「武蔵 (戦艦)」の版間の差分
編集の要約なし |
Mlwatanabe (会話 | 投稿記録) |
||
(100人を超える利用者による、間の432版が非表示) | |||
1行目: | 1行目: | ||
{{coord|13|7|0|N|122|32| 0| E|region:PH_type:waterbody_scale:1000000|name=Last reported position of the Japanese battleship Musashi in the Sibuyan Sea|display=title|format=dms}} |
|||
<div class="thumb tright"> |
|||
{{Infobox 艦艇 |
|||
{| class="wikitable" style="margin: 0em; width: 300px; background:#ffffff" |
|||
|名称 = 武蔵 |
|||
|colspan="2" align="center"|[[画像:Japanese battleship Musashi cropped.jpg|300px]]<br/><small><center>ブルネイを出航する武蔵 (昭和19年10月22日)</center><small/> |
|||
|画像 = Musashi battleship in 1942.jpg |
|||
|- |
|||
|画像説明 = 1942年8月竣工時の武蔵 |
|||
!colspan="2" style="background: #f0f0f0"|艦歴 |
|||
|運用者 = {{海軍|大日本帝国}} |
|||
|- |
|||
|建造所 = [[三菱重工業長崎造船所]] |
|||
|計画||[[マル3計画]] |
|||
|艦種 = [[戦艦]] |
|||
|- |
|||
|級名 = [[大和型戦艦]] |
|||
|起工||[[1938年]] [[3月29日]] |
|||
|起工 = [[1938年]][[3月29日]] |
|||
|- |
|||
|進水 |
|進水 = [[1940年]][[11月1日]] |
||
|就役 = [[1942年]][[8月5日]] |
|||
|- |
|||
|最後 = [[1944年]][[10月24日]]、[[シブヤン海]]で沈没<br>{{coord|13|07|N|122|32|E}}<br />または{{coord|12|48|N|122|41.5|E}} |
|||
|就役||[[1942年]] [[8月5日]] |
|||
|除籍 = [[1945年]][[8月31日]] |
|||
|- |
|||
|基準排水量 = 65,000トン(完成時) |
|||
|その後||[[1944年]][[10月24日]]戦没 |
|||
|満載排水量 = 72,809トン(完成時) |
|||
|- |
|||
|全長 = 263.0m |
|||
|除籍||[[1945年]] [[8月31日]] |
|||
|水線長=256.0m |
|||
|- |
|||
|全幅 = 38.9m |
|||
|沈没位置||{{coor title dm|13|07|N|122|32|E}} |
|||
|吃水 = 10.4m |
|||
|- |
|||
|機関 = ロ号艦本缶12基<br />艦本式タービン4基4軸<br />150,000馬力 |
|||
!colspan="2" style="background: #f0f0f0"|性能諸元 |
|||
|速力 = 公試成績:{{Convert|27.46|knot|km/h|2|lk=on}} |
|||
|- |
|||
|航続距離 = 16ノットで7,200浬 |
|||
|[[排水量]]||基準:65,000トン(完成時)<br />満載:72,809トン(完成時) |
|||
|乗員 = 約3,300名 |
|||
|- |
|||
|兵装 = 新造時:<br />{{plainlist| |
|||
|全長||263.0m |
|||
* 46cm(45口径)砲3連装3基9門 |
|||
|- |
|||
* 15.5cm(60口径)砲3連装4基12門 |
|||
|全幅||38.9m |
|||
* 12.7cm(40口径)連装高角砲6基12門 |
|||
|- |
|||
* 25mm3連装機銃12基36門 |
|||
|吃水||10.4m |
|||
* [[九三式十三粍機銃|13mm連装機銃]]2基4門 |
|||
|- |
|||
}} |
|||
|機関||ロ号艦本缶12基<br />艦本式タービン4基4軸<br />150,000馬力 |
|||
最終時:<br />{{plainlist| |
|||
|- |
|||
* 46cm(45口径)砲3連装3基9門 |
|||
|速力||27.46[[ノット]](公試成績) |
|||
* 15.5cm(60口径)砲3連装2基6門 |
|||
|- |
|||
* 12.7cm(40口径)連装高角砲6基12門 |
|||
|航続距離||16ノットで7,200浬 |
|||
* 25mm3連装機銃35基105門 |
|||
|- |
|||
* 25mm単装機銃25基25門 |
|||
|乗員||約3,300名 |
|||
* [[九三式十三粍機銃|13mm連装機銃]]2基4門 |
|||
|- |
|||
* 12cm28連装噴進砲2基56門 |
|||
|兵装<br />(新造時)||46cm(45口径)砲3連装3基9門<br />15.5cm(60口径)砲3連装4基12門<br />12.7cm(40口径)連装高角砲6基12門<br />25mm3連装機銃12基36門<br />13mm連装機銃2基4門 |
|||
}} |
|||
|- |
|||
|装甲 = 舷側 410mm、甲板 200mm、主砲防盾 600mm |
|||
|兵装<br />(最終時)||46cm(45口径)砲3連装3基9門<br />15.5cm(60口径)砲3連装2基6門<br />12.7cm(40口径)連装高角砲6基12門<br />25mm3連装機銃35基105門<br />25mm単装機銃25基25門<br />13mm連装機銃2基4門 |
|||
|搭載機 = [[零式水上偵察機]]・[[零式観測機]]他、最大7機<br />([[カタパルト]]2基) |
|||
|- |
|||
|備考 = 出典: <ref>牧野・古賀『戦艦武蔵建造記録』30頁</ref> |
|||
|装甲||舷側 410mm、甲板 200mm、主砲防盾 600mm |
|||
}} |
|||
|- |
|||
[[ファイル:Musashi1944.png|thumb|戦艦武藏([[1944年]][[レイテ沖海戦]]時)|300px]] |
|||
|搭載機||[[零式水上偵察機]]・零式観測機他、最大7機<br />(カタパルト2基) |
|||
'''武蔵'''(むさし、{{旧字体|'''武藏'''}}<ref name="達241號">[[武蔵 (戦艦)#達昭和15年11月(1)|#達昭和15年11月(1)p]].1『{{Kyujitai|達󠄁第二百四十一號 三菱重工業株式會社󠄁長崎造󠄁船󠄁所󠄁ニ於テ建󠄁造󠄁中ノ戰艦一隻󠄁ニ左ノ通󠄁命名セラル 昭和十五年十一月󠄁一日 海󠄀軍大臣[[嶋田繁太郎|嶋田繁󠄁太郞]] 戰艦 '''武藏(ムサシ)'''}}』</ref>)は、[[大日本帝国海軍]]の[[大和型戦艦]]の2番艦<ref name="S17内令1456"/>。艦名は[[武蔵国]]から因んで命名された。この名を持つ大日本帝国海軍の艦船としては3隻目にあたる<ref name="幕末以降武蔵">[[#幕末以降帝国軍艦写真と史実]]コマ33(原本39頁)『<ins>武蔵(むさし)</ins> <ins>艦種</ins>巡洋艦 三檣「バーク」 <ins>艦名考</ins>国名に採る。 <ins>艦歴</ins>明治27・8年戦役従軍:同27年8月威海衛砲撃に、同11月大連港及旅順国占領に従事、同28年2月威海衛総攻撃及同占領に従事、同31年月三等海防艦に編入、同37・8年戦役に従軍:大正元年8月二等海防艦に列す。同3年乃至9年戦役に従軍:露領沿岸警備に従事、11年4月1日軍艦籍より除き、更めて特務艦(測量艦)と定めらる。昭和3年4月1日除籍。<br/>(備考)尚ほ此の外に幕末に初代の軍艦とも云ふ可き「武蔵」あり、同艦は明治元年11月外国人より購入(製造場所、竣工年月日、及原名等不詳)のものにして、同2年2月品海碇泊中火を失して焼く、同3年安芸、焼残船体を大蔵省に交付す。(要目略)』</ref>。大日本帝国海軍が建造した最後の戦艦である。 |
|||
|} |
|||
</div> |
|||
[[Image:Musashi1944.png|thumb|戦艦武藏([[1944年]]レイテ沖海戦時)|300px]] |
|||
'''武蔵'''(むさし)は、[[第二次世界大戦]]中に建造された[[大日本帝国海軍]]の[[大和型戦艦]]の二番艦である。当時は'''武藏'''と表記された。この名を持つ日本海軍の艦船としては3隻目。 |
|||
== |
== 沿革・艦歴 == |
||
[[1934年]](昭和9年)12月、[[大日本帝国]](以下日本)は[[第二次ロンドン海軍軍縮会議|第二次ロンドン海軍軍縮条約]]の予備交渉が不調に終わったことを受けて[[ワシントン海軍軍縮条約]]から脱退し、列強各国が軍艦の建造を自粛していた[[海軍休日]]は終わった。[[1936年]](昭和11年)12月26日、[[上田宗重]]海軍艦政本部長が[[三菱重工業]]最高幹部を招き、[[③計画]]における巨大新型戦艦建造について事前準備を依頼した<ref>[[#内藤レクイエム]]96-100頁、 [[#武蔵建造記録]]24-25頁</ref>。[[1937年]](昭和12年)開催の第七〇回帝国議会で予算が承認され、3月29日に計画名「A140-F6」から第一号艦、第二号艦と仮称された<ref>[[#内藤レクイエム]]127頁</ref>(予算詳細は[[大和 (戦艦)|大和]]を参照)。9月8日、海軍艦政本部から三菱重工業に「A140-F6」が正式発注される<ref>[[#内藤レクイエム]]131頁、[[#武蔵建造記録]]33頁</ref>。予算見積折衝を経て、[[1938年]](昭和13年)3月29日、第二号艦(武蔵)の建造が始まった<ref>[[#武蔵建造記録]]34頁「第4節 超々弩級戦艦の建造下命」</ref>。[[三菱重工業長崎造船所]]建造の戦艦としては、[[金剛型戦艦]]の[[霧島 (戦艦)|霧島]]、[[伊勢型戦艦]]の[[日向 (戦艦)|日向]]、[[加賀型戦艦|加賀型戦艦の土佐]]、[[天城型巡洋戦艦|天城型巡洋戦艦の高雄]]<ref>Ref.C08050173900「軍艦天城愛宕高雄製造一件(製造取止め)(2)」p. 22</ref>([[八八艦隊|八八艦隊未完成艦]])に続いて5隻目となるが、土佐や高雄の4万トンから大和型6万5千トンへの飛躍には、船台拡張を含めた技術者の研究と努力が必要だった<ref>[[#武蔵建造記録]]59頁「第3章、戦艦武蔵の受入準備」</ref>。 |
|||
[[三菱重工業長崎造船所]]建造の戦艦としては、3隻目([[加賀型戦艦|土佐]]を除く)となる。 |
|||
武蔵は設計段階から司令部施設の充実がはかられ、大和で弱点と指摘された副砲塔周辺の防御力も強化された<ref>[[#内藤レクイエム]]138頁、[[#武蔵建造記録]]103-104頁</ref>。武蔵の艤装員だった[[千早正隆]]によれば[[最上型重巡洋艦]]から転用された副砲の装甲の薄さは特に懸念され、[[有馬馨]]艤装員長(初代艦長)と共に副砲の撤去を訴えている<ref>[[#海軍驕り]]47-48頁</ref>。艦政本部の清水技術中将が[[山本五十六]]連合艦隊司令長官に副砲の防御力問題について相談すると、山本は「副砲を撤去して蓋をすれば良い」と述べた<ref>[[#海軍驕り]]191頁</ref>。これについて[[牧野茂 (軍人)|牧野茂]](大和型戦艦設計陣)は山本と清水の会談は知っていたが内容についてまでは知らず「検討に値する提案なのに惜しい事をした」と千早に語っている<ref>[[#海軍驕り]]192頁</ref>。また司令部施設の充実について、千早は「暴論、定見を欠いた」と評している<ref>[[#海軍驕り]]79頁</ref>。[[1942年]](昭和17年)1月、連合艦隊司令部から拡張要求があった時点で武蔵は大和と同じ内部構造だったが、内装の変更に駆逐艦1隻分の工事費増加、3ヶ月の竣工遅延が生じた<ref>[[#海軍驕り]]77-78頁</ref>。[[宇垣纏]]連合艦隊参謀長も「大和に比して、当司令部の意見に従ひ改善せられたる点、相当多し」と記している<ref>[[#戦藻録(九版)]]166頁</ref>。 |
|||
僚艦同様本艦の建造は極秘とされ、船台の周囲には漁具(魚網等)に使う[[棕櫚]](しゅろ)を用いた、すだれ状の目隠しが全面に張り巡らされた。全国から膨大な量の棕櫚を極秘に買い占めたために市場での著しい欠乏と価格の高騰を招き、警察が悪質な買い占め事件として捜査を行ったとされる。また、[[棕櫚]]の目隠しが船台に張り巡らされると、付近の住民らは「ただならぬことが造船所で起きている」と噂し、建造中の船体を指して「オバケ」と呼んでいたという。また、対岸にはアメリカ・イギリスの[[領事館]]があったため、目隠しのための遮蔽用倉庫を建造するなど(長崎市営常盤町倉庫)、建造中の艦の様子が窺い知れないような対策を施した。<ref name="a">吉村昭 「戦艦武蔵」(新潮文庫)ISBN 4101117012 </ref> |
|||
姉妹艦の大和や「110号艦([[信濃 (空母)|信濃]])」同様本艦の建造は極秘とされ、艤装員(建造中の艦乗組員)は長崎造船所を秘匿した「有馬事務所」に勤務するよう命じられた<ref>[[#海軍驕り]]45頁、[[#武藏上]]34頁。[[太田清忠]](機関科兵曹)談</ref>。機密に対する警戒は厳重で、有馬馨艤装員長ですら、腕章を忘れると検問を通過できなかった<ref>[[#武藏上]]41頁、[[#豊田 レイテ]]151頁</ref>。外部に対しては、さまざまな方法で武蔵を隠す手段がとられた。船台の周囲には漁具(魚網等)に使う[[棕櫚]](しゅろ)を用いた、すだれ状の目隠しが全面に張り巡らされた。全国から膨大な量の棕櫚を極秘に買い占めたために市場での著しい欠乏と価格の高騰を招き、漁業業者が抗議<ref>[[#武蔵ノート]]164-165頁</ref>。警察が悪質な買い占め事件として捜査を行ったとされる。また、[[棕櫚]]の目隠しが船台に張り巡らされると、付近の住民らは「ただならぬことが造船所で起きている」と噂し、建造中の船体を指して「オバケ」「魔物」と呼んでいたという<ref>[[#武藏上]]53-54頁、 [[#武蔵ノート]]108、173頁</ref>。 |
|||
このような厳重な機密保持のもとではあったが、新人製図工による図面紛失事件や、熟練工でも困難な進水台の作成など、建造には常に障害が相次いだ。進水時には船体が外部に露見してしまうため,当日を「防空演習」として付近住民の外出を禁じ、付近一帯に[[憲兵 (日本軍)|憲兵]]・警察署員ら600名、[[佐世保鎮守府]]海兵団隊員1200名などを配置した。このような厳重な警戒態勢の中で[[進水式]]は挙行された。 |
|||
また、対岸にはアメリカ・イギリスの[[領事館]]があったため、目隠しのための遮蔽用倉庫(長崎市営常盤町倉庫)を建造するなど、建造中の艦の様子が窺い知れないような対策を施した<ref name="a">吉村昭 「戦艦武蔵」(新潮文庫)ISBN 4101117012 </ref>。長崎住民に対する監視も厳しく行われ、造船所を見つめていると即座に叱責を受けて体罰を受けたり<ref>[[#武藏上]]47頁、[[川原熊次郎]](技師)談</ref>、逮捕されることもあった<ref>[[#武蔵ノート]]122頁</ref>。造船所を見渡す高台にあった[[グラバー園|グラバー邸]]や[[旧香港上海銀行長崎支店|香港上海銀行長崎支店]]を三菱重工業が買い取るということも行われた<ref>[[#武蔵建造記録]]77頁「造船所周辺からの望見禁止」</ref>。 |
|||
進水時に進水台を潤滑する、獣脂の調製・製造にも骨を折ったといわれる。錨鎖をあらかじめ減速用の重りとして付け、長崎造船所第二船台から、狭い長崎港内に滑り込んだ武蔵の船体は、周辺の海岸に予想外の高波を発生させた。周辺河川では水位が一気に30センチ上昇したところもあり、船台対岸の浪の平地区の民家では床上浸水を生じ、畳を汚損したとの被害報告も確認されている<ref name="a"/>。 |
|||
また、客船についてのノウハウを持つ民間の三菱重工業長崎造船所の艤装技術が盛り込まれ、大和よりも内装は豪華であったともされている。 |
|||
また、機密保持のため、海軍機は1940年3月頃から、陸軍機は1940年4月から長崎市上空の飛行を禁止された<ref>陸軍省『密大日記』第7冊(昭和15年){{アジア歴史資料センター|C01004792000|長崎市上空飛行に関する件}}、陸密第604号。</ref>。 |
|||
戦艦武蔵は、現在までのところ、日本が建造した最後の[[戦艦]]である。 |
|||
一番艦の[[大和 (戦艦)|大和]]よりも遅れて起工された武蔵には、大和建造中に判明した不具合を改善して反映させることができた<ref name="a"/>。これらの改善の中には、第一艦橋左右の大型スポンソンなど、のちに大和のほうに追加されたものもある。しかし一方で、ドック内で建造された大和と異なり、船台上で建造された武蔵は、「船台から海面に下ろし進水させる」という余分な工程を抱えていた。重量軽減のため、舷側や主要防御区画の装甲を進水後に取り付けたほどである<ref>[[#秋元記録]]29頁</ref>。更に工事の途中で[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])が始まった為、完成予定を[[1942年]](昭和17年)12月から同年6月に繰り上げる命令が下された<ref>[[#武藏上]]64頁</ref>。これらの経緯は[[吉村昭]]の『戦艦武蔵』および[[牧野茂 (軍人)|牧野茂]]/[[古賀繁一 (実業家)|古賀繁一]]監修『戦艦武蔵建造記録』(アテネ書房)に詳しい。 |
|||
== 艦歴 == |
|||
* [[1938年]] - 3月29日 [[三菱重工業長崎造船所]]にて起工。 |
|||
厳重な機密保持に加えて、新人[[製図工]]による図面紛失事件や<ref>[[#武蔵ノート]]100-102頁</ref>、熟練工でも困難な進水台の作成など、建造には常に障害が相次いだ。進水時には船体が外部に露見してしまうため、当日([[1940年]](昭和15年)11月1日)を「防空演習」として付近住民の外出を禁じ、付近一帯に[[憲兵 (日本軍)|憲兵]]・警察署員ら600名、[[佐世保鎮守府]]海兵団隊員1200名などを配置した<ref>[[#豊田 レイテ]]147-149頁、 [[#武蔵建造記録]]103頁</ref>。このような厳重な警戒態勢の中で、[[伏見宮博恭王]]元帥(昭和天皇名代)<ref>[[#実録八|昭和天皇実録八巻]]221頁『(昭和十五年十一月)一日 金曜日(軍艦武蔵命名式)三菱重工業株式会社長崎造船所において軍艦武蔵命名式につき、博恭王を差し遣わされる。』</ref>、[[及川古志郎]]海相、[[豊田副武]]艦政本部長らが列席のもと、[[進水式]]は挙行された。皇族の[[伏見宮博恭王]]でさえ、平服で式場に入り、その後軍服に着替えるという徹底ぶりであった<ref>[[#内藤レクイエム]]152頁、[[#武蔵建造記録]]103頁</ref>。 |
|||
* [[1940年]] - 11月1日 [[進水]]。 |
|||
* [[1942年]] - 8月5日 呉にて竣工。[[横須賀鎮守府]]籍に編入。 |
|||
進水時に進水台を潤滑にする、獣脂の調製・製造にも多大な労力が必要だった<ref>[[#武蔵建造記録]]163-164頁「獣脂に関する諸試験」</ref>。錨鎖をあらかじめ減速用の重りとして付け、長崎造船所第二船台から狭い長崎港内に滑り込んだ武蔵の船体は、制動までに44mよけいにかかったが<ref>[[#内藤レクイエム]]155頁</ref>、予定どおり艦尾をやや左に振って停止した<ref>[[#内藤レクイエム]]151-152頁</ref>。無事に進水し、関係者は涙が止まらなかったという<ref>「毎日新聞連載 日本造船十話」p.8</ref>。進水時、周辺の海岸に予想外の高波が発生した。周辺河川では水位が一気に30センチ上昇したところもあり、船台対岸の浪の平地区の民家では床上浸水を生じ、畳を汚損したとの被害報告も確認されている<ref>[[#武蔵建造記録]]183頁</ref>。進水式は映像として記録されたが、終戦時に焼却された<ref>[[#武蔵建造記録]]177頁</ref>。同日附をもって正式に『武蔵』と命名<ref name="達241號"/>。なお軍務局の[[寺崎隆治]](海兵50期)や、及川大臣の秘書官として進水式に参加した[[福地誠夫]]によれば、武蔵の存在を排水量4万トン程度の戦艦として世界に公表する予定であったが、豊田艦政本部長の反対により急遽中止された<ref>[[#海軍反省会2]]163頁</ref>。 |
|||
* [[1943年]] - 2月12日 [[連合艦隊]]の[[旗艦]]となる。 |
|||
:この間[[連合艦隊司令長官]][[山本五十六]]が戦死([[海軍甲事件]])。 |
|||
進水後は[[日本郵船]]の大型貨客船春日丸(後に空母[[大鷹 (空母)|大鷹]]に改造)に隠されながら移動し、向島艤装岸壁で工事が進められた<ref>[[#内藤レクイエム]]156頁</ref>。艦中央部右舷に設置された司令部施設に関しては、大和を建造中の呉工廠が内装への自信を持てず、豪華客船建造の実績がある長崎三菱造船所に依頼して、武蔵と全く同じ調度品を揃えて大和に搭載した<ref>原『伝承・戦艦大和 上』37頁</ref>。それでも武蔵の方が調度品が良かったという証言がある<ref>[[#戸高2007]]、95頁。[[土肥一夫]](連合艦隊参謀)談</ref>。[[真珠湾攻撃]]により[[太平洋戦争]]が勃発すると、長崎の住民も武蔵のことを公然と話題に出すようになっていった<ref>[[#海軍驕り]]72頁</ref>。また武蔵進水後も第一船台は簾で隠されており、市民は「武蔵がもう1隻いる」と噂していた<ref name="艦と人129">[[#艦と人]]129頁</ref>。造船所で発生した夜間火災で簾ごしに巨大艦の姿が浮かびあがり人々を驚かせたが、これは第二船台で建造中の空母[[隼鷹 (空母)|隼鷹(橿原丸)]]であった<ref name="艦と人129"/>。また、当時の武蔵の甲板上を[[甲板士官]]が自転車で移動していたという逸話が残っている。 |
|||
* 1943年 - 5月17日 [[金剛 (戦艦)|金剛]]・[[榛名 (戦艦)|榛名]]とともに[[山本五十六]]長官の遺骨を乗せて[[チューク諸島|トラック島]]から横須賀へ帰還。これが武蔵の初任務となった。その後呉またはトラックに駐留し、ガダルカナル方面への戦闘にも参加していない。そのため『武蔵御殿』と揶揄されていた。 |
|||
[[スクリュー]]の取り付け等の艤装は、[[佐世保工廠]]に本艦の為に整備された第7[[ドック]]で実施された<ref>[https://www.jiji.com/sp/v4?id=201506abattleship-musashi0004 戦艦「武蔵」の誕生 桁外れの巨大戦艦]時事通信</ref>。その後、三菱重工業長崎造船所に回航、艤装が続けられるも、副砲塔の[[バーベット]]構造の防御力強化のため4基とも取り外しの上で[[呉海軍工廠]]に回航(副砲塔は別途運送船で回航)され、呉工廠で完工する{{要出典|date=2022年7月}}。 |
|||
* [[1944年]] - 2月24日 陸軍部隊輸送に参加。29日パラオに到着。 |
|||
* 1944年 - 3月29日 米潜水艦タニーの雷撃を受け、浸水2600t、戦死者7名、負傷者11人の被害を出して呉に到着。 |
|||
[[ファイル:Musashi,Bridge.jpg|thumb|200px|完成直後の武蔵をとらえたもので、昭和17年(1942年)6〜7月に行われた公試運転の期間中に撮影されたとされる。<ref>週刊 栄光の日本海軍 パーフェクトファイル (No.1)</ref>]] |
|||
* 1944年 - 4月22日 呉で対空戦闘の為の改装工事完了。25mm三連機銃18基増設。 |
|||
* 1944年 - 5月4日 巡洋艦[[大淀 (軽巡洋艦)|大淀]]に連合艦隊旗艦を譲る。 |
|||
艦内には「武蔵神社」があり、御神体は武蔵国[[氷川神社]]から[[分霊]]したものだった<ref>[[#内藤レクイエム]]215頁</ref>。位置は上甲板右舷、長官室・艦長室前の通路上である<ref>[[#武蔵建造記録]]145、279頁</ref>。竣工式に氷川神社の神主が招かれており<ref>[[#武藏上]]84頁</ref>、また伊勢神宮、長崎諏訪神社の系列社もあったとされる<ref>[[#武蔵ノート]]146頁</ref>。 |
|||
* 1944年 - 6月15日 [[マリアナ沖海戦]]参加。 |
|||
* 1944年 - 10月22日 [[レイテ沖海戦]]参加。 |
|||
=== 連合艦隊旗艦期 === |
|||
* 1944年 - 10月23日 パラワン水道にて[[摩耶 (重巡洋艦)|摩耶]]の乗組員769名を救助。 |
|||
1942年8月5日に「武蔵」は第一艦隊第一戦隊に編入された<ref name=戦史叢書(62)252>『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』、252ページ</ref>。「武蔵」は1943年1月18日に呉を出発してトラックへ向かい、1月22日に到着<ref name=戦史叢書(62)252/>。2月11日に「大和」に代わって「武蔵」が連合艦隊旗艦になった<ref name=戦史叢書(62)252/>。 |
|||
* 1944年 - 10月24日 [[シブヤン海]]にて沈没。<ref name="a"/> |
|||
<!--2番艦でありながらこの抜擢は、(上記にもあるように)連合艦隊司令部施設の要求が反映されたゆえであったと考えられている{{要出典|date=2022年8月}}。-->武蔵は連合艦隊旗艦になった最後の戦艦であり、太平洋戦争期間中に一番長く連合艦隊旗艦を務めた艦でもある。 |
|||
* 2010年 - 戦艦武蔵の士官室に備え付けられていた姿見用鏡が、元武蔵乗組員から横須賀市の居酒屋信濃に寄贈され、店内で展示されている。 |
|||
しかし、[[トラック諸島]]泊地からは動くことは無く旗艦となっても戦いの最前線に立たなかったことから、当時の将兵達が大和を「大和ホテル」と揶揄していたように、武蔵も「武蔵御殿」「武蔵旅館」と陰口を叩かれるようになっていた。4月18日、聯合艦隊司令長官[[山本五十六]]が戦死、[[宇垣纏]]参謀長も重傷を負う([[海軍甲事件]])。後任の連合艦隊司令長官には[[古賀峯一]]大将が任命され<ref>[[#城日記|城英一郎日記]]265-266頁「(昭和18年)四月二二日(木)晴」</ref>、古賀長官はトラック泊地に移動して武蔵に将旗を掲げた。 |
|||
[[ファイル:YamatoClassBattleships.jpg|thumb|200px|[[チューク諸島|トラック島]]に停泊する2隻の[[大和型戦艦]]。<ref>TJMOOK 宝島社 CGフルカラーでよみがえる 日本海軍艦艇大図鑑p.34</ref>]] |
|||
5月12日、連合軍は[[アッツ島]]に上陸を開始する([[アッツ島の戦い]])。連合艦隊の主力艦艇は東京湾に集結することになり、これを機会に昭和天皇の武蔵行幸の予定が組まれる<ref>[[#城日記|城英一郎日記]]274-275頁「(昭和18年)五月一八日(火)曇 皇后陛下、慈惠会行啓。GF旗艦〔戦艦「武蔵」〕、東京湾帰着(五月二二日)につき、行幸の件につき武官長の命により、海軍省、軍令部(〔伊藤整一〕次長、〔沢本頼雄〕次官)に連絡す。海軍側としては、有難き思召なるも、作戦、機密保持の関係上、今少しくゆとりある時期にお願したしとの意向。(以下略)」</ref>。 |
|||
5月17日、武蔵と同行艦艇はトラック泊地を出発する。22日、武蔵は山本元帥の遺骨と共に東京湾に到着した<ref>[[#城日記|城英一郎日記]]277頁「(昭和18年)五月二二日(土)晴(中略)機動部隊及「武蔵」東京湾着。(以下略)」</ref>。 |
|||
[[ファイル:Yamamoto's ashes on Musashi.jpg|thumb|1943年5月23日、戦死した[[山本五十六]]長官の遺骨を内地へ届けた武蔵|200px]] |
|||
翌日、元帥の遺骨は東京駅に到着した<ref>[[#城日記|城英一郎日記]]277頁「(昭和18年)五月二三日(日)晴 当直 一四四三、山本元帥の遺骨、東京駅着。(以下略)」</ref>。6月24日、[[昭和天皇]]が「武蔵」に行幸し、艦内を見学した<ref>[[#城日記|城英一郎日記]]288-289頁「(昭和18年)六月二四日(木)晴「武蔵」に行幸(海軍に対してはGFに行幸の名目)。(以下略)」</ref>。 |
|||
7月31日に武蔵は日本を発ち、8月5日に再びトラックへと到着し、訓練が続けられた。翌年の[[1944年]](昭和19年)2月10日にトラック泊地を発ち、15日に横須賀に帰還。海軍はトラックが落ちたことから、西[[カロリン諸島]]の[[パラオ]]に根拠地を移すため、24日には武蔵は3陸軍上陸部隊と5000tもの大量の物資を積んで横須賀を出て、29日に到着した。そして3月29日、[[パラオ大空襲|パラオに迫るアメリカ軍]]に対し、聯合艦隊司令部を陸上に移す為、環礁を出て[[ダバオ]]へ移動中、米潜水艦[[タニー (潜水艦)|タニー]]の雷撃により魚雷1本を艦首部に受け、小破。<ref>週刊 栄光の日本海軍 パーフェクトファイル(No.2)p.20</ref>2600t余りの浸水を許し戦死者7名、負傷者11名を出した。 |
|||
二日後の31日、古賀長官の事故による行方不明([[海軍乙事件]])に伴い、旗艦の任を解かれ、日本に帰還することになった。 |
|||
=== マリアナ沖海戦 === |
|||
1944年4月に帰国した武蔵は修理を兼ねて改造作業が行われ、[[あ号作戦]]に向けて航空機に対抗する為に左右両舷副砲を撤去し、そこに高角砲用砲台が設けられたが、レイテ沖海戦までに高角砲増設工事が間に合わず、25mm三連装機銃を計6機増設している<ref>[[#秋元記録]]78頁、[[#武蔵建造記録]]222頁</ref>。このため、大和とは兵装が異なり、対空能力を向上させる改造が加えられたが、日本海軍の主たる対空砲である12.7cm砲の増設は適わなかった。新造時より対空攻撃能力が増したものの、[[秋月型駆逐艦]]の長10cm砲どころか、12.7cm砲すら増設できない程に日本の国内事情も逼迫しており、25mm機銃の増産によってそれをカバーする対策となった。 |
|||
4月22日に改造を終え、5月10日にテスト運行を終わった後16日に、武蔵は[[タウイタウイ]]泊地に着き、約1カ月の訓練の後、6月10日に泊地を発ち、[[パチャン島]]泊地に待機し、[[ビアク島]]に上陸するアメリカ軍を攻撃する渾作戦に向けて動こうとしていたが、13日にアメリカ軍が[[マリアナ諸島]]を侵攻目標に選んだ為に作戦が中止され、武蔵は他の艦艇と共に16日、大和と共に戦列に加わり、[[マリアナ沖海戦]]に参加した。 |
|||
大和、武蔵を主軸とした戦艦部隊が機動部隊前方に配置され、後方の小沢機動部隊の空母艦隊の盾となるべき効果を期待されたものの、米攻撃部隊は戦艦部隊をやり過ごす形で後方の空母部隊を攻撃、[[大鳳 (空母)|大鳳]]、[[翔鶴 (空母)|翔鶴]]、[[飛鷹 (空母)|飛鷹]]といった主力空母3隻を失い、機動部隊も[[VT信管]]や、新式レーダーによるアメリカ軍の攻撃による返り討ちに遭い、実質的に日本機動部隊はここに壊滅、戦艦部隊は当初の目的たる機動部隊の盾になる目論見が崩れ、全く被害を受けることすら無かった。 |
|||
大和、[[金剛 (戦艦)|金剛]]、[[榛名 (戦艦)|榛名]]や一等巡洋艦類と艦列を組んでいた武蔵は空母部隊に向かうアメリカ軍機に対し、対空46cm砲を放ったものの撃墜及び撃破数は20数機ほどに留まった。 |
|||
== レイテ沖海戦 == |
== レイテ沖海戦 == |
||
[[ファイル:Japanese battleships at Brunei, Borneo, in October 1944 (NH 73090).jpg|thumb|レイテ沖海戦直前、10月21日にブルネイ泊地に集合した日本戦艦群。手前が戦艦[[長門 (戦艦)|長門]]、そして右から[[重巡洋艦]][[最上 (重巡洋艦)|最上]]を挟んで、戦艦'''武蔵'''、[[大和 (戦艦)|大和]]だとされる|200px]] |
|||
=== 戦闘経過 === |
|||
[[ファイル:Japanese battleship Musashi cropped.jpg|200px|thumb|right|ブルネイを出航する武蔵 (昭和19年10月22日)]] |
