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「地方病 (日本住血吸虫症)」の版間の差分

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{{medical}}
#REDIRECT [[風土病]]
{{Otheruses|'''甲府盆地における日本住血吸虫症撲滅の経緯'''|'''一般的な風土病としての広義の意味の地方病'''|風土病}}
[[file:Schistosoma japonicum (3) histopathology.JPG|right|thumb|240px|[[肝臓]]に蓄積した[[日本住血吸虫]]の卵殻。甲府盆地の住民を苦しめた。]]
[[file:KofuBonchi.jpg|thumbnail|240px|甲府盆地<small>(定期航空機より2006年11月13日)</small>左上方から中央部に弧状を描き下方へ流れるのが[[釜無川]]、右方向から左下方へ流れるのが[[笛吹川]]。]]
[[File:Dr. Sugiura-kenzo.JPG|right|thumb|240px|地方病(日本住血吸虫症)撲滅に尽力した杉浦健造医師の胸像<small>(2010年9月撮影)</small>]]

{{座標一覧}}

この項目では、'''日本住血吸虫症'''の'''[[山梨県]]での呼び名'''である'''地方病'''(ちほうびょう)について記述する。

この疾患は、[[住血吸虫|住血吸虫類]]に分類される[[寄生虫]]である、'''[[日本住血吸虫]]'''(にほんじゅうけつきゅうちゅう)の[[寄生]]によって発症する[[寄生虫病]]であり、[[ヒト]]を含む[[哺乳類]]全般の、[[血管]]内部に寄生[[感染]]する[[人獣共通感染症]]でもある<ref name="kansensho">[http://idsc.nih.go.jp/idwr/kansen/k06/k06_41/k06_41.html 国立感染症研究所 感染症情報センター 住血吸虫症状] 2011年9月5日閲覧</ref>。

病名及び原虫に[[日本]]の名が冠されているのは、疾患の原因となる[[病原体]](日本住血吸虫)の[[生体]]が、日本国内(現在の山梨県[[甲府市]])で、世界で最初に発見されたことによるものであって、日本国内固有の疾患というわけではない。日本住血吸虫症は[[中国]]や[[フィリピン]]を中心に年間数千人から数万人の新規感染患者が発生しており、[[世界保健機関]](WHO)<ref>世界保健機構、日本住血吸虫症の現状{{en icon}}「{{PDFlink|[http://www.wpro.who.int/nr/rdonlyres/10ed8efc-d063-4545-815e-0b9cd10314b3/0/chapter25.pdf Schistosomiasis japonica Then and Now]}}」</ref><ref>世界保健機構、日本住血吸虫症{{en icon}}「{{PDFlink|[http://www.who.int/bulletin/volumes/83/7/526arabic.pdf Field evaluation of a rapid ,visually-read colloidal bye immunofiltration assay for Schistosoma japonicum for screening in areas of low transmission]}}」</ref>によって2011年現在も、さまざまな対策が行われている<ref> [http://www.who.int/vaccine_research/diseases/soa_parasitic/en/index5.html WHO Parasitic Diseases Schistosomiasis japonica] WHO{{en icon}} 2011年9月30日閲覧</ref>。日本国内では[[1978年]](昭和53年)に、山梨県内で発生した新感染者確認を最後に発生しておらず、[[1996年]](平成8年)の山梨県における終息宣言をもって、日本国内での日本住血吸虫症は撲滅されている。日本は[[住血吸虫症]]を撲滅した世界唯一の国である<ref>小林(1998) pp.227-230</ref><ref group="†">日本は日本住血吸虫症(''Schistosomiasis japonica'')を撲滅した世界唯一の国である。林(2000) 序文pp.1-3</ref>。

日本国内での日本住血吸虫症流行地は、山梨県[[甲府盆地]]底部一帯、[[利根川]]下流域の[[茨城県]]及び[[千葉県]]の一部、[[芦田川]]流域の[[広島県]][[深安郡]]旧[[神辺町]]片山地区、[[筑後川]]下流域の[[福岡県]]及び[[佐賀県]]の一部などであり、当疾患はごく限られた特定の地域にのみ、かつて存在した[[風土病]]であった<ref>山梨地方病撲滅協力会編(1977) p.1</ref><ref>小林(1997) p.5、pp.9-17、pp.31-32</ref><ref>[http://health.goo.ne.jp/medical/search/10I40100.html gooヘルスケア 日本住血吸虫症] 2011年9月5日閲覧</ref>。中でも'''甲府盆地底部一帯'''は日本国内最大の罹病地帯<ref group="†">流行末期の1977年の段階ですら、厚生省によって指定されていた甲府盆地の有病地面積は日本国内の日本住地吸虫症有病地総面積の約6割に当たる11,764ヘクタールであった。泉(1979) P.44</ref>(以下、有病地と記述する)であり、この病気の原因究明開始から、原虫の発見、治療、予防、終息宣言に至る歴史の中心的地域であった。

当疾患の正式名称は'''日本住血吸虫症'''(''Schistosomiasis japonica'')<ref>林(2000) p.76</ref>であるが、山梨県では官民双方広く一般的に'''地方病'''と呼ばれており、原因解明への模索開始から終息宣言に至るまで100年以上の歳月を要するなど、罹患者や地域住民をはじめ、研究者や郷土医たちによる地方病との闘いの歴史は山梨県の近代医療の歴史でもある。

この項目では甲府盆地における'''地方病撲滅'''の経緯を記述する。なお、全体の時系列は[[#年表]]も参照のこと。

;日本住血吸虫の生態について
{{main|日本住血吸虫}}
;住血吸虫症全般の症状について
{{main|住血吸虫症}}

== 甲府盆地の奇病 ==
=== 水腫脹満 ===
[[File:Edema abdomen by Schistosomiasis Japonica.JPG|right|thumb|210px|地方病(日本住血吸虫症)により、腹水が溜まった重症患者。]]
この疾患がいつから山梨県で「地方病」<ref group="†">日本国内の他の流行地でも日本住血吸虫症とは呼ばず独自の呼び名で呼ばれていた。広島県片山地方では「片山病」、筑後川下流域の福岡県[[久留米市]]周辺では「マンプクリン」、筑後川対岸の佐賀県では単に「奇病」と呼ばれていた。しかし後に、福岡、佐賀の2県では病原が解明されてからは住血吸虫の英名''Schistosoma''を略した「ジストマ」と呼ばれるようになった。小林(1998) pp.9-19、pp.31-32、p.144</ref>と呼ばれるようになったのかを明確に記したものは無いが、[[明治]]20年代の始め頃には甲府盆地の地元開業医の間で「地方病」と称し始めていた<ref>田中寛 「宮入慶之助と中間宿主カイ発見」 『住血吸虫症と宮入慶之助-ミヤイリガイ発見から90年』 宮入慶之助記念誌編纂委員会編 (2005)、pp.13-21</ref>ことが、各種資料文献などによって確認することが出来る<ref>小林(1998) p.31</ref>。医学的に「日本住血吸虫症」と呼ばれるようになったのは、病原寄生虫が発見され、病気の原因が寄生虫によるものであると解明されてからのことである。

[[腹部]]が大きく膨らむ特徴的な症状から、古くは'''水腫脹満'''(すいしゅちょうまん)、'''はらっぱり'''、などと呼ばれていた「地方病」は、以下に示す文献から、少なくとも近世段階にはすでに甲府盆地で流行していたものと考えられている。

[[近世#日本|近世初頭]]に原本が成立した全五十九品(章)からなる[[兵学|兵書]]である、'''『[[甲陽軍鑑]]』'''品第五十七の文中に、武田家臣の[[小幡昌盛|小幡豊後守昌盛]]が重病のため[[武田勝頼]]へ暇乞いに来る場面があり、この中に、'''積聚の脹満'''(しゃくじゅのちょうまん)と書かれた記述がある。積聚(しゃくじゅ)とは腹部の異常を指す[[東洋医学]]用語であり、脹満(ちょうまん)とは、腹部だけが膨らんだ状態を意味している。積聚の脹満とはつまり、腹部の病気で腹が膨らんだ状態を描写したものである。さらに、籠輿([[駕籠|かご]])に乗って主君である勝頼の元へ出向いているのは、この時すでに昌盛が歩くことすら出来なくなっていたからであると考えられ、これらの記述内容は典型的な地方病の疾患症状に当てはまる<ref name="kouyougunkan">小林(1998) pp.6-8</ref>。
{{Quotation|''豊後、巳の年''([[1579年]]・[[天正]]7年)''[[霜月]]より煩、'''''積聚'''''(腹部)'''''の脹満'''''なれ共、籠輿に乗今生の御暇乞と申。勝頼公御涙を流され……''|[[甲陽軍鑑]]|品第五十七}}
[[File:Takeda24syou.jpg|right|thumb|210px|[[武田二十四将]]図(武田神社所蔵品)に描かれた[[小幡昌盛|小幡豊後守昌盛]]。下から2列目の最右に描かれた人物。]]
これは[[天目山の戦い]]直前の、天正10年[[3月3日 (旧暦)|3月3日]]([[ユリウス暦]]では[[1582年]]3月26日、現在の[[グレゴリオ暦]]に換算すると[[1582年]]4月5日<ref>[http://maechan.net/kanreki/ 【換暦】暦変換ツール]</ref>)、勝頼一行が[[新府城]]を捨て[[岩殿城]]へ向かう途中で立ち寄った、[[甲斐善光寺]]門前での出来事を記したものであり、小幡豊後守昌盛はこの3日後に亡くなっている。この『甲陽軍鑑』のくだりが、地方病を記録した最古の文献であると考えられている<ref>山梨地方病撲滅協力会編(1977) pp.5-6</ref><ref name="NHK">NHK甲府放送局、末利光 「地方病の庶民史」 山梨地方病撲滅協力会編(1977) pp.178-180</ref><ref>佐賀県保健環境部 「佐賀県の日本住血吸虫病 -安全宣言への歩み」1991年</ref>。その後[[江戸時代]]中期の[[元禄]]年間には、竜王村界隈(現在の[[甲斐市]]旧[[竜王町 (山梨県)|竜王町]])で「水腫脹満」の薬と称した民間療法薬が販売されていた伝承が残されている<ref name="kouyougunkan"/>。

地方病に罹患した患者の多くが初期症状として[[発熱]]、[[下痢]]を発症するが、初期症状だけの軽症で治まるものもいた。しかし感染が重なり慢性になった重症の場合、時間の経過と共に手足が痩せ細り、皮膚は黄色く変色し、やがて[[腹水]]により腹部が大きく脹れ、介護なしでは動けなくなり[[死亡]]した<ref>山梨地方病撲滅協力会編(1977) pp.105-106</ref>。

今日の医学的見地に当てはめると、肝臓などの臓器に寄生虫の虫卵が蓄積されることによる[[肝不全]]から[[肝硬変]]を経て、罹患者の血管内で次々に産卵される虫卵が、静脈血管に詰まって[[塞栓]]を起こすことにより門脈の[[血圧]]が上昇する。その結果[[門脈圧亢進症]]が進行し腹部静脈の怒張(腹水の原因)を起こし、最終的に[[食道静脈瘤]]の破裂といった致命的な事態に至る。これら種々の[[合併症]]が直接の[[死因]]である<ref name="kansensho"/><ref>石崎、加茂、井内「日本住血吸虫病の症状」 山梨地方病撲滅協力会編(1981) pp.100-198</ref>。また、肝硬変から[[肝臓がん]]へ進行するケースも多く、さらに肝臓などの内臓のみならず、血流に乗った虫卵が[[脳]]へ蓄積する場合もあり、[[片麻痺]]、[[失語症]]、[[けいれん]]などの重篤な[[脳疾患]]を引き起こすこともあった<ref>林正高「フィリピンの日本住血吸虫症・脳症型、肝脾腫型の臨床と同症に対する挑戦」 山梨地方病撲滅協力会編(1977) pp.151-156</ref><ref>有泉信「脳合併症(脳症型日本住血吸虫病)」 山梨地方病撲滅協力会編(1981) pp.199-207</ref><ref>林正高「急性および慢性日本住血吸虫症と脳機能障害との関係」 山梨地方病撲滅協力会編(1981) pp.208-247</ref>。

[[甲斐国]]の人々は、腹水がたまり太鼓腹になったら最後、決して回復せず確実に死ぬことを、幼い頃から見たり聞いたりしていた。また、発症するのは貧しい農民ばかりで、裕福層に罹患する者がほとんど無かったことから、多くの患者が医者に掛かることもなく死亡したものと推察されている。地方病の感染メカニズムを、知識として知ることの出来る現代の視点から見れば、農民ばかりが罹患した理由も明らかである。しかし、近代医学知識の無かった時代の人々にとっては原因不明の奇病であり、小作農民の生業病、甲府盆地に生まれた人間の宿命とまで言われていた。

やがて[[幕末]]の頃になると甲府盆地の人々の間で、この奇病に因んだ[[ことわざ]]が生まれた。

:'''水腫脹満 茶碗のかけら'''
すなわち、この病に罹ると、割れた茶碗同様、役に立たない[[廃人]]になり世を去るという意味<ref>泉(1979) pp.15-17</ref>の'''ことわざ'''である。

また、発症する地域がある程度限定されていたことから、流行地へ嫁ぐ娘の心情を嘆く俗謡のようなものが、幕末[[文久]]年間の頃より唄われ始めた<ref>山梨地方病撲滅協力会編(1977) pp.5-6</ref>。

:'''嫁にはいやよ野牛島'''(やごしま)'''は、能蔵池葭水'''(のうぞういけあしみず)'''飲む辛さよ'''({{ウィキ座標|35|40|6.4|N|138|28|47.2|E|region:JP|地図|name=能蔵池}})<ref group="†">野'''午'''島ではなく野'''牛'''島と書いて「や'''ご'''しま」と読む難読地名で、現在の[[南アルプス市]](旧[[八田村]]中央部)の地名。能蔵池とは現在も同地に現存する小さな池で、当時この病の原因が飲料水によるものとの風説があった。</ref>
:'''竜地'''(りゅうじ)'''、団子'''(だんご)({{ウィキ座標|35|41|43.2|N|138|29|54.7|E|region:JP|地図|name=竜地・団子}})<ref group="†">現在の[[甲斐市]](旧[[双葉町 (山梨県)|双葉町]])の地名。</ref>'''へ嫁行くなら、背負って行け棺桶'''
:'''中の割'''(なかのわり)({{ウィキ座標|35|41|9.6|N|138|26|32.5|E|region:JP|地図|name=中の割}})<ref group="†">現在の[[韮崎市]]旭町及び大草町付近。</ref>'''に嫁行くなら、買ってやるぞえ経帷子に棺桶'''

このような、哀しい[[口碑]]、[[民謡]]が有病地に残されている<ref name="kouyougunkan"/><ref name="hayashi2000">林(2000) p.70</ref>。

=== 村を捨てた人々 ===
[[File:Schistosoma japonicum (2) histopathology.JPG|right|thumb|210px|大腸粘膜に蓄積した日本住血吸虫の卵殻。]]
[[1874年]](明治7年)11月30日、甲府盆地の南西端に程近い宮沢村と大師村(現在の[[南アルプス市]]大明小学校付近、{{ウィキ座標|35|35|26.4|N|138|28|30.1|E|region:JP|地図|name=宮沢・大師村}})2村の戸長を兼ねていた西川藤三郎は、49戸の村の世帯主を召集し[[離村]]についての提案を行った。同村付近は甲府盆地でも最も[[標高]]の低い低湿帯で、水腫脹満、すなわち地方病の[[蔓延地]]であった。当時この奇病の原因は解明されてはいなかったが、標高の高い高台の村々では、この病気がほとんど発生していないことを農民たちは知っており、先祖代々住み慣れた家や田畑を捨て、新たに開拓から始めるのは辛いが、このままでは村は全滅してしまうと、苦渋の決断をした。

[[明治新政府]]に入って間もないこの頃は、居住地を捨てるなどということが許されない[[封建制度]]から抜け出せない時代であり、一村移転などという住民運動が認められる訳はなかった。それに対し、身近な人々が次々に奇病に苦しみ死んでいく凄惨な状況に村人の離村への決意は固く、離村陳情書を毎年根気強く提出し続けた。明治新政府に村人の願いが通じ村の移転が聞き入れられたのは、30数年も経過した明治末年のことであった<ref>泉(1979) pp.88-91</ref>。

地方病を理由に村ごと移転したのは後にも先にもこの1例のみである。地方病は甲府盆地の隅々に蔓延しており、他の甲府盆地の住民は正体が分からず目に見えない地方病の恐怖に脅えながら暮らしていた。

== 病因解明期 ==
原因不明の奇病であった地方病も、明治中期から大正初期にかけて、虫卵の発見、病原体(日本住血吸虫)の発見、感染経路の解明、中間宿主(ミヤイリガイ)の発見と、病気の原因となるメカニズムが比較的短期間に解明されていった。これらが全て日本人の手によって解明されたことは特筆すべきことである<ref>多田功 [[九州大学]][[名誉教授]] 「{{PDFlink|[http://www.jstage.jst.go.jp/article/tmh/36/3SUPPLEMENT/S49/_pdf/-char/ja/ 日本における寄生虫防圧とその特質]}}135kバイト」 日本熱帯医学会 Tropical Medicine and Health Vol.36 №3 Supplement 2008 pp.46-68</ref>。
=== 原因解明へ向けた取り組み ===
==== 解明への端緒 ====
[[File:Map attached to the petition of 1881.JPG|right|thumb|210px|御指揮願いに添付された春日居村の略図。]]
[[1881年]](明治14年)8月27日、この奇病の原因解明への端緒となる嘆願書が提出された。[[東山梨郡]]春日居村(現在の[[笛吹市]][[春日居町]])の戸長である田中武平太により、当時の[[山梨県知事|山梨県令]][[藤村紫朗]]<ref group="†">着任当時「山梨権令」、明治7年(1874年)10月より「県令」、明治19年、職名の改称により「知事」。</ref>宛に提出された嘆願書の'''水腫脹満に関する御指揮願い'''であった<ref name="minaiA">薬袋勝 「山梨県の住血吸虫の防圧」 『住血吸虫症と宮入慶之助-ミヤイリガイ発見から90年』 宮入慶之助記念誌編纂委員会編 (2005)、p.31</ref>。同村では古くから地方病が流行していたが、戸数約60戸ある村の東西(両端)に病気は無く、中央部にあたる小松地区({{ウィキ座標|35|39|50.3|N|138|39|41.3|E|region:JP|地図|name=春日居小松地区}})だけに病気があることから、発生地域を示した村の略図を添えて県に請願を提出した<ref name="hayashi2000"/><ref>小林(1998) pp.19-22</ref>。「''嗚呼哀しきかな。困苦見るを忍びず''」と書かれた、この嘆願書は村人の壮絶な叫びであった<ref>小林照幸 「住血吸虫研究史における人間ドラマ 取材雑感から」 『住血吸虫症と宮入慶之助-ミヤイリガイ発見から90年』 宮入慶之助記念誌編纂委員会編 (2005)、pp.223-224</ref>。

[[1884年]](明治17年)、県より派遣された医師により、小松地区の患者の診察、及び[[飲料水]](井戸水)などの住環境を含む調査が行われたが病気の原因は不明であった<ref>山梨地方病撲滅協力会編(1977) pp.7-8</ref>。[[1887年]](明治20年)になり、長町耕平県病院長と医員により当時一般化したばかりの[[検便|糞便検査]]が行われ、その結果ある[[虫卵]]の発見に至り一種の[[鉤虫症|鉤虫]]であろうと推察された<ref name="bokumetsu1981">山梨地方病撲滅協力会編(1981) p.1</ref>が、これが何の卵なのかはもちろん、当疾患との関連性もこの段階では分からなかった<ref>小林(1998) pp.25-28</ref>。

また同時期の[[1886年]](明治19年)、[[徴兵検査]]のために山梨県を訪れた[[軍医]]石井良斉により、特定の有病地の村から来た20歳前後の男性の大半が、身長が140センチ強ほどの小学生程度しかなく、腹部は腹水により腫れ、手足は痩せ細り顔面は蒼白であることが判明し、明らかに何らかの栄養障害があるものと思われた<ref>山梨地方病撲滅協力会編(1977) p.8</ref><ref name="NHK"/>。これほどまでに明確な発育不良者が特定の地区に限って集団で発生していることは、日本各地を調査してきた軍医石井にとって驚くべきことであった。時代は[[日清戦争]]直前の[[富国強兵]]の世情であり<ref group="Schistosoma booklet">[[1917年]](大正6年)発行の小冊子『俺は地方病博士だ』でも、地方病は人口の減少や発育不良を招く病であると説き、{{Quotation|だから地方病は貧國弱兵病だ。こんな病氣が蔓延て來ると國が貧乏になって弱くなって、獨逸どころか支那と戦争も出來ない樣になるかも知れない。<br />だからこんな病氣の蟲は早く退治して仕舞ねばならぬ。|『俺は地方病博士だ』pp.4-5}}としている。</ref>、石井からの報告を受けた[[軍部]]は事態を重く見て、藤村紫朗山梨県知事へ原因解明の要請がされた<ref name="hayashi2000"/>。

==== 勇気ある遺言 ====
[[File:Monument of Sugiyama-Naka.JPG|right|thumb|210px|解剖が行われた盛岩寺(甲府市向町)境内に建つ杉山なかの紀徳碑。解剖後、当時の東八代郡同盟医師会により建立された。<small>(2011年5月撮影)</small>]]
石和(現在の笛吹市[[石和町]])在住の医師である吉岡順作はこの奇病に関心を持ち、患者を詳細に診察し、近代西洋医学的な究明を試みた最初期の医師である<ref>小林(1998) p.35</ref>。この病気は発病初期に腹痛を伴う[[血便]]、[[黄疸]]、そして肝硬変をおこし、最終的に腹水が溜まる臨床症状から考えると、肝臓や脾臓に原因があることは明らかであった。しかし、酒を飲まない小児であっても発病するので[[アルコール性肝疾患|アルコール性肝硬変]]とも異なっていた。吉岡は患者の発生する地域分布図(地図)を作成したところ、[[笛吹川]]の[[支流]][[流域]]に沿った形で罹患者が分布していることが分かった。その上、病気のある地区では川遊びをする子供たちに対して「きれいだからと言って[[ホタル]]を取ると、腹が太鼓のようにふくれて死んでしまう」、「[[セキレイ]]を取ると腹がふくれて死ぬ」<ref>泉(1979) pp.84-87</ref>などの戒め、口承が残っていた。

これらのことから吉岡は、この奇病と[[河川]]が何らかの形で関係しているであろうことを突き止めた。しかしそれでも、病気の原因は分からなかった。万策尽きた吉岡はついに、死亡した患者を[[病理解剖]]して、病変を直接確かめるしかないと決断したが、当時の人々にとって解剖はおろか、[[手術]]によって開腹するなど世にも恐ろしいことと思われており、普段は威勢のよい男性でも死後とはいえ、自分の体を解剖されることには極度に脅えたと言われている<ref name="kobayashi1998">小林(1988) pp.33-34</ref>。実際に山梨県では明治中期の当時において解剖事例は皆無であった<ref name="kobayashi1998"/>。

[[1897年]](明治30年)5月下旬、1人の末期状態の女性患者が[[献体]]を申し出た。甲府と石和の間に広がる水田地帯であった[[西山梨郡]]清田村(現在の[[甲府市]]向町)在住の農婦、'''杉山なか'''(当時54歳)である<ref>薬袋勝 「山梨県の住血吸虫の防圧」 『住血吸虫症と宮入慶之助-ミヤイリガイ発見から90年』 宮入慶之助記念誌編纂委員会編 (2005)、p.31</ref><ref>小林照幸 「住血吸虫研究史における人間ドラマ 取材雑感から」 『住血吸虫症と宮入慶之助-ミヤイリガイ発見から90年』 宮入慶之助記念誌編纂委員会編 (2005)、pp.221-227</ref><ref> [http://www.city.kofu.yamanashi.jp/favorite/tobidase/08sep.htm 甲府市HPとびだせ市民レポーター] -2008年9月号 2011年7月30日閲覧</ref>。なかは40歳を過ぎた頃より体調に異変を来たし、地方病特有の病状が進行し、典型的な水腫症状をおこした。[[穿刺]]による腹水除去が吉岡医師によって数回試みられたが効果が無く、やがて手の施しようのない状態に陥った。なかは「''順作先生、私の腹の中にある地方病は何が原因なのでしょうか''」と尋ねたが、原因が分からない吉岡は、「''肝臓に原因があることは間違いないのだが、詳しいことは開腹して肝臓を直接確かめるしかないのです''」と答えるしかなかった<ref name="kobayashikaibo">小林(1998) pp.34-39</ref>。
{{Quote box
| align=left
| width = 22%
| quote = 「私はこの新しい御世に生まれ合わせながら、不幸にもこの難病に罹り、多数の医師の仁術を給わったが、病勢いよいよ加わり、遂に起き上がることも出来ないようになり露命また旦夕に迫る。私は齢50を過ぎて遺憾はないが、まだこの世に報いる志を果たしていない。願うところはこの身を解剖し、その病因を探求して、他日の資料に供せられることを得られるのなら、私は死して瞑目できましょう。」
| source = 死体解剖御願、杉山なか。明治30年5月30日。<ref group="†">『死体解剖御願』は当時の農民にしては記述内容の知的水準が高く、毛筆の筆跡も達筆であったことから、なか本人の承諾を得た上で吉岡をはじめとする関係者によって書かれた可能性が指摘されている。林(2000) pp.73-74</ref><ref>泉(1979) pp.94-98</ref><ref name="NHK"/><ref group="Anatomy Original offer">泉(1979)pp.73-74での現代訳から一部改変引用。死体解剖御願、原文、以下引用。山梨地方病撲滅協力会編 『地方病とのたたかい』 平和プリント社 、pp.118-119より。{{Quotation|死体解剖御願<br />西山梨郡清田村第弐百拾六番<br />戸主 杉山源吉養母<br />杉山なか<br />当五拾四年<br /> 私儀太平ナル御代ニ生存スルコト已ニ数十星霜ヲ経過スルモ素ヨリ無教育ナルヲ以テ未ダ曽テ君恩ノ万分ノ一ダモ報ゼザルニ一朝病ノ為不帰ノ身トナランコトハ遺憾至極ト存候然ルニ不幸ニモ昨二十九年六月頃ヨリ疾病ニ罹り悩ムコト甚シ、依ツテ早速ニ某医ヲ迎ヘ診ヲ乞ヒタルニ病名サヘ指示セザルヲ以テ其后又二三某医ヲ乞ヒタルニ是又前同様莫トシテ一ツモソノ要領ヲ得ズ、遂ニ荏苒時日ヲ経過シ同年十一月ニ至ルニ病勢ハ漸々増進スルノミニテ毫モ減退セザル故最后諦メノ為同月下旬貴院ノ温厚篤実ナル御診察ヲ仰ギ充分ナル御鑑定ヲ得タルニ豈図ンヤ当地ノ近傍有名ナル地方病ニシテ未ダ病原ノ発見セダル最モ恐ルベキ疾病ナリ、是迄数多ノ該患者発見スルモ病原不明ノ為十中八、九ハ鬼籍ニ転ヅルノ不幸ニ接シタリト、妾事モ発病臥床最早殆ト一ケ年間ノ敷ニ及ブモ素ヨリ病原不明不治ノ病ナルヲ以テ如何ニ先生ノ百方御尽力且ツ御治療ヲ受クルモ日々衰弱ヲ増進スルノミニシテ到底恢復ノ見込無キハ勿論不日死亡ノ不幸ニ陥ルハ目前ナルヲ以テ、死后ハ是共貴院ニ於テ解剖被成下充分ノ病原発見セラレ以后該地方病ニ罹リ悩ム処ノ数多ノ諸氏ヲ助ケ、医学上永遠ニ妾ノ寸志ヲ遺保セランコトヲ懇願至候。依ツテ本日ヲ以ツテ戸主夫并ニ親属立会連署ノ上御願申上候也。

明治三十年五月三十日<br />右戸主 杉 山 源 吉<br />右夫 杉 山 武 七<br />右本人 杉 山 な か<br />右親属(原文ママ) 向 山 太 平<br />右親属(原文ママ) 戸 沢 近 太 郎|杉山なか 『死体解剖御願』 1897年5月30日}}</ref>原文}}

