]大岡町を拠点として'''相武自動車'''が設立された<ref name="50-8"/>。これが神奈川中央交通の直接的な起源である<ref name="bj23-16"/>。
しかし、こうした小規模なバス事業者の乱立は、結果的に競合による疲弊を招く事となった。そうした中、資本力のある事業者が小規模事業者を買収し合併する事で、事業規模を拡大すると共に無益な競合を解消する気運が現れ始めた<ref name="bjh57-19"/>。


その後、[[1920年]]には伊勢原自働車運輸<!--「自働車」は誤字でも誤変換でもありません-->が平塚と[[伊勢原市]]を結ぶ路線で運行を開始<ref name="bj57-18"/>、さらに1921年には秦野自動車が秦野と平塚を結ぶ路線の運行を開始した<ref name="bj57-18"/>。同年には大谷仁三郎により橋本と田名村(当時)を結ぶ路線などの運行が開始されている<ref name="bj57-18"/>ほか、厚木と横浜を結ぶ路線が厚木町(当時)の有力者により開設されている。厚木と横浜を結ぶ路線は[[1923年]]に設立された中央相武自動車に営業譲渡されている<ref name="bj57-18"/>。この他にも、厚木と[[藤沢市|藤沢]]を結ぶ片瀬自動車商会、厚木と戸塚を結ぶ鶴屋自動車商会の路線が開業するなど、[[1930年]]でに10数社のバス事業者が設立されている<ref name="bj57-18"/>。[[東海道本線]]の鉄道駅と[[大山道]]の宿場町を結んで開設された路線が目立った。一方、[[東京府]](当時)でのバス営業は[[1934年]]に原町田乗合自動車が原町田と鶴川・淵野辺と小野路を結ぶ路線を開業させたのが端緒である<ref name="bj23-17"/>。
[[1928年]](昭和3年)には、伊勢原自働車運輸が同じく伊勢原を拠点としていたサンエキ自動車と合併し伊勢原サンエキ自動車と改称<ref name="bjh57-19"/>、[[1932年]](昭和7年)には伊勢原自動車へ社名変更を行った<ref name="bjh57-19"/>。[[1931年]](昭和6年)には、江之島自動車、片瀬自動車商会、鵠沼自動車を合併して藤沢自動車が設立された<ref name="bjh57-19"/>。この藤沢自動車は藤沢近辺にとどまらず、厚木・津久井方面まで沿線事業者と合併の上規模を拡大した<ref name="bjh57-19"/>結果、[[1937年]]には営業キロが約300kmに達し、車両数約60台を有する大手事業者となった<ref name="bjh57-19"/>。同年、京王電気軌道(現在の[[京王電鉄]])の傘下に入っている<ref name="bjh57-19"/>。一方、[[1936年]](昭和11年)には原町田乗合自動車が[[関東バス|関東乗合自動車]]に合併されている<ref name="bjh57-19"/>ほか、相武自動車が鶴屋商会と戸塚自動車商会を合併した上で翌年に相武鶴屋自動車と改称した<ref name="bjh57-19"/>。[[1938年]](昭和13年)に東京横浜電鉄(現・[[東京急行電鉄]])の傘下に入り、[[1939年]](昭和14年)には先に東横傘下に入っていた中央相武自動車を合併の上東海道乗合自動車と改称し、主に東海道本線沿線への路線展開を行った<ref name="bjh57-19"/>。[[1941年]](昭和16年)にはやはり東横系となっていた関東乗合自動車の町田営業所を継承して東京都内に進出<ref name="bjh57-19"/>、[[1942年]](昭和17年)には同じく東横系となっていた秦野自動車を合併した<ref name="bjh57-19"/>。


=== 自主統合の流れ ===
こうした自主的な統合という方向性は、1931年(昭和6年)に公布された[[自動車交通事業法]]の目的である「交通企業の合理化と交通事業の統制」にも叶うものであった<ref name="bjh57-19"/>。
小規模なバス事業者の乱立は、結果的に競合による疲弊を招き<ref name="bj23-17"/>、資本力のある事業者が小規模事業者を買収し合併する事で、事業規模を拡大すると共に無益な競合を解消する気運が現れ始めた<ref name="bj57-19"/>。こうした自主的な統合という方向性は、1931年に公布された[[自動車交通事業法]]の目的である「交通企業の合理化と交通事業の統制」にも叶うものであった<ref name="bj23-17"/>。


[[1928年]]には、伊勢原自働車運輸<!--「自働車」は誤字でも誤変換でもありません-->が同じく伊勢原を拠点としていたサンエキ自動車と合併し伊勢原サンエキ自動車と改称<ref name="bj23-18"/>、[[1932年]]には伊勢原自動車へ社名変更を行った<ref name="bj57-19"/>。[[1931年]]には、江之島自動車、片瀬自動車商会、鵠沼自動車を合併して藤沢自動車が設立された<ref name="bj23-17"/>。この藤沢自動車は藤沢近辺にとどまらず、厚木・津久井方面まで沿線事業者と合併の上規模を拡大した<ref name="bj57-19"/>結果、[[1937年]]には営業キロが約300kmに達し、車両数約60台を有する大手事業者となった<ref name="bj57-19"/>。同年、藤沢自動車は京王電気軌道(現在の[[京王電鉄]])の傘下に入っている<ref name="bj23-17"/>。一方、[[1936年]]には原町田乗合自動車が[[関東バス|関東乗合自動車]]に合併されている<ref name="bj57-19"/>ほか、相武自動車が鶴屋商会と戸塚自動車商会を合併した上で翌年に相武鶴屋自動車と改称した<ref name="bj23-17"/>。[[1938年]]に東京横浜電鉄(現・[[東京急行電鉄]])の傘下に入り、[[1939年]]には先に東横傘下に入っていた中央相武自動車を合併の上'''東海道乗合自動車'''と改称し、主に東海道本線沿線への路線展開を行った<ref name="bj57-19"/>。[[1941年]]にはやはり東横系となっていた関東乗合自動車の町田営業所を継承して東京都内に進出<ref name="bj23-17"/>、[[1942年]]には同じく東横系となっていた秦野自動車を合併した<ref name="bj23-18"/>ほか、江ノ島電気鉄道の2路線を譲受した<ref name="60-5"/>。
その一方、藤沢自動車と競合する[[相模鉄道]]では自社の[[相模線]](現・JR相模線)を擁護するため<ref name="bjh57-19"/>、1935年(昭和10年)に大谷仁三郎の個人経営だった橋本・渕野辺から田名にいたる路線を譲り受けた<ref name="bjh57-19"/>上、1936年には愛高自動車商会の厚木と上溝を結ぶ路線を買収し、沿線を自社バス路線の営業エリアとした<ref name="bjh57-19"/>。


その一方、藤沢自動車と競合する[[相模鉄道]]では自社の[[相模線]](現・JR相模線)を擁護するため<ref name="bj23-18"/>、1935年に大谷仁三郎の個人経営だった橋本・渕野辺から田名にいたる路線を譲り受けた<ref name="bj57-19"/>上、1936年には愛高自動車商会の厚木と上溝を結ぶ路線を買収し、沿線を自社バス路線の営業エリアとした<ref name="bj23-1718"/>。
=== 戦時統合 ===
戦時体制に入ると、[[陸上交通事業調整法]]の公布により、バス事業者は極力統合する方向となった<ref name="bjh57-19"/>。[[1942年]](昭和17年)に東京横浜電鉄は京浜電気鉄道(現在の[[京浜急行電鉄]])と小田急電鉄(現・[[小田急電鉄]]、[[京王井の頭線]])を統合して東京急行電鉄(東急)となっていたが、神奈川県内においては[[1943年]](昭和18年)に藤沢自動車と伊勢原自動車を傘下に収めた<ref name="bjh57-19"/>。


この時期までに譲受されたバス事業の概要は以下の通りである。
一方、1942年(昭和17年)には[[鉄道省]]通牒により強制統合が進められる事となったが、この時に神奈川県では横浜市・相模・地区外という3ブロックに分けられる事となった<ref name="bjh57-20">バスジャパン・ハンドブックR「57 神奈川中央交通」p20</ref>。この時、町田地区は東京の調整区域から外されて相模ブロックに編入される事になった<ref name="bjh57-20"/>。相模ブロックの統合主体は東海道乗合自動車が選定され、[[1944年]](昭和19年)[[6月16日]]に藤沢自動車と伊勢原自動車を合併、神奈川中央乗合自動車が成立した<ref name="bjh57-20"/>。この時点では相模鉄道のバス部門はそのままであった<ref name="bjh57-20"/>が、既に相模鉄道自身も東急の傘下にあった上に鉄道線が国鉄に買収された事<ref name="bjh57-20"/>、神中線も東急に経営委託(事実上の統合)していたために鉄道業における実体がなくなっていた事<ref name="bjh57-20"/>から、同社バス部門は1944年(昭和19年)[[11月28日]]に神奈川中央乗合自動車に譲渡される事になった<ref name="bjh57-20"/>。
; 中央相武自動車:[[1923年]]3月設立。[[横浜駅|横浜]]~厚木間の乗合自動車を運営。[[東急玉川線|玉川電気鉄道(玉電)]]の傘下会社である目黒自動車運輸が買収したが、1936年10月に東横が玉電を傘下に収めた事に伴い、1937年8月に同社も東横の傘下に入った<ref name="50-16"/>。
; [[関東バス|関東乗合自動車]]:1931年12月設立。新宿~小滝橋間を運行していたが、1936年12月に原町田乗合(同年4月に設立され、1921年9月より野渡太助が運行し、後に平井実造が経営していた[[町田駅|原町田]]~図師間、原町田~[[鶴間駅|鶴間]]間、原町田~小野路間、原町田~[[瀬谷駅|瀬谷]]間などの路線を承継)を合併することにより、現在の[[町田市]]内にも営業基盤を有することになった<ref name="50-17"/>。しかし、運営上不便だったため<ref name="50-17"/>、東海道乗合自動車へはこの原町田営業所を譲渡した<ref name="50-17"/>。
; [[江ノ島電鉄|江ノ島電気鉄道]]:1931年[[7月11日]]、競合関係にあった鎌倉江ノ島乗合自動車商会([[1929年]][[6月2日]]開業)より[[江ノ島]]~[[鎌倉駅|鎌倉]]間の営業権を譲受して営業再開(これ以前に、1927年から1929年まで辻堂地区で乗合自動車業を行っていたが、廃業していた)<ref name="50-17"/>。[[1934年]][[9月1日]]、藤沢自動車より片瀬~[[藤沢駅|藤沢]]間譲受<ref name="50-17"/>。[[1935年]][[5月26日]]、岩崎清一及び平田忠心より[[茅ヶ崎市]]内及び[[平塚市]]内の路線を譲受<ref name="50-17"/>。東海道乗合自動車へは、まずこの茅ヶ崎・平塚線を譲渡した<ref name="50-17"/>。

=== 戦時統合へ ===
戦時体制に入ると、[[陸上交通事業調整法]]の公布により、バス事業者は極力統合する方向となった<ref name="bj57-19"/>。[[1942年]]に東京横浜電鉄は京浜電気鉄道(現在の[[京浜急行電鉄]])と小田急電鉄(現・[[小田急電鉄]]、[[京王井の頭線]])を統合して東京急行電鉄(東急)となっていたが、東急は[[1943年]]に藤沢自動車の経営権を京王電気軌道から譲受して傘下に収めた上で<ref name="bj23-18"/>、伊勢原自動車を買収した<ref name="bj57-19"/>。さらに同年中には、東海道乗合自動車の経営にも東急が参加している<ref name="bj23-18"/>。一方、1942年には[[鉄道省]]通牒により強制統合が進められる事となったが、この時に神奈川県では横浜市・相模・地区外という3ブロックに分けられる事となった<ref name="bj57-20"/>。この時、町田地区は東京の調整区域から外されて相模ブロックに編入される事になった<ref name="bj23-18"/>。相模ブロックの統合主体は東海道乗合自動車が選定され<ref name="bj57-20"/>、[[1944年]][[6月16日]]に藤沢自動車と伊勢原自動車を合併、'''神奈川中央乗合自動車'''が成立した<ref name="bj23-18"/>。

なお、江ノ島電気鉄道のバス路線については、既に一部の路線が東海道乗合自動車に譲渡されており、残った路線も1944年までには全ての路線が運休となってたことから、事実上のバス事業廃止となった<ref name="bj23-18"/>。この時点では相模鉄道のバス部門はそのままであった<ref name="bj57-20"/>が、既に相模鉄道自身も東急の傘下にあった上<ref name="bj23-19"/>、鉄道線が国鉄に買収され<ref name="bj57-20"/>、神中線も東急に経営委託(事実上の統合)していたため<ref name="bj23-19"/>、鉄道業における実体がなくなっていた<ref name="bj57-20"/>。同社バス部門は1944年[[11月28日]]に神奈川中央乗合自動車に譲渡された<ref name="bj23-19"/>。この時点で相模ブロックの統合が完了したのである<ref name="bj57-20"/>。

この時期までに統合されたバス事業の概要は以下の通りである。
; 伊勢原自動車:[[1920年]]3月に伊勢原自働車運輸<!--「自働車」は誤字でも誤変換でもありません-->として設立<ref name="60-7"/>。1928年2月サンエキ自動車([[1926年]]設立)と合併し、伊勢原サンエキ自動車と改称<ref name="60-7"/>。[[1932年]]9月伊勢原自動車と商号を変更<ref name="60-7"/>。周辺事業者を悉く統合<ref name="50-18"/>。1938年3月には秦野自動車より平塚~二宮間と平塚~須賀間を譲受していた<ref name="50-18"/>。
; 藤沢自動車:1931年に江之島自動車・片瀬自動車商会・鵠沼自動車が統合して設立<ref name="60-7"/>。以来、県央地区([[高座郡]]・[[愛甲郡]]・[[津久井郡]])の事業者を悉く買収・併合して統合<ref name="50-2021"/>。1937年6月、京王電気軌道(現在の[[京王線]]の母体)に買収され、同社傘下となる。[[1940年]]9月、八王子中央自動車([[1925年]]11月開業。[[川尻村 (神奈川県)|川尻村]](現・[[相模原市]]城山町)久保沢向原~[[八王子市]]旭町間)の合併で、南は藤沢~平塚から厚木・[[相模原市|相模原]]を経て北は八王子~上野原までに至る神奈川県を縦断する路線網を築き上げた<ref name="50-19"/>。
; [[相模鉄道]]:1935年[[12月24日]]、大谷仁三郎経営の[[淵野辺駅|淵野辺]]~[[上溝駅|上溝]]~田名間と田名~[[橋本駅 (神奈川県)|橋本]]間の乗合自動車業を承継して開業<ref name="50-24"/>。1936年[[6月9日]]、愛甲自動車商会より上溝~厚木間の路線を譲受。1941年[[6月30日]]、東京横浜電鉄の傘下に入り、1943年[[4月1日]]、神中鉄道(現在の[[相鉄本線]]の母体)を吸収合併するが、1944年[[6月1日]]、本来の鉄道路線である[[茅ヶ崎駅|茅ヶ崎]]~[[橋本駅 (神奈川県)|橋本]]間が国家買収される(現在のJR[[相模線]])。従って同社は現在の相鉄と同一企業であるが、この時神奈中に編入されたバス路線と現在の相鉄バス([[1949年]][[6月20日]]、[[横浜市]]内で改めて開業)は全くの無関係である。

1945年には空襲に備え、本社事務所を伊勢原に疎開移転した<ref name="50-29"/>。


=== 戦後の復興 ===
=== 戦後の復興 ===
神奈川県中央部は、横浜・[[川崎市|川崎]]と比較すると戦災による路線の被害は少なかった<ref name="bj23-19"/>が、戦後の輸送量増加においては車両不足が顕在化した<ref name="bj57-20"/>。このため、[[1946年]]に神中自動車工業秦野工場を買収し、自社で車両再生を行った<ref name="bj23-19"/>。
[[画像:Kanagawa Chuo Kotsu Charcoal Bus.jpg|thumb|right|200px|戦後の石油不足の際に走った薪バス「三太号」(2007年10月)]]
神奈川県中央部は、横浜・[[川崎市|川崎]]と比較すると戦災による路線の被害は少なかった<ref name="bjh57-20"/>が、戦後の輸送量増加においては車両不足が顕在化した。このため、[[1946年]](昭和21年)に神中自動車工業秦野工場を買収し、自社で車両再生を行った<ref name="bjh57-20"/>。同工場で再生された車両は、自製のボンネット周りに外観上の特徴があった<ref name="bl68-53">バスラマ・インターナショナル68号「バス事業者訪問69 神奈川中央交通」p53</ref>。この工場は[[1953年]](昭和28年)に閉鎖されたが、戦後の車両復興に大きく貢献した。


[[1948年]](昭和23年)、戦時統合により巨大な鉄道事業者となっていた東急から、小田急・京急・京王帝都電鉄(現在の[[京王電鉄]])が分離したが、元来小田急の路線であった井の頭線は京王の所属となり、その代わりとして[[箱根登山鉄道]]とともに神奈川中央乗合自動車が小田急の傘下に入る事になった<ref name="bjh57-21">バスジャパン・ハンドブックR「57 神奈川中央交通」p21</ref>。同年にはディーゼルバスの導入を開始<ref name="bjh57-21"/>、戦時中は休止していた貸切バス事業も再開している<ref name="bjh57-21"/>。この時期、江ノ島電気鉄道(現在の[[江ノ島電鉄]])では自社鉄道線の擁護を目的として、かつて江ノ電が経営していたバス路線の買収を図った。交渉の難航はあったものの、[[1949年]](昭和24年)6月に藤沢・鎌倉・大船・弘明寺地区の路線の一部が江ノ電に譲渡された<ref name="bjh57-21"/>。[[1951年]]6月には社名を'''神奈川中央交通'''に変更した。
[[1948年]]、戦時統合により巨大な鉄道事業者となっていた東急([[大東急]])から、小田急・京急・京王帝都電鉄(現在の[[京王電鉄]])が分離したが、元来小田急の路線であった井の頭線は京王の所属となり<ref name="bj23-19"/>、その代わりとして[[箱根登山鉄道]]とともに神奈川中央乗合自動車が小田急の傘下に入る事になった<ref name="bj57-21"/>。同年にはディーゼルバスの導入を開始<ref name="bj23-20"/>、戦時中は休止していた貸切バス事業も再開している<ref name="bj57-21"/>。この時期、江ノ島電気鉄道(現在の[[江ノ島電鉄]])では自社鉄道線の擁護を目的として<ref name="bj23-19"/>、かつて江ノ電が経営していたバス路線の買収を図った<ref name="bj57-21"/>。交渉の難航はあったものの、五島慶太の斡旋によって買収が決定<ref name="bj23-19"/>、[[1949年]]6月に藤沢・鎌倉・大船・弘明寺地区の路線の一部が江ノ電に譲渡された<ref name="bj57-21"/>。[[1951年]]6月には社名を'''神奈川中央交通'''に変更した<ref name="bj23-20"/>。1953年には本社を平塚市に移転した<ref name="50-41"/>


沿線住民や利用者からは、この時期から「神奈中」という通称で呼ばれるになった<ref name="bjh57-21"/>。本項でも、以下神奈川中央交通を「神奈中」と表記する。
沿線住民や利用者からは、この時期から「神奈中」という通称で呼ばれるようになった<ref name="bj57-21"/>。本項でも、以下神奈川中央交通を「神奈中」と表記する。


=== 高度成長期 ===
=== 高度成長期 ===
==== 1960年代・団地輸送の増強と拡大 ====
==== 1960年代・団地輸送の増強と拡大 ====
1950年代後半に入ると、人口増加地域である神奈中エリアの通勤需要は増加の一途を辿る<ref name="bjh57-21"/>。特に[[東海道線 (JR東日本)|東海道線]]沿線の鉄道[[フィーダーバス|フィーダー]]輸送の必要性が高くなっていた<ref name="bjh57-21"/>事から、[[1953年]](昭和28年)に[[藤沢駅]]と[[横浜駅]]を結ぶ路線を15分ヘッドで運行し、急行便も新設した<ref name="bjh57-21"/>。その後、[[国府津駅]]までの鉄道と並行する路線も同様に運行便数の充実を図り、さらに鉄道駅から住宅地への路線を新設し鉄道との連携輸送を行った。同様に人口が増加していた小田急沿線からの路線も拡充し、町田地区では道路改良と共に次々と路線新設を行った結果、[[1956年]](昭和31年)までの3年間に導入した車両数は126台となり、約90系統が新設されている<ref name="bjh57-21"/>。[[1958年]](昭和33年)には京王との相互乗り入れという形態で東京都内にも路線拡大を展開、[[調布市]]や[[聖蹟桜ヶ丘駅|関戸]]へも乗り入れた<ref name="bjh57-21"/>。一方、横浜市内では[[横浜市交通局]]や[[相模鉄道]]との路線免許申請の競合が多くなった<ref name="bjh57-21"/>が、[[1960年]](昭和35年)頃からは各社で申請前に協議する事になり<ref name="bjh57-21"/>、[[1962年]](昭和37年)には3社で運輸協定を結んだ<ref name="bjh57-21"/>ため、以後競願による認可の遅れという事態は回避される事になった<ref name="bjh57-22">バスジャパン・ハンドブックR「57 神奈川中央交通」p22</ref>。
1950年代後半に入ると、人口増加地域である神奈中エリアの通勤需要は増加の一途を辿る<ref name="bj23-20"/>。特に[[東海道線 (JR東日本)|東海道線]]沿線の鉄道[[フィーダーバス|フィーダー]]輸送の必要性が高くなっていた<ref name="bj57-21"/>事から、[[1953年]]に[[藤沢駅]]と[[横浜駅]]を結ぶ路線を15分ヘッドで運行し、急行便も新設した<ref name="bj23-20"/>。その後、[[国府津駅]]までの鉄道と並行する路線も同様に運行便数の充実を図り<ref name="bj57-21"/>、さらに鉄道駅から住宅地への路線を新設し鉄道との連携輸送を行った<ref name="bj23-20"/>。同様に人口が増加していた小田急沿線からの路線も拡充し<ref name="bj57-21"/>、町田地区では道路改良と共に次々と路線新設を行った<ref name="bj23-20"/>ほか[[宮ヶ瀬村|宮ヶ瀬]]や[[青野原村|青野]]などの山間集落にも路線を展開した<ref name="bj57-21"/>。[[1956年]]までの3年間に導入した車両数は126台となり<ref name="bj23-20"/>、約90系統が新設されている<ref name="bj57-21"/>。[[1958年]]には京王との相互乗り入れという形態で東京都内にも路線拡大を展開<ref name="bj23-20"/>、[[調布市]]や[[聖蹟桜ヶ丘駅|関戸]]へも乗り入れた<ref name="bj57-21"/>。一方、横浜市内では[[横浜市交通局]]や[[相模鉄道]]との路線免許申請の競合が多くなった<ref name="bj23-20"/>が、[[1960年]]頃からは各社で申請前に協議する事になり<ref name="bj57-21"/>、[[1962年]]には3社で運輸協定を結んだ<ref name="bj23-20"/>ため、以後競願による認可の遅れという事態は回避される事になった<ref name="bj57-22"/>。


これらの路線規模の拡大と共に営業拠点の新設も行われ、[[1957年]](昭和32年)からの5年間で233台もの車両増備が行われた<ref name="bjh57-22"/>。[[1963年]](昭和38年)以降は、町田・横浜地区並びに小田急沿線での大規模団地造成と共に大幅な輸送力増強を迫られた<ref name="bjh57-22"/>。これに対応するべく車両の増備が急速に進められ、[[1970年]](昭和45年)に路線バスの保有台数は1,000台を超え<ref name="bjh57-22"/>、営業所を郊外へ移転すると同時に敷地面積も拡大するという手法がとられた<ref name="bjh57-22"/>。
これらの路線規模の拡大と共に営業拠点の新設も行われ、[[1957年]]からの5年間で233台もの車両増備が行われた<ref name="bj23-20"/>。[[1963年]]以降は、町田・横浜地区並びに小田急沿線での大規模団地造成と共に大幅な輸送力増強を迫られた<ref name="bj57-22"/>。これに対応するべく車両の増備が急速に進められ、[[1970年]]に路線バスの保有台数は1,000台を超え<ref name="bj23-21"/>、営業所を郊外へ移転すると同時に敷地面積も拡大するという手法がとられた<ref name="bj57-22"/>。


この時期、神奈中では関連事業の拡大にも着手している。[[1959年]](昭和34年)4月には湘南平に[[レストハウス]]を建設、[[1962年]](昭和37年)からはスーパーマーケット「[[神奈中商事|神奈中ストア]]」を開業し、沿線各地への店舗展開を行った(2007年に撤退)。また、[[1964年]](昭和39年)7月には[[ボウリング場]]の建設を進め、最盛期には沿線に11店舗にまで拡大していたが、ボウリング場の乱立による競争の激化で経営が悪化、[[1974年]](昭和49年)5月までに一部の店舗を除いて撤退する事になった<ref name="60-67">「神奈川中央交通六十年史」p67</ref>。[[1967年]](昭和42年)から不動産業にも進出、[[鎌倉市]]・[[二宮町 (神奈川県)|二宮町]]などで宅地分譲を行った。
この時期、神奈中では関連事業の拡大にも着手している。[[1959年]]4月には[[湘南平]]に[[レストハウス]]を建設、[[1962年]]からはスーパーマーケット「[[神奈中商事|神奈中ストア]]」を開業し、沿線各地への店舗展開を行った。また、[[1964年]]7月には[[ボウリング場]]の建設を進め、最盛期には沿線に11店舗にまで拡大していたが、ボウリング場の乱立による競争の激化で経営が悪化、[[1974年]]5月までに一部の店舗を除いて撤退する事になった<ref name="60-67"/>。[[1967年]]から不動産業にも進出、[[鎌倉市]]・[[二宮町 (神奈川県)|二宮町]]などで宅地分譲を行った。


===== 整理券方式ワンマンバス =====
===== 日本初の整理券方式ワンマンバス =====
このに輸送力増強に追われる中、要員不足が顕在化する事となった<ref name="bjh57-22"/>。特に車掌の採用難が厳しくなった<ref name="bjh57-22"/>事から、当時都市部の一部路線で行われていた[[ワンマン運転|ワンマン化]]を進める事になった<ref name="bjh57-22"/>。しかし、ワンマン化自体は[[1951年]](昭和26年)に[[大阪市交通局]]で実施されていたが、それまでワンマン化されていた路線は均一運賃体系の路線が主で、神奈中の大多数の路線の様に乗車距離にって運賃が異なる多区間運賃制へのワンマン化事例は当時存在しなかった。特に神奈中においては運賃区間が多区間(路線によっては20区間近く)となるため、これまでシステムによワンマン化は困難であった。
このように輸送力増強に追われる中、要員不足が顕在化する事となった<ref name="bj57-22"/>。特に車掌の採用難が厳しくなった<ref name="bj23-21"/>事から、当時都市部の一部路線で行われていた[[ワンマン運転|ワンマン化]]を進める事になった<ref name="bj57-22"/>。しかし、ワンマン化自体は[[1951年]]に[[大阪市交通局]]で実施されていた<ref name="nendaiki-164"/>が、それまでワンマン化されていた路線は均一運賃体系の路線が主で、多区間運賃制路線では申告制前払いとしたところもあった<ref name="nendaiki-164"/>。しかし、神奈中の大多数の路線のように運賃区間の多い路線での多区間運賃制へのワンマン化事例は当時存在せず、運賃収受確実化を図必要があった<ref name="nendaiki-164"/>


そこで、乗車停留所を明確にするために、乗車時に[[乗車整理券]]を取り、乗客は降車時に整理券と照合して運賃を支払うという「整理券方式」のワンマンバスを導入する事になり、1962年(昭和37年)[[11月1日]]より試験的に運賃区界数2区間の路線でワンマン化が開始された。この時の整理券はボール紙鉄道の「硬券」と同様のもので<ref name="60-49">「神奈川中央交通六十年史」p49</ref>、前扉付近に整理券ホルダーを設置した。以後、神奈中の乗車方法は前乗り前降りが基本となる。その後も機器の開発を進め、1964年(昭和39年)4月には運賃区界数5区間の路線でもワンマン化が行われた<ref name="60-49"/>が、この時には色分けされたプラスチック板の整理券を乗車時にボタンを押して受け取る方法<ref name="60-49"/>となり、さらに同年10月には運賃区界数8区間の路線にも導入された<ref name="60-49"/>。それを受けて、[[1965年]](昭和40年)[[2月1日]]より伊勢原と茅ヶ崎の2営業所で本格的なワンマン化を開始した。[[1966年]](昭和41年)にはロール紙に1枚ずつ番号を印刷してカットする機構が開発され<ref name="60-49"/>、運賃区界数にかかわらずワンマンバスの運行が可能になった事から一気にワンマン化を促進し、同年[[10月1日]]には山間部の一部路線を除いてほぼ全路線がワンマン化された。
そこで、乗車停留所を明確にするために、乗車時に[[乗車整理券]]を取り、乗客は降車時に整理券と照合して運賃を支払うという「整理券方式」のワンマンバスを導入する事になり、1962年[[11月1日]]より試験的に運賃区界数2区間の路線でワンマン化が開始された。この時の整理券はボール紙<ref group="注釈">鉄道の「硬券」と同様のもの。</ref>で<ref name="60-49"/>、前扉付近に整理券ホルダーを設置した。以後、神奈中の乗車方法は前乗り前降りが基本となる。その後も機器の開発を進め、1964年4月には運賃区界数5区間の路線でもワンマン化が行われた<ref name="60-49"/>が、この時には色分けされたプラスチック板の整理券を乗車時にボタンを押して受け取る方法<ref name="60-49"/>となり、さらに同年10月には運賃区界数8区間の路線にも導入された<ref name="60-49"/>。それを受けて、[[1965年]][[2月1日]]より伊勢原と茅ヶ崎の2営業所で本格的なワンマン化を開始した。[[1966年]]にはロール紙に1枚ずつ番号を印刷してカットする機構が開発され<ref name="60-49"/>、運賃区界数にかかわらずワンマンバスの運行が可能になった事から一気にワンマン化を促進し、同年[[10月1日]]には山間部の一部路線を除いてほぼ全路線がワンマン化された。


日本では'''多区間運賃制路線でのワンマン化は神奈中が初'''<ref name="bjh57-22"/>であり、会社の規模としては急速かつ広範囲にワンマン化が進められたが、監督官庁から安全性を危惧する意見があり、狭隘な道路では待避所やカーブミラーの設置を進めると共に<ref name="60-50">「神奈川中央交通六十年史」p50</ref>、見通しの悪い踏切などでは自社で交通整理要員を配置して対処した<ref>森彰英「小田急グループの未来戦略」(日本能率協会・1988年)p191</ref>。また、当時はワンマン化に反対するバス事業者が多く、他社の労働組合からワンマンバス導入展開にクレームもあり<ref name="60-49"/>、労使共に説得したこともあるという<ref name="60-49"/>。しかし、ワンマン化は時代の趨勢であり、以後整理券方式のワンマンバスは日本全国に拡大され、乗降ドアの違いなどはあるものの、日本のバスにおいて標準的な運賃支払い方式となった。神奈中においては、[[1974年]](昭和49年)5月の[[秦野駅|大秦野駅]]と[[ヤビツ峠]]を結ぶ路線を最後に、完全ワンマン化を達成している<ref name="bjh57-22"/>。
日本では多区間運賃制路線でのワンマン化は神奈中が初<ref name="bj57-22"/>であり、会社の規模としては急速かつ広範囲にワンマン化が進められたが、監督官庁から安全性を危惧する意見があり、狭隘な道路では待避所やカーブミラーの設置を進めると共に<ref name="60-50"/>、見通しの悪い踏切などでは自社で交通整理要員を配置して対処した<ref name="ogm191"/>。また、当時はワンマン化に反対するバス事業者が多く、他社の労働組合からワンマンバス導入展開にクレームもあり<ref name="60-49"/>、労使共に説得したこともあるという<ref name="60-49"/>。しかし、ワンマン化は時代の趨勢であり、以後整理券方式のワンマンバスは日本全国に拡大され、乗降ドアの違いなどはあるものの、日本のバスにおいて標準的な運賃支払い方式となった。神奈中においては、[[1974年]]5月の[[秦野駅|大秦野駅]]と[[ヤビツ峠]]を結ぶ路線を最後に、完全ワンマン化を達成している<ref name="bj23-21"/>。


==== 1970年代・さらなる輸送力増強 ====
==== 1970年代・さらなる輸送力増強 ====
[[1970年代]]になると、既に開発の進んだ鉄道沿線から離れた外縁部へも宅地化が進む事になった<ref name="bjh57-23">バスジャパン・ハンドブックR「57 神奈川中央交通」p23</ref>。[[1971年]](昭和46年)に入居を開始した[[多摩ニュータウン]]では、ニュータウン鉄道の開通まではバスに通勤輸送が委ねられる事となり<ref name="bjh57-23"/>、神奈中と京王が輸送を担当した。さらに都心から離れた厚木・伊勢原・秦野・平塚においても住宅地の造成が進み<ref name="bjh57-23"/>、路線と車両増強を繰り返した結果、小田急線・東海道本線沿線各駅のバス路線の集積度はきわめて高くなった<ref name="bjh57-23"/>。
[[1970年代]]になると、既に開発の進んだ鉄道沿線から離れた外縁部へも宅地化が進む事になった<ref name="bj57-23"/>。[[1971年]]に入居を開始した[[多摩ニュータウン]]では、ニュータウン鉄道の開通まではバスに通勤輸送が委ねられる事となり<ref name="bj23-22"/>、神奈中と京王が輸送を担当した<ref name="bj57-23"/>。さらに都心から離れた厚木・伊勢原・秦野・平塚においても住宅地の造成が進み<ref name="bj23-22"/>、路線と車両増強を繰り返した結果、小田急線・東海道本線沿線各駅のバス路線の集積度はきわめて高くなった<ref name="bj57-23"/>。


また、[[自家用バス]]による送迎が行われている企業や学校での車両代替に着目し<ref name="bjh57-22"/>、[[1975年]](昭和50年)以降は特定バス事業にも着手した<ref name="bjh57-22"/>。運行や車両整備はバス事業者が行うが、運行形態やバスのカラーリングなどは顧客側で決定するというもので、積極的にセールスを行った事もあり、特定輸送の運行規模はその後大幅に拡大され、その後の神奈中のバス事業の基幹の1つに位置付けられている<ref name="bjh57-23"/>。[[1976年]](昭和51年)には山間部の路線において停留所以外でも乗降が可能な[[フリー乗降制|自由乗降方式]]の採用も開始した<ref name="bjh57-24">バスジャパン・ハンドブックR「57 神奈川中央交通」p24</ref>。
また、[[自家用バス]]による送迎が行われている企業や学校での車両代替に着目し<ref name="bj57-22"/>、[[1975年]]以降は特定バス事業にも着手した<ref name="bj57-22"/>。運行や車両整備はバス事業者が行うが、運行形態やバスのカラーリングなどは顧客側で決定するというもので、積極的にセールスを行ったことによって特定輸送の運行規模はその後大幅に拡大され<ref name="bj23-21"/>、その後の神奈中のバス事業の基幹の1つに位置付けられている<ref name="bj57-23"/>。[[1976年]]には山間部の路線において停留所以外でも乗降が可能な[[フリー乗降制|自由乗降方式]]の採用も開始した<ref name="bj23-23"/>。


不動産業では沿線外の宅地分譲も行う事となり、[[1974年]](昭和49年)から[[1985年]](昭和60年)までに[[兵庫県]][[三木市]]・[[愛知県]][[名古屋市]]・[[岐阜県]][[岐阜市]]・[[秋田県]][[秋田市]]での宅地分譲を行っている。この他、[[1977年]](昭和52年)からはラーメン屋「[[くるまやラーメン]]」の営業も開始している。
不動産業では沿線外の宅地分譲も行う事となり、[[1974年]]から[[1985年]]までに[[兵庫県]][[三木市]]・[[愛知県]][[名古屋市]]・[[岐阜県]][[岐阜市]]・[[秋田県]][[秋田市]]での宅地分譲を行っている。この他、[[1977年]]からはラーメン屋「[[くるまやラーメン]]」の営業も開始している。


