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福地誠夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
福地ふくち 誠夫のぶお
海上自衛隊自衛艦隊司令当時の福地
生誕 1904年2月14日
日本の旗 日本 東京府
死没 (2007-07-26) 2007年7月26日(103歳没)
日本の旗 日本
所属組織 大日本帝国海軍
警備隊
海上自衛隊
軍歴 1922年 - 1945年(帝国海軍)
1953年 - 1954年(警備隊)
1954年 - 1961年(海自)
最終階級 海軍大佐(帝国海軍)
海将(海自)
除隊後 記念艦三笠」艦長
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福地 誠夫(ふくち のぶお、1904年明治37年)2月14日 - 2007年平成19年)7月26日[1])は、日本海軍軍人海上自衛官。最終階級は日本海軍では海軍大佐海上自衛隊では海将。退官後は記念艦三笠」艦長を務めた。

経歴

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戦前

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東京府出身。本籍は佐賀県麻布中学を経て、海軍兵学校第52期に入校したが、病のため留年し、1925年大正14年)7月に第53期で卒業した。同期に伏見宮博信王藤井斉らがいる。海軍砲術学校高等科学生を経て、海軍大学校甲種学生(35期)に進む。源田實は海大の同期生で、砲術畑の福地は源田の唱える航空優先論に反発し論争を繰り広げている。盧溝橋事件の勃発に伴い繰り上げ卒業となり、駆逐艦夕暮」の砲術長兼分隊長として出動し、柳川兵団杭州湾上陸援護作戦に従事した。海軍少佐進級と同時に戦艦伊勢」分隊長に補され、艦長・山口多聞のもと高角砲指揮官、副砲長を務めた。次いで第11戦隊の参謀に転補される。同戦隊は揚子江方面の警備と居留民保護が任務で、司令官は猛将として知られた近藤英次郎、次いで杉山六蔵であった。福地は部隊運用、陸軍との折衝などを担当している。

福地は一六会(米内内閣関係者の親睦会)会員であった。

1939年(昭和14年)12月、海軍省副官海軍大臣秘書官実松譲から引継ぐ。日独伊三国軍事同盟に反対し苦闘していた海相吉田善吾の補佐にあたるが、吉田は病に倒れ辞任。福地は吉田の辞表作成を介添えしている。引き続き及川古志郎嶋田繁太郎の下で秘書官を務め、太平洋戦争開戦を迎えた。

第一線勤務を望む福地は人事局と交渉するが、1942年(昭和17年)6月、支那方面艦隊参謀となり占領地政策の立案に追われた。続いて、人事局員となり海軍中央勤務に復帰している。福地は自らの起案に人間の生死が左右されることにつらい思いを抱いたことを述べている[2]。同職在職のまま太平洋戦争の敗戦を迎えた。

戦後

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解員(復員)者の引揚げ、機雷掃海・航路啓開業務に従事したのち海軍を離れる。公職追放となり[3]、民間の船会社に勤務していたが、海上自衛隊の前身である海上警備隊の創設に参加。海上幕僚監部調査部長としてアメリカ海軍の情報システムの導入に努めたほか、自衛艦隊司令や横須賀地方総監等の要職を歴任し、1961年(昭和36年)12月に退官した[4]

年譜

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退官後は「三笠」艦長を務めたほか、戦前の水交社の流れをくむ水交会の創設、『海軍兵学校出身者名簿』の編纂に尽力している。

親族

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著書

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  • 回想の海軍ひとすじ物語(光人社)

脚注

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  1. ^ “福地誠夫氏死去 元海上自衛隊横須賀地方総監”. 47NEWS. (2007年7月27日). https://web.archive.org/web/20141129042900/http://www.47news.jp/CN/200707/CN2007072701000591.html 2014年11月22日閲覧。 
  2. ^ 『回想の海軍ひとすじ物語』「日本海軍の終焉」
  3. ^ 公職追放の該当事項は「海軍大佐」。(総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、64頁。NDLJP:1276156 
  4. ^ a b 『官報』本紙第10500号(昭和36年12月18日)
  5. ^ 昭和12年7月29日 海軍辞令公報 号外第13号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072072100 
  6. ^ 昭和12年12月1日 海軍辞令公報 号外 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072072700 
  7. ^ 昭和12年12月1日 海軍辞令公報 号外 第99号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072072700 
  8. ^ 昭和13年8月1日 海軍辞令公報(部内限)号外第219号(防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072074200 
  9. ^ 昭和13年12月1日 海軍辞令公報 号外 第267号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072074700 
  10. ^ 昭和14年11月15日 海軍辞令公報(部内限)第402号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072076800 
  11. ^ 昭和14年12月11日 海軍辞令公報(部内限)第415号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072077200 
  12. ^ 昭和17年6月29日 海軍辞令公報(部内限)第890号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072085900 
  13. ^ 昭和17年11月1日 海軍辞令公報(部内限)第974号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072087700 
  14. ^ 昭和18年10月25日 海軍辞令公報(部内限)第1246号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072093900 
  15. ^ 昭和18年12月21日 海軍辞令公報(部内限)第1285号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072094900 
  16. ^ 昭和20年9月11日 海軍辞令公報 甲 第1908号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072107300 
  17. ^ 昭和20年12月21日 第二復員省辞令公報 甲 第18号 (防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C13072162100 
  18. ^ 『官報』本紙第8078号(昭和28年12月7日)
  19. ^ 『官報』本紙第14202号(昭和49年5月4日)
  20. ^ 父は戊辰戦争で討死した佐賀藩士。誠夫のために作成した初級士官教育資料・『百題短話』が好評で、海軍部内で広く読まれた。佐世保鎮守府人事部長、舞鶴鎮守府海兵団長。
  21. ^ 『日本陸海軍総合事典』では植村信男(26期)が義父とされるが、福地の自著『回想の海軍ひとすじ物語』では横須賀鎮守府参謀長・植村茂夫の娘と結婚したとある。なお仲人は植村茂夫の同期生枝原百合一である。

参考文献

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先代
庵原貢
自衛艦隊司令
第4代:1958年 - 1960年
次代
麻生孝雄
先代
寺井義守
横須賀地方総監
第5代:1960年 - 1961年
次代
麻生孝雄