吉岡の献身的な治療に全幅の信頼を寄せていたなかは、''何故[[甲州]]の民ばかり、このような惨い病に苦しまなければならないのか''、と病を恨みつつも、この病気の原因究明に役立ててほしいと、自ら死後の解剖を希望することを家族に告げる。最初は驚いた家族であったが、なかの切実な気持ちを汲んで同意し吉岡に伝えた。当時としては生前に患者が自ら解剖を申し出ることは椿事であり<ref name="kobayashi1998"/>、あまりのことに号泣した吉岡であったが、家族とともに彼女の願いを文章にし、明治30年5月30日付けで県病院(現在の[[山梨県立中央病院]])宛に'''『死体解剖御願'''(おんねがい)'''』'''を親族の署名と共に提出した。献体の申し出を受けた県病院長、県医師会は驚きながらも杉山家を訪ね、命を救えなかった医療の貧困を直接なかに詫び、涙ながらに何度も感謝の言葉をなかに伝えた<ref name="kobayashikaibo"/>。

なかは解剖願いを提出した6日後の6月5日に亡くなり、遺言通り翌6月6日、県病院から派遣された下平用彩医師執刀のもと<ref group="†">執刀した下平は、おびただしい虫卵を目の当たりにし「その原虫を発見せざるが故に十分の判定下し難きも、本病はおそらく一新寄生虫の所為に期すべし」と述べている。山梨地方病撲滅協力会編(1977) p.10</ref>、杉山家の[[菩提寺]]である'''盛岩寺'''(せいがんじ、現在の甲府市向町、{{ウィキ座標|35|38|42.1|N|138|37|2.4|E|region:JP|地図|name=盛岩寺}})の境内で解剖が行われた<ref>[[山梨日日新聞社]]編 「地方病100年戦争 献体女性の遺志継ぎ闘う」 『山梨20世紀の群像』 2000年10月6日第1刷発行 pp.107-109 ISBN 4-89710-709-1</ref>。地方病患者の、という以前に山梨県では初の事例<ref name="kobayashi1998"/>となる病理解剖であったため、甲府近隣から40名を越す医師、開業医が参加した。この様子は翌々日の6月8日付け[[山梨日日新聞]]の紙面において、東山梨東八代医師会会員総代'''吉岡順作'''本人による長文の[[弔辞]]とともに報じられている<ref>山梨地方病撲滅協力会編 (1977)、p.197</ref>。

遺体から[[肝臓]]、[[胆管]]、[[脾臓]]、[[腸]]の一部が摘出されアルコール漬けにされ、参加した医師たちは肥大した肝臓の表面に白い斑点が多数点在するのを確認した。通常の肝硬変と異なり肝臓の表面には白色を帯びた繊維様のものが付着し、肥大化した[[門脈]]には多数の[[結塞]]部位が認められた<ref name="minaiA"/><ref>小林(1998) pp.39-41</ref>。この'''門脈の肥大化'''にこそ、この疾患の重要な手がかりが隠されていた。盛岩寺の屋外解剖に参加した医師の中に、後年この奇病の原因解明に大きな役割を果たすこととなる、若き日の'''三神三朗'''医師がいた。

==== 解明に向けた機運の高まり ====
[[File:Dr. Saburo Mikami.JPG|right|thumb|210px|三神三朗]]
[[中巨摩郡]]大鎌田村二日市場(現在の甲府市大里町)で[[内科]]を開業していた三神三朗<ref group="†">三神三朗の子孫は2011年現在も同所(甲府市大里町)で開業する三神脳外科内科医院である。</ref>は、済生学舎(後の[[日本医科大学]])卒業後、山梨へ帰郷し開業したばかりで、この解剖の当時弱冠24歳であった<ref>小林(1998) pp.42-43</ref>。三神内科({{ウィキ座標|35|37|19.7|N|138|33|52.7|E|region:JP|地図|name=三神内科}})のある大鎌田村は甲府盆地底部のほぼ中央に位置しており、地方病の有病地のひとつでもあった。三神内科では[[老衰]]以外の患者の死因は、ほとんどがこの奇病だった。

三神は県病院の[[病理]]技師から、「''杉山なかの肝臓には変形した虫卵の固まりを中心とする多数の[[結節]]が出来ており、同様の虫卵と結節は[[腸粘膜]]にも認められ、虫卵の大きさは従来から知られている寄生虫の[[十二指腸]]虫卵(鉤虫)より明らかに大きい''」と知らされ、この奇病はまだ知られていない[[新種]]の寄生虫が大きく関与していることを確信した<ref name="bokumetsu1981"/>。当時は高価であったドイツからの輸入品である[[顕微鏡]]を自費で購入すると、三神は罹患した患者の便を集め、いくつかの便から今までに見たことの無い大型の虫卵を見つけ、「肝臓脾臓肥大に就て」の題で[[1900年]](明治33年)発行の『山梨県医師会会報第3号』に報告した<ref>薬袋勝 「山梨県の住血吸虫の防圧」 『住血吸虫症と宮入慶之助-ミヤイリガイ発見から90年』 宮入慶之助記念誌編纂委員会編 (2005)、pp.31-32</ref><ref>泉(1979) pp.99-103</ref>。同会報には杉山なかの解剖を執刀した下平用彩医師、さらに軍医石井良斉による同疾患に関する報告もされたことから、俄然この奇病の原因解明に向けた機運が高まり、県医学界の重要研究課題となっていく。
[[File:Yamanashi Prefectural hospital 1887.JPG|left|thumb|210px|明治20年頃の山梨県病院]]
複数の患者から見つかった虫卵により寄生虫病である可能性が高くなり、[[1902年]](明治35年)4月、山梨県医学会は県内外の研究者を県病院({{ウィキ座標|35|39|35.9|N|138|34|4.1|E|region:JP|地図|name=旧山梨県立病院}})に招いて『山梨県に於ける一種の肝脾肥大の原因に就て』と題した討論会を開いた<ref>小林(1998) pp.50-53</ref>。

当時の日本では寄生虫に関する研究は始まったばかりであったが、佐賀県下の筑後川流域で同様の疾患を研究していた[[長崎医科大学 (旧制)]]教授の[[栗本東明]]ら、寄生虫疾患に取り組む病理学研究者が参加した。三神は罹患者の便から発見した新しい虫卵の発表を行い、この虫卵を産む母虫こそ地方病の原因ではないかと主張した。しかし、肝臓組織内部で見つかった虫卵と、消化器官を通じて排泄される便中にある虫卵との同一性を指摘され、両者を関連付ける直接的な証拠を持っていなかったため返答に窮した。

討論会では杉山なかの解剖以降に行われた数例の解剖所見も発表され、肝臓組織内に問題の虫卵が[[樹状]]に並んでいたことから、虫卵の母虫は恐らく肝臓内で[[産卵]]したのであろうという意見が出された。だが、肝臓や脾臓の肥大原因と正体不明の寄生虫の虫卵による、この疾患との因果関係についての意見一致には至らなかった<ref name="mikami2000">林(2000) pp.74-76</ref>。

この討論会の参加者の中に、後に三神と共にこの寄生虫病の病原である'''日本住血吸虫'''を発見する'''{{仮リンク|桂田富士郎|pl|Fujirō Katsurada}}'''がいた。

=== 日本住血吸虫の発見 ===
==== 桂田富士郎と三神三朗 ====
[[File:Mikami-internal medicine in Kofu-city.JPG|right|thumb|210px|日本住血吸虫が発見された甲府市の三神内科<small>(2010年9月撮影)</small>]]
桂田富士郎は[[加賀国]][[大聖寺藩]](現在の[[石川県]][[加賀市]])出身の[[病理学者]]で、[[岡山医科大学 (旧制)|岡山医学専門学校]](現在の[[岡山大学]])教授の当時35歳であった。また、桂田は当時[[岡山県]]西部で流行していた、別の寄生虫病([[肝臓ジストマ]])の研究者でもあった<ref>当時の岡山県西部では肝臓ジストマが流行していた。小林(1998) p.50</ref>。

[[1904年]](明治37年)春、前述した山梨での討論会で三神と意気投合した桂田は、岡山から山梨の三神宅へ赴き、両名による甲府盆地周辺の罹患者の診察及び糞便検査が行われ、数名の便から三神が以前に発見した新種と思われる虫卵を再確認した<ref name="mikami2000"/>。また、県病院より提供された杉山なか等3名の病理標本を顕微鏡の倍率を上げ改めて詳細に検証し、大きさや形状から判断してこれら3例の肝臓にある虫卵も、糞便検査で見つかった卵と同一であると確信した<ref>小林(1998) pp.55-58</ref>。

桂田と三神はこの疾患の患者に[[下剤]]を使用すると虫卵が多く見つかること、また下剤を使っても卵のみで寄生虫本体が排出されないことから、この寄生虫が胆管や腸などの[[消化器官]]に寄生する従来のタイプではなく、消化器官に関係する他の臓器や器官、たとえば血管内部に寄生するタイプではないかと考え、腸管と肝臓を結ぶ血管である門脈を疑った。もし罹患者の門脈の中から、この卵を産む新種の寄生虫本体を見つけることが出来れば、解決への大きな前進になると考えた。

==== ネコから見つかった新種の寄生虫 ====
[[File:Katsurada.JPG|right|thumb|210px|桂田富士郎]]
この奇病、日本住血吸虫症はヒトだけではなく他の哺乳類にも発症する。そのため甲府盆地では農耕で使うウシなどの[[家畜]]、さらには[[野良犬]]なども腹部が大きく膨らんでいる姿が多数見られた。

このことから桂田と三神は、腹部が腫れた同疾患の疑いが濃い「姫」と名付けられていた三神家の雌の飼い[[ネコ]]を解剖することにした。明治37年4月9日、三神の診療所でネコは解剖されたが、多忙な桂田は岡山医大での予定が詰まっており、詳細な検証は時間的に不可能であったため、摘出した肝臓と腸を一旦アルコール液に保存して岡山の研究室へ持ち帰った。

一ヶ月半後の同年5月26日、ようやく時間の出来た桂田はアルコール液に保存しておいたネコの肝臓門脈内から約1センチほどの新種の寄生虫(死骸)を見つけた。しかし欠損部分があるなど不完全であり、何よりも生きた虫体を確認することが重要だと、桂田は生体での確認を行うための検証に必要な器具を持参し、7月下旬に再度、甲府の三神を訪ねた。

[[File:Schistosoma.svg|left|thumb|150px|雌雄抱合する日本住血吸虫のスケッチ]]
桂田から再解剖を行う旨の連絡を受けていた三神は同様のネコを用意しており、門脈に狙いを定め解剖を行った。予想は的中し、両名はネコの門脈内から、雄24匹、雌8匹、そのうち[[雌雄抱合]]しているもの5対という大量の生きた虫体を発見した<ref name="bokumetsu1981"/><ref>小林(1998) pp.57-69</ref><ref>薬袋勝 「山梨県の住血吸虫の防圧」 『住血吸虫症と宮入慶之助-ミヤイリガイ発見から90年』 宮入慶之助記念誌編纂委員会編 (2005)、p.32</ref>。[[1904年]](明治37年)7月30日のことで<ref group="†">三神脳外科内科医院の中庭に『明治37年7月30日此の地に於いて初めて日本住血吸虫が発見された 三神三朗』と彫られた石碑が建立されている。薬袋勝 「山梨県の住血吸虫の防圧」 『住血吸虫症と宮入慶之助-ミヤイリガイ発見から90年』 宮入慶之助記念誌編纂委員会編 (2005)、p.32</ref>、後に桂田によって'''日本住血吸虫'''(にほんじゅうけつきゅうちゅう、[[学名]]:''[[:en:Schistosoma japonicum|Schistosoma japonicum]]'')と名付けられる、この奇病の病原寄生虫発見の瞬間である<ref>林(2000) pp.75-76</ref><ref>[http://iryo.sanyo.oni.co.jp/rensai/d/c2010031614370128 第6回 岡山医専教授 桂田富士郎 日本住血吸虫発見 世界注目の奇病解明 山陽新聞社 岡山医療ガイド] 2011年9月9日閲覧</ref>。

桂田は翌月8月13日の官報6337号に新寄生虫発見の報告を行い、同様に[[ドイツ語]]でも論文を発表し、この寄生虫が血管内に住み日本で発見されことから、新種として''Schistosomum japonicum 日本住血吸虫''と命名した(のちに''Schistosoma japonicum''と改名)。なお、翌年の[[1905年]]にドイツ人医師のカットーが、[[シンガポール]]で罹患者の遺体から同じ寄生虫を発見し、カットー吸虫と命名したが、前年の桂田のドイツ語論文報告が先であり、命名法の規則によって桂田が第一発見者であると世界の医学界で追認されている。新寄生虫発見の偉業、第一発見者という栄誉は、三神の理解と協力なくしてはなし得ず、桂田は論文の中で三神三朗に対し最大級の賛辞の言葉を記している<ref>[http://www.ibaraisikai.or.jp/information/rekisi/h16_04_1/160401.htm 日本住血吸虫発見100年記念桂田富士郎先生の顕彰 小田晧二 岡山医学同窓会報(岡山大学)96号] 2011年9月9日閲覧</ref>。

日本住血吸虫は腸から肝臓へ血液を送る門脈の中で、雄が雌を抱きかかえた状態で寄生し、雌は門脈の中で産卵する。血管中(血液の中)に産まれたはずの卵が、消化器系を経由し糞便の中に出てくる理由は、腸管近くの腸間膜血管に運ばれた卵が[[タンパク質分解酵素]]を放出することによって周囲の腸壁を溶解し卵ごと腸内に落ちるからである。その一方で血流に乗った虫卵は肝臓に蓄積され、同様に放出されたタンパク質分解酵素により肝臓内に結節が形成され繊維化し、やがて長期間にわたる虫卵の蓄積で肝硬変を発症する。このように日本住血吸虫は腸内や胆管などの消化器官に寄生して産卵する従来から知られていた他の寄生虫とは全く異なる寄生様式を持っていることが分かった<ref>安羅岡一男 「第2節 発育・発育史、V終宿主体内発育」 山梨地方病撲滅協力会編(1981) pp.5-18</ref><ref name="kansensho"/>。

虫体の発見によって、この奇病が寄生虫病であると確定はしたが、体長1センチから3センチほどもある日本住血吸虫のヒトへの感染経路、しかも消化器系ではなく血管内に寄生する生態メカニズム([[生活史 (生物)|生活史]])の解明が次の課題であった。

=== 感染経路の解明と中間宿主の特定 ===
==== 泥かぶれ ====
[[File:Nozo-Ike Pond.JPG|right|thumb|230px|能蔵池(南アルプス市、野牛島)<small>(2011年8月撮影)</small>]]
寄生虫病であることが確定した後、ヒトへの[[感染経路]]の解明が進められた。感染経路には2つの[[仮説]]があり、ひとつは飲料水からの[[経口]]感染説、もうひとつが[[皮膚]]からの[[経皮]]感染説であった。甲府盆地では前述した「''能蔵池葦水飲む辛さよ''」と民謡に唄われたように、飲料水から罹ると信じられていた地域がある一方で、皮膚からの感染を疑う農民も少なからずいた。有病地では[[水田]]や川に入ると足や手などが赤く[[かぶれ|かぶれる]]ことがあり、地域ではこれを'''泥かぶれ'''と呼び<ref name="horimi">堀見利昌 「山梨県の地方病概観」 山梨地方病撲滅協力会編(1981) pp.47-72</ref>、この奇病を発症する者は、必ず泥かぶれを経て罹患することを農民は経験的に知っていた<ref>泉(1979) p.105</ref><ref group="Schistosoma booklet">{{Quotation|昔から「病は口より入る」と言ふ諺があるが地方病では「病は皮膚より入る」と言ふのが正しい。決して口からは入らぬ。<br />何でも病蟲の居る水の中へ三四十分間入って居ると、病蟲はチャンと皮膚を喰破つて身體の中へ入るのだ。|『俺は地方病博士だ』p.5}}</ref>。しかし人は水を飲まなければ生きてゆけず、農民に「田んぼに入るな」と言うのは仕事を奪うことと同じである。農業が嫌であっても転職することが難しい、[[職業選択の自由]]など実質的に無い時代であり、他に収入源の無い[[小作人|小作農民]]は奇病の感染を恐れつつも、半ば諦観を持って水田での労働に就くという、いわば命懸けの米作りを強いられていた<ref>小林照幸 「住血吸虫研究史における人間ドラマ 取材雑感から」 『住血吸虫症と宮入慶之助-ミヤイリガイ発見から90年』 宮入慶之助記念誌編纂委員会編 (2005)、p.223</ref>。

東山梨郡祝村(現在の[[甲州市]][[勝沼町]])出身で、[[東京大学]]医学部卒の内科医局員であった'''土屋岩保'''(いわお)は、[[1905年]](明治38年)7月に甲府盆地で哺乳動物の調査を行った。土屋は解剖したイヌやネコの門脈内にのみ、多数の日本住血吸虫の成虫を見出し、門脈以外の血管には見られなかったことから、「もし、経皮感染するのであれば門脈以外の血管にもいるはずであり、門脈のみに日本住血吸虫がいるのは、飲料水や食物を通じて原因となる寄生虫卵や幼虫が口から入り、[[胃]]に入る前の[[食道]]や[[咽頭]]などの内壁から進入して門脈に至るからではないか」と、経口感染説を主張した。土屋の意見には多くの医学者、研究者が賛同した。[[黄熱病]]や[[マラリア]]など[[蚊]]に刺されることによって発病する感染症、寄生虫病を除けば、当時の寄生虫学において知られていた感染経路は、十二指腸虫などのように、ほとんどが飲食物を介して経口感染するものばかりであった。この寄生虫学会内の既成概念のようなものも、土屋の主張を支持することに働いた<ref>小林(1998) pp.72-73</ref>。

==== 飲み水からか? 皮膚からか? ====
[[file:Schistosomiasis Life Cycle.png|thumb|260px|住血吸虫のライフサイクル]]
[[File:Fujinami.JPG|Akira Fujinami|right|thumb|210px|藤浪鑑]]
確証は無いものの経口感染説が広がり始め、甲府盆地の有病地では川や用水の水をそのまま飲むことを固く禁じ、飲料水の[[煮沸]]が義務付けられた。しかしそれにも関わらず新たな感染者が次々に発生する状況に変化が無いことから、経口感染説は間違っているのではないかとの疑問が出始めた。有病地の住民をはじめ行政関係者からも、飲み水からなのか、皮膚からなのか、はっきりさせてほしいとの声が大きくなり、2人の研究者による独創的な[[動物実験]]が[[1909年]](明治42年)6月に、広島片山地区(現在の広島県[[福山市]])の有病地において行われた。日本住血吸虫の発見者である桂田富士郎はイヌとネコを使って、[[京都帝国大学]]医学部教授の'''{{仮リンク|藤浪鑑|pl| Akira Fujinami}}'''は片山地方の開業医吉田龍蔵の協力のもと、17頭ものウシを使った大掛かりな実験を行い感染経路の論争決着に臨んだ。なお、実験に使用したウシは非流行地の[[広島市]]から[[列車]]によって[[福山駅]]まで運ばれた<ref>小林(1998) p.76 [[山陽本線]]によって福山駅に到着した20頭のうち、1頭はすでに死亡、2頭は衰弱していたことから17頭が使用された。</ref>。

;藤浪鑑によるウシを利用した感染実験<ref>小林(1998) pp.76-77より引用一部改変。</ref>。
*甲グループ6頭。
:与える飲食物は全て煮沸し、特製の口袋でウシの口を覆い、与える飲食物以外は口に出来ないようにして、有病地の小川や水田への出入りを意図的に繰り返す。
*乙グループ7頭。
:ウシの全身に防水グッズを装着。有病地の水田や小川への出入りを意図的に繰り返し、畦や水田で草を食べたり、水を飲むことは自由にさせる。ただし、全身を防水グッズで覆い、体に水を一切触れさせないようにする。
*丙グループ2頭。
:甲グループとの比較のために行う。甲グループと同様に飲食物は全て煮沸したものを与えるが、ウシ小屋に隔離して小屋の外には出さない。
*丁グループ2頭。
:口も全身も何も施さず、有病地での飲食も行動も完全に自由とする。
実験期間を1ヵ月とし、実験終了の時点で糞便検査を行い、全て殺して解剖し門脈に日本住血吸虫がいるかを検証する。

藤浪は土屋と同じく経口感染説の支持派であり、今回の実験では乙、丁グループに感染が起こるはずで、経皮感染を想定した甲グループに感染が起きるはずがないと絶対的な自信を持っていた。ところが実験の結果は藤浪の予想に反したものだった。経口感染を予防した甲グループが全頭感染し、経皮感染を予防した乙、丙グループには全く感染せず、どちらの感染も許した丁グループは当然であるが感染した。桂田の行った実験でも同様の結果であった。また同年には京都大学[[皮膚科]]の松浦有志太郎により、片山地方の水田から採取した水に自分の腕を浸すという、自らの体を使った決死の感染実験が行われ、3回に及ぶ実験の末、松浦の腕にはかゆみを伴う赤い斑点が発症し、自分の血便の中に虫卵を確認するなど、経皮感染の検証を裏付けるものであった<ref>小林(1998) pp.74-80</ref><ref>山梨地方病撲滅協力会編(1977) p.16</ref>。

3人の実験結果を知った他の医師や研究者は俄かには信じられず半信半疑であった<ref>薬袋勝 「山梨県の住血吸虫の防圧」 『住血吸虫症と宮入慶之助-ミヤイリガイ発見から90年』 宮入慶之助記念誌編纂委員会編 (2005)、pp.32-33</ref>。経口感染を主張した土屋岩保も自説を曲げられず、桂田や藤浪と同様に65頭ものイヌをグループ分けした追実験を[[1910年]](明治43年)8月、西山梨郡甲運村(現在の甲府市横根町)を流れる[[濁川 (山梨県)#支流|十郎川]]({{ウィキ座標|35|39|26.5|N|138|36|46.8|E|region:JP|地図|name=十郎川実験地}})で行った<ref group="†">十郎川の通称「深マチ」という場所(現在の[[山梨英和大学]]南方、[[国道140号]]横根跨線橋付近)で、約100坪ほどの水面を利用して動物実験が行われた様子が横根町在住の秋山丈吉により1977年に証言されている。山梨地方病撲滅協力会編(1977) p.167</ref>。経口感染を信じて疑わなかった土屋であったが、自らの予想とは全く反対の藤浪や桂田の実験と同様の結果になり、経皮感染を認めざるを得ず、「地方病の感染は皮膚からである」と山梨県知事に報告し、学会内の意見も経皮感染に統一された<ref>小林(1998) pp.80-81</ref>。

==== 中間宿主が必要だ ====
[[File:Schistosomal cercaria.jpg|right|thumb|260px|セルカリア]]
感染は皮膚からであることが明らかになったが、土屋は新たな疑問に悩んでいた。便中の日本住血吸虫虫卵から[[孵化]]させた仔虫([[ミラシジウム]]と呼ばれる)を泳がせた水に、ネコやネズミの足を30分ほど浸して感染するのか経過を見たが、10日を過ぎても1ヵ月を過ぎてもネコやネズミの糞便に虫卵は見られなかった。孵化直後では感染能力が無いのではないかと考え、次に孵化6時間後のミラシジウムに浸してみたが今度も感染は起こらなかった。それどころか孵化後時間が経過するごとにミラシジウムは死んでいき、48時間以内には全て死滅していた。同じことを何度も繰り返したが結果は同じであった<ref>山梨地方病撲滅協力会編(1977) pp.15-18</ref>。このように孵化したミラシジウムはそのままでは哺乳動物に感染せず、2日以内に死滅することが判明した。考え抜いた土屋は「ミラシジウムは自然界にいる動植物の何らかを'''[[中間宿主]]'''としている。中間宿主の体内で人間の体へ感染するのに適した体へ成長するのだ。」との結論に達する<ref>小林(1998) pp.85-88</ref>。

県医師会会長喜多島豊三郎により[[1909年]](明治42年)に設立された'''山梨地方病研究部'''の専任技師になっていた土屋は[[1911年]](明治44年)3月、任期を終え東京大学教授として迎えられ、後任者として東京大学伝染病研究所から{{仮リンク|宮川米次|pl| Yonei Miyagawa}}が就任した<ref>山梨地方病撲滅協力会編(1977) p.18</ref>。宮川は土屋の提唱した中間宿主の必要性に真っ先に賛同した人物でもあり、桂田や藤浪、三神らも中間宿主の存在に同調していた<ref>小林(1998) p.87</ref>。

地方病研究部の専任技師となった宮川は早速新たな検証実験に着手する。実験の目的は哺乳動物に感染した直後の日本住血吸虫の幼虫の形態がどのようなものであるのかを把握することだった。有病地のひとつ中巨摩郡池田村(現在の甲府市新田町)を流れる貢川(くがわ、{{ウィキ座標|35|39|44|N|138|32|27.5|E|region:JP|地図|name=貢川実験地}})を実験地に選び、非流行地である東京から運んできた大量のウサギとイヌを実験地河川の水に浸した。後日、実験動物の股静脈から採血した血液の中に、ミラシジウムとは形態的に異なる幼虫を宮川は確認した。[[吸虫|吸虫類]]において成虫になる前の段階、寄生虫学用語で[[セルカリア]]と呼ばれているものだった。この検証により便中の虫卵から孵化したミラシジウムと、皮膚から感染するセルカリアの形態、形状が異なることが判明し、日本住血吸虫が成虫に至る過程には中間宿主が必要であることが確定した<ref>小林(1998) pp.88-91</ref>。

==== ミヤイリガイ(宮入貝)の発見 ====
[[File:Oncomelania hupensis nosophora.png|thumb|260px|ミヤイリガイ]]
[[File:Trematode lifecycle stages.png|thumb|325px|日本住血吸虫の生活史における各形態。<br/>左から卵→ミラシジウム→スポロシスト→セルカリア→成虫]]
中間宿主探しが始まった。[[北巨摩郡]]塩崎村(現在の甲斐市双葉地区)出身で、[[新潟医科大学 (旧制)]]の{{仮リンク|川村麟也|pl| Rinya Kawamura}}をはじめ、多くの研究者により有病地に生息するさまざまな生物が採取され検証が繰り返された。杉山なか解剖に大きく携わった吉岡順作も中間宿主を探した。吉岡は有病地に分布する[[カワニナ]]が中間宿主であろうと主張し、土屋岩保に協力を仰いだ。両名はカワニナを入れた[[水槽]]の中でミラシジウムを孵化させるなどの実験を繰り返したが立証には至らなかった<ref>泉(1979) pp.105-106</ref>。

日本住血吸虫の中間宿主が立証確定されたのは[[1913年]](大正2年)夏のことである。[[九州帝国大学]]の'''[[宮入慶之助]]'''と助手の鈴木稔によって、佐賀県[[三養基郡]][[基里村]]酒井地区(現在の[[鳥栖市]]酒井東町)で発見された、体長わずか8[[ミリ]]ほどの[[淡水性]][[巻貝]]での立証であった<ref name="miyairi">田中寛 「宮入慶之助と中間宿主カイ発見」 『住血吸虫症と宮入慶之助-ミヤイリガイ発見から90年』 宮入慶之助記念誌編纂委員会編 (2005)、pp.15-17</ref>。宮入と鈴木は酒井地区の住民から水に浸かると確実に感染することから、「有毒溝渠」と呼ばれ恐れられていた溝渠([[用水路]])で小さな巻貝を見つけ、同地の民家に泊り込んで実証を重ねた。そして、虫卵から孵化させたミラシジウムが巻貝の体内に侵入し、母[[スポロシスト]]から娘スポロシストへと巻貝の体内で[[変態]]、[[分裂]]を続け、最終的にセルカリアとなって巻貝の体内から水中に出てくることを詳細な経過記録と共に論文にまとめ上げた<ref>安羅岡一男 「第2節 発育・発育史、V終宿主体内発育」 山梨地方病撲滅協力会編(1981) pp.8-9</ref>。この結果は同年9月、当時の週間医学雑誌である東京医事新誌に報告され<ref name="miyairi"/>、同疾患に取り組む当時の医師や研究者たちを驚愕させた<ref>小林(1998) pp.94-105</ref>。

ここで重要な問題であったのは、この貝がいったい何の貝であるのか? 日本全国に分布するものなのか? 日本住血吸虫症の発症地だけに棲息するものなのか? 種の特定が重要であった。多くの研究者、学者が論文に記載されたモノクロ写真を見てカワニナを疑い、宮入自身もカワニナの亜種ではないかと思いつつ、九州大学理学部に鑑定を依頼した。すると、カワニナであれば[[螺層]](巻貝の螺旋の数)は4つでなければならないのに、問題の貝は螺層が6から9つであることから、各国の論文はもとより[[大英博物館]]が発行する世界の貝の最新分類表にも記載されていない新種の貝であることが鑑定の結果分かった<ref>小林(1998) pp.104-105</ref>。