===== 深夜バス =====
===== 日本初の深夜バス =====
[[File:PKG-MP35UM Kanachu A27 MidnightBus.jpg|200px|thumb|right|神奈中の深夜バス路線の例(本厚木駅24時35分発鳶尾団地行き)]]
[[ファイル:PKG-MP35UM Kanachu A27 MidnightBus.jpg|200px|thumb|right|神奈中の深夜バス路線の例(本厚木駅24時35分発鳶尾団地行き)]]
ベッドタウンの外延化と共に、利用者からは路線バスをもっと遅くまで走らせる事に対する要望が強くなっていた。神奈中においても例外ではなく、[[1970年]](昭和45年)5月には入居が開始されてから間もない鶴川団地の住民より、最終バスを延長するに申し入れがあった<ref name="bj8-43">「[[バス・ジャパン]]」8号「深夜バスの人気を探る」p43</ref>。神奈中ではこの要望への回答として、[[7月27日]]より[[鶴川駅]]→鶴川団地行きのバスについて23時10分と23時30分の深夜便を設定した<ref name="bj8-43"/>が、このバスは通常の路線バスと異なるサービスを提供するという観点から[[道路運送法]]24条の2「貸切自動車運送事業による乗合許可」を適用させた貸切扱いとし、運賃を通常の3倍に設定<ref name="bj8-43"/>、定期券は利用不可とした<ref name="bj8-43"/>。これが'''日本初の[[深夜バス]]'''である<ref name="bjh57-24"/>。当日の第1便は8名の利用者よりも報道陣が目立った状態<ref name="bl68-53"/>で、運賃設定などに反発した一部の住民が、会員制の「自主バス」を運行したり<ref name="bj8-43"/>、運賃制度について大学教授・利用者代表と会社役員がNHK番組で論戦を行う<ref name="60-53">「神奈川中央交通六十年史」p53</ref>などの動きもあったが、路線拡充や深夜バス運賃の据え置き<ref>通常運賃を20円から30円に改定する際に通常運賃の2倍に変更したため、深夜運賃は60円のままとなった。</ref>や引き下げ<ref>定期券の場合は通常運賃の支払いで利用可能に変更された。</ref>により深夜バスに移行した<ref name="bj8-43"/>ため、[[1980年]](昭和55年)までに「自主バス」は廃止となった<ref name="bj8-43"/>。
ベッドタウンの外延化と共に、利用者からは路線バスをもっと遅くまで走らせる事に対する要望が強くなっていた。神奈中においても例外ではなく、[[1970年]]5月には入居が開始されてから間もない鶴川団地の住民より、最終バスを延長するように申し入れがあった<ref name="bj8-43"/>。神奈中ではこの要望への回答として、同年[[7月27日]]より[[鶴川駅]]→鶴川団地行きのバスについて23時10分と23時30分の深夜便を設定した<ref name="bj8-43"/>が、このバスは通常の路線バスと異なるサービスを提供するという観点から[[道路運送法]]24条の2「貸切自動車運送事業による乗合許可」を適用させた貸切扱いとし、運賃を通常の3倍に設定<ref name="bj8-43"/>、定期券は利用不可とした<ref name="bj8-43"/>。これが日本初の[[日本の深夜バス|深夜バス]]である<ref name="bj23-23"/>。当日の第1便は8名の利用者よりも報道陣が目立った状態<ref name="br68-53"/>で、運賃設定などに反発した一部の住民が、会員制の「自主バス」を運行したり<ref name="bj8-43"/>、運賃制度について大学教授・利用者代表と会社役員がNHK番組で論戦を行う<ref name="60-53"/>などの動きもあったが、路線拡充や深夜バス運賃の据え置き<ref group="注釈">通常運賃を20円から30円に改定する際に通常運賃の2倍に変更したため、深夜運賃は60円のままとなった。</ref>や引き下げ<ref group="注釈">定期券の場合は通常運賃の支払いで利用可能に変更された。</ref>により深夜バスに移行した<ref name="bj8-43"/>ため、[[1980年]]までに「自主バス」は廃止となった<ref name="bj8-43"/>。


運輸省でもバスの終車延長には積極姿勢を見せ、1970年(昭和45年)12月には「大都市周辺部の深夜バス運行について」という通達を出した<ref name="bj8-43"/>。しかし、深夜バスは、不規則労働となる乗務員に手当てを支払った上で採算性が確保できるかどうかの判断が、事業者によって分かれる<ref name="bj8-43"/>。このため、関東地方に限っても深夜バスを運行する事業者が大幅に増加するのは深夜の交通機関の確保について運輸省が再度勧告を出した[[1986年]](昭和61年)以降である。深夜バスの採算性を認めた神奈中においては、深夜バスの運行系統は年毎に増加し、東京都内の全事業者を合わせた深夜バスの系統数が約50系統となった[[1987年]](昭和62年)の時点で、神奈川県内では既に神奈中だけで50系統以上の深夜バスが運行されていた<ref name="bj8-43"/>。
運輸省でもバスの終車延長には積極姿勢を見せ、1970年12月には「大都市周辺部の深夜バス運行について」という通達を出した<ref name="bj8-43"/>。しかし、深夜バスは、不規則労働となる乗務員に手当てを支払った上で採算性が確保できるかどうかの判断が、事業者によって分かれる<ref name="bj8-43"/>。このため、関東地方に限っても深夜バスを運行する事業者が大幅に増加するのは深夜の交通機関の確保について運輸省が再度勧告を出した[[1986年]]以降である。深夜バスの採算性を認めた神奈中においては、深夜バスの運行系統は年毎に増加し、東京都内の全事業者を合わせた深夜バスの系統数が約50系統となった[[1987年]]の時点で、神奈川県内では既に神奈中だけで50系統以上の深夜バスが運行されていた<ref name="bj8-43"/>。


==== 1980年代・さらに続く拡大傾向 ====
==== 1980年代・さらに続く拡大傾向 ====
[[1980年代]]に入ると、日本のバス事業全体の傾向として[[モータリゼーション]]と道路渋滞による走行環境の悪化と利用者減少に見舞われるが、神奈中の営業エリアは人口増加が続き、バス利用者も増加した。人口増加や企業・学校の郊外移転などで、鉄道からのフィーダー輸送の役割が求められたためである<ref name="bjh57-24"/>。
[[1980年代]]に入ると、日本のバス事業全体の傾向として[[モータリゼーション]]と道路渋滞による走行環境の悪化と利用者減少に見舞われるが、神奈中の営業エリアは人口増加が続き、バス利用者も増加した<ref name="bj23-23"/>。人口増加や企業・学校の郊外移転などで、鉄道からのフィーダー輸送の役割が求められたためである<ref name="bj57-24"/>。1980年代以降は沿線に大学の新設や移転などが続いたため、通学輸送の増強も行われる事になった<ref name="bj23-23"/>。既に1971年には相模原市に[[北里大学]]が移転していたが、1980年代初頭には相模原地区における輸送の要となっていた<ref name="bj57-24"/>。

1980年代以降は沿線に大学の新設や移転などが続いたため、通学輸送の増強も行われる事になった<ref name="bjh57-24"/>。既に1971年(昭和46年)には相模原市に[[北里大学]]が移転したが、1980年代初頭には相模原地区における輸送の要となっていた<ref name="bjh57-24"/>。これらの輸送力拡大に対応するため、道路環境が整備されているとは限らなかったにもかかわらず、高度成長期から[[1990年]]([[平成]]2年)までの神奈中で導入される車両の大半は11m級の長尺車であった<ref name="bjh57-25">バスジャパン・ハンドブックR「57 神奈川中央交通」p25</ref>。車両数も[[#営業所別所属台数推移|別表]]に見られる様に増加の一途を辿り、特に厚木営業所では1985年度に所属台数が200台を超えている<ref>「神奈川中央交通七十年史」p106によると、1985年3月31日の時点で199台、1986年3月31日の時点で205台となっていた。</ref>。


[[ファイル:Kanagawa Chuo Kotsu Charcoal Bus.jpg|thumb|right|復元された薪バス「三太号」]]
[[画像:MP117N-Kanachu-Sa102.jpg|200px|thumb|right|初の冷房車となった三菱ふそうMP117N(さ102)。ドアが通常と逆の客室側に開くのは、当時の「神奈中仕様」の一つだった。]]
[[1981年]](昭和56年)に会社創立60周年を迎えたが、この時に先人達の苦労を伝えるという意味で<ref name="bjh57-25"/>薪バス「[[三太号]]」を復元した<ref name="bjh57-25"/>。薪バスは沿線各地で展示なども行われた<ref name="bjh57-25"/>。同年、平塚市の本社の改築が終了したが、それまで本格的な[[レストラン]]がないという声が地元からあった<ref>森彰英「小田急グループの未来戦略」(日本能率協会・1988年)p187</ref>ため、本社に併設された[[グランドホテル神奈中|平塚グランドホテル]]の地下にレストランもオープンさせた。
[[1981年]]に会社創立60周年を迎えたが、この時に先人達の苦労を伝えるという意味で<ref name="bj57-25"/>薪バス「[[三太号]]」を復元した<ref name="bj23-24"/>。薪バスは沿線各地で展示なども行われた<ref name="bj57-25"/>。同年、平塚市の本社の改築が終了したが、それまで本格的な[[レストラン]]がないという声が地元からあった<<ref name="ogm187"/>ため、本社に併設された[[グランドホテル神奈中|平塚グランドホテル]]の地下にレストランもオープンさせた<ref name="ogm187"/>


また、[[1982年]](昭和57年)にはデジタル式[[運賃表示器]]を、[[1985年]](昭和60年)には大型方向幕を導入するなど、路線車両のサービス改善にも積極的に取り組んだ。特に[[1987年]](昭和62年)4月には一挙に300台もの新車導入が行われ<ref name="bj8-47">[[バス・ジャパン]]8号 p47</ref>、同年6月には全車両の冷房化を達成した<ref name="bjh57-25"/>。[[1988年]](昭和63年)にはそれまですべてを人手に頼っていたバスダイヤの作成を自動化すべく、バスダイヤ自動作成システム「[[AIDIA]]」も稼動開始し、日本のバス業界の注目を集めた<ref name="bjh57-25"/>。
また、[[1982年]]にはデジタル式[[運賃表示器]]を<ref name="70-56"/>、[[1985年]]には大型方向幕を導入する<ref name="70-55"/>など、路線車両のサービス改善にも積極的に取り組んだ。特に[[1987年]]4月には一挙に300台もの新車導入が行われ<ref name="bj8-47"/>、同年5月には全車両の冷房化を達成した<ref name="bj57-25"/>。[[1988年]]にはそれまですべてを人手に頼っていたバスダイヤの作成を自動化すべく、バスダイヤ自動作成システム「[[AIDIA]]」も稼動開始し、日本のバス業界の注目を集めた<ref name="bj23-24"/>。


関連事業については、前述のにボウリング場を次々と閉鎖していったが、用途のなくなった建物の有効活用としてスイミングスクールの運営を同年10月から開始した。[[1984年]](昭和59年)からは遊技場(パチンコ店)経営にも着手したほか、[[1990年]](平成2年)[[10月24日]]には[[伊豆半島]]にゴルフ場「中伊豆グリーンクラブ」をオープンさせている。
関連事業については、前述のようにボウリング場を次々と閉鎖していったが、用途のなくなった建物の有効活用としてスイミングスクールの運営を同年10月から開始した。[[1984年]]からは遊技場(パチンコ店)経営にも着手したほか、[[1990年]][[10月24日]]には[[伊豆半島]]にゴルフ場「中伊豆グリーンクラブ」をオープンさせている。


===== 神奈中バスカード =====
===== 多区間運賃制路線では日本初のバスカード導入 =====
{{Double image aside|right|P-LV314L Kanachu Ma18 Machi28.jpg|200|Slight Card Reader for Bus.jpg|200|バスカード取扱車|初期のカードリーダー}}
神奈中では、多区間運賃制に対応して金種別に19種類もの[[回数乗車券]]を発売していたが、すべての利用者に満足できるものではなく、また後方業務も複雑になっていた。これを解消するため、神奈中はプリペイドカード式回数乗車券(バスカード)の導入を決定した。
神奈中では、多区間運賃制に対応して金種別に19種類もの[[回数乗車券]]を発売していた<ref name="br2-40"/>が、すべての利用者に満足できるものではなく<ref name="br2-42"/>、また後方業務も複雑になっていた<ref name="br2-4142">[[#br2|『バスラマ・インターナショナル』通巻2号 pp.41-42]]</ref>。これを解消するため、神奈中はプリペイドカード式回数乗車券(バスカード)の導入を決定した<ref name="br2-41"/>。


当時、バスカードは一部の均一運賃制路線での導入例はあったが、多区間運賃制の路線に対応したシステムは存在しなかったため、システムを新規に構築する必要があった。[[1985年]](昭和60年)に[[レシップ|三陽電機製作所]]と共同でシステム開発を行い、1987年(昭和62年)[[10月20日]]より伊勢原の路線バス15台にて実用化を前提とした試験を開始<ref name="bjh57-25"/>、この結果を受けて1988年(昭和63年)[[5月9日]]より「神奈中バスカード」の運用を開始した。これは'''多区間運賃制路線では日本初のバスカード導入事例'''であり<ref name="bjh57-25"/>、1990年(平成2年)[[3月26日]]には全車両での導入を達成しているシステム開発と導入にあたっては運輸省よりバス活性化に対する補助を受けているが、バスカード導入で補助対象になったのも日本で初めてである<ref name="bj9">バス・ジャパン9号の記述による</ref>。
当時、バスカードは一部の均一運賃制路線での導入例はあったが、多区間運賃制の路線に対応したシステムは存在しなかったため、システムを新規に構築する必要があった。[[1985年]]に[[レシップ|三陽電機製作所]]と共同でシステム開発に着手、1987年[[10月20日]]より伊勢原の路線バス15台にて実用化を前提とした試験を開始<ref name="bj57-25"/>、この結果を受けて1988年[[5月9日]]より「神奈中バスカード」の運用を開始した<ref name="br2-46"/>。これは多区間運賃制路線では日本初のバスカード導入事例であり<ref name="bj23-24"/>、1990年[[3月26日]]には全車両での導入を達成している<ref group="注釈">システム開発と導入にあたっては運輸省よりバス活性化に対する補助を受けているが、バスカード導入で補助対象になったのも日本で初めてである(『バス・ジャパン』通巻9号)。</ref>。


折りしも同時期には[[奈良交通]]や[[長崎自動車]]でもバスカードシステムが導入されており、この後バスカードシステムを導入するバス事業者は増加してゆく事になる。また、神奈中バスカードはその後[[バス共通カード]]へ発展解消していく事になるが、当初は神奈中のバスカードに採用されていたシステムとバス共通カードを導入していたバス事業者のバスカードのシステムが異なっていたため、[[1998年]](平成10年)[[1月18日]]まではバス共通カードを使用できない車両が存在し逆に他社のバス共通カード取扱車においては神奈中バスカードを利用する事はできなかった。一方でカードの割引率などは神奈中バスカードにおいて設定されたものがそのまま採用されており、[[PASMO]]の「バス利用特典サービス」の特典バスチケットにもその金額は引き継がれている。
折りしも同時期には[[奈良交通]]や[[長崎自動車]]でもバスカードシステムが導入されており<ref name="br2-46"/>、この後バスカードシステムを導入するバス事業者は増加してゆく事になる。また、神奈中バスカードはその後[[バス共通カード]]へ発展解消していく事になるが、当初は神奈中のバスカードに採用されていたシステムとバス共通カードを導入していたバス事業者のバスカードのシステムが異なっていたため、バス共通カードが完全に導入されるまではバス共通カードを使用できない車両が存在した<ref name="bj23-13"/>。<ref group="注釈">逆に他社のバス共通カード取扱車においては神奈中バスカードを利用する事はできなかった。</ref>が、一方でカードの割引率などは神奈中バスカードにおいて設定されたものがバス共通カードでもそのまま踏襲されており、[[PASMO]]の「バス利用特典サービス」の特典バスチケットにもその金額は引き継がれている。


===== 新しいバスサービスの展開 =====
===== 新しいバスサービスの展開 =====
一方、高速バス「[[ノクターン号]]」の成功をきっかけとして、日本ではブームの如く夜行高速バス路線が開設されることになった。神奈中ではターミナルとして横浜と町田に着目し<ref name="bjh57-25"/>、[[1989年]](平成元年)[[2月28日]]から[[奈良交通]]との共同運行により、夜行高速バスの運行を開始した<ref>これは神奈川県では初の夜行高速バス路線となった。</ref>。後も順次路線を拡大し、1990年(平成2年)[[7月5日]]に運行開始となった[[盛岡 - 横浜線|盛岡線]]で6路線となった。1989年(平成元年)末からは深夜急行バスの運行も開始している。
一方、高速バス「[[ノクターン号]]」の成功をきっかけとして、日本ではブームの如く夜行高速バス路線が開設されることになった。神奈中ではターミナルとして横浜と町田に着目し<ref name="bj57-25"/>、[[1989年]][[2月28日]]から[[奈良交通]]との共同運行により、横浜と奈良を結ぶ夜行高速バスの運行を開始した<ref name="bj23-24"/><ref group="注釈">これは神奈川県では初の夜行高速バス路線となった。</ref>。同年中には京都・大阪・和歌山・広島への路線を開設<ref name="bj57-25"/>、1990年[[7月5日]]に[[#本厚木・横浜 - 盛岡線|盛岡への路線]]を開設し<ref name="bj23-24"/>。1989年末からは深夜急行バスの運行も開始している<ref name="bj57-25"/>


=== バス復権に向けて ===
=== バス復権に向けて ===
[[ファイル:Kanachuhire hi602.jpg|thumb|right|神奈中ハイヤーに移管された貸切バス]]
しかし、ここまで順調に規模を拡大してきた神奈中も、バブル経済崩壊後の不況の波から逃れる事はできなかった。[[1991年]](平成3年)に年間輸送人員が3億2百万人に達したのをピークに、[[1992年]](平成4年)以降はバス利用者数は減少傾向となった。神奈中沿線に製造業が多い事もあり、消費低迷は製造業での業務縮小を招いた<ref name="bjh57-26">バスジャパン・ハンドブックR「57 神奈川中央交通」p26</ref>。さらに少子化による通学需要の減少も作用し、路線バス利用者は年毎に減少してゆく。
しかし、ここまで順調に規模を拡大してきた神奈中も、バブル経済崩壊後の不況の波から逃れる事はできなかった。[[1991年]]に年間輸送人員が3億2百万人に達したのをピークとして<ref name="br68-44"/>、[[1992年]]以降はバス利用者数は減少傾向となった<ref name="br68-44"/>。神奈中沿線に製造業が多い事もあり、消費低迷は製造業での業務縮小を招いた<ref name="bj57-26"/>。さらに少子化による通学需要の減少も作用し、路線バス利用者は年毎に減少してゆく<ref name="br68-44"/>。


これに対応するべく、[[1995年]](平成7年)の路線バス車両はすべて中型車での導入となり、同年には貸切バス部門の大半を[[神奈中ハイヤー]]に移管した。その後、[[2000年]](平成12年)に[[神奈中観光|神奈川県観光(当時)]]の経営悪化に伴い同社の株式を取得の上子会社化し、[[2002年]](平成14年)には神奈中ハイヤーから貸切バス部門を神奈川県観光に移管した上で[[神奈中観光]]に改称した。
これに対応するべく、[[1995年]]の路線バス車両はすべて中型車での導入となり<ref name="br30-93"/>、同年には貸切バス部門の大半を[[神奈中ハイヤー]]に移管した<ref name="bj23-25"/>。その後、[[2000年]]に[[神奈中観光|神奈川県観光(当時)]]の経営悪化に伴い同社の株式を取得の上子会社化し<ref name="bj57-26"/>、[[2002年]]には神奈中ハイヤーから貸切バス部門を神奈川県観光に移管した上で[[神奈中観光]]に改称した<ref name="bj57-26"/>


関連事業においては、それまで「くるまやラーメン」のフランチャイズとして展開していたものを2000年(平成12年)に提携解消し、「らーめん花楽」として独自の店舗展開を行う事になった。
関連事業においては、それまで「くるまやラーメン」のフランチャイズとして展開していたものを2000年に提携解消し、「らーめん花楽」として独自の店舗展開を行う事になった。


その一方で、これまでの神奈中にはなかった施策もいくつか行われている。
その一方で、これまでの神奈中にはなかった施策もいくつか行われている。


==== ミニバス展開 ====
==== ミニバス展開 ====
[[ファイル:U-RB1WEAA-Kanachu-chi-95.jpg|thumb|right|1992年に導入された小型バス]]
神奈中は元々大型車が中心で、狭隘路線など限定された範囲で中型車が導入されていた状態であった。これは、幅2m程度の小型車ではワンマン運行に適した車両が少なかった事による。しかし、住民からの路線開設が多い路線については、リアエンジンの小型バスが販売開始となった事を機に、[[1992年]](平成4年)10月から3路線で小型バスによる路線の運行を開始した。
神奈中は元々大型車が中心で、狭隘路線など限定された範囲で中型車が導入されていた状態であった。これは、幅2m程度の小型車ではワンマン運行に適した車両が少なかった事による。しかし、住民からの路線開設要望が多い路線については、リアエンジンの小型バスが販売開始となった事を機に、[[1992年]]10月から3路線で小型バスによる路線の運行を開始した<ref name="br16-95"/>。


一方、[[藤沢市]]の藤が岡団地では、駅からの途中に急坂がある上に住民の高齢化が進んでおり、路線バス運行の要望が高くなっていた。神奈中では路線開設に向けて検討した結果、小型バスを使用すれば運営が可能と結論づけ<ref name="mirai1-110">鈴木文彦「路線バスの現在・未来」(グランプリ出版・2001年)p110</ref>、[[1997年]](平成9年)5月より団地循環の路線を開設した。団地内では約100m毎に停留所を設置、バス車内には住民が自由に使用できるコミュニティボードを設置する<ref name="mirai1-110"/>など、[[コミュニティバス]]と同様の設定ではあるが、自治体からの補助は得ていない<ref name="mirai1-110"/>。使用する車両には「湘南ロコ号」と愛称が付けられた。以後、同様のミニバス路線がいくつか開設されている。
一方、[[藤沢市]]の藤が岡団地では、駅からの途中に急坂がある上に住民の高齢化が進んでおり、路線バス運行の要望が高くなっていた<ref name="mirai1-110"/>。神奈中では路線開設に向けて検討した結果、小型バスを使用すれば運営が可能と結論づけ<ref name="mirai1-110"/>、[[1997年]]5月より団地循環の路線を開設した。団地内では約100m毎に停留所を設置、バス車内には住民が自由に使用できるコミュニティボードを設置する<ref name="mirai1-110"/>など、[[コミュニティバス]]と同様の設定ではあるが、自治体からの補助は得ていない<ref name="mirai1-110"/>。使用する車両には「湘南ロコ号」と愛称が付けられた。以後、同様のミニバス路線がいくつか開設されている<ref name="mirai1-110111"/>


==== 地域分社化 ====
==== 地域分社化 ====
一方で、[[1996年]](平成8年)に[[箱根登山バス|箱根登山鉄道バス]]が秦野地区から撤退する事になり、その受け皿として[[湘南神奈交バス]]が設立された。これを母体として、1997年(平成9年)からは相模原地区において同社への移管を行ったのを皮切りに、新たに地域毎に分離子会社の設立と管理委託などを進め、運行コストの低減を図った。また、移管された路線の大半では不採算路線の増収策として車内で物品販売も行われ<ref name="mirai1-185">鈴木文彦「路線バスの現在・未来」(グランプリ出版・2001年)p185</ref>、マスコミにも「車内売店のあるバス」として話題を提供した。販売品目に[[米]]が加わった際には売店の設置された各車両を米穀小売販売業者の店舗として神奈川県知事に登録していた<ref name="kome1">2004年(平成16年)までは[[食糧管理制度]]により登録が義務付けられており、米の販売には必ず県知事への登録が必要だったため、車内の売店をスーパーマーケット「神奈中ストア」の店舗扱いとする事で対応し、車内にも登録証が掲示されていた。</ref>。
一方で、[[1996年]]に[[箱根登山バス|箱根登山鉄道バス]]が秦野地区から撤退する事になり、その受け皿として[[湘南神奈交バス]]が設立された。これを母体として、1997年からは相模原地区において同社への移管を行ったのを皮切りに、新たに地域毎に分離子会社の設立と管理委託などを進め、運行コストの低減を図った。また、移管された路線の大半では不採算路線の増収策として車内で物品販売も行われ<ref name="mirai1-185"/>、マスコミにも「車内売店のあるバス」として話題を提供した。販売品目に[[米]]が加わった際には売店の設置された各車両を米穀小売販売業者の店舗として神奈川県知事に登録していた<ref name="kome1" group="注釈">2004年までは[[食糧管理制度]]により登録が義務付けられており、米の販売には必ず県知事への登録が必要だったため、車内の売店をスーパーマーケット「神奈中ストア」の店舗扱いとする事で対応し、車内にも登録証が掲示されていた。</ref>。


これと並行して不採算路線の整理も進められる事になり、[[2002年]](平成14年)までに極端に乗車率の低い路線は廃止された。
これと並行して不採算路線の整理も進められる事になり、[[2002年]]までに極端に乗車率の低い路線は廃止された。


==== 環境定期券とスヌーピーバス ====
==== 日本初の環境定期券導入とスヌーピーバス ====
{{Double image aside|right|KC-MP717M Kanachu Hi132 SNOOPY BUS.jpg|200|KC-MP717M Kanachu Hi150 SNOOPY BUS.jpg|200|スヌーピーバス}}
{{Double image aside|right|KC-MP717M Kanachu Hi132 SNOOPY BUS.jpg|200|KC-MP717M Kanachu Hi150 SNOOPY BUS.jpg|200|スヌーピーバス}}
この頃、[[環境]]問題がクローズアップされていた折、神奈中でも環境問題に取り組む事になった。基本的にはマイカー通勤からバス通勤への移行を呼びかけるものであるが、ただ呼びかけるだけではバス会社の都合と受け止められる可能性を考慮し<ref name="bl68-45">バスラマ・インターナショナル68号「バス事業者訪問69 神奈川中央交通」p45</ref>、バス会社側でも新しい運賃制度を導入する事が必要と考えられた。
この頃、[[環境]]問題がクローズアップされていた折、神奈中でも環境問題に取り組む事になった。基本的にはマイカー通勤からバス通勤への移行を呼びかけるものであるが、ただ呼びかけるだけではバス会社の都合と受け止められる可能性を考慮し<ref name="br68-45"/>、バス会社側でも新しい運賃制度を導入する事が必要と考えられた<ref name="br68-46"/>


検討の結果、[[ドイツ]]において導入されている環境定期券制度の導入を行う事になったが、制度の導入だけではなく、広告塔に相当するものが必要と考えられた。そこで、知名度が高く他社が使用していないキャラクターを選定する事になり<ref name="bl68-46">バスラマ・インターナショナル68号「バス事業者訪問69 神奈川中央交通」p46</ref>、アメリカで環境問題について使用されている[[スヌーピー]]が選ばれた。版権を持つ法人にも「環境保全が目的」と認められ、格段の配慮があったという<ref name="bl68-45"/>。
検討の結果、[[ドイツ]]において導入されている環境定期券制度の導入を行う事になった<ref name="br68-46"/>が、制度の導入だけではなく、広告塔に相当するものが必要と考えられた<ref name="br68-46"/>。そこで、知名度が高く他社が使用していないキャラクターを選定する事になり<ref name="br68-46"/>、アメリカで環境問題について使用されている[[スヌーピー]]が選ばれた<ref name="br68-46"/>。版権を持つ法人にも「環境保全が目的」と認められ、格段の配慮があったという<ref name="br68-46"/>。


こうして、1997年(平成9年)[[9月20日]]の'''日本で初となる環境定期券制度導入'''と同時に「スヌーピーバス」が運行開始された。スヌーピーバスは2年間で40台が導入され、[[2002年]](平成14年)まで運行された他、一時期は[[江ノ島電鉄|江ノ電バス]]でも運行されている。
こうして、1997年[[9月20日]]の日本で初となる環境定期券制度導入と同時に「スヌーピーバス」が運行開始された<ref name="bj23-25"/>。スヌーピーバスは2年間で40台が導入され、[[2002年]]まで運行された他、一時期は[[江ノ島電鉄|江ノ電バス]]でも運行されている。


==== 潜在的需要の発掘 ====
==== 潜在的需要の発掘 ====
1997年(平成9年)夏には、これからバスを利用する世代となるであろう児童層に着目し、路線バスの利用方法を覚えてもらうという趣旨<ref name="bl68-44">バスラマ・インターナショナル68号「バス事業者訪問69 神奈川中央交通」p44</ref>で「ちびっこ50円キャンペーン」を開始した。現金払いの場合は一般路線の全路線で小児運賃50円となるというもので、当初は長期休暇と[[ゴールデンウィーク]]のみの実施であったが、多い時には1日1万3千人もの利用がある<ref name="bl68-44"/>など一定の効果が認められた事から、後年すべての土曜・休日に適用を拡大している。
1997年夏には、これからバスを利用する世代となるであろう児童層に着目し、路線バスの利用方法を覚えてもらうという趣旨<ref name="br68-44"/>で「ちびっこ50円キャンペーン」を開始した。現金払いの場合は一般路線の全路線で小児運賃50円となるというもので、当初は長期休暇と[[ゴールデンウィーク]]のみの実施であったが、多い時には1日1万3千人もの利用がある<ref name="br68-44"/>など一定の効果が認められた事から、後年すべての土曜・休日に適用を拡大している。


また、高齢者向けの施策としては、[[1996年]](平成8年)より[[敬老の日]]に65歳以上の運賃を100円とするサービスを行った後、[[2001年]](平成13年)6月より「かなちゃん手形」の発売を開始した。これは、初めに購入するパスを安価に設定<ref>3か月券は3,000円、6か月券は5,000円、1年券は9,000円。</ref>、パスを提示した場合は乗車1回につき運賃を区間にかかわらず100円とするもので、1回毎の運賃を安価に設定する事で乗車回数を増やす事を目的とした施策である<ref name="bl68-47">バスラマ・インターナショナル68号「バス事業者訪問69 神奈川中央交通」p47</ref>。1日1万2千人の利用があるという<ref name="bl68-47"/>。当初は車内でも発売していた。
また、高齢者向けの施策としては、[[1996年]]より[[敬老の日]]に65歳以上の運賃を100円とするサービスを行った後、[[2001年]]6月より「かなちゃん手形」の発売を開始した。これは、初めに購入するパスを安価に設定<ref group="注釈">3か月券は3,000円、6か月券は5,000円、1年券は9,000円。</ref>、パスを提示した場合は乗車1回につき運賃を区間にかかわらず100円とするもので、1回毎の運賃を安価に設定する事で乗車回数を増やす事を目的とした施策である<ref name="br68-47"/>。1日1万2千人の利用があるという<ref name="br68-47"/>。当初は車内でも発売していた。これと同時に、一般路線の全線に有効な「[[一日乗車券|一日フリー乗車券]]」の発売も開始している<ref name="90-42"/>


=== 21世紀に向けた新展開 ===
=== 21世紀に向けた新展開 ===
{{Double image aside|right|KC-MU612TA YokohamaKanako YK702.jpg|200|PJ-MP37JK Kanachu O26 O72 Nakamurabashi.jpg|200|横浜神奈交バスに移管された夜行高速バス|横浜市交通局から引き継いだ路線「11系統」}}
[[File:PKG-MP35UM Kanachu Chi87 bicycle carrier close.jpg|200px|thumb|right|自転車ラックを装備したバス(ち87)]]
[[1999年]](平成11年)、神奈中では田村車庫・[[本厚木駅]]から[[東京国際空港|羽田空港]]へ向かう空港連絡バスの運行を開始、好調となったため、以後町田・相模大野・港南台・辻堂・藤沢の各駅から羽田空港・[[成田国際空港|成田空港]]を結ぶ路線も運行を開始した。一方、夜行高速バスでは乗車率が高いにも拘らずコスト割れする路線もあり<ref name="80-40">「神奈川中央交通八十年史」p40</ref>、生活路線でない赤字路線の運行を続ける理由はないとの見地から<ref name="bl68-50">バスラマ・インターナショナル68号「バス事業者訪問69 神奈川中央交通」p50</ref>、広島・和歌山・奈良への路線は廃止され、盛岡への路線は[[岩手県交通]]の単独運行となった。その他の路線は子会社の運行コストであれば存続可能と判断され、[[湘南神奈交バス]]に移管された。後に[[横浜神奈交バス]]に再移管されている。
[[1999年]]、神奈中では田村車庫・[[本厚木駅]]から[[東京国際空港|羽田空港]]へ向かう空港連絡バスの運行を開始、好調となった<ref name="bj57-27"/>ため、以後町田・相模大野・港南台・辻堂・藤沢の各駅から羽田空港・[[成田国際空港|成田空港]]を結ぶ路線も運行を開始した。一方、夜行高速バスでは乗車率が高いにも拘らずコスト割れする路線もあり<ref name="80-40"/>、生活路線でない赤字路線の運行を続ける理由はないとの見地から<ref name="br68-50"/>、広島・和歌山・奈良への路線は廃止され、盛岡への路線は[[岩手県交通]]の単独運行となった<ref name="bj57-27"/>。その他の路線は子会社の運行コストであれば存続可能と判断され<ref name="br68-50"/>、[[湘南神奈交バス]]に移管された<ref name="80-40"/>。後に[[横浜神奈交バス]]に再移管されている<ref name="90-97"/>


[[2004年]]以降は、他バス事業者からの路線譲受も行われた。2004年2月には、横浜市交通局からの路線移譲について申し入れがあった<ref name="90-40"/>ことから、2005年から2008年にかけて段階的に11系統を譲受した<ref name="90-40"/>。また、相模鉄道からも同じ時期に同様の申し入れがあったため<ref name="90-40"/>、こちらも2006年から2008年にかけて4系統を譲受している<ref name="90-40"/>。さらに、2006年には「横浜市生活交通バス路線維持制度」の対象となる15系統について公募が行われたが<ref name="90-40"/>、そのうち3系統については2007年から横浜市交通局に代わって運行を開始した<ref name="90-40"/>。
[[2009年]](平成21年)[[3月26日]]からは、茅ヶ崎・辻堂駅発着の一部路線で自転車をバスに搭載するサービスが開始された。自転車を搭載可能な路線バスは前例があるが、バスの前面に[[自転車キャリア|自転車ラック]]を設置し、'''自転車をバスの前面に積載する方式は日本初'''の導入例である。


{{Double image aside|right|PKG-MP35UM Kanachu Chi87 bicycle carrier close.jpg|180|KanaCh-Monitor.JPG|230|自転車ラックを装備したバス|「かなch.」のモニター}}
関連事業においては、スーパーマーケット「神奈中ストア」は2007年度末までに全店舗撤退、同時期にバス車内における物品販売も終了となっている。
[[2009年]][[3月26日]]からは、茅ヶ崎・辻堂駅発着の一部路線で自転車をバスに搭載するサービスが開始された<ref name="rj512-143"/>。自転車を搭載可能な路線バスは前例がある<ref name="rj512-143"/>が、バスの前面に[[自転車キャリア|自転車ラック]]を設置し、自転車をバスの前面に積載する方式は日本初の導入例である<ref name="rj512-143"/>。

[[2011年]]10月1日より、[[神奈川中央交通横浜営業所舞岡操車所|舞岡操車所]]の路線バス50台の運転席後方にモニターを設置し、ニュース・天気予報・広告などを放映する「かなch.」というサービスを開始した<ref name="kakach"/>。

関連事業においては、スーパーマーケット「神奈中ストア」は2007年9月30日をもって全店舗閉鎖となり<ref name="90-97"/>、同時期にバス車内における物品販売も終了となっている。


==== 連節バスと新たな公共交通の模索 ====
==== 連節バスと新たな公共交通の模索 ====
[[画像:TwinLiner.JPG|200px|thumb|right|ツインライナー (ち201)]]
通勤・通学路線においては、新しいタイプの公共交通の模索も進められた。
通勤・通学路線においては、新しいタイプの公共交通の模索も進められた。