|||
[[ファイル:IJN ships leave Brunei Bay.jpg|thumb|10月22日、ブルネイを出撃する栗田艦隊。右の[[長門 (戦艦)|長門]]の前方が武蔵で、そこから奥に向かって[[大和 (戦艦)|大和]]、[[榛名 (戦艦)|榛名]]、[[金剛 (戦艦)|金剛]]と、[[高雄型重巡洋艦]]4隻。|200px]] |
|||
この海戦で武蔵は[[栗田健男]]中将指揮の日本軍第一遊撃部隊・通称「栗田艦隊」に所属し、第一戦隊(司令官、[[宇垣纏]]中将)の一艦として[[大和 (戦艦)|大和]]、[[長門 (戦艦)|長門]]と行動を共にした。この時、長門の水上偵察機2号機が武蔵に移され、長門の整備兵7名も共に移乗している<ref>[[#捷号作戦戦闘詳報(5)]]p.46</ref>。[[十二糎二八連装噴進砲|対空噴進砲]](対空[[ロケット砲]])を探照灯の部分に片舷1基ずつ積んでいたという証言<ref>[[#塚田年少兵]]179-180頁、右舷高射指揮装置勤務</ref>もあるが、実証する史料は発見されていない<ref>[[#秋元記録]]295頁</ref>。証言によれば、レイテ沖開戦前に試射が行われたものの実戦では噴進砲への兵員の配置は行われず一度も使用しなかったとされる。 |
|||
<!-- 当時の噴進砲は命中精度が悪く、威嚇用にしかならなかったとも言われる<ref>[[#妙高戦闘詳報]]p.52「25ミリ機銃の代用にせば極めて有利なりと認めるも、現用ものにしては不可なり。(中略)更に急速改善の要あり」</ref>。 だが同海戦の支海戦の一つ、[[レイテ沖海戦#エンガノ岬沖海戦|エンガノ岬沖海戦]]で[[伊勢 (戦艦)|伊勢]]と[[日向 (戦艦)|日向]]の2隻の航空戦艦は、対空噴進砲を有効に活用してこの海戦を乗り切り、ほぼ無傷で帰還している。 …搭載しているか確定できない段階では、武蔵と直接関係のないことなのでコメントアウト。--><!-- また[[捷一号作戦]]発動に際し10月18日に夜間迷彩として木甲板を黒い塗料で塗装した為、最終時の最上甲板は黒色だったと思われるが、塗料の材質は不明。砥の粉で磨かれていたという説や煤を溶剤に溶かしたものだという説がある。 …手塚本では、複数乗組員が1944年初頭の段階で甲板黒色と証言。捷一号作戦時にはじめて黒色塗装を施したという資料・証言あれば付加してコメントアウト解除して下さい。 --> |
|||
[[リンガ泊地]]では、米袋に砂を入れて土嚢とした物を機銃台のまわりに積み上げるなどの出撃準備を行った<ref>[[#佐藤 武蔵]]119頁</ref>。9月25日、[[池田貞枝]]中佐から[[仮谷実]]中佐へ航海長(実際に軍艦を操舵する役職)交替<ref>[[#武藏上]]563頁</ref>。10月1日、乗員にシンガポールへの休暇が許され、シンガポールへの移動には長門が使用された<ref>[[#武藏上]]567頁、[[#細谷航海記]]102頁</ref>。10月18日リンガ泊地を出撃し、10月20日に[[ブルネイ]]に入泊した。 |
|||
この時、武蔵だけは塗装を塗り直し他の艦より明るい銀鼠色となった<ref>[[#渡辺 武蔵]]4頁。[[#細谷航海記]]114頁</ref>。下士官兵の中には「艦長四代副長二代の死(四ニ)装束」として縁起をかつぐ者もおり<ref>[[#佐藤 武蔵]]134頁</ref>、「武蔵は囮艦なのだ」と不安になる兵もいた<ref>[[#塚田年少兵]]13-15頁</ref>。他艦からも縁起が悪いとみなされていたようである<ref>[[#雪風ハ沈マズ新装]]338頁、[[#井上 磯風]]40-42頁</ref>。この塗装が艦隊の命令なのか、可燃物である塗料を始末しようとする武蔵首脳の独自の判断なのかは不明<ref>[[#武藏上]]594頁</ref>。[[能村次郎]](レイテ沖海戦時、戦艦大和副長兼砲術長)は猪口艦長から「大和も一緒に外舷を塗りなおそう」と誘われ、作戦が終わってから塗りなおすと断っている<ref>[[#能村慟哭]]140-141頁</ref>。 |
|||
10月22日、武蔵はブルネイを出撃した。10月23日、栗田艦隊はパラワン水道を通過中に米潜水艦[[ダーター (SS-227)|ダーター]]と[[デイス (潜水艦)|デイス]]の攻撃に遭い、重巡洋艦[[愛宕 (重巡洋艦)|愛宕]]、[[摩耶 (重巡洋艦)|摩耶]]が沈没、[[高雄 (重巡洋艦)|高雄]]が大破した<ref name="比律賓沖3">[[#摩耶戦闘詳報]]p.3</ref>。武蔵は駆逐艦[[秋霜 (駆逐艦)|秋霜]]が救助した摩耶の乗組員769名を収容する<ref>[[#武蔵戦闘詳報]]p.2、[[#摩耶戦闘詳報]]p.3</ref>。以前から第二艦隊司令部は、旗艦設備の整った大和型戦艦(特に武蔵)に旗艦を移すよう連合艦隊司令部・軍令部に申請していたが<ref>6月28日「第二艦隊旗艦ヲ武蔵型トシ第一戦隊ヲ直率、第四戦隊ニハ次席指揮官ヲ置ク」</ref>、思いもよらぬ形で実現することになった<ref>[[#武藏上]]602-603頁、[[#戸高2007]],78頁</ref>。だが司令部通信兵が各艦に分散したため、栗田艦隊の通信能力は後の戦闘で混乱した。 |
|||
=== アメリカ軍戦力 === |
|||
[[レイテ沖海戦#シブヤン海海戦|レイテ沖海戦におけるシブヤン海海戦]]において、[[ウィリアム・ハルゼー]]大将、[[マーク・ミッチャー]]中将率いる第38任務部隊は4つの空母群を持っていた。 |
|||
第1空母群は補給のため後方におり、第3群が最も北側、第2群がサンベルナルジノ海峡東90km、第4群がサマール島南端に配置されていた。武蔵をはじめ栗田艦隊を襲撃したのは、第2群、第3群、第4群であった。 |
|||
=== 軍艦武蔵戦闘詳報 === |
|||
{| class="wikitable" |
{| class="wikitable" |
||
|+1944年10月24日 |
|+1944年10月24日 |
||
|style="width:70px;"|9:30 |
|style="width:70px;"|9:30 |
||
|[[大和 (戦艦)|大和]]の見張員がアメリカ陸軍偵察機を発見<ref name=" |
|[[大和 (戦艦)|大和]]、武蔵の見張員がアメリカ陸軍[[B-24 (航空機)|B-24爆撃機]](偵察機)を発見<ref name="武蔵報3">[[#武蔵戦闘詳報]]p.3</ref>。 |
||
|- |
|- |
||
|10:00頃 |
|10:00頃 |
||
|[[能代 (軽巡洋艦)|能代]]のレーダーが100キロの彼方に敵機の大編隊を発見 |
|大和、[[能代 (軽巡洋艦)|能代]]のレーダーが100キロの彼方に敵機の大編隊を発見<ref name="武蔵報3"/>。 |
||
|- |
|- |
||
|10:25 |
|10:25 |
||
| |
|アメリカ軍機約40機を見張員が発見。しかし乱積雲の中に見失う<ref name="武蔵報4">[[#武蔵戦闘詳報]]p.4</ref>。 |
||
|- |
|- |
||
|10:25~10:27 |
|10:25~10:27 |
||
|第一次空襲(44機。うち武蔵への来襲機数17機)。見失った |
|第一次空襲(44機。うち武蔵への来襲機数17機)。見失ったアメリカ軍編隊が右舷の雲間より急襲。被弾1、被雷1、至近弾4。一番主砲塔天蓋に命中するも、砲塔への被害無し。至近弾により艦首水線下に僅かに漏水。被雷の衝撃により前部主砲射撃方位盤故障<ref>[[#武蔵戦闘詳報]]p.5</ref>。浸水により右舷に5.5度傾斜するも注排水により傾斜角右1度まで回復<ref name="武蔵報4"/>。主砲発射せず、副砲48発を発砲<ref name="武蔵詳報21">[[#武蔵戦闘詳報]]p.21</ref>。 |
||
|- |
|- |
||
|11:38~11:45 |
|11:38~11:45 |
||
|第二次空襲(来襲機数16機)。被弾2、被雷3、至近弾5。被雷の浸水により今度は左舷に5度傾斜するも排水により傾斜角左1度まで回復。艦首が戦闘開始前に比べ約2m沈下。甲板を貫通した |
|第二次空襲(来襲機数16機)。被弾2、被雷3、至近弾5。被雷の浸水により今度は左舷に5度傾斜するも排水により傾斜角左1度まで回復。艦首が戦闘開始前に比べ約2m沈下。甲板を貫通した250kg爆弾が第十兵員室で炸裂、第2機械室の主蒸気管を破損し室内が水蒸気で充満。火焔の侵入と重なり第2機械室は使用不能に陥る。これにより3軸運転、最大速力22ktに低下<ref>[[#武蔵戦闘詳報]]p.6</ref>。主砲発射9発、副砲17発<ref name="武蔵詳報21"/>。 |
||
|- |
|- |
||
|12:17 |
|12:17 |
||
|第三次空襲(来襲機数13機)。被弾0、被雷1、至近弾3。被雷により測程儀室・測深儀室破壊。前部戦時治療室がガス充満の為使用不能。戦闘後、司令部より「コロンへ向かえ」との命令が下る。 |
|第三次空襲(来襲機数13機)。被弾0、被雷1、至近弾3。被雷により測程儀室・測深儀室破壊。前部戦時治療室がガス充満の為使用不能<ref>[[#武蔵戦闘詳報]]p.7</ref>。主砲発射13発、副砲43発<ref name="武蔵詳報21"/>。戦闘後、司令部より「コロンへ向かえ」との命令が下る。 |
||
|- |
|- |
||
|12: |
|12:23 |
||
|第四次空襲(来襲機数20機)。被弾4、被雷4。再び右舷に大きく傾斜するも排水により傾斜角右1度まで回復。艦首、更に3m沈下したためトリム修正の為の注水を行う。最大速力16ノット。艦隊輪型陣から落伍。司令部から「付近の港に退避するか浅瀬に乗り上げ適当なる応急対策を講ぜよ」と下命。「武蔵の北方に在りて警戒に任ぜよ」との命令に従い、栗田艦隊第二部隊の駆逐艦 |
|第四次空襲(来襲機数20機)。12時53分、被弾4、被雷4<ref>[[#武蔵戦闘詳報]]p.8</ref>。主砲発射15発、副砲37発<ref name="武蔵詳報21"/>。再び右舷に大きく傾斜するも排水により傾斜角右1度まで回復。艦首、更に3m沈下したためトリム修正の為の注水を行う。最大速力16ノット。艦隊輪型陣から落伍。司令部から「付近の港に退避するか浅瀬に乗り上げ適当なる応急対策を講ぜよ」と下命。「武蔵の北方に在りて警戒に任ぜよ」との命令に従い、栗田艦隊第二部隊の駆逐艦[[清霜 (駆逐艦)|清霜]]、[[浜風 (陽炎型駆逐艦)|浜風]]、重巡洋艦[[利根 (重巡洋艦)|利根]]が護衛に付く<ref>[[#武蔵戦闘詳報]]p.9</ref>。 |
||
|- |
|- |
||
|13:15 |
|13:15 |
||
|第五次空襲(来襲機数0機)。艦隊輪型陣から離脱していたため攻撃を受け |
|第五次空襲(来襲機数0機)。艦隊輪型陣から離脱していたため攻撃を受けなかった。アメリカ軍機は大和、長門に攻撃を集中した。なお武蔵は大和への援護射撃で5機撃墜を報告している<ref name="武蔵詳報10">[[#武蔵戦闘詳報]]p.10</ref>。主砲7発発射<ref name="武蔵詳報21"/>。 |
||
|- |
|- |
||
|14:45~15:21 |
|14:45~15:21 |
||
|第六次空襲(来襲機数75機)。集中攻撃を受け、爆弾10発以上、魚雷11発以上、至近弾6発以上を受け大火災を起こす。またしても左舷に10度傾斜、取舵と注排水により左6度まで回復。艦首更に4m以上沈下し一番砲塔左舷側まで波で洗われる状態となる。< |
|第六次空襲(来襲機数75機)<ref name="武蔵詳報10"/>。主砲発射10発、副砲58発<ref name="武蔵詳報21"/>。集中攻撃を受け、爆弾10発以上、魚雷11発以上、至近弾6発以上を受け大火災を起こす。またしても左舷に10度傾斜、取舵と注排水により左6度まで回復した。艦首更に4m以上沈下し一番砲塔左舷側まで波で洗われる状態となる。<br />前部艦橋にも直撃弾、航海長・高射長など准士官以上11名を含む57名が戦死。猪口艦長も右肩に重傷を負うも指揮続行。これ以上の戦力発揮は不可能と判断し、司令部へ摩耶乗組員の生存者の移乗を打診<ref>[[#武蔵戦闘詳報]]pp.11-16</ref>。 |
||
|- |
|- |
||
|17:30頃 |
|17:30頃 |
||
|摩耶乗組員の生存者と武蔵乗組員の負傷者が舷側に接弦した |
|摩耶の乗組員の生存者と武蔵乗組員の負傷者が舷側に接弦した駆逐艦[[島風 (島風型駆逐艦)|島風]]に移乗<ref>[[#武蔵戦闘詳報]]p.16</ref>。1軸のみ使用可能で、6ノットにて微速航行。 |
||
|- |
|- |
||
|19:15 |
|19:15 |
||
|傾斜角暫時増大し左舷12度となり傾斜復旧の見込み無し。総員退去用意下命。軍艦旗降下。 |
|傾斜角暫時増大し左舷12度となり傾斜復旧の見込み無し。総員退去用意下命。軍艦旗降下<ref name="武蔵詳報17">[[#武蔵戦闘詳報]]p.17</ref>。 |
||
|- |
|- |
||
|19:30 |
|19:30 |
||
|傾斜角30度。総員退艦命令。 |
|傾斜角30度。総員退艦命令<ref name="武蔵詳報17"/>。 |
||
|- |
|- |
||
|19:35 |
|19:35 |
||
|左舷に転覆、連続爆発2回、艦首より沈没。沈没位置東経122度32分・北緯13度7分・水深 |
|左舷に転覆、連続爆発2回、艦首より沈没し始めた。沈没位置東経122度32分・北緯13度7分・水深800m<ref name="武蔵詳報17"/>。 |
||
|- |
|- |
||
|} |
|} |
||
戦闘状況を伝える主な[[一次資料]]として貴重な[[戦闘詳報]]であるが、レイテ沖海戦における「軍艦武蔵戦闘詳報」には疑問を指摘する声がある。帝国海軍技術大尉だった[[内藤初穂]]によると『世界の艦船 No.512』「大東亜戦争における旧海軍の『戦闘詳報』」において、武蔵の戦闘記録を栗田艦隊各艦戦闘詳報やアメリカ軍の記録と照合した結果、疑わしい点が多々あると指摘している<ref>[[#内藤レクイエム]]190頁</ref>。沈没位置は駆逐艦の清霜が記録した「東経122度41.5分、北緯12度48分」<ref>[[#内藤レクイエム]]191頁</ref>とずれており、主砲発射時期も生存者や他艦の記録と異なり<ref>[[#内藤レクイエム]]193頁</ref>、さらに栗田艦隊各艦の空襲記録(計5)とは開始時間と回数のそれぞれが違う。たとえば、武蔵は13時15分の第五次空襲で「大和と長門に敵機集中攻撃」としているが、長門では同時刻空襲を第三次空襲と記録した上で、発砲したのは13時37分、発砲停止は14時11分である<ref>[[#長門戦闘詳報(1)]]pp.9-11</ref>。内藤は武蔵の記録は「創作戦闘詳報」に近いと評し、「今のうちにしかるべき証言者を得て、しかるべき注記を原史料に貼付しておかなければならない」としている<ref>[[#内藤レクイエム]]194頁</ref>。 |
|||
=== 沈没までの経緯 === |
|||
[[Image:Yamato at Brunei.jpg|thumb|レイテ沖海戦直前、10月21日にブルネイ泊地に集合した日本戦艦群。手前が戦艦[[長門 (戦艦)|長門]]、そして右から巡洋艦[[最上 (重巡洋艦)|最上]]を挟んで、戦艦[[武蔵 (戦艦)|武蔵]]、[[大和 (戦艦)|大和]]だとされる|200px]] |
|||
[[Image:IJN ships leave Brunei Bay.jpg|thumb|10月22日、ブルネイを出撃する栗田艦隊。右の[[長門 (戦艦)|長門]]の前方が武蔵で、そこから奥に向かって[[大和 (戦艦)|大和]]、[[榛名 (戦艦)|榛名]]、[[金剛 (戦艦)|金剛]]と、[[高雄型重巡洋艦]]4隻。|200px]] |
|||
[[Image:Musashi under attack in Sibuyan Sea.jpg|200px|thumb|right|10月24日、シブヤン海でアメリカ軍艦載機の攻撃を受ける武蔵]] |
|||
[[Image:Yamato1.jpg|thumb|魚雷を受けた武蔵。左舷後方に魚雷による水柱があがっている。|200px]] |
|||
[[Image:Musashi under attack.jpg|thumb|猛煙をあげる武蔵。魚雷による水柱が、艦橋の高さを超えている。|200px]] |
|||
[[Image:Musashi under fire.jpg|thumb|被弾しながらも前進する武蔵。後方に[[陽炎型駆逐艦]]が見える。|200px]] |
|||
[[Image:Yamato Sibuyan Sea.jpg|thumb|黒煙を上げている武蔵。左に旋回行動中の大和と、[[妙高型重巡洋艦]]、右側に[[高雄型重巡洋艦]]と[[金剛型戦艦]]が確認できる。|200px]] |
|||
[[Image:Musashi 24 Oct 1944.jpg|200px|thumb|right|アメリカ軍艦載機の攻撃後、沈みつつある武蔵。第一主砲塔前の甲板は波に洗われているが、煙突の排煙から機関は無事であることが判る(駆逐艦「[[磯風 (陽炎型駆逐艦)|磯風]]」から写したもの)]] |
|||
[[File:Yamamoto's ashes on Musashi.jpg|thumb|戦死した[[山本五十六]]長官の遺骨を内地へ届けた武蔵|200px]] |
|||
[[Image:Hiro-Hito on Musashi.jpg|right|200px|thumb|[[昭和天皇]](中央)行幸の際の記念写真。対空機銃設置前([[1943年]][[6月24日]])]] |
|||
『戦艦武蔵建造記録』でも、栗田艦隊各艦の報告と武蔵の報告が一致しないことを指摘し、[[戦史叢書]]を元に戦闘記録をまとめている<ref name="牧野建造記230">[[#武蔵建造記録]]230頁<br />第8章「竣工後の戦艦武蔵とその最後」</ref>。武蔵の戦闘詳報があいまいとなった最大の理由は、第一艦橋への直撃弾で航海部と信号部が全滅し、彼らが記載していた戦闘記録や航跡図、信号記録が消失したためである。第一艦橋全滅後に信号部の先任となった[[細谷四郎]]は、武蔵の高級将校が早々に内地に戻ったために、戦闘詳報に下士官兵の証言を取り入れなかった為と述べている<ref>[[#細谷航海記]]まえがき</ref>。 |
|||
[[レイテ沖海戦#10月24日 シブヤン海海戦|レイテ沖海戦におけるシブヤン海海戦]]において、[[アメリカ海軍|米軍]]機の[[魚雷|雷撃]]20本、爆弾17発、至近弾20発以上という'''軍艦史上最多・空前絶後の損害'''を受けたが、艦前部を主に両舷の浸水がほぼ均等で、当初左右方向への傾斜が僅かまたは復元可能であったこと及び機関部が健在であったことにより、沈没に至る過程において速度は低下したものの回避運動が可能であったため、被弾数に比べて長時間交戦できたものと推測される。ちなみに、米軍はこの戦闘を教訓として昭和20年4月の[[天一号作戦]]時の「[[大和 (戦艦)|大和]]」への攻撃を左舷に集中させたとされる。副長の加藤憲吉のメモによれば魚雷命中、右舷に5本左舷に25本、爆弾の直撃17発至近弾18を受けたと記録されている。一方米軍の記録には、爆弾命中44発、ロケット弾命中9発、魚雷の命中25本、総投下数161発中命中78発と記録した。 |
|||
なお、武蔵の戦闘詳報の「令達報告等」の項目には「'''亡失に付き誤あるやもしれず'''」の注がつけられている<ref name="武蔵詳報18">[[#武蔵戦闘詳報]]p.18</ref>。 |
|||
防水作業、復旧作業に従事した人物の手記が残っているが、これほどの被害を受けながら火災の方はすぐに鎮火したようである。後部甲板に兵員を集めて、上部士官より説明があった後に重量物の移動や排水作業を開始したが、角材がマッチ棒のように折れ、鉄板がベニヤ板のようにしなる・・・と水圧との戦いの凄まじさが伝えられている。浸水した機械室も排水作業が試みられたが、浸水は減るどころか増える一方だったと記載されている。 |
|||
=== 戦闘経過 === |
|||
昭和19年10月24日午後、速度の低下した武蔵は艦隊から落伍。[[駆逐艦]]「清霜」に伴われて[[コロン湾]]を目指したが、現地時間19時35分頃、ついに艦尾を高々と上げて沈没した。沈没時には大爆発を起こしたという記載もある。<ref name="a"/> |
|||
{{main|レイテ沖海戦}} |
|||
[[ファイル:Japanese battleship Musashi under attack in the Sibuyan Sea, 24 October 1944 (80-G-281764).jpg|200px|thumb|right|10月24日、シブヤン海でアメリカ軍艦載機の攻撃を受ける武蔵。]] |
|||
[[ファイル:Japanese battleship Musashi is hit during attacks in the Sibuyan Sea, 24 October 1944 (80-G-281766).jpg|thumb|猛煙をあげる武蔵。魚雷による水柱が艦橋の高さを超えている。|200px]] |
|||
[[ファイル:Musashi under fire.jpg|thumb|被弾しながらも前進する武蔵。後方に[[陽炎型駆逐艦]]が見える。|200px]] |
|||
[[ファイル:A Japanese Yamato-class battleship and other ships maneuver under attack in the Sibuyan Sea, 24 October 1944 (80-G-272550).jpg|thumb|黒煙を上げている武蔵。左に旋回行動中の大和と、[[妙高型重巡洋艦]]、右側に[[高雄型重巡洋艦]]と[[金剛型戦艦]]が確認できる。|200px]] |
|||
[[ファイル:Musashi 24 Oct 1944.jpg|200px|thumb|right|アメリカ軍艦載機の攻撃後、沈みつつある武蔵。第一主砲塔前の甲板は波に洗われているが、煙突の排煙から機関は無事であることが判る。(駆逐艦[[磯風 (陽炎型駆逐艦)|磯風]]から撮影)]] |
|||
午前6時32分、武蔵は距離40kmに敵味方不明飛行機を発見した<ref>[[#長門戦闘詳報(1)]]p.1</ref>。午前8時20分、栗田艦隊は第38任務部隊索敵隊第2群(カボット、イントレピッド)索敵機に発見された。イントレピッドの爆撃隊[[モート・エスリック]]中佐は、「戦艦4隻、重巡洋艦8隻、駆逐艦13隻」と報告する<ref>[[#決断と異議]]159頁</ref>。「ブル・ハルゼー」(雄牛、猛牛の意)の異名をもつ積極的な性格のハルゼー大将は即座に攻撃命令を下した。このアメリカ軍の動きに対し、日本軍は第六基地航空部隊([[福留繁]]司令官)が第38任務部隊第3群に[[零式艦上戦闘機|零戦]]111機(爆弾装備機含む)、[[紫電改|紫電一一型]]11機、[[彗星 (航空機)|彗星]]12機、[[九九式艦上爆撃機|九九式艦爆]]38機、[[天山 (航空機)|天山]]8機という規模の攻撃隊を送り込んだ<ref>[[#武藏上]]644頁</ref>。この攻撃隊はアメリカ軍の的確な迎撃により壊滅し、空母に対する戦果は軽空母プリンストン撃沈のみだった。エセックス隊だけでF6F戦闘機1機の損失と引き換えに海軍の零戦27機、[[一式陸上攻撃機]]2機、夜間戦闘機[[月光 (航空機)|月光]]1機、天山2機、九九艦爆4機、[[銀河 (航空機)|銀河]]1機、彗星1機、陸軍の[[一式戦闘機|一式戦]]3機、[[三式戦闘機|三式戦]]1機撃墜を記録している<ref>[[#秋元記録]]180頁</ref>。 |
|||
午前9時30分、3機の[[哨戒機|哨戒機型]]B-24爆撃機「[[B-24 (航空機)# 陸軍航空隊以外の活躍|PB4Y-1]]」が栗田艦隊に接触し<ref>[[#秋元記録]]183頁</ref>、武蔵の見張員が発見した<ref>[[#武藏上]]645頁、[[霜崎源次]](右舷後部防空見張員)、[[#細谷航海記]]120頁</ref>。武蔵の左舷高角砲、戦艦[[金剛 (戦艦)|金剛]]、重巡洋艦[[筑摩 (重巡洋艦)|筑摩]]が発砲した。同時に、栗田中将は武蔵に通信妨害電波の発信を命じた<ref>[[#武藏上]]647頁、 [[#秋元記録]]183頁、[[#捷号作戦戦闘詳報(4)]]p.49</ref>。10時頃、大和と軽巡洋艦の能代が約100kmにアメリカ軍機40機を探知する。10時26分、第1次攻撃隊([[イントレピッド (空母)|イントレピッド]]、[[カボット (空母)|カボット]])45機([[F6F_(航空機)|F6Fヘルキャット戦闘機]]21機、[[SB2C (航空機)|カーチスSB2Cヘルダイバー急降下爆撃機]]12機、[[TBF (航空機)|TBFアヴェンジャー雷撃機]]9機、誘導機[[ビル・エリス]]中佐)が攻撃を開始する<ref>[[#決断と異議]]168頁、 [[#秋元記録]]184頁</ref>。この時点で猪口は砲術長の主砲発射要請を拒否して主砲発砲を許さず、副砲で迎撃させた<ref>[[#武藏上]]652-653頁、 [[#細谷航海記]]121-122頁</ref>。予定されていた海軍基地航空隊の援護が天候不良という理由で取りやめとなったことに武蔵の猪口艦長は嘆いていたという<ref>[[#武蔵ノート]]223頁</ref>。 |
|||
武蔵の沈没に伴う[[戦死]]者は[[猪口敏平]]艦長以下1021名、生存者は1376名。 |
|||
第一次空襲では小型爆弾1発が武蔵の一番主砲塔天蓋に命中し、室内灯が笠ごと落ちた<ref>[[#武藏上]]660頁</ref>。6機の雷撃機による攻撃では、魚雷2本が艦底を通過<ref>[[#武藏上]]661頁</ref>(この2本は命中したが不発だったという証言もある<ref>[[#細谷航海記]]129頁</ref>)、1本が武蔵の右舷中央に命中、第7、第11罐室に漏水が発生したが<ref>[[#武藏上]]665頁、[[鈴木正義]](機兵長、缶室伝令)談</ref>、これは機関科兵が罐の熱気で大火傷を負いつつ行った応急作業で食い止めた<ref>[[#武藏上]]667-668頁</ref>。武蔵はバルジへの浸水で右舷に5.5度傾斜したが、左舷への注水でバランスを取り戻した。この被雷衝撃で艦橋トップの[[九八式方位盤照準装置改一]]の台座が歪んで旋回不能となり、全主砲塔の統一射撃が不可能となったとされる<ref name="秋元メカ186">[[#秋元記録]]186頁</ref>。その後はそれぞれの主砲塔に設置してある照準システム及び後部艦橋の予備システムで射撃を続行した<ref name="秋元メカ186"/>。ただし、主砲方位盤にもともと対空射撃の機能がなかった可能性がある<ref name="秋元メカ186"/>。なお「被弾ではなく主砲斉射の衝撃で方位盤が故障した」と証言する乗員もいるが<ref>[[#武藏上]]670頁、[[柴田庫治]](後部測的所伝令員)、[[#豊田 レイテ]]45頁</ref>、公式記録によれば第一次空襲に於ける主砲の発砲は無い。また、主砲発射の衝撃に堪える方位盤が魚雷1本の命中で故障するなどありえず、高速急転舵の連続による艦体震動が原因と考える乗員もいる<ref>[[#武藏上]]671頁、玉川光雄(前部測的所測的手)</ref>。さらにイントレピッド攻撃隊の[[ビル・バン・アントワープ]]雷撃隊隊長は、武蔵艦首に魚雷を命中させたと証言している<ref>[[#決断と異議]]170頁</ref>。武蔵は艦首に至近弾と記録した<ref name="牧野建造記230"/>。 |
|||
生存者の半数以上は[[フィリピン]]守備隊に残され、陸戦隊として[[マニラの戦い (1945年)|マニラ市街戦]]に参加させられたりしたが、その多くは戦死してしまった。他にも「[[隼鷹 (空母)|隼鷹]]」で日本へ帰還出来た乗組員もいたが、その他の戦線に戦局悪化の口封じに駆り出された兵士も少なくなかった。沈没地点は猪口艦長の遺書を託された副長の加藤大佐が退艦時に記載したものが採用されているが、沈没地点が深海のために船体は確認されていない。 |
|||
11時15分、武蔵は『雷撃機五機の挟撃を受け4本を避けたるも1本右舷後部に命中、右12、14区に浸水した。激動により主砲方位盤旋回不能となりたる他故障なし。目下詳細調査中』と艦隊司令部に報告する<ref>[[#捷号作戦戦闘詳報(4)]]p.52</ref>。11時36分には存在しない米潜水艦からの雷撃を回避し<ref>[[#雪風ハ沈マズ新装]]332頁、[[#捷号作戦戦闘詳報(4)]]p.53</ref>、11時57分に『出し得る最大速力26ノット』と報告した<ref name="捷4詳報55">[[#捷号作戦戦闘詳報(4)]]p.55 </ref>。 |
|||
「大和」よりも遅れて起工された本艦には、「大和」建造中に判明した不具合の改善や、旗艦設備の充実が追加指示された<ref name="a"/>。しかし、もとよりドック内で建造された「大和」と異なり、船台上で建造された武蔵は、船台から海面に下ろし進水させるという余分なステップを踏まねばならなかった。更に工事の途中で太平洋戦争が勃発した為、工期を大幅に繰り上げるよう厳しく督促された。厳重な機密保持の中、作業に当たった人々は、超人的な努力で事に当たり、見事に成し遂げたのである。これらの経緯は[[吉村昭]]の『戦艦武蔵』および[[牧野茂 (軍人)|牧野茂]]/[[古賀繁一 (実業家)|古賀繁一]]監修『戦艦武蔵建造記録』(アテネ書房)に詳しい。 |
|||
12時6分、空母イントレピッドからの第2次攻撃隊33機(戦闘機12、爆撃機12、雷撃機9)が攻撃を開始した<ref>[[#決断と異議]]171頁</ref>。アメリカ軍機は栗田艦隊外周の駆逐艦、巡洋艦の対空砲火をくぐりぬけ武蔵に殺到していった。殺到の原因についてレイテ沖海戦を主軸にした書物などでは、リンガ泊地に於いて武蔵だけが塗装を塗りなおしたため、一番目立っていたのも要因とされることがある<ref>[[久山忍]]『戦艦大和最後の証言』185頁<br /> 辺見・原『戦艦大和発見』88頁、[[大野徳夫]](大和機銃員)談。</ref>。46cm主砲[[三式弾]]9発発射。事前ブザーがなかったために多くの甲板員が爆風を受けたという<ref>[[#武藏下]]11-12頁、蒔苗文雄(第三機銃群長)、西岡敬之(右舷高角砲指揮官)等</ref>。被害は、左舷に魚雷3本、艦首と艦中央部に爆弾2発というものだった<ref>[[#武蔵建造記録]]230頁、[[#捷号作戦戦闘詳報(4)]]p.5</ref>。僚艦も武蔵の被害を目撃しており、大和は12時11分、武蔵に複数の魚雷が命中した時に発生する水柱を認めている<ref>[[#大和戦闘詳報(1)]]p.19</ref>。その武蔵では指揮装置の故障で高角砲の一斉射撃ができなくなり、各砲個別照準となって命中率が低下した<ref>[[#武藏下]]14-15頁、[[#塚田年少兵]]209頁</ref>。左舷中央部に命中した爆弾は、甲板2層を貫通して中甲板兵員室で炸裂した<ref name="牧野建造記230"/>。爆風が通気孔を通じてタービン室に突入し、蒸気管が破損したために内側の1つの機械室内が高温となって使用不能となる<ref>[[#武藏下]]30-33頁、[[#秋元記録]]189-190頁</ref>。武蔵は3軸運転を余儀なくされ、最大速力は22[[ノット]]に落ちた<ref>[[#秋元記録]]189頁、[[#武蔵建造記録]]230頁</ref>。一番、二番主砲は魚雷命中による弾薬庫の直接の被害は無かったが、庫内温度が上昇し、弾薬庫に注水作業をしたため使用不能となったとする文献もある。ただし、武蔵の一番砲塔中央砲で三式弾の事故が発生して射撃不能になったものの<ref>[[#武藏下]]19-20頁</ref>、二番主砲塔、三番主砲塔は空襲が終わるまで射撃を続けている。また至近弾による弾片やアメリカ軍機の機銃掃射が、甲板上の機銃兵員達を殺傷した。武蔵の甲板に備え付けられている[[九六式二十五粍高角機銃|25mm対空機銃]]のほとんどは外気に晒されており、46cm主砲発砲の爆風から対空兵器と砲員を保護するシールドも、アメリカ軍のF6Fヘルキャットが6門装備する[[ブローニングM2重機関銃|ブローニング12.7mm重機関銃]]の掃射やロケット弾攻撃の前では無力だった<ref>[[#秋元記録]]79頁</ref>。武蔵の乗組員の中にはアメリカ軍が[[反跳爆撃|反跳爆撃(スキップボミング)]]を行ったとする者もいる<ref>[[#豊田 レイテ]]80-82頁</ref>。13時13分、武蔵は司令部に以下の報告を行う<ref>[[#捷号作戦戦闘詳報(4)]]pp.58-59</ref>。 |
|||
レイテ沖海戦までに高角砲増設工事が間に合わなかった為、「大和」とは兵装が若干異なり、[[十二糎二八連装噴進砲|対空噴進砲]](対空[[ロケットランチャー]])を積んでいたという説もある<ref>(当時の[[噴進砲]]は命中精度が悪く、威嚇用にしかならなかったとも言われるが、同海戦の支海戦の一つ、[[レイテ沖海戦#10月25日 エンガノ岬沖海戦|エンガノ岬沖海戦]]で航空戦艦「[[伊勢 (戦艦)|伊勢]]」「[[日向 (戦艦)|日向]]」は、対空噴進砲を有効に活用してこの海戦を乗り切り、ほぼ無傷で帰還している)。</ref>が、その存在を実証する史料は現在のところ発見されていない。 |