翌年調査のため山梨県を訪れた宮入により、佐賀で発見されたものと同じ巻貝が甲府盆地の有病地域でも多数確認され<ref>山梨日日新聞社編 『山梨の20世紀』「1市45村で宮入貝採取」 大正6年4月3日付 同新聞紙面 、 「宮入博士が現地視察」大正6年4月15付 同新聞紙面 2000年8月10日第1刷発行 p.34 ISBN 4-89710-696-6</ref>、山梨の医学会は宮入博士の功績をたたえて、この貝を'''[[ミヤイリガイ]]'''(宮入貝)(学名:''[[:en:Oncomelania hupensis|Oncomelania hupensis nosophora]]'')と名付けた<ref group="†">ミヤイリガイの学名は、''Katayama''(後に''Oncomelania'')''nosophora''。 [http://www.jpnrdb.com/search.php?mode=map&q=110504020100290 "カタヤマガイ(別名ミヤイリガイ)"] 日本のレッドデータ検索システム 2011年8月20日閲覧</ref><ref>山梨地方病撲滅協力会編(1977) p.19、p.59</ref>。

中間宿主がミヤイリガイであると特定されたことの意義は非常に大きかった。日本住血吸虫が成長過程において、ミヤイリガイ以外には寄生(中間宿主)できないなら、もし仮にミヤイリガイを[[撲滅]]することができれば、理論上この奇病の新たな発生もコントロールできるはずである。逆にミヤイリガイが生息しない地域には本疾患は存在しないことになるので、長い間謎であったこの奇病が特定の地域にのみ流行する理由も同時に明らかになった。

また、この発見は日本国外の寄生虫学者にも大きな影響を与えた。2年後の[[1915年]](大正4年)に[[ビルハルツ住血吸虫]]の中間宿主が[[モノアラガイ]]の一種であることが[[エジプト]]で証明され、さらに同年には[[マンソン住血吸虫]]の中間宿主が[[ヒラマキガイ科]]であることが判明するなど、ミヤイリガイの発見はヒトに感染する吸虫類の中間宿主の多くが[[陸産貝]]を中心にする[[軟体動物]]であるという、現代の寄生虫学の礎となるものであり、世界の住血吸虫研究にとって大きな意味を持っていた<ref>宮入慶之助記念誌編纂委員会編(2005) pp.19-21</ref>。

== 病気撲滅期 ==
ミヤイリガイの発見によって、長らく人々を悩ませていた地方病の原因、メカニズムは全て解明され、地方病撲滅への活動が始まった。比較的短期間に解明された病因に対し、病気の撲滅には非常に長い期間を要した。研究者だけでなく、地域住民をはじめ多くの人々が一丸となって、'''治療法の開発'''、'''感染源対策'''、'''啓蒙活動'''、そして'''ミヤイリガイ撲滅活動'''など、さまざまな対策を試行錯誤しながら同時に進めていった。この節では各対策ごとに時系列を記述する。
=== 治療薬と感染診断法の開発 ===
==== 困難を極めた治療 ====
[[File:The medicine of the medical office of Dr. Sugiura.JPG|right|thumb|230px|杉浦醫院内の薬室<small>(2010年9月撮影)</small>]]
[[File:Anthelmintic for schistosomiasis japonica, Stibnal.JPG|right|thumb|230px|スチブナールのパッケージ。風土伝承館杉浦醫院所蔵。<small>(2011年10月撮影)</small>]]
病原体(日本住血吸虫)の発見と中間宿主(ミヤイリガイ)の確定は、地方病の[[予防]]という観点から見れば非常に大きな成果であった。その一方で、すでに罹患してしまった患者に対する治療は困難を極めた。日本住血吸虫は血管内に寄生するタイプの寄生虫である。消化器官に寄生する[[ギョウチュウ|蟯虫]]などの寄生虫を体外に排出するだけの[[虫下し]]では駆除することは出来ないのだ。

研究者たちは血管内部の寄生虫を駆除するための、さまざまな研究を始めた。[[東京大学医科学研究所|東京帝大伝染病研究所]]へ戻っていた宮川米次は大正7年から12年頃にかけて、製薬会社[[萬有製薬]]との共同研究により[[酒石酸]][[アンチモン]]などの化合による[[駆虫薬]]、'''スチブナール'''を開発し<ref>山梨地方病撲滅協力会編(1977) p.24、pp.62-63</ref>、宮川、土屋両氏の勧めもあって<ref>山梨地方病撲滅協力会編(1977) p.24</ref>山梨の三神三朗に治療実験の依頼がされた<ref>三神三朗 「スチブナールによる日本住血吸虫病患者の治療実験」 『実験医報9』 1923年、pp.1330-1339</ref>。

三神による実験<ref>薬袋勝 「山梨県の住血吸虫の防圧」 『住血吸虫症と宮入慶之助-ミヤイリガイ発見から90年』 宮入慶之助記念誌編纂委員会編 (2005)、pp.33-36</ref>の結果、門脈内に寄生した日本住血吸虫の[[卵巣]]機能を破壊し、卵を産めなくさせることによって、罹病者の便から虫卵を消失させる効果が実証され実用化された。しかしこの治療は、技術的に難しい20数回もの[[静脈注射]]を必要とする困難な治療であった。その上、[[半金属]]系であるアンチモンによる[[副作用]]として、体中の[[関節]]の激しい痛み、[[悪心]]、[[嘔吐]]が起きるなど、患者の肉体的負担も大きかった<ref>山梨地方病撲滅協力会編(1977) pp.233-238</ref>。約半世紀後の[[1970年代]]に[[ドイツ]]の製薬メーカー[[バイエル (企業)|バイエル]]が、副作用を低減した飲み薬である[[錠剤]]の新薬[[プラジカンテル]]を開発するまで、スチブナールは唯一の地方病治療薬であった<ref>林(2000) pp.122-125</ref>。しかし、スチブナールもプラジカンテルも体内の日本住血吸虫を殺傷するための薬であり、すでに罹患者の臓器に蓄積されてしまった卵殻を除去するものではない。すなわち地方病の治療は[[対処療法]]止まりで[[完治]]させるものにはなり得なかった。

==== 診断精度向上の努力 ====
[[file:S japonicum egg BAM1.jpg|thumb|230px|顕微鏡で見た日本住血吸虫の卵]]
経皮感染によって体内に侵入したセルカリアは、成虫(日本住血吸虫)に成長するまでは卵を産むことは無く、罹患者に[[自覚症状]]が無い場合も多い。よって大部分の患者は血便や腹水が溜まるなど症状が悪化してから医療機関へ出向くことが多かった。早い段階で発見できなければ治療はより難しくなる。新薬であるスチブナールも、理想を言えば卵を産めない性成熟する前の段階で使用してこそ効果が大きいのである。それが難しくても、できるだけ虫卵の蓄積が少ないうちに治療を開始することが肝要であり、感染の早期発見、すなわち早期診断が重要であった。当初、地方病の感染検査も他の寄生虫病と同様、糞便検査によって診断が行われていたが、日本住血吸虫の寄生場所は血管である門脈内であり、腸管近くへ現われる頻度が極端に少なかったことから、少量の糞便を直接ガラス板に塗り、顕微鏡で観察して虫卵の有無を判定する従来からの[[直接塗抹法]]では検出感度が低く、感染を見逃してしまうことも多かった<ref>山梨地方病撲滅協力会編(1977) pp.90-93</ref>。

山梨県の地方病研究所では、第二次大戦後、後述するアメリカ軍の研究部隊が提唱し共同開発した[[皮内反応]](寄生虫本体から作った[[抗原]]を用いた検査法)による検査法を導入し、各種の集卵法やミラシジウム孵化法([[ツベルクリン|ツベルクリン反応]]に代表される[[抗原抗体反応]]を用いた診断法)が研究され、'''MIFC'''(merthiolate iodine formalbehyde concentration = 遠心沈殿法)による検査法を確立した<ref>久津見晴彦、薬袋勝、梶原徳昭 「日本住血吸虫症の検査法に関する研究-2-MIFC虫卵検査法の虫卵回収率」 『北海道医学雑誌1979年7月号』北海道医学会 1979年7月 pp.347-353 {{ISSN|0367-6102}}</ref>。これにより虫卵検出率は格段に改善された。甲府盆地で行われた住民糞便検査において、直接塗抹法で調べた時に0.1%であったのが、MIFC法では2.7%と検出精度が向上したのだ<ref>飯島利彦、伊藤洋一、中山茂、石崎達 「日本住血吸虫病の研究(1)繰り返し行ったMIFC集卵法による日本住血吸虫卵陽性率の統計的解析」 『寄生虫誌11』 1962年、pp.483-487</ref>。また、'''AMSIII'''(Accelerator Mass Spectrometry = 加速器質量分析計法)も検出感度が高いことが分かり、あらかじめ被検集団に対して皮内反応を行うことによって<ref>太田秀浄、土屋庄、渡辺照代 「山梨県有病地の日本住血吸虫皮内反応実施成績」 『山梨県衛研報4』 1960年、pp.41-50</ref>、検便検査対象者の絞込みが可能となった。こうして寄生虫体成分を抗原とする皮内反応という画期的な検査法による集団検診が行われ<ref>石崎達、飯島利彦、伊藤洋一 「日本住血吸虫病の診断法の研究(2)日本住血吸虫抗原皮内反応の判定基準と診断価値」 『寄生虫誌13』 1964年、pp.387-396</ref>、地方病感染者の早期発見、早期治療への福音となった<ref>薬袋勝 「山梨県の住血吸虫の防圧」 『住血吸虫症と宮入慶之助-ミヤイリガイ発見から90年』 宮入慶之助記念誌編纂委員会編 (2005)、pp.34-36</ref>。

==== 罹患者数の推移 ====
[[1910年]](明治43年)から翌年にかけて山梨県医師会が主体となって健康診断を行ない、甲府盆地全体における地方病の発生状況、罹患者の実数が初めて統計的、医学的に調査された。この健康診断は主に肝臓、脾臓の肥大、腹水の有無など臨床症状に主眼点をおいたもので、調査対象は甲府盆地の有病地と想定された45ヶ市町村の住民総計69,157名に及ぶ。そのうち明らかに地方病罹患者と診断された患者数は7,884名で、平均罹患率は11.4パーセントであった<ref name="minaiC">薬袋勝 「山梨県の住血吸虫の防圧」 『住血吸虫症と宮入慶之助-ミヤイリガイ発見から90年』 宮入慶之助記念誌編纂委員会編 (2005)、p.33</ref><ref name="kanjasuu">山梨地方病撲滅協力会編(1977) p.51、pp.104-106</ref>。

また、罹患率の高い地域に偏りがあることも分かった。罹患率が異常に高かったのは、''竜地、団子に嫁行くなら''、と唄われた登美村(とみむら)の55パーセントをはじめ、''中の割へ嫁行くなら''、と唄われた旭村の35パーセント、及び大草村の34パーセント、''嫁にはいやよ野牛島は''、と唄われた御影村(みかげむら)の40パーセントなど、古くから人々の間で唄われていた特定の地域での流行を実証するものであった。また、[[塩山市|塩山]]、[[勝沼町|勝沼]](現在の甲州市)など甲府盆地の最東部では病気が一切無く、[[春日居町|春日居]]、[[石和町|石和]]など盆地を西へ向かうにつれ徐々に病気が現れ、[[甲府]]を過ぎた甲府盆地の西側から一気に罹患率が上がり、特に[[韮崎市|韮崎]]から下流の[[釜無川]]両岸地域の罹患率が高いことも改めて実証された<ref name="kanjasuu"/>。この甲府盆地内での西高東低とも言える有病地の偏り<ref name="horimi"/>は流行末期まで続いた<ref group="†">最後に日本住血吸虫症の発症が確認されたのは韮崎市内であった。林(2000) p.80</ref>。

その後も住民の感染調査、診断は定期的に行われ、当初は虫卵検査により、昭和30年代中盤からは皮内反応検査によって行われた。以下に流行末期20年間にわたる市町村別患者数を示すが、これは山梨県内の各医療機関において地方病と診断された患者実数で、新規感染者の数ではない。また昭和30年代以降の流行末期には腹水が溜まる等の重症患者は稀になり、同40年代になると罹患者に感染したセルカリア匹数も少数になり、便中に虫卵を見つけることが困難になったため、より精密な皮内検査等によって罹患者の確認が行われた。[[1973年]](昭和48年)から患者数が一旦増加しているのはそのためである。
{| class="wikitable" style="width:75%; text-align:center; font-size:77%;"
|+ <strong style="font-size:115%;">甲府盆地における年度別日本住血吸虫症患者数<ref name="kanjasuu"></ref><ref group="†">山梨地方病撲滅協力会編 『地方病とのたたかい』 平和プリント社 、p.51、p.105、より一部改変作成。</ref><br/>流行末期20年間(1956年度-1975年度)の市町村別患者数。注、市町村名は1975年当時のもの。
|-
!市町村/年度
!1956年
!1957年
!1958年
!1959年
!1960年
!1961年
!1962年
!1963年
!1964年
!1965年
!1966年
!1967年
!1968年
!1969年
!1970年
!1971年
!1972年
!1973年
!1974年
!1975年
|-
|[[甲府市]]||220||121||82||36||78||46||0||9||12||0||0||0||1||0||0||1||0||1||0||5
|-
|[[玉穂町]]||81||72||60||29||21||13||4||11||0||6||0||11||2||0||0||0||0||0||2||1
|-
|[[昭和町]]||218||173||139||73||82||50||36||37||10||5||3||0||15||1||0||0||0||5||3||7
|-
|[[田富町]]||200||148||121||105||106||59||45||28||15||8||8||5||6||7||0||7||1||2||3||6
|-
|[[竜王町 (山梨県)|竜王町]]||213||388||276||190||130||128||102||85||17||60||108||53||76||38||54||8||1||1||0||13
|-
|[[敷島町]]||60||61||75||36||36||30||13||60||3||13||1||1||1||1||0||11||0||10||22||0
|-
|[[三珠町]]||0||0||2||0||3||0||2||4||1||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||2
|-
|[[石和町]]||50||58||18||1||2||1||0||3||0||1||0||0||0||0||0||0||0||0||2||0
|-
|[[一宮町 (山梨県)|一宮町]]||0||0||5||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0
|-
|[[御坂町]]||0||0||0||0||6||1||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0
|-
|[[八代町]]||8||29||13||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0
|-
|[[境川村]]||0||10||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||1||0
|-
|[[中道町]]||9||33||7||9||0||6||5||0||0||0||0||0||0||0||5||1||1||1||2||0
|-
|[[豊富村 (山梨県)|豊富村]]||19||0||0||0||0||1||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0
|-
|[[八田村]]||54||60||242||61||55||59||62||55||10||8||14||21||27||12||8||10||2||13||21||28
|-
|[[白根町]]||126||95||43||53||54||36||14||8||4||2||4||7||12||16||5||1||8||7||24||13
|-
|[[櫛形町]]||-||-||-||-||-||-||-||-||-||-||-||-||-||-||-||-||-||2||0||0
|-
|[[若草町]]||35||29||32||47||40||41||42||24||20||20||19||13||13||16||4||4||6||8||29||18
|-
|[[甲西町 (山梨県)|甲西町]]||135||130||26||33||31||10||7||5||3||0||3||0||0||0||0||0||9||2||2||4
|-
|[[増穂町]]||-||-||-||-||-||-||-||-||-||-||-||-||-||-||-||-||1||0||0||0
|-
|[[双葉町 (山梨県)|双葉町]]||135||132||111||156||74||131||114||83||85||21||22||12||26||15||10||4||4||14||0||10
|-
|[[韮崎市]]||70||179||307||132||74||101||44||51||99||62||70||46||71||18||14||10||13||27||58||23
|-
|[[春日居町]]||1||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0
|-
|[[山梨市]]||2||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0
|-
|[[中富町]]<ref group="†">中富町は富士川中流に位置する甲府盆地から離れた場所であるが、[[1954年]](昭和29年)になって突如ミヤイリガイが同町内の、切石、八日市場、飯富の3地区で生息しているのが発見され罹患者も発生した。これは大雨や台風など[[洪水]]により上流部の甲府盆地からミヤイリガイが流され繁殖してしまったものと考えられた。同様に[[1961年]](昭和36年)には県境を越えた[[静岡県]]の[[富士川町 (静岡県)]]でも16名の日本住血吸虫症患者が発生し、町内の溝渠にミヤイリガイの生息が確認された。これも中富町のミヤイリガイが富士川を流れてきたものと考えられている。泉(1979) pp.76-79</ref>||22||37||16||1||1||0||0||1||1||0||0||0||2||0||0||0||0||0||0||0
|-
|-bgcolor="pink"
|'''合計'''||'''1,658'''||'''1,755'''||'''1,575'''||'''962'''||'''793'''||'''713'''||'''490'''||'''462'''||'''280'''||'''206'''||'''252'''||'''169'''||'''252'''||'''124'''||'''100'''||'''57'''||'''46'''||'''93'''||'''169'''||'''130'''
|}

=== 感染防止への啓蒙 ===
==== 俺は地方病博士だ ====
[[File:Endemic Yamanashi I'm Dr. schistosomiasis japonica.JPG|right|thumb|230px|『俺は地方病博士だ』表紙]]
地方病はミヤイリガイの生息する河川や水路などで、直接水に触れることによってセルカリアに感染する。よって、水田耕作に従事する農民は感染の危険性が常時付きまとっていることになるが、仕事ではない不要不急な子供たちの川遊びなどによる感染は、正しく指導することで防ぐことが可能であったため、子供たちへの啓蒙対策が急務となった。小さい頃に罹患すればその後の成長に大きな影響を与えるため、細心の注意が必要であると、自ら小学校2校の[[校医]]<ref group="†">三神三朗は自ら率先して、甲府市立国母小学校、同市立貢川小学校の校医を務め、多くの初期感染患者の発見、早期治療に貢献した。山梨地方病撲滅協力会編(1977) pp.174-177</ref>を務めるようになっていた三神三朗も、山梨地方病研究部に申し入れた<ref name="chihobyohakase">小林(1998) pp.116-118</ref>。

しかし、中間宿主を経て変態する日本住血吸虫の難解なライフサイクルを子供たちに理解させることは容易ではなかった。[[1917年]](大正6年)、山梨地方病研究部は[[山梨県教育委員会]]と共同で'''『俺(わし)は地方病博士だ』'''と題した、当時としては画期的な[[イラスト]]<ref group="†">イラストとストーリーは[[懸賞]]により募集されたものであった。山梨地方病撲滅協力会(1977) p.21</ref>を多用した多色刷りの予防パンフレットを2万部作成し、有病地の[[小学生]]に無償で配布した<ref name="minaiC"/>。ミヤイリガイの発見により日本住血吸虫の生態が解明されてから僅か3年半後であったことを考えても、当時の関係者が児童への感染防止をいかに重視していたかが分かる。

冊子の内容は、地方病が水中の病原虫(セルカリア)を介して皮膚から感染する病気であること、この病原虫がミヤイリガイという小さな巻貝に潜んでいるため、川で遊ぶのは非常に危険であることを、子供にも理解できるように解説したものであった。また小学生の興味を引くために3人の登場人物を配しストーリー性を持たせた、[[絵本]]のような内容であった。地方病研究部は各校[[校長]]以下、全[[教員]]に[[授業]]で読み聞かせるように義務付け、感想文などを書かせる指導を行い啓蒙に務めた<ref name="chihobyohakase"/>。特にセルカリアの活動が活発になる夏場の河川での[[水泳]]は厳しく禁止されたが、大正時代の郊外有病地の一般家庭では[[風呂]]はおろか[[上水道]]すら無いのが当たり前であり、全国有数の酷暑地帯である甲府盆地の夏季では、子供たちの河川での[[行水]]を完全に制限することは難しかった。このため有病地の小中学校の[[プール]]設置が県の補助事業として優先的に進められるなど、引き続き子供たちへの感染防止の徹底が図られた<ref>山梨地方病撲滅協力会編(1977) p.94</ref>。

*『俺は地方病博士だ』のイラストやストーリーは[http://kaz794889.exblog.jp/14119453/ 峡陽文庫 俺は地方病博士だ]で全ページ閲覧可能。

==== 感染源対策 ====
[[File:The toilet design to kill the parasite eggs rot let.JPG|thumb|230px|昭和18年の山梨県県令に記載された改良型便所の構造図]]
日本住血吸虫は'''中間宿主'''となるのはミヤイリガイ唯一固種であるが、最終的な'''[[終宿主]]'''はヒトを含む哺乳類全般である。終宿主の糞便に含まれる虫卵から孵化した幼虫(ミラシジウム)が水中のミヤイリガイに接触することにより[[感染源]]となる。

したがって[[堆肥]]として使用していたヒトの糞便の場合、一定期間貯留し虫卵を腐熟させ殺滅させることが感染源を絶つ有効な手段であったため、糞便を貯留するための改良型便所の設置が奨励された。山梨県では[[1929年]](昭和4年)より改良型便所の設置に助成費を出し、[[1943年]](昭和18年)には普及徹底を呼びかけるなど、ヒトの糞便からの感染対策は一定の効果を上げた<ref name="bokumetsu1977">山梨地方病撲滅協力会編(1977) pp.32-35</ref>。

しかし、家畜や野良犬、野良猫など動物の糞便を特定の場所に貯留することなど出来るはずがない。苦肉の策として[[1942年]](昭和17年)より山梨県知事となった[[多湖實夫]]により、農耕で使うウシやウマに[[オムツ]]を穿かせるという珍奇な試みが行われた。多湖知事の熱意により考案されたオムツは、官名'''糞受袋'''と名付けられた布製のものであったが、効果はほとんど無かった<ref>泉(1979) pp.123-125</ref>。

このように[[排泄]]場所をコントロールできない保虫動物に対する対策は困難なもので、[[1933年]](昭和8年)に[[ウシ]]、[[ウマ]]、[[ヤギ]]などの[[家畜]]動物の糞便検査と健康管理が寄生虫病予防法細則により義務付けられ、同時に農耕で使う家畜を、感染率の高いウシから感染感受性の低いウマへと変えることが積極的に行われた。また[[ノネズミ]]などの野生動物は計画的に捕殺され、イヌやネコなどの[[愛玩動物]]の管理監視体制が強化された<ref name="horimi"/><ref>[http://www.kagakueizo.org/2010/09/post-313.html ]NPO法人科学映像館 ライブラリー、地方病との斗い 第二部 企画:山梨県地方病撲滅協会 製作:東京文映株式会社1978年 モノクロ26分</ref>。

==== 郷土医杉浦健造と三郎親子 ====
[[File:Visit endemic schistosomiasis by Emperor Hirohito.JPG|left|thumb|170px|甲府盆地の有病地視察に訪れた、昭和天皇と案内役の杉浦三郎。<small>昭和22年10月14日</small>]]
[[File:The consulting room of the medical office Dr. Sugiura.JPG|right|thumb|230px|多くの罹患者が治療を受けた杉浦醫院の診察室<small>(2010年9月撮影)</small>]]
中巨摩郡西条村(現在の中巨摩郡[[昭和町]])の[[風土伝承館杉浦醫院|杉浦健造]]医師、息子である三郎医師の親子医師は、代々同村で[[開業医]]として多くの地方病患者の治療に当たってきた郷土医である。2人は献身的な治療を行うと同時に、この疾患に対する予防の知識を通じた啓蒙活動を住民に行い続けた<ref>[http://sugiura-iin.com/index.html 風土伝承館 杉浦醫院] 2011年9月17日閲覧</ref>。

しかし一向に減らない地方病の感染防止の難しさを目の当たりにし、この奇病を根本的に根絶するには中間宿主であるミヤイリガイの撲滅しかないと考え、ミヤイリガイの[[天敵]]であるホタルの[[幼虫]]を増やす為に、餌となるカワニナや、捕食動物としてのアヒルなどを[[飼育]]する施設を自宅を兼ねた医院敷地内に作ったり、共に闘う医師たちへの金銭的援助など、私財を投じてミヤイリガイ撲滅への活動を始めた。

やがてそれは官民一体による'''地方病撲滅運動'''に発展し、[[1925年]](大正14年)に'''『山梨地方病撲滅期成組合』'''が結成され<ref>山梨日日新聞社編 「地方病撲滅組合が発足」 『山梨の20世紀』 大正14年2月11日付 同新聞紙面 2000年8月10日第1刷発行 p.51 ISBN 4-89710-696-6</ref>、終息宣言を迎える71年後までの長期間にわたり山梨県民一丸となって推し進められた。

健三亡き後も、息子三郎によって遺志は引き継がれ、[[1947年]](昭和22年)10月14日から2日間の日程で山梨県を[[行幸]]した[[昭和天皇]]の地方病有病地視察はは三郎によって案内された。中巨摩郡玉幡村({{ウィキ座標|35|38|55.2|N|138|30|45|E|region:JP|地図|name=玉幡村}}、現在の甲斐市)で視察は行われ、当時の甲府盆地における地方病の状況説明や、顕微鏡を使った虫卵やセルカリアの観察、ミヤイリガイの生息状況の観察などが行われた<ref>山梨地方病撲滅協力会編(1977) p.36</ref>。

その後も三郎は、水田作業従事者に対する経皮感染を予防低減するための[[塗り薬]]を独自に研究したり、[[1949年]](昭和24年)に創設された「山梨県立医学研究所」(後の山梨県衛生環境研究所)の初代地方病部長に就任<ref>山梨地方病撲滅協力会編(1977) p.121</ref>し、行政、医療関係等、各方面との調整役を務めるなど、戦後の地方病撲滅運動において大きな役割を果たした<ref>保阪幸男「地方病との付合」 山梨地方病撲滅協力会編(1977) pp.181-182</ref>。

杉浦三郎は[[1977年]](昭和52年)に亡くなり、杉浦醫院は閉院されたが、三郎の死後も同医院は内装、各種薬品、器具等がそのままの状態で保管されている。[[2010年]]([[平成]]22年)に杉浦家の土地・建物を昭和町が購入し、同家より全ての収蔵品の寄贈を受けた。昭和町では地方病の研究・治療に生涯をかけた健三、三郎両医師の業績、病気に立ち向かった先人達の足跡を後世に伝承していくために、建物を整備し『[[風土伝承館杉浦醫院|昭和町 風土伝承館杉浦醫院]]』({{ウィキ座標|35|38|25.2|N|138|31|57.2|E|region:JP|地図|name=杉浦醫院}})として同年11月16日に設立公開した<ref>地方病資料館 11月16日にオープン - 山梨日日新聞、みるじゃん 2011年11月閲覧</ref>。

杉浦三郎だけでなく、この病気と闘ってきた他の郷土医や研究者は戦後相次いで亡くなっている。[[1946年]](昭和21年)4月5日に桂田富士郎(享年79歳)が、奇しくも翌日の4月6日に宮入慶之助(享年81歳)がこの世を去った<ref>小林(1998) p.163</ref>。三神三朗は晩年、自身の生涯にわたる研究の出発点となった甲府市向町の盛岩寺にある杉山なかの墓参に足繁く通い、なかの墓前に長時間頭を下げていたという。また、一生現役郷土開業医を貫き、亡くなる1週間前まで患者の手を握り脈拍を確かめていた。意識のなくなる直前に辞世の句、「''川中で手を洗いけり月澄みぬ''」と筆で記し<ref>雨宮礼子(三神三朗長女) 「父の想い出」 山梨地方病撲滅協力会編(1977) pp.174-176</ref>、地方病の無い甲府盆地の未来を後進に託し、[[1956年]](昭和31年)、享年83歳でこの世を去った<ref>河野文蔵「三神三朗先生を偲ぶ」 山梨地方病撲滅協力会編(1977) pp.169-170</ref>。

=== ミヤイリガイ撲滅への挑戦 ===
==== 有病地の指定と解除 ====
日本住血吸虫の中間宿主がミヤイリガイであると解明されたことにより、ミヤイリガイの生息エリアが、そのまま地方病の流行エリアと完全に一致することが分かった。したがって、ミヤイリガイが生息する場所イコール地方病の流行地、すなわち'''有病地'''ということになる。
[[File:Schistosoma japonicum infection levels Kofu Maps.jpg|right|thumb|210px|ミヤイリガイ生息密度を、3段階の濃淡で表した、甲府盆地の有病地地図<ref>山梨地方病撲滅協力会編(1977) p.50より作成</ref>。]]
山梨県では1933年(昭和8年)9月25日告示の、「寄生虫予防法施行細則第2条ニ依ル日本住血吸虫病ノ有病地域指定」により、甲府盆地の10,023[[ヘクタール]]が地方病有病地として始めて公に指定された。しかしその後の詳細な調査により2年後の1935年(昭和10年)には'''19,635.5ヘクタール'''というより広大な範囲が有病地に指定された<ref>山梨地方病撲滅協力会編(1977) p.30、pp.49-50</ref>。