[[湘南台駅]]と[[慶應義塾大学]]藤沢キャンパスを結ぶ路線は、朝のバス待ち行列が250人近く並ぶ有様で、通常のバスでは捌ききれない状況であった。また、駅前広場の状況も[[警察]]により一般車の乗り入れ規制や交通指導員の配置なども行われていたが、通常のバスによるこれ以上の増発は困難な状況であった。このため、[[2003年]](平成15年)には藤沢市が中心となって新たな公共交通システムを導入するための検討委員会が設立された。これは道路交通の遠隔化やバリアフリー化、さらに交通不便地域でのミニバスによるフィーダー路線運行によるマイカー抑制や環境保全などを目標とし、その前提として、1台あたりの定員の多い[[連節バス]]を基幹路線に導入することになった。
[[湘南台駅]]と[[慶應義塾大学]]藤沢キャンパスを結ぶ路線は、朝のバス待ち行列が250人近く並ぶ有様で、通常のバスでは捌ききれない状況であった。また、駅前広場の状況も[[警察]]により一般車の乗り入れ規制や交通指導員の配置なども行われていたが、通常のバスによるこれ以上の増発は困難な状況であった。このため、[[2003年]]には藤沢市が中心となって新たな公共交通システムを導入するための検討委員会が設立され<ref name="br89-21"/>、道路交通の遠隔化やバリアフリー化、さらに交通不便地域でのミニバスによるフィーダー路線運行によるマイカー抑制や環境保全などを目標と定めた<ref name="br89-21"/>。その前提として、1台あたりの定員の多い[[連節バス]]を基幹路線に導入することになった<ref name="br89-21"/>


[[ファイル:TwinLiner.JPG|thumb|right|藤沢市で導入された連節バス「ツインライナー」 (ち201)]]
日本において連節バスを製造していた[[富士重工業]]は、既にバス車体製造から撤退していた事、[[交通バリアフリー法]]が制定されていたため床面地上高を550mm以下に抑える必要もあった事から、輸入車を導入する事になり、[[大阪府]]の[[中央交通 (大阪府)|中央交通]]が日本総代理店となる[[ネオプラン]]製[[ネオプラン・セントロライナー|セントロライナー]]を導入する事になった。これは日本の道路運送車両法により定められた連節バスの構造要件には合致しない車両<ref>例えば、1999年(平成11年)に制定された構造用件では第1軸と第3軸が同一の軌跡を辿る事とされたが、セントロライナーでは第3軸にはステアリング機構がないため、必然的に第1軸と第3軸の軌跡は異なる。</ref>であったが、自治体及び警察の協力も得られた事から特別に認可され、[[2005年]](平成17年)[[3月14日]]より「ツインライナー」と命名された、'''日本では初めての導入となるノンステップ連節バス'''が運行を開始した。本路線を基幹路線とし、慶應義塾大学でツインライナーに接続し、ミニバスで周辺地区を循環する支線バスによる交通網の拡大も行われた。
日本において連節バスを製造していた[[富士重工業]]は当時既にバス車体製造から撤退しており<ref name="br89-24"/>、[[交通バリアフリー法]]が制定されていたため床面地上高を550mm以下に抑える必要もあった事から、輸入車を導入する事になり、[[大阪府]]の[[中央交通 (大阪府)|中央交通]]が日本総代理店となる[[ネオプラン]]製[[ネオプラン・セントロライナー|セントロライナー]]を導入する事になった<ref name="br89-24"/>。これは日本の道路運送車両法により定められた連節バスの構造要件には合致しない車両<ref name="br89-24"/><ref group="注釈">例えば、1999年に制定された構造用件では第1軸と第3軸が同一の軌跡を辿る事とされたが、セントロライナーでは第3軸にはステアリング機構がないため、必然的に第1軸と第3軸の軌跡は異なる。</ref>であったが、自治体及び警察の協力も得られた事から特別に認可され<ref name="br89-24"/>、[[2005年]][[3月14日]]より「ツインライナー」と命名された、日本では初めての導入となるノンステップ連節バスが運行を開始した<ref name="br89-21"/>。本路線を基幹路線とし、慶應義塾大学で「ツインライナー」に接続し、ミニバスで周辺地区を循環する支線バスによる交通網の拡大も行われた<ref name="br89-21"/>。


==== 規制緩和への行動力 ====
==== 規制緩和への行動力 ====
これに続き、[[厚木市]]は朝方通勤時のバス利用者が多い[[厚木アクスト]]への通勤路線に連節バスの導入を検討し、[[2006年]](平成18年)には独自の補助金制度を定めた<ref>[http://www.city.atsugi.kanagawa.jp/outline/35/4590/p004984.html 厚木市連節バス運行システム導入事業補助金交付要綱]</ref>。しかし、この時には藤沢市で導入されていたセントロライナーが日本向け車両の供給を中止しており、車種選定を改めて行う事になった。
これに続き、[[厚木市]]は朝方通勤時のバス利用者が多い[[厚木アクスト]]への通勤路線に連節バスの導入を検討し、[[2006年]]には独自の補助金制度を定めた<ref name="atsugi-twin"/>。しかし、この時には藤沢市で導入されていたセントロライナーが日本向け車両の供給を中止しており<ref name="br106-11"/>、車種選定を改めて行う事になった。


[[ファイル:Mercedes-Benz O530 CITARO-G Kanachu A203.jpg|thumb|right|厚木市で導入された連節バス「ツインライナー」 (あ203)]]
神奈中では[[三菱ふそうトラック・バス]]に対して、日本での連節バス製造の可能性について打診した<ref name="bl106-11">バスラマ・インターナショナル106号「神奈川中央交通のツインライナー第2弾が運行開始」p11</ref>が、三菱ふそうは日本での製造は困難と回答し、代わりに[[ダイムラー (自動車メーカー)|ダイムラー]]グループの[[エボバス]]が製造する[[メルセデス・ベンツ・シターロ]]の導入支援を行うことになった<ref name="bl106-11"/>。受注にあたり、欧州規格のままの車体幅2.55mで[[非常口]]扉を設置しないという日本の道路運送車両法による保安基準をさらに超える仕様<ref>日本の道路運送車両の保安基準第二条において最大車体幅は2.5mと定められている他、第二十六条では定員30名以上の車両には非常口扉の設置が義務付けられている。</ref>での製造という条件があった<ref name="bl106-11"/>が、神奈中では藤沢市での連節バス運行実績を基に独自で基準緩和を働きかけ<ref name="bl106-14">バスラマ・インターナショナル106号「神奈川中央交通のツインライナー第2弾が運行開始」p14</ref>、[[2008年]](平成20年)[[2月4日]]より厚木市内でも連節バスの運行が開始された。'''日本国内で欧州規格そのままの路線バス車両導入は初めて'''の事例である。
神奈中では[[三菱ふそうトラック・バス]]に対して、日本での連節バス製造の可能性について打診した<ref name="br106-11"/>が、三菱ふそうは日本での製造は困難と回答し、代わりに[[ダイムラー (自動車メーカー)|ダイムラー]]グループの[[エボバス]]が製造する[[メルセデス・ベンツ・シターロ]]の導入支援を行うことになった<ref name="br106-11"/>。受注にあたり、欧州規格のままの車体幅2.55mで[[非常口]]扉を設置しないという日本の道路運送車両法による保安基準をさらに超える仕様<ref group="注釈">日本の道路運送車両の保安基準第二条において最大車体幅は2.5mと定められている他、第二十六条では定員30名以上の車両には非常口扉の設置が義務付けられている。</ref>での製造という条件があった<ref name="br106-11"/>が、神奈中では藤沢市での連節バス運行実績を基に独自で基準緩和を働きかけ<ref name="br106-14"/>、[[2008年]][[2月4日]]より厚木市内でも連節バスの運行が開始された<ref name="90-37"/>。日本国内で欧州規格そのままの路線バス車両導入は初めての事例である。


これらの基準緩和に対する神奈中の行動力には、三菱ふそう関係者も大いに刺激を受けたという<ref name="br106-14"/>。
これらの基準緩和に対する神奈中の行動力には、三菱ふそう関係者も大いに刺激を受けたという<ref name="bl106-14"/>。また、これに関連して、連節バス導入を検討する自治体が増加しているとも報道された<ref>産経新聞2008年1月18日付[http://sankei.jp.msn.com/life/lifestyle/080118/sty0801180809002-n1.htm 導入広がる「連節バス」 輸送量2倍、人件費は節約 全国の自治体が注目]{{リンク切れ|date=2011年9月}}による。</ref>。神奈中では、日本全国でも連節バスの導入が広まる事を期待しているという<ref name="bl107-19">バスラマ・インターナショナル107号「評価も上々、運行開始から1か月 神奈中のツインライナー第2弾」p19</ref>。


神奈中では、日本全国でも連節バスの導入が広まる事を期待しており<ref name="br107-19"/>、連節バス導入を検討する他県の自治体に対して連節バスの貸し出し・実証実験運行や展示・試乗会への協力を行っている<ref name="90-37"/>。2008年8月には新潟市へ<ref name="90-37"/>、2009年10月には浜松市への貸し出しが行われた<ref name="90-37"/>。
== 年表 ==

* [[1921年]][[6月5日]] - '''相武自動車株式会社'''設立
== バス事業 ==
: 当時の横浜市大岡地区では乗合自動車を始める者が乱立し、競争が繰り広げられていた。この無益な競争に終止符を打つべく、関係者が同社を設立し整理統合を行った。
=== 路線バス ===
* 1921年[[10月29日]] - 金沢自動車運輸より路線承継(滝頭~杉田~瀬戸~[[逗子市|逗子]]間)。
神奈川県内・多摩地区を中心に、2011年1月の時点で約700路線を運行している<ref name="asasaga110129"/>。
* [[1928年]]7月 - [[梁瀬長太郎]]([[ヤナセ]]創業者)が社長に就任。

* [[1931年]]11月 - 鶴屋商会([[1919年]]5月創業、[[戸塚駅|戸塚]]~[[厚木市|厚木]]間の乗合自動車を運営)の大木敏行が買収。杉田~逗子間を湘南乗合自動車へ譲渡(現在の[[横浜京急バス]]のルーツ)。
1960年代以降は当時収益性の高かった貸切バス事業の増強を抑え<ref name="bj23-21"/>、路線バス事業を中心とした経営に徹し<ref name="jtb726-105"/>、1989年時点では全営業収入の79.4%が路線バス事業による収入であったことなど<ref name="br2-44"/>、バス事業の収入比率が極めて高いことが特徴とされていた<ref name="br2-44"/>。1987年のインタビュー記事では、1つの路線に複数事業者が参入することは「客足が落ちた時に先に逃げた方が勝ちで、責任逃れが出来る」という理由により、決して好ましいことではないとしていた<ref name="jtb726-105"/>。
* [[1936年]]12月 - 鶴屋商会及び戸塚自動車商会(戸塚~岡津間)を合併。

* [[1937年]][[1月12日]] - '''相武鶴屋自動車株式会社'''に商号を変更。
ほぼ全車で[[傘]]の販売を実施している<ref name="mirai1-186"/>ほか、収支改善のための努力として各神奈交バスの委託中型車に売店スペースを設置した<ref name="mirai1-185"/>。なお、傘など一部を除く車内物販については[[2008年]][[3月31日]]をもって廃止となった<!--この頃に神奈中ストアが全店撤退(神奈中商事の小売店舗全廃)-->。
* [[1938年]]5月 - 東京横浜電鉄(現在の[[東京急行電鉄]])に買収され、同社の傘下に入る。

* [[1939年]][[6月16日]] - 中央相武自動車を合併、'''東海道乗合自動車株式会社'''に商号変更。
将来の催しや施設が出来ることを見越し、採算度外視で運行している路線が2011年1月の時点で10路線ほど存在する<ref name="asasaga110129"/>。これらの路線は「免許維持路線」と称されており<ref name="asasaga110129"/>、廃止は考えられていない<ref name="asasaga110129"/>。
: '''中央相武自動車''':[[1923年]]3月設立。[[横浜駅|横浜]]~厚木間の乗合自動車を運営。[[東急玉川線|玉川電気鉄道(玉電)]]の傘下会社である目黒自動車運輸が買収したが、1936年10月に東横が玉電を傘下に収めた事に伴い、1937年8月に同社も東横の傘下に入った。

* [[1941年]][[12月15日]] - 同じ東横傘下の関東乗合自動車及び[[江ノ島電鉄|江ノ島電気鉄道]]の一部路線を譲受。
一般路線の詳細については[[#営業所|各営業所]]の記事を参照のこと。
: '''関東乗合自動車''':1931年12月設立。新宿~小滝橋間を運行していたが、1936年12月に原町田乗合(同年4月に設立され、1921年9月より野渡太助が運行し、後に平井実造が経営していた[[町田駅|原町田]]~図師間、原町田~[[鶴間駅|鶴間]]間、原町田~小野路間、原町田~[[瀬谷駅|瀬谷]]間などの路線を承継)を合併。一時現在の[[町田市]]内にも営業基盤を持っていた。東海道乗合自動車へはこの原町田営業所を譲渡した。現在の[[関東バス]]。

: '''江ノ島電気鉄道''':1931年[[7月11日]]、競合関係にあった鎌倉江ノ島乗合自動車商会([[1929年]][[6月2日]]開業)より[[江ノ島]]~[[鎌倉駅|鎌倉]]間の営業権を譲受して営業再開(これより先、1927年から1929年まで辻堂地区で乗合自動車業を行っていたが、廃業していた)。[[1934年]][[9月1日]]、藤沢自動車より片瀬~[[藤沢駅|藤沢]]間譲受。[[1935年]][[5月26日]]、岩崎清一及び平田忠心より[[茅ヶ崎市]]内及び[[平塚市]]内の路線を譲受。東海道乗合自動車へは、まずこの茅ヶ崎・平塚線を譲渡した。
==== 乗降方式 ====
* [[1942年]]2月 - 秦野自動車(1921年8月設立、[[秦野市|秦野]]~平塚間、秦野~[[二宮町 (神奈川県)|二宮]]間他)を合併。
{{Double image aside|right|PJ-KV234N1-Kanachu-i-10.jpg|200|PDG-AR820GAN Kanachu I103.jpg|200|「中乗り前降り」方式採用当初は『中ドア乗車』の幕を掲げた|本格導入後は行先表示器に『中乗り』と表示する方式に変更}}
* [[1943年]]4月 - 東京急行電鉄、神奈川県下の陸上交通統制の趣旨に基づき、伊勢原自動車及び藤沢自動車を買収。
ワンマン化以後、乗降時の事故防止と運賃収受の適正化の観点から<ref name="90-43"/>、乗客の指向が鉄道駅などの一点に集中している路線や時間帯<ref name="90-43"/>、また均一運賃区間の路線などを除き<ref name="90-43"/>、乗降ともに前扉を使用する「前乗り前降り」方式を基本としていた<ref name="90-43"/>。
: '''伊勢原自動車''':[[1920年]]3月に伊勢原自動車運輸として設立。1928年2月サンエキ自動車([[1926年]]設立)と合併し、伊勢原サンエキ自動車と改称。[[1932年]]9月伊勢原自動車と商号を変更。周辺事業者を悉く統合。1938年3月には秦野自動車より平塚~二宮間と平塚~須賀間を譲受していた。

: '''藤沢自動車''':1931年に江之島自動車・片瀬自動車商会・鵠沼自動車が統合して設立。以来、県央地区([[高座郡]]・[[愛甲郡]]・[[津久井郡]])の事業者を悉く買収・併合して統合。1937年6月、京王電気軌道(現在の[[京王線]]の母体)に買収され、同社傘下となる。[[1940年]]9月、八王子中央自動車([[1925年]]11月開業。[[川尻村 (神奈川県)|川尻村]](現・[[相模原市]]城山町)久保沢向原~[[八王子市]]旭町間)の合併で、南は藤沢~平塚から厚木・[[相模原市|相模原]]を経て北は八王子~上野原までに至る神奈川県を縦断する路線網を築き上げた。
しかし、利用者の要望やバリアフリー対応という観点から、中扉から乗車して前扉から降車する「中乗り前降り」方式の検討を進め<ref name="90-43"/>、2006年3月から伊勢原営業所管内で「中乗り前降り」方式の実証実験を開始した<ref name="90-43"/>。その後事故や問題などは発生しなかったことから本格導入に移行した<ref name="90-43"/>。
* [[1944年]][[5月31日]] - 東海道乗合自動車は伊勢原自動車及び藤沢自動車を合併。

* 1944年[[6月16日]] - '''神奈川中央乗合自動車株式会社'''に商号を変更。
停留所付近のバリアフリー整備など関係機関の協力が得られ次第、この乗降方式を拡大したい、としており<ref name="90-43"/>、2012年3月24日からは茅ヶ崎営業所管内も「中乗り前降り」方式に変更された<ref name="nakanori-chi"/>。
* 1944年[[11月28日]] - [[相模鉄道]]及び江ノ島電気鉄道の乗合自動車事業を譲受(3月に譲渡契約を締結。江ノ電バスはこれで消滅)。
{{-}}
: '''相模鉄道''':1935年[[12月24日]]、大谷仁三郎経営の[[淵野辺駅|淵野辺]]~[[上溝駅|上溝]]~田名間と田名~[[橋本駅 (神奈川県)|橋本]]間の乗合自動車業を承継して開業。1936年[[6月9日]]、愛甲自動車商会より上溝~厚木間の路線を譲受。1941年[[6月30日]]、東京横浜電鉄の傘下に入り、1943年[[4月1日]]、神中鉄道(現在の[[相鉄本線]]の母体)を吸収合併するが、1944年[[6月1日]]、本来の鉄道路線である[[茅ヶ崎駅|茅ヶ崎]]~[[橋本駅 (神奈川県)|橋本]]間が国家買収される(現在のJR[[相模線]])。従って同社は現在の相鉄と同一企業であるが、この時神奈中に編入されたバス路線と現在の相鉄バス([[1949年]][[6月20日]]、[[横浜市]]内で改めて開業)は全くの無関係である。

* [[1945年]]11月 - [[ハイヤー]]・[[タクシー]]事業を相模中央交通に譲渡。
==== 指差呼称 ====
* [[1948年]]6月1日 - 東京急行電鉄の再編成に伴い、同社より分離・新発足した小田急電鉄の傘下会社になる。
[[ファイル:Yubisashi-Kakunin.jpg|thumb|right|指差呼称]]
* 1949年5月 - [[東京証券取引所]]に上場。
乗務員は、旅客案内や車内事故の呼びかけなど、頻繁に車内アナウンスを行っている<ref name="rj533-116"/>。また、発車時に[[指差喚呼|指差呼称]]を励行している<ref name="rj533-116"/>。1976年から指差呼称が導入された<ref name="70-69"/>が、1977年11月から1978年5月にかけて事故が多発したことから<ref name="60-29"/>、強力な実施指導に切り替えたもので<ref name="60-29"/>、1982年4月からは運行中の指差呼称を義務付けた<ref name="70-69"/>。2002年2月以降はそれまでに発生した事故の教訓から<ref name="90-48"/>、内容を「左よし、前方よし、右よし」から「左よし、下よし、右よし」に変更した<ref name="90-48"/>。交通ジャーナリストの[[鈴木文彦]]は、「ほぼ全員に徹底しているケースでは、神奈中グループがトップであろう」と評している<ref name="rj533-116"/>。
* 1949年6月20日 - 江ノ島電気鉄道に一部路線を譲渡(江ノ電バスの復活)。
{{-}}
: 藤沢駅~七里ヶ浜~鎌倉駅間、藤沢駅~[[本鵠沼駅]]~辻堂駅間(旧来の江ノ電路線)

: 藤沢駅~深沢~鎌倉駅間、鎌倉駅~[[大船駅]]~日野~[[弘明寺駅 (京急)|弘明寺]]間、大船駅~飯島~戸塚駅裏口間
=== 高速バス ===
* [[1950年]][[5月31日]] - 相模中央交通を合併してハイヤー・タクシー事業を再び兼業する。
本項では高速道路を経由する路線と空港連絡バス・深夜急行バスについて記述する。
* [[1951年]][[6月29日]] - '''神奈川中央交通株式会社'''に商号を変更。

* [[1965年]]2月1日 - 伊勢原営業所・茅ヶ崎営業所の管内全路線で[[ワンマン運転|ワンマン運行]]を開始。多区間運賃路線での整理券方式によるワンマン化は日本では初めて。
==== 夜行高速バス ====
* [[1970年]][[7月27日]] - [[鶴川駅]]~鶴川団地線に日本初の[[深夜バス]]を運行開始。当時は運賃は3倍、定期券は利用不可であった。
[[ファイル:P-MS729SA Kanachu A701 for Morioka.jpg|thumb|right|夜行高速バス運行開始初期の車両(あ701)]]
* [[1973年]]4月 - ハイヤー・タクシー事業を[[神奈中ハイヤー]]に譲渡。
かつては神奈中本体で6路線の夜行高速バスを運行していた。その後、採算性の悪化により廃止や神奈交バスへの移管を経て、[[共同運行]]会社による単独運行や他系統への統合が行なわれた。路線自体は存続しているが、神奈中では予約・発券業務のみを担当している。
* [[1974年]]5月 - ヤビツ峠線のワンマン化に伴い、全路線のワンマン化が終了。

* [[1976年]][[5月1日]] - [[藤野町]](現・相模原市)の路線で[[フリー乗降制|自由乗降区間]]を初めて設定。以後順次導入路線を拡大。
; 横浜・町田 - 奈良線([[やまと号#奈良~横浜線|やまと号]]):[[奈良交通]]と共同運行<ref name="kosoku110"/>。神奈中では初の夜行高速バスであると同時に、神奈川県下においても初の夜行高速バス路線である<ref name="70-51"/>。1989年2月28日に運行開始<ref name="70-171"/>、1991年からは[[五位堂駅]]まで延長<ref name="shipan143"/>、1993年11月4日からは[[本厚木駅|本厚木]]経由となる<ref name="80-121"/>。2008年9月30日限りで神奈中は撤退し<ref name="90-97"/>、翌10月1日からは[[やまと号#奈良~千葉線|同名称の千葉線]]に統合。
* [[1978年]][[9月26日]] - 路線バス車両にデジタル式[[運賃表示器]]の導入開始。
; 横浜・町田 - 大阪線([[ハーバーライト号|ハーバーライト大阪号]]):1989年3月23日から運行開始した路線で、[[西日本ジェイアールバス]]との共同運行<ref name="kosoku110"/>。1991年5月11日からは横浜側の起点を本郷車庫へ変更<ref name="80-120"/>。1999年10月1日からは本厚木経由となり<ref name="80-126"/>、同時にダブルデッカーを導入<ref name="80-126"/>。2000年11月15日から湘南神奈交バスに移管<ref name="80-40"/>、さらに2008年6月16日からは横浜神奈交バスに移管<ref name="90-97"/>。2009年5月31日限りで神奈中グループは撤退し<ref name="90-98"/>、後述する横浜・町田 - 京都線と統合。
* [[1979年]][[5月21日]] - 路線バス車両に冷房車の導入を開始。
; 横浜・町田 - 京都線([[ハーバーライト号|ハーバーライト京都号]]):西日本ジェイアールバスとの共同運行<ref name="shipan134"/>により、1989年7月20日から運行開始<ref name="80-118"/>。1999年10月1日からは本厚木経由となり<ref name="80-126"/>、同時にダブルデッカーを導入<ref name="80-126"/>。2000年11月15日から湘南神奈交バスに移管<ref name="80-40"/>、さらに2008年6月16日からは横浜神奈交バスに移管<ref name="90-97"/>。2009年5月31日限りで神奈中グループは撤退し<ref name="90-98"/>、前述の横浜・町田 - 大阪線と統合。
* [[1980年]]9月9日 - 路線バス車両に大型方向幕の導入を開始。
; 横浜・町田 - 和歌山線([[サウスウェーブ号]]):[[和歌山バス]]との共同運行<ref name="shipan134"/>により、1989年12月22日から運行開始<ref name="80-118"/>。1992年6月30日からは本厚木経由となる<ref name="80-120"/>。1998年3月から神奈中が撤退し<ref name="80-40"/>、[[サウスウェーブ号|同名称の千葉線]]と統合。
* [[1981年]] - 開業60周年を記念し、薪バス「三太号」を復元。
; 横浜・町田 - 広島線([[メイプルハーバー|赤いくつ号]]):[[中国ジェイアールバス]]との共同運行により<ref name="shipan132"/>、1989年12月22日から運行開始<ref name="80-118"/>、1993年11月4日からは本厚木経由となる<ref name="80-121"/>。神奈中の歴史上では最長距離の路線であったが、1997年10月に廃止<ref name="80-40"/>。
* [[1986年]]4月1日 - 全系統に[[系統番号 (バス)|系統番号]]を附番。横浜市内の均一運賃区間において、共通回数券を導入。
; [[岩手県交通#盛岡 - 横浜線|本厚木・町田・横浜 - 盛岡線]]:1990年7月5日より運行開始した路線で、[[岩手県交通]]との共同運行<ref name="shipan133"/>。神奈中の夜行高速バスでは初めて本厚木発着となった路線で<ref name="shipan38"/>、その後他の夜行高速バスも本厚木を停車地に追加した。検討段階から交通ジャーナリストの[[鈴木文彦]]が市場調査などで直接的に関わっており<ref name="shipan38"/>、盛岡での開業初日のテープカットでは鈴木も招待されていた<ref name="shipan38"/>。当初、岩手県側では岩手県交通と[[ジェイアールバス東北]]の2社が参入を希望したが、その後両社間の調整で別路線への参入を条件にジェイアールバス東北は本路線への参入を見送る事になった<ref name="shipan182"/>。他の路線と異なり[[神奈川中央交通厚木営業所|厚木営業所]]が担当していた<ref name="shipan39"/>が、車両更新時には三菱エアロクィーンIに代替されると同時に[[神奈川中央交通横浜営業所|横浜営業所]]に移管された<ref group="注釈">岩手県交通の車両は引き続き神奈中厚木営業所に入庫。</ref>。後に神奈中より[[湘南神奈交バス]]に運行を移管されたが、[[2005年]][[11月30日]]限りで神奈中は撤退、岩手県交通の単独運行となった<ref name="bj57-16"/>。
* [[1987年]]3月 - 一般路線バスの塗装を変更。但し、在来車の塗り変えは行われなかった。塗り変えるより車両置き換えの方が早く終了するためとされている。

* 1987年4月 - ギャラリーバスの運行開始。全社で26台導入し、すべての営業所に配置された。一般公募により、同年7月に「カナちゃん号」と命名された。
==== 昼行高速バス ====
* 1987年6月 - 路線バス全車両が冷房車となった。
[[ファイル:KC-UA521NAN Kanachu Hi812.jpg|thumb|right|田村車庫・本厚木 - 新横浜線の車両(ひ812)]]
* [[1988年]][[5月9日]] - 多区間運賃制の路線バスでは日本初となるバスカードシステムを平塚・伊勢原・秦野の各営業所で導入開始。
; 田村車庫・本厚木 - 新横浜線:2006年11月17日より運行開始<ref name="90-96"/>。2008年[[2月29日]]限りで廃止<ref name="90-97"/>。
* [[1989年]]2月 - 夜行高速バス運行開始。

* 1989年12月 - 深夜急行バス運行開始。
==== 空港連絡バス ====
* [[1990年]][[3月26日]] - 横浜・舞岡・戸塚の各営業所での導入を最後に全路線へのバスカードシステム導入完了。
===== 羽田空港線 =====
* [[1992年]]9月 - [[極東開発工業]]と共同で、従来のツーステップバスをペースに前扉のステップにリフト機器を取り付けた新ステップ車の試作車が5台運行開始。[[1993年]]3月にも10台の試作車が投入された。[[1994年]]から量産車を投入し、[[2000年]]までの大型車と中型車全車に取り付けた。但し、日野中型車を除くU-車は全車改造扱いで平成6年排出ガス規制適合(KC-)車に移行された[[1997年]]以降の[[いすゞ自動車|いすゞ]](富士架装車)、[[UDトラックス|日産ディーゼル(現・UDトラックス)]]車も改造扱いとなる。
; 田村車庫・本厚木発着:[[京浜急行バス]]<ref group="注釈" name="京急">運行開始当時は[[京浜急行電鉄]]。</ref>との[[共同運行]]で<ref name="80-55"/>、1999年6月14日から運行開始<ref name="80-55"/>。
* [[1995年]] - [[観光バス]]並びに事業を神奈中ハイヤーに譲渡(現在の[[神奈中観光]])。
; 相模大野・町田発着:京浜急行バス<ref group="注釈" name="京急"/>との共同運行で<ref name="90-39"/>、2001年8月7日から運行開始<ref name="90-92"/>。
* [[1996年]]4月 - 一部路線並びに事業を[[湘南神奈交バス]]に譲渡。
; 戸塚・港南台発着:神奈中側では[[横浜神奈交バス]]が運行を担当、京浜急行バス<ref group="注釈" name="京急"/>との共同運行で<ref name="90-39"/>、2003年7月18日より運行開始<ref name="90-93"/>。当初は港南台駅発着のみであったが、2004年12月1日からは一部便が戸塚駅東口まで延長<ref name="90-94"/>。
* 1997年[[9月20日]] - 環境保護キャンペーンの一環として「スヌーピーバス」の運行を開始。同時に日本初の環境定期券制度を導入。
; 海老名発着:京浜急行バス・[[相鉄バス]]との共同運行<ref name="alebina"/>。2012年3月30日から運行開始<ref name="alebina"/>。
* [[1999年]]6月 - 相模原所属のさ154を最後に旧塗装車が全廃<ref>ただし、一部の営業所では早くに引退となった営業所もある。</ref>。

* 1999年11月 - 一部路線・事業を[[津久井神奈交バス]]に譲渡。
===== 成田空港線 =====
* 2000年10月 - 一部路線・事業を[[横浜神奈交バス]]に譲渡。
[[ファイル:Kanachu hi852 air-express-saloon.jpg|thumb|right|田村車庫・本厚木-成田空港線の車両(ひ852)]]
* [[2001年]]4月 - 一部路線・事業を[[相模神奈交バス]]並びに[[藤沢神奈交バス]]に譲渡。
; 橋本・相模大野・町田発着:[[京成バス]]<ref group="注釈" name="京成">運行開始当時は[[京成電鉄]]。</ref>との共同運行で<ref name="80-55"/>、2000年6月20日から運行開始<ref name="80-55"/>。当初は[[相模大野駅]]・[[町田バスセンター]]発着であったが、2004年12月16日からは一部便が[[橋本駅 (神奈川県)|橋本駅]]南口まで延長<ref name="90-94"/>。
* 2001年12月 - 横浜担当の全線が前乗り・運賃先払いとなったため、整理券発行機が撤去された<ref>後に再度取り付けられ、現在はカバーで覆われている。</ref>。
; 田村車庫・本厚木発着:京成バス<ref group="注釈" name="京成"/>との共同運行で<ref name="80-127"/>、2001年6月14日から運行開始<ref name="90-92"/>。
* 2001年[[12月8日]] - 2代目となるギャラリーバスが運行を開始。各営業所に1台ずつ配置。愛称は「かなちゃん号」を踏襲。初代はこの日限りで引退。
; 茅ヶ崎・藤沢・戸塚発着:京成バスとの共同運行で<ref name="90-39"/>、2007年3月22日より運行開始<ref name="90-96"/>。当初は[[藤沢駅]]・[[戸塚バスセンター]]発着であったが、2009年3月1日からは茅ヶ崎駅まで延長<ref name="90-98"/>。
* [[2003年]][[4月1日]] - 藤野台団地 - 相模湖線の廃止で、一般路線は[[山梨県]]から撤退。

* 2003年8月 - 「スヌーピーバス」の運行終了。車両はそのまま貸切兼用として運用。
==== 深夜急行バス ====
* [[2005年]][[2月1日]] - [[厚木市]]内全路線(厚木営業所は全路線)で[[グローバル・ポジショニング・システム|GPS]]を利用した[[バスロケーションシステム]]の運用を開始。
; 新宿駅→本厚木駅:1989年12月22日から運行開始<ref name="70-65"/>。
* 2005年[[3月14日]] - 湘南台駅 - 慶應義塾大学で「ツインライナー」運行開始。同時にGPSを利用したバスロケーションシステムの運用を開始。
; [[ミッドナイトアロー湘南|新宿駅・東京駅→平塚駅]]:[[ジェイアールバス関東]]との共同運行により<ref name="70-66"/>、1990年2月22日から運行開始<ref name="70-66"/>。運行開始当初は1日2便で新宿駅発の同一ルート運行であった<ref name="70-66"/>が、1990年10月8日からは1便を東京駅乗り入れとした上で横浜駅・保土ヶ谷駅・戸塚駅・湘南台駅経由に変更<ref name="70-66"/>。1995年9月1日からは神奈中の単独運行となり、2系統を統合して1日1便体制とした<ref name="80-122"/>。
* 2005年[[7月4日]] - [[横浜市交通局]]([[横浜市営バス]])から一部路線の移譲開始。

* 2005年[[9月25日]] - 横浜営業所の支払い方式を両替式から釣銭方式に変更。
=== 貸切バス ===
* 2005年[[9月27日]] - 舞岡営業所の支払い方式を両替式から釣銭方式に変更。
[[ファイル:KL-MP35JM Kanachu A501 KonicaMinolta.jpg|thumb|right|契約貸切車の例(あ501)]]
* 2005年[[11月28日]] - 横浜市営バスから一部路線を移譲される。
{{main|神奈中観光}}
* [[2006年]][[1月30日]] - 横浜市営バスから一部路線を完全移譲される(同年[[3月27日]]にも実施)。
神奈川中央乗合自動車が発足した後、戦後1948年7月には貸切バス事業を再開している<ref name="br68-52"/>。その後も事業区域の拡大が進められた<ref name="bj57-22"/>が、1960年代以降は貸切バス台数の増強は控え<ref name="bj57-22"/>、帰省バスやスキー・スケートなどの需要拡大を強化する方向性となった<ref name="bj57-22"/>。
* 2006年[[5月1日]] - [[上大岡駅]]発着路線でGPSを利用したバスロケーションシステムの運用を開始。

* 2006年[[11月17日]] - 昼行高速バス「[[新横浜駅]]線」の運行を開始。
1995年7月には一部を除いて[[神奈中ハイヤー]]に貸切バス事業を譲渡<ref name="bj57-26"/>、その後は企業の送迎などに使用される契約貸切<ref name="br68-56"/>や、路線バス車両を使用した貸切営業<ref name="br68-55"/>に限られている。
* 2007年[[3月11日]] - 藤野町の相模原市合併に伴い、藤野町営バス路線を子会社の津久井神奈交バスが譲受。これにより神奈中撤退区間が復活。
{{-}}
* 2007年[[3月16日]] - 相模原・多摩・町田の各営業所管内及び大和営業所の町田市内乗入路線において、GPSを利用したバスロケーションシステムの運用を開始<ref name="buslocation070316">[http://www.kanachu.co.jp/ 神奈川中央交通公式サイト]内{{cite web| url = http://www.kanachu.co.jp/newsinfo/topics/kanachu_news/bus_location3.html| title = 2010年2月23日付プレスリリース『バスロケーションシステムのサービスエリアを拡大』| accessdate = 2010-11-29}}</ref>。

* 2007年[[3月18日]] - 戸塚営業所の全路線とツインライナーにて[[PASMO]]運用開始。
=== 特定旅客事業 ===
* 2007年[[3月22日]] - [[京成バス]]と共管の[[成田国際空港|成田空港]]連絡バス、[[辻堂駅]]~[[藤沢駅]]~[[戸塚バスセンター]]~成田空港を運行開始。
[[ファイル:PDG-LV234N2 Kanachu A303 Taito.jpg|thumb|right|特定バスに使用される車両の例(あ303)]]
* [[2007年]][[4月1日]] - 横浜市営バスから一部路線を移譲される。

* 2007年12月 - 茅ヶ崎・綾瀬の各営業所の全路線と藤沢神奈交バス(藤沢)にてPASMO運用開始。
神奈中の特定旅客事業(特定バス)は、1975年に東京都教育委員会の[[特別支援学校|養護学校]][[スクールバス]]運行を受託したことが始まりである<ref name="bj57-22"/>。その後、企業送迎や学校スクールバスの自家用車両の代替に着目し<ref name="bj57-22"/>、再雇用者によるコスト低減や運行計画・車体デザインの受け入れ態勢などを整備した上で<ref name="bj57-23"/>、専用のパンフレットまで作成してセールスを行った<ref name="mirai2-287"/>。この結果、顧客が大幅に拡大し、神奈中の事業の柱の1つにまでなった<ref name="bj57-23"/>。
* 2008年1月 - 多摩・町田の各営業所の全路線にてPASMO運用開始。