|||
また[[捷一号作戦]]発動に際し10月18日に夜間迷彩として木甲板を黒い塗料で塗装した為、最終時の最上甲板は黒色だったと思われるが、塗料の材質は不明(砥の粉で磨かれていたという説や煤を溶剤に溶かしたものだという説がある)。 |
|||
# 主砲方位盤旋回不能、予備盤にて射撃可能。 |
|||
第1次空襲で外周の[[駆逐艦]]、[[巡洋艦]]の砲火をくぐりぬけた米軍機は武蔵に殺到。(殺到の原因については当然武蔵が巨大だった事が最大の要因だが、武蔵を主軸にした書物などではリンガ泊地に於いて武蔵だけが塗装を塗り直した為一番目立っていたのも要因とされることがある)爆弾1発が命中したが、厚い装甲が跳ね返し、空中で爆発(船体に被害なし)。その後の攻撃でも度々主砲塔には爆弾が命中したとされるが、全て装甲で弾き返し被害はなかったとされる<ref name="a"/>。この攻撃では3本の魚雷が武蔵に向かって放たれたが2本は船底の下を通り抜けた。しかし1本が命中。この衝撃で艦橋トップの[[照準装置]]の台座が歪んで旋回不能となり、全砲塔の統一射撃が不可能となった。その後はそれぞれの主砲塔に設置してある照準システム及び後部艦橋の予備システムで射撃を続行した。(被弾ではなく主砲斉射の衝撃で方位盤が故障した、と証言する乗員も居る。ただし公式記録によれば第一次空襲於ける主砲の発砲は無い)。艦は5°傾斜したが、注水し復元。<ref name="a"/> |
|||
# 一番砲塔中三式自爆(信管破裂)に依り使用不能。 |
|||
# 第二機械室蒸気噴出左内軸使用停止、三軸運転、発揮し得る速力22ノット。 |
|||
第二次空襲と第三次空襲の間に1時間ほど小休止があったため、武蔵では猪口艦長の指示により戦闘配食が配られた<ref>[[#佐藤 武蔵]]210-212頁、 [[#細谷航海記]]133頁</ref>。13時30分、ミッチャー中将直率第3群の空母[[エセックス (空母)|エセックス]] 、[[レキシントン (CV-16)]]を発進した第3次攻撃隊83機<ref name="決断異議172">[[#決断と異議]]172頁</ref>が栗田艦隊上空に到達した。エセックス隊が第一部隊輪形陣(大和、武蔵、長門 )、レキシントン隊が第二部隊輪形陣(金剛、榛名)を攻撃した。アメリカ軍機が撤退するまで武蔵は魚雷5本、爆弾4発、至近弾2発を受けた。武蔵は浸水と傾斜復元のための注水で艦首が水面近くまで沈み、速力が低下した<ref>[[#武蔵建造記録]]231頁</ref>。大和を中心とする第一部隊から落伍し、金剛を中心とした第二部隊に追いつかれていた。なお第二艦橋勤務の細谷は、武蔵が初めて主砲を発射した時刻を13時57分頃としている<ref>[[#細谷航海記]]141-142頁、[[#武蔵建造記録]]230頁</ref>。第二部隊の軽巡洋艦矢矧も13時54分に武蔵発砲<ref>[[#矢矧戦闘詳報(2)]]p.52</ref>、長門も14時06分に「武蔵砲撃始む」と記録している<ref>[[#長門戦闘詳報(1)]]p.11</ref>。 |
|||
第二次空襲で主砲は上記理由のために個別射撃のみ。主砲[[三式弾]]9発発射。事前ブザーがなかったために多くの甲板員が爆風を受ける(異説あり)。魚雷3発と爆弾2発が命中。水平装甲板上で炸裂した爆弾による爆風が通気孔を通じてタービン室に突入し、蒸気管が破損したために内側の1つの機械室内が高温となって使用不能となり3軸運転、最大速力は22[[ノット]]に落ちた。また1番2番主砲塔は魚雷命中による弾薬庫の直接の被害は無かったが、庫内温度が上昇し、弾薬庫に注水作業をしたため使用不能となる。 |
|||
14時15分、第4群の空母[[フランクリン (空母)|フランクリン]]から発進した第4次攻撃隊65機が来襲し<ref name="決断異議172"/>、大和に爆弾1発が命中した。一連の攻撃でフランクリン攻撃隊(ジョー・キービー中佐)は武蔵に爆弾4発、魚雷1-3本命中、軽巡洋艦1隻撃沈を主張<ref name="決断異議173">[[#決断と異議]]173頁</ref>。14時45分、重巡洋艦[[利根 (重巡洋艦)|利根]]の[[黛治夫]]艦長は[[鈴木義尾]]中将(第二部隊指揮官)に『武蔵に近寄る雷撃機を射つ為近寄られては如何』と意見具申する<ref name="利根1詳報13">[[#利根戦闘詳報(1)]]p.13</ref>。20分後に『利根は暫く武蔵の北方に在りて敵機の来襲に備えよ』との返信があったが<ref name="利根1詳報13"/>、これは「利根単艦で武蔵を護衛せよ」という意味であり、黛は鈴木を罵っている<ref>[[#武藏下]]93頁、 [[#豊田 レイテ]]226頁</ref>。それでも利根は武蔵に寄り添い、駆逐艦の[[清霜 (駆逐艦)|清霜]]と共に護衛を開始した。14時50分、武蔵は大和に対し以下の報告を送った<ref>[[#捷号作戦戦闘詳報(4)]]p.62</ref>。 |
|||
最終的に武蔵は爆弾10発以上、魚雷20本以上が命中して大火災を起こし、艦の前部に著しい浸水を見た本艦は前後の傾斜差が8メートルを超え前部主砲の一番低い箇所は波に洗われるほどになったため必死の浸水防止の対策が採られた。栗田長官から撤退命令を受けたあと、復旧作業をしながらフィリピンの[[コロン湾]]を目指した。傾斜復旧のための注水作業(注排水区画が満水のため缶室、機械室、居住区に注水)が行われ、沈没の直前には右舷の缶室(ボイラー室)6個のうち、外側の3つについて注水作業の命令があり、満水になるまでかなりの時間が必要なので、どの程度の効果があったか不明であるが、少なくとも1つについては実際に艦底のバルブが開かれて注水が行われた。浸水は拡大する一方で、最後の機械室にもついに浸水が及び停止してしまう<ref name="a"/>。また、左舷への傾斜が10°を超えたため、傾斜復旧作業の一環として[[機銃]]の残骸や[[接舷]]用の器具(防舷材)、負傷者や遺体を右舷に移す作業も行われたが、これらは後ほど傾斜が酷くなったときに、一斉に甲板上を右舷から左舷に滑落し、巻き込まれ死亡した乗員が少なからずいたといわれる。<ref name="a"/></br>19時15分頃航行不能に陥り左傾斜十二度となったため、猪口艦長より"総員上甲板"が発令され、[[軍艦旗]]降下後間もなくの19時30分頃急速に傾斜を増したため総員退去命令が発せられ、ついに19時35分頃左舷に転覆し沈没した。</br>沈没時には煙突等艦内に流入する海水により大渦が出来、完全に艦体が海没後、船体が大爆発を起こしたことが目撃されている。(この爆発は缶室のボイラーが''水蒸気爆発''を起こした、主砲弾薬庫の弾薬が転覆による衝撃で誘爆した等諸説ある)<ref name="a"/> |
|||
# 射撃能力は該砲(一番砲塔)以外さしたる故障なし。 |
|||
戦闘時の混乱で、正確な被雷爆数は現在でも不明だとされる。戦闘終了後数時間以上に渡って浮き続け、微速ながら前進を止めなかったのは本艦の驚異的防御力を示したものの、ついには航空攻撃の前に不沈艦たり得なかった。[[猪口敏平]]艦長は、「機銃はもう少し威力を大にせねばと思う。命中したものがあったにもかかわらず、なかなか落ちざりき。…申し訳なきは対空射撃の威力をじゅうぶん発揮し得ざりし事。」という言葉を副長に託した手帳に残した。<ref>逆説的な意味で、「武蔵は航空機の前では無力だった」とのこと(学研『歴史群像シリーズ 大和型戦艦』)</ref>尚、沈没までの対空戦闘で前日[[潜水艦]]の[[雷撃]]により沈没し、救助されて武蔵に移乗していた「[[摩耶 (重巡洋艦)|摩耶]]」の乗員も多数犠牲になっている。<ref name="a"/> |
|||
# 両舷防水区画殆ど全部浸水又は注水の為速力を出し得ず。 |
|||
# 出し得る速力20ノットの見込み |
|||
14時53分、栗田中将は『武蔵被雷1、計5、戦闘力発揮に支障あり。武蔵は清霜を附し要すれば「[[コロン島]]」経由、[[馬公|馬公市]]へ向かえ』と命じた<ref>[[#大和戦闘詳報(2)]]p.20、[[#捷号作戦戦闘詳報(4)]]p.63</ref>。栗田中将が武蔵に撤退命令を出す中、第4群空母[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]から発進した攻撃隊が栗田艦隊上空に到達した。武蔵もこれを探知し、14時50分にアメリカ軍機70接近中と報じ<ref name="捷4詳報63">[[#捷号作戦戦闘詳報(4)]]p.63</ref>、さらに14時54分、旗流信号で『飛行機20機発見』を知らせた<ref>[[#矢矧戦闘詳報(2)]]p.53 </ref>。5分後の14時59分、第2群空母の第3波攻撃隊30機(戦闘機15、爆撃機12、雷撃機3)が来襲した<ref name="決断異議173"/>。この頃、[[ロンブロン州|シブヤン島]]や[[ボアク島]]では、地元猟師達が山の中腹から「島のような巨大戦艦」とアメリカ軍機の激しい戦闘を観戦している<ref>[[#手塚取材記]]127-128頁、[[#豊田 レイテ]]360-378頁</ref>。 |
|||
駆逐艦「清霜」が復旧作業中に武蔵に横付けされ、負傷者や摩耶の一部生存者などが移乗した。こういった様々な要素等が日本の艦船においては比較的高い生存率を示すことになった。しかしまた武蔵が沈没すると判断されておらず、殆どのものが武蔵に残って復旧作業を行ったが、武蔵の傾斜が更に酷くなって再度、駆逐艦「清霜」に接近するように武蔵から[[発光信号]]が送られたものの、沈没の巻き添えを回避するために、それは叶わなかった。 |
|||
エンタープライズ隊は栗田艦隊が変針し、戦艦武蔵、巡洋艦1隻、駆逐艦1隻が西に向かって分離する光景を見た<ref>[[#BIG E下]]268頁</ref>。ロケット弾を装備したヘルキャットが利根と清霜を狙い、急降下爆撃機と雷撃機が武蔵を狙った<ref>[[#BIG E下]]269頁</ref>。アメリカ軍機から観察すると武蔵は油を引いているだけで火災も起きておらず、艦体も水平だった<ref name="big下270">[[#BIG E下]]270頁</ref>。だが、武蔵は注水と被雷により大量の海水を飲み込んでおり、動きは鈍くなっていた。武蔵は回避行動もままならず、『武蔵被害累加せる如きも詳細不明』というほどの損害を受ける<ref>[[#大和戦闘詳報(2)]]p.22</ref>。特に前部艦橋防空指揮所(艦橋最上部)に命中した爆弾は、防空指揮所甲板、第一艦橋、作戦室甲板を貫通して爆発<ref>[[#武藏下]]107頁、 [[#細谷航海記]]142-146頁</ref>。爆風が第一艦橋へ逆流し、武蔵幹部達を殺傷した<ref name="牧野建造記232">[[#武蔵建造記録]]232頁</ref>。防空指揮所では、高射長の[[広瀬栄助]]少佐、測的長の[[山田武男]]大尉を含む13名が戦死、猪口艦長を含む11名が負傷する<ref>[[#武藏下]]124頁</ref>。猪口艦長は右肩に重傷を負うが、指揮を続行した。作戦室では前日救助された摩耶副長の[[永井貞三]]大佐と軍医を含む5名が戦死、2名が負傷した。そして第一艦橋では、[[仮屋実]]航海長を含む39名が戦死、8名が負傷<ref>[[#武藏下]]125頁、「菲島沖海戦に於ける戦死傷者表」p.6</ref>。加藤副長が指揮を継承し、[[三浦徳四郎]]通信長が臨時の航海長となった<ref>[[#武藏下]]129頁</ref>。エンタープライズ攻撃隊(戦闘機12、艦爆9、艦攻12)は戦闘レポートで武蔵に1,000ポンド爆弾11発、魚雷8本命中、重巡洋艦(利根)に爆弾命中、駆逐艦2隻撃破または撃沈を主張する<ref>[[#決断と異議]] 173頁、[[#BIG E下]]270頁</ref>。アメリカ軍機は艦首が沈下し、大火災を起こして完全に停止した武蔵を目撃している<ref>[[#BIG E下]]271頁</ref>。また利根には爆弾2発が命中(250kg爆弾1発不発)、小火災が発生した<ref>[[#利根戦闘詳報(2)]]p.14 </ref>。清霜にも一番発射管に小型爆弾1発が命中し、最大発揮可能速力が24ノットに低下した。 |
|||
海に飛び込んだ乗組員は武蔵沈没時の大渦に巻き込まれたり、武蔵の爆発により圧死したりした者もいたといわれるが、随伴していた[[駆逐艦]]「[[清霜 (駆逐艦)|清霜]]」、「[[浜風 (陽炎型駆逐艦)|浜風]]」に約1350名が救助された。救助作業は約7時間に渡ったといわれる。 |
|||
最終的に武蔵は爆弾10発以上被弾、魚雷10本以上を被雷した。「軍艦武蔵戦闘詳報」では魚雷命中20本被雷、爆弾17発命中、至近弾18発と結論づけている<ref>[[#武蔵戦闘詳報]]p.24</ref>。生存者が戦後に結成した「武蔵戦友会」は、右舷に5本、左舷に20本以上、合計33本と推定した<ref>[[#武蔵ノート]]238頁。吉村と細谷の対談より。</ref>。艦の前部に著しい浸水を見た武蔵は前後の傾斜差が8メートルを超え、前部主砲の一番低い箇所は波に洗われるほどになった<ref name="牧野建造記232"/>。このため必死の浸水防止の対策が採られた。大和からは、左に15度傾斜した武蔵の姿が目撃されている<ref name="捷4詳報64">[[#捷号作戦戦闘詳報(4)]]p.64</ref>。武蔵は15時30分に舵取機電源切断による『我舵故障』を報告し、長門が確認した<ref>[[#武藏下]]145頁、[[#長門戦闘詳報(2)]]p.11</ref>。第七号発電機タービンを担当していた玉沢兵曹は、被害の累加と共に次々と発電機が使用不能になり、最後の第七発電機も第五次空襲で停止・操舵不能になったと証言している<ref>[[#豊田 レイテ]]241-242頁</ref>。それでも約30分後には直接操舵が可能となった<ref>[[#豊田 レイテ]]243頁</ref>。武蔵は復旧作業をおこないながら重巡洋艦[[利根 (重巡洋艦)|利根]]、駆逐艦[[島風 (島風型駆逐艦)|島風]]、清霜、[[浜風 (陽炎型駆逐艦)|浜風]]に伴われて栗田艦隊から分離し、[[コロン湾]]を目指した<ref>[[#捷号作戦戦闘詳報(4)]]p.64、[[#清霜戦闘詳報]]p.13</ref>。武蔵は大損害をうけながらも僅かながら戦闘力を維持しており、16時55分にはアメリカ軍機を撃墜したという<ref name="捷4詳報66">[[#捷号作戦戦闘詳報(4)]]p.66</ref>。 |
|||
沈没直前の艦前方が半ば海面下に没した写真は、武蔵最期の姿として有名である。 |
|||
[[宇垣纏]]第一戦隊司令官は著作「戦藻録」に『本反転に於いて麾下の片腕たる武蔵の傍を過ぐ。損傷の姿いたましき限りなり。凡ての注水可能部は満水し終り、左舷に傾斜10度位、御紋章は表し居るも艦首突込み、砲塔前の上甲板最低線漸く水上に在り。慰めの言葉も適当なるもの即座に出でぬなり』と述べている<ref>[[#武蔵建造記録]]232頁、[[#戦藻録(九版)]]418頁</ref>。宇垣は16時24分『全力を尽して保全に努めよ』<ref>栗原俊男『戦艦大和』45頁、川代丈治(信号兵)談。[[#捷号作戦戦闘詳報(4)]]p.65</ref>、17時5分『自力又は曳航にて遠距離移動不能なる場合、一時附近島陰適当なる深所に曳航艦首をのし揚げ応急対策を講ずることを研究しおけ』と命じた<ref name="捷4詳報66"/>。 |
|||
栗田中将は「第一遊撃部隊戦闘詳報」にて『即ち敵機の空襲は逐次其の頻度と来襲機数とを増大するに反し、ラモン及レガスピー方面敵機動部隊に対する我が航空攻撃の成果未だ見るべきものなく。他方我が機動部隊本隊の牽制攻撃其の実効なき等、各部隊の協同は結実するに至らず。為に第一遊撃部隊の孤立奮戦となり徒らに被害累増すると共に、現在の儘東進せば日没前シブヤン海東方の狭小海域に於いて敵機の攻撃を受くる惧れあり(以下略)』と述べている<ref>[[#第1遊撃部隊詳報(1)]]p.29</ref>。宇垣も『即ち武蔵は大和を救い、戦隊のみならず艦隊全般を自らの犠牲において掩護救出せるものといわざるべからず』と記した<ref>原勝洋『戦艦大和のすべて』(株式会社インデックスコミュニケーションズ、1995年)</ref>。武蔵は各艦隊、航空部隊の連携不徹底から結果として猪口艦長の遺書にあるように「栗田艦隊被害担当艦」となり、致命傷を負ったのである<ref>[[#秋元記録]]196頁、[[#武蔵建造記録]]234頁</ref>。 |
|||
=== 沈没までの経緯 === |
|||
17時37分、武蔵は清霜に以下の命令を信号で伝えた<ref name="清霜詳報13">[[#清霜戦闘詳報]]p.13</ref>。 |
|||
# 極力本艦を[[コロン島]]に回航せんとす。 |
|||
# 本艦右舷機械使用可能操舵可能。 |
|||
# 日没時清霜に依る艦尾曳航操舵を試みんとす。 |
|||
# 島風は便宜警戒に当られたし |
|||
すでに電気を使用する通信機は使えなかった。18時、宇垣中将は大和の探照灯を用いて『自力航行可能なりや』と問い合わせる<ref name="捷5詳報2">[[#捷号作戦戦闘詳報(5)]]p.2</ref>。すると15分後に武蔵から『右舷内軸のみ運転可能、操舵可能』という回答があった<ref name="捷5詳報2"/>。この時、武蔵側で応答した細谷は『我れ機械6ノット可能なるも、浸水傾斜を早め前後進不能』だったと回想している<ref>[[#細谷航海記]]156-157頁</ref>。宇垣は翌朝まで持ちこたえられるかもしれないと見ていた<ref name="名前なし-1">[[#戦藻録(九版)]]419頁</ref>。18時26分、栗田中将は『浜風は武蔵艦長の命を受け同艦の警戒に当れ。島風の武蔵警戒任務を解く』と伝える<ref name="駆逐4十七33">[[#第17駆逐隊戦闘詳報(4)]]p.33</ref>。18時30分、駆逐艦島風が武蔵左舷に横付けし、乗艦していた重巡洋艦[[摩耶 (重巡洋艦)|摩耶]]の乗組員607名を収容した<ref>[[#摩耶戦闘詳報]]p.4 </ref>。だが摩耶士官4名、下士官兵41名が武蔵の復旧作業に従事するため残留している<ref name="比律賓沖5">[[#摩耶戦闘詳報]]p.5 </ref>。島風は武蔵から離れ、利根も黛艦長の再三の『此処に居るも如何とも為しがたきに附決戦に参加し得る様御願いす』という要請によって栗田艦隊に復帰した<ref>[[#利根戦闘詳報(1)]]p.16</ref>。この時、利根は猪口艦長に対し『ザイドリッツの戦例に鑑み艦首浮力の保持に努められよ』と信号を送っている<ref>[[#武藏下]]178頁、[[#ライオン艦長]]207頁</ref>。ドイツの巡洋戦艦[[ザイドリッツ (巡洋戦艦)|ザイドリッツ]]は[[第一次世界大戦]]の[[ユトランド沖海戦]]で被雷し、艦首が沈降したが後進して港に戻り座礁した。黛艦長は武蔵がこの戦訓をなぞることで沈没を免れることを望んだのである<ref>[[#ライオン艦長]]209頁</ref>。 |
|||
一方、武蔵では防水作業、復旧作業が続いていた。艦乗組員の複数の手記と証言が残っているが、これほどの被害を受けながら火災の方はすぐに鎮火したらしく、戦闘終了後に火災が継続している描写はない。左舷への傾斜を復旧させるため、左舷主錨の海中投棄が行われ、[[機銃]]の残骸や[[接舷]]用の器具(防舷材)、負傷者や遺体といった重量物を右舷に移す作業も行われた<ref>[[#武藏下]]154頁</ref>。これらは傾斜が酷くなったときに、一斉に甲板上を右舷から左舷に滑落し、巻き込まれ死亡した乗員が少なからずいた<ref>[[#細谷航海記]]168頁、[[#豊田 レイテ]]239-241頁</ref>。艦内での排水作業では、角材がマッチ棒のように折れ、鉄板がベニヤ板のようにしなる……と水圧との戦いの凄まじさが伝えられている。浸水した機械室も排水作業が試みられたが、浸水は減るどころか増える一方だった<ref>[[#武藏下]]170-171頁</ref>。乗組員の間では、「不沈艦」と信じてきた武蔵が沈没するかもしれないという不安が広がった<ref>[[#武藏下]]155-156頁</ref>。 |
|||
傾斜復旧のための注水作業(注排水区画が満水のため缶室、機械室、居住区に注水)が行われ、沈没の直前には機械室、及び右舷の缶室(ボイラー室)6個のうち、外側の3つについて加藤副長より注水作業の命令があった<ref>[[#武藏下]]196頁、大坪鋼一(第三機械室運転下士官)談。</ref>。缶室に関しては、少なくとも1つが機関科兵<ref>[[#手塚取材記]]186頁、鈴木正義、荻原勘造(機関科)</ref>によって実際に艦底のバルブ(注水弁)が開かれた。しかし、理由は不明だが一滴の水も出なかったという<ref>[[#武藏下]]204-205頁</ref>。大坪は機械室の注水弁を開き、注水作業に成功した<ref>[[#武藏下]]198-201頁</ref>。ただし、満水になるまでかなりの時間が必要なので、どの程度の効果があったか不明である。 |
|||
19時5分、第二艦橋に猪口艦長、加藤副長、越野砲術長、工藤内務長、中村機関長、三浦通信長、佐野芳郎少尉(艦長附伝令)、細谷(信号部先任)、井上(見張士)が集まった<ref>[[#手塚取材記]]206頁、[[#細谷航海記]]159頁</ref>。猪口は加藤に遺書と形見の[[シャープペンシル]]を渡すと<ref>[[#武藏下]]184-185頁</ref>、第二艦橋下の海図室に降りていった<ref>[[#細谷航海記]]162頁</ref>。19時8分、浜風は武蔵から『至急武蔵の左舷に横付けせよ』という信号を受取る<ref name="駆逐4十七33"/>。清霜も『横付けせよ』という手旗信号を受取る<ref>[[#細谷航海記]]163-164頁<br /> 浜風と清霜に信号を送った信号兵が細谷本人である。</ref>。だが巨艦の沈没に巻き込まれることを恐れた両艦は100mまで近づくのが限度だった<ref>[[#武藏下]]217頁、[[#細谷航海記]]185-186頁</ref>。 |
|||
19時15分頃、武蔵は左傾斜十二度となったため、加藤副長より"総員上甲板"が発令され、乗組員は後部甲板に集合した<ref name="牧野建造記234">[[#武蔵建造記録]]234頁</ref>。半壊したマストから[[軍艦旗]]が降下されて間もなく、武蔵は急激に傾斜を増した。総員退去命令が発せられ、乗組員は脱出をはじめる。たまたま艦橋をふりかえった数名が、艦橋旗甲板で脱出者を見送る猪口艦長を目撃した<ref>[[#武藏下]]212頁<br /> [[蒔苗文雄]](機銃群長)、[[遠藤一水]](見張員)、細谷四郎等</ref>。19時35-40分、武蔵は完全に転覆<ref name="清霜詳報11">[[#清霜戦闘詳報]]p.11</ref>。水中に入った煙突から炎と白煙があがり、しばらく右舷艦底を上にして浮いていたが<ref>[[#細谷航海記]]170-174頁、[[#武蔵建造記録]]234頁</ref>、やがて水中爆発音2回があって艦首から沈没した<ref>[[#武藏下]]219-220頁、[[#武蔵建造記録]]234頁</ref>。この爆発は缶室のボイラーが水蒸気爆発を起こした、主砲弾薬庫の弾薬が転覆による衝撃で誘爆した等、諸説ある<ref name="a"/>。建造期間1591日に対し、武蔵の艦齢は821日だった<ref>[[#武蔵建造記録]]217頁</ref>。 |
|||
海に飛び込んだ乗組員は武蔵沈没時の大渦に巻き込まれたり、水中爆発により圧死したりした者もいたといわれるが、随伴していた駆逐艦の清霜、[[浜風 (陽炎型駆逐艦)|浜風]]に約1350名が救助された。清霜は25日午前1時まで救助作業を行ったと記録している<ref name="清霜詳報11"/>。武蔵の沈没に伴う[[戦死]]者は全乗組員2399名中、[[猪口敏平]]艦長以下1023名、生存者は1376名、長門派遣下士官兵7名<ref>[[#武藏下]]277頁</ref>。さらに沈没までの対空戦闘で前日米潜水艦の雷撃により沈没し、救助されて武蔵に移乗していた摩耶の乗員も117名が犠牲になっている<ref name="比律賓沖5"/>。戦闘詳報には『当時便乗しおりたる摩耶乗員はそれぞれ固有戦闘配置に応じ武蔵の戦闘力を増強する配備に就き極めて勇敢に奮闘努力し其の功績顕著なるものありしことを特筆す』と記された<ref>[[#武蔵戦闘詳報]]pp.3.26-27</ref>。 |
|||
駆逐艦[[磯風 (陽炎型駆逐艦)|磯風]]の水雷長が撮影した、艦前方が半ば海面下に没した写真は、武蔵最後の姿として有名である。 |
|||
== 沈没の直接的原因 == |
== 沈没の直接的原因 == |
||
武蔵は[[アメリカ海軍]]機の攻撃により、推定[[魚雷|雷撃]]20本、爆弾17発、至近弾20発以上という猛攻撃を受けたが、艦前部を主に両舷の浸水がほぼ均等で、当初左右方向への傾斜が僅かまたは復元可能であったこと<ref>[[#吉田 大和と武蔵]]129頁</ref>、アメリカ軍の攻撃に時間差があったため艦体の沈降に伴って被雷個所がずれていったこと<ref>[[#細谷航海記]]183頁</ref>等が影響し、被弾数に比べて長時間交戦できたものと推測される。ちなみに、アメリカ軍はこの戦闘を教訓として[[1945年]](昭和20年)4月の[[天一号作戦]]時の大和への攻撃を左舷に集中させたとされるが、アメリカ軍側にそれを実証する資料はない。 |
|||
戦闘終了後、復旧作業が実施され、沈没まで時間があったため、比較的詳細な被害報告が残されている。沈没の直接原因は、多数の魚雷命中による大浸水である。特に1番主砲塔より前の非防御区画は、魚雷が4-5本命中したために全部浸水してしまった。一方後部区画には魚雷の命中は少なく浸水は殆どなかったようである。またヴァイタルパート内部においては、1番2番主砲火薬庫区画には魚雷による浸水は報告されていないものの、温度上昇により注水処置が行われた。以上によって艦前半部の浮力が殆ど失われてしまった。4列ある機関区の外側の区画も、度重なる同一部位への魚雷命中により、バルジや水面下装甲板を破壊され大浸水をきたした。隔壁の破壊を逃れた区画も、船体の沈下に伴い通気孔などからの緩徐な浸水に見舞われた。 |
|||
猪口艦長は、「機銃はもう少し威力を大にせねばと思う。命中したものがあったにもかかわらず、なかなか落ちざりき。…申し訳なきは対空射撃の威力をじゅうぶん発揮し得ざりし事。」という言葉を副長に託した手帳に残した。逆説的な意味で、「武蔵は航空機の前では無力だった」とする見方もある<ref>学研『歴史群像シリーズ 大和型戦艦』<!--何ページ?--></ref>。武蔵と同じく栗田艦隊に所属し、10月24日午前中のアメリカ軍機攻撃で被雷し落伍した重巡洋艦[[妙高 (重巡洋艦)|妙高]]では、このような所見を述べている。「現有対空射撃兵器を以てしては、之を如何ほど増強し如何に教育訓練に努力するも、その到達する所の射撃実力には限界あり。もっとも現有の対空射撃兵器の性能は主砲、高角砲、機銃、共に極めて貧弱にして現下の複雑困難にして熾烈なる対空戦闘には通じるものに非ず」<ref>[[#妙高戦闘詳報]]p.50</ref>。武蔵の沈没は、姉妹艦大和の将兵にも影響を与えた<ref>栗原『戦艦大和』47頁</ref>。宇垣はこの時のことを戦藻録に『嗚呼、我半身を失へり!誠に申訳無き次第とす。さり乍ら其の斃れたるや大和の身代わりとなれるものなり。今日は武蔵の悲運あるも明日は大和の番なり』と記した<ref name="名前なし-1"/>。 |
|||
大和型戦艦は日本軍航空隊が制空権を掌握した上で、その掩護下で艦隊決戦を挑むために開発された戦艦である<ref>[[#武蔵建造記録]]16頁</ref>。味方航空機の支援が1機もなく、逆に日本軍航空隊が壊滅した状態で100機以上の敵航空機から集中攻撃される事態は設計者達の予想を超えていた<ref>[[#武蔵建造記録]]241頁「日米戦艦比較論」</ref>。大和型戦艦設計者の一人である[[牧野茂 (軍人)|牧野茂]]は絶対的不沈艦などありえないと前置きした上で、「味方に航空兵力が存在する戦闘で相対的不沈艦とすることは望ましく、大和型戦艦はおおむねその成果を達成した」と述べている<ref>辺見・原『戦艦大和発見』135頁</ref>が、それが当初予定されていたそうした戦術に結びつかなかった事が、丸裸で航空機の標的に晒された現実に出ているともいえる。 |
|||
武蔵最後の戦闘記録は第一艦橋が全滅したこともあって不明な点が多く、現在でも謎が多い。副長の[[加藤憲吉]]のメモによれば魚雷命中、右舷に8本、左舷に15本、爆弾の直撃17発、至近弾18発である<ref name="内藤191">[[#内藤レクイエム]]191頁</ref>。副長付き信号兵の細谷四郎によれば、右舷に5本、左舷25本である<ref name="内藤191"/>。右舷に5本の根拠について細谷は、武蔵の転覆時に横倒しで水平となった右舷側面水線下を歩き、そこに魚雷による破孔5つを確認したからだとしている<ref>[[#細谷航海記]]170頁、[[#武蔵建造記録]]234頁</ref>。一方アメリカ軍は、爆弾命中44発、ロケット弾命中9発、魚雷の命中25本、総投下数161発中命中78発と記録した。 |
|||
武蔵の沈没の直接原因は、多数の魚雷命中による大浸水である<ref name="秋元メカ292">[[#秋元記録]]292-293頁</ref>。特に1番主砲塔より前の非防御区画は、魚雷が4-5本命中したために全部浸水してしまった。一方後部区画には魚雷の命中は右舷後部に5本のみと比較的少なく、浸水は殆どなかったようである。また[[バイタルパート]]内部においては、<!-- 1番2番主砲火薬庫区画には魚雷による浸水は報告されていないものの、温度上昇により注水処置が行われた。 ・・・主砲火薬庫注水の資料は? -->左舷外側主機室や第12缶室への浸水・水没が確認されている<ref name="秋元メカ301">[[#秋元記録]]301頁</ref>。外側右舷外側缶室の1室は魚雷攻撃により隔壁からの漏水が発生し、防水処置をしたものの、その後の魚雷命中の衝撃で、打ち込んだ楔などが全て吹き飛ぶなどしたために、最終的に乗員は腰まで海水に漬かった<ref name="秋元メカ301"/>。もう1室についても緩徐な浸水に見舞われたが、隣室への防水扉を駆動する電気回路が故障したため、彼らは脱出不能となった。天井に穴をあける作業が行われたが、非常に厚い装甲板(200ミリ)だったため全員溺死した。内側の6室の缶室(1、2、5、6、9)には浸水はなかった<ref name="秋元メカ301"/>。右側外側の缶室は別記したように戦闘終了後に傾斜復旧のため、注水命令が下令されている。4室ある機械室(タービン室)も最終的に3室まで浸水が確認されている。甲板二層にわたる巨大な空間が満水になることで、艦の浮力とバランスが失われた<ref name="秋元メカ292"/>。4列ある機関区の外側の区画も、度重なる同一部位への魚雷命中により、バルジや水面下装甲板を破壊され大浸水をきたした。隔壁の破壊を逃れた区画も、船体の沈下に伴い通気孔などからの緩徐な浸水に見舞われた<ref>[[#吉田 大和と武蔵]]130頁</ref>。アメリカ軍は、主要防御区画を守る20度傾斜410ミリVH甲鈑と下端のNVNC甲鈑との接合部分に構造的問題があり、主要防御区画への浸水遮蔽が不十分だったと指摘している<ref name="秋元メカ292"/>。一方で魚雷1本の被雷で深刻なダメージを受けた巡洋艦<ref group="注釈">但し、平賀が改良に手を加えた日本の巡洋艦は、整備や補修に悪影響を与え、結局損失率を高くしてしまった。</ref>に比べ、戦艦が極めてタフであり、容易に撃破できぬ艦種であることも明らかにした<ref>[[#武蔵建造記録]]268頁</ref>。「戦艦武蔵建造記録」では「よくぞここまで耐えた」と記している<ref name="牧野建造記41"/>。 |
|||
[[大和型戦艦]]は予備浮力が多く確保され、その比は[[長門型戦艦]]の1.5倍あり、同時期の他国の戦艦と比較しても浸水に対しては余裕を持った設計になっている。「7万トンを超える巨艦にしては小型軽量設計」が特徴の大和型だが、この小型化が更に浮力余裕を持たせられなかったとも言われる<ref>学研『日本の戦艦』</ref>。『戦艦武蔵建造記録』では、沈没時の浸水35,000トン、浮力は22,450トンと推定し、沈没原因を''復元力の喪失''と結論づけている<ref name="牧野建造記41">[[#武蔵建造記録]]41頁</ref>。 |
|||
しかし、これだけの猛攻に耐えた武蔵だが、一方では、電気溶接を採用しなかったことが弱点になっていたとも考えられている。日本海軍では[[第四艦隊事件]]で電気溶接が船体の脆弱化を招いたと責任転嫁的に結論づけられたため、その後、船体建造にあたって最新技術である電気溶接の採用を制限し、従来どおりのリベットによる接合に逆戻りするということが起こっていた。2016年放送の[[NHKスペシャル]]「戦艦武蔵の最期 〜映像解析 知られざる“真実”〜」では、三菱長崎造船所が提供した武蔵の資料を分析したところ、電気溶接でなく、旧来のリベット打ちによる装甲版の繋ぎ止めが被雷時の衝撃によって抜け落ちるか、もしくは折れる等の破損によって装甲板の繋ぎ目部分が外れ、そこから大量の海水浸入を招いたとする説を取り上げている<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20170215094100/https://www.nhk.or.jp/special/plus/articles/20170210/index.html|title=Nスペplus “無敵の不沈艦”はなぜ沈んだ? 武蔵の知られざる真実と最後|publisher=NHK|date=2017-2-14|accessdate=2020-5-22}}</ref>。 |