当初はミヤイリガイが多く生息していた水田のみが指定されたのではないかと推察されているが、いずれにしても20,000ヘクタール近い有病地が対策以前には存在していた。しかし、後述するミヤイリガイ撲滅事業により有病地面積は徐々に減少し、1960年、1961年、1974年の3回にわたり有病地の指定は順次解除され<ref>山梨地方病撲滅協力会編(1977) pp.42-43、p.50</ref>、1977年(昭和52年)には11,764.1ヘクタールと、当初の指定面積の約半分にまで減少した<ref>山梨地方病撲滅協力会編(1977) p.50、pp.102-103</ref>。最終的には1985年(昭和60年)の山梨県告示第146号をもって全ての有病地指定は解除されている<ref>日本住血吸虫病の有病地の指定 廃止の告示[http://www.pref.yamanashi.jp/somu/shigaku/reiki/reiki_honbun/aa50003231.html 山梨県告示第百四十六号]1985年(昭和60年)4月1日。</ref>。

右に示す地図は1970年代に作成された、甲府盆地におけるミヤイリガイ生息地(有病地)の略図である。色の濃淡によりミヤイリガイ生息密度を3段階で表している<ref>山梨地方病撲滅協力会編(1977) p.50</ref>。
*希薄地、1[[平方メートル]]あたりのミヤイリガイ生息19匹以下
*中間地、1平方メートルあたりのミヤイリガイ生息20匹から30匹未満
*濃厚地、1平方メートルあたりのミヤイリガイ生息30匹以上

この地図からも分かるとおり、地方病は甲府盆地の西側で猛威を振るっていた。

==== 地域住民総出の殺貝活動 ====
[[File:Oncomelania hupensis nosophora A.JPG|right|thumb|260px|ミヤイリガイ(2011年10月8日、甲府盆地の旧有病地某所で撮影<ref group="†">ミヤイリガイはセルカリアに感染していなければ安全であるが、撮影場所は伏せる。[[GPS]]データは除去済。</ref>)大きさの比較のため[[タバコ]]([[マイルドセブン]])長さ85mm、直径6mを並べた。この米粒ほどの巻貝が中間宿主であった。]]
[[File:Work to remove the infected Oncomelania nosophora.JPG|right|thumb|210px|石灰窒素散布作業。昭和26年頃。]]
[[File:Oncomelania nosophora specimens.JPG|right|thumb|210px|昭和町で採取されたミヤイリガイの標本。対比のため[[50円玉]]を並べている。標本化のため脱色している。風土伝承館杉浦醫院所蔵。<small>(2011年10月撮影)</small>]]
ミヤイリガイが中間宿主であると解明されてから、地方病の撲滅は、すなわちミヤイリガイの撲滅であると、人々の間で共通認識となり意識されるようになっていった。ミヤイリガイ発見の翌年[[1914年]](大正3年)には早くも土屋岩保により、中巨摩郡国母村小河原(現在の甲府市上小河原町、{{ウィキ座標|35|38|1.9|N|138|33|54.6|E|region:JP|地図|name=上小河原}})の溝渠で、[[硫酸]]を使った殺貝(さつばい)実験が行われ<ref>山梨地方病撲滅協力会編(1977) p.21</ref>、土に埋める埋没法や[[火力]]による殺貝などが実験されたが、労力や経費に見合った効果のある決定的な殺貝方法はなかなか見つけられなかった。

そんな中、地域住民によるミヤイリガイの拾い集めが始まった。女性や子供たちをも動員し、[[箸]]を使って米粒ほどの小さなミヤイリガイを1匹ずつ御椀に集めていくという気の遠くなるような作業であったが、県により採取量1合に対し50[[銭 (曖昧さ回避)|銭]]が給付され、1合を増すごとに10銭の奨励金が交付された<ref name="minaiC"/>。この活動は[[1917年]](大正6年)から8年間にわたって実施され、8年間で「'''38[[石 (単位)|石]]5[[斗]]8[[升]]0[[合]]7[[勺]]'''」([[米俵]]にすると約96俵分)<ref>山梨地方病撲滅協力会編(1977) p.22</ref>ものミヤイリガイが採取された。しかしミヤイリガイは極めて繁殖力が強く、一箇所だけで目に見えるミヤイリガイを駆除しても、それはまさに焼け石に水であり、さらなる有効な撲滅法の出現が待望された。

ミヤイリガイ殺貝に新たな動きが起きたのは、[[1924年]](大正13年)の[[本間利雄]]山梨県知事の就任であった。当時の[[都道府県知事]]は公選ではなく官選であり、前職は[[広島県警察]]部長で、前任地広島片山地方でのミヤイリガイ撲滅事業にも県職員の一人として関わっていた本間は、片山地方で行われた[[石灰]]散布による殺貝効果を熟知していた<ref name="horimi"/>。その経験から本間は山梨での石灰散布に意欲を見せ、経皮感染の解明者でもあり、広島における日本住血吸虫症研究の第一人者になっていた京都大学の藤浪鑑を甲府へ呼び寄せ、山梨県内の研究者とともに石灰散布の可能性を探った。甲府盆地の有病地は広島の有病地面積の6倍強である。石灰散布作業が並大抵ではないことは、広大な甲府盆地の有病地を目の当たりにした藤浪自身も痛感していた<ref>小林(1998) p.133</ref>。それでも行動を始めなければ何も変わらないと、山梨県では[[1925年]](大正14年)に生石灰の散布が決定され、前述したように同年2月10日に『山梨地方病予防撲滅期成会』が組織され発足した<ref>山梨地方病撲滅協力会編(1977) pp.24-27</ref>。住民の地方病撲滅への強い願いは、1924年(大正13年)から[[1928年]](昭和3年)にわたる5年間の地方病撲滅対策費用166,379円のうち、約8割にあたる131,943円が寄附金であった<ref name="bokumetsu1977"/>ことからもうかがい知ることが出来る。

こうして行政のみならず、地域住民も巻き込んだミヤイリガイ撲滅活動は、終息宣言が出されるまでの70年以上も継続されていくことになり、生石灰から[[石灰窒素]]の散布へ、[[アセチレン]]バーナーによる生息域への火炎放射<ref name="nakamura">中村磐男、大江敏江 「河川環境の復元と感染症:ツツガムシ病や住血吸虫症は再燃(再流行)するか」 『聖学院大学論叢,23(1)』 2010年 pp.115</ref>、[[アヒル]]など天敵を使った捕食、後述するPCPによる殺貝など、あらゆる手段を駆使して、ミヤイリガイ撲滅、地方病の根絶という最終目標に向け、親から子へ、子から孫へと世代を超え引き継がれていった<ref group="Schistosoma booklet">{{Quotation|病氣の研究が出来て原因がわかつたから、豫防する事も駆除する事も知れてるが、困た事に實行が困難だ。<br />一人や二人が幾ら心配して駆除しやうとしても駄目だ。どうでも其地方の人が全體で力を協せてやらねばならぬ。|『俺は地方病博士だ』p.11}}</ref><ref>斉藤虎雄「宮入貝捜索の思い出」 山梨地方病撲滅協力会編(1977) pp.172-173</ref>。

==== 殺貝剤PCPの開発 ====
[[File:Bilharziose.png|right|thumb|230px|世界の住血吸虫症流行地]]
[[太平洋戦争]]末期の1944年(昭和19年)10月から翌年4月にかけて、[[フィリピン]]中部の[[ヴィサヤ諸島]]にある[[レイテ島]]パロ地区で、約1,700名もの[[アメリカ軍]][[兵士]]に高熱や下痢が集団で発症した。当初[[マラリア]]を疑った米軍軍医は糞便検査の末、兵士らが罹患した病気の正体が日本で発見された日本住血吸虫症であることを突き止めた。当時のアメリカにおける保健衛生体制は、知識、予算の面で世界最先端のものであり、事前の感染症対策を用意周到徹底していると自負していたアメリカにとって、レイテ島での日本住血吸虫症感染は不覚であった<ref>小林(1998) pp.150-154</ref>。

フィリピンでの苦い経験によりアメリカは、甲府盆地で流行する地方病に大きな関心を持ち、日本占領下の[[1947年]](昭和22年)10月、米軍熱帯病委員会委員であるジョージ・ハンター(''George W Hanter'')博士<ref>横川宗雄 千葉大学医学部寄生虫学教室 「戦後昭和20-35年の間における山梨県甲府盆地の日本住血吸虫症の予防対策に関する研究」、山梨地方病撲滅協力会編(1977) pp.126-144</ref>を中心にした、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]による衛生部隊を山梨県に投入し、[[甲府駅]]構内に[[客車]]を改造した臨時の研究所を作り<ref group="†">甲府市内は[[1945年]]7月の[[甲府空襲]]により焼け野原になり、かろうじて残った[[山梨県庁舎]]などもGHQにより既に接収されており、復興ままならない昭和22年当時では研究所として使用可能な建造物が他に無かったためだと言われている。小林(1998) p.154</ref>、山梨県内の研究者と共に地方病の調査研究を行った<ref>薬袋勝 「山梨県の住血吸虫の防圧」 『住血吸虫症と宮入慶之助-ミヤイリガイ発見から90年』 宮入慶之助記念誌編纂委員会編 (2005)、p.34</ref>。同研究所は[[キャンプ座間]]([[神奈川県]][[座間市]])内に米軍が設けた'''米陸軍第406総合医学研究所'''(略称''406MGL'')の出先機関であり、甲府駅構内の研究施設では殺貝に使用するための薬品テストが行われた。米軍が持ち込んださまざまな薬品の中から、[[有機塩素化合物]]である[[サントブライト]]に有効な殺貝効果があったことから、同一成分で日本国内で精製する事が可能な、殺傷効果の高い殺貝剤、[[ペンタクロロフェノール]]ナトリウム(略称'''PCP'''-Na)の開発に成功する。同研究所では患者の治療も同時に行われ、住民から『寄生虫列車』、『病院列車』などと呼ばれ県民に親しまれた。同研究所での日米共同研究はその後9年間続いた<ref name="horimi"/>。

PCPによる殺貝は、主に農民を主体とする地域住民により人海戦術で行われ一定の効果を上げたが<ref name="nakamura"/>、農作物や川魚などへの有害性が問題になった。環境への配慮から毒性を弱めた殺貝剤として、当時[[東北地方]]で「殺[[ユリミミズ]]剤」として使用されていた[[ユリミン]]を粒状に改良したものが[[1968年]](昭和43年)からPCPにとって変わり実用化<ref>笹本馨「ユリミン導入の由来」 山梨地方病撲滅協力会編(1977) p.161</ref>されたが、実用化直後にユリミン製造メーカーの原料不足から製造中止を余儀なくされる。山梨県衛生公害研究所の梶原徳昭、薬袋(みない)勝らが中心となり代替薬剤の調査検討が行われ、[[1976年]](昭和51年)からは[[フェブロール]]ジクロロ・ブロモフェノール・ナトリウム塩(通称'''B2''')が使用されるようになった<ref>山梨地方病撲滅協力会編(1977) pp.75-76</ref><ref>小林(1998) pp.199-201</ref>。

==== 甲府盆地の水路のコンクリート化 ====
[[File:Anti Schistosoma japonicum measure waterway.JPG|right|thumb|230px|ミヤイリガイ対策の為に、甲府盆地の水路はコンクリート化された<ref group="†">写真は中巨摩郡昭和町上河東、正面に見える山は[[八ヶ岳]]と[[茅ケ岳]]。</ref>。<small>(2010年9月撮影)</small>]]
[[1936年]](昭和11年)、甲府盆地のミヤイリガイ生態観察を行った[[生物学者]]の[[岩田正俊]]は、ミヤイリガイが水田や水路周辺などの、流れの緩やかな場所に生息する特性から、[[用水路]]を[[コンクリート]]化し流速を早め、生息し難い環境を作ることの有効性を唱えた<ref>岩田正俊 「宮入貝の産地視察記(一)」 『大阪博物学会誌8』 1937年、pp.1-8</ref>。しかし、当時[[セメント]]は高価なものであり、広い甲府盆地の全ての水路をコンクリートで覆うなど荒唐無稽な非現実的提案であった。しかし、宮入慶之助の門下である九州大学の岡部浩洋<ref group="†">岡部浩洋はこの直後[[久留米大学]]に設立された日本住血吸虫症研究機関の初代会長として同大学の教授に就任している。</ref>が、同疾患の流行地の佐賀県旭村で実験を行い、コンクリート用水路が目覚ましい効果を発揮したことに加え、[[国立衛生研究所]]の寄生虫部長であった小宮義孝<ref>小宮義孝([[目黒寄生虫館]]) 「日本住血吸虫の予防」 『日本における寄生虫学の研究1』 1961年、pp.99-127</ref>が各機関へ積極的に提唱、働きかけを行い、[[1948年]](昭和23年)より山梨県では県職員の佐々木孝を中心に用水路のコンクリート化が試験的に始まった<ref>佐々木孝 「日本住血吸虫撲滅対策としての宮入貝棲息溝渠コンクリート化について」 『寄生虫誌7』 1958年、pp.545-559</ref>。

用水路のコンクリート化による利点として考えられたのは、
;1、コンクリートで固める事によって、それまで生息していたミヤイリガイを埋没することが出来る。
;2、コンクリート化することによって、流速が毎秒2[[尺]](約66センチ)あれば、産卵された卵が水草などに固定されず流されて貝の繁殖が不可能となる。
;3、仮にコンクリート水路で生息しても、発見が容易になり的確に消毒殺貝できる。
などである。

また、[[1950年]](昭和25年)に実験現場で行われた実地検分により、コンクリート化された用水路の水流が流速1メートル以上あれば、ミヤイリガイが100パーセント流出することが判明し、[[厚生省]]を通じて[[寄生虫病予防法]]に「[[溝渠]]のコンクリート化[[目的条文|条文]]」が盛り込まれ<ref group="†">コンクリート化の立法化は後に厚生大臣を務めた山梨県選出の[[内田常雄]]議員が働きかけたのだと言われている。林(2000) p.80</ref>、県の予算を超えた[[国庫補助]]によるコンクリート化事業が[[1956年]](昭和31年)より本格的に開始された<ref>山梨地方病撲滅協力会編(1977) pp.40-41、pp.79-89</ref>。なお、当時行政区域外であったため工事が出来ず、コンクリート化工事のネックとなっていた[[国鉄]]用地内([[中央本線]]及び[[身延線]])溝渠のコンクリート化は、運輸政務次官を経験していた、旧[[白根町]](現在の南アルプス市)出身の[[金丸信]]が各方面へ働きかけた結果である<ref>山梨地方病撲滅協力会編(1977) p.44</ref>。

こうして甲府盆地を網の目状に流れる水路と言う水路が全てコンクリートで塗り固められていった。コンクリート化に投入された予算は[[1979年]](昭和54年)の段階で70億円におよび<ref>泉(1979) pp.128-130</ref>、[[1985年]](昭和60年)には累計総額100億円を突破する、莫大な費用を注ぎ込んだ事業であった<ref>梶原徳昭 保阪幸男 「中間宿主ミヤイリガイの殺貝による日本住血吸虫症の制圧」 『住血吸虫症と宮入慶之助-ミヤイリガイ発見から90年』 宮入慶之助記念誌編纂委員会編 (2005)、p.194</ref>。

なお、1996年に撲滅事業が終了した時点での、甲府盆地のコンクリート化された用水路の総延長は、[[函館市]]から[[那覇市]]間の[[距離|直線距離]]に相当する<ref>[http://www.kyori.jp/result.asp?fromIdo=41.750779&fromKeido=140.890726&from=%96k%8AC%93%B9%94%9F%8A%D9%8Es%90%CE%8D%E8%92%AC102&toIdo=26.187528&toKeido=127.660699&to=%89%AB%93%EA%8C%A7%93%DF%94e%8Es%8D%82%97%C7%88%EA%92%9A%96%DA1 【距離計算】(株)プロネット]</ref>、'''2,109キロメートル'''(2,109,716メートル)に達している<ref name="minaiB">薬袋勝 「山梨県の住血吸虫の防圧」 『住血吸虫症と宮入慶之助-ミヤイリガイ発見から90年』 宮入慶之助記念誌編纂委員会編 (2005)、p.38</ref>。

== 終息宣言 ==
[[File:The board of anti Schistosoma japonicum measure waterway.JPG|right|thumb|230px|コンクリート化された溝渠にはプレートが設置されている<ref group="†">写真は中巨摩郡昭和町押越、設置年度と施工業者名、延長が記載されている。</ref>。<small>(2011年7月撮影)</small>]]
=== 新規感染者の減少 ===
水路のコンクリート化と同時進行で行われた地域住民による地道な殺貝、[[消毒]]などの取り組みによる効果は、新規感染患者の減少という目に見えた形で現れた。
; 流行末期の甲府盆地における日本住血吸虫卵陽性率とミヤイリガイ感染率の推移:山梨県日本住血吸虫流行地における検査成績 - 国立感染症研究所感染症情報センター[http://idsc.nih.go.jp/iasr/CD-ROM/records/15/image/I1720601.HTM IASRデータ]から引用改変(1961年-1980年)。<br/>注:1992年までの検査データがあるが、1981年以降の感染率は全て0%で推移しているのでここでは省略する。
<div style="float:left; margin-right:0em; margin-top:0em;">
{| class="wikitable" style="font-size:88%; margin-top:0em;"
|+ style="margin-top:0em" | 虫卵検査
|-
! 年度 !! 対象人数 !! 陽性数 !! 割合
|-
| 1961年
| style="text-align: right;" | 77,945
| style="text-align: right;" | 199
| [[ファイル:B10.png]][[ファイル:B10.png]][[ファイル:B05.png]] 0.25%
|-
| 1962年
| style="text-align: right;" | 79,322
| style="text-align: right;" | 371
| [[ファイル:B30.png]][[ファイル:B10.png]][[ファイル:B05.png]][[ファイル:B01.png]][[ファイル:B01.png]] 0.47%
|-
| 1963年
| style="text-align: right;" | 38,168
| style="text-align: right;" | 179
| [[ファイル:B30.png]][[ファイル:B10.png]][[ファイル:B05.png]][[ファイル:B01.png]][[ファイル:B01.png]] 0.47%
|-
| 1964年
| style="text-align: right;" | 84,691
| style="text-align: right;" | 146
| [[ファイル:B10.png]][[ファイル:B05.png]][[ファイル:B01.png]][[ファイル:B01.png]] 0.17%
|-
| 1965年
| style="text-align: right;" | 117,340
| style="text-align: right;" | 326
| [[ファイル:B10.png]][[ファイル:B10.png]][[ファイル:B05.png]][[ファイル:B03.png]] 0.28%
|-
| 1966年
| style="text-align: right;" | 197,164
| style="text-align: right;" | 144
| [[ファイル:B05.png]][[ファイル:B01.png]][[ファイル:B01.png]] 0.07%
|-
| 1967年
| style="text-align: right;" | 201,447
| style="text-align: right;" | 171
| [[ファイル:B05.png]][[ファイル:B03.png]] 0.08%
|-
| 1968年
| style="text-align: right;" | 14,000
| style="text-align: right;" | 271
| [[ファイル:B100.png]][[ファイル:B50.png]][[ファイル:B30.png]][[ファイル:B10.png]][[ファイル:B10.png]][[ファイル:B03.png]][[ファイル:B01.png]] 1.94%
|-
| 1969年
| style="text-align: right;" | 13,000
| style="text-align: right;" | 109
| [[ファイル:B50.png]][[ファイル:B30.png]][[ファイル:B05.png]][[ファイル:B01.png]][[ファイル:B01.png]] 0.84%
|-
| 1970年
| style="text-align: right;" | 13,500
| style="text-align: right;" | 36
| [[ファイル:B10.png]][[ファイル:B10.png]][[ファイル:B05.png]][[ファイル:B01.png]][[ファイル:B01.png]] 0.27%
|-
| 1971年
| style="text-align: right;" | 11,703
| style="text-align: right;" | 44
| [[ファイル:B30.png]][[ファイル:B05.png]][[ファイル:B03.png]] 0.38%
|-
| 1972年
| style="text-align: right;" | 16,685
| style="text-align: right;" | 7
| [[ファイル:B03.png]][[ファイル:B01.png]] 0.04%
|-
| 1973年
| style="text-align: right;" | 9,800
| style="text-align: right;" | 19
| [[ファイル:B10.png]][[ファイル:B05.png]][[ファイル:B03.png]][[ファイル:B01.png]] 0.19%
|-
| 1974年
| style="text-align: right;" | 11,125
| style="text-align: right;" | 5
| [[ファイル:B03.png]][[ファイル:B01.png]] 0.04%
|-
| 1975年
| style="text-align: right;" | 10,000
| style="text-align: right;" | 9
| [[ファイル:B05.png]][[ファイル:B03.png]][[ファイル:B01.png]] 0.09%
|-
| 1976年
| style="text-align: right;" | 13,750
| style="text-align: right;" | 4
| [[ファイル:B03.png]] 0.03%
|-
| 1977年
| style="text-align: right;" | 10,000
| style="text-align: right;" | 3
| [[ファイル:B03.png]] 0.03%
|-
| 1978年
| style="text-align: right;" | 8,000
| style="text-align: right;" | 0
| 0%
|-
| 1979年
| style="text-align: right;" | 8,233
| style="text-align: right;" | 0
| 0%
|-
| 1980年
| style="text-align: right;" | 8,035
| style="text-align: right;" | 0
| 0%
|}
</div><div style="margin-top:0em;">
{| class="wikitable" style="font-size:88%; margin-top:0em;"
|+ style="margin-top:0em" | セルカリア感染ミヤイリガイ検査
|-
! 年度 !! 対象貝数 !! 感染数 !! 割合
|-
| 1961年
| style="text-align: right;" | 15,402
| style="text-align: right;" | 44
| [[ファイル:B10.png]][[ファイル:B10.png]][[ファイル:B05.png]][[ファイル:B03.png]][[ファイル:B01.png]] 0.29%
|-
| 1962年
| style="text-align: right;" | 8,172
| style="text-align: right;" | 13
| [[ファイル:B10.png]][[ファイル:B05.png]][[ファイル:B01.png]] 0.16%
|-
| 1963年
| style="text-align: right;" | 4,877
| style="text-align: right;" | 24
| [[ファイル:B30.png]][[ファイル:B10.png]][[ファイル:B05.png]][[ファイル:B03.png]][[ファイル:B01.png]] 0.49%
|-
| 1964年
| style="text-align: right;" | 1,183
| style="text-align: right;" | 1
| [[ファイル:B05.png]][[ファイル:B03.png]] 0.08%
|-
| 1965年
| style="text-align: right;" | 4,988
| style="text-align: right;" | 15
| [[ファイル:B30.png]] 0.30%
|-
| 1966年
| style="text-align: right;" | 6,410
| style="text-align: right;" | 6
| [[ファイル:B05.png]][[ファイル:B03.png]][[ファイル:B01.png]] 0.09%
|-
| 1967年
| style="text-align: right;" | 5,275
| style="text-align: right;" | 1
| [[ファイル:B01.png]][[ファイル:B01.png]] 0.02%
|-
| 1968年
| style="text-align: right;" | 2,227
| style="text-align: right;" | 0
| 0%
|-
| 1969年
| style="text-align: right;" | 2,997
| style="text-align: right;" | 2
| [[ファイル:B05.png]] 0.05%
|-
| 1970年
| style="text-align: right;" | 3,085
| style="text-align: right;" | 6
| [[ファイル:B10.png]][[ファイル:B05.png]][[ファイル:B03.png]][[ファイル:B01.png]] 0.19%
|-
| 1971年
| style="text-align: right;" | 6,762
| style="text-align: right;" | 0
| 0%
|-
| 1972年
| style="text-align: right;" | 8,219
| style="text-align: right;" | 18
| [[ファイル:B10.png]][[ファイル:B10.png]][[ファイル:B01.png]][[ファイル:B01.png]] 0.22%
|-
| 1973年
| style="text-align: right;" | 41,649
| style="text-align: right;" | 19
| [[ファイル:B05.png]] 0.05%
|-
| 1974年
| style="text-align: right;" | 11,428
| style="text-align: right;" | 7
| [[ファイル:B05.png]][[ファイル:B01.png]] 0.06%
|-
| 1975年
| style="text-align: right;" | 31,756
| style="text-align: right;" | 8
| [[ファイル:B03.png]] 0.03%
|-
| 1976年
| style="text-align: right;" | 25,333
| style="text-align: right;" | 3
| [[ファイル:B01.png]] 0.01%
|-
| 1977年
| style="text-align: right;" | 40,493
| style="text-align: right;" | 0
| 0%
|-
| 1978年
| style="text-align: right;" | 28,444
| style="text-align: right;" | 0
| 0%
|-
| 1979年
| style="text-align: right;" | 38,578
| style="text-align: right;" | 0
| 0%
|-
| 1980年
| style="text-align: right;" | 37,751
| style="text-align: right;" | 0
| 0%
|}
</div>

=== 土地利用の転換と生活環境の激変 ===
[[File:Kofu Basin Peach blossom and the Minami Alps.JPG|thumb|230px|2011年4月の甲府盆地。市街地や住宅地、そしてモモとブドウに代表される果樹園は増えた。その一方で水田は減った。]]
保卵者数は猛威を振るっていた最盛期の[[1944年]](昭和19年)の6,590人をピークに減少に転じ、[[1960年代]]から[[1970年代|70年代]]初頭にかけ急激に減少した。これにはコンクリート化と新薬による殺貝だけでなく、いくつかの複合的な要因が考えられている<ref name="fukugo">小林(1998) pp.204-208</ref>。
*第一の要因として、戦後の甲府盆地における産業転換に伴う'''土地利用の変化'''が挙げられる。古くから[[稲作]]が中心であった甲府盆地中西部の農業形態は、[[モモ]]や[[サクランボ]]や[[ブドウ]]などの[[果樹]]栽培へ転換され、長期間にわたって水を張った状態を必要とする[[水田]]が激減し、ミヤイリガイの生息地を結果的に狭め追いやった。これは有病地の特に[[釜無川]]右岸地域一帯で顕著であった。甲府盆地中央部においても[[高度経済成長]]に伴う[[宅地開発]](県営玉川団地({{ウィキ座標|35|37|57.2|N|138|31|53.8|E|region:JP|地図|name=県営玉川団地}})、[[甲府リバーサイドタウン]]({{ウィキ座標|35|36|36.4|N|138|30|40.8|E|region:JP|地図|name=甲府リバーサイドタウン}})等)や、大規模な[[工業団地]]([[国母工業団地]]({{ウィキ座標|35|37|3.5|N|138|33|6.6|E|region:JP|地図|name=国母工業団地}})、[[釜無工業団地]]({{ウィキ座標|35|37|35.8|N|138|31|5.9|E|region:JP|地図|name=釜無工業団地}})等)の造成により次々に水田は姿を消していった<ref>中村磐男、大江敏江 「河川環境の復元と感染症:ツツガムシ病や住血吸虫症は再燃(再流行)するか」 『聖学院大学論叢,23(1)』 2010年 pp.116</ref>。
*第二の要因として、'''農耕の機械化'''が挙げられる。水田が減ったことに加えて機械化が進んだことにより農作業用の家畜がほとんど消え、ウシなどの感染家畜の糞便による虫卵が激減した<ref name="fukugo"/>。
*第三の要因として、家庭で使用されていた'''[[合成洗剤]]の排水'''によるセルカリアへの殺傷効果が挙げられる。昭和40年代はまだ、合成洗剤の規制や制限が行政から指導されておらず、また[[下水道]]の普及も遅れていた甲府盆地では合成洗剤を含んだ排水は、いわば垂れ流し状態であった。本来であれば非難される垂れ流しも、殊、日本住血吸虫に対しては怪我の功名とも言える<ref name="fukugo"/>。実際に、[[久留米大学]]教授の塘普(つつみひろし)が[[1982年]](昭和57年)に行った実験によると、一般家庭で使われる濃度0.14-0.25パーセントの合成洗剤溶液にセルカリアを投じると5分以内に全て死滅し、さらに溶液を100倍に薄め同様に試しても、セルカリアは24時間以内に全て死滅することが実証されている<ref>小林(1998) p.208</ref>。