* [[2008年]][[2月4日]] - 厚木バスセンター - 厚木アクスト線にツインライナー導入。同時に同路線にて[[PASMO]]の運用開始。
他の事業に使用される車両と異なり、特定輸送バス事業に車種や車両仕様、外装デザインはさまざまである<ref name="bj57-28"/>が、これは特定輸送は顧客の要望が反映されるためである<ref name="br68-56"/>。例としては、着手のきっかけとなった東京都教育委員会のスクールバスにおいて、他の地区にあわせて[[東京都交通局]]の貸切バス塗装が施されていた事例<ref name="bj6-8"/>や、伊勢原営業所の福祉施設送迎用車両で[[三菱・デリカスペースギア|三菱デリカスペースギア4WD]](定員6名・リフトつき)が採用されていた事例<ref name="br68-63"/>などが挙げられる。
* 2008年[[2月12日]] - 横浜市営バスから一部路線を移譲される。
{{-}}
* 2008年[[2月17日]] - 大和営業所と藤沢神奈交バス(大和)の全路線にてPASMO運用開始。

* 2008年[[3月1日]] - 昼行高速バス「新横浜駅線」を廃止。
== 事業所 ==
* 2008年[[8月12日]] - [[新潟市]]のオムニバスタウン事業の一環として、新潟市でツインライナーの試乗会が開催された。
統合により神奈川中央乗合自動車が発足した1944年6月16日の時点では、以下の営業所が存在した。
* 2008年[[8月16日]] - 相模鉄道から同社バス細谷戸線を委譲される。
; 東海道乗合自動車の営業所:弘明寺<ref name="60-74"/>・戸塚<ref name="60-78"/>・平塚<ref name="60-84"/>・中野<ref name="60-92"/>・町田<ref name="60-98"/>
* 2008年[[10月13日]] - 相模原営業所と相模神奈交バス(相模原)・津久井神奈交バスの全路線にてPASMO運用開始。
; 旧・藤沢自動車の営業所:藤沢<ref name="60-80"/><ref group="注釈">戦時中から1948年8月までは事業を中断していた([[#60年史|『神奈川中央交通六十年史』 p.80]])</ref>・茅ヶ崎<ref name="60-82"/>・厚木<ref name="60-90"/>
* 2008年[[11月3日]] - 横浜・舞岡各営業所及び横浜神奈交バスの全路線にてPASMO運用開始。
; 旧・秦野自動車の営業所:秦野<ref name="60-86"/>
* 2008年[[11月24日]] - 平塚営業所と湘南神奈交バス(平塚)の全路線にてPASMO運用開始。
; 旧・伊勢原自動車の営業所:伊勢原<ref name="60-88"/>
* 2008年[[12月21日]] - 厚木営業所の全路線にてPASMO運用開始。
その後、同年9月16日には茅ヶ崎営業所を平塚営業所に統合した<ref name="60-82"/>ほか、相模鉄道のバス事業譲り受けに伴い、同年11月28日に上溝営業所が発足している<ref name="60-94"/>。
* [[2009年]]3月15日 - 伊勢原営業所と湘南神奈交バス(秦野)の全路線にてPASMO運用開始。これにより、夜間高速バス、成田空港線、羽田空港線を除いた全営業所の一般路線にてPASMOの利用可能となった。

* 2009年[[3月26日]] - 茅ヶ崎営業所の一部路線にて自転車ラックバスの実証実験を開始(~8月31日)。
戦後、1952年2月23日に鶴間営業所が開設された<ref name="60-96"/>ことに伴い、町田営業所は鶴間営業所の出張所となった<ref name="60-98"/>。1954年には弘明寺営業所の業務を横浜市南区笹下町に新設された横浜営業所に移転<ref name="60-131"/>、1958年6月25日には町田営業所が開設され<ref name="60-98"/>、逆に鶴間営業所は町田営業所の出張所となった<ref name="60-96"/>。同年9月22日には、上溝営業所が移転の上相模原営業所に改称している<ref name="60-94"/>。1960年には中野営業所を津久井営業所に改称した<ref name="60-132"/>。
* 2009年[[12月16日]] - 秦野市内および座間市内への乗入路線において、GPSを利用したバスロケーションシステムの運用を開始<ref name="buslocation091216">[http://www.kanachu.co.jp/ 神奈川中央交通公式サイト]内{{cite web| url = http://www.kanachu.co.jp/newsinfo/pdf/release20091209.pdf| title = 2009年12月9日付プレスリリース『サービスエリア拡大!秦野地区、座間地区へ「バスロケーションシステム」と「バス・鉄道運行情報システム」を導入!』| accessdate = 2010-11-29}}</ref>。

* 2010年[[3月1日]] - 横浜市内全路線および藤沢市内の一部路線において、GPSを利用したバスロケーションシステムの運用を開始<ref name="buslocation100301">[http://www.kanachu.co.jp/ 神奈川中央交通公式サイト]内{{cite web| url = http://www.kanachu.co.jp/newsinfo/pdf/release20100223.pdf| title = 2010年2月23日付プレスリリース『「バスロケーションシステム」のサービスエリア拡大!横浜地区(全路線)と藤沢地区(一部路線)へ導入!』| accessdate = 2010-11-29}}</ref>。
1960年代以降、輸送力の増強に伴う車両の増加に対応するために、営業所を郊外へ新設や移転を行い、同時に敷地面積も拡大するという手法がとられた<ref name="bj57-22"/>。まず1962年には厚木営業所上荻野出張所(当時)・戸塚営業所長後出張所(当時)が開設され<ref name="60-132"/>、翌1963年4月20日には戸塚営業所を戸塚駅前から郊外(横浜市戸塚区中田町)に移転<ref name="50-63"/>、同年5月10日には舞岡営業所が新設された<ref name="60-133"/>ほか、1963年12月25日には横浜営業所本郷出張所が竣工<ref name="60-133"/>、1964年8月15日には平塚営業所から分離して<ref name="50-63"/>茅ヶ崎営業所が設立された<ref name="60-133"/>。なお、命令系統の明確化を目的として<ref name="50-63"/>、1962年以降は各営業所は運輸部所属部門から社長直轄の事業所に変更された<ref name="50-63"/>。
* 2010年7月31日 - バス共通カードの取り扱いを終了。

* 2010年[[12月16日]] - 藤沢・綾瀬・茅ヶ崎・平塚・伊勢原営業所管内の路線において、GPSを利用したバスロケーションシステムの運用を開始<ref name="buslocation101216">[http://www.kanachu.co.jp/ 神奈川中央交通公式サイト]内{{cite web| url = http://www.kanachu.co.jp/newsinfo/pdf/release20100223.pdf| title = 2010年2月23日付プレスリリース『サービスエリアが大幅に拡大!藤沢・綾瀬地区、茅ヶ崎地区、平塚地区、伊勢原地区に「バスロケーションシステム」と「バス・鉄道運行情報システム」を導入!』| accessdate = 2010-11-29}}</ref>。
1965年に車両数が1000台を超えると、さらに郊外への移転が進められた。1966年6月10日に秦野営業所<ref name="60-133"/>が移転、1968年には平塚営業所田村操車所が竣工<ref name="60-134"/>、1969年には町田営業所が移転<ref name="60-134"/>、1970年には町田営業所から鶴間操車所が分離して大和営業所が発足<ref name="60-20"/>、1971年には相模原営業所峡の原車庫が開設され<ref name="60-135"/>、1972年には厚木営業所も移転した<ref name="60-136"/>。1973年には貸切業務が平塚・戸塚の2営業所に統合された<ref name="60-34"/>ほか、戸塚営業所長後操車所を藤沢営業所に<ref name="60-34"/>、津久井営業所の橋本操車所を相模原営業所へそれぞれ移管した<ref name="60-34"/>。
* 2011年[[4月1日]] - 相模神奈交バスが[[川崎市交通局]]より[[川崎市バス菅生営業所]]の運行管理を受託。自社子会社が神奈川中央交通本体以外の運行管理を受託するのは初となる<ref name="kawasakicitybus">[http://www.kanachu.co.jp/ 神奈川中央交通公式サイト]内{{cite web| url = http://www.kanachu.co.jp/newsinfo/pdf/release20100903.pdf| title = 2010年9月3日付プレスリリース『相模神奈交バス(当社100%子会社)が川崎市バスの受託予定事業者に決定!!』| accessdate = 2010-11-29}}</ref>。

1988年12月24からは藤沢営業所から分離するかたちで<ref name="70-71"/>綾瀬市吉岡に綾瀬営業所が開設され<ref name="70-70"/>、藤沢営業所長後操車所は廃止された<ref name="70-71"/>。2001年7月29日には多摩営業所が開設された<ref name="80-75"/>。

2005年4月16日からは、藤沢営業所は茅ヶ崎営業所藤沢操車所に<ref name="90-95"/>、津久井営業所・城山操車所2005年4月16日よりそれぞれ相模原営業所三ヶ木操車所・相模原営業所城山操車所)に<ref name="90-95"/>、秦野営業所は2008年5月16日より伊勢原営業所秦野操車所に<ref name="90-97"/>、舞岡営業所は2011年10月16日より横浜営業所舞岡操車所に変更された。各地区の神奈交バスへの全面的な管理委託が行われたことによるもので、神奈川中央交通本体としての営業所機能は廃止された。

なお、2009年6月からは、それまで社長直轄事業所であった各営業所は、運輸営業部に所属する部門に変更された<ref name="90-35"/>。

各営業所の特徴として、乗務員の休憩室と事務室の仕切りがなく<ref name="mirai2-283"/>、事務員が多忙の際には休憩中の乗務員が外部からの問い合わせ電話を受けることもある<ref name="mirai2-283"/>という点が挙げられる。


== 営業所・操車所 ==
=== 営業所 ===
営業所名後ろの括弧内の平仮名及び英字は営業所を略記する際の記号。個別の路線については各営業所及び操車所の項目を参照のこと。
営業所名後ろの括弧内の平仮名及び英字は営業所を略記する際の記号。個別の路線については各営業所及び操車所の項目を参照のこと。
<!--独立した営業所から操車所へと変更になった車庫は、営業所と同じ扱いで段を下げずに並べています-->
<!--独立した営業所から操車所へと変更になった車庫は、営業所と同じ扱いで段を下げずに並べています-->
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* [[川崎市バス菅生営業所]] ('''M''')- 神奈川県[[川崎市]][[宮前区]]
* [[川崎市バス菅生営業所]] ('''M''')- 神奈川県[[川崎市]][[宮前区]]


=== 廃止された営業所・操車所 ===
=== 廃止・改称・移管された営業所・操車所 ===
* [[神奈川中央交通横浜営業所|弘明寺営業所]] - 神奈川県横浜市([[1954年]][[12月21日]]に移転の上横浜営業所に改称<ref name="60-74"/>)
<!--単純な移転の場合は含めていない。-->
* [[神奈川中央交通横浜営業所|弘明寺営業所]] - 神奈川県横浜市([[1954年]][[1221日]]廃止
* [[神奈川中央交通相模原営業所|上溝営業所]] - 神奈川県相模原市([[1958年]][[922日]]に移転の上相模原営業所に改称<ref name="60-94"/>
* [[神奈川中央交通相模原営業所|上溝営業所]] - 神奈川県相模原市([[1958年]][[922日]]廃止)
* [[神奈川中央交通厚木営業所|厚木営業所半原操車所]] - 神奈川県[[愛甲郡]][[愛川町]]([[1982年]][[516日]]廃止<ref name="70-165"/>
* [[神奈川中央交通厚木営業所|厚木営業所半原操車所]] - 神奈川県[[愛甲郡]][[愛川町]]([[1982年]][[516日]]廃止)
* 藤沢営業所長後操車所 - 神奈川県藤沢市([[1988年]][[1224日]]廃止。営業所機能は綾瀬営業所に移行<ref name="70-71"/>
* 藤沢営業所長後操車所 - 神奈川県藤沢市([[1988年]][[12月24日]]廃止)
* 藤沢営業所用田操車所 - 神奈川県綾瀬市(同上)
* 藤沢営業所用田操車所 - 神奈川県綾瀬市(同上)
* 横浜営業所笹下操車所 - 神奈川県横浜市[[港南区]]([[2001年]][[12月16日]]廃止。営業所機能は管轄の本郷操車所に移転)
* 横浜営業所笹下操車所 - 神奈川県横浜市[[港南区]]([[2001年]][[12月16日]]廃止<ref name="90-92"/>。営業所機能は管轄の本郷操車所に移転)
* [[神奈川中央交通茅ヶ崎営業所藤沢操車所|藤沢営業所]] - 神奈川県藤沢市(2005年4月16日廃止)
* [[神奈川中央交通茅ヶ崎営業所藤沢操車所|藤沢営業所]] - 神奈川県藤沢市(2005年4月16日に茅ヶ崎営業所と統合のため廃止<ref name="90-95"/>
* [[神奈川中央交通相模原営業所三ヶ木操車所|津久井営業所]] - 神奈川県[[津久井郡]]津久井町(同上
* [[神奈川中央交通相模原営業所三ヶ木操車所|津久井営業所]] - 神奈川県[[津久井郡]]津久井町(2005年4月16日に相模原営業所と統合のため廃止<ref name="90-95"/>
** 津久井営業所城山操車所 - 神奈川県津久井郡城山町(同上
** 津久井営業所城山操車所 - 神奈川県津久井郡城山町(2005年4月16日に相模原営業所に移管<ref name="90-95"/>
* [[神奈川中央交通伊勢原営業所秦野操車所|秦野営業所]] - 神奈川県秦野市(2008年5月16日廃止)
* [[神奈川中央交通伊勢原営業所秦野操車所|秦野営業所]] - 神奈川県秦野市(2008年5月16日に伊勢原営業所と統合のため廃止<ref name="90-97"/>
* [[神奈川中央交通舞岡営業所|舞岡営業所]] - 神奈川県横浜市戸塚区(2011年10月16日廃止)
* [[神奈川中央交通舞岡営業所|舞岡営業所]] - 神奈川県横浜市戸塚区(2011年10月16日廃止)


=== 神奈交バス・神奈中観光 ===
なお、上記のうち藤沢営業所(現・茅ヶ崎営業所藤沢操車所)及び津久井営業所・城山操車所(現・相模原営業所三ヶ木操車所・城山操車所)は、2005年4月16日よりそれぞれ藤沢神奈交バス藤沢営業所及び津久井神奈交バス津久井営業所に、秦野営業所(現・伊勢原営業所秦野操車所)は2008年5月16日より湘南神奈交バス秦野営業所に、舞岡営業所(現・横浜営業所舞岡操車所)は2011年10月16日より横浜神奈交バス舞岡営業所に完全委託された。これにより、神奈川中央交通本体としての営業所機能は廃止された。営業所と操車所の違いについては以下を参照のこと。

=== 営業所と操車所の違いについて ===
神奈川中央交通の車庫には、乗車券類の取り扱いなどの業務内容や各神奈交バスへの委託状況などにより、営業所・操車所の名称が使い分けられる。基本的に、神奈川中央交通が乗車券類の販売業務を行っている場合は'''営業所'''、各神奈交バスが乗車券類の販売業務を行っている(神奈交バスの営業所に業務を全面委託している)場合、もしくは一切の乗車券類などの販売業務を行っていない場合は、'''操車所'''であると考えてよい。但し、「営業所」であっても車庫が複数存在する場合は、それぞれの車庫自体の別称として操車所が使用される場合もある(厚木営業所の例:松蓮寺操車所・下荻野操車所・上荻野操車所)。

なお、バス停の名称などに使用される事が多い“車庫の名称”は、周辺の地名からとられる場合もあり、営業所や操車所の名称と違う場合が多い(例: 町田営業所は「野津田車庫」、藤沢操車所は「高山車庫」、秦野操車所は「高砂車庫」など)。

== 神奈交バス・神奈中観光 ==
* [[湘南神奈交バス]](か)
* [[湘南神奈交バス]](か)
* [[藤沢神奈交バス]](FK)
* [[藤沢神奈交バス]](FK)
319行目: 335行目:
* [[神奈中観光]](東京営業所:M、神奈川営業所:H)
* [[神奈中観光]](東京営業所:M、神奈川営業所:H)


== 高速路線 ==
== 車両 ==
本節では便宜上、大型車のうち全長が10.5mから10.9mの車両を「標準尺車」、全長が9mから10.5m未満の車両を「短尺車」、全長11m級の車両を「長尺車」と標記する。
=== 他社運行路線 ===
以下の他社運行の路線は、かつて同社→グループ会社を経て運行してきた。路線自体存続しているが、同社では予約・発券業務のみを担当している。


=== 車両史 ===
==== [[岩手県交通#盛岡 - 横浜線|盛岡 - 横浜線]] ====
==== 創業期の車両 ====
※:[[岩手県交通]]が運行。
神奈中の前身となる事業者の1つである鶴屋商会では、[[フォード・モーター|フォード]]や[[ビュイック]]、[[レオ・モーター・カー・カンパニー|レオ]]などの輸入車両が使用された記録が残っている<ref name="br68-53"/>。
; 概説
本路線は鉄道では直行できない[[岩手県]]と神奈川県を結ぶ路線である。当初は岩手県交通と[[ジェイアールバス東北]]の2社が参入を希望したが、その後両社間の調整で別路線への参入を条件にジェイアールバス東北は本路線への参入を見送る事になった<ref>鈴木文彦『新版・高速バス大百科』p182</ref>。検討段階から交通ジャーナリストの[[鈴木文彦]]が市場調査などで直接的に関わっており<ref name="shipan38">鈴木文彦『新版・高速バス大百科』p38</ref>、盛岡での開業初日のテープカットでは鈴木も招待されていた<ref name="shipan38"/>。


==== 戦時中から終戦直後 ====
運行開始当初は'''神奈川中央交通'''(神奈中)との[[共同運行]]を行っていた。神奈川中央交通の夜行高速バスでは初めて[[本厚木駅]]発着となった路線で、その後神奈中の他の夜行高速バスも本厚木を停車地に追加した。後に神奈中より[[湘南神奈交バス]]に運行を移管されたが、[[2005年]]([[平成]]17年)[[11月30日]]をもって撤退し、現在は予約・発券業務のみ受託している。
1940年10月になると、石油消費規制が強化されたことに伴い、保有車両の7割が代用燃料化された<ref name="50-15"/>。さらに、1941年8月には液体燃料配給停止の措置がとられたため、保有車両の全車両が代用燃料化されることになった<ref name="50-15"/>。


当初は代用燃料は木炭と薪が使用されていた。神奈川県内では清川村が良質の木炭の産地であった<ref name="50-26"/>。地元民からは「木炭を特別に配給するからダイヤの完全運行をしてほしい」という依頼もあったという<ref name="50-26"/>。ところが、1945年に入ると県内産木炭の入荷が途絶え<ref name="50-26"/>、やむを得ず福島県から鉄道輸送によって木炭を入手することになった<ref name="50-26"/>。しかし、神奈川県産の木炭と比べるとガス発生量は少なかったという<ref name="50-26"/>。その福島県産の木炭さえも入手が難しくなり、最終的にはほぼ薪に頼る状態となった<ref name="50-26"/>。
'''全席指定制'''([[学生割引]]運賃設定あり)
* [[本厚木駅]] - [[町田バスセンター]] - [[横浜駅]]東口 ⇔ [[北上駅]]前(西口) - 総合福祉センター前 - 花巻上町 - [[花巻駅]]前 - [[都南バスターミナル]] - [[盛岡駅]]東口 - [[盛岡バスセンター]]


薪については、代用燃料導入当初は、ガス発生にも適する状態のよく乾燥された良質の薪が入手できていた<ref name="50-27"/>が、1944年頃からは乾燥が不十分な状態のままで入荷することになった<ref name="50-27"/>。薪の産地は丹沢の森林地帯で<ref name="50-27"/>、トラックや座席を撤去したバスで足柄上郡三保村まで直接取りに行っていたという<ref name="50-27"/>。終戦直後になると、薪の加工工場の生産能力が間に合わず、1946年には渋沢に薪生産工場を設けて自社生産を行った<ref name="50-27"/>。
; 使用車両
[[File:P-MS729SA Kanachu A701 for Morioka.jpg|thumb|180px|right|神奈川中央交通の運行開始当初の車両(三菱ふそう・エアロクィーンM)]]
独立3列シート便所付きのスーパーハイデッカーが使用される。


燃料以外の保守部品も不足しており、エンジンオイルは鉱物油・植物油・魚油を混合したものを使用し<ref name="50-27"/>、しかも一度使用したオイルは再生の上配給に回された<ref name="50-27"/>。窓ガラスが破れた場所には板が張られ<ref name="50-27"/>、雨漏りの補修もままならず<ref name="50-28"/>、雨の日には車内で乗客が破れた傘をさしている光景も見られたという<ref name="50-28"/>。
運行開始当初の岩手県交通は[[いすゞ・スーパークルーザー|いすゞスーパークルーザー]]を使用していた。当時の岩手県交通の夜行高速バス車両は、らくちん号(現:[[ドリーム盛岡 (らくちん) 号]])に使用されていた車両が乗客定員27名となっており、本路線のために乗客定員29名とした車両が専用車として運行されていた。


なお、空襲を避けるため、横浜市内の路線を担当する戸塚営業所では全車両に装甲車に見えるようなカムフラージュを施して営業していたという<ref name="50-26"/>。
運行開始当初の神奈中は[[三菱ふそう・エアロエース|三菱エアロクィーンM]]が使用されていた。神奈中は他の路線と異なり[[神奈川中央交通厚木営業所|厚木営業所]]が担当していたが、車両更新時には三菱エアロクィーンIに代替されると同時に[[神奈川中央交通横浜営業所|横浜営業所]]に移管された(岩手県交通の車両は引き続き神奈中厚木営業所に入庫)。さらに湘南神奈交バスに移管された後、[[2005年]](平成17年)の撤退時に岩手県交通に譲渡され、塗装変更の上本路線で使用されている。


==== 戦後の復興 ====
岩手県交通の単独運行になってからは、エアロクィーンI・スーパークルーザーの他、日産ディーゼル・スペースウイングが使用される。
戦後、稼動車両を早期に増強しないと収入が見込めない状態であった<ref name="50-34"/>。しかし、バスはシャーシが割り当てられたものの架装すべき車体がない状態であった<ref name="50-34"/>。また、部品を他の車両に流用したままになっていた遊休車両もあった<ref name="50-34"/>。そこで、秦野町(当時)にある神中自動車工業秦野工場を買収し、秦野工場として自社で車両整備を行うことになり<ref name="50-34"/>。1947年から秦野工場として本格的に業務が開始された<ref name="50-34"/>。同工場で再生された車両は、自製のボンネット周りに外観上の特徴があった<ref name="br68-53"/>。


また、戦後の貸切バス再開に伴い、1936年式のフォードの内装を改装した貸切バス車両を2台導入したが<ref name="50-36"/>、これも秦野工場で再生された<ref name="50-36"/>。
==== [[やまと号#奈良~千葉線|『やまと号』奈良~千葉線]] ====
※:[[奈良交通]]・[[京成バス]]との共同運行。<br/>
''[[やまと号#奈良~千葉線|当該記事]]を参照。''


この工場は各営業所の付属工場の整備が進んだ[[1953年]]に閉鎖された<ref name="50-34"/>が、戦後の車両復興に大きく貢献した。
==== [[ハーバーライト号]]・横浜昼特急大阪号 ====
※:[[西日本ジェイアールバス|西日本JRバス]]が運行。<br/>
''[[ハーバーライト号|当該記事]]を参照。''


==== ディーゼルバス導入から高度成長期へ ====
=== 廃止・撤退路線 ===
1948年10月には、初のディーゼルバスとしていすゞ・BX91型が5台導入された<ref name="50-36"/>。翌1949年に導入された車両からは、路線バス車両のカラーリングについて、ベース色がクリーム色に変更された<ref name="50-38"/>。
* [[やまと号#奈良~横浜線|『やまと号』横浜~奈良線]] - [[やまと号#奈良~横浜線|同名称の千葉線]]に系統統合(予約・発券業務は継続)。
* [[サウスウェーブ号]]横浜線 - 同名称の千葉線に系統統合。
* [[メイプルハーバー|赤いくつ号]](横浜~広島線)


1963年には、清川村の札掛へ乗り入れる路線が開設された<ref name="50-60"/>が、この路線に導入された車両は、当時の神奈中としては唯一のマイクロバスであった<ref name="50-60"/>。
== 車両 ==
=== 概説 ===
一般路線用は[[三菱ふそうトラック・バス|三菱ふそう]]製が約80%、[[いすゞ自動車]]製が約15%を占める。[[日野自動車]]製は[[コミュニティバス]]やそれに準ずる路線では[[日野・リエッセ|リエッセ]]や[[日野・レインボー|レインボー]]が主力となっているものの、大型車は舞岡配備のハイブリッド車を除けば伊勢原に集中配備となっている。さらに[[UDトラックス|日産ディーゼル(当時、現「UDトラックス」)]]製は厚木、秦野、平塚の3営業所にごくわずかが配備されているに過ぎず、ここ数年の新規導入は厚木・秦野のみである。系列会社籍の高速・観光バスはいすゞ製が若干存在するものの、三菱ふそう製にほぼ限定されていると言ってもよい状態である。


高度成長期は輸送力増強に対応するため、道路環境が整備されているとは限らなかったにもかかわらず、高度成長期から[[1990年]]までの神奈中で導入される車両の大半は長尺車であった<ref name="bj23-24"/><ref group="注釈">[[#BJ1997|『バスジャパン・ニューハンドブック23』 p.61]]の記述によれば、厚木・横浜・戸塚・舞岡の各営業所に配置されているギャラリーバス「カナちゃん号(初代)」も長尺車だった。</ref>。車両数も[[#営業所別所属台数推移|別表]]に見られるように増加の一途を辿り、特に厚木営業所では1985年度に所属台数が200台を超えている<ref group="注釈">[[#70年史|『神奈川中央交通七十年史』 p.106]]によると、1985年3月31日の時点で199台、1986年3月31日の時点で205台となっていた。</ref>。
この様に、巨大事業者でありながらいびつな構成になっているのは、[[1980年代]]半ばに神奈川三菱ふそう自動車販売が傘下となったためで、従来は4社のバランスをとって新車を導入していたものが、[[1984年]]([[昭和]]59年)頃を境に、いすゞの拠点である藤沢市周辺地域を除くと三菱ふそう車が集中投入される下地となった。その結果、町田営業所や横浜営業所の様に三菱ふそう車でほぼ統一されている営業所も存在する(詳細については各営業所毎の解説を参照されたい)。なお、[[2004年]](平成16年)以降は日産形低公害車の実証実験を厚木営業所が担当する事となり、[[尿素SCRシステム|尿素SCR]]ステーションを設置した関係から日産ディーゼル車が継続的に配備され、[[2009年]](平成21年)[[2月28日]]現在で41台在籍、稼動車の30%程度にまで比率が上がっている。


=== 1980年代以降の車両概説 ===
ボディはいすゞ製を除けば各社純正ボディ車(三菱ふそうは伝統的に呉羽製<ref>ただし、高速路線車および貸切車(一部を除く)では三菱ふそうバス製造に一本化されるまでは当時の三菱自動車工業名古屋製作所大江工場製で導入していた。</ref>)を採用していたが、いすゞについては純正の[[川崎重工]]の他、[[富士重工業|富士重工]]や[[北村製作所]]を並行して採用していた。特にいすゞ+富士重工の組み合わせは富士重工のバス車体製造撤退時まで取引を続けており、これらは茅ヶ崎に集中的に配備された他、藤沢・綾瀬を除く営業所では新製配置のいすゞ車は原則として富士重工ボディであった<ref>ただし、中型車では1999年(平成11年)導入のエルガミオ以降は純正ボディで導入されている。</ref>。日産ディーゼル車についても富士重工および[[西日本車体工業]]製で導入されていたが、2010年(平成22年)後半より三菱ふそうからのOEM車種であるスペースランナーAの導入が開始された。
[[1980年代]]半ばに神奈川三菱ふそう自動車販売が傘下となってからは三菱ふそう製車両の導入が多くなり、2005年時点では9割以上が三菱ふそう車となっている。いすゞ製の車両は綾瀬営業所に多く<ref name="br68-58"/>、日野製の大型車両はハイブリッド車以外は全車両が伊勢原営業所に配置され、日産ディーゼルは大和・平塚・秦野・厚木の各営業所に配置された<ref group="注釈">なお、[[2004年]]以降は日産形低公害車の実証実験を厚木営業所が担当する事となり、[[尿素SCRシステム|尿素SCR]]ステーションを設置した関係から日産ディーゼル車が継続的に配備され、[[2009年]][[2月28日]]現在で41台在籍、稼動車の30%程度にまで比率が上がっている。</ref>。各メーカーの車両とも、1990年以降は標準尺車のみの導入に統一されている<ref name="bj57-28"/>。


車体はいすゞ製を除けば各社純正車体(三菱ふそうは伝統的に呉羽製<ref group="注釈">ただし、高速路線車および貸切車(一部を除く)では三菱ふそうバス製造に一本化されるまでは当時の三菱自動車工業名古屋製作所大江工場製で導入していた。</ref>)を採用していたが、いすゞについては純正の[[川崎重工]]の他、[[富士重工業|富士重工]]や[[北村製作所]]を並行して採用していた。特にいすゞ+富士重工の組み合わせは富士重工のバス車体製造撤退時まで取引を続けており、これらは茅ヶ崎営業所に集中的に配備された他、藤沢・綾瀬を除く営業所では新製配置のいすゞ車は原則として富士重工車体であった<ref group="注釈">ただし、中型車では1999年導入のエルガミオ以降は純正車体で導入されている。</ref>。日産ディーゼル車についても富士重工および[[西日本車体工業]]製で導入されていたが、2010年後半以降は三菱ふそうからのOEM車種であるスペースランナーAを導入していた。
この他、連節バス([[ネオプラン・セントロライナー]]・[[メルセデス・ベンツ・シターロ]])が「ツインライナー」と命名されて、[[湘南台駅]]~[[慶應義塾大学]]間と[[厚木バスセンター]]~[[厚木アクスト]]間で各4台ずつ運用されているほか、コミュニティバス向けに小型ノンステップバス([[オムニノーバ・マルチライダー]]や[[日野・ポンチョ]])が導入されている。


この他、連節バス([[ネオプラン・セントロライナー]]、[[メルセデス・ベンツ・シターロ]])が「ツインライナー」と命名されて、[[湘南台駅]]から[[慶應義塾大学]]に向かう路線と[[厚木市]]内の3路線で各4台ずつ運用されているほか、コミュニティバス向けに小型ノンステップバス([[オムニノーバ・マルチライダー]]や[[日野・ポンチョ]])が導入されている。
ノンステップバスの導入は[[1998年]](平成10年)より積極的に推進している<ref name="bjh57-28">バスジャパン・ハンドブックR「57 神奈川中央交通」p28</ref>。サイズは全長10.5mから10.9mの車(以下「標準尺車」と表記)と全長9mの車(以下「短尺車」と表記)を導入している。当初はノンステップバスには専用のカラーリング([[#車両塗装|後述するブルーイエロー色]])を採用していたが、[[2001年]](平成13年)以降は一般車と同じデザインに変更されている。三菱車においてはエアロスターを増備してきたが、[[2008年]](平成20年)から2009年(平成21年)前半までは一部を除いて<!--厚木にはスペースナンナーRAノンステップがいるので。はっきり言って見分けはつきませんが-->日産ディーゼルからの[[OEM]]車種であるエアロスター-S(AA系)を導入していた。


神奈中では[[1985年]]製の車両までは6年から8年程度(長くても10年程度)で廃車されるケースが多かった。そのため、[[昭和54年排出ガス規制]]適合車も[[1992年]]までに全廃されている。
[[2002年]](平成14年)5月以降、方向幕のLED化が進んでおり、現在は一部の小型車両に幕式の車両が見られるのみとなっている。なお、ごく一部を除き英語表記は行われていない。なお、回送は英語表記された表示をしており、表記内容は「OUT OF SERVICE」である。


自らが所属する営業所長から各運転士に対して乗務車両を任命し、運転士はその車両の専属乗務や簡単な車両管理などを行う「担当車制」を採用している<ref name="br68-55"/>。運転士の手入れにより、使用年限の途中での車体更新は行なわれていないにもかかわらず<ref name="br68-55"/>、経年車でも美しく保たれている車両が多い<ref name="br68-55"/>。
[[2003年]](平成15年)の新車より[[小田急グループマテリアルズ]]仕様で導入されている。これは同社を通じて購入する事によりコストを抑えながら短期間で大量の更新が行える様になっている。このため、床面処理・ドア配置や空調装備品<!--座席のモケットは、二代目かなちゃん号登場の頃には既に今の仕様になっていたはずです。-->などは小田急グループのバス事業者共通の仕様となっている。
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ファイル:KanagawaChuoKotsu ma6.JPG|三菱ふそう・エアロスター ノンステップ(ま6) 撮影:町田バスセンター
ファイル:PDG-LR234J2 Kanachu Ya0107 front.jpg|いすゞ・エルガミオ ノンステップ(や0107) 撮影:相武台前駅
ファイル:PKG-RA274KAN Kanachu A30.jpg|日産ディーゼル・スペースランナーRA ノンステップ(あ30) 撮影:厚木バスセンター
ファイル:KL-HU2PMEK-Kanachu-I2.jpg|日野・ブルーリボン ワンステップ(い2) 撮影:東海大学病院
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=== 路線車両の仕様 ===
ノンステップバスの導入は[[1998年]]より積極的に推進している<ref name="bj57-28"/>。標準尺車と短尺車を導入している。当初はノンステップバスには専用のカラーリング([[#車両塗装|後述するブルーイエロー色]])を採用していたが、[[2001年]]以降は一般車と同じデザインに変更されている。三菱車においてはエアロスターを増備してきたが、[[2008年]]から2009年前半までは一部を除いて<!--厚木にはスペースナンナーRAノンステップがいるので。はっきり言って見分けはつきませんが-->日産ディーゼルからの[[OEM]]車種であるエアロスター-S(AA系)を導入していた<ref name="br106-15"/>。なお、通常の路線車は1998年からアイドリングストップが標準に<ref name="bj57-28"/>、2001年からはワンステップバスが標準となった<ref name="bj57-28"/>。

大型方向幕は1985年9月から採用され<ref name="70-55"/>、[[2002年]]5月13日からLED行先表示器の導入が開始され<ref name="90-92"/>、方向幕の車両も2004年頃の改造開始から3年程度でLED表示器に載せ変えた<ref group="注釈">ごく一部を除き英語表記は行われていない。回送は英語表記された表示をしており、表記内容は「OUT OF SERVICE」である。</ref>。これにより、路線開設や廃止などによる幕交換やほこりなどで汚れた幕の清掃などの負担が大幅に軽減された<ref name="90-44"/>。また、路線バスの車内放送は長らく8トラテープを使用していたが、2005年10月23日より[[クラリオン]]製音声合成装置の導入が開始された<ref name="90-95"/>。出庫時に運行ダイヤを設定することによって、LED式行先表示器・運賃表示器・整理券発行器・カードリーダーが集中制御できるようになった<ref name="90-44"/>。

[[2003年]]の新車より[[小田急グループマテリアルズ]]仕様で導入されている。これは同社を通じて購入する事によりコストを抑えながら短期間で大量の更新が行えるようになっている。このため、床面処理・ドア配置や空調装備品<!--座席のモケットは、二代目かなちゃん号登場の頃には既に今の仕様になっていたはずです。-->などは小田急グループのバス事業者共通の仕様となっている。