|||
これは後の大和や、一ヶ月後の空母に改造された姉妹艦「[[信濃 (空母)|信濃]]」にも、被雷時に同じような形で作用し、沈む要因を造っている(2019年放送の[[NHK BS1|NHKBS1]]スペシャル『幻の巨大空母“信濃”〜乗組員が語る 大和型“不沈艦”の悲劇〜』より)。旧来工法に頼りきりだった日本の建艦技術力限界も沈没要因の一つ<ref>「船体構造ニ艤装品機関及兵器関係金物ヲ取付ケル熔接適用範囲其一」昭和14年2月22日の呉海軍工廠造船部製図からと、「船体構造電気熔接使用方針並要領」昭和13年4月9日、呉海軍工廠造船部製図参照</ref>であり、頑強な戦艦といえど、航空機の継続的な攻撃の前に屈することは、皮肉にも日本海軍が[[真珠湾攻撃]]によるアメリカの戦艦である[[アリゾナ (戦艦)|アリゾナ]]、[[オクラホマ (戦艦)|オクラホマ]]、[[ネヴァダ (戦艦)|ネヴァダ]]、[[ウェストバージニア (戦艦)|ウェストバージニア]]と、2日後の[[マレー沖海戦]]でイギリスの戦艦である[[プリンス・オブ・ウェールズ (戦艦)|プリンス・オブ・ウェールズ]]と[[レパルス (巡洋戦艦)|レパルス]]という他国戦艦群を沈めたことから始まり、それは武蔵の半月後のドイツの戦艦である[[ティルピッツ (戦艦)|ティルピッツ]]、更に半年後の大和の最期でも証明された形になった。 |
|||
== 生存者 == |
|||
[[ファイル:島村信政5.jpg|right|200px|thumb|[[昭和天皇]](中央)行幸の際の記念写真。対空機銃設置前(1943年[[6月24日]])]] |
|||
10月25日、駆逐艦清霜と浜風に乗った武蔵の生存者は、マニラ海軍病院分院に収容された100名をのぞき<ref>[[#武藏下]]300頁</ref>、フィリピンのコレヒドール島に上陸した<ref>[[#細谷航海記]]190頁</ref>。彼らは加藤憲吉副長の名字をとって「加藤部隊」と呼ばれた<ref>[[#細谷航海記]]191頁<br /> [[#塚田年少兵]]232頁</ref>。負傷者数名が重巡妙高に乗艦してシンガポールに向かったが、彼らの運命は不明である<ref>[[#武藏下]]298頁</ref>。コレヒドール島の生存者達は食糧、医薬品も満足に与えられず、厳しい環境に置かれていた<ref>[[#細谷航海記]]194頁、[[#塚田年少兵]]233頁</ref>。その最中、加藤副長や武蔵幹部将校が、残務処理手続きとして司令部に向かったまま日本本土に帰ったとの連絡があり<ref>[[#細谷航海記]]191頁、[[#塚田年少兵]]234頁</ref>、指揮官達を失った「加藤部隊」では暴動寸前の事態になったという<ref>[[#細谷航海記]]194-198頁</ref>。一方で、加藤副長は南西方面艦隊司令部の[[有馬馨]]少将(武蔵初代艦長)と会議を行い、輸送船の[[さんとす丸]](140m、8500トン)で420名の日本帰国を決定したと証言する士官もいる<ref>[[#豊田 レイテ]]323頁、[[中山勝平 (昭和時代)|中山勝平]](主計科中尉)</ref>。 |
|||
11月25日午前1時、さんとす丸は[[第三一号型哨戒艇#同型艦|第38号哨戒艇]]、[[スチュワート (DD-224)|第102号哨戒艇]]、[[第二八号型駆潜艇#同型艦|第33号駆潜艇]]に護衛されて[[バシー海峡]]を通過中、アメリカ潜水艦[[アトゥル (潜水艦)|アトゥル]]の雷撃を受けた。この攻撃で魚雷2本が命中し、大爆発を起こしたさんとす丸は船体が切断され沈没した<ref>[[#細谷航海記]]205-206頁</ref>。さらに第38号哨戒艇も沈没したため、救出されるまで時間がかかった。結果、沈没と長い漂流によって武蔵の生存者420名中300名が戦死した<ref>[[#細谷航海記]]218-220頁</ref>。救助された120名は台湾の高雄警備隊に配属されて終戦をむかえた<ref>[[#武藏下]]381頁、[[#塚田年少兵]]238頁</ref>。12月6日、180-200名が空母[[隼鷹 (空母)|隼鷹]]で日本へ向かったが、隼鷹は12月9日にアメリカ潜水艦[[シーデビル (潜水艦)|シーデビル]]の雷撃で被雷し、武蔵の生存者を慌てさせた<ref>[[#武藏下]]396頁、[[#塚田年少兵]]239-240頁</ref>。さらに、佐世保から横須賀への移動中や、横須賀海兵団での隔離生活でも監視の番兵がついていたという<ref>[[#武蔵ノート]]217頁。瀬野尾光治談。</ref>。この他にも傷病者10名が病院船[[氷川丸]]によって日本に帰国した<ref>[[#細谷航海記]]199頁、[[#武藏下]]328-329頁</ref>。 |
|||
だが、約1000名の武蔵の生存者は日本に戻れずクラークフィールド航空基地作業隊に編入された。彼らはそのまま[[フィリピン]]守備隊に残され、陸戦隊として[[マニラの戦い (1945年)|マニラ市街戦]]に参加させられたりしたが、その多くは戦死した<ref>[[#手塚取材記]]、第五章「フィリピン戦跡行」等</ref>。その他の戦線に戦局悪化の口封じに駆り出された兵士も少なくなかった。生還者は56名だったとされる<ref>[[#手塚取材記]]83頁</ref>。 |
|||
エンタープライズの攻撃隊に戦闘機パイロットとして加わり武蔵を攻撃した[[ダニエル・T・スミス]]は戦後少将に進級し、1968年から1970年にかけて[[在日米軍|在日米海軍]]司令官を務めた。横須賀に赴任中、細谷四郎ら武蔵の生存者と交流を深めている<ref>[[#細谷航海記]]152-153頁</ref>。 |
|||
[[1977年]](昭和52年)10月24日、生存者で結成された「軍艦武藏会」は慰霊祭を[[靖国神社]]でおこない<ref>[[#手塚取材記]]37頁「比島方面慰霊団」</ref>、さらに239名が「戦艦武蔵比島方面慰霊団」としてフィリピンに出発した<ref>[[#手塚取材記]]38頁</ref>。重巡洋艦[[摩耶 (重巡洋艦)|摩耶]]主計長として武蔵に乗艦し、最後の戦闘を体験した[[永末英一]]衆議院議員([[民社党]]委員長)によれば、[[迎賓館赤坂離宮|赤坂離宮(迎賓館)]]で催された招宴で[[昭和天皇]]に武蔵慰霊祭の事を告げると、天皇は[[1943年]](昭和18年)に乗艦したことを懐かしんだという<ref>[[#手塚取材記]]41-42頁</ref>。 |
|||
令和5年現在、[[横須賀市]]の居酒屋信濃で、戦艦武蔵の士官室に飾られていた鏡が展示されている<ref name="mirror"/>。この鏡は、レイテ沖海戦前に可燃物除去で戦艦武蔵の士官室から撤去され、横須賀在住の旧海軍関係者宅に保存されていたものである。これが日本国内でみられる戦艦武蔵の数少ない遺品である。 |
|||
== 海底の武蔵 == |
|||
{{Main|en:Wreck of the Japanese battleship Musashi}} |
|||
=== 沈没地点 === |
|||
沈没地点は複数の説が存在していた。 |
|||
# 副長の加藤大佐が退艦時に記載したもので、戦闘詳報に採用されている東経122度32分、北緯13度7分で<ref name="武蔵詳報17"/>、この地点の水深は800mである。戦後、アメリカ海軍は海底の武蔵を探深機で捜索したが<ref name="太平洋戦争で活躍した日本の軍艦">[[佐藤和正]]『<small>太平洋戦争で活躍した</small>日本の軍艦、18~19頁』[[KKベストセラーズ]]、1976年</ref>、発見できなかった。 |
|||
# 駆逐艦清霜が記録した、東経122度41.5分、北緯12度48分<ref name="清霜詳報11"/>。だが、清霜の報告位置を元にした戦後の水中探査でも、武蔵は発見されなかった<ref>[[#手塚取材記]]130頁</ref>。ただし、清霜の砲術長は同艦の航跡自画器は故障していたので、あくまで推測でしかないことを述べている<ref>[[#手塚取材記]]130-131頁、[[門脇尚一]]</ref>。 |
|||
# 武蔵ドキュメンタリーを製作した[[手塚正己]]は[[ロンブロン州|シブヤン島]]マグディワク町に取材に赴き、町の北方沖合い5km、水深50mに武蔵が沈んでいるという地元漁師の証言を紹介している<ref>[[#手塚取材記]]129-134頁、「フィリピン戦跡行『ジブヤン海』漂流」</ref><ref name="mook201508"/>。2015年4月に現地で洋上慰霊祭が開催されたときにも、現地の責任者の将軍から同様の話が聴取されていた<ref name="mook201508"/>。 |
|||
# 武蔵の生存者で構成された「[[軍艦武蔵会]]」が昭和50年に発行した「嗚呼 戦艦武蔵」に掲載されている対空戦闘航跡図を元に、古賀繁一が著書に記載した沈没位置。結果的に、この古賀繁一が提唱した沈没位置が最も正確であった<ref name="mook201508"/>。 |
|||
沈没地点とされる場所を調査しても武蔵が発見されないことから、「沈んだ時点でも武蔵の艦腹には、なお未浸水の頑丈な防水区画が沢山あって、それらが艦に浮力を与えて海底まで沈下せず、艦内に閉じ込められた英霊と共に、シブヤン海の8-12ノットもある強い潮流に乗って海中を彷徨い続けているのでは」という噂話も存在した<ref name="太平洋戦争で活躍した日本の軍艦"/>。武蔵自体の航海記録は、艦橋に爆弾が直撃して第一艦橋に火炎が吹き込んだために、失われている<ref name="mook201508">戦艦「武蔵」の真実 2015年8月15日初版 gakken moook 学研マーケティング ISBN 978-4-05-610894-1</ref>。 |
|||
2015年3月2日、[[マイクロソフト]]社の共同創業者で、第二次大戦中の軍用機コレクターでもある[[ポール・アレン]]の調査チームが武蔵をシブヤン海の水深1000mの地点で発見し、翌日に公式発表した<ref>{{Cite web|和書|author= |date=2015-03-18 |url= http://www.sankei.com/west/news/150318/wst1503180002-n1.html |title= 70年ぶり発見「武蔵」に見る第1級のハイテクパワーと造船技術…日本の粋を結集、引き揚げは可能か |work= |publisher= [[産経新聞|産経WEST]] |accessdate=2015-05-25}}</ref>。旧日本海軍史研究家で、[[呉市海事歴史科学館|大和ミュージアム]]の[[戸高一成]]館長は「艦首の[[菊花紋章]]や船を係留するための鎖やロープを通す穴の形状などから、武蔵の艦首と考えてほぼ間違いない」と話した<ref>{{Cite web|和書|date= 2015-03-03 |url= http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150303/k10010002771000.html |publisher= [[日本放送協会|NHK News Web]] |title=戦艦武蔵の船体発見か ネットに投稿 |accessdate= 2015-03-04|archiveurl= https://web.archive.org/web/20150305033028/http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150303/k10010002771000.html |archivedate= 2015-03-05}}</ref>。また、日米複数の専門家が武蔵だと断定した<ref>{{Cite web|和書|date= 2015-03-13 |url= http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150313/k10010014321000.html |publisher= [[日本放送協会|NHK News Web]] |title= 専門家 沈没船は戦艦「武蔵」と断定 | accessdate= 2015-03-18 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20150313104523/http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150313/k10010014321000.html |archivedate= 2015-03-13}}</ref>。調査には戦艦[[フッド_(巡洋戦艦)|フッド]]の探索にも使用されたアレン私有の[[海洋調査船]][[オクトパス (ヨット)|オクトパス]](全長441フィート)が使用された。武蔵の船体撮影は海底8843フィートまで潜水できる遠隔操作の探査機により行われた。調査は資料収集や海底の地形調査から始められ、実際の船体発見までは8年の年月が必要であった。シブヤン海の地形は複雑であり、いくつかの海底火山もあったが、それらの山頂部は調査区域が除外された。オクトパスからのマルチビーム海底スキャンによって、沈没地点の候補地は狭く絞られた。2015年2月より実際の潜水探査が開始されたが、わずか3回目の探査で武蔵の船体は発見された。発見時には都合によりアレンは現場には居合わせなかった。特定された沈没地点はシブヤン島の真北側のシブヤン海中央部で、清霜が記録した沈没地点のやや西側であった<ref name="mook201508"/>。 |
|||
アレンは3月13日(アメリカ時間12日)に探査機の映像のインターネット生中継を行った。この映像から艦体の各部が海底に散在している状況が判明し、調査チームは沈没時に火薬庫の爆発が起こったことなどを分析した<ref>{{Cite web|和書|author= |date=2015-03-14 |url= http://www.asahi.com/articles/ASH3F55H8H3FUHBI01L.html |title= 戦艦武蔵、沈没時に爆発か ネット中継、海底に艦体散在 |work= |publisher= [[朝日新聞デジタル]] |accessdate=2015-05-25}}</ref>。また、観測用水上機射出用のカタパルトのマニュアルと思われる日本語の文書も発見された<ref>{{Cite web|和書|author= |date= 2015-03-07 |url= http://www.asahi.com/articles/ASH376JY5H37UHBI01G.html |title= 今度は戦艦武蔵のマニュアルか 日本語文書も公開 |publisher= [[朝日新聞デジタル]] |accessdate=2015-05-25}}</ref>。船体発見が報じられたことを受け、猪口艦長への墓参りが急増したとも伝えられている<ref>{{Cite web|和書|url= http://mainichi.jp/select/news/20150317k0000e040237000c.html |title= 武蔵:沈黙の艦長、70年後の脚光 鳥取で墓参者急増(毎日) |accessdate= 2015-03-18 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150413055225/http://mainichi.jp/select/news/20150317k0000e040237000c.html|archivedate=2015-04-13}}</ref>。 |
|||
=== 船体の破損状態 === |
|||
武蔵は沈没時に爆発を起こした為に、船体は大きな破損を受けた<ref name="mook201508"/>。船体は1番主砲の後方で切断され、大きく2分割した状態で沈んでおり<ref name="mook201508"/>、両者の距離は100m程度離れている。大和の沈没時と同様に機関部に流れ込んだ多量の海水による機関内水蒸気爆発に加え、その爆発が火薬庫にまで及び、その結果艦体が分断され、構造物が本体から四散する程の大破壊が及んだと推察される。 |
|||
* 艦首部分 - 艦首側は海底に水平の状態で沈んでいる<ref name="mook201508"/>。1番主砲塔は脱落しており、バーベットの穴が確認されている<ref name="mook201508"/>。その直後から切断されているので2番主砲塔のバーベットは確認されていない<ref name="mook201508"/>。艦首の菊の紋章は残っていない(脱落したか腐食したと考えられている)<ref name="mook201508"/>。左側のアンカーは、左舷への傾斜を回復させるためにアンカーチェーンと一緒に海中投棄されたので、記録の通り船体には残されていなかった<ref name="mook201508"/>。右側のアンカーは残されている<ref name="mook201508"/>。船体下部には複数の魚雷による破壊孔が確認されている(出典の書物には左側だけで4か所確認されている)<ref name="mook201508"/>。 |
|||
* 船尾部分 - 船尾部分は上下逆になって沈んでいる。半分程度が泥に埋まっており、艦底とスクリュー、舵などしか確認できない<ref name="mook201508"/>。切断部分はタービン室付近で、タービンが切断面から観察できる。2枚の舵は正中に固定された状態で海底に直立しているが<ref name="mook201508"/>、主舵については「くの字」の変形が確認された。一部で4枚羽への換装論があったスクリューは、武蔵においても建造時の3枚羽のままであることも確認された<ref name="mook201508"/>。スクリューは1基に変形を認めるが、3基は外観が保たれている。魚雷の命中孔については情報が得られていない<ref name="mook201508"/>。 |
|||
* 艦橋などの構造物 - 前後の艦橋や15m測距儀、煙突などの最上甲板の構造物は、丸ごと船体から脱落し船首より500m離れた場所に横倒しで沈んでいる<ref name="mook201508"/>。艦橋は爆弾によって右舷側が酷く破壊されている。今まで資料で指摘のなかった後部艦橋基部の見張り台などの新発見があった<ref name="mook201508"/>。煙突は損傷が激しい。マストと後部艦橋の上部は脱落して発見されていない<ref name="mook201508"/>。 |
|||
* その他のパーツ - 海底まで1000mあったために、パーツは直径1kmの広範囲に落下している。艦橋よりもさらに離れた場所に酷く破損した2番主砲塔の給弾室などの残骸が発見されている。破損の程度は高度であり、2番主砲塔付近の船体が見当たらないことからも、2番主砲の火薬庫が沈没後に誘爆して船体を破壊したと判断されている。1番主砲や3番主砲は発見されていない。 |
|||
艦橋と船首部分の間500mには、比較的大きな船体構造物やボイラー、カタパルト、対空兵器のシールド、三式弾などが広範囲に散らばって沈んでいる<ref name="mook201508"/>。副砲も1基のみ発見されているが、全体の大部分が泥に埋もれており後部のハッチや片方の測距儀などしか確認できない<ref name="mook201508"/>。 |
|||
アレンが公表した映像は一部に過ぎなかったが、NHKは100時間にも及ぶ動画の提供を受け、それらを三次元的に画像データとして再構成し、2016年12月4日放送の[[NHKスペシャル]]「戦艦武蔵の最期」で公開した。 |
|||
=== 反響 === |
|||
読売新聞は、歴史的記憶として貴重であり後世に残すべきとの特集コラムを掲載した<ref>{{Cite web|和書|author= |date= 2015-03-14 |url=https://web.archive.org/web/20150316191408/http://www.yomiuri.co.jp/feature/matome/20150314-OYT8T50000.html |title= 後世に伝えるべき武蔵の「記憶」とは|work= |publisher= [[YOMIURI ONLINE]] |accessdate=2015-05-25}}</ref>。また、週刊新潮と朝日新聞は引き上げにかかる費用を試算し、巨大な費用がかかる事から現実的でないとしている<ref>{{Cite web|和書|author= |date= 2015-03-18 |url= http://www.asahi.com/and_M/interest/SDI2015031796701.html |title= 1000人が眠る戦艦武蔵を引き揚げるには |work= |publisher=[[朝日新聞デジタル|朝日新聞デジタル&M]] |accessdate=2015-05-25}}</ref>。また、この発見を受けて自主映画製作も発表されている<ref> {{Cite web|和書|author= |date= |url= http://mainichi.jp/area/tottori/news/m20150318ddlk31040565000c.html |title= 戦艦武蔵:映像化 「船体発見」で自主映画製作 鳥取の監督、今夏撮影へ /鳥取 |work= |publisher= [[毎日新聞]] |accessdate=2015-05-25}}</ref>。 |
|||
== 年表 == |
|||
左舷外側の3室の缶室は、1つは魚雷によって隔壁が破壊され瞬時に水没した(同一部位への重複した魚雷命中によるとされている)。また1室は魚雷攻撃により隔壁からの漏水が発生し、防水処置をしたものの、その後の魚雷命中の衝撃で、打ち込んだ楔などが全て吹き飛ぶなどしたために、最終的に乗員は腰まで海水に漬かった。もう1室についても緩徐な浸水に見舞われたが、隣室への防水扉を駆動する電気回路が故障したため、彼らは脱出不能となった。天井に穴をあける作業が行われたが、非常に厚い装甲板(200ミリ)だったため全員溺死した。内側の6室の缶室には浸水はなかった。右側外側の缶室は別記したように戦闘終了後に傾斜復旧のために、注水命令が下令されている。4室ある機械室(タービン室)も最終的に3室まで浸水が確認されている |
|||
* [[1938年]](昭和13年) - 3月29日 [[三菱重工業長崎造船所]]にて起工<ref>[[#武蔵建造記録]]89頁</ref>。 |
|||
* [[1940年]](昭和15年) - 11月1日 [[進水]] <ref name="牧野建造記103">[[#武蔵建造記録]]89頁</ref>。武蔵と正式命名<ref name="達241號"/>。 |
|||
* [[1941年]](昭和16年) - 7月1日 佐世保に回航<ref>[[#武蔵建造記録]]109頁</ref>。主舵、推進器装備。 |
|||
* 1941年(昭和16年) - 8月1日~2日 長崎に帰着<ref>[[#武蔵建造記録]]113頁</ref>。 |
|||
* [[1942年]](昭和17年) - 5月20日 第一水雷戦隊駆逐艦[[響 (吹雪型駆逐艦)|響]]、[[暁 (吹雪型駆逐艦)|暁]]に護衛され、呉に移動<ref>[[#武藏上]]71-73頁、 [[#武蔵建造記録]]122頁</ref>。 |
|||
* 1942年(昭和17年) - 6月~7月 佐田岬沖で公試。6月22日、27.5ノットを記録<ref>[[#武藏上]]79頁</ref>。[[大和 (戦艦)|大和]]より若干良成績<ref>[[#戦藻録(九版)]]159頁</ref>。 |
|||
* 1942年(昭和17年) - 8月5日 呉にて竣工<ref>[[#武蔵建造記録]]123頁</ref>。大和型戦艦に類別<ref name="S17内令1456">[[#内令昭和17年8月分(1)]]p.31『内令第千四百五十六號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和十七年八月五日海軍大臣嶋田繁太郎|軍艦、戦艦大和型ノ項中「大和」ノ下ニ「、武藏」ヲ加フ』</ref>。[[横須賀鎮守府]]籍<ref>[[#内令昭和17年8月分(1)]]p.31『内令第千四百五十七號 軍艦武藏 右本籍ヲ横須賀鎮守府ト定メラル|昭和十七年八月五日海軍大臣嶋田繁太郎』</ref>。その後訓練に従事。 |
|||
* 1942年(昭和17年) - 10月15日 レーダー試験<ref>[[#大和開発物語]]241頁。[[松井宗明]](通信長)談</ref>。 |
|||
* 1942年(昭和17年) - 10月28日 実弾射撃演習<ref>[[#大和開発物語]]245頁</ref>。距離41,500mで射撃を行うが主砲発射の衝撃でレーダーが故障、調整を行う<ref>[[#大和開発物語]]246頁</ref>。 |
|||
* [[1943年]](昭和18年) - 1月18日 |
|||
** 呉を出港。空母[[瑞鶴 (空母)|瑞鶴]]、[[瑞鳳 (空母)|瑞鳳]]、軽巡洋艦[[神通 (軽巡洋艦)|神通]]、駆逐艦4隻とトラック島泊地へ向かう<ref name="牧野建造記218">[[#武蔵建造記録]]218-219頁「戦艦武蔵の行動概要」</ref>。 |
|||
* 1943年(昭和18年) - 2月11日 |
|||
** [[連合艦隊司令長官]][[山本五十六]]が乗艦<ref>[[#武藏上]]110-111頁</ref>。[[連合艦隊]][[旗艦]]となる<ref name="牧野建造記218"/><ref name=戦史叢書(62)252/>。[[梨本徳彦|久邇宮徳彦王]]、武蔵を退艦<ref>[[#武藏上]]111頁</ref>。 |
|||
* 1943年(昭和18年) - 4月18日 山本五十六長官が戦死([[海軍甲事件]])。23日、山本長官の遺骨と宇垣参謀長が戻る。 |
|||
* 1943年(昭和18年) - 4月26日 古賀峯一大将、連合艦隊長官として武蔵に赴任<ref>[[#武藏上]]137頁</ref>。 |
|||
* 1943年(昭和18年) - 5月17日 |
|||
** 第三戦隊(戦艦[[金剛 (戦艦)|金剛]]、[[榛名 (戦艦)|榛名]])、[[第二航空戦隊]](空母[[飛鷹 (空母)|飛鷹]])、第八戦隊(巡洋艦[[利根 (重巡洋艦)|利根]]、[[筑摩 (重巡洋艦)|筑摩]])、第六一駆逐隊、第二七駆逐隊、第二四駆逐隊とともに山本長官の遺骨を乗せて[[チューク諸島|トラック島]]から横須賀へ帰還<ref name="牧野建造記218"/>。これが武蔵の初任務となった。アッツ島に米第7師団が上陸したことに対し、アリューシャン方面で活動する米艦隊に決戦を挑む意図があったとも言われる<ref>[[#武藏上]]141頁</ref>。 |
|||
* 1943年(昭和18年) - 5月22日 木更津沖に投錨<ref name="牧野建造記218"/>。翌日、山本長官告別式<ref>[[#武藏上]]144頁</ref>。 |
|||
* 1943年(昭和18年) - 6月24日 |
|||
** [[昭和天皇]]行幸<ref name="牧野建造記218"/>。御召艦となり、天皇の他に[[高松宮宣仁親王]]、木戸幸一内大臣以下32名が随行し<ref>[[#武藏上]]147頁、[[#塚田年少兵]]93-96頁</ref>、約3時間滞在<ref>[[#細谷航海記]]94頁</ref>。以下の電文が連合艦隊各艦に伝達『24日2210 GF/GF機密第241656番電 一.本日畏クモ聯合艦隊ニ行幸アラセラレ'''御召艦武蔵'''ニ於テ本職ヨリ軍状ヲ聞召サレタル後別電ノ御言葉ヲ賜リ 本職左ノ通奉答セリ 「本日畏クモ聯合艦隊ニ行幸ヲ辱ウシ優渥ナル御言葉ヲ賜リ臣峯一恐懼感激ノ至リニ御座ヰマス。聯合艦隊ノ将兵一同ノ将兵一同倍倍奮励努力敵撃滅ニ邁進致シ以テ聖旨ニ應ヘ奉ル覚悟デ御座ヰマス」 二.連合艦隊行幸ノ件 公表セラルル迄聯合艦隊以外発表ヲ禁止ス』<ref>[[#昭和18年5月~第4水雷戦隊日誌(2)]]pp.66-67</ref>。 |
|||
* 1943年(昭和18年) - 7月31日 |
|||
** 長崎沖から第五戦隊([[妙高 (重巡洋艦)|妙高]]、[[羽黒 (重巡洋艦)|羽黒]])、軽空母[[雲鷹 (空母)|雲鷹]]、軽巡洋艦[[長良 (軽巡洋艦)|長良]]、駆逐艦曙と共にトラック島へ向かう<ref name="牧野建造記218"/>。 |
|||
** 米潜水艦[[スティールヘッド (潜水艦)|スティールヘッド]] (''USS Steelhead, SS-280'')が武蔵を雷撃するも失敗する<ref>[[#武藏上]]162頁</ref>。 |
|||
* 1943年(昭和18年) - 8月5日 トラック泊地到着<ref name="牧野建造記218"/>。前線に出撃しないため『武蔵御殿』と揶揄された<ref>[[#武藏上]]124頁</ref>。 |
|||
* 1943年(昭和18年) - 10月17日 |
|||
** マーシャル方面に米機動部隊出現の報告を受けて、迎撃に出動する<ref>[[#武藏上]]189頁</ref><ref name="牧野建造記218"/>。だが9日間待機しても米機動部隊は出現せず、トラックに帰投。「連合艦隊の大散歩」と揶揄された<ref>[[#武藏上]]190頁</ref>。この頃、不燃対策として家具を撤去する<ref>[[#武藏上]]248頁</ref>。また甲板を黒に近いネズミ色に塗装し、甲板掃除を行わなくなったという複数の証言がある<ref>[[#武藏上]]248-250頁</ref>。甲板士官も、1944年1月の時点で甲板が黒く、ほとんど掃除しなかったと述べている<ref>[[#武藏上]]249頁、[[野村治男]](少尉候補生)談。</ref>。 |
|||
* [[1944年]](昭和19年) - 2月10日 軽巡洋艦[[大淀 (軽巡洋艦)|大淀]]、駆逐艦[[白露 (白露型駆逐艦)|白露]]以下4隻と共にトラック泊地を出港<ref name="牧野建造記218"/>。15日、横須賀に帰還<ref>[[#武藏上]]264頁</ref><ref name="牧野建造記218"/>。 |
|||
* 1944年(昭和19年) - 2月24日 陸軍部隊輸送に参加<ref name="牧野建造記218"/>。29日パラオに到着<ref name="牧野建造記218"/>。 |
|||
* 1944年(昭和19年) - 3月29日 |
|||
** 第17駆逐隊([[磯風 (陽炎型駆逐艦)|磯風]]、[[谷風 (陽炎型駆逐艦)|谷風]])に護衛され[[パラオ大空襲|パラオ空襲]]から事前退避する途中、米潜水艦[[タニー (潜水艦)|タニー]](''USS Tunny, SS/SSG/APSS/LPSS-282'')が武蔵を雷撃。17時45分、魚雷1本が並走するように武蔵の左舷艦首部に命中<ref>[[#武藏上]]308頁</ref><ref name="牧野建造記218"/>。艦後部にいた者は魚雷命中に気付かず、武蔵は24ノットに増速して退避した<ref>[[#武藏上]]311頁</ref>。浸水2630t、戦死者7名、負傷者11人の被害を出して4月3日に呉に到着<ref name="牧野建造記218"/>。直径7-8mの破孔が開いたが損傷は限定的であり、修理は順調に進んだ<ref>[[#造船士官の回想 下]]188-191頁『「武蔵」にも魚雷命中』</ref>。 |
|||
* 1944年(昭和19年) - 3月31日 [[海軍乙事件]]。[[古賀峯一]]連合艦隊司令長官殉職、[[福留繁]]連合艦隊参謀長捕虜。 |
|||
* 1944年(昭和19年) - 4月22日 呉で対空戦闘の為の改装工事が完了。12.7cm高射砲6基の配備が間に合わず、25mm三連機銃18基増設<ref name="秋元メカ78">[[#秋元記録]]78頁</ref>。 |
|||
* 1944年(昭和19年) - 5月4日 巡洋艦[[大淀 (軽巡洋艦)|大淀]]に連合艦隊旗艦を譲る。 |
|||
* 1944年(昭和19年) - 5月11日 第二航空戦隊、第三航空戦隊、第十戦隊第四駆逐隊、第二駆逐隊と共に日本を離れる<ref>[[#武藏上]]357頁</ref><ref name="牧野建造記218"/>。 |
|||
* 1944年(昭和19年) - 5月16日 タウイタウイ泊地に到着する<ref>[[#戦藻録(九版)]]324頁</ref>。 |
|||
* 1944年(昭和19年) - 6月10日 [[ビアク島]]に上陸した米軍を迎撃する[[渾作戦|第三次渾作戦]]に参加、大和と共に出撃する<ref>[[#戦藻録(九版)]]341頁</ref>。 |
|||
* 1944年(昭和19年) - 6月12日 ソロン沖バチャン泊地に集結する<ref>[[#戦藻録(九版)]]342頁</ref>。 |
|||