これらは地方病対策として意図的に行われたものではないが、高度成長期における日本のさまざまな生活環境の激変や[[都市化]]が、殺貝剤散布やコンクリート化などと相乗効果となり、結果的に日本住血吸虫の撲滅へ寄与した<ref>中村磐男、大江敏江 「河川環境の復元と感染症:ツツガムシ病や住血吸虫症は再燃(再流行)するか」 『聖学院大学論叢,23(1)』 2010年 pp.117</ref><ref>梶原徳昭 保阪幸男 「中間宿主ミヤイリガイの殺貝による日本住血吸虫症の制圧」 『住血吸虫症と宮入慶之助-ミヤイリガイ発見から90年』 宮入慶之助記念誌編纂委員会編 (2005)、pp.189-198</ref>。やがて新規感染者と考えられる低年齢者の保卵者数の割合が低下し、[[1966年]](昭和41年)以降の調査では保卵者の大部分が35歳以上で占められるようになった<ref name="horimi"/>。

=== 115年目の終息宣言 ===
[[File:Yamanashi hygiene environmental research institute.JPG|right|thumb|230px|山梨県衛生公害研究所({{ウィキ座標|35|40|19.5|N|138|32|59.9|E|region:JP|地図|name=山梨県衛生環境研究所}}・現山梨県衛生環境研究所)戦後の地方病対策研究の中心的機関であった。<small>(2011年8月撮影)</small>]]
[[File:Monument of Schistosoma japonicum disease end.JPG|right|thumb|230px|地方病流行終息の石碑、山梨県知事天野建筆<ref group="†">国指定天然記念物であった「鎌田川ゲンジボタル」指定石碑(昭和町押越)の隣に2002年12月に建立された。そのあと2010年の風土伝承館杉浦醫院オープンに伴い杉浦醫院の庭に移設された。石碑の下部には医院の屋根に使用されていた[[瓦]]が、終息に要した年数と同じ115枚並べられている</ref>。<small>(2010年9月撮影)</small>]]
甲府盆地では[[1978年]](昭和53年)に、韮崎市内で発生した1名の急性日本住血吸虫症確認を最後に<ref>韮崎市内で急性シスト患者が発生。これ以降の甲府盆地での発症事例は無い。また日本国内最後の発症事例でもある。林(2000) p.80</ref>、これ以降の新たな感染者の発生は確認されなくなった。セルカリアに感染・寄生したミヤイリガイも、撲滅こそされていないが、同時期以降には発見されなくなった。[[1985年]](昭和60年)には虫卵[[抗原]]に対する[[抗体]]陽性者(皮内反応検査)の平均年齢が60.6歳に達するなど、保卵者数の低下及び、罹患者の年齢構成の高齢化から、本疾患の流行は[[1980年代]]初め頃に終息したものと考えられている<ref name="minaiB"/>。その後の[[1990年]](平成2年)から3年間に及ぶ、甲府盆地の小中高生児童生徒4,249名を対象にした[[集団検診]]でも感染者はひとりもおらず全員陰性であった<ref>[http://idsc.nih.go.jp/iasr/CD-ROM/records/15/17206.htm 国立感染症研究所感染症情報センター 1994年6月vol.15] 2011年7月30日閲覧</ref>。

こうした経緯を経て、山梨県知事の[[諮問機関]]である'''山梨地方病撲滅対策促進委員会'''(刑部源太郎会長)は、地方病患者が1978年以降発生していないこと、感染ミヤイリガイが1977年以降発見されていないことなどを根拠に、[[1995年]](平成7年)11月15日、「山梨地方病の流行は終息し安全である」旨の中間報告書を同県知事に提出し<ref>山梨日日新聞社編 『山梨の20世紀』「地方病殺貝にピリオド」 平成7年11月16日付 同新聞紙面 2000年8月10日第1刷発行 p.191 ISBN 4-89710-696-6</ref><ref>[http://idsc.nih.go.jp/iasr/CD-ROM/records/17/19405.htm 国立感染症研究所感染症情報センター 1996年4月vol.17] 2011年7月30日閲覧</ref>、翌年2月の山梨県議会において、ミヤイリガイは依然生息するものの「再流行の原因となる可能性はほとんどない」と議決され、当時の山梨県県知事[[天野建]]により'''地方病終息宣言'''が出された。

1881年(明治14年)8月27日の、旧春日居村からの嘆願に始まった地方病問題は、[[1996年]](平成8年)[[2月13日]]、実に115年目にして終息を迎えた。

ただし、これは日本住血吸虫の撲滅であって、中間宿主であるミヤイリガイが山梨県内で完全に撲滅されたわけではない。可能性は極めて低いものの、中間宿主であるミヤイリガイが存在する限り起こり得る、輸入ペットや外国人保卵者など[[感染症#公衆衛生学的な分類|輸入感染]]による再流行([[再興感染症]])の危険性も指摘されている<ref>小林(1998) pp.220-221</ref><ref>中村磐男、大江敏江「河川環境の復元と感染症:ツツガムシ病や住血吸虫症は再燃(再流行)するか」 『聖学院大学論叢,23(1)』 2010年 pp.118</ref>。山梨県では2010年現在も住民や行政によって定期的に、ミヤイリガイの生息調査や監視活動が、さらには小中高生を対象とした地方病の集団検診も引き続き行われている<ref>[http://www.pref.yamanashi.jp/toukei_2/book/22nenkan00.html#16 平成22年刊行 山梨県統計年鑑] 2011年7月22日閲覧</ref>。また、終息宣言の1996年からは山梨県衛生公害研究所により、甲府盆地西部に残ったミヤイリガイ生息地において[[グローバル・ポジショニング・システム|GPS]]を利用した定点観測が行われ、[[地理情報システム|GIS]]ソフトによってリスクマップの作成や詳細な生息地データの作成調査が継続的に行われている<ref>二瓶直子 「GPSで住血吸虫症流行を追う」 『住血吸虫症と宮入慶之助-ミヤイリガイ発見から90年』 宮入慶之助記念誌編纂委員会編 (2005)、pp.199-208</ref>。

なお、2011年現在も日本国内の複数の大学や研究所で、ミヤイリガイは産地別に飼育されており、日本国内の[[自然界]]では撲滅された日本住血吸虫の本体もミヤイリガイとともに飼育されている。これは万一の再流行に備え、前述した皮内反応診断に必要な抗原を製造するために不可欠だからである<ref>小林(1998) pp.232-233</ref>。

かくして古くから謎に包まれていた地方病(日本住血吸虫症)は、世代を超えて多くの人々の努力により病原の解明、感染メカニズムの解明が行われ、日本国内では病気の撲滅が成し遂げられた。しかしその一方で、なぜミヤイリガイが甲府盆地をはじめとする限られた地域にのみ生息していたのかという疑問は解明されておらず、[[生物学]]、[[遺伝学]]、[[地質学]]、[[気象学]]、[[地理学]]など、あらゆる観点からの研究が行われているが、依然として大きな謎のままである<ref>小林(1998) pp.225-226</ref>。

== 地方病対策の負の側面 ==
ミヤイリガイ駆除で使われた殺貝剤や<ref>[http://www.biodic.go.jp/reports/2-3/a284.html 第2回自然環境保全基礎調査 2-7 動物分布調査(昆虫類)2.指標昆虫類種類別解説 10)ゲンジボタル Luciola cruciata] 2011年7月30日閲覧</ref>、鎌田川流域など河川のコンクリート化により<ref>{{PDFlink|[http://www.mimura.city-chuo.ed.jp/mati/watasitati.pdf わたしたちのまち たまほ]}} pp.103 2011年7月30日閲覧</ref>、山梨県の[[ゲンジボタル]]は個体数が減り、生息地も減少した。特に鎌田川({{ウィキ座標|35|37|56.5|N|138|32|21.3|E|region:JP|地図|name=国指定天然記念物鎌田川ゲンジボタル発生地}})の支流である常永川は、昭和51年までは国指定[[天然記念物]]の<ref name="oshihara">[http://www.oshi-es.showacho.ed.jp/hotarutosyouwa.html 押原小とホタルの歴史~なぜホタルの校章なの?~] 2011年7月30日閲覧</ref>、[[1983年]](昭和58年)までは天然記念物指定地の
<ref>[http://www.yamanashi-kankou.jp/nature/summer.html 富士の国やまなし観光ネット 夏のほたる] 2011年7月30日閲覧</ref>指定を受けていたが、個体数の減少により解除された。これはゲンジボタルの幼虫の餌となる貝、カワニナがミヤイリガイとよく似た形態・生態であったことも関係している<ref name="oshihara"/>。このことを踏まえて杉浦醫院にある池にはホタルが生息できるようにしている<ref>[http://sugiura-iinkai.blogspot.com/ 昭和町風土伝承館杉浦醫院整備保存活用検討委員会からのお知らせ 2010年11月8日月曜日 山梨県昭和町が杉浦父子の医院を保存] 2011年7月30日閲覧</ref>。また2011年現在、釜無川や笛吹川の流域ではホタルの勉強会や幼虫放流会が行われている
<ref>[http://www.fuefuki-syunkan.net/2011/hotaruginga.html ふえふき旬感ネット ホタル舞い飛ぶ里を目指して!] 2011年7月30日閲覧</ref><ref>[http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/yamanashi/kikaku/005/440.htm 今夏も元気に舞ってね ホタルの幼虫放流式 [[YOMIURI ONLINE]]] 2011年7月30日閲覧</ref>。

他にも旧[[田富町]](現[[中央市]])にあった臼井沼({{ウィキ座標|35|36|13.5|N|138|30|49.4|E|region:JP|地図|name=臼井沼跡地}})は、野鳥の生息地として山梨県民に知られていたが埋め立てられた<ref name="59-shigikai">[http://www.city.kofu.yamanashi.jp/gikai/gijiroku/1984/8412_t/841224.htm 昭和59年12月甲府市議会定例会議事日程(5)]2011年7月31日閲覧</ref>。これは田富町の住民が総決起大会を開き、地方病撲滅のためには沼を埋め立てるしかないと決議したためである。野鳥保護団体は「渡り鳥の中継地として貴重」と反論したが、結局は県議会でも議題に上り、埋め立てることが確定した<ref>[http://www.ypec.ed.jp/webkyou/tiikitanbo/sizen/miyairi.htm 地域探訪 地方病とミヤイリ貝]2011年7月31日閲覧</ref>
<ref>[http://www.yy-net.org/blog/02029/blog/archive/2010/05/242056205932.html 山梨観光わいわいねっと 日本住血吸虫症(地方病)流行終焉の地]2011年7月31日閲覧</ref>。その後、最終的に臼井沼は[[富士観光開発]]が分譲住宅地として開発し<ref name="59-shigikai"/>、甲府リバーサイドタウンになった<ref group="†">臼井という地名は、2011年現在もリバーサイドタウンの近辺に臼井阿原として残っている。</ref>。

== 年表 ==
感染メカニズムが解明された[[1913年]]([[大正]]2年)までの出来事は、ほぼ時系列通りに記述したが、それ以降は「感染予防対策」、「治療、診断法開発」、「ミヤイリガイ撲滅運動」など、複数の対策が同時に進行していったため、これらを時系列通りに記述すると煩雑になるため、「[[#ミヤイリガイ(宮入貝)の発見]]」節以降から「[[#甲府盆地の水路のコンクリート化]]」節までは、個別の対策ごとに経緯を記述した。補足として、ここでは年表形式で地方病の歴史を記す。
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small;"
|-
!西暦
!年号
!出来事
|-
|[[1582年]]||[[天正]]10年||align="left"|地方病と推察される疾患を患った武田家家臣[[小幡昌盛|小幡豊後守昌盛]]が[[武田勝頼]]へ暇乞いに訪れる。後に『[[甲陽軍鑑]]』において「脹満」と表現され記載された。
|-
|[[1700年]]頃||[[元禄]]年間||align="left"|水腫脹満の民間療法薬が竜王村界隈で販売される。
|-
|[[1862年]]頃||[[文久]]年間||align="left"|流行地に嫁ぐ娘の悲壮を唄った俗謡が有病地の村々で唄われ始める。
|-
|[[1874年]]||[[明治]]7年||align="left"|[[中巨摩郡]]宮沢村、大師村の村民が離村を申し出る。
|-
|[[1881年]]||明治14年||bgcolor="yellow" align="left"|[[東山梨郡]]春日居村戸長、田中武平太より'''水腫脹満に関する御指揮願い'''が[[山梨県知事|山梨県令]][[藤村紫朗]]宛てに提出される。
|-
|[[1886年]]||明治19年||align="left"|[[軍医]]石井良斉による[[徴兵検査]]により当疾患が確認され[[軍部]]へ報告される。
|-
|[[1887年]]頃||明治20年頃||align="left"|この頃より同疾患が「地方病」と呼ばれ始める。
|-
|[[1897年]]||明治30年||bgcolor="yellow" align="left"|'''杉山なか[[解剖]]が行われ、[[肝臓]]等に虫卵が発見される。'''
|-
|[[1902年]]||明治35年||align="left"|『山梨県に於ける一種の肝脾肥大の原因に就て』と題した討論会が山梨県病院で開催される。
|-
|[[1904年]]||明治37年||bgcolor="yellow" align="left"|'''桂田富士郎、三神三朗により[[日本住血吸虫]]が発見される。'''
|-
|rowspan="2"|[[1909年]]||rowspan="2"|明治42年||align="left"|県医師会会長喜多島豊三郎により山梨地方病研究部が設立される。
|-
|align="left"|藤浪鑑らにより'''経皮感染であることが実証'''される。
|-
|[[1913年]]||[[大正]]2年||bgcolor="yellow" align="left"|'''中間宿主ミヤイリガイが宮入慶之助によって発見される。'''この発見により地方病の原因は全て解明される。
|-
|[[1914年]]||大正3年||align="left"|土屋岩保によるミヤイリガイ殺貝実験が開始される。
|-
|[[1916年]]||大正5年||align="left"|児童への予防啓蒙冊子'''俺は地方病博士だ'''が作成配布される。
|-
|[[1917年]]||大正6年||align="left"|地域住民によるミヤイリガイの拾い集めが始まる。
|-
|[[1923年]]||大正12年||align="left"|駆虫薬'''スチブナールが開発'''され治療実験が行われ実用化される。
|-
|rowspan="2"|[[1925年]]||rowspan="2"|大正14年||align="left"|'''山梨地方病撲滅期成組合が設立'''される。
|-
|align="left"|'''生石灰散布'''による殺貝作業が開始される。
|-
|[[1928年]]||[[昭和]]3年||align="left"|山梨県知事[[鈴木信太郎 (内務官僚)|鈴木信太郎]]より地方病予防撲滅費国庫補助申請書が内務大臣[[望月圭介]]宛に提出される。
|-
|[[1929年]]||昭和4年||align="left"|改良型便所の設置が奨励され始める。
|-
|[[1933年]]||昭和8年||align="left"|厚生省により、寄生虫病予防法施行細則及び'''有病地指定の告示'''がされる。
|-
|rowspan="2"|[[1938年]]||rowspan="2"|昭和13年||align="left"|殺貝剤が生石灰から'''石灰窒素'''へ転換される。
|-
|align="left"|水路のコンクリート化が始めて提唱される。
|-
|[[1943年]]||昭和18年||align="left"|地方病予防撲滅対策委員会が設立される。
|-
|rowspan="2"|[[1947年]]||rowspan="2"|昭和22年||align="left"|GHQにより甲府駅構内に地方病研究所が設置され、殺貝剤PCPが開発される。
|-
|align="left"|'''昭和天皇による山梨県への行幸が行われ、地方病有病地の視察が杉浦三郎の案内により行われる。'''
|-
|rowspan="2"|[[1949年]]||rowspan="2"|昭和24年||align="left"|佐々木孝により甲府盆地の'''水路コンクリート化実験'''が始まる。
|-
|align="left"|山梨県立医学研究所(2011年現在の山梨県衛生環境研究所)が創設される。
|-
|[[1953年]]||昭和28年||align="left"|殺貝剤が'''PCP'''に切り換えられる。
|-
|rowspan="2"|[[1956年]]||rowspan="2"|昭和31年||align="left"|'''溝渠コンクリート化が法制化される。'''
|-
|align="left"|集卵法MIFCが開発される。
|-
|[[1959年]]||昭和34年||align="left"|米軍より提供された抗原をもとに、山梨県医学研究所の大田秀浄により皮内反応検査が着手される。
|-
|rowspan="2"|[[1960年]]||rowspan="2"|昭和35年||align="left"|'''第1回有病地指定解除。'''<br />2月11日付け山梨県告示第35号をもって、増穂町長沢、櫛形町曲輪田、甲西町落合が初事例となる有病地指定の解除がされ、翌年以降も有病地解除は続いていく。
|-
|align="left"|山梨地方病撲滅協力会によるPR映画「人類の名のもとに」が作成される。
|-
|[[1966年]]||昭和41年||align="left"|新殺貝剤'''ユリミン'''の実用化試験が始まる。
|-
|[[1967年]]||昭和42年||align="left"|身延線沿線溝渠コンクリート化工事着手。
|-
|[[1968年]]||昭和43年||align="left"|ユリミン実用化。
|-
|rowspan="2"|[[1973年]]||rowspan="2"|昭和48年||align="left"|殺貝剤PCPの使用中止。
|-
|align="left"|臼井沼を富士観光開発が買収。
|-
|[[1976年]]||昭和51年||align="left"|新殺貝剤'''B2'''実用化。
|-
|[[1978年]]||昭和53年||align="left"|韮崎市内で急性日本住血吸虫症の発症事例が確認される。結果的に最後の新規感染者となった。
|-
|[[1985年]]||昭和60年||align="left"|皮内反応による保卵者の平均年齢が始めて60歳を超える。新規感染者及び感染ミヤイリガイも全く確認できなくなる。
|-
|[[1996年]]||[[平成]]8年||bgcolor="yellow" align="left"|当時の山梨県知事[[天野建]]により'''地方病終息宣言'''が出され、115年に及ぶ地方病対策は終息を迎えた。<br />同時に地方病撲滅対策促進委員会が地方病監視対策促進委員会に改名される。
|-
|[[2001年]]||平成13年||align="left"|地方病監視対策促進委員会を解散。
|-
|[[2010年]]||平成22年||align="left"|昭和町の旧杉浦医院が[[風土伝承館杉浦醫院]]としてオープン。
|}

== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=†}}
=== 引用 ===
;死体解剖御願
{{Reflist|group=Anatomy Original offer}}
;俺は地方病博士だ
<references group="Schistosoma booklet"/>

=== 出典 ===
<div class="references-small">{{reflist|2}}</div>

== 参考文献 ==
=== 書籍 ===
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** 保阪幸男「日本住血吸虫の生態学」
** 安羅岡一男「発育・発育史」
** 大塚裕「生理・生化」
** 飯島利彦「日本住血吸虫の疫学生態学」
** 堀見利昌「山梨県における分布」
** 横山宏「日本住血吸虫病の病理」
** 石崎達「日本住血吸虫病の症状」
** 加茂悦爾「急性症状」
** 井内正彦「慢性症状」
** 有泉信「脳合併症(脳症型日本住血吸虫病)」
** 林正高「急性および慢性日本住血吸虫症と脳機能障害との関係」
** 辻守康「日本住血吸虫病の免疫臨床」
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=== 論文 ===
* {{Cite journal|和書 |author=多田功 |year=2008 |month= |title={{PDFlink|[http://www.jstage.jst.go.jp/article/tmh/36/3SUPPLEMENT/S49/_pdf/-char/ja/ 日本における寄生虫防圧とその特質]}} |journal=Tropical Medicine and Health Vol.36 №3 Supplement 2008 |issue= |pages=46-68 |publisher=日本熱帯医学会 }}

== 関連項目 ==
* [[寄生虫病予防法]]
* [[風土伝承館杉浦醫院]]
* [[山梨県立博物館]]:山梨県衛生公害研究所保管資料5387点が移管され、常設展示のうち共生する社会 『地方病との戦い』において 撲滅に向けた啓蒙活動冊子、殺貝に使われた器具など関係資料を展示している。

== 外部リンク ==
{{Commonscat|Schistosoma japonicum}}
=== ウェブサイト ===
* [http://www.ypec.ed.jp/yamakai/yamakai%2086.html やまかいの四季 住血吸虫病って何だろう] - [[山梨県教育委員会]]峡南教育事務所地域教育推進担当
* [http://www5.ocn.ne.jp/~miyairi/miyairi11.htm 山梨県とミヤイリガイ] - 宮入慶之助記念館
* [http://idsc.nih.go.jp/iasr/CD-ROM/records/15/image/I1720601.HTM 山梨県日本住血吸虫流行地における検査成績] - 国立感染症研究所感染症情報センター
* [http://kaz794889.exblog.jp/14119453/ 峡陽文庫 俺は地方病博士だ] - 子供に配られた地方病の啓発冊子。

=== 展示 ===
* [http://sugiura-iin.com/index.html 山梨県昭和町 風土伝承館 杉浦醫院]
* [http://www5.ocn.ne.jp/~miyairi/miyairi01-1.htm 宮入慶之助記念館] - 特定非営利活動法人
* [http://www.museum.pref.yamanashi.jp/4th_tenjiannai_17chihobyo.htm 山梨県立博物館]- 常設展示 地方病との戦い

=== 映像 ===
* [http://www.kagakueizo.org/2010/08/post-312.html NPO法人科学映像館 ライブラリー、地方病との斗い 第一部 「水腫脹満」 企画:山梨県地方病撲滅協会 製作:東京文映株式会社1978年 モノクロ20分]
* [http://www.kagakueizo.org/2010/09/post-313.html NPO法人科学映像館 ライブラリー、地方病との斗い 第二部 「治療と駆除」 企画:山梨県地方病撲滅協会 製作:東京文映株式会社1978年 モノクロ26分]
* [http://www.kagakueizo.org/2010/12/post-329.html NPO法人科学映像館 ライブラリー、人類の名のもとに 資料提供:山梨県/米陸軍第406総合医学研究所/山梨県中巨摩郡昭和町 製作:日映科学映画製作所1959年 モノクロ30分]

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2011年10月8日 (土) 15:02時点における版

肝臓に蓄積した日本住血吸虫の卵殻。甲府盆地の住民を苦しめた。
甲府盆地(定期航空機より2006年11月13日)左上方から中央部に弧状を描き下方へ流れるのが釜無川、右方向から左下方へ流れるのが笛吹川
地方病(日本住血吸虫症)撲滅に尽力した杉浦健造医師の胸像(2010年9月撮影)
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この項目では、日本住血吸虫症山梨県での呼び名である地方病(ちほうびょう)について記述する。

この疾患は、住血吸虫類に分類される寄生虫である、日本住血吸虫(にほんじゅうけつきゅうちゅう)の寄生によって発症する寄生虫病であり、ヒトを含む哺乳類全般の、血管内部に寄生感染する人獣共通感染症でもある[1]

病名及び原虫に日本の名が冠されているのは、疾患の原因となる病原体(日本住血吸虫)の生体が、日本国内(現在の山梨県甲府市)で、世界で最初に発見されたことによるものであって、日本国内固有の疾患というわけではない。日本住血吸虫症は中国フィリピンを中心に年間数千人から数万人の新規感染患者が発生しており、世界保健機関(WHO)[2][3]によって2011年現在も、さまざまな対策が行われている[4]。日本国内では1978年(昭和53年)に、山梨県内で発生した新感染者確認を最後に発生しておらず、1996年(平成8年)の山梨県における終息宣言をもって、日本国内での日本住血吸虫症は撲滅されている。日本は住血吸虫症を撲滅した世界唯一の国である[5][† 1]

日本国内での日本住血吸虫症流行地は、山梨県甲府盆地底部一帯、利根川下流域の茨城県及び千葉県の一部、芦田川流域の広島県深安郡神辺町片山地区、筑後川下流域の福岡県及び佐賀県の一部などであり、当疾患はごく限られた特定の地域にのみ、かつて存在した風土病であった[6][7][8]。中でも甲府盆地底部一帯は日本国内最大の罹病地帯[† 2](以下、有病地と記述する)であり、この病気の原因究明開始から、原虫の発見、治療、予防、終息宣言に至る歴史の中心的地域であった。

当疾患の正式名称は日本住血吸虫症Schistosomiasis japonica[9]であるが、山梨県では官民双方広く一般的に地方病と呼ばれており、原因解明への模索開始から終息宣言に至るまで100年以上の歳月を要するなど、罹患者や地域住民をはじめ、研究者や郷土医たちによる地方病との闘いの歴史は山梨県の近代医療の歴史でもある。

この項目では甲府盆地における地方病撲滅の経緯を記述する。なお、全体の時系列は#年表も参照のこと。

日本住血吸虫の生態について
住血吸虫症全般の症状について

甲府盆地の奇病

水腫脹満

地方病(日本住血吸虫症)により、腹水が溜まった重症患者。

この疾患がいつから山梨県で「地方病」[† 3]と呼ばれるようになったのかを明確に記したものは無いが、明治20年代の始め頃には甲府盆地の地元開業医の間で「地方病」と称し始めていた[10]ことが、各種資料文献などによって確認することが出来る[11]。医学的に「日本住血吸虫症」と呼ばれるようになったのは、病原寄生虫が発見され、病気の原因が寄生虫によるものであると解明されてからのことである。

腹部が大きく膨らむ特徴的な症状から、古くは水腫脹満(すいしゅちょうまん)、はらっぱり、などと呼ばれていた「地方病」は、以下に示す文献から、少なくとも近世段階にはすでに甲府盆地で流行していたものと考えられている。

近世初頭に原本が成立した全五十九品(章)からなる兵書である、甲陽軍鑑品第五十七の文中に、武田家臣の小幡豊後守昌盛が重病のため武田勝頼へ暇乞いに来る場面があり、この中に、積聚の脹満(しゃくじゅのちょうまん)と書かれた記述がある。積聚(しゃくじゅ)とは腹部の異常を指す東洋医学用語であり、脹満(ちょうまん)とは、腹部だけが膨らんだ状態を意味している。積聚の脹満とはつまり、腹部の病気で腹が膨らんだ状態を描写したものである。さらに、籠輿(かご)に乗って主君である勝頼の元へ出向いているのは、この時すでに昌盛が歩くことすら出来なくなっていたからであると考えられ、これらの記述内容は典型的な地方病の疾患症状に当てはまる[12]

豊後、巳の年1579年天正7年)霜月より煩、積聚(腹部)の脹満なれ共、籠輿に乗今生の御暇乞と申。勝頼公御涙を流され…… — 甲陽軍鑑、品第五十七
武田二十四将図(武田神社所蔵品)に描かれた小幡豊後守昌盛。下から2列目の最右に描かれた人物。

これは天目山の戦い直前の、天正10年3月3日ユリウス暦では1582年3月26日、現在のグレゴリオ暦に換算すると1582年4月5日[13])、勝頼一行が新府城を捨て岩殿城へ向かう途中で立ち寄った、甲斐善光寺門前での出来事を記したものであり、小幡豊後守昌盛はこの3日後に亡くなっている。この『甲陽軍鑑』のくだりが、地方病を記録した最古の文献であると考えられている[14][15][16]。その後江戸時代中期の元禄年間には、竜王村界隈(現在の甲斐市竜王町)で「水腫脹満」の薬と称した民間療法薬が販売されていた伝承が残されている[12]

地方病に罹患した患者の多くが初期症状として発熱下痢を発症するが、初期症状だけの軽症で治まるものもいた。しかし感染が重なり慢性になった重症の場合、時間の経過と共に手足が痩せ細り、皮膚は黄色く変色し、やがて腹水により腹部が大きく脹れ、介護なしでは動けなくなり死亡した[17]

今日の医学的見地に当てはめると、肝臓などの臓器に寄生虫の虫卵が蓄積されることによる肝不全から肝硬変を経て、罹患者の血管内で次々に産卵される虫卵が、静脈血管に詰まって塞栓を起こすことにより門脈の血圧が上昇する。その結果門脈圧亢進症が進行し腹部静脈の怒張(腹水の原因)を起こし、最終的に食道静脈瘤の破裂といった致命的な事態に至る。これら種々の合併症が直接の死因である[1][18]。また、肝硬変から肝臓がんへ進行するケースも多く、さらに肝臓などの内臓のみならず、血流に乗った虫卵がへ蓄積する場合もあり、片麻痺失語症けいれんなどの重篤な脳疾患を引き起こすこともあった[19][20][21]

甲斐国の人々は、腹水がたまり太鼓腹になったら最後、決して回復せず確実に死ぬことを、幼い頃から見たり聞いたりしていた。また、発症するのは貧しい農民ばかりで、裕福層に罹患する者がほとんど無かったことから、多くの患者が医者に掛かることもなく死亡したものと推察されている。地方病の感染メカニズムを、知識として知ることの出来る現代の視点から見れば、農民ばかりが罹患した理由も明らかである。しかし、近代医学知識の無かった時代の人々にとっては原因不明の奇病であり、小作農民の生業病、甲府盆地に生まれた人間の宿命とまで言われていた。