後部ブレーキランプについては、1988年式以降は2灯だったものを4灯に変更<ref name="bj23-28"/>、さらに1997年式からバス協型→角型に変更した。<ref name="bj23-28"/>。
神奈中では[[1985年]](昭和60年)製の車両までは6年から8年程度(長くても10年程度)で廃車されるケースが多かった。そのため、[[昭和54年排出ガス規制]]適合車も[[1992年]](平成4年)までに全廃されている。
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ファイル:P-HT226AA-Kanachu-Ya15-rear.jpg|1987年まではブレーキランプは2灯
File:KanagawaChuoKotsu ma6.JPG|三菱ふそう・エアロスター ノンステップ(ま6) 撮影:町田バスセンター
ファイル:U-HT2MMAA Kanachu I70 rear.jpg|1988年以降はブレーキランプは4灯
File:PKG-MP35UM Kanachu A21 front.jpg|三菱ふそう・エアロスター ワンステップ(あ21) 撮影:愛川バスセンター
ファイル:KC-RJ1JJAA Kanako Ka1013 rear.jpg|1997年以降はブレーキランプを角型に変更
File:PDG-LR234J2 Kanachu Ya0107 front.jpg|いすゞ・エルガミオ ノンステップ(や0107) 撮影:相武台前駅
File:Kanachu SA852 air-express-saloon.jpg|三菱ふそう エアロバス 空港リムジン仕様(さ852) 撮影:成田国際空港
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室内は前向き座席が標準であるが、1963年9月の新車からは、優先席が横向きに変更された<ref name="70-55"/>。1998年までは、座席モケットは一般席が赤・優先席が青となっていた<ref name="br68-57"/>。2009年7月からは、熱線吸収ガラスと三角吊り手が導入された<ref name="90-43"/>。
=== 特徴的な仕様 ===
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バス専業としては日本最大の事業者だけに1年あたりの導入車両数が多く、その結果「神奈中仕様」とも言える特注仕様が存在する。その中でも代表的なものが車両前面の向かって右側の窓下<ref>[[三菱ふそう・エアロスター|エアロスター]]ではセイフティウィンドーが標準装備されている部分。</ref>に設置された「運賃支払い方法表示窓」(運賃収受が前払いか後払いかを表示するためのもので、一部車を除き幕式になっている。)である<ref>ただし、1987年に26台が導入されたギャラリーバス「カナちゃん号」に限っては設置されていなかった。</ref>。また、かつて三菱にホイルベース5.8mで全長が11m級の車両(P-MP218P改・以下、全長11m級の車両は「長尺車」と表記)を特注し、これをMP218-Nとしてメーカーに追加で形式認定させた程の力を持つ<ref>その後、[[北陸鉄道]]や[[京浜急行バス]]などでも導入例が見られたが、ニューエアロスターでは設定されなくなった。</ref>。この特注の長尺車は厚木・藤沢・綾瀬・横浜・戸塚・舞岡の各営業所に多く配置されていたが(これらの営業所では、ギャラリーバス「カナちゃん号(初代)」も長尺車だった事で、長尺車がその営業所の標準であった事がうかがえる。)、[[1990年]](平成2年)以降は標準尺車をメインに導入されている。また、[[1995年]](平成7年)以降は全長9m級の中型車両もまとまった台数を導入している。
ファイル:PJ-MP35JM Kanachu Sa0162 inside.jpg|標準的なワンステップ車の車内
ファイル:PKG-RA274MAN Kanachu A163 inside.jpg|2009年7月以降の導入車は吊り手が三角になった
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=== 特徴的な仕様 ===
[[1994年]](平成6年)から[[2000年]](平成12年)にかけて導入された車両は全て前扉に可動式ステップを設置した「新ステップ車」となっている([[極東開発工業]]製)。これは神奈中では様々な事情からワンステップバスの導入が実現できなかったため、その代替として位置付けられていた。この「新ステップ」はほかの業者などに波及している。また、2000年導入車までは前後のバンパーは大型の仕様が標準となっていた。これはフロントガラスの清掃の際にバンパーをステップと兼用させるためであった。
バス専業としては日本最大の事業者だけに1年あたりの導入車両数が多く、その結果「神奈中仕様」とも言える特注仕様が存在する。
; 後ヒンジ式前扉:1979年まで、折戸の前扉が通常とは逆の後ろ側に開く後ヒンジ式だった<ref name="br68-53"/>。
; 運賃支払い方法表示窓:1980年代から、車両前面の向かって右側の窓下<ref group="注釈">[[三菱ふそう・エアロスター|エアロスター]]ではセイフティウィンドーが標準装備されている部分。</ref>に設置された「運賃支払い方法表示窓」が設けられた<ref name="br68-56"/><ref group="注釈">運賃収受が前払いか後払いかを表示するためのもので、一部車を除き幕式になっている。ただし、1987年に26台が導入されたギャラリーバス「カナちゃん号」に限っては設置されていなかった。</ref>。
; 大型バンパー:2000年導入車までは前後のバンパーは大型の仕様が標準となっていた<ref name="br68-56"/>が、これはバンパーをフロントガラスの清掃の際に使用するステップと兼用させるためであった<ref name="bj57-9"/>。
; 長尺車:かつて三菱にホイルベース5.8mで全長が11m級の車両(長尺車)<ref group="注釈">三菱ふそう・エアロスター、P-MP218P改。</ref>を特注し、これをMP218-Nとしてメーカーに追加で形式認定させた程の力を持つ<ref group="注釈">その後、[[北陸鉄道]]や[[京浜急行バス]]などでも導入例が見られたが、ニューエアロスターでは設定されなくなった。</ref>。しかし、[[1990年]]を最後に長尺車の導入は終了し<ref name="bj23-28"/>、以後は標準尺車をメインに導入されている<ref name="bj57-28"/>。また、[[1995年]]には全長9m・幅2.3m級の中型車両を大量に導入している<ref name="bj23-28"/>。
; 新ステップ車:1994年から2000年にかけて導入された標準床車両は全て前扉に[[極東開発工業]]製の可動式ステップを設置した「新ステップ車」となっている<ref name="br68-55"/>。これはさらに床の低い車両の導入や観光バスなどで見られる補助ステップでは、新興住宅地に多い急坂では車体と路面の接触の可能性があったため<ref name="br16-52"/>、乗降性の改善策として、[[三菱ふそうトラック・バス|三菱自動車工業(当時)]]・[[三菱ふそうバス製造|新呉羽自動車工業]]・[[極東開発工業]]との共同開発により導入された<ref name="br16-53"/>。この「新ステップ」は横浜市交通局・[[神戸市交通局]]・[[小田急バス]]など、他の事業者にも波及している<ref name="mirai1-31"/>。
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ファイル:MP117N-Kanachu-Sa102.jpg|前扉が後ヒンジ式の三菱ふそうMP117N
画像:P-MP218N-Kanachu-A191.jpg|特注車を形式認定させたP-MP218N(あ191・現在は廃車) 撮影:厚木バスセンター
画像:Kanachu-Step-Lift.JPG|「新ステップ」は前扉にリフトを設置。またステップを兼ねた大型バンパーも「神奈中仕様」の一つ
ファイル:Kanachu bumper.jpg|バンパーの比較。奥の両がステップを兼ねた大型バンパー
ファイル:P-MP218N-Kanachu-A191.jpg|特注車を形式認定させた三菱ふそうP-MP218N
画像:Kanachu Ya4 Big Bumper.jpg|大型バンパーの全体俯瞰
ファイル:Kanachu-Step-Lift.JPG|「新ステップ車」は前扉にリフトを設置
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=== 廃車車両の譲渡 ===
=== 廃車車両の譲渡 ===
神奈中で役目を終えた廃車車両の多くは、日本国内の地方事業者へ譲渡されている。同社は[[京阪バス]]・[[西武バス]]と共に古くから全国の地方事業者に廃車車両を供給していること知られている。特に6~8年程度で廃車にしていた1990年前後は多くの車両が地方バス事業者へ転出し、これらの車両は地方バスの冷房化率向上にも貢献している。さらに[[2007年]](平成19年)頃からは中型車の廃車も始まり、こちらも全国の地方事業者へ大量に譲渡されている。
神奈中は[[京阪バス]]・[[西武バス]]と共に、日本の地方事業者に廃車車両を供給しており<ref name="rj238-134"/>、「廃車車両の譲渡先数が日本一」と評されたことも<ref name="rj238-134"/>。特に6~8年程度で廃車にしていた<ref name="br68-55"/>1990年前後は多くの車両が地方バス事業者へ転出し、これらの車両は地方バスの冷房化率向上にも貢献している。<!--中型車大量にではないけれど以前から廃車後に譲渡された事例はありましたよ-->


また、[[ミャンマー連邦|ミャンマー]]や[[フィリピン共和国|フィリピン]]・[[ニュージーランド]]・[[インドネシア]]など、海外へも大量に輸出されている。
また、[[ミャンマー連邦|ミャンマー]]や[[フィリピン共和国|フィリピン]]・[[ニュージーランド]]・[[ラオス]]など、海外へも輸出されている。
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File:524-3693-JR-Hokkaido-P-MP118N.jpg|[[ジェイ・アール北海道バス|北海道旅客鉄道(当時)]]への譲渡車<br/>撮影:帯広営業所
ファイル:524-3693-JR-Hokkaido-P-MP118N.jpg|[[ジェイ・アール北海道バス|北海道旅客鉄道(当時)]]への譲渡車<br/>撮影:帯広営業所
File:K-MP118N KitamiBus ffrom Kanachu.jpg|[[北海道北見バス|北見バス]]への譲渡車<br/>撮影:北見駅前
ファイル:K-MP118N KitamiBus ffrom Kanachu.jpg|[[北海道北見バス|北見バス]]への譲渡車<br/>撮影:北見駅前
File:Akan-bus 109.jpg|[[阿寒バス]]への譲渡車<br/>貸切車を路線車に転用<br/>撮影:阿寒バス弟子屈営業所
ファイル:Akan-bus 109.jpg|[[阿寒バス]]への譲渡車<br/>貸切車を路線車に転用<br/>撮影:阿寒バス弟子屈営業所
File:K-MP118N-Asaden.jpg|[[旭川電気軌道]]への譲渡車<br/>撮影:旭川駅前
ファイル:K-MP118N-Asaden.jpg|[[旭川電気軌道]]への譲渡車<br/>撮影:旭川駅前
File:AkitaChuoKotsu 729.jpg|[[秋田中央交通]]への譲渡車<br/>撮影:秋田駅西口
ファイル:AkitaChuoKotsu 729.jpg|[[秋田中央交通]]への譲渡車<br/>撮影:秋田駅西口
File:Iwatekenkotsu-yokohamaline-iwt200ka972-20070730.jpg|[[岩手県交通]]への譲渡車<br/>撮影:横浜駅東口バスターミナル
ファイル:Iwatekenkotsu-yokohamaline-iwt200ka972-20070730.jpg|[[岩手県交通]]への譲渡車<br/>撮影:横浜駅東口バスターミナル
File:K-U31L-Kanto-J-from-Kanachu.jpg|[[関東自動車 (栃木県)|関東自動車]]への譲渡車<br/>撮影:宇都宮駅前
ファイル:K-U31L-Kanto-J-from-Kanachu.jpg|[[関東自動車 (栃木県)|関東自動車]]への譲渡車<br/>撮影:宇都宮駅前
File:2627.JPG|[[群馬中央バス]]への譲渡車<br/>方向幕を改造<br/>撮影:伊勢崎営業所
ファイル:2627.JPG|[[群馬中央バス]]への譲渡車<br/>方向幕を改造<br/>撮影:伊勢崎営業所
File:BU10D-Tozan-B530.jpg|[[箱根登山バス|箱根登山鉄道(当時)]]への譲渡車<br/>撮影:小田原駅前
ファイル:BU10D-Tozan-B530.jpg|[[箱根登山バス|箱根登山鉄道(当時)]]への譲渡車<br/>撮影:小田原駅前
File:K-MS615S-Tokai-Bus-299.jpg|[[東海自動車]]への譲渡車<br/>貸切車を路線車に転用のため方向幕を増設<br/>撮影:下田営業所
ファイル:K-MS615S-Tokai-Bus-299.jpg|[[東海自動車]]への譲渡車<br/>貸切車を路線車に転用のため方向幕を増設<br/>撮影:下田営業所
File:Kumaden bus02.jpg|[[熊本電気鉄道]]への譲渡車<br/>塗装変更せずに導入<br/>撮影:熊本交通センター
ファイル:Kumaden bus02.jpg|[[熊本電気鉄道]]への譲渡車<br/>塗装変更せずに導入<br/>撮影:熊本交通センター
File:P-MP218M-Oki-Bus-from-Kanachu.jpg|[[沖縄バス]]への譲渡車<br/>撮影:那覇バスターミナル
ファイル:P-MP218M-Oki-Bus-from-Kanachu.jpg|[[沖縄バス]]への譲渡車<br/>撮影:那覇バスターミナル
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=== 薪バス「三太号」 ===
2000年(平成12年)以降は上記のほか、これまで神奈中中古とは無縁だった事業者([[北海道中央バス]]グループ・[[羽後交通]]・[[秋北バス]]・[[平成エンタープライズ]]・[[桜交通]]・[[茨城交通]]・[[越後交通]]グループ・[[富山地方鉄道]]・[[加越能鉄道]]・[[北陸鉄道]]グループ・[[サンデン交通]]・[[中国バス]]・[[中国ジェイアールバス]]・[[おのみちバス]]・[[西肥自動車]]・[[佐世保市交通局]]・[[大分交通]]・[[西表島交通]]など)への譲渡も増加している。
{{main|三太号}}


=== 車両塗装 ===
=== 車両塗装 ===
名称は一般的に呼ばれているものであり、正式なものではない。一部にラッピングのものも含まれる。
名称は一般的に呼ばれているものであり、正式なものではない。一部にラッピングのものも含まれる。
; 標準色
黄色(に近いクリーム色)+下部赤色+赤色と橙色の帯。なお、1987年(昭和62年)中の短期間、現行の塗り分けに決まるまで車体前面上部に赤色が掛かるなど細部に変遷が見られた。
; 波線カラー(旧塗装)
現在の標準色になる前のもので、下部の赤色が波線になっている。前面などにも差異がある。
; 神奈交色
白色の車体に、各神奈交指定色が前方~中央車体下部及び後方全体に塗られている。また大きくKANAKO BUSのロゴが入る。
* 新車として神奈交バスが購入した車両のみに施される塗装なので、数は非常に少ない。
* 各社の色は、湘南が黄橙、横浜が濃い青、藤沢が淡い青、相模が明るい青緑、津久井が深緑で、海や川、山など、各地をイメージした色になっているものと思われる。
; ブルーイエロー(B&Y色)
水色、青色などの車体に白と紺の波線、車体中央部にカモメをイメージした黄色のマークが3連あり、橙色で''Kanagawa Chuo''とロゴが入る。元々は夜行高速バス用の塗装である。
* 初期に導入されたノンステップ車、[[ワンロマ]]車に多い。
* 多摩営業所のCNGノンステップは、黄色のカモメが省略されているため、下記のカラーに近い。
; 青色 (ワンロマ色)
青色または紺色に白の波線、橙色で''Kanagawa Chuo''とロゴが入る。
* 基本的に上記のカラーと似ているが、異なる箇所が多い。なお、車体色が薄い青の車は「[[ポカリスエット]]」のデザインに酷似している。
* ワンロマ車に多いが、これは元々環境保護キャンペーンで運行した「[[スヌーピー]]バス」の契約期間が切れたため、キャラクターのラッピングをはがし、白い帯を入れたものである。なお、「スヌーピーバス」の時から白い帯が入っていた車両もあったため、帯はそれらの車両に合わせたものとなっている。
; 茶色(「YAMATE LINER」色)
茶色の濃淡にロゴが入る。
* [[2007年]](平成19年)4月に[[横浜市交通局]]より移管された舞岡営業所11系統用に'YAMATE LINER'とロゴが入ったものが登場。後に11系統にはノンステップ車を運用する事になり、それまで11系統で使用していたワンステップ車は3台を除き11系統の運用を外れ、それらの車両は塗色はそのままでロゴのみが'KANACHU-BUS'に書き換えられたものとなっている。
; ツインライナー色
ピーチピンク1色に窓周りは黒で、ロゴが入る。
; 特定色
白色+下部赤色+青色の帯
* 標準色の色違いのようなものだが、細部が異なる。主に特定車で使用されている。かつての観光用車の塗装に準じたものである。
; スヌーピーバス
[[江ノ島電鉄|江ノ電バス]]と共同の環境保護キャンペーンの一環で、当時導入したワンロマ車を青く塗装し、スヌーピー達をラッピングしたもの。数種類が存在していた。
* 契約終了後全車が上記の「青色」となったが、白帯や神奈中ロゴが入らずに完全な青一色で運行された期間もあった。
* 江ノ電では在来車を塗装変更した緑色のスヌーピーバスを運行したが、契約終了後は緑色に白帯のバスとなった。3台が存在したが、既に廃車済みである。
; 空港リムジン色
グレーに上半分が水色。窓の下と屋根に"Kanagawa Chuo(横浜神奈交車はYokohama Kanako Bus) AIR EXPRESS SALOON"ロゴが入る。
; 自転車ラックバス
前面がオレンジ、側面がオレンジと白のツートンカラー。「BICYCLE CARRIER」のロゴも施されている。


==== 一般路線車の標準色 ====
この他、初代カナちゃん号、2代目かなちゃん号・リフト車色・リフト車色(町田)・湘南めぐみが丘色・まちっこ色・その他ふじみ号・かわせみ号など各コミュニティーバス専用色などがある。
1949年の新車から採用された<ref name="50-38"/>。黄色に近いクリーム色<ref name="50-38"/>+下部赤色+赤色と橙色の帯。当初は下部の赤色が波形になっており、前面などにも差異があったが、1987年から直線的なデザインに変更された<ref name="bj23-24"/><ref group="注釈">ごく短期間、現行の塗り分けに決まるまで車体前面上部に赤色が掛かるなど細部に変遷が見られた。</ref>。波形デザインの車両は1999年6月30日に廃車となった「さ154」が最後であった<ref name="80-126"/>。2004年からは正面の社紋が「かなちゅう」ロゴマークに変更された<ref name="bj57-30"/>。
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ファイル:K-MP118N Kanachu O77.jpg|旧塗装(お77)
File:P-MP218N-Kanachu-A79.jpg|1987年より採用された塗り分け。初期は赤が目立つものだった(あ79)
File:K-MP118N Kanachu O77.jpg|お77)
ファイル:KL-UA452MAN Kanachu Ha064.jpg|1987年より採用されたり分け。は064)
ファイル:P-MP218N-Kanachu-A79.jpg|1987年より採用された塗り分け。初期は赤が目立つものだった(あ79)
File:KL-MP35JM-Kanako-FK001.jpg|神奈交色(藤沢神奈交バスFK002)
File:KC-MP717M Kanachu A4 BlueYellow.jpg|ブルーイエロー(あ4)
File:KC-MP717M-Kanachu-Se27.jpg|青色・元「スヌーピーバス」(せ37)
File:PJ-MP35JM-Kanachu-o67-YAMATE-LINER.jpg|茶色「YAMATE LINER」色(お67)
File:Mercedes-Benz O530 CITARO-G Kanachu A201.jpg|ツインライナー色(あ201)
File:P-MK595J-Kanachu-I96.jpg|旧観光用色(い96)
File:P-MP218M Kanachu Ha87 Kanachango front 2.jpg|初代「カナちゃん号」(は87)
File:KL-MP35JM Kanachu Chi68 Kanachango front.jpg|2代目「かなちゃん号」(ち68)
File:KanagawaChuoKotsu ma197.JPG|町田営業所所属のリフト車色(ま197)
File:KL-MP35JM Kanachu Hi0165.jpg|湘南めぐみが丘色(ひ0165)
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=== 社番 ===
==== 神奈交色 ====
2002年4月1日から導入された<ref name="90-92"/>。白色の車体に、各神奈交指定色が前方から中央車体下部及び後方全体に塗られ、大きくKANAKO BUSのロゴが入るという、各車共通で色違いのデザインである<ref name="bj57-30"/><ref group="注釈">各社の色は、湘南が黄橙、横浜が濃い青、藤沢が淡い青、相模が明るい青緑、津久井が深緑。</ref>。新車として神奈交バスが購入した車両のみに施される塗装なので、数は少ない。
[[File:Mercedes-Benz O530 Kanachu in-house number.jpg|thumb|right|250px|車体外部の社番表示]]
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ファイル:湘南神奈交バス新色 か1004 秦野駅.JPG|湘南神奈交バス(か1004)
ファイル:Tsukui-Kanako.JPG|津久井神奈交バス (T-18)
ファイル:KL-MP35JM-Kanako-FK001.jpg|藤沢神奈交バス(FK002)
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==== 附番法則 ====
==== ギャラリーバス ====
[[1987年]]4月から26台導入されたギャラリーバスで<ref name="jtb726-105"/>、車体のベースカラーを白で統一し、風船を持った動物たちをデザイン<ref name="jtb726-105"/>。一般公募で「カナちゃん号」と命名された<ref name="70-57"/>。2001年には2代目の車両が登場<ref name="bj57-30"/>、愛称はひらがなで「かなちゃん号」となり<ref name="bj57-30"/>、車体のベースカラーはクリーム色に変わった<ref name="bj57-30"/>。
所属車両に付けられている社番は、神奈中直管の営業所に所属する場合は「平仮名一文字」+「4桁以内の数字」で構成され、平仮名部分は上記営業所一覧に記載の通り所属営業所を表す。数字部分については多少例外はあるものの、基本的には以下のルールで附番されている。
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* 1~299:路線車
ファイル:P-MP218M Kanachu Ha87 Kanachango front 2.jpg|初代「カナちゃん号」(は87)
*: ミニバス・コミュニティバスなどの特殊な車両は、営業所によっては201、202…などのきりの良い番号から附番される場合もある。
ファイル:KL-MP35JM Kanachu Chi68 Kanachango front.jpg|2代目「かなちゃん号」(ち68)
* 301~399:特定車(学校・企業・病院などの契約輸送用)
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* 501~599:貸切車(特定車と同様に契約輸送用)
* 601~699:[[神奈中観光]]車
* 701~799:夜行高速車
* 801~848:深夜急行・高速車
* 851~899:空港リムジン車
* 数字の頭に0('''ま02'''など):各神奈交バスへの管理委託車(車籍は神奈中本体のまま)
なお、42・49が付く番号及び400・900番台は忌番とされ、附番される事はない。


==== バスロションシステムにおける社番表示 ====
==== 夜行高速バス色(ブルーイエロー ====
1989年に初めて採用<ref name="bj57-31"/>。青色の車体にハイウェイをイメージした白と紺の波線、車体中央部にカモメをイメージした黄色のマークが3連あり、橙色で''Kanagawa Chuo''とロゴが入る。その後1997年からは貸切兼用車(ワンロマ車)に<ref name="br68-62"/>、1998年からはノンステップバスの車体色としても採用された<ref name="br68-61"/>。社内では「ブルーイエロー」と呼ばれている<ref name="br68-61"/>。
{{Double image aside|right|Kanachu-Bus-Number-for-Location-System.jpg|210|Bus Location mobile Kanachu on Congestion.jpg|120|バスロケーションシステム導入車両の車内に貼付されている社番の表示|携帯バスロケでは車両番号で当該車両の到着予想時刻が参照できる}}
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ファイル:P-MS729SA-Kanachu-A701.jpg|夜行高速バス色(あ701)
ファイル:KC-MP717M Kanachu A4 BlueYellow.jpg|ブルーイエロー(あ4)
ファイル:KL-MP37JK Kanachu I89 nonstep.jpg|ブルーイエロー(ノンステップバス)(い89)
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==== ミニバス色 ====
[[バスロケーションシステム]]のモバイル版では、現在乗車しているバスにおいて社番を入力する事で、その先の各停留所の到着予想時刻を参照したり、[[電子メール]]で送信する事が可能である。このため、バスロケーションシステム導入車両の車内には社番がステッカーで車内の数か所に貼付されている。通常、バスの社番は関係者や[[バスファン]]が用いる程度であるが、神奈中のバスロケーションシステム導入路線においては、利用者全般に提供される情報となっている。
1997年に藤沢市でミニバス路線を開設した際に採用された<ref name="bj57-30"/>。アヒルのイラスト入りだが、イラストが入っていない車両もある<ref name="br68-61"/>。
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ファイル:KC-RX4JFAA Kanako Ka1011 front.jpg|ミニバス色(か1011)
ファイル:KK-MJ26HF kai Kanachu Sa32 front.jpg|ミニバス色(さ32)
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==== 空港リムジン色 ====
なお、システム上では神奈中・神奈交委託車の区別はされておらず、神奈交委託車の頭の0番(や'''0'''5等)は入力しなくても表示され(例えば神奈交委託の'''ま0128'''は、'''ま128'''でも同じ表示がされるし、神奈中本体の'''あ86'''は、'''あ086'''でも同じ表示がされる)。<!--また、バスロケシステム導入後に神奈交バスへ委託された一部の車両など、委託前のステッカーをそのまま使用するために、頭に0が表記されていない場合がある。--ステッカーの枠は3桁分しかないので、頭に0はつけていない-->
1999年から採用され<ref name="bj57-31"/>、グレーに上半分が水色。窓の下と屋根にロゴが入る<ref group="注釈">神奈中の車両では "Kanagawa Chuo AIR EXPRESS SALOON" となるのに対し、横浜神奈交バスの車両では "Yokohama Kanako Bus AIR EXPRESS SALOON" となる。</ref>。横浜神奈交の車両は側面の社名ロゴが異なる点で識別可能<ref name="bj57-31"/>。
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ファイル:Kanachu SA852 air-express-saloon.jpg|神奈中空港リムジン色(さ852)
ファイル:Yokohama-kanakobus YK8112 air-express-saloon.jpg|横浜神奈交バスリムジン色 (YK8112)
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=== 車両その他 ===
==== スヌーピーバス ====
沿革節で述べた環境保護キャンペーンの一環で、ワンロマ車を青く塗装し、スヌーピーや他の登場人物をラッピングしたもの<ref name="br68-60"/>。1997年に導入した14台は図柄も1種類であったが、1998年に導入された26台ではベースの青を明るくし<ref name="br68-60"/>、夜行高速バス色のベース色と同色となった<ref name="bj57-31"/>ほか、キャラクターの図柄も2種類となった<ref name="br68-60"/>。契約終了後には白帯や神奈中ロゴが入らずに完全な青一色で運行された期間もあった。
各運転士は、自らが所属する営業所長から乗務車両を任命され、その車両の専属乗務や簡単な車両管理などを行う'''担当車制'''を採用している。そのためか、“自分のクルマ”に愛着がある運転士も多く、運転士によっては車両を良く磨いたり清掃を行っていたりするため、廃車間際の車両であっても新車のような美しい外見を保っていることもある。なお、勤続年数(年功)の若い運転士や嘱託運転士を中心とする一部の運転士は担当車のないフリー運転士とされ、フリー運転士は担当運転士の休暇などで開いている車両に乗務する。
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ファイル:KC-MP717M Kanachu Hi132 SNOOPY BUS Charter.jpg|スヌーピーバス 1997年式(ひ132)
ファイル:KC-MP717M Kanachu A151.jpg|元スヌーピーバス 1997年式(あ151)
ファイル:KC-MP717M-Kanachu-i-25-1.jpg|元スヌーピーバス 1998年式(い25)
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==== ツインライナー色 ====
また、車両の新車は勤続年数の長い(年功の古い)運転士や班長・副班長運転士など乗務成績の良い運転士から割り当てられる事が多い。その中で、[[1987年]](昭和62年)4月から運行されたギャラリーバス「カナちゃん号」については、車体外装全面の下地色を白で統一し、可愛らしいキャラクターをあしらう斬新な塗装であった他、小規模な営業所(当時の津久井営業所など)には1台しか配置されなかった事から、導入当初カナちゃん号に乗務する事になった乗務員の中には「恥ずかしいので運転したくない」と思っていた人が少なからずいたとの話がある。
ベースカラーはピーチピンク1色<ref name="bj57-30"/>。窓周りは黒で、ロゴが入る。
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ファイル:Kanagawa-Chuo-Kotsu-TwinLiner-N4421.jpg|ツインライナー色(ち202)
ファイル:Mercedes-Benz O530 CITARO-G Kanachu A201.jpg|ツインライナー色(あ201)
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==== 貸切色 ====
== 運賃の支払い方法 ==
1953年6月に導入された車両から導入された<ref name="50-47"/>、白地に赤と青の塗り分け<ref name="br68-65"/>。このカラーリングは、その後養護学校用のスクールバス車両に用いられている<ref name="br68-64"/>。1989年にはスーパーハイデッカーの導入とともに新デザインが採用された<ref name="bj23-31"/>が、1997年以降は小田急グループ統一デザインに変更された<ref name="bj57-31"/>。
均一路線や多区間運賃区間などを抱えるため、幾つかの運賃支払い方法が存在する。
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; 前払い均一運賃
ファイル:P-MK595J-Kanachu-I96.jpg|旧貸切色(い96)
* 前扉から乗車して運賃を支払い、中扉から降車する。通常、運賃支払いは'''両替'''方式(横浜・舞岡・大和営業所の場合は'''つり銭'''方式)。
ファイル:Kanachu-kanko H-0622 Queen-II.jpg|1993年に導入された新貸切色(H-0622)
; 前払い多区間運賃
ファイル:Kanachu-kanko H-0615 Queen-III.jpg|1997年以降は小田急グループ統一デザイン(H-0615)
* 前扉から乗車して、降車停留所を申告し運賃を支払い、中扉から降車する。通常、運賃支払いは'''両替'''方式(横浜・舞岡・大和営業所の場合は'''つり銭'''方式)。
ファイル:Kanagawaken-kanko Y-0615.jpg|2000年に傘下に入った神奈川県観光の色 (Y-0615)
*: ほとんどの乗客が終点まで乗り通す系統での朝ラッシュ時にしばしば用いられている。また、均一路線周辺及び均一路線と周辺を跨ぐ路線でも用いられている。
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; 後払い均一運賃
* 中扉から乗車し、降車時に運賃を支払い、前扉から降車する。運賃支払いは'''両替'''方式。
; 後払い多区間運賃
* 前扉から乗車し整理券を取り、降車時に運賃を支払い、前扉から降車する。通常、運賃支払いは'''両替'''方式。
* カードの場合は、乗車時にカードを'''車両前側'''(橙色)の挿入口から通す。この際に整理券番号の情報が記録される。その後降車時に再びカードを'''客席側'''(黄緑色)の挿入口から通す。
; 後払い多区間運賃(伊勢原営業所の場合)
* 中扉から乗車し、中扉に設置された整理券発行機から整理券を取る。降車は上記と同一。
* カードの場合も中扉に設置されたカードリーダーに通す。この際に整理券番号の情報が記録される。降車は上記と同一。


==== リフト付路線バス ====
後払いで起点から1運賃区間(整理券なし)の停留所で乗車の場合は、整理券を取る必要がない(カードに整理券番号の情報を記録する必要がない)ため、整理券発行機・カードリーダーのない車両でも『しめきり』と表示してある中扉から乗車する事が少なくない<!--券なし区間でも前扉からの乗車となるケースも存在する-->(伊勢原営業所の車両以外は整理券発行機・カードリーダーが中扉に設置されていない)。
1994年に[[神奈川県総合リハビリテーションセンター]]と共同開発した<ref name="br68-61"/>車両は青をベースとしたデザイン。一方、1996年に東京都の補助金により導入した車両は白地に水玉模様<ref name="br68-61"/>。
: このため、後払い路線において途中停留所からカードを通さずに乗車し降車時にそのままカードを通したり、乗車の際客席側の挿入口から通した場合には、起点からカードを通した停留所までの運賃が引かれてしまう。
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ファイル:U-UA440LAN-Kanachu-I110.jpg|伊勢原営業所所属のリフト車色(い110)
ファイル:KanagawaChuoKotsu ma197.JPG|町田営業所所属のリフト車色(ま197)
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==== その他 ====
停留所ポールの下部にある「ワンマンバス利用上のお願い」には乗り降り方法と運賃支払い方法が表の形になっており、そこでも確認できる。それぞれ「全線1区の区間」(上記の前払い均一料金)、「2区以上の区間」(上記の後払い多区間運賃)の利用方法を掲出している。2区以上の区間の場合、乗り降り方法が「前扉から乗車して前扉から降車して下さい。」と掲出されているが、実際には中扉から乗車する事があるのは上記の通り。
; YAMATE LINER:茶色の濃淡にロゴが入る。[[2007年]]4月に[[横浜市交通局]]より移管された舞岡営業所11系統用に登場<ref name="90-38"/>。後に11系統にはノンステップ車を運用する事になり、それまで11系統で使用していたワンステップ車は3台を除き11系統の運用を外れ、それらの車両は塗色はそのままでロゴのみが'KANACHU-BUS'に書き換えられたものとなっている。
; 自転車ラックバス:前面がオレンジ、側面がオレンジと白のツートンカラー。「BICYCLE CARRIER」のロゴも施されている。


この他、各コミュニティバス専用色などがある。
=== 例外 ===
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例外として'''町71'''系統([[町田バスセンター]]~[[中山駅 (神奈川県)|中山駅]]北口)は、町田バスセンターから[[青葉台駅]]まで後払い(上記後払い多区間運賃の伊勢原営業所以外)、青葉台駅から中山駅北口まで先払い(上記前払い均一運賃大和営業所の場合)で、町田~青葉台・青葉台~中山相互間を乗り通す場合、乗車時と降車時で運賃支払い方法が異なってしまう。これは青葉台~中山間が[[横浜市営バス]]・[[東急バス]]との共同運行区間であるため。なお、この系統の乗車方法は以下の通り。
ファイル:PJ-MP35JM-Kanachu-o67-YAMATE-LINER.jpg|YAMATE LINER(お67)
; 町田~青葉台→青葉台~中山方面 (乗車時は後払い→降車時は前払い)
ファイル:PKG-MP35UM Kanachu Chi87 bicycle carrier open.jpg|自転車ラックバス(ち87)
* 前扉から乗車し整理券を取り(最初の一区は中扉から無券乗車)、青葉台駅到着時に乗車全区間の運賃を支払う。降車時は中扉からそのまま降車。
ファイル:KL-MP35JM Kanachu Hi0165.jpg|「湘南めぐみが丘」色(ひ0165)
; 中山~青葉台→青葉台~町田方面 (乗車時・降車時ともに前払い。朝9時台以前に町田に到着する便)
ファイル:Kanachu MA131 machikko.jpg|まちっこ(ま131)
* この場合のみ上記の前払い多区間運賃制度の場合と同じで、前扉から乗車する際に降車停留所を乗務員に伝えてから運賃を支払う。降車の際は中扉からそのまま下車する。
ファイル:KK-ME17DF-Kanachu-A12.jpg|愛川町循環バス(あ12)
; 中山~青葉台→青葉台~町田方面 (乗車時は前払い→降車時は後払い。朝10時台以降に町田に到着する便)
ファイル:SagamiKanakoBus SK2014 Seseragigo.JPG|相模原コミュニティバス(SK2014)
* 前扉から乗車する際に青葉台駅より先まで乗車する旨(降車停留所名)を乗務員に伝え、運賃を支払わずに乗車する。その後、後払い区間での降車(前扉から)時に中山方面から乗車した旨を伝え、乗車した区間の運賃を全額支払う。現在は平日中山発の最終便のみ。
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=== 車両番号(社番) ===
なお、これは神奈川中央交通により公式に発表されているものではなく。大和営業所や乗務員による一般的な取扱例である。実際に乗車する際には、乗務員に確認を取ってから運賃を支払うのが望ましい。しかし、同系統の運行回数が少ない事や青葉台駅で乗客のほとんどが入れ替わるなどの理由により、上記例外に遭遇する事は稀である。
{{Triple image|right|Mercedes-Benz O530 Kanachu in-house number.jpg|180|Kanachu-Bus-Number-for-Location-System.jpg|180|Bus Location mobile Kanachu on Congestion.jpg|90|車体外部の社番表示|バスロケーションシステム導入車両の車内に貼付されている社番の表示|携帯バスロケでは車両番号で当該車両の到着予想時刻が参照できる}}
所属車両に付けられている社番は、神奈中直管の営業所に所属する場合は「平仮名一文字」+「4桁以内の数字」で構成され、平仮名部分は上記営業所一覧に記載の通り所属営業所を表す<ref name="br68-56"/>。数字部分については多少例外はあるものの、基本的には以下のルールで附番されている。
* 1~299:路線車<ref name="br68-56"/>
*: ミニバス・コミュニティバスなどの特殊な車両は、営業所によっては201、202…などのきりの良い番号から附番される場合もある。
* 301~399:特定車(学校・企業・病院などの契約輸送用)<ref name="br68-56"/>
* 501~599:貸切車(特定車と同様に契約輸送用)<ref name="br68-56"/>
* 601~699:[[神奈中観光]]車
* 701~799:都市間高速車<ref name="br68-56"/>
* 801~848:深夜急行用<ref name="br68-56"/>
* 851~899:空港路線用<ref name="br68-56"/>
* 数字の頭に0('''ま02'''など):各神奈交バスへの管理委託車(車籍は神奈中本体のまま)<ref name="br68-56"/>
廃車の際には、代替される新車へ番号が引き継がれる<ref name="br68-56"/>。