* 1944年(昭和19年) - 6月15日 [[マリアナ沖海戦]]参加<ref name="牧野建造記218"/>。 |
|||
* 1944年(昭和19年) - 6月24日 日本に戻り、桂島錨地に停泊<ref>[[#武藏上]]505頁</ref><ref name="牧野建造記218"/>。 |
|||
* 1944年(昭和19年) - 7月8日 陸軍兵と資材を艦体が2m沈下するほど搭載し、南方へ向かう<ref>[[#武藏上]]517頁</ref><ref name="牧野建造記218"/>。16日、リンガ泊地に到着<ref name="牧野建造記218"/>。 |
|||
* 1944年(昭和19年) - 10月18日 リンガ泊地を出港し、20日[[ブルネイ]]に入港<ref>[[#戦藻録(九版)]]410頁</ref>。 |
|||
* 1944年(昭和19年) - 10月22日 [[レイテ沖海戦]]参加すべく、ブルネイを出撃<ref>[[#戦藻録(九版)]]415頁</ref>。 |
|||
* 1944年(昭和19年) - 10月23日 パラワン水道にて[[摩耶 (重巡洋艦)|摩耶]]の乗組員769名を救助。 |
|||
* 1944年(昭和19年) - 10月24日 アメリカ軍機の集中攻撃を受け、[[シブヤン海]]にて沈没。 |
|||
* 2015年(平成27年) - 3月3日 [[マイクロソフト]]共同創業者である[[ポール・アレン]]が、<!--自身の支援するプロジェクトにより-->3月2日<ref>{{YouTube|wnZ7ZXicxtM|Musashi Expedition Japanese Edit}}</ref>に武蔵を[[シブヤン海]]の水深1000mの海底で発見したと発表した<ref>{{Twitter status|PaulGAllen|572431062522982400}}</ref><ref> {{Cite web|和書|author= |date= 2015-03-03 |url= https://web.archive.org/web/20150303115909/http://www.47news.jp/CN/201503/CN2015030301001556.html |title= 戦艦武蔵の船体、発見か 米資産家、比シブヤン海で |work= |publisher= [[47NEWS]] |accessdate=2015-05-25}}</ref>。武蔵の艦体は沈没から約70年にわたって確認されていなかった<ref>{{Cite web|和書|author= |date=2015-03-03 |url= https://web.archive.org/web/20150305155601/http://www.sankei.com/west/news/150303/wst1503030062-n1.html |title= 艦首“菊の紋章”や機雷回避装置…「武蔵」原形で眠る可能性も 「発見した」とMS共同創業者ツイッター |work= |publisher= [[産経新聞|産経WEST]] |accessdate=2015-05-25}}</ref>が、[[大和ミュージアム]]館長にして海軍史研究家でもある[[戸高一成]]は「ほぼ間違いなく武蔵」と指摘している<ref>{{Cite web|和書|date= 2015-03-04 |url= http://mainichi.jp/select/news/20150304k0000m040155000c.html |title= 戦艦武蔵:「ほぼ間違いない」大和ミュージアム館長が指摘 |publisher= [[毎日新聞]] |accessdate= 2015-03-04 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20150402171804/http://mainichi.jp/select/news/20150304k0000m040155000c.html |archivedate= 2015-04-02}}</ref>。 |
|||
予備浮力が多く確保され、その比は長門型の1.5倍もあり、同時期の他国の戦艦と比較しても、浸水に対しては余裕を持った設計になっている(これは乾舷を高く設計するという手段で実現されている)<ref>小型軽量設計が特徴の大和型だが、この小型化が更に浮力余裕を持たせられなかったとも言われる。(学研『日本の戦艦』)</ref>武蔵といえど、大量の浸水の前に耐えきれなかった。これだけの被害を受けながらも、なおも浮き続けた艦は武蔵のみであるが、浮かぶ船である以上、間断のない攻撃による被雷、浸水の増加に沈没を免れることはできず、頑強な戦艦といえど、航空機の継続的な攻撃の前に屈することは、半月後のドイツ戦艦[[ティルピッツ (戦艦)|ティルピッツ]]や、半年後の同型艦大和の最期でも証明された形になった。 |
|||
== 歴代艦長 == |
== 歴代艦長 == |
||
; 艤装員長 |
; 艤装員長 |
||
: [[有馬馨]] |
: [[有馬馨]] 大佐:[[1941年]](昭和16年)9月15日~ |
||
; 艦長 |
; 艦長 |
||
# 有馬馨 |
# 有馬馨 大佐:[[1942年]](昭和17年)8月5日~[[1943年]](昭和18年)6月9日 |
||
# [[古村啓蔵]] |
# [[古村啓蔵]] 大佐:[[1943年]](昭和18年)6月9日~1943年12月5日 |
||
# [[朝倉豊次]] |
# [[朝倉豊次]] 大佐:[[1943年]](昭和18年)12月6日~1944年8月11日 |
||
# [[猪口敏平]] |
# [[猪口敏平]] 少将:[[1944年]](昭和19年)8月12日~1944年10月24日 |
||
== 同型艦 == |
== 同型艦 == |
||
185行目: | 344行目: | ||
* [[111号艦]](未成) |
* [[111号艦]](未成) |
||
== |
== その他 == |
||
* [[2010年]](平成22年) - 士官室に備え付けられていた姿見用鏡が、元武蔵乗組員から横須賀市の居酒屋「横須賀風居酒屋 空母信濃」に寄贈される<ref name="mirror">{{Cite web2 |url=http://www.tokyo-sports.co.jp/nonsec/social/373583/ |title=戦艦「武蔵」71年ぶり発見 船体引き揚げは困難も遺品は回収へ |date=2015-03-05 |publisher=東京スポーツWeb |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150306145214/http://www.tokyo-sports.co.jp/nonsec/social/373583/ |df=ja |url-status=dead |archivedate=2015-05-06 |accessdate=2015-05-06}}</ref>。 |
|||
{{reflist}} |
|||
* [[2019年]](令和元年) - 大和の乗組員の遺品から発見された、訓練中の武蔵の写真が公開された<ref>[https://yamato-museum.com/note/%E9%A4%A8%E9%95%B7%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88vol-48%e3%80%80%E6%B5%B7%E5%BA%95%E3%81%AB%E7%9C%A0%E3%82%8B%E8%BB%8D%E8%89%A6/ 館長ノートvol.48 海底に眠る軍艦]、[[呉市海事歴史科学館|大和ミュージアム]]HP、2019年5月15日、同年5月21日閲覧</ref>。[[戸高一成]]は、トラック諸島に到着直前の昭和18年1月22日頃、陸上基地の[[一式陸上攻撃機]]が武蔵に対して雷撃訓練をした際に撮影されたと推定した。この写真から、当時の武蔵は換気口から舷窓、上甲板の幹部の部屋の窓まですべて塞がれていたことが判明し、さらなる調査が待たれる。 |
|||
== 記録 == |
|||
* 武蔵は以下の3つの[[ギネス世界記録]]に認定されている。 |
|||
** 世界最大の戦艦(総トン数) |
|||
** 最大の艦砲を搭載した軍艦 |
|||
** 世界一被弾火薬量の多い軍艦 |
|||
* {{要出典範囲|総員退艦命令が出されてから完全に沈むまでの時間が軍艦史上最長である。|date=2019年3月|title=事実ではないだろう。アメリカの空母ホーネットは、駆逐艦にトドメをさされるまで総員退去後半日漂流していた。}} |
|||
== 武蔵を題材とした作品 == |
|||
=== テレビドラマ === |
|||
『'''戦艦武蔵'''』は2016年8月6日19:30 - 20:59に[[NHK BSプレミアム]][[ザ・プレミアム]]枠で放送された[[テレビドラマ]]。劇中の武蔵の戦闘シーンなどは[[ロトスコープ]]でアニメ化された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2076323/full/|title=石原さとみ、反戦ドラマに「胸がくるしくなった」|publisher=[[ORICON STYLE]]|date=2016-08-05|accessdate=2016-08-11}}</ref>。 |
|||
なお、2016年9月3日 21:00 - 22:13に[[NHK総合]]において「[[NHKスペシャル]]」で73分の短縮版が放送された。 |
|||
==== あらすじ ==== |
|||
フィリピンのシブヤン海で71年ぶりに発見された巨大戦艦は今、何を語りかけるのか。戦艦武蔵をめぐって出会った遺族と元乗組員の魂の物語である。 |
|||
==== キャスト ==== |
|||
===== 現代パート ===== |
|||
* [[石原さとみ]] (真中麻有(28))<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2074197/full/|title=石原さとみ、戦艦武蔵を題材にしたドラマに主演「何度も涙しました」|publisher=ORICON STYLE|date=2016-06-28|accessdate=2016-08-11}}</ref> |
|||
* [[勝地涼]] (篠原徹 (29)) |
|||
* [[渡辺美佐子]] (真中ふみ(89)) |
|||
* [[篠田三郎]] (真中賢治・麻有の父) |
|||
* [[市毛良枝]] (真中よしえ・麻有の母) |
|||
* [[石丸謙二郎]] (木山三男の甥・井上兼造(61)) |
|||
* [[山本學]] (元・武蔵乗組員 前島 清(92)) |
|||
* [[津川雅彦]] (元・武蔵乗組員 木山三男(89)) |
|||
===== 戦時パート ===== |
|||
* [[吉沢悠]] (真中俊之(26)) |
|||
* [[泉澤祐希]] (青年時代の木山三男(18)) |
|||
* [[広田亮平]] (野村惣一(17)) |
|||
* [[深澤嵐]] (少年兵) |
|||
==== スタッフ ==== |
|||
* 作・演出 - 岡崎栄 |
|||
* 音楽 - 笠松泰洋 |
|||
* 取材協力 - 軍艦武藏会 |
|||
* 映像提供 - [[ポール・アレン|Paul G.Allen]] |
|||
* 海軍考証協力 - [[戸高一成]] |
|||
* 軍事監修 - 堤明夫 |
|||
* イラスト画 - 古屋郁、山田ひかる |
|||
* 挿入歌 - [[ワン・ダイレクション|One Direction]]「LONG WAY DOWN」 |
|||
* 撮影協力 - [[高知県]][[四万十市]]、高知県[[宿毛市]]、高知県[[土佐清水市]]、[[愛媛県]][[愛南町]]、[[栃木県]][[佐野市]] |
|||
* 制作総括 - 小松昌代、中村雅人、千葉聡史 |
|||
* プロデューサー - [[城谷厚司]] |
|||
* 制作 - [[NHKエンタープライズ]] |
|||
=== ドキュメンタリー === |
|||
* [[BS1スペシャル]]「戦艦武蔵の最期〜映像解析・知られざる“真実”〜」(2020年2月4日、[[NHK BS1]])<ref>{{Cite web2 |url=https://www.nhk.jp/p/bs1sp/ts/YMKV7LM62W/episode/te/996P4VGKRK/ |title=戦艦武蔵の最期〜映像解析・知られざる“真実”〜 |date=2020-02-04 |publisher=NHK |archiveurl=https://archive.md/lrXNl |df=ja |url-status=live |archivedate=2023-05-05 |accessdate=2023-05-05}}</ref> |
|||
== 脚注 == |
|||
{{脚注ヘルプ}} |
{{脚注ヘルプ}} |
||
=== 注釈 === |
|||
<references /> |
|||
{{Reflist|group="注釈"}} |
|||
=== 出典 === |
|||
{{Reflist|3}} |
|||
== |
== 文献 == |
||
{{ |
{{see also|大和型戦艦に関連する作品の一覧#武蔵}} |
||
* 『戦艦武藏』[[吉村昭]]([[文藝春秋]]) |
|||
=== ウェブサイト === |
|||
* [https://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)] (防衛省防衛研究所) |
|||
** Ref.C08050018300「毎日新聞連載 日本造船十話」 [[斯波孝四郎]]「戦艦武蔵の建造」 |
|||
** Ref.{{Cite book|和書|author=C12070107900|title=昭和15年1月~12月達/昭和15年11月(1)|ref=達昭和15年11月(1)}} |
|||
** Ref.{{Cite book|和書|author=C12070164400|title=昭和17年7月~9月 内令3巻/昭和17年8月分(1)|ref=内令昭和17年8月分(1)}} |
|||
** Ref.{{Cite book|和書|author=C08051771900|title=昭和16年~昭和20年 戦隊 水戦輸送戦隊 行動調書|ref=戦隊行動調書}} |
|||
** Ref.{{Cite book|和書|author=C08030117000|title=昭和18年5月1日~昭和18年7月19日 第4水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)|ref=昭和18年5月~第4水雷戦隊日誌(2)}} |
|||
** Ref.{{Cite book|和書|author=C08030565200|title=昭和19年10月24日 軍艦武蔵戦闘詳報|ref=武蔵戦闘詳報}} |
|||
** Ref.C08030565300「昭和19年10月24日 菲島沖海戦に於ける戦死傷者表」 |
|||
** Ref.{{Cite book|和書|author=C08030714600|title=昭和19年10月16日~昭和19年10月28日 戦闘詳報.第1遊撃部隊 捷号作戦(菲島沖海戦を含む)(1)|ref=第1遊撃部隊詳報(1)}} |
|||
** Ref.{{Cite book|和書|author=C08030714700|title=昭和19年10月16日~昭和19年10月28日 戦闘詳報.第1遊撃部隊 捷号作戦(菲島沖海戦を含む)(2)|ref=第1遊撃部隊詳報(2)}} |
|||
** Ref.{{Cite book|和書|author=C08030036900|title=昭和19年10月20日~昭和19年10月28日 捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(4)|ref=捷号作戦戦闘詳報(4)}}(第一戦隊) |
|||
** Ref.{{Cite book|和書|author=C08030037000|title=昭和19年10月20日~昭和19年10月28日 捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(5)|ref=捷号作戦戦闘詳報(5)}}(第一戦隊) |
|||
** Ref.{{Cite book|和書|author=C08030564500|title=昭和19年10月17日~昭19年10月28日 軍艦大和戦闘詳報 第3号(1)|ref=大和戦闘詳報(1)}} |
|||
** Ref.{{Cite book|和書|author=C08030564600|title=昭和19年10月17日~昭19年10月28日 軍艦大和戦闘詳報 第3号(2)|ref=大和戦闘詳報(2)}} |
|||
** Ref.{{Cite book|和書|author=C08030568800|title=昭和19年10月22日~昭和19年10月26日 軍艦摩耶比律賓沖海戦戦闘詳報|ref=摩耶戦闘詳報}} |
|||
** Ref.{{Cite book|和書|author=C08030577700|title=昭和19年10月22日~昭和19年10月28日 軍艦矢矧捷1号作戦戦闘詳報(2)|ref=矢矧戦闘詳報(2)}} |
|||
** Ref.{{Cite book|和書|author=C08030565400|title=昭和19年10月24日~昭19年10月29日 軍艦長門戦闘詳報 第2号(1)|ref=長門戦闘詳報(1)}} |
|||
** Ref.{{Cite book|和書|author=C08030565500|title=昭和19年10月24日~昭19年10月29日 軍艦長門戦闘詳報 第2号(2)|ref=長門戦闘詳報(2)}} |
|||
** Ref.{{Cite book|和書|author=C08030568500|title=昭和19年10月18日~昭和19年10月29日 軍艦利根戦闘詳報(1)|ref=利根戦闘詳報(1)}} |
|||
** Ref.{{Cite book|和書|author=C08030568600|title=昭和19年10月18日~昭和19年10月29日 軍艦利根戦闘詳報(2)|ref=利根戦闘詳報(2)}} |
|||
** Ref.{{Cite book|和書|author=C08030146600|title=昭和18年2月1日~昭和19年10月31日 第17駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(4)|ref=第17駆逐隊戦闘詳報(4)}} |
|||
** Ref.{{Cite book|和書|author=C08030589700|title=昭和19年10月24日 駆逐艦清霜戦闘詳報|ref=清霜戦闘詳報}} |
|||
** Ref.{{Cite book|和書|author=C08030567900|title=昭和19年10月24日 軍艦妙高戦闘詳報|ref=妙高戦闘詳報}} |
|||
* [https://dl.ndl.go.jp/ 国立国会図書館デジタルコレクション] - [[国立国会図書館]] |
|||
** {{Cite book|和書|author=海軍有終会編|year=1935|month=11|title=幕末以降帝国軍艦写真と史実|publisher=海軍有終会|url={{NDLDC|1466489}}|ref=幕末以降帝国軍艦写真と史実}} |
|||
** {{Cite book|和書|editor=連合軍総司令部民間情報教育局|editor-link=民間情報教育局|year=1946|month=8|title={{small|連合軍最高司令部民間情報教育局編 ラヂオ放送「眞相箱」の再録}} 眞相はかうだ {{small|第一輯}}|chapter=戰艦武藏沈没の模様をお話し下さい。|publisher=総合プレス社|url={{NDLDC|1042022/11}}|ref=真相はかうだ}} |
|||
=== 通史 === |
|||
* 吉村昭『戦艦武藏』([[文藝春秋]]) |
|||
** {{Cite book|和書|author=吉村昭|authorlink=吉村昭|year=2000改訂|month=|title=戦艦武蔵|publisher=新潮文庫|isbn=4101117012|ref=吉村 武蔵}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=吉田俊雄|authorlink=吉田俊雄|year=2004|month=8|title=大和と武蔵 {{small|その歴史的意味を問い直す}}|publisher=PHP研究所|isbn=4-569-63462-1|ref=吉田 大和と武蔵}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=秋元健治|authorlink=秋元健治|year=2008|month=|title=戦艦大和・武蔵 {{small|そのメカニズムと戦闘記録}}|publisher=現代書館|isbn=978-4-7684-6976-7|ref=秋元記録}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=手塚正己|authorlink=手塚正己|year=2003|title=軍艦武藏 上巻|publisher=太田出版|isbn=|ref=武藏上}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=手塚正己|year=2003|title=軍艦武藏 下巻|publisher=太田出版|isbn=|ref=武藏下}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=手塚正己|year=2009|title=軍艦武藏 上巻|publisher=新潮文庫|isbn=|ref=文庫版武藏上}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=手塚正己|year=2009|title=軍艦武藏 下巻|publisher=新潮文庫|isbn=|ref=文庫版武藏下}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=手塚正己|year=2015|month=7|title=新版 軍艦武藏 上巻|publisher=太田出版|isbn=978-4-7783-1447-7|ref=新版武藏上}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=手塚正己|year=2015|month=7|title=新版 軍艦武藏 下巻|publisher=太田出版|isbn=978-4-7783-1448-4|ref=新版武藏下}} |
|||
=== 建造記録 === |
|||
* {{Cite book|和書|author=牧野茂|authorlink=牧野茂 (軍人)|coauthors=[[古賀繁一 (実業家)|古賀繁一]]|year=1994|month=|title=戦艦武蔵建造記録 {{small|大和型戦艦の全貌}}|publisher=アテネ書房|isbn=4-87152-191-5|ref=武蔵建造記録}} |
|||
** 「武蔵」を建造した三菱重工に残された資料を元に、大和型戦艦設計者、防衛庁、三菱関係者が編集。 |
|||
=== 戦記 === |
|||
* {{Cite book|和書|author=豊田穣|authorlink=豊田穣|year=1983|month=|title=戦艦武蔵レイテに死す|publisher=講談社|isbn=4-06-180375-1|ref=豊田 レイテ}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=渡辺清|authorlink=渡辺清 (随筆家)|year=2003|month=|title=戦艦武蔵の最期|publisher=朝日新聞社|isbn=4925219693|ref=渡辺 武蔵}} |
|||
* 『戦艦武藏の最期』 3DCGシリーズ [[双葉社]] |
|||
=== 証言集 === |
|||
* {{Cite book|和書|author=佐藤太郎|authorlink=佐藤太郎|year=1975|month=|title=戦艦武蔵|publisher=河出書房新社|isbn=|ref=佐藤 武蔵}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=細谷四郎|authorlink=細谷四郎|year=1988|month=|title=戦艦武蔵戦闘航海記|publisher=八重岳書房|isbn=4896461142|ref=細谷航海記}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=塚田義明|authorlink=塚田義明|year=2001|month=|title=戦艦武蔵の最後 {{small|海軍特別年少兵の見た太平洋海戦}}|publisher=光人社NF文庫|isbn=476982307X|ref=塚田年少兵}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=有馬馨|authorlink=有馬馨|year=2001|month=|title=帝国海軍の伝統と教育 付・比島作戦の思い出|publisher=五曜書房|isbn=4795253994|ref=有馬遺稿}} |
|||
** 戦艦武蔵初代艦長・南西方面艦隊参謀長有馬馨の遺稿 |
|||
=== その他 === |
|||
* {{Cite book|和書|author=呉市海軍歴史資料館|year=2005|month=4|title={{small|呉市海軍歴史科学館図録 日本海軍艦艇写真集別巻}} 戦艦大和・武蔵|publisher=ダイヤモンド社|isbn=4-478-95054-7|ref=戦艦大和・武蔵}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=手塚正己|authorlink=手塚正己|year=2003|month=|title=「軍艦武蔵」取材記 {{small|海軍を生きた男たち}}|publisher=[[太田出版]]|isbn=487233812X|ref=手塚取材記}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=吉村昭|authorlink=吉村昭|year=2010|month=|title=戦艦武蔵ノート|publisher=[[岩波書店]]|isbn= 978-4006021726|ref=武蔵ノート}} |
|||
** {{Cite book|和書|author=吉村昭|authorlink=吉村昭|year=1985|date=1985-08-25|month=|title=戦艦武蔵ノート|publisher=[[文藝春秋]]|isbn= 978-4167169107|ref=武蔵ノート1985}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=手塚正己|authorlink=手塚正己|year=2018|month=1|title=日本が誇った巨大戦艦「武蔵の最期」が蘇る DVD BOOK {{small|「軍艦武蔵」}}|publisher=[[宝島社]]|isbn=978-4-8002-7923-1|ref=「軍艦武蔵」}} |
|||
=== 参考文献 === |
|||
<!-- ウィキペディア推奨スタイル、著者五十音順 --> |
|||
* {{Cite book|和書|author=飯尾憲人|authorlink=飯尾憲人|year=1983|month=7|title=艦と人 {{small|海軍造船官八百名の死闘}}|publisher=集英社|isbn=4-08-772441-7|ref=艦と人}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=井上理二|authorlink=井上理二|year=1999|title=駆逐艦磯風と三人の特年兵|publisher=光人社|isbn=4-7698-0935-2|ref=井上 磯風}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=宇垣纏|authorlink=宇垣纏|coauthors=[[成瀬恭]]発行人|year=1968|title=[[戦藻録]]|publisher=原書房|ref=戦藻録(九版)}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=生出寿|authorlink=生出寿|year=1988|month=1|title=ライオン艦長 黛治夫 {{small|ある型破り指揮官の生涯}}|publisher=光人社|isbn=4-7698-0372-9|ref=ライオン艦長}} |
|||
* 『日本の戦艦』歴史群像シリーズ ([[学研ホールディングス|学研]]) |
|||
* 『大和型戦艦』歴史群像シリーズ ([[学研ホールディングス|学研]]) |
* 『大和型戦艦』歴史群像シリーズ ([[学研ホールディングス|学研]]) |
||
* <!-- クナイ2016-03 -->{{Cite book|和書|editor=宮内庁|editor-link=宮内庁|coauthors=|authorlink=|year=2016|month=3|title=昭和天皇実録 第八 {{small|昭和十五年至昭和十七年}}|chapter=|publisher=東京書籍株式会社|ISBN=978-4-487-74408-4|ref=実録八}} |
|||
* 『日本の戦艦』 歴史群像シリーズ ([[学研ホールディングス|学研]]) |
|||
* 『 |
* 『日本海軍艦艇写真集 大和 武蔵』 [[光人社]] |
||
* <!-- ジョウ 1982 -->{{Cite book|和書|author=城英一郎|editor=野村実|year=1982|month=2|chapter=|title={{smaller|侍従武官}} 城英一郎日記|publisher=山川出版社|series=近代日本史料選書|isbn=|ref=城日記}} |
|||
* 『日本海軍艦艇写真集 大和 武蔵』 [[光人社]] |
|||
* {{Cite book|和書|author=エドワード・P・スタッフォード|authorlink=エドワード・P・スタッフォード|coauthors=[[井原裕司]] 訳|year=2007|title=空母エンタープライズ {{small|THE BIG E}} 上巻|publisher=元就出版社|isbn=978-4-86106-157-8|ref=BIG E上}} |
|||
* 『戦艦武蔵』(佐藤太郎、河出書房新社) |
|||
* {{Cite book|和書|author=エドワード・P・スタッフォード|coauthors=井原裕司 訳|year=2007|title=空母エンタープライズ {{small|THE BIG E}} 下巻|publisher=元就出版社|isbn=978-4-86106-158-5|ref=BIG E下}} |
|||
* 『戦艦武藏の最期 海軍少年兵が見た太平洋海戦』 塚田義明 [[光人社]] |
|||
* {{Cite book|和書|author=カール・ソルバーグ|authorlink=カール・ソルバーグ|coauthors=[[高城肇]]訳|year=1999|month=|title=決断と異議 レイテ沖のアメリカ艦隊勝利の真相|publisher=光人社|isbn=|ref=決断と異議}} |
|||
* 『帝国海軍の伝統と教育—付・比島作戦の思い出 戦艦武蔵初代艦長・南西方面艦隊参謀長有馬馨の遺稿』有馬 馨 (著) [五曜書房] |
|||
* {{Cite book|和書|author=千早正隆|authorlink=千早正隆|year=1990|title=日本海軍の驕り症候群|publisher=プレジデント社|isbn=4-8334-1385-X|ref=海軍驕り}} |
|||