やがて幕末の頃になると甲府盆地の人々の間で、この奇病に因んだことわざが生まれた。

水腫脹満 茶碗のかけら

すなわち、この病に罹ると、割れた茶碗同様、役に立たない廃人になり世を去るという意味[22]ことわざである。

また、発症する地域がある程度限定されていたことから、流行地へ嫁ぐ娘の心情を嘆く俗謡のようなものが、幕末文久年間の頃より唄われ始めた[23]

嫁にはいやよ野牛島(やごしま)は、能蔵池葭水(のうぞういけあしみず)飲む辛さよ北緯35度40分6.4秒 東経138度28分47.2秒[† 4]
竜地(りゅうじ)、団子(だんご)(北緯35度41分43.2秒 東経138度29分54.7秒[† 5]へ嫁行くなら、背負って行け棺桶
中の割(なかのわり)(北緯35度41分9.6秒 東経138度26分32.5秒[† 6]に嫁行くなら、買ってやるぞえ経帷子に棺桶

このような、哀しい口碑民謡が有病地に残されている[12][24]

村を捨てた人々

大腸粘膜に蓄積した日本住血吸虫の卵殻。

1874年(明治7年)11月30日、甲府盆地の南西端に程近い宮沢村と大師村(現在の南アルプス市大明小学校付近、北緯35度35分26.4秒 東経138度28分30.1秒)2村の戸長を兼ねていた西川藤三郎は、49戸の村の世帯主を召集し離村についての提案を行った。同村付近は甲府盆地でも最も標高の低い低湿帯で、水腫脹満、すなわち地方病の蔓延地であった。当時この奇病の原因は解明されてはいなかったが、標高の高い高台の村々では、この病気がほとんど発生していないことを農民たちは知っており、先祖代々住み慣れた家や田畑を捨て、新たに開拓から始めるのは辛いが、このままでは村は全滅してしまうと、苦渋の決断をした。

明治新政府に入って間もないこの頃は、居住地を捨てるなどということが許されない封建制度から抜け出せない時代であり、一村移転などという住民運動が認められる訳はなかった。それに対し、身近な人々が次々に奇病に苦しみ死んでいく凄惨な状況に村人の離村への決意は固く、離村陳情書を毎年根気強く提出し続けた。明治新政府に村人の願いが通じ村の移転が聞き入れられたのは、30数年も経過した明治末年のことであった[25]

地方病を理由に村ごと移転したのは後にも先にもこの1例のみである。地方病は甲府盆地の隅々に蔓延しており、他の甲府盆地の住民は正体が分からず目に見えない地方病の恐怖に脅えながら暮らしていた。

病因解明期

原因不明の奇病であった地方病も、明治中期から大正初期にかけて、虫卵の発見、病原体(日本住血吸虫)の発見、感染経路の解明、中間宿主(ミヤイリガイ)の発見と、病気の原因となるメカニズムが比較的短期間に解明されていった。これらが全て日本人の手によって解明されたことは特筆すべきことである[26]

原因解明へ向けた取り組み

解明への端緒

御指揮願いに添付された春日居村の略図。

1881年(明治14年)8月27日、この奇病の原因解明への端緒となる嘆願書が提出された。東山梨郡春日居村(現在の笛吹市春日居町)の戸長である田中武平太により、当時の山梨県令藤村紫朗[† 7]宛に提出された嘆願書の水腫脹満に関する御指揮願いであった[27]。同村では古くから地方病が流行していたが、戸数約60戸ある村の東西(両端)に病気は無く、中央部にあたる小松地区(北緯35度39分50.3秒 東経138度39分41.3秒)だけに病気があることから、発生地域を示した村の略図を添えて県に請願を提出した[24][28]。「嗚呼哀しきかな。困苦見るを忍びず」と書かれた、この嘆願書は村人の壮絶な叫びであった[29]

1884年(明治17年)、県より派遣された医師により、小松地区の患者の診察、及び飲料水(井戸水)などの住環境を含む調査が行われたが病気の原因は不明であった[30]1887年(明治20年)になり、長町耕平県病院長と医員により当時一般化したばかりの糞便検査が行われ、その結果ある虫卵の発見に至り一種の鉤虫であろうと推察された[31]が、これが何の卵なのかはもちろん、当疾患との関連性もこの段階では分からなかった[32]

また同時期の1886年(明治19年)、徴兵検査のために山梨県を訪れた軍医石井良斉により、特定の有病地の村から来た20歳前後の男性の大半が、身長が140センチ強ほどの小学生程度しかなく、腹部は腹水により腫れ、手足は痩せ細り顔面は蒼白であることが判明し、明らかに何らかの栄養障害があるものと思われた[33][15]。これほどまでに明確な発育不良者が特定の地区に限って集団で発生していることは、日本各地を調査してきた軍医石井にとって驚くべきことであった。時代は日清戦争直前の富国強兵の世情であり[Schistosoma booklet 1]、石井からの報告を受けた軍部は事態を重く見て、藤村紫朗山梨県知事へ原因解明の要請がされた[24]

勇気ある遺言

解剖が行われた盛岩寺(甲府市向町)境内に建つ杉山なかの紀徳碑。解剖後、当時の東八代郡同盟医師会により建立された。(2011年5月撮影)

石和(現在の笛吹市石和町)在住の医師である吉岡順作はこの奇病に関心を持ち、患者を詳細に診察し、近代西洋医学的な究明を試みた最初期の医師である[34]。この病気は発病初期に腹痛を伴う血便黄疸、そして肝硬変をおこし、最終的に腹水が溜まる臨床症状から考えると、肝臓や脾臓に原因があることは明らかであった。しかし、酒を飲まない小児であっても発病するのでアルコール性肝硬変とも異なっていた。吉岡は患者の発生する地域分布図(地図)を作成したところ、笛吹川支流流域に沿った形で罹患者が分布していることが分かった。その上、病気のある地区では川遊びをする子供たちに対して「きれいだからと言ってホタルを取ると、腹が太鼓のようにふくれて死んでしまう」、「セキレイを取ると腹がふくれて死ぬ」[35]などの戒め、口承が残っていた。

これらのことから吉岡は、この奇病と河川が何らかの形で関係しているであろうことを突き止めた。しかしそれでも、病気の原因は分からなかった。万策尽きた吉岡はついに、死亡した患者を病理解剖して、病変を直接確かめるしかないと決断したが、当時の人々にとって解剖はおろか、手術によって開腹するなど世にも恐ろしいことと思われており、普段は威勢のよい男性でも死後とはいえ、自分の体を解剖されることには極度に脅えたと言われている[36]。実際に山梨県では明治中期の当時において解剖事例は皆無であった[36]

1897年(明治30年)5月下旬、1人の末期状態の女性患者が献体を申し出た。甲府と石和の間に広がる水田地帯であった西山梨郡清田村(現在の甲府市向町)在住の農婦、杉山なか(当時54歳)である[37][38][39]。なかは40歳を過ぎた頃より体調に異変を来たし、地方病特有の病状が進行し、典型的な水腫症状をおこした。穿刺による腹水除去が吉岡医師によって数回試みられたが効果が無く、やがて手の施しようのない状態に陥った。なかは「順作先生、私の腹の中にある地方病は何が原因なのでしょうか」と尋ねたが、原因が分からない吉岡は、「肝臓に原因があることは間違いないのだが、詳しいことは開腹して肝臓を直接確かめるしかないのです」と答えるしかなかった[40]

「私はこの新しい御世に生まれ合わせながら、不幸にもこの難病に罹り、多数の医師の仁術を給わったが、病勢いよいよ加わり、遂に起き上がることも出来ないようになり露命また旦夕に迫る。私は齢50を過ぎて遺憾はないが、まだこの世に報いる志を果たしていない。願うところはこの身を解剖し、その病因を探求して、他日の資料に供せられることを得られるのなら、私は死して瞑目できましょう。」
死体解剖御願、杉山なか。明治30年5月30日。[† 8][41][15][Anatomy Original offer 1]原文

吉岡の献身的な治療に全幅の信頼を寄せていたなかは、何故甲州の民ばかり、このような惨い病に苦しまなければならないのか、と病を恨みつつも、この病気の原因究明に役立ててほしいと、自ら死後の解剖を希望することを家族に告げる。最初は驚いた家族であったが、なかの切実な気持ちを汲んで同意し吉岡に伝えた。当時としては生前に患者が自ら解剖を申し出ることは椿事であり[36]、あまりのことに号泣した吉岡であったが、家族とともに彼女の願いを文章にし、明治30年5月30日付けで県病院(現在の山梨県立中央病院)宛に『死体解剖御願(おんねがい)を親族の署名と共に提出した。献体の申し出を受けた県病院長、県医師会は驚きながらも杉山家を訪ね、命を救えなかった医療の貧困を直接なかに詫び、涙ながらに何度も感謝の言葉をなかに伝えた[40]

なかは解剖願いを提出した6日後の6月5日に亡くなり、遺言通り翌6月6日、県病院から派遣された下平用彩医師執刀のもと[† 9]、杉山家の菩提寺である盛岩寺(せいがんじ、現在の甲府市向町、北緯35度38分42.1秒 東経138度37分2.4秒)の境内で解剖が行われた[42]。地方病患者の、という以前に山梨県では初の事例[36]となる病理解剖であったため、甲府近隣から40名を越す医師、開業医が参加した。この様子は翌々日の6月8日付け山梨日日新聞の紙面において、東山梨東八代医師会会員総代吉岡順作本人による長文の弔辞とともに報じられている[43]

遺体から肝臓胆管脾臓の一部が摘出されアルコール漬けにされ、参加した医師たちは肥大した肝臓の表面に白い斑点が多数点在するのを確認した。通常の肝硬変と異なり肝臓の表面には白色を帯びた繊維様のものが付着し、肥大化した門脈には多数の結塞部位が認められた[27][44]。この門脈の肥大化にこそ、この疾患の重要な手がかりが隠されていた。盛岩寺の屋外解剖に参加した医師の中に、後年この奇病の原因解明に大きな役割を果たすこととなる、若き日の三神三朗医師がいた。

解明に向けた機運の高まり

三神三朗

中巨摩郡大鎌田村二日市場(現在の甲府市大里町)で内科を開業していた三神三朗[† 10]は、済生学舎(後の日本医科大学)卒業後、山梨へ帰郷し開業したばかりで、この解剖の当時弱冠24歳であった[45]。三神内科(北緯35度37分19.7秒 東経138度33分52.7秒)のある大鎌田村は甲府盆地底部のほぼ中央に位置しており、地方病の有病地のひとつでもあった。三神内科では老衰以外の患者の死因は、ほとんどがこの奇病だった。

三神は県病院の病理技師から、「杉山なかの肝臓には変形した虫卵の固まりを中心とする多数の結節が出来ており、同様の虫卵と結節は腸粘膜にも認められ、虫卵の大きさは従来から知られている寄生虫の十二指腸虫卵(鉤虫)より明らかに大きい」と知らされ、この奇病はまだ知られていない新種の寄生虫が大きく関与していることを確信した[31]。当時は高価であったドイツからの輸入品である顕微鏡を自費で購入すると、三神は罹患した患者の便を集め、いくつかの便から今までに見たことの無い大型の虫卵を見つけ、「肝臓脾臓肥大に就て」の題で1900年(明治33年)発行の『山梨県医師会会報第3号』に報告した[46][47]。同会報には杉山なかの解剖を執刀した下平用彩医師、さらに軍医石井良斉による同疾患に関する報告もされたことから、俄然この奇病の原因解明に向けた機運が高まり、県医学界の重要研究課題となっていく。

明治20年頃の山梨県病院

複数の患者から見つかった虫卵により寄生虫病である可能性が高くなり、1902年(明治35年)4月、山梨県医学会は県内外の研究者を県病院(北緯35度39分35.9秒 東経138度34分4.1秒)に招いて『山梨県に於ける一種の肝脾肥大の原因に就て』と題した討論会を開いた[48]

当時の日本では寄生虫に関する研究は始まったばかりであったが、佐賀県下の筑後川流域で同様の疾患を研究していた長崎医科大学 (旧制)教授の栗本東明ら、寄生虫疾患に取り組む病理学研究者が参加した。三神は罹患者の便から発見した新しい虫卵の発表を行い、この虫卵を産む母虫こそ地方病の原因ではないかと主張した。しかし、肝臓組織内部で見つかった虫卵と、消化器官を通じて排泄される便中にある虫卵との同一性を指摘され、両者を関連付ける直接的な証拠を持っていなかったため返答に窮した。

討論会では杉山なかの解剖以降に行われた数例の解剖所見も発表され、肝臓組織内に問題の虫卵が樹状に並んでいたことから、虫卵の母虫は恐らく肝臓内で産卵したのであろうという意見が出された。だが、肝臓や脾臓の肥大原因と正体不明の寄生虫の虫卵による、この疾患との因果関係についての意見一致には至らなかった[49]

この討論会の参加者の中に、後に三神と共にこの寄生虫病の病原である日本住血吸虫を発見する桂田富士郎がいた。

日本住血吸虫の発見

桂田富士郎と三神三朗

日本住血吸虫が発見された甲府市の三神内科(2010年9月撮影)

桂田富士郎は加賀国大聖寺藩(現在の石川県加賀市)出身の病理学者で、岡山医学専門学校(現在の岡山大学)教授の当時35歳であった。また、桂田は当時岡山県西部で流行していた、別の寄生虫病(肝臓ジストマ)の研究者でもあった[50]

1904年(明治37年)春、前述した山梨での討論会で三神と意気投合した桂田は、岡山から山梨の三神宅へ赴き、両名による甲府盆地周辺の罹患者の診察及び糞便検査が行われ、数名の便から三神が以前に発見した新種と思われる虫卵を再確認した[49]。また、県病院より提供された杉山なか等3名の病理標本を顕微鏡の倍率を上げ改めて詳細に検証し、大きさや形状から判断してこれら3例の肝臓にある虫卵も、糞便検査で見つかった卵と同一であると確信した[51]

桂田と三神はこの疾患の患者に下剤を使用すると虫卵が多く見つかること、また下剤を使っても卵のみで寄生虫本体が排出されないことから、この寄生虫が胆管や腸などの消化器官に寄生する従来のタイプではなく、消化器官に関係する他の臓器や器官、たとえば血管内部に寄生するタイプではないかと考え、腸管と肝臓を結ぶ血管である門脈を疑った。もし罹患者の門脈の中から、この卵を産む新種の寄生虫本体を見つけることが出来れば、解決への大きな前進になると考えた。

ネコから見つかった新種の寄生虫

桂田富士郎

この奇病、日本住血吸虫症はヒトだけではなく他の哺乳類にも発症する。そのため甲府盆地では農耕で使うウシなどの家畜、さらには野良犬なども腹部が大きく膨らんでいる姿が多数見られた。

このことから桂田と三神は、腹部が腫れた同疾患の疑いが濃い「姫」と名付けられていた三神家の雌の飼いネコを解剖することにした。明治37年4月9日、三神の診療所でネコは解剖されたが、多忙な桂田は岡山医大での予定が詰まっており、詳細な検証は時間的に不可能であったため、摘出した肝臓と腸を一旦アルコール液に保存して岡山の研究室へ持ち帰った。

一ヶ月半後の同年5月26日、ようやく時間の出来た桂田はアルコール液に保存しておいたネコの肝臓門脈内から約1センチほどの新種の寄生虫(死骸)を見つけた。しかし欠損部分があるなど不完全であり、何よりも生きた虫体を確認することが重要だと、桂田は生体での確認を行うための検証に必要な器具を持参し、7月下旬に再度、甲府の三神を訪ねた。

雌雄抱合する日本住血吸虫のスケッチ

桂田から再解剖を行う旨の連絡を受けていた三神は同様のネコを用意しており、門脈に狙いを定め解剖を行った。予想は的中し、両名はネコの門脈内から、雄24匹、雌8匹、そのうち雌雄抱合しているもの5対という大量の生きた虫体を発見した[31][52][53]1904年(明治37年)7月30日のことで[† 11]、後に桂田によって日本住血吸虫(にほんじゅうけつきゅうちゅう、学名Schistosoma japonicum)と名付けられる、この奇病の病原寄生虫発見の瞬間である[54][55]

桂田は翌月8月13日の官報6337号に新寄生虫発見の報告を行い、同様にドイツ語でも論文を発表し、この寄生虫が血管内に住み日本で発見されことから、新種としてSchistosomum japonicum 日本住血吸虫と命名した(のちにSchistosoma japonicumと改名)。なお、翌年の1905年にドイツ人医師のカットーが、シンガポールで罹患者の遺体から同じ寄生虫を発見し、カットー吸虫と命名したが、前年の桂田のドイツ語論文報告が先であり、命名法の規則によって桂田が第一発見者であると世界の医学界で追認されている。新寄生虫発見の偉業、第一発見者という栄誉は、三神の理解と協力なくしてはなし得ず、桂田は論文の中で三神三朗に対し最大級の賛辞の言葉を記している[56]

日本住血吸虫は腸から肝臓へ血液を送る門脈の中で、雄が雌を抱きかかえた状態で寄生し、雌は門脈の中で産卵する。血管中(血液の中)に産まれたはずの卵が、消化器系を経由し糞便の中に出てくる理由は、腸管近くの腸間膜血管に運ばれた卵がタンパク質分解酵素を放出することによって周囲の腸壁を溶解し卵ごと腸内に落ちるからである。その一方で血流に乗った虫卵は肝臓に蓄積され、同様に放出されたタンパク質分解酵素により肝臓内に結節が形成され繊維化し、やがて長期間にわたる虫卵の蓄積で肝硬変を発症する。このように日本住血吸虫は腸内や胆管などの消化器官に寄生して産卵する従来から知られていた他の寄生虫とは全く異なる寄生様式を持っていることが分かった[57][1]

虫体の発見によって、この奇病が寄生虫病であると確定はしたが、体長1センチから3センチほどもある日本住血吸虫のヒトへの感染経路、しかも消化器系ではなく血管内に寄生する生態メカニズム(生活史)の解明が次の課題であった。

感染経路の解明と中間宿主の特定

泥かぶれ

能蔵池(南アルプス市、野牛島)(2011年8月撮影)

寄生虫病であることが確定した後、ヒトへの感染経路の解明が進められた。感染経路には2つの仮説があり、ひとつは飲料水からの経口感染説、もうひとつが皮膚からの経皮感染説であった。甲府盆地では前述した「能蔵池葦水飲む辛さよ」と民謡に唄われたように、飲料水から罹ると信じられていた地域がある一方で、皮膚からの感染を疑う農民も少なからずいた。有病地では水田や川に入ると足や手などが赤くかぶれることがあり、地域ではこれを泥かぶれと呼び[58]、この奇病を発症する者は、必ず泥かぶれを経て罹患することを農民は経験的に知っていた[59][Schistosoma booklet 2]。しかし人は水を飲まなければ生きてゆけず、農民に「田んぼに入るな」と言うのは仕事を奪うことと同じである。農業が嫌であっても転職することが難しい、職業選択の自由など実質的に無い時代であり、他に収入源の無い小作農民は奇病の感染を恐れつつも、半ば諦観を持って水田での労働に就くという、いわば命懸けの米作りを強いられていた[60]

東山梨郡祝村(現在の甲州市勝沼町)出身で、東京大学医学部卒の内科医局員であった土屋岩保(いわお)は、1905年(明治38年)7月に甲府盆地で哺乳動物の調査を行った。土屋は解剖したイヌやネコの門脈内にのみ、多数の日本住血吸虫の成虫を見出し、門脈以外の血管には見られなかったことから、「もし、経皮感染するのであれば門脈以外の血管にもいるはずであり、門脈のみに日本住血吸虫がいるのは、飲料水や食物を通じて原因となる寄生虫卵や幼虫が口から入り、に入る前の食道咽頭などの内壁から進入して門脈に至るからではないか」と、経口感染説を主張した。土屋の意見には多くの医学者、研究者が賛同した。黄熱病マラリアなどに刺されることによって発病する感染症、寄生虫病を除けば、当時の寄生虫学において知られていた感染経路は、十二指腸虫などのように、ほとんどが飲食物を介して経口感染するものばかりであった。この寄生虫学会内の既成概念のようなものも、土屋の主張を支持することに働いた[61]

飲み水からか? 皮膚からか?

住血吸虫のライフサイクル
藤浪鑑

確証は無いものの経口感染説が広がり始め、甲府盆地の有病地では川や用水の水をそのまま飲むことを固く禁じ、飲料水の煮沸が義務付けられた。しかしそれにも関わらず新たな感染者が次々に発生する状況に変化が無いことから、経口感染説は間違っているのではないかとの疑問が出始めた。有病地の住民をはじめ行政関係者からも、飲み水からなのか、皮膚からなのか、はっきりさせてほしいとの声が大きくなり、2人の研究者による独創的な動物実験1909年(明治42年)6月に、広島片山地区(現在の広島県福山市)の有病地において行われた。日本住血吸虫の発見者である桂田富士郎はイヌとネコを使って、京都帝国大学医学部教授の藤浪鑑は片山地方の開業医吉田龍蔵の協力のもと、17頭ものウシを使った大掛かりな実験を行い感染経路の論争決着に臨んだ。なお、実験に使用したウシは非流行地の広島市から列車によって福山駅まで運ばれた[62]

藤浪鑑によるウシを利用した感染実験[63]
  • 甲グループ6頭。
与える飲食物は全て煮沸し、特製の口袋でウシの口を覆い、与える飲食物以外は口に出来ないようにして、有病地の小川や水田への出入りを意図的に繰り返す。
  • 乙グループ7頭。
ウシの全身に防水グッズを装着。有病地の水田や小川への出入りを意図的に繰り返し、畦や水田で草を食べたり、水を飲むことは自由にさせる。ただし、全身を防水グッズで覆い、体に水を一切触れさせないようにする。
  • 丙グループ2頭。
甲グループとの比較のために行う。甲グループと同様に飲食物は全て煮沸したものを与えるが、ウシ小屋に隔離して小屋の外には出さない。
  • 丁グループ2頭。
口も全身も何も施さず、有病地での飲食も行動も完全に自由とする。

実験期間を1ヵ月とし、実験終了の時点で糞便検査を行い、全て殺して解剖し門脈に日本住血吸虫がいるかを検証する。

藤浪は土屋と同じく経口感染説の支持派であり、今回の実験では乙、丁グループに感染が起こるはずで、経皮感染を想定した甲グループに感染が起きるはずがないと絶対的な自信を持っていた。ところが実験の結果は藤浪の予想に反したものだった。経口感染を予防した甲グループが全頭感染し、経皮感染を予防した乙、丙グループには全く感染せず、どちらの感染も許した丁グループは当然であるが感染した。桂田の行った実験でも同様の結果であった。また同年には京都大学皮膚科の松浦有志太郎により、片山地方の水田から採取した水に自分の腕を浸すという、自らの体を使った決死の感染実験が行われ、3回に及ぶ実験の末、松浦の腕にはかゆみを伴う赤い斑点が発症し、自分の血便の中に虫卵を確認するなど、経皮感染の検証を裏付けるものであった[64][65]

3人の実験結果を知った他の医師や研究者は俄かには信じられず半信半疑であった[66]。経口感染を主張した土屋岩保も自説を曲げられず、桂田や藤浪と同様に65頭ものイヌをグループ分けした追実験を1910年(明治43年)8月、西山梨郡甲運村(現在の甲府市横根町)を流れる十郎川北緯35度39分26.5秒 東経138度36分46.8秒)で行った[† 12]。経口感染を信じて疑わなかった土屋であったが、自らの予想とは全く反対の藤浪や桂田の実験と同様の結果になり、経皮感染を認めざるを得ず、「地方病の感染は皮膚からである」と山梨県知事に報告し、学会内の意見も経皮感染に統一された[67]

中間宿主が必要だ

セルカリア

感染は皮膚からであることが明らかになったが、土屋は新たな疑問に悩んでいた。便中の日本住血吸虫虫卵から孵化させた仔虫(ミラシジウムと呼ばれる)を泳がせた水に、ネコやネズミの足を30分ほど浸して感染するのか経過を見たが、10日を過ぎても1ヵ月を過ぎてもネコやネズミの糞便に虫卵は見られなかった。孵化直後では感染能力が無いのではないかと考え、次に孵化6時間後のミラシジウムに浸してみたが今度も感染は起こらなかった。それどころか孵化後時間が経過するごとにミラシジウムは死んでいき、48時間以内には全て死滅していた。同じことを何度も繰り返したが結果は同じであった[68]。このように孵化したミラシジウムはそのままでは哺乳動物に感染せず、2日以内に死滅することが判明した。考え抜いた土屋は「ミラシジウムは自然界にいる動植物の何らかを中間宿主としている。中間宿主の体内で人間の体へ感染するのに適した体へ成長するのだ。」との結論に達する[69]

県医師会会長喜多島豊三郎により1909年(明治42年)に設立された山梨地方病研究部の専任技師になっていた土屋は1911年(明治44年)3月、任期を終え東京大学教授として迎えられ、後任者として東京大学伝染病研究所から宮川米次が就任した[70]。宮川は土屋の提唱した中間宿主の必要性に真っ先に賛同した人物でもあり、桂田や藤浪、三神らも中間宿主の存在に同調していた[71]

地方病研究部の専任技師となった宮川は早速新たな検証実験に着手する。実験の目的は哺乳動物に感染した直後の日本住血吸虫の幼虫の形態がどのようなものであるのかを把握することだった。有病地のひとつ中巨摩郡池田村(現在の甲府市新田町)を流れる貢川(くがわ、北緯35度39分44秒 東経138度32分27.5秒)を実験地に選び、非流行地である東京から運んできた大量のウサギとイヌを実験地河川の水に浸した。後日、実験動物の股静脈から採血した血液の中に、ミラシジウムとは形態的に異なる幼虫を宮川は確認した。吸虫類において成虫になる前の段階、寄生虫学用語でセルカリアと呼ばれているものだった。この検証により便中の虫卵から孵化したミラシジウムと、皮膚から感染するセルカリアの形態、形状が異なることが判明し、日本住血吸虫が成虫に至る過程には中間宿主が必要であることが確定した[72]

ミヤイリガイ(宮入貝)の発見

ミヤイリガイ
日本住血吸虫の生活史における各形態。
左から卵→ミラシジウム→スポロシスト→セルカリア→成虫

中間宿主探しが始まった。北巨摩郡塩崎村(現在の甲斐市双葉地区)出身で、新潟医科大学 (旧制)川村麟也をはじめ、多くの研究者により有病地に生息するさまざまな生物が採取され検証が繰り返された。杉山なか解剖に大きく携わった吉岡順作も中間宿主を探した。吉岡は有病地に分布するカワニナが中間宿主であろうと主張し、土屋岩保に協力を仰いだ。両名はカワニナを入れた水槽の中でミラシジウムを孵化させるなどの実験を繰り返したが立証には至らなかった[73]

日本住血吸虫の中間宿主が立証確定されたのは1913年(大正2年)夏のことである。九州帝国大学宮入慶之助と助手の鈴木稔によって、佐賀県三養基郡基里村酒井地区(現在の鳥栖市酒井東町)で発見された、体長わずか8ミリほどの淡水性巻貝での立証であった[74]。宮入と鈴木は酒井地区の住民から水に浸かると確実に感染することから、「有毒溝渠」と呼ばれ恐れられていた溝渠(用水路)で小さな巻貝を見つけ、同地の民家に泊り込んで実証を重ねた。そして、虫卵から孵化させたミラシジウムが巻貝の体内に侵入し、母スポロシストから娘スポロシストへと巻貝の体内で変態分裂を続け、最終的にセルカリアとなって巻貝の体内から水中に出てくることを詳細な経過記録と共に論文にまとめ上げた[75]。この結果は同年9月、当時の週間医学雑誌である東京医事新誌に報告され[74]、同疾患に取り組む当時の医師や研究者たちを驚愕させた[76]

ここで重要な問題であったのは、この貝がいったい何の貝であるのか? 日本全国に分布するものなのか? 日本住血吸虫症の発症地だけに棲息するものなのか? 種の特定が重要であった。多くの研究者、学者が論文に記載されたモノクロ写真を見てカワニナを疑い、宮入自身もカワニナの亜種ではないかと思いつつ、九州大学理学部に鑑定を依頼した。すると、カワニナであれば螺層(巻貝の螺旋の数)は4つでなければならないのに、問題の貝は螺層が6から9つであることから、各国の論文はもとより大英博物館が発行する世界の貝の最新分類表にも記載されていない新種の貝であることが鑑定の結果分かった[77]