なお、[[バスロケーションシステム]]のモバイル版では、現在乗車しているバスの車両番号を入力する事で、その先の各停留所の到着予想時刻を参照したり、[[電子メール]]で送信する事が可能である<ref>{{cite web|title=携帯電話・パソコンでリアルタイム情報発信|publisher=神奈川中央交通|format=PDF|language=日本語|url=http://www.kanachu.co.jp/news/2007/pdf/goriyou_houhou.pdf|accessdate=2012-04-25}}</ref><ref group="注釈">システム上では神奈中・神奈交委託車の区別はされておらず、神奈交委託車の頭の0番(や'''0'''5等)は入力しなくても表示される。</ref>。
また、他の例外として、平塚駅南口発着の循環線に始発乗車は後払い、途中乗車は先払いという混在した支払方法も存在する。

== 付記 ==
* 収支改善のための努力として、ほぼ全車で[[傘]]の販売を実施している他、横浜地区を除き中型車(基本的には各神奈交バス・委託車)に売店スペースを設置したり、い25・、い65号車に飲料[[自動販売機]]を試験的にではあるが設置していた事など、車販をするバス会社としても有名であった。なお、傘など一部を除く車内物販については[[2008年]](平成20年)[[3月31日]]をもって廃止となった<!--この頃に神奈中ストアが全店撤退(神奈中商事の小売店舗全廃)-->。
* 停留所の[[時刻表]]は、[[1990年]](平成2年)頃からダイヤ作成システムでの印刷出力様式となったが、経由・行先共6文字に制限されていたため、長い行先や経由地の場合は妙な省略がされる事が多かった。例えば、「相武台グリーンパーク行」→「グリンパーク行」、「山崎団地センター」→「山団センター」などはまだ正式名称が想像できるが、「京急ニュータウン行」→「京急行」、「ヨーカドー・中沢橋経由」→「ヨ・中沢橋経由」など、地元利用者でなければ理解が困難な表記もあった<!--小田急時刻表1991年ダイヤ改正号ではこのまま掲載された-->。また、経由欄には必ず「経由」という文字列が、行先欄には「行」の文字が入ったため、「直通経由」「急行経由」「北循環行」という表記もあった。しかし、[[2000年]](平成12年)頃のシステム更新によりこれらの妙な省略表記は解消された。但し、「山団センター」の表記はダイヤ作成システム稼動以前から車両の方向幕やLEDでも用いられており、定着しているとみなされて現在でも使用されている。なお、「愛川ふれあいの村野外センター前」は、業務上の表示等で「野外センター前」と略記されているが、なぜか時刻表サイトではこの略記でないと検索できない。
{{Double image aside|right|Kanachu Bus Stop Type-Shirayuri.jpg|180|Kanako Bus Stop.jpg|180|神奈川中央交通で主に使用される「しらゆり型」バス停ポール|一部で使用されるバス停ポール}}
* 一部停留所などで掲載している時刻表に、「基本様式」と違う独自様式のものを用いている事がある。独自様式は厚木営業所管内で多く見られる。また、同じ「基本様式」でもサイズや色が違う場合もあり、中でも[[町田バスセンター]]の町田営業所担当の乗り場に掲出されている時刻表はそのポールにより様々な色が使用されている。なお、独自様式であっても「基本仕様」の時刻表に似せて作成されている事が多い。他にも、掲出する時刻表の多さやスペースの都合により、非常に小さく印刷された時刻表が使用される場合があり、町田営業所管内などで多く見られる。[[町田市]]の「市民ホール前」停留所や[[稲城市]]にある「於部屋」停留所など、時刻表の高さがA6判程度の大きさより小さくなってしまう場合もある。
* 各乗務員は、基本的に発車時に「'''左よし、下よし、右よし'''」という[[指差喚呼|指差呼称]]を行っている。これは他社ではあまりされていなかった発車時の指差呼称を行うことによって事故などを防ごうというものである。他の事故対策などで乗客に見る事ができるものは「安全鉄則 '''先ず止まれ'''」と書かれたプレートが運転席近くに設置されている事や、『'''回送時もスピードをおさえる'''』のスピードメーターの上に張られているピンクに黒字で印刷されたテープが挙げられる。なお、「下よし」の呼称はかつて下方不注意による死亡事故が発生し、その教訓から成された呼称である。なお、営業所や乗務員によっては「左よし、下よし、前方よし、右よし」の四方確認や、右後方確認などの呼称を行う事がある。
* [[方向幕]]はごく一部を除いて[[発光ダイオード|LED表示器]]であり、方向幕の車両も2004年(平成16年)頃の改造開始から3年程度でLED表示器に載せ変えた。これは、路線開設や廃止などによる幕交換や、ほこりなどで汚れた幕の清掃を省略するためで、また音声合成放送放置の導入も予定されていたことから、それに先駆けて行われた。なお、通常は方向幕に[[終車灯|終バス灯]]などを点灯させない。
* 車内放送は長らく8トラテープを使用していたが、2005年(平成17年)10月より[[クラリオン]]製の音声合成装置が導入され、2008年(平成20年)3月までに設置が完了した。ただし、高速路線車やコミュニティバスなどではそれ以前より音声合成化されていた。
* 1日数本から週1本など、本数の少ない路線や、大型・中型車で運行される狭隘路線も多く存在する。
* 昭和30年代に平塚駅から伊勢原市大山までトロリーバスの運行を計画した事があったが、道路事情の悪さから道路を管理する神奈川県が難色を示し、中止となった。
[[File:KanaCh-Monitor.JPG|thumb|180px|「かなch.」のモニター]]
* 2011年10月1日より、[[神奈川中央交通横浜営業所舞岡操車所|舞岡操車所]]の路線バス50台の運転席後方にモニターを設置し、ニュース・天気予報・広告などを放映する「かなch.」というサービスを開始した。<ref>http://www.kanachu.co.jp/news/pdf/release_20110930.pdf</ref>


== 関連会社 ==
== 主なグループ会社 ==
=== 連結子会社 ===
=== 連結子会社 ===
==== バス ====
==== バス ====
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==== その他 ====
==== その他 ====
* [[神奈中商事]] - グループでの資材一括調達、かなちゅうクリーニング、[[JX日鉱日石エネルギー|ENEOS]][[ガソリンスタンド]]の経営など
* [[神奈中商事]] - グループでの資材一括調達、かなちゅうクリーニング、[[JX日鉱日石エネルギー|ENEOS]][[ガソリンスタンド]]の経営など
* 神奈中タクシーホールディングス - 神奈中ハイヤー・相模中央交通の統合を目的として2009年(平成21年)9月に設立された
* 神奈中タクシーホールディングス - 神奈中ハイヤー・相模中央交通の統合を目的として2009年9月に設立された
** [[神奈中ハイヤー]]
** [[神奈中ハイヤー]]
** [[相模中央交通]]
** [[相模中央交通]]
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== データ ==
== データ ==
=== 大株主の状況(2007年9月30日現在) ===
=== 大株主の状況(2007年9月30日現在) ===
* ※[[小田急電鉄]]株式会社 - 44.23%
神奈川中央交通は、小田急電鉄の持分法適用関連会社である。
* [[小田急電鉄]]株式会社 - 44.23%
* 株式会社[[横浜銀行]](常任代理人:[[資産管理サービス信託銀行]]株式会社) - 4.92%
* 株式会社[[横浜銀行]](常任代理人:[[資産管理サービス信託銀行]]株式会社) - 4.92%
* [[日本トラスティ・サービス信託銀行]]株式会社([[三井アセット信託銀行]]再信託分・[CMTBエクイティインベストメンツ]株式会社信託口) - 1.83%
* [[日本トラスティ・サービス信託銀行]]株式会社([[三井アセット信託銀行]]再信託分・[CMTBエクイティインベストメンツ]株式会社信託口) - 1.83%
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* [[第一生命保険]]相互会社 - 1.59%
* [[第一生命保険]]相互会社 - 1.59%
* [[横浜ゴム]]株式会社 - 1.59%
* [[横浜ゴム]]株式会社 - 1.59%

※神奈川中央交通は、小田急電鉄の持分法適用関連会社である。
=== 年表 ===<!--どのような本でも、年表はたいていの場合は巻末資料という扱いですから、記事の最後の方に置く方がよいはずです-->
* [[1921年]][[6月5日]] - '''相武自動車株式会社'''設立<ref name="50-8"/>。
*: 当時の横浜市大岡地区では乗合自動車を始める者が乱立し、競争が繰り広げられていた。この無益な競争に終止符を打つべく、関係者が同社を設立し整理統合を行った。
* 1921年[[10月29日]] - 金沢自動車運輸より路線承継(滝頭~杉田~瀬戸~[[逗子市|逗子]]間)。
* [[1928年]]7月 - [[梁瀬長太郎]]([[ヤナセ]]創業者)が社長に就任。
* [[1931年]]11月 - 鶴屋商会([[1919年]]5月創業、[[戸塚駅|戸塚]]~[[厚木市|厚木]]間の乗合自動車を運営)の大木敏行が買収。杉田~逗子間を湘南乗合自動車へ譲渡(現在の[[横浜京急バス]]のルーツ)。
* [[1936年]]12月 - 鶴屋商会及び戸塚自動車商会(戸塚~岡津間)を合併<ref name="bj23-17"/>。
* [[1937年]][[1月12日]] - '''相武鶴屋自動車株式会社'''に商号を変更<ref name="bj23-17"/>。
* [[1938年]]5月 - 東京横浜電鉄(現在の[[東京急行電鉄]])に買収され、同社の傘下に入る<ref name="50-16"/>。
* [[1939年]][[6月16日]] - 中央相武自動車を合併、'''東海道乗合自動車株式会社'''に商号変更。
* [[1941年]][[12月15日]] - 同じ東横傘下の関東乗合自動車及び[[江ノ島電鉄|江ノ島電気鉄道]]の一部路線を譲受。
* [[1942年]]2月 - 秦野自動車(1921年8月設立、[[秦野市|秦野]]~平塚間、秦野~[[二宮町 (神奈川県)|二宮]]間他)を合併<ref name="bj23-18"/>。
* [[1943年]]4月 - 東京急行電鉄、神奈川県下の陸上交通統制の趣旨に基づき、伊勢原自動車及び藤沢自動車を買収。
* [[1944年]][[5月31日]] - 東海道乗合自動車は伊勢原自動車及び藤沢自動車を合併<ref name="bj23-18"/>。
* 1944年[[6月16日]] - '''神奈川中央乗合自動車株式会社'''に商号を変更<ref name="bj23-18"/>。
* 1944年[[11月28日]] - [[相模鉄道]]及び江ノ島電気鉄道の乗合自動車事業を譲受(3月に譲渡契約を締結。江ノ電バスはこれで消滅)<ref name="bj23-18"/>。
* [[1945年]]11月 - [[ハイヤー]]・[[タクシー]]事業を相模中央交通に譲渡。
* [[1948年]]6月1日 - 東京急行電鉄の再編成に伴い、同社より分離・新発足した小田急電鉄の傘下会社になる<ref name="bj57-21"/>。
* 1949年5月 - [[東京証券取引所]]に上場。
* 1949年6月20日 - 江ノ島電気鉄道に一部路線を譲渡(江ノ電バスの復活)<ref name="bj23-19"/>。
*: 藤沢駅~七里ヶ浜~鎌倉駅間、藤沢駅~[[本鵠沼駅]]~辻堂駅間(旧来の江ノ電路線)
*: 藤沢駅~深沢~鎌倉駅間、鎌倉駅~[[大船駅]]~日野~[[弘明寺駅 (京急)|弘明寺]]間、大船駅~飯島~戸塚駅裏口間
* [[1950年]][[5月31日]] - 相模中央交通を合併してハイヤー・タクシー事業を再び兼業する。
* [[1951年]][[6月29日]] - '''神奈川中央交通株式会社'''に商号を変更<ref name="bj23-20"/>。
* 昭和30年代に平塚駅から伊勢原市大山までトロリーバスの運行を計画した事があったが、道路事情の悪さから道路を管理する神奈川県が難色を示し、中止となった。
* [[1965年]]2月1日 - 伊勢原営業所・茅ヶ崎営業所の管内全路線で[[ワンマン運転|ワンマン運行]]を開始<ref name="60-49"/>。多区間運賃路線での整理券方式によるワンマン化は日本では初めて<ref name="bj57-22"/>。
* [[1970年]][[7月27日]] - [[鶴川駅]]~鶴川団地線に日本初の[[深夜バス]]を運行開始<ref name="bj23-23"/>。当時は運賃は3倍<ref name="bj8-43"/>、定期券は利用不可であった<ref name="bj8-43"/>。
* [[1973年]]4月 - ハイヤー・タクシー事業を[[神奈中ハイヤー]]に譲渡。
* [[1974年]]5月 - ヤビツ峠線のワンマン化に伴い、全路線のワンマン化が終了<ref name="bj23-21"/>。
* [[1976年]][[5月1日]] - [[藤野町]](現・相模原市)の路線で[[フリー乗降制|自由乗降区間]]を初めて設定<ref name="bj23-23"/>。以後順次導入路線を拡大。
* [[1978年]][[9月26日]] - 路線バス車両にデジタル式[[運賃表示器]]の導入開始<ref name="70-162"/>。
* [[1979年]][[5月21日]] - 路線バス車両に冷房車の導入を開始<ref name="70-164"/>。
* [[1980年]]9月9日 - 路線バス車両に大型方向幕の導入を開始<ref name="70-167"/>。
* [[1981年]] - 開業60周年を記念し、薪バス「三太号」を復元<ref name="70-164"/>。
* [[1986年]]4月1日 - 全系統に[[系統番号 (バス)|系統番号]]を附番<ref name="70-168"/>。横浜市内の均一運賃区間において、共通回数券を導入。
* [[1987年]]3月3日 - 一般路線バスの塗装を変更<ref name="70-168"/><ref group="注釈">但し、在来車の塗り変えは行われなかった。塗り変えるより車両置き換えの方が早く終了するためとされている。</ref>。
* 1987年4月 - ギャラリーバスの運行開始<ref name="70-168"/>。全社で26台導入し、すべての営業所に配置された。一般公募により、同年7月に「カナちゃん号」と命名された。
* 1987年5月29日 - 路線バス全車両が冷房車となった<ref name="70-169"/>。
* [[1988年]][[5月9日]] - 多区間運賃制の路線バスでは日本初となるバスカードシステムを平塚・伊勢原・秦野の各営業所で導入開始<ref name="70-170"/>。
* [[1989年]]2月28日 - 夜行高速バス運行開始<ref name="70-171"/>。
* 1989年12月22日 - 深夜急行バス運行開始<ref name="70-172"/>。
* [[1990年]][[3月26日]] - 横浜・舞岡・戸塚の各営業所での導入を最後に全路線へのバスカードシステム導入完了<ref name="70-172"/>。
* [[1992年]]9月25日 - [[極東開発工業]]と共同で、従来のツーステップバスをペースに前扉のステップにリフト機器を取り付けた新ステップ車の試作車が5台運行開始<ref name="80-120"/>。[[1993年]]3月にも10台の試作車が投入された。[[1994年]]から量産車を投入し、[[2000年]]までの大型車と中型車全車に取り付けた<ref group="注釈">但し、日野中型車を除くU-車は全車改造扱いで平成6年排出ガス規制適合(KC-)車に移行された[[1997年]]以降の[[いすゞ自動車|いすゞ]](富士架装車)、[[UDトラックス|日産ディーゼル(現・UDトラックス)]]車も改造扱いとなる。</ref>。
* [[1995年]]4月1日 - [[観光バス]]並びに事業を神奈中ハイヤーに譲渡<ref name="80-122"/>(現在の[[神奈中観光]])。
* [[1996年]]4月1日 - 一部路線並びに事業を[[湘南神奈交バス]]に譲渡<ref name="80-123"/>。
* 1997年[[9月20日]] - 環境保護キャンペーンの一環として「スヌーピーバス」の運行を開始<ref name="80-124"/>。同時に日本初の環境定期券制度を導入<ref name="80-124"/>。
* [[1999年]]6月30日 - 相模原所属のさ154号車が廃車<ref name="80-126"/>。これにより波形デザインの旧塗装車が全廃<ref name="80-126"/>。
* 1999年11月21日 - 一部路線・事業を[[津久井神奈交バス]]に譲渡<ref name="80-126"/>。
* 2000年10月18日 - 一部路線・事業を[[横浜神奈交バス]]に譲渡<ref name="80-127"/>。
* [[2001年]]4月1日 - 一部路線・事業を[[相模神奈交バス]]並びに[[藤沢神奈交バス]]に譲渡<ref name="90-92"/>。
* 2001年12月 - 横浜担当の全線が前乗り・運賃先払いとなったため、整理券発行機が撤去された<ref group="注釈">後に再度取り付けられ、現在はカバーで覆われている。</ref>。
* 2001年[[12月8日]] - 2代目となるギャラリーバスが運行を開始<ref name="90-92"/>。各営業所に1台ずつ配置。愛称は「かなちゃん号」を踏襲。初代はこの日限りで引退。
* [[2003年]][[4月1日]] - 藤野台団地 - 相模湖線の廃止で、一般路線は[[山梨県]]から撤退。
* 2003年8月 - 「スヌーピーバス」の運行終了。車両はそのまま貸切兼用として運用。
* [[2005年]][[2月1日]] - [[厚木市]]内全路線(厚木営業所は全路線)で[[グローバル・ポジショニング・システム|GPS]]を利用した[[バスロケーションシステム]]の運用を開始<ref name="90-38"/>。
* 2005年[[3月14日]] - 湘南台駅 - 慶應義塾大学で「ツインライナー」運行開始。同時にGPSを利用したバスロケーションシステムの運用を開始<ref name="90-94"/>。
* 2005年[[7月4日]] - [[横浜市交通局]]([[横浜市営バス]])から一部路線の移譲開始。
* 2005年[[9月25日]] - 横浜営業所の支払い方式を両替式から釣銭方式に変更。
* 2005年[[9月27日]] - 舞岡営業所の支払い方式を両替式から釣銭方式に変更。
* 2005年[[11月28日]] - 横浜市営バスから一部路線を移譲される<ref name="90-95"/>。
* [[2006年]][[1月30日]] - 横浜市営バスから一部路線を完全移譲される(同年[[3月27日]]にも実施)<ref name="90-95"/>。
* 2006年[[5月1日]] - [[上大岡駅]]発着路線でGPSを利用したバスロケーションシステムの運用を開始<ref name="90-38"/>。
* 2006年[[11月17日]] - 昼行高速バス「[[新横浜駅]]線」の運行を開始<ref name="90-96"/>。
* 2007年[[3月11日]] - 藤野町の相模原市合併に伴い、藤野町営バス路線を子会社の津久井神奈交バスが譲受。これにより神奈中撤退区間が復活。
* 2007年[[3月16日]] - 相模原・多摩・町田の各営業所管内及び大和営業所の町田市内乗入路線において、GPSを利用したバスロケーションシステムの運用を開始<ref name="90-38"/>。
* 2007年[[3月18日]] - 戸塚営業所の全路線とツインライナーにて[[PASMO]]運用開始<ref name="90-96"/>。
* 2007年[[3月22日]] - [[京成バス]]と共管の[[成田国際空港|成田空港]]連絡バス、[[辻堂駅]]~[[藤沢駅]]~[[戸塚バスセンター]]~成田空港を運行開始<ref name="90-96"/>。
* [[2007年]][[4月1日]] - 横浜市営バスから一部路線を移譲される<ref name="90-96"/>。
* 2007年12月9日 - 茅ヶ崎・綾瀬の各営業所の全路線と藤沢神奈交バス(藤沢)にてPASMO運用開始<ref name="90-97"/>。
* 2008年1月20日 - 多摩・町田の各営業所の全路線にてPASMO運用開始<ref name="90-97"/>。
* [[2008年]][[2月4日]] - 厚木バスセンター - 厚木アクスト線にツインライナー導入<ref name="90-97"/>。同時に同路線にて[[PASMO]]の運用開始。
* 2008年[[2月12日]] - 横浜市営バスから一部路線を移譲される<ref name="90-97"/>。
* 2008年[[2月17日]] - 大和営業所と藤沢神奈交バス(大和)の全路線にてPASMO運用開始<ref name="90-97"/>。
* 2008年[[3月1日]] - 昼行高速バス「新横浜駅線」を廃止<ref name="90-97"/>。
* 2008年[[8月12日]] - [[新潟市]]のオムニバスタウン事業の一環として、新潟市でツインライナーの試乗会が開催された<ref name="90-97"/>。
* 2008年[[8月16日]] - 相模鉄道から同社バス細谷戸線を委譲される<ref name="90-97"/>。
* 2008年[[10月13日]] - 相模原営業所と相模神奈交バス(相模原)・津久井神奈交バスの全路線にてPASMO運用開始<ref name="90-98"/>。
* 2008年[[11月3日]] - 横浜・舞岡各営業所及び横浜神奈交バスの全路線にてPASMO運用開始<ref name="90-98"/>。
* 2008年[[11月24日]] - 平塚営業所と湘南神奈交バス(平塚)の全路線にてPASMO運用開始<ref name="90-98"/>。
* 2008年[[12月21日]] - 厚木営業所の全路線にてPASMO運用開始<ref name="90-98"/>。
* [[2009年]]3月15日 - 伊勢原営業所と湘南神奈交バス(秦野)の全路線にてPASMO運用開始<ref name="90-98"/>。これにより、夜間高速バス、成田空港線、羽田空港線を除いた全営業所の一般路線にてPASMOの利用可能となった。
* 2009年[[3月26日]] - 茅ヶ崎営業所の一部路線にて自転車ラックバスの実証実験を開始(~8月31日)<ref name="90-98"/>。
* 2009年[[12月16日]] - 秦野市内および座間市内への乗入路線において、GPSを利用したバスロケーションシステムの運用を開始<ref name="90-38"/>。
* 2010年[[3月1日]] - 横浜市内全路線および藤沢市内の一部路線において、GPSを利用したバスロケーションシステムの運用を開始<ref name="90-38"/>。
* 2010年7月31日 - バス共通カードの取り扱いを終了<ref name="90-99"/>。
* 2010年[[12月16日]] - 藤沢・綾瀬・茅ヶ崎・平塚・伊勢原営業所管内の路線において、GPSを利用したバスロケーションシステムの運用を開始<ref name="90-38"/>。
* 2011年[[4月1日]] - 相模神奈交バスが[[川崎市交通局]]より[[川崎市バス菅生営業所]]の運行管理を受託。自社子会社が神奈川中央交通本体以外の運行管理を受託するのは初となる<ref name="kawasakicitybus">{{cite press release| url = http://www.kanachu.co.jp/news/2010/pdf/release20100903.pdf| title = 相模神奈交バス(当社100%子会社)が川崎市バスの受託予定事業者に決定!!|publisher=神奈川中央交通|date=2011-09-03|format=PDF| accessdate = 2012-01-11}}</ref>。


=== 営業所別所属台数推移 ===
=== 営業所別所属台数推移 ===
特定車・高速車を含み、貸切車は含まない。<!--出典付の数値を消さないで下さい。もし2009年の台数が出典付なら、その旨明記して追加で対応してください-->
特定車・高速車を含み、貸切車・教習車は含まない。<!--出典付の数値を消さないで下さい。もし2009年の台数が出典付なら、その旨明記して追加で対応してください-->
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!colspan="2"|営業所名
!colspan="2"|営業所名
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!1986年3月
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!1997年11月
!2005年10月<ref>バスジャパン・ハンドブックR57 神奈川中央交通</ref>
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!備考
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== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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== 参考文献 ==
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2012年5月4日 (金) 17:13時点における版

神奈川中央交通株式会社
Kanagawa Chuo Kotsu Co., Ltd.
グランドホテル神奈中平塚(画像の左棟手前側が神奈川中央交通本社)
種類 株式会社
市場情報
略称 神奈中、かなちゅう
神奈交(銘柄略称)
本社所在地 日本の旗 日本
254-0811
神奈川県平塚市八重咲町6番18号
設立 1921年大正10年)6月5日
業種 陸運業
法人番号 6021001036307 ウィキデータを編集
事業内容 旅客自動車運送事業、不動産業他
代表者 三澤憲一(取締役社長
資本金 31億6千万円
売上高 単体527億円、連結1,047億円
(2010年3月期)
純資産 単体169億円、連結270億円
(2010年3月)
総資産 単体1,006億円、連結1,409億円
(2010年3月)
決算期 3月31日
主要株主 小田急電鉄 44.23%
主要子会社 横浜神奈交バス
藤沢神奈交バス
湘南神奈交バス
相模神奈交バス
津久井神奈交バス
神奈中観光(以上、バス)
グランドホテル神奈中
神奈中ハイヤー
相模中央交通
外部リンク http://www.kanachu.co.jp/
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神奈川中央交通株式会社(かながわちゅうおうこうつう)は、神奈川県平塚市に本社を設置し、三浦や足柄を除く神奈川県の大部分の地域と町田市多摩市などの東京都多摩南西部を中心に路線バス貸切バスの運行を行っている小田急グループバス事業者である。通称「神奈中バス(かなちゅうバス)」。

東日本では最大のバス事業者で[1]、バス専業の事業者としても日本一の規模であり[2]、業界のリーダー的存在とされている[3]神奈川県バス協会東京バス協会の双方に加盟しており[4][5]、神奈川県内及び東京都南多摩地域の路線バスの他にも、東京駅・新宿駅からの深夜急行バスや、東京国際空港成田国際空港への空港連絡バスを運行する。かつては横浜・町田・本厚木などから近畿地方各地や盛岡駅への高速バス路線の運行も行なっていた(後述)。

歴史

創業期

2009年現在の神奈川中央交通が主な営業エリアとしている神奈川県中央部に乗合自動車が走り始めたのは、1910年に佐藤某[注釈 1]が設立した合資会社による、厚木平塚を結ぶ幌つき自動車による路線の開設に端を発する[3]。これに続くように、1911年には相陽自動車が車両3台で秦野と平塚を結ぶ路線の運行を開始している。しかし、乗合馬車や人力車の方が安かったこと[6]や、道路が悪く運転技術も未熟だった[6]こともあり、いずれも1年程度で廃業となっている[3]

第一次世界大戦後の好景気により、横浜市内ではまず賃貸自動車営業[注釈 2]が開始され、続いてその兼営という形で乗合自動車の運行開始が行われるようになった[7]1917年頃から個人営業による乗合自動車業が設立されるようになり[7]、当時市街地として発展していた弘明寺を中心に、複数の乗合自動車が激しい乗客争奪戦を行っていた[7]。そのうち、無益な競争をやめて整理統合する機運が高まり[7]1921年6月5日には横浜市大岡町を拠点として相武自動車が設立された[7]。これが神奈川中央交通の直接的な起源である[3]

その後、1920年には伊勢原自働車運輸が平塚と伊勢原市を結ぶ路線で運行を開始[2]、さらに1921年には秦野自動車が秦野と平塚を結ぶ路線の運行を開始した[2]。同年には大谷仁三郎により橋本と田名村(当時)を結ぶ路線などの運行が開始されている[2]ほか、厚木と横浜を結ぶ路線が厚木町(当時)の有力者により開設されている。厚木と横浜を結ぶ路線は1923年に設立された中央相武自動車に営業譲渡されている[2]。この他にも、厚木と藤沢を結ぶ片瀬自動車商会、厚木と戸塚を結ぶ鶴屋自動車商会の路線が開業するなど、1930年でに10数社のバス事業者が設立されている[2]東海道本線の鉄道駅と大山道の宿場町を結んで開設された路線が目立った。一方、東京府(当時)でのバス営業は1934年に原町田乗合自動車が原町田と鶴川・淵野辺と小野路を結ぶ路線を開業させたのが端緒である[8]

自主統合の流れ

小規模なバス事業者の乱立は、結果的に競合による疲弊を招き[8]、資本力のある事業者が小規模事業者を買収し合併する事で、事業規模を拡大すると共に無益な競合を解消する気運が現れ始めた[9]。こうした自主的な統合という方向性は、1931年に公布された自動車交通事業法の目的である「交通企業の合理化と交通事業の統制」にも叶うものであった[8]

1928年には、伊勢原自働車運輸が同じく伊勢原を拠点としていたサンエキ自動車と合併し伊勢原サンエキ自動車と改称[10]1932年には伊勢原自動車へ社名変更を行った[9]1931年には、江之島自動車、片瀬自動車商会、鵠沼自動車を合併して藤沢自動車が設立された[8]。この藤沢自動車は藤沢近辺にとどまらず、厚木・津久井方面まで沿線事業者と合併の上規模を拡大した[9]結果、1937年には営業キロが約300kmに達し、車両数約60台を有する大手事業者となった[9]。同年、藤沢自動車は京王電気軌道(現在の京王電鉄)の傘下に入っている[8]。一方、1936年には原町田乗合自動車が関東乗合自動車に合併されている[9]ほか、相武自動車が鶴屋商会と戸塚自動車商会を合併した上で翌年に相武鶴屋自動車と改称した[8]1938年に東京横浜電鉄(現・東京急行電鉄)の傘下に入り、1939年には先に東横傘下に入っていた中央相武自動車を合併の上東海道乗合自動車と改称し、主に東海道本線沿線への路線展開を行った[9]1941年にはやはり東横系となっていた関東乗合自動車の町田営業所を継承して東京都内に進出[8]1942年には同じく東横系となっていた秦野自動車を合併した[10]ほか、江ノ島電気鉄道の2路線を譲受した[11]

その一方、藤沢自動車と競合する相模鉄道では自社の相模線(現・JR相模線)を擁護するため[10]、1935年に大谷仁三郎の個人経営だった橋本・渕野辺から田名にいたる路線を譲り受けた[9]上、1936年には愛高自動車商会の厚木と上溝を結ぶ路線を買収し、沿線を自社バス路線の営業エリアとした[12]

この時期までに譲受されたバス事業の概要は以下の通りである。

中央相武自動車
1923年3月設立。横浜~厚木間の乗合自動車を運営。玉川電気鉄道(玉電)の傘下会社である目黒自動車運輸が買収したが、1936年10月に東横が玉電を傘下に収めた事に伴い、1937年8月に同社も東横の傘下に入った[13]
関東乗合自動車
1931年12月設立。新宿~小滝橋間を運行していたが、1936年12月に原町田乗合(同年4月に設立され、1921年9月より野渡太助が運行し、後に平井実造が経営していた原町田~図師間、原町田~鶴間間、原町田~小野路間、原町田~瀬谷間などの路線を承継)を合併することにより、現在の町田市内にも営業基盤を有することになった[14]。しかし、運営上不便だったため[14]、東海道乗合自動車へはこの原町田営業所を譲渡した[14]
江ノ島電気鉄道
1931年7月11日、競合関係にあった鎌倉江ノ島乗合自動車商会(1929年6月2日開業)より江ノ島鎌倉間の営業権を譲受して営業再開(これ以前に、1927年から1929年まで辻堂地区で乗合自動車業を行っていたが、廃業していた)[14]1934年9月1日、藤沢自動車より片瀬~藤沢間譲受[14]1935年5月26日、岩崎清一及び平田忠心より茅ヶ崎市内及び平塚市内の路線を譲受[14]。東海道乗合自動車へは、まずこの茅ヶ崎・平塚線を譲渡した[14]

戦時統合へ

戦時体制に入ると、陸上交通事業調整法の公布により、バス事業者は極力統合する方向となった[9]1942年に東京横浜電鉄は京浜電気鉄道(現在の京浜急行電鉄)と小田急電鉄(現・小田急電鉄京王井の頭線)を統合して東京急行電鉄(東急)となっていたが、東急は1943年に藤沢自動車の経営権を京王電気軌道から譲受して傘下に収めた上で[10]、伊勢原自動車を買収した[9]。さらに同年中には、東海道乗合自動車の経営にも東急が参加している[10]。一方、1942年には鉄道省通牒により強制統合が進められる事となったが、この時に神奈川県では横浜市・相模・地区外という3ブロックに分けられる事となった[15]。この時、町田地区は東京の調整区域から外されて相模ブロックに編入される事になった[10]。相模ブロックの統合主体は東海道乗合自動車が選定され[15]1944年6月16日に藤沢自動車と伊勢原自動車を合併、神奈川中央乗合自動車が成立した[10]

なお、江ノ島電気鉄道のバス路線については、既に一部の路線が東海道乗合自動車に譲渡されており、残った路線も1944年までには全ての路線が運休となってたことから、事実上のバス事業廃止となった[10]。この時点では相模鉄道のバス部門はそのままであった[15]が、既に相模鉄道自身も東急の傘下にあった上[16]、鉄道線が国鉄に買収され[15]、神中線も東急に経営委託(事実上の統合)していたため[16]、鉄道業における実体がなくなっていた[15]。同社バス部門は1944年11月28日に神奈川中央乗合自動車に譲渡された[16]。この時点で相模ブロックの統合が完了したのである[15]

この時期までに統合されたバス事業の概要は以下の通りである。

伊勢原自動車
1920年3月に伊勢原自働車運輸として設立[17]。1928年2月サンエキ自動車(1926年設立)と合併し、伊勢原サンエキ自動車と改称[17]1932年9月伊勢原自動車と商号を変更[17]。周辺事業者を悉く統合[18]。1938年3月には秦野自動車より平塚~二宮間と平塚~須賀間を譲受していた[18]
藤沢自動車
1931年に江之島自動車・片瀬自動車商会・鵠沼自動車が統合して設立[17]。以来、県央地区(高座郡愛甲郡津久井郡)の事業者を悉く買収・併合して統合[19]。1937年6月、京王電気軌道(現在の京王線の母体)に買収され、同社傘下となる。1940年9月、八王子中央自動車(1925年11月開業。川尻村(現・相模原市城山町)久保沢向原~八王子市旭町間)の合併で、南は藤沢~平塚から厚木・相模原を経て北は八王子~上野原までに至る神奈川県を縦断する路線網を築き上げた[20]
相模鉄道
1935年12月24日、大谷仁三郎経営の淵野辺上溝~田名間と田名~橋本間の乗合自動車業を承継して開業[21]。1936年6月9日、愛甲自動車商会より上溝~厚木間の路線を譲受。1941年6月30日、東京横浜電鉄の傘下に入り、1943年4月1日、神中鉄道(現在の相鉄本線の母体)を吸収合併するが、1944年6月1日、本来の鉄道路線である茅ヶ崎橋本間が国家買収される(現在のJR相模線)。従って同社は現在の相鉄と同一企業であるが、この時神奈中に編入されたバス路線と現在の相鉄バス(1949年6月20日横浜市内で改めて開業)は全くの無関係である。

1945年には空襲に備え、本社事務所を伊勢原に疎開移転した[22]

戦後の復興

神奈川県中央部は、横浜・川崎と比較すると戦災による路線の被害は少なかった[16]が、戦後の輸送量増加においては車両不足が顕在化した[15]。このため、1946年に神中自動車工業秦野工場を買収し、自社で車両再生を行った[16]

1948年、戦時統合により巨大な鉄道事業者となっていた東急(大東急)から、小田急・京急・京王帝都電鉄(現在の京王電鉄)が分離したが、元来小田急の路線であった井の頭線は京王の所属となり[16]、その代わりとして箱根登山鉄道とともに神奈川中央乗合自動車が小田急の傘下に入る事になった[23]。同年にはディーゼルバスの導入を開始[24]、戦時中は休止していた貸切バス事業も再開している[23]。この時期、江ノ島電気鉄道(現在の江ノ島電鉄)では自社鉄道線の擁護を目的として[16]、かつて江ノ電が経営していたバス路線の買収を図った[23]。交渉の難航はあったものの、五島慶太の斡旋によって買収が決定[16]1949年6月に藤沢・鎌倉・大船・弘明寺地区の路線の一部が江ノ電に譲渡された[23]1951年6月には社名を神奈川中央交通に変更した[24]。1953年には本社を平塚市に移転した[25]