* {{Cite book|和書|editor=戸高一成|editor-link=戸高一成|year=2011|month=1|title=[証言録] 海軍反省会2|publisher=株式会社PHP研究所|isbn=978-4-569-79338-2|ref=海軍反省会2}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=戸高一成|authorlink=戸高一成|year=2007|title=戦艦大和に捧ぐ|publisher=PHP研究所|isbn=|ref=戸高2007}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=豊田穣|authorlink=豊田穣|coauthors=|year=2004|title=雪風ハ沈マズ {{small|強運駆逐艦栄光の生涯}}|publisher=光人社NF文庫新装版|isbn=978-4-7698-2027-7|ref=雪風ハ沈マズ新装}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=内藤初穂|authorlink=内藤初穂|year=2008|month=|title=戦艦大和へのレクイエム {{small|大艦巨砲の技術を顧みる}}|publisher=グラフ社|isbn=978-4-7662-1124-5|ref=内藤レクイエム}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=能村次郎|authorlink=能村次郎|year=1967|month=|title=慟哭の海 {{small|戦艦大和死闘の記録}}|publisher=読売新聞社|isbn=|ref=能村慟哭}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=堀元美|authorlink=堀元美|year=1994|month=8|title=造船士官の回想(下)|publisher=朝日ソノラマ文庫|isbn=-4-257-17285-1|ref=造船士官の回想 下}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=松本喜太郎他|authorlink=松本喜太郎|year=2009|month=8|title=戦艦「大和」開発物語 {{small|最強戦艦誕生に秘められたプロセス}}|publisher=光人社NF文庫|isbn=978-4-7698-2371-1|ref=大和開発物語}} |
|||
*防衛庁防衛研修所戦史部『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』戦史叢書第62巻、朝雲新聞社、1973年 |
|||
== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
||
{{commons| |
{{commons|Japanese battleship Musashi}} |
||
[[File:戦艦武蔵慰霊碑.jpg|thumb|大宮氷川神社2017年7月8日撮影|200px]] |
|||
* [[大和型戦艦]] |
|||
*[[大日本帝国海軍艦艇一覧]] |
|||
*[[武蔵艦]](武蔵 [I]) |
|||
*[[武蔵 (スループ)|武蔵]] [II] (スループ) |
|||
* [[戦艦一覧]] |
|||
* [[武蔵艦]](武蔵 [I]) |
|||
* [[武蔵 (スループ)|武蔵]] [II] (スループ) |
|||
* [[軍艦武蔵会]] - 武蔵の戦友会、慰霊団体。 |
|||
* [[フォート・ドラム (エル・フレイル島)|フォート・ドラム]] - [[マニラ湾]]の要塞。武蔵の生存者のうち65名が守備隊として配置されていた。 |
|||
{{-}} |
{{-}} |
||
== 外部リンク == |
|||
* {{NHK放送史|D0009050531_00000|NHKスペシャル ドラマ 戦艦武蔵}} |
|||
{{-}} |
|||
{{日本の戦艦}} |
{{日本の戦艦}} |
||
{{tv-stub}} |
|||
{{DEFAULTSORT:むさし}} |
|||
{{リダイレクトの所属カテゴリ |
|||
[[Category:日本の戦艦]] |
|||
| redirect1 = 戦艦武蔵 |
|||
| 1-1 = 2016年のテレビドラマ |
|||
| 1-2 = NHK BSプレミアムのテレビドラマ |
|||
{{warship-stub}} |
|||
| 1-3 = 太平洋戦争を題材とした作品 |
|||
{{Link GA|en}} |
|||
| 1-4 = NHK総合テレビジョンのスペシャルドラマ |
|||
}} |
|||
{{Normdaten}} |
|||
[[bg:Мусаши (кораб)]] |
|||
{{デフォルトソート:むさし せんかん}} |
|||
[[cs:Musaši (1940)]] |
|||
[[Category:大和型戦艦]] |
|||
[[de:Musashi (1942)]] |
|||
[[Category:1940年進水船]] |
|||
[[el:Μουσάσι (θωρηκτό)]] |
|||
[[Category:1942年竣工船]] |
|||
[[en:Japanese battleship Musashi]] |
|||
[[Category:三菱重工業長崎造船所が建造した船舶]] |
|||
[[es:Acorazado Musashi (1942)]] |
|||
[[Category:第二次世界大戦の日本の戦艦]] |
|||
[[fi:Musashi]] |
|||
[[Category:第二次世界大戦の沈没船]] |
|||
[[fr:Musashi (navire)]] |
|||
[[Category:日本のギネス世界記録]] |
|||
[[it:Musashi (nave da battaglia)]] |
|||
[[nl:Musashi (slagschip)]] |
|||
[[pl:Musashi (1942)]] |
|||
[[pt:IJN Musashi]] |
|||
[[ru:Мусаси (линкор)]] |
|||
[[sk:Musaši (bojová loď)]] |
|||
[[sv:Musashi]] |
|||
[[th:เรือประจัญบานมูซาชิ]] |
|||
[[vi:Musashi (thiết giáp hạm Nhật)]] |
|||
[[zh:武藏號戰艦]] |
2024年8月17日 (土) 04:59時点における最新版
座標: 北緯13度7分0秒 東経122度32分0秒 / 北緯13.11667度 東経122.53333度
武蔵 | |
---|---|
1942年8月竣工時の武蔵 | |
基本情報 | |
建造所 | 三菱重工業長崎造船所 |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
艦種 | 戦艦 |
級名 | 大和型戦艦 |
艦歴 | |
起工 | 1938年3月29日 |
進水 | 1940年11月1日 |
就役 | 1942年8月5日 |
最期 |
1944年10月24日、シブヤン海で沈没 北緯13度07分 東経122度32分 / 北緯13.117度 東経122.533度 または北緯12度48分 東経122度41.5分 / 北緯12.800度 東経122.6917度 |
除籍 | 1945年8月31日 |
要目 | |
基準排水量 | 65,000トン(完成時) |
満載排水量 | 72,809トン(完成時) |
全長 | 263.0m |
水線長 | 256.0m |
最大幅 | 38.9m |
吃水 | 10.4m |
機関 |
ロ号艦本缶12基 艦本式タービン4基4軸 150,000馬力 |
速力 | 公試成績:27.46ノット (50.86 km/h) |
航続距離 | 16ノットで7,200浬 |
乗員 | 約3,300名 |
兵装 |
新造時:
|
装甲 | 舷側 410mm、甲板 200mm、主砲防盾 600mm |
搭載機 |
零式水上偵察機・零式観測機他、最大7機 (カタパルト2基) |
出典: [1] |
武蔵(むさし、旧字体:武藏[2])は、大日本帝国海軍の大和型戦艦の2番艦[3]。艦名は武蔵国から因んで命名された。この名を持つ大日本帝国海軍の艦船としては3隻目にあたる[4]。大日本帝国海軍が建造した最後の戦艦である。
沿革・艦歴
[編集]1934年(昭和9年)12月、大日本帝国(以下日本)は第二次ロンドン海軍軍縮条約の予備交渉が不調に終わったことを受けてワシントン海軍軍縮条約から脱退し、列強各国が軍艦の建造を自粛していた海軍休日は終わった。1936年(昭和11年)12月26日、上田宗重海軍艦政本部長が三菱重工業最高幹部を招き、③計画における巨大新型戦艦建造について事前準備を依頼した[5]。1937年(昭和12年)開催の第七〇回帝国議会で予算が承認され、3月29日に計画名「A140-F6」から第一号艦、第二号艦と仮称された[6](予算詳細は大和を参照)。9月8日、海軍艦政本部から三菱重工業に「A140-F6」が正式発注される[7]。予算見積折衝を経て、1938年(昭和13年)3月29日、第二号艦(武蔵)の建造が始まった[8]。三菱重工業長崎造船所建造の戦艦としては、金剛型戦艦の霧島、伊勢型戦艦の日向、加賀型戦艦の土佐、天城型巡洋戦艦の高雄[9](八八艦隊未完成艦)に続いて5隻目となるが、土佐や高雄の4万トンから大和型6万5千トンへの飛躍には、船台拡張を含めた技術者の研究と努力が必要だった[10]。
武蔵は設計段階から司令部施設の充実がはかられ、大和で弱点と指摘された副砲塔周辺の防御力も強化された[11]。武蔵の艤装員だった千早正隆によれば最上型重巡洋艦から転用された副砲の装甲の薄さは特に懸念され、有馬馨艤装員長(初代艦長)と共に副砲の撤去を訴えている[12]。艦政本部の清水技術中将が山本五十六連合艦隊司令長官に副砲の防御力問題について相談すると、山本は「副砲を撤去して蓋をすれば良い」と述べた[13]。これについて牧野茂(大和型戦艦設計陣)は山本と清水の会談は知っていたが内容についてまでは知らず「検討に値する提案なのに惜しい事をした」と千早に語っている[14]。また司令部施設の充実について、千早は「暴論、定見を欠いた」と評している[15]。1942年(昭和17年)1月、連合艦隊司令部から拡張要求があった時点で武蔵は大和と同じ内部構造だったが、内装の変更に駆逐艦1隻分の工事費増加、3ヶ月の竣工遅延が生じた[16]。宇垣纏連合艦隊参謀長も「大和に比して、当司令部の意見に従ひ改善せられたる点、相当多し」と記している[17]。
姉妹艦の大和や「110号艦(信濃)」同様本艦の建造は極秘とされ、艤装員(建造中の艦乗組員)は長崎造船所を秘匿した「有馬事務所」に勤務するよう命じられた[18]。機密に対する警戒は厳重で、有馬馨艤装員長ですら、腕章を忘れると検問を通過できなかった[19]。外部に対しては、さまざまな方法で武蔵を隠す手段がとられた。船台の周囲には漁具(魚網等)に使う棕櫚(しゅろ)を用いた、すだれ状の目隠しが全面に張り巡らされた。全国から膨大な量の棕櫚を極秘に買い占めたために市場での著しい欠乏と価格の高騰を招き、漁業業者が抗議[20]。警察が悪質な買い占め事件として捜査を行ったとされる。また、棕櫚の目隠しが船台に張り巡らされると、付近の住民らは「ただならぬことが造船所で起きている」と噂し、建造中の船体を指して「オバケ」「魔物」と呼んでいたという[21]。
また、対岸にはアメリカ・イギリスの領事館があったため、目隠しのための遮蔽用倉庫(長崎市営常盤町倉庫)を建造するなど、建造中の艦の様子が窺い知れないような対策を施した[22]。長崎住民に対する監視も厳しく行われ、造船所を見つめていると即座に叱責を受けて体罰を受けたり[23]、逮捕されることもあった[24]。造船所を見渡す高台にあったグラバー邸や香港上海銀行長崎支店を三菱重工業が買い取るということも行われた[25]。
また、機密保持のため、海軍機は1940年3月頃から、陸軍機は1940年4月から長崎市上空の飛行を禁止された[26]。
一番艦の大和よりも遅れて起工された武蔵には、大和建造中に判明した不具合を改善して反映させることができた[22]。これらの改善の中には、第一艦橋左右の大型スポンソンなど、のちに大和のほうに追加されたものもある。しかし一方で、ドック内で建造された大和と異なり、船台上で建造された武蔵は、「船台から海面に下ろし進水させる」という余分な工程を抱えていた。重量軽減のため、舷側や主要防御区画の装甲を進水後に取り付けたほどである[27]。更に工事の途中で太平洋戦争(大東亜戦争)が始まった為、完成予定を1942年(昭和17年)12月から同年6月に繰り上げる命令が下された[28]。これらの経緯は吉村昭の『戦艦武蔵』および牧野茂/古賀繁一監修『戦艦武蔵建造記録』(アテネ書房)に詳しい。
厳重な機密保持に加えて、新人製図工による図面紛失事件や[29]、熟練工でも困難な進水台の作成など、建造には常に障害が相次いだ。進水時には船体が外部に露見してしまうため、当日(1940年(昭和15年)11月1日)を「防空演習」として付近住民の外出を禁じ、付近一帯に憲兵・警察署員ら600名、佐世保鎮守府海兵団隊員1200名などを配置した[30]。このような厳重な警戒態勢の中で、伏見宮博恭王元帥(昭和天皇名代)[31]、及川古志郎海相、豊田副武艦政本部長らが列席のもと、進水式は挙行された。皇族の伏見宮博恭王でさえ、平服で式場に入り、その後軍服に着替えるという徹底ぶりであった[32]。
進水時に進水台を潤滑にする、獣脂の調製・製造にも多大な労力が必要だった[33]。錨鎖をあらかじめ減速用の重りとして付け、長崎造船所第二船台から狭い長崎港内に滑り込んだ武蔵の船体は、制動までに44mよけいにかかったが[34]、予定どおり艦尾をやや左に振って停止した[35]。無事に進水し、関係者は涙が止まらなかったという[36]。進水時、周辺の海岸に予想外の高波が発生した。周辺河川では水位が一気に30センチ上昇したところもあり、船台対岸の浪の平地区の民家では床上浸水を生じ、畳を汚損したとの被害報告も確認されている[37]。進水式は映像として記録されたが、終戦時に焼却された[38]。同日附をもって正式に『武蔵』と命名[2]。なお軍務局の寺崎隆治(海兵50期)や、及川大臣の秘書官として進水式に参加した福地誠夫によれば、武蔵の存在を排水量4万トン程度の戦艦として世界に公表する予定であったが、豊田艦政本部長の反対により急遽中止された[39]。
進水後は日本郵船の大型貨客船春日丸(後に空母大鷹に改造)に隠されながら移動し、向島艤装岸壁で工事が進められた[40]。艦中央部右舷に設置された司令部施設に関しては、大和を建造中の呉工廠が内装への自信を持てず、豪華客船建造の実績がある長崎三菱造船所に依頼して、武蔵と全く同じ調度品を揃えて大和に搭載した[41]。それでも武蔵の方が調度品が良かったという証言がある[42]。真珠湾攻撃により太平洋戦争が勃発すると、長崎の住民も武蔵のことを公然と話題に出すようになっていった[43]。また武蔵進水後も第一船台は簾で隠されており、市民は「武蔵がもう1隻いる」と噂していた[44]。造船所で発生した夜間火災で簾ごしに巨大艦の姿が浮かびあがり人々を驚かせたが、これは第二船台で建造中の空母隼鷹(橿原丸)であった[44]。また、当時の武蔵の甲板上を甲板士官が自転車で移動していたという逸話が残っている。 スクリューの取り付け等の艤装は、佐世保工廠に本艦の為に整備された第7ドックで実施された[45]。その後、三菱重工業長崎造船所に回航、艤装が続けられるも、副砲塔のバーベット構造の防御力強化のため4基とも取り外しの上で呉海軍工廠に回航(副砲塔は別途運送船で回航)され、呉工廠で完工する[要出典]。
艦内には「武蔵神社」があり、御神体は武蔵国氷川神社から分霊したものだった[47]。位置は上甲板右舷、長官室・艦長室前の通路上である[48]。竣工式に氷川神社の神主が招かれており[49]、また伊勢神宮、長崎諏訪神社の系列社もあったとされる[50]。
連合艦隊旗艦期
[編集]1942年8月5日に「武蔵」は第一艦隊第一戦隊に編入された[51]。「武蔵」は1943年1月18日に呉を出発してトラックへ向かい、1月22日に到着[51]。2月11日に「大和」に代わって「武蔵」が連合艦隊旗艦になった[51]。 武蔵は連合艦隊旗艦になった最後の戦艦であり、太平洋戦争期間中に一番長く連合艦隊旗艦を務めた艦でもある。
しかし、トラック諸島泊地からは動くことは無く旗艦となっても戦いの最前線に立たなかったことから、当時の将兵達が大和を「大和ホテル」と揶揄していたように、武蔵も「武蔵御殿」「武蔵旅館」と陰口を叩かれるようになっていた。4月18日、聯合艦隊司令長官山本五十六が戦死、宇垣纏参謀長も重傷を負う(海軍甲事件)。後任の連合艦隊司令長官には古賀峯一大将が任命され[52]、古賀長官はトラック泊地に移動して武蔵に将旗を掲げた。
5月12日、連合軍はアッツ島に上陸を開始する(アッツ島の戦い)。連合艦隊の主力艦艇は東京湾に集結することになり、これを機会に昭和天皇の武蔵行幸の予定が組まれる[54]。 5月17日、武蔵と同行艦艇はトラック泊地を出発する。22日、武蔵は山本元帥の遺骨と共に東京湾に到着した[55]。
翌日、元帥の遺骨は東京駅に到着した[56]。6月24日、昭和天皇が「武蔵」に行幸し、艦内を見学した[57]。
7月31日に武蔵は日本を発ち、8月5日に再びトラックへと到着し、訓練が続けられた。翌年の1944年(昭和19年)2月10日にトラック泊地を発ち、15日に横須賀に帰還。海軍はトラックが落ちたことから、西カロリン諸島のパラオに根拠地を移すため、24日には武蔵は3陸軍上陸部隊と5000tもの大量の物資を積んで横須賀を出て、29日に到着した。そして3月29日、パラオに迫るアメリカ軍に対し、聯合艦隊司令部を陸上に移す為、環礁を出てダバオへ移動中、米潜水艦タニーの雷撃により魚雷1本を艦首部に受け、小破。[58]2600t余りの浸水を許し戦死者7名、負傷者11名を出した。
二日後の31日、古賀長官の事故による行方不明(海軍乙事件)に伴い、旗艦の任を解かれ、日本に帰還することになった。
マリアナ沖海戦
[編集]1944年4月に帰国した武蔵は修理を兼ねて改造作業が行われ、あ号作戦に向けて航空機に対抗する為に左右両舷副砲を撤去し、そこに高角砲用砲台が設けられたが、レイテ沖海戦までに高角砲増設工事が間に合わず、25mm三連装機銃を計6機増設している[59]。このため、大和とは兵装が異なり、対空能力を向上させる改造が加えられたが、日本海軍の主たる対空砲である12.7cm砲の増設は適わなかった。新造時より対空攻撃能力が増したものの、秋月型駆逐艦の長10cm砲どころか、12.7cm砲すら増設できない程に日本の国内事情も逼迫しており、25mm機銃の増産によってそれをカバーする対策となった。
4月22日に改造を終え、5月10日にテスト運行を終わった後16日に、武蔵はタウイタウイ泊地に着き、約1カ月の訓練の後、6月10日に泊地を発ち、パチャン島泊地に待機し、ビアク島に上陸するアメリカ軍を攻撃する渾作戦に向けて動こうとしていたが、13日にアメリカ軍がマリアナ諸島を侵攻目標に選んだ為に作戦が中止され、武蔵は他の艦艇と共に16日、大和と共に戦列に加わり、マリアナ沖海戦に参加した。
大和、武蔵を主軸とした戦艦部隊が機動部隊前方に配置され、後方の小沢機動部隊の空母艦隊の盾となるべき効果を期待されたものの、米攻撃部隊は戦艦部隊をやり過ごす形で後方の空母部隊を攻撃、大鳳、翔鶴、飛鷹といった主力空母3隻を失い、機動部隊もVT信管や、新式レーダーによるアメリカ軍の攻撃による返り討ちに遭い、実質的に日本機動部隊はここに壊滅、戦艦部隊は当初の目的たる機動部隊の盾になる目論見が崩れ、全く被害を受けることすら無かった。
大和、金剛、榛名や一等巡洋艦類と艦列を組んでいた武蔵は空母部隊に向かうアメリカ軍機に対し、対空46cm砲を放ったものの撃墜及び撃破数は20数機ほどに留まった。
レイテ沖海戦
[編集]この海戦で武蔵は栗田健男中将指揮の日本軍第一遊撃部隊・通称「栗田艦隊」に所属し、第一戦隊(司令官、宇垣纏中将)の一艦として大和、長門と行動を共にした。この時、長門の水上偵察機2号機が武蔵に移され、長門の整備兵7名も共に移乗している[60]。対空噴進砲(対空ロケット砲)を探照灯の部分に片舷1基ずつ積んでいたという証言[61]もあるが、実証する史料は発見されていない[62]。証言によれば、レイテ沖開戦前に試射が行われたものの実戦では噴進砲への兵員の配置は行われず一度も使用しなかったとされる。
リンガ泊地では、米袋に砂を入れて土嚢とした物を機銃台のまわりに積み上げるなどの出撃準備を行った[63]。9月25日、池田貞枝中佐から仮谷実中佐へ航海長(実際に軍艦を操舵する役職)交替[64]。10月1日、乗員にシンガポールへの休暇が許され、シンガポールへの移動には長門が使用された[65]。10月18日リンガ泊地を出撃し、10月20日にブルネイに入泊した。
この時、武蔵だけは塗装を塗り直し他の艦より明るい銀鼠色となった[66]。下士官兵の中には「艦長四代副長二代の死(四ニ)装束」として縁起をかつぐ者もおり[67]、「武蔵は囮艦なのだ」と不安になる兵もいた[68]。他艦からも縁起が悪いとみなされていたようである[69]。この塗装が艦隊の命令なのか、可燃物である塗料を始末しようとする武蔵首脳の独自の判断なのかは不明[70]。能村次郎(レイテ沖海戦時、戦艦大和副長兼砲術長)は猪口艦長から「大和も一緒に外舷を塗りなおそう」と誘われ、作戦が終わってから塗りなおすと断っている[71]。
10月22日、武蔵はブルネイを出撃した。10月23日、栗田艦隊はパラワン水道を通過中に米潜水艦ダーターとデイスの攻撃に遭い、重巡洋艦愛宕、摩耶が沈没、高雄が大破した[72]。武蔵は駆逐艦秋霜が救助した摩耶の乗組員769名を収容する[73]。以前から第二艦隊司令部は、旗艦設備の整った大和型戦艦(特に武蔵)に旗艦を移すよう連合艦隊司令部・軍令部に申請していたが[74]、思いもよらぬ形で実現することになった[75]。だが司令部通信兵が各艦に分散したため、栗田艦隊の通信能力は後の戦闘で混乱した。
アメリカ軍戦力
[編集]レイテ沖海戦におけるシブヤン海海戦において、ウィリアム・ハルゼー大将、マーク・ミッチャー中将率いる第38任務部隊は4つの空母群を持っていた。 第1空母群は補給のため後方におり、第3群が最も北側、第2群がサンベルナルジノ海峡東90km、第4群がサマール島南端に配置されていた。武蔵をはじめ栗田艦隊を襲撃したのは、第2群、第3群、第4群であった。
軍艦武蔵戦闘詳報
[編集]9:30 | 大和、武蔵の見張員がアメリカ陸軍B-24爆撃機(偵察機)を発見[76]。 |
10:00頃 | 大和、能代のレーダーが100キロの彼方に敵機の大編隊を発見[76]。 |
10:25 | アメリカ軍機約40機を見張員が発見。しかし乱積雲の中に見失う[77]。 |
10:25~10:27 | 第一次空襲(44機。うち武蔵への来襲機数17機)。見失ったアメリカ軍編隊が右舷の雲間より急襲。被弾1、被雷1、至近弾4。一番主砲塔天蓋に命中するも、砲塔への被害無し。至近弾により艦首水線下に僅かに漏水。被雷の衝撃により前部主砲射撃方位盤故障[78]。浸水により右舷に5.5度傾斜するも注排水により傾斜角右1度まで回復[77]。主砲発射せず、副砲48発を発砲[79]。 |
11:38~11:45 | 第二次空襲(来襲機数16機)。被弾2、被雷3、至近弾5。被雷の浸水により今度は左舷に5度傾斜するも排水により傾斜角左1度まで回復。艦首が戦闘開始前に比べ約2m沈下。甲板を貫通した250kg爆弾が第十兵員室で炸裂、第2機械室の主蒸気管を破損し室内が水蒸気で充満。火焔の侵入と重なり第2機械室は使用不能に陥る。これにより3軸運転、最大速力22ktに低下[80]。主砲発射9発、副砲17発[79]。 |
12:17 | 第三次空襲(来襲機数13機)。被弾0、被雷1、至近弾3。被雷により測程儀室・測深儀室破壊。前部戦時治療室がガス充満の為使用不能[81]。主砲発射13発、副砲43発[79]。戦闘後、司令部より「コロンへ向かえ」との命令が下る。 |
12:23 | 第四次空襲(来襲機数20機)。12時53分、被弾4、被雷4[82]。主砲発射15発、副砲37発[79]。再び右舷に大きく傾斜するも排水により傾斜角右1度まで回復。艦首、更に3m沈下したためトリム修正の為の注水を行う。最大速力16ノット。艦隊輪型陣から落伍。司令部から「付近の港に退避するか浅瀬に乗り上げ適当なる応急対策を講ぜよ」と下命。「武蔵の北方に在りて警戒に任ぜよ」との命令に従い、栗田艦隊第二部隊の駆逐艦清霜、浜風、重巡洋艦利根が護衛に付く[83]。 |
13:15 | 第五次空襲(来襲機数0機)。艦隊輪型陣から離脱していたため攻撃を受けなかった。アメリカ軍機は大和、長門に攻撃を集中した。なお武蔵は大和への援護射撃で5機撃墜を報告している[84]。主砲7発発射[79]。 |
14:45~15:21 | 第六次空襲(来襲機数75機)[84]。主砲発射10発、副砲58発[79]。集中攻撃を受け、爆弾10発以上、魚雷11発以上、至近弾6発以上を受け大火災を起こす。またしても左舷に10度傾斜、取舵と注排水により左6度まで回復した。艦首更に4m以上沈下し一番砲塔左舷側まで波で洗われる状態となる。 前部艦橋にも直撃弾、航海長・高射長など准士官以上11名を含む57名が戦死。猪口艦長も右肩に重傷を負うも指揮続行。これ以上の戦力発揮は不可能と判断し、司令部へ摩耶乗組員の生存者の移乗を打診[85]。 |
17:30頃 | 摩耶の乗組員の生存者と武蔵乗組員の負傷者が舷側に接弦した駆逐艦島風に移乗[86]。1軸のみ使用可能で、6ノットにて微速航行。 |
19:15 | 傾斜角暫時増大し左舷12度となり傾斜復旧の見込み無し。総員退去用意下命。軍艦旗降下[87]。 |
19:30 | 傾斜角30度。総員退艦命令[87]。 |
19:35 | 左舷に転覆、連続爆発2回、艦首より沈没し始めた。沈没位置東経122度32分・北緯13度7分・水深800m[87]。 |
戦闘状況を伝える主な一次資料として貴重な戦闘詳報であるが、レイテ沖海戦における「軍艦武蔵戦闘詳報」には疑問を指摘する声がある。帝国海軍技術大尉だった内藤初穂によると『世界の艦船 No.512』「大東亜戦争における旧海軍の『戦闘詳報』」において、武蔵の戦闘記録を栗田艦隊各艦戦闘詳報やアメリカ軍の記録と照合した結果、疑わしい点が多々あると指摘している[88]。沈没位置は駆逐艦の清霜が記録した「東経122度41.5分、北緯12度48分」[89]とずれており、主砲発射時期も生存者や他艦の記録と異なり[90]、さらに栗田艦隊各艦の空襲記録(計5)とは開始時間と回数のそれぞれが違う。たとえば、武蔵は13時15分の第五次空襲で「大和と長門に敵機集中攻撃」としているが、長門では同時刻空襲を第三次空襲と記録した上で、発砲したのは13時37分、発砲停止は14時11分である[91]。内藤は武蔵の記録は「創作戦闘詳報」に近いと評し、「今のうちにしかるべき証言者を得て、しかるべき注記を原史料に貼付しておかなければならない」としている[92]。
『戦艦武蔵建造記録』でも、栗田艦隊各艦の報告と武蔵の報告が一致しないことを指摘し、戦史叢書を元に戦闘記録をまとめている[93]。武蔵の戦闘詳報があいまいとなった最大の理由は、第一艦橋への直撃弾で航海部と信号部が全滅し、彼らが記載していた戦闘記録や航跡図、信号記録が消失したためである。第一艦橋全滅後に信号部の先任となった細谷四郎は、武蔵の高級将校が早々に内地に戻ったために、戦闘詳報に下士官兵の証言を取り入れなかった為と述べている[94]。
なお、武蔵の戦闘詳報の「令達報告等」の項目には「亡失に付き誤あるやもしれず」の注がつけられている[95]。
戦闘経過
[編集]午前6時32分、武蔵は距離40kmに敵味方不明飛行機を発見した[96]。午前8時20分、栗田艦隊は第38任務部隊索敵隊第2群(カボット、イントレピッド)索敵機に発見された。イントレピッドの爆撃隊モート・エスリック中佐は、「戦艦4隻、重巡洋艦8隻、駆逐艦13隻」と報告する[97]。「ブル・ハルゼー」(雄牛、猛牛の意)の異名をもつ積極的な性格のハルゼー大将は即座に攻撃命令を下した。このアメリカ軍の動きに対し、日本軍は第六基地航空部隊(福留繁司令官)が第38任務部隊第3群に零戦111機(爆弾装備機含む)、紫電一一型11機、彗星12機、九九式艦爆38機、天山8機という規模の攻撃隊を送り込んだ[98]。この攻撃隊はアメリカ軍の的確な迎撃により壊滅し、空母に対する戦果は軽空母プリンストン撃沈のみだった。エセックス隊だけでF6F戦闘機1機の損失と引き換えに海軍の零戦27機、一式陸上攻撃機2機、夜間戦闘機月光1機、天山2機、九九艦爆4機、銀河1機、彗星1機、陸軍の一式戦3機、三式戦1機撃墜を記録している[99]。
午前9時30分、3機の哨戒機型B-24爆撃機「PB4Y-1」が栗田艦隊に接触し[100]、武蔵の見張員が発見した[101]。武蔵の左舷高角砲、戦艦金剛、重巡洋艦筑摩が発砲した。同時に、栗田中将は武蔵に通信妨害電波の発信を命じた[102]。10時頃、大和と軽巡洋艦の能代が約100kmにアメリカ軍機40機を探知する。10時26分、第1次攻撃隊(イントレピッド、カボット)45機(F6Fヘルキャット戦闘機21機、カーチスSB2Cヘルダイバー急降下爆撃機12機、TBFアヴェンジャー雷撃機9機、誘導機ビル・エリス中佐)が攻撃を開始する[103]。この時点で猪口は砲術長の主砲発射要請を拒否して主砲発砲を許さず、副砲で迎撃させた[104]。予定されていた海軍基地航空隊の援護が天候不良という理由で取りやめとなったことに武蔵の猪口艦長は嘆いていたという[105]。
第一次空襲では小型爆弾1発が武蔵の一番主砲塔天蓋に命中し、室内灯が笠ごと落ちた[106]。6機の雷撃機による攻撃では、魚雷2本が艦底を通過[107](この2本は命中したが不発だったという証言もある[108])、1本が武蔵の右舷中央に命中、第7、第11罐室に漏水が発生したが[109]、これは機関科兵が罐の熱気で大火傷を負いつつ行った応急作業で食い止めた[110]。武蔵はバルジへの浸水で右舷に5.5度傾斜したが、左舷への注水でバランスを取り戻した。この被雷衝撃で艦橋トップの九八式方位盤照準装置改一の台座が歪んで旋回不能となり、全主砲塔の統一射撃が不可能となったとされる[111]。その後はそれぞれの主砲塔に設置してある照準システム及び後部艦橋の予備システムで射撃を続行した[111]。ただし、主砲方位盤にもともと対空射撃の機能がなかった可能性がある[111]。なお「被弾ではなく主砲斉射の衝撃で方位盤が故障した」と証言する乗員もいるが[112]、公式記録によれば第一次空襲に於ける主砲の発砲は無い。また、主砲発射の衝撃に堪える方位盤が魚雷1本の命中で故障するなどありえず、高速急転舵の連続による艦体震動が原因と考える乗員もいる[113]。さらにイントレピッド攻撃隊のビル・バン・アントワープ雷撃隊隊長は、武蔵艦首に魚雷を命中させたと証言している[114]。武蔵は艦首に至近弾と記録した[93]。
11時15分、武蔵は『雷撃機五機の挟撃を受け4本を避けたるも1本右舷後部に命中、右12、14区に浸水した。激動により主砲方位盤旋回不能となりたる他故障なし。目下詳細調査中』と艦隊司令部に報告する[115]。11時36分には存在しない米潜水艦からの雷撃を回避し[116]、11時57分に『出し得る最大速力26ノット』と報告した[117]。
12時6分、空母イントレピッドからの第2次攻撃隊33機(戦闘機12、爆撃機12、雷撃機9)が攻撃を開始した[118]。アメリカ軍機は栗田艦隊外周の駆逐艦、巡洋艦の対空砲火をくぐりぬけ武蔵に殺到していった。殺到の原因についてレイテ沖海戦を主軸にした書物などでは、リンガ泊地に於いて武蔵だけが塗装を塗りなおしたため、一番目立っていたのも要因とされることがある[119]。46cm主砲三式弾9発発射。事前ブザーがなかったために多くの甲板員が爆風を受けたという[120]。被害は、左舷に魚雷3本、艦首と艦中央部に爆弾2発というものだった[121]。僚艦も武蔵の被害を目撃しており、大和は12時11分、武蔵に複数の魚雷が命中した時に発生する水柱を認めている[122]。その武蔵では指揮装置の故障で高角砲の一斉射撃ができなくなり、各砲個別照準となって命中率が低下した[123]。左舷中央部に命中した爆弾は、甲板2層を貫通して中甲板兵員室で炸裂した[93]。爆風が通気孔を通じてタービン室に突入し、蒸気管が破損したために内側の1つの機械室内が高温となって使用不能となる[124]。武蔵は3軸運転を余儀なくされ、最大速力は22ノットに落ちた[125]。一番、二番主砲は魚雷命中による弾薬庫の直接の被害は無かったが、庫内温度が上昇し、弾薬庫に注水作業をしたため使用不能となったとする文献もある。ただし、武蔵の一番砲塔中央砲で三式弾の事故が発生して射撃不能になったものの[126]、二番主砲塔、三番主砲塔は空襲が終わるまで射撃を続けている。また至近弾による弾片やアメリカ軍機の機銃掃射が、甲板上の機銃兵員達を殺傷した。武蔵の甲板に備え付けられている25mm対空機銃のほとんどは外気に晒されており、46cm主砲発砲の爆風から対空兵器と砲員を保護するシールドも、アメリカ軍のF6Fヘルキャットが6門装備するブローニング12.7mm重機関銃の掃射やロケット弾攻撃の前では無力だった[127]。武蔵の乗組員の中にはアメリカ軍が反跳爆撃(スキップボミング)を行ったとする者もいる[128]。13時13分、武蔵は司令部に以下の報告を行う[129]。
- 主砲方位盤旋回不能、予備盤にて射撃可能。
- 一番砲塔中三式自爆(信管破裂)に依り使用不能。
- 第二機械室蒸気噴出左内軸使用停止、三軸運転、発揮し得る速力22ノット。