翌年調査のため山梨県を訪れた宮入により、佐賀で発見されたものと同じ巻貝が甲府盆地の有病地域でも多数確認され[78]、山梨の医学会は宮入博士の功績をたたえて、この貝をミヤイリガイ(宮入貝)(学名:Oncomelania hupensis nosophora)と名付けた[† 13][79]

中間宿主がミヤイリガイであると特定されたことの意義は非常に大きかった。日本住血吸虫が成長過程において、ミヤイリガイ以外には寄生(中間宿主)できないなら、もし仮にミヤイリガイを撲滅することができれば、理論上この奇病の新たな発生もコントロールできるはずである。逆にミヤイリガイが生息しない地域には本疾患は存在しないことになるので、長い間謎であったこの奇病が特定の地域にのみ流行する理由も同時に明らかになった。

また、この発見は日本国外の寄生虫学者にも大きな影響を与えた。2年後の1915年(大正4年)にビルハルツ住血吸虫の中間宿主がモノアラガイの一種であることがエジプトで証明され、さらに同年にはマンソン住血吸虫の中間宿主がヒラマキガイ科であることが判明するなど、ミヤイリガイの発見はヒトに感染する吸虫類の中間宿主の多くが陸産貝を中心にする軟体動物であるという、現代の寄生虫学の礎となるものであり、世界の住血吸虫研究にとって大きな意味を持っていた[80]

病気撲滅期

ミヤイリガイの発見によって、長らく人々を悩ませていた地方病の原因、メカニズムは全て解明され、地方病撲滅への活動が始まった。比較的短期間に解明された病因に対し、病気の撲滅には非常に長い期間を要した。研究者だけでなく、地域住民をはじめ多くの人々が一丸となって、治療法の開発感染源対策啓蒙活動、そしてミヤイリガイ撲滅活動など、さまざまな対策を試行錯誤しながら同時に進めていった。この節では各対策ごとに時系列を記述する。

治療薬と感染診断法の開発

困難を極めた治療

杉浦醫院内の薬室(2010年9月撮影)
スチブナールのパッケージ。風土伝承館杉浦醫院所蔵。(2011年10月撮影)

病原体(日本住血吸虫)の発見と中間宿主(ミヤイリガイ)の確定は、地方病の予防という観点から見れば非常に大きな成果であった。その一方で、すでに罹患してしまった患者に対する治療は困難を極めた。日本住血吸虫は血管内に寄生するタイプの寄生虫である。消化器官に寄生する蟯虫などの寄生虫を体外に排出するだけの虫下しでは駆除することは出来ないのだ。

研究者たちは血管内部の寄生虫を駆除するための、さまざまな研究を始めた。東京帝大伝染病研究所へ戻っていた宮川米次は大正7年から12年頃にかけて、製薬会社萬有製薬との共同研究により酒石酸アンチモンなどの化合による駆虫薬スチブナールを開発し[81]、宮川、土屋両氏の勧めもあって[82]山梨の三神三朗に治療実験の依頼がされた[83]

三神による実験[84]の結果、門脈内に寄生した日本住血吸虫の卵巣機能を破壊し、卵を産めなくさせることによって、罹病者の便から虫卵を消失させる効果が実証され実用化された。しかしこの治療は、技術的に難しい20数回もの静脈注射を必要とする困難な治療であった。その上、半金属系であるアンチモンによる副作用として、体中の関節の激しい痛み、悪心嘔吐が起きるなど、患者の肉体的負担も大きかった[85]。約半世紀後の1970年代ドイツの製薬メーカーバイエルが、副作用を低減した飲み薬である錠剤の新薬プラジカンテルを開発するまで、スチブナールは唯一の地方病治療薬であった[86]。しかし、スチブナールもプラジカンテルも体内の日本住血吸虫を殺傷するための薬であり、すでに罹患者の臓器に蓄積されてしまった卵殻を除去するものではない。すなわち地方病の治療は対処療法止まりで完治させるものにはなり得なかった。

診断精度向上の努力

顕微鏡で見た日本住血吸虫の卵

経皮感染によって体内に侵入したセルカリアは、成虫(日本住血吸虫)に成長するまでは卵を産むことは無く、罹患者に自覚症状が無い場合も多い。よって大部分の患者は血便や腹水が溜まるなど症状が悪化してから医療機関へ出向くことが多かった。早い段階で発見できなければ治療はより難しくなる。新薬であるスチブナールも、理想を言えば卵を産めない性成熟する前の段階で使用してこそ効果が大きいのである。それが難しくても、できるだけ虫卵の蓄積が少ないうちに治療を開始することが肝要であり、感染の早期発見、すなわち早期診断が重要であった。当初、地方病の感染検査も他の寄生虫病と同様、糞便検査によって診断が行われていたが、日本住血吸虫の寄生場所は血管である門脈内であり、腸管近くへ現われる頻度が極端に少なかったことから、少量の糞便を直接ガラス板に塗り、顕微鏡で観察して虫卵の有無を判定する従来からの直接塗抹法では検出感度が低く、感染を見逃してしまうことも多かった[87]

山梨県の地方病研究所では、第二次大戦後、後述するアメリカ軍の研究部隊が提唱し共同開発した皮内反応(寄生虫本体から作った抗原を用いた検査法)による検査法を導入し、各種の集卵法やミラシジウム孵化法(ツベルクリン反応に代表される抗原抗体反応を用いた診断法)が研究され、MIFC(merthiolate iodine formalbehyde concentration = 遠心沈殿法)による検査法を確立した[88]。これにより虫卵検出率は格段に改善された。甲府盆地で行われた住民糞便検査において、直接塗抹法で調べた時に0.1%であったのが、MIFC法では2.7%と検出精度が向上したのだ[89]。また、AMSIII(Accelerator Mass Spectrometry = 加速器質量分析計法)も検出感度が高いことが分かり、あらかじめ被検集団に対して皮内反応を行うことによって[90]、検便検査対象者の絞込みが可能となった。こうして寄生虫体成分を抗原とする皮内反応という画期的な検査法による集団検診が行われ[91]、地方病感染者の早期発見、早期治療への福音となった[92]

罹患者数の推移

1910年(明治43年)から翌年にかけて山梨県医師会が主体となって健康診断を行ない、甲府盆地全体における地方病の発生状況、罹患者の実数が初めて統計的、医学的に調査された。この健康診断は主に肝臓、脾臓の肥大、腹水の有無など臨床症状に主眼点をおいたもので、調査対象は甲府盆地の有病地と想定された45ヶ市町村の住民総計69,157名に及ぶ。そのうち明らかに地方病罹患者と診断された患者数は7,884名で、平均罹患率は11.4パーセントであった[93][94]

また、罹患率の高い地域に偏りがあることも分かった。罹患率が異常に高かったのは、竜地、団子に嫁行くなら、と唄われた登美村(とみむら)の55パーセントをはじめ、中の割へ嫁行くなら、と唄われた旭村の35パーセント、及び大草村の34パーセント、嫁にはいやよ野牛島は、と唄われた御影村(みかげむら)の40パーセントなど、古くから人々の間で唄われていた特定の地域での流行を実証するものであった。また、塩山勝沼(現在の甲州市)など甲府盆地の最東部では病気が一切無く、春日居石和など盆地を西へ向かうにつれ徐々に病気が現れ、甲府を過ぎた甲府盆地の西側から一気に罹患率が上がり、特に韮崎から下流の釜無川両岸地域の罹患率が高いことも改めて実証された[94]。この甲府盆地内での西高東低とも言える有病地の偏り[58]は流行末期まで続いた[† 14]

その後も住民の感染調査、診断は定期的に行われ、当初は虫卵検査により、昭和30年代中盤からは皮内反応検査によって行われた。以下に流行末期20年間にわたる市町村別患者数を示すが、これは山梨県内の各医療機関において地方病と診断された患者実数で、新規感染者の数ではない。また昭和30年代以降の流行末期には腹水が溜まる等の重症患者は稀になり、同40年代になると罹患者に感染したセルカリア匹数も少数になり、便中に虫卵を見つけることが困難になったため、より精密な皮内検査等によって罹患者の確認が行われた。1973年(昭和48年)から患者数が一旦増加しているのはそのためである。

甲府盆地における年度別日本住血吸虫症患者数[94][† 15]
流行末期20年間(1956年度-1975年度)の市町村別患者数。注、市町村名は1975年当時のもの。
市町村/年度 1956年 1957年 1958年 1959年 1960年 1961年 1962年 1963年 1964年 1965年 1966年 1967年 1968年 1969年 1970年 1971年 1972年 1973年 1974年 1975年
甲府市 220 121 82 36 78 46 0 9 12 0 0 0 1 0 0 1 0 1 0 5
玉穂町 81 72 60 29 21 13 4 11 0 6 0 11 2 0 0 0 0 0 2 1
昭和町 218 173 139 73 82 50 36 37 10 5 3 0 15 1 0 0 0 5 3 7
田富町 200 148 121 105 106 59 45 28 15 8 8 5 6 7 0 7 1 2 3 6
竜王町 213 388 276 190 130 128 102 85 17 60 108 53 76 38 54 8 1 1 0 13
敷島町 60 61 75 36 36 30 13 60 3 13 1 1 1 1 0 11 0 10 22 0
三珠町 0 0 2 0 3 0 2 4 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 2
石和町 50 58 18 1 2 1 0 3 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 2 0
一宮町 0 0 5 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0
御坂町 0 0 0 0 6 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0
八代町 8 29 13 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0
境川村 0 10 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0
中道町 9 33 7 9 0 6 5 0 0 0 0 0 0 0 5 1 1 1 2 0
豊富村 19 0 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0
八田村 54 60 242 61 55 59 62 55 10 8 14 21 27 12 8 10 2 13 21 28
白根町 126 95 43 53 54 36 14 8 4 2 4 7 12 16 5 1 8 7 24 13
櫛形町 - - - - - - - - - - - - - - - - - 2 0 0
若草町 35 29 32 47 40 41 42 24 20 20 19 13 13 16 4 4 6 8 29 18
甲西町 135 130 26 33 31 10 7 5 3 0 3 0 0 0 0 0 9 2 2 4
増穂町 - - - - - - - - - - - - - - - - 1 0 0 0
双葉町 135 132 111 156 74 131 114 83 85 21 22 12 26 15 10 4 4 14 0 10
韮崎市 70 179 307 132 74 101 44 51 99 62 70 46 71 18 14 10 13 27 58 23
春日居町 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0
山梨市 2 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0
中富町[† 16] 22 37 16 1 1 0 0 1 1 0 0 0 2 0 0 0 0 0 0 0
合計 1,658 1,755 1,575 962 793 713 490 462 280 206 252 169 252 124 100 57 46 93 169 130

感染防止への啓蒙

俺は地方病博士だ

『俺は地方病博士だ』表紙

地方病はミヤイリガイの生息する河川や水路などで、直接水に触れることによってセルカリアに感染する。よって、水田耕作に従事する農民は感染の危険性が常時付きまとっていることになるが、仕事ではない不要不急な子供たちの川遊びなどによる感染は、正しく指導することで防ぐことが可能であったため、子供たちへの啓蒙対策が急務となった。小さい頃に罹患すればその後の成長に大きな影響を与えるため、細心の注意が必要であると、自ら小学校2校の校医[† 17]を務めるようになっていた三神三朗も、山梨地方病研究部に申し入れた[95]

しかし、中間宿主を経て変態する日本住血吸虫の難解なライフサイクルを子供たちに理解させることは容易ではなかった。1917年(大正6年)、山梨地方病研究部は山梨県教育委員会と共同で『俺(わし)は地方病博士だ』と題した、当時としては画期的なイラスト[† 18]を多用した多色刷りの予防パンフレットを2万部作成し、有病地の小学生に無償で配布した[93]。ミヤイリガイの発見により日本住血吸虫の生態が解明されてから僅か3年半後であったことを考えても、当時の関係者が児童への感染防止をいかに重視していたかが分かる。

冊子の内容は、地方病が水中の病原虫(セルカリア)を介して皮膚から感染する病気であること、この病原虫がミヤイリガイという小さな巻貝に潜んでいるため、川で遊ぶのは非常に危険であることを、子供にも理解できるように解説したものであった。また小学生の興味を引くために3人の登場人物を配しストーリー性を持たせた、絵本のような内容であった。地方病研究部は各校校長以下、全教員授業で読み聞かせるように義務付け、感想文などを書かせる指導を行い啓蒙に務めた[95]。特にセルカリアの活動が活発になる夏場の河川での水泳は厳しく禁止されたが、大正時代の郊外有病地の一般家庭では風呂はおろか上水道すら無いのが当たり前であり、全国有数の酷暑地帯である甲府盆地の夏季では、子供たちの河川での行水を完全に制限することは難しかった。このため有病地の小中学校のプール設置が県の補助事業として優先的に進められるなど、引き続き子供たちへの感染防止の徹底が図られた[96]

感染源対策

昭和18年の山梨県県令に記載された改良型便所の構造図

日本住血吸虫は中間宿主となるのはミヤイリガイ唯一固種であるが、最終的な終宿主はヒトを含む哺乳類全般である。終宿主の糞便に含まれる虫卵から孵化した幼虫(ミラシジウム)が水中のミヤイリガイに接触することにより感染源となる。

したがって堆肥として使用していたヒトの糞便の場合、一定期間貯留し虫卵を腐熟させ殺滅させることが感染源を絶つ有効な手段であったため、糞便を貯留するための改良型便所の設置が奨励された。山梨県では1929年(昭和4年)より改良型便所の設置に助成費を出し、1943年(昭和18年)には普及徹底を呼びかけるなど、ヒトの糞便からの感染対策は一定の効果を上げた[97]

しかし、家畜や野良犬、野良猫など動物の糞便を特定の場所に貯留することなど出来るはずがない。苦肉の策として1942年(昭和17年)より山梨県知事となった多湖實夫により、農耕で使うウシやウマにオムツを穿かせるという珍奇な試みが行われた。多湖知事の熱意により考案されたオムツは、官名糞受袋と名付けられた布製のものであったが、効果はほとんど無かった[98]

このように排泄場所をコントロールできない保虫動物に対する対策は困難なもので、1933年(昭和8年)にウシウマヤギなどの家畜動物の糞便検査と健康管理が寄生虫病予防法細則により義務付けられ、同時に農耕で使う家畜を、感染率の高いウシから感染感受性の低いウマへと変えることが積極的に行われた。またノネズミなどの野生動物は計画的に捕殺され、イヌやネコなどの愛玩動物の管理監視体制が強化された[58][99]

郷土医杉浦健造と三郎親子

甲府盆地の有病地視察に訪れた、昭和天皇と案内役の杉浦三郎。昭和22年10月14日
多くの罹患者が治療を受けた杉浦醫院の診察室(2010年9月撮影)

中巨摩郡西条村(現在の中巨摩郡昭和町)の杉浦健造医師、息子である三郎医師の親子医師は、代々同村で開業医として多くの地方病患者の治療に当たってきた郷土医である。2人は献身的な治療を行うと同時に、この疾患に対する予防の知識を通じた啓蒙活動を住民に行い続けた[100]

しかし一向に減らない地方病の感染防止の難しさを目の当たりにし、この奇病を根本的に根絶するには中間宿主であるミヤイリガイの撲滅しかないと考え、ミヤイリガイの天敵であるホタルの幼虫を増やす為に、餌となるカワニナや、捕食動物としてのアヒルなどを飼育する施設を自宅を兼ねた医院敷地内に作ったり、共に闘う医師たちへの金銭的援助など、私財を投じてミヤイリガイ撲滅への活動を始めた。

やがてそれは官民一体による地方病撲滅運動に発展し、1925年(大正14年)に『山梨地方病撲滅期成組合』が結成され[101]、終息宣言を迎える71年後までの長期間にわたり山梨県民一丸となって推し進められた。

健三亡き後も、息子三郎によって遺志は引き継がれ、1947年(昭和22年)10月14日から2日間の日程で山梨県を行幸した昭和天皇の地方病有病地視察はは三郎によって案内された。中巨摩郡玉幡村(北緯35度38分55.2秒 東経138度30分45秒、現在の甲斐市)で視察は行われ、当時の甲府盆地における地方病の状況説明や、顕微鏡を使った虫卵やセルカリアの観察、ミヤイリガイの生息状況の観察などが行われた[102]

その後も三郎は、水田作業従事者に対する経皮感染を予防低減するための塗り薬を独自に研究したり、1949年(昭和24年)に創設された「山梨県立医学研究所」(後の山梨県衛生環境研究所)の初代地方病部長に就任[103]し、行政、医療関係等、各方面との調整役を務めるなど、戦後の地方病撲滅運動において大きな役割を果たした[104]

杉浦三郎は1977年(昭和52年)に亡くなり、杉浦醫院は閉院されたが、三郎の死後も同医院は内装、各種薬品、器具等がそのままの状態で保管されている。2010年平成22年)に杉浦家の土地・建物を昭和町が購入し、同家より全ての収蔵品の寄贈を受けた。昭和町では地方病の研究・治療に生涯をかけた健三、三郎両医師の業績、病気に立ち向かった先人達の足跡を後世に伝承していくために、建物を整備し『昭和町 風土伝承館杉浦醫院』(北緯35度38分25.2秒 東経138度31分57.2秒)として同年11月16日に設立公開した[105]

杉浦三郎だけでなく、この病気と闘ってきた他の郷土医や研究者は戦後相次いで亡くなっている。1946年(昭和21年)4月5日に桂田富士郎(享年79歳)が、奇しくも翌日の4月6日に宮入慶之助(享年81歳)がこの世を去った[106]。三神三朗は晩年、自身の生涯にわたる研究の出発点となった甲府市向町の盛岩寺にある杉山なかの墓参に足繁く通い、なかの墓前に長時間頭を下げていたという。また、一生現役郷土開業医を貫き、亡くなる1週間前まで患者の手を握り脈拍を確かめていた。意識のなくなる直前に辞世の句、「川中で手を洗いけり月澄みぬ」と筆で記し[107]、地方病の無い甲府盆地の未来を後進に託し、1956年(昭和31年)、享年83歳でこの世を去った[108]

ミヤイリガイ撲滅への挑戦

有病地の指定と解除

日本住血吸虫の中間宿主がミヤイリガイであると解明されたことにより、ミヤイリガイの生息エリアが、そのまま地方病の流行エリアと完全に一致することが分かった。したがって、ミヤイリガイが生息する場所イコール地方病の流行地、すなわち有病地ということになる。

ミヤイリガイ生息密度を、3段階の濃淡で表した、甲府盆地の有病地地図[109]

山梨県では1933年(昭和8年)9月25日告示の、「寄生虫予防法施行細則第2条ニ依ル日本住血吸虫病ノ有病地域指定」により、甲府盆地の10,023ヘクタールが地方病有病地として始めて公に指定された。しかしその後の詳細な調査により2年後の1935年(昭和10年)には19,635.5ヘクタールというより広大な範囲が有病地に指定された[110]

当初はミヤイリガイが多く生息していた水田のみが指定されたのではないかと推察されているが、いずれにしても20,000ヘクタール近い有病地が対策以前には存在していた。しかし、後述するミヤイリガイ撲滅事業により有病地面積は徐々に減少し、1960年、1961年、1974年の3回にわたり有病地の指定は順次解除され[111]、1977年(昭和52年)には11,764.1ヘクタールと、当初の指定面積の約半分にまで減少した[112]。最終的には1985年(昭和60年)の山梨県告示第146号をもって全ての有病地指定は解除されている[113]

右に示す地図は1970年代に作成された、甲府盆地におけるミヤイリガイ生息地(有病地)の略図である。色の濃淡によりミヤイリガイ生息密度を3段階で表している[114]

  • 希薄地、1平方メートルあたりのミヤイリガイ生息19匹以下
  • 中間地、1平方メートルあたりのミヤイリガイ生息20匹から30匹未満
  • 濃厚地、1平方メートルあたりのミヤイリガイ生息30匹以上

この地図からも分かるとおり、地方病は甲府盆地の西側で猛威を振るっていた。

地域住民総出の殺貝活動

ミヤイリガイ(2011年10月8日、甲府盆地の旧有病地某所で撮影[† 19])大きさの比較のためタバコマイルドセブン)長さ85mm、直径6mを並べた。この米粒ほどの巻貝が中間宿主であった。
石灰窒素散布作業。昭和26年頃。
昭和町で採取されたミヤイリガイの標本。対比のため50円玉を並べている。標本化のため脱色している。風土伝承館杉浦醫院所蔵。(2011年10月撮影)

ミヤイリガイが中間宿主であると解明されてから、地方病の撲滅は、すなわちミヤイリガイの撲滅であると、人々の間で共通認識となり意識されるようになっていった。ミヤイリガイ発見の翌年1914年(大正3年)には早くも土屋岩保により、中巨摩郡国母村小河原(現在の甲府市上小河原町、北緯35度38分1.9秒 東経138度33分54.6秒)の溝渠で、硫酸を使った殺貝(さつばい)実験が行われ[115]、土に埋める埋没法や火力による殺貝などが実験されたが、労力や経費に見合った効果のある決定的な殺貝方法はなかなか見つけられなかった。

そんな中、地域住民によるミヤイリガイの拾い集めが始まった。女性や子供たちをも動員し、を使って米粒ほどの小さなミヤイリガイを1匹ずつ御椀に集めていくという気の遠くなるような作業であったが、県により採取量1合に対し50が給付され、1合を増すごとに10銭の奨励金が交付された[93]。この活動は1917年(大正6年)から8年間にわたって実施され、8年間で「385807」(米俵にすると約96俵分)[116]ものミヤイリガイが採取された。しかしミヤイリガイは極めて繁殖力が強く、一箇所だけで目に見えるミヤイリガイを駆除しても、それはまさに焼け石に水であり、さらなる有効な撲滅法の出現が待望された。

ミヤイリガイ殺貝に新たな動きが起きたのは、1924年(大正13年)の本間利雄山梨県知事の就任であった。当時の都道府県知事は公選ではなく官選であり、前職は広島県警察部長で、前任地広島片山地方でのミヤイリガイ撲滅事業にも県職員の一人として関わっていた本間は、片山地方で行われた石灰散布による殺貝効果を熟知していた[58]。その経験から本間は山梨での石灰散布に意欲を見せ、経皮感染の解明者でもあり、広島における日本住血吸虫症研究の第一人者になっていた京都大学の藤浪鑑を甲府へ呼び寄せ、山梨県内の研究者とともに石灰散布の可能性を探った。甲府盆地の有病地は広島の有病地面積の6倍強である。石灰散布作業が並大抵ではないことは、広大な甲府盆地の有病地を目の当たりにした藤浪自身も痛感していた[117]。それでも行動を始めなければ何も変わらないと、山梨県では1925年(大正14年)に生石灰の散布が決定され、前述したように同年2月10日に『山梨地方病予防撲滅期成会』が組織され発足した[118]。住民の地方病撲滅への強い願いは、1924年(大正13年)から1928年(昭和3年)にわたる5年間の地方病撲滅対策費用166,379円のうち、約8割にあたる131,943円が寄附金であった[97]ことからもうかがい知ることが出来る。

こうして行政のみならず、地域住民も巻き込んだミヤイリガイ撲滅活動は、終息宣言が出されるまでの70年以上も継続されていくことになり、生石灰から石灰窒素の散布へ、アセチレンバーナーによる生息域への火炎放射[119]アヒルなど天敵を使った捕食、後述するPCPによる殺貝など、あらゆる手段を駆使して、ミヤイリガイ撲滅、地方病の根絶という最終目標に向け、親から子へ、子から孫へと世代を超え引き継がれていった[Schistosoma booklet 3][120]

殺貝剤PCPの開発

世界の住血吸虫症流行地

太平洋戦争末期の1944年(昭和19年)10月から翌年4月にかけて、フィリピン中部のヴィサヤ諸島にあるレイテ島パロ地区で、約1,700名ものアメリカ軍兵士に高熱や下痢が集団で発症した。当初マラリアを疑った米軍軍医は糞便検査の末、兵士らが罹患した病気の正体が日本で発見された日本住血吸虫症であることを突き止めた。当時のアメリカにおける保健衛生体制は、知識、予算の面で世界最先端のものであり、事前の感染症対策を用意周到徹底していると自負していたアメリカにとって、レイテ島での日本住血吸虫症感染は不覚であった[121]

フィリピンでの苦い経験によりアメリカは、甲府盆地で流行する地方病に大きな関心を持ち、日本占領下の1947年(昭和22年)10月、米軍熱帯病委員会委員であるジョージ・ハンター(George W Hanter)博士[122]を中心にした、GHQによる衛生部隊を山梨県に投入し、甲府駅構内に客車を改造した臨時の研究所を作り[† 20]、山梨県内の研究者と共に地方病の調査研究を行った[123]。同研究所はキャンプ座間神奈川県座間市)内に米軍が設けた米陸軍第406総合医学研究所(略称406MGL)の出先機関であり、甲府駅構内の研究施設では殺貝に使用するための薬品テストが行われた。米軍が持ち込んださまざまな薬品の中から、有機塩素化合物であるサントブライトに有効な殺貝効果があったことから、同一成分で日本国内で精製する事が可能な、殺傷効果の高い殺貝剤、ペンタクロロフェノールナトリウム(略称PCP-Na)の開発に成功する。同研究所では患者の治療も同時に行われ、住民から『寄生虫列車』、『病院列車』などと呼ばれ県民に親しまれた。同研究所での日米共同研究はその後9年間続いた[58]

PCPによる殺貝は、主に農民を主体とする地域住民により人海戦術で行われ一定の効果を上げたが[119]、農作物や川魚などへの有害性が問題になった。環境への配慮から毒性を弱めた殺貝剤として、当時東北地方で「殺ユリミミズ剤」として使用されていたユリミンを粒状に改良したものが1968年(昭和43年)からPCPにとって変わり実用化[124]されたが、実用化直後にユリミン製造メーカーの原料不足から製造中止を余儀なくされる。山梨県衛生公害研究所の梶原徳昭、薬袋(みない)勝らが中心となり代替薬剤の調査検討が行われ、1976年(昭和51年)からはフェブロールジクロロ・ブロモフェノール・ナトリウム塩(通称B2)が使用されるようになった[125][126]

甲府盆地の水路のコンクリート化

ミヤイリガイ対策の為に、甲府盆地の水路はコンクリート化された[† 21](2010年9月撮影)

1936年(昭和11年)、甲府盆地のミヤイリガイ生態観察を行った生物学者岩田正俊は、ミヤイリガイが水田や水路周辺などの、流れの緩やかな場所に生息する特性から、用水路コンクリート化し流速を早め、生息し難い環境を作ることの有効性を唱えた[127]。しかし、当時セメントは高価なものであり、広い甲府盆地の全ての水路をコンクリートで覆うなど荒唐無稽な非現実的提案であった。しかし、宮入慶之助の門下である九州大学の岡部浩洋[† 22]が、同疾患の流行地の佐賀県旭村で実験を行い、コンクリート用水路が目覚ましい効果を発揮したことに加え、国立衛生研究所の寄生虫部長であった小宮義孝[128]が各機関へ積極的に提唱、働きかけを行い、1948年(昭和23年)より山梨県では県職員の佐々木孝を中心に用水路のコンクリート化が試験的に始まった[129]

用水路のコンクリート化による利点として考えられたのは、

1、コンクリートで固める事によって、それまで生息していたミヤイリガイを埋没することが出来る。
2、コンクリート化することによって、流速が毎秒2(約66センチ)あれば、産卵された卵が水草などに固定されず流されて貝の繁殖が不可能となる。
3、仮にコンクリート水路で生息しても、発見が容易になり的確に消毒殺貝できる。

などである。

また、1950年(昭和25年)に実験現場で行われた実地検分により、コンクリート化された用水路の水流が流速1メートル以上あれば、ミヤイリガイが100パーセント流出することが判明し、厚生省を通じて寄生虫病予防法に「溝渠のコンクリート化条文」が盛り込まれ[† 23]、県の予算を超えた国庫補助によるコンクリート化事業が1956年(昭和31年)より本格的に開始された[130]。なお、当時行政区域外であったため工事が出来ず、コンクリート化工事のネックとなっていた国鉄用地内(中央本線及び身延線)溝渠のコンクリート化は、運輸政務次官を経験していた、旧白根町(現在の南アルプス市)出身の金丸信が各方面へ働きかけた結果である[131]

こうして甲府盆地を網の目状に流れる水路と言う水路が全てコンクリートで塗り固められていった。コンクリート化に投入された予算は1979年(昭和54年)の段階で70億円におよび[132]1985年(昭和60年)には累計総額100億円を突破する、莫大な費用を注ぎ込んだ事業であった[133]