沿線住民や利用者からは、この時期から「神奈中」という通称で呼ばれるようになった[23]。本項でも、以下神奈川中央交通を「神奈中」と表記する。

高度成長期

1960年代・団地輸送の増強と拡大

1950年代後半に入ると、人口増加地域である神奈中エリアの通勤需要は増加の一途を辿る[24]。特に東海道線沿線の鉄道フィーダー輸送の必要性が高くなっていた[23]事から、1953年藤沢駅横浜駅を結ぶ路線を15分ヘッドで運行し、急行便も新設した[24]。その後、国府津駅までの鉄道と並行する路線も同様に運行便数の充実を図り[23]、さらに各鉄道駅から住宅地への路線を新設して鉄道との連携輸送を行った[24]。同様に人口が増加していた小田急沿線からの路線も拡充し[23]、町田地区では道路改良と共に次々と路線新設を行った[24]ほか、宮ヶ瀬青野などの山間集落にも路線を展開した[23]1956年までの3年間に導入した車両数は126台となり[24]、約90系統が新設されている[23]1958年には京王との相互乗り入れという形態で東京都内にも路線拡大を展開[24]調布市関戸へも乗り入れた[23]。一方、横浜市内では横浜市交通局相模鉄道との路線免許申請の競合が多くなった[24]が、1960年頃からは各社で申請前に協議する事になり[23]1962年には3社で運輸協定を結んだ[24]ため、以後競願による認可の遅れという事態は回避される事になった[26]

これらの路線規模の拡大と共に営業拠点の新設も行われ、1957年からの5年間で233台もの車両増備が行われた[24]1963年以降は、町田・横浜地区並びに小田急沿線での大規模団地造成と共に大幅な輸送力増強を迫られた[26]。これに対応するべく車両の増備が急速に進められ、1970年に路線バスの保有台数は1,000台を超え[27]、営業所を郊外へ移転すると同時に敷地面積も拡大するという手法がとられた[26]

この時期、神奈中では関連事業の拡大にも着手している。1959年4月には湘南平レストハウスを建設、1962年からはスーパーマーケット「神奈中ストア」を開業し、沿線各地への店舗展開を行った。また、1964年7月にはボウリング場の建設を進め、最盛期には沿線に11店舗にまで拡大していたが、ボウリング場の乱立による競争の激化で経営が悪化、1974年5月までに一部の店舗を除いて撤退する事になった[28]1967年から不動産業にも進出、鎌倉市二宮町などで宅地分譲を行った。

日本初の整理券方式ワンマンバス

このように輸送力増強に追われる中、要員不足が顕在化する事となった[26]。特に車掌の採用難が厳しくなった[27]事から、当時都市部の一部路線で行われていたワンマン化を進める事になった[26]。しかし、ワンマン化自体は1951年大阪市交通局で実施されていた[29]が、それまでワンマン化されていた路線は均一運賃体系の路線が主で、多区間運賃制路線では申告制前払いとしたところもあった[29]。しかし、神奈中の大多数の路線のように運賃区間の多い路線での多区間運賃制へのワンマン化事例は当時存在せず、運賃収受の確実化を図る必要があった[29]

そこで、乗車停留所を明確にするために、乗車時に乗車整理券を取り、乗客は降車時に整理券と照合して運賃を支払うという「整理券方式」のワンマンバスを導入する事になり、1962年11月1日より試験的に運賃区界数2区間の路線でワンマン化が開始された。この時の整理券はボール紙[注釈 3][30]、前扉付近に整理券ホルダーを設置した。以後、神奈中の乗車方法は前乗り前降りが基本となる。その後も機器の開発を進め、1964年4月には運賃区界数5区間の路線でもワンマン化が行われた[30]が、この時には色分けされたプラスチック板の整理券を乗車時にボタンを押して受け取る方法[30]となり、さらに同年10月には運賃区界数8区間の路線にも導入された[30]。それを受けて、1965年2月1日より伊勢原と茅ヶ崎の2営業所で本格的なワンマン化を開始した。1966年にはロール紙に1枚ずつ番号を印刷してカットする機構が開発され[30]、運賃区界数にかかわらずワンマンバスの運行が可能になった事から一気にワンマン化を促進し、同年10月1日には山間部の一部路線を除いてほぼ全路線がワンマン化された。

日本では多区間運賃制路線でのワンマン化は神奈中が初[26]であり、会社の規模としては急速かつ広範囲にワンマン化が進められたが、監督官庁から安全性を危惧する意見があり、狭隘な道路では待避所やカーブミラーの設置を進めると共に[31]、見通しの悪い踏切などでは自社で交通整理要員を配置して対処した[32]。また、当時はワンマン化に反対するバス事業者が多く、他社の労働組合からワンマンバス導入展開にクレームもあり[30]、労使共に説得したこともあるという[30]。しかし、ワンマン化は時代の趨勢であり、以後整理券方式のワンマンバスは日本全国に拡大され、乗降ドアの違いなどはあるものの、日本のバスにおいて標準的な運賃支払い方式となった。神奈中においては、1974年5月の大秦野駅ヤビツ峠を結ぶ路線を最後に、完全ワンマン化を達成している[27]

1970年代・さらなる輸送力増強

1970年代になると、既に開発の進んだ鉄道沿線から離れた外縁部へも宅地化が進む事になった[33]1971年に入居を開始した多摩ニュータウンでは、ニュータウン鉄道の開通まではバスに通勤輸送が委ねられる事となり[34]、神奈中と京王が輸送を担当した[33]。さらに都心から離れた厚木・伊勢原・秦野・平塚においても住宅地の造成が進み[34]、路線と車両増強を繰り返した結果、小田急線・東海道本線沿線各駅のバス路線の集積度はきわめて高くなった[33]

また、自家用バスによる送迎が行われている企業や学校での車両代替に着目し[26]1975年以降は特定バス事業にも着手した[26]。運行や車両整備はバス事業者が行うが、運行形態やバスのカラーリングなどは顧客側で決定するというもので、積極的にセールスを行ったことによって特定輸送の運行規模はその後大幅に拡大され[27]、その後の神奈中のバス事業の基幹の1つに位置付けられている[33]1976年には山間部の路線において停留所以外でも乗降が可能な自由乗降方式の採用も開始した[35]

不動産業では沿線外の宅地分譲も行う事となり、1974年から1985年までに兵庫県三木市愛知県名古屋市岐阜県岐阜市秋田県秋田市での宅地分譲を行っている。この他、1977年からはラーメン屋「くるまやラーメン」の営業も開始している。

日本初の深夜バス
神奈中の深夜バス路線の例(本厚木駅24時35分発鳶尾団地行き)

ベッドタウンの外延化と共に、利用者からは路線バスをもっと遅くまで走らせる事に対する要望が強くなっていた。神奈中においても例外ではなく、1970年5月には入居が開始されてから間もない鶴川団地の住民より、最終バスを延長するように申し入れがあった[36]。神奈中ではこの要望への回答として、同年7月27日より鶴川駅→鶴川団地行きのバスについて23時10分と23時30分の深夜便を設定した[36]が、このバスは通常の路線バスと異なるサービスを提供するという観点から道路運送法24条の2「貸切自動車運送事業による乗合許可」を適用させた貸切扱いとし、運賃を通常の3倍に設定[36]、定期券は利用不可とした[36]。これが日本初の深夜バスである[35]。当日の第1便は8名の利用者よりも報道陣が目立った状態[37]で、運賃設定などに反発した一部の住民が、会員制の「自主バス」を運行したり[36]、運賃制度について大学教授・利用者代表と会社役員がNHK番組で論戦を行う[38]などの動きもあったが、路線拡充や深夜バス運賃の据え置き[注釈 4]や引き下げ[注釈 5]により深夜バスに移行した[36]ため、1980年までに「自主バス」は廃止となった[36]

運輸省でもバスの終車延長には積極姿勢を見せ、1970年12月には「大都市周辺部の深夜バス運行について」という通達を出した[36]。しかし、深夜バスは、不規則労働となる乗務員に手当てを支払った上で採算性が確保できるかどうかの判断が、事業者によって分かれる[36]。このため、関東地方に限っても深夜バスを運行する事業者が大幅に増加するのは深夜の交通機関の確保について運輸省が再度勧告を出した1986年以降である。深夜バスの採算性を認めた神奈中においては、深夜バスの運行系統は年毎に増加し、東京都内の全事業者を合わせた深夜バスの系統数が約50系統となった1987年の時点で、神奈川県内では既に神奈中だけで50系統以上の深夜バスが運行されていた[36]

1980年代・さらに続く拡大傾向

1980年代に入ると、日本のバス事業全体の傾向としてモータリゼーションと道路渋滞による走行環境の悪化と利用者減少に見舞われるが、神奈中の営業エリアは人口増加が続き、バス利用者も増加した[35]。人口増加や企業・学校の郊外移転などで、鉄道からのフィーダー輸送の役割が求められたためである[39]。1980年代以降は沿線に大学の新設や移転などが続いたため、通学輸送の増強も行われる事になった[35]。既に1971年には相模原市に北里大学が移転していたが、1980年代初頭には相模原地区における輸送の要となっていた[39]

復元された薪バス「三太号」

1981年に会社創立60周年を迎えたが、この時に先人達の苦労を伝えるという意味で[40]薪バス「三太号」を復元した[41]。薪バスは沿線各地で展示なども行われた[40]。同年、平塚市の本社の改築が終了したが、それまで本格的なレストランがないという声が地元からあった<[42]ため、本社に併設された平塚グランドホテルの地下にレストランもオープンさせた[42]

また、1982年にはデジタル式運賃表示器[43]1985年には大型方向幕を導入する[44]など、路線車両のサービス改善にも積極的に取り組んだ。特に1987年4月には一挙に300台もの新車導入が行われ[45]、同年5月には全車両の冷房化を達成した[40]1988年にはそれまですべてを人手に頼っていたバスダイヤの作成を自動化すべく、バスダイヤ自動作成システム「AIDIA」も稼動開始し、日本のバス業界の注目を集めた[41]

関連事業については、前述のようにボウリング場を次々と閉鎖していったが、用途のなくなった建物の有効活用としてスイミングスクールの運営を同年10月から開始した。1984年からは遊技場(パチンコ店)経営にも着手したほか、1990年10月24日には伊豆半島にゴルフ場「中伊豆グリーンクラブ」をオープンさせている。

多区間運賃制路線では日本初のバスカード導入
バスカード取扱車 初期のカードリーダー
バスカード取扱車
初期のカードリーダー

神奈中では、多区間運賃制に対応して金種別に19種類もの回数乗車券を発売していた[46]が、すべての利用者に満足できるものではなく[47]、また後方業務も複雑になっていた[48]。これを解消するため、神奈中はプリペイドカード式回数乗車券(バスカード)の導入を決定した[49]

当時、バスカードは一部の均一運賃制路線での導入例はあったが、多区間運賃制の路線に対応したシステムは存在しなかったため、システムを新規に構築する必要があった。1985年三陽電機製作所と共同でシステム開発に着手、1987年10月20日より伊勢原の路線バス15台にて実用化を前提とした試験を開始[40]、この結果を受けて1988年5月9日より「神奈中バスカード」の運用を開始した[50]。これは多区間運賃制路線では日本初のバスカード導入事例であり[41]、1990年3月26日には全車両での導入を達成している[注釈 6]

折りしも同時期には奈良交通長崎自動車でもバスカードシステムが導入されており[50]、この後バスカードシステムを導入するバス事業者は増加してゆく事になる。また、神奈中バスカードはその後バス共通カードへ発展解消していく事になるが、当初は神奈中のバスカードに採用されていたシステムとバス共通カードを導入していたバス事業者のバスカードのシステムが異なっていたため、バス共通カードが完全に導入されるまではバス共通カードを使用できない車両が存在した[51][注釈 7]が、一方でカードの割引率などは神奈中バスカードにおいて設定されたものがバス共通カードでもそのまま踏襲されており、PASMOの「バス利用特典サービス」の特典バスチケットにもその金額は引き継がれている。

新しいバスサービスの展開

一方、高速バス「ノクターン号」の成功をきっかけとして、日本ではブームの如く夜行高速バス路線が開設されることになった。神奈中ではターミナルとして横浜と町田に着目し[40]1989年2月28日から奈良交通との共同運行により、横浜と奈良を結ぶ夜行高速バスの運行を開始した[41][注釈 8]。同年中には京都・大阪・和歌山・広島への路線を開設[40]、1990年7月5日には盛岡への路線を開設した[41]。1989年末からは深夜急行バスの運行も開始している[40]

バス復権に向けて

神奈中ハイヤーに移管された貸切バス

しかし、ここまで順調に規模を拡大してきた神奈中も、バブル経済崩壊後の不況の波から逃れる事はできなかった。1991年に年間輸送人員が3億2百万人に達したのをピークとして[52]1992年以降はバス利用者数は減少傾向となった[52]。神奈中沿線に製造業が多い事もあり、消費低迷は製造業での業務縮小を招いた[53]。さらに少子化による通学需要の減少も作用し、路線バス利用者は年毎に減少してゆく[52]

これに対応するべく、1995年の路線バス車両はすべて中型車での導入となり[54]、同年には貸切バス部門の大半を神奈中ハイヤーに移管した[55]。その後、2000年神奈川県観光(当時)の経営悪化に伴い同社の株式を取得の上子会社化し[53]2002年には神奈中ハイヤーから貸切バス部門を神奈川県観光に移管した上で神奈中観光に改称した[53]

関連事業においては、それまで「くるまやラーメン」のフランチャイズとして展開していたものを2000年に提携解消し、「らーめん花楽」として独自の店舗展開を行う事になった。

その一方で、これまでの神奈中にはなかった施策もいくつか行われている。

ミニバス展開

1992年に導入された小型バス

神奈中は元々大型車が中心で、狭隘路線など限定された範囲で中型車が導入されていた状態であった。これは、幅2m程度の小型車ではワンマン運行に適した車両が少なかった事による。しかし、住民からの路線開設要望が多い路線については、リアエンジンの小型バスが販売開始となった事を機に、1992年10月から3路線で小型バスによる路線の運行を開始した[56]

一方、藤沢市の藤が岡団地では、駅からの途中に急坂がある上に住民の高齢化が進んでおり、路線バス運行の要望が高くなっていた[57]。神奈中では路線開設に向けて検討した結果、小型バスを使用すれば運営が可能と結論づけ[57]1997年5月より団地循環の路線を開設した。団地内では約100m毎に停留所を設置、バス車内には住民が自由に使用できるコミュニティボードを設置する[57]など、コミュニティバスと同様の設定ではあるが、自治体からの補助は得ていない[57]。使用する車両には「湘南ロコ号」と愛称が付けられた。以後、同様のミニバス路線がいくつか開設されている[58]

地域分社化

一方で、1996年箱根登山鉄道バスが秦野地区から撤退する事になり、その受け皿として湘南神奈交バスが設立された。これを母体として、1997年からは相模原地区において同社への移管を行ったのを皮切りに、新たに地域毎に分離子会社の設立と管理委託などを進め、運行コストの低減を図った。また、移管された路線の大半では不採算路線の増収策として車内で物品販売も行われ[59]、マスコミにも「車内売店のあるバス」として話題を提供した。販売品目にが加わった際には売店の設置された各車両を米穀小売販売業者の店舗として神奈川県知事に登録していた[注釈 9]

これと並行して不採算路線の整理も進められる事になり、2002年までに極端に乗車率の低い路線は廃止された。

日本初の環境定期券導入とスヌーピーバス

スヌーピーバス スヌーピーバス
スヌーピーバス

この頃、環境問題がクローズアップされていた折、神奈中でも環境問題に取り組む事になった。基本的にはマイカー通勤からバス通勤への移行を呼びかけるものであるが、ただ呼びかけるだけではバス会社の都合と受け止められる可能性を考慮し[60]、バス会社側でも新しい運賃制度を導入する事が必要と考えられた[61]

検討の結果、ドイツにおいて導入されている環境定期券制度の導入を行う事になった[61]が、制度の導入だけではなく、広告塔に相当するものが必要と考えられた[61]。そこで、知名度が高く他社が使用していないキャラクターを選定する事になり[61]、アメリカで環境問題について使用されているスヌーピーが選ばれた[61]。版権を持つ法人にも「環境保全が目的」と認められ、格段の配慮があったという[61]

こうして、1997年9月20日の日本で初となる環境定期券制度導入と同時に「スヌーピーバス」が運行開始された[55]。スヌーピーバスは2年間で40台が導入され、2002年まで運行された他、一時期は江ノ電バスでも運行されている。

潜在的需要の発掘

1997年夏には、これからバスを利用する世代となるであろう児童層に着目し、路線バスの利用方法を覚えてもらうという趣旨[52]で「ちびっこ50円キャンペーン」を開始した。現金払いの場合は一般路線の全路線で小児運賃50円となるというもので、当初は長期休暇とゴールデンウィークのみの実施であったが、多い時には1日1万3千人もの利用がある[52]など一定の効果が認められた事から、後年すべての土曜・休日に適用を拡大している。

また、高齢者向けの施策としては、1996年より敬老の日に65歳以上の運賃を100円とするサービスを行った後、2001年6月より「かなちゃん手形」の発売を開始した。これは、初めに購入するパスを安価に設定[注釈 10]、パスを提示した場合は乗車1回につき運賃を区間にかかわらず100円とするもので、1回毎の運賃を安価に設定する事で乗車回数を増やす事を目的とした施策である[62]。1日1万2千人の利用があるという[62]。当初は車内でも発売していた。これと同時に、一般路線の全線に有効な「一日フリー乗車券」の発売も開始している[63]

21世紀に向けた新展開

横浜神奈交バスに移管された夜行高速バス 横浜市交通局から引き継いだ路線「11系統」
横浜神奈交バスに移管された夜行高速バス
横浜市交通局から引き継いだ路線「11系統」

1999年、神奈中では田村車庫・本厚木駅から羽田空港へ向かう空港連絡バスの運行を開始、好調となった[64]ため、以後町田・相模大野・港南台・辻堂・藤沢の各駅から羽田空港・成田空港を結ぶ路線も運行を開始した。一方、夜行高速バスでは乗車率が高いにも拘らずコスト割れする路線もあり[65]、生活路線でない赤字路線の運行を続ける理由はないとの見地から[66]、広島・和歌山・奈良への路線は廃止され、盛岡への路線は岩手県交通の単独運行となった[64]。その他の路線は子会社の運行コストであれば存続可能と判断され[66]湘南神奈交バスに移管された[65]。後に横浜神奈交バスに再移管されている[67]

2004年以降は、他バス事業者からの路線譲受も行われた。2004年2月には、横浜市交通局からの路線移譲について申し入れがあった[68]ことから、2005年から2008年にかけて段階的に11系統を譲受した[68]。また、相模鉄道からも同じ時期に同様の申し入れがあったため[68]、こちらも2006年から2008年にかけて4系統を譲受している[68]。さらに、2006年には「横浜市生活交通バス路線維持制度」の対象となる15系統について公募が行われたが[68]、そのうち3系統については2007年から横浜市交通局に代わって運行を開始した[68]

自転車ラックを装備したバス 「かなch.」のモニター
自転車ラックを装備したバス
「かなch.」のモニター

2009年3月26日からは、茅ヶ崎・辻堂駅発着の一部路線で自転車をバスに搭載するサービスが開始された[69]。自転車を搭載可能な路線バスは前例がある[69]が、バスの前面に自転車ラックを設置し、自転車をバスの前面に積載する方式は日本初の導入例である[69]

2011年10月1日より、舞岡操車所の路線バス50台の運転席後方にモニターを設置し、ニュース・天気予報・広告などを放映する「かなch.」というサービスを開始した[70]

関連事業においては、スーパーマーケット「神奈中ストア」は2007年9月30日をもって全店舗閉鎖となり[67]、同時期にバス車内における物品販売も終了となっている。

連節バスと新たな公共交通の模索

通勤・通学路線においては、新しいタイプの公共交通の模索も進められた。

湘南台駅慶應義塾大学藤沢キャンパスを結ぶ路線は、朝のバス待ち行列が250人近く並ぶ有様で、通常のバスでは捌ききれない状況であった。また、駅前広場の状況も警察により一般車の乗り入れ規制や交通指導員の配置なども行われていたが、通常のバスによるこれ以上の増発は困難な状況であった。このため、2003年には藤沢市が中心となって新たな公共交通システムを導入するための検討委員会が設立され[71]、道路交通の遠隔化やバリアフリー化、さらに交通不便地域でのミニバスによるフィーダー路線運行によるマイカー抑制や環境保全などを目標と定めた[71]。その前提として、1台あたりの定員の多い連節バスを基幹路線に導入することになった[71]

藤沢市で導入された連節バス「ツインライナー」 (ち201)

日本において連節バスを製造していた富士重工業は当時既にバス車体製造から撤退しており[72]交通バリアフリー法が制定されていたため床面地上高を550mm以下に抑える必要もあった事から、輸入車を導入する事になり、大阪府中央交通が日本総代理店となるネオプランセントロライナーを導入する事になった[72]。これは日本の道路運送車両法により定められた連節バスの構造要件には合致しない車両[72][注釈 11]であったが、自治体及び警察の協力も得られた事から特別に認可され[72]2005年3月14日より「ツインライナー」と命名された、日本では初めての導入となるノンステップ連節バスが運行を開始した[71]。本路線を基幹路線とし、慶應義塾大学で「ツインライナー」に接続し、ミニバスで周辺地区を循環する支線バスによる交通網の拡大も行われた[71]

規制緩和への行動力

これに続き、厚木市は朝方通勤時のバス利用者が多い厚木アクストへの通勤路線に連節バスの導入を検討し、2006年には独自の補助金制度を定めた[73]。しかし、この時には藤沢市で導入されていたセントロライナーが日本向け車両の供給を中止しており[74]、車種選定を改めて行う事になった。

厚木市で導入された連節バス「ツインライナー」 (あ203)

神奈中では三菱ふそうトラック・バスに対して、日本での連節バス製造の可能性について打診した[74]が、三菱ふそうは日本での製造は困難と回答し、代わりにダイムラーグループのエボバスが製造するメルセデス・ベンツ・シターロの導入支援を行うことになった[74]。受注にあたり、欧州規格のままの車体幅2.55mで非常口扉を設置しないという日本の道路運送車両法による保安基準をさらに超える仕様[注釈 12]での製造という条件があった[74]が、神奈中では藤沢市での連節バス運行実績を基に独自で基準緩和を働きかけ[75]2008年2月4日より厚木市内でも連節バスの運行が開始された[76]。日本国内で欧州規格そのままの路線バス車両導入は初めての事例である。

これらの基準緩和に対する神奈中の行動力には、三菱ふそう関係者も大いに刺激を受けたという[75]

神奈中では、日本全国でも連節バスの導入が広まる事を期待しており[77]、連節バス導入を検討する他県の自治体に対して連節バスの貸し出し・実証実験運行や展示・試乗会への協力を行っている[76]。2008年8月には新潟市へ[76]、2009年10月には浜松市への貸し出しが行われた[76]

バス事業

路線バス

神奈川県内・多摩地区を中心に、2011年1月の時点で約700路線を運行している[78]

1960年代以降は当時収益性の高かった貸切バス事業の増強を抑え[27]、路線バス事業を中心とした経営に徹し[79]、1989年時点では全営業収入の79.4%が路線バス事業による収入であったことなど[80]、バス事業の収入比率が極めて高いことが特徴とされていた[80]。1987年のインタビュー記事では、1つの路線に複数事業者が参入することは「客足が落ちた時に先に逃げた方が勝ちで、責任逃れが出来る」という理由により、決して好ましいことではないとしていた[79]

ほぼ全車での販売を実施している[81]ほか、収支改善のための努力として各神奈交バスの委託中型車に売店スペースを設置した[59]。なお、傘など一部を除く車内物販については2008年3月31日をもって廃止となった。

将来の催しや施設が出来ることを見越し、採算度外視で運行している路線が2011年1月の時点で10路線ほど存在する[78]。これらの路線は「免許維持路線」と称されており[78]、廃止は考えられていない[78]

一般路線の詳細については各営業所の記事を参照のこと。

乗降方式

「中乗り前降り」方式採用当初は『中ドア乗車』の幕を掲げた 本格導入後は行先表示器に『中乗り』と表示する方式に変更
「中乗り前降り」方式採用当初は『中ドア乗車』の幕を掲げた
本格導入後は行先表示器に『中乗り』と表示する方式に変更

ワンマン化以後、乗降時の事故防止と運賃収受の適正化の観点から[82]、乗客の指向が鉄道駅などの一点に集中している路線や時間帯[82]、また均一運賃区間の路線などを除き[82]、乗降ともに前扉を使用する「前乗り前降り」方式を基本としていた[82]

しかし、利用者の要望やバリアフリー対応という観点から、中扉から乗車して前扉から降車する「中乗り前降り」方式の検討を進め[82]、2006年3月から伊勢原営業所管内で「中乗り前降り」方式の実証実験を開始した[82]。その後事故や問題などは発生しなかったことから本格導入に移行した[82]

停留所付近のバリアフリー整備など関係機関の協力が得られ次第、この乗降方式を拡大したい、としており[82]、2012年3月24日からは茅ヶ崎営業所管内も「中乗り前降り」方式に変更された[83]

指差呼称

指差呼称

乗務員は、旅客案内や車内事故の呼びかけなど、頻繁に車内アナウンスを行っている[84]。また、発車時に指差呼称を励行している[84]。1976年から指差呼称が導入された[85]が、1977年11月から1978年5月にかけて事故が多発したことから[86]、強力な実施指導に切り替えたもので[86]、1982年4月からは運行中の指差呼称を義務付けた[85]。2002年2月以降はそれまでに発生した事故の教訓から[87]、内容を「左よし、前方よし、右よし」から「左よし、下よし、右よし」に変更した[87]。交通ジャーナリストの鈴木文彦は、「ほぼ全員に徹底しているケースでは、神奈中グループがトップであろう」と評している[84]

高速バス

本項では高速道路を経由する路線と空港連絡バス・深夜急行バスについて記述する。

夜行高速バス

夜行高速バス運行開始初期の車両(あ701)

かつては神奈中本体で6路線の夜行高速バスを運行していた。その後、採算性の悪化により廃止や神奈交バスへの移管を経て、共同運行会社による単独運行や他系統への統合が行なわれた。路線自体は存続しているが、神奈中では予約・発券業務のみを担当している。

横浜・町田 - 奈良線(やまと号
奈良交通と共同運行[88]。神奈中では初の夜行高速バスであると同時に、神奈川県下においても初の夜行高速バス路線である[89]。1989年2月28日に運行開始[90]、1991年からは五位堂駅まで延長[91]、1993年11月4日からは本厚木経由となる[92]。2008年9月30日限りで神奈中は撤退し[67]、翌10月1日からは同名称の千葉線に統合。
横浜・町田 - 大阪線(ハーバーライト大阪号
1989年3月23日から運行開始した路線で、西日本ジェイアールバスとの共同運行[88]。1991年5月11日からは横浜側の起点を本郷車庫へ変更[93]。1999年10月1日からは本厚木経由となり[94]、同時にダブルデッカーを導入[94]。2000年11月15日から湘南神奈交バスに移管[65]、さらに2008年6月16日からは横浜神奈交バスに移管[67]。2009年5月31日限りで神奈中グループは撤退し[95]、後述する横浜・町田 - 京都線と統合。
横浜・町田 - 京都線(ハーバーライト京都号
西日本ジェイアールバスとの共同運行[96]により、1989年7月20日から運行開始[97]。1999年10月1日からは本厚木経由となり[94]、同時にダブルデッカーを導入[94]。2000年11月15日から湘南神奈交バスに移管[65]、さらに2008年6月16日からは横浜神奈交バスに移管[67]。2009年5月31日限りで神奈中グループは撤退し[95]、前述の横浜・町田 - 大阪線と統合。
横浜・町田 - 和歌山線(サウスウェーブ号
和歌山バスとの共同運行[96]により、1989年12月22日から運行開始[97]。1992年6月30日からは本厚木経由となる[93]。1998年3月から神奈中が撤退し[65]同名称の千葉線と統合。
横浜・町田 - 広島線(赤いくつ号
中国ジェイアールバスとの共同運行により[98]、1989年12月22日から運行開始[97]、1993年11月4日からは本厚木経由となる[92]。神奈中の歴史上では最長距離の路線であったが、1997年10月に廃止[65]
本厚木・町田・横浜 - 盛岡線
1990年7月5日より運行開始した路線で、岩手県交通との共同運行[99]。神奈中の夜行高速バスでは初めて本厚木発着となった路線で[100]、その後他の夜行高速バスも本厚木を停車地に追加した。検討段階から交通ジャーナリストの鈴木文彦が市場調査などで直接的に関わっており[100]、盛岡での開業初日のテープカットでは鈴木も招待されていた[100]。当初、岩手県側では岩手県交通とジェイアールバス東北の2社が参入を希望したが、その後両社間の調整で別路線への参入を条件にジェイアールバス東北は本路線への参入を見送る事になった[101]。他の路線と異なり厚木営業所が担当していた[102]が、車両更新時には三菱エアロクィーンIに代替されると同時に横浜営業所に移管された[注釈 13]。後に神奈中より湘南神奈交バスに運行を移管されたが、2005年11月30日限りで神奈中は撤退、岩手県交通の単独運行となった[103]

昼行高速バス

田村車庫・本厚木 - 新横浜線の車両(ひ812)
田村車庫・本厚木 - 新横浜線
2006年11月17日より運行開始[104]。2008年2月29日限りで廃止[67]

空港連絡バス

羽田空港線
田村車庫・本厚木発着
京浜急行バス[注釈 14]との共同運行[105]、1999年6月14日から運行開始[105]
相模大野・町田発着
京浜急行バス[注釈 14]との共同運行で[106]、2001年8月7日から運行開始[107]
戸塚・港南台発着
神奈中側では横浜神奈交バスが運行を担当、京浜急行バス[注釈 14]との共同運行で[106]、2003年7月18日より運行開始[108]。当初は港南台駅発着のみであったが、2004年12月1日からは一部便が戸塚駅東口まで延長[109]
海老名発着
京浜急行バス・相鉄バスとの共同運行[110]。2012年3月30日から運行開始[110]
成田空港線
田村車庫・本厚木-成田空港線の車両(ひ852)
橋本・相模大野・町田発着
京成バス[注釈 15]との共同運行で[105]、2000年6月20日から運行開始[105]。当初は相模大野駅町田バスセンター発着であったが、2004年12月16日からは一部便が橋本駅南口まで延長[109]
田村車庫・本厚木発着
京成バス[注釈 15]との共同運行で[111]、2001年6月14日から運行開始[107]
茅ヶ崎・藤沢・戸塚発着
京成バスとの共同運行で[106]、2007年3月22日より運行開始[104]。当初は藤沢駅戸塚バスセンター発着であったが、2009年3月1日からは茅ヶ崎駅まで延長[95]

深夜急行バス

新宿駅→本厚木駅
1989年12月22日から運行開始[112]
新宿駅・東京駅→平塚駅
ジェイアールバス関東との共同運行により[113]、1990年2月22日から運行開始[113]。運行開始当初は1日2便で新宿駅発の同一ルート運行であった[113]が、1990年10月8日からは1便を東京駅乗り入れとした上で横浜駅・保土ヶ谷駅・戸塚駅・湘南台駅経由に変更[113]。1995年9月1日からは神奈中の単独運行となり、2系統を統合して1日1便体制とした[114]

貸切バス

契約貸切車の例(あ501)

神奈川中央乗合自動車が発足した後、戦後1948年7月には貸切バス事業を再開している[115]。その後も事業区域の拡大が進められた[26]が、1960年代以降は貸切バス台数の増強は控え[26]、帰省バスやスキー・スケートなどの需要拡大を強化する方向性となった[26]

1995年7月には一部を除いて神奈中ハイヤーに貸切バス事業を譲渡[53]、その後は企業の送迎などに使用される契約貸切[116]や、路線バス車両を使用した貸切営業[117]に限られている。

特定旅客事業

特定バスに使用される車両の例(あ303)

神奈中の特定旅客事業(特定バス)は、1975年に東京都教育委員会の養護学校スクールバス運行を受託したことが始まりである[26]。その後、企業送迎や学校スクールバスの自家用車両の代替に着目し[26]、再雇用者によるコスト低減や運行計画・車体デザインの受け入れ態勢などを整備した上で[33]、専用のパンフレットまで作成してセールスを行った[118]。この結果、顧客が大幅に拡大し、神奈中の事業の柱の1つにまでなった[33]

他の事業に使用される車両と異なり、特定輸送バス事業に車種や車両仕様、外装デザインはさまざまである[119]が、これは特定輸送は顧客の要望が反映されるためである[116]。例としては、着手のきっかけとなった東京都教育委員会のスクールバスにおいて、他の地区にあわせて東京都交通局の貸切バス塗装が施されていた事例[120]や、伊勢原営業所の福祉施設送迎用車両で三菱デリカスペースギア4WD(定員6名・リフトつき)が採用されていた事例[121]などが挙げられる。

事業所

統合により神奈川中央乗合自動車が発足した1944年6月16日の時点では、以下の営業所が存在した。

東海道乗合自動車の営業所
弘明寺[122]・戸塚[123]・平塚[124]・中野[125]・町田[126]
旧・藤沢自動車の営業所
藤沢[127][注釈 16]・茅ヶ崎[128]・厚木[129]
旧・秦野自動車の営業所
秦野[130]
旧・伊勢原自動車の営業所
伊勢原[131]

その後、同年9月16日には茅ヶ崎営業所を平塚営業所に統合した[128]ほか、相模鉄道のバス事業譲り受けに伴い、同年11月28日に上溝営業所が発足している[132]

戦後、1952年2月23日に鶴間営業所が開設された[133]ことに伴い、町田営業所は鶴間営業所の出張所となった[126]。1954年には弘明寺営業所の業務を横浜市南区笹下町に新設された横浜営業所に移転[134]、1958年6月25日には町田営業所が開設され[126]、逆に鶴間営業所は町田営業所の出張所となった[133]。同年9月22日には、上溝営業所が移転の上相模原営業所に改称している[132]。1960年には中野営業所を津久井営業所に改称した[135]

1960年代以降、輸送力の増強に伴う車両の増加に対応するために、営業所を郊外へ新設や移転を行い、同時に敷地面積も拡大するという手法がとられた[26]。まず1962年には厚木営業所上荻野出張所(当時)・戸塚営業所長後出張所(当時)が開設され[135]、翌1963年4月20日には戸塚営業所を戸塚駅前から郊外(横浜市戸塚区中田町)に移転[136]、同年5月10日には舞岡営業所が新設された[137]ほか、1963年12月25日には横浜営業所本郷出張所が竣工[137]、1964年8月15日には平塚営業所から分離して[136]茅ヶ崎営業所が設立された[137]。なお、命令系統の明確化を目的として[136]、1962年以降は各営業所は運輸部所属部門から社長直轄の事業所に変更された[136]

1965年に車両数が1000台を超えると、さらに郊外への移転が進められた。1966年6月10日に秦野営業所[137]が移転、1968年には平塚営業所田村操車所が竣工[138]、1969年には町田営業所が移転[138]、1970年には町田営業所から鶴間操車所が分離して大和営業所が発足[139]、1971年には相模原営業所峡の原車庫が開設され[140]、1972年には厚木営業所も移転した[141]。1973年には貸切業務が平塚・戸塚の2営業所に統合された[142]ほか、戸塚営業所長後操車所を藤沢営業所に[142]、津久井営業所の橋本操車所を相模原営業所へそれぞれ移管した[142]

1988年12月24からは藤沢営業所から分離するかたちで[143]綾瀬市吉岡に綾瀬営業所が開設され[144]、藤沢営業所長後操車所は廃止された[143]。2001年7月29日には多摩営業所が開設された[145]

2005年4月16日からは、藤沢営業所は茅ヶ崎営業所藤沢操車所に[146]、津久井営業所・城山操車所2005年4月16日よりそれぞれ相模原営業所三ヶ木操車所・相模原営業所城山操車所)に[146]、秦野営業所は2008年5月16日より伊勢原営業所秦野操車所に[67]、舞岡営業所は2011年10月16日より横浜営業所舞岡操車所に変更された。各地区の神奈交バスへの全面的な管理委託が行われたことによるもので、神奈川中央交通本体としての営業所機能は廃止された。

なお、2009年6月からは、それまで社長直轄事業所であった各営業所は、運輸営業部に所属する部門に変更された[147]

各営業所の特徴として、乗務員の休憩室と事務室の仕切りがなく[148]、事務員が多忙の際には休憩中の乗務員が外部からの問い合わせ電話を受けることもある[148]という点が挙げられる。

営業所

営業所名後ろの括弧内の平仮名及び英字は営業所を略記する際の記号。個別の路線については各営業所及び操車所の項目を参照のこと。

受託事業所

廃止・改称・移管された営業所・操車所

神奈交バス・神奈中観光

車両

本節では便宜上、大型車のうち全長が10.5mから10.9mの車両を「標準尺車」、全長が9mから10.5m未満の車両を「短尺車」、全長11m級の車両を「長尺車」と標記する。

