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第三十一号型哨戒艇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
第三一号型哨戒艇から転送)
第三十一号型哨戒艇
第三十五号哨戒艇
艦級概観
艦種 哨戒艇
艦名
前級 第一号型哨戒艇
次級 -
性能諸元(1941年)
排水量 基準:1,162トン
全長 水線長:85.34m
全幅 7.93m
吃水 2.98m
機関 ロ号艦本式缶 2基
艦本式オールギヤードタービン 2基
2軸推進 10,000馬力
速力 18.0ノット[注釈 1]
航続距離
燃料 重油
乗員 102名(1940年4月1日)[1]
105名(1941年7月10日)[2]
兵装
(1940年)
45口径三年式12cm単装砲2門[3]
兵装
(1944年)
45口径三年式12cm単装砲2門
25mm機銃 連装1基、単装4挺
爆雷18個
(大発を搭載しない場合は60個)[3]
レーダー 13号1基(1944年、推定)
その他 大発1隻(第32号から39号)
同型艇 10隻

第三十一号型哨戒艇[4](だいさんじゅういちごうがたしょうかいてい、旧字体:第三十一號型哨戒艇)は、日本海軍哨戒艇

正しくは、第四十六号哨戒艇は含まれないが、戦後の資料では合わせて同型艦10隻とされることもある[注釈 2]

概要

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二等駆逐艦の樅型駆逐艦9隻、若竹型駆逐艦1隻が1940年(昭和15年)4月に雷装のすべてと2番主砲を撤去し、新設された哨戒艇籍に編入された。

開戦直前[3]になって第三十二号から三十九号は旧2番主砲を復帰させ、甲板上に兵員室を設けて陸戦隊の居住区とし、旧3番主砲を撤去して後部甲板に大発1隻を搭載し艦尾には発進用のスロープを設けた。

開戦時、大発搭載設備を持たない2艇は佐伯防備隊に所属し、大発搭載艇は各地の攻略作戦に従事した。開戦直後のウェーク島攻略作戦で、第四艦隊所属の第三十二号哨戒艇(旧葵)、三十三号哨戒艇(旧萩)は自ら擱座して陸戦隊を揚陸させるなど活躍、2隻は山本五十六連合艦隊司令長官より感状を授与された[5]。 大戦後半には船団護衛任務が多くなり敵航空機や潜水艦により戦没、終戦時に残っていたのは第三十六号(旧「藤」)1隻だけだった。

艦番は四十から四十五が欠番になっており、太平洋戦争が無ければ他の若竹型駆逐艦も哨戒艇に編入する計画だったとされる[6]

同型艇

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哨戒艇への編入は全て1940年(昭和15年)4月1日[7]

第三十一号哨戒艇
樅型駆逐艦[7]1944年3月30日、パラオ大空襲で戦没(パラオ
第三十二号哨戒艇
旧樅型駆逐艦「[7]1941年12月23日、ウェーク島攻略作戦時に第三十三号哨戒艇と共に擱座(ウェーク島[5]
第三十三号哨戒艇
旧樅型駆逐艦「[7]。1941年12月23日、ウェーク島攻略作戦時に第三十二号哨戒艇と共に擱座(ウェーク島)[5]
第三十四号哨戒艇
旧樅型駆逐艦「[7]1944年7月3日、トラック在泊中、空爆を受けて沈没[8][注釈 3]
第三十五号哨戒艇
旧樅型駆逐艦「[7]1942年9月2日、航空機の攻撃で戦没(ソロモン
第三十六号哨戒艇
旧樅型駆逐艦「[7]。終戦時スラバヤで残存。戦後は復員輸送に従事。輸送中に一時インドネシア人民治安軍に奪取される。1947年オランダ海軍が接収し解体。
第三十七号哨戒艇
旧樅型駆逐艦「[7]。1942年1月24日、バリクパパン沖海戦で米駆逐艦4隻と交戦し沈没(バリクパパン
第三十八号哨戒艇
旧樅型駆逐艦「[7]。1944年11月25日1時15分頃、マニラから高雄への輸送作戦に従事するさんとす丸(戦艦「武蔵」生存者便乗)の護衛中、バシー海峡にて米潜「アトゥル」の攻撃で戦没した。艦橋および機械室付近に魚雷2本を受け、1分ほどで沈没。哨戒艇長高田又男大尉以下、145名が戦死した[9]。後年、高雄の道教霊廟、鳳山紅毛港保安堂にて神艦として祀られるようになる[10]
第三十九号哨戒艇
旧樅型駆逐艦「[7]。1943年4月23日米潜「シーウルフ」の攻撃で戦没(台湾東方)
第四十六号哨戒艇
若竹型駆逐艦夕顔[7]。1944年11月10日米潜「グリーンリング」の攻撃で戦没(石室崎沖)