なお、1996年に撲滅事業が終了した時点での、甲府盆地のコンクリート化された用水路の総延長は、函館市から那覇市間の直線距離に相当する[134]2,109キロメートル(2,109,716メートル)に達している[135]

終息宣言

コンクリート化された溝渠にはプレートが設置されている[† 24](2011年7月撮影)

新規感染者の減少

水路のコンクリート化と同時進行で行われた地域住民による地道な殺貝、消毒などの取り組みによる効果は、新規感染患者の減少という目に見えた形で現れた。

流行末期の甲府盆地における日本住血吸虫卵陽性率とミヤイリガイ感染率の推移
山梨県日本住血吸虫流行地における検査成績 - 国立感染症研究所感染症情報センターIASRデータから引用改変(1961年-1980年)。
注:1992年までの検査データがあるが、1981年以降の感染率は全て0%で推移しているのでここでは省略する。
虫卵検査
年度 対象人数 陽性数 割合
1961年 77,945 199 0.25%
1962年 79,322 371 ファイル:B01.pngファイル:B01.png 0.47%
1963年 38,168 179 ファイル:B01.pngファイル:B01.png 0.47%
1964年 84,691 146 ファイル:B01.pngファイル:B01.png 0.17%
1965年 117,340 326 0.28%
1966年 197,164 144 ファイル:B01.pngファイル:B01.png 0.07%
1967年 201,447 171 0.08%
1968年 14,000 271 ファイル:B01.png 1.94%
1969年 13,000 109 ファイル:B01.pngファイル:B01.png 0.84%
1970年 13,500 36 ファイル:B01.pngファイル:B01.png 0.27%
1971年 11,703 44 0.38%
1972年 16,685 7 ファイル:B01.png 0.04%
1973年 9,800 19 ファイル:B01.png 0.19%
1974年 11,125 5 ファイル:B01.png 0.04%
1975年 10,000 9 ファイル:B01.png 0.09%
1976年 13,750 4 0.03%
1977年 10,000 3 0.03%
1978年 8,000 0 0%
1979年 8,233 0 0%
1980年 8,035 0 0%
セルカリア感染ミヤイリガイ検査
年度 対象貝数 感染数 割合
1961年 15,402 44 ファイル:B01.png 0.29%
1962年 8,172 13 ファイル:B01.png 0.16%
1963年 4,877 24 ファイル:B01.png 0.49%
1964年 1,183 1 0.08%
1965年 4,988 15 0.30%
1966年 6,410 6 ファイル:B01.png 0.09%
1967年 5,275 1 ファイル:B01.pngファイル:B01.png 0.02%
1968年 2,227 0 0%
1969年 2,997 2 0.05%
1970年 3,085 6 ファイル:B01.png 0.19%
1971年 6,762 0 0%
1972年 8,219 18 ファイル:B01.pngファイル:B01.png 0.22%
1973年 41,649 19 0.05%
1974年 11,428 7 ファイル:B01.png 0.06%
1975年 31,756 8 0.03%
1976年 25,333 3 ファイル:B01.png 0.01%
1977年 40,493 0 0%
1978年 28,444 0 0%
1979年 38,578 0 0%
1980年 37,751 0 0%

土地利用の転換と生活環境の激変

2011年4月の甲府盆地。市街地や住宅地、そしてモモとブドウに代表される果樹園は増えた。その一方で水田は減った。

保卵者数は猛威を振るっていた最盛期の1944年(昭和19年)の6,590人をピークに減少に転じ、1960年代から70年代初頭にかけ急激に減少した。これにはコンクリート化と新薬による殺貝だけでなく、いくつかの複合的な要因が考えられている[136]

  • 第一の要因として、戦後の甲府盆地における産業転換に伴う土地利用の変化が挙げられる。古くから稲作が中心であった甲府盆地中西部の農業形態は、モモサクランボブドウなどの果樹栽培へ転換され、長期間にわたって水を張った状態を必要とする水田が激減し、ミヤイリガイの生息地を結果的に狭め追いやった。これは有病地の特に釜無川右岸地域一帯で顕著であった。甲府盆地中央部においても高度経済成長に伴う宅地開発(県営玉川団地(北緯35度37分57.2秒 東経138度31分53.8秒)、甲府リバーサイドタウン北緯35度36分36.4秒 東経138度30分40.8秒)等)や、大規模な工業団地国母工業団地北緯35度37分3.5秒 東経138度33分6.6秒)、釜無工業団地北緯35度37分35.8秒 東経138度31分5.9秒)等)の造成により次々に水田は姿を消していった[137]
  • 第二の要因として、農耕の機械化が挙げられる。水田が減ったことに加えて機械化が進んだことにより農作業用の家畜がほとんど消え、ウシなどの感染家畜の糞便による虫卵が激減した[136]
  • 第三の要因として、家庭で使用されていた合成洗剤の排水によるセルカリアへの殺傷効果が挙げられる。昭和40年代はまだ、合成洗剤の規制や制限が行政から指導されておらず、また下水道の普及も遅れていた甲府盆地では合成洗剤を含んだ排水は、いわば垂れ流し状態であった。本来であれば非難される垂れ流しも、殊、日本住血吸虫に対しては怪我の功名とも言える[136]。実際に、久留米大学教授の塘普(つつみひろし)が1982年(昭和57年)に行った実験によると、一般家庭で使われる濃度0.14-0.25パーセントの合成洗剤溶液にセルカリアを投じると5分以内に全て死滅し、さらに溶液を100倍に薄め同様に試しても、セルカリアは24時間以内に全て死滅することが実証されている[138]

これらは地方病対策として意図的に行われたものではないが、高度成長期における日本のさまざまな生活環境の激変や都市化が、殺貝剤散布やコンクリート化などと相乗効果となり、結果的に日本住血吸虫の撲滅へ寄与した[139][140]。やがて新規感染者と考えられる低年齢者の保卵者数の割合が低下し、1966年(昭和41年)以降の調査では保卵者の大部分が35歳以上で占められるようになった[58]

115年目の終息宣言

山梨県衛生公害研究所(北緯35度40分19.5秒 東経138度32分59.9秒・現山梨県衛生環境研究所)戦後の地方病対策研究の中心的機関であった。(2011年8月撮影)
地方病流行終息の石碑、山梨県知事天野建筆[† 25](2010年9月撮影)

甲府盆地では1978年(昭和53年)に、韮崎市内で発生した1名の急性日本住血吸虫症確認を最後に[141]、これ以降の新たな感染者の発生は確認されなくなった。セルカリアに感染・寄生したミヤイリガイも、撲滅こそされていないが、同時期以降には発見されなくなった。1985年(昭和60年)には虫卵抗原に対する抗体陽性者(皮内反応検査)の平均年齢が60.6歳に達するなど、保卵者数の低下及び、罹患者の年齢構成の高齢化から、本疾患の流行は1980年代初め頃に終息したものと考えられている[135]。その後の1990年(平成2年)から3年間に及ぶ、甲府盆地の小中高生児童生徒4,249名を対象にした集団検診でも感染者はひとりもおらず全員陰性であった[142]

こうした経緯を経て、山梨県知事の諮問機関である山梨地方病撲滅対策促進委員会(刑部源太郎会長)は、地方病患者が1978年以降発生していないこと、感染ミヤイリガイが1977年以降発見されていないことなどを根拠に、1995年(平成7年)11月15日、「山梨地方病の流行は終息し安全である」旨の中間報告書を同県知事に提出し[143][144]、翌年2月の山梨県議会において、ミヤイリガイは依然生息するものの「再流行の原因となる可能性はほとんどない」と議決され、当時の山梨県県知事天野建により地方病終息宣言が出された。

1881年(明治14年)8月27日の、旧春日居村からの嘆願に始まった地方病問題は、1996年(平成8年)2月13日、実に115年目にして終息を迎えた。

ただし、これは日本住血吸虫の撲滅であって、中間宿主であるミヤイリガイが山梨県内で完全に撲滅されたわけではない。可能性は極めて低いものの、中間宿主であるミヤイリガイが存在する限り起こり得る、輸入ペットや外国人保卵者など輸入感染による再流行(再興感染症)の危険性も指摘されている[145][146]。山梨県では2010年現在も住民や行政によって定期的に、ミヤイリガイの生息調査や監視活動が、さらには小中高生を対象とした地方病の集団検診も引き続き行われている[147]。また、終息宣言の1996年からは山梨県衛生公害研究所により、甲府盆地西部に残ったミヤイリガイ生息地においてGPSを利用した定点観測が行われ、GISソフトによってリスクマップの作成や詳細な生息地データの作成調査が継続的に行われている[148]

なお、2011年現在も日本国内の複数の大学や研究所で、ミヤイリガイは産地別に飼育されており、日本国内の自然界では撲滅された日本住血吸虫の本体もミヤイリガイとともに飼育されている。これは万一の再流行に備え、前述した皮内反応診断に必要な抗原を製造するために不可欠だからである[149]

かくして古くから謎に包まれていた地方病(日本住血吸虫症)は、世代を超えて多くの人々の努力により病原の解明、感染メカニズムの解明が行われ、日本国内では病気の撲滅が成し遂げられた。しかしその一方で、なぜミヤイリガイが甲府盆地をはじめとする限られた地域にのみ生息していたのかという疑問は解明されておらず、生物学遺伝学地質学気象学地理学など、あらゆる観点からの研究が行われているが、依然として大きな謎のままである[150]

地方病対策の負の側面

ミヤイリガイ駆除で使われた殺貝剤や[151]、鎌田川流域など河川のコンクリート化により[152]、山梨県のゲンジボタルは個体数が減り、生息地も減少した。特に鎌田川(北緯35度37分56.5秒 東経138度32分21.3秒)の支流である常永川は、昭和51年までは国指定天然記念物[153]1983年(昭和58年)までは天然記念物指定地の [154]指定を受けていたが、個体数の減少により解除された。これはゲンジボタルの幼虫の餌となる貝、カワニナがミヤイリガイとよく似た形態・生態であったことも関係している[153]。このことを踏まえて杉浦醫院にある池にはホタルが生息できるようにしている[155]。また2011年現在、釜無川や笛吹川の流域ではホタルの勉強会や幼虫放流会が行われている [156][157]

他にも旧田富町(現中央市)にあった臼井沼(北緯35度36分13.5秒 東経138度30分49.4秒)は、野鳥の生息地として山梨県民に知られていたが埋め立てられた[158]。これは田富町の住民が総決起大会を開き、地方病撲滅のためには沼を埋め立てるしかないと決議したためである。野鳥保護団体は「渡り鳥の中継地として貴重」と反論したが、結局は県議会でも議題に上り、埋め立てることが確定した[159] [160]。その後、最終的に臼井沼は富士観光開発が分譲住宅地として開発し[158]、甲府リバーサイドタウンになった[† 26]

年表

感染メカニズムが解明された1913年大正2年)までの出来事は、ほぼ時系列通りに記述したが、それ以降は「感染予防対策」、「治療、診断法開発」、「ミヤイリガイ撲滅運動」など、複数の対策が同時に進行していったため、これらを時系列通りに記述すると煩雑になるため、「#ミヤイリガイ(宮入貝)の発見」節以降から「#甲府盆地の水路のコンクリート化」節までは、個別の対策ごとに経緯を記述した。補足として、ここでは年表形式で地方病の歴史を記す。

西暦 年号 出来事
1582年 天正10年 地方病と推察される疾患を患った武田家家臣小幡豊後守昌盛武田勝頼へ暇乞いに訪れる。後に『甲陽軍鑑』において「脹満」と表現され記載された。
1700年 元禄年間 水腫脹満の民間療法薬が竜王村界隈で販売される。
1862年 文久年間 流行地に嫁ぐ娘の悲壮を唄った俗謡が有病地の村々で唄われ始める。
1874年 明治7年 中巨摩郡宮沢村、大師村の村民が離村を申し出る。
1881年 明治14年 東山梨郡春日居村戸長、田中武平太より水腫脹満に関する御指揮願い山梨県令藤村紫朗宛てに提出される。
1886年 明治19年 軍医石井良斉による徴兵検査により当疾患が確認され軍部へ報告される。
1887年 明治20年頃 この頃より同疾患が「地方病」と呼ばれ始める。
1897年 明治30年 杉山なか解剖が行われ、肝臓等に虫卵が発見される。
1902年 明治35年 『山梨県に於ける一種の肝脾肥大の原因に就て』と題した討論会が山梨県病院で開催される。
1904年 明治37年 桂田富士郎、三神三朗により日本住血吸虫が発見される。
1909年 明治42年 県医師会会長喜多島豊三郎により山梨地方病研究部が設立される。
藤浪鑑らにより経皮感染であることが実証される。
1913年 大正2年 中間宿主ミヤイリガイが宮入慶之助によって発見される。この発見により地方病の原因は全て解明される。
1914年 大正3年 土屋岩保によるミヤイリガイ殺貝実験が開始される。
1916年 大正5年 児童への予防啓蒙冊子俺は地方病博士だが作成配布される。
1917年 大正6年 地域住民によるミヤイリガイの拾い集めが始まる。
1923年 大正12年 駆虫薬スチブナールが開発され治療実験が行われ実用化される。
1925年 大正14年 山梨地方病撲滅期成組合が設立される。
生石灰散布による殺貝作業が開始される。
1928年 昭和3年 山梨県知事鈴木信太郎より地方病予防撲滅費国庫補助申請書が内務大臣望月圭介宛に提出される。
1929年 昭和4年 改良型便所の設置が奨励され始める。
1933年 昭和8年 厚生省により、寄生虫病予防法施行細則及び有病地指定の告示がされる。
1938年 昭和13年 殺貝剤が生石灰から石灰窒素へ転換される。
水路のコンクリート化が始めて提唱される。
1943年 昭和18年 地方病予防撲滅対策委員会が設立される。
1947年 昭和22年 GHQにより甲府駅構内に地方病研究所が設置され、殺貝剤PCPが開発される。
昭和天皇による山梨県への行幸が行われ、地方病有病地の視察が杉浦三郎の案内により行われる。
1949年 昭和24年 佐々木孝により甲府盆地の水路コンクリート化実験が始まる。
山梨県立医学研究所(2011年現在の山梨県衛生環境研究所)が創設される。
1953年 昭和28年 殺貝剤がPCPに切り換えられる。
1956年 昭和31年 溝渠コンクリート化が法制化される。
集卵法MIFCが開発される。
1959年 昭和34年 米軍より提供された抗原をもとに、山梨県医学研究所の大田秀浄により皮内反応検査が着手される。
1960年 昭和35年 第1回有病地指定解除。
2月11日付け山梨県告示第35号をもって、増穂町長沢、櫛形町曲輪田、甲西町落合が初事例となる有病地指定の解除がされ、翌年以降も有病地解除は続いていく。
山梨地方病撲滅協力会によるPR映画「人類の名のもとに」が作成される。
1966年 昭和41年 新殺貝剤ユリミンの実用化試験が始まる。
1967年 昭和42年 身延線沿線溝渠コンクリート化工事着手。
1968年 昭和43年 ユリミン実用化。
1973年 昭和48年 殺貝剤PCPの使用中止。
臼井沼を富士観光開発が買収。
1976年 昭和51年 新殺貝剤B2実用化。
1978年 昭和53年 韮崎市内で急性日本住血吸虫症の発症事例が確認される。結果的に最後の新規感染者となった。
1985年 昭和60年 皮内反応による保卵者の平均年齢が始めて60歳を超える。新規感染者及び感染ミヤイリガイも全く確認できなくなる。
1996年 平成8年 当時の山梨県知事天野建により地方病終息宣言が出され、115年に及ぶ地方病対策は終息を迎えた。
同時に地方病撲滅対策促進委員会が地方病監視対策促進委員会に改名される。
2001年 平成13年 地方病監視対策促進委員会を解散。
2010年 平成22年 昭和町の旧杉浦医院が風土伝承館杉浦醫院としてオープン。

脚注

注釈

  1. ^ 日本は日本住血吸虫症(Schistosomiasis japonica)を撲滅した世界唯一の国である。林(2000) 序文pp.1-3
  2. ^ 流行末期の1977年の段階ですら、厚生省によって指定されていた甲府盆地の有病地面積は日本国内の日本住地吸虫症有病地総面積の約6割に当たる11,764ヘクタールであった。泉(1979) P.44
  3. ^ 日本国内の他の流行地でも日本住血吸虫症とは呼ばず独自の呼び名で呼ばれていた。広島県片山地方では「片山病」、筑後川下流域の福岡県久留米市周辺では「マンプクリン」、筑後川対岸の佐賀県では単に「奇病」と呼ばれていた。しかし後に、福岡、佐賀の2県では病原が解明されてからは住血吸虫の英名Schistosomaを略した「ジストマ」と呼ばれるようになった。小林(1998) pp.9-19、pp.31-32、p.144
  4. ^ 島ではなく野島と書いて「やしま」と読む難読地名で、現在の南アルプス市(旧八田村中央部)の地名。能蔵池とは現在も同地に現存する小さな池で、当時この病の原因が飲料水によるものとの風説があった。
  5. ^ 現在の甲斐市(旧双葉町)の地名。
  6. ^ 現在の韮崎市旭町及び大草町付近。
  7. ^ 着任当時「山梨権令」、明治7年(1874年)10月より「県令」、明治19年、職名の改称により「知事」。
  8. ^ 『死体解剖御願』は当時の農民にしては記述内容の知的水準が高く、毛筆の筆跡も達筆であったことから、なか本人の承諾を得た上で吉岡をはじめとする関係者によって書かれた可能性が指摘されている。林(2000) pp.73-74
  9. ^ 執刀した下平は、おびただしい虫卵を目の当たりにし「その原虫を発見せざるが故に十分の判定下し難きも、本病はおそらく一新寄生虫の所為に期すべし」と述べている。山梨地方病撲滅協力会編(1977) p.10
  10. ^ 三神三朗の子孫は2011年現在も同所(甲府市大里町)で開業する三神脳外科内科医院である。
  11. ^ 三神脳外科内科医院の中庭に『明治37年7月30日此の地に於いて初めて日本住血吸虫が発見された 三神三朗』と彫られた石碑が建立されている。薬袋勝 「山梨県の住血吸虫の防圧」 『住血吸虫症と宮入慶之助-ミヤイリガイ発見から90年』 宮入慶之助記念誌編纂委員会編 (2005)、p.32
  12. ^ 十郎川の通称「深マチ」という場所(現在の山梨英和大学南方、国道140号横根跨線橋付近)で、約100坪ほどの水面を利用して動物実験が行われた様子が横根町在住の秋山丈吉により1977年に証言されている。山梨地方病撲滅協力会編(1977) p.167
  13. ^ ミヤイリガイの学名は、Katayama(後にOncomelanianosophora"カタヤマガイ(別名ミヤイリガイ)" 日本のレッドデータ検索システム 2011年8月20日閲覧
  14. ^ 最後に日本住血吸虫症の発症が確認されたのは韮崎市内であった。林(2000) p.80
  15. ^ 山梨地方病撲滅協力会編 『地方病とのたたかい』 平和プリント社 、p.51、p.105、より一部改変作成。
  16. ^ 中富町は富士川中流に位置する甲府盆地から離れた場所であるが、1954年(昭和29年)になって突如ミヤイリガイが同町内の、切石、八日市場、飯富の3地区で生息しているのが発見され罹患者も発生した。これは大雨や台風など洪水により上流部の甲府盆地からミヤイリガイが流され繁殖してしまったものと考えられた。同様に1961年(昭和36年)には県境を越えた静岡県富士川町 (静岡県)でも16名の日本住血吸虫症患者が発生し、町内の溝渠にミヤイリガイの生息が確認された。これも中富町のミヤイリガイが富士川を流れてきたものと考えられている。泉(1979) pp.76-79
  17. ^ 三神三朗は自ら率先して、甲府市立国母小学校、同市立貢川小学校の校医を務め、多くの初期感染患者の発見、早期治療に貢献した。山梨地方病撲滅協力会編(1977) pp.174-177
  18. ^ イラストとストーリーは懸賞により募集されたものであった。山梨地方病撲滅協力会(1977) p.21
  19. ^ ミヤイリガイはセルカリアに感染していなければ安全であるが、撮影場所は伏せる。GPSデータは除去済。
  20. ^ 甲府市内は1945年7月の甲府空襲により焼け野原になり、かろうじて残った山梨県庁舎などもGHQにより既に接収されており、復興ままならない昭和22年当時では研究所として使用可能な建造物が他に無かったためだと言われている。小林(1998) p.154
  21. ^ 写真は中巨摩郡昭和町上河東、正面に見える山は八ヶ岳茅ケ岳
  22. ^ 岡部浩洋はこの直後久留米大学に設立された日本住血吸虫症研究機関の初代会長として同大学の教授に就任している。
  23. ^ コンクリート化の立法化は後に厚生大臣を務めた山梨県選出の内田常雄議員が働きかけたのだと言われている。林(2000) p.80
  24. ^ 写真は中巨摩郡昭和町押越、設置年度と施工業者名、延長が記載されている。
  25. ^ 国指定天然記念物であった「鎌田川ゲンジボタル」指定石碑(昭和町押越)の隣に2002年12月に建立された。そのあと2010年の風土伝承館杉浦醫院オープンに伴い杉浦醫院の庭に移設された。石碑の下部には医院の屋根に使用されていたが、終息に要した年数と同じ115枚並べられている
  26. ^ 臼井という地名は、2011年現在もリバーサイドタウンの近辺に臼井阿原として残っている。

引用

死体解剖御願
  1. ^ 泉(1979)pp.73-74での現代訳から一部改変引用。死体解剖御願、原文、以下引用。山梨地方病撲滅協力会編 『地方病とのたたかい』 平和プリント社 、pp.118-119より。
    死体解剖御願
    西山梨郡清田村第弐百拾六番
    戸主 杉山源吉養母
    杉山なか
    当五拾四年
     私儀太平ナル御代ニ生存スルコト已ニ数十星霜ヲ経過スルモ素ヨリ無教育ナルヲ以テ未ダ曽テ君恩ノ万分ノ一ダモ報ゼザルニ一朝病ノ為不帰ノ身トナランコトハ遺憾至極ト存候然ルニ不幸ニモ昨二十九年六月頃ヨリ疾病ニ罹り悩ムコト甚シ、依ツテ早速ニ某医ヲ迎ヘ診ヲ乞ヒタルニ病名サヘ指示セザルヲ以テ其后又二三某医ヲ乞ヒタルニ是又前同様莫トシテ一ツモソノ要領ヲ得ズ、遂ニ荏苒時日ヲ経過シ同年十一月ニ至ルニ病勢ハ漸々増進スルノミニテ毫モ減退セザル故最后諦メノ為同月下旬貴院ノ温厚篤実ナル御診察ヲ仰ギ充分ナル御鑑定ヲ得タルニ豈図ンヤ当地ノ近傍有名ナル地方病ニシテ未ダ病原ノ発見セダル最モ恐ルベキ疾病ナリ、是迄数多ノ該患者発見スルモ病原不明ノ為十中八、九ハ鬼籍ニ転ヅルノ不幸ニ接シタリト、妾事モ発病臥床最早殆ト一ケ年間ノ敷ニ及ブモ素ヨリ病原不明不治ノ病ナルヲ以テ如何ニ先生ノ百方御尽力且ツ御治療ヲ受クルモ日々衰弱ヲ増進スルノミニシテ到底恢復ノ見込無キハ勿論不日死亡ノ不幸ニ陥ルハ目前ナルヲ以テ、死后ハ是共貴院ニ於テ解剖被成下充分ノ病原発見セラレ以后該地方病ニ罹リ悩ム処ノ数多ノ諸氏ヲ助ケ、医学上永遠ニ妾ノ寸志ヲ遺保セランコトヲ懇願至候。依ツテ本日ヲ以ツテ戸主夫并ニ親属立会連署ノ上御願申上候也。 明治三十年五月三十日
    右戸主 杉 山 源 吉
    右夫 杉 山 武 七
    右本人 杉 山 な か
    右親属(原文ママ) 向 山 太 平
    右親属(原文ママ) 戸 沢 近 太 郎 — 杉山なか 『死体解剖御願』 1897年5月30日
俺は地方病博士だ
  1. ^ 1917年(大正6年)発行の小冊子『俺は地方病博士だ』でも、地方病は人口の減少や発育不良を招く病であると説き、
    だから地方病は貧國弱兵病だ。こんな病氣が蔓延て來ると國が貧乏になって弱くなって、獨逸どころか支那と戦争も出來ない樣になるかも知れない。
    だからこんな病氣の蟲は早く退治して仕舞ねばならぬ。 — 『俺は地方病博士だ』pp.4-5
    としている。
  2. ^
    昔から「病は口より入る」と言ふ諺があるが地方病では「病は皮膚より入る」と言ふのが正しい。決して口からは入らぬ。
    何でも病蟲の居る水の中へ三四十分間入って居ると、病蟲はチャンと皮膚を喰破つて身體の中へ入るのだ。 — 『俺は地方病博士だ』p.5
  3. ^
    病氣の研究が出来て原因がわかつたから、豫防する事も駆除する事も知れてるが、困た事に實行が困難だ。
    一人や二人が幾ら心配して駆除しやうとしても駄目だ。どうでも其地方の人が全體で力を協せてやらねばならぬ。 — 『俺は地方病博士だ』p.11

出典

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参考文献

書籍

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    • 田中寛「宮入慶之助と中間宿主カイ発見」
    • 薬袋勝「山梨県の住血吸虫の防圧」
    • 林正高「フィリピンの日本住血吸虫症・脳症型、肝脾腫型の臨床と同症に対する挑戦」
    • 梶原徳昭・保阪幸男「中間宿主ミヤイリガイの殺貝による日本住血吸虫症の制圧」
    • 二瓶直子「GPSで住血吸虫症流行を追う」
    • 小林照幸「住血吸虫研究史における人間ドラマ 取材雑感から」
  • 山梨地方病研究部、1917年5月20日発行、『俺は地方病博士だ』
  • 山梨地方病撲滅協力会編、1977年7月28日発行、『地方病とのたたかい』、有限会社平和プリント社
    • 横川宗雄「戦後昭和20-35年の間における山梨県甲府盆地の日本住血吸虫症の予防対策に関する研究」
    • 加茂悦爾「峡西地方における日本住血吸虫症の現状と将来」
    • 古場次郎「地方病への追想」
    • 井内正彦「甲府盆地における日本住血吸虫症の今後の課題」
    • 横山宏「日本住血吸虫病雑感」
    • 林正高「日本住血吸虫の脳機能に及ぼす影響についての臨床的・実験研究」
    • 佐々木孝「犬と地方病雑感」
    • 飯島利彦「地方病対策の今後に思う」
    • 久津見晴彦「今後の地方病撲滅対策に期待する」
    • 笹本馨「ユリミン導入の由来」
    • 中島寛人「地方病(日住病)の医療と町行政の思い出」
    • 清水清久「地方病撲滅雑感」
    • 芦沢道助「地方病雑感」
    • 甘利絹代「地方病で苦しんだ母の死」
    • 秋山丈吉「地方病研究見聞記」
    • 鷹野八郎「地方病に思う」
    • 河野文蔵「三神三朗先生を偲ぶ」
    • 福島荘次「地方病の後遺症について」
    • 高野晴俊「地方病撲滅40年の今昔」
    • 斉藤虎雄「宮入貝捜索の思い出」
    • 雨宮礼子「父の想い出」
    • 末利光「地方病の庶民史」
    • 保阪幸男「地方病との付合」
  • 山梨地方病撲滅協力会編、1981年3月31日発行、『地方病とのたたかい-日本住血吸虫病・医療編-』、有限会社平和プリント社
    • 保阪幸男「日本住血吸虫の生態学」
    • 安羅岡一男「発育・発育史」
    • 大塚裕「生理・生化」
    • 飯島利彦「日本住血吸虫の疫学生態学」
    • 堀見利昌「山梨県における分布」
    • 横山宏「日本住血吸虫病の病理」
    • 石崎達「日本住血吸虫病の症状」
    • 加茂悦爾「急性症状」
    • 井内正彦「慢性症状」
    • 有泉信「脳合併症(脳症型日本住血吸虫病)」
    • 林正高「急性および慢性日本住血吸虫症と脳機能障害との関係」
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    • 小島荘明「免疫の生物学」
    • 横山宏「日本住血吸虫病の診断」
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  • 山梨日日新聞社編、2000年10月6日発行、『山梨20世紀の群像』、山梨日日新聞社 ISBN 4-89710-709-1
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論文

関連項目

外部リンク

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