車両史

創業期の車両

神奈中の前身となる事業者の1つである鶴屋商会では、フォードビュイックレオなどの輸入車両が使用された記録が残っている[37]

戦時中から終戦直後

1940年10月になると、石油消費規制が強化されたことに伴い、保有車両の7割が代用燃料化された[150]。さらに、1941年8月には液体燃料配給停止の措置がとられたため、保有車両の全車両が代用燃料化されることになった[150]

当初は代用燃料は木炭と薪が使用されていた。神奈川県内では清川村が良質の木炭の産地であった[151]。地元民からは「木炭を特別に配給するからダイヤの完全運行をしてほしい」という依頼もあったという[151]。ところが、1945年に入ると県内産木炭の入荷が途絶え[151]、やむを得ず福島県から鉄道輸送によって木炭を入手することになった[151]。しかし、神奈川県産の木炭と比べるとガス発生量は少なかったという[151]。その福島県産の木炭さえも入手が難しくなり、最終的にはほぼ薪に頼る状態となった[151]

薪については、代用燃料導入当初は、ガス発生にも適する状態のよく乾燥された良質の薪が入手できていた[152]が、1944年頃からは乾燥が不十分な状態のままで入荷することになった[152]。薪の産地は丹沢の森林地帯で[152]、トラックや座席を撤去したバスで足柄上郡三保村まで直接取りに行っていたという[152]。終戦直後になると、薪の加工工場の生産能力が間に合わず、1946年には渋沢に薪生産工場を設けて自社生産を行った[152]

燃料以外の保守部品も不足しており、エンジンオイルは鉱物油・植物油・魚油を混合したものを使用し[152]、しかも一度使用したオイルは再生の上配給に回された[152]。窓ガラスが破れた場所には板が張られ[152]、雨漏りの補修もままならず[153]、雨の日には車内で乗客が破れた傘をさしている光景も見られたという[153]

なお、空襲を避けるため、横浜市内の路線を担当する戸塚営業所では全車両に装甲車に見えるようなカムフラージュを施して営業していたという[151]

戦後の復興

戦後、稼動車両を早期に増強しないと収入が見込めない状態であった[154]。しかし、バスはシャーシが割り当てられたものの架装すべき車体がない状態であった[154]。また、部品を他の車両に流用したままになっていた遊休車両もあった[154]。そこで、秦野町(当時)にある神中自動車工業秦野工場を買収し、秦野工場として自社で車両整備を行うことになり[154]。1947年から秦野工場として本格的に業務が開始された[154]。同工場で再生された車両は、自製のボンネット周りに外観上の特徴があった[37]

また、戦後の貸切バス再開に伴い、1936年式のフォードの内装を改装した貸切バス車両を2台導入したが[155]、これも秦野工場で再生された[155]

この工場は各営業所の付属工場の整備が進んだ1953年に閉鎖された[154]が、戦後の車両復興に大きく貢献した。

ディーゼルバス導入から高度成長期へ

1948年10月には、初のディーゼルバスとしていすゞ・BX91型が5台導入された[155]。翌1949年に導入された車両からは、路線バス車両のカラーリングについて、ベース色がクリーム色に変更された[156]

1963年には、清川村の札掛へ乗り入れる路線が開設された[157]が、この路線に導入された車両は、当時の神奈中としては唯一のマイクロバスであった[157]

高度成長期は輸送力増強に対応するため、道路環境が整備されているとは限らなかったにもかかわらず、高度成長期から1990年までの神奈中で導入される車両の大半は長尺車であった[41][注釈 17]。車両数も別表に見られるように増加の一途を辿り、特に厚木営業所では1985年度に所属台数が200台を超えている[注釈 18]

1980年代以降の車両概説

1980年代半ばに神奈川三菱ふそう自動車販売が傘下となってからは三菱ふそう製車両の導入が多くなり、2005年時点では9割以上が三菱ふそう車となっている。いすゞ製の車両は綾瀬営業所に多く[158]、日野製の大型車両はハイブリッド車以外は全車両が伊勢原営業所に配置され、日産ディーゼルは大和・平塚・秦野・厚木の各営業所に配置された[注釈 19]。各メーカーの車両とも、1990年以降は標準尺車のみの導入に統一されている[119]

車体はいすゞ製を除けば各社純正車体(三菱ふそうは伝統的に呉羽製[注釈 20])を採用していたが、いすゞについては純正の川崎重工の他、富士重工北村製作所を並行して採用していた。特にいすゞ+富士重工の組み合わせは富士重工のバス車体製造撤退時まで取引を続けており、これらは茅ヶ崎営業所に集中的に配備された他、藤沢・綾瀬を除く営業所では新製配置のいすゞ車は原則として富士重工車体であった[注釈 21]。日産ディーゼル車についても富士重工および西日本車体工業製で導入されていたが、2010年後半以降は三菱ふそうからのOEM車種であるスペースランナーAを導入していた。

この他、連節バス(ネオプラン・セントロライナーメルセデス・ベンツ・シターロ)が「ツインライナー」と命名されて、湘南台駅から慶應義塾大学に向かう路線と厚木市内の3路線で各4台ずつ運用されているほか、コミュニティバス向けに小型ノンステップバス(オムニノーバ・マルチライダー日野・ポンチョ)が導入されている。

神奈中では1985年製の車両までは6年から8年程度(長くても10年程度)で廃車されるケースが多かった。そのため、昭和54年排出ガス規制適合車も1992年までに全廃されている。

自らが所属する営業所長から各運転士に対して乗務車両を任命し、運転士はその車両の専属乗務や簡単な車両管理などを行う「担当車制」を採用している[117]。運転士の手入れにより、使用年限の途中での車体更新は行なわれていないにもかかわらず[117]、経年車でも美しく保たれている車両が多い[117]

路線車両の仕様

ノンステップバスの導入は1998年より積極的に推進している[119]。標準尺車と短尺車を導入している。当初はノンステップバスには専用のカラーリング(後述するブルーイエロー色)を採用していたが、2001年以降は一般車と同じデザインに変更されている。三菱車においてはエアロスターを増備してきたが、2008年から2009年前半までは一部を除いて日産ディーゼルからのOEM車種であるエアロスター-S(AA系)を導入していた[159]。なお、通常の路線車は1998年からアイドリングストップが標準に[119]、2001年からはワンステップバスが標準となった[119]

大型方向幕は1985年9月から採用され[44]2002年5月13日からLED行先表示器の導入が開始され[107]、方向幕の車両も2004年頃の改造開始から3年程度でLED表示器に載せ変えた[注釈 22]。これにより、路線開設や廃止などによる幕交換やほこりなどで汚れた幕の清掃などの負担が大幅に軽減された[160]。また、路線バスの車内放送は長らく8トラテープを使用していたが、2005年10月23日よりクラリオン製音声合成装置の導入が開始された[146]。出庫時に運行ダイヤを設定することによって、LED式行先表示器・運賃表示器・整理券発行器・カードリーダーが集中制御できるようになった[160]

2003年の新車より小田急グループマテリアルズ仕様で導入されている。これは同社を通じて購入する事によりコストを抑えながら短期間で大量の更新が行えるようになっている。このため、床面処理・ドア配置や空調装備品などは小田急グループのバス事業者共通の仕様となっている。

後部ブレーキランプについては、1988年式以降は2灯だったものを4灯に変更[161]、さらに1997年式からバス協型→角型に変更した。[161]

室内は前向き座席が標準であるが、1963年9月の新車からは、優先席が横向きに変更された[44]。1998年までは、座席モケットは一般席が赤・優先席が青となっていた[162]。2009年7月からは、熱線吸収ガラスと三角吊り手が導入された[82]

特徴的な仕様

バス専業としては日本最大の事業者だけに1年あたりの導入車両数が多く、その結果「神奈中仕様」とも言える特注仕様が存在する。

後ヒンジ式前扉
1979年まで、折戸の前扉が通常とは逆の後ろ側に開く後ヒンジ式だった[37]
運賃支払い方法表示窓
1980年代から、車両前面の向かって右側の窓下[注釈 23]に設置された「運賃支払い方法表示窓」が設けられた[116][注釈 24]
大型バンパー
2000年導入車までは前後のバンパーは大型の仕様が標準となっていた[116]が、これはバンパーをフロントガラスの清掃の際に使用するステップと兼用させるためであった[163]
長尺車
かつて三菱にホイルベース5.8mで全長が11m級の車両(長尺車)[注釈 25]を特注し、これをMP218-Nとしてメーカーに追加で形式認定させた程の力を持つ[注釈 26]。しかし、1990年を最後に長尺車の導入は終了し[161]、以後は標準尺車をメインに導入されている[119]。また、1995年には全長9m・幅2.3m級の中型車両を大量に導入している[161]
新ステップ車
1994年から2000年にかけて導入された標準床車両は全て前扉に極東開発工業製の可動式ステップを設置した「新ステップ車」となっている[117]。これはさらに床の低い車両の導入や観光バスなどで見られる補助ステップでは、新興住宅地に多い急坂では車体と路面の接触の可能性があったため[164]、乗降性の改善策として、三菱自動車工業(当時)新呉羽自動車工業極東開発工業との共同開発により導入された[165]。この「新ステップ」は横浜市交通局・神戸市交通局小田急バスなど、他の事業者にも波及している[166]

廃車車両の譲渡

神奈中は京阪バス西武バスと共に、日本の地方事業者に廃車車両を供給しており[167]、「廃車車両の譲渡先数が日本一」と評されたこともある[167]。特に6~8年程度で廃車にしていた[117]1990年前後は多くの車両が地方バス事業者へ転出し、これらの車両は地方バスの冷房化率向上にも貢献している。

また、ミャンマーフィリピンニュージーランドラオスなど、海外へも輸出されている。

薪バス「三太号」

車両塗装

名称は一般的に呼ばれているものであり、正式なものではない。一部にラッピングのものも含まれる。

一般路線車の標準色

1949年の新車から採用された[156]。黄色に近いクリーム色[156]+下部赤色+赤色と橙色の帯。当初は下部の赤色が波形になっており、前面などにも差異があったが、1987年から直線的なデザインに変更された[41][注釈 27]。波形デザインの車両は1999年6月30日に廃車となった「さ154」が最後であった[94]。2004年からは正面の社紋が「かなちゅう」ロゴマークに変更された[168]

神奈交色

2002年4月1日から導入された[107]。白色の車体に、各神奈交指定色が前方から中央車体下部及び後方全体に塗られ、大きくKANAKO BUSのロゴが入るという、各車共通で色違いのデザインである[168][注釈 28]。新車として神奈交バスが購入した車両のみに施される塗装なので、数は少ない。

ギャラリーバス

1987年4月から26台導入されたギャラリーバスで[79]、車体のベースカラーを白で統一し、風船を持った動物たちをデザイン[79]。一般公募で「カナちゃん号」と命名された[169]。2001年には2代目の車両が登場[168]、愛称はひらがなで「かなちゃん号」となり[168]、車体のベースカラーはクリーム色に変わった[168]

夜行高速バス色(ブルーイエロー)

1989年に初めて採用[170]。青色の車体にハイウェイをイメージした白と紺の波線、車体中央部にカモメをイメージした黄色のマークが3連あり、橙色でKanagawa Chuoとロゴが入る。その後1997年からは貸切兼用車(ワンロマ車)に[171]、1998年からはノンステップバスの車体色としても採用された[172]。社内では「ブルーイエロー」と呼ばれている[172]

ミニバス色

1997年に藤沢市でミニバス路線を開設した際に採用された[168]。アヒルのイラスト入りだが、イラストが入っていない車両もある[172]

空港リムジン色

1999年から採用され[170]、グレーに上半分が水色。窓の下と屋根にロゴが入る[注釈 29]。横浜神奈交の車両は側面の社名ロゴが異なる点で識別可能[170]

スヌーピーバス

沿革節で述べた環境保護キャンペーンの一環で、ワンロマ車を青く塗装し、スヌーピーや他の登場人物をラッピングしたもの[173]。1997年に導入した14台は図柄も1種類であったが、1998年に導入された26台ではベースの青を明るくし[173]、夜行高速バス色のベース色と同色となった[170]ほか、キャラクターの図柄も2種類となった[173]。契約終了後には白帯や神奈中ロゴが入らずに完全な青一色で運行された期間もあった。

ツインライナー色

ベースカラーはピーチピンク1色[168]。窓周りは黒で、ロゴが入る。

貸切色

1953年6月に導入された車両から導入された[174]、白地に赤と青の塗り分け[175]。このカラーリングは、その後養護学校用のスクールバス車両に用いられている[176]。1989年にはスーパーハイデッカーの導入とともに新デザインが採用された[177]が、1997年以降は小田急グループ統一デザインに変更された[170]

リフト付路線バス

1994年に神奈川県総合リハビリテーションセンターと共同開発した[172]車両は青をベースとしたデザイン。一方、1996年に東京都の補助金により導入した車両は白地に水玉模様[172]

その他

YAMATE LINER
茶色の濃淡にロゴが入る。2007年4月に横浜市交通局より移管された舞岡営業所11系統用に登場[178]。後に11系統にはノンステップ車を運用する事になり、それまで11系統で使用していたワンステップ車は3台を除き11系統の運用を外れ、それらの車両は塗色はそのままでロゴのみが'KANACHU-BUS'に書き換えられたものとなっている。
自転車ラックバス
前面がオレンジ、側面がオレンジと白のツートンカラー。「BICYCLE CARRIER」のロゴも施されている。

この他、各コミュニティバス専用色などがある。

車両番号(社番)

車体外部の社番表示 バスロケーションシステム導入車両の車内に貼付されている社番の表示 携帯バスロケでは車両番号で当該車両の到着予想時刻が参照できる
車体外部の社番表示
バスロケーションシステム導入車両の車内に貼付されている社番の表示
携帯バスロケでは車両番号で当該車両の到着予想時刻が参照できる

所属車両に付けられている社番は、神奈中直管の営業所に所属する場合は「平仮名一文字」+「4桁以内の数字」で構成され、平仮名部分は上記営業所一覧に記載の通り所属営業所を表す[116]。数字部分については多少例外はあるものの、基本的には以下のルールで附番されている。

  • 1~299:路線車[116]
    ミニバス・コミュニティバスなどの特殊な車両は、営業所によっては201、202…などのきりの良い番号から附番される場合もある。
  • 301~399:特定車(学校・企業・病院などの契約輸送用)[116]
  • 501~599:貸切車(特定車と同様に契約輸送用)[116]
  • 601~699:神奈中観光
  • 701~799:都市間高速車[116]
  • 801~848:深夜急行用[116]
  • 851~899:空港路線用[116]
  • 数字の頭に0(ま02など):各神奈交バスへの管理委託車(車籍は神奈中本体のまま)[116]

廃車の際には、代替される新車へ番号が引き継がれる[116]

なお、バスロケーションシステムのモバイル版では、現在乗車しているバスの車両番号を入力する事で、その先の各停留所の到着予想時刻を参照したり、電子メールで送信する事が可能である[179][注釈 30]

主なグループ会社

連結子会社

バス

その他

持分法適用関連会社

データ

大株主の状況(2007年9月30日現在)

神奈川中央交通は、小田急電鉄の持分法適用関連会社である。

年表

  • 1921年6月5日 - 相武自動車株式会社設立[7]
    当時の横浜市大岡地区では乗合自動車を始める者が乱立し、競争が繰り広げられていた。この無益な競争に終止符を打つべく、関係者が同社を設立し整理統合を行った。
  • 1921年10月29日 - 金沢自動車運輸より路線承継(滝頭~杉田~瀬戸~逗子間)。
  • 1928年7月 - 梁瀬長太郎ヤナセ創業者)が社長に就任。
  • 1931年11月 - 鶴屋商会(1919年5月創業、戸塚厚木間の乗合自動車を運営)の大木敏行が買収。杉田~逗子間を湘南乗合自動車へ譲渡(現在の横浜京急バスのルーツ)。
  • 1936年12月 - 鶴屋商会及び戸塚自動車商会(戸塚~岡津間)を合併[8]
  • 1937年1月12日 - 相武鶴屋自動車株式会社に商号を変更[8]
  • 1938年5月 - 東京横浜電鉄(現在の東京急行電鉄)に買収され、同社の傘下に入る[13]
  • 1939年6月16日 - 中央相武自動車を合併、東海道乗合自動車株式会社に商号変更。
  • 1941年12月15日 - 同じ東横傘下の関東乗合自動車及び江ノ島電気鉄道の一部路線を譲受。
  • 1942年2月 - 秦野自動車(1921年8月設立、秦野~平塚間、秦野~二宮間他)を合併[10]
  • 1943年4月 - 東京急行電鉄、神奈川県下の陸上交通統制の趣旨に基づき、伊勢原自動車及び藤沢自動車を買収。
  • 1944年5月31日 - 東海道乗合自動車は伊勢原自動車及び藤沢自動車を合併[10]
  • 1944年6月16日 - 神奈川中央乗合自動車株式会社に商号を変更[10]
  • 1944年11月28日 - 相模鉄道及び江ノ島電気鉄道の乗合自動車事業を譲受(3月に譲渡契約を締結。江ノ電バスはこれで消滅)[10]
  • 1945年11月 - ハイヤータクシー事業を相模中央交通に譲渡。
  • 1948年6月1日 - 東京急行電鉄の再編成に伴い、同社より分離・新発足した小田急電鉄の傘下会社になる[23]
  • 1949年5月 - 東京証券取引所に上場。
  • 1949年6月20日 - 江ノ島電気鉄道に一部路線を譲渡(江ノ電バスの復活)[16]
    藤沢駅~七里ヶ浜~鎌倉駅間、藤沢駅~本鵠沼駅~辻堂駅間(旧来の江ノ電路線)
    藤沢駅~深沢~鎌倉駅間、鎌倉駅~大船駅~日野~弘明寺間、大船駅~飯島~戸塚駅裏口間
  • 1950年5月31日 - 相模中央交通を合併してハイヤー・タクシー事業を再び兼業する。
  • 1951年6月29日 - 神奈川中央交通株式会社に商号を変更[24]
  • 昭和30年代に平塚駅から伊勢原市大山までトロリーバスの運行を計画した事があったが、道路事情の悪さから道路を管理する神奈川県が難色を示し、中止となった。
  • 1965年2月1日 - 伊勢原営業所・茅ヶ崎営業所の管内全路線でワンマン運行を開始[30]。多区間運賃路線での整理券方式によるワンマン化は日本では初めて[26]
  • 1970年7月27日 - 鶴川駅~鶴川団地線に日本初の深夜バスを運行開始[35]。当時は運賃は3倍[36]、定期券は利用不可であった[36]
  • 1973年4月 - ハイヤー・タクシー事業を神奈中ハイヤーに譲渡。
  • 1974年5月 - ヤビツ峠線のワンマン化に伴い、全路線のワンマン化が終了[27]
  • 1976年5月1日 - 藤野町(現・相模原市)の路線で自由乗降区間を初めて設定[35]。以後順次導入路線を拡大。
  • 1978年9月26日 - 路線バス車両にデジタル式運賃表示器の導入開始[180]
  • 1979年5月21日 - 路線バス車両に冷房車の導入を開始[181]
  • 1980年9月9日 - 路線バス車両に大型方向幕の導入を開始[182]
  • 1981年 - 開業60周年を記念し、薪バス「三太号」を復元[181]
  • 1986年4月1日 - 全系統に系統番号を附番[183]。横浜市内の均一運賃区間において、共通回数券を導入。
  • 1987年3月3日 - 一般路線バスの塗装を変更[183][注釈 31]
  • 1987年4月 - ギャラリーバスの運行開始[183]。全社で26台導入し、すべての営業所に配置された。一般公募により、同年7月に「カナちゃん号」と命名された。
  • 1987年5月29日 - 路線バス全車両が冷房車となった[184]
  • 1988年5月9日 - 多区間運賃制の路線バスでは日本初となるバスカードシステムを平塚・伊勢原・秦野の各営業所で導入開始[185]
  • 1989年2月28日 - 夜行高速バス運行開始[90]
  • 1989年12月22日 - 深夜急行バス運行開始[186]
  • 1990年3月26日 - 横浜・舞岡・戸塚の各営業所での導入を最後に全路線へのバスカードシステム導入完了[186]
  • 1992年9月25日 - 極東開発工業と共同で、従来のツーステップバスをペースに前扉のステップにリフト機器を取り付けた新ステップ車の試作車が5台運行開始[93]1993年3月にも10台の試作車が投入された。1994年から量産車を投入し、2000年までの大型車と中型車全車に取り付けた[注釈 32]
  • 1995年4月1日 - 観光バス並びに事業を神奈中ハイヤーに譲渡[114](現在の神奈中観光)。
  • 1996年4月1日 - 一部路線並びに事業を湘南神奈交バスに譲渡[187]
  • 1997年9月20日 - 環境保護キャンペーンの一環として「スヌーピーバス」の運行を開始[188]。同時に日本初の環境定期券制度を導入[188]
  • 1999年6月30日 - 相模原所属のさ154号車が廃車[94]。これにより波形デザインの旧塗装車が全廃[94]
  • 1999年11月21日 - 一部路線・事業を津久井神奈交バスに譲渡[94]
  • 2000年10月18日 - 一部路線・事業を横浜神奈交バスに譲渡[111]
  • 2001年4月1日 - 一部路線・事業を相模神奈交バス並びに藤沢神奈交バスに譲渡[107]
  • 2001年12月 - 横浜担当の全線が前乗り・運賃先払いとなったため、整理券発行機が撤去された[注釈 33]
  • 2001年12月8日 - 2代目となるギャラリーバスが運行を開始[107]。各営業所に1台ずつ配置。愛称は「かなちゃん号」を踏襲。初代はこの日限りで引退。
  • 2003年4月1日 - 藤野台団地 - 相模湖線の廃止で、一般路線は山梨県から撤退。
  • 2003年8月 - 「スヌーピーバス」の運行終了。車両はそのまま貸切兼用として運用。
  • 2005年2月1日 - 厚木市内全路線(厚木営業所は全路線)でGPSを利用したバスロケーションシステムの運用を開始[178]
  • 2005年3月14日 - 湘南台駅 - 慶應義塾大学で「ツインライナー」運行開始。同時にGPSを利用したバスロケーションシステムの運用を開始[109]
  • 2005年7月4日 - 横浜市交通局横浜市営バス)から一部路線の移譲開始。
  • 2005年9月25日 - 横浜営業所の支払い方式を両替式から釣銭方式に変更。
  • 2005年9月27日 - 舞岡営業所の支払い方式を両替式から釣銭方式に変更。
  • 2005年11月28日 - 横浜市営バスから一部路線を移譲される[146]
  • 2006年1月30日 - 横浜市営バスから一部路線を完全移譲される(同年3月27日にも実施)[146]
  • 2006年5月1日 - 上大岡駅発着路線でGPSを利用したバスロケーションシステムの運用を開始[178]
  • 2006年11月17日 - 昼行高速バス「新横浜駅線」の運行を開始[104]
  • 2007年3月11日 - 藤野町の相模原市合併に伴い、藤野町営バス路線を子会社の津久井神奈交バスが譲受。これにより神奈中撤退区間が復活。
  • 2007年3月16日 - 相模原・多摩・町田の各営業所管内及び大和営業所の町田市内乗入路線において、GPSを利用したバスロケーションシステムの運用を開始[178]
  • 2007年3月18日 - 戸塚営業所の全路線とツインライナーにてPASMO運用開始[104]
  • 2007年3月22日 - 京成バスと共管の成田空港連絡バス、辻堂駅藤沢駅戸塚バスセンター~成田空港を運行開始[104]
  • 2007年4月1日 - 横浜市営バスから一部路線を移譲される[104]
  • 2007年12月9日 - 茅ヶ崎・綾瀬の各営業所の全路線と藤沢神奈交バス(藤沢)にてPASMO運用開始[67]
  • 2008年1月20日 - 多摩・町田の各営業所の全路線にてPASMO運用開始[67]
  • 2008年2月4日 - 厚木バスセンター - 厚木アクスト線にツインライナー導入[67]。同時に同路線にてPASMOの運用開始。
  • 2008年2月12日 - 横浜市営バスから一部路線を移譲される[67]
  • 2008年2月17日 - 大和営業所と藤沢神奈交バス(大和)の全路線にてPASMO運用開始[67]
  • 2008年3月1日 - 昼行高速バス「新横浜駅線」を廃止[67]
  • 2008年8月12日 - 新潟市のオムニバスタウン事業の一環として、新潟市でツインライナーの試乗会が開催された[67]
  • 2008年8月16日 - 相模鉄道から同社バス細谷戸線を委譲される[67]
  • 2008年10月13日 - 相模原営業所と相模神奈交バス(相模原)・津久井神奈交バスの全路線にてPASMO運用開始[95]
  • 2008年11月3日 - 横浜・舞岡各営業所及び横浜神奈交バスの全路線にてPASMO運用開始[95]
  • 2008年11月24日 - 平塚営業所と湘南神奈交バス(平塚)の全路線にてPASMO運用開始[95]
  • 2008年12月21日 - 厚木営業所の全路線にてPASMO運用開始[95]
  • 2009年3月15日 - 伊勢原営業所と湘南神奈交バス(秦野)の全路線にてPASMO運用開始[95]。これにより、夜間高速バス、成田空港線、羽田空港線を除いた全営業所の一般路線にてPASMOの利用可能となった。
  • 2009年3月26日 - 茅ヶ崎営業所の一部路線にて自転車ラックバスの実証実験を開始(~8月31日)[95]
  • 2009年12月16日 - 秦野市内および座間市内への乗入路線において、GPSを利用したバスロケーションシステムの運用を開始[178]
  • 2010年3月1日 - 横浜市内全路線および藤沢市内の一部路線において、GPSを利用したバスロケーションシステムの運用を開始[178]
  • 2010年7月31日 - バス共通カードの取り扱いを終了[189]
  • 2010年12月16日 - 藤沢・綾瀬・茅ヶ崎・平塚・伊勢原営業所管内の路線において、GPSを利用したバスロケーションシステムの運用を開始[178]
  • 2011年4月1日 - 相模神奈交バスが川崎市交通局より川崎市バス菅生営業所の運行管理を受託。自社子会社が神奈川中央交通本体以外の運行管理を受託するのは初となる[190]

営業所別所属台数推移

特定車・高速車を含み、貸切車・教習車は含まない。

営業所名 1970年9月 1981年12月 1986年3月 1991年3月 1997年11月 2001年3月 2005年10月 2011年3月 備考
厚木 116[191] 163[129] 205[192] 237[192] 232[193] 202[194] 191[195] 188[196]  
伊勢原 61[191] 79[131] 86[197] 97[197] 104[193] 96[198] 100[195] 193[196][注釈 34]  
舞岡 108[191] 132[199] 137[200] 154[200] 156[193] 146[201] 179[195] 189[202]  
相模原 102[191] 160[132] 174[203] 192[203] 195[193] 233[194] 162[195] 233[196][注釈 35]  
綾瀬     [注釈 36] 105[204] 138[193] 120[145] 131[195] 124[205] 1988年12月24日開設[204]
多摩           81[145][注釈 37] 95[195] 90[205] 2001年7月29日開設[145]
茅ヶ崎 70[191] 84[128] 84[206] 89[206] 100[193] 88[198] 92[195] 196[202][注釈 38]  
津久井 61[191] 67[125] 70[207] 77[207] 86[193] 65[194] 55[195] [注釈 35] 2005年4月16日に相模原に統合[146]
戸塚 121[191] 170[123] 179[208] 188[208] 189[193] 166[201] 196[195] 193[202]  
秦野 85[191] 99[130] 112[209] 123[209] 132[193] 120[198] 121[195] [注釈 34] 2008年5月16日に伊勢原に統合[67]
平塚 97[191] 127[124] 137[210] 153[210] 169[193] 169[198] 188[195] 176[196]  
藤沢 91[191] 129[127] 160[211] 91[211][注釈 39] 101[193] 96[201] 103[195] [注釈 38] 2005年4月16日に茅ヶ崎に統合[146]
町田 97[191] 144[126] 185[212] 204[212] 208[193] 163[145] 182[195] 173[205]  
大和 78[191] 98[133] 114[213] 127[213] 127[193] 124[194] 139[195] 195[205]  
横浜 80[191] 112[122] 121[214] 138[214] 142[193] 126[201] 108[195] 108[202]  
合計 1167 1564 1663 1975 2079 1995 2042 2058  

脚注

注釈

  1. ^ 『神奈川中央交通五十年史』 p.6の表記による。
  2. ^ 現代でいうタクシーのこと(『神奈川中央交通五十年史』 p.6)。
  3. ^ 鉄道の「硬券」と同様のもの。
  4. ^ 通常運賃を20円から30円に改定する際に通常運賃の2倍に変更したため、深夜運賃は60円のままとなった。
  5. ^ 定期券の場合は通常運賃の支払いで利用可能に変更された。
  6. ^ システム開発と導入にあたっては運輸省よりバス活性化に対する補助を受けているが、バスカード導入で補助対象になったのも日本で初めてである(『バス・ジャパン』通巻9号)。
  7. ^ 逆に、他社のバス共通カード取扱車においては神奈中バスカードを利用する事はできなかった。
  8. ^ これは神奈川県では初の夜行高速バス路線となった。
  9. ^ 2004年までは食糧管理制度により登録が義務付けられており、米の販売には必ず県知事への登録が必要だったため、車内の売店をスーパーマーケット「神奈中ストア」の店舗扱いとする事で対応し、車内にも登録証が掲示されていた。
  10. ^ 3か月券は3,000円、6か月券は5,000円、1年券は9,000円。
  11. ^ 例えば、1999年に制定された構造用件では第1軸と第3軸が同一の軌跡を辿る事とされたが、セントロライナーでは第3軸にはステアリング機構がないため、必然的に第1軸と第3軸の軌跡は異なる。
  12. ^ 日本の道路運送車両の保安基準第二条において最大車体幅は2.5mと定められている他、第二十六条では定員30名以上の車両には非常口扉の設置が義務付けられている。
  13. ^ 岩手県交通の車両は引き続き神奈中厚木営業所に入庫。
  14. ^ a b c 運行開始当時は京浜急行電鉄
  15. ^ a b 運行開始当時は京成電鉄
  16. ^ 戦時中から1948年8月までは事業を中断していた(『神奈川中央交通六十年史』 p.80
  17. ^ 『バスジャパン・ニューハンドブック23』 p.61の記述によれば、厚木・横浜・戸塚・舞岡の各営業所に配置されているギャラリーバス「カナちゃん号(初代)」も長尺車だった。
  18. ^ 『神奈川中央交通七十年史』 p.106によると、1985年3月31日の時点で199台、1986年3月31日の時点で205台となっていた。
  19. ^ なお、2004年以降は日産形低公害車の実証実験を厚木営業所が担当する事となり、尿素SCRステーションを設置した関係から日産ディーゼル車が継続的に配備され、2009年2月28日現在で41台在籍、稼動車の30%程度にまで比率が上がっている。
  20. ^ ただし、高速路線車および貸切車(一部を除く)では三菱ふそうバス製造に一本化されるまでは当時の三菱自動車工業名古屋製作所大江工場製で導入していた。
  21. ^ ただし、中型車では1999年導入のエルガミオ以降は純正車体で導入されている。
  22. ^ ごく一部を除き英語表記は行われていない。回送は英語表記された表示をしており、表記内容は「OUT OF SERVICE」である。
  23. ^ エアロスターではセイフティウィンドーが標準装備されている部分。
  24. ^ 運賃収受が前払いか後払いかを表示するためのもので、一部車を除き幕式になっている。ただし、1987年に26台が導入されたギャラリーバス「カナちゃん号」に限っては設置されていなかった。
  25. ^ 三菱ふそう・エアロスター、P-MP218P改。
  26. ^ その後、北陸鉄道京浜急行バスなどでも導入例が見られたが、ニューエアロスターでは設定されなくなった。
  27. ^ ごく短期間、現行の塗り分けに決まるまで車体前面上部に赤色が掛かるなど細部に変遷が見られた。
  28. ^ 各社の色は、湘南が黄橙、横浜が濃い青、藤沢が淡い青、相模が明るい青緑、津久井が深緑。
  29. ^ 神奈中の車両では "Kanagawa Chuo AIR EXPRESS SALOON" となるのに対し、横浜神奈交バスの車両では "Yokohama Kanako Bus AIR EXPRESS SALOON" となる。
  30. ^ システム上では神奈中・神奈交委託車の区別はされておらず、神奈交委託車の頭の0番(や05等)は入力しなくても表示される。
  31. ^ 但し、在来車の塗り変えは行われなかった。塗り変えるより車両置き換えの方が早く終了するためとされている。
  32. ^ 但し、日野中型車を除くU-車は全車改造扱いで平成6年排出ガス規制適合(KC-)車に移行された1997年以降のいすゞ(富士架装車)、日産ディーゼル(現・UDトラックス)車も改造扱いとなる。
  33. ^ 後に再度取り付けられ、現在はカバーで覆われている。
  34. ^ a b 2008年5月16日に伊勢原に統合のため、伊勢原の台数には旧秦野の台数も含む(『神奈川中央交通九十年史』 p.97
  35. ^ a b 2005年4月16日に相模原に統合のため、相模原の台数には旧津久井の台数も含む(『神奈川中央交通九十年史』 p.95
  36. ^ 1989年3月時点での台数は91台(『神奈川中央交通七十年史』 p.111)。
  37. ^ 2001年7月29日開設時点での台数(『神奈川中央交通八十年史』 p.75)。
  38. ^ a b 2005年4月16日に茅ヶ崎に統合のため、茅ヶ崎の台数には旧藤沢の台数も含む(『神奈川中央交通九十年史』 p.95
  39. ^ 1988年12月24日に綾瀬を分離したため台数が減少。1988年3月時点での台数は165台(『神奈川中央交通七十年史』 p.101)。

出典

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参考文献

書籍

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  • 鈴木文彦「深夜バスの発展と現状」『バス・ジャパン』第8号、バス・ジャパン刊行会、1988年4月、42-45頁、ISBN 479527763X 
  • 鈴木文彦「普及の兆しを見せるバスカード その現状と展望」『バスラマ・インターナショナル』第2号、ぽると出版、1988年11月、45-48頁、ISBN 4938677024 
  • 鈴木文彦「私の取材メモ 指差喚呼はどこへ」『鉄道ジャーナル』第533号、鉄道ジャーナル社、2011年3月、116頁。 
  • 高橋俊哉「深夜バス ハナ金ウォッチング」『バス・ジャパン』第8号、バス・ジャパン刊行会、1988年4月、46-48頁、ISBN 479527763X 
  • 日本バス友の会、鈴木文彦「Bus Corner」『鉄道ジャーナル』第238号、鉄道ジャーナル社、1986年10月、134-137頁。 
  • 日本バス友の会、鈴木文彦「BUS CORNER」『鉄道ジャーナル』第512号、鉄道ジャーナル社、2009年6月、143-145頁。 
  • 盛永伸一「富士重工現役車両のスタイリング」『バス・ジャパン』第5号、バス・ジャパン刊行会、1987年6月、5-10頁、ISBN 4795277605 
  • 「神奈川中央交通に聞くバスカード導入の実際」『バスラマ・インターナショナル』第2号、ぽると出版、1988年11月、40-44頁、ISBN 4938677024 
  • 「一般低床車の前ステップにリフト機構が付いた」『バスラマ・インターナショナル』第16号、ぽると出版、1993年3月、52-53頁、ISBN 4938677164 
  • 「国内バスニュース」『バスラマ・インターナショナル』第16号、ぽると出版、1993年3月、94-95頁、ISBN 4938677164 
  • 「国内ニュース」『バスラマ・インターナショナル』第30号、ぽると出版、1995年7月、92-97頁、ISBN 193867730X{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。 
  • 「バス事業者訪問69 神奈川中央交通」『バスラマ・インターナショナル』第68号、ぽると出版、2001年10月、43-66頁、ISBN 4899800681 
  • 「走り出した国内初のノンステップ連節バス 神奈川中央交通の"ツインライナー"」『バスラマ・インターナショナル』第89号、ぽると出版、2005年3月、21-25頁、ISBN 4899800894 
  • 「神奈川中央交通のツインライナー第2弾が運行開始」『バスラマ・インターナショナル』第106号、ぽると出版、2008年2月、9-15頁、ISBN 9784899801061 
  • 「評価も上々、運行開始から1か月 神奈中のツインライナー第2弾」『バスラマ・インターナショナル』第107号、ぽると出版、2008年4月、16-19頁、ISBN 9784899801078 

外部リンク