第二次空襲と第三次空襲の間に1時間ほど小休止があったため、武蔵では猪口艦長の指示により戦闘配食が配られた[130]。13時30分、ミッチャー中将直率第3群の空母エセックス 、レキシントン (CV-16)を発進した第3次攻撃隊83機[131]が栗田艦隊上空に到達した。エセックス隊が第一部隊輪形陣(大和、武蔵、長門 )、レキシントン隊が第二部隊輪形陣(金剛、榛名)を攻撃した。アメリカ軍機が撤退するまで武蔵は魚雷5本、爆弾4発、至近弾2発を受けた。武蔵は浸水と傾斜復元のための注水で艦首が水面近くまで沈み、速力が低下した[132]。大和を中心とする第一部隊から落伍し、金剛を中心とした第二部隊に追いつかれていた。なお第二艦橋勤務の細谷は、武蔵が初めて主砲を発射した時刻を13時57分頃としている[133]。第二部隊の軽巡洋艦矢矧も13時54分に武蔵発砲[134]、長門も14時06分に「武蔵砲撃始む」と記録している[135]。
14時15分、第4群の空母フランクリンから発進した第4次攻撃隊65機が来襲し[131]、大和に爆弾1発が命中した。一連の攻撃でフランクリン攻撃隊(ジョー・キービー中佐)は武蔵に爆弾4発、魚雷1-3本命中、軽巡洋艦1隻撃沈を主張[136]。14時45分、重巡洋艦利根の黛治夫艦長は鈴木義尾中将(第二部隊指揮官)に『武蔵に近寄る雷撃機を射つ為近寄られては如何』と意見具申する[137]。20分後に『利根は暫く武蔵の北方に在りて敵機の来襲に備えよ』との返信があったが[137]、これは「利根単艦で武蔵を護衛せよ」という意味であり、黛は鈴木を罵っている[138]。それでも利根は武蔵に寄り添い、駆逐艦の清霜と共に護衛を開始した。14時50分、武蔵は大和に対し以下の報告を送った[139]。
- 射撃能力は該砲(一番砲塔)以外さしたる故障なし。
- 両舷防水区画殆ど全部浸水又は注水の為速力を出し得ず。
- 出し得る速力20ノットの見込み
14時53分、栗田中将は『武蔵被雷1、計5、戦闘力発揮に支障あり。武蔵は清霜を附し要すれば「コロン島」経由、馬公市へ向かえ』と命じた[140]。栗田中将が武蔵に撤退命令を出す中、第4群空母エンタープライズから発進した攻撃隊が栗田艦隊上空に到達した。武蔵もこれを探知し、14時50分にアメリカ軍機70接近中と報じ[141]、さらに14時54分、旗流信号で『飛行機20機発見』を知らせた[142]。5分後の14時59分、第2群空母の第3波攻撃隊30機(戦闘機15、爆撃機12、雷撃機3)が来襲した[136]。この頃、シブヤン島やボアク島では、地元猟師達が山の中腹から「島のような巨大戦艦」とアメリカ軍機の激しい戦闘を観戦している[143]。
エンタープライズ隊は栗田艦隊が変針し、戦艦武蔵、巡洋艦1隻、駆逐艦1隻が西に向かって分離する光景を見た[144]。ロケット弾を装備したヘルキャットが利根と清霜を狙い、急降下爆撃機と雷撃機が武蔵を狙った[145]。アメリカ軍機から観察すると武蔵は油を引いているだけで火災も起きておらず、艦体も水平だった[146]。だが、武蔵は注水と被雷により大量の海水を飲み込んでおり、動きは鈍くなっていた。武蔵は回避行動もままならず、『武蔵被害累加せる如きも詳細不明』というほどの損害を受ける[147]。特に前部艦橋防空指揮所(艦橋最上部)に命中した爆弾は、防空指揮所甲板、第一艦橋、作戦室甲板を貫通して爆発[148]。爆風が第一艦橋へ逆流し、武蔵幹部達を殺傷した[149]。防空指揮所では、高射長の広瀬栄助少佐、測的長の山田武男大尉を含む13名が戦死、猪口艦長を含む11名が負傷する[150]。猪口艦長は右肩に重傷を負うが、指揮を続行した。作戦室では前日救助された摩耶副長の永井貞三大佐と軍医を含む5名が戦死、2名が負傷した。そして第一艦橋では、仮屋実航海長を含む39名が戦死、8名が負傷[151]。加藤副長が指揮を継承し、三浦徳四郎通信長が臨時の航海長となった[152]。エンタープライズ攻撃隊(戦闘機12、艦爆9、艦攻12)は戦闘レポートで武蔵に1,000ポンド爆弾11発、魚雷8本命中、重巡洋艦(利根)に爆弾命中、駆逐艦2隻撃破または撃沈を主張する[153]。アメリカ軍機は艦首が沈下し、大火災を起こして完全に停止した武蔵を目撃している[154]。また利根には爆弾2発が命中(250kg爆弾1発不発)、小火災が発生した[155]。清霜にも一番発射管に小型爆弾1発が命中し、最大発揮可能速力が24ノットに低下した。
最終的に武蔵は爆弾10発以上被弾、魚雷10本以上を被雷した。「軍艦武蔵戦闘詳報」では魚雷命中20本被雷、爆弾17発命中、至近弾18発と結論づけている[156]。生存者が戦後に結成した「武蔵戦友会」は、右舷に5本、左舷に20本以上、合計33本と推定した[157]。艦の前部に著しい浸水を見た武蔵は前後の傾斜差が8メートルを超え、前部主砲の一番低い箇所は波に洗われるほどになった[149]。このため必死の浸水防止の対策が採られた。大和からは、左に15度傾斜した武蔵の姿が目撃されている[158]。武蔵は15時30分に舵取機電源切断による『我舵故障』を報告し、長門が確認した[159]。第七号発電機タービンを担当していた玉沢兵曹は、被害の累加と共に次々と発電機が使用不能になり、最後の第七発電機も第五次空襲で停止・操舵不能になったと証言している[160]。それでも約30分後には直接操舵が可能となった[161]。武蔵は復旧作業をおこないながら重巡洋艦利根、駆逐艦島風、清霜、浜風に伴われて栗田艦隊から分離し、コロン湾を目指した[162]。武蔵は大損害をうけながらも僅かながら戦闘力を維持しており、16時55分にはアメリカ軍機を撃墜したという[163]。
宇垣纏第一戦隊司令官は著作「戦藻録」に『本反転に於いて麾下の片腕たる武蔵の傍を過ぐ。損傷の姿いたましき限りなり。凡ての注水可能部は満水し終り、左舷に傾斜10度位、御紋章は表し居るも艦首突込み、砲塔前の上甲板最低線漸く水上に在り。慰めの言葉も適当なるもの即座に出でぬなり』と述べている[164]。宇垣は16時24分『全力を尽して保全に努めよ』[165]、17時5分『自力又は曳航にて遠距離移動不能なる場合、一時附近島陰適当なる深所に曳航艦首をのし揚げ応急対策を講ずることを研究しおけ』と命じた[163]。
栗田中将は「第一遊撃部隊戦闘詳報」にて『即ち敵機の空襲は逐次其の頻度と来襲機数とを増大するに反し、ラモン及レガスピー方面敵機動部隊に対する我が航空攻撃の成果未だ見るべきものなく。他方我が機動部隊本隊の牽制攻撃其の実効なき等、各部隊の協同は結実するに至らず。為に第一遊撃部隊の孤立奮戦となり徒らに被害累増すると共に、現在の儘東進せば日没前シブヤン海東方の狭小海域に於いて敵機の攻撃を受くる惧れあり(以下略)』と述べている[166]。宇垣も『即ち武蔵は大和を救い、戦隊のみならず艦隊全般を自らの犠牲において掩護救出せるものといわざるべからず』と記した[167]。武蔵は各艦隊、航空部隊の連携不徹底から結果として猪口艦長の遺書にあるように「栗田艦隊被害担当艦」となり、致命傷を負ったのである[168]。
沈没までの経緯
[編集]17時37分、武蔵は清霜に以下の命令を信号で伝えた[169]。
- 極力本艦をコロン島に回航せんとす。
- 本艦右舷機械使用可能操舵可能。
- 日没時清霜に依る艦尾曳航操舵を試みんとす。
- 島風は便宜警戒に当られたし
すでに電気を使用する通信機は使えなかった。18時、宇垣中将は大和の探照灯を用いて『自力航行可能なりや』と問い合わせる[170]。すると15分後に武蔵から『右舷内軸のみ運転可能、操舵可能』という回答があった[170]。この時、武蔵側で応答した細谷は『我れ機械6ノット可能なるも、浸水傾斜を早め前後進不能』だったと回想している[171]。宇垣は翌朝まで持ちこたえられるかもしれないと見ていた[172]。18時26分、栗田中将は『浜風は武蔵艦長の命を受け同艦の警戒に当れ。島風の武蔵警戒任務を解く』と伝える[173]。18時30分、駆逐艦島風が武蔵左舷に横付けし、乗艦していた重巡洋艦摩耶の乗組員607名を収容した[174]。だが摩耶士官4名、下士官兵41名が武蔵の復旧作業に従事するため残留している[175]。島風は武蔵から離れ、利根も黛艦長の再三の『此処に居るも如何とも為しがたきに附決戦に参加し得る様御願いす』という要請によって栗田艦隊に復帰した[176]。この時、利根は猪口艦長に対し『ザイドリッツの戦例に鑑み艦首浮力の保持に努められよ』と信号を送っている[177]。ドイツの巡洋戦艦ザイドリッツは第一次世界大戦のユトランド沖海戦で被雷し、艦首が沈降したが後進して港に戻り座礁した。黛艦長は武蔵がこの戦訓をなぞることで沈没を免れることを望んだのである[178]。
一方、武蔵では防水作業、復旧作業が続いていた。艦乗組員の複数の手記と証言が残っているが、これほどの被害を受けながら火災の方はすぐに鎮火したらしく、戦闘終了後に火災が継続している描写はない。左舷への傾斜を復旧させるため、左舷主錨の海中投棄が行われ、機銃の残骸や接舷用の器具(防舷材)、負傷者や遺体といった重量物を右舷に移す作業も行われた[179]。これらは傾斜が酷くなったときに、一斉に甲板上を右舷から左舷に滑落し、巻き込まれ死亡した乗員が少なからずいた[180]。艦内での排水作業では、角材がマッチ棒のように折れ、鉄板がベニヤ板のようにしなる……と水圧との戦いの凄まじさが伝えられている。浸水した機械室も排水作業が試みられたが、浸水は減るどころか増える一方だった[181]。乗組員の間では、「不沈艦」と信じてきた武蔵が沈没するかもしれないという不安が広がった[182]。
傾斜復旧のための注水作業(注排水区画が満水のため缶室、機械室、居住区に注水)が行われ、沈没の直前には機械室、及び右舷の缶室(ボイラー室)6個のうち、外側の3つについて加藤副長より注水作業の命令があった[183]。缶室に関しては、少なくとも1つが機関科兵[184]によって実際に艦底のバルブ(注水弁)が開かれた。しかし、理由は不明だが一滴の水も出なかったという[185]。大坪は機械室の注水弁を開き、注水作業に成功した[186]。ただし、満水になるまでかなりの時間が必要なので、どの程度の効果があったか不明である。
19時5分、第二艦橋に猪口艦長、加藤副長、越野砲術長、工藤内務長、中村機関長、三浦通信長、佐野芳郎少尉(艦長附伝令)、細谷(信号部先任)、井上(見張士)が集まった[187]。猪口は加藤に遺書と形見のシャープペンシルを渡すと[188]、第二艦橋下の海図室に降りていった[189]。19時8分、浜風は武蔵から『至急武蔵の左舷に横付けせよ』という信号を受取る[173]。清霜も『横付けせよ』という手旗信号を受取る[190]。だが巨艦の沈没に巻き込まれることを恐れた両艦は100mまで近づくのが限度だった[191]。
19時15分頃、武蔵は左傾斜十二度となったため、加藤副長より"総員上甲板"が発令され、乗組員は後部甲板に集合した[192]。半壊したマストから軍艦旗が降下されて間もなく、武蔵は急激に傾斜を増した。総員退去命令が発せられ、乗組員は脱出をはじめる。たまたま艦橋をふりかえった数名が、艦橋旗甲板で脱出者を見送る猪口艦長を目撃した[193]。19時35-40分、武蔵は完全に転覆[194]。水中に入った煙突から炎と白煙があがり、しばらく右舷艦底を上にして浮いていたが[195]、やがて水中爆発音2回があって艦首から沈没した[196]。この爆発は缶室のボイラーが水蒸気爆発を起こした、主砲弾薬庫の弾薬が転覆による衝撃で誘爆した等、諸説ある[22]。建造期間1591日に対し、武蔵の艦齢は821日だった[197]。
海に飛び込んだ乗組員は武蔵沈没時の大渦に巻き込まれたり、水中爆発により圧死したりした者もいたといわれるが、随伴していた駆逐艦の清霜、浜風に約1350名が救助された。清霜は25日午前1時まで救助作業を行ったと記録している[194]。武蔵の沈没に伴う戦死者は全乗組員2399名中、猪口敏平艦長以下1023名、生存者は1376名、長門派遣下士官兵7名[198]。さらに沈没までの対空戦闘で前日米潜水艦の雷撃により沈没し、救助されて武蔵に移乗していた摩耶の乗員も117名が犠牲になっている[175]。戦闘詳報には『当時便乗しおりたる摩耶乗員はそれぞれ固有戦闘配置に応じ武蔵の戦闘力を増強する配備に就き極めて勇敢に奮闘努力し其の功績顕著なるものありしことを特筆す』と記された[199]。
駆逐艦磯風の水雷長が撮影した、艦前方が半ば海面下に没した写真は、武蔵最後の姿として有名である。
沈没の直接的原因
[編集]武蔵はアメリカ海軍機の攻撃により、推定雷撃20本、爆弾17発、至近弾20発以上という猛攻撃を受けたが、艦前部を主に両舷の浸水がほぼ均等で、当初左右方向への傾斜が僅かまたは復元可能であったこと[200]、アメリカ軍の攻撃に時間差があったため艦体の沈降に伴って被雷個所がずれていったこと[201]等が影響し、被弾数に比べて長時間交戦できたものと推測される。ちなみに、アメリカ軍はこの戦闘を教訓として1945年(昭和20年)4月の天一号作戦時の大和への攻撃を左舷に集中させたとされるが、アメリカ軍側にそれを実証する資料はない。
猪口艦長は、「機銃はもう少し威力を大にせねばと思う。命中したものがあったにもかかわらず、なかなか落ちざりき。…申し訳なきは対空射撃の威力をじゅうぶん発揮し得ざりし事。」という言葉を副長に託した手帳に残した。逆説的な意味で、「武蔵は航空機の前では無力だった」とする見方もある[202]。武蔵と同じく栗田艦隊に所属し、10月24日午前中のアメリカ軍機攻撃で被雷し落伍した重巡洋艦妙高では、このような所見を述べている。「現有対空射撃兵器を以てしては、之を如何ほど増強し如何に教育訓練に努力するも、その到達する所の射撃実力には限界あり。もっとも現有の対空射撃兵器の性能は主砲、高角砲、機銃、共に極めて貧弱にして現下の複雑困難にして熾烈なる対空戦闘には通じるものに非ず」[203]。武蔵の沈没は、姉妹艦大和の将兵にも影響を与えた[204]。宇垣はこの時のことを戦藻録に『嗚呼、我半身を失へり!誠に申訳無き次第とす。さり乍ら其の斃れたるや大和の身代わりとなれるものなり。今日は武蔵の悲運あるも明日は大和の番なり』と記した[172]。
大和型戦艦は日本軍航空隊が制空権を掌握した上で、その掩護下で艦隊決戦を挑むために開発された戦艦である[205]。味方航空機の支援が1機もなく、逆に日本軍航空隊が壊滅した状態で100機以上の敵航空機から集中攻撃される事態は設計者達の予想を超えていた[206]。大和型戦艦設計者の一人である牧野茂は絶対的不沈艦などありえないと前置きした上で、「味方に航空兵力が存在する戦闘で相対的不沈艦とすることは望ましく、大和型戦艦はおおむねその成果を達成した」と述べている[207]が、それが当初予定されていたそうした戦術に結びつかなかった事が、丸裸で航空機の標的に晒された現実に出ているともいえる。
武蔵最後の戦闘記録は第一艦橋が全滅したこともあって不明な点が多く、現在でも謎が多い。副長の加藤憲吉のメモによれば魚雷命中、右舷に8本、左舷に15本、爆弾の直撃17発、至近弾18発である[208]。副長付き信号兵の細谷四郎によれば、右舷に5本、左舷25本である[208]。右舷に5本の根拠について細谷は、武蔵の転覆時に横倒しで水平となった右舷側面水線下を歩き、そこに魚雷による破孔5つを確認したからだとしている[209]。一方アメリカ軍は、爆弾命中44発、ロケット弾命中9発、魚雷の命中25本、総投下数161発中命中78発と記録した。
武蔵の沈没の直接原因は、多数の魚雷命中による大浸水である[210]。特に1番主砲塔より前の非防御区画は、魚雷が4-5本命中したために全部浸水してしまった。一方後部区画には魚雷の命中は右舷後部に5本のみと比較的少なく、浸水は殆どなかったようである。またバイタルパート内部においては、左舷外側主機室や第12缶室への浸水・水没が確認されている[211]。外側右舷外側缶室の1室は魚雷攻撃により隔壁からの漏水が発生し、防水処置をしたものの、その後の魚雷命中の衝撃で、打ち込んだ楔などが全て吹き飛ぶなどしたために、最終的に乗員は腰まで海水に漬かった[211]。もう1室についても緩徐な浸水に見舞われたが、隣室への防水扉を駆動する電気回路が故障したため、彼らは脱出不能となった。天井に穴をあける作業が行われたが、非常に厚い装甲板(200ミリ)だったため全員溺死した。内側の6室の缶室(1、2、5、6、9)には浸水はなかった[211]。右側外側の缶室は別記したように戦闘終了後に傾斜復旧のため、注水命令が下令されている。4室ある機械室(タービン室)も最終的に3室まで浸水が確認されている。甲板二層にわたる巨大な空間が満水になることで、艦の浮力とバランスが失われた[210]。4列ある機関区の外側の区画も、度重なる同一部位への魚雷命中により、バルジや水面下装甲板を破壊され大浸水をきたした。隔壁の破壊を逃れた区画も、船体の沈下に伴い通気孔などからの緩徐な浸水に見舞われた[212]。アメリカ軍は、主要防御区画を守る20度傾斜410ミリVH甲鈑と下端のNVNC甲鈑との接合部分に構造的問題があり、主要防御区画への浸水遮蔽が不十分だったと指摘している[210]。一方で魚雷1本の被雷で深刻なダメージを受けた巡洋艦[注釈 1]に比べ、戦艦が極めてタフであり、容易に撃破できぬ艦種であることも明らかにした[213]。「戦艦武蔵建造記録」では「よくぞここまで耐えた」と記している[214]。
大和型戦艦は予備浮力が多く確保され、その比は長門型戦艦の1.5倍あり、同時期の他国の戦艦と比較しても浸水に対しては余裕を持った設計になっている。「7万トンを超える巨艦にしては小型軽量設計」が特徴の大和型だが、この小型化が更に浮力余裕を持たせられなかったとも言われる[215]。『戦艦武蔵建造記録』では、沈没時の浸水35,000トン、浮力は22,450トンと推定し、沈没原因を復元力の喪失と結論づけている[214]。
しかし、これだけの猛攻に耐えた武蔵だが、一方では、電気溶接を採用しなかったことが弱点になっていたとも考えられている。日本海軍では第四艦隊事件で電気溶接が船体の脆弱化を招いたと責任転嫁的に結論づけられたため、その後、船体建造にあたって最新技術である電気溶接の採用を制限し、従来どおりのリベットによる接合に逆戻りするということが起こっていた。2016年放送のNHKスペシャル「戦艦武蔵の最期 〜映像解析 知られざる“真実”〜」では、三菱長崎造船所が提供した武蔵の資料を分析したところ、電気溶接でなく、旧来のリベット打ちによる装甲版の繋ぎ止めが被雷時の衝撃によって抜け落ちるか、もしくは折れる等の破損によって装甲板の繋ぎ目部分が外れ、そこから大量の海水浸入を招いたとする説を取り上げている[216]。
これは後の大和や、一ヶ月後の空母に改造された姉妹艦「信濃」にも、被雷時に同じような形で作用し、沈む要因を造っている(2019年放送のNHKBS1スペシャル『幻の巨大空母“信濃”〜乗組員が語る 大和型“不沈艦”の悲劇〜』より)。旧来工法に頼りきりだった日本の建艦技術力限界も沈没要因の一つ[217]であり、頑強な戦艦といえど、航空機の継続的な攻撃の前に屈することは、皮肉にも日本海軍が真珠湾攻撃によるアメリカの戦艦であるアリゾナ、オクラホマ、ネヴァダ、ウェストバージニアと、2日後のマレー沖海戦でイギリスの戦艦であるプリンス・オブ・ウェールズとレパルスという他国戦艦群を沈めたことから始まり、それは武蔵の半月後のドイツの戦艦であるティルピッツ、更に半年後の大和の最期でも証明された形になった。
生存者
[編集]10月25日、駆逐艦清霜と浜風に乗った武蔵の生存者は、マニラ海軍病院分院に収容された100名をのぞき[218]、フィリピンのコレヒドール島に上陸した[219]。彼らは加藤憲吉副長の名字をとって「加藤部隊」と呼ばれた[220]。負傷者数名が重巡妙高に乗艦してシンガポールに向かったが、彼らの運命は不明である[221]。コレヒドール島の生存者達は食糧、医薬品も満足に与えられず、厳しい環境に置かれていた[222]。その最中、加藤副長や武蔵幹部将校が、残務処理手続きとして司令部に向かったまま日本本土に帰ったとの連絡があり[223]、指揮官達を失った「加藤部隊」では暴動寸前の事態になったという[224]。一方で、加藤副長は南西方面艦隊司令部の有馬馨少将(武蔵初代艦長)と会議を行い、輸送船のさんとす丸(140m、8500トン)で420名の日本帰国を決定したと証言する士官もいる[225]。
11月25日午前1時、さんとす丸は第38号哨戒艇、第102号哨戒艇、第33号駆潜艇に護衛されてバシー海峡を通過中、アメリカ潜水艦アトゥルの雷撃を受けた。この攻撃で魚雷2本が命中し、大爆発を起こしたさんとす丸は船体が切断され沈没した[226]。さらに第38号哨戒艇も沈没したため、救出されるまで時間がかかった。結果、沈没と長い漂流によって武蔵の生存者420名中300名が戦死した[227]。救助された120名は台湾の高雄警備隊に配属されて終戦をむかえた[228]。12月6日、180-200名が空母隼鷹で日本へ向かったが、隼鷹は12月9日にアメリカ潜水艦シーデビルの雷撃で被雷し、武蔵の生存者を慌てさせた[229]。さらに、佐世保から横須賀への移動中や、横須賀海兵団での隔離生活でも監視の番兵がついていたという[230]。この他にも傷病者10名が病院船氷川丸によって日本に帰国した[231]。
だが、約1000名の武蔵の生存者は日本に戻れずクラークフィールド航空基地作業隊に編入された。彼らはそのままフィリピン守備隊に残され、陸戦隊としてマニラ市街戦に参加させられたりしたが、その多くは戦死した[232]。その他の戦線に戦局悪化の口封じに駆り出された兵士も少なくなかった。生還者は56名だったとされる[233]。
エンタープライズの攻撃隊に戦闘機パイロットとして加わり武蔵を攻撃したダニエル・T・スミスは戦後少将に進級し、1968年から1970年にかけて在日米海軍司令官を務めた。横須賀に赴任中、細谷四郎ら武蔵の生存者と交流を深めている[234]。
1977年(昭和52年)10月24日、生存者で結成された「軍艦武藏会」は慰霊祭を靖国神社でおこない[235]、さらに239名が「戦艦武蔵比島方面慰霊団」としてフィリピンに出発した[236]。重巡洋艦摩耶主計長として武蔵に乗艦し、最後の戦闘を体験した永末英一衆議院議員(民社党委員長)によれば、赤坂離宮(迎賓館)で催された招宴で昭和天皇に武蔵慰霊祭の事を告げると、天皇は1943年(昭和18年)に乗艦したことを懐かしんだという[237]。
令和5年現在、横須賀市の居酒屋信濃で、戦艦武蔵の士官室に飾られていた鏡が展示されている[238]。この鏡は、レイテ沖海戦前に可燃物除去で戦艦武蔵の士官室から撤去され、横須賀在住の旧海軍関係者宅に保存されていたものである。これが日本国内でみられる戦艦武蔵の数少ない遺品である。
海底の武蔵
[編集]沈没地点
[編集]沈没地点は複数の説が存在していた。
- 副長の加藤大佐が退艦時に記載したもので、戦闘詳報に採用されている東経122度32分、北緯13度7分で[87]、この地点の水深は800mである。戦後、アメリカ海軍は海底の武蔵を探深機で捜索したが[239]、発見できなかった。
- 駆逐艦清霜が記録した、東経122度41.5分、北緯12度48分[194]。だが、清霜の報告位置を元にした戦後の水中探査でも、武蔵は発見されなかった[240]。ただし、清霜の砲術長は同艦の航跡自画器は故障していたので、あくまで推測でしかないことを述べている[241]。
- 武蔵ドキュメンタリーを製作した手塚正己はシブヤン島マグディワク町に取材に赴き、町の北方沖合い5km、水深50mに武蔵が沈んでいるという地元漁師の証言を紹介している[242][243]。2015年4月に現地で洋上慰霊祭が開催されたときにも、現地の責任者の将軍から同様の話が聴取されていた[243]。
- 武蔵の生存者で構成された「軍艦武蔵会」が昭和50年に発行した「嗚呼 戦艦武蔵」に掲載されている対空戦闘航跡図を元に、古賀繁一が著書に記載した沈没位置。結果的に、この古賀繁一が提唱した沈没位置が最も正確であった[243]。
沈没地点とされる場所を調査しても武蔵が発見されないことから、「沈んだ時点でも武蔵の艦腹には、なお未浸水の頑丈な防水区画が沢山あって、それらが艦に浮力を与えて海底まで沈下せず、艦内に閉じ込められた英霊と共に、シブヤン海の8-12ノットもある強い潮流に乗って海中を彷徨い続けているのでは」という噂話も存在した[239]。武蔵自体の航海記録は、艦橋に爆弾が直撃して第一艦橋に火炎が吹き込んだために、失われている[243]。
2015年3月2日、マイクロソフト社の共同創業者で、第二次大戦中の軍用機コレクターでもあるポール・アレンの調査チームが武蔵をシブヤン海の水深1000mの地点で発見し、翌日に公式発表した[244]。旧日本海軍史研究家で、大和ミュージアムの戸高一成館長は「艦首の菊花紋章や船を係留するための鎖やロープを通す穴の形状などから、武蔵の艦首と考えてほぼ間違いない」と話した[245]。また、日米複数の専門家が武蔵だと断定した[246]。調査には戦艦フッドの探索にも使用されたアレン私有の海洋調査船オクトパス(全長441フィート)が使用された。武蔵の船体撮影は海底8843フィートまで潜水できる遠隔操作の探査機により行われた。調査は資料収集や海底の地形調査から始められ、実際の船体発見までは8年の年月が必要であった。シブヤン海の地形は複雑であり、いくつかの海底火山もあったが、それらの山頂部は調査区域が除外された。オクトパスからのマルチビーム海底スキャンによって、沈没地点の候補地は狭く絞られた。2015年2月より実際の潜水探査が開始されたが、わずか3回目の探査で武蔵の船体は発見された。発見時には都合によりアレンは現場には居合わせなかった。特定された沈没地点はシブヤン島の真北側のシブヤン海中央部で、清霜が記録した沈没地点のやや西側であった[243]。
アレンは3月13日(アメリカ時間12日)に探査機の映像のインターネット生中継を行った。この映像から艦体の各部が海底に散在している状況が判明し、調査チームは沈没時に火薬庫の爆発が起こったことなどを分析した[247]。また、観測用水上機射出用のカタパルトのマニュアルと思われる日本語の文書も発見された[248]。船体発見が報じられたことを受け、猪口艦長への墓参りが急増したとも伝えられている[249]。
船体の破損状態
[編集]武蔵は沈没時に爆発を起こした為に、船体は大きな破損を受けた[243]。船体は1番主砲の後方で切断され、大きく2分割した状態で沈んでおり[243]、両者の距離は100m程度離れている。大和の沈没時と同様に機関部に流れ込んだ多量の海水による機関内水蒸気爆発に加え、その爆発が火薬庫にまで及び、その結果艦体が分断され、構造物が本体から四散する程の大破壊が及んだと推察される。
- 艦首部分 - 艦首側は海底に水平の状態で沈んでいる[243]。1番主砲塔は脱落しており、バーベットの穴が確認されている[243]。その直後から切断されているので2番主砲塔のバーベットは確認されていない[243]。艦首の菊の紋章は残っていない(脱落したか腐食したと考えられている)[243]。左側のアンカーは、左舷への傾斜を回復させるためにアンカーチェーンと一緒に海中投棄されたので、記録の通り船体には残されていなかった[243]。右側のアンカーは残されている[243]。船体下部には複数の魚雷による破壊孔が確認されている(出典の書物には左側だけで4か所確認されている)[243]。
- 船尾部分 - 船尾部分は上下逆になって沈んでいる。半分程度が泥に埋まっており、艦底とスクリュー、舵などしか確認できない[243]。切断部分はタービン室付近で、タービンが切断面から観察できる。2枚の舵は正中に固定された状態で海底に直立しているが[243]、主舵については「くの字」の変形が確認された。一部で4枚羽への換装論があったスクリューは、武蔵においても建造時の3枚羽のままであることも確認された[243]。スクリューは1基に変形を認めるが、3基は外観が保たれている。魚雷の命中孔については情報が得られていない[243]。
- 艦橋などの構造物 - 前後の艦橋や15m測距儀、煙突などの最上甲板の構造物は、丸ごと船体から脱落し船首より500m離れた場所に横倒しで沈んでいる[243]。艦橋は爆弾によって右舷側が酷く破壊されている。今まで資料で指摘のなかった後部艦橋基部の見張り台などの新発見があった[243]。煙突は損傷が激しい。マストと後部艦橋の上部は脱落して発見されていない[243]。
- その他のパーツ - 海底まで1000mあったために、パーツは直径1kmの広範囲に落下している。艦橋よりもさらに離れた場所に酷く破損した2番主砲塔の給弾室などの残骸が発見されている。破損の程度は高度であり、2番主砲塔付近の船体が見当たらないことからも、2番主砲の火薬庫が沈没後に誘爆して船体を破壊したと判断されている。1番主砲や3番主砲は発見されていない。
艦橋と船首部分の間500mには、比較的大きな船体構造物やボイラー、カタパルト、対空兵器のシールド、三式弾などが広範囲に散らばって沈んでいる[243]。副砲も1基のみ発見されているが、全体の大部分が泥に埋もれており後部のハッチや片方の測距儀などしか確認できない[243]。
アレンが公表した映像は一部に過ぎなかったが、NHKは100時間にも及ぶ動画の提供を受け、それらを三次元的に画像データとして再構成し、2016年12月4日放送のNHKスペシャル「戦艦武蔵の最期」で公開した。
反響
[編集]読売新聞は、歴史的記憶として貴重であり後世に残すべきとの特集コラムを掲載した[250]。また、週刊新潮と朝日新聞は引き上げにかかる費用を試算し、巨大な費用がかかる事から現実的でないとしている[251]。また、この発見を受けて自主映画製作も発表されている[252]。
年表
[編集]- 1938年(昭和13年) - 3月29日 三菱重工業長崎造船所にて起工[253]。
- 1940年(昭和15年) - 11月1日 進水 [254]。武蔵と正式命名[2]。
- 1941年(昭和16年) - 7月1日 佐世保に回航[255]。主舵、推進器装備。
- 1941年(昭和16年) - 8月1日~2日 長崎に帰着[256]。
- 1942年(昭和17年) - 5月20日 第一水雷戦隊駆逐艦響、暁に護衛され、呉に移動[257]。
- 1942年(昭和17年) - 6月~7月 佐田岬沖で公試。6月22日、27.5ノットを記録[258]。大和より若干良成績[259]。
- 1942年(昭和17年) - 8月5日 呉にて竣工[260]。大和型戦艦に類別[3]。横須賀鎮守府籍[261]。その後訓練に従事。
- 1942年(昭和17年) - 10月15日 レーダー試験[262]。
- 1942年(昭和17年) - 10月28日 実弾射撃演習[263]。距離41,500mで射撃を行うが主砲発射の衝撃でレーダーが故障、調整を行う[264]。
- 1943年(昭和18年) - 1月18日
- 1943年(昭和18年) - 2月11日
- 1943年(昭和18年) - 4月18日 山本五十六長官が戦死(海軍甲事件)。23日、山本長官の遺骨と宇垣参謀長が戻る。
- 1943年(昭和18年) - 4月26日 古賀峯一大将、連合艦隊長官として武蔵に赴任[268]。
- 1943年(昭和18年) - 5月17日
- 1943年(昭和18年) - 5月22日 木更津沖に投錨[265]。翌日、山本長官告別式[270]。
- 1943年(昭和18年) - 6月24日
- 1943年(昭和18年) - 7月31日
- 1943年(昭和18年) - 8月5日 トラック泊地到着[265]。前線に出撃しないため『武蔵御殿』と揶揄された[275]。
- 1943年(昭和18年) - 10月17日
- 1944年(昭和19年) - 2月10日 軽巡洋艦大淀、駆逐艦白露以下4隻と共にトラック泊地を出港[265]。15日、横須賀に帰還[281][265]。
- 1944年(昭和19年) - 2月24日 陸軍部隊輸送に参加[265]。29日パラオに到着[265]。
- 1944年(昭和19年) - 3月29日
- 1944年(昭和19年) - 3月31日 海軍乙事件。古賀峯一連合艦隊司令長官殉職、福留繁連合艦隊参謀長捕虜。
- 1944年(昭和19年) - 4月22日 呉で対空戦闘の為の改装工事が完了。12.7cm高射砲6基の配備が間に合わず、25mm三連機銃18基増設[285]。
- 1944年(昭和19年) - 5月4日 巡洋艦大淀に連合艦隊旗艦を譲る。
- 1944年(昭和19年) - 5月11日 第二航空戦隊、第三航空戦隊、第十戦隊第四駆逐隊、第二駆逐隊と共に日本を離れる[286][265]。
- 1944年(昭和19年) - 5月16日 タウイタウイ泊地に到着する[287]。
- 1944年(昭和19年) - 6月10日 ビアク島に上陸した米軍を迎撃する第三次渾作戦に参加、大和と共に出撃する[288]。
- 1944年(昭和19年) - 6月12日 ソロン沖バチャン泊地に集結する[289]。
- 1944年(昭和19年) - 6月15日 マリアナ沖海戦参加[265]。
- 1944年(昭和19年) - 6月24日 日本に戻り、桂島錨地に停泊[290][265]。
- 1944年(昭和19年) - 7月8日 陸軍兵と資材を艦体が2m沈下するほど搭載し、南方へ向かう[291][265]。16日、リンガ泊地に到着[265]。
- 1944年(昭和19年) - 10月18日 リンガ泊地を出港し、20日ブルネイに入港[292]。
- 1944年(昭和19年) - 10月22日 レイテ沖海戦参加すべく、ブルネイを出撃[293]。
- 1944年(昭和19年) - 10月23日 パラワン水道にて摩耶の乗組員769名を救助。
- 1944年(昭和19年) - 10月24日 アメリカ軍機の集中攻撃を受け、シブヤン海にて沈没。