画像

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第三十一号型哨戒艇
沈没する第三十九号哨戒艇、その1。1943年4月23日、潜水艦シーウルフより撮影。
沈没する第三十九号哨戒艇、その2。艦尾にスロープが見える。

注釈

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  1. ^ 『日本の軍艦 第13巻』p168によると非常時には25ノットまで可能。
  2. ^ 樅型駆逐艦からの編入9隻。若竹型駆逐艦から1隻。海軍の公式類別上では第四十六号哨戒艇に艦型名は存在しないが、樅型と若竹型の違いは全幅が異なる程度なので同型艦10隻として扱っている(『日本の軍艦 第13巻』p168による)。
  3. ^ 同艦は多くの資料で1943年3月6日、カビエン南方にて特務艦矢風と衝突し沈没したとされるが、実際は前部マスト直前の部分で船体が分断されて前部が沈没。後部は大破しながらも曳船により曳航されトラックに入港。同地にて仮設艦首が取り付けられ、停泊していたとされる。

参考文献

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  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 『昭和11年12月1日現在10版内令提要追録第1号原稿/ 巻1追録/第6類機密保護』。Ref.C13071968200。 
    • 『昭和14年6月1日現在10版内令提要追録第5号原稿 巻3追録/第13類艦船(1)』。Ref.C13071983400。 
    • 『昭和15年1月~12月達/4月(1)』。Ref.C12070106900。 

脚注

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  1. ^ 昭和15年4月1日付 内令第210号。
  2. ^ 昭和16年7月10日付 内令第786号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C12070157500 で閲覧可能。
  3. ^ a b c 『日本海軍護衛艦艇史』、p. 99。
  4. ^ 昭和15年4月1日付 内令第197号。
  5. ^ a b c 昭和17年11月16日(月)海軍公報(部内限)第4243号 p.6」 アジア歴史資料センター Ref.C12070423600 『感状 田中海軍中佐ノ指揮セル 第四艦隊聯合特別陸戰隊 第一、第二及第三中隊 第三十二號哨戒艇 第三十三號哨戒艇 右協力舟艇 昭和十六年十二月二十三日未明敵米國ガ重要據點トシテ厳重ナル防備ヲ施セル「ウエーキ」島攻略作戰ニ從事シ折柄ノ強風怒濤ヲ冒シ熾烈ナル敵ノ防禦砲火ニ會スルヤ機ヲ失セズ決然擱座上陸ヲ敢行シテ激戰奮闘十數刻ノ後遂ニ敵ノ指揮官ヲ捕ヘテ全軍ヲ降伏セシメ克ク同島ヲ攻略シタルハ其ノ武勲顕著ナリト認ム 仍テ茲ニ感状ヲ授與ス 昭和十七年十月十六日 聯合艦隊司令長官 山本五十六』
  6. ^ 『日本の軍艦 第13巻』p190。
  7. ^ a b c d e f g h i j k #S15達4月(1)pp.2-3『達第七十二號 舊驅逐艦ヲ特務艦籍ニ編入シ左ノ通命名ス 昭和十五年四月一日 海軍大臣 吉田善吾|第一號哨戒艇(舊驅逐艦島風) 第二號哨戒艇(舊驅逐艦灘風) 第三十一號哨戒艇(舊驅逐艦菊) 第三十二號哨戒艇(舊驅逐艦葵) 第三十三號哨戒艇(舊驅逐艦萩) 第三十四號哨戒艇(舊驅逐艦薄) 第三十五號哨戒艇(舊驅逐艦鳶) 第三十六號哨戒艇(舊驅逐艦藤) 第三十七號哨戒艇(舊驅逐艦菱) 第三十八號哨戒艇(舊驅逐艦蓼) 第三十九號哨戒艇(舊驅逐艦蓬) 第四十六號哨戒艇(舊驅逐艦夕顔)』
  8. ^ チューク州観光局発行のDive-Mapより。
  9. ^ JACAR(「昭和19年2月7日〜昭和19年11月25日 第38号哨戒艇戦時日誌戦闘詳報(3)」 アジア歴史資料センター Ref.C08030626900 (防衛省防衛研究所)
  10. ^ “台湾・高雄に日本の「軍艦」祭る新堂完成 日本統治時代の軍港、今も追悼供養”. MSN産経ニュース. (2014年1月10日). オリジナルの2014年1月10日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20140110040525/http://sankei.jp.msn.com/world/news/140110/chn14011007390000-n1.htm 2014年1月12日閲覧。 

関連項目

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