- 2015年(平成27年) - 3月3日 マイクロソフト共同創業者であるポール・アレンが、3月2日[294]に武蔵をシブヤン海の水深1000mの海底で発見したと発表した[295][296]。武蔵の艦体は沈没から約70年にわたって確認されていなかった[297]が、大和ミュージアム館長にして海軍史研究家でもある戸高一成は「ほぼ間違いなく武蔵」と指摘している[298]。
歴代艦長
[編集]- 有馬馨 大佐:1942年(昭和17年)8月5日~1943年(昭和18年)6月9日
- 古村啓蔵 大佐:1943年(昭和18年)6月9日~1943年12月5日
- 朝倉豊次 大佐:1943年(昭和18年)12月6日~1944年8月11日
- 猪口敏平 少将:1944年(昭和19年)8月12日~1944年10月24日
同型艦
[編集]その他
[編集]- 2010年(平成22年) - 士官室に備え付けられていた姿見用鏡が、元武蔵乗組員から横須賀市の居酒屋「横須賀風居酒屋 空母信濃」に寄贈される[238]。
- 2019年(令和元年) - 大和の乗組員の遺品から発見された、訓練中の武蔵の写真が公開された[299]。戸高一成は、トラック諸島に到着直前の昭和18年1月22日頃、陸上基地の一式陸上攻撃機が武蔵に対して雷撃訓練をした際に撮影されたと推定した。この写真から、当時の武蔵は換気口から舷窓、上甲板の幹部の部屋の窓まですべて塞がれていたことが判明し、さらなる調査が待たれる。
記録
[編集]- 武蔵は以下の3つのギネス世界記録に認定されている。
- 世界最大の戦艦(総トン数)
- 最大の艦砲を搭載した軍艦
- 世界一被弾火薬量の多い軍艦
- 総員退艦命令が出されてから完全に沈むまでの時間が軍艦史上最長である。[要出典]
武蔵を題材とした作品
[編集]テレビドラマ
[編集]『戦艦武蔵』は2016年8月6日19:30 - 20:59にNHK BSプレミアムザ・プレミアム枠で放送されたテレビドラマ。劇中の武蔵の戦闘シーンなどはロトスコープでアニメ化された[300]。
なお、2016年9月3日 21:00 - 22:13にNHK総合において「NHKスペシャル」で73分の短縮版が放送された。
あらすじ
[編集]フィリピンのシブヤン海で71年ぶりに発見された巨大戦艦は今、何を語りかけるのか。戦艦武蔵をめぐって出会った遺族と元乗組員の魂の物語である。
キャスト
[編集]現代パート
[編集]- 石原さとみ (真中麻有(28))[301]
- 勝地涼 (篠原徹 (29))
- 渡辺美佐子 (真中ふみ(89))
- 篠田三郎 (真中賢治・麻有の父)
- 市毛良枝 (真中よしえ・麻有の母)
- 石丸謙二郎 (木山三男の甥・井上兼造(61))
- 山本學 (元・武蔵乗組員 前島 清(92))
- 津川雅彦 (元・武蔵乗組員 木山三男(89))
戦時パート
[編集]スタッフ
[編集]- 作・演出 - 岡崎栄
- 音楽 - 笠松泰洋
- 取材協力 - 軍艦武藏会
- 映像提供 - Paul G.Allen
- 海軍考証協力 - 戸高一成
- 軍事監修 - 堤明夫
- イラスト画 - 古屋郁、山田ひかる
- 挿入歌 - One Direction「LONG WAY DOWN」
- 撮影協力 - 高知県四万十市、高知県宿毛市、高知県土佐清水市、愛媛県愛南町、栃木県佐野市
- 制作総括 - 小松昌代、中村雅人、千葉聡史
- プロデューサー - 城谷厚司
- 制作 - NHKエンタープライズ
ドキュメンタリー
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 但し、平賀が改良に手を加えた日本の巡洋艦は、整備や補修に悪影響を与え、結局損失率を高くしてしまった。
出典
[編集]- ^ 牧野・古賀『戦艦武蔵建造記録』30頁
- ^ a b c #達昭和15年11月(1)p.1『達󠄁第二百四十一號 三菱重工業株式會社󠄁長崎造󠄁船󠄁所󠄁ニ於テ建󠄁造󠄁中ノ戰艦一隻󠄁ニ左ノ通󠄁命名セラル 昭和十五年十一月󠄁一日 海󠄀軍大臣嶋田繁󠄁太郞 戰艦 武藏(ムサシ)』
- ^ a b #内令昭和17年8月分(1)p.31『内令第千四百五十六號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和十七年八月五日海軍大臣嶋田繁太郎|軍艦、戦艦大和型ノ項中「大和」ノ下ニ「、武藏」ヲ加フ』
- ^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ33(原本39頁)『武蔵(むさし) 艦種巡洋艦 三檣「バーク」 艦名考国名に採る。 艦歴明治27・8年戦役従軍:同27年8月威海衛砲撃に、同11月大連港及旅順国占領に従事、同28年2月威海衛総攻撃及同占領に従事、同31年月三等海防艦に編入、同37・8年戦役に従軍:大正元年8月二等海防艦に列す。同3年乃至9年戦役に従軍:露領沿岸警備に従事、11年4月1日軍艦籍より除き、更めて特務艦(測量艦)と定めらる。昭和3年4月1日除籍。
(備考)尚ほ此の外に幕末に初代の軍艦とも云ふ可き「武蔵」あり、同艦は明治元年11月外国人より購入(製造場所、竣工年月日、及原名等不詳)のものにして、同2年2月品海碇泊中火を失して焼く、同3年安芸、焼残船体を大蔵省に交付す。(要目略)』 - ^ #内藤レクイエム96-100頁、 #武蔵建造記録24-25頁
- ^ #内藤レクイエム127頁
- ^ #内藤レクイエム131頁、#武蔵建造記録33頁
- ^ #武蔵建造記録34頁「第4節 超々弩級戦艦の建造下命」
- ^ Ref.C08050173900「軍艦天城愛宕高雄製造一件(製造取止め)(2)」p. 22
- ^ #武蔵建造記録59頁「第3章、戦艦武蔵の受入準備」
- ^ #内藤レクイエム138頁、#武蔵建造記録103-104頁
- ^ #海軍驕り47-48頁
- ^ #海軍驕り191頁
- ^ #海軍驕り192頁
- ^ #海軍驕り79頁
- ^ #海軍驕り77-78頁
- ^ #戦藻録(九版)166頁
- ^ #海軍驕り45頁、#武藏上34頁。太田清忠(機関科兵曹)談
- ^ #武藏上41頁、#豊田 レイテ151頁
- ^ #武蔵ノート164-165頁
- ^ #武藏上53-54頁、 #武蔵ノート108、173頁
- ^ a b c 吉村昭 「戦艦武蔵」(新潮文庫)ISBN 4101117012
- ^ #武藏上47頁、川原熊次郎(技師)談
- ^ #武蔵ノート122頁
- ^ #武蔵建造記録77頁「造船所周辺からの望見禁止」
- ^ 陸軍省『密大日記』第7冊(昭和15年)「長崎市上空飛行に関する件」 アジア歴史資料センター Ref.C01004792000 、陸密第604号。
- ^ #秋元記録29頁
- ^ #武藏上64頁
- ^ #武蔵ノート100-102頁
- ^ #豊田 レイテ147-149頁、 #武蔵建造記録103頁
- ^ 昭和天皇実録八巻221頁『(昭和十五年十一月)一日 金曜日(軍艦武蔵命名式)三菱重工業株式会社長崎造船所において軍艦武蔵命名式につき、博恭王を差し遣わされる。』
- ^ #内藤レクイエム152頁、#武蔵建造記録103頁
- ^ #武蔵建造記録163-164頁「獣脂に関する諸試験」
- ^ #内藤レクイエム155頁
- ^ #内藤レクイエム151-152頁
- ^ 「毎日新聞連載 日本造船十話」p.8
- ^ #武蔵建造記録183頁
- ^ #武蔵建造記録177頁
- ^ #海軍反省会2163頁
- ^ #内藤レクイエム156頁
- ^ 原『伝承・戦艦大和 上』37頁
- ^ #戸高2007、95頁。土肥一夫(連合艦隊参謀)談
- ^ #海軍驕り72頁
- ^ a b #艦と人129頁
- ^ 戦艦「武蔵」の誕生 桁外れの巨大戦艦時事通信
- ^ 週刊 栄光の日本海軍 パーフェクトファイル (No.1)
- ^ #内藤レクイエム215頁
- ^ #武蔵建造記録145、279頁
- ^ #武藏上84頁
- ^ #武蔵ノート146頁
- ^ a b c d 『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』、252ページ
- ^ 城英一郎日記265-266頁「(昭和18年)四月二二日(木)晴」
- ^ TJMOOK 宝島社 CGフルカラーでよみがえる 日本海軍艦艇大図鑑p.34
- ^ 城英一郎日記274-275頁「(昭和18年)五月一八日(火)曇 皇后陛下、慈惠会行啓。GF旗艦〔戦艦「武蔵」〕、東京湾帰着(五月二二日)につき、行幸の件につき武官長の命により、海軍省、軍令部(〔伊藤整一〕次長、〔沢本頼雄〕次官)に連絡す。海軍側としては、有難き思召なるも、作戦、機密保持の関係上、今少しくゆとりある時期にお願したしとの意向。(以下略)」
- ^ 城英一郎日記277頁「(昭和18年)五月二二日(土)晴(中略)機動部隊及「武蔵」東京湾着。(以下略)」
- ^ 城英一郎日記277頁「(昭和18年)五月二三日(日)晴 当直 一四四三、山本元帥の遺骨、東京駅着。(以下略)」
- ^ 城英一郎日記288-289頁「(昭和18年)六月二四日(木)晴「武蔵」に行幸(海軍に対してはGFに行幸の名目)。(以下略)」
- ^ 週刊 栄光の日本海軍 パーフェクトファイル(No.2)p.20
- ^ #秋元記録78頁、#武蔵建造記録222頁
- ^ #捷号作戦戦闘詳報(5)p.46
- ^ #塚田年少兵179-180頁、右舷高射指揮装置勤務
- ^ #秋元記録295頁
- ^ #佐藤 武蔵119頁
- ^ #武藏上563頁
- ^ #武藏上567頁、#細谷航海記102頁
- ^ #渡辺 武蔵4頁。#細谷航海記114頁
- ^ #佐藤 武蔵134頁
- ^ #塚田年少兵13-15頁
- ^ #雪風ハ沈マズ新装338頁、#井上 磯風40-42頁
- ^ #武藏上594頁
- ^ #能村慟哭140-141頁
- ^ #摩耶戦闘詳報p.3
- ^ #武蔵戦闘詳報p.2、#摩耶戦闘詳報p.3
- ^ 6月28日「第二艦隊旗艦ヲ武蔵型トシ第一戦隊ヲ直率、第四戦隊ニハ次席指揮官ヲ置ク」
- ^ #武藏上602-603頁、#戸高2007,78頁
- ^ a b #武蔵戦闘詳報p.3
- ^ a b #武蔵戦闘詳報p.4
- ^ #武蔵戦闘詳報p.5
- ^ a b c d e f #武蔵戦闘詳報p.21
- ^ #武蔵戦闘詳報p.6
- ^ #武蔵戦闘詳報p.7
- ^ #武蔵戦闘詳報p.8
- ^ #武蔵戦闘詳報p.9
- ^ a b #武蔵戦闘詳報p.10
- ^ #武蔵戦闘詳報pp.11-16
- ^ #武蔵戦闘詳報p.16
- ^ a b c d #武蔵戦闘詳報p.17
- ^ #内藤レクイエム190頁
- ^ #内藤レクイエム191頁
- ^ #内藤レクイエム193頁
- ^ #長門戦闘詳報(1)pp.9-11
- ^ #内藤レクイエム194頁
- ^ a b c #武蔵建造記録230頁
第8章「竣工後の戦艦武蔵とその最後」 - ^ #細谷航海記まえがき
- ^ #武蔵戦闘詳報p.18
- ^ #長門戦闘詳報(1)p.1
- ^ #決断と異議159頁
- ^ #武藏上644頁
- ^ #秋元記録180頁
- ^ #秋元記録183頁
- ^ #武藏上645頁、霜崎源次(右舷後部防空見張員)、#細谷航海記120頁
- ^ #武藏上647頁、 #秋元記録183頁、#捷号作戦戦闘詳報(4)p.49
- ^ #決断と異議168頁、 #秋元記録184頁
- ^ #武藏上652-653頁、 #細谷航海記121-122頁
- ^ #武蔵ノート223頁
- ^ #武藏上660頁
- ^ #武藏上661頁
- ^ #細谷航海記129頁
- ^ #武藏上665頁、鈴木正義(機兵長、缶室伝令)談
- ^ #武藏上667-668頁
- ^ a b c #秋元記録186頁
- ^ #武藏上670頁、柴田庫治(後部測的所伝令員)、#豊田 レイテ45頁
- ^ #武藏上671頁、玉川光雄(前部測的所測的手)
- ^ #決断と異議170頁
- ^ #捷号作戦戦闘詳報(4)p.52
- ^ #雪風ハ沈マズ新装332頁、#捷号作戦戦闘詳報(4)p.53
- ^ #捷号作戦戦闘詳報(4)p.55
- ^ #決断と異議171頁
- ^ 久山忍『戦艦大和最後の証言』185頁
辺見・原『戦艦大和発見』88頁、大野徳夫(大和機銃員)談。 - ^ #武藏下11-12頁、蒔苗文雄(第三機銃群長)、西岡敬之(右舷高角砲指揮官)等
- ^ #武蔵建造記録230頁、#捷号作戦戦闘詳報(4)p.5
- ^ #大和戦闘詳報(1)p.19
- ^ #武藏下14-15頁、#塚田年少兵209頁
- ^ #武藏下30-33頁、#秋元記録189-190頁
- ^ #秋元記録189頁、#武蔵建造記録230頁
- ^ #武藏下19-20頁
- ^ #秋元記録79頁
- ^ #豊田 レイテ80-82頁
- ^ #捷号作戦戦闘詳報(4)pp.58-59
- ^ #佐藤 武蔵210-212頁、 #細谷航海記133頁
- ^ a b #決断と異議172頁
- ^ #武蔵建造記録231頁
- ^ #細谷航海記141-142頁、#武蔵建造記録230頁
- ^ #矢矧戦闘詳報(2)p.52
- ^ #長門戦闘詳報(1)p.11
- ^ a b #決断と異議173頁
- ^ a b #利根戦闘詳報(1)p.13
- ^ #武藏下93頁、 #豊田 レイテ226頁
- ^ #捷号作戦戦闘詳報(4)p.62
- ^ #大和戦闘詳報(2)p.20、#捷号作戦戦闘詳報(4)p.63
- ^ #捷号作戦戦闘詳報(4)p.63
- ^ #矢矧戦闘詳報(2)p.53
- ^ #手塚取材記127-128頁、#豊田 レイテ360-378頁
- ^ #BIG E下268頁
- ^ #BIG E下269頁
- ^ #BIG E下270頁
- ^ #大和戦闘詳報(2)p.22
- ^ #武藏下107頁、 #細谷航海記142-146頁
- ^ a b #武蔵建造記録232頁
- ^ #武藏下124頁
- ^ #武藏下125頁、「菲島沖海戦に於ける戦死傷者表」p.6
- ^ #武藏下129頁
- ^ #決断と異議 173頁、#BIG E下270頁
- ^ #BIG E下271頁
- ^ #利根戦闘詳報(2)p.14
- ^ #武蔵戦闘詳報p.24
- ^ #武蔵ノート238頁。吉村と細谷の対談より。
- ^ #捷号作戦戦闘詳報(4)p.64
- ^ #武藏下145頁、#長門戦闘詳報(2)p.11
- ^ #豊田 レイテ241-242頁
- ^ #豊田 レイテ243頁
- ^ #捷号作戦戦闘詳報(4)p.64、#清霜戦闘詳報p.13
- ^ a b #捷号作戦戦闘詳報(4)p.66
- ^ #武蔵建造記録232頁、#戦藻録(九版)418頁
- ^ 栗原俊男『戦艦大和』45頁、川代丈治(信号兵)談。#捷号作戦戦闘詳報(4)p.65
- ^ #第1遊撃部隊詳報(1)p.29
- ^ 原勝洋『戦艦大和のすべて』(株式会社インデックスコミュニケーションズ、1995年)
- ^ #秋元記録196頁、#武蔵建造記録234頁
- ^ #清霜戦闘詳報p.13
- ^ a b #捷号作戦戦闘詳報(5)p.2
- ^ #細谷航海記156-157頁
- ^ a b #戦藻録(九版)419頁
- ^ a b #第17駆逐隊戦闘詳報(4)p.33
- ^ #摩耶戦闘詳報p.4
- ^ a b #摩耶戦闘詳報p.5
- ^ #利根戦闘詳報(1)p.16
- ^ #武藏下178頁、#ライオン艦長207頁
- ^ #ライオン艦長209頁
- ^ #武藏下154頁
- ^ #細谷航海記168頁、#豊田 レイテ239-241頁
- ^ #武藏下170-171頁
- ^ #武藏下155-156頁
- ^ #武藏下196頁、大坪鋼一(第三機械室運転下士官)談。
- ^ #手塚取材記186頁、鈴木正義、荻原勘造(機関科)
- ^ #武藏下204-205頁
- ^ #武藏下198-201頁
- ^ #手塚取材記206頁、#細谷航海記159頁
- ^ #武藏下184-185頁
- ^ #細谷航海記162頁
- ^ #細谷航海記163-164頁
浜風と清霜に信号を送った信号兵が細谷本人である。 - ^ #武藏下217頁、#細谷航海記185-186頁
- ^ #武蔵建造記録234頁
- ^ #武藏下212頁
蒔苗文雄(機銃群長)、遠藤一水(見張員)、細谷四郎等 - ^ a b c #清霜戦闘詳報p.11
- ^ #細谷航海記170-174頁、#武蔵建造記録234頁
- ^ #武藏下219-220頁、#武蔵建造記録234頁
- ^ #武蔵建造記録217頁
- ^ #武藏下277頁
- ^ #武蔵戦闘詳報pp.3.26-27
- ^ #吉田 大和と武蔵129頁
- ^ #細谷航海記183頁
- ^ 学研『歴史群像シリーズ 大和型戦艦』
- ^ #妙高戦闘詳報p.50
- ^ 栗原『戦艦大和』47頁
- ^ #武蔵建造記録16頁
- ^ #武蔵建造記録241頁「日米戦艦比較論」
- ^ 辺見・原『戦艦大和発見』135頁
- ^ a b #内藤レクイエム191頁
- ^ #細谷航海記170頁、#武蔵建造記録234頁
- ^ a b c #秋元記録292-293頁
- ^ a b c #秋元記録301頁
- ^ #吉田 大和と武蔵130頁
- ^ #武蔵建造記録268頁
- ^ a b #武蔵建造記録41頁
- ^ 学研『日本の戦艦』
- ^ “Nスペplus “無敵の不沈艦”はなぜ沈んだ? 武蔵の知られざる真実と最後”. NHK (2017年2月14日). 2020年5月22日閲覧。
- ^ 「船体構造ニ艤装品機関及兵器関係金物ヲ取付ケル熔接適用範囲其一」昭和14年2月22日の呉海軍工廠造船部製図からと、「船体構造電気熔接使用方針並要領」昭和13年4月9日、呉海軍工廠造船部製図参照
- ^ #武藏下300頁
- ^ #細谷航海記190頁
- ^ #細谷航海記191頁
#塚田年少兵232頁 - ^ #武藏下298頁
- ^ #細谷航海記194頁、#塚田年少兵233頁
- ^ #細谷航海記191頁、#塚田年少兵234頁
- ^ #細谷航海記194-198頁
- ^ #豊田 レイテ323頁、中山勝平(主計科中尉)
- ^ #細谷航海記205-206頁
- ^ #細谷航海記218-220頁
- ^ #武藏下381頁、#塚田年少兵238頁
- ^ #武藏下396頁、#塚田年少兵239-240頁
- ^ #武蔵ノート217頁。瀬野尾光治談。
- ^ #細谷航海記199頁、#武藏下328-329頁
- ^ #手塚取材記、第五章「フィリピン戦跡行」等
- ^ #手塚取材記83頁
- ^ #細谷航海記152-153頁
- ^ #手塚取材記37頁「比島方面慰霊団」
- ^ #手塚取材記38頁
- ^ #手塚取材記41-42頁
- ^ a b "戦艦「武蔵」71年ぶり発見 船体引き揚げは困難も遺品は回収へ". 東京スポーツWeb. 2015年3月5日. 2015年5月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年5月6日閲覧。
- ^ a b 佐藤和正『太平洋戦争で活躍した日本の軍艦、18~19頁』KKベストセラーズ、1976年
- ^ #手塚取材記130頁
- ^ #手塚取材記130-131頁、門脇尚一
- ^ #手塚取材記129-134頁、「フィリピン戦跡行『ジブヤン海』漂流」
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 戦艦「武蔵」の真実 2015年8月15日初版 gakken moook 学研マーケティング ISBN 978-4-05-610894-1
- ^ “70年ぶり発見「武蔵」に見る第1級のハイテクパワーと造船技術…日本の粋を結集、引き揚げは可能か”. 産経WEST (2015年3月18日). 2015年5月25日閲覧。
- ^ “戦艦武蔵の船体発見か ネットに投稿”. NHK News Web (2015年3月3日). 2015年3月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年3月4日閲覧。
- ^ “専門家 沈没船は戦艦「武蔵」と断定”. NHK News Web (2015年3月13日). 2015年3月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年3月18日閲覧。
- ^ “戦艦武蔵、沈没時に爆発か ネット中継、海底に艦体散在”. 朝日新聞デジタル (2015年3月14日). 2015年5月25日閲覧。
- ^ “今度は戦艦武蔵のマニュアルか 日本語文書も公開”. 朝日新聞デジタル (2015年3月7日). 2015年5月25日閲覧。
- ^ “武蔵:沈黙の艦長、70年後の脚光 鳥取で墓参者急増(毎日)”. 2015年4月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年3月18日閲覧。
- ^ “後世に伝えるべき武蔵の「記憶」とは”. YOMIURI ONLINE (2015年3月14日). 2015年5月25日閲覧。
- ^ “1000人が眠る戦艦武蔵を引き揚げるには”. 朝日新聞デジタル&M (2015年3月18日). 2015年5月25日閲覧。
- ^ “戦艦武蔵:映像化 「船体発見」で自主映画製作 鳥取の監督、今夏撮影へ /鳥取”. 毎日新聞. 2015年5月25日閲覧。
- ^ #武蔵建造記録89頁
- ^ #武蔵建造記録89頁
- ^ #武蔵建造記録109頁
- ^ #武蔵建造記録113頁
- ^ #武藏上71-73頁、 #武蔵建造記録122頁
- ^ #武藏上79頁
- ^ #戦藻録(九版)159頁
- ^ #武蔵建造記録123頁
- ^ #内令昭和17年8月分(1)p.31『内令第千四百五十七號 軍艦武藏 右本籍ヲ横須賀鎮守府ト定メラル|昭和十七年八月五日海軍大臣嶋田繁太郎』
- ^ #大和開発物語241頁。松井宗明(通信長)談
- ^ #大和開発物語245頁
- ^ #大和開発物語246頁
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s #武蔵建造記録218-219頁「戦艦武蔵の行動概要」
- ^ #武藏上110-111頁
- ^ #武藏上111頁
- ^ #武藏上137頁
- ^ #武藏上141頁
- ^ #武藏上144頁
- ^ #武藏上147頁、#塚田年少兵93-96頁
- ^ #細谷航海記94頁
- ^ #昭和18年5月~第4水雷戦隊日誌(2)pp.66-67
- ^ #武藏上162頁
- ^ #武藏上124頁
- ^ #武藏上189頁
- ^ #武藏上190頁
- ^ #武藏上248頁
- ^ #武藏上248-250頁
- ^ #武藏上249頁、野村治男(少尉候補生)談。
- ^ #武藏上264頁
- ^ #武藏上308頁
- ^ #武藏上311頁
- ^ #造船士官の回想 下188-191頁『「武蔵」にも魚雷命中』
- ^ #秋元記録78頁
- ^ #武藏上357頁
- ^ #戦藻録(九版)324頁
- ^ #戦藻録(九版)341頁
- ^ #戦藻録(九版)342頁
- ^ #武藏上505頁
- ^ #武藏上517頁
- ^ #戦藻録(九版)410頁
- ^ #戦藻録(九版)415頁
- ^ Musashi Expedition Japanese Edit - YouTube
- ^ PaulGAllenのツイート(572431062522982400)
- ^ “戦艦武蔵の船体、発見か 米資産家、比シブヤン海で”. 47NEWS (2015年3月3日). 2015年5月25日閲覧。
- ^ “艦首“菊の紋章”や機雷回避装置…「武蔵」原形で眠る可能性も 「発見した」とMS共同創業者ツイッター”. 産経WEST (2015年3月3日). 2015年5月25日閲覧。
- ^ “戦艦武蔵:「ほぼ間違いない」大和ミュージアム館長が指摘”. 毎日新聞 (2015年3月4日). 2015年4月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年3月4日閲覧。
- ^ 館長ノートvol.48 海底に眠る軍艦、大和ミュージアムHP、2019年5月15日、同年5月21日閲覧
- ^ “石原さとみ、反戦ドラマに「胸がくるしくなった」”. ORICON STYLE (2016年8月5日). 2016年8月11日閲覧。
- ^ “石原さとみ、戦艦武蔵を題材にしたドラマに主演「何度も涙しました」”. ORICON STYLE (2016年6月28日). 2016年8月11日閲覧。
- ^ "戦艦武蔵の最期〜映像解析・知られざる"真実"〜". NHK. 2020年2月4日. 2023年5月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年5月5日閲覧。
文献
[編集]ウェブサイト
[編集]- アジア歴史資料センター(公式) (防衛省防衛研究所)
- Ref.C08050018300「毎日新聞連載 日本造船十話」 斯波孝四郎「戦艦武蔵の建造」
- Ref.C12070107900『昭和15年1月~12月達/昭和15年11月(1)』。
- Ref.C12070164400『昭和17年7月~9月 内令3巻/昭和17年8月分(1)』。
- Ref.C08051771900『昭和16年~昭和20年 戦隊 水戦輸送戦隊 行動調書』。
- Ref.C08030117000『昭和18年5月1日~昭和18年7月19日 第4水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。
- Ref.C08030565200『昭和19年10月24日 軍艦武蔵戦闘詳報』。
- Ref.C08030565300「昭和19年10月24日 菲島沖海戦に於ける戦死傷者表」
- Ref.C08030714600『昭和19年10月16日~昭和19年10月28日 戦闘詳報.第1遊撃部隊 捷号作戦(菲島沖海戦を含む)(1)』。
- Ref.C08030714700『昭和19年10月16日~昭和19年10月28日 戦闘詳報.第1遊撃部隊 捷号作戦(菲島沖海戦を含む)(2)』。
- Ref.C08030036900『昭和19年10月20日~昭和19年10月28日 捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(4)』。(第一戦隊)
- Ref.C08030037000『昭和19年10月20日~昭和19年10月28日 捷号作戦戦闘詳報(比島方面決戦)(5)』。(第一戦隊)
- Ref.C08030564500『昭和19年10月17日~昭19年10月28日 軍艦大和戦闘詳報 第3号(1)』。
- Ref.C08030564600『昭和19年10月17日~昭19年10月28日 軍艦大和戦闘詳報 第3号(2)』。
- Ref.C08030568800『昭和19年10月22日~昭和19年10月26日 軍艦摩耶比律賓沖海戦戦闘詳報』。
- Ref.C08030577700『昭和19年10月22日~昭和19年10月28日 軍艦矢矧捷1号作戦戦闘詳報(2)』。
- Ref.C08030565400『昭和19年10月24日~昭19年10月29日 軍艦長門戦闘詳報 第2号(1)』。
- Ref.C08030565500『昭和19年10月24日~昭19年10月29日 軍艦長門戦闘詳報 第2号(2)』。
- Ref.C08030568500『昭和19年10月18日~昭和19年10月29日 軍艦利根戦闘詳報(1)』。
- Ref.C08030568600『昭和19年10月18日~昭和19年10月29日 軍艦利根戦闘詳報(2)』。
- Ref.C08030146600『昭和18年2月1日~昭和19年10月31日 第17駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。
- Ref.C08030589700『昭和19年10月24日 駆逐艦清霜戦闘詳報』。
- Ref.C08030567900『昭和19年10月24日 軍艦妙高戦闘詳報』。
- 国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館
- 海軍有終会編『幕末以降帝国軍艦写真と史実』海軍有終会、1935年11月 。
- 連合軍総司令部民間情報教育局 編「戰艦武藏沈没の模様をお話し下さい。」『連合軍最高司令部民間情報教育局編 ラヂオ放送「眞相箱」の再録 眞相はかうだ 第一輯』総合プレス社、1946年8月 。
通史
[編集]- 吉村昭『戦艦武藏』(文藝春秋)
- 吉村昭『戦艦武蔵』新潮文庫、2000改訂。ISBN 4101117012。
- 吉田俊雄『大和と武蔵 その歴史的意味を問い直す』PHP研究所、2004年8月。ISBN 4-569-63462-1。
- 秋元健治『戦艦大和・武蔵 そのメカニズムと戦闘記録』現代書館、2008年。ISBN 978-4-7684-6976-7。
- 手塚正己『軍艦武藏 上巻』太田出版、2003年。
- 手塚正己『軍艦武藏 下巻』太田出版、2003年。
- 手塚正己『軍艦武藏 上巻』新潮文庫、2009年。
- 手塚正己『軍艦武藏 下巻』新潮文庫、2009年。
- 手塚正己『新版 軍艦武藏 上巻』太田出版、2015年7月。ISBN 978-4-7783-1447-7。
- 手塚正己『新版 軍艦武藏 下巻』太田出版、2015年7月。ISBN 978-4-7783-1448-4。
建造記録
[編集]- 牧野茂、古賀繁一『戦艦武蔵建造記録 大和型戦艦の全貌』アテネ書房、1994年。ISBN 4-87152-191-5。
- 「武蔵」を建造した三菱重工に残された資料を元に、大和型戦艦設計者、防衛庁、三菱関係者が編集。
戦記
[編集]- 豊田穣『戦艦武蔵レイテに死す』講談社、1983年。ISBN 4-06-180375-1。
- 渡辺清『戦艦武蔵の最期』朝日新聞社、2003年。ISBN 4925219693。
- 『戦艦武藏の最期』 3DCGシリーズ 双葉社
証言集
[編集]- 佐藤太郎『戦艦武蔵』河出書房新社、1975年。
- 細谷四郎『戦艦武蔵戦闘航海記』八重岳書房、1988年。ISBN 4896461142。
- 塚田義明『戦艦武蔵の最後 海軍特別年少兵の見た太平洋海戦』光人社NF文庫、2001年。ISBN 476982307X。
- 有馬馨『帝国海軍の伝統と教育 付・比島作戦の思い出』五曜書房、2001年。ISBN 4795253994。
- 戦艦武蔵初代艦長・南西方面艦隊参謀長有馬馨の遺稿
その他
[編集]- 呉市海軍歴史資料館『呉市海軍歴史科学館図録 日本海軍艦艇写真集別巻 戦艦大和・武蔵』ダイヤモンド社、2005年4月。ISBN 4-478-95054-7。
- 手塚正己『「軍艦武蔵」取材記 海軍を生きた男たち』太田出版、2003年。ISBN 487233812X。
- 吉村昭『戦艦武蔵ノート』岩波書店、2010年。ISBN 978-4006021726。
- 吉村昭『戦艦武蔵ノート』文藝春秋、1985年8月25日。ISBN 978-4167169107。
- 手塚正己『日本が誇った巨大戦艦「武蔵の最期」が蘇る DVD BOOK 「軍艦武蔵」』宝島社、2018年1月。ISBN 978-4-8002-7923-1。
参考文献
[編集]- 飯尾憲人『艦と人 海軍造船官八百名の死闘』集英社、1983年7月。ISBN 4-08-772441-7。
- 井上理二『駆逐艦磯風と三人の特年兵』光人社、1999年。ISBN 4-7698-0935-2。
- 宇垣纏、成瀬恭発行人『戦藻録』原書房、1968年。
- 生出寿『ライオン艦長 黛治夫 ある型破り指揮官の生涯』光人社、1988年1月。ISBN 4-7698-0372-9。
- 『日本の戦艦』歴史群像シリーズ (学研)
- 『大和型戦艦』歴史群像シリーズ (学研)
- 宮内庁 編『昭和天皇実録 第八 昭和十五年至昭和十七年』東京書籍株式会社、2016年3月。ISBN 978-4-487-74408-4。
- 『日本海軍艦艇写真集 大和 武蔵』 光人社
- 城英一郎 著、野村実 編『侍従武官 城英一郎日記』山川出版社〈近代日本史料選書〉、1982年2月。
- エドワード・P・スタッフォード、井原裕司 訳『空母エンタープライズ THE BIG E 上巻』元就出版社、2007年。ISBN 978-4-86106-157-8。
- エドワード・P・スタッフォード、井原裕司 訳『空母エンタープライズ THE BIG E 下巻』元就出版社、2007年。ISBN 978-4-86106-158-5。
- カール・ソルバーグ、高城肇訳『決断と異議 レイテ沖のアメリカ艦隊勝利の真相』光人社、1999年。
- 千早正隆『日本海軍の驕り症候群』プレジデント社、1990年。ISBN 4-8334-1385-X。
- 戸高一成 編『[証言録] 海軍反省会2』株式会社PHP研究所、2011年1月。ISBN 978-4-569-79338-2。
- 戸高一成『戦艦大和に捧ぐ』PHP研究所、2007年。
- 豊田穣『雪風ハ沈マズ 強運駆逐艦栄光の生涯』光人社NF文庫新装版、2004年。ISBN 978-4-7698-2027-7。
- 内藤初穂『戦艦大和へのレクイエム 大艦巨砲の技術を顧みる』グラフ社、2008年。ISBN 978-4-7662-1124-5。
- 能村次郎『慟哭の海 戦艦大和死闘の記録』読売新聞社、1967年。
- 堀元美『造船士官の回想(下)』朝日ソノラマ文庫、1994年8月。ISBN -4-257-17285-1。
- 松本喜太郎他『戦艦「大和」開発物語 最強戦艦誕生に秘められたプロセス』光人社NF文庫、2009年8月。ISBN 978-4-7698-2371-1。
- 防衛庁防衛研修所戦史部『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』戦史叢書第62巻、朝雲新聞社